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使徒の働きのデボーション

私たちの(良い)主に従う

主よ。あなたは天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造られた方です。(使徒の働き4:24)

「主よ」。

初期のクリスチャンたちは神様を「主」と呼びましたが、通常はギリシャ語の「クリオス」を使いました。

けれども、この場合、彼らは別の言葉を使いました。それは「デスポテース」という言葉です。

「デスポテース」という言葉は、神様の支配の権利と力を強調します。

残念なことですが、多くの人々は神の支配の権利と力を認めることを拒みます。

ダビデの時代でも、ペテロの時代でも、今でも、人々は神様の支配に抵抗します。(25ー27)

しかし、ペテロとほかのクリスチャンたちは神様を自分の主として認めました。だから彼らは喜んで神様に従いました。(19ー20)

なぜ彼らは喜んで従うことができたのでしょうか。それは、彼らが神様が良い方であることを認めたからです。

興味深いことですが、英語の「despot」、つまり「暴君」という言葉は「デスポテース」に由来します。

けれども、神様は暴君どころか、私たちを愛している創造主であり、天の父です。

神様、あなたは私の主です。あなたは良い主です。あなたはいつくしみ深い主です。

この世は時に乱れているように見えますが、あなたがすべてを支配しておられることを信じます。

また、あなたが私の最善を望むことを信じます。

あなたは私の信頼と服従にふさわしい方です。だから主よ、私は喜んであなたにすべてを明け渡します。

あなたに喜んで従います。あなたを愛しています。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ルカの福音書のデボーション

信仰の薄い人?

天のお父さん、私が心配に満ちて、信仰の薄い人にならないようにしてください。あなたは、烏やゆりのお世話をしてくださいます。だから、あなたが私のお世話をしてくださることを信じるように助けてください。

私の心が心配に満ちず、あなたに向かうように。

私にとって、あなたが私に御国を喜んでくださることは驚くべき事です。その真理を実感して、私がこの世のものに執着しないように。

喜びに満ちている心をもって、私があなたの御国のために周囲の人々に触れるように。私の中の喜びを見ると、彼らがあなたとの関係を望むようにしてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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マタイの福音書 マタイ17章 マルコの福音書 マルコ9章 ルカの福音書 ルカ9章

私たちの信仰はどこでしょうか

私の信仰はどこにあるのだろうか。

時々、私は自分自身にそう問いかけます。「どうして私は神様をもっと信頼できないのだろうか。」

けれども、時には少し違う質問をします。「私は何を信頼しているのだろうか。」

この箇所では、その二つの問いが浮かび上がります。

イエス様、ヨハネ、ヤコブ、そしてペテロが山から戻ったとき、他の弟子たちは律法学者と論じ合っていました。彼らが何について議論していたのかは定かではありませんが、おそらく律法学者はこう言ったのかもしれません。

「あなたの先生は神様から来たのではありません。ほら、あなたたちはこの男の子から悪霊を追い出せなかったではありませんか。」

いずれにせよ、イエス様が彼らに「何について話していたのか」と尋ねられると、その男の子の父親はこう言いました。

先生。口をきけなくする霊につかれた私の息子を、先生のところに連れて来ました。その霊が息子にとりつくと、所かまわず彼を押し倒します。そして彼はあわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。

それでお弟子たちに、霊を追い出すよう願ったのですが、できませんでした。(マルコ9:17-18)

そして、そのお父さんは必死に願いました。

もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。(マルコ9:22)

イエス様はこう答えました。

できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。(マルコ9:23)

私はその父親に共感できます。彼はこう言いました。

信じます。不信仰な私をお助けください。(9:24)

どのように、その父親はその言葉を口にしたのでしょうか。もしかすると、彼の希望はほとんど失われていて、信じることが難しかったのかもしれません。しかし、彼はイエス様が救えないなら、誰も救えないということを理解していました。

そこで、イエス様の目を見つめながら、その父親は涙を流し、自らの不信仰を認めました。

「イエス様、私は信じたいのですが、この問題は長い間続いてきました。あなたを信じることは、とても難しいのです。けれども、あなたが助けてくださらないなら、私は希望を失います。どうか、私が不信仰を克服できるよう助けてください。」

イエス様は、その父親の願いを聞かれると、悪霊を追い出されました。

私はこの話から希望を受け取ります。私もよく不信仰と戦います。私の信仰の小さな滴は、不信仰の大波に圧倒されることがあります。

その父親も同じように感じたことでしょう。しかし、彼が不信仰であったにもかかわらず、イエス様は憐れみと恵みを示し、その息子を癒してくださいました。

時々、私も神様の良さを疑うことがあります。けれども、私が叫ぶとき、イエス様は答えてくださいます。神様は私に憐れみと恵みを与えてくださり、私はもう一度神様の恵みと憐れみを思い出します。

いずれにせよ、この話の中で、弟子たちはイエス様に尋ねました。

なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。(マタイ17:19)

そして、イエス様は彼らに信仰について教えられます。

あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。

もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、「ここからあそこに移れ」と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。(マタイ17:20)

でも、イエス様はもう一つのことを言われました。

この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。(9:29)

覚えていてください。その出来事の前に、弟子たちはイスラエルの中で多くの人々から悪霊を追い出しました。けれども、時が経つにつれ、彼らはその力の源を忘れてしまったかもしれません。

そのため、彼らは神様を信頼せず、自分の力と方法に頼り始めたのかもしれません。そして、祈ることを忘れてしまい、悪霊を追い出すことができませんでした。

私はこの話を読むたびに、自分自身に問いかけます。「私は何を信じているのだろうか。自分の能力や賜物に頼っているのか。自分の知恵に頼っているのか。それとも、神様に頼っているのか。」

神様を信頼するなら、たとえからし種ほどの信仰しかなくても、何でも可能になります。しかし、自分自身に頼るなら、私は何もできません。

毎日、このことについて考えなければなりません。私はよく失敗します。もしあなたも不信仰との戦いをしているなら、一緒に祈りませんか。

イエス様、私の信仰はどこにあるのでしょうか。私の状況を見るとき、私はしばしばパニックになり、あなたが私を助けてくださるかどうかを疑ってしまいます。

私の不信仰をお赦しください。すべてのことにおいて、あなたを信じることができるよう助けてください。私の心と状況の中で働いて、私に平和と喜びを与えてください。

私は何を信頼しているのでしょうか。私はしばしば自分自身に頼り、それによって失敗します。どうかお赦しください。あなたの声を聞き取れるように助けてください。そして、私が毎日あなたを信頼できるよう導いてください。アーメン。

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マタイの福音書 マタイ6章 ルカの福音書 ルカ12章

山上の説教:心配

私はこの箇所の意味を頭では理解していますが、この真理を本当に実感できているかはわかりません。

今はあまり心配していません。けれども、5年前、私は仕事や家計についてよく悩んでいました。

そのとき、この箇所を読んでこう思いました。「これは理にかなっている。神様は鳥を養い、花を美しく保っておられる。だから、神様はきっと私のことも世話してくださるだろう。」

それでも、私は心配し続けました。「どうやって、お金を節約できるだろうか。もっといい仕事が見つかるだろうか。」

振り返ってみると、神様の忠実さと良さを見て取ることができます。だからこそ、私はこれから心配する必要はないはずです。

とはいえ、将来トラブルが起こったとき、私はどう反応するでしょうか。

時々、私がある程度コントロールできる問題に直面します。でも、まったくコントロールできない問題に直面することもあります。

そのとき、私の心はこう言います。「もう、自分にできることはやったでしょう?もう心配せずに、そのことを神様の手に委ねよう。」

それでも、心の別の部分では、なおも心配し続けます。

私は、イエス様の言葉を想像できます。

「信仰の薄いブルース。この世の人々は、こういったものを求めている。しかし、あなたの天の父があなたを愛しておられることを知らないのか。あなたのことを養ってくださることを知らないのか。

だから、この世のことから目を離し、天の父に焦点を当てなさい。天の父にあなたの悩みを委ねなさい。そうすれば、すべてよりも神の御国を第一に求めるならば、天の父は必ずあなたを養ってくださる。」

天のお父さん。あなたは私を愛してくださると約束されました。それを信じています。でも、私の信仰を強めてください。

私は信仰が薄いため、よく心配してしまいます。しかし、あなたはこれまで私にあなたの忠実さを示してくださいました。私には、あなたを疑う理由が何もありません。それなのに、どうして疑ってしまうことがあるのでしょうか。

私が自分の心配を手放せるように助けてください。あなたの光によって、私の問題が力のない影のようになるように。

私があなたに焦点を当てられるように助けてください。あなたを信頼できるように助けてください。アーメン。

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マタイの福音書 マタイ4章 マルコの福音書 マルコ1章 ルカの福音書 ルカ4章

天の父に従う?

