カテゴリー
ヨハネの福音書のデボーション

平安があなたがたにあるように

「平安があなたがたにあるように。」(ヨハネの福音書20:19)

その時代も今も、ユダヤ人の間ではそれは日常的な挨拶です。

でも、それはただの挨拶だったでしょうか。イエス様はその言葉を繰り返して言われたので、たぶんそうではありません。

弟子たちは未来を恐れ、隠れていました。

イエス様がご自分を現されても、弟子たちは自分の失敗を考えて、どれほど不安を感じたでしょうか。

でも、イエス様は「平安があなたがたにあるように。私はここにおります。あなたたちの失敗に関わらず、受け入れております」と言われました。

そして、平和を持たない人々のところに、イエス様は弟子たちを遣わされました。

でも、平和の御霊が私たちのうちに住んでおられないなら、周囲の人々に平和を与えるのは難しいです。

だから、イエス様は彼らに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい。」

イエス様はあなたを遣わしたいと思っておられます。でも、あなた自身は平和を持っているでしょうか。

もしくは、あなたは未来を恐れているでしょうか。

それとも、神様があなたに関して何を思っておられるのか常に心配しているでしょうか。

覚えておきましょう。イエス様はあなたに言われます。「平安があなたがたにあるように。」

イエス様はすでに御霊をあなたに与えてくださいました。恐れの霊ではなく、私たちと一緒に「アバ、父」と叫ばれる御霊です。私たちは神との平和を持っています。(ローマ5:1,5;8:15)

だからその平和を持って、安心しましょう。そして、平和を持たない人に神の平和を与えましょう。

カテゴリー
マルコの福音書のデボーション

私たちの罪と恥を取り去る方

イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。(マルコの福音書2:5)

人々はその中風の人に、何度こう言ったでしょうか。「神様はあなたを罰しているのではないか。あなたの苦しみは、あなた自身のせいだ。」

その時代、多くの人々がそのように考えていました。(ヨハネ9:1ー2;ルカ13:1ー4)

何年もの間、彼は罪と恥の重荷を負っていたのではないでしょうか。自分の不自由な体を見るたびに、彼は何度、自分の罪を思い出し、自分を責めたことでしょう。

彼の健康問題が本当に罪と結びついていたかどうかは分かりません。でも、彼の罪と、その罪から生まれた恥は、確かに彼の現実でした。

そんなある日、彼はイエス様のことを耳にしました。イエス様の教えを聞きました。そして、彼とその友人たちの心に、信仰が芽生えました。

おそらく、中風の人は、イエス様が自分を癒すことができると信じただけではなかったでしょう。彼は、イエス様の語られるすべてのメッセージを信じたのだと思います。

時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。(マルコ1:15)

イエス様はその信仰をご覧になったとき、中風の人にこう言われました。「子よ、あなたの罪は赦された。」

その瞬間、彼の罪と恥は取り去られました。

あなたはどうでしょうか。今、自分の罪と恥の重荷を背負っているでしょうか。

イエス様は、私たちの罪と恥を取り去ってくださる方です。

悔い改めと信仰をもってイエス様のもとに行くなら、イエス様は私たちにもこう言われます。「子よ、あなたの罪は赦された。」

カテゴリー
マルコの福音書のデボーション

恥じているのですか

だれでも、このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るとき、その人を恥じます。(マルコの福音書8:38)

今まで気づいていなかったけど、イエス様の言葉には、皮肉があります。

イエス様はこの世の民を「姦淫と罪の時代」と呼ばれます。

彼らはイエス様の言葉を聞いて、恥を感じるはずでしょう。でも、実は、多くの人々は自分の罪を誇ります。さらに、彼らは罪を行う人たちを応援します。(ローマ1:21ー32)

それだけではなく、彼らはキリストの言葉に従う人たちに恥をかかせようとします。

でも、イエス様は私たちにこう言われます。

だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。(34節)

たぶん、十字架は、最も苦しくて恥ずべき死に方だったでしょう。人々は裸で十字架にかけられました。イエス様が十字架にかけられたとき、周りの人々はイエス様をあざ笑いました。

イエス様の弟子とは、自分の十字架を負い、イエス様の恥と苦しみを受けることを意味します。

ある人々は私たちを憎みます。

私たちをあざ笑う人もいます。

でも、イエス様が教えられたのは、私たちの恥の中に、私たちが祝福を得るということです。(マタイ5:10ー12)

