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マルコの福音書のデボーション

初めの愛

けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。(ヨハネの黙示録2:4)

最近、私はこのことばを思い巡らしていました。

初めの愛の特徴とは何でしょうか。おそらく、その主な特徴は「喜び」ではないでしょうか。

では、何がその愛を芽生えさせるのでしょうか。それは、私たちに対する神の愛とあわれみです。(第一ヨハネ4:19)

今日の箇所に登場する金持ちは、そのような愛を持ったことがないように見えます。自分はすでに良い人間だと思っていて、あわれみを必要と感じることがなかったのでしょう。(マルコ10:19〜20)

だからこそ、イエス様が彼に、持ち物のすべてを売り払い、ご自身に従うよう招かれたとき、彼は喜ぶことなく、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去りました。(マルコ10:21〜22)

一方、弟子たちはイエス様を愛していましたが、その動機にはまだ混じりけがありました。彼らはいつもこう考えていました。

「もしイエス様に従うなら、どのような益を受け取ることができるだろうか。」(マルコ10:28、35〜37)

しかし、バルティマイがイエス様に従ったとき、彼の心は大きな喜びに満ちていました。(ルカ18:43)

なぜでしょうか。

それは、バルティマイがあわれみを求め、そして受け取ったからです。

それこそが、初めの愛です。

イエス様は私を見つめるたびに、いつくしみをもって、あわれんでくださいます。(マルコ10:21、47)

私は、そのことを決して忘れないように祈ります。 そして、その愛を、決して当たり前のものと思わないように祈ります。

あなたのためにも、私はそのように祈ります。

Because you first loved me,
あなたが私をまず愛してくださったから
Jesus, you will always be
イエス様、あなたはこれからもずっと
You will always be
これからもずっと
My first love.
私の初めの愛です ーー ボブ・ハートマン

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マルコの福音書のデボーション

自給自足?神様に頼る?

イエスが家に入られると、弟子たちがそっと尋ねた。「私たちが霊を追い出せなかったのは、なぜですか。」

すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。」(マルコの福音書9:28-29)

今日、弟子たちとその失敗について思いを巡らせていました。彼らは男の子から悪霊を追い出そうとしましたが、できませんでした。

どうしてでしょうか。彼らは自分自身の権威と力に頼っていたように見えます。「祈ろう」という発想はまったくありませんでした。

その場面を読んで、私はこう思いました。「私は、弟子たちのようにどれほど振る舞っているだろうか。神様とその力に頼ることなく、どれほど自分に頼っているだろうか。」

私の最初の本能は祈ることだろうか。自分の力を超える問題に直面するときだけでなく、どんな状況であっても、それが私の第一の反応だろうか。

天のお父さん、私が決して自分の力で生きようとせず、いつもあなたに頼って生きる者となれますように。

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ヨハネの福音書のデボーション

平安があなたがたにあるように

「平安があなたがたにあるように。」(ヨハネの福音書20:19)

その時代も今も、ユダヤ人の間ではそれは日常的な挨拶です。

でも、それはただの挨拶だったでしょうか。イエス様はその言葉を繰り返して言われたので、たぶんそうではありません。

弟子たちは未来を恐れ、隠れていました。

イエス様がご自分を現されても、弟子たちは自分の失敗を考えて、どれほど不安を感じたでしょうか。

でも、イエス様は「平安があなたがたにあるように。私はここにおります。あなたたちの失敗に関わらず、受け入れております」と言われました。

そして、平和を持たない人々のところに、イエス様は弟子たちを遣わされました。

でも、平和の御霊が私たちのうちに住んでおられないなら、周囲の人々に平和を与えるのは難しいです。

だから、イエス様は彼らに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい。」

イエス様はあなたを遣わしたいと思っておられます。でも、あなた自身は平和を持っているでしょうか。

もしくは、あなたは未来を恐れているでしょうか。

それとも、神様があなたに関して何を思っておられるのか常に心配しているでしょうか。

覚えておきましょう。イエス様はあなたに言われます。「平安があなたがたにあるように。」

イエス様はすでに御霊をあなたに与えてくださいました。恐れの霊ではなく、私たちと一緒に「アバ、父」と叫ばれる御霊です。私たちは神との平和を持っています。(ローマ5:1,5;8:15)

だからその平和を持って、安心しましょう。そして、平和を持たない人に神の平和を与えましょう。

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マタイの福音書 マタイ10章

偉い?取るに足りない?

