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ヨハネの福音書のデボーション

イエス様の忍耐

あなたがたに話すことはまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐えられません。

しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。(ヨハネの福音書16:12ー13)

上のことばを読んで、私はこう考えました。「どれだけイエス様は、私に同じことを語っておられるのだろうか。イエス様は、私に語りたいことがたくさんあるけれど、私はそのことばに耐えることができません。なぜなら、私の心はまだ整えられていないからです。

でも、イエス様は私を叱られることはありません。むしろ、イエス様は忍耐をもって待っていてくださいます。そして、イエス様の時に、御霊が私に必要なことを語ってくださいます。」

イエス様、あなたは私の心をよく知っておられます。私が何を聞くに耐えられるか、耐えられないかを、よくご存じです。

私に対するあなたの忍耐と柔和さを感謝します。あなたのことばを聞くために、私の心を整え続けてください。私があなたに対して、柔らかい心を保つことができるように助けてください。

聖霊様、私は自分の心をあなたに開きます。あなたの時に、私をすべての真理へと導いてください。その真理が、私には受け入れがたいものであったとしても、その真理へと導いてください。

そして、イエス様、私へのあなたの忍耐と柔和さを、私も周りの人々に示すことができるように助けてください。

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ヤコブの手紙のデボーション

心を強くしなさい

ですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。

見なさい。農夫は大地の貴重な実りを、初めの雨や後の雨が降るまで耐え忍んで待っています。あなたがたも耐え忍びなさい。

心を強くしなさい。主が来られる時が近づいているからです。(ヤコブ5:7ー8)

一章では、私たちが見たのは、この手紙を読んだ人々がさまざまな試練に直面していたということです。だからこそ、ヤコブは彼らに耐えるよう励ましました。そして、この手紙の終わりで、ヤコブはそのテーマに戻ってきます。

私の心に残った言葉は、8節にあります。「心を強くしなさい。」

では、自分の心を強くするには、どうすればよいのでしょうか。

ただ自分の心に「強くあれ!強くあれ!」と命じるだけでしょうか。

それは違います。

むしろ、意識的に自分に思い出させましょう。「主が来られる時が近づいている。私の苦しみは永遠に続くわけではない。この試練は長く感じられるかもしれないが、永遠と比べれば、ほんのわずかなものだ。」

また、主が慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方であることを思い出しましょう。もちろん、聖書にあるヨブのような話を見ることもできますが、自分自身の経験を思い返しましょう。過去の試練の中で、神様がどのようにご自分の慈愛とあわれみを私たちに与えてくださったかを思い出しましょう。

最後に、イエス様が今も私たちと共におられることを思い出しましょう。そして、喜ぶことを選びましょう。

自分の力で頑張ろうとする態度を捨て、へりくだって、自分の思い煩いを神様に委ねましょう(ピリピ4:4〜7;第一ペテロ5:6〜7)。

ダビデの模範に従って、祈りましょう。

主は私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。 主は私のいのちの砦。だれを私は怖がろう。。。

聞いてください、主よ。私が呼ぶこの声を。 私をあわれみ 私に答えてください。 あなたに代わって 私の心は言います。「わたしの顔を慕い求めよ」と。 主よ、あなたの御顔を私は慕い求めます。。。

私の父、私の母が私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださいます。。。

もしも、私が、生ける者の地で主のいつくしみを見ると、信じていなかったなら──(希望はないでしょう。でも、それを信じることを選びます)。

待ち望め 、主を。 雄々しくあれ。心を強くせよ。 待ち望め 主を。(詩篇27:1,7ー8,10,13ー14)

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ヤコブの手紙のデボーション

 忍耐を学ぶ

私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。 あなたがたが知っているとおり、信仰が試されると忍耐が生まれます。

その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります。(ヤコブの手紙1:2ー4)

「その忍耐を完全に働かせなさい。」

この言葉は私の心を打ちました。

正直に言うと、私はその過程を回避したいのです。成熟した完全な者となる段階に、スキップできたらと思ってしまいます。

しかし、ヤコブによれば、それは不可能です。試練に直面し、忍耐することによってこそ、私たちはそのような人になるのです。

けれども、忍耐は、ただ我慢して自分の力を鍛えることで生まれるものではありません。

むしろ、私たちが神とその力に頼ることを学ぶとき、忍耐が生まれるのです。

成熟した完全な人は、神様から独立した人生を送るわけではありません。

その人は、自分の力と知恵では生きられないことを学びました。そして、神様を切実に必要とすることを学びました。パウロのように、その人はこの真理を学んだのです。

しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。

ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。

というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(第二コリント12:9ー10)

