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サムエル記第一のデボーション

忘れないで

ヤベシュ・ギルアデの住民は、ペリシテ人がサウルに行った仕打ちを聞いた。

そこで勇士たちはみな立ち上がり、夜通し歩いて行き、サウルの死体と息子たちの死体をベテ・シャンの城壁から取り下ろし、ヤベシュに帰って来て、そこでそれらを焼いた。 (サムエル記第一31:11~12)

ヤベシュ・ギルアデの住民であることを忘れるのは容易なことでしょう。なぜ彼らはそのような行動を行ったのでしょうか。

それは、サウルが彼らの都市を救ってくれたからです。(サムエル記第一11章)

彼らはそれを決して忘れることはありませんでした。

同じように、私はイエス様が十字架でしてくださったことを決して忘れたくありません。むしろ、いつも感謝の心を保ち、イエス様に仕えたいと願っています。

今朝、たまたま、詩篇86篇も読みましたが、ヤベシュ・ギルアデの住民の話のゆえに、ダビデの言葉は私の心に深く響いたのです。

わが神主よ、私は心を尽くしてあなたに感謝し
とこしえまでもあなたの御名をあがめます。

あなたの恵みは私の上に大きく
あなたが私のたましいを
よみの深みから救い出してくださるからです。(詩篇86:12~13)

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サムエル記第一のデボーション

敬うべき神

サウルは言った。「私は困りきっています。ペリシテ人が私を攻めて来るのに、神は私から去っておられます。預言者によっても、夢によっても、もう私に答えてくださらないのです。。。」

サムエルは言った。。。「あなたが【主】の御声に聞き従わ(なかったからだ。」(サムエル記第一28:15、18)

天のお父さん、あなたは私の願いをかなえる単なるジーニーではありません。

あなたは私に操られる神ではありません。

あなたは敬い、従うべき神なのです。

サウルはその真理を決して学びませんでした。 むしろ、彼は自分の耳、さらに心をあなたに閉じてしまったのです。

だから最終的に、あなたは彼に語られなくなったのです。

どうか、私がそのようにならないように。 私がいつも柔らかい心と、あなたに傾いている耳を保つことができるようにしてください。

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些細なこと?

後になってダビデは、サウルの上着の裾を切り取ったことについて心を痛めた。(サムエル記24:5)

サウルの上着の裾を切り取ったことで、ダビデの心がどれほど痛んだかに私は驚きました。

その代わりに、ダビデはサウルを殺すこともできたのです。それと比べると、ダビデがしたことは些細な罪ではないでしょうか。

それでも、その「些細な罪」でさえ、ダビデの心を痛めました。

それを読んで、私は自問しました。

「些細な罪のために自分の良心が痛むとき、私はダビデと同じように反応するだろうか。」

私には、些細な罪のために言い訳をするのは容易なことです。

しかし、神様の心にかなう人とは、大きなことだけではなく、小さなことにおいても神様を喜ばせることを意味します。

私の人生の隅々まですべてを神様の支配下に置き、神様に捧げていないものは何一つあってはなりません。

それが、私の祈りです。

主よ、私の人生にあなたの御国が来ますように。御心が天で行われるように、私の人生の隅々までにも行われますように。

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愛するものからの傷

サムエル記第一19〜20章を読んだとき、私はサウルがどのように感じたかを思い巡らしていました。

おそらく、サウルは自分の子供たちに裏切られたと感じたでしょう。なぜなら、彼らはサウルの見方ではなく、ダビデの見方だったからです。そのことによって、サウルは深く傷ついたのです。

しかし、悪かったのは彼らではなく、サウル自身でした。

ヨナタンの言葉はサウルの心を刺しましたが、もしその言葉に耳を傾けていたなら、サウルは癒しを知ることができたでしょう。でも、残念ながら、彼は破滅に至る道を歩み続けました。

私はサウルほどではないと思っていますが、頑なになることがあります。それでも、そのような態度を避けたいのです。

むしろ、忠実な友人の言葉に心を開いたままでいたいと願います。たとえその言葉が痛くても、受け入れたいのです。(箴言27:5〜6)