この箇所は本当に有名な聖書の話です。それは、イエス様が砂漠で誘惑される話です。

サタンからの誘惑に対するイエス様の反応は、私の心に深く響きます。イエス様が本当に天の父を信頼されたからです。

洗礼を受けられた後、イエス様は聖霊に満たされ、また聖霊に導かれて砂漠に行かれ、そこで40日間過ごされました。

だからこそ、サタンが来た時のイエス様の反応は特にふさわしいものだったと思います。サタンは三度イエス様を誘惑しましたが、イエス様が答えられた時、すべて申命記から引用されました。

なぜそれがふさわしかったのでしょうか。それは、イスラエル人が砂漠で40年間過ごした後に、モーセが申命記を書いたからです。そして、イエス様が誘惑された時、その言葉に従われたのです。

では、モーセは何を言ったのでしょうか。

あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。

それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。

それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。(申命記8:2-3)

天の父がイスラエル人を試すために彼らを砂漠に導かれたように、天の父はイエス様を試すために、彼を砂漠に導かれました。イスラエル人と同じように、イエス様も苦しみ、飢えを経験されました。

けれども、イスラエル人と違って、イエス様は文句を言わず、天の父がふさわしい時にイエス様の必要を備えてくださることを信じ続けられました。

サタンは言いました。「自分の力を使えばいいじゃないか?あなたの天の父はあなたの必要に備えていないじゃないか。もう40日間が経った。だから、この石をパンに変えたらどうだ?」

しかし、イエス様はサタンの薦めを拒絶されました。むしろ、イエス様は天の父がイエス様の必要に備えてくださることを信じ続けられました。

次に、サタンは聖書を引用してイエス様にこう言いました。「神殿の頂から身を投げてみなさい。天使たちはきっとあなたを救うでしょう。」

(サタンも聖書をよく知っています。だからこそ、私たちは聖書の箇所の前後をしっかりと読まなければなりません。)

けれども、イエス様は再びモーセの言葉を引用されました。

あなたがたがマサで試みたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。(申命記6:16)

マサでは何が起こったのでしょうか。イスラエル人はもう一度神様を信頼しなかったため、文句を言いました。水を見つけることができなかったので、彼らは叫びました。「主は私たちの中におられるのか、おられないのか。」(出エジプト記17:7)

時々、私たちも同じ質問をします。私たちが苦しんでいる時、神様に「あなたは私と共におられるのですか、それともおられないのですか」と訊きます。

同じように、サタンはイエス様が天の父を疑うように誘惑しました。

「あなたの天の父は本当にあなたと共におられるでしょうか。天の父に仕えたいなら、そのことを確認した方がいいですよ。だから、神殿の頂から飛び降りてみなさい。もし天の父が本当にあなたと共におられるなら、あなたを救ってくださいます。」

けれども、イエス様は拒絶されました。それは、たとえイエス様に天の父が見えなかったとしても、天の父がイエス様と共におられることを信じておられたからです。

最後に、サタンはこう言いました。

もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。(マタイ4:9)

しかし、イエス様は再び拒絶されました。それは、イエス様が天の父に従うことを決心されていたからです。そこで、イエス様はこう答えられました。

引き下がれ、サタン。「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ」と書いてある。(マタイ4:10/申命記6:13;10:20)

あなたは誰に従っているのでしょうか。天の父に従っているのでしょうか。天の父があなたと共におられることを信じていますか。天の父があなたの必要を備えてくださることを信じていますか。天の父を家族よりも、友達よりも、仕事よりも大切にしていますか。

あなたは誰に従っているのでしょうか。

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箴言

誰を信頼するのか。何に頼るのか。

あなたは、誰を信頼するでしょうか。何に頼るでしょうか。

自分自身ですか。お金ですか。もしくは、神様ですか。

箴言で、ソロモンは何度もこの疑問に取り組みます。彼はこう書きました。

主の名は堅固なやぐら。正しい者はその中に走って行って安全である。

富む者の財産はその堅固な城。自分ではそそり立つ城壁のように思っている。

人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。(箴言18:10-12)

多くの人々は、自分自身だけを信頼します。彼らは、自分の知恵や富みに頼ります。彼らは、もしお金さえあれば、どんな問題に直面しても、大丈夫だと思います。

しかし、ソロモンが言ったのは、神様こそを信頼するなら、あなたは本当に安心できるということです。

多くの人々はお金に頼るけれど、まだ幸せと安心を見つけていません。

彼らの結婚はうまくいかず、彼らの仕事や投資した株についていつも心配して、あまり眠れません。必要な物を持っていても、なんとなく安心できません。

ある人は安心して達成感があるけれど、最終的に彼らの建てた国は倒れてしまいます。

さらに、裁きの日に、彼らは神様の前に自分のことを申し開きしなくてはなりません。そして、自分自身だけのために生きていたら、彼らの達成は無駄になります。

その反面、神様を信頼する人は、本当に安心できます。なぜなら、神様の御心に従うので、神様は彼らを見守っておられるからです。それに、裁きの日に、イエス様はご自身の十字架の働きによって、彼らを擁護してくださいます。

だから、私たちは誰を信頼するか、また何に頼るか、気を付けなくてはなりません。

ソロモンはこう書きました。

熱心だけで知識のないのはよくない。急ぎ足の者はつまずく。(箴言19:2)

自分の人生に対する情熱を持つかもしれないけれど、神様とその導きに従わないと、あなたはつまずきます。

多くの人々は、しばしば情熱を持つけれど、愚かな決断をするので、振り返ると、後悔が多いです。

そんな人について、ソロモンはこう言います。

人は自分の愚かさによってその生活を滅ぼす。しかもその心は主に向かって激しく怒る。(19:3)

どれほど、私たちは自分の愚かな決断によって自分の人生を台無しにして、神様に「どうして、こんなことが起こるのを許したんですか?」と問うでしょうか。

けれども実は、私たちは蒔いたものを刈り入れたのです。神様を信頼さえすれば、私たちはその落とし穴に落ちなかったでしょう。

だから、ソロモンはこう言いました。

命令を守る者は自分のいのちを保ち、自分の道をさげすむ者は死ぬ。(19:16)

神様の言葉は命の言葉です。私たちがその言葉を無視することは、私たちの責任です。

だから、ソロモンは訓戒します。

忠告を聞き、訓戒を受け入れよ。そうすれば、あなたはあとで知恵を得よう。(19:20)

ソロモンの言葉を覚えておきましょう。

人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。(19:21)

あなたはいろんな計画を立てるかもしれないけれど、最終的に神様の計画が成就されます。

だから、神様の御心と戦わないようにしましょう。むしろ、その計画と協力しましょう。そうすれば、あなたはこう分かります。

主を恐れるなら、いのちに至る。満ち足りて住み、わざわいに会わない。(19:23)

あなたは誰を信頼していますか。何に頼っていますか。

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詩篇

神様を信頼するとき

詩篇146篇では、神様が私たちの信頼にふさわしい方であることが示されています。この詩篇は、神様に信頼することの結果を私たちに教えています。

イスラエルの民は長い間神様に背き、信頼することを怠ってきました。むしろ、自分自身や偽りの神々、周囲の国々に頼っていたのです。その結果、国は崩れてしまいました。

しかし、エズラ、ネヘミヤ、ハガイ、ゼカリヤのリーダーシップのもとで、彼らは再び神様に立ち返り始めました。こうして、癒しのプロセスが始まったのです。

向かい始めました。だから、癒しのプロセスが始まりました。

詩人はこう書きました。

主はエルサレムを建てイスラエルの追い散らされた者を集める。

主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む。(詩篇147:2-3)

そして、詩人はイスラエルの民に、神様の偉大さを思い起こさせました。また、なぜ神様が私たちの賛美にふさわしい方であるのかを思い起こさせます。それは、神様がすべてのものを造り、支えておられるからです。(5–9)

また、詩人はイスラエルの民に、神様が人間や動物の力に心を動かされることはないと教えています。むしろ、

主を恐れる者と御恵みを待ち望む者とを主は好まれる。(11)

だから、詩人はイスラエル人を励まします。

「あなたの人生において、神様をほめたたえましょう。神様が私たちの門を強め、私たちを祝福し、平和を与え、必要を満たしてくださることを心に留めておきましょう。」

そして、詩人は彼らに、神様がほかの国々にはご自身を現さず、イスラエルにだけご自身を現して祝福してくださったことを思い起こさせます。

しかし、ヘブル人への手紙の著者によれば、神様は預言者たちだけを通してご自分を現されませんでした。今はイエス様を通して、神様はご自分を現してくださいます。だから、私たち皆はイエス様を通して、神様に近づくことができます。