天のお父さん、私は試練が嫌いです。試練に直面するとき、できるだけ早く通過したいと思ってしまいます。

しかし、その試練を通して、私があなたとその力に頼ることを学び、私の弱さのうちにあなたの力が完全に現れることを知り、そして試練の中であなたが私と共に歩んでくださるなら、私は喜んでその試練を通過します。

どうか、私を成熟した完全な人にしてください。私をイエス様のようにしてください。

イエス様のお御名によって祈ります。アーメン。

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箴言のデボーション

イライラするとき

愚か者は自分の怒りをすぐ表す。(箴言12:16)

正直に言うと、今日、職場で私は少しイライラしていました。時々、同僚とのコミュニケーションはあまり良くありませんが、最近は特にそう感じています。

そのため、今日、私は自分のフラストレーションを同僚に表してしまいました。

誤解しないでください。怒鳴ったわけではありませんが、私のフラストレーションは明らかだったと思います。

その10分後、私は今日の聖句を読みました。そして、神様と少し話さなくてはなりませんでした。

私のフラストレーションは自然な反応だったと思います。でも、その表し方は良くありませんでした。

今日の聖句を読んだとき、私はこう考えました。 「イライラするとき、私はどれだけ『愚か者』のように振る舞っているだろうか。

私はすぐに、自分の表情やため息、そして言葉によって、そのフラストレーションを表してしまうのだろうか。」

主よ、特に私がイライラするとき、どうか私に忍耐を与えてください。 私が愚か者のように振る舞うことのないように。

むしろ、私のうちに恵みと憐れみと忍耐が満ちあふれますように。 なぜなら、あなたはいつも、私に恵みと憐れみと忍耐を注いでくださる方だからです。

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ヨハネの黙示録

神様に属する私たち

第7章では、不信者が裁かれる前に、十四万四千人のクリスチャンが神様の印を受け、守られました。

第13章では、獣に属する者たちが獣の印を受けました。そして、その印を受けなかった者たちは迫害されました。

つまり、神様の印を受けた者たちは神様の怒りから守られましたが、獣の怒りを受けたのです。

だから私たちは、自分自身に問いかけなくてはなりません――「迫害を受ける甲斐があるのだろうか」と。

多くの人にとって、「はい」と答えるのは容易ではありません。迫害を好む人など、誰もいないからです。

しかし、神様に忠実に従い、忍耐を保つなら、どうなるでしょうか。第14章に、その答えが記されています。

今日の箇所では、14万4千人がもう一度登場します。私は以前言いましたが、たぶん、その14万4千人は、特別なクリスチャンたちではなく、すべてのクリスチャンを象徴します。そして、7章と14章によれば、天の父の名前と子羊の名前が彼らの額に封印されます。

7章では、彼らは来たる試練に心構えをしていました。でも、14章では、彼らはすでに試練の火を通りました。その時、彼らは何をするでしょうか。

彼らは、自分が受けた迫害について文句を言っているのでしょうか。彼らは、どうして神様がその試練を許したのか、神様に問いただしているのでしょうか。違います。

むしろ、彼らは新しい歌を歌っています。その歌を学ぶことができたのは、彼らのほかには誰もいませんでした。

どうしてでしょうか。御使いたちや4つの生き物、長老たちは、その言葉やメロディーを学ぶことができたかもしれませんが、彼らは14万4千人の試練を経験していませんでした。だから、彼らは救いの喜びを本当に理解することができないのです。でも、神様の民はその喜びをよく理解することができます。

4節によれば、彼らは女に触れて汚れたことがない者たちで、童貞です。でも、彼らが文字通りの童貞ではないと思います。むしろ、その言葉は、彼らがイエス様に忠実であることを意味します。

私たちクリスチャンはキリストの花嫁であり、獣に従ってはなりません。むしろ、私たちが迫害されても、イエス様に忠実に従い、清い心を保つべきです。

そして、忠実な花嫁として、私たちは子羊が行く所にはどこへでもついて行きます。

だから、私たちはもう一度訓戒を受けます。

ここに、聖徒たち、すなわち神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける者たちの忍耐が必要である。。。

