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ルカの福音書のデボーション

私たちを喜んで清めてくださる方

これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して言った。「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」(ルカの福音書5:8)

興味深いことに、ペテロの言葉はツァラアトに冒された人々の言葉に似ています。

神の律法によれば、ツァラアトに冒された人々は、「私から離れなさい。私は汚れているから。」と周囲の人々に警告するように求められていました。(レビ記13:45ー46)

しかし、ルカの福音書では、ツァラアトに冒された人がイエス様に近づき、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります。」と言っています。

イエス様は「わたしの心だ」と言われ、その人を清められました。さらに、イエス様はペテロと中風を患っている人の罪をも清められました。

マタイの場合、イエス様は積極的にマタイを追いかけ、その罪を清めてくださいました。

同じように、イエス様は私たちをも追いかけてくださいました。私たちが自分の道を行き、イエス様を価値のないものと見なしたにもかかわらず、イエス様は十字架で私たちの反逆の代償を払ってくださいました。

だから、私たちがイエス様に近づき、あわれみを願うとき、イエス様はこう言われます。「わたしの心だ。きよくなれ。」

ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル4:16)

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ヨハネの福音書のデボーション

まず神様に愛された

神は、このようにして世を愛された。そのひとり子をお与えになったのです。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16、英訳)

私はその英訳が好きです。多くの翻訳は、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」と訳されるけど、通常、そのギリシャ語は「ほどに」ではなく、「このように」と訳されます。

ヨハネの手紙では、ヨハネは違う言葉を使うけど、同じ概念を伝えます。

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって、私たちにいのちを得させてくださいました。それによって、神の愛が私たちに示されたのです。

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(第一ヨハネ4:9ー10)

パウロは似たようなことを言います。

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。(ローマ書5:8)

驚くべきことは、神様が私たちの悔い改めを待たずに、まずご自身の愛を示してくださったことです。神は裁きではなく、憐れみをもって私たちに目を向けられます。

イエス様が「御子を遣わすことによって神様がこの世に愛を示された」と言ったとき、ニコデモはどう思ったでしょうか。

もしニコデモが、神が御子を遣わされたという概念を持っていたとしたら、それは反逆の世を裁くためだったでしょう(詩篇2篇)。

ニコデモは、詩篇2:12にある幸いな人たちがかつて反逆的な人たちであったことを考えたことがあったでしょうか。ニコデモは、御子を通して示された神の愛のゆえに、彼らが悔い改めたと考えたことがあったでしょうか。その詩篇を書いた詩人はそんなことを考えたことがあったでしょうか。

私にはわかりません。でも、ヨハネ3:16のもっとも驚くべきことを覚えていましょう。それは、神様が悔い改めることのない反逆の世(私たちを含む)をまず愛し、その世を救うために、御子を遣わしてくださったということです。

だから、今日、その言葉に思いを巡らしましょう。ヨハネ3:16、第一ヨハネ4:9−10、ローマ5:8に思いを巡らしましょう。

その真理を浴びましょう。「神様はまず私を愛しててくださいました。」

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マタイの福音書のデボーション

私たちの心、私たちのメッセージ

イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。

『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。

わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」(マタイの福音書9:12-13)

イエス様のことばを反芻するとき、私たちの教会に来るノンクリスチャンに対する私たちの態度を考えさせられました。

私たちは、あわれみ深い心を持つべきです。なぜなら、彼らは羊飼いのいない羊の群れのようだからです。サタンの攻撃によって、彼らは弱り果て、倒れている人々なのです。

私たちは、彼らを避けるべきではありません。むしろ、手を伸ばし、キリストの愛を彼らに示すべきです。

それと同時に、私たちは彼らのためのメッセージを持っています。イエス様は、彼らを招くために来られました。では、何のために招いておられるのでしょうか。

ルカの福音書では、イエス様の意味がさらに明確に示されています。

わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。(ルカ5:32)

愛は、「自分の罪を犯し続けて良い」とは言いません。

愛は、「悔い改めなさい」と語ります。

それは、最初からイエス様のメッセージでした。(マタイ4:17)

イエス様は、マタイや他の罪人たちと食事をしながら、そのメッセージを語られました。

イエス様は、ザアカイとその友人たちにも、必ず同じメッセージを語られたことでしょう。(ルカ19:1〜10)

ですから、教会でノンクリスチャンに出会うときには、イエス様の態度を取り、彼らを歓迎し、愛とあわれみを示しましょう。

しかし、それと同時に、謙虚さと柔和さをもって、イエス様がマタイとその友人たちに語られたメッセージを、彼らにも伝えましょう。

「神の御国が近づいた。神様はあなたを愛し、その御国に入るように招いておられる。だから、自分の罪を悔い改め、神様に向かってください。そうすれば、あなたは命を知ることになります。」

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ルカの福音書のデボーション

どうして?

すなわち、暴動と人殺しのかどで牢に入れられていた男を願いどおりに釈放し、他方イエスを彼らに引き渡して好きなようにさせた。(ルカの福音書23:25)

「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。

だがこの方は、悪いことを何もしていない。」(40-41)

主よ、あなたが十字架で私のためにしてくださったことを理解するのは、あまりにも深く、難しいのです。

私は死刑を受けるべき者でした。罪人である私が死刑に値するのは当然のことでした(ローマ6:23)。

それに対して、あなたは無実でした。あなたは悪を何一つ行っておられませんでした。それなのに、あなたは十字架につけられるために引き渡され、私はバラバのように解放されました。

バラバは、「なぜイエスではなく、私が解放されたのだろうか」と疑問に思ったでしょうか。

また、「なぜ私ではなく、イエス様が十字架につけられたのだろうか」と思ったでしょうか。

あなたが十字架につけられたとき、バラバもその場にいて、あなたを見ていたでしょうか。

群衆と共に、彼も胸を打ち叩きながら悲しみに沈んで帰って行ったのでしょうか。

主よ、あなたが私のためにしてくださったことを思うとき、私は言葉を失います。

Amazing love! 
How can it be that you my King would die for me?

素晴らしい愛。どうしてこんなことが起こるのでしょうか。
あなた、私の王が、私のために死んでくださるなんて!

ビリー・ジェームズ・フット
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ローマ人への手紙のデボーション

理解できないけれど、感謝しています

「わたしは、わたしの民でない者をわたしの民と呼び、愛されない者を愛される者と呼ぶ。

あなたがたはわたしの民ではない、と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」(ローマ人への手紙9:25-26)

主よ。私はいろんな意味であなたの道が理解できません。

どうしてあなたがある人をあわれんでくださるけれど、ある人を頑なにされるのか、私は理解できません。つまり、私たち皆が罪人で頑なな心を持っているのです。どうして私たち皆を裁かれないのでしょうか。

あなたがどうしてエサウではなく、ヤコブを選ばれたのか、私は理解できません。実のところ、ヤコブもエサウも欠点が多い人たちでした。どうして、そんなに欠点の多い人をイエス様の先祖になるために選ばれたのでしょうか。

どうしてあなたがファラオとエジプト人を裁かれても、イスラエル人たちをあわれんでくださったのか、私は理解できません。エジプト人たちもイスラエル人たちも何回もあなたを拒絶しました。

どうして紅海であなたがエジプト人たちだけではなく、イスラエル人たちをも滅ぼされなかったのでしょうか。

そして、どうしてあなたが私を選んでくださったのか、私は理解できません。私はソドムとゴモラのように滅ぼされるのがふさわしいのです。

でも、なぜか、あなたは私を選び、愛し、自分の民になるように召し、自分の子供としてくださいました。

私は理解できません。でも、私はとっても感謝しています。

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ヨハネの手紙第一

私たちが罪に落ちると

前回の記事で、私たちが学んだのは、私たちが光の子どもとして生きるように呼ばれているけれども、まだ罪に落ちる時もあるということです。その時、私たちが悔い改めるなら、神様は私たちを赦してくださいます。

今日の箇所では、私たちはその赦しの基礎を見ることができます。ヨハネはこう言いました。

私の子供たち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとなりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。

この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげものです。(ヨハネの手紙第一2:1-2)

ヨハネは改めて強調します。私たちは光の子どもだから、暗闇の中で歩んではいけません。

しかし、そのあと、ヨハネは心強い言葉を伝えます。それは、私たちが罪に落ちるとき、私たちを擁護する方がおられるということです。イエス様は御父の前で、私たちのためにとりなしてくださいます。

では、その擁護のよりどころは何でしょうか。それは、十字架でのイエス様の宥めのささげものです。

それはどういうことでしょうか。

その時代、いろんな国では、人々は神々の怒りを宥めるため、また神々のご恩を得るために、さまざまな生贄を捧げました。

ヨハネは同じ描写を使いますが、大きな違いがあります。私たちはその生贄を捧げるのではありません。むしろ、神様ご自身が自分の怒りを宥めるために、その生贄を捧げられました。そして、その生贄によって、神様はもう一度私たちに恵みを与えてくださいます。

天の父による救いの働きを伏線する話として、アブラハムはこう言いました。

神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。(創世記22:8)

十字架で、天の父はその羊を備えてくださいました。義なるイエス・キリストがその羊でした。イエス様は罪を犯したことがなかったのに、私たちの罪の罰を受けてくださいました。イエス様が十字架につけられた時、神様はご自身の怒りのすべてをイエス様に注がれました。

その結果は何でしょうか。イエス様は天の父の前に私たちと共に立ち、こう言われます。「私はその人の罪の代価を払いました。」

天の父は答えられます。「あなたの支払いを受け入れます」

そして、天の父は私たちの罪を赦すだけではなく、私たちに愛を注いでくださいます。

それは憐れみです。それは恵みです。その恵みと憐れみは神様の子どもたちに属します。イエス様を通して、私たちはその恵みと憐れみを受けるのです。

だから感謝をもって、私たちを救った神様に仕えましょう。イエス様のようになるように努めましょう。

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ヤコブの手紙

真の信仰がどのように表現されるか(7)

ヤコブは、人々の心がこの世への愛によって汚される様子を語った後、「舌」の話に戻ります。特に、心がどのように舌を汚すかについて述べています。

ヤコブによれば、この手紙の読み手は、人を殺したり、争ったり、戦ったりしていました。おそらく、彼らは実際に人を殺したわけではないでしょう。けれども、心の中では相手を殺していたのです。(マタイ5:21-22)

では、人々はなぜ殺人を犯すのでしょうか。それは、彼らが自分の心の中で相手を侮っているからです。彼らは相手を神様の似姿として造られた存在として見ていません。

このため、イエス様はこう言われました。

昔の人々に対して、「殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない」と言われていたのを、あなたがたは聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。

兄弟に「ばか者」と言う者は最高法院でさばかれます。「愚か者」と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。(マタイ5:21-22)

イエス様によれば、心の中で怒りを抱き、人を侮ることは、殺人と似たものです。

ヤコブも同じ考えを持っていたようです。ある人々は、自分より多くのものを持つ者をねたみ、侮るほどまでにこの世を愛していました。その結果、彼らは相手をそしり、裁くようになってしまったのです。

だから、ヤコブはこう言います。

兄弟たち、互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟について悪口を言ったり、さばいたりする者は、律法について悪口を言い、律法をさばいているのです。

もしあなたが律法をさばくなら、律法を行う者ではなく、さばく者です。(11)

「人を裁いてはいけない」と聞くと、私たちはよく「人をその罪のゆえに裁いてはいけない」と考えます。

しかし、ヤコブは単にそのような裁きのことを語っているのではないかもしれません。むしろ、「あなたはばか者だ」「あなたはろくでなしだ」といった判断について話している可能性があります。

例えば、2章でヤコブは、ある人々が金持ちを敬う一方で、貧しい人々を侮っていたことを指摘しました。

だから、ヤコブは彼らにこう言いました。「そのような態度で人を裁いてはいけません。相手が神様の似姿として造られた存在であることを認めなさい。

神様の律法によれば、あなたは自分自身を愛するように、隣人を愛さなくてはなりません。神様の律法は、相手をそしったり、侮ったりすることを禁じています。

そのようなことをすれば、あなたは実際に神様の律法を裁いていることになります。つまり、律法に従うのではなく、それを軽視し、その価値を否定しているのです。」

そして、ヤコブは私たちに警告します。

律法を定め、さばきを行う方はただひとりで、救うことも滅ぼすこともできる方です。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。(12)

つまり、「裁きを行うのはあなたではなく、イエス様です。だからこそ、高ぶる態度を捨て、主の前でへりくだらなければなりません。偉そうな態度を取ってはいけません。なぜなら、あなたは本当に偉いわけではないからです。」ということです。

あなたはどうでしょうか。人を扱うとき、あなたの信仰はどのように表現されているでしょうか。あなたは相手を裁き、「ろくでなし」や「ばか者」と呼ぶでしょうか。それとも、彼らを呪うでしょうか。

