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詩篇34ー

神様についての二つの誤解

詩篇50篇の内容は、預言書の内容に似ています。そして、この箇所で、私たちは神様についての二つの誤解を見ます。

最初の部分では、神様は裁判所に入って、被告を喚問されます。その被告は誰でしょうか。モーセの律法の下にあるイスラエル人です。

けれども、ある日、私たちもキリストのさばきの座に行かなくてはなりません。この詩篇の警告に注意するべきです。

最初の神様についての誤解は、神様は宗教的な儀式だけを望まれることです。つまり、神様は供え物やいけにえだけを望まれます。しかし、神様はイスラエル人にこう言われました。

わたしは、あなたの家から、若い雄牛を取り上げはしない。あなたの囲いから、雄やぎをも。

森のすべての獣は、わたしのもの、千の丘の家畜らも。

わたしは、山の鳥も残らず知っている。野に群がるものもわたしのものだ。

わたしはたとい飢えても、あなたに告げない。世界とそれに満ちるものはわたしのものだから。

わたしが雄牛の肉を食べ、雄やぎの血を飲むだろうか。(詩篇50:9-13)

言い換えれば、神様はこう言っておられます。

「あなたは供え物やいけにえを捧げているが、その目的を理解していない。

私は飢えているわけでも、貧しいわけでもない。私は何も必要としていない。すべてのものはすでに私のものだから。もし食べ物が欲しければ、自分で取りに行くだろう。けれども、実際には、私は決して食べ物を必要としない。

私の空腹を満たすために、供え物やいけにえを求めているのではない。」

そして、神様はイスラエルに何を望んでおられるかを語られます。

感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き方に果たせ。

苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。(14-15)

つまり、こういうことです。「感謝の心を持ちなさい。あなたの神として、あなたの必要を備える方として、そしてあなたの救い主として、私を認めなさい。自分自身のために生きるのをやめなさい。自分の力と知恵に頼って生きるのをやめなさい。」

そして、神様は彼らを厳しく責められました。なぜなら、周りの人たちが見ると、表面的には彼らが敬虔に見えたからですが、実は心の中で彼らは神様を侮っていたからです。神様は彼らにこう言われました。

しかし、悪者に対して神は言われる。「何事か。おまえがわたしのおきてを語り、わたしの契約を口にのせるとは。

おまえは戒めを憎み、わたしのことばを自分のうしろに投げ捨てた。

おまえは盗人に会うと、これとくみし、姦通する者と親しくする。

おまえの口は悪を放ち、おまえの舌は欺きを仕組んでいる。

おまえは座して、おのれの兄弟の悪口を言い、おのれの母の子をそしる。(16-20)

言い換えれば、こういうことです。「あなたは正しいことを語り、私を敬う言葉を口にします。けれども、そのあとで、自分の道を歩んでいくのです。」

多くのクリスチャンはその通りです。日曜日に、彼らは教会に行き、祈ったり、賛美したりしますが、月曜日から土曜日まで自分が好きなように生きます。

神様はあなたの宗教的な外見に感動しません。どんなに教会に通っても、それだけでは感動しません。たくさん献金を捧げても、感動しません。たくさん聖書の箇所を暗記しても、心を動かされることはありません。

神様はあなたの心を望まれます。神様があなたの心を持たないなら、あなたは神様を喜ばせることはできません。

そして、神様は二つ目の誤解について話されます。

こういうことをおまえはしてきたが、わたしは黙っていた。わたしがおまえと等しい者だとおまえは、思っていたのだ。わたしはおまえを責める。おまえの目の前でこれを並べ立てる。

神を忘れる者よ。さあ、このことをよくわきまえよ。さもないと、わたしはおまえを引き裂き、救い出す者もいなくなろう。(21-22)

つまり、神様はこう言っておられます。「あなたが悪を行っていた時、私は何も言いませんでした。だから、あなたは私がその行動を認めていると思ったのでしょう。しかし、実は私は忍耐して、あなたが悔い改めるのを待っていたのです。

けれども、もし悔い改めなければ、あなたには裁きが下ります。その時には、もう悔い改める機会は失われてしまうのです。」

そして、神様は最初の言葉に戻られます。

感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。(23)

この箇所から、私たちは何を学ぶことができますか。救いを得るための最初のステップは、神様を神様として認めることです。私たちが神様から独立して生きることを止めなくてはなりません。

むしろ、感謝の心を持って、へりくだって神様の前に生きるべきです。そうすれば、キリストにあっての救いのために私たちの心が整えられます。

裁きの日が来ます。だからヤコブはこう言いました。

主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。(ヤコブ4:10)

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詩篇34ー

お金で買えない物

英語では、「Money makes the world go round」ということわざがあります。つまり、「金は天下の回りもの。」ということです。

お金がないと、私たちの社会は動きません。

しかし、詩篇49篇では、詩人はもっと大切な真理を教えます。「お金で買えない物もあります。」

詩人はこう書きました。

人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。

自分の身代金を神に払うことはできない。――たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない――人はとこしえまでも生きながらえるであろうか。墓を見ないであろうか。(詩篇49:7-9)

言い換えれば、お金で永遠の命を買うことはできません。私たち皆は、お金持ちでも貧乏な人でも、賢い人でも愚か者でも、強い人でも弱い人でも、いつか死にます。そして、死ぬと、貯まったお金を天国に(または地獄に)持って行けません。

だから、私たちのお金では天国に入ることはできません。「天国への切符」を買うことはできません。

なぜなら、私たちの罪によって、神様に対する負債があるからです。けれども、この世界のお金のすべてを持って行っても、私たちの負債を支払うことはできません。

神様だけが、その代価を支払うことができます。だから、神様自身が人間としてこの世に来て、私たちの負債を支払ってくださいました。しかし、お金を使わずに、十字架で自分の血を流されました。

びっくりするのは、この詩人がイエス様について全然知らなかったのに、彼がその真理を知っていたということです。彼はこう書きました。

しかし神は私のたましいをよみの手から買い戻される。神が私を受け入れてくださるからだ。(15)