また、神様はイエス様にあって人間となられたので、私たちをよく理解でき、私たちに対して情け深いです。

だから、その確信を持って、神様に近づきましょう。私たちは神様を信頼しましょう。そうすれば、癒しと祝福、そして平和を見いだすことができます。

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詩篇

私たちの信頼にふさわしい神

多くの場合、私たちは人々にがっかりさせられます。私たちは彼らの助けと励ましを期待しますが、結局彼らはそうしてくれません。

だから、詩人はこう書きました。

君主たちにたよってはならない。救いのない人間の子に。(詩篇146:3)

イスラエルの歴史の中で、彼らは敵に脅されたとき、神様の助けを求めずに、周りの国々の助けを求めました。

その結果は何でしたか。その国々はイスラエルを裏切りました。または、彼らは最終的にイスラエルを助ける力がありませんでした。

だから、その時代の預言者たちのように、詩人はこう言いました。

幸いなことよ。ヤコブの神を助けとし、その神、主に望みを置く者は。

主は天と地と海とその中のいっさいを造った方。とこしえまでも真実を守り【ます】。(詩篇146:5-6)

しかし、神様は王たちやその王国だけを見守っておられるわけではありません。神様はご自身を愛する、苦しんでいる人々のことも見守っておられます。

神様は、抑圧されている人々、飢えている者、囚人、盲人、在留異国人、やもめ、みなしごと共におられます。彼らが苦しむことがあっても、神様は決して彼らを見捨てることはありません。そして、彼らの必要に備えてくださいます。

以前も述べたように、神様は無限の方であるだけでなく、私たちと共におられ、私たちを愛してくださいます。

ですから、あなたが苦しんでいる時も、そうでない時も、この無限であり、私たちを愛しておられる神様に近づきましょう。

そして、イザヤの言葉を心に留めておきましょう。

[神様]を信じる者は、あわてることがない。(イザヤ28:16)


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詩篇

謙遜

詩篇131篇もかなり短い詩篇ですが、この詩篇を通して、ダビデは私たちが神様に近づくときに、どのような心が必要かを教えています。

私たちはどんな心が必要でしょうか。へりくだる心が必要です。ダビデはこう書きました。

主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。(詩篇131:1)

心の中でプライドを持ったら、神様の前に行くのは無理です。私はヨブについて考えます。

彼が苦しんだ時に、彼は神様の正義を疑い始めました。だから、神様の前に行きたがって、神様の正義に関して議論したがりました。

多くの人々はそうします。彼らは神様と同じ知力を持っていると思い、神様と議論したら勝てると思っています。

多くの無神論者はこう思います。「たとえ神様が存在しても、どうして私が神様を信じなかったかを説明できます。」

けれども、彼らが神様の前に来て話す時、ヨブのように彼らの論法が虚しいと実感することでしょう。

しかし、他の人々はヨブの友達のようです。彼らは誇って、他の人々を見下し、すぐに裁きます。けれども、神様はそんな人々にも反対します。なぜなら、彼らの判断は間違っているからです。

しかし、ダビデは彼らとは違いました。神様に対しても、他の人々に対しても謙遜な態度を持っていました。

だから、彼が理解できないことが起きたり、またどうして神様がいろんな試練を許したか理解できない時、彼は謙遜に言いました。

及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません。(1b)

ヨブは、悔い改めた時、同じようなことを言いました。

まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。(ヨブ記42:3)

私たちも理解できないことを経験します。どうして神様が災いを許されるか分からないので、私たちは神様と議論したいと考えます。

しかし、ダビデのように、その疑いを置いておいて、神様に信頼しましょう。神様が私たちと共におられ、私たちを愛してくださることを信じ続けましょう。

「乳離れした子が母親の前にいるように」、また自分のニーズに供えられた子のように、神様の前に静まり、信頼しましょう。

ダビデのように私たちはこう言いましょう。

今よりとこしえまで主を待て。(詩篇131:3)

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詩篇

私たちの賛美と信頼にふさわしい方

この詩人の叫びは、私の心に響きます。

私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。(詩篇115:1)

あなたは誰のために生きているでしょうか。何のために生きているでしょうか。お金を儲けるためでしょうか。栄光を得るためでしょうか。

もしくは、全ての栄光に値する方のために生きているでしょうか。神様の恵みとまことのために、主にあなたの人生を捧げるでしょうか。

この詩篇では、詩人は私たちが神様に信頼し、神様を賛美するように励まします。どうしてでしょうか。どうして、神様は私たちの信頼と賛美にふさわしいのでしょうか。

一つの理由は、神様は全能の主です。

詩人はこう言います。

私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行なわれる。(3)

そのことを聞くと、恐れる人がいます。彼らは「神様が自分が望むことをことごとく行われるなら、神様は私をどのように取り扱われるだろうか」と思います。

けれども、神様を知っている人は、神様に畏敬の念を抱きます。なぜなら、この全能の神は私たちを愛しておられるからです。それに、私たちがどんなに不実でも、神様はいつも私たちに忠実です。

それに、神様は、口があっても語れず、目があっても見えず、耳があっても聞こえず、手があっても触れず、足があっても歩けず、のどがあっても声をたてることもできない偶像ではありません。

そのような「神」は自分自身を支えられないし、私たちをも助けられません。

むしろ、神様は私たちを見る時、私たちの叫びを聞き、応えてくださいます。また、神様は私たちを助けてくださいます。

だから、詩人は言います。

主を恐れる者たちよ。主に信頼せよ。この方こそ、彼らの助け、また盾である。(11)

そうすれば、どうなるでしょうか。

主はわれらを御心に留められた。主は祝福してくださる。イスラエルの家を祝福し、アロンの家を祝福し、主を恐れる者を祝福してくださる。小さな者も、大いなる者も。(12-13)

あなたはどのように生きているでしょうか。あなたは自分の人生をコントロールしようとしているでしょうか。あなたがすべてのことをコントロールできないので、思い悩んでいるでしょうか。

神様に信頼してください。神様は全能の主なので、あなたがコントロールできないことを神様は掌握できます。

だから、詩人はこう歌います。

しかし、私たちは、今よりとこしえまで、主をほめたたえよう。ハレルヤ。(18)

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詩篇

私たちの賛美と信頼に値する神

私にとって、この詩篇は興味深いものです。なぜなら、この詩篇は賛美と大喜びで始まりますが、深刻な警告で終わるからです。

詩人の言葉を読むと、その詩人の喜びが聞こえます。彼は歌います。

さあ、主に向かって、喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。

感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。(詩篇95:1-2)

どうして、私たちは神様を賛美するでしょうか。

1.神様は大いなる方ですから。(3)

2.神様は王の王だし、すべての神々にまさるから。(3)

3.神様は私たちの創造者ですから。(4-5)

4.それなのに、神様は私たちを本当に愛しておられます。(実は、多分「神様はそのような方だから私たちを本当に愛する」と言った方が良いです。)(7)

だから、詩人は私たちを招待します。

来たれ。私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。私たちを造られた方、主の御前に、ひざまずこう。(6)

けれども、最後に、彼は私たちに警告します。

主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。きょう、もし御声を聞くなら、

メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。

あのとき、あなたがたの先祖たちはすでにわたしのわざを見ておりながら、わたしを試み、わたしをためした。

わたしは四十年の間、その世代の者たちを忌みきらい、そして言った。「彼らは、心の迷っている民だ。彼らは、わたしの道を知ってはいない」と。

それゆえ、わたしは怒って誓った。「確かに彼らは、わたしの安息に、入れない」と。(7-11)

イスラエル人が砂漠を渡った時、水が見つけられなかった時が二回ありました。その時、彼らは神様を信頼せずに、文句を言いました。神様がそこまで彼らのニーズに備えられたのに、彼らは神様を信じませんでした。

その時だけではなく、何回も彼らは文句を言って、神様を信頼しませんでした。彼らは神様が彼らに与えると約束した土地に入ることを拒絶し、エジプトに帰りたがりました。(申命記13-14章)

だから、神様は彼らに言われました。「確かに彼らは、わたしの安息に、入れない。」

だから、詩人は私たちに警告します。「彼らのようにならないでください。あなたの心を堅くしないでください。神様の前にへりくだってください。なぜなら、神様は私たちの賛美と信頼に値する方ですから。」

