カテゴリー
ガラテヤ人への手紙のデボーション

他の福音?

しかし、私たちであれ天の御使いであれ、もし私たちがあなたがたに宣べ伝えた福音に反することを、福音として宣べ伝えるなら、そのような者はのろわれるべきです。

私たちが以前にも言ったように、今もう一度、私は言います。もしだれかが、あなたがたが受けた福音に反する福音をあなたがたに宣べ伝えているなら、そのような者はのろわれるべきです。

今、私は人々に取り入ろうとしているのでしょうか。神に取りとしているのでしょうか。あるいは、人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。

もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません。(ガラテヤ人への手紙1:8-10)

ガラテヤの教会は深刻な問題に直面しました。あるユダヤ人たちは彼らに、「モーセの律法を守り、割礼を受けなければ、あなたは救われない」と教えました。

しかし、その教えはパウロが彼らに述べ伝えていた福音とは正反対のものでした。つまり、私たちは神の恵みによってのみ救われるのです。

だから、パウロは彼らにこう言いました。「もし誰かが別の『福音』を述べ伝えるなら、その人は神様に呪われるべきです。私たちの福音はイエス様ご自身から来たものです。

私たちがその福音を変えれば、周りの人々を喜ばせるかもしれませんが、キリストを喜ばせることにはなりません。」

現代では、救われるために割礼を受けなければならないと教える人はほとんどいないでしょう。しかし、他の点では人々は福音を変える誘惑にさらされています。

たとえば、多くの人々は「イエス様を信じても信じなくても、すべての『良い人』は天国に行く」と信じたがります。

また、罪を悔い改める必要性について語ることを避ける人もいます。さらに、神様が「罪」と呼ぶことを「善」と呼び、神様が「善」と呼ぶことを「悪」と呼ぶ人もいます(イザヤ書5:20;ローマ1:24–32)。

私たちがそのような「福音」を述べ伝えるなら、周りの人々は喜ぶかもしれません。しかし、イエス様は喜ばれません。

正直に言えば、キリストの福音を忠実に述べ伝えるのが難しい時もあります。そうすれば、私たちが愛している人々は喜ばないかもしれません。

それでも、神様への愛、そして彼らへの愛をもって、イエス様が私たちに委ねられた福音を忠実に分かち合いましょう。なぜなら、その福音によって、イエス様は私たちを救ってくださったのですから。

カテゴリー
コリント人への手紙第二のデボーション

あなたの推薦を受けるために

私たちは、自分自身を推薦している人たちの中のだれかと、自分を同列に置いたり比較したりしようとは思いません。

彼らは自分たちの間で自分自身を量ったり、互いを比較し合ったりしていますが、愚かなことです。。。

自分自身を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ本物です。(コリント人への手紙第二10:12、18)

主よ。自分自身を他の人と比較するのは簡単なことです。つまり、自分の実績を周りの人々の実績と比較するのは簡単なことです。

しかし、そんな考え方は空しいものです。最終的に、大切なのはただ一つ──あなたの評価です。

あなたは私を他の人と比較しておられるのではありません。むしろ、私があなたに忠実であるかどうかを評価しておられるのです。

だから、私が忠実なしもべとなるように。あなたの推薦を受けたいです。そして、あなたの誉め言葉を聞きたいです。

「よくやったよ。良い忠実なしもべ。」

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

カテゴリー
テモテへの手紙第二のデボーション

私の人生を形づけた聖句

聖書の教師として、第二テモテ3:16-4:8の聖句は、私の人生を形づくるものです。

特に、私は4:1-4に記されたパウロの言葉の重みを深く感じます。

ある日、私は天の父とイエス様の前に立ち、裁きを受けます。それは、私が救いに値するかどうかではなく、私の奉仕が忠実であったかどうかを問われるのです。

私は神のみ言葉を忠実に教えてきたでしょうか。この世では、多くの人々が真理から耳をそむけ、自分が聞きたいことを語る教師や牧師たちを集めています。

そのような時代にあって、私は神のご計画の全体、神のみ言葉の全体を教えてきたでしょうか。(使徒の働き20:26-27)

