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マルコの福音書のデボーション

イエス様が生きておられるゆえに

青年は言った。「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。」(マルコの福音書16:6)

明日、母の葬式のためにハワイへ旅します。そして、葬式のあと、私たちは遺灰を地面に葬ります。

しかし本当のところ、母の本質は地面に葬られるのではありません。母の魂はイエス様と共にあるからです。やがて、その遺灰は地面からよみがえり、新しい体へと変えられ、母の魂と結び合わされるのです。

その体は朽ちず、死ぬことのないものとなります。

それが私の希望です。イエス様が生きておられるゆえに、母も生きるのです。(ヨハネ14:19)

そしていつか、私の体が死んでも、神の恵みによって、私も生きるのです。

Many still mourn
多くの人が今も嘆いており、
And many still weep
多くの人が今も涙を流しています。
For those that they love who have fallen asleep
眠りについた愛する人々を思って。

But we have this hope though our hearts may still ache
しかし、心がまだ痛んでいても、私たちには希望があります。
Just one shout from above
天からの大きな呼びかけによって、
and they all will awake
すべての眠る者たちは目を覚ますのです。

And in the reunion of joy we will see
喜びに満ちた再会のうちに、私たちは目にするのです。
Death will be swallowed in sweet victory.
死は、胸のすくような勝利に飲み込まれるのです。ーーボブ・ハートマン

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マルコの福音書のデボーション

生きている者の神

死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の箇所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。

『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。

神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。(マルコの福音書12:26ー27)

3週間前、私の母はこの世を去りました。 おそらく、そのため、上の箇所は私の心に響きます。

「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。」

そして、いつかの日、天の父はイエス様のすべての敵をその足の下に置かれます。 その最後の敵は、死です。(第一コリント15:26ー27)

私は母に再び会います。

だからこそ、悲しみの中でも、喜びをもって、キリストの勝利の歌を歌っています。

死は勝利に吞み込まれた。
死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。
死よ、おまえのとげはどこにあるのか。(第一コリント15:54ー55)

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ルカの福音書のデボーション

権威

イエス様、あなたは私の王です。でも、私の人生で、あなたの権威を完全に認めているでしょうか。

百人隊長はあなたの御言葉の権威を認めていました。(ルカの福音書7:7ー8)

私もその権威を認めているでしょうか。

あなたの御言葉は、死人を復活させる力を持っておられます。(ルカ7:14ー15)

そして、いつの日か、あなたの御言葉によってすべての死人が復活し、あなたが彼らを裁かれます。私も裁かれるでしょう。(ヨハネ5:25ー29)

その日、あなたは私に何を語られるでしょうか。私の信仰に驚かれるでしょうか。私が完全にあなたを信頼し、その御言葉に従ったことを喜ばれるでしょうか。

それとも、あなたは「なぜあなたは、わたしを「主よ、主よ」と呼びながら、わたしの言うことを行わなかったのですか。」と尋ねられるでしょうか。(ルカ6:46)

私はあなたを心から信じています。それでも、私たちの信仰を増し加えてください。すべてにおいて、あなたに従うことができるよう導いてください。

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ヨハネの福音書のデボーション

本当のところ神様は私のことをどう思っておられるの?

イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。しかし、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。(ヨハネの福音書11:5ー6)

多くの人々、クリスチャンたちを含めて、「本当のところ神様は私のことをどう思っておられるのだろうか」と疑問に思います。

イエス様がすぐに来られず、ラザロが亡くなったとき、たぶんマルタとマリアもイエス様について同じことを考えていたでしょう。

「イエス様は本当に私たちを愛しておられるのでしょうか。なぜ来てくださらなかったのですか?なぜ兄を癒してくださらなかったのですか?」

しかし、真実は何だったのでしょうか。本当のところイエス様は彼らのことをどう思っておられたのでしょうか。

イエス様はラザロ、マルタ、マリアを愛しておられました。

私たちが苦しんでいて、神様が沈黙されている時、神様が私たちのことをどう思っておられるのか疑問に思うのは簡単なことです。

でも、覚えておきましょう。神様は私たちの味方です。さらに、神様は私たちを深く愛してくださっています。(ローマ8:31ー32)

そして、何も、死のとげさえも、私たちを神様の愛から引き離すことはできません。(ローマ8:38ー39;ヨハネ11:25)

でも私たちが自問しなければならないのは、その真実を信じるかどうかです。(ヨハネ11:26)

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ピリピ人への手紙のデボーション

自分の救いを達成するよう努める

こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。(ピリピ人への手紙2:12)

今日、「自分の救いを達成するよう努める」という言葉を考えていました。それはどういう意味でしょうか。

ピリピ人への手紙3章では、パウロがその意味を説明していると思います。

彼は、義と認められるために律法を守ろうとすることを意味していませんでした。彼の義は、イエス様の十字架の働きを信じる信仰に基づいていました。(ピリピ3:9)

