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申命記のデボーション

誰について行っているの?

私は今日、百二十歳だ。もう出入りすることができない。。。

あなたの神、主ご自身があなたに先立って渡って行き、この方があなたの前からこれらの国々を根絶やしにされ、あなたはこれらを占領する。(申命記31:2-3)

あなたの信仰は誰に基づいているのでしょうか。あなたの牧師ですか。お友達ですか。それとも他の教会のリーダーでしょうか。

いつか、その人たちがもはやあなたを支えることができなくなるでしょう。そのとき、あなたの信仰はどうなるのでしょうか。

私は、あなたが神様に完全に目を留め、従うことを願っています。

また、あなたが強くあり、雄々しくあり、神様が導かれる所にはどこでもついて行けるように祈っています。

神様ご自身も、それを望んでおられます。だから、今、そのような信仰を持つことを学びましょう。

自分自身を霊的に養うために、聖書を読み、祈り、神の御声に耳を傾け、神を恐れ、そして神に従うことを身につけていきましょう。

あなたはどうでしょうか。

そのようなことを学び、実践しているでしょうか。

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申命記のデボーション

イエス様に聞き従わなければなりません!

あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。

あなたがたはその人に聞き従わなければならない。(申命記18:15)

ペテロによれば、モーセはイエス様を指していました。(使徒の働き3:19-26)

もしかすると、ペテロは自分、ヤコブ、ヨハネに対する天の父の戒めを思い出していたのかもしれません。

これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け。(マルコ9:7)

正直に言うと、私はまだイエス様の言われることに耳を傾けることを学んでいる途中です。

しかし、キリストの弟子として、私たちはこの世の流れに単に従うべきではありません。

モーセもイスラエル人たちに同じような警告を与えました。(申命記18:9-14)

むしろ、私たちはイエス様に聞き従わなければなりません。

日々の生活で決断をするとき、あなたは誰に聞き従っていますか。

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申命記のデボーション

神様のことをどう考えているか

主は私たちを憎んでおられるので、私たちをエジプトの地から連れ出して、アモリ人の手に渡し、私たちを根絶やしにしようとしておられるのだ。(申命記1:27)

イスラエル人たちの言葉を読んだとき、私が気づいたのは、私たちが神様のことをどう考えているのかが、神様との関係に関わるということです。

イスラエル人たちは、神様が彼らを憎んでおられると思いました。なぜなら、神様が彼らのために戦ってくださったことを忘れてしまったからです。

イスラエル人たちが砂漠を渡るとき、神様が彼らを抱いてくださったことを忘れてしまいました。

また、神様が昼も夜も彼らを守ってくださったことを忘れてしまいました。(30ー33節)

そういうわけで、彼らは、神様が与えてくださった良い地に入ることを拒みました。かえって、彼らはエジプトの奴隷生活に戻ろうと思いました。(民数記14:3ー4)

「神様は良い方です」と「神様は私を愛しておられる」と言うのは簡単なことです。

でも、私たちはその真理を本当に信じているでしょうか。

すべてにおいて神様に従うほどに、その真理を信じているでしょうか。

私を初めとして、私たち皆は訊かなければなりません。

「神様、ほんとうのところ、私はあなたのことをどう考えているのでしょうか。」

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民数記のデボーション

 神様の信頼を裏切る

あなたがたはわたしを信頼せず、イスラエルの子らの見ている前でわたしが聖であることを現さなかった。

それゆえ、あなたがたはこの集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。(民数記20:12)

今朝、私はモーセとアロンへの神様の御言葉を反芻していました。

「あなたはわたしを信頼してくれなかった。」

神様の戒めを信じて従う代わりに、モーセは勝手に行動しました。

そうすることで、イスラエル人たちが自分の文句と反抗的な態度で神様を敬わなかったのと同じように、モーセも神様を敬いませんでした。

申命記では、モーセは神様の御言葉をこのように言い換えました。

「あなたは私の信頼を裏切りました。あなたは私に不誠実でした。」(申命記32:51)

神様は、人が自分の友達と語るように、顔と顔を合わせてモーセと語られました。(出エジプト記33:11)

でも、モーセはその信頼を裏切りました。

天の父は、どれだけモーセの裏切りに心を痛められたでしょうか。

天のお父さん、私はモーセのように、何度あなたを信じなかったことでしょうか。

あなたの戒めに信じて従う代わりに、私はどれだけ勝手に行動するでしょうか。

あなたは、恵みによって私を救ってくださいました。その恵みによって、私をご自分のものとし、私を「友達」と呼ばれます。

あなたの信頼を裏切ったと知りながら、あなたの目を見たくありません。

私がいつも、あなたを聖なる方としてあがめるように。

私のすべての言葉と行動によって、あなたにふさわしい名誉をお与えするように。

そして、回りの人々が私を見るとき、彼らがあなたを見ることができるように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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民数記のデボーション