イエス様が生まれる何百年も前に、神様が私たちを贖なうので、私たちが永遠に神様と共にいる確信が詩人にはありました。だから、彼はこう書いた。

恐れるな。人が富を得ても、その人の家の栄誉が増し加わっても。

人は、死ぬとき、何一つ持って行くことができず、その栄誉も彼に従って下っては行かないのだ。

彼が生きている間、自分を祝福できても、また、あなたが幸いな暮らしをしているために、人々があなたをほめたたえても。

あなたは、自分の先祖の世代に行き、彼らは決して光を見ないであろう。(16-19)

あなたはどうですか。金持ちをねたんでいるでしょうか。あなたは富を求めているでしょうか。もしくは、あなたにはお金がたくさんあるけど、まだ満足していないでしょうか。もっともっとお金を儲けたいでしょうか。

詩人の言葉を覚えておきましょう。

人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい。(20)

お金や富を持つことは悪いことではありません。この世では、また神様の国のために、私たちはお金でたくさんの良いことができます。

けれども、お金は一番大切なものではありません。もっと大切なものがあります。

だから覚えておきましょう。きっと、お金で買えない物があります。

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詩篇34ー

神様が私たちの中に住んでおられると

多分、エルサレムが攻撃された後に、詩篇48篇は書かれたと思われます。そして詩人は、神様がエルサレムを守ってくださるために、神様の偉大さをほめたたえます。

その詩人は歌います。

主は大いなる方。大いにほめたたえられるべき方。その聖なる山、われらの神の都において。(詩篇48:1)

エルサレムにある山シオンの美しさを讃えた後、詩人は歌います。

神は、その宮殿で、ご自身をやぐらとして示された。

見よ。王たちは相つどい、ともどもにそこを通り過ぎた。

彼らは、見るとたちまち驚き、おじ惑って急いで逃げた。(3-5)

そして、詩人は歌います。

私たちは、聞いたとおりを、そのまま見た。万軍の主の都、われらの神の都で。神は都を、とこしえに堅く建てられる。(8)

この詩篇から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

神様がご自身の住まいを見守ってくださったように、私たちを見守ってくださいます。

神様はもうある都市の宮におられるわけではありません。(実は、エルサレムの宮は本当は神様の家ではなかったのですが、その時、神様はご自身の臨在をその宮で示されました。)(列王記第一8:27;9:3)

今、神様はご自身の民の心の中におられます。

だから、私たちの敵、つまりサタンが私たちを攻撃するとき、私たちが神様に信頼するなら、神様は私たちを堅く建ててくださいます。

だから困る時に、恐れずに神様の恵みを思い巡らしましょう。(9)

神様の目には、私たちは神様の美しい宮であり、神様の喜びであり、神様の貴い子供たちです。だから、神様はいつも私たちを見守ってくださいます。

そして、神様からの救いを見ると、神様の慈しみに感謝しましょう。また、それを覚えておきましょう。

この方こそまさしく神。世々限りなくわれらの神であられる。神は私たちをとこしえに導かれる。(14)

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詩篇34ー

歌って、叫ぼう

3年ほど前、茨木市に電車で通勤した時、私はワーシップの歌を聞き、歌いました。もちろん声を出さなかったけれど、聞きながら私の口は動いていました。その時、隣の人から変な顔をされました。

(日本人はそういうことはあまりしないのでしょうか。)

とにかく、気にせずに私は歌い続けました。

その前の日曜日、私の牧師は大胆に叫ぶや歌うことについて話しました。

彼は尋ねました。「もしあなたが、阪神タイガースの試合を見る時、『ファイト、ファイト』と囁くでしょうか。違いますよね?あなたは『ファイト!ファイト!』と叫ぶでしょう。」

とにかく、詩篇47篇を読んだ時、そのことについて考えました。この詩篇は囁くことができないと思います。こんな詩篇は叫び、大きな声で歌わなければならないと思います。

すべての国々の民よ。手をたたけ。喜びの声をあげて神に叫べ。(詩篇47:1)

また、

神にほめ歌を歌え。ほめ歌を歌え。われらの王にほめ歌を歌え。ほめ歌を歌え。(6)

詩人の熱心さがよく見えます。一節で、彼は「神様にほめ歌を歌え」と4回も言っています。

どうして彼はそんなに盛り上がっているのでしょうか。どうしてそんなに喜んでいるのでしょうか。それは、神様が大いなる神だからです。

まことに、いと高き方主は、恐れられる方。全地の大いなる王。(2)

また、神様は素晴らしいことをしてくださったからです。

国々の民を私たちのもとに、国民を私たちの足もとに従わせる。

主は、私たちのためにお選びになる。私たちの受け継ぐ地を。主の愛するヤコブの誉れを。(3-4)

この詩篇では、詩人は神様がイスラエル人を約束の地に導いてくださったことについて話しています。

しかし、神様は私たちクリスチャンにも勝利を与えてくださいました。サタンに対する勝利を与えてくださいました。罪に対する勝利を与えてくださいました。また、死に対する勝利を与えてくださいます。

神様の愛によって、私たちには天国にある遺産があります。それに、この世でも、あなたの人生が生きがいのあるものになります。

だから、パウロはこう書きました。

まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。(第一コリント2:9-10)

だから、叫び、大きな声で歌うのは、当たり前のことですよね。

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詩篇34ー

私たちの周りにカオスがある時

カオス。

子供が叫んだり、夫が病気だったり、締め切りがあったり、八方からプレッシャーがかけられたりします。

そんな経験をしたことがあるでしょうか。

誰しも人生の混乱を経験します。時々、全世界が私たちの上に落ちてくるように感じます。

また、ニュースを見ると、戦争の話や天災の話をよく聞きます。

だから、神様がだんだん見えなくなって、パニックになってしまいます。そして嵐にいたペテロのように、私たちは溺れ始めます。

詩人の言う解決策は何でしょうか。

やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。(詩篇46:10)

つまり、ちょっと止まってください。あなたの状況を見るのを止めて、少し神様を仰いでください。あなたの問題の大きさについて考えずに、神様の大きさについて考えてください。

そうすれば、何が分かるようになるでしょうか。

神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。

それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。

たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。(詩篇46:1-3)

私たちが見回ったら、

国々は立ち騒ぎ、諸方の王国は揺らいだ。(6)

しかし、

万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。(7,11)