あるいは、あなたの信仰は、神様があなたに与えてくださった愛や憐れみ、そして恵みを通して表現されているでしょうか。

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ヤコブの手紙

真の信仰がどのように表現されるか

ヤコブが強く主張することの一つは、真の信仰は単に「私は神様を信じる」と言うことではないという点です。

多くの人は、「私は神様を信じる」と主張します。しかし、その言葉だけでは、救いに導く信仰を持っていることの証明にはなりません。

救いに導く信仰の結果は、変えられた人生です。以前読んだように、神様が試練を許される理由の一つは、私たちが変えられるためです。つまり、試練を通して、私たちは神様に信頼することを学び、完全な者へと成長していくのです。

この手紙の中で、ヤコブは救われた人々がどのように変わるかについて語ります。ヤコブは三つのことを挙げています。一つ目は言葉、二つ目は愛、そして三つ目は清さです。パウロも、これら三つのことについてテモテに語りました。(第一テモテ4:12)

ヤコブは最初にこう言います。

自分は宗教心にあついと思っても、自分の舌を制御せず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。(ヤコブ1:26)

多くの人々は自分の言葉に注意を払わず、嘘をついたり、人をそしり、言葉で人を傷つけます。しかし、彼らが決して悟らないのは、自分の言葉が心の中にあるものを映し出しているということです。もし、心にゴミがあれば、そのゴミが言葉となって表に出ます。

だから、もし自分がクリスチャンだと主張しているのに、あなたの口からゴミが流れ出るならば、ヤコブによれば、あなたは自分自身を欺いていることになります。その「信仰」はあなたの心を変えていないのです。ゴミがあなたの口から出ているのに、あなたはまったく気づいていません。

ヤコブは続けてこう言います。

父である神の御前できよく汚れのない宗教とは、孤児ややもめたちが困っているときに世話をし、この世の汚れに染まらないよう自分を守ることです。(27)

後にヤコブは、私たちがこの世の汚れに染まらないように、どのように自分自身を守るべきかを説明します。しかし、27節では、ヤコブは真の信仰の証拠の一つについて語ります。それは、周りの人々に対する愛です。

もし私たちが真の信仰を持っているなら、周りの人々を憐れむはずです。例えば、孤児ややもめたちを憐れむべきです。貧しい人を軽蔑し、金持ちだけを尊敬するべきではありません。私たちは人々の見た目で判断せず、神様の目で人々を見るべきです。

私たちが忘れてはならないのは、神様が、この世の人々から退けられた者たちを神様の子供として受け入れたことです。その人々は神様の御国を受け継ぎます。(1:27-2:7)

そしてヤコブはこう言います。

もし本当に、あなたがたが聖書にしたがって、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いは立派です。

しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。(ヤコブの手紙2:8-9)

多くの人々は言います。「もちろん、私はクリスチャンです。私は人を殺さないし、物を盗まないし、姦淫を犯さない。」

けれども、彼らはキリストの愛をもって人々を愛していません。むしろ、周りの人々を見下しています。

だから、ヤコブは彼らに警告します。「あなたが思うほど、あなたは良い人ではありません。神様の目には、あなたは違反者です。なぜなら、あなたは人々を愛していないからです。」

イエス様の時代、パリサイ人たちはまさにそのような人々でした。彼らは人々を愛していませんでした。彼らはさまざまな宗教的なルールを守り、さらには神様が命じていないルールさえ守りました。

しかし、彼らは人々を差別し、裁き、見下しました。だから、イエス様は彼らの偽善を厳しく責められました。

もしイエス様が現代の教会を見るなら、同じ理由でどれほど責めるでしょうか。

だからヤコブはこの話を次のようにまとめます。

自由をもたらす律法によってさばかれることになる者として、ふさわしく語り、ふさわしく行いなさい。あわれみを示したことがない者に対しては、あわれみのないさばきが下されます。

あわれみがさばきに対して勝ち誇るのです。(2:12-13)

私たちが愛と憐れみの律法に従って生きるならば、人々を自由にし、自分が神様の子供であることを証明するのです。

しかし、人々を裁き、侮るならば、私たちの信仰がそれほど強くないことを証明してしまいます。

あなたの言動は、あなたの信仰について何を表しているでしょうか。

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ヘブル人への手紙

牢にいる兄弟姉妹を忘れない

ヘブル人への手紙13章3節では、私たちはクリスチャンの兄弟姉妹を愛する一つの方法を教えられます。手紙の著者はこう語ります。

牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやりなさい。また、自分も肉体を持っているのですから、虐げられている人々を思いやりなさい。(へブル人への手紙13:3)

特に、この著者は牢に入っているクリスチャンの兄弟姉妹について語っています。彼らは自らの信仰ゆえに投獄されていたのです。そして著者は、読み手たちにこう促します。「その人たちを忘れてはなりません。」

第二テモテ書を読むと、パウロが牢にいたとき、多くのクリスチャンが彼を見捨てたことが記されています。

もしかすると、パウロとの関係のゆえに、そのクリスチャンたちは自らも投獄されることへの恐れを抱いていたのかもしれません。また、パウロの状況を見て絶望を感じた結果、彼を避けたいという思いがあったのかもしれません。

それでも、この著者は明確に語ります。「彼らに対する愛を持ち続けなさい。決して彼らを見捨ててはなりません。」

これこそが、この著者のメッセージなのです。

けれども、私がこの箇所を読んだとき、神様は別の応用を示してくださいました。私たちの周りには、さまざまな形の「牢」に入っている人々がいます。

ある人々は、感情の牢の中で苦しんでいます。

ある人々は、病気に悩まされています。

ある人々は、困難な状況に陥り、何をすれば良いのか分からずにもがいています。

そういった人々を前にすると、私たちはどう関われば良いか分からず、距離を置いてしまうことがあります。なぜなら、彼らを支えることは苦しく、難しいことだからです。

しかし、神様は私たちに語りかけておられます。「その人たちを心に留めなさい。彼らを遠ざけてはなりません。訪れて、できる限り支えなさい。

たとえ何をすれば良いか分からなくても、何と語れば良いか分からなくても、彼らとともにいて、愛を示しなさい。」

ある人々は霊的な牢に閉じ込められています。サタンが彼らを捕らえ、罪の中に陥れています。

私たちも、かつてはその状態にありました。そして私たちは、あの時のことをよく覚えているはずです。サタンは私たちにも苦しみを与えました。

だからこそ、私たちはその人たちを心に留めていなければなりません。彼らが自由になれるよう、神様の愛をもって手を差し伸べましょう。

あなたはどうでしょうか。牢に囚われている人々を覚えているでしょうか。彼らにイエス様の憐れみを示しているでしょうか。

それとも、彼らを遠ざけてしまっているでしょうか。

イエス様の言葉を思い起こしましょう。

あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。(マタイ5:7)

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テモテへの手紙第ー

神の恵みに感嘆している?

私たちは、どれほど神の恵みに心から感嘆しているでしょうか。 そして、もしそれを毎日行っているなら、私たちの人生はどれほど変えられていくでしょうか。

この点において、パウロと偽教師たちはまったく異なっていました。

偽教師たちは神の恵みを少しも理解していませんでした。 彼らにとって、福音を宣べ伝えることは金銭を得る手段であり、また、威信や名誉を手に入れるための道でした。

しかし、パウロにとって福音とは、自分の人生を根底から変えた不思議な知らせでした。だからこそ、彼はできる限り多くの人々にこの福音を伝えたいと心から願ったのです。

その思いを、パウロはこう語っています。

私は、私を強くしてくださる、私たちの主キリスト・イエスに感謝しています。キリストは私を忠実な者と認めて、この務めに任命してくださったからです。

私は以前には、神を冒瀆する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。しかし、信じていないときに知らないでしたことだったので、あわれみを受けました。

私たちの主の恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに満ちあふれました。(テモテへの手紙第一1:12-14)

パウロは、本当に神の恵みに心から感嘆していました。彼はかつてイエス様の御名を冒涜し、教会を迫害し、数多くの信者たちの命を奪った者でした。

それにもかかわらず、神は彼を憐れみ、その罪深さにも勝るほどの恵みを注いでくださいました。パウロのひどい罪は完全にきよめられたのです。

その結果、パウロはイエス様を信じ、それまで知らなかった愛に満たされました。

だからこそ、彼は確信をもって、こう宣言することができたのです。

「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

しかし、私はあわれみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした。」(テモテへの手紙第一1:15-16)

パウロが気づいたのは、「イエス様は私のために死んでくださった」ということでした。

クリスチャンになる前、パウロは自分の罪に気づいていませんでした。むしろ、自分はかなり正しい者だと思い込んでいたのです。

けれども、イエス様がまばゆい光のうちにご自身をパウロに現されたとき、彼は自分がどれほど神の恵みと憐れみを必要としているかを悟り始めました。

残念なことに、多くの人々は、その真理がわかっていません。

クリスチャンであっても、自分がどれほど神の恵みと憐れみによって生かされているかを認識していないことがあります。彼らはこう思うのです。「私はもう大丈夫。神の恵みも憐れみも、もう必要ない」と。

あるいは、「イエス様が私のために死んでくださったことは確かだけれど、私の罪はそこまでひどくなかった」と考えている人もいます。

けれども、私たちがキリストの光の中に歩み、イエス様に近づいていくにつれて、自分の本当の姿が見えてくるのです。つまり、自分が罪によって汚れており、救いを必要としている者なのだと気づかされます。

この真理を悟らない限り、私たちは決して神の恵みに深く感嘆することはできないでしょう。

パウロはこの真理を把握したとき、思わず賛美の声をあげました。

どうか、世々の王、すなわち、朽ちることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように。アーメン。(17)

あなた自身はどうでしょうか。神の恵みに心から感嘆しているでしょうか。

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コリント人への手紙第二

イエス様がこの世に戻られるとき

この箇所で、パウロはコリントの人々に警告するだけでなく、私たちすべてにも警告を与えています。

パウロはこう言いました。

私があなたがたのところに行くのは、これで三度目です。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことは立証されなければなりません。

以前に罪を犯した人たちとほかの人たち全員に、私は二度目の滞在のとき、前もって言っておきましたが、こうして離れている今も、あらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったときには、容赦しません。

こう言うのは、キリストが私によって語っておられるという証拠を、あなたがたが求めているからです。

キリストはあなたがたに対して弱い方ではなく、あなたがたの間にあって力ある方です。キリストは弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられます。

私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対しては、神の力によってキリストとともに生きるのです。(コリント人への手紙第二13:1-4)

以前、コリントに行ったとき、パウロは自らの権威を振るうことなく、コリントの人々の罪深い態度を悲しみました。しかし、彼が彼らのために自らの人生を犠牲にしたにもかかわらず、コリントの人々はパウロを拒絶しました。

それでも、パウロは彼らに警告しました。「私は弱い者として来るのではありません。むしろ、私は神様の力を持ち、神様から受けた権威をもって、あなたたちを裁きます。」

そして、パウロはこう言いました。

以前に罪を犯した人たちとほかの人たち全員に、私は二度目の滞在のとき、前もって言っておきましたが、こうして離れている今も、あらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったときには、容赦しません。(2)

イエス様は、同じようなことを私たちに語られます。

イエス様は、以前この世に来られたとき、ある意味で弱い方として来られました。貧しい大工として、また巡回説教者として歩まれました。イエス様は、勝利する王としてではなく、十字架につけられた救い主として来られました。

しかし、神様の力によって、イエス様はよみがえられました。

そして、ある日、イエス様は再びこの世に戻られます。そのとき、イエス様は弱い方としてではなく、力を持つ方として戻られます。さらに、イエス様を拒絶する人を、もはや赦されません。むしろ、イエス様は彼らを裁かれます。

多くの人々は、イエス様を私たちを愛しておられる神の御子と見なします。そして、その愛を示すために、イエス様がすべてを犠牲にされたことに思いを巡らせます。もちろん、それは真実です。

しかし、多くの人々は、大切なことを忘れがちです。それは、イエス様がこの世に戻られるとき、すべての人々を裁かれるということです。イエス様は、ご自身を拒む者に対して、もはや憐れみを示されません。

その日、イエス様はすべての人々に明らかにされます。ただ神の羊としてだけでなく、ユダの獅子として、そして永遠にこの世を治める王として認められます。そして、イエス様の正当な統治に逆らう者は、イエス様の怒りを知ることになるのです。(ルカ19:11-27)

だからこそ、私たちは自らに問いかけるべきです。私たちはイエス様の権威に従うでしょうか。それとも、イエス様に逆らい続けるでしょうか。 神様は忍耐深いお方です。しかし、その忍耐は永遠に続くものではありません。