もしかすると、私は人々が受け入れやすいことだけを語ってしまったのかもしれません。

便利な時も、そうでない時も、私はみ言葉を教えてきたでしょうか。人々がその言葉を好む時も、好まない時も、私は神のみ言葉を忠実に語ってきたでしょうか。

この問いは、私の教えの奉仕を形づけてきました。

そのために、このブログを立ち上げました。このブログでは、聖書全体について書いてきたので、難しいテーマや難しい箇所を避けることはできませんでした。

このブログの目的の一つは、神の民が、神様の語られたすべての言葉を知ることにあります。

私はいつも神のみ言葉を忠実に語ってきたでしょうか。そうできなかった時も、私は覚えています。でも、過去の失敗は変えられません。私にできるのは、これから聖書を忠実に教え続けることです。

でも、覚えておきましょう。私たちすべてのクリスチャンには、周りの人々に神のみ言葉を伝える責任があります。

やがて、私たちは神様の前に立ち、周りの人々に何を伝え、何を伝えなかったかによって裁かれることになります。

だから、パウロの言葉を心に留めておきましょう。その言葉は、私やあなたの牧師だけのためではなく、すべてのクリスチャンのためのものです。

神の御前で、また、生きている人と死んだ人をさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思いながら、私は厳かに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。

時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。(テモテへの手紙第二4:1-2)

カテゴリー
ヨハネの黙示録

イエス様がもうすぐ来られるから。。。

黙示録の最後に繰り返し登場する重要なテーマは、「イエス様がまもなく来られる」という約束です。実はこの約束、黙示録だけではなく、聖書全体を通して繰り返し語られているテーマでもあります。

特に黙示録22章では、イエス様がご自身の再臨を三度宣言されています(7、12、20)。

では、私たちはこの約束にどう応答すればよいのでしょうか。 そのヒントが、17節に記されています。

御霊と花嫁が言う。「来てください。」

これを聞く者も「来てください」と言いなさい。(黙示録22:17a)

興味深いことは、御霊さえもイエス様に「来てください」と叫ばれることです。もしかしたら、それは私たちのための御霊のとりなしの祈りの一つかもしれません。(ローマ8:18-27)

でも、キリストの花嫁として、私たちもイエス様の到来を待ち望むべきです。その日のために、私たちは自分の心を整えなくてはなりません。

私たちはどのようにそうするべきでしょうか。

1.神様が私たちに与えた役割を忠実に果たしましょう。

見よ、わたしはすぐに来る。それぞれの行いに応じて報いるために、わたしは報いを携えて来る。(黙示録22:12)

私たちは20章で読みましたが、二種類の書物があります。一冊目には、私たちの行為のすべてが記されています。二冊目は、子羊のいのちの書です。

でも、あなたの名前が子羊のいのちの書に記されていても、一冊目の書がなくなるわけではありません。ある日、私たちは神様のみ前に立ち、自分の行為のために裁かれます。福音書や使徒たちの書簡には、そのテーマが何度も出てきます。

私たちが神様から与えられたものを忠実に用いたかどうか、判断されます。

忠実に用いれば、報いを得ます。でも忠実でなければ、私たちは救われるものの、火の中をくぐるようにして助かるのです。(第一コリント3:10-15)

だから、イエス様は私たちに警告されます。「目を覚まし、わたしの到来を期待して、忠実に仕えなさい。」(マタイ24:36-25:30)

2.聖さを追い求めましょう。

第一ヨハネでは、ヨハネはこう語りました。

しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。

キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。(第一ヨハネ3:2-3)

言い換えると、私たちがキリストの到来を期待し、いつかキリストに似た者になるという希望を抱いているので、今、私たちは清い人生を送るように努めます。

正しい者には、ますます正しいことを行わせ、聖なる者は、ますます聖なる者とならせなさい。(黙示録22:11b)

3.神様を礼拝しましょう。

この世には、さまざまなものが私たちの注目を集め、心を虜にしようとします。その中には良いものもあります。でも、私たちはそれらを礼拝してはなりません。

ヨハネも二度、その罠に陥りそうになりました。彼は御使いを見て、礼拝しようとしたのです。けれども、天使は二度こう言いました。

いけません。。。神を礼拝しなさい。(22:9)

