多くの人々は「私は神様の存在を信じられません」と言います。そして、彼らはその理由をいくつも挙げます。
けれども、多くの場合、彼らが本当に信じられないわけではありません。むしろ、信じようとしないのです。
彼らは自然の中に神様の働きを見ます。周囲の人々の人生にも、時には自分自身の人生にも、神様の働きを感じることがあります。それでも、神様を信じようとはしません。なぜでしょうか。
なぜなら、神様が存在するなら、彼らは自分の人生が自分のものではないことを認めなくてはならないからです。自分勝手に生きることはできません。そして、神様の前で自分の人生について申し開きをしなくてはならないのです。
だから、彼らはさらに証拠を求めます。しかし、その証拠が与えられても、彼らはなおも証拠を求め続けるのです。
神様がご自身を明確に現わされたとしても、彼らはそれが幻覚だと自分に言い聞かせるかもしれません。「もしくは、お酒を飲みすぎたのかもしれない」と思うこともあるでしょう。
イエス様の時代、イスラエルの人々も同じように反応しました。イエス様が奇跡を行い、病の人を癒し、死者を復活させても、なお信じない人々がいました。むしろ、さらに多くの奇跡を求めました。
その結果、イエス様は彼らに「もうしない」と言われました(マルコ8:12)。
さらに、イエス様は信じない人々を裁かれました。
ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。
しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。
カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。
おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。
しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。(マタイ11:21-24)
この言葉で、イエス様は私たちに何を教えておられるのでしょうか。神様が私たちにご自身を示されれば示されるほど、また、語りかけられれば語りかけられるほど、私たちはより大きな責任を負うことになります。そして、神様を拒み続けるなら、私たちは厳しく裁かれるのです。
ですから、もしあなたが本心では信じたくないと思っているなら、「もっとしるしを示してください」と祈ることは非常に危険です。なぜなら、そのしるしが示された時点で、あなたには責任が生じるからです。
やがて、私たちは皆、神様の御前に立つことになります。その日、神様は私たちの言い訳を取り除き、心の奥にある動機を明らかにされるのです。
その日、あなたは気づくでしょう。あなたが信じられなかったのではなく、信じようとしなかったのだと。そして、あなたは裁きを受けることになります。
ですから、あなたの言い訳を捨ててください。あなたのプライドを捨ててください。もしイエス様を主として受け入れ、従うなら、あなたは祝福されます。この世においても、そして永遠の世界においても、祝福されるのです。
ペテロはこう言いました。
ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。(第一ペテロ5:6)