さらに、私たちの大胆さによって、今、私たちをあざ笑っている人たちは、いつか救われるかもしれません。

だから、パウロと一緒に言いましょう。

私は福音を恥としません。福音は。。。信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。(ローマ1:16)

カテゴリー
コリント人への手紙第二

なぜ私たちは決して恥じる必要がないのか

前回の記事でこのトピックに少し触れましたが、今日はもう少し深く考えたいと思います。

モーセがシナイ山から降りて十戒を持ってきたとき、彼の顔は主の栄光に輝いていました。

最初は、イスラエルの民が恐れたため、モーセは自分の顔に覆いをかけました。けれども、その栄光が消え去りつつあっても、モーセは覆いを外しませんでした。

もしかすると、栄光が消え去ることを恥ずかしく感じていたのかもしれません。つまり、その時、自分の罪によって栄光が失われつつあることに気付いたのです。

この出来事を通して、私たちは律法の問題を理解できます。

律法は、神様がどのような方であるか、また私たちに対する神様の御心を示します。けれども、律法には私たちを変える力がありません。私たちはなお罪深く、律法によって裁かれるのです。

しかし、パウロによれば、私たちの状態は変わりました。私たちがイエス様を信じると、モーセの栄光よりもはるかに優れた栄光を見いだします。

どうしてでしょうか。それは、律法が石の板や紙に書き記されているものではないからです。

むしろ、私たちがクリスチャンになると、聖霊様がその律法を私たちの心に書き記し、毎日、私たちをイエス様と同じかたちに変えてくださいます。

私たちは日々、栄光から栄光へと変えられています。私たちの栄光は消え去るものではなく、むしろ、次第に増していくのです。

だから、パウロは私たちにこう語ります。

このような望みを抱いているので、私たちはきわめて大胆にふるまいます。

モーセのようなことはしません。彼は、消え去るものの最後をイスラエルの子らに見せないように、自分の顔に覆いを掛けました。(コリント人への手紙第二3:12-13)

神様が私たちに賜った栄光が消え去ることを心配する必要はありません。むしろ、私たちがイエス様の姿へと変えられるまで、神様が私たちの内で働かれることを確信することができます。その時、私たちは神様の栄光に輝くのです。

だから、パウロは私たちが自由を持っていると言います。(17)

神様は私たちを罪悪感から解放してくださいました。 神様は私たちを罰への恐れから自由にしてくださいました。 神様は私たちを律法の力から自由にしてくださいました。私たちにはもはや、自分の力で律法を守る必要はありません。

モーセはそのような自由を知りませんでした。彼は律法の支配下にありました。だから、全焼のいけにえを何度もささげても、罪悪感と恥を感じ続けていたのです。(へブル10:2-4)

彼は裁きの苦しみも経験しました。自分の罪のゆえに、神様がイスラエルの民に約束された土地に入ることができませんでした。だからこそ、モーセの顔に律法の栄光が消え去りつつあるとき、彼は覆いを外しませんでした。

しかし、私たちにはその必要はありません。私たちの覆いを取り去り、周りの人々に私たちの顔を見せましょう。私たちがどのような者であるかを明らかにしましょう。私たちは恵みによって救われた者です。

完全ではありませんが、私たちは日々、イエス様の姿へと変えられています。

だから、ペテロの言葉を心に留めて、生きていきましょう。

「見よ、わたしはシオンに、選ばれた石、尊い要石を据える。この方に信頼する者は決して失望させられることがない。」(第一ペテロ2:6)

カテゴリー
イザヤ書

神様に忘れられた?

「神様は私を忘れられたのだろうか。私には希望が残されているのだろうか。」

ユダヤの亡命者たちは、きっとそう思ったことでしょう。彼らは心の中で叫び続けていました。

主は私を見捨てた。主は私を忘れた。(イザヤ書49:14)

時々、私たちも同じように感じることがあります。「神様に捨てられた」と思います。また、「私は希望がない」と思います。

女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。

たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。

見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。(イザヤ書49:15-16)

つまり、私たちは、母が自分の乳飲み子を忘れることを想像することはできません。また、母が自分の子を憐れまないことも考えられません。とはいえ、この壊れた世界では、自分の子を捨てる母親もいるのです。

それにもかかわらず、神様はこう言われます。

「そのような親しい母子の関係が壊れたとしても、私は決してそのようなことをしない。私の愛は母の愛よりも深いから。あなたを決して忘れない。あなたを決して捨てない。」

神様はイスラエルの民を彼らの土地に帰らせることを約束されました。そして、たとえ彼らが希望を失ったとしても、神様はもう一度彼らに祝福を注ぐと約束されたのです。その時、