私たちは被造物を礼拝してはなりません。私たちは創造者だけを礼拝するべきです。

4.神様のみ言葉に忠実になりましょう。

この書では、私たちはさまざまな訓戒を読んできました。特に、2〜3章では多くの訓戒を読みましたが、黙示録の他の箇所にも訓戒がいくつもあります。 だから、イエス様は、私たちがそれらの訓戒に留意し、忠実に従うように命じられます。

イエス様はこう言われました。

見よ、わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを守る者は幸いである。(22:7)

また、イエス様は、私たちがその言葉から何かを取り除かないように注意し、その言葉に付け加えないように注意されます(22:18〜19)。

イエス様がこの世に来られるまで、私たちはそのような人生を送るべきです。

しかし、もしあなたがまだイエス様を知らないなら、イエス様の次の言葉はあなたのためのものです。

渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。(22:17b)

神様は、あなたがご自身のもとに来るように強制されません。 もしあなたが自分の罪にとどまりたいなら、神様はあなたをそのままにされます(22:11a)。

けれども、神様の望みは、あなたがご自身のもとに来て、救われることです。

神様はこう言われます。

自分の衣を洗う者たちは幸いである。彼らはいのちの木の実を食べる特権が与えられ、門を通って都に入れるようになる。(22:14)

私たちはどのように自分の衣を洗うことができるでしょうか。 私たちは自分の努力によってそうするのでしょうか。

違います。十字架で流されたイエス様の血によって、私たちは清められます。 イエス様を信じると、イエス様はあなたの罪のすべてを清めてくださいます(第一ヨハネ1:7)。

今日、あなたは祈って、イエス様を自分の救い主と主として受け入れませんか。

イエス様、今まで、私は自分の道を行き、あなたや周りの人々、そして自分自身さえも傷つけました。 私を赦してください。あなたが十字架で私の罪のために死んでくださり、感謝します。 私の罪と失敗を清めてください。

あなたは王の王、主の主です。 私は自分の人生をあなたに捧げます。 イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

この記事を、イエス様とヨハネの言葉で終わります。

イエス様はこう言われました。

わたしイエスは御使いを遣わし、諸教会について、これらのことをあなたがたに証しした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。。。

これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」(黙示録22:16,20)

ヨハネはこのように答えました。

アーメン。主イエスよ、来てください。(20b)

「主イエスの恵みが、すべての者とともにありますように。」(22)

アーメン、アーメン。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ25章

タラントンのたとえ話:忠実に仕えている?

この箇所の二つ目のたとえ話は、イエス様が以前に教えられたことを指しています。つまり、イエス様がこの世に戻られるまで、私たちは神様から委ねられた働きを忠実に果たさなければならないということです。

このたとえ話では、ある主人が三人のしもべに銀を預け、「この銀を投資しなさい」と命じました。

彼は最初のしもべに五タラントを預けました(タラント一つ分の銀は約二十六〜三十六キロとされています)。次に、二番目のしもべには二タラントを、三番目のしもべには一タラントを預けました。

なぜ主人は、しもべたちに異なる量を与えたのでしょうか。それは、彼らそれぞれの能力に応じて銀を預けたからです。

神様はこのように、私たち一人ひとりに才能と資源を与えてくださいます。けれども、私たちは皆、同じものを与えられるわけではありません。神様は、それぞれに異なる才能を与え、その才能に応じて、どのような資源を委ねるかを決められるのです。

また、このたとえ話のように、神様は私たちがその才能と資源を忠実に用いることを求めておられます。もし私たちが忠実にそれを行うなら、神様は私たちにこう言われます。

よくやった。良い忠実なしもべだ。お前はわずかなものに忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」(マタイの福音書25:21)

このたとえ話では、主人は二人のしもべにそのように言いました。ところが、もう一人のしもべは銀を投資せず、地面に穴を掘ってそれを隠しました。だから、主人が戻った時、そのしもべは預かった銀だけを返しました。

