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詩篇のデボーション

神の恩寵

まことに、御怒りは束の間、
いのちは恩寵のうちにある。(詩篇30:5)

今朝、その言葉が私の心に深く響きました。

神様が恩寵を与えてくださるとき、私たちはいのちを得ます。

そして2000年前、ベツレヘムで、神様は恵みの手を伸ばしてくださいました。

ヨハネはこのように記しています。

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのち得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。

私たちが神を愛したのではなく、 神が私たちを愛し、 私たちの罪のために、 宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(第一ヨハネ4:9ー10)

神様の愛と恵みによって、私たちは神の御心にかなう者とされます。

それは本当に驚くべきことです。

だから、み使いたちと共に歌いましょう。

いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和が
みこころにかなう人々にあるように。(ルカ2:14)

メリークリスマス!

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詩篇のデボーション

神の謙虚

あなたは御救いの盾を私に下さいます。
あなたの右の手は私を支え
あなたの謙遜は私を大きくします。(詩篇18:35)

もうすぐクリスマスだからこそ、その言葉が私の心に響いているのでしょう。

「あなたの謙虚は私を大きくします。」

私は取るに足りない者なのに、神様はご自身を低くし、人となり、しもべの姿をとってくださいました。

そして、神であるイエス様は十字架で私の罪のために死んでくださいました。(ピリピ2:7~8)

だから今や、そのみわざによって、取るに足りない私は神の子とされました。

なんとすばらしいことでしょう。

【主】は生きておられる。
ほむべきかなわが岩。
あがむべきかなわが救いの神。(詩篇18:46)

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エペソ人への手紙のデボーション

近い者となった

そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。

しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。。。

このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。

こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なので。(エペソ人への手紙2:12~13)

多分、上記は、私が最も気に入っているエペソ人への手紙の箇所です。その箇所は、クリスマスの意味、つまり、イエス様がこの世に来られた理由を要約しているからです。

私たちは、かつて神様の家族の部外者であり、アブラハムとその子孫への祝福の約束の契約から除外されていました。しかし今、イエス様にあって、かつて神様から遠く離れていた私たちは、近い者となりました。

イエス様の系図を見ると、それがよく分かります。

タマルはカナン人でした。カナン人の罪のため、神様はイスラエル人たちに、カナン人たちを滅ぼすように命じられました。(マタイ1:3;創世記10:15-18,15:16;レビ記18:24-28;申命記7:1-4)

ラハブもカナン人で、遊女でした。(マタイ1:5)

ルツはモアブ人でした。神様はイスラエル人たちに、モアブ人が主の集会に加わってはならないと言われていました。(マタイ1:5;申命記23:3-4)

彼女らは皆、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神様もおられない者たちでした。けれども、彼女らは近い者となり、聖徒たちと同じ国の民となり、神様の家族に加えられました。

私たちも同じです。

クリスマスはもう終わったかもしれませんが、パウロの言葉に思いを巡らしましょう。その言葉を反芻しましょう。

そして、喜びましょう。

私もそうしています。

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クリスマスの12日

クリスマス12日目

彼女はさらに身ごもって男の子を産み、「今度は、私は主をほめたたえます」と言った。

それゆえ、彼女はその子をユダと名づけた。その後、彼女は子を産まなくなった。(創世記29:35)

ヘブライ語では、「ユダ」は「ほめたたえる」を意味する言葉に聞こえます。

ユダはヤコブの四男でしたが、イエス様はユダの系図に属しておられるので、ユダの話でこのシリーズを終えるのがふさわしいと思いました。

ユダが生まれたあと、レアはしばらくの間、自分の苦しみから目を離し、ヤコブの愛で心の穴を埋めようとするのをやめました。むしろ、レアは神様に向かって賛美しました。

今年、レアの模範に従いましょう。ただ一日だけでもなく、一週間だけでもなく、一ヶ月だけでもなく、むしろ、毎日、毎朝、自分の心を導き、自分の問題や苦しみから目を離し、イエス様を仰ぎ、こう言いましょう。

「今日、今日、私は主をほめたたえることを選びます。」

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クリスマスの12日

クリスマス11日目

彼らはベテルから旅立った。エフラテに着くまでまだかなりの道のりがあるところで、ラケルは出産したが、難産であった。

彼女が大変な難産で苦しんでいたとき、助産婦は彼女に、「恐れることはありません。今度も男のお子さんです」と告げた。

彼女が死に臨み、たましいが離れ去ろうとしたとき、その子の名をベン・オニと呼んだ。しかし、その子の父はベニヤミンと名づけた。(創世記35:16-18)

ベン・オニとは、「私の悲しみの子」という意味です。

その反面、ベニヤミンとは、「右手の子」という意味です。

どちらの名前も、イエス様に当てはめることができます。

預言者イザヤは、イエス様についてこう語りました。

彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。(イザヤ53:3)

でも、十字架の後、

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。(エペソ1:20-21)

「悲しみの子」であり、「神の右手の子」であるイエス様をほめたたえましょう。

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クリスマスの12日

クリスマス9日目

レアはまた身ごもって、ヤコブに六番目の男の子を産んだ。

レアは言った。「神は私に良い賜物を下さった。今度こそ夫は私を尊ぶでしょう。彼に六人の子を産んだのですから。」

そしてその子をゼブルンと名づけた。(創世記30:19-20)

ヘブライ語では、ゼブルンは「尊ぶ」を意味する言葉に聞こえます。

私たちは何をしても、望んでいる人から名誉を受けることはないかもしれません。レアがヤコブに6人の子を産んだにもかかわらず、聖書にはヤコブがラケルを尊んだように、レアを尊んだという示唆は見られません。