だから、決して神様の忍耐を試してはなりません。むしろ、今のうちに、私たちができる限り神様の恵みと憐れみを受け入れましょう。

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コリント人への手紙第二

自分のことに焦点を当てないこと

この箇所を読むと、私はパウロがキリストの模範に従っていたことに気づきました。

もし、イエス様がただ快適な生活を送ることに関心があったなら、この世には来られなかったでしょう。

飼葉おけに寝ることもなかったでしょう。貧しい大工の家で成長することもなかったでしょう。枕する所のない日々を経験することもなかったでしょう。そして、十字架へと向かうこともなかったでしょう。

しかし、イエス様はそれらすべてを経験されました。なぜでしょうか。

それは、私たちの慰めと救いのためです。

私たちは罪のゆえに、また、この世の悪のために、惨めな存在でした。さらに、破滅へと向かう道を歩んでいました。イエス様はその状況をご覧になり、天国の安楽な生活を捨てて、私たちのために苦しみを選ばれました。

パウロはイエス様の模範を見て、従いました。

コリントの人々や他の人々のために、彼は遭難や投獄、飢えや迫害を経験しました。なぜでしょうか。それは、彼が自分の楽な人生に焦点を当てず、むしろ周囲の人々の苦しみと必要に目を向けていたからです。

また、パウロが慰めを受けたときも、彼はただ自分自身に焦点を当てることはありませんでした。

彼の願いは、コリントの人々が彼の経験を見ることで励まされることでした。

つまり、彼らがこの世の試練はつらくても、一時的なものであることを理解することです。なぜなら、彼らは、パウロ自身も試練の中で神様の平安と喜びを知ったことを見たからです。

だからこそ、コリントの人々は、自分たちの試練の中で、最終的に慰めを受けるという希望を持つことができたでしょう。そして、その希望が彼らに耐える勇気を与えたのです。

自己中心になることは簡単です。神様の愛をスポンジのように吸収し、ただ楽な人生を望むことは簡単です。

しかし、神様は私たちがそのような態度を取ることを望んでおられません。むしろ、神様は私たちがイエス様の模範に従い、たとえ苦しみが伴うとしても、自分の快適な生活を手放し、周囲の人々の救いのために働くことを望んでおられます。

とはいえ、イエス様の視点を持たなければ、私たちは決してそのように生きることはできないでしょう。

イエス様は周囲の人々の苦しみをご覧になりました。だからこそ、十字架へと進んで行かれたのです。

あなたはイエス様の視点を持っているでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ26章 マルコの福音書 マルコ14章 ヨハネの福音書 ヨハネ18章 ルカの福音書 ルカ22章

力と権威、憐れみと恵み

この箇所では、イエス様の中に三つのことを見ることができます。

1.イエス様の力と権威。 イエス様は敵に取り囲まれていましたが、それでも状況を支配しておられました。

イエス様が立ち上がり、敵と向き合われた時、「誰を捜しているのか」と問いかけられました。 彼らが「ナザレ人イエスを」と答えると、イエス様は「わたしがそれだ」と言われました。(ヨハネ 18:4-5)

日本語では分かりづらいですが、実はイエス様はこの時、神様の御名を使われました。(出エジプト 3:13-14;ヨハネ 8:58)

すると、イエス様の敵はその言葉を聞いた瞬間、地に倒れました。どれほどの恐怖を感じたことでしょうか。

そこで、イエス様は再び問いかけられました。「誰を捜しているのか。」(ヨハネ 18:6-7)

彼らはすっかり自信を失い、おどおどしながら答えました。「ナザレ人イエスを。。。」

彼らがイエス様の返事を待つ間、再び地に倒れる覚悟をしたかもしれません。けれども、イエス様は静かに答えられました。

わたしがそれだ、と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人たちは去らせなさい。(ヨハネ18:8)

イエス様を捕らえに来たとしても、彼らは誰が本当の力を持っているのかを思い知らされました。 それは彼ら自身ではなく、イエス様でした。

2.イエス様の憐れみ。 敵はまだおどおどしていたため、弟子たちはその恐れにつけ込んで攻撃しようと思ったかもしれません。 すると、弟子の一人が叫びました。

主よ、剣で切りつけましょうか。(ルカ22:49)

イエス様の答えを待たずに、ペテロは敵の一人を攻撃し、右の耳を切り落としました。 (もしかしたら、ペテロはその人の頭を斬ろうとしたものの、誤って耳だけを切り落としてしまったのかもしれません。)

けれども、イエス様は彼を叱責されました。

それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。(マタイ26:53)

昔の讃美歌には、こんな歌詞があります。

イエス様は、ご自身を解放するため、またこの世界を滅ぼすために、一万人の天使を呼ぶことができたでしょう。

実は、その作詞家は誤解していました。12軍団とは、約4万8千人から7万2千人ほどの規模を指します。

とにかく、イエス様はその敵だけでなく、世界のすべての人々を滅ぼすこともできました。 しかし、イエス様は彼らを憐れんでくださいました。イエス様は彼らを殺さず、むしろ彼らの命の代わりに、ご自身の命を捧げられました。

3.イエス様の恵み。 憐れみとは、相手が受けるべき罰を与えないことです。 恵みとは、相手が受ける資格のないものを与えることです。

この出来事では、イエス様は大祭司のしもべに恵みを示されました。 イエス様は彼の耳を癒してくださいました。(ルカ 22:51)

それはイエス様の最後の癒しの御業でした。 より正確に言うと、それはイエス様の最後の肉体的な癒しの御業でした。

十字架の御業を通して、イエス様は私たちに霊的な癒しをもたらしてくださいました。 イエス様の恵みによって、私たちの罪は赦され、私たちは永遠の命を得ることができます。

私たちがしなければならないことはただ一つだけです。それは、イエス様を信じることです。

力と権威。憐れみと恵み。私たちの主を描写するより優れた言葉があるでしょうか。

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神様にとって大切なことを心に留めておく

日本では状況が異なるようですが、最近、アメリカ人が「クリスチャン」という言葉を聞くと、しばしば悪いイメージを思い浮かべることがあります。

ある程度、それはイエス様を愛する人々に対して当然の反応だとも言えます。イエス様はこう言われました。

世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。。。

人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。(ヨハネ18:18,20)

でも時々、私はこう疑問に思います。「どうして彼らはそんな悪いイメージを持っているのでしょうか。それは私たちがイエス様に従っているからなのでしょうか。それとも、私たちが一番大切なことを忘れてしまっているからなのでしょうか。」

アメリカのクリスチャンたちの多くは、毎週の日曜日に教会に行ったり、バイブルスタディーに参加したり、毎日聖書を読んだり、祈ったり、聖書的な価値観を周りの人々に伝えたりしています。

実は、イエス様の時代にも、そのような人々がいました。それはパリサイ人たちと律法学者たちです。しかし、イエス様は彼らについてこう言われました。

わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみあわれみと誠実をおろそかにしている。

十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。

目の見えない案内人たち。ブヨはこして除くのに、らくだは飲み込んでいる。(マタイの福音書23:23-24)

ルカ11:24では、イエス様はもう一つのことを加えられました。それは、彼らが神への愛を持っていなかったということです。

また、ある時、イエス様は弟子たちにこう言われました。

互いの間に愛があるなら、その弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネ13:35)

だから、私たちが自分自身にこう訊くべきだと思います。私の人生は神様の愛と憐れみで印されているでしょうか。

周りの人々が私たちを見るとき、私たちからの愛と憐れみを見ることができるでしょうか。私たちが彼らを愛しているのを知っているでしょうか。彼らに対する私たちの憐れみを見ることができるでしょうか。それとも、ただ彼らを責める人を見るだけでしょうか。

私たちの職場では、周りの人々は誠実さのある人を見るでしょうか。また、忠実な人を見るでしょうか。それとも、彼らはできるだけ仕事をサボる人を見るでしょうか。

もし、周りの人々が私たちの中に愛と憐れみと誠実を見ることができないなら、私たちは彼らの批判に値します。残念ですが、私たちのせいで彼らは決してクリスチャンにならないかもしれません。

神様は彼らを裁かれますが、私たちをも裁かれます。なぜなら、私たちの行動によって、「主の敵に大いに侮りの心を起こさせた」からです。(第二サムエル記12:14)

では、あなたはどうでしょうか。あなたの心からは何が出ているでしょうか。愛?憐れみ?正義?誠実?

神様にとって、それが一番大切なことです。

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周りの人々のニーズに目を向ける?

私がバルティマイとその友達の話を読むと、イエス様の愛と憐れみ深い心は、私にとても印象的です。

イエス様はもうすぐ十字架に行くし、そのことを親友たちにはっきりと伝えたのに、彼らは理解してくれませんでした。そんな状況で、イエス様が自分の思いや、フラストレーションや、心配で思い詰めていたなら、びっくりすることではなかったでしょう。

でも、その道を歩いているうちに、イエス様は前に何回も聞いていた願いをもう一度聞きました。

主よ。ダビデの子よ。私たちを憐れんでください(マタイ20:30)

大勢の人がイエス様を取り巻いており、イエス様がその声を見逃すのは簡単だったかもしれません。

また、その声を無視するのも簡単だったでしょう。なぜなら、多くの人がその二人に「黙れ」と言ったからです。

しかし、イエス様は立ち止まり、「その二人を呼んできなさい」とおっしゃいました。

そして、彼らが来ると、イエス様は彼らに尋ねられました。「わたしに何をしてほしいのですか。」

彼らは答えました。「主よ、目を開けていただきたいのです。」

マタイによると、イエス様は深く憐れみ、彼らの目に触れて癒されました。

イエス様はご自身のフラストレーションや困難に思い詰めることなく、周りの苦しんでいる人々に目を向けられました。

私たちはどうでしょうか。どのくらい私たちはイエス様の模範に従い、自分自身のことで思い詰めることなく、周りの苦しんでいる人々に気づいているでしょうか。

また、どれだけ自分自身の必要やフラストレーションに思い詰めることで、神様の愛を周りの人々に伝える機会を逃しているでしょうか。

おそらく、私もそのような機会を逃してきたことが多いでしょう。

私たちはイエス様のようになることを学びましょう。私たちの苦しみや心配にとらわれることなく、周りの人々のニーズや痛みに目を向けましょう。そして、イエス様のように、彼らに手を差し伸べ、神様の力で彼らを癒しましょう。

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ルカの福音書 ルカ18章

パリサイ人と取税人のたとえ話:恵みの必要を心に留める

まず、少しアナウンスがあります。最近、新改訳2017を購入したので、これからその翻訳から引用を始めます。そのため、あなたの聖書と比較すると、少し違うところがあるかもしれません。

それはさておき、不思議なことですが、何千年経っても人間の本質はあまり変わりません。この箇所を読むと、それがよくわかります。

ルカはこう書きました。

自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエス様はこのようなたとえを話された。(ルカの福音書18:9)

その時代、特にパリサイ人たちはそのような態度を持っていました。彼らは一生懸命に、一番細かい律法にさえ従おうとしました。しかし、それは彼らのプライドへとつながりました。

イエス様のたとえ話の中で、あるパリサイ人が大きな声でこう祈りました。(もしくは、祈りというより独り言を言ったのでしょうか)。

神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。(11-12)

ようするに、「神様、あなたの国に私のような人がいて良かったですね。私はいい人ですよね?逆に、この収税人は。。。」ということです。

残念なことですが、今でもそんな態度を取るクリスチャンがいます。彼らは神様の恵みによって救われたと認めていますが、彼らの態度は違うことを示しています。

恵みによって生きる人には二つのことがはっきり見えます。彼らの罪深い心が見えますし、どれほど神様が必要かが見えます。

この収税人には、その二つのことがはっきり見えていました。

その時代、ユダヤ人たちは収税人を憎んでいました。なぜなら、収税人はユダヤ人でありながらイスラエルを征服したローマ帝国と協力していたからです。

それに加えて、収税人たちはイスラエル人を騙して、ローマ帝国が要求した額よりも多く税を取り立てていました。

けれども、この収税人は自分の胸を叩きながら、こう祈りました。

神様、罪人の私をあわれんでください。(13)

イエス様はその人について、こう言われました。

あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。

誰でも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。(14)

あなたはどうですか。あなたは神様の恵みによって生きているでしょうか。自分の罪深い心が見えていますか。そして、どれほど神様が必要かが分かっていますか。

そのような人とは、どのような人でしょうか。

彼らはへりくだり、神様が何をしてくださったのかを感謝します。彼らの心にはプライドの余裕がありません。つまり、自分の義や、自分のたまものに関するプライドがないのです。

彼らは、自分が永遠の死にしか値しない者であることを理解しています。それでも、神様が彼らに恵みを注いでくださったため、毎日感謝で心が満ちています。

たとえ他人が彼らを正当に評価しないときでも、彼らは苦々しい思いを抱きません。また、自分の功績を誇ることもありません。むしろ、感謝に満ちた心を持っています。

もう一つの特徴は、彼らが受けた恵みを周りの人々に与えることです。彼らは偉そうな態度を取ることはありません。むしろ、自分自身が神様の恵みを必要としていたように、周りの人々もその同じ恵みを必要としていることを理解しています。