なぜ彼はそんな行動を取ったのでしょうか。おそらく、主人を敬っていなかったからです。

主人が不公平だと思っていたのです。つまり、主人は何もせずに他人の労働によって利益を得ていると感じていました。そして、しもべは銀を投資しても、主人が自分に正当な報いを与えてくれないと疑っていたのです。

多くの人々は神様をそのように見ています。彼らは神様を正しく重んじようとせず、不公平で厳しすぎる方だと考えています。そのため、神の国のために自分の才能や資源を用いようとせず、かえって神様を責めるのです。

けれども、彼らの不満は単なる言い訳にすぎません。実際には、彼らは神様のためではなく、自分自身のために生きたいと願っているのです。

主の日が来る前、つまりイエス様がこの世に戻られる前に、多くの人々は神様に対して誤った考えを抱きます。その時代には、地震、飢饉、戦争、疫病などが起こり、それを見た人々は自分の罪を悔い改めることなく、神様を責めるのです。

しかし、イエス様が戻られる時、彼らは自分の言い訳と批判が誤っていたことに気付きます。

神様が公平な方であるにもかかわらず、実際には自分自身がわがままで、怠惰で、罪深い者であったことを認めるようになるのです。だから、彼らは裁きを受けることになります。

信仰の本質とは、神様が良い方であることを信じることです。私たちはさまざまな災いに直面するかもしれませんが、それは神様が悪いからではありません。私たちは不正を目にすることがあるかもしれませんが、神様は不正な方ではありません。むしろ、この世の問題の根源は、私たち自身にあります。

それにもかかわらず、自らの責任を認めず、神様を重んじることなく、神様を責めて言い訳を並べるなら、私たちは神様から任されたものを忠実に用いることができなくなります。

あなたはどうでしょうか。神様について、あなたはどのように考えていますか。あなたの人生を通して、神様を重んじているでしょうか。神様があなたに委ねられたものを忠実に用いて、この世に働きかけているでしょうか。

カテゴリー
ルカの福音書 ルカ16章

不正な管理人のたとえ話:忠実さ

前回の記事では、私たちはずる賢い管理人の話を読みました。その管理人は自分の未来のために準備していたため、イエス様は彼を褒められました。

しかし同時に、イエス様は彼を戒められました。そして、イエス様はこう言われました。

小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。(ルカの福音書16:10)

要するに、誰を信頼するかを慎重に考えなさい。どんな人にも、いきなり大きな責任を任せるのではなく、まずその人をよく見極めるべきです。

まずは小さな責任を与え、その人が誠実に果たせるかどうかを確認しなさい。その人が忠実に仕えるなら、さらに大きな責任を任せなさい。けれども、小さな責任すら果たせないなら、その人を信頼してはならないということです。

とはいえ、私たちは他者を評価するだけではなく、自分自身も省みなければなりません。イエス様は続けてこう言われました。

ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。

また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。(11-12)

神様は私たちに財産やさまざまな資源を与えてくださいました。あなたはそれらを忠実に活用しているでしょうか。

あなたの財産が、実は神様のものであることを理解しているでしょうか。神様はあなたに才能と健康を授けてくださいました。そのため、あなたは働き、お金を得ることができます。

そういうわけで、あなたの財産は本来、あなたのものではなく、神様のものであり、あなたはそれを管理しているにすぎません。

もしあなたが忠実に神様の財産を管理していないなら、神様があなたにさらなる責任を委ねると思うでしょうか。特に、神様はあなたにミニストリーの責任を託されるでしょうか。

私は教会の働きについてだけ話しているのではありません。

あなたの学校や職場、近所にも、神様を必要としている人々がたくさんいます。神の国の一員として、私たちはその人々に触れ、影響を与えるように召されています。そして、それに忠実に応じるなら、天国で報いを得るのです。