「書き記せ、『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである』と。」

御霊も言われる。「しかり。その人たちは、その労苦から解き放たれて安らぐことができる。彼らの行いが、彼らとともについて行くからである。」(黙示録14:12-13)

あなたはどうですか。あなたは現在の苦しみだけではなく、来たる栄光をも見ることができるでしょうか。そうできないなら、あなたが試練に直面するとき、また反キリストに直面するとき、しっかり立つのは難しいことです。

だから、以前の記事で私が言ったように、イエスから目を離してはいけません。なぜなら、イエス様は苦しみに直面しても、ご自分の前に置かれた喜びに照準を合わせたからです。そういうわけで、イエス様は私たちが同じことをするのを助けることができます。

だから、パウロの言葉を覚えていましょう。

今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。

人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ8:18,26-28)

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ヨハネの黙示録

忍耐と信仰の必要性

今日の箇所では、さまざまな出来事があり、聖書学者たちは例によってその意味を議論しています。

竜(つまりサタン)と共に、二頭の獣が現れます。今回の記事では、最初の獣について取り上げ、次回のブログで二頭目の獣について扱います。

第一の獣は海から現れます。それは不思議な存在で、ダニエル書第7章に出てくる四頭の獣の特徴を併せ持っています。

竜の力を授けられたこの獣の七つの頭のうち一つは致命的な傷を負って死にましたが、その傷が癒え、世界の人々は驚きました。その結果として、世界の人々はこの獣と、それに力を与える竜を拝むようになります。

では、この幻の意味は何でしょうか。

ダニエル書では、四頭の獣がバビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマの各帝国を象徴しています。

ある程度、黙示録に登場する第一の獣は、それら四つの帝国に似た性質を持っています。これらの帝国は次々に現れては滅び、別の帝国に取って代わられました。

けれども、その結果はいつも同じでした。すなわち、竜を礼拝する新たな帝国が登場し、神の民を迫害するのです。

このように、黙示録において獣に従う者たちは竜を礼拝し、神の民に敵対します。

興味深いことに、黙示録第17章では、その獣が「昔はいて今はいないが、やがて底知れぬ所から上って来るもの」と描写されています(17:8,11)。

もしかすると、ヨハネはかつて獣を見たが、この書を書いた時点ではその獣がすでに滅びていたことを示しているのかもしれません。つまり、ヨハネは過去の皇帝、ネロについて言及している可能性があります。

いずれにせよ、ヨハネによれば、その皇帝は致命的な傷を受けたものの、いつか別の皇帝が現れ、ネロのように神を冒涜し、神の民を迫害するのです。

ヨハネがそのような意図を持っていたとすれば、獣は単一の人物ではなく、歴史の中に登場した多くの人々を象徴していることになります。ヨハネ自身、「キリスト教が始まってから、多くの反キリストがすでに現れている」と述べています(第一ヨハネ2:18)。

これらの反キリストたちは現れ、死に、そして新たな反キリストが再び登場します。そのパターンは何度も繰り返されてきました。

しかし、ヨハネによれば、最終的な反キリストが現れます。そして、かつての反キリストたちと同様に、人々を竜を礼拝するように導きます。

おそらく、その反キリストは「サタンを礼拝せよ」と直接は言わないでしょう。けれども、かつてのローマ皇帝のように、彼は救い主として人々に礼拝されるのです。なぜなら、一時的な平和と繁栄をこの世にもたらすからです。

ところが、人々は、自分が実際にはサタンの代理者に従っていることに気づいていません。

おまけに、反キリストは神様を冒涜し、多くのクリスチャンが迫害されます(7)。

第7〜8節によれば、クリスチャンでない者たちは喜んで獣に従います。言い換えれば、クリスチャンを迫害し殺害することが、政治的に正しいとみなされる時代になるのです。

それでは、今日の箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。私たちが第一の獣に直面する時、彼は私たちを激しく虐げるでしょう。だからこそ、ヨハネは私たちに警告を与えているのです。

捕らわれの身になるべき者は捕らわれ、剣で殺されるべき者は剣で殺される。ここに、聖徒たちの忍耐と信仰が必要である。(黙示録13:10)