 私があなたをあがめるように

聞け、わたしのことばを。

もし、あなたがたの間に預言者がいるなら、主であるわたしは、幻の中でその人にわたし自身を知らせ、夢の中でその人と語る。

だがわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者。(民数記12:6ー7)

ですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちが告白する、使徒であり大祭司であるイエスのことを考えなさい。

モーセが神の家全体の中で忠実であったのと同様に、イエスはご自分を立てた方に対して忠実でした。

家よりも、家を建てる人が大いなる栄誉を持つのと同じように、イエスはモーセよりも大いなる栄光を受けるにふさわしいとされました。。。

モーセは、後に語られることを証しするために、神の家全体の中でしもべとして忠実でした。

しかしキリストは、御子として神の家を治めることに忠実でした。そして、私たちが神の家です。。。(ヘブル人への手紙3:1ー6)

イエス様、モーセは天の父の家全体の中で、しもべとして忠実でした。だから、彼は栄誉や栄光を受けるにふさわしい人でした。

でも、あなたは天の父の家全体の中で、御子として忠実でした。そういうわけで、モーセよりも、あなたは大いなる栄誉と栄光を受けるにふさわしい方です。

だから、私の言動によって、あなたがあがめられるように。あなたは、私の服従と敬いにふさわしい方です。

私があなたに従わないとき、あなたを敬わないとき、赦してください。

そんなときにも関わらず、あなたが私の大祭司として、私のために忠実にとりなし続けてくださり、感謝します。

あなたの素晴らしい恵みを感謝します。

あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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民数記のデボーション

烏合の衆の一員?

彼らのうちに混じって来ていた者たちは激しい欲望にかられ、イスラエルの子らは再び大声で泣いて、言った。

「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、玉ねぎ、にんにくも。

だが今や、私たちの喉はからからだ。全く何もなく、ただ、このマナを見るだけだ。」(民数記11:4-6)

「混じって来ていた者」と訳された言葉は、かなり珍しくて、上記の箇所にしか出てきません。

ある英訳では、その言葉は「riffraff」、つまり、「烏合の衆」と訳されました。

もしかしたら、彼らはイスラエル人ではなかったかもしれません。でも、イスラエル人がエジプトから逃げた時、その人たちはイスラエル人と一緒に行きました。

とにかく、はっきりしているのは、彼らはいつも文句を言い、周りの人々に影響を及ぼし、モーセの重荷になっていたということです。

その反面、イスラエルの民の70人は御霊に満たされ、モーセを支えました。モーセはヨシュアに、「イスラエル人の皆が御霊に満たされるといいのに」と言いました。

数世紀後、神様はペンテコステでその願いをかなえられました。(使徒の働き2:14~18)

今日の箇所を読んだとき、私はこう考えました。

「烏合の衆の一員になりたくない。私はいつもぶつぶつ不平を言って、悪い影響を周りの人々に与えたくない。私はリーダーたちの重荷になりたくない。」

むしろ、私は御霊に満たされることを望みます。教会の内でも外でも、周りの人々に触れ、祝福をもたらすために、神様に用いられることを願います。

あなたはどうですか。

神様はあなたに御霊を与えてくださいました。

御霊に満たされ、導かれている人生を送っているでしょうか。

もしくは、烏合の衆の一員のように生きているでしょうか。

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出エジプト記のデボーション

私たち皆が必要とするもの

すると、モーセのしゅうとは言った。

「あなたがしていることは良くありません。あなたも、あなたとともにいるこの民も、きっと疲れ果ててしまいます。

このことは、あなたにとって荷が重すぎるからです。あなたはそれを一人ではできません。」(出エジプト記18:17ー18)

「あなたはそれを一人ではできません。」

アマレク人との戦いの直後、イテロがその言葉をモーセに言ったということは興味深いです。

その戦いで、イスラエル人のためにとりなしているとき、モーセは文字通り自分の手を上げ続けることができませんでした。そのため、勝利を収めるまで、アロンとフルはモーセを支えてくれました。(出エジプト記17:8~16)

そして、そのあと、イテロはモーセに「あなたは神様の仕事を一人ではできません」と言いました。

私たち皆はそれを心に留めておかなくてはなりません。私たちの牧師やクリスチャン・リーダーたちがスーパー・クリスチャンに見えるかもしれませんが、一人で神様の仕事をすることはできません。

もちろん、彼らには私たちの励ましと支援が必要です。でも、私たちも自分の役割を果たさなくてはなりません。神様は私たちそれぞれに、人々に仕えるための賜物を与えてくださいました。

ミニストリー、奉仕はリーダーだけの仕事ではありません。ミニストリーはすべてのクリスチャンの仕事なのです。(エペソ4:11~16)