しかし、もしあなたがこの世の物に対して不忠実であるなら、神様は永遠のものをあなたに委ねることができるでしょうか。

あなたは、神様があなたに託されたものに忠実でしょうか。神様はあなたを信頼できるでしょうか。

カテゴリー
箴言

愛と忠実さ

愛と忠実さ。この世では、その二つのものは見つけられません。だから、たくさんの人間関係、特に結婚の関係は壊れています。

ソロモンはこう書きました。

恵みとまことを捨ててはならない。それをあなたの首に結び、あなたの心の板に書きしるせ。神と人との前に好意と聡明を得よ。(箴言3:3-4)

その恵みは「変わらない愛」という意味です。そして、たくさんの英語の翻訳は「誠」という言葉を「忠実さ」と翻訳します。

神様に対する愛と忠実さはどういう意味でしょうか。それは、神様に信頼するので、従うという意味です。

簡単に言うと、あなたに対する神様の愛の確信を持って、あなたがその信仰によって生きることです。

ソロモンはその真理をもっと説明します。

心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。

あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

自分を知恵のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。(5-7)

私たちが神様を愛するなら、私たちは全く神様に信頼します。私たちが何をしても、私たちがどこにいても、私たちは自己中心の生活を送らず、神様中心の生活を送ります。そして私たちの知恵に頼らずに、神様の知恵に頼ります。

時々、それは難しいです。正直に言うと、多くの場合、それは難しいです。

特に難しいところは、私たちの家計です。ソロモンはこう書きました。

あなたの財産とすべての収穫の初物で、主をあがめよ。そうすれば、あなたの倉は豊かに満たされ、あなたの酒ぶねは新しいぶどう酒であふれる。(9-10)

あなたが十一献金が新約聖書の教えであることを信じるかどうか分かりませんけど、はっきりしているのは、あなたのお金は実はあなたのものではないことです。あなたは、代価を払って買い取られたのですから(第一コリント6:20)。

そして、もし、自分の体をもって、神の栄光を現わすべきなら、お金によって、神の栄光を現わすべきです。

十一献金に反対する多くの人々は、自分の心で「これは私のお金です。私は好きなように使える権利がある。」と思います。

もちろん、あなたの給料の10%は神様に属しません。実は、すべては神様のものです。あなたは、ただその神様が与えてくださるお金の管理人です。

だから十一献金を捧げても、捧げなくても、あなたはこう聞かなくてはならない。「神様、私がどうやってこのお金を使えば良いか教えてください。これはあなたのものだから。」

そして、私たちは神様の懲らしめを謙遜に受け入れなくてはなりません。ソロモンはこう書きました。

わが子よ。主の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな。

父がかわいがる子をしかるように、主は愛する者をしかる。(11-12)

私たちが聖書を読むとき、また教会の説教を聞くとき、厳しいことを聞くこともあります。その時、聖霊様は私たちを懲らしめてくださいます。

例えば、私たちの結婚の関係に関して、また、子供との関係に関して、神様は私たちに話してくださいます。もしくは、私たちの家計や仕事に関して話してくださいます。

そして、神様の懲らしめを聞くのは辛くて、私たちはその言葉を全然聞きたくないです。

けれども、私たちが本当に神様を愛するなら、その言葉に従います。私たちの知恵に頼らずに、神様の道を選びます。

そうすれば、神様は私たちが命と平和を得ると約束してくださいます。(16-18)

また私たちはその知恵にしがみつき、神様を恐れると、ほかのものを恐れる必要がないです。(21-26)

しかし、私たちは周りの人々にも愛と忠実さを与えるべきです。ソロモンはこう言いました。

あなたの手に善を行なう力があるとき、求める者に、それを拒むな。

あなたに財産があるとき、あなたの隣人に向かい、「去って、また来なさい。あす、あげよう」と言うな。(27-28)

つまり、周りの人々を祝福する機会があれば、待たないでください。すぐにその人を祝福してください。

また、彼らを裏切らないでください。なぜなら、神様はあなたを見ておられるし、そんな人々に反対されるからです。

最後に、ソロモンはこう言いました。

あざける者を主はあざけり、へりくだる者には恵みを授ける。

知恵のある者は誉れを受け継ぎ、愚かな者は恥を得る。(34-35)