では、「自分の救いを達成するよう努める」とは、どういう意味でしょうか。

1.イエス様との関係を追求することです。イエス様を知ることは、パウロの究極の情熱となりました。

2.ますますイエス様のようになることです。パウロはイエス様の復活の力を経験し、その力によってイエス様のように変えられることを望みました。

でも、イエス様と共によみがえられる前に、パウロはイエス様と共に死ななければなりませんでした。

イエス様がただ一度罪に対して死なれたように、パウロは罪に対して死んだ者となり、また神に対して生きている者となるように学ぶべきでした(ローマ6:10ー11)。

そして、キリストの苦しみに参加することで、パウロは罪との関わりを断ち、神のみこころに生き始めていることを証明しました(第一ペテロ4:1ー2)。

それは、自分の救いを達成するよう努めるということです。

でも、それは一生続くプロセスです。パウロ自身も、まだそのプロセスを終えていないことを認めました。

彼はまだ失敗しました。彼はまだたどり着いていませんでした。

でも、恵みによって、イエス様はパウロを捕えてくださいました。だから、パウロは受けた救いを完全に捕らえるように努め、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めました。

パウロを捕えてくださったイエス様が、私をも捕えてくださったことに驚いています。だから、パウロのように、私も受けた救いを完全に捕えるように努め、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めています。

私はまだ失敗します。私はまだたどり着いていません。でも、神様が私に恵みと愛を与えてくださったという確信を持ち、パウロと共に言います。

うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。(ピリピ3:13ー14)

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ローマ人への手紙のデボーション

いのちの新しさ

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。

それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。(ローマ人への手紙6:4)

ある英語の訳が大好きです。その訳者たちは、「いのちの新しさ」という表現を使っています。私たちは、いのちの新しさを喜び、歩むべきです。

私は、罪と死の臭いが漂っている墓の中を歩きたくありません。私は、義といのちの新鮮な空気を吸いたいのです。

私は、腐敗している罪の埋葬布に包まれて歩きたくありません。私は、キリストの義の衣を着たいのです。

ちょっと想像してみてください。イエス様がラザロを復活させて、「出てきなさい」と言われたのに、ラザロがこう答えます。

「いや、けっこうです。この布に包まれて、墓の中を歩き回るのが好きなんです。」

ばかげた話でしょう。

私は、新鮮な空気を吸い、新しい衣を着て、自分自身を義の道具、義の武器として神様に捧げ、たくさんの人々を奴隷にしているサタンと戦いたいのです。

イザヤのように、私は神様の前に立ち、自分自身を捧げ、「ここに私がおります。私を遣わしてください」と言いたいです。

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ヨハネの福音書のデボーション

見よ、あなたの王だ

ピラトはユダヤ人たちに言った。「見よ、おまえたちの王だ。」(ヨハネ19:14)

すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」

こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。(20:19-20)

見よ、あなたの王だ。
血まみれで、体が引き裂かれた王。

見よ、あなたの王だ。
茨の冠をかぶせられた王。

見よ、あなたの王だ。
殴られ、顔があざだらけになった王

見よ、あなたの王だ。
不当に虐待された王。

見よ、あなたの王だ。
木にかけられた王。

見よ、あなたの王だ。
あなたのために死なれた王。

見よ、あなたの王だ。
墓から脱出された王。

見よ、あなたの王だ。
栄光によみがえられた王。

見よ、あなたの王だ。
手と脇腹を突き刺された王。

見よ、あなたの王だ。
その平安にとどまりましょう。

見よ、あなたの王だ。
すぐに来られる王。

見よ、あなたの王だ。
新しい天と地を造られる王。

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マタイの福音書のデボーション

わたしはあなたの神

死人の復活については、神があなたがたにこう語られたのを読んだことがないのですか。

「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。(マタイの福音書22:31-32節)

冬休みにハワイに帰ったとき、11年前に父の遺灰が散骨された場所を訪れました。

今日の個所を読んだとき、キリストにある私たちの希望を思い起こしました。

「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とおっしゃった神は、今こう語っておられます。

「わたしは、あなたの父ジョージの神である。わたしは、ロブ牧師や、あなたが愛し、私を知っていたすべての人々の神である。さらに、わたしはあなたの神である。

今よりとこしえまで、わたしはあなたの神である。なぜなら、今よりとこしえまで、わたしはインマヌエル、あなたと共におられる神であるから。」

主よ、あなたにある希望を感謝します。あなたは死んだ者の神ではなく、あなたを知っている生きている者の神です。

だから、暗闇の中にいる人々や、絶望している人々に、その希望を伝えることができるように助けてください。今年、私があなたにある希望を彼らに分かち合うことができるように助けてください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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テサロニケ人への手紙第一

私たちの希望

「希望は、生きている者のためです。死者は希望を持っていません。」

古代ギリシャの詩人がそう語りました。 パウロの時代、多くの人々はそのように死を受けとめていたのです。

実際、私が多くの日本人と話すとき、彼らもほとんど同じようなことを言います。 死後について、希望を持っていないのです。 彼らにとって、この人生こそがすべてなのです。

周囲の影響を受けて、テサロニケの人々もまた、死後の希望を十分に持っていなかったようです。 そして、信仰のゆえに殺されるクリスチャンたちの姿を見て、彼らは問いを抱いたのです。

「イエス様がこの世に帰ってこられるとき、 すでに死んだクリスチャンたちはどうなるのか。 彼らはその日の喜びと希望を取り損ねてしまうのだろうか。」

しかし、パウロは彼らにこう語ったのです。

眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです。

イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。

私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。

すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。

そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。

こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。(テサロニケ人への手紙第一4:13-18)

どうして、私たちは死後の希望を持つことができるのでしょうか。 それは、イエス様ご自身が死んで、よみがえられたからです。 イエス様は私たちにこう語られました。

わたしが生きるので、あなたがたも生きる。(ヨハネ14:19)