でも、リーダーたちだけではなく、私たち皆には、支援や励ましが必要です。家族や回りの人々に対する私たちの奉仕が大変になる時もあります。

私たちの日常生活も、大変になるときがあります。だから、一人でこのクリスチャン生活を送ろうとしないようにしましょう。

そうすれば、私たちの重荷は軽くなり、私たちは立ち続けることができます。(出エジプト記18:22~23)

また、パウロの言葉を心に留めておきましょう。

互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。(ガラテヤ6:2)

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出エジプト記のデボーション

この世が知るように

あなたはわたしの命じることを、ことごとく告げなければならない。あなたの兄アロンはファラオに、イスラエルの子らをその地から去らせるようにと告げなければならない。。。

わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエルの子らを彼らのただ中から導き出すとき、エジプトは、わたしが主であることを知る。(出エジプト記7:2,5)

モーセとアロンは、ファラオとエジプト人全員が神様が主であることを知るように、神様の言葉を告げなければなりませんでした。

同じように、私たちの周りの人々が神様が主であることを知るために、私たちも神様の言葉を告げなければなりません。

しかし、モーセとアロンの言葉がほとんど裁きの言葉であったのに対し、私たちの言葉は和解の言葉なのです。

パウロはこう言いました。

これらのことはすべて、神から出ています。

神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。

すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。

こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるのですから、私たちはキリストに代わる使節なのです。

私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。

神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。(第二コリント5:18ー21)

だからこそ、周りの人々が神様が主であることを知り、神様と和解することができるように、神様の言葉を告げましょう。

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出エジプト記のデボーション

私は何者でしょうか

神はモーセに語り、彼に仰せられた。

「わたしは主(原語:ヤハウェ)である。

わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神(原語:エル・シャダイ)として現れたが、主(原語:ヤハウェ)という名では、彼らにわたしを知らせなかった。(出エジプト記6:3)

天のお父さん、あなたはエル・シャダイ、全能の神です。あなたはヤハウェです。

あなたはアブラハム、イサク、ヤコブとともにおられた神様です。

あなたはモーセとともにおられた神様です。

そして、あなたは私とともにおられる神様です。

私は何者でしょうか。

どうして、あなたは私を愛し、心に留めてくださるのでしょうか。

どうして、私のうめきを耳に留めてくださるのでしょうか。

どうして、私を救い、購ってくださるのでしょうか。

どうして、私をご自分のものとしてくださるのでしょうか。

どうして、私を御国に導いてくださるのでしょうか。

どうして、私の神となり、あなた自身を私に現してくださるのでしょうか。

イエス様において、あなたはアブラハム、イサク、ヤコブ、モーセでさえ知らなかった方法で、私にご自身を現してくださいました。

だからこそ、苦しむときにも、私はあなた信頼することを選びます。

アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてモーセの時代に、あなたは忠実でおられました。今もあなたは忠実であり、そして永遠に、あなたは忠実な神様なのです。

アバ、あなたを愛しています。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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出エジプト記のデボーション

 天のお父さん、私はあなたを本当に信じるでしょうか?

モーセは最初から、イスラエル人たちに神様の言葉のすべてを伝えたでしょうか。つまり、ファラオの心が頑なになることまで伝えたでしょうか。

それとも、モーセはただ「神様はあなたを救い出すと約束された」とだけ伝えたのでしょうか。

モーセ自身は、神様の警告を真剣に受け止めていたでしょうか。

ファラオが神様の言葉を拒絶し、イスラエル人たちがモーセに怒ったとき、モーセの心はその現実に備えられていなかったように見えます。

では、私たちはどうでしょうか。神様を信じるでしょうか。

イエス様が「世にあっては苦難があります」と警告されたとき、私たちはその言葉を信じるでしょうか。(ヨハネ16:33)

パウロが「終わりの日には困難な時代が来る」と警告したとき、その言葉を本当に信じるでしょうか。(第二テモテ3:1~5)

ペテロが同じことを語ったとき、私たちはその言葉を信じるでしょうか。(第一ペテロ4:12)

そして、私たちが実際に試練に直面したとき、神様が良い方であること、イエス様がすでに世に勝利されたこと、神様がご自分の約束を守られること、そして最終的に私たちを救ってくださることを、信じ続けることができるでしょうか。

私が自問しているのは、そして私たち皆が自ら問うべき問いは、「神様、私はあなたを本当に信じているのでしょうか」ということです。

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出エジプト記のデボーション

天の父のみ心を持つ

こうして日がたち、モーセは大人になった。彼は同胞たちのところへ出て行き、その苦役を見た。

そして、自分の同胞であるヘブル人の一人を、一人のエジプト人が打っているのを見た。。。

それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエルの子らは重い労働にうめき、泣き叫んだ。

重い労働による彼らの叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。

神はイスラエルの子らをご覧になった。神は彼らをみこころに留められた。」(出エジプト記2:11、23ー25)