あなたはどうですか。神様に信頼しますか。神様の道を行っているでしょうか。もしかしたら、自分の道を行っているでしょうか。

もし神様に信頼すると、あなたは神様からの喜びと安息と平和を知ります。しかし、自分自身に信頼すると、それらを失います。

あなたは誰に信頼しているでしょうか。

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詩篇

私たちの信頼できる神

詩篇88篇は本当に暗い歌だったけど、詩篇89篇はもっと明るく始まります。それでも、この詩篇は、苦しんだ時に書かれました。 詩人は歌います。

私は、主の恵みを、とこしえに歌います。あなたの真実を代々限りなく私の口で知らせます。

私はこう言います。「御恵みは、とこしえに建てられ、あなたは、その真実を天に堅く立てられる」と。(詩篇89:1-2)

そして詩人は神様の偉大さを思い出します。

主よ。天は、あなたの奇しいわざをほめたたえます。また、聖徒たちの集まりで、あなたの真実をも。

まことに、雲の上ではだれが主と並びえましょう。力ある者の子らの中でだれが主に似ているでしょう。

主は、聖徒たちのつどいで大いに恐れられている神。主の回りのすべての者にまさって恐れられている方です。

万軍の神、主。だれが、あなたのように力がありましょう。主よ。あなたの真実はあなたを取り囲んでいます。(5-8)

そして、彼は神様に従う人の喜びについて歌い(15-17)、神様のダビデに対する約束を思い出します。つまり、ダビデの子孫はいつまでもイスラエルを王として治めます。(3-4,19-37)

けれども、急にこの詩篇の感情は変わります。なぜなら、その約束はもうだめになったようだからです。

ダビデの子孫の罪のせいで、神様は彼らを拒絶され、彼らに背を向けられました。だから詩人は叫びます。

いつまでですか。主よ。あなたがどこまでも身を隠し、あなたの憤りが火のように燃えるのは。。。

主よ。あなたのさきの恵みはどこにあるのでしょうか。それはあなたが真実をもってダビデに誓われたものです。(46,49)

けれども、イスラエルの状態は暗かったのに、神様は変わりませんでした。神様はイスラエル人を自分の土地に一回だけではなく、二回戻されました。

そして、いつかダビデの子孫イエス様はこの世に戻って、神様が約束通りにこの世を永遠に治めてくださいます。

私たちは時々見えないけれど、神様の愛と忠実さは決して変わらないものです。神様が約束されると、いつもその約束を守ってくださいます。

神様はイスラエル人への約束を守ってくださったし、私たちへの約束も守ってくださいます。だから、詩人のように神様に信頼し続けて、歌いましょう。

ほむべきかな。主。とこしえまでも。アーメン。アーメン。(52)

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詩篇

神様!急いでください!

詩篇70篇が詩篇40篇の最後に似ているので、この詩篇について書くかどうかちょっと迷いましたが、40篇の最後の部分についてあまり書かなかったので、やっぱりこの詩篇について書こうと思いました。

私の心を打ったのは、ダビデの必死な祈りです。

神よ。私を救い出してください。主よ。急いで私を助けてください。(詩篇70:1)

また、

私は、悩む者、貧しい者です。神よ。私のところに急いでください。あなたは私の助け、私を救う方。主よ。遅れないでください。(5)

ダビデが私のように祈っていたのを知って、私は少し励まされます。「神様、急いでください。私のニーズを知らないのですか。今あなたの助けが必要なのです。」

ダビデはいつも自分の敵から逃げていたので、彼の気持ちがよく理解できます。

もう一つ励まされることは、時々ダビデが望んでいたほど救いが早く来なかったけれど、その救いは結局来ました。

このように、私たちが望むほど、神様は私たちの祈りに早く答えてくださらないかもしれませんが、最終的には私たちを救い出してくださいます。

あなたは祈りの答えを待っていますか。神様が少し遅いと思っていますか。

祈る時、神様と正直に話しても良いのです。「急いでください」と言っても良いのです。

しかし、覚えておきましょう。神様のタイミングは私たちのものと違うかもしれませんが、神様はいつも忠実な方です。結局、神様は私たちを救い出してくださいます。だから、神様の答えを待ち望みましょう。

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詩篇

何を信頼するか

これはもう一つの私が好きな詩篇です。いつものように、ダビデは困っていましたが、こう歌いました。

私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。

神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。(詩篇62:1-2)

「ただ神を待ち望む」という言葉は私の心を打ちます。

ダビデはいろんな試練を経験したので、人々がいつも忠実なわけではないと分かるようになりました。また、お金や富にも頼ることができないと分かるようになりました。

ダビデはこう書きました。

まことに、身分の低い人々は、むなしく、高い人々は、偽りだ。はかりにかけると、彼らは上に上がる。彼らを合わせても、息より軽い。

圧制にたよるな。略奪にむなしい望みをかけるな。富がふえても、それに心を留めるな。(9ー10)

つまり、人が偉くても、そうではなくても、私たちは彼らをいつも信頼することができないということです。

時々彼らはあなたを裏切るからです。

彼らが忠実でも、いつまでも生きるわけではありません。ある日、彼らは亡くなってしまうので、あなたは彼らにもう頼ることができません。

自分の富に頼る人もいます。しかし、そのお金を盗んでも、そのお金のためにちゃんと働いても、一時的な幸せだけを買うことができます。結局、あなたはお金と持ち物の虚しさを分かるようになります。

だからダビデは、「これらのものに頼りません」と言います。むしろ、彼はこう言いました。

私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。(5)

そして、ダビデは私たちに言います。

民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。(8)

あなたは何に頼るでしょうか。人に頼るでしょうか。富に頼るでしょうか。自分自身に頼るでしょうか。

それらのものは偽りの避け所です。結局、それらのものによって私たちはがっかりします。神様だけが私たちの信頼に値します。だから、ダビデはこの詩篇をこの言葉でまとめます。

神は、一度告げられた。二度、私はそれを聞いた。力は、神のものであることを。

主よ。恵みも、あなたのものです。あなたは、そのしわざに応じて、人に報いられます。(11ー12)

私たちを決してがっかりさせない神に信頼しましょう。

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詩篇

私たちの賛美と信頼にふさわしい神

以前も書きましたが、もし、私が詩篇32篇をスキップしてしまったと思うなら、ずっと前にその詩篇について書いています。私はダビデの人生について書いた時、時々、関係のある詩篇についても書きました。

だから、詩篇32篇について読みたいなら、ここをクリックしてください。

詩人がこの歌をどのように始めるか大好きです。彼は歌います。

正しい者たち。主にあって、喜び歌え。賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい。(詩篇33:1)

「賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい」という言葉は特に好きです。

もし、あなたが主を愛するなら、また、キリストの血によってあなたが神様の目に義と認められるなら、あなたが主を賛美するのはふさわしいことです。

立琴や十弦の琴やギターやピアノを弾いても大丈夫です。アカペラで歌ってもいいです。あなたが音痴なら、喜びの叫びでもいいです。また、あなたが音痴でも、心から歌うなら、神様はその歌を受け入れてくださいます。

どうして、神様を礼拝するのはふさわしい事なのでしょうか。

なぜなら、神様は良い方ですから。神様の言葉のすべては正しいです。また、神様はいつも仰せの通りにされます。神様は嘘つきや、偽善者ではありません。(4)

それに、神様は私たちの創造者です。神様の力によって、全ての物を造られました。(6-8)

そして、私たちは神様の知恵のために賛美します。神様は決して驚かれません。だから、神様の計画と目的は決して変わりません。(10-11)

その最後の事によって、神様は私たちの賛美に値するだけではなく、私たちの信頼に値します。

優柔不断な人に信頼することは難しいです。困る時にすぐにパニックになる人に信頼することは難しいです。また、どうするかよく分からないので、いつも気が変わる人に信頼するのは難しいです。

しかし、神様がすべてを見てくださり、すべてを知っておられ、全てをコントロールしておられるので、神様は私たちが立てられる岩です。

だから、神様が選ばれた人、また神様に属する人は祝福されています。詩人はこう書きました。

幸いなことよ。主をおのれの神とする、その国は。神が、ご自身のものとしてお選びになった、その民は。(12)

神様は私たちの名前を知っておられます。神様は天から私たちを見てくださり、私たちの行動について考えてくださいます。

けれども、神様は私たちのミスを待って、私たちを滅ぼそうと思っておられません。むしろ、神様は私たちを愛しておられるので、私たちが神様を仰ぐのを待っておられます。

しかし、多くの場合、私たちはそうしません。むしろ、私たちは他のものに信頼します。けれども、そのものによって、私たちはよくがっかりします。だから、詩人は私たちに思い出させます。

王は軍勢の多いことによっては救われない。勇者は力の強いことによっては救い出されない。軍馬も勝利の頼みにはならない。その大きな力も救いにならない。(16-17)

しかし、詩人は言います。

見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に。彼らのたましいを死から救い出し、ききんのときにも彼らを生きながらえさせるために。(18-19)