しかし、神様はイエス様を信じる私たちに、栄光と誉れの冠をかぶらせてくださいました。それは私たちの行いによるのではなく、イエス様が私たちのためにしてくださったことによるのです。

「あなたは、人を御使いよりわずかの間低いものとし、 これに栄光と誉れの冠をかぶらせ、 万物を彼の足の下に置かれました。」。。。

それなのに、今なお私たちは、すべてのものが人の下に置かれているのを見てはいません。

ただ、御使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。

イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。

多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。(へブル2:7-10)


ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。(第二コリント9:15)

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クリスマスの12日

クリスマス8日目

神はレアの願いを聞かれたので、彼女は身ごもって、ヤコブに五番目の男の子を産んだ。

そこでレアは、「私が女奴隷を夫に与えたので、神は私に報酬を下さった」と言って、その子をイッサカルと名づけた。(創世記30:17-18)

ヘブライ語では、「イッサカル」は「報酬」を意味する言葉に聞こえます。

レアが女奴隷をヤコブに与えたことによって、神様が本当にレアに報酬を与えられたのかは、疑わしいところです。

しかし、それは罪の問題です。罪は、私たちに良いものを与えていると主張し、私たちを欺こうとします。罪は、「神様があなたに報酬を与えてくださっている」とさえ主張することがあります。

それよりも、イエス様にある神の無償の賜物を受け取る方が、はるかに良いのではないでしょうか。

罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ6:23)

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クリスマスの12日

クリスマスの7日目

レアの女奴隷ジルパはヤコブに二番目の男の子を産んだ。

レアは、「なんと幸せなことでしょう。女たちは私を幸せ者と言うでしょう」と言って、その子をアシェルと名づけた。(創世記30:12-13)

アシェルとは、「幸せ」という意味です。

レアは心の穴を埋めるために、女奴隷であるジルパをヤコブに差し出し、ヤコブはジルパと関係を持ちました。そうすることで、レアは幸せを感じました。しかし、その幸せはすぐに消えてしまいました。

創世記30章20節では、レアはなおもヤコブの愛によって心の穴を埋めようとしています。

けれども、何百年も後、アシェルの子孫であるアンナは、本当の幸せがどこから来るのかを知りました。

ルカの福音書2章36〜38節には、アンナの物語が記されています。アンナは若い頃に結婚しましたが、7年後に夫を亡くしました。その後の人生、彼女は昼も夜も神を慕い求め続けました。

そしてある日、アンナはイエス様を見て、その心の穴が埋められました。

ちょうどそのとき(アンナ)も近寄って来て、神に感謝をささげ、エルサレムの購いを待ち望んでいたすべての人に、この幼子ことを語った。(ルカ2:38)

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クリスマスの12日

クリスマスの6日目

レアは自分が子を産まなくなったのを見て、彼女の女奴隷ジルパをヤコブに妻として与えた。

レアの女奴隷ジルパはヤコブに男の子を産んだ。

レアは「幸運が来た」と言って、その子をガドと名づけた。(創世記30:9-11)

ガドとは、「幸運」という意味です。

子どもはもちろん、神様からの祝福です。

しかし、レアはその「幸運」のために代償を払わなくてはなりませんでした。彼女がヤコブにもう一人の女性を提供したことで、ヤコブは4人の妻と関係を持つことになりました。

それは本当に幸せなことでしょうか。それは本当に幸運と言えるでしょうか。

私たちがそのような「幸運」を求めることがありませんように。むしろ、キリストにある祝福を求めましょう。

その祝福の中で、最も嬉しいことをご存じでしょうか。

それは、イエス様が十字架でその祝福の代価を支払ってくださったということです。

私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。

神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。(エペソ人への手紙1:3)

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クリスマスの12日

クリスマスの5日目

ラケルの女奴隷ビルハは再び身ごもって、ヤコブに二番目の男の子を産んだ。

そこでラケルは、「私は姉と死に物狂いの争いをして、ついに勝った」と言って、その子をナフタリと名づけた。(創世記30:7-8)

ヘブライ語では、「ナフタリ」は「私の戦い」を意味する言葉に聞こえます。

心の穴を埋めることができないもののために、私たちはどれほど多く、相手と戦ってしまうことでしょう。ラケルの場合、彼女はヤコブの愛を求めてレアと争いました。

しかし、最終的に、私たちが戦い終えたあとでも、心の穴は残ります。神様こそが、その穴を埋めることのできるお方です。

だから、賜物そのものではなく、賜物を与えてくださる方を慕い求めましょう。

あなたがたの間の戦いや争いは、どこから出て来るのでしょうか。ここから、すなわち、あなたがたのからだの中で戦う欲望から出て来るのではありませんか。

あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりします。

自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。(ヤコブ4:1-3)

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クリスマスの12日

クリスマスの4日目

そこでラケルは、「神は私をかばってくださり、私の声を聞き入れて、私に男の子を与えてくださった」と言った。

それゆえ、彼女はその子をダンと名づけた。(創世記30:6)

結婚式の夜、ラケルはレアにヤコブを奪われました。しかも、ヤコブはその後ラケルとも結婚し、レアよりもラケルを愛していました。 それでも、レアにはすでに4人の息子がいたのに対し、ラケルにはまだ子どもがいませんでした。

そこで、ラケルは自分の女奴隷をヤコブに差し出しました。ヤコブはビルハと関係を持ち、その子どもたちはラケルの子どもとして認められました。

ヘブライ語では、「ダン」は「裁く」や「正当化する」を意味する言葉に聞こえます。

神様が実際にレアとラケルの間で、どちらに有利な判断をくだされたのかは、本当に分かりません。

しかし、神様がイエス様を信じる私たちに有利な判断を下されたことは確かです。

だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。

だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。(ローマ8:33-34)