イエス様がこの話をどのようにまとめられるかは、本当に興味深いですね。イエス様は弟子たちに「あなたを受け入れる者は、私を受け入れる」と言われました。

そのように、福音を拒絶する人は、イエス様をも拒絶しているのです。

つまり、相手があなたを拒絶しても、自分を責めないでください。彼らの拒絶は辛いかもしれません。特に、あなたがその人を愛しているなら、その拒絶はなおさら痛いかもしれません。

しかし、あなたが悪いというわけではありません。むしろ、彼らはあなたが代表する方を拒絶しているのです。

とはいえ、イエス様はこの原則を別の方法でも用いられます。

つまり、預言者を受け入れる者は、預言者が受ける報いを受けます。また、義人を受け入れる者は、義人が受ける報いを受けます。

おそらくイエス様は、弟子たちのニーズに応える人々について話されているのだと思います。そのような人々が弟子たちの食料や必要なものを整えるなら、彼らは弟子たちと同じ報いを受けることになります。

では、どうしてイエス様は弟子たちにこのことを語られたのでしょうか?おそらく、イエス様は弟子たちに次のような教えを伝えたかったのだと思います。

「もちろん、あなたの仕事は非常に重要です。それでも、他の人々を見下してはいけません。その人々も神様の働きをしているのです。そして、あなたのニーズを整える人々も、あなたと同じ名誉を受けるに値します。」

弟子たちは「霊的な仕事」をしているかもしれませんが、他の人々は弟子たちの奉仕を支える働きをしています。その人々がいなければ、弟子たちは自分の使命を果たすことができなかったでしょう。

私たちの多くは、牧師や教師、ワーシップリーダーのような目立つ役割の人々を特別視することがあります。しかし、背景で働く人々に目を向けることが少ないのではないでしょうか。

たとえば、礼拝のために椅子を並べたり、マイクやスピーカーをセットしたりする人々もいます。彼らも同様に栄誉を受けるべき存在です。

そして裁きの日、神様は彼らにも牧師やワーシップリーダーたちと同じ報いを与えてくださるのです。

要するに、神様がその人々を称賛されるならば、私たちも彼らを褒めたたえるべきです。

そして、イエス様はさらにこう言われました。

わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。(マタイの福音書10:42)

それを言われたとき、イエス様は小さな子供を抱いていたのかもしれません。または、イエス様が弟子たちを「小さいもの」と呼ばれた可能性もあります。

もしイエス様が小さな子供について話されていたのなら、覚えていてください。神様にとって、キリストに属する小さな子供たちを世話することは本当に大切な働きです。

もしイエス様が弟子たちや預言者について話されていたのなら、彼らも「小さいもの」です。だからこそ、あなたがリーダーの立場にいるなら、偉そうな態度を取ってはいけません。

あなたは「偉い人」だと思いますか?覚えていてください。

神様にとって、ほかの人々が行う神の国の仕事も非常に重要です。神様は、人々の前で行われる仕事も、裏方で行われる仕事も同じように称賛されます。だから、背景で働く人々にも敬意を示しましょう。

あなたは「取るに足りない」立場だと思っていますか?覚えていてください。あなたが忠実に仕えるなら、神様はあなたにも「偉い人」と同じ報いを与えてくださいます。

なぜなら、神様の目には私たち全てが貴い存在であり、忠実な者に豊かな報いを与えてくださるからです。