自分の罪深い心がわかるならば、他人を軽蔑することはできません。自分がどれほど赦されたかを理解していると、他人を裁くこともできません。

むしろ、心が恵みと憐れみに満ち、その恵みと憐れみで周りの人々に触れるようになります。

あなたはどうですか。神様の恵みがどれほど必要か、あなたには分かっていますか。

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ルカの福音書 ルカ7章

あなたの愛はどこでしょうか

この箇所を読むと、私はこう感じます。「私はどれほどイエス様を愛しているのだろうか。」

この話には二人の人物が登場します。

一人は罪深い女性です。私たちは彼女の具体的な罪については知らないものの、周囲の人々は彼女の罪をよく知っていたようです。もしかすると彼女は売春婦だったかもしれません。ただ、それは単なる推測にすぎません。

一方、もう一人はシモンというパリサイ人です。彼は「正しい人」として知られていました。彼の言動は正しく、人生は順調に進んでいました。

そんな中で、シモンは食事にイエス様を招きました。食事の最中、その女性は泣きながらシモンの家に入りました。彼女の涙がイエス様の足にこぼれたため、彼女は自分の髪の毛でその足を拭い、香油を塗ったのです。

これに対するシモンの反応はどうだったでしょうか。それは軽蔑でした。彼女に対する軽蔑であり、イエス様に対する軽蔑でもありました。

そして、シモンはこう考えました。

この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。(ルカの福音書7:39)

けれでも、イエス様はシモンに向かってたとえ話を語られました。

その話では、一人は少額のお金を借り、もう一人は多額のお金を借りましたが、結局、二人ともそのお金を返すことができませんでした。そこで、金貸しは二人の借金を赦しました。

そして、イエス様はシモンにこう問いかけられました。

では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。(42)

多分シモンはこう考えたかもしれません。「イエス様のポイントは何だろうか。これは落とし穴のある質問なのだろうか。」

けれども、最終的に、彼は次のように答えました。

よけいに赦してもらったほうだと思います。(43)

そして、イエス様はこう言われました。「あなたの判断は正しいです。」

ところが、その次のイエス様の言葉は、シモンの心をナイフのように刺しました。

「実は、これは普通のユダヤ人のマナーですが、お客さんが来たとき、良い主人は足を洗う水を提供し、口づけで挨拶し、そのお客さんの頭に油を塗ります。

けれども、あなたは私のために何もしてくれませんでした。一方で、この女性は私が来たとき、私の足を涙で洗い、私の足に口づけし、高価な香油で私の足を塗りました。」

要するに、「シモン、あなたの愛はどこにあるのでしょうか。

この女性は私を深く愛しています。彼女は自分の行動を通して、神様の赦しに対する感謝を示しました。彼女はどれほど赦されたかを理解しているため、その愛は非常に深いです。

その一方、あなたは自分がどれほど赦しを必要としているかを理解していないため、あなたの愛はほとんどありません。さらに、あなたは私を軽んじ、いや、私に対して軽蔑的な態度を取ってしまいました。」

そして、イエス様はその女性に向かってこう言われました。

あなたの罪は赦されています。(48)

多分、周りにいた人々はその言葉を聞いて面食らったことでしょう。なぜなら、罪を赦すことができるのは神様だけだからです。

しかし、イエス様はさらに続けて言われました。

あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。(50)

あなたはどうでしょうか。あなたの愛の深さはどれほどでしょうか。

あなたは、シモンのように、自分の罪の深さを理解していないため、また、どれほど自分が赦されたかを知らないために、イエス様やその十字架の働きを軽んじてしまうのでしょうか。

私たちが神様の赦しを理解していない状態でいると、次の二つの結果が生じます。

1.私たちは独善的な態度を取り、周りの人々を軽蔑し、裁くようになります。

2.私たちの神様への愛は極端に薄くなります。

しかし、私たちが神様の愛をしっかりと理解すれば、私たちの心は神様への愛と感謝で満たされます。そして、その愛と憐れみを周りの人々にも分け与え始めます。

あなたは、どのような心を持っているでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ7章 ルカの福音書 ルカ6章

山上の説教:相手を裁くと

相手の欠点を見て裁くのは簡単なことです。つまり、相手の性格や行動を裁くのは容易いことです。特に、私が傷ついた時、相手を裁くことはさらに簡単になります。

ルカの箇所では、イエス様はこの教えを敵を愛し、憐れむことについて語られた後に言われました。そのため、私たちを侮辱する人、そして私たちを呪う人に関して、イエス様はこう言われました。

あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。(ルカ6:36)

その直後、イエス様は相手を裁くことについて語られます。

さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。

赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。(ルカ7:37)

つまり、相手があなたを傷つけても、その人を裁いてはいけません。なぜなら、それはあなたの責任ではなく、神様の責任だからです。むしろ、イエス様は「相手を許しなさい」と言われます。

実は、相手を許すことは、相手のためというよりも、あなた自身のためなのです。なぜなら、私が以前言ったように、相手を許さないことで、あなたは過去の傷に縛られ続けてしまうからです。そして、神様が望んでおられる未来に進むことができなくなります。

だから、神様は「その傷を手放し、許しなさい」と言われます。そうすれば、相手が変わることもあるかもしれませんが、それは神様の約束ではありません。

(イエス様が十字架の上でパリサイ人とサドカイ人の赦しのために祈られましたが、彼らの多くは決して悔い改めませんでした。)

さらに、私たちは主の祈りを思い出すべきです。すなわち、「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」

もしそうしないなら、もし私たちが受けた傷のために相手に裁きを注ぐのであれば、イエス様はこう警告されます。

与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。

あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。(ルカ6:38)

多くの人々は、この箇所を読むとき、イエス様が献金について話していると考えます。けれども、イエス様は献金について全く話していません。この箇所の前後は裁きと憐れみについて語られているのです。

イエス様のたとえは、農家が袋に穀物を入れる様子を描写しています。私たちはその光景をすぐに想像するのが難しいかもしれません。そこで、別の例えを考えてみましょう。

ごみ袋を思い浮かべてみてください。ごみの日に、どのようにごみを袋に入れるでしょうか。

まず、ごみを袋に入れます。けれども、袋が少し一杯になったらどうするでしょうか?袋を軽く揺らすと、ごみが下に詰まり、さらにごみを入れられるようになります。

しかし、袋がいっぱいになった後は、揺すってもごみが下に詰まりません。そこで、袋の上から手で押して、もう少しごみを入れます。けれども、袋の限界に達すると、ごみが袋から溢れます。

イエス様が言われたのはこのようなことです。

「もしあなたが相手に裁きを注ぐなら、神様は裁きをあなたに注がれるでしょう。そして、あなたにさらに裁きを注ぐために、神様はすでに注いだ裁きを揺すり、押されます。そして、裁きが溢れるまで、神様はあなたの人生に裁きを注がれます。

しかしその反対に、もしあなたが相手に憐れみと許しを注ぐなら、神様は憐れみと赦しをあなたの人生に溢れるほど注がれるのです。」

あなたはご自身に何を注がれることを望みますか?

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山上の説教:完全の愛。完全の憐れみ。

おそらく、私たちクリスチャンは、イエス様のこの言葉をよく耳にすることでしょう。

だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。(マタイ5:48)

この箇所の前後は興味深いです。もちろん、私たちは清い人生を送るべきです。とはいえ、この箇所では、イエス様は特に愛について語って言われるようです。私たちの愛は、完全であるべきなのです。

時々、人々は、イエス様の「しかし、わたしはあなたがたに言います。」という表現を誤解します。彼らは、イエス様が神様の律法に反対していると思うのです。

けれども、イエス様は神様の律法に反対されたのではなく、パリサイ人や律法学者の律法に関する間違った解釈に反対されたのです。

前回の記事で、この点について学びました。イエス様は、その正義に関する律法に反対されたわけではありませんでした。「目や歯に害を与えた者を殺してもよい」といった言葉を語られたのではありません。

むしろ、イエス様はこう言われました。「民法によれば、罪に応じた罰を与えるべきです。けれども、あなたがたは律法を乱用し、復讐の言い訳としてその律法を持ち出しているのです。」

もちろん、公平さと正義を求めること自体は良いことです。とはいえ、自分のためにいつも公平さと正義を求めるのではなく、相手に憐れみと愛を与えたら、あなたがたは天の父のようになり、この世でもっと輝く光となるでしょう。」

イエス様は、そのような人生を送られました。もしイエス様が自分のために正義を要求されていたら、十字架で死なれることは決してなかったでしょう。

この箇所では、私たちはさらにもう一つの律法に関する間違った解釈を見ることができます。旧約聖書には「自分の隣人を愛しなさい」という命令が簡単に見つかります。(レビ記19:18)

けれども、「自分の敵を憎め」という命令はどこにもありません。それはユダヤ人たちがそのアイデアを付け加えたものです。

そこで、イエス様はその考え方を訂正されました。

自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:44)

また、

あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。(ルカ6:27-28)

イエス様は、十字架の上でそうされました。

イエス様の敵が彼を十字架にかけた時、そして彼を嘲笑した時でさえ、イエス様は彼らのために祈られました。

イエス様は彼について祈られたわけではありません。「ほら、彼らはひどいでしょう?」とは言われませんでした。

むしろ、イエス様は彼らのために祈られたのです。

父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。(ルカ23:34)

彼らがイエス様を憎んでいたとしても、イエス様は彼らのことを愛されました。そして、イエス様の死によって、私たちは永遠の命への希望を持つことができるのです。

イエス様はこう言われました。「あなたを愛している人を愛するのは簡単なことです。誰にでもできることです。悪い人でさえそれができます。けれども、あなたを憎む人を愛することは本当に難しいのです。」

しかし、神様はそれをされます。私たちが神様を憎んだり侮ったりして背を向けても、神様は毎日私たちにさまざまな祝福を与えてくださいます。

天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。(マタイ5:45)

それに、私たちを罪から救い出すために、神様はご自身の子をこの世に送られました。

だから、神様は私たちにご自身のようになるように呼びかけておられます。私たちの愛は神様の愛のように完全であるべきです。神様が憐れみに富んでおられるように、私たちも憐れみに富むべきです。

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山上の説教:でも、フェアじゃない

すべての人々は、おそらくフェアなことを望みます。だからこそ、物事がフェアではないと感じると、「フェアじゃない」と叫びたくなります。しかし、それが最善の反応なのでしょうか。

イエス様の言葉は、私たちの本能のすべてに反しています。

イエス様はこう言われました

「目には目で、歯には歯で」と言われたのを、あなたがたは聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」(マタイ5:38-39)

38節は、神様の律法から来ています。(出エジプト記21:23ー25)

その出エジプト記の箇所では、神様はモーセと裁判官に、悪い行動をどのように罰するべきかを教えられました。

この律法は復讐について語っているものではなく、その要点は罪に応じた罰を与えるということです。つまり、罰が過度であってはならないということです。

例えば、誰かが相手の目に害を与えた場合、その相手がその人を殺してはならないということです。

それでも、実際にはモーセや裁判官はその律法を文字通りには適用しませんでした。それは神様の意図ではなかったからです。

その箇所の後を読んでみると、その律法の応用についての具体例が見られます。普通は、相手が償いをしなくてはなりませんでした。

この律法のポイントは公平さ、すなわち正義です。

とはいえ、この箇所でイエス様は、私たちが公平さを心配しすぎるべきではないとおっしゃっています。それよりも、あなたを傷つける人々に対して、あなたは光となるべきです。

イエス様の最初の例は非常に興味深いものです。

なたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。(マタイ5:39)

私は左利きなので、相手の右の頬を打つのは簡単なことです。けれども、ほとんどの人々は右利きです。したがって、右利きの人が相手の右の頬を叩こうとする場合、手の甲で打たなくてはなりません。

つまり、イエス様はここで、単なる暴力ではなく、侮辱について話しておられるのです。ユダヤ人の文化において、相手を手の甲で打つ行為は、侮辱と見なされていました。

ですから、イエス様が言われた意味は、相手があなたを侮辱したとしても、それを許しなさい、ということです。侮辱を侮辱で返す必要はないのです。

それは公平でしょうか。それは公平ではありません。それでも、イエス様はこう語られます。「公平を気にするのではなく、恵みを与えなさい。」

そして、イエス様はこう言われました。

あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。(40)

イエス様の時代、イスラエル人は下着を複数持っていることが多かったですが、多くの場合、上着は一枚しか持っていませんでした。そして、寝るときには、その上着を毛布として使用していました。

そのため、律法では、もし貧しい者が上着を担保として差し出した場合、貸し手は毎晩、その上着を必ず返さなければなりませんでした。(申命記24:12-13)