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クリスマスの12日

クリスマスの3日目

彼女はまた身ごもって男の子を産み、「今度こそ、夫は私に結びつくでしょう。私が彼に三人の子を産んだのだから」と言った。

それゆえ、その子の名はレビと呼ばれた。(創世記29:34)

「レビ」は、ヘブライ語で「結ぶ」を意味する言葉に聞こえます。

レアはヤコブの愛を切望し、彼と結ばれることを願っていました。

多くの人々もまた、そのような愛を切望します。

イエス様において、神様は愛を与えてくださり、私たちは神様と結ばれました。

そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。

しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。(エペソ2:12-13)

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クリスマスの12日

クリスマスの2日目

彼女は再び身ごもって男の子を産み、「主は私が嫌われているのを聞いて、この子も私に授けてくださった」と言って、その子をシメオンと名づけた。(創世記29:33)

「シメオン」は、ヘブライ語で「聞く」を意味する言葉に聞こえます。

レアはヤコブに嫌われ、軽んじられていたため、深く傷つき、苦しんでいました。

しかし、神様はレアの叫びを聞いてくださいました。同じように、神様はご自分を愛する人々の叫びをも聞いてくださいます。

また、別の御使いが来て、金の香炉を持って祭壇のそばに立った。

すると、たくさんの香が彼に与えられた。すべての聖徒たちの祈りに添えて、御座の前にある金の祭壇の上で献げるためであった。

香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。(黙示録8:3-4)


主の目は、正しい人たちの上にあり、主の耳は、彼らの叫びに傾けられる。。。

苦しむ者が叫ぶと、主は聞かれ、そのすべての苦難から救い出してくださる。

主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる。(詩篇34:15,17-18)

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クリスマスの12日

クリスマスの1日目

メリークリスマス!

今日から、クリスマスの12日間のために、特別なデボーションを始めます。このデボーションは、私の最近の説教に基づいています。それをこちらで聞くことができます。

その説教では、私はヤコブの12人の息子たちの名前を取り上げました。ラケルとレアの苦悩の中で生まれた名前でしたが、クリスマスと私たちへの神のメッセージに照らして、その意味を再解釈しました。

今日は、ルベンの話を取り上げます。

主はレアが嫌われているのを見て、彼女の胎を開かれたが、ラケルは不妊の女であった。

レアは身ごもって男の子を産み、その子をルベンと名づけた。

彼女が、「主は私の悩みをご覧になった。今こそ夫は私を愛するでしょう」と言ったからである。(創世記29:31-32)

ルベンとは、「子を見よ」という意味です。

レアはヤコブに、「見てください。私はあなたに息子を生みました。私を愛してください」と言っていました。

しかし、神様は私たちを見て、こう言われます。「見よ、私の子を与えた。私はあなたを愛している。」

それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。(イザヤ7:14)


神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。(第一ヨハネ4:9)

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イザヤ書のデボーション

クリスマスの歌

主よ、あなたは私の神。 私はあなたをあがめ、御名をほめたたえます。

あなたは遠い昔からの不思議なご計画を、 まことに、真実に成し遂げられました。(イザヤ書25:1)

クリスマスがもうすぐなので、今朝、上の歌は私の心に響きました。

神様の遠い昔からの不思議な計画を真実に成し遂げ、御子イエス様をこの世に送られました。

でも、25ー26章では、イザヤはイエス様の初臨ではなく、イエス様の再臨について話しているようです。

イエス様はこの世にもう一度来ると、正義をもって、すべての悪を滅ぼします。その後、イエス様は最後の敵を克服します。その敵は死です。

今、死はベールのようにこの世のおおうけど、神様はそのベールを取り除き、 永久に死を飲み込まれます。

神様は私たちの罪の恥を取り除き、すべての顔から涙をぬぐい取ってくださいます。(イザヤ書25:7ー8)

パウロもヨハネもその事をもっと具体的に話すので、彼らの言葉をどうぞ読んでください。(第一コリント15:20ー28,51ー57;黙示録20:7ー21:4)

とにかく、その日、私たちはイエス様を見て、以下のクリスマスの歌を歌います。

もちろん、今でも私たちは歌うことができるけど、イエス様がもう一度来るとき、私たちはその歌の意味をもっと深く知ることになるでしょう。

見よ。この方こそ、待ち望んでいた私たちの神。 私たちを救ってくださる。

この方こそ、私たちが待ち望んでいた主。 その御救いを楽しみ喜ぼう。(イザヤ書25:9)

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詩篇のデボーション

クリスマスの意義

今や私たちは、エフラテでそれを聞き、ヤアルの野でそれを見出した。

さあ、主の住まいに行き、主の足台のもとにひれ伏そう。(詩篇132:6-7)

旧約聖書の時代、主の契約の箱は神様の臨在の象徴でした。

でも、イスラエル人たちが神様に背を向けたとき、その箱はペリシテ人たちに奪われました。ペリシテ人たちはその契約の箱を返しても、イスラエル人たちはずっと契約の箱を無視しました。(第一サムエル4-7章;歴代誌第一13:3)

でも、この詩篇では、詩人は、ダビデが契約の箱をキルヤテ・エアリムというところからエルサレムまで運んだことを祝います。(歴代誌第一15章)

また、詩人はダビデに対する神様の約束を思い出します。つまり、神様がダビデの王朝を永遠に守るということです。

旧約聖書では、二つのエフラテがあります。一つ目は、キルヤテ・エアリムにあります。

でも興味深いことは、別のエフラテ、つまり、ベツレヘムでイエス様がお生まれになって、神様はダビデに対する約束を守ってくださったということです。(ミカ5:2;マタイ2:5)

そして、イエス様がお生まれになった後、東の方から博士たちはこう言いました。

ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。(マタイ2:2)