私たちが自分の問題に焦点を当てると、神様がすべてのことをコントロールしていることを忘れてしまいがちです。神様の力はすべての問題を乗り越えます。

神様が声をかければ、この世は解けるでしょう。神様が「終わり」と言われれば、すべての戦争が終わり、すべての人々が裁かれます。

だから、主の前に静まりましょう。恐れを静め、疑問を止めましょう。そして、神様の大きさを見てください。

神様は私たちの中におられ、私たちは倒れることがありません。神様が私たちを助けてくださることを信じましょう。

神様の御霊は川のように私たちの中で流れ、私たちの人生の中で働いて、私たちを通して周りの人々に触れてくださいます。

だから、あなたはどんな問題に直面しても、神様の喜びと平和を知ることができます。

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詩篇34ー

イエス様と結ばれて

詩篇45篇のタイトルは、「愛の歌」と書かれています。おそらく、この歌は王の結婚式で歌われました。

この歌は人間の王の結婚式のためのものでしたが、この歌から、王の王であるイエス様の結婚式も見ることができます。

私たちはキリストの花嫁と呼ばれます。この詩篇で、私たちの花婿であるイエス様を見ることができ、花嫁として私たちがイエス様にどう反応するべきかを知ることができます。

この詩篇の最初の部分は王について語ります。その言葉によって、イエス様のいろんな描写が見られます。例えば、イエス様は恵み深い方です。

あなたは人の子らにまさって麗しい。あなたのくちびるからは優しさが流れ出る。神がとこしえにあなたを祝福しておられるからだ。(詩篇45:2)

また、イエス様は勇士です。

雄々しい方よ。あなたの剣を腰に帯びよ。あなたの尊厳と威光を。

あなたの威光は、真理と柔和と義のために、勝利のうちに乗り進め。あなたの右の手は、恐ろしいことをあなたに教えよ。

あなたの矢は鋭い。国々の民はあなたのもとに倒れ、王の敵は気を失う。(3-5)

また、イエス様は私たちの王です。

神よ。あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は公正の杖。

あなたは義を愛し、悪を憎んだ。それゆえ、神よ。あなたの神は喜びの油をあなたのともがらにまして、あなたにそそがれた。(6-7)

へブル人への手紙の著者は、イエス様について語る際に、詩篇45篇の6-7節を引用しました。(へブル1:8-9)

そして、詩人はキリストの花嫁である私たちに語りかけます。

娘よ。聞け。心して、耳を傾けよ。あなたの民と、あなたの父の家を忘れよ。(10)

その言葉は創世記から来ます。神様は結婚についてこう言われました。

それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。(創世記2:24)

創世記の箇所は特に男性について話していますが、この詩篇によれば、女性もそうするべきです。

そのため、私たちはイエス様と結ばれるとき、キリストとの結びを邪魔するものを捨てなければなりません。

私はクリスチャンホームで育ちましたが、ある人はクリスチャンになると、その親たちと喧嘩します。また、ある人は、友達から離れなければならない。なぜなら、その友達が、その人を神様から引き離そうとするからです。

もちろん、それは極端な状態です。理想を言えば、私たちにはそのような必要はないと言いたいところです。私たちの証しによって彼らがキリストを求めるようになれば、それも理想的です。

けれども時々、私たちは「すみません。私はあなたが行く道を行くことができません。私はイエス様に従うからです。」と言わなければなりません。

そして、詩篇の著者は花嫁にこう言いました。

そうすれば王は、あなたの美を慕おう。彼はあなたの夫であるから、彼の前にひれ伏せ。(11)

それはどんな美しさでしょうか。体の美しさでしょうか。違います。ペテロはクリスチャンの妻たちにこう言いました。

むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。(第一ペテロ3:4)

私たち皆、そんな美しさが必要です。

また、イエス様が私たちの主なので、生涯イエス様を敬わなくてはなりません。

そして、詩人は歌います。

王の娘は奥にいて栄華を窮め、その衣には黄金が織り合わされている。

彼女は綾織物を着て、王の前に導かれ、彼女に付き添うおとめらもあなたのもとに連れて来られよう。

喜びと楽しみをもって彼らは導かれ、王の宮殿に入って行く。(13-15)

どうして、花嫁には栄華があるでしょうか。それは、その王が彼女を選び、きれいな着物を着せ、美しくしたからです。

イエス様は私たちのために同じことをしてくださいました。イエス様は、

教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた。。。

みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。(エペソ5:25-27)

私たちがそのような花嫁になるように。

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詩篇34ー

どうして私にこんなことが起こっているのだろう?

「どうして、私にこんなことが起こるのだろう?」

そう考えたことがあるでしょうか。詩篇44篇の詩人も同じように感じました。

この詩篇の背景はよくわかりませんが、おそらくその時代、イスラエル人は神様に仕えようとしていたけれど、敵に敗れました。

だから、彼らは言いました。

「私たちの先祖が、カナンに初めて来た時の話を聞きました。その時、あなたは私たちと共におられました。あなたが私たちを愛したので、私たちは自分の力ではなく、あなたの力によってたくさんの国々を追い出しました。

あなたは私たちの王です。私たちの先祖のように、私たちは勝利のために自分自身の力に頼らずに、あなたに信頼しました。私たちはあなたを誇ります。あなたをほめたたえます。」

それでは、どうして、あなたは私たちと共におられないのでしょうか。私たちが戦う時、倒れてしまいます。周りの国々は私たちをからかうので、私たちは恥ずかしくなりました。

もし、私たちがあなたに背を向け、偶像礼拝をしていたなら、今の苦しみも理解できます。けれども、そうしていないのです。どうして、あなたは私たちを捨てたのでしょうか。

どうして、あなたの顔をお隠しになっているのでしょうか。助けてください。」

言い換えれば、「神様、どうしてこんなことが私に起こっているのでしょうか。あなたに従おうとしているのに、どうして私の人生はめちゃくちゃになっているのでしょうか。」

この詩篇では、その答えは見つかりません。

しかし、ローマ書には希望があります。パウロはこの詩篇の22節を引用しています。

だが、あなたのために、私たちは一日中、殺されています。私たちは、ほふられる羊とみなされています。(詩篇44:22)