しかし、イエス様はこう語られました。「もし相手があなたを訴えて下着を取るなら、公平であることを気にせず、上着も与えなさい。」

さらに、ローマの律法では、ローマ兵がユダヤ人に対し、1.5キロほどの荷物を運ばせるよう命じることができました。

当然、ユダヤ人はそのような命令に従いたいとは思いませんでした。けれども、イエス様はこうおっしゃいました。「1.5キロ運ぶだけでなく、3キロ運びなさい。」

そして、イエス様はこう言われました…。

求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。(42)

では、相手が私たちのやさしさに付け込むことを許してもよいのでしょうか。

そうとは限りません。けれども、私たちが公平さについて心配しすぎると、フラストレーションをよく感じるようになります。なぜなら、この世界は不公平だからです。そして、私たちはその不公平さをコントロールすることはできません。

私たちがコントロールできるのは、自分自身の態度だけです。

フラストレーションを感じて、叫ぶこともできますし、戦うこともできます。

それとも、私たちは別の道を選ぶこともできます。つまり、相手に恵みを与え、憐れみを示すことができるのです。

イエス様は、私たちに対してそうしてくださいました。

イエス様が十字架で死なれることは、決して公平ではありませんでした。イエス様は、何も罪を犯していませんでした。

それでも、イエス様は私たちに恵みと憐れみを与えてくださいました。その結果、私たちは神様からの赦しと永遠の命を受け取ることができるようになりました。

もしイエス様が私たちにその恵みと憐れみを与えてくださるのであれば、私たちも周りの人々にそれを与えるべきではないでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ5章

山上の説教:憐れみ

数年前、私は不思議な夢を見ました。その夢の中で、私は中国でミニストリーの訓練を受けていました。(実際には、中国に行ったことはありません。)

すると、先生はこう言いました。「あなたたちは聖書をよく知っていますね。けれども、あなたたちは毎日その言葉に従っているでしょうか。」

そして、彼は憐れみについて話し始め、この箇所を引用しました。

「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」とはどういう意味か、行って学んで来なさい。(マタイ9:13)

その言葉を聞いた瞬間、私は目を覚ましました。

「これはどういう意味なのだろうか。」と、私は思いました。

その夢を見たとき、私はハワイを旅行していました。そして、その夜、兄の教会に行き、礼拝が始まる前に、もう一度マタイの箇所を読みました。

賛美の時間の後、兄はヤコブの手紙からメッセージを語りました。そのテーマは何だったでしょうか。憐れみでした。

翌週の日曜日、私は自分の教会に戻りました。そして、牧師は再び憐れみについて語りました。

そのとき、私は思いました。「神様は私に憐れみについて学んでほしいのだろうか。」

そして、神様は私に憐れみについて教え始められました。

今でも私は憐れみについて学んでいます。本当は、「私は憐れみ深い人間です」と言いたいのですが、そうは言えません。まだまだ成長しなければならないのです。

イエス様はこう言われました。

あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。(5-7)

憐れみとは何でしょうか。

まず一つ目の意味は、人々を常に裁かないことです。つまり、私たちの基準や期待を押し付けるのをやめることです。

ある日、神様は私にこのことを教えられました。私が英会話の生徒を教えていたとき、彼らはなかなか上達していませんでした。そのため、私はフラストレーションを感じました。

「私は何度もこのことを教えたのに、どうして覚えていないのだろう。もう学んだはずなのに。なぜできないのか。」と私は思いました。(もちろん、口には出しませんでした。)

けれども、神様はこう語られました。 「ブルース、自分が立てた基準によって彼らを裁いてはいけません。あなたは、彼らが知っているはずだと思うかもしれませんが、彼らはまだ理解していません。

だから、批判するのをやめて、彼らのレベルを受け入れなさい。そして、彼らの英語学習の必要を理解し、その必要に応えられるように努めなさい。」

多くの場合、私たちは友人、配偶者、同僚、子どもが私たちの期待を満たさないと、彼らを批判してしまいます。

しかし、憐れみとは彼らを批判するのではなく、こう問いかけることです。 「彼らの本当の必要は何だろうか。どうすれば私はその必要に応えることができるだろうか。」

イエス様とパリサイ人の態度は大きく違いました。福音書の中で、イエス様は人々に仕えましたが、パリサイ人は人々を裁きました。

憐れみにはもう一つの側面があります。それは、人を許すことです。

多くの人は私たちの赦しに値しないかもしれません。決して謝らない人もいるでしょう。その結果、私たちの心には怒りや恨みが積み重なります。

英語の「resent」、つまり「恨み」という言葉の意味は、「再び感じる」です。私たちが恨みを持つとき、再び過去の傷を感じてしまいます。

恨みや苦々しい思いは、私たちを過去に縛り付けます。神様は私たちにそれを望まれていません。神様は私たちが恨みを手放し、神様の目的のために生きることを望まれます。

神様は私たちを素晴らしい目的のために造られました。しかし、恨みを持ち続けるなら、その目的を果たすことはできません。

それに、私たちは神様の憐れみに値しなかったにもかかわらず、神様は憐れみを注いでくださいました。同じように、私たちは値しない人々にも憐れみを与えるように呼ばれています。

イエス様は何度も言われました。 「もし神様の憐れみを望むなら、周りの人々に憐れみを示すべきです。」

この箇所でイエス様はそう教えられましたし、主の祈りでもそう教えられました。また、たとえ話の中でもそう語られました。

あなたはどうでしょうか。あなたは憐れみ深い人ですか。

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詩篇

赦しの神、憐み深い神

詩篇130篇は短い詩篇ですが、私はこの詩篇が大好きです。苦しむ時、詩人は神様の赦しと愛を省みます。

いつこの詩篇が書かれたのか私は知らないけれど、バビロンへの追放の後に書かれた感じがします。ダニエルのような人がこの詩篇を書いたことが想像できます。

しかし、ダニエルの祈りと違って(ダニエル書9章)、この詩人は自分の罪のために赦しを願いました。彼は叫びました。

主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。

主よ。私の声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください。(詩篇130:1-2)

彼は自分の義に基づいて願いませんでした。むしろ神様の性格に基づいて願いました。彼は言いました。

主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。

しかし、あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます。(3-4)

その個所が大好きです。誰も神様のみ前に立つ資格を持ちません。もし、神様が私たちの罪の記録を持っていたら、私たち皆死んでしまうでしょう。

たとえあなたが一日に三回ぐらい罪を犯したら、あなたは三十代になるともう罪を三万回ぐらい犯したことになります。

私がどれぐらい罪を犯したか考えたくありません。けれども、イエス様の血によって、私の罪は清められました。私の罪の記録に、もう何も書かれていません。

だから、詩人はこう言います。

私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ちます。(5)

彼は何を待ち望んでいるでしょうか。神様の恵みを待ち望んでいます。何に基づいて待っているでしょうか。神様の約束によって待ち望んでいます。

私たちも神様の約束に頼ることができます。つまり、

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

そして、夜明けが確かに来るように、悔い改める人に神様の赦しも確かに来ます。(詩編130:6)

自分の罪を悔い改めたあとで、詩人はイスラエルが悔い改めるように招きます。

イスラエルよ。主を待て。主には恵みがあり、豊かな贖いがある。

主は、すべての不義からイスラエルを贖い出される。(7-8)

私たちが神様の赦しを見つけたので、周りの人々に神様の憐れみについて伝え、彼らが悔い改めるように招きましょう。

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詩篇

憐れみを求める叫び

詩篇123篇は興味深い比喩を使っています。詩人はこう書きました。

あなたに向かって、私は目を上げます。天の御座に着いておられる方よ。

ご覧ください。奴隷の目が主人の手に向けられ、女奴隷の目が女主人の手に向けられているように、私たちの目は私たちの神、主に向けられています。(詩篇123:1~2)

一見したところ、この詩篇は奴隷がその主人に仕えることを描写しています。その時代、もちろん、奴隷はその主人の言葉に注意しましたが、それ以上に奴隷は主人の合図に注意して、その主人の必要を察していました。

そのように、私たちも神様に目を上げて、仕える心を持つべきです。私たちの人生は自分中心ではありません。私たちが自分だけのために生きるのは良くありません。むしろ、私たちの創造主に仕えるべきです。

けれども、2節の全体を見ると、こう書いてあります。

ご覧ください。奴隷の目が主人の手に向けられ、女奴隷の目が女主人の手に向けられているように、私たちの目は私たちの神、主に向けられています。主が私たちをあわれまれるまで。

要するに、奴隷は仕えるために主人に目を上げたのではありません。むしろ、彼は憐れみを求めていました。彼は叫びます。

私たちをあわれんでください。主よ。私たちをあわれんでください。私たちはさげすみで、もういっぱいです。

私たちのたましいは、安逸をむさぼる者たちのあざけりと、高ぶる者たちのさげすみとで、もういっぱいです。(3-4)

詩篇の背景ははっきりしません。バビロンへの追放の時に書かれたかもしれません。もしかしたら、アンティオコス4世エピファネスの時代に書かれたかもしれません。彼は、主の宮で祭壇の上で豚を殺し、その行動によって、主の宮を汚しました。

とにかく、イスラエル人にはあまり希望がありませんでした。だから、詩人は主に目を上げました。詩人は、イスラエル人の罪のため、彼らが神様からの祝福に値しないことをよく知っていました。

とはいえ、彼は神様の性格も知っていました。つまり、神様が私たちを懲らしめるかもしれませんが、私たちをまだ愛しておられることを知っていました。また、私たちが悔い改めると、神様が赦してくださることを知っていました。

この詩篇を読むと、私はイエス様のたとえ話を思い出します。ある人は神様の前に立って、自分の胸をたたいて言いました。「神さま、こんな罪人の私をあわれんでください。」

イエス様はその人についてこう言われました。

あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。(ルカ18:14)

あなたの罪のために、神様に懲らしめられているかもしれません。あなたは神様に捨てられたと思うかもしれません。

しかし、イエス様に目を上げて、悔い改めましょう。憐れみを願いましょう。そうすれば、イエス様はあなたを赦してくださいます。

あなたが神様の憐れみを知るように。

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詩篇

苦々しい心と許し、憐れみと正義

詩篇109篇は「呪いの詩篇」です。

時々、詩篇の中で、ダビデは自分の敵を呪ったり、その敵に対する神様の裁きを求めて祈ります。

多くの人々は(私も)こんな詩篇を読む時、気持ちがよくありません。なぜなら、イエス様は私たちに自分の敵を赦しなさいと命じられたからです。

以前、このブログでこのことについて説明したことがあるけど、繰り返した方が良いと思います。

王として、ダビデは正義の大切さをよく知っていました。彼は悪が続くことを許しませんでした。だから、ダビデはその悪者が自分が蒔いたものを刈り入れるように祈りました。

ダビデは無実なのに敵に責められたので、ダビデは彼らが裁かれるように祈ったのです。

「どうか、悪者を彼に遣わしてください。なじる者が彼の右に立つようにしてください。」という言葉は少し難しいです。

もしかしたら、ダビデは彼らも不公平に責められる経験を知ることを望んだのかもしれません。

そして、ダビデは祈ります。

その子らはみなしごとなり、彼の妻はやもめとなりますように。

彼の子らは、さまよい歩いて、物ごいをしますように。その荒れ果てた家から離れて、物ごいをしますように。(詩篇109:9-10)

それは酷い祈りです。とはいえ、その悪者は他の家族をそのように苦しませたのです。

最近、私はニュースを見て、ある殺人者が刑務所で自殺したことを聞きました。彼は婚約者と娘を残しました。

私たちの罪は自分自身に影響を与えるだけでなく、私たちが愛する者にも影響を与えてしまいます。

そして、私たちが悔い改めないなら、神様の赦しを決して知ることがありません。

けれども、このことを覚えていてください。私たちは正義を望むかもしれないけど、苦々しい心を持ってはいけません。なぜなら、苦々しい心は相手を傷つけるよりも、自分自身を傷つけるからです。

興味深いのは、ペテロがこの詩篇をユダに当てはめたことです。ユダは理由もなくイエス様を裏切り、善にかえて悪を与え、愛にかえて憎しみを返しました。

そして、彼が決して悔い改めなかったため、神様は彼を赦されませんでした。その結果、彼の人生は短く終わり、彼の務めと立場は他の人に引き継がれました。

しかし、イエス様はユダに対して苦々しい心を持っておられませんでした。むしろ、最後の晩餐ではユダの足を洗い、彼にパンを与えられました。

そして、ユダが裏切るためにゲツセマネの園に来た時も、イエス様は苦々しさを示されませんでした。むしろ、イエス様はユダに対して情け深く接しておられました。

イエス様は騙されやすい方ではありませんでした。イエス様はユダの性格と動機をよく知っておられました。

それでも、イエス様はユダに憐れみと愛を示されました。その愛と憐れみによって、イエス様は彼の頭に燃える炭火を積まれたので(箴言25:21-22)、結局ユダは自分の罪悪感を感じて、自殺しました。