さらに、イエス様の十字架によって、神様の祭司たちとして、私たちに救いをまとわせて、喜び歌います。(16)

そして、ある日、神様はイエス様のすべての敵をイエス様の足の下に置かれます。(第一コリント15:24-27)

その日、イエス様の王冠が光り輝きます。(18)

だから、心に留めておきましょう。クリスマスの意義は、イエス様が2000年前に来られたということだけではありません。クリスマスの意義は、イエス様がもう一度この世に来られるということです。

その日、私たち皆は歌います。

この世の王国は、私たちの主と、そのキリストのものとなった。主は世々限りなく支配される。(黙示録11:15)

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詩篇のデボーション

豊かな贖い

イスラエルよ、主を待て。

主には恵みがあり、豊かな贖いがある。 主は、すべての不義からイスラエルを贖い出される。(詩篇130:7ー8)

その言葉を読んで、ヨセフに対する天使の言葉を連想しました。

マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。(マタイ1:21)

私たちは罪によって壊れた世界に住んでいます。

あなたの人生は自分の罪や失敗によって壊れたかもしれません。

もし神様が私たちの罪に目を留められていたら、私たちは神様の御前に立つことができないでしょう。(3)

でも、主を待ち望みましょう。

主には恵みがあります。私たちが真実でなくても、キリストは常に真実です。(第二テモテ2:13)

そして、イエス様の血によって、私たちは贖いを得ています。でも、ただの贖いではなく、豊かな贖いを得ているのです。

私たちはみな、(キリスト)の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。

律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。(ヨハネ1:16ー17)

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創世記のデボーション

苦しみの子、右手の子

メリークリスマス!

ヤコブはベツレヘムに行く途中、ラケルはヤコブの末っ子を生みました。でも、その子を生んだ後、ラケルはすぐに亡くなりました。

ラケルは死に臨み、その子をベン・オニと呼びました。ベン・オニとは、「私の苦しみの子」を意味します。

でも、その後、ヤコブはその子をベニヤミンと名付けました。ベニヤミンとは、「右手の子」を意味します。

約2000年後、もう一人の赤ちゃんが生まれました。その子はベツレヘムに生まれました。

ある意味、その子は「ベン・オニ」でした。イエス様が十字架にかけられたとき、剣はマリアの心を刺し貫きました。(ルカ2:34ー35)

さらに、イエス様ご自身が苦しみ、悲しみや痛みや人に拒絶されることを経験なさいました。(イザヤ53:3)

でも、十字架で、イエス様はご自分のいのちを死に明け渡し、私たちの罪を負い、神様に背いた私たちのために、とりなしをしてくださいました。(イザヤ53:12)

その後、天の父なる神様はイエス様を復活させて、

天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。(エペソ1:20ー21)

苦しみの子。

天の父なる神様の右手の子。

それはイエス様です。

そして、それはクリスマスの意味です。

Joy to the world!

世界に喜びを。

The Lord is come.

主が来られた。

Let earth receive her King !

この世に王を迎え入れよう。

ーーアイザック・ウォッツ

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詩篇のデボーション

イエス様が苦しんでおられたから

「彼らは 私が若いころからひどく私を苦しめた。」 さあ イスラエルは言え。

「彼らは 私が若いころからひどく私を苦しめた。しかし 彼らは私に勝てなかった。耕す者たちは私の背に鋤をあて、長いあぜを作ったが。」

主は正しくあられ 悪しき者の綱を断ち切られた。」(詩篇129:1ー4)

この詩篇では、詩人は自分の苦しみを嘆きます。でも、最終的に主が自分を救い、自分の敵を呪うという希望を持っていました。

数百年後、イエス様も苦しんでおられました。

イエス様は、見下されることを深くご存じでした。イエス様は、苦しみを深く味わっておられました。ローマの兵隊は鞭でイエス様の背に鋤をあて、長いあぜを作りました。さらに、イエス様は十字架の恥と痛みをよくご存じでした。

しかし、神様はイエス様を復活させて、よみから救い出してくださいました。

でも、最も大切なのは、イエス様の苦しみによって、私たちが神様との平和を持っているということです。(イザヤ書53:4ー5)

そういうわけで、イエス様がお生まれになったとき、天使たちは私たちを呪いませんでした。

むしろ、天使たちは神様を賛美し、私たちに対する神様の祝福を宣言しました。

いと高き所で、栄光が神にあるように。 地の上で、平和が みこころにかなう人々にあるように。(ルカ2:14)

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創世記のデボーション

神の祝福を受け継ぐ者

あなたを祝福し。。。あなたは祝福となりなさい。。。地のすべての部族は、 あなたによって祝福される。(2ー3)

もうすぐクリスマスがやってくるなんて、信じられないですね。

今日の箇所では、私たちは最初のクリスマスの約束の一つを読みます。

神様は、アブラハムによって地のすべての部族が祝福されると約束されました。

最終的に、その約束はアブラハムの子孫であるイエス様によって成就されました。

そして、私たちはその祝福を受け継ぐ者たちです。(ガラテヤ3:8–9、エペソ1:3–14)

でも、アブラハムのように、私たちはただ神様の祝福を受けるように召されているわけではありません。むしろ、私たちは周りの人々を祝福するように召されています。

私たちの周りの人々も、私たち自身が受けた恵みを受けることができるように、私たちはイエス様の光を照らすべきです。

だから、キリストの教会として、この世界に出て、私たちの周りの人々に対して祝福となりましょう。

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ヘブル人への手紙

クリスマスの意味(3)

最近、私たちはクリスマスの意味について考えてきました。

最初の記事では、クリスマスを通して、私たちが神様のご性質を知ることができるということを語りました。すなわち、イエス様にあって、目に見えない神様が、見えるようになったのです。