その言葉は、私たちが決して苦しまないという約束ではありません。とはいえ、私たちが苦しむ時、神様は私たちのことを忘れておられるわけではありません。神様の目は私たちに注がれているし、神様は私たちを救い出してくださいます。

この世には、トラブルからの救いが来なくても、天国で、私たちはその救いを見つけます。だからパウロはこう書きました。

死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。(第一コリント15:55)

だから、詩人はこの詩篇の終わりに、こう言います。

私たちのたましいは主を待ち望む。主は、われらの助け、われらの盾。

まことに私たちの心は主を喜ぶ。私たちは、聖なる御名に信頼している。

主よ。あなたの恵みが私たちの上にありますように。

私たちがあなたを待ち望んだときに。(20-22)

アーメン。主イエスよ。すぐに来てください。

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詩篇

自分自身を神様の御手に委ねる

いつダビデが詩篇31篇を書いたか分かりませんが、サウルから逃げた時に書いたかもしれません。

私は21節を見ると、ダビデがケイラという町から逃げた時に(第一サムエル記23章)、この詩篇を書いたのかもしれないと思います。とは言え、それはただ私の意見に過ぎません。

私の心を打つのは、ダビデが神様の助けを請いながら、何回も神様に対する信頼を宣言するということです。

彼はこう言いました。

私の霊を御手にゆだねます。真実の神、主よ。

あなたは私を贖い出してくださいました。(詩篇31:5)

また、

しかし、主よ。私は、あなたに信頼しています。私は告白します。「あなたこそ私の神です。」

私の時は、御手の中にあります。(14-15)

私たち皆、何かしら苦しむ時を経験します。その時、自分自身だけに信頼することは簡単なことです。私たちは自分の状況をコントロールしようとします。

しかし、生きようが死のうが、ダビデは自分の命を神様に委ねました。

彼はこう言いました。

「私の命はあなたの手にあります。周りの人々は私を殺そうとしていますが、あなたが私を生かし続けたいのであれば、彼らは成功しません。だからたとえ私が死ぬことになっても、自分の状況をコントロールしません。」

第一サムエルによれば、ダビデには自分の状況をコントロールする機会が二つありました。ダビデはサウルを殺す機会が二つありましたが、殺すことを拒絶しました。

イエス様は十字架で、その態度を示されました。つまり、イエス様は自分の命を天の父の手に委ねられました。

この詩篇はメシアについての詩篇ではありませんが、ダビデの言葉でイエス様の経験もよく見えます。

ダビデのように、イエス様は悲しみをよく知っておられました。苦しみもよく知っておられました。(10)

ダビデのように、イエス様は非難されました。(11)

ダビデのように、イエス様は友達に捨てられました。(11-12)

ダビデのように、人々はイエス様を謗って、殺そうと思いました。(13)

ダビデのように、イエス様は天の父に叫ばれました。「どうして、あなたは私をお見捨てになったのですか?」(22)

けれども、ダビデのように、イエス様は自分の状況をコントロールしようと思われませんでした。むしろ、自分の命を天の父の手に委ね、死ぬ前に言われました。「私の霊を御手にゆだねます。」(5)

イエス様が天の父に従われたので、今私たちには希望があります。その希望は、もし私たちが神様に信頼するなら、結局私たちは恥を見ない、ということです。(17)

また、神様が私たちに慈しみを与えてくださる希望があります。(19)

また、私たちの救いの希望があります。(22-23)

だから、ダビデのように叫びましょう。

雄々しくあれ。心を強くせよ。すべて主を待ち望む者よ。(24)

神様に心から信頼しましょう。

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詩篇

恐れに屈しない

詩篇11篇を読むと、私はネヘミヤの話について考えます。ユダヤ人がエルサレムの城壁の修理を止めるために、その敵がある祭司を買収して、ネヘミヤにこう言いました。

「あなたを殺すために敵が来ているので、主の宮に隠れなくてはなりません。」

けれども、ネヘミヤは答えました。

私のような者が逃げてよいものか。私のような者で、だれが本堂に入って生きながらえようか。私は入って行かない。(ネヘミヤ記6:11)

ネヘミヤのように、ダビデはこう書きました。

主に私は身を避ける。どうして、あなたたちは私のたましいに言うのか。

「鳥のように、おまえたちの山に飛んで行け。それ、見よ。悪者どもが弓を張り、弦に矢をつがえ、暗やみで心の直ぐな人を射ぬこうとしている。拠り所がこわされたら正しい者に何ができようか。」(詩篇11:1-3)

ダビデとネヘミヤの状況は違いましたが、彼らには共通点がありました。彼らは恐れに屈することを拒絶しました。むしろ、彼らは神様に信頼することを選びました。

周りの人々は慌てて、「大変だ。どうしよう!」と言いましたが、ダビデとネヘミヤは堅く立って、動じませんでした。どうして彼らは怖がらなかったのでしょうか。

ダビデはこう書きました。

主は、その聖座が宮にあり、主は、その王座が天にある。その目は見通し、そのまぶたは、人の子らを調べる。

主は正しい者と悪者を調べる。そのみこころは、暴虐を好む者を憎む。(4-5)

つまり、「神様はここにおられます。神様は何が起こっているか知っておられます。神様はすべてをコントロールしておられます。また、神様は私を見守って、私を攻める人を扱ってくださいます。」

そして、ダビデはこう言いました。

主は正しく、正義を愛される。直ぐな人は、御顔を仰ぎ見る。(7)

あなたはどうですか。ダビデのように、あなたは主に信頼していますか。あなたの世界が崩壊していると思う時、パニックに屈するでしょうか。

それとも、主があなたの砦ですか。主の手が見えなくても、その手があなたを覆うことを信じますか。主に100%信頼していますか。

イザヤはこう書きました。

立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。(イザヤ書30:15)

イスラエル人と違って、恐れに屈しないでください。むしろ、ダビデとネヘミヤのように、忠実な神様に信頼しましょう。

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エレミヤ書

良くても、悪くても

正直に言うと、時々私たちは神様の言葉を好ましく思わないことがあります。つまり、私たちは神様に求められたことをしたくないのです。そのようなとき、神様の言葉を無視し、自分の欲望に集中し、自分の道を行くのは簡単なことです。

この箇所で、ユダ人たちはそうしました。

ゲダルヤが殺害された後、イシュマエルと彼を助けた人々はアモン人のところへ逃げました。なぜなら、アモンの王がイシュマエルをゲダルヤを殺害するために送り込んだからです。

けれども、ユダの将校たちヨハナンとイザヌヤは他の将校たちと共にイシュマエルと戦いました。イシュマエルと8人の仲間は逃げましたが、その将校たちはイシュマエルの虜を解放しました。

その後、ヨハナンとイザヌヤは少し迷いました。彼らはネブカデネザルがゲダルヤの死の責任を追及するのではないかと恐れたため、エジプトに逃げようとしました。

しかし、逃げる前に、彼らはエレミヤに相談しました。

あなたの神、【主】が、私たちの歩むべき道と、なすべきことを私たちに告げてくださいますように。。。

それが良くても悪くても、私たちは、あなたを遣わされた私たちの神、【主】の御声に聞き従います。私たちの神、【主】の御声に聞き従って幸せを得るためです。(エレミヤ書42:3、6)

ところが、おそらく彼らは本当に神様の御心を求めていたわけではありませんでした。むしろ、彼らは神様が自分たちの計画を祝福してくださるように望んでいたのです。

だから、彼らはエレミヤが「神様は、あなたたちがエジプトに行くことを望んでおられる」と言うことを予想して、その準備を始めていたのかもしれません。

けれども、エレミヤは反対のことを語りました。

あなたがたは自分たちのために嘆願してもらおうと私を主に遣わしたが、そのイスラエルの神、【主】はこう言われる。

『もし、あなたがたがこの地にとどまるのであれば、わたしはあなたがたを建て直して、壊すことなく、あなたがたを植えて、引き抜くことはない。わたしは、あなたがたに下したあのわざわいを悔やんでいるからだ。

あなたがたが恐れているバビロンの王を恐れるな。彼を恐れるな──【主】のことば──。わたしがあなたがたとともにいて、彼の手からあなたがたを救い、助け出すからだ。

わたしがあなたがたにあわれみを施すので、彼はあなたがたをあわれんで、あなたがたを自分たちの土地に帰らせる。』(エレミヤ書42:9-12)

しかし、エレミヤは彼らに警告しました。

もし、あなたがたがエジプトに行こうと決意し、そこに行って寄留するなら、あなたがたの恐れている剣が、あのエジプトの地であなたがたを襲い、あなたがたの心配している飢饉が、あのエジプトであなたがたに追い迫り、あなたがたはそこで死ぬ。