また、パウロによれば、イエス様がこの世に戻られるとき、 すでに死んだ人々は復活し、空中でイエス様と会うのです。

さらにこの手紙の中で、パウロは、私たちが死ぬとすぐに主のみもとに行くと教えています。(第一テサロニケ1:23)

また、ルカの福音書では、イエス様が悔い改めた犯罪人にこう約束されました。 「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)

ですから、イエス様が再び来られるとき、 死んだクリスチャンたちの遺灰や骨はよみがえり、 新しいからだに変えられて、天にいる霊とひとつにされます。

そのあと、生きているクリスチャンたちも引き上げられ、 そのからだも変えられて、空中で主と出会うのです。

その新しいからだは、朽ちることのない、死を超えたからだなのです。(第一コリント15:51ー53)

ところで、私は、反キリストが現れるとき、 クリスチャンたちはまだこの世に存在していると考えています。 この考えが間違っているなら、むしろ嬉しいのですが、 聖書を読むかぎり、それが私の結論です。

私がそう考える理由の一つは、「主と会う」という表現に、 大切な方を迎えに出て、その方を町にお連れするという意味が含まれているからです。

つまり、パウロの描写はこうです: クリスチャンたちは空中で主を迎え、 地上でイエス様をお守りしながらお連れするというものです。

そのとき、イエス様はこの世界を千年間統治されます。 そしてその後、最後の戦いにおいてサタンを打ち倒し、 私たちは永遠に主とともに生きることになるのです。

これこそが、私たちの希望です。 この希望を、希望を持たない人々にこそ分かち合うべきなのです。

兄弟姉妹が苦しみ、もう限界だと感じるとき、 この希望のことばで励ましましょう。

私たちの苦しみは永遠に続くものではありません。 イエス様は再びこの世に来られ、正義をもたらしてくださいます。

だから、この希望を胸に抱き、安心して歩みましょう。

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コリント人への手紙第一

復活のとき、私たちはどうなる?

数年前、私は60代の生徒たちと新聞の記事について話しました。研究者によれば、60~65歳は現代の中年層に分類されるようになってきました。なぜなら、人間の平均寿命が延びているからです。

私は、彼らが何歳まで生き続けたいと思うか尋ねました。彼らは75~80歳までと答えました。その意見は理解できます。その年齢になると、私たちの健康は著しく衰え始めます。それを特に経験したくないと思うのは自然なことです。

それよりも、私は神様が与えてくださる新しい体を持ちたいと思います。この箇所で、パウロはその体について語ります。

あるコリントのクリスチャンたちはパウロに尋ねました。「私たちは復活すると、どんな体を持つのでしょうか。」

パウロは、私たちの現在の体を蒔かれた種に例えます。その蒔かれた種は、成長した木とはまったく異なります。

同様に、埋葬された私たちの肉体は、新しい体とはまったく違います。それでは、その新しい体はどのように違うのでしょうか。

パウロはそのことを説明します。

死者の復活もこれと同じです。

朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。

血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。(コリント人への手紙第一15:42-44)

私たちの現在の体は年を重ね、やがて死にます。一方で、私たちの新しい体は決して死ぬことはありません。

私たちが死んだ後、肉体は埋葬され、腐敗します。それでも、新しい体は栄光に満ちたものとしてよみがえらされます。

私たちの今の体は病にかかり、やがて衰えていきますが、新しい体は健やかで、決して病むことも弱ることもありません。

私は父のことを思い出します。彼は8年前に亡くなりました。

事故の影響で失明し、最後の数か月はほとんど歩くことができませんでした。彼は糖尿病を患い、心臓も弱っていました。最後の数日間、彼は話すこともできず、ただベッドに横たわるしかありませんでした。

父の状態を見るのは本当に辛いものでした。しかし今、彼はその弱い体から解放されました。そして、イエス様がこの世に戻られるとき、最後のラッパの響きのうちに、父は新しい体を得て、空中でイエス様と会うのです。

その日、私も新しい体を得て、イエス様と父に会います。そのとき、この世界のすべては新しくなり、人々は喜びの歌を歌うでしょう。

死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。(55)

その日が待ち遠しいです。

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コリント人への手紙第一

なぜ復活は重要なのか?

英会話学校で教えていたある日、私は隣の教室で交わされる会話を耳にしました。先生と生徒たちはイースターについて話していました。

生徒:「イースターとは何ですか。」

先生:「クリスチャンたちは、その日にイエス・キリストが復活したと信じています。」

生徒:(沈黙)

もしかすると、生徒たちは驚いた表情で先生を見つめていたのかもしれません。それを感じ取った先生は続けて言いました。「私はそれを信じていません。ただ、クリスチャンたちはそう信じています。」

私は子供のころからクリスチャンなので、イエス様の復活を当然のことだと思っていました。しかし、改めて考えてみると、それはとても不思議な教会の教えです。さらに、信じるのが難しいことでもあります。

もしかすると、あなたはこう尋ねるかもしれません。「クリスチャンにとって、イエス様の復活を信じることはそんなに重要なのでしょうか。イエス様の教えや十字架の働きだけを伝えれば十分なのではないですか。」

