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ガラテヤ人への手紙のデボーション

あなたのいつくしみ深い霊が私を導いてくださいますように

御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。。。

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。。。

私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。(ガラテヤ人への手紙5:18、22ー23、25)

今日の箇所を読んだとき、私はこう思いました。「単なるルールの一覧ではなく、生きておられる神の御霊に従っていて、よかった。」

なぜなら、ルールの一覧は、私の弱さを見たときに、あわれみも思いやりもまったく示してくれないからです。私の存在に心を留めてくれることもありません。

しかし、御霊は冷たく無関心なお方ではありません。むしろ、私の弱さに対して、あわれみと心遣いをもって応えてくださいます。

正直に言えば、私は御霊との関係を親しく感じるのが少し難しいです。なぜか、天のお父さんやイエス様ほどには、御霊が人格を持つお方として心に届いてこないことがあります。

けれども、御霊の実が「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」であるなら、まさに御霊ご自身がそのようなお方なのでしょう。私を見つめるとき、きっとそのような御顔を向けてくださっているのではないでしょうか。

今日、私はそのようなことを思い巡らしています。そして、私の悲しみと苦しみの中で、天のお父さんに祈っています。

あなたのいつくしみ深い霊が平らな地に私を導いてくださいますように。(詩篇143:10)

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ガラテヤ人への手紙

御霊の実が形作る人間関係

神様との関係について考えるとき、私たちは次のような質問をよくします。「私は毎日、聖書を読んでいるだろうか。毎日祈っているだろうか。毎週の日曜日に教会へ行っているだろうか。」

けれども、神様との関係や自分の霊的な健康を考えるとき、本当に重要な尺度は私たちの人間関係です。

今日の箇所では、その真理を見ることができます。割礼やモーセの律法の従順についての議論のせいで、ガラテヤの教会では多くの人間関係の問題が次々と起こったようです。つまり、嫉みや争い、憤り、党派心、分裂などが生じたのでした(ガラテヤ人への手紙5:20-21)。

そのため、パウロは彼らに警告しました。

気をつけなさい。互いに、かみつき合ったり、食い合ったりしているなら、互いの間で滅ぼされてしまいます。(ガラテヤ人への手紙5:15)

そして、パウロは、人間関係の中で私たちが御霊の実を結ぶべきであると語ります。例えば、愛、寛容、親切、善意、誠実などです。(22-23)

前回の記事で、私たちはガラテヤ人へのパウロの訓戒を見ました。

「あなたたちは、古い生き方を十字架につけたのではないでしょうか。その生き方に戻ってはなりません。自分の罪深い心に従ってはいけません。むしろ、御霊によって歩みなさい。

もしあなたたちがうぬぼれて、互いに挑み合ったり、妬み合ったりすると、聖霊様の導きに従うことができません。」(24-26)

では、私たちは互いにどのように接するべきでしょうか。6章では、パウロは実用的な勧告を与えています。

兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。(6:1)

律法主義的なクリスチャンには、二つの問題がありがちです。それはプライドと他者を責めることです。プライドによって、私たちは「私は良い人だ」と主張します。そして、人を責めるとき、私たちは「おまえはだめだ」と言ってしまいます。

もしかすると、ガラテヤの教会で、罪に陥った人がいたとき、ほかのクリスチャンたちは狼の群れのようにその人を攻撃したかもしれません。

けれども、パウロは彼らに問いかけました。「あなたたちは本当に御霊の人でしょうか。御霊はあなたたちを本当に導いているでしょうか。あなたたちは御霊の実を結んでいるでしょうか。

御霊の実は、柔和、親切、寛容、愛です。そのような態度をもって、その人を扱うべきです。その人を滅ぼそうとしてはいけません。その人を正してあげなさい。」

その際には謙遜な態度を持ちなさい。あなたたちも弱い者であることを認めなさい。あなたが罪に陥る可能性もあることを認めなさい。だから、相手の罪だけに集中するのではなく、自分自身も罪に落ちないように気をつけなさい。

そして、パウロはこう語りました。

互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。(6:2)

パウロが意味したことは、あるクリスチャンが罪悪感の重荷を担っているときや、罪と戦っているときに、私たちがその人を支え、励ますべきだということです。

パウロの言葉を言い換えると、「あなたはキリストの律法を守りたいと思うでしょうか。罪と戦っている人を攻撃してはなりません。その人を励ましなさい。その人のために祈りなさい。」