エジプトに行ってそこに寄留しようと決意した者たちはみな、そこで剣と飢饉と疫病で死ぬ。わたしが彼らに下すわざわいから、生き残る者も逃れる者もいない。(エレミヤ書42:13,15-17)

そして、エレミヤは彼らに言いました。

あなたがたは、自分たちのいのちの危険を冒して迷い出てしまったからだ。

あなたがたは私をあなたがたの神、【主】のもとに遣わして、『私たちのために、私たちの神、【主】に祈り、すべて私たちの神、【主】の言われるとおりに、私たちに告げてください。私たちはそれを行います』と言ったのだ。

私は今日、あなたがたに告げたが、あなたがたは、自分たちの神、【主】の御声を、すなわち、主がそのために私をあなたがたに遣わされたすべてのことを聞こうとしなかった。(42:20-21)

「あなたがたは、自分たちのいのちの危険を冒して迷い出てしまった。」

なぜでしょうか。それは、彼らが本当に神様を信頼していなかったからです。彼らは神様を求めるふりをしていましたが、心から神様を求めてはいませんでした。

ある英語の聖書では、この言葉を次のように翻訳しています。

「あなたは偽善者です。なぜなら、あなたは私に相談したけれど、自分が聞きたいことだけを受け入れるからです。」

彼らは、神様の言葉に従うことを約束しました。その言葉が良くても悪くても、従うと約束しました。けれども、彼らはその約束を破り、エジプトに逃げました。

あなたはどうでしょうか。神様のアドバイスを求めるとき、偽善的な心を持ってはいないでしょうか。

あなたが「あなたが言うことに従います」と祈るとき、その本当の意味は「もし、あなたの言葉が私がしたいことに合うなら、私は従います」という意味になっていないでしょうか。

時々、私たちにとって神様の言葉が良いと思えることがあります。そのとき、神様に従うことは簡単です。しかし、神様の言葉が気に入らないときはどうでしょうか。

例えば、神様があなたに「安定した仕事を辞めなさい」と語られたら、あなたはどうするでしょう。

また、神様が「ノンクリスチャンの彼や彼女と別れなさい」と語られたら、あなたはどうするでしょう。

神様は私たちの最善を望んでおられます。あなたはそのことを認識し、神様を信頼して従うことができるでしょうか。

あなたはどうするでしょうか。

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エレミヤ書

ジーニーじゃない

エゼキエルがいるバビロンからエルサレムに戻りましょう。ネブカデネザルはエルサレムの包囲を始めていました。

その時、ゼデキヤ王がパニックになり、それまでずっとエレミヤの裁きについての警告を無視していたにもかかわらず、エレミヤにメッセージを送りました。「私たちのために祈ってください。」

ゼデキヤはこう言いました。

どうか、私たちのために主に尋ねてください。バビロンの王ネブカデレザルが私たちを攻めています。

主がかつて、あらゆる奇しいみわざを行なわれたように、私たちにも行ない、彼を私たちから離れ去らせてくださるかもしれませんから。(エレミヤ書21:2)

これを読んだ時、私はアラジンのジーニーの話について考えていました。ゼデキヤ王は神様をジーニーとして考えていたからです。

ジーニーをランプに入れて物置に置いておき、普段はそのジーニーについて考えないけれど、トラブルが起こるとそのジーニーを呼んで助けを頼む、という話です。

でも、神様はジーニーではありません。神様はゼデキヤにこう言われました。

「私は助けてあげません。私はあなたに反対しているからです。私はあなたをネブカデネザルの手に渡します。彼はあなたを『惜しまず、容赦せず、あわれまない。』」(3-7)

それでも、神様はゼデキヤに一つの希望を与えてくださいました。

彼は裁きを避けることはできませんでしたが、死を避ける可能性はありました。そのためには、ゼデキヤは一つのことをしなくてはなりませんでした。つまり、神様に信頼することです。また、神様の言葉に従うことです。

神様はゼデキヤにこう言われました。

「あなたは、この民に言え。主はこう仰せられる。「見よ。わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。

この町にとどまる者は、剣とききんと疫病によって死ぬが、出て、あなたがたを囲んでいるカルデヤ人にくだる者は、生きて、そのいのちは彼の分捕り物となる。

なぜならわたしは、幸いのためにではなく、わざわいのためにこの町から顔をそむけるからである。――主の御告げ――

この町は、バビロンの王の手に渡され、彼はこれを火で焼くであろう。」」(8-10)

つまり、「あなたが今まで私に信頼していないけれど、今私を信じてください。あなたは裁きから逃げられません。バビロン人(つまり、カルデヤ人)にくだるのは怖いかもしれませんが、そうすれば、あなたは生きるのです。」

そして、神様はゼデキヤにこう言われました。「あなたの民に正義を与えなさい。あなたのプライドを捨てなさい。今まであなたがそのことをしていないので、裁きが来ました。」

しかし、ゼデキヤは神様の言葉に従いませんでした。神様がゼデキヤのジーニーのように答えられなかったので、ゼデキヤは神様にもう一度背を向けたのです。だから結局、彼の世界は倒れました。

あなたはどうですか。どのように神様を見なすでしょうか。神様をあなたのジーニーと見なすでしょうか。もしくは、あなたの神として認めるでしょうか。

あなたは神様に信頼しているでしょうか。また、神様に従っているでしょうか。

たくさんの人は、自分の道を行くことを幸せだと思います。また、神様が彼らの願いを叶えるなら、彼らは幸せになると思います。しかし、本当の幸せは、神様を認め、神様に信頼し、従うことです。

神様に信頼し、従おう。
イエス様にあって幸せになるため、
他の方法はないから。

ーージョン・H・サミス

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エレミヤ書

敬い、信頼、服従

この箇所をスキップしてしまうのは簡単なことかもしれません。なぜなら、この箇所は安息日についての内容ですし、パウロがコロサイの教会に宛てて書いた時に、次のように言っているからです。

安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。(コロサイ2:16)

私はその理由をここですでに書きました。

しかし、この箇所から、クリスチャン生活の重要な原則を学ぶことができると思います。

どうしてイスラエル人たちは安息日を守らなければならなかったのでしょうか。それは、安息日を通して、彼らが三つのことを示したからです。

第一に、彼らは神様を創造主として敬うことを示しました。彼らは神様の創造の働きを思い起こし、神様が7日目に休まれたことを覚えました。

第二に、彼らは神様への信頼を示しました。安息日に彼らは休むことで、神様が必要を満たしてくださることを信じました。

第三に、彼らは神様への服従を示しました。信頼と服従は深い関係があります。神様を信頼しないと、神様に従うことは難しいのです。

残念なことですが、イスラエル人たちはその三つのことに失敗しました。神様は彼らにこう言われました。

「もし、安息日を守るなら、私はあなたを祝福します。しかし、そうしないならば、裁きが起こります。」

なぜでしょうか。

安息日を守るのは簡単なことでした。それにもかかわらず、彼らは安息日を守らず、神様を敬わず、神様に信頼せず、神様の命令に従いませんでした。

彼らが安息日を守らなかったことは、彼らの心にある大きな問題の兆候だったのです。

あなたはどうでしょうか。神様を敬っていますか。神様があなたのためにしてくださったことを思い起こし、神様を賛美していますか。

神様に信頼していますか。神様はあなたのために最善の道を知っておられ、あなたの最善を望んでおられることを信じていますか。

また、小さなことでも神様に従っていますか。

神様はイスラエル人たちにこれらのことを望まれました。そして、それは私たちにも同じように望まれています。

私たちが神様を敬い、神様に信頼し、従う者となるように。

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エレミヤ書

大変な時に実を結ぶ

正直に言えば、私たちの人生は難しいものです。

時々、それは私たちの責任ではない場合もあります。

しかし、私たちの悪い選択によって困難な状況に陥ることもよくあります。

エレミヤの時代、ユダ人たちは悪い選択をしたために困難に直面するようになりました。彼らが神様に背を向け、自分自身の道を選んで進んだ結果、さまざまな問題が起こりました。

そのため、神様は彼らにこう言われました。

あなたは、わたしが与えたあなたの相続地を、手放さなければならない。また、わたしは、あなたの知らない国で、あなたを敵に仕えさせる。

あなたがたが、わたしの怒りに火をつけたので、それはとこしえまでも燃えよう。(エレミヤ書17:4)

けれども、エレミヤは悪いことをしていなかったのに、苦しんでいました。彼が神様に従い、反抗的な人々に神様の言葉を伝えたにもかかわらず、苦しんでいました。

そのため、神様はこう言われました。

主はこう仰せられる。

「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわれよ。

そのような者は荒地のむろの木のように、しあわせが訪れても会うことはなく、荒野の溶岩地帯、住む者のない塩地に住む。

主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。

その人は、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実をみのらせる。」(エレミヤ書17:4-8)