実は、コリントのクリスチャンたちも同じ疑問を抱きました。そして、ある人々はイエス様の復活を否定し始めたようです。

だからこそ、パウロは復活の真実性を強く論じました。彼はこう述べました。

ところで、キリストは死者の中からよみがえられたと宣べ伝えられているのに、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はないと言う人たちがいるのですか。

もし死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。

そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。(コリント人への手紙第一15:14)

なぜパウロはそのように語ったのでしょうか。もしイエス様がよみがえらなかったとしたら、なぜ私たちの宣教と信仰は空しいものになってしまうのでしょうか。

パウロはその理由を説明します。

そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。(17-18)

なぜ、イエス様の復活はそれほど重要なのでしょうか。イエス様の復活によって、神様はイエス様の十字架の働きを受け入れたことを証明されました。

その復活を通して、神様は私たちにこう語られます。「イエスの十字架の働きによって、あなたは赦されました。」

しかし、もしイエス様がまだ死んだままであるなら、神様がイエス様の十字架の働きを受け入れていないことを意味します。その場合、私たちは死後、地獄へ行くことになります。それなら、「私たちはすべての人の中で最も哀れな者です。」(19)

なぜなら、私たちは救われたと思っていても、実際には地獄に行ってしまうからです。そのような希望は虚しいものとなってしまいます。

さらに、パウロや他のクリスチャンたちはイエス様のために迫害され、苦しんでいました。もしイエス様がよみがえられなかったとしたら、その苦しみも無意味なものになってしまいます。彼らは神様からの報いを受けることができません。(32)

それなら、私たちはただ自分自身のために生きるほうがよいのではないでしょうか。そこでパウロはこう語りました。

もし死者がよみがえらないのなら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」ということになります。(32)

けれども、イエス様は実際によみがえられました。神様はイエス様の十字架の働きを受け入れられたのです。だからこそ、イエス様を信じるなら、私たちもいつかイエス様と共に復活します。

さらに、イエス様がこの世に戻り、すべてを新しくされるという希望を持っています。イエス様はすべての人を治め、死をも治められます。(20ー27)

だから、この世でイエス様のために苦しもうとも、たとえ命を落とすことがあっても、私たちは神様からの報いをいただけるという確信を持っています。

では、なぜ復活はそれほど重要なのでしょうか。復活こそが、私たちの希望の土台だからです。もし復活がなかったとしたら、私たちには何の希望もありません。

しかし、復活があるからこそ、人に奪われることのない希望と喜びを持つことができるのです。

あなたは、その希望を持っていますか。

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使徒の働き

人を癒し、人を復活させる神

この箇所では、私たちは二つの素晴らしい話を読みます。アイネアとタビタに対するペテロの言葉は特に印象的です。

アイネアは八年間床についていました。彼は回復する希望を完全に失っていたかもしれません。ところが、ペテロは彼にこう言いました。

アイネア、イエス・キリストがあなたを癒してくださいます。立ち上がりなさい。そして自分で床を整えなさい。(使徒の働き9:34)

彼は瞬く間に癒され、立ち上がりました。

タビタはすでに亡くなっていましたが、ペテロは彼女にこう言いました。

タビタ、起きなさい。(40)

彼女は目を覚まし、復活しました。

ペテロの言葉はとてもシンプルでした。しかし、現代においても、人々はその言葉を聞く必要があります。

イエス・キリストがあなたを癒してくださいます。

もちろん、イエス様は身体の問題を癒すことができます。けれども、多くの人々は感情的な問題や霊的な問題を抱えています。彼らの心には過去の傷もあり、現在の傷もあります。

だから、彼らは「イエス・キリストがあなたを癒してくださいます」という言葉を聞く必要があるのです。

アイネアを癒してくださったイエス様は、彼らをも癒すことができます。

起きなさい。復活しなさい。

多くの人々は、自分の人生を振り返ると、失われた希望しか見えません。

彼らは離婚を考えています。彼らの未来には光がないように思えます。だから、彼らはイエス様が死んだものを復活させることができると知る必要があります。

彼らは、イエス様が彼らの結婚、未来、希望を回復させることができると知る必要があります。だからこそ、私たちは彼らに伝えなくてはなりません。

「起きなさい。神様に向かうなら、神様はあなたを新しくしてくださいます。」

人々はこの二つのメッセージを聞く必要があります。この世で希望を失いかけている人々に、このメッセージを届けましょう。

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ヨハネの福音書 ヨハネ20章

イエス様を見たことがないのに

「百聞は一見にしかず。」

私たちはこのことわざを口にしますが、時として、何を見ても信じない人がいるものです。

パリサイ人たちと祭司長たちは、イエス様の奇跡を実際に目の当たりにしました。それでもなお、イエス様がメシアであることを信じませんでした。

たとえば、ラザロが復活したとき、彼らはラザロを殺そうとさえしました。なぜなら、人々がその奇跡を目撃し、イエス様を信じるようになったからです。

彼らの問題は何だったのでしょうか。それは、彼らが信じたくなかったということです。もし何かを信じたくないなら、人はいつでも信じられない理由を作り出すものです。

しかし、トマスは本当にイエス様の復活を信じたかったのです。それでも、なぜか自分自身を納得させることができませんでした。だから、彼はほかの弟子たちにこう言いました。

私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れて見なければ、決して信じません。(ヨハネの福音書20:25)

だから、イエス様が鍵がかけられた部屋に奇跡的に入って、トマスのぽかんと顔を見た時、多分イエス様は微笑みながら、こう言いました。

あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。(27)

トマスの反応は?