けれども、パウロは言います。

しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ書8:37-39)

神様は、私たちには決してトラブルが起こらないとは約束されていません。私たちが決して苦しまないとも約束されていません。むしろ、私たちがきっと苦しむことになると宣言されました。(ヨハネ16:33、第二テモテ3:12)

しかし、何が起こっても、神様は私たちがその苦しみを乗り越えられるように助けてくださることを約束されます。そして、何も私たちを神様の愛から引き離すことはできません。

それが私たちの希望です。だから、苦しむ時は詩人のように神様に叫びましょう。そして、神様が近いと感じても感じなくても、神様があなたの叫びを聞いておられると思っても思わなくても、神様の約束に縋りつきましょう。

私たちの感情はよく変わります。神様が近いと感じる時も感じない時もあります。けれども、神様とその約束は決して変わりません。

だから、パウロの言葉を覚えておきましょう。

ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。(第一コリント15:58)

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詩篇34ー

あなたが落ち込んでいる時

私たちは皆、落ち込んでしまうことがあります。ときには、心が沈み、希望が見えなくなることもあります。

この二つの詩篇の詩人も、まさに同じように感じていました。彼は、その思いを本当に心に響く言葉で描いています。

鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。

私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。(詩篇42:1-2)

アダム・クラークという聖書学者は、この箇所について興味深いことを言いました。

鹿は追いかけられて、本当に疲れて、のどが渇いた時、川に飛び込んで隠れます。その鼻だけが出ています。

私たちも時々そう感じます。八方から攻撃され、疲れ果ててしまいます。だから、私たちは疲れと恐れを抱えて、神様を慕いあえぎ、神様の腕の中に飛び込みます。

けれども、時々、どこを見ても神様を見つけられません。だから詩人のように私たちは叫びます。

いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。(2)

また、詩人のように、私たちは食事を楽しめなくなり、涙が私たちの食べ物になります。

そして、私たちは良い時を思い出します。

その時、教会に行って、友達と一緒に喜びました。また、私たちが祈った時、神様が近くにいて、神様に触れられるように感じました。

しかし今、嵐の中で私たちは溺れているように感じます。何度も大波が私たちの上を越えて行き、希望が失われます。

時々、私たちは自分自身を励まそうと思って、詩人のようにこう言います。

わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れているのか。

神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。私の神よ。(42:5-6)

けれども、すぐに落ち込んで、私たちは神様に尋ねます。

なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか。(9)

この箇所から、私たちは何を学ぶことができますか。

一つ目は、あなたが普通の人間であることです。その感情を経験する人は、あなただけではありません。

サタンのよく言う嘘は、「あなただけです。」ということです。

「そんな経験をするのはあなただけだ。あなただけが心の中で苦しむのだ。」

だから、私たちは恥ずかしくなります。他の人には自分の感情など分からない、と思います。

しかし、この詩人は分かっていました。だから、神様はこの詩人にこの詩篇を書かせたのです。

この詩篇によって、私たちは思い出します。「私だけじゃない。他の人も私の戦い、私の苦しみを分かってくれる。」

だから、私たちはどうすれば良いでしょうか。

まず一つ目は、神様が良い方であることを信じ続けることを選択することです。41-42篇で、詩人は3回言います。

わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れているのか。

神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。私の神よ。

神様があなたの神であることを思い出しましょう。神様があなたを愛して、御子イエス様を私たちを救うために送ってくださったことを思い出しましょう。

昼には、主が恵みを施し、夜には、その歌が私とともにあります。(42:8)

つまり、あなたが良い時の光の中にいても、悪い時の暗闇の中にいても、神様はあなたを決して捨てておられません。あなたが神様の臨在を感じなくても、神様はあなたのそばにおられます。

だから、詩人のように祈りましょう。

どうか、あなたの光とまことを送り、私を導いてください。あなたの聖なる山、あなたのお住まいに向かってそれらが、私を連れて行きますように。(43:3)

詩人はこう言っています。

「主よ、あなたが見えず、私をどこに導いておられるのか分かりません。どうか、あなたの光を私の上に照らしてください。私が進むべき道を教えてください。

あなたが私を捨てたという嘘を信じないように、どうか私をあなたのもとへ導いてください。」

もう一つ、言いたいことがあります。

あなたが落ち込んでいる時、クリスチャンの友達に話しましょう。彼らは不完全な人ですが、この世にあるキリストの体として、彼らがキリストの手、足、口、耳であることを覚えておきましょう。

そうすれば、あなたが一人ぼっちではないと分かります。

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詩篇34ー

人をあわれむ

詩篇41篇は、詩篇の第一巻の最後の歌です。(詩篇には、全部で5巻あります。)

ダビデは1節でこう書いています。

幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。主はわざわいの日にその人を助け出される。(詩篇41:1)

イエス様はその言葉をこのように言い換えられました。

あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。(マタイ5:7)

あわれみというのは、何でしょうか。二つのニュアンスがあります。

一つ目は、弱い人や、病気の人や、貧しい人に情けをかけることです。

二つ目は、罰に値する人を罰しないことです。

この詩篇では、私たちは両方の意味を見ることができます。

1-3節で、ダビデは、もしあなたが弱い人を憐れむなら、あなたが弱い時、神様があなたを憐れむと言います。

けれども、4節で、ダビデは叫びます。

主よ、あわれんでください。私のたましいをいやしてください。私はあなたに罪を犯したからです。

ダビデのように、私たちはよく神様のあわれみを求めて祈ります。しかし、私たちは周りの人々をどれほどあわれんでいるでしょうか。

ダビデの敵のように、私たちは自分を傷つけた人々の悪口をどれほど言っているでしょうか。

彼らが苦しむ時、「それは当然です。その苦しみに値するから」と言ってしまうことはないでしょうか。

私たちはどれほど、彼らについて噂をし、彼らの過ちを大げさに言っているでしょうか。(5–9節)