この言葉によって、神様はユダ人たちを責められましたが、同時にエレミヤを励まそうとされたのだと思います。

神様はユダ人たちが自分自身に信頼したことを責められましたが、エレミヤにはこう言って励まされました。

「エレミヤ、今あなたが苦しんでいることを知っています。しかし、あなたが私に信頼するなら、私はあなたを祝福します。あなたの状況が辛くても、あなたは私のために実を結びます。あなたの周りの人々が倒れても、あなたは栄えます。」

神様はその約束を守られました。エルサレムが倒れましたが、神様はエレミヤを救い出されました。バビロンの王ネブカドネザルは、エレミヤについてこう命じました。

[エレミヤ]を連れ出し、目をかけてやれ。何も悪いことをするな。ただ、彼があなたに語るとおりに、彼にせよ。(エレミヤ書39:12)

それでも、エレミヤの人生は決して楽なものではありませんでした。けれども、困難な状況の中にあっても、彼は実を結びました。

あなたはどのようなトラブルに直面しているでしょうか。もしかすると、あなたが神様に背を向けた結果、そのトラブルが訪れたのかもしれません。

その場合は、もう一度神様に向かってください。あなたの頑固さと罪を捨てて、もう一度神様に従ってください。

神様に従っているのにもかかわらず、あなたが困難に直面しているでしょうか。そのような時でも、神様に信頼し続けてください。絶望しないでください。

そして、エレミヤのように、あなたも実を結び、この世に良い影響を与えることができます。

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イザヤ書 列王記第二 歴代誌第二

低くされた

以前も言ったように、この出来事が起こった正確なタイミングは分かっていません。残念ながら、聖書は特定の箇所で具体的な説明をしていないため、私は推測するしかありません。

列王記第二17章から18章では、アッシリヤの王セナケリブが北イスラエル王国を攻撃して滅ぼしたことが記されています。

そして彼はユダを攻撃しました。その理由は、ユダがアッシリヤへの貢物の支払いをやめたからです。しかし、セナケリブ王が攻撃しようとした際、ヒゼキヤは自分のお金と主の宮から金銀を取り除いてセナケリブに支払いました。

ところが、セナケリブ王が再び攻撃してきた際、ヒゼキヤは別の準備を進めていました。ヒゼキヤとユダの民は武器を集め、都市の壁を修理し、さらにアッシリヤ人に水が流れないようにするため、エルサレムの外にある泉の水を塞ぎました。

これは私自身の考えですが、そのような状況でも、多分ヒゼキヤはまだ自分自身に頼り続けていたのだと思います。エジプトとの同盟が失敗したにもかかわらず、依然として神様に向かうことはありませんでした。

そこで、神様はヒゼキヤを病気で打たれました。ずっとイザヤの警告を無視してきたヒゼキヤでしたが、ついに主を訪ねるためにイザヤを呼びました。

そして、イザヤが来てこう言ったのです。

主はこう仰せられます。「あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。」(列王記20:1)

ヒゼキヤはその状況をどう感じたでしょうか。エルサレムは包囲され、彼自身は病に倒れて死にかけていました。そして、その時点ではまだ息子がいませんでした。(息子のマナセは3年後に誕生しました。)

彼は神様を責めたかもしれません。「どうしてこんなことが起こるのでしょうか。どうして私を打たれるのでしょうか。」

その怒りは自己憐憫へと変わった可能性もあります。

けれども、最終的に彼は神様の前にへりくだるようになりました。

ヒゼキヤは自分のプライドと罪を悔い改め、神様に祈いました。彼の祈りは、神様がヒゼキヤの過去の良い行い、つまり心から主を求めたことを思い出してくださるよう願うものでした。

そして彼は主の前で涙を流しました。

イザヤはその場を立ち去り始めていましたが、神様が彼を止め、ヒゼキヤへの特別なメッセージを与えてくださいました。

わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたの寿命にもう十五年を加えよう。

わたしはアッシリヤの王の手から、あなたとこの町を救い出し、この町を守る。(イザヤ書38:5-6)

そして、主はしるしを与えてくださいました。それは日時計に下った時計の影を十度後に戻すというものでした。

神様がどのようにそのことをされたのかは分かりません。神様がこの世界を逆方向に回されたのか、光の錯覚を起こされたのかは分かりません。いずれにせよ、神様は約束されたとおりに、ヒゼキヤを癒してくださいました。

私たちはこの出来事から何を学ぶことができるでしょうか。

時に神様は、私たちが神様に目を向けるようにするために私たちを低くされます。もし私たちが神様の言葉に耳を傾けないとしても、神様は私たちを愛しておられるので、私たちを無視することはありません。

神様は私たちの悔い改めのために働いてくださるのです。

ヒゼキヤは次のように書き残しました。

何を私は語れましょう。主が私に語り、主みずから行なわれたのに。私は私のすべての年月、私のたましいの苦しみのために、静かに歩みます。。。

ああ、私の苦しんだ苦しみは平安のためでした。あなたは、滅びの穴から、私のたましいを引き戻されました。あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました。(イザヤ書38:15,17)

あなたは自分の罪によって苦しんでいるでしょうか。神様はあなたを滅ぼすことを望んでおられません。

神様の望みは、あなたがへりくだって生きることです。神様の望みは、あなたが神様に信頼し、あなたの人生が豊かになることです。また、あなたが他の人々にも神様に信頼することを教えることです。

ヒゼキヤは次のように歌いました。

父は子らにあなたのまことについて知らせます。主は、私を救ってくださる。私たちの生きている日々の間、主の宮で琴をかなでよう。(イザヤ書38:19-20)

私たちは自分自身に信頼するのではなく、毎日へりくだって神様に信頼することを選びましょう。そして、その生き方を他の人々に教え、神様への信頼を広めましょう。

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イザヤ書 列王記第二

私たちの力と救いがどこから来るか

歴史の出来事と預言を結びつけるのは確かに少し難しいですが、この二つの箇所のタイミングは一致している可能性があります。

アッシリヤの王セナケリブとその軍隊は再びユダに侵攻し、攻撃しようとしました。理由は、ヒゼキヤ王がアッシリヤへの貢物を納めるのをやめたからです。

セナケリブはユダの城壁のある町々を攻撃し、侵略しました。そのため、ヒゼキヤは恐れ、謝罪して再びセナケリブに貢物を納めました。

けれども、その貢物を納めるために、ヒゼキヤは主の宮の金と銀を取り除かなければなりませんでした。

なぜそうなったのでしょうか。イザヤ書30-31章では、イザヤがヒゼキヤ王に対して「エジプトと同盟を結んではならない」と警告しました。

それにもかかわらず、ヒゼキヤはその警告を無視して、エジプトとの同盟を結びました。それだけでなく、ヒゼキヤとユダの民はイザヤにこう言いました。

「そのようなことを言わないでください。私たちは聞きたくありません。もし何か言いたいなら、私たちが聞きたいことだけを言ってください。例えば、エジプトが私たちを助けてくれるということなど。」(イザヤ書30:10-11)

その結果、神様は「あなたの背きのゆえに裁きが来る」と警告しました。

けれども、その後、神様はこう言われました。

「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」しかし、あなたがたは、これを望まなかった。。。

それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。

幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。(イザヤ30:15、18)

つまり、神様はこう言われました。

「もう諦めなさい。自分自身を救おうとするのを止めなさい。自分の力や知恵に頼るのではなく、悔い改めて、落ち着いて私に信頼しなさい。」

さらに、神様は彼らにこう言われました。

「あなたたちにはエジプトの助けは必要ありません。私は神です。エジプトは神ではありません。私はアッシリヤを打倒することのできる神なのです。」

けれども、以前言ったように、ヒゼキヤは神様の言葉に従いませんでした。それどころか、エジプトと同盟を結び、彼らに多額のお金を送ったのです。

そして、神様の言葉どおり、アッシリヤの手によってエジプトは倒されました。

しかし、その後、イスラエルはすでに多くの金と銀をエジプトに支払っていたため、アッシリヤへの貢物を納めるために、主の宮からその金と銀を取り除かなくてはなりませんでした。

それでもアッシリヤはユダを攻撃しました。そのとき、ついにヒゼキヤは悔い改め、神様に立ち返りました。そして、神様が約束されたとおりにエルサレムを救われたのです。

私たちはこの出来事から何を学ぶことができるでしょうか。

私たちは皆、試練に直面します。そして、自分自身に頼ろうとするのは簡単なことです。

しかし、神様は私たちを助けたいと望んでおられます。神様は私たちの人生に働き、私たちを祝福したいと望んでおられるのです。ですから、神様がヒゼキヤとユダの民に語られたように、私たちにもこう言われます。