私の主。私の神よ。(28)

イエス様は答えました。

あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。(29)

つまり、「あなたは見たから信じているのです。けれども、真の祝福は、見ずに信じることで見いだされるのです」ということです。

アブラハムもその祝福を知りました。アブラハムは神様が彼をどこに導いているかよくわからなかったけど、アブラハムは自分の地元を去って、神様に従いました。なぜなら、アブラハムは神様の約束を信じたからです。

ノアもその祝福を知りました。神様が洪水が発生すると言ったから、ノアは大きい箱舟を作りました。

ダビデもその祝福を知りました。神様がダビデが王になると約束したから、サウロ王が何回もダビデを殺そうとしても、ダビデは仕返しを求めませんでした。そして、神様のタイミングで、ダビデは王になりました。

マリアもその祝福を知りました。彼女は天使のメッセージを信じて、イエス様の母になりました。

聖書の時代から現代まで、たくさんの人々は神様を信じて、祝福されました。

でも、それは盲信ではありません。

イエス様が生まれる何百年前に、いろんな預言者はたくさんのことをイエス様に関して預言しました。

また、イエス様に出会った人は自分の経験を書きました。ヨハネはこう書きました。

イエス様は弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。

これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。(30-31)

それに、私たちは教会の偉人たちの歩みを見ることができます。たとえば、アウグスティヌス、マルティン・ルター、ジャン・カルヴァンは、神の御国のために偉大な働きを成し遂げました。

今なお、教会には多くのクリスチャンがいます。神様は彼らの人生の中で働き、福音によって彼らを変えてくださいました。

また、私たち自身もイエス様に出会い、神様の御業をこの目で見ることができます。

しかし、私たちは一つの選択をしなければなりません。

「主よ。私はあなたを見たことがありません。それでも、私はあなたを信じます。」

そして、イエス様を信じて従うとき、イエス様はますますご自身を私たちに現してくださいました。そして、私たちも祝福を知るのです。

ペテロはこう言いました。

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども、愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。

あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。(第一ペテロ1:8-9)

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ルカの福音書 ルカ24章

鈍い心

いつイエス様がペテロにご自身を現されたのかによりますが、この話では、私たちはイエス様の復活後の三度目か四度目の現れを見ることになります。

この話では、二人の弟子たち(十二人の弟子には含まれていない)が、エマオという村へ向かっていました。もしかすると、エマオは彼らの故郷だったのかもしれません。

彼らは歩きながら、女性たちの証言や、ペテロとヨハネの報告について語り合っていました。けれども、彼らはまだイエス様の復活を信じていなかったようです。

すると、イエス様が突然現れました。しかし、彼らはイエス様を認識することができませんでした。聖書によれば、彼らの目は遮られていたのです(16節)。

つまり、彼らはイエス様を見ることができたものの、イエス様は彼らがご自身を認識することを許されませんでした。

もしかすると、イエス様は墓の外でマリアに現れた際も、同じことをされたのかもしれません。

その後、イエス様は彼らに尋ねられました。

歩きながら語り合っているその話は何のことですか。(ルカの福音書24:17)

おそらく、その二人はとても驚いたでしょう。「知らないのですか?あなたはエルサレムにいたのではないのですか?何が起こったか、ご存じでしょう?」

けれども、イエス様は何も知らないふりをして答えられました。

「どんなことですか?」(19節)

すると、その二人は自分たちの混乱と悲しみを打ち明けました。つまり、彼らはイエス様がメシアであり、ユダヤ人をローマ帝国から解放してくださると信じていました。

しかし、イエス様は十字架で死なれました。それに、彼らはイエス様がよみがえられたという話を聞いたものの、それが本当に信じられるかどうかわかりませんでした。

それを聞いて、イエス様は彼らを叱責されました。

ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。

キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。(25-26)

そして、イエス様は、苦しむメシアが私たちの罪のために死なれ、よみがえられたという、最初の説教を語られました。

彼らがエマオに着くと、イエス様はさらに先へ行かれる様子でした。けれども、彼らの心は揺さぶられ、イエス様に熱心にお願いしました。

一緒にお泊りください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています。(29)

そして、イエス様が彼らと食卓に着かれると、パンを取り、神様をほめたたえ、それを裂いて渡されました。(30)

もしかすると、その光景を見たとき、彼らはイエス様が5000人にパンと魚を与えられた出来事を思い出したのかもしれません。そして、彼らの目が開かれ、イエス様を認識しました。

ところが、その瞬間、イエス様の姿は見えなくなりました。

すると、彼らは話し合いました。

道々お話しくださる間、私たちに聖書を解き明かしてくださる間、私たちの心はうちで燃えていたではないか。(32)

そして、彼らは11人の弟子たちのもとへ行き、イエス様が復活されたことを伝え、女性たちとペテロの証言を確かめました。

では、この話から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

私たちはどれほど神様の言葉に対して鈍い心を持っているでしょうか。

私たちは、イエス様が私たちの罪のために死なれ、よみがえられたことを信じているかもしれません。しかし、イエス様のほかの言葉を本当に信じているでしょうか。

なぜ私たちの心は鈍くなってしまうのでしょうか。

もしかすると、あの二人の弟子のように、過去の経験を振り返ることで失望するのかもしれません。あるいは、私たちの人生が思い描いた通りに進んでいないのかもしれません。

そうすると、私たちは神様に問いかけます。 「あなたの言葉は真実なのでしょうか。あなたは本当に私とともにおられるのでしょうか。私の必要を本当に満たしてくださるのでしょうか。あなたは私を本当に愛しているのでしょうか。」