モーセは不完全な人でした。それでも、神様はモーセをご覧になったとき、ご自分と同じような心を持った人をご覧になりました。

モーセは、周りの人々のうめきや苦しみをただ見ていたのではなく、その人を助けたいと思いました。

だから、自分の民の苦しみを見たとき、モーセはただ黙って見ていることができませんでした。

もちろん、モーセのやり方は間違っていましたが、自分の兄弟たちを助けたいと思ったその心は、間違っていませんでした。

そのあと、いじめられていた女性の羊飼いたちを見たとき、先の失敗にも関わらず、モーセはただ黙って見ていることができませんでした。

そのように、神様もご自分の民の苦しみを見たとき、ただ黙って見ておられることはできませんでした。神様は彼らをあわれみ、助けたいと思われました。

だから、神様はご自分と同じような心を持った人を選び、遣わされました。

今なお、神様はそのような人を選び、遣わされます。

私はそのような人になりたいです。あなたはどうですか。

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使徒の働きのデボーション

神の目にかなった、美しい子

モーセが生まれたのは、このような時でした。彼は神の目にかなった、かわいい子。。。(使徒の働き7:20)

「彼は神の目にかなった、かわいい子です。」

「かわいい」、または、「美しい」という言葉は新約聖書には二回だけ登場します。どちらの箇所も、モーセに関する記述です。

おそらく、著者たちは旧約聖書のギリシャ語訳を用いて、出エジプト記を引用したのでしょう。出エジプト記2章2節には、モーセの両親が彼を「美しい子」だと見たことが記されています。

もちろん、多くの親は自分の子どもを「かわいい」「美しい」と感じるでしょう。

しかし、ルカによれば、神様もモーセをそのように見ておられました。

とはいえ、神様はモーセの外見だけをご覧になっていたわけではないでしょう。神様は、愛と恵みのまなざしでモーセをご覧になっていたのだと思います。

神様はモーセのすべてをご存じでした。神様はモーセの弱さと劣等感をよく知っておられました。(出エジプト記4:10)

神様はモーセの短気を知っておられました。神様は、モーセが人を殺すことさえ知っておられました。(出エジプト記2:12)

それでも、神様は「この子は美しい」と言っておられました。

私にとって驚くべきことは、神様が私の弱さと失敗と罪を見て、それでも「あなたを選ぶ。あなたは私の目には美しい子です」と言われることです。

それは、恵みに満ちたまなざしです。

それは私たちの天のお父さんの目です。

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民数記のデボーション

イエス様の声を聞いて、従う

(モーセ)はわたしの全家を通じて忠実な者。彼とは、わたしは口と口で語り、 明らかに語って、謎では話さない。 彼は主の姿を仰ぎ見ている。

なぜあなたがたは、わたしのしもべ、 モーセを恐れず、非難するのか。(民数記12:7ー8)

言うまでもなく、神様はモーセに対するアロンとミリアムの反抗的な態度に怒られました。

しかし、へブル書の著者は興味深い方法で、その出来事を私たちに当てはめています。

モーセは、後に語られることを証しするために、神の家全体の中でしもべとして忠実でした。

しかしキリストは、御子として神の家を治めることに忠実でした。そして、私たちが神の家です。。。

ですから、聖霊が言われるとおりです。

「今日、もし(イエスの)御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。 荒野での試みの日に 神に逆らったときのように。」(へブル3:5ー8)

イスラエルの民はモーセに従わなければなりませんでした。私たちがイエス様に従わなければならないことは、なおさらです。

モーセは忠実なしもべにすぎませんでした。

イエス様は忠実な御子です。さらに、イエス様は私たちの使徒であり、大祭司です。(へブル3:1)

ですから、頑なな心を持たず、柔らかい心をもって、イエス様の声を聞き、従いましょう。

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出エジプト記のデボーション

怒りを覚えるとき

こうして、モーセは怒りに燃えてファラオのところから出て行った。(出エジプト記11:8)

その言葉は私の印象に残りました。

どうしてモーセはそんなに怒りを覚えたのでしょうか。

たぶん、彼はファラオの頑なな心に対して怒りを覚えたのでしょう。また、モーセは、ファラオが神様の民をどのように酷使したかについても怒ったのかもしれません。

モーセの怒りは清いものだったでしょうか。

それは少し微妙です。モーセは人間でしたから。

自分の怒りによって、モーセが困難に陥ったこともありました。(出エジプト記2:11–12、民数記20:10–12)

それでも、クリスチャンの生活には、怒りの余地があります。特に、人々の頑なな心を見るとき。また、この世界の中の不正を見るときです。

イエス様も怒りを覚えられたことがありました。(マルコ3:5、11:15–17)

