屈辱。恥。それらは私たちに引っ付きます。そして多くの場合、私たちの決断と行動によって、屈辱と恥が起こります。
そして、私たちは「どうやってこの状態から免れるだろうか」と思います。
また「もう希望がない」と思います。
この箇所の一節によれば、イスラエル人の女性たちはそう感じていました。
以前、彼女たちは金持ちで、上級階級に属していました。でも彼女たちもその夫たちのように罪深い存在でした。
だから、裁きが来ると、その夫たちが亡くなって彼女たちは未亡人になりました。そして、その未亡人たちは必死に新しい夫を探し、彼女たちはこう言いました。
「あなたの名前だけが欲しいです。他の物は要りません。私は自分自身のために食べ物やお金を得ます。でも私の屈辱を取り去ってください。愛されていない女性の屈辱を取り去ってください。家族のない女性の恥を取り去ってください。」
でも神様はその未亡人たちにさらに良いことを提供されていました。
この箇所で、初めて私たちは「若枝」という表現を見ます。「若枝」というのはイエス様です。
イザヤはこう記しました。
その日、主の若枝は、麗しく、栄光に輝き、地の実は、イスラエルののがれた者の威光と飾りになる。
シオンに残された者、エルサレムに残った者は、聖と呼ばれるようになる。みなエルサレムでいのちの書にしるされた者である。(イザヤ書4:2-3)
つまり、イエス様は来て、自分のために花嫁としてイスラエル人を聖別してくださるということです。そして、4節で、イザヤはこう記しました。
主が、さばきの霊と焼き尽くす霊によって、シオンの娘たちの汚れを洗い、エルサレムの血をその中からすすぎ清める。。。(4)
つまり、イエス様は彼らに彼らの罪を認めさせます。そして、彼らの心の汚れを清めてくださいます。
パウロもまた、そのように語りました。イエス様は、その花嫁――つまり教会――を「愛し、教会のためにご自身をささげられた」のです。
またイエス様は「みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせ(ました)。」(エペソ5:25-27)
イザヤはこれも言いました。
主は、シオンの山のすべての場所とその会合の上に、昼は雲、夜は煙と燃える火の輝きを創造される。
それはすべての栄光の上に、おおいとなり、仮庵となり、昼は暑さを避ける陰となり、あらしと雨を防ぐ避け所と隠れ家になるからだ。(5-6)
イスラエルの未亡人たちが求めている男性たちとは異なり、神様はご自身の臨在と保護と必要な物を与えることを約束されました。
約束された土地へ向かうために、イスラエル人が荒野を越えていたとき、神様は確かにそのようにしてくださいました。だからこそ、神様はこう言われました。
「覚えていますか。その時のように、もう一度私の臨在と保護と必要な物を与えます。それらは私の栄光を表して、その上の覆いとなります。」
「おおい」というのは結婚式に使われる覆いです。だから、神様の絵は分かりやすいです。
神様はご自身の民を清めて、彼らの罪を洗い、自分のために聖別し、もう一度彼らの夫となられます。神様は彼らの屈辱を取り去り、彼らのニーズを備えて、人生の嵐の中で彼らを守る避け所と隠れ家となられるのです。
あなたはどうですか。屈辱はあなたに引っ付いて、あなたは自分の人生を恥ずかしいものだと思っているでしょうか。
神様はあなたの心の汚れを清めることができます。それに、神様はあなたを赦し、神様の愛する者となります。
イエス様の前にあなたは、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなります。
神様にあなたの人生を捧げませんか。