特に、イエス様の言葉に心を開き続けたいです。なぜなら、イエス様は私のもっとも忠実な友だからです。

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やめよ。知れ。わたしこそ神。

サムエル記第一19章を読んだとき、私は詩篇第46篇との関係に気付きました。

サウルから逃げたとき、ダビデは詩篇46篇の詩人の言葉の真実さを、身をもって学びました。

神はわれらの避け所また力。
苦しむときそこにある強き助け。(詩篇46:1)

その一方で、神様はサウルに何を思い知らせようとされたのでしょうか。もしかすると、神様はこう語ろうとされたのかもしれません。

[わたしと戦うことを]やめよ。知れ。
わたしこそ神。

わたしは国々の間であがめられ
地の上であがめられる。(詩篇46:10)

その日、神様はサウルを低くされました。それでも、サウルは神様と戦い続けていました。

もしサウルがその戦いをやめていたなら、神様の平和を知っていたでしょう。神様がまことに私たちの避け所また力であることを、彼も知るようになっていたでしょう。

けれでも、彼は、神様と戦い続け、恐れに囚われたまま生きていました。そのため、彼は酷い罪を犯し、最終的に滅びてしまったのです。

サウルの話を読んだとき、私はヤコブの話を思い出しました。ヤコブも、神様と戦ったことがありました。(創世記32:24~31)

しかし、サウルとは異なり、ヤコブはその戦いをやめ、神様に従おうとしました。その結果、彼は平安を見出しました。

あなたはどうですか。あなたはまだ神様と戦い、自分の道を歩んでいるでしょうか。

それとも、神様を見上げて、こう言いますか。「あなたは私の神です。私の良い王です。あなたを信頼します。」

そうすれば、あなたはダビデと詩人とともに学びます。

万軍の【主】はわれらとともにおられる。
ヤコブの神はわれらの砦である。(詩篇46:11)

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サムエル記第一のデボーション

むなしい礼拝、真の礼拝

「どうか今、私の罪を見逃してください。そして、私が【主】を礼拝することができるように、一緒に帰ってください。」

サムエルはサウルに言った。「私はあなたと一緒に帰りません。あなたは【主】のことばを退け、【主】があなたをイスラエルの王位から退けられたからです。」(サムエル記第一15:25~26)

「どうか一緒に帰ってください。私はあなたの神、【主】を礼拝します。」

サムエルはサウルについて帰り、サウルは【主】を礼拝した。(サムエル記第一15:30~31)

天のお父さん、サウルはあなたを礼拝しようとする態度を示しましたが、礼拝の本質をまったく理解していませんでした。

真の礼拝とは、あなたが私たちの心を持っておられることです。それは心の一部ではなく、心のすべてをあなたに捧げることです。

ダビデはそのことをよく理解していました。

まことに私が供えても
あなたはいけにえを喜ばれず
全焼のささげ物を望まれません。

神へのいけにえは砕かれた霊。
打たれ砕かれた心。
神よあなたはそれを蔑まれません。(詩篇51:16~17)

しかし、サウルは、その真理を決して理解することがありませんでした。

あなたがサウルの心を持っておられなかったため、彼の礼拝はむなしいものでした。

主よ、あなたは私の心を持っておられるでしょうか。

私の心のすべてを支配してください。

私の礼拝が、サウルの礼拝のようにむなしいものにならないように。

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自分が良いと思う通りに生きる?

すると兵は言った。「あなたが良いと思うようにしてください。」

しかし祭司は言った。「ここで、われわれは神の前に出ましょう。」(サムエル記第一14:36)

そのことばを読んだとき、昨日の説教を思い出しました。

私の牧師は、すべてのことを神様の支配下に置くことの大切さを語っていました。つまり、好き勝手に行動するのではなく、神様を求め、御心に従うことです。

サウルはそうしなかったため、最終的に彼の統治は崩れてしまいました。

しかし、自分が良いと思う通りに行動してしまうのは自然なことです。好き勝手に時間やお金を費やすのは簡単ですし、自分の目に良く見えることをすぐに選んでしまいます。

けれども、それは神様の支配下に生きている姿ではありません。

だからこそ、神様は私にこう語っておられると思います。「決断するときに、わたしのこころをもっと求めなさい。」

特に、経済のことをもっと考えなければなりません。献金だけでなく、私の経済全体を神様の支配下に置くべきです。自分が良いと思う通りにお金を使うのではなく、神様の御心に従って用いるべきです。

あなたはどうでしょうか。神様はあなたに何を語っておられるでしょうか。

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御霊を消してしまうのか?