しかし、注意しなくてはならないのは、私たちがその怒りを感じた後に、どうするかということです。

パウロはこう言いました。

怒っても、罪を犯してはなりません。

憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。

悪魔に機会を与えないようにしなさい。(エペソ4:26ー27)

私たちが覚えておかなくてはならないのは、人々の頑なな心やこの世の中の不正の中で、神様が計画を持っておられるということです。その最終的な計画は、人々を救うことです。

ファラオの頑なな心は神様の計画の一部であり、神様はイスラエル人の救いをもたらされました。

また、ユダヤ人の指導者たちの頑なな心によって、イエス様が十字架にかけられ、神様は私たちの救いをもたらされました。

だから、怒りを覚えるとき、私たちはどうすればよいでしょうか。

怒ってもかまいません。でも、罪を犯してはいけません。サタンに私たちを操る機会を与えてはいけません。

人々の頑なな心のために罵ることは、神様の救いをもたらすはずがありません。

世界の中の不正を呪うことも、神様の救いをもたらすはずがありません。

むしろ、神様の愛によって人々に触れることによって、私たちは神様の救いを目にします。

その救いを見たいなら、私たちはイエス様の恵みとまことの模範に従わなくてはなりません。

イエス様は真理を曲げられたことがありません。むしろ、イエス様は人々の罪を指摘されました。(ヨハネ4:16–18)

イエス様は、神様の言葉に関する人々の無知を指摘されました。(マタイ22:29)

人々が神様の言葉を曲げたとき、イエス様はそれをも指摘されました。(マタイ5:43–44)

それでも、イエス様は罪人の仲間と呼ばれました。(マタイ11:19)

私たちはどうでしょうか。

私たちも罪人の仲間と呼ばれるでしょうか。

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出エジプト記のデボーション

神の揺るぐことのない計画

それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてある事を彼らに説き明かされた。(ルカ24:27)

モーセの書について話されたとき、イエス様は、モーセの人生がどのようにイエス様の人生の伏線となったかを説明されたのでしょうか。

イエス様のように、モーセは救い主となるために生まれました。

イエス様のように、王の命令によって、生まれたばかりのモーセは命の危険にさらされました(マタイ2:8、16)。

イエス様の場合のように、神様の救いの計画が進むように、ある人々は王の命令に従わず、神様に従いました(マタイ2:12–15)。

最近、私はこの言葉を読みました。「神様の贖いの計画は揺るぐことのないものです。」

サタンは、初めからその計画を妨害しようとしました。

アダムとエバがエデンから追い出されて以来、サタンはその計画を妨害しようとしました。そして、十字架でサタンは自分がついに勝ったと思いました。

でも、神様の贖いの計画は揺るぐことのないものです。

イエス様は十字架で死なれましたが、三日目に神様はイエス様を復活させられました。

そして、イエス様の死と復活によって、私たちは赦しと永遠の命を得ました。

今なお、神様の贖いの計画は揺るぐことのないものです。

私たちがどんなに失敗しても、どんなにひどい罪を犯しても、救いようのない人は誰もいません。

それがイースターの希望です。毎日、その希望の上に立ちましょう。

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コリント人への手紙第二のデボーション

神様の栄光を見る

モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」

主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、主の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」

 また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」」(出エジプト記33:18ー20)

その出エジプト記の箇所と第二コリント3章には、深い関係があります。

私たち罪深い人間にとって、神様の栄光は恐ろしいものです。神様が聖なる方であり、人間がそうではないため、人は神様の顔を見ると死んでしまいます。

そのため、神様の栄光が通り過ぎるとき、モーセは岩の後ろに隠れなければなりませんでした(出エジプト記33:21–23)。

また、幕屋や神殿の中には、至聖所の前に垂れ幕がありました。なぜなら、神様が至聖所でご自身の栄光を現されたため、通常は祭司たちでさえ入ることができなかったからです(レビ記16:2)。

一年に一度だけ、宥めの日に大祭司は至聖所に入ることができましたが、そのとき、香を主の前の火にくべて「雲」を作りました。それは、神様の栄光が霞むためです(レビ記16:12–13)。

イスラエル人にとって、神様の栄光によって輝いていたモーセの顔を見るのは、恐ろしいことでした。だから、その栄光が消えていったにもかかわらず、モーセは覆いをかけました(出エジプト記34:29–30)。

しかし、十字架でイエス様が死なれたとき、その垂れ幕は裂かれました。そして、私たちは主に立ち返ると、覆いは取り除かれます。イエス様の顔を見るとき、私たちは神様の栄光を見るのです。

その栄光を見ても、私たちは滅びることはありません。むしろ、私たちは主と同じかたちに姿を変えられていきます。

私たちは罪深い者であるにもかかわらず、神様は私たちを少しずつ変えてくださいます。そして、イエス様がもう一度この世に来られると、私たちはたちまちイエス様に似た者とされます(第一ヨハネ3:2)。