私もそうした疑いを抱いたことがあります。

もしかすると、私たちは神様の道を疑い、自分の道を選びたいと思うのかもしれません。神様の道は意味がないと思ってしまうからです。

私はノンクリスチャンと結婚するクリスチャンを何人も知っています。彼らの理由は、良いクリスチャンの伴侶を見つけられなかったことでした。けれども、多くの場合、後になってその決断を後悔しました。

私たちがイエス様の言葉を信じないなら、あの二人の弟子たちのように、失望と悲しみに満ちた人生を歩むことになります。

しかし、良い知らせがあります。イエス様は決して私たちを見捨てません。イエス様は今も私たちとともに歩んでおられます。

もし、私たちが心を開き、すべてを打ち明けるなら、イエス様はご自身の言葉を私たちの心に注ぎ、私たちを癒し、新しい希望を与えてくださいます。

だから、鈍くなった心を捨てましょう。心を開き、イエス様を信じましょう。

聖書はこう言っています。「この方(イエス様)に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」(ローマ10:11)

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いつも私たちと共におられる方

イエス様の復活について、二つの注意事項をお伝えしたいと思います。

一つ目は、マルコ16:9-20を省略することです。なぜなら、多くの聖書学者によれば、マルコはこの部分を書いていなかったと考えられているからです。

では、なぜマルコは具体的にイエス様の復活について語らなかったのでしょうか。私は三つの説を聞いたことがあります。

1つ目は、マルコが福音書を完成させる前に亡くなったという説です。

2つ目は、元々の結末が何らかの理由で失われたという説です。

3つ目は、使徒の時代には、教会で牧師がマルコの福音書を朗読した後に、イエス様の復活を目撃した人々が自分の証を語っていた可能性があるという説です。

いずれにせよ、マルコが亡くなった後、現在の結末が加えられたと考えられています。

二つ目の注意事項は、福音書間でイエス様の復活の記録を統合するのが非常に難しいということです。できる限り、復活の出来事の順番を整理しようと思いますが、これはあくまで私の考えです。

とはいえ、どの福音書を読んでも、基本的な事実は一致しています。

女性たちがイエス様の墓に着いたとき、その墓はすでに空っぽでした。そして、天使たちが現れ、イエス様の復活を彼女たちに知らせました。

その後、イエス様はマリアやほかの女性たちにご自身を現され、彼女たちは弟子たちにイエス様の復活を伝えました。

現代の弁護士によれば、法廷では証人の証言に多少の違いがあったとしても、これらの四つの事実は十分に認められるでしょう。

では、簡単にですが、復活の出来事の順番を説明します。

1.女性たちはイエス様の墓に行ったが、イエス様の遺体はありませんでした。

2.マリアが墓に入り、イエス様の遺体がないと分かると、すぐに弟子たちに知らせるために戻りました。

3.ほかの女性たちはその場に残り、おそらく何が起こったのか疑問に思ったでしょう。そして、二人の天使が現れ、そのうちの一人がイエス様の復活の良い知らせを伝えました。

4.そこで、女性たちは弟子たちに伝えるために急いで戻りました。彼女たちは急いでいたため、誰とも話しませんでした。(マタイ28:5-8;マルコ16:1-8;ルカ24:1-10)

5.その間に、マリアは弟子たちにイエス様の遺体がなくなったことを伝えました。(ヨハネ20:2)そこで、ペテロと(おそらく)ヨハネは墓を調べに行きました。マリアは彼らと共に墓に戻りました。

彼らが家を出た後、ほかの女性たちは家に来て、残っていた弟子たちに天使のメッセージを伝えました。(ルカ24:9-11)

6.ペテロとヨハネは墓に着き、マリアの話を確認しました。ヨハネはイエス様が復活されたと信じたようですが、ペテロはまだ疑っていたようです。おそらく、彼らは戻る途中でそのことを話し合ったでしょう。(ルカ24:12;ヨハネ20:3-9)

7.ペテロとヨハネが墓へ向かう際、走ったため、もしかするとマリアは遅れて着いたかもしれません。そのため、マリアがようやく墓に着いたとき、ペテロとヨハネがまだそこにいたかどうかは分かりません。

そして、イエス様はマリアの前に現れ、彼女を慰められました。その後、彼女はすぐに弟子たちのもとへ戻りました。(ヨハネ20:12-18)

8.マリアが戻っている間に、イエス様はほかの女性たちの前に現れました。彼女たちは道中だったのかもしれません。また、弟子たちが彼女たちの言葉を信じなかったため、多少の失望を感じていたかもしれません。

けれども、イエス様が彼女たちを励まされたので、彼女たちはもう一度弟子たちのもとへ向かいました。

その頃、マリアも戻ってきたため、弟子たちはマリアと女性たちの話を聞きました。(マタイ28:9-10)

