今日の箇所では、さまざまな出来事があり、聖書学者たちは例によってその意味を議論しています。
竜(つまりサタン)と共に、二頭の獣が現れます。今回の記事では、最初の獣について取り上げ、次回のブログで二頭目の獣について扱います。
第一の獣は海から現れます。それは不思議な存在で、ダニエル書第7章に出てくる四頭の獣の特徴を併せ持っています。
竜の力を授けられたこの獣の七つの頭のうち一つは致命的な傷を負って死にましたが、その傷が癒え、世界の人々は驚きました。その結果として、世界の人々はこの獣と、それに力を与える竜を拝むようになります。
では、この幻の意味は何でしょうか。
ダニエル書では、四頭の獣がバビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマの各帝国を象徴しています。
ある程度、黙示録に登場する第一の獣は、それら四つの帝国に似た性質を持っています。これらの帝国は次々に現れては滅び、別の帝国に取って代わられました。
けれども、その結果はいつも同じでした。すなわち、竜を礼拝する新たな帝国が登場し、神の民を迫害するのです。
このように、黙示録において獣に従う者たちは竜を礼拝し、神の民に敵対します。
興味深いことに、黙示録第17章では、その獣が「昔はいて今はいないが、やがて底知れぬ所から上って来るもの」と描写されています(17:8,11)。
もしかすると、ヨハネはかつて獣を見たが、この書を書いた時点ではその獣がすでに滅びていたことを示しているのかもしれません。つまり、ヨハネは過去の皇帝、ネロについて言及している可能性があります。
いずれにせよ、ヨハネによれば、その皇帝は致命的な傷を受けたものの、いつか別の皇帝が現れ、ネロのように神を冒涜し、神の民を迫害するのです。
ヨハネがそのような意図を持っていたとすれば、獣は単一の人物ではなく、歴史の中に登場した多くの人々を象徴していることになります。ヨハネ自身、「キリスト教が始まってから、多くの反キリストがすでに現れている」と述べています(第一ヨハネ2:18)。
これらの反キリストたちは現れ、死に、そして新たな反キリストが再び登場します。そのパターンは何度も繰り返されてきました。
しかし、ヨハネによれば、最終的な反キリストが現れます。そして、かつての反キリストたちと同様に、人々を竜を礼拝するように導きます。
おそらく、その反キリストは「サタンを礼拝せよ」と直接は言わないでしょう。けれども、かつてのローマ皇帝のように、彼は救い主として人々に礼拝されるのです。なぜなら、一時的な平和と繁栄をこの世にもたらすからです。
ところが、人々は、自分が実際にはサタンの代理者に従っていることに気づいていません。
おまけに、反キリストは神様を冒涜し、多くのクリスチャンが迫害されます(7)。
第7〜8節によれば、クリスチャンでない者たちは喜んで獣に従います。言い換えれば、クリスチャンを迫害し殺害することが、政治的に正しいとみなされる時代になるのです。
それでは、今日の箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。私たちが第一の獣に直面する時、彼は私たちを激しく虐げるでしょう。だからこそ、ヨハネは私たちに警告を与えているのです。
捕らわれの身になるべき者は捕らわれ、剣で殺されるべき者は剣で殺される。ここに、聖徒たちの忍耐と信仰が必要である。(黙示録13:10)
その言葉は、スミルナにある教会の人々に対するイエス様の言葉に似ています。だからこそ、おそらく彼らがこれらの言葉を読んだ時、それは心に深く響いたことでしょう。
しかし、10では、ヨハネは私たちすべてに語りかけておられます。
「心構えをしなさい。迫害は来ます。でも、忍耐と信仰を保ちなさい。そうすれば、あなたたちはいのちの冠を与えられます。また、あなたたちは決して第二の死によって害を受けることはありません。」
このメッセージを私は何度も繰り返してきたので、あなたの耳にはタコができているかもしれません。でも、私たちが反キリストに直接直面しなくても、他者による迫害を受ける可能性はあります。家族や友人、隣人、同僚、そして政府ですら、私たちを迫害するかもしれません。
アメリカでは、クリスチャンたちはこうしたことを経験し始めています。日本の歴史においても、クリスチャンたちは迫害を受けました。今は想像できないかもしれませんが、その時は再び訪れる可能性があるのです。
だから、気持ちを引き締めましょう。信仰を保ちましょう。そして、忍耐を保ちましょう。もしかすると、神様は私たちが迫害を経験するように召しておられるのかもしれません。
それでも、もし迫害を受けるなら、忘れないでください——イエス様はすでに私たちのために迫害を受けておられます。
だからこそ、『へブル人への手紙』の著者は次のように語っています。
信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。
この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。
あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。(へブル12:2-3)