サウルがサムエルから去って行こうと背を向けたとき、神はサウルに新しい心を与えられた。これらすべてのしるしは、その日のうちに起こった。

彼らがそこからギブアに行くと、見よ、預言者の一団が彼の方にやって来た。すると、神の霊が彼の上に激しく下り、彼も彼らの間で預言した。(サムエル記第一10:9~10)

御霊はサウルのために素晴らしいことをしてくださいました。

でも、私の心に打たれたのは、サウルの反応です。彼は御霊を消してしまいました。(テサロニケ人への手紙5:19)

彼は文字通り、家に帰って隠れました。

なぜでしょうか。

もしかすると、預言者との霊的な経験によって、サウルは恐れを感じたのかもしれません。

あるいは、周囲の人々が彼をあざ笑ったとき、彼は恥じ入ったのかもしれません。

いずれにせよ、その結果として、サウルは自分の人生における御霊の働きを消してしまいました。

私はそうしたくありません。

むしろ、ペテロと他の使徒たちの模範に倣いたいです。使徒の働き第2章では、御霊は彼らの上に激しく下り、満たしてくださいました。

しかし、サウルとは異なり、使徒たちは大胆に神様のために生き、その導きに従いました。

聖霊様、私はあなたを消してしまうことがあるでしょうか。

あなたが私の心を動かしてくださるとき、それを無視しないように導いてください。むしろ、私の心にあなたが付けてくださった火花を炎に燃え立たせるように、勇気と願いを与えてください。

そして、私が毎日毎日、一瞬一瞬、あなたの導きに従うことができますように。

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ほかに道はない。。。本当に?

ダビデは心の中で言った。「私はいつか、今にサウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地に逃れるよりほかに道はない。(サムエル記第一27:1)

それは本当だったでしょうか。ダビデは本当に他の道がなかったのでしょうか。

もし、以前と同じようにダビデが神様に相談していたら、神様はより良い道を示してくださったかもしれません。

確かに、ダビデはその決断によって、一時的にサウルから逃れることができました。

しかし、そうするために、ダビデはアキシュを欺かなければなりませんでした。その結果、第二十八章で、ダビデがペリシテ人の軍隊と一緒にイスラエルと戦うように頼まれることになりました。(二十八章一節)

時々、私たちは道徳的に問題があることをしなければならないと思ってしまいます。そして、その決断によって、私たちの問題が一時的に解決されることもあるかもしれません。

けれども、ダビデの決断と同じように、私たちの決断はさらに多くの問題や、道徳的に問題がある選択へとつながることがあります。

主よ、私は決して「ほかに道はない」と考えながら決断しないようにしてください。

むしろ、正しい道を教えてください。あなたに喜ばれる道を教えてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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健全な良心を保つ

後になってダビデは、サウルの上着の裾を切り取ったことについて心を痛めた。(サムエル記第一24:5)

私たちの良心によって心が痛むとき、私たちはどうするでしょうか。

神様のみ前に柔らかい心を保つため、良心は罪に対して私たちの防衛最前線です。

しかし、良心を無視すると、その良心は麻痺してしまう恐れがあります。(第一テモテ四:二)

私たちの良心が麻痺してしまった兆候は何でしょうか。以前、ある罪を犯したときには心を痛めたけれど、今はもう気にしなくなることです。

何年か後に、ダビデの良心が麻痺してしまい、預言者ナタンはダビデに面と向かって責めなくてはなりませんでした。そのとき初めて、ダビデは悔い改めて、柔らかい心を取り戻しました。(第二サムエル記11-12章)