ああ、シオンの民、エルサレムに住む者。もうあなたは泣くことはない。あなたの叫び声に応じて、主は必ずあなたに恵み、それを聞かれるとすぐ、あなたに答えてくださる。

たとい主があなたがたに、乏しいパンとわずかな水とを賜わっても、あなたの教師はもう隠れることなく、あなたの目はあなたの教師を見続けよう。

あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く。(イザヤ書30:19-21)

神様は知恵の言葉と慰めの言葉を私たちにささやいておられます。

けれども、私たちはその声に耳を傾けているでしょうか。

私たちは本当に神様に頼っているでしょうか。

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イザヤ書

おぼつかない礎、堅く据えられた礎

預言書の中でよく扱われるテーマの一つは、信頼です。私たちは誰に信頼を置いているでしょうか。私たちの人生の基盤は何でしょうか。

イスラエルは自分自身を守るために、神様ではなく、自分たちの知恵と努力に信頼しました。そして、神様の預言者たちを拒絶し、その真理をわけのわからない言葉として見なしました。

そのため、イザヤは彼らを厳しく批判します。ユダ人たちは、自分たちをアッシリヤから守るために、エジプトと同盟を結びました。けれども、イザヤはその同盟を「死との契約」と比べています。

イザヤは次のように言いました。

あなたがたは、こう言ったからだ。「私たちは死と契約を結び、よみと同盟を結んでいる。

たとい、にわか水があふれ、越えて来ても、それは私たちには届かない。私たちは、まやかしを避け所とし、偽りに身を隠してきたのだから。」(イザヤ書28:15)

イザヤは、皮肉をよく使います。彼はこう言いました。

「あなたがこの同盟を結んだとしても、実際には、あなたは死と契約を結んだのです。

あなたは倒れ、相手の国も倒れるでしょう。だから、自分自身に嘘をついてはいけません。この同盟は、あなたを守ることなどできないのです。」

そして、イザヤは彼らに警告しました。

わたしは公正を、測りなわとし、正義を、おもりとする。

雹は、まやかしの避け所を一掃し、水は隠れ家を押し流す。

あなたがたの死との契約は解消され、よみとの同盟は成り立たない。

にわか水があふれ、越えて来ると、あなたがたはそれに踏みにじられる。それは押し寄せるたびに、あなたがたを捕らえる。それは朝ごとに押し寄せる。昼も夜も。

この啓示を悟らせることは全く恐ろしい。」(17-19)

けれども、こうした警告の中で、イザヤは次のようにも言いました。

だから、神である主は、こう仰せられる。

「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。」(16)

新約聖書の著者たちは、この箇所を使ってイエス様について語ります。つまり、イエス様は私たちの堅く据えられた礎です。

もし私たちがイエス様に信頼するなら、私たちは堅く立つことができ、決して慌てることはありません。

しかし、もし私たちが自分の嘘を信じ、自分の知恵と努力に頼り、神様の言葉をからかうなら、裁きが来て、私たちは滅ぼされるのです。

だから、イザヤは次のように言いました。

だから今、あなたがたはあざけり続けるな。あなたがたを縛るかせが、きつくされるといけないから。

私は万軍の神、主から、全世界に下る決定的な全滅について聞いているのだ。(22)

あなたはどうでしょうか。あなたの礎は何でしょうか。あなたの知恵でしょうか。あなたの努力でしょうか。それとも、イエス様でしょうか。

他の礎では不安定です。もしあなたがその礎に人生を築いたなら、その人生はきっと倒れるでしょう。

しかし、キリストにあって、私たちは堅く据えられた礎を持っています。そして、イエス様に信頼する者は、決して失望させられることがありません。

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イザヤ書

神様に信頼すると

時々、神様に信頼することは難しいです。

多くの場合、私たちが祈る時、私たちは神様の御心を求めずに、神様を私たちの意志に従わせようとします。

「あなたに信頼します。あなたの御心が行われるように」と祈らずに、神様に何かをさせようとします。

だから、私たちが望んだように、神様がその祈りに答えてくださらないと、私たちは怒ります。

また、「神様は私を本当に愛してくださっているだろうか」と訊きます。

でもイザヤはこう言いました。

志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。

いつまでも主に信頼せよ。ヤハ、主は、とこしえの岩だから。(イザヤ書26:3-4)

「志の堅固な者。」

それはどういう意味でしょうか。

と言うのは、変化の風が吹くと、また試練が行ったり来たりすると、私たちの信仰は決して揺れません。私たちは神様に信頼し続けます。私たちは神様に頼り続けます。神様は私たちが自分の人生を立てる岩です。

そうすると、私たちは全き平安のうちに守られます。

ヘブル語では、「平安」、「平安」のうちに守られます、と書いてあります。

なぜ「平安」という言葉を繰り返すでしょうか。その平安は浅くないからです。弱くないからです。試練が来ても、その平安はすぐに吹き飛ばされないからです。

むしろ、その平安は私たちの心に根強くあるものです。何が起こっても、その平安は私たちの心を満たします。

イザヤは続きます

義人の道は平らです。あなたは義人の道筋をならして平らにされます。(7)

つまり、私たちが神様に信頼すると、神様は私たちを導いて守ってくださいます。

箴言3:6でこう書いてあります。

あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

でもプライドによって、自分の道を行く人に対して、イザヤはこう言います。

主は高い所、そびえ立つ都に住む者を引き倒し、これを下して地に倒し、これを投げつけて、ちりにされる。(5)

イスラエルはずっとそのように生きました。

神様は彼らに恵みを与えられたのに、彼らは罪の道を生き続けました。そして、神様は彼らを苦しめられたので、彼らは神様に叫びました。彼らが悔い改めたら、神様は彼らを赦されました。

でも、もし私たちが最初から神様に信頼して従うと、どれくらい私たちの人生がうまくいくでしょうか。

だから、今神様に従いましょう。全てよりも神様を求めましょう。イザヤが言ったように、私たちも言いましょう。

主よ。まことにあなたのさばきの道で、私たちはあなたを待ち望み、私たちのたましいは、あなたの御名、あなたの呼び名を慕います。

私のたましいは、夜あなたを慕います。まことに、私の内なる霊はあなたを切に求めます。(8-9)

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ミカ書

私たちが人々に頼ることができない時に

信頼関係が破れると、その修復は非常に難しいものとなります。浮気によって心に傷を負った人々は、その事実を深く理解していることでしょう。

時として、信頼関係が破れると、他の人々を信頼することさえ困難になります。「この世で一体誰を信頼できるのだろうか」と思うこともあるかもしれません。

ミカもそのように感じた可能性があります。彼の国は暴力と不正義に満ちあふれていました。ミカにとって、誰を信頼すべきかわからない状況だったのです。

リーダーたちや士師たちさえも信頼に値しませんでした。なぜなら、彼らには正義への関心が全くなく、むしろ常に賄賂を要求していたからです。

このような堕落はすべての人々に悪影響を及ぼしました。ミカは次のように言いました。

敬虔な者はこの地から消えうせ、人の間に、正しい者はひとりもいない。みな血を流そうと待ち伏せし、互いに網をかけ合って捕らえようとする。。。

彼らのうちの善人もいばらのようだ。正しい者もいばらの生け垣のようだ。(ミカ書7:2,4)

そして、ミカはこう言いました。

友を信用するな。親しい友をも信頼するな。あなたのふところに寝る者にも、あなたの口の戸を守れ。息子は父親を侮り、娘は母親に、嫁はしゅうとめに逆らい、それぞれ自分の家の者を敵としている。(5-6)

それは確かに暗い言葉ですが、その国の中でミカは深刻な堕落を目の当たりにしていたため、そう感じたのです。

私たちも時として同じように感じることがあります。「この世で一体誰を信頼できるのだろうか」と思うことがあるでしょう。

けれども、間違いなく信頼できるお方がおられます。

ミカはこう書きました。

しかし、私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の願いを聞いてくださる。(7)

たとえ皆が私たちをがっかりさせても、神様は決してそうなさいません。

たとえ皆が私たちに背を向けても、神様は私たちを決してお見捨てになりません。

たとえ皆が私たちを裏切っても、神様は常に私たちに忠実でいてくださいます。

神様はいつも私たちを見守ってくださっています。

神様は私たちの声に耳を傾け、私たちの祈りを聞き入れてくださいます。

神様は私たちが置かれている状況をすべてご存じです。

だからこそ、私たちは主を仰ぎ見て、主を待ち望みましょう。

主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」(へブル13:5-6)