そして、前回の記事では、イエス様が来られたもう一つの理由――それは「私たちの罪」であることを取り上げました。

私たちの罪のゆえに、この世は混乱し、壊れてしまいました。本来、神様の子どもであり代表者として、私たちはこの世を治めるはずでした。しかし、罪によって、この世界も、私たち自身の人生も崩れてしまったのです。

けれども、イエス様がこの世に来られたとき、十字架で私たちの罪の代価を支払い、神様の怒りを身に負ってくださいました。イエス様の御業によって、救いの道が整えられたのです。

ですから、今、私たちがなすべきことはただひとつ――イエス様を信頼し、従うことです。そうするなら、神様が私たちのために初めからご計画されていたことが実現するのです。

それはつまり、私たちが栄光と誉れの冠をいただき、イエス様と共に永遠にこの世を治めることなのです。

しかし、イエス様がこの世に来られた理由は、もう一つあります。

それは、私たちに共感するためでした。私たちのことを、真に理解できるようになるためでした。

私たちは、天におられる神様を思うとき、神様がどうやって私たちのことを理解できるのか、不思議に思うかもしれません。神は神であり、人は人だからです。

けれども、イエス様がこの世に来られたとき、私たちが経験することを、ご自身も経験されました。

この手紙の著者によれば、私たちの創始者(別訳:「指導者」)であるイエス様は、苦しみを通して完全な者とされたのです(10節)。

それは、どういう意味なのでしょうか。

イエス様は、もともと完全なお方ではなかったのでしょうか。

もちろん、イエス様は常に罪のない、完全な方でした。

けれども、苦しみを通して、イエス様は私たちに完全に共感できるようになられたのです。その意味において、イエス様はさらに完全な救い主となられました。

イエス様は、人となられたことによって、不完全な世界に生きることを体験されました。また、誘惑に直面し、それを打ち勝つことを学ばれました。そして、死に至られ、ついには死をも克服されました。

だから、この手紙の著者は、こう書いています。

聖とする方も、聖とされる者たちも、みな一人の方から出ています。それゆえ、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥とせずに、こう言われます。(へブル人への手紙2:11)

言い換えれば、イエス様は人となられ、私たちと同じような者となられました。

だから、イエス様は心から、私たちを兄弟姉妹と呼んでくださるのです。

この手紙の著者が引用した詩編の中では、イエス様がよろこんで、私たちを「兄弟」「姉妹」「子どもたち」と呼んでおられる姿を見ることができます。イエス様は決して、私たちを見下されません。

そして、14〜15節で、著者はさらにこう続けています。

そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。

それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。(14-15)

イエス様は人となられ、私たちと同じように血と肉を持っておられました。

しかし、私たちと違って、イエス様は決して罪を犯されませんでした。

それにもかかわらず、イエス様は私たちの罪のために、ご自身を十字架においてささげられました。そのことによって、サタンの力は打ち砕かれ、私たちは死と地獄の恐れから解放されたのです。

けれども、私たちはもう一つ、心にとどめておくべきことがあります。

この手紙の著者は、こう書いています。

したがって、神に関わる事柄について、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それで民の罪の宥めがなされたのです。

イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。(17-18)

言い換えれば、イエス様は人としてご自身の弱さを味わわれたので、私たちの弱さに深く共感してくださるのです。

だから、イエス様は私たちに対して、あわれみ深い大祭司となられました。

ですから、私たちが苦しみの中でうめき、罪との戦いに疲れ果てるときにも、イエス様は私たちの痛みを理解してくださいます。

これこそが、クリスマスの不思議さです――すなわち、神様が私たちのことを理解しておられる、ということなのです。

He knows all the struggles you are going through.
イエス様は、あなたが経験しているすべての戦いを理解しておられます。
He knows the pain you’re feeling.
イエス様は、あなたの苦しみを理解しておられます。
He hears the silent cries you hold within your heart.
イエス様は、あなたの心の奥深くにあるうめきを、すべて聞いておられます。
And he wants so much to show you that he knows.
そして、イエス様はあなたにご自身の共感を、本当に知ってほしいと願っておられます。

–ブライアン・ベッカー

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ヘブル人への手紙

クリスマスの意味(2)

どうして、この世はこれほどまでに混乱し、壊れてしまったのでしょうか。

この問いに向き合わないかぎり、私たちはクリスマスの意味を真に語ることはできません。

今日の聖書箇所で、この手紙の著者は、この世界の混乱の根本にある問題を明らかにしています。

彼によれば、この世がやがて新しくされるとき、それを治めるのは天使ではなく、人間なのです(へブル人への手紙2:5)。

その驚くべき真理に触れ、著者はまるで詩編の詩人のように、主を賛美せずにはいられません。

人とは何ものなのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。

あなたがこれを顧みてくださるとは。あなたは、人を御使いよりわずかの間低いものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせ、万物を彼の足の下に置かれました。(へブル人への手紙2:6-8)

この箇所で詩編の詩人も、この手紙の著者も、イエス様についてではなく、人間について語っています。

彼らが驚いているのは、人間がもともと地のちりで造られた存在であり、今もなお、天使よりわずかの間低い者とされているにもかかわらず、やがて栄光と誉れの冠をいただき、すべてのもの(天使たちをも含む)を治めるようになる、ということです。

使徒パウロによれば、ある日、私たちは天使たちさえ裁くことになるのです(第一コリント6:3)。

神様がこの世を創造された初めから、それはご自身のご計画でした。

そのため、神様がアダムとエバを造られたとき、こう言われました。

生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。(創世記1:28)

そういうわけで、この手紙の著者はこう語っています。

神は、万物を人の下に置かれたとき、彼に従わないものを何も残されませんでした。(8b)