その言葉は、スミルナにある教会の人々に対するイエス様の言葉に似ています。だからこそ、おそらく彼らがこれらの言葉を読んだ時、それは心に深く響いたことでしょう。

しかし、10では、ヨハネは私たちすべてに語りかけておられます。

「心構えをしなさい。迫害は来ます。でも、忍耐と信仰を保ちなさい。そうすれば、あなたたちはいのちの冠を与えられます。また、あなたたちは決して第二の死によって害を受けることはありません。」

このメッセージを私は何度も繰り返してきたので、あなたの耳にはタコができているかもしれません。でも、私たちが反キリストに直接直面しなくても、他者による迫害を受ける可能性はあります。家族や友人、隣人、同僚、そして政府ですら、私たちを迫害するかもしれません。

アメリカでは、クリスチャンたちはこうしたことを経験し始めています。日本の歴史においても、クリスチャンたちは迫害を受けました。今は想像できないかもしれませんが、その時は再び訪れる可能性があるのです。

だから、気持ちを引き締めましょう。信仰を保ちましょう。そして、忍耐を保ちましょう。もしかすると、神様は私たちが迫害を経験するように召しておられるのかもしれません。

それでも、もし迫害を受けるなら、忘れないでください——イエス様はすでに私たちのために迫害を受けておられます。

だからこそ、『へブル人への手紙』の著者は次のように語っています。

信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。

この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。

あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。(へブル12:2-3)

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ヤコブの手紙

どのように信仰は苦しみに反応するか

この手紙の冒頭で、ヤコブは、神様が試練を通して私たちを成熟させ、完全にされることについて語ります。

その後、ヤコブは、成熟した信仰がどのように表現されるかを示します。つまり、真の信仰によって、人々は愛や清さ、そして正しい言葉を持って成長するのです。

これは、神様が私たちに望まれる計画です。神様は、私たちがキリストに近づき、イエス様のようになることを願っています。

そして、この箇所では、ヤコブは私たちが試練をどのように扱うべきかについて再び語ります。

一見すると、ヤコブは4章の話を続けながら、クリスチャンの資産家たちを非難しているように思えます。

しかし、実際には、ヤコブは旧約聖書の預言者たちと同じように、神様の民を苦しめ、迫害する者たちを責めているのではないでしょうか。

ある金持ちたちは自分の富を握りしめ、働き手に正当な賃金を支払うことを怠りました。また、彼らは貪欲と自堕落によって、人々を裁いたり、殺したりしました。そのため、ヤコブは彼らに警告します。「裁きの日は迫っています。」

そして、ヤコブは苦しんでいるクリスチャンたちに向かって、こう語ります。

ですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は大地の貴重な実りを、初めの雨や後の雨が降るまで耐え忍んで待っています。

あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主が来られる時が近づいているからです。(ヤコブの手紙5:7-8)

簡単に言えば、忍耐には信仰が伴います。私たちが信じるべきなのは、神様が正義の神であり、いつかその正義をもたらされるということです。

農夫が神様が作物のために雨を備えてくださることを信じるように、私たちもまた、神様が私たちの望む正義を備えてくださることを信じなければなりません。そして、信仰を持って待ち望みながら、私たちは義の実を結ぶのです。

しかし、時として、それは難しいことです。私たちはフラストレーションを感じ、神様に怒りを抱き、兄弟姉妹にも怒りを向けてしまうことがあります。そのため、ヤコブは私たちに警告します。

兄弟たち。さばかれることがないように、互いに文句を言い合うのはやめなさい。見なさい。さばきを行う方が戸口のところに立っておられます。(9)

もし私たちが忍耐を失い、怒りに身を任せ、互いに責め合うならば、神様は私たちに責任を問われます。

見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いだと私たちは思います。あなたがたはヨブの忍耐のことを聞き、主によるその結末を知っています。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられます。(11)

預言者たちの人生を見ると、彼らの多くが大変な苦しみを経験していたことが分かります。それでも、周りの人々に憎まれたとしても、彼らは忠実であり続け、主の御言葉を述べ伝え続けました。

ヨブも同じでした。彼は激しい苦しみを味わい、その理由をまったく理解できませんでした。それでも、彼は信仰を捨てませんでした。そして最終的に、神様はヨブとすべての預言者たちを賞賛されたのです。