けれども、イエス様は苦々しさに汚れませんでした。

ダビデも苦々しさに汚れませんでした。一回だけ、ダビデは苦々しい心を持って、誰かを殺したいと思いました。

けれども、彼は本当の正義を思い出して、その苦々しい心を手放し、その人に憐れみを与えました。そして、彼が神様の正義を見たとき、この詩篇のように、彼は喜びました。

私は、この口をもって、大いに主に感謝します。私は多くの人々の真ん中で、賛美します。

主は貧しい者の右に立ち、死刑を宣告する者たちから、彼を救われるからです。(30-31)

だから、苦々しい心を手放しましょう。むしろ、憐れみ、赦し、そして正義を大事にしましょう。

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詩篇

私たちの話を伝える

私はずっとクリスチャンだったけど、最近まで、詩篇107篇の美しさに気づいていませんでした。特に1-2節は私の心を打ちました。

「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」

主に贖われた者はこのように言え。(詩篇107:1-2)

ちょっとパラフレースだけど、ある英語の聖書は「主に贖われた者はこのように言え」を「主に贖われた者は自分の贖いの話を伝え」と訳しています。

この詩篇はそのような話です。人々は自分の贖い話をシェアして、神様を賛美します。

この詩篇は、賛美の言葉で始まります。イスラエルの詩篇では、この言葉がよく見られます。

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。(1)

この詩篇は、どうやって神様が私たちを贖って、自分の慈しみを表されたかを宣言します。

イスラエル人は、砂漠でさ迷って、飢え、渇き、自分の家がありませんでした。けれども、彼らが神様に叫んだら、神様は彼らの声を聞き、安全な所に導き、食べ物と水を備えてくださいました。

そのように、私たちは罪にさ迷って、霊的に飢えたり渇いたりし、平安を見つけませんでした。しかし、私たちが神様に叫んだら、神様は私たちを喜びと平和深い所に導いてくださいました。だから、私たちは満足します。

そして、詩人は囚人について歌います。彼らは神様に逆らったので、暗闇に住んでいました。けれども、彼らが神様に叫んだので、神様は彼らの鎖を打ち砕き、救い出してくださいました。マナセ王はそれを経験しました。

そのように、私たちも、神様を知っていましたが、神様に背を向けました。私たちは自由を求めて、この世の物を追い求めました。

しかし、私たちが追い求めたもの、つまり、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、かえって私たちを奴隷にしました。

それでも、私たちが神様にもう一度向かった時、神様はその鎖を砕いて、私たちを本当の自由に導いてくださいました。

ある人々は、自分の罪によって、病を経験しました。けれども、彼らが神様に叫んだら、神様は彼らを赦し、癒してくださいました。ダビデも、その経験があったかもしれません。(詩篇30,32,38-39)。

そのように、神様は私たちも注目を得るために倒されました。しかし、私たちが悔い改めたら、神様はすぐに赦してくださいました。

時々、私たちは人生の嵐に巻き込まれます。時々、それは私たちのせいですが、時々他の人のせいで苦しみます。それでも、私たちが神様に叫んだら、神様は私たちを救い出してくださいました。

他の人々は砂漠を渡った時に神様の備えを見たけれど、神様が約束の土地に着くと、彼らはすぐにそのことを忘れたので、自分の罪によってすべてを失ってしまいました。イスラエルの歴史はその通りでした。

けれども、彼らが神様に向かったら、神様は彼らをその土地に戻らせ、もう一度彼らを祝福してくださいました。

あなたもそのような経験があるかもしれません。砂漠で神様の祝福を見たのに、あなたの人生が上手くいき始めたら、神様を忘れたので、すべてを失ってしまいます。それでも、私たちが悔い改めたら、神様は私たちを赦し、癒してくださいました。

だから、私たちはどう反応するべきでしょうか。

彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。(15,21,31)

また、私たちの話を次の世代に伝えましょう。そうすれば、彼れらはこれらのことに心を留め、主の恵みを悟ります。(43)

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詩篇 歴代誌第一

不従順の歴史、憐れみの歴史

詩篇106篇では、ダビデはイスラエルの歴史を伝えます。けれども、その歴史はいつもポジティブではありません。

何回も、ダビデは、どうやってイスラエル人が神様に背を向けたかを話します。その話は私たちの人生も反映します。

1. イスラエル人は神様に逆らいました。(詩篇106:6-7)

これはこの詩篇の主要なテーマの一つです。彼らは逆らうことを選びました。

一つの理由は、彼らが神様の御業をすぐに忘れたからです。何回も彼らの目の前で神様は素晴らしい奇跡を行われました。けれども、トラブルが来るとき、彼らはその御業を覚えていませんでした。

だから、何回も、彼らは罪を犯したのです。

どれくらい私たちもそうするでしょうか。神様が私たちのために何をしてくださったか忘れるので、困る時に、私たちは文句を言い、神様を責め、自分の道を行きます。

2. 彼らは自分の欲望に負けました。(14)

イスラエル人は肉を貪りました。神様が肉を与えてくださいましたが、そのあと、疫病が発生したので、たくさんの人々が亡くなりました。

そのように、私たちの欲望に従えば、結局私たちは滅びます。例えば、性病や、心臓麻痺や、ガンにかかります。

あなたは貪ったものを得るかもしれませんが、結局その代価を払うことになります。

3.彼らは本当の神の代わりに、他の神々を礼拝し始めました。(19-20,28)

そのように、私たちもよく神様に背を向け、違うものを追い求めます。私たちはセックスやお金や、この世の物を追い求めます。それらのものが私たちの「神」になります。

だから、私たちは心のすべてを神様に捧げなくなります。また、それらの物は私たちを神様から奪います。

4. 神様の約束を信じず、神様の良い計画を侮りました。(24-27)

だから、彼らは文句を言って、神様が約束したものを受け取れませんでした。

どれくらい、私たちもそうするでしょうか。私たちは聖書を読んで、神様の良い計画を見ますが、神様がその約束を守ることを信じません。

だから、神様の言葉に従わないので、神様が約束したものを受け取れません。

5. 彼らは周りの国民のようになりました。彼らはその国民の価値観と道徳を受け入れました。(34-39)

多くのクリスチャンもそうします。神様のために、この世に影響を与えずに、かえってこの世の民のようになるので、神様が憎むことをし始めます。

この詩篇では、イスラエル人の失敗がよく見えます。しかし、神様の憐みも見えます。

何回も、自分の罪によって苦しんだ時に、イスラエル人が神様に叫んだので、神様は彼らを救い出してくださいました。

そのように、私たちが罪に落ちるとき、本当に悔い改めると、神様は赦してくださいます。

だから、ダビデは歌います。

私たちの神、主よ。私たちをお救いください。国々から私たちを集めてください。あなたの聖なる御名に感謝し、あなたの誉れを勝ち誇るために。

ほむべきかな。イスラエルの神、主。とこしえから、とこしえまで。すべての民が、「アーメン」と言え。ハレルヤ。(47ー48)

主よ。私は何度も罪を犯しました。何度も私はあなたが私のために何をしてくださったか忘れるので、感謝することも忘れてしまいます。

何度も私はあなたの約束を信じることをせず、自分の道を行き、あなたに背きます。

私はよくこの世の神を追い求めます。また、何度も私はこの世の民のようになります。

赦してください。私を変えてください。

あなたの私に対する憐れみを感謝します。

毎日、私がもっとあなたのようになりますように助けてください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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詩篇

神様の愛とあわれみ

詩篇103篇では、ダビデは神様の愛と憐れみについて歌います。

いつダビデがこの詩篇を書いたかは分かりませんが、多分バテ・シェバとの罪の後かもしれません。

もしかしたら、ダビデはイスラエル人の人数を数えた罪の後に、この詩篇を書いたかもしれません。

とにかく、彼の罪が赦された後に、彼は歌います。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。(詩篇103:1)

私はこの箇所を読むと、イエス様の言葉が思い浮かびます。つまり、多くの罪が赦された人は神様をより多く愛します。(ルカ7:47)

ダビデは、多く赦されたので、彼の神様に対する愛はより大きかったのです。

彼は酷い罪を犯しても赦され、彼の健康が回復され、死から救われました。それに、彼が何回失敗しても、神様は彼に恵みとあわれみとの冠をかぶせてくださいました。(2-4)

そして、ダビデは神様がモーセに何を言われたかを思い出しました。神様はご自身についてこう言われました。

主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。(8)

ダビデはその言葉に加えました。

主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。

私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。

天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。

東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。(9-12)

その言葉が大好きです。

「絶えず争ってはおられない。」

あなたのお父さんやお母さんが、何度もあなたを責めたことがあるかもしれません。彼らがあなたを決してほめず、いつも批判していたかもしれません。だから、あなたは神様もそのような方だと思ってしまうかもしれません。

しかし、神様は絶えず争う方ではありません。

そして、私たちが悔い改めると、神様はご自身の怒りを心の中に持ち続けることはありません。

時々、人々は「あなたを許してあげる」と言いますが、私たちがもう一度失敗したら、彼らは私たちの以前の失敗も思い出させます。

神様はそうなさいません。神様は私たちを赦す時、私たちの罪をもう思い出されません。

それに、神様は私たちの弱さを知っておられるので、私たちをあわれんでくださいます。

神様は人間になられたので、私たちの弱さをよく知っておられます。私たちのようにイエス様は誘惑されましたが、決して罪を犯されませんでした。しかし、その経験によって、私たちの誘惑が分かるようになりました。

だから、私たちは悔い改め、神様を敬うと、神様の恵みは永遠から永遠まで私たちの上にあります。(13-17)

だから、ダビデは天の者と全地の者が神様をほめたたえるように招きます。ダビデも賛美してこう歌いました。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。(22)

主よ、あなたの愛とあわれみを感謝します。私が弱くて、罪を犯しても、あなたが私をまだ愛してくださることを感謝します。あなたは私を争わずに、恵み深い目で見てくださいます。

どうか、その恵みとあわれみを周りの人々にシェアするように助けてください。アーメン。

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詩篇

聖なる神

私たちが神様の性格について考えるとき、たいてい「愛」という言葉がすぐに浮かぶでしょう。

もちろん、神様は愛です。 しかし、この箇所では、もう一つの面を見ることができます。 つまり、神様は聖なる方であるということです。

だから、詩篇97篇と99篇の最初の言葉は少し異なります。

詩篇97篇では、詩人は歌います。

主は、王だ。地は、こおどりし、多くの島々は喜べ。(97:1)

けれども、99篇では、詩人はこう歌います。

主は王である。国々の民は恐れおののけ。

主は、ケルビムの上の御座に着いておられる。地よ、震えよ。(99:1)

どうして神様の前に私たちは恐れおののくのでしょうか。どうして、地は震えるのでしょうか。なぜなら、神様は聖なる方だけど、私たちはそうではないからです。

この詩篇では、詩人は何度も神様の聖さについて歌います。

国々の民よ。大いなる、おそれおおい御名をほめたたえよ。主は聖である。(3)

また、

われらの神、主をあがめよ。その足台のもとにひれ伏せ。主は聖である。(5)

また、

われらの神、主をあがめよ。その聖なる山に向かって、ひれ伏せ。われらの神、主は聖である。(9)

神様の聖さを見ると、何度も人々は神様を恐れ、平伏しました。モーセ(出エジプト記3:5-6)、イザヤ(イザヤ書6:5)、ヨハネ(黙示録1:17)はそうしました。

彼らは神様を見る資格がないことをよく知っていました。むしろ、彼らは自分の罪のために死に値することをよく知っていたのです。

けれども、何度も神様は彼らとイスラエル人にあわれみを与えてくださいました。

だから、詩人はそのあわれみについて歌います。

あなたは、彼らにとって赦しの神であられた。しかし、彼らのしわざに対してはそれに報いる方であった。(8)

イスラエル人は神様に信頼しそびれたのに、神様は彼らを決して捨てませんでした。彼らが罪を犯した時、神様は彼らを懲らしめられましたが、彼らを捨てずに、あわれんでくださいました。

それに、モーセや、アロンや、サムエルが不完全な人間なのに、彼らが神様に祈った時、神様は応えてくださいました。

ここでの良い知らせは、神様が私たちにもそのように扱ってくださることです。

神様は聖なる方で、私たちがそうではないのに、私たちを決して捨てません。私たちが何度も失敗しても、神様は私たちを赦し、私たちの祈りに答えてくださいます。

だから、神様の聖さとあわれみを覚えていて、毎日神様をほめたたえましょう。

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詩篇

悔い改めとあわれみ

詩篇85篇がいつ書かれたか誰も知りませんが、多分イスラエル人がバビロンへの追放の後に書かれたものだと思われます。

詩人はこう書きました。

主よ。あなたは御国に恵みを施し、ヤコブの繁栄を元どおりにされました。

あなたは、御民の咎を赦し、彼らのすべての罪を、おおわれました。セラ

あなたは、激しい怒りをことごとく取り去り、燃える御怒りを、押しとどめられました。(詩篇85:1-3)