あなたは、わたしが主であることを知る。わたしを待ち望む者は恥を見ることがない。(23)

私が主であることを知る。

私たちは本当にそのことを理解しているのでしょうか。「私は神様を信じている」と言いながらも、私たちの行動はその言葉と一致しているでしょうか。

神様の約束を心から信じているでしょうか。

神様が私たちの将来をその御手の中に持っておられることを信じているでしょうか。

神様がご自身の約束を守られることを、本当に信じることができるでしょうか。

私たちに希望が見いだせない時でさえ、神様に信頼し、従い続けることができるでしょうか。

わたしを待ち望む者は恥を見ることがない。

何によって希望を見出すのでしょうか。私たちには本当に希望があるのでしょうか。

神様が約束されたのは、もし私たちが神様を待ち望み、また神様に従い続けるなら、最終的に神様の祝福を体験するということです。

けれども、時々私たちは神様に失望させられると感じることがあります。そのため、神様に信頼し従うことをためらうこともあるでしょう。

「もし神様に従っても、良い結果が得られなかったら、私はどうしたら良いのだろうか。」

あるいは、こう考えるかもしれません。

「神様に従うことで、私の状況がさらに悪化するのではないか。」

けれども、神様の約束は、最終的に私たちが恥を見ないということです。ある英語の翻訳では、「神様は私たちをがっかりさせない」と書かれています。

しかし、あなたは本当にそう信じているでしょうか。神様が来られるまで、待ち望むことができるでしょうか。

あなた自身はどうでしょうか。「忘れられた」と感じていますか。「捨てられた」と思っていますか。「もう希望がない」と思っていますか。

神様はあなたを決して忘れていません。神様はあなたを決して見捨てません。もしあなたが神様に向かうなら、神様はあなたに希望を与えてくださいます。

神様を信頼してましょう。神様を待ち望みましょう。そして、神様の言葉に従いましょう。そうすれば、たとえ大きな試練に直面しても、最終的にあなたは恥を見ることがないのです。

カテゴリー
イザヤ書

私たちの屈辱を取り去る方

屈辱。恥。それらは私たちに引っ付きます。そして多くの場合、私たちの決断と行動によって、屈辱と恥が起こります。

そして、私たちは「どうやってこの状態から免れるだろうか」と思います。

また「もう希望がない」と思います。

この箇所の一節によれば、イスラエル人の女性たちはそう感じていました。

以前、彼女たちは金持ちで、上級階級に属していました。でも彼女たちもその夫たちのように罪深い存在でした。

だから、裁きが来ると、その夫たちが亡くなって彼女たちは未亡人になりました。そして、その未亡人たちは必死に新しい夫を探し、彼女たちはこう言いました。

「あなたの名前だけが欲しいです。他の物は要りません。私は自分自身のために食べ物やお金を得ます。でも私の屈辱を取り去ってください。愛されていない女性の屈辱を取り去ってください。家族のない女性の恥を取り去ってください。」

でも神様はその未亡人たちにさらに良いことを提供されていました。

この箇所で、初めて私たちは「若枝」という表現を見ます。「若枝」というのはイエス様です。

イザヤはこう記しました。

その日、主の若枝は、麗しく、栄光に輝き、地の実は、イスラエルののがれた者の威光と飾りになる。

シオンに残された者、エルサレムに残った者は、聖と呼ばれるようになる。みなエルサレムでいのちの書にしるされた者である。(イザヤ書4:2-3)

つまり、イエス様は来て、自分のために花嫁としてイスラエル人を聖別してくださるということです。そして、4節で、イザヤはこう記しました。

主が、さばきの霊と焼き尽くす霊によって、シオンの娘たちの汚れを洗い、エルサレムの血をその中からすすぎ清める。。。(4)

つまり、イエス様は彼らに彼らの罪を認めさせます。そして、彼らの心の汚れを清めてくださいます。

パウロもまた、そのように語りました。イエス様は、その花嫁――つまり教会――を「愛し、教会のためにご自身をささげられた」のです。

またイエス様は「みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせ(ました)。」(エペソ5:25-27)

イザヤはこれも言いました。

主は、シオンの山のすべての場所とその会合の上に、昼は雲、夜は煙と燃える火の輝きを創造される。

それはすべての栄光の上に、おおいとなり、仮庵となり、昼は暑さを避ける陰となり、あらしと雨を防ぐ避け所と隠れ家になるからだ。(5-6)