だからこそ、ヤコブは私たちに語ります。「あなたの試練から学びなさい。忍耐を保ちなさい。」

すべてが順調なとき、「神様は良い方だ」と言うのは簡単です。けれども、試練の中でそれを言うことは、はるかに困難です。

最後に、ヤコブはこう語ります。

私の兄弟たち。とりわけ、誓うことはやめなさい。天にかけても地にかけても、ほかの何にかけても誓ってはいけません。

あなたがたの「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」でありなさい。そうすれば、さばきにあうことはありません。(12)

つまり、どんなに困難な状況に直面しても、自分の高潔さを保たなければならないということです。

試練があなたの高潔を奪うことを許してはなりません。常に正直さをもって語り、生きるべきです。そうしなければ、あなたの証しは汚されてしまいます。

あなたは試練に直面したとき、どのように反応するでしょうか。神様に怒りを抱くでしょうか。それとも、周りの人々に怒りを向けるでしょうか。その試練によって、あなたの高潔は失われているかもしれません。

あるいは、あなたは堅く立ち、神様が良い方であり、あなたを救い出してくださることを信じ続けるでしょうか。

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ローマ人への手紙

火を通過するとき

時々、聖書を読むと、私は少し首をひねることがあります。この箇所もその一例です。

パウロはこう書きました。

それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ人への手紙5:3-5)

この箇所はよく知られた部分で、私も何度も読んだことがあります。けれども、今回改めて読んでみると、ある疑問が浮かびました。

「苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出す」ということは理解できますが、どうして練られた品性が希望を生み出すのでしょうか。その関係は何でしょうか。

実は、新改訳は英訳よりも明確です。英訳では単に「忍耐が品性を生み出す」と書かれています。

しかし、原語では「品性」という言葉には、試された人というニュアンスがあります。彼らは試練に直面し、それを乗り越えたことで、神様に認められています。

彼らの信仰は単なる知識ではなく、実際に神様の忠実さや愛を経験したものです。

だからこそ、彼らの信仰は強まり、品性も強められました。どんなに困難な試練に直面しても、神様の愛と忠実さに対する確信を持つことで、希望を抱くのです。

だからパウロは、「この希望は失望に終わることがありません」と言えたのです。私たちの希望は、自分自身の身分や品性に基づくものではありません。

むしろ、私たちの希望は二つの確固たる事実によるものです。それらは、神様が私たちを愛し、私たちのうちに住んでおられる聖霊を通して私たちと共におられるということです。

旧約聖書のヨブの話を考えてみましょう。彼は大きな試練に直面しました。彼の財産や子供たちは奪われ、さらに友人たちにも責められました。

それでも、彼は忍耐を持ち続けました。そして、火を通過した後、神様の愛と忠実さをより深く理解し、希望を知ったのです。

あなたはどうでしょうか。どんな試練に直面していますか。その試練のゆえに、神様から逃げないようにしましょう。むしろ、神様に近づきましょう。

そうすれば、あなたは神様の愛と忠実さを経験し、希望を知ることができます。

そして、パウロが言ったように、「この希望は失望に終わることがありません。」

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ローマ人への手紙

神様の忍耐と義

この箇所でパウロは、イエス様の十字架の働きの前に生きていた人々について、とても興味深いことを語っています。

パウロはこう言いました。

神はこの方(つまり、イエス様)を信仰によって受けるべき、血による宥めのささげものとして公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。

神は、忍耐を持って、これまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです。

すなわち、ご自分が義であり、イエスを信じる者を義と認める方であることを示すため、今この時に、ご自分の義を明らかにされたのです。(ローマ人への手紙3:25-26)

この箇所でパウロは、神様の義について語っています。パウロが伝えているのは、イエス様が十字架で死ぬ前に、神様が人々の罪を見逃すことで、ご自身の義を明らかにされた、ということです。

それはどういう意味でしょうか。イエス様が十字架で死ぬ前に、すべての人々は救われたのでしょうか。

違います。パウロは何度もはっきりと教えています。人々は信仰によって救われるのです。パウロは28節でそう語っています。

人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると、私たちは教えているからです。(28)