また、友達が苦しんでいる時、ヨブの友達のように慰めることなく、責めてしまうことはないでしょうか。

「あなたは罪を犯したから、苦しんでいるのでしょう」と言ってしまうことはないでしょうか。

さらに、「もっと信仰を持てば、きっと癒されるでしょう」と言ってしまうことはないでしょうか。

ダビデにとっても、人をあわれむことは難しいことでした。詩篇の中で、ダビデは何回も自分の敵を責め、呪います。

皮肉なことに、この詩篇でも、ダビデはこう言います。

しかし、主よ。あなたは私をあわれんでください。私を立ち上がらせてください。そうすれば私は、彼らに仕返しができます。(10)

私たちはダビデの言葉を正当化する必要はありません。詩篇は感情の正直な表現です。けれども、覚えておきましょう。ダビデは自分の怒りとフラストレーションを詩篇で表しましたが、正義に基づいて行動しました。

私たちも怒りやフラストレーションを感じることがあるかもしれません。しかし、神様が私たちをあわれんでくださったように、私たちも人々をあわれまなくてはなりません。

そして、神様が私たちが弱い時に助けてくださったように、私たちも弱い人を助けなければなりません。(ローマ5:6-8)

あなたは周りの人々にどれくらいあわれみを示すでしょうか。

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詩篇34ー

救い主の歌

このダビデの詩篇では、私たちはダビデの苦しみと救いを見ることができますが、イエス様の十字架の苦しみと復活も見ることができます。

最初に、ダビデは自分の救いについて神様を賛美します。

私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は私のほうに身を傾け、私の叫びを聞き、

私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。

主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。(詩篇40:1~3)

そのように、イエス様は十字架とその苦しみを振り返ります。天の父はイエス様の忍耐に報いて、イエス様をよみがえらせました。だから、イエス様はもう死にません。

それに、イエス様の十字架の働きによって、「多くの者は見、そして恐れ、主に信頼します」(3節)

ダビデの預言は成就しました。2000年もの間、人々はイエス様の十字架の働きを見て、救われてきました。

そして、ダビデは歌いました。

幸いなことよ。主に信頼し、高ぶる者や、偽りに陥る者たちのほうに向かなかった、その人は。(4節)

アダムとエバが罪に落ちてから、人々は救いのために偽物の神々を求めました。もしくは、自分自身を救おうと思いました。けれども、ダビデが言ったのは、偶像はあなたを救うことができないし、あなたが自分自身を救うことができない、ということです。

むしろ、救い主を仰いで信頼する人は救われます。

それは、初めから神様の計画でした。この世を造る前に、神様はその計画を立てられました。

そして、6~8節でダビデは歌います。

あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。あなたは、全焼のいけにえも、罪のためのいけにえも、お求めになりませんでした。

そのとき私は申しました。「今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。

わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」(6~8)

ヘブル人への手紙の著者は、この箇所を引用して、説明します。「神様の律法によれば、そのいけにえや捧げものは要求されました。しかし、それらはイエス様の十字架の働きのただの陰でした。」(ヘブル10章)

ちょっと説明しなければならないことがあります。詩篇では、「あなたは私の耳を開いてくださいました。」と書かれています。

けれども、ヘブル人への手紙では、「わたしのために、からだを造ってくださいました。」と書かれています。

その理由は、ヘブル人への手紙の著者がギリシャ語の翻訳から引用したということです。しかし、なぜヘブル語とギリシャ語がそれほど異なっているのでしょうか。

いろんな意見がありますが、まず一つの意見を紹介します。

神様の律法によって、もし奴隷が自由になる時間が来ても、その奴隷が主人を愛していて、ずっとその主人に仕えたいなら、彼の耳をきりで刺し通しました。それは、生涯のしもべのしるしでした。(申命記15:16-17)

もしかしたら、ギリシャの翻訳者はその詩篇の箇所をパラフレーズしたのかもしれません。つまり、ダビデは自発的に神様に供えられた体で、神様に永遠に仕えようと思いました。なぜなら、ダビデは神様を愛して、喜ばせたかったからです。

そのように、イエス様が天の父を愛して、喜ばせたかったので、天の父はイエス様に人間の体を備えられました。

そして、イエス様は私たちの罪のために十字架で死んでくださいました。しかし、イエス様はよみがえられて、永遠に天の父に仕えられます。(ローマ6:10;第一コリント15:24-27)

だから今、イエス様は神様の義、救い、真理、愛を全ての人々に述べ伝えます。(9-10)

この詩篇の最後の箇所では、十字架とイエス様の苦しみの話に戻ります。ダビデは自分の罪のために苦しんでいましたが、イエス様は十字架で私たちの罪を背負って、私たちのために苦しまれました。

そして、ダビデのように、イエス様は神様に願われます。「私を忘れないでください。私を憎む人々を裁いてください。また、あなたを愛する人によって、あなたの名前がほめたたえられるように。」(13-17)

天の父はイエス様の祈りに応えられたので、イエス様の働きによって、私たちはその救いを喜んで、「主をあがめよう」と叫ぶことができます。

アーメン。主をあがめよう。

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詩篇34ー

本当の悔い改め

ダビデがこの二つの詩篇を同時に書いたかどうか分からないけど、どちらも神様の懲らしめに対するダビデの反応を表しています。

その詩篇がいつ書かれたか分からないけど、ダビデが自分のプライドによってイスラエルの人口を数えた後に書いたものかもしれません。

詩篇29篇のように、この詩篇では、ダビデは罪を犯したので、神様の懲らしめによって、苦しんでいました。だから、彼は祈りました。

主よ。あなたの大きな怒りで私を責めないでください。あなたの激しい憤りで私を懲らしめないでください。

あなたの矢が私の中に突き刺さり、あなたの手が私の上に激しく下って来ました。

あなたの憤りのため、私の肉には完全なところがなく、私の罪のため私の骨には健全なところがありません。

私の咎が、私の頭を越え、重荷のように、私には重すぎるからです。

私の傷は、悪臭を放ち、ただれました。それは私の愚かしさのためです。

私はかがみ、深くうなだれ、一日中、嘆いて歩いています。

私の腰はやけどでおおい尽くされ、私の肉には完全なところがありません。

私はしびれ、砕き尽くされ、心の乱れのためにうめいています。(詩篇38:1-8)

詩篇38篇18節は私の心を打ちます。

私は自分の咎を言い表わし、私の罪で私は不安になっています。(詩篇38:18)