そして、最も素晴らしいことは、モーセの場合は神様の栄光が消えていきましたが、私たちの場合は、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていくということです(第二コリント3:18)。

だから、パウロのように大胆に振る舞いましょう(第二コリント3:13)。

大胆に神様に近づきましょう(ヘブル10:19–22)。

また、大胆に命を与える福音を伝えましょう(第二コリント4:4–6)。

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創世記のデボーション

わずかで、いろいろなわざわいがある

 ファラオはヤコブに尋ねた。「あなたの生きてきた年月は、どれほどになりますか。」

ヤコブはファラオに答えた。「私がたどってきた年月は百三十年です。

私の生きてきた年月はわずかで、いろいろなわざわいがあり、私の先祖がたどった日々、生きた年月には及びません。」(創世記47:8ー9)

ヤコブの言葉を読んで、私はモーセの詩篇を思い浮かべました。

もしかしたら、モーセが詩篇90篇を書いたとき、このヤコブの話を考えていたのかもしれません。

ヤコブは、辛い時も経験しました。ある問題はヤコブ自身のせいで起こりました。例えば、ヤコブが父と兄を騙したことで、さまざまなトラブルがヤコブに降りかかりました。

そのあと、神様はヤコブに騙される痛みを教えられました。ヤコブの息子たちの嘘によって、ヤコブは20年間ヨセフが亡くなったものと思っていました。

ヤコブの人生は、アブラハムやイサクと比べると短いものでした。(創世記25:7、35:28)

しかし、その短い人生の中で、ヤコブはいろいろな試練に臨みました。

モーセの時代には、人間の寿命はさらに短くなっていました。それでも、ヤコブはモーセの言葉に同意したことでしょう。

私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。そのほとんどは労苦とわざわいです。瞬く間に時は過ぎ、私たちは飛び去ります。(詩篇90:10)

しかし、人生の終わりに、ヤコブは神の忠実な愛と恵みを見ました。(詩篇90:14)

神様は、ヤコブが苦しみとわざわいを経験することをお許しになりましたが、ヤコブは自分の人生に神様の御業と威光を見出しました。(詩篇90:16)

また、ヤコブは自分に対する神様の素晴らしい慈愛を見ました。(詩篇90:17)

私たちも旅の途中です。

この世は、私たちの住まいではありません。

この旅は短く、私たちは悲しみや苦労に臨むことがよくあります。

それでも、神様から目を離さず、私たちに対する神の忠実な愛と恵みを覚えていましょう。

そして、毎日、モーセとともに祈りましょう。

どうか教えてください。自分の日を数えることを。 そうして私たちに 知恵の心を得させてください。(詩篇90:12)

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ヨハネの福音書 ヨハネ8章

光と命を与える方

この世では、多くの人々が道に迷っています。つまり、彼らは良い人生や良い結婚、良い仕事、そして何にも増して喜びと平和を求めていますが、なぜかそれらを見つけられません。

アダムとエバがエデンから追い出されて以来、人々はそのように生きてきました。

そして、イエス様は来て、こう宣言されました。

わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。(ヨハネ8:12)

要するに、「良い人生を求めているでしょうか。喜びと平和に満ちている人生を求めているでしょうか。どうやってそんな人生を得ることか分からないので、あなたは暗中模索しているでしょうか。

私のところに来なさい。私はあなたに光を与えます。あなたはもう暗闇に躓きません。むしろあなたは、本当の命を見つけます。」

けれども、パリサイ人たちや律法学者のように、多くの人々はイエス様の資格を疑います。イエス様はどなたでしょうか。どうしてイエス様がそんなことを言う権利を持っているのでしょうか。

もしイエス様がただの人間なら、そんな権利を持っていないでしょう。なぜなら、人間の知識には限界があるからです。

しかし、イエス様は人間であるばかりではありません。イエス様は神です。

だから、イエス様はユダヤ人たちにこう言われました。

あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。(ヨハネ8:56)

ユダヤ人たちは、それを聞いて驚きました。そして、彼らはこう答えました。

あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。(57)

そして、イエス様はこう言われました。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。(58)

イエス様が意味したものは何ですか。イエス様はユダヤ人に出エジプト記3章を示されました。神様がご自身をモーセに現した時、モーセは神様の名前を尋ねました。神様はこう答えられました。

わたしは、「わたしはある」という者である。。。あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。「わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた」と。(出エジプト記3:14)

つまり、神様は永遠の方であることです。過去でも、今でも、未来でも、神様は変わりません。そして、神様以外に、ほかの神がおられません。

新改訳では、イエス様が何をしたか見えませんけど、原文では(また英語の翻訳では)私たちがはっきり見えるのは、イエス様が神様の名前を自分自身に当てはめたことです。イエス様は「私は永遠の神です」と言われました。