イスラエル人がバビロンに70年いた後で、神様は彼らをエルサレムに帰らせました。多分、詩人はこの箇所でそのことについて歌ったのでしょう。

それでも、イスラエル人はまだトラブルを抱えていました。だから、詩人は願います。

われらの救いの神よ。どうか、私たちを生き返らせ、私たちに対する御怒りをやめてください。

あなたは、いつまでも、私たちに対して怒っておられるのですか。代々に至るまで、あなたの御怒りを引き延ばされるのですか。

あなたは、私たちを再び生かされないのですか。あなたの民があなたによって喜ぶために。

主よ。私たちに、あなたの恵みを示し、あなたの救いを私たちに与えてください。(詩篇85:4-7)

なぜ、詩人はそう祈ったのでしょうか。ネヘミヤ記によれば、ユダヤ人がエルサレムに帰ったけれど、城壁はまだ崩れていたので、彼らの敵はいつも攻撃しました。だからユダヤ人の人生は本当に大変でした。

だから、詩人は神様のあわれみを願います。そして、詩人は本当に大切なことを言います。

私は、主であられる神の仰せを聞きたい。主は、御民と聖徒たちとに平和を告げ、彼らを再び愚かさには戻されない。

まことに御救いは主を恐れる者たちに近い。それは、栄光が私たちの国にとどまるためです。(詩篇85:8-9)

私たちはよく神様のあわれみのために祈りますが、平和は悔い改める人のためであることを覚えておきましょう。

もし、私たちが神様に背を向け、私たちを滅ぼした罪に戻るなら、神様のあわれみを期待できません。

もちろん、神様が私たちが完全な人になるまであわれんでくださらないわけではありません。とはいえ、神様は私たちの心を望まれます。神様は、私たちが古い道を行かずに、神様の道を歩み始めることを見たいと望まれます。

たまに私が転ぶかもしれませんが、神様の道を行き続けるなら、神様は私たちを拾って、私たちを導き続けてくださいます。そして、私たちは神様の祝福を知ることができます。

だから、詩人はこう書きました。

まことに、主は、良いものを下さるので、私たちの国は、その産物を生じます。

義は、主の御前に先立って行き、主の足跡を道とします。(詩篇85:12-13)

あなたはどうですか。悔い改めの道を歩んでいますか。

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詩篇

正義がやっと来ると

子供の時、私はいつも教会で、この詩篇からの歌を歌いました。つまり、1節を歌いました。

私たちは、あなたに感謝します。神よ。私たちは感謝します。御名は、近くにあり、人々は、あなたの奇しいわざを語り告げます。(詩篇75:1)

けれども、その歌を歌った時、何に感謝するか分かりませんでした。どの奇しいわざを悟り告げるか分かりませんでした。

しかし、この詩篇の全体を読むと、その答えがすぐに分かります。この詩篇は裁きの日についてです。その日、神様はすべての人々を自分の行動のために裁かれます。

この詩篇で、神様はこう言われます。

わたしが、定めの時を決め、わたしみずから公正にさばく。地とこれに住むすべての者が揺らぐとき、わたしは地の柱を堅く立てる。セラ

わたしは、誇る者には、「誇るな」と言い、悪者には、「角を上げるな。おまえたちの角を、高く上げるな。横柄な態度で語るな」と言う。(2-5)

そしてこの詩篇の最後の部分によれば、神様は悪者を低くされ、義人を高く上げてくださいます。だから、詩人は神様をほめたたえます。

しかし私は、とこしえまでも告げよう。ヤコブの神を、ほめ歌おう。

悪者どもの角を、ことごとく切り捨てよう。しかし、正しい者の角は、高く上げられる。(9-10)

私は以前にも言ったことがありますが、私たちはこの世の悪を見る時、「神様はどこだろうか。どうして神様は何もしないのだろう」とよく思います。けれども、この詩篇によれば、正義は必ず来ます。

だから、私たちは待っている間、神様をほめたたえましょう。なぜなら、神様は忍耐強く、人々が悔い改めるのを待っておられますが、必ずや神様の正義は訪れます。(第二ペテロ3:9)

その憐れみによって、私たちも救われたので、神様を信頼し、感謝し続けましょう。

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詩篇

憐れみのための願い

私には、いつこの詩篇が書かれたか分かりません。「アサフのマスキール(歌)」と書かれていますが、多分、アサフの子孫の歌という意味です。

なぜなら詩篇74篇では、主の宮の破壊について話していますが、アサフが生きている間はその宮はまだ建っていたからです。(アサフはダビデ王や、ソロモン王、レハブアム王の時代に生きていました。)

多分、この詩篇はネブカデネザルがエルサレムを攻撃して、ユダヤ人がバビロンに追放された後に書かれました。

詩人は、「もう私たちのしるしは見られません。もはや預言者もいません。」と書いていますが、多分エルサレムには預言者がいないという意味です。

ダニエルとエゼキエルはバビロンにいましたし、エレミヤはしばらくエルサレムに住み続けましたが、結局彼はエジプトに連れていかれました。

とにかく、この詩篇は憐れみを求める願いです。詩人は嘆きます。

神よ。なぜ、いつまでも拒み、あなたの牧場の羊に御怒りを燃やされるのですか。

どうか思い起こしてください。昔あなたが買い取られた、あなたの会衆、あなたがご自分のものである部族として贖われた民を。また、あなたがお住まいになったシオンの山を。

永遠の廃墟に、あなたの足を向けてください。敵は聖所であらゆる害を加えています。(詩篇74:1-3)

そして、詩人は宮の破壊を嘆き、神様がいらっしゃらないことを嘆きます。

しかし、12節で、彼は歌います。

確かに、神は、昔から私の王、地上のただ中で、救いのわざを行なわれる方です。

そして、13〜17節で、彼は神様の力を思い出します。つまり、神様がどうやってこの世を造られたか、またどうやってイスラエル人をエジプトから救い出してくださったかを思い出します。

そして、彼はもう一度神様の憐れみを願います。

この詩篇では、興味深いポイントがあると思います。特に、神様の憐れみについて学ぶことができると思います。

最も大切なポイントは、私たちが神様の憐れみに値しないことです。詩人は「私たちが良い人だから、憐れんでください」とは全く言いませんでした。

むしろ、神様の名前の誉のために、神様の憐れみを願います。詩人は尋ねます。

神よ。いつまで、仇はそしるのでしょうか。敵は、永久に御名を侮るのでしょうか。(10)

要するに、「イスラエルの敵があなたの宮を破壊したので、あなたの名前は汚されました。周りの国民はもうあなたのみ名を誉めません。」

だから、詩人は祈ります。

神よ。立ち上がり、あなたの言い分を立ててください。愚か者が一日中あなたをそしっていることを心に留めてください。

あなたに敵対する者どもの声や、あなたに立ち向かう者どもの絶えずあげる叫びを、お忘れにならないでください。(22-23)

それに、詩人は神様の約束ゆえに、憐れみを願いました。この詩篇の最初に、彼は祈りました。

どうか思い起こしてください。昔あなたが買い取られた、あなたの会衆、あなたがご自分のものである部族として贖われた民を。また、あなたがお住まいになったシオンの山を。(2)

要するに、「あなたは私たちを買い取られ、私たちがあなたのものとすると約束しました。あなたが私たちの間に住むことも約束されました。だから、その約束を思い出し、私たちを救ってください。」

最後に、神様の情けによって、詩人は憐れみを願いました。彼は歌いました。

しいたげられる者が卑しめられて帰ることがなく、悩む者、貧しい者が御名をほめたたえますように。(21)

神様の憐れみに値する人は一人もいません。それでも、神様は憐れみ深い方です。だから、神様が私たちを捨てられたと思う時、失望しないでください。むしろ、神様に向かい、憐れみを願いましょう。

そうすれば、神様はユダヤ人を救われたように、私たちを救ってくださいます。

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詩篇

人をあわれむ

詩篇41篇は、詩篇の第一巻の最後の歌です。(詩篇には、全部で5巻あります。)

ダビデは1節でこう書いています。

幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。主はわざわいの日にその人を助け出される。(詩篇41:1)

イエス様はその言葉をこのように言い換えられました。

あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。(マタイ5:7)

あわれみというのは、何でしょうか。二つのニュアンスがあります。

一つ目は、弱い人や、病気の人や、貧しい人に情けをかけることです。

二つ目は、罰に値する人を罰しないことです。

この詩篇では、私たちは両方の意味を見ることができます。

1-3節で、ダビデは、もしあなたが弱い人を憐れむなら、あなたが弱い時、神様があなたを憐れむと言います。

けれども、4節で、ダビデは叫びます。

主よ、あわれんでください。私のたましいをいやしてください。私はあなたに罪を犯したからです。

ダビデのように、私たちはよく神様のあわれみを求めて祈ります。しかし、私たちは周りの人々をどれほどあわれんでいるでしょうか。

ダビデの敵のように、私たちは自分を傷つけた人々の悪口をどれほど言っているでしょうか。

彼らが苦しむ時、「それは当然です。その苦しみに値するから」と言ってしまうことはないでしょうか。

私たちはどれほど、彼らについて噂をし、彼らの過ちを大げさに言っているでしょうか。(5–9節)

また、友達が苦しんでいる時、ヨブの友達のように慰めることなく、責めてしまうことはないでしょうか。

「あなたは罪を犯したから、苦しんでいるのでしょう」と言ってしまうことはないでしょうか。

さらに、「もっと信仰を持てば、きっと癒されるでしょう」と言ってしまうことはないでしょうか。

ダビデにとっても、人をあわれむことは難しいことでした。詩篇の中で、ダビデは何回も自分の敵を責め、呪います。

皮肉なことに、この詩篇でも、ダビデはこう言います。

しかし、主よ。あなたは私をあわれんでください。私を立ち上がらせてください。そうすれば私は、彼らに仕返しができます。(10)

私たちはダビデの言葉を正当化する必要はありません。詩篇は感情の正直な表現です。けれども、覚えておきましょう。ダビデは自分の怒りとフラストレーションを詩篇で表しましたが、正義に基づいて行動しました。

私たちも怒りやフラストレーションを感じることがあるかもしれません。しかし、神様が私たちをあわれんでくださったように、私たちも人々をあわれまなくてはなりません。

そして、神様が私たちが弱い時に助けてくださったように、私たちも弱い人を助けなければなりません。(ローマ5:6-8)

あなたは周りの人々にどれくらいあわれみを示すでしょうか。

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詩篇

神様に叫ぶ

私は、よくダビデの詩篇の背景を知りたいです。時々、ある詩篇のタイトルで、その背景が書かれています。けれども、この詩篇では、その背景が書かれていません。

詩篇25篇で、ダビデはトラブルの中で神様に叫びました。彼はこう歌いました。

主よ。私のたましいは、あなたを仰いでいます。

わが神。私は、あなたに信頼いたします。(詩篇25:1-2)

つまり、「私のすべてをあなたに捧げます。私のすべてはあなたのものです。あなたを信頼するから。」

その言葉を言うことは簡単です。とはいえ、その言葉を生きるのは難しいことです。私はよく神様に捧げたものを取り戻します。多くの場合、私は信仰を持たないので、神様を信頼しません。

けれども、私は失敗しても、ダビデのようにその言葉を叫びます。

そして、ダビデはこう祈りました。

主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください。

あなたの真理のうちに私を導き、私を教えてください。あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望んでいるのです。(4-5)

この箇所では、私たちはダビデの謙遜な態度を見ることができます。私たちはしばしば、すべてのことを知っているかのような態度を持ち、神様に相談する必要がないと思いがちです。

しかし、ダビデはへりくだって、神様に言いました。「私はすべてのことを知りません。最も良い道を知りません。だから教えてください。導いてください。」

どうしてダビデは神様の道を求めたのでしょうか。それは、ダビデが神様を愛し、神様を喜ばせたかったからです。だから彼は「あなたは救いの神です。私はあなたを待ち望みます。」と言いました。

そして、ダビデは請いました。

主よ。あなたのあわれみと恵みを覚えていてください。それらはとこしえからあったのですから。

私の若い時の罪やそむきを覚えていないでください。あなたの恵みによって、私を覚えていてください。主よ。あなたのいつくしみのゆえに。。。

主よ。御名のために、私の咎をお赦しください。大きな咎を。(6-7,11)

ダビデはアブサロムから逃げた時、この言葉を書いたのでしょうか。もしそうなら、多分、バテ・シェバとの罪について考えたかもしれません。神様はダビデを赦されましたが、その罪は結局ダビデを追放に導きました。だから、ダビデは祈りました。

「私の咎は大きいけれども、どうか赦してください。
私はあなたの赦しに値しません。しかし、あなたの恵みとあわれみによって、どうか赦してください。」

多くの場合、私たちが振り返る時、私たちの罪は神様に赦されましたが、その罪が結局私たちのトラブルを起こしたことが分かります。その時、私たちは、「神様は本当に私を赦されたのだろうか。」と思います。