時々、人々は自分の罪を軽んじます。彼らは悔い改めの祈りを唱えるかもしれませんが、心の中ではあまり悲しんでいません。むしろ彼らは、「あ、私の足はちょっと汚れているから、拭いておこう。」という態度を取ります。

けれども、ダビデが罪を犯した時、彼は本当に不安になりました。そして、パウロのように、彼は心から叫びました、「私は、ほんとうにみじめな人間です。」(ローマ書7:24)

ダビデは自分の悪さを見て本当に悲しんでいたので、悔い改めました。それが本当の悔い改めです。

詩篇39篇で、私たちはダビデの反応をもっと見ます。その時、彼は苦しんでいましたが、最初は何も言いませんでした。なぜなら、悪者が彼を見ていて、ダビデの言葉によって神様に汚名を着せるかもしれないからです。(詩篇39:1-2)

つまり、もし悪者がダビデの罪の告白を聞いたら、神様の名前を汚すようなことを言うかもしれません。「この人は神様を愛していると言うのに、なぜこんな悪いことをするの?どんな神に従っているのだろうか。」と言うかもしれません。

また、もしダビデが神様の懲らしめについて文句を言ったら、その悪者は神様について間違ったイメージを持つかもしれません。

しかし、結局ダビデは叫びました。

主よ。お知らせください。私の終わり、私の齢が、どれだけなのか。私が、どんなに、はかないかを知ることができるように。

ご覧ください。あなたは私の日を手幅ほどにされました。私の一生は、あなたの前では、ないのも同然です。まことに、人はみな、盛んなときでも、全くむなしいものです。セラ

まことに、人は幻のように歩き回り、まことに、彼らはむなしく立ち騒ぎます。人は、積みたくわえるが、だれがそれを集めるのかを知りません。(詩篇39:4-6)

この祈りでは、ダビデは自分の間違っている視点を告白しました。その視点によって彼は罪を犯しました。

もし、人口を数えた罪の後にこの詩篇を書いたなら、多分、ダビデが言っているのは「私の軍隊を強める努力はむなしかった。私の実績のためのプライドはむなしかった。」という事です。

ダビデは、それらが一時的なもので、すぐになくなることが分かるようになりました。

だから、ダビデは祈りました。

「私が正しい視点をもう忘れないように。私の命はむなしいものです。だから、私がもう一時的なものに焦点を当てないように助けてください。私がそんな罪をもう犯さないように。」

そして、彼は祈りました。

主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。(詩篇39:7)

言い換えれば、「私の希望は一時的なものから来ません。私の満足は一時的なものから来ません。これから、私の希望はあなたです。」

そして、ダビデは泣いて、神様の赦しを頼みました。だから、神様はダビデを赦してくださいました。ヨハネが言ったように、

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

あなたはどうですか。あなたの罪のせいであなたの心は不安でしょうか。神様の懲らしめによって、あなたは一時的なものに背を向けて、永遠の物を求めるでしょうか。

ダビデのように、私たちは罪を捨てて、永遠の物、また、本当の命を与えるものを求めましょう。

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詩篇34ー

悪を見て、フラストレーションを感じること

「神様に従い、正しいことをするなら、本当に利益があるだろうか。私は苦しんでいますが、周りの人々は自分の道を行き、栄えています。」

多くの場合、私たちはそう感じます。私たちの人生を周りの人々の人生と比べる時、私たちは苦しんでいますが、彼らは自分の人生を楽しんでいるように見えます。だから、私たちは、「神様に従う価値があるだろうか」と思います。

けれども、ダビデは自分の人生を振り返り、私たちを励ましてくれます。彼はこう書きました。

悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。(詩篇37:1)

どうしてですか。

彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。(2)

だから、ダビデは私たちを戒めます。

主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。

怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。

悪を行なう者は断ち切られる。しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。(7-9)

つまり、悪い人が栄える時、怒らないでください。あなたのフラストレーションを捨ててください。そうしないと、あなたの心が苦々しくなって、自分の信仰を捨てて、自分の道を行くことに誘惑されてしまいます。

しかし、神様を待ち望み続けると、悪人が断ち切られますが、あなたは祝福されます。

だから、ダビデはこう言います。

主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。(3)

言い換えれば、悪人が栄える時、あなたの信仰を捨てないでください。良いことをし続け、神様があなたに報いを与えてくださることを信じましょう。

そして、ダビデは言います。

主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。(4)

ダビデが言うのは、「神様をあなたの主な願いにしなさい。神様をすべてよりも慕い求めなさい。そうすれば、神様はあなたの心の願いをかなえてくださる」ということです。

神様を慕い求めると、あなたはスポーツカーをもらうわけではありません。けれども、神様をあなたの喜びとすると、あなたが大切だと思ったものは、もうそんなに大切に見えなくなります。

また神様は、本当に貴いものであなたを祝福してくださいます。この世のものと違って、神様の賜物はあなたを満足させます。神様があなたの主な願いなら、あなたは本当の満足を見つけられます。

だから、ダビデはこう言います。

あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。

主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。(5-6)

今、あなたが報いをもらっていないと思うかもしれません。しかし、あなたの道を主に委ねるなら、神様は決して忘れません。

そして、ある日、皆があなたの行動を見て、神様を賛美します。

だから、悪人の繁栄をねたむ時、思い出しましょう。

ひとりの正しい者の持つわずかなものは、多くの悪者の豊かさにまさる。

なぜなら、悪者の腕は折られるが、主は正しい者をささえられるからだ。(16-17)

そして、ダビデは私たちを励ます。

人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。

その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。

私が若かったときも、また年老いた今も、正しい者が見捨てられたり、その子孫が食べ物を請うのを見たことがない。

その人はいつも情け深く人に貸す。その子孫は祝福を得る。

悪を離れて善を行ない、いつまでも住みつくようにせよ。

まことに、主は公義を愛し、ご自身の聖徒を見捨てられない。彼らは永遠に保たれるが、悪者どもの子孫は断ち切られる。(23-28)