私たちが健全な良心を保つように努めましょう。そして、ダビデと一緒に歌いましょう。

だれが 自分の過ちを悟ることができるでしょう。

どうか、隠れた罪から私を解き放ってください。

あなたのしもべを 傲慢から守ってください。それらが私を支配しないようにしてください。

そのとき私は、大きな背きから解き放たれて、全き者となるでしょう。

私の口のことばと、私の心の思いとが 御前に受け入れられますように。主よ、わが岩 わが贖い主よ。(詩篇19:12ー14」

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見捨てられたように感じるとき

「おまえたちのだれも、私のことを思って心を痛めてくれない」(第一サムエル22:8)

これは、サウルが自分の家来たちに語った言葉でした。だれもサウルに謀反を企てていないのに、彼はそう思い込んでいました。

同じ頃、洞窟の中で、ダビデも似たようなことを語りました。

ご覧ください。私の右に目を注いでください。私には、顧みてくれる人がいません。私は逃げ場さえも失って、私のいのちを気にかける人もいないのです。(詩篇142:4)

もちろん、サウルはダビデを殺そうとしていました。けれども、ダビデの言葉も正確ではありませんでした。

ヨナタンはダビデをかばい、彼を守ってくれました。

妻ミカルは命がけで、ダビデをサウルから逃がすように助けました。モアブの王も、ダビデの家族の世話をしてくれました。

さらに、四百人の者たちがダビデとともにいました。

それでも、ダビデは逃走中であり、洞窟に隠れていたため、彼の言葉は誇張された反応のように見えます。

しかし、サウルとは違って、ダビデは主に信頼を寄せました。彼は自分の心を神に注ぎ出し、自分の弱さを認めました。それでも、ダビデはこのように言いました。

私の霊がわたしのうちで衰えはてた時にも、あなたは、私の道をよく知っておられます。(詩篇142:3)

主よ、私はあなたに叫びます。「あなたこそ私の避け所、生けるもの地でもの、私の受ける分。」(詩篇142:5)

正しい人たちは私の周りに集まるでしょう。あなたが私に良くしてくださるからです。(詩篇142:7)

だれもあなたのことを気にかけてくれないと思うでしょうか。ちょっと考え直してみましょう。自分が思っている以上に、人々はあなたを愛しているのです。

さらに、すべての人々があなたを見捨てても、神様は決してそうされません。

神様は私たちの道を知っておられます。神様は私たちの避け所です。神様は私たちに良くしてくださいます。

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神様を拒む者への裁き

サムエル記第一16〜19章では、私たちは三回このような言葉を読みます。「主からの、わざわいの霊が彼をおびえさせた」(16:14、23;18:10;19:9)。

正直に言うと、これらは難しい言葉です。神様は災いの霊を、災いをもたらすために送ることがあるのでしょうか。どうして、良い神、また愛の神がそのようなことをなさることができるのでしょうか。

厳しい答えですが、それは神様の正当な裁きです。サウルは神様をあえて拒んだからです。

けれども、聖書はこの裁きが、悔い改めの最後のチャンスを与えるものであることを示唆しています。

第一列王記22章では、神様はアハブ王に破滅をもたらすために偽りの霊を送りました。それでも、それと同時に、神様はアハブに警告するために預言者を遣わし、悔い改めのチャンスを与えました。

けれども、以前の話と違って(列王記第一21:27〜29)、アハブは悔い改めようとしませんでした(列王記第一22:17〜28)。

新約聖書でも、同じようなことが見られます。パウロは、悔い改めようとしない罪人に関して、こう語っています。

そのような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それによって彼の霊が主の日に救われるためです。(第一コリント5:5)

黙示録では、神様はいろいろな災害を送られます。悪霊によってもたらされる災害もあるようです。

多くの人々が死にますが、それ以上に多くの人々が生き残っていて、悔い改めのチャンスがあります。しかし、彼らは悔い改めようとしません(黙示録9:20〜21)。

そして、第二テサロニケでは、パウロは終わりの日について語っています。人々が騙されて滅びるために、神様は反キリストをこの世に放たれます。

なぜでしょうか。その理由は明確です。

彼らが滅びるのは、自分を救う真理を愛をもって受け入れなかったからです。

それで神は、惑わす力を送られ、彼らは偽りを信じるようになります。

それは、真理を信じないで、不義を喜んでいたすべての者が、さばかれるようになるためです。(第二テサロニケ2:10ー12)