しかし、それは今の私たちの現実なのでしょうか。

この手紙の著者は、続けてこう言います。

それなのに、今なお私たちは、すべてのものが人の下に置かれているのを見てはいません。(8c)

どうしてなのでしょうか。

この世の根本的な問題――それは「罪」です。

罪によって、この世は堕落しました。

罪によって、神様との私たちの関係は壊れました。

罪によって、この世界そのものが壊れてしまいました。

罪によって、私たち自身も壊れた存在となってしまいました。

罪によって、災害や病、そして死がこの世に入り込んできたのです。

だからこそ、イエス様はこの世に来られなければなりませんでした。

そして、この手紙の著者は、続けてこう言います。

ただ、御使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。

イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。(9)

イエス様は天を離れ、人となられました。

イエス様は天使よりも、しばらくの間低くされ、私たちの間を歩まれました。そのおからだは死すべきものであったため、病を患われることもあり、やがて十字架で死なれたのです。

けれども、その死を通して、イエス様は私たちの罪のために代価を支払ってくださいました。

そして、イエス様は栄光と誉れの冠を受けられました。救いの「指導者」、あるいは「先駆者」(10節、「創始者」の別訳)となられたのです。

イエス様は私たちに先立ってこの世に来られ、完全な人生を生き、十字架の苦しみを受け、私たちのために死んでくださいました。

そのゆえに、私たちはイエス様が開いてくださった救いの道を歩むことができるのです。

私たちがその道を造る必要はありません。その道はすでに整えられました。イエス様が、私たちのために労してくださったからです。

では、このことを振り返ってみましょう。

なぜ、イエス様は2,000年前、この世に来られたのでしょうか。

そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。

それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。(14-15)

私たちは、罪と死の力から自由にされたにとどまらず、神様が初めからご計画なさっていたとおりに、イエス様の共同相続人として、栄光と誉れの冠を受け、イエス様と共にこの世を治めるようにされているのです。

これこそが、クリスマスの意味です。

ですから、私たちは2,000年前に神様がなさったことだけでなく、今この瞬間になさっていることをも感謝しましょう。そして、将来なさろうとしていることにも、心から感謝をささげましょう。

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ヘブル人への手紙

クリスマスの意味

私の英語のブログでは、12月にヘブル人への手紙についての記事を書き始めました。それは、とても良いタイミングでした。なぜなら、この手紙を通して、私たちはクリスマスの意味を学ぶことができるからです。

イエス様とは、どのようなお方でしょうか。なぜ、これほどまでに大切なのでしょうか。

この手紙の著者は、それを私たちに教えてくれます。(ちなみに、この手紙は匿名です。)

神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。

神は御子を万物の相続者と定め、御子によって世界を造られました。(へブル人への手紙1:1-2)

神様は何百年もの間、数多くの預言者たちを遣わされました。けれども、この終わりの時には、預言者たちよりもはるかに偉大なお方をお送りになりました。もちろん、それはイエス様です。

イエス様は、イザヤ、エレミヤ、ダニエルよりも偉大なお方です。これらの預言者たちは多くの奥義を語りましたが、その奥義はイエス様によって明らかにされました。

使徒ヨハネによれば、イエス様は人となった神様の御言葉です(ヨハネ1:1、14)。

そして、イエス様にあって、神の御言葉はすべて成就されました。

では、イエス様とはいったい誰なのでしょうか。

エホバの証人によれば、イエス様は御使いのかしらミカエルだとされています。しかし、この手紙の著者は、それを明確に否定します。

むしろ、彼はこう語っています。

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。(3a)

著者は、印章付きの指輪に触れています。指輪の印がろうに押されるように、神様の本質は肉体に刻印されました。ですから、イエス様を見るとき、私たちは神様の本質を見るのです。

イエス様は、神様の本質を完全に現しておられます。さらに、イエス様ご自身こそ、神様の栄光の輝きです。

そして、著者はこう語ります。

御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。(3b)

この言葉によって、私たちは、なぜイエス様が来なくてはならなかったのかを知ることができます。

私たちの罪が赦されるために、イエス様は十字架で死ななければなりませんでした。

けれども、イエス様は死後、復活されました。そして今は、天の父の王座の右に座しておられます。

イエス様が復活された日に、天の父はイエス様にこう言われました。

あなたはわたしの子。わたしが今日、あなたを生んだ。(5節ですけど、使徒の働き13:32-34をも読んで管ださい。)

かつての時代、ある国の王が別の国の王に従うとき、両者の関係は「親と子」と呼ばれることがありました。そのような背景の中で、神様はソロモンを「わたしの子」と呼ばれました(第二サムエル記7:14)。

そして、この手紙の著者はこう語ります。「天の父は、天使のいずれにも『わたしの子』と呼びかけたことはありません。」

しかし、天の父はイエス様に対しては「わたしの子」と呼ばれたのです。なぜなら、父と御子の間には、比類なき関係があるからです(4〜5節)。

さらに、神様がイエス様をこの世に遣わされたとき、こう言われました。

神のすべての御使いよ、彼にひれ伏せ。(6)