あなたはどうですか。悪を見る時、フラストレーションを感じるでしょうか。この言葉を思い出しましょう。

主を待ち望め。その道を守れ。そうすれば、主はあなたを高く上げて、地を受け継がせてくださる。あなたは悪者が断ち切られるのを見よう。

私は悪者の横暴を見た。彼は、おい茂る野生の木のようにはびこっていた。

だが、彼は過ぎ去った。見よ。彼はもういない。私は彼を捜し求めたが見つからなかった。

全き人に目を留め、直ぐな人を見よ。平和の人には子孫ができる。

しかし、そむく者は、相ともに滅ぼされる。悪者どもの子孫は断ち切られる。(34-38)

その最後の部分が大好きです。「神様に従う人は子孫ができる。」

日本語の翻訳は「子孫」と書かれているけど、ヘブル語で、その言葉には別の意味もあります。それは、「将来」です。つまり、「神に従う人には、将来がある」ということです。そして、その将来は良い将来です。

一方で、悪人には、良い将来がありません。希望がありません。

だから、悪を見ると、憤りを捨てましょう。むしろ、毎日主の前に静まり、待ち望み、主をあなたの喜びとし、主に信頼しましょう。そうすれば、生きがいのある人生を見つけられます。

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詩篇34ー

神様の良さ

詩篇36篇の前半で、私たちは人間の悪を見ました。この後半では、神様の良さを見ます。

私は、どうやってダビデが神様の性格を説明するか大好きです。

主よ。あなたの恵みは天にあり、あなたの真実は雲にまで及びます。

あなたの義は高くそびえる山のようで、あなたのさばきは深い海のようです。(詩篇36:5-6)

この世では、多くの人の愛は浅いです。彼らは私たちの信頼に値しません。彼らにとって利益があれば良いことをしますが、そうでない時は必ずしもそうしません。

しかし、神様はそうではありません。神様の愛と恵みは天にまで及びます。神様の真実は雲にまで及びます。どんな状況でも、神様の義は堅く立ち、神様の正義は悪人を滅ぼします。

けれども、神様の正義の中には憐れみと恵みがあります。

あなたは人や獣を栄えさせてくださいます。主よ。

神よ。あなたの恵みは、なんと尊いことでしょう。人の子らは御翼の陰に身を避けます。

彼らはあなたの家の豊かさを心ゆくまで飲むでしょう。あなたの楽しみの流れを、あなたは彼らに飲ませなさいます。

いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。(6-9)

大洪水の後、神様は水によってこの世をもう滅ぼさないと約束されました。

だから、私たちが罪を犯しても、神様は私たちをあわれんで、私たちの悔い改めのために待っておられます。

また、神様の恵みによって、神様は私たちの悔い改めのために待つだけでなく、私たちに手を伸ばし、救いの道を備えるためにイエス様を送ってくださいました。

だから、すべての人々は、金持ちでも、貧しくても、強くても、弱くても、主にあって避け所と救いを見つけることができます。

さらに、神様は私たちのニーズに備えてくださり、神様にあって、私たちには喜びと命と光があります。

主よ、あなたの慈しみを感謝します。私が死にかけている時、あなたは命の泉でした。私の暗闇に、あなたの光を照らしてくださいました。

私の罪を示してください。私の罪を赦してください。あなたの憐れみと恵みと慈しみを与えてください。私が本当の命と喜びを知るように。

そして、私がもらったものを周りの人々にシェアするように助けてください。私はあなたの器になるように。アーメン。

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詩篇34ー

人間の悪

時々、ニュースを見る時、あまりにも人が凶悪になるのが信じられないことがあります。どうして、人々は殺人を計画し、その計画を実行するのでしょうか。どうして、人々はレイプしたり、暴力の犯罪を犯したりするのでしょうか。

そんな話を見すぎて、もうニュース番組を見たくないとすら思います。

けれども、それは何も現代に限ったことではありません。何千年も前に、ダビデはこう書いています。

罪は悪者の心の中に語りかける。彼の目の前には、神に対する恐れがない。

彼はおのれの目で自分にへつらっている。おのれの咎を見つけ出し、それを憎むことで。

彼の口のことばは、不法と欺きだ。彼は知恵を得ることも、善を行なうこともやめてしまっている。

彼は寝床で、不法を図り、よくない道に堅く立っていて、悪を捨てようとしない。(詩篇36:1-4)

どうして人々はそんなに悪くなるのでしょうか。

なぜなら、私たちが神様を恐れないなら、悪はすぐに出てくるからです。私たちが神様とその権威を認めないと、大抵何をしても良いと思ってしまいます。私たちの悪を抑えるのは、恥の恐れや、罰の恐れや、私たちの良心です。

しかし、私たちが神様から離れると、私たちの良心は曲がってしまいます。ある人の良心は他の人の良心よりも曲がっているかもしれませんが、人は多かれ少なかれ、誰でも良心が曲がっています。だから、私たちは何が良いか、何が悪いか混乱します。

ダビデはそのことがよく分かっていたので、こう言いました。

彼はおのれの目で自分にへつらっている。おのれの咎を見つけ出し、それを憎むことで。(3)

つまり、人々は悪いことを愛しているので、誰かがその罪を見ても、彼らは気にしません。それに、彼らは自分の罪を自慢します。

その3節のヘブライ語はちょっと翻訳しにくくて、他の意味があるかもしれません。だから、ある英語の翻訳では、他の読み方があります。

彼は己の目で自分にへつらいすぎるので、自分の罪を見つけ出さないし、その罪を憎まない。

つまり、時々私たちは自分の罪が見えないので、自分たちが良い人だと思いますが、実はそうではありません。悪いことをしても、私たちは自分の行動を正当化します。だから、私たちは自分の罪を見つけ出さないし、その罪を憎むことがありません。

そして、私たちの罪によって、私たちは、「知恵を得ることも、善を行なうこともやめてしまっている。」(3)

ニュースを見た時、酷い犯罪について聞きました。あるプロのアメリカン・フットボールの選手が怒って、誰かを殺しました。彼は金持ちだったし、いい組織で働いていました。だから、彼には本当に良い人生があったし、良い将来もありました。