イスラエルの未亡人たちが求めている男性たちとは異なり、神様はご自身の臨在と保護と必要な物を与えることを約束されました。

約束された土地へ向かうために、イスラエル人が荒野を越えていたとき、神様は確かにそのようにしてくださいました。だからこそ、神様はこう言われました。

「覚えていますか。その時のように、もう一度私の臨在と保護と必要な物を与えます。それらは私の栄光を表して、その上の覆いとなります。」

「おおい」というのは結婚式に使われる覆いです。だから、神様の絵は分かりやすいです。

神様はご自身の民を清めて、彼らの罪を洗い、自分のために聖別し、もう一度彼らの夫となられます。神様は彼らの屈辱を取り去り、彼らのニーズを備えて、人生の嵐の中で彼らを守る避け所と隠れ家となられるのです。

あなたはどうですか。屈辱はあなたに引っ付いて、あなたは自分の人生を恥ずかしいものだと思っているでしょうか。

神様はあなたの心の汚れを清めることができます。それに、神様はあなたを赦し、神様の愛する者となります。

イエス様の前にあなたは、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなります。

神様にあなたの人生を捧げませんか。

カテゴリー
イザヤ書

私たちの罪を表す

イザヤ書3:9を読んで、私はこの箇所が本当に印象に残っています。

彼らの顔つきが、そのことを表わしている。彼らは罪を、ソドムのように現わして、隠そうともしなかった。

ああ、彼らにわざわいあれ。彼らは悪の報いを受けるからだ。

日本の社会については分からないけど、アメリカの社会では、そのような人々は増えています。彼らは罪を犯しますが、もう恥ずかしいと思うことはありません。むしろ、彼らは誇っています。彼らは自分の罪について自慢します。

もし、誰かが彼らの振る舞いが罪だと言うと、彼らはこう返事します。「あなたは偏狭だ。」

ソロモンはこう書きました。「日の下には新しいものは一つもない。」(伝道者の書1:9)

それは本当です。ソドムの罪は決して消えていませんでした。それに、ソドムの罪は悪かったですが、私たちの罪もそんなに違いはありません。

しかし、罪を犯すと、恥が来ます。

この箇所で、イザヤは貧しい人々を虐げた金持ちたちを責めました。またその妻たちを責めました。多分彼らは二つの方法で自分の罪を表しました。

一つ目は、夫たちが貧しい者を虐げることによって金持ちになったのに、その妻たちが貧しい者の前に自分の富を見せびらかしたことです。

二つ目は、性的な罪を犯したかもしれないことです。

イザヤはこう記しました。

シオンの娘たちは高ぶり、首を伸ばし、色目を使って歩き、足に鈴を鳴らしながら小またで歩いている。(3:16)

けれども、イザヤは彼らに警告しました。ある日、彼らの富はすべて取られます。戦争が起こり、彼らは追放されます。その日、彼らの富が取られて、彼らの恥しか残らないのです。

こうして、良いかおりは腐ったにおいとなり、帯は荒なわ、結い上げた髪ははげ頭、晴れ着は荒布の腰巻きとなる。

その美しさは焼け傷となる。あなたの男たちは剣に倒れ、あなたの勇士たちは戦いに倒れ、その門はみな、悲しみ嘆き、シオンはさびれ果てて地に座す。

その日、七人の女がひとりの男にすがりついて言う。

「私たちは自分たちのパンを食べ、自分たちの着物を着ます。私たちをあなたの名で呼ばれるようにし、私たちへのそしりを除いてください。」(3:24-4:1)

第4章1節は少し分かりにくいかもしれませんが、当時の文化では夫と子供がいない女性は恥ずかしい存在とされていました。

しかし、戦争で彼女たちの夫たちは亡くなってしまうので、男性はほとんど残りません。それでも、彼女たちは必死に夫になる男性を探します。その男性が彼女たちをうまく世話できないにもかかわらず、その人と結婚したいと思うのです。

この箇所のポイントは、罪を犯すと恥が来るということです。

あなたの罪を誇示するかもしれません。あなたの罪について自慢するかもしれません。けれども結局、あなたには恥しか残らないのです。

だから、この世の人々とは異なり、罪を愛さないようにしましょう。むしろ罪から逃げて、私たちの恥を取り去り、私たちに栄光と誉を与える神様を求めましょう。