これは、極めて意義深いことばです。なぜなら、礼拝にふさわしいのは神様おひとりだからです。

もしイエス様が天の父と等しい存在でなければ、天の父が「わたしの子にひれ伏せ」と言われることはなかったはずです(ルカ4:8)。

さらに著者は、天使たちを造られた存在(すなわち、風や炎)として描きますが、イエス様ご自身は創造主であり、「永遠の神」と呼ばれています(2、8〜12節)。

そして最後に、イエス様のような権威を持つ天使は存在しません。むしろ、天使たちは、イエス様によって救われた者たちに仕えるのです(13〜14節)。

言い換えれば、天使たちは栄光に満ちた存在ではありますが、イエス様はその上にある栄光を持っておられる方です。

イエス様は、まさに人となられた神ご自身です。そして、イエス様が来られたとき、神様は私たちにご自身を現されました。

それだけではありません。イエス様を通してこそ、私たちは自分の罪から救われ、永遠のいのちにあずかるのです。

これこそが、クリスマスの意味です。

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テモテへの手紙第ー

福音の不思議さ

私はクリスマスが大好きです。それは、一年のうちで最も好きな季節です。イエス様がこの世に来られたという出来事は、まさに驚くべきことです。

けれども、私たちはその出来事を、当たり前のこととして受け止めてしまってはいないでしょうか。その出来事の不思議さについて、どれほど深く思い巡らしているでしょうか。

パウロは、その不思議さをよく理解していました。彼はこう語っています。

だれもが認めるように、この敬虔の奥義は偉大です。(テモテへの手紙第一3:16a)

敬虔の奥義。

パウロの時代、多くの人々は、敬虔の鍵は自分自身の努力にあると考えていました。彼らは、律法の実行や禁欲的な生活を通して敬虔になれると信じていたのです。また他の人々は、敬虔の奥義は、系図や想像の物語の中に見出されると考えていました(1:4)。

しかし、本当の敬虔は、宗教的な規則や自己修練によって生まれるものではありません。むしろ、それはイエス様とその十字架の働きによってのみ生じるのです。

パウロは、次のように記しています。

「キリストは肉において現れ、霊において義とされ、御使いたちに見られ、諸国の民の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」(16b)

神様は赤ちゃんとしてこの世に来られました。この世界を創造された神、自らの言葉によってすべてを保っておられる神、この宇宙の王であり源である方が、赤ちゃんとして来られたのです。

イエス様は、大工の子として育てられました。養父ヨセフが亡くなると、イエス様はその家族を支える責任を担われました。

その後、イエス様は家を離れ、ご自身の公の働きを始められました。福音を宣べ伝え、神様がどのような方であるかを人々に教えられ、また、御国の力を現されました。悪霊を追い出し、人々を癒し、死者たちをも復活させました。

群衆は、イエス様を王として迎えようとしました。けれどもそのわずか一週間後、彼らはイエス様を十字架につけてしまいました。

しかし、御霊によってイエス様は復活され、イエス様が力ある神の御子であることが証しされました。天使たちは復活の知らせを弟子たちに伝え、イエス様ご自身も彼らに現れ、その後、天に上げられたのです。

その後、弟子たちがその良い知らせをこの世界に伝えたことによって、今もなお、イエス様の御名は全地に宣べ伝えられ、多くの人々がイエス様を信じるようになっています。

この福音を通して、人々は神様に義と認められます。イエス様を復活させた神様の力によって、彼らの人生は変えられていくのです。

これこそが、福音の不思議さです。そしてまた、それがクリスマスの不思議さでもあります。

私たちが神様の教会として、真理の柱と土台となりますように。 その真理を、この死につつある希望のない世界に向かって、はっきりと伝えていきましょう。

私たちの心が鈍くならないように。この福音を、決して当たり前のものとして受け止めてしまわないように。

あなたはどうでしょうか。あなたは今もなお、福音を不思議に思っていますか。

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使徒の働き

もう一つのクリスマス

2000年前、人々は最初のクリスマスを祝いました。

けれども、私たちクリスチャンは、もう一つのクリスマスを待っています。

最初のクリスマスの日、イエス様は赤ちゃんとしてこの世に来られました。そして、イエス様の目的は、十字架で私たちの罪のために死ぬことでした。イエス様が私たちの罰を受けてくださったので、今は天の父が私たちを赦してくださいます。

しかし、パウロによれば、イエス様はもう一度来られます。今度は、この世を裁くために来られます。

パウロはこう言いました。

なぜなら、神は日を定めて、お立てになった一人の方により、義を持ってこの世界をさばこうとしておられるからです。

神はこの方(イエス)を死者の中からよみがえらせて、その確証をすべての人にお与えになったのです。(使徒の働き17:31)

イエス様を拒絶したすべての人々は、永遠に罰を受けます。

しかし、イエス様を受け入れたすべての人々は、この砕かれた世界から救い出され、新しくされます。

へブル人への手紙の著者はこう言いました。

そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。(へブル人への手紙9:27-28)

あなたは、イエス様の再臨に向けて準備ができていますか。どのように備えるべきでしょうか。

パウロはアテネの人々に語りかけ、私たちにもこう言います。

。。。今はどこででも、すべての人に悔い改めを命じておられます。(30)

「悔い改め」とは、これまで歩んできた方向から正反対の道へと進むことを意味します。つまり、自分の道ではなく、神様の道を歩み始めることです。自分自身を頼るのではなく、イエス様に信頼し始めることです。

そうすれば、「次のクリスマス」が来たとき、あなたは準備万端です。

あなたは、すでに準備ができていますか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ1章

神は人間となられた時

それでは、新約聖書を始めましょう。

福音書について書くとき、旧約聖書について書いた時と同じように、年代順に書きます。ですから、マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書の順番ではなく、それぞれの福音書に記載されている話を年代順に書いていきます。

したがって、最初にマタイの福音書から始めるわけではありません。むしろ、ヨハネの福音書から始めます。なぜなら、ヨハネ1章に記されている話は、イエス様がこの世に来られる前の話だからです。

ヨハネはこう記しました。

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。(ヨハネの福音書1:1)

ヨハネが「言葉」と言う時、それはイエス様のことを指しています。つまり、時間と空間が創造される前から、イエス様はすでに存在しておられたのです。なぜなら、イエス様は永遠の存在であられるからです。