ユダヤ人たちはそれを聞いて、イエス様の言葉がよくわかりました。だから、彼らは石を取ってイエス様に投げつけようとしました。なぜなら、彼らはイエス様の主張を信じなかったから。そして、ただの人間が「私は神だ」と言うなら、それは死に値する罪でした。

あなたはどうですか。イエス様が誰だと思うでしょうか。イエス様はただの人間だったでしょうか。預言者だったでしょうか。もしかすると、素晴らしい先生だったでしょうか。

もしそうなら、あなたはイエス様の言葉をあっさりと拒絶することができます。

けれども、イエス様が本当に神様なら、あなたはイエス様の言葉を重視しなくてはなりません。なぜなら、もしあなたの人生に光を見つけたいなら、イエス様だけを通して、あなたはその光を見つけることができるからです。

さらに、イエス様を拒絶するなら、あなたは死だけを知ります。あなたの体も死ぬし、あなたは永遠に神様から離れます。その暗闇で、あなたには苦しみと悲しみだけが残ります。

イエス様はこう言われました。

もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。(ヨハネ8:24)

あなたはイエス様が神であることを信じているでしょうか。それだけではなく、あなたはイエス様に従っているでしょうか。

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聞きなさい

福音書の中で、これは最も興味深い話の一つだと思います。また、この出来事のタイミングも印象的です。

イエス様は、メシアに関する弟子たちのイメージを打ち砕いたばかりでした。

さらに、弟子たちはイエス様が死んでよみがえるという話をまったく理解できませんでした。だから、イエス様が十字架で死ぬまで、彼らはその話を脇に置き、それについて深く考えないよう努めました。

弟子たちは、「イエス様はただのたとえ話をしているのだろう。もしかすると、イエス様は間違えているのかもしれない」と考えた可能性があります。いずれにせよ、彼らは心の中でイエス様の言葉に真剣に向き合っていませんでした。

そこで、一週間ほど後、イエス様は最も親しい弟子である三人に、このことを理解させようとされました。

ところで、マタイとマルコは「それから六日たって」と記していますが、ルカは「これらの教えがあってから八日ほどして」と述べています。どちらの記述が正しいのでしょうか。ルカは誤っていたのでしょうか。

実は、「八日ほど」というギリシャ語の表現は、当時広く使われた熟語でした。その意味は「およそ一週間」ということです。

もう一つの可能性として、当時のユダヤ人たちは、一日の一部(一時間でも)を一日と数える習慣がありました。(これはイエス様の復活に関する記述でも見られる考え方です。)

そのため、ルカの言葉の意味は、メシアに関する会話が最初の日に始まり、山での出来事が最後の日に起こり、その間に六日間が経過した、ということかもしれません。

いずれにせよ、イエス様はペテロ、ヤコブ、ヨハネを高い山へ連れて行かれました。そして、イエス様が祈っておられる間、彼らは眠ってしまったようです。したがって、おそらく次の出来事をほとんど見逃してしまいました。

イエス様は輝き、エリヤとモーセと話しておられました。そして弟子たちが目を覚まし、イエス様とエリヤ、モーセの会話を聞いたとき、モーセとエリヤは、イエス様の死と復活について語っていました。(ルカ9:30ー31)

弟子たちはそれを目の当たりにし、完全に目を覚ました後、いつものようにペテロが真っ先に話し始めました。

先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。(マタイ17:4)

ところが、光り輝く雲が弟子たちを包み込み、その雲の中から声が響き渡りました。

これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。(マタイ17:5)

その声を聞くと、彼らは恐れ、ひれ伏しました。けれども、すぐに彼らは別の声を耳にしました。それは、彼らが愛するイエス様の声でした。

起きなさい。こわがることはない。(マタイ17:7)

彼らが目を上げると、イエス様は元の姿に戻っていました。彼はもう輝いておらず、モーセとエリヤの姿もすでに消えていました。

そして、彼らが山を降りた時、イエス様は彼らに警告されました。

人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見た幻をだれにも話してはならない。(マタイ17:9)

どうしてイエス様は彼らにその幻を見せられたのでしょうか。おそらく、一つの理由は、彼らがイエス様の使命を理解するためです。

けれども、イエス様はもう一つのことを教えようとされました。それは、死は終わりではないということです。

彼らはモーセとエリヤを目にしました。モーセは山で死にましたが、エリヤは死なずに天国へと引き上げられました。それでも、彼らはなお生きており、イエス様と語り合っていました。

それでも、その三人の弟子たちはまだ理解していませんでした。そこで、彼らが山を降りている時、「死人の中からよみがえる」と言われたことの意味について論じ合いました。(マルコ9:10)

ただし、私にとって最も印象に残ったのは、天の父の言葉です。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」