私たちが神様の知恵をあざけり、自分の道を行くことを決めたら、蒔いたものを刈り取ります。つまり、恥や悲しみや死を刈り取ります。

けれども、あなたが謙遜に、神様の懲らしめを受け入れて、神様の道を行くなら、神様はあなたに命や、恵みや、平和や、誉れを与えてくださいます。

あなたはどうするでしょうか。

カテゴリー
ネヘミヤ記

私たちの感情がなくなると

私がハワイに住んでいた頃、時々教会で山のキャンプに行きました。そこで私たちは賛美したり、良いメッセージを聞いたりしました。だから、帰ると私は本当に情熱を持って神様に仕えようと思わされました。

しかし、日常生活に戻るとどうなったでしょうか。山のキャンプでは、神様が近くに感じられ、神様に触れることができるように思えました。

けれども、帰ると神様は遠くなったように感じ、情熱も失われてしまいました。結局、生活そのものが劇的に変わることはなかったのです。

この箇所で、ユダヤ人もそのような経験をしました。彼らは神様の慈しみを祝ったり、自分の罪を告白して悔い改めたり、神様の前で神様との契約を結んだりしました。その契約で、彼らは神様の命令に従うことを約束しました。

具体的には、偶像礼拝する外国人と結婚しないこと、安息日を守ること、祭司たちとレビ人を支えるために献金を捧げることを約束しました。また、神様の宮をなおざりにしないことも約束しました。

その時、皆は非常に感情的になり、ずっと神様に従おうと思いました。

そして、彼らは祭りを祝ったり、エルサレムの城壁の奉献式を行いました。

しばらくの間、すべてはうまくいきました。けれども、彼らの日常生活が始まりました。彼らの最初の熱意も燃えた感情も次第になくなっていきました。

さらに、ネヘミヤはバビロンに帰らなければなりませんでした。なぜなら、彼は再び王様に仕えなければならなかったからです。

そして、ある日、ネヘミヤがエルサレムに戻ると、何を見たのでしょうか。

ユダヤ人はもうレビ人を支えなくなっていたため、レビ人は自分の農地に帰っていました。

さらに、ユダヤ人は安息日に仕事をしたり売買をしたりしていました。

それだけでなく、彼らは偶像礼拝をする外国人と結婚し始めました。

その時、祭司たちは何をしていたでしょうか。全く何もしませんでした。

実際、ある祭司はユダヤ人の敵であるサヌバラテの娘と結婚しました。ユダヤ人がエルサレムの城壁を建て直していた時、サヌバラテはその仕事を止めようとしていたのに、その祭司はサヌバラテの娘と結婚したのです。

その祭司の父である大祭司エルヤシブは、他のユダヤ人の敵(彼も城壁を建て直すことに反対していた)トビヤのために、主の宮の庭で大きな部屋を一つ準備し、トビヤはそこに住んでいました。

ネヘミヤはそのことを見て本当に怒りました。彼はトビヤを追い出し、その部屋を清めて、神の宮の器物を穀物のささげ物や乳香といっしょに、再びそこに納めました。(13:9)

そして、エルヤシブの息子のことも、主の宮から追い出しました。

その後、ネヘミヤがユダヤ人を叱ったので、彼らは安息日に仕事をするのを止め、もう一度レビ人を支え始めました。

この箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

私たちが霊的に盛り上がった時、神様に「これからあなたに従う」と約束することは簡単です。

しかし、その感情がなくなった時どうするでしょうか。

神様は私たちの「山上の約束」にあまり感動しません。神様が知りたいのは、私たちが日常生活に戻った時、どうするかということです。

私たちはまだ神様のために生きるでしょうか。神様にまだ忠実に仕えるでしょうか。

それとも、私たちは自分の古い生活に戻るでしょうか。

主の宮、つまり私たちの体に悪いものが入ることを許すでしょうか。

この世のものと結婚しているでしょうか。それらのものは私たちを神様から引き離しているでしょうか。私たちの仕事やお金を、神様より優先するでしょうか。

あなたはどうですか。神様への情熱がなくなった時、あなたはどうしますか。