では、なぜヨハネはイエス様を「言葉」と呼んだのでしょうか。

ユダヤ人の考えでは、「言葉」とは「神の知恵」を意味します。

一方、ギリシャ人の考えでは、「言葉」は「神の思い」または「神の理」を意味します。

彼らに「どうしてこの世界がこれほど整然と造られているのでしょうか」と訊けば、その答えは「神様の理によるから」となるでしょう。

したがって、ヨハネがイエス様を「言葉」と呼ぶ時、それはイエス様が神の知恵であり、また神の理であるということを意味しています。

さらに、「言葉」という名前について考えてみましょう。

私たちは、どのようにして人を知ることができるのでしょうか。言葉を通して、その人を知ることができます。その人が全く話さず、何も書かなければ、ある程度まで知ることはできますが、限界があります。

けれども、その人が話し始めると、私たちはその人の考え方を知ることができます。そして、その人の知恵から学ぶこともできます。しかし、最も重要なのは、言葉を通じてその人の性格や心を知ることができるという点です。

同じように、イエス様は私たちに対する神様の「言葉」です。イエス様を通して、私たちは真に神様を知ることができます。どうしてでしょうか。

二つの理由があります。

一つ目は、始めからイエス様が「初めに神とともにおられた」ということです(1:2)。その意味は、イエス様と神には親しい関係があったということを示しています。

それだけではなく、イエス様ご自身が神であるということです。それが二つ目の理由です。14節によれば、イエス様は人となり、私たちの間に住まわれました。つまり、神が人間となられたのです。

キリスト教には難しい教えがあります。それは「三位一体」という概念です。それはどういう意味でしょうか。

父なる神がおられます。そして御子(イエス様)なる神がおられます。さらに聖霊なる神がおられます。

父は御子ではありません。御子は聖霊ではありません。聖霊は父ではありません。けれども、神が3つおられるわけではありません。神は唯一の存在です。

それは人間の理解を超えた偉大な真理です。人間の観点では、三人は三人です。しかし神様の場合、父と御子と聖霊は一つの神として存在されています。それが聖書の教えです。

実のところ、もし私たちが神様を完全に理解できたなら、それは少し奇妙なことだと思います。もし偉大なる神をすべて説明できたなら、おそらく私たちは自分の想像から神様を作り出したのではないかという疑いが出てくるでしょう。

けれども、私たちはこの三位一体の神を完全に理解することも、説明することもできません。ある程度までは理解できますが、そのすべてを把握することはできません。

しかし、イエス様のおかげで、私たちは神様についてさらに理解することができるのです。2000年前にイエス様が生まれた時、私たちは初めて、自分の目で神を見ることができました。

ヨハネはこう記しました。

私たちはこの方(つまり、イエス様)の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(14)

地上を歩かれ、また語られた時、イエス様は神様を表されました。なぜなら、イエス様は人となられた神だからです。イエス様を通して、私たちは神様がどのような方であるかを知ることができます。

だから、ヨハネはこう記しました。

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。(1:18)

ギリシャ語の文字通りに、イエス様は神様を説明し、また神様を解釈されました。イエス様は父である神の通訳のような存在です。

この記事を書いている現在、もうクリスマスが近づいています。まだ11月ですが、街にはいろいろなクリスマスの飾りが見られます。

けれども、クリスマスの本当の意味を心に留めておきましょう。私たちは神様が人となられたことを祝うのです。それがなぜ重要なのでしょうか。それは、その奇跡によって、神様がご自身を明らかにされたからです。

目に見えない神様を知りたいと思いますか。その飼葉おけをご覧ください。イエス様において、神様の知恵、力、栄光のすべてを見ることができるのです。

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エレミヤ書

全ての国民が王として認める方

このブログを英語で書いた時、クリスマス・イブでした。

クリスマスの時、多くの人々はイエス様について考えます。けれども、イエス様について考えた時、どのようなイメージを見るのでしょうか。

クリスマスの時、多くの人々はイエス様を飼い葉おけに寝ておられる可愛い赤ちゃんとして考えます。彼らは、そのイエス様が好きです。

なぜでしょうか。そのイエス様は彼らから何も要求されないからです。イエス様はただ寝ておられるだけです。

しかし、いつかの日、

イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリピ2:10ー11)

その日に、

[主]のもとに、諸国の民は地の果てから来て言うでしょう。

「私たちの先祖が受け継いだものは、ただ偽るもの、何の役にも立たないむなしいものばかりだった。

人間は、自分のために神々を造れようか。そんなものは神ではない」と。(エレミヤ16:19ー20)

ある人々は喜んでそのことを告白します。けれども、ある人々は苦しんで泣きます。彼らはその神々を見て、その神々がただの木製か石の偶像であると分かるようになります。

また、ある人々は何を求めていたかを思い出します。つまり、お金や、セックスや、力や、この世の物を求めていましたが、そのものがすべて無駄なものであると分かるようになります。

その日、彼らはイエス様がもう飼い葉おけに寝ておられる赤ちゃんではないと分かるようになります。むしろ、彼らはイエス様が主であり、王であることを認めます。

その時について、神様はこう言われます。

だから、見よ、わたしは彼らに知らせる。今度こそ彼らに、わたしの手と、わたしの力を知らせる。

彼らは、わたしの名が主であることを知る。(21)

あなたはどうでしょうか。イエス様について考えた時、どのようなイメージが思い浮かぶでしょうか。ベツレヘムの飼い葉おけに寝ておられる赤ちゃんを見るでしょうか。

それとも、あなたの主であり王であるお方を見るでしょうか。

イエス様がこの世に戻られる時、あなたはひれ伏して、愛を持って、「イエスは主です」と言うでしょうか。

それとも、苦々しい心を抱きながら、その言葉を言うでしょうか。

どうか、イエス様を飼い葉おけに寝ておられる赤ちゃんとしてではなく、あなたの主であり、王である方として知ることができますように。