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マタイの福音書

信じられない?もしくは、信じたくない?

多くの人々は「私は神様の存在を信じられません」と言います。そして、彼らはその理由をいくつも挙げます。

けれども、多くの場合、彼らが本当に信じられないわけではありません。むしろ、信じようとしないのです。

彼らは自然の中に神様の働きを見ます。周囲の人々の人生にも、時には自分自身の人生にも、神様の働きを感じることがあります。それでも、神様を信じようとはしません。なぜでしょうか。

なぜなら、神様が存在するなら、彼らは自分の人生が自分のものではないことを認めなくてはならないからです。自分勝手に生きることはできません。そして、神様の前で自分の人生について申し開きをしなくてはならないのです。

だから、彼らはさらに証拠を求めます。しかし、その証拠が与えられても、彼らはなおも証拠を求め続けるのです。

神様がご自身を明確に現わされたとしても、彼らはそれが幻覚だと自分に言い聞かせるかもしれません。「もしくは、お酒を飲みすぎたのかもしれない」と思うこともあるでしょう。

イエス様の時代、イスラエルの人々も同じように反応しました。イエス様が奇跡を行い、病の人を癒し、死者を復活させても、なお信じない人々がいました。むしろ、さらに多くの奇跡を求めました。

その結果、イエス様は彼らに「もうしない」と言われました(マルコ8:12)。

さらに、イエス様は信じない人々を裁かれました。

ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。

しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。

カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。

おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。

しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。(マタイ11:21-24)

この言葉で、イエス様は私たちに何を教えておられるのでしょうか。神様が私たちにご自身を示されれば示されるほど、また、語りかけられれば語りかけられるほど、私たちはより大きな責任を負うことになります。そして、神様を拒み続けるなら、私たちは厳しく裁かれるのです。

ですから、もしあなたが本心では信じたくないと思っているなら、「もっとしるしを示してください」と祈ることは非常に危険です。なぜなら、そのしるしが示された時点で、あなたには責任が生じるからです。

やがて、私たちは皆、神様の御前に立つことになります。その日、神様は私たちの言い訳を取り除き、心の奥にある動機を明らかにされるのです。

その日、あなたは気づくでしょう。あなたが信じられなかったのではなく、信じようとしなかったのだと。そして、あなたは裁きを受けることになります。

ですから、あなたの言い訳を捨ててください。あなたのプライドを捨ててください。もしイエス様を主として受け入れ、従うなら、あなたは祝福されます。この世においても、そして永遠の世界においても、祝福されるのです。

ペテロはこう言いました。

ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。(第一ペテロ5:6)

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マタイの福音書 マタイ7章 ルカの福音書 ルカ6章

山上の説教:何の土台に私たちの人生を建設するか

今日で、山上の垂訓と平地の説教についての話が終わります。

どちらも同じように終わります。つまり、イエス様はその聞き手に挑戦を投げかけておられるのです。イエス様は彼らに問いかけます。

なぜ、わたしを「主よ、主よ」と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか。(ルカ6:46)

要するに、「あなたが私を『主』と呼んでも、私の言葉に従わないなら、私は本当にあなたの主でしょうか。」

ある人はこのように要約しました。「イエス様があなたの人生のすべての主でないなら、イエス様はまったくあなたの主ではないのです。」

その通りです。イエス様があなたの主であるかどうか。可能性は二つしかありません。イエス様はあなたの主であるか、そうでないか、どちらかです。

そして、イエス様は非常に有名なたとえを語られます。それは、「岩の上に強い土台を持つ建てられた家」と「土台なしで砂の上に建てられた家」です。

もし私たちがイエス様の言葉を聞き、それに従うなら、私たちは「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています」。

その安定した土台のおかげで、人生の嵐が来ても、私たちの家はびくともしません。

その一方、私たちがイエス様の言葉を聞きながら従わないなら、私たちの人生は砂の上に建てられています。

砂とはどのようなものでしょうか。砂は常に移り変わるものです。

この世の価値観も砂のように移り変わります。道徳的な価値観も常に変化しています。

50年前に悪いと見なされていたことが、今では良いと見なされることがあります。また、良いとされていたものが、今では時代遅れの考え方とされてしまうこともあります。

しかし、もし私たちが移り変わる砂の上に人生を建てるなら、その土台は不安定であり、人生の嵐が襲ってきたとき、私たちの人生は崩れてしまいます。

あなたはどうでしょうか。岩の上にあなたの人生を建てていますか。

イエス様の言葉を聞くだけではなく、その言葉に従っていますか。それとも、この世と調子を合わせて、移り変わる砂の上に人生を建てているでしょうか。

簡単に言うと、イエス様はあなたの主でしょうか。

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マルコの福音書 マルコ1章 ルカの福音書 ルカ4章

権威

イエス様はほかの宗教を始めたリーダーたちとどう違うでしょうか。もちろん多くの違いがありますが、一番重要な違いは、イエス様が神であり、ご自身の復活によってそのことを証明されたということです。