その順番が正しいかどうかは分かりませんが、これが私の推測です。

さて、マリアのことを少し考えてみましょう。私がこの場面を想像すると、イエス様の墓の外で、マリアが深い悲しみに沈み、絶望している姿が浮かびます。

もし私の考えが正しければ、彼女はまだほかの女性たちの天使の経験を聞いていません。マリアが知っているのは、ただイエス様の遺体がなくなったという事実だけです。

そして、マリアが墓に入ると、二人の天使がいました。ところが、ほかの女性たちの話をまだ聞いていなかったため、マリアは彼らが天使であることを認識しませんでした。

すると、天使たちは「なぜあなたは泣いているのですか」と尋ねました。

マリアはただこう答えました。「誰かが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」

もしかすると、天使たちがイエス様の復活を伝えようとしたその瞬間、イエス様が現れたのかもしれません。

最初、マリアはイエス様を認識しませんでした。しかし、イエス様が彼女の名前を呼ばれました。

「マリア。」

その瞬間、マリアの悲しみの涙は、一気に大きな喜びへと変わりました。

私たちはどれほどマリアのようでしょうか。苦しみに沈み、神様が遠く感じることがあります。

祈っても、まるでその祈りが天井にぶつかり、神様に届かないかのように感じることもあります。

神様を求めても、見つけられないことがあります。まるで神様が沈黙し、いなくなったかのように思えることもあります。

けれども、実際には神様は私たちとともにおられます。マリアのように、私たちは神様を見ていないだけかもしれません。しかし、神様は確かにそこにおられます。そして、最もふさわしい時に、ご自身を現してくださいます。

だから、諦めないでください。誰もが悲しみの時を経験します。誰もが、神様が遠く感じる時を通ることがあります。けれども、神様はインマヌエルです。すなわち、「神様は私たちとともにおられる」ということです。

そして、イエス様を復活させたのと同じ力で、神様は私たちの悲しみを喜びへと変えてくださいます。

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マタイの福音書 マタイ28章

信じようとしない人?

私は祭司長たちとパリサイ人たちの頑なな心に驚きを禁じ得ません。

彼らはイエス様のお墓を警備するために対策を練りましたが、そのお墓は空っぽになりました。結局、彼らはその事実を認めざるを得ませんでした。

彼らは番兵たちの話を通して、地震と天使の存在を知りました。

さらに、彼らはおそらく、ほかの復活した人々についても聞いたことでしょう。(マタイ27:52-53)

それでもなお、その証拠を目の当たりにしながらも、彼らはイエス様がキリストであることを信じませんでした。

そのため、弟子たちがイエス様の遺体を盗んだという噂を広めるために、彼らは番兵たちにお金を渡しました。律法を厳格に守ることで自分を誇る人々であったにもかかわらず、彼らはこのような嘘を広めたのです。

この行為を通じて、彼らはイエス様の言葉の真実性を証明することになりました。ラザロのたとえ話で、イエス様はこう言われました。

モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、誰が死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。(ルカ16:31)

イエス様とほかのユダヤ人たちがよみがえられたにもかかわらず、パリサイ人たちや祭司長たちはどうしても信じようとしませんでした。

今でも同じような人々がいます。あなたが神様の存在を示し、聖書やイエス様について彼らの疑問に答えたとしても、彼らは信じないかもしれません。

さらに、彼らは自分では説明できない事実を目撃することがあるでしょう。例えば、彼らがクリスチャンの知り合いのがんが癒される様子を目にするかもしれません。それでもなお、彼らはどうしても信じようとしません。

最終的に、イエス様を信じない人々がいます。彼らは信じることができないわけではありません。ただ、信じたくないのです。そして、神様が彼らに恵みを与えてくださらなければ、彼らは決して信じないでしょう。

では、私が言いたいことは何でしょうか。

祈り続けましょう。神様だけが彼らの目を開けることができるのです。パウロはこう語りました。

それでもなお私たちの福音に覆いがかかっているとしたら、それは、滅び行く人々に対して覆いがかかっていると言うことです。

彼らの場合は、この世の神が(つまり、サタン)、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を、輝かせないようにしているのです。(第二コリント4:3-4)

それでは、私たちは何を祈るべきでしょうか。それは、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、神様が彼らの心を照らしてくださるように祈るべきです。(第二コリント4:6)

実際、パウロ自身もそのようにして救われました。彼は霊的に盲目で、真理を拒んでいましたが、神様は文字通りにも、また比喩的にも、光をパウロに照らしてくださいました。その光によって、パウロの人生は完全に変えられました。

愛する人々の頑なな心を見て、失望を感じていませんか。あなたがどれほど何かを言ったり、行ったりしても、彼らの心を変えることはできません。けれども、神様にはその力があります。

だから、どうか諦めないでください。祈り続けましょう。熱心に祈りましょう。そして、神様の恵みによって、彼らが救われる可能性を信じましょう。

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マタイの福音書 マタイ27章 マタイ28章

だれも妨害できない神様の計画

ちょっと考えてみると、これは非常に面白い聖書の話です。

パリサイ人たちや祭司長たちは、弟子たちがイエス様の遺体を盗み、イエス様がよみがえられたと宣言することを懸念しました。そのため、彼らはピラトにイエス様の墓を警備するよう頼みました。

