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詩篇のデボーション

私が信じていなかったなら──

もしも私が
生ける者の地で【主】のいつくしみを見ると
信じていなかったなら──。(詩篇27:13)

私が多くのことをコントロールできないこの乱れた世の中で、 もし神様が良い方であり、私を深く愛しておられると信じていなかったら、どうなるでしょうか。

私は失望してしまうでしょう。

私は苦々しい心を抱くでしょう。

私はいつも怒っているでしょう。

私は恐れているでしょう。

イエス様を信頼し、従い続けることは難しくなるでしょう。

しかし、私は信じます。

だからこそ、自分の心を導き、ダビデと共に歌うことを選びます。

待ち望め【主】を。
雄々しくあれ。心を強くせよ。
待ち望め【主】を。(詩篇27:14)

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ヨハネの福音書のデボーション

光を必要とする世界

この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。。。

すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。(ヨハネ1:4ー5,9)

最近のニュースによると、2024年に527人の小中高生が自殺しました。

たとえ1人でも多すぎるでしょう。

ヨハネは、イエス様にはいのちがあり、イエス様が闇の中を歩んでいる人々に光を与える方であると言いました。

闇の中を歩んでいる人々は多いです。希望のない人々は多いです。

彼らはイエス様の光を必要としているのです。

最近、クロスロードでは、私たちは天の父の目について話しています。つまり、神様がどんなまなざしで私たちを見ているのかを理解する必要があります。

その真理を理解すれば、神の光は私たちの闇を照らすでしょう。

イエス様はそのように人々に触れました。人々がイエス様を見るとき、天の父の目を見ました。そして、彼らが神の目を見たとき、神の光は彼らの闇を照らしました。

だから、私の祈りは、人々が私のうちに住んでおられるイエス様を見るようになることです。

私の妻、娘、生徒たち、同僚たちが私の目を見るとき、私の天のお父さんの目を見ることができるように祈ります。

そして、私を通して、神様が彼らの闇を照らしてくださるように祈ります。

私たち皆が天のお父さんの目を持つように。

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マタイの福音書のデボーション

イエス様につまずいた?

イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしていることをヨハネに伝えなさい。

目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。

だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」(マタイの福音書11:4-6)

イエス様が私たちの望み通りにしてくださらないとき、私たちは皆、失望することがあるでしょう。

ヨハネも、きっとそのように感じたことでしょう。彼は、イエス様がローマ帝国を倒し、神の御国を確立されることを望んでいました。

しかし、ヨハネは牢に入れられ、最終的には処刑されてしまいました。

それは辛い真理ですが、イエス様が私たちの願い通りに行動されないこともあります。

それでも、ヨハネへのイエス様のメッセージは、私たちへのメッセージでもあります。

「私はあなたの希望です。あなたには今、私が見えないかもしれませんが、私はあなたの益のために働いています。そして、あなたが私に希望を託すなら、最終的にあなたは失望させられることはありません。」

だから、2023年に目を向けるとき、その約束を覚え、ヘブル人への手紙の著者の言葉を心に留めておきましょう。

ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはいけません。その確信には大きな報いがあります。あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。

「もうしばらくすれば、来たるべき方が来られる。 遅れることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし恐れ退くなら、 わたしの心は彼を喜ばない。」

しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。(ヘブル人への手紙10:35ー39)

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詩篇

神様の沈黙

ヨブが詩篇88篇を書いたわけではありませんが、この詩篇を読むとき、私はヨブの話を思い浮かべます。なぜなら、この詩人は自分の苦しみの中にある神様の沈黙について話すからです。

けれども、実生活と同じように、この詩篇にはハッピーエンドがありません。

詩人は叫びます。「神様。私の声を聞いてください。あなたはここにおられるでしょうか。私はトラブルで圧倒されています。私は病気で、死にかけています。もう私の力はなくなってしまいました。」(詩篇88:1-5)

そして、詩人は、どうして神様がそのトラブルを送ったのか尋ねて、文句を言います。詩人は何度もこう言います。

「あなたは私を最も深い穴に置いておられます。」(6)

「あなたの激しい憤りが私の上にとどまります。」(7)

「あなたは私の親友を私から遠ざけ、私を彼らの忌み嫌う者とされました。」(8)

そして、彼は叫びます。「私はあなたを呼んでいる。どうして、あなたは隠れておられるでしょうか。どうしてあなたは私を拒絶しておられるのでしょうか?私の生涯、ずっと苦しんでいます。私は独りぼっちです。」(13-18)

それは、この詩篇の終わりです。

希望の言葉も、慰めの言葉もありません。

時々私たちもそう感じることがあるでしょう。もし、あなたがそう感じたら、覚えておきましょう。たくさんの人々もそう感じたことがあります。あなただけではありません。

もちろん、この詩人はそう感じました。多分、すべてのクリスチャンはそう感じたことがあると思います。

ある人は諦めて、その穴を決して出ませんでした。そのような人にならないでください。

覚えておきましょう。あなたの信仰はあなたの感情に基づいてはいけません。むしろ、神様の性格とみ言葉に基づいていなければなりません。

あなたの感情は時々揺るぐかもしれません。それは不安定なものです。だから、感情は信頼できる土台ではありません。

サタンはそのことをよく知っています。だから神様が沈黙されるとき、サタンはあなたを絶望させようとします。あなたの信仰を奪おうとします。

私たちの感情はいつも変わります。しかし、神様とその言葉は決して変わりません。あなたは神様の約束を信頼できます。

だから、落ち込んでいる時や失望している時、自分の感情に頼らずに、神様とその約束に頼りましょう。

そうすれば、どんなに暗いトンネルを通っても、あなたは最終的には抜け出すことができるのです。

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エレミヤ書

一時的なものを求める、永遠のものを求めること

エレミヤの書記バルクは自己憐憫に浸っていました。バルクはエホヤキム王にエレミヤの言葉を伝えましたが、エホヤキム王はその巻物を切り裂き、焼き尽くしてしまいました。

そのため、バルクは本当に落ち込んでいました。彼は言いました。

ああ、哀れなこの私。主は私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果て、いこいもない。(エレミヤ書45:3)

つまり、「どうして私はこんな仕事をしているのだろうか。エレミヤと主に仕えていますが、どんな報いを受けているのでしょうか。私は彼らに従いますが、いつも私はトラブルに巻き込まれることになってしまいます。

他の仕事を選んだ方がよかったのかもしれません。私はもっとお金をもらえる仕事をした方がいいのでしょうか。どうして私は、このようなことで時間を無駄にしているのでしょう。」

しかし、神様はこう答えられました。

見よ。わたしは自分が建てた物を自分でこわし、わたしが植えた物を自分で引き抜く。この全土をそうする。

あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな。

見よ。わたしがすべての肉なる者に、わざわいを下すからだ。――主の御告げ――

しかし、わたしは、あなたの行くどんな所ででも、あなたのいのちを分捕り物としてあなたに与える。(4-5)

神様は何を言われているのでしょうか。この世は一時的なものだということです。いつか、私たちが見えるものは全てなくなります。

だから、この一時的な世のものを求めないでください。むしろ、神様と神の国を求めてください。そうすれば、他の人々が滅びるかもしれませんが、あなたは本当の命を見つけるでしょう。

あなたが正しいことをすると、時々失望することがあるでしょうか。神様に仕えることは時間の無駄遣いだと思われるでしょうか。この世のものを求めた方が良いと思われるでしょうか。

一時的なものを求めないでください。永遠のものを求めてください。そうすれば、本当の命と報いを見つけるでしょう。

だからこそ、パウロはこう言いました。

善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。(ガラテヤ6:9)