そして、4章でパウロはアブラハムを指して、「アブラハムも信仰によって救われた」と語っています。

すなわち、神様を信じない人々は救われず、むしろ裁かれました。

けれども、アブラハム、モーセ、ダビデ、そしてその他の旧約聖書の信者たちには問題がありました。彼らは犠牲を捧げましたが、その犠牲には本当に罪を清める力はありませんでした。むしろ、それらの犠牲は、イエス様の将来の犠牲を象徴していました。

(へブル人への手紙を解説するときに、私はさらに具体的に説明します。)

彼らは神様を信じていましたが、イエス様がまだ彼らの罪のために死んでいなかったため、神様が彼らを罰することは不公平だったでしょう。

彼らは神様がメシア(救い主)を送ることを信じました。そのため、神様はその信仰を受け入れ、彼らを義人と見なし、彼らが受けるべき罰を猶予されました。

そして、イエス様が十字架にかけられたとき、神様はアブラハム、ダビデ、そしてその他の旧約聖書の信者たちの罪をイエス様の上に置かれました。その時、イエス様は彼らの罰を受けました。

その結果、彼らの罪は赦され、イエス様がよみがえられた後、彼らはイエス様と共に天国に行ったのです。

神様は私たちに対しても、忍耐と義を示されています。

私たちは皆、罪を犯しました。神様はすぐに私たちを滅ぼす権利を持っていましたが、むしろ忍耐を示されました。

神様は私たちの心に働きかけ、私たちの心をイエス様のために整えてくださいました。そして、私たちが神様を信じたとき、神様は私たちの罪を清めてくださいました。

とはいえ、神様の赦しを誤解しないでください。神様はただ、「あなたが悪いことをしたけれど、私は優しいからその罪を赦してあげる」と言ったわけではありません。

むしろ、神様はこう言われました。「あなたの罪は深刻なものでした。その罪のために、代価が支払われなければなりませんでした。正義が行われなければなりません。

しかし、イエスがその代価を支払ったので、正義は成し遂げられました。そして、あなたがその十字架の働きを信じたので、その信仰によって、あなたは救われました。」

もし、あなたがまだクリスチャンでないなら、覚えていてください。神様は忍耐強い神です。けれども、神様は義の神でもあります。神様は忍耐を示し、あなたの反応を待っています。それでも、神様は永遠に待つわけではありません。

もし神様の恵みを受け入れないなら、あなたは神様の義の裁きを受けることになります。だから、ためらわないでください。まだ時間がある間に、その恵みを受けてください。

パウロはこう言いました。

見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。(第二コリント6:2)

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詩篇

正義がやっと来ると

子供の時、私はいつも教会で、この詩篇からの歌を歌いました。つまり、1節を歌いました。

私たちは、あなたに感謝します。神よ。私たちは感謝します。御名は、近くにあり、人々は、あなたの奇しいわざを語り告げます。(詩篇75:1)

けれども、その歌を歌った時、何に感謝するか分かりませんでした。どの奇しいわざを悟り告げるか分かりませんでした。

しかし、この詩篇の全体を読むと、その答えがすぐに分かります。この詩篇は裁きの日についてです。その日、神様はすべての人々を自分の行動のために裁かれます。

この詩篇で、神様はこう言われます。

わたしが、定めの時を決め、わたしみずから公正にさばく。地とこれに住むすべての者が揺らぐとき、わたしは地の柱を堅く立てる。セラ

わたしは、誇る者には、「誇るな」と言い、悪者には、「角を上げるな。おまえたちの角を、高く上げるな。横柄な態度で語るな」と言う。(2-5)

そしてこの詩篇の最後の部分によれば、神様は悪者を低くされ、義人を高く上げてくださいます。だから、詩人は神様をほめたたえます。

しかし私は、とこしえまでも告げよう。ヤコブの神を、ほめ歌おう。

悪者どもの角を、ことごとく切り捨てよう。しかし、正しい者の角は、高く上げられる。(9-10)

私は以前にも言ったことがありますが、私たちはこの世の悪を見る時、「神様はどこだろうか。どうして神様は何もしないのだろう」とよく思います。けれども、この詩篇によれば、正義は必ず来ます。

だから、私たちは待っている間、神様をほめたたえましょう。なぜなら、神様は忍耐強く、人々が悔い改めるのを待っておられますが、必ずや神様の正義は訪れます。(第二ペテロ3:9)

その憐れみによって、私たちも救われたので、神様を信頼し、感謝し続けましょう。