ほかの偉大なリーダーたちはすでに死んでしまいました。だからこそ、彼らが神ではないことは明白です。

けれども、この箇所では、私たちはさらにもう一つの違いを見ることができます。それは、イエス様が真の権威を持っておられるということです。

ユダヤ人たちはイエス様の教えを聞いたとき、そのことをすぐに理解しました。

ほかの教師たちが聖書について教えるとき、彼らはいつもこう言いました。「誰々先生はこの箇所についてこう言っています。」また、「誰々先生によれば、この言葉はこういう意味です。」

イエス様は決してそのような言い方はされませんでした。むしろ、イエス様はいつもこう言われました。「まことに、まことに、私はあなたがたに告げます。」

ユダヤ人たちはそれを聞いて驚きました。「この方は権威を持っているかのように話されます。彼は教えられることについて、本当に自信を持っているようです。」

聖書を教える者として、私も驚いたことでしょう。もちろん、私は懸命に学び、神様に知恵を求めて祈りますが、イエス様の権威のほんの一部しか持っていません。イエス様の教えを直接聞くことは、素晴らしい経験だったに違いありません。

そして、会堂でイエス様はある人から悪霊を追い出し、その権威を証明されました。その結果、イスラエル全土でイエス様に関する噂がまるで山火事のように広がりました。

では、この話は私たちとどう関係があるのでしょうか。

私たちは自分自身にこのような質問をしなければなりません。「イエス様は本当に特別な権威を持って話されたのだろうか。それとも、彼の意見と私の意見は同じ権威を持っているのだろうか。」

多くのクリスチャンは口ではイエス様の権威を認めていますが、その言葉には従いません。イエス様の言葉は理想的だと認めながらも、イエス様は実生活について理解していなかったと思う人もいます。

また、イエス様の言葉に従いたくないクリスチャンもいます。彼らは自分の道を選びたいと思っているからです。

しかし、もし私たちがイエス様を「主」と呼ぶのなら、そうした考え方を捨てなければなりません。また、そのような生き方をも捨てる必要があります。

イエス様はこう言われました。

なぜ、わたしを「主よ、主よ」と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか。(ルカ6:46)

「主よ、それをしたくない。」という言葉は、矛盾した言葉です。

あなたはどうでしょうか。本当にイエス様の権威を受け入れますか。

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エレミヤ書

全ての国民が王として認める方

このブログを英語で書いた時、クリスマス・イブでした。

クリスマスの時、多くの人々はイエス様について考えます。けれども、イエス様について考えた時、どのようなイメージを見るのでしょうか。

クリスマスの時、多くの人々はイエス様を飼い葉おけに寝ておられる可愛い赤ちゃんとして考えます。彼らは、そのイエス様が好きです。

なぜでしょうか。そのイエス様は彼らから何も要求されないからです。イエス様はただ寝ておられるだけです。

しかし、いつかの日、

イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリピ2:10ー11)

その日に、

[主]のもとに、諸国の民は地の果てから来て言うでしょう。

「私たちの先祖が受け継いだものは、ただ偽るもの、何の役にも立たないむなしいものばかりだった。

人間は、自分のために神々を造れようか。そんなものは神ではない」と。(エレミヤ16:19ー20)

ある人々は喜んでそのことを告白します。けれども、ある人々は苦しんで泣きます。彼らはその神々を見て、その神々がただの木製か石の偶像であると分かるようになります。

また、ある人々は何を求めていたかを思い出します。つまり、お金や、セックスや、力や、この世の物を求めていましたが、そのものがすべて無駄なものであると分かるようになります。

その日、彼らはイエス様がもう飼い葉おけに寝ておられる赤ちゃんではないと分かるようになります。むしろ、彼らはイエス様が主であり、王であることを認めます。

その時について、神様はこう言われます。

だから、見よ、わたしは彼らに知らせる。今度こそ彼らに、わたしの手と、わたしの力を知らせる。

彼らは、わたしの名が主であることを知る。(21)

あなたはどうでしょうか。イエス様について考えた時、どのようなイメージが思い浮かぶでしょうか。ベツレヘムの飼い葉おけに寝ておられる赤ちゃんを見るでしょうか。

それとも、あなたの主であり王であるお方を見るでしょうか。

イエス様がこの世に戻られる時、あなたはひれ伏して、愛を持って、「イエスは主です」と言うでしょうか。

それとも、苦々しい心を抱きながら、その言葉を言うでしょうか。

どうか、イエス様を飼い葉おけに寝ておられる赤ちゃんとしてではなく、あなたの主であり、王である方として知ることができますように。