もちろん、罪だけではなく、クリスチャンが他の問題を抱えているときにも、私たちはその人を支え、励ますべきです。

それこそが御霊に導かれる人です。その人は、ただ聖書を読み、祈るだけではありません。むしろ、その人の人間関係には、御霊の実が豊かに結ばれます。

私は自分がそのような人かどうか分かりません。それでも、そのような人になりたいと願っています。あなたはどうでしょうか。

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ガラテヤ人への手紙

全く新しい生き方

前回の記事では、罪の豚小屋から自由にされた私たちが、再びその豚小屋に戻らないことについて話しました。

しかし、パウロはもう一度繰り返します。私たちは、自分の力で律法を守ろうとする態度によって、その豚小屋を避けることはできません。

むしろ、パウロはこう言います。

私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。

肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。(ガラテヤ人への手紙5:16-17)

パウロはこうは言いませんでした。「自分の力で律法を守れば、肉の欲望を満たさないだろう。」

むしろ、パウロは「御霊によって歩みなさい」と言います。要するに、私たちは毎日、聖霊様の力と導きによって歩まなければなりません。

だから、私たちは毎日、聖書を読み祈った後、神様に「じゃあ、行ってきます。またね。」とは言いません。

むしろ、私たちはこう祈るべきです。「聖霊様、私とともに歩んでください。一日中、私があなたの御声を聞こえるように。私があなたの導きに従うように助けてください。」

そうすれば、私たちは罪深い心の欲望を満たしません。

なぜでしょうか。私たちの罪深い心が望むことは、聖霊様が望まれることと正反対だからです。私たちの古い態度や習慣は、聖霊様が私たちの人生に望まれることとは、まったく異なっています。だから今なお、私たちは罪と戦い続けます。

パウロはローマ人への手紙 7:14-25 で、その戦いについて語っています。

しかし、毎日毎日、一瞬一瞬、私たちは聖霊様の声を聞き、従うことを学ぶにつれて、もはや古い道を歩むことはなく、むしろ、聖霊様は私たちを全く異なる道へと導いてくださいます。

だから心に留めておきましょう。律法の下にある人生は、聖霊様によって生きる人生とはまったく異なるものです。パウロはこの真理をはっきりと伝えています。

御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。(18)

その二つの道は、どのように違うのでしょうか。

律法の下にある場合、私たちは自分の力で生きなければなりません。つまり、自分の力で律法に従わなければならないということです。

けれども、聖霊様によって生きる場合、私たちは聖霊様の力によって生きます。

また、律法の下にある場合、私たちは常に裁かれているように感じます。

一方で、聖霊様によって生きる場合、私たちは「アバ、父」と叫びます。

さらに、聖霊様によって生きる人生は、罪の支配下にある人生とはまったく異なります。

パウロは、さまざまな罪を列挙しましたが、その内容は恐ろしいものです。(19-21)

パウロによれば、そのような罪を犯し続ける者は神の国を相続できません。

その一方で、聖霊様が住んでおられる人は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制を持つ人です。(22-23)

ここで二つのことに注意してください。

一つ目は、その実があなたの人生において未成熟かもしれませんが、成長しているはずだということです。今のあなたの人生は、以前の人生と比べると、少なくとも少しは変化しているはずです。

二つ目は、パウロが「あなたの努力の実は、愛、喜び、平安などです。」とは言わないことです。むしろ、「御霊の実は、愛、喜び、平安などです。」と言います。

あなたが、まことのぶどうの木—つまりイエス様にとどまるなら、その実を結び始めるのです。(ヨハネ15章)

けれども、その関係を持っていなければ、その実を結ぶことはできないのです。

だからこそ、私たちは律法を守ることに集中すべきではありません。むしろ、イエス様と聖霊様とともに歩むことに集中すべきです。

そして、パウロはこう語ります。

キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。(24)

真のクリスチャンたちは、神様に対する頑なで反抗的な心を十字架につけました。彼らは罪深い心に屈服しません。罪との戦いはあるかもしれませんが、その罪を抱くことはありません。

だからこそ、パウロは私たちに訓戒します。

私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。(25)

あなたは、神様が与えてくださった聖霊様によって永遠の命を受けました。

それでも今、あなたは自分の力でクリスチャン生活を送ろうとしていないでしょうか。

あるいは、あなたは毎日、神様について行き、御声を聞き、神様の力によってその導きに従っているでしょうか。

あなたは、どのように生きていますか。