ピラトはその依頼を受け入れ、番兵を派遣しました。

ところが、三日目に地震が起こり、天使がイエス様の墓を覆っていた石を転がし、その石の上に座りました。番兵たちはその光景を目撃し、恐怖のあまり気を失いました。

パリサイ人たちや祭司長たちが混乱し、苛立っている様子を想像してみてください。おそらく、彼らは互いにこう問い合ったでしょう。

「どうして私たちは番兵を頼んだのだろう?空っぽの墓をどう説明すればいいのだろう?番兵たちが眠ったという話を信じる人はいないし、弟子たちが番兵を倒したという話も信じられるはずがない。一体どうしたらいいのだろう?」

この話から、私たちは重要な教訓を学ぶことができると思います。

人々は、神様の計画を妨害したり、自分の目的を果たそうとしたりして、さまざまな計画を立てることができます。

しかし、最終的には神様の計画を妨害することはできません。神様の目的は確固として立ち続けます。

多くの人々は人間の自由意志と神様の主権に関して疑問を抱くことがあります。私はそのすべての答えを持っているわけではありませんが、この箇所を通して、私たちはその答えの一端を見ることができると思います。

パリサイ人たちと祭司長たちは、自分たちの自由意志によって番兵を頼みました。神様はその選択を阻止することはありませんでした。

けれども、彼らが選択をした後、神様はご自身の選択をされました。

神様はイエス様を復活させ、石を転がし、番兵たちに恐怖を与えました。

このように、神様は私たちの選択を許してくださいます。しかし、その後、神様はご自身の選択をされます。だからこそ、私たちは神様の計画を妨害することはできません。

パリサイ人たちと祭司長たちはイエス様のお墓で神様の計画を阻止することができませんでした。そして、これからも神様の計画を妨害できる人は誰もいないでしょう。

だからこそ、確信を持って神様を賛美しましょう。神様はすべてを支配しておられ、その計画は必ず成し遂げられるからです。

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聖書と神様の力を理解しないと

ある英語の子どもの歌は、サドカイ人たちをこのように描写しています。

I don’t want to be a Sadduccee.
(サドカイ人になりたくないよ。)
‘Cause, a Sadduccee is sad, you see.
(だって、サドカイ人たちは悲しい人たちだから。)

それは少しくだらないだじゃれですが、どこかに真実が含まれています。

最終的に、サドカイ人たちは希望を持たない人々でした。なぜなら、彼らは復活を信じていなかったからです。彼らは死を迎えると命が終わると考えていました。

その考え方は、神様に対する彼らの思いや、自分の人生観、そして聖書に対する理解に影響を与えてしまいました。

彼らは神様の力を理解しておらず、神様の愛も知りませんでした。また、神様が私たちと永遠に共に生きたいと望んでおられるという概念を全く持っていませんでした。

彼らは墓に入ると命が終わると考えていたため、この世のもの、つまり力とお金に執着していました。

このような考え方は、彼らの聖書の理解にも影響を与えました。彼らは聖書の最初の5冊(創世記から申命記まで)だけを神様の言葉として受け入れていました。預言者の書や詩篇などは神様の言葉として受け入れなかったのです。

そこで、彼らはイエス様のところに行き、パリサイ人たちを困らせた質問をイエス様に尋ねました。それはくだらない質問でしたが、その時代のユダヤ人たちの文化では、万が一(もしくは、億が一と言えるでしょうか)その話が現実になる可能性があると考えられていました。

サドカイ人たちはこう尋ねました。

先生。モーセは、「もしある人が、子がないままで死んだなら、その弟は兄の妻と結婚して、兄のために子孫を起こさなければならない」と言いました。

ところで、私たちの間に七人の兄弟がいました。長男は結婚しましたが死にました。子がいなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、そして七人までも同じようになりました。そして最後に、その妻も死にました。

では復活の際、彼女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。彼らはみな、彼女を妻にしたのですが。(マタイ22:24-28)

それは非常にくだらない疑問に思えるでしょう。それは非現実的であり得ないと思われます。

ともかく、イエス様は彼らに対して非常に厳しく答えられました。

あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。(マタイ22:29-30)

そして、イエス様は出エジプト記の箇所を引用されました。

サドカイ人たちはその箇所をよく知っていたはずですが、彼らはその言葉を決して深く考えたことがなかったでしょう。だからこそ、イエス様の言葉は彼らに強い衝撃を与えたに違いありません。イエス様はこう言われました。

死人の復活については、神があなたがたにこう語られたのを読んだことがないのですか。

「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」

神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。(31-32)

神様は「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であった」とは言われませんでした。神様はこう言われました。「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。今なお、わたしは彼らの神である。」

要するに、アブラハムやイサクやヤコブの魂は今も生きています。だから、イエス様はサドカイ人たちが受け入れていた聖書の箇所を用いて復活を証明し、彼らの議論を完全に打ち砕かれました。

それでは、この話から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。神様を私たちが作った箱に閉じ込めることはできません。

しかし、サドカイ人たちは神様をそのような箱に閉じ込めてしまいました。彼らは神様の力を理解せず、神様が人々を復活させる力を持つことを信じなかったのです。

なぜ彼らは神様の力を理解できなかったのでしょうか。それは、彼らが聖書を正しく理解していなかったからです。

だからこそ、私たちはサドカイ人たちのようにならないように注意する必要があります。聖書を学び、その真意を理解するために努力しましょう。

もし聖書が神様についての私たちの考えに反することを語っているなら、サドカイ人たちのようにその言葉を拒否するのではなく、むしろ受け入れるようにしましょう。

そうすることで、私たちは神様をさらに深く知り、神様との親しい関係を築くことができるのです。