つまり、反キリストとその惑わす力は、人々が真理を愛することを拒否したことに対する神の罰なのです。

神様がサウルやアハブを裁かれたように、終わりの日には、神様は悔い改めることを拒む人々を裁かれるのです。

あなたはどうでしょうか。神様を愛しているでしょうか。真理を愛しているでしょうか。正義を喜んでいるでしょうか。

あなたは、神様にどのように反応するでしょうか。

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神様を求めているのか

すると、兵は言った。「あなたが良いと思うようにしてください。」

しかし、祭司は言った。「ここで、われわれは神の前に出ましょう」(サムエル記第一14:36)

兵の言葉は、士師記の時代のイスラエルの態度に似ていました。その時代、「王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていました」。(士師記21:25)

しかし、サウルは王となり、神様を求める者であるはずでした。(申命記17:18-20)

それなのに、イスラエル人たちはサウルにこう言いました。「あなたが良いと思うようにしてください」。

このことは、サウルの生涯を通じて現れた最大の問題でした。彼は口では「神様を求めたい」と言いましたが、神様を求めることを忘れた時もありました。(36)

また、神様を求め始めたものの、すぐにあきらめてしまった時もありました。(19)

さらに、エフタのように(士師記11:30-31)、神様を求める代わりに、神様を操ろうとして愚かな誓いを立てました。

この話を読んで、私は考えました。「神に対する私の態度はどうなのか?」

決断の時、私は本当に神様を求めているでしょうか。それとも、ただ自分が良いと思うことを行っているだけでしょうか。

私の願いをかなえていただくために、神様を操ろうとしているのでしょうか。

それとも、私は本当に神様に仕え、神様の心に従いたいと願っているのでしょうか。

サウルの何年か後、神様は別の王にこう言われました。

主はその御目をもって全地を隅々まで見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々御力を現してくださるのです。(歴代誌第二16:9)

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プレッシャーがかかる時に

サウルは答えた。「兵たちが私から離れて散って行こうとしていて、また、ペリシテ人がミクマスに集まっていたのに、あなたが毎年の例祭に来ていないのを見たからです。

今、ペリシテ人がギルガルにいる私に向かって下って来ようとしているのに、まだ私は主に嘆願していないと考え、あえて、全焼のささげ物を献げたのです。」

サムエルはサウルに言った。「愚かなことをしたものだ。あなたは、あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。」(サムエル記第一13:11ー13)

私たちの人生がうまくいく時、神様に従うのは簡単なことです。でも、大変な時はどうでしょうか。

試練によって、私たちの心の状態がよく現れます。

私は本当に神様に信頼しているのでしょうか。神様の道が最も良い道だと思っているでしょうか。大変なときに神様に従うことが、私たちの最初の本能となるほどに、それを信じているでしょうか。

それとも、私たちは愚かにも自分の道を行くのでしょうか。

サウルの試練によって、サウルの心が現れました。

私たちの試練によって、私たちの心には何が現れるでしょうか。

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サムエル記第一のデボーション

私の祈り

「主の霊があなたの上に激しく下り、あなたも彼らと一緒に預言して、新しい人に変えられます。

これらのしるしがあなたに起こったら、自分の力でできることをしなさい。神があなたとともにおられるのですから。」

。。。サウルがサムエルから去って行こうと背を向けたとき、神はサウルに新しい心を与えられた。(サムエル記第一10:6ー7、9)

天のお父様、あなたが短い間、一人の人のためにしてくださったことを、今やあなたの教会全体のためにしてくださいました。つまり、あなたが私たちに御霊を与えてくださったことです。(使徒の働き1:8;2:1〜18)

サウルが真実ではなかったので、結局、あなたの御霊は彼から離れ去りました。(第一サムエル16:14)

でも、あなたは真実であり、あなたの恵みによって、私たちを見捨てないと約束してくださいました。(第二テモテ2:13;ヘブル13:5)

だから聖霊様、あなたの民に激しく下り、私たちを新しい人に変えてください。私たちに新しい心を与えてください。私たちを導いてください。この国に触れて救うために、私たちを用いてください。

今日、私たちの愛する人々、同僚、隣人、私たちの周りのすべての人に、あなたの愛で触れるように助けてください。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。