けれども、彼は恨みを忘れず、相手を許せませんでした。そして、彼にとってその恨みは、他のどんなことよりも重大な問題だったので、その人を殺してしまいました。

だから今、婚約者から離れなくてはならないし、彼の7か月の娘は父親を知らないまま成長することになってしまいました。

それは罪の結果です。私たちが悪を拒絶しないと、自分自身を滅ぼし、愛している人も傷つけてしまいます。

あなたはどうですか。多分、あなたは誰も殺したことはないでしょう。しかし、あなたの心の中で誰かを憎んでいるでしょうか。誰かを赦せないでしょうか。

もしそうなら、イエス様は、あなたが自分の心でその人を殺したも同じだと言われました。(マタイ5:21-22)

あなたには、他の破壊的な習慣があるでしょうか。

あなたは神様を恐れずに、「神様がきっと私を赦してくださるので、私はこの罪を犯してもいい」と言いますか。

あなたの悪い行動を正当化しようとしているでしょうか。あなたは悪い道を行くことを決めているでしょうか。

私たちが賢明になるようにしましょう。神様を恐れて、正しいことをしましょう。この世を移っている罪に負けないように。

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詩篇34ー

人々が私たちを憎む時

子供の時、私には友達がいて、いつも一緒に遊びました。けれども、中学生になる頃、私たちはもう一緒に遊びませんでした。それに、彼は私を憎むようになりました。どうしてか、私は分かりません。

私たちはどのようにそんな人々を扱った方が良いでしょうか。

ダビデにもそんな経験がありました。ダビデが悪いことをしていなかったのに、サウル王は彼を憎むようになりました。おそらくダビデはサウルから逃げた時、詩篇35篇を書いたかもしれません。

ダビデは祈りました。

主よ。私と争う者と争い、私と戦う者と戦ってください。

盾と大盾とを手に取って、私を助けに、立ち上がってください。

槍を抜き、私に追い迫る者を封じてください。(詩篇35:1-3)

ダビデを憎む人を扱う時、彼はいつもその戦いを神様の手に委ねました。彼は言いました。「私のために戦ってください。私の助けになってください。」

それでも、自分で復讐しないことは難しかったかもしれません。だから、彼は祈りました。

私のたましいに言ってください。「わたしがあなたの救いだ」と。(3b)

つまり、「あなたが私の味方であることを思い出させてください。私が自分の手で復讐しないために、あなたが私を救ってくださることを思い出させてください。」

けれども、ダビデを憎む人に対する彼の態度は本当に驚くべきものです。

しかし、私は――、彼らの病のとき、私の着物は荒布だった。私は断食してたましいを悩ませ、私の祈りは私の胸を行き来していた。

私の友、私の兄弟にするように、私は歩き回り、母の喪に服するように、私はうなだれて泣き悲しんだ。(13-14)

それはただの言葉ではありませんでした。ダビデがサウルの死について聞いた時の態度は、まさにそのようなものでした。彼は友人ヨナタンのために泣いただけでなく、サウルのためにも泣きました。

イエス様も、その態度を取りました。実は、この詩篇で、私はイエス様のことがよく見えます。

ダビデのように、偽りの証人はイエス様を責めました。(11)

また、ダビデのように、人々はイエス様をからかったし、中傷しました。(15-16)

それでも、十字架に掛けられても、イエス様は彼らのために祈ってくださいました。

私たちもそうするべきです。ペテロはこう書きました。

あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。(第一ペテロ2:21)

特に、ペテロは義のために苦しむことについて話しています。イエス様は私たちを救うために苦しんでくださったので、私たちも義のために苦しむ覚悟を持つべきです。

この箇所には、もう一つのことを見ます。相手の憎しみに対して、どうやってイエス様が反応したか見ます。そして、私たちはイエス様の足跡に従うべきです。イエス様はどのように反応したでしょうか。

キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。

ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。(第一ペテロ2:22-23)

あなたはどうですか。人々があなたを憎んで傷つける時、イエス様の足跡に従おうとしますか。

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詩篇34ー

救いの歌

私は小学生の頃、学期の最終日に、夏休みがとても楽しみだったのを覚えています。

その時、私は昔の詩を暗唱したことを覚えています。

鉛筆は、もうない、
教科書は、もうない、
先生の怒っている顔は、もうない。

私はあまりにも嬉しくて、自分の歌詞を加えました。そして、階段を下りながら、その詩を暗唱しました。

多分、ダビデも、そのように感じたかもしれません。(もちろん、彼の喜びは私のよりも大きかったけれど。)

ペリシテ人が彼を捕まえて、ダビデは「私は死ぬ」と思ったかもしれません。けれども、彼は、狂っている人のように行動したので、その王はダビデがそんなに危険人物ではないと思い、解放しました。

詩篇34篇で、ダビデの大喜びがよくわかります。

私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。

私のたましいは主を誇る。貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。

私とともに主をほめよ。共に、御名をあがめよう。(詩篇34:1-3)

多分、ダビデは何回もこの歌を歌ったと思います。他の試練に直面した時に、神様の慈しみを思い出すために、この歌を歌ったかもしれません。

サウルから逃げ続けていた時にも、この歌を歌ったかもしれません。息子アブサロムがダビデの王国を取ろうとして、ダビデが逃げた時にも、この歌を歌ったかもしれません。

どれぐらい、ダビデはこの歌を歌ったでしょうか。どれぐらい、「神様は良い方です。神様は私を養ってくださる」と思い出すために歌ったでしょうか。

特に、私はこの言葉が大好きです。

主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。

主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。(詩篇34:7-8)

また、

主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる。

正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。(詩篇34:18-19)

実は、この詩篇の全体が大好きです。歌った時に、ダビデはこう思い出しました。

1.神様は私たちの叫びを聞いてくださる。(4-6、15、17節)

2.私たちの試練の中に、神様はいつも私たちと共におられる。私たちは決して一人ぼっちではありません。(7、18節)

3.神様は良い方です。(8節)

4.神様は私たちのニーズを全て備えてくださいます。(9-10節)

5.大変な時でも、神様に背を向けない方が良いです。正しいことをし続けた方が良いです。(12-14節)

6.神様に信頼すれば、全ては良くなるでしょう。(5、19-22節)

試練の中にいる時、私たちは、この詩篇を思い出しましょう。何回も、この歌はダビデを助けたと思います。もし、ダビデのように神様を信じると、この歌は私たちも助けてくださるでしょう。