時には、イエス様の弟子たちのように、私たちもイエス様の言葉を完全には理解できないことがあります。そして、後になって弟子たちと同じように、その言葉の意味を悟ることができるようになるでしょう。

しかし、その意味がわかっても、わからなくても、イエス様は私たちの主です。天の父がイエス様を送られたのですから、私たちはイエス様の言葉を聞き、従わなければなりません。

あなたはどうでしょうか。イエス様の言葉を理解できなくても、イエス様を信頼し、その言葉に従うことができますか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ3章

どのように新しく生まれることができるのか

ヨハネ3章の前半では、イエス様はニコデモに、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と言われました(3節)。

つまり、私たちがこの世に生まれるように、私たちは神様の国に生まれなくてはなりません。どんなに良い行動をしても、それによって天国に入ることはできません。

人がこの世に生まれるのは、主に母の働きによるものです。人が神様の国に生まれるのは、御霊の働きによるものです。

ニコデモは旧約聖書をよく知っていたにもかかわらず、この概念を理解することができませんでした。彼は天国に入るために、懸命に神様の律法に従おうとしていました。けれども、イエス様は「その考え方は間違っている」と言われました。

そのため、ニコデモは質問しました。

どうして、そのようなことがありうるのでしょう。(9)

つまり、「私はよく分かりません。ずっと律法に従おうと努力してきました。しかし、あなたは天国に入るために私自身の働きによるのではなく、御霊の働きによると言われているのですか。」

今でも、多くの人々は同じ質問を抱えています。彼らは、神様を喜ばせるために良い行動をしなければならないとずっと教えられてきました。そのため、救いがただであるという話を聞いても、彼らは信じられません。それが簡単すぎると感じてしまうのです。

いずれにせよ、イエス様はニコデモを少し叱責されました。

あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。(ヨハネの福音書3:10)

もしニコデモが預言者たちの言葉を正しく理解していたならば、イエス様の言葉も理解できたはずです。(特に、ニコデモは預言者エレミヤやエゼキエルの言葉を知っていたに違いありません。昨日の記事をご覧ください。)

けれども、ニコデモがそれを理解できなかったため、イエス様はさらに古い聖書の話を取り上げて語り始められました。ユダヤ人にとって非常によく知られた話です。

イスラエル人がエジプトから救い出された後、砂漠を旅していました。ところが、その途中で彼らはモーセと神様に対して不平を言い始めました。その反抗的な態度の結果として、神様は多くの蛇を送り、人々の多くが噛まれて死んでしまいました。

イスラエル人が悔い改めた時、神様はモーセにこう命じられました。

あなたは燃える蛇(つまり、青銅の蛇)を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。(申命記21:9)

彼らは救われるために、多くの良い行動をする必要はありませんでした。ただ、神様の約束を信じるべきだったのです。神様の約束を信じた人々は救われましたが、神様に対する不信を持ち続けた人々は亡くなりました。

イエス様はニコデモにこう言われました。

「同じように、永遠の命を得るためには、働かなくてもよいのです。モーセが荒野で蛇を掲げたように、私も十字架で掲げられなければなりません。私はあなたの罪のために死ぬのです。そして、あなたが私を仰ぎ見て信じるなら、あなたは救われます。」

ギリシャ語では引用符が存在しないため、イエス様の言葉がどこで終わり、ヨハネの言葉がどこから始まるのかが明確ではありません。おそらく、15節でイエス様の言葉が終わり、16節からヨハネがその話の意味を解釈しているのでしょう。

いずれにせよ、この箇所は聖書の中で最も有名な箇所の一つです。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(3:16)

どうすれば、私たちは新しく生まれることができるのでしょうか。それは、イエス様を信じることによって実現します。つまり、イエス様が十字架であなたの罪の罰を引き受けてくださったことを信じる必要があるのです。

罪とは、「神様、私はあなたを信頼しません。」という態度そのものです。ですから、罪の解決方法は良い行動を積むことではありません。罪の解決方法は、神様に対する不信の態度を捨てることです。

そして、その最初の一歩は、「神様、私はあなたの救いの計画を信じます。あなたの国に入るために、私の働きに頼るのではなく、イエス様の十字架での働きに頼ります。」と告白することです。

このような祈りをしたことがありますか。

天のお父様、私は自分が罪を犯したことを認めます。つまり、私はずっとあなたを信頼せず、あなたの道を歩まず、自分勝手な道を選んできました。どうか私を赦してください。

イエス様、あなたが私の罪のために死んでくださったことを感謝します。私の主となってください。これから私は、私の人生のすべてにおいてあなたを信頼し、あなたの道を歩みたいと願います。

御霊様、どうか毎日私を導いてください。特に、私が毎日イエス様のようになることができるように導いてください。私の心を変えてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。