けれども、私たちが心から悔い改めたら、神様は私たちをきっと赦してくださいます。そして、私たちが赦しに値しないのに、裁きの日に、神様は私たちにあわれみを与えてくださいます。

それでも、神様は、この世における罪の結果を取り去らないかもしれません。しかし、ダビデの時と同じように、神様は私たちと共にいて、支えてくださいます。

だからダビデは歌いました。

主は、いつくしみ深く、正しくあられる。それゆえ、罪人に道を教えられる。

主は貧しい者を公義に導き、貧しい者にご自身の道を教えられる。

主の小道はみな恵みと、まことである。その契約とそのさとしを守る者には。(8-10)

つまり、私たちが罪を犯しても、神様を求め続けたら、神様は私たちを決して諦めません。神様は私たちを導き続け、教え続けてくださいます。

もちろん、私たちはダビデと大きな違いがあります。それは、私たちがモーセの律法の下に生きていないことです。だから、私たちが罪を犯しても、神様の私たちに対する愛と忠実さは決して変わりません。

パウロはこう書きました。

私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。(第二テモテ2:13)

そして、ダビデは神様の守りのために祈りました。

私のたましいを守り、私を救い出してください。私が恥を見ないようにしてください。私はあなたに身を避けています。

誠実と正しさが私を保ちますように。私はあなたを待ち望んでいます。(20-21)

だから、ダビデはこの詩篇を始めたように、この詩篇を終えます。彼は自分の魂を神様の御手に委ね、神様を待ち望みました。

試練の中で、私たちもそのようにしましょう。

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ゼカリヤ書

偽の敬虔

多くの人々は、クリスチャンをその偽善のために批判します。確かに、クリスチャンがその批判に値する時もありますが、そうではない時もあります。しかし、神様は偽善を非常に深刻に考えられるお方です。

この箇所では、バビロンから追放され、イスラエルに戻ってきたユダヤ人たちが、ゼカリヤに質問をしました。

私が長年やってきたように、第五の月にも、断食をして泣かなければならないでしょうか。(ゼカリヤ書7:3)

でも、神様はゼカリヤにこう答えられました。

この国のすべての民と祭司たちに向かってこう言え。この七十年の間、あなたがたが、第五の月と第七の月に断食して嘆いたとき、このわたしのために断食したのか。

あなたがたが食べたり飲んだりするとき、食べるのも飲むのも、自分たちのためではなかったか。(5-6)

つまり、「あなたたちはその宗教的な儀式を行いましたが、心からではありませんでした。そのため、それは全く意味のないものとなり、ただのショーに過ぎませんでした。」

英語の「hypocrite」、つまり「偽善者」という言葉はギリシャ語に由来します。ギリシャ語では、「偽善者」という言葉は「舞台俳優」を意味します。

そのユダヤ人たちは俳優のような存在でした。彼らは敬虔な人々のように振る舞いましたが、実際には心からの敬虔さを持っていませんでした。

その結果、神様は彼らに対し、追放前に彼らの先祖に与えられた命令を思い起こさせました。

万軍の主はこう仰せられる。「正しいさばきを行ない、互いに誠実を尽くし、あわれみ合え。やもめ、みなしご、在留異国人、貧しい者をしいたげるな。互いに心の中で悪をたくらむな。」

それなのに、彼らはこれを聞こうともせず、肩を怒らし、耳をふさいで聞き入れなかった。(9-11)

神様はそのユダヤ人たちに警告されました。「あなたたちの先祖は自分の心を堅くし、その結果として追放されました。」

「呼ばれたときも、彼らは聞かなかった。そのように、彼らが呼んでも、わたしは聞かない」と万軍の主は仰せられる。(13)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。神様は私たちの敬虔な儀式に感動されるわけではありません。神様にとって重要なのは、私たちが日々どのように生きるかということです。

私たちはどのように周りの人々を扱うでしょうか。彼らに憐れみを与えているでしょうか。正義を求めているでしょうか。

3年ほど前、私は「アメイジング・グレイス」という映画を観ました。この映画は、ウィリアム・ウィルバーフォースについての物語です。彼はイギリスで奴隷貿易を廃止するために戦いました。

ウィルバーフォースが奴隷に情けを示したように、私たちも周りの人々に憐れみを示すべきです。それが神様の望みです。

私たちはウィルバーフォースのように全国的な影響を与えることはできないかもしれません。しかし、私たちは周りの人々に影響を与えることができます。家庭でも、職場でも、近所でも、私たちは人々に影響を与えられます。

周りの人々は私たちの中にキリストの憐れみを見ているでしょうか。それが神様の望みです。もしキリストの体である私たちが、周りの人々に愛と憐れみを示すなら、この世界全体が変わるでしょう。

だから、偽善者にならないようにしましょう。ただ教会に行き、聖書を読み、祈るだけではなく、神様の愛と憐れみで私たちの心を満たしましょう。そして、私たちはキリストのために、この世の人々に触れましょう。

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エゼキエル書

裁きの神、憐みの神

私は以前にも言いましたが、預言書を読むのは時々少し辛いものです。なぜなら、預言者のメッセージの大部分が裁きのメッセージだからです。

この箇所もそうです。イスラエルの長老たちは主に助言を求めるためにエゼキエルのもとを訪れました。しかし、彼らは心から主を求めてはいませんでした。

そこで、神様はエゼキエルにこう言われました。「彼らのために私からのメッセージはありません。

ただし、もしあなたが良ければ、彼らに自分たちの歴史を思い出させ、彼らの罪について気付かせてください。そして、どうして私が彼らに直接語らないのかを教えてください。」(エゼキエル書20:4-32)

それにもかかわらず、この箇所にはある重要な真理が繰り返し現れています。つまり、神様は憐れみ深い神です。神様がイスラエルの歴史について語られる際には、その真理が幾度となく現れます。

イスラエルの人々は何度も神様に反抗しましたが、神様は彼らを完全に滅ぼすことはされませんでした。むしろ、神様は彼らに憐れみを与えてくださったのです。

それは彼らの行動のゆえではなく、神様ご自身が憐れみ深いお方だからです。

何度も神様はこう言われました。「私の名のためにあなたを滅ぼさなかった。周りの国々が、たとえあなたが忠実でなくても、私が忠実であることを知るために、私はあなたを諦めなかった。

周りの国々が私が憐れみ深い神であることを知るために、私はあなたの罪を赦した。」

そして、イスラエルの人々が悔い改めるその日に、

わたしが、あなたがたの悪い行ないや、腐敗したわざによってでなく、ただわたしの名のために、あなたがたをあしらうとき、イスラエルの家よ、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。――神である主の御告げ――」(エゼキエル書20:44)

ダビデはこう書きました。

私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。(詩編103:10)

私はこの素晴らしい真理に喜びます。私は神様の裁きを受けるに値する者です。それでも、神様がイスラエルに憐れみを与えられたように、神様は私にも憐れみを与えてくださいます。

神様は私を暗闇の王国から救い出し、光の王国へと導いてくださいました。そのことを心から神様に感謝します。

神様、あなたが私の罪に従って私を扱われないことに感謝します。あなたは私を赦し、毎日私を新しく変え続けてくださっています。

どうか私が自分の罪を憎む者となれますように。そして、私があなたのように変えられますように。

さらに、あなたが私に憐れみを与えてくださったように、私も周りの人々に憐れみを示すことができますように。アーメン。

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エゼキエル書

曲がった正義感

「神様はフェアじゃない。」

人々がそんなことを言うのは、どこか皮肉なことです。なぜなら、神様は完璧で聖なる方だからです。一方で、私たちの心は罪によって堕落しています。

それでも、堕落した心を持つ私たちは、神様の裁きを批判して「これはフェアじゃない」と口にします。

90年代に、ジェフリー・ダーマーという殺人者がいました。彼の犯罪は非常に酷いものでした。けれども、彼は刑務所にいる間にクリスチャンとなりました。その後、他の囚人によって彼は殺されました。

そして、私はダーマーについてクリスチャンたちの様々な意見を目にしました。

死ぬ前、ダーマーはインタビューで自分の証しを語りました。そのインタビューを見たクリスチャンたちは、彼が本当に悔い改めたと考えました。

けれども、インタビューを見ていないクリスチャンたちは、彼をただのモンスターと見なしました。ある一人はこう言いました。

「神様がそんなに悪い犯罪者を赦すはずがありません。彼が心から悔い改めたはずはない。」

多くの人々はこの最後の意見に同意します。

けれども、そのような人々も、自分の罪によって苦しむ時、神様に文句を言います。「神様、どうして私を罰しているのですか。」

しかし、彼らはそのように文句を言いながら、自分の責任を見落としています。

イスラエルの人々もそのような態度をとっていました。そこで、神様は彼らにこう言われました。

あなたがたは、「主の態度は公正でない』と言っている。

さあ、聞け。イスラエルの家よ。わたしの態度は公正でないのか。公正でないのはあなたがたの態度ではないのか。

正しい人が自分の正しい行ないから遠ざかり、不正をし、そのために死ぬなら、彼は自分の行なった不正によって死ぬ。

しかし、悪者でも、自分がしている悪事をやめ、公義と正義とを行なうなら、彼は自分のいのちを生かす。

彼は反省して、自分のすべてのそむきの罪を悔い改めたのだから、彼は必ず生き、死ぬことはない。

それでも、イスラエルの家は、『主の態度は公正でない』と言う。

イスラエルの家よ。わたしの態度は公正でないのか。公正でないのはあなたがたの態度ではないのか。」(エゼキエル書18:25-29)

イスラエルの人々は苦しんでいたため、神様を不正義な方だと非難しました。けれども、彼らの罪が神様の裁きを招いたことを無視していました。

あなた自身はどうでしょうか。神様があなたを懲らしめるとき、あなたは怒りますか。それとも、神様が他の人々に憐れみを与えるとき、あなたは憤りますか。

神様が正義の方であることを常に覚えていてください。あなたは神様の決断に同意しないかもしれませんが、神様は常に正しいことをされます。

神様の決断が間違っているのではありません。歪んでいるのは、あなたの正義感です。

ですから、神様の御前でへりくだる心を持つよう努めましょう。周りの人々が悔い改めるなら、彼らに憐れみを示しましょう。また、神様があなたを懲らしめられるなら、悔い改めましょう。

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エゼキエル書

優しい方

時々、私たちが旧約聖書を読むと、神様を非常に厳しい方だと思うことがあります。また、私たちが失敗すると、神様はすぐに怒り、私たちを罰するのではないかと感じるかもしれません。

しかし、この箇所では、神様はいつか来られる優しい方について語っておられます。神様はこう言われました。

神である主はこう仰せられる。「わたしは、高い杉のこずえを取り、そのうちから、柔らかい若枝の先を摘み取り、わたしはみずからそれを、高くてりっぱな山に植える。

わたしがそれをイスラエルの高い山に植えると、それは枝を伸ばし、実を結び、みごとな杉の木となり、その下にはあらゆる種類の鳥が住みつき、その枝の陰に宿る。

このとき、野のすべての木は、主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、緑の木を枯らし、枯れ木に芽を出させることを知るようになる。

主であるわたしが語り、わたしが行なう。」(エゼキエル書17:22-24)

この預言には二つの成就があると考えられます。

一つ目の成就は、エホヤキンの孫であるゼルバベルの人生に見られます。

ゼルバベル(柔らかい若枝とも呼ばれる)と大祭司ヨシュアは、追放されていたイスラエル人たちをバビロンからエルサレムへ導きました。

(この時、イスラエル人全員が帰還したわけではありませんが、ゼルバベルとヨシュアは最初のグループを導きました。)

その後、ゼルバベルはユダの総督に任命されました。

神様の恵みによって枯れ木のようであったイスラエルは徐々に復活しました。一方、緑の木であったバビロンはメド・ペルシャ帝国によって低くされました。

とはいえ、二つ目の成就はイエス・キリストの人生に見られます。この箇所はイザヤ書53章の記述に似ています。

彼(つまり、イエス様)は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。(イザヤ53:2)

イエス様は高貴な家庭で育ったのではありません。彼は小さな町ベツレヘムで生まれ、普通の町ナザレで成長されました。

実際、多くの人々はナザレの人々を見下していました。また、イエス様の父親は貧しい大工であるヨセフでした。

その後、イエス様は十字架で死なれました。その時代において、十字架による死は最も恥ずかしく、残酷な死に方とされていました。

しかし、その後、イエス様はよみがえられました。そして、

それゆえ神は、この方(つまり、イエス様)を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリピ2:9-11)

この箇所には、「柔らかい枝」という表現が書かれています。

ヘブル語で「柔らかい」という言葉は、「優しい」とも翻訳できます。(例えば、申命記28:54)

そのため、この「柔らかい枝」は優しい方を指しています。そして、イエス様の恵みの翼の下に宿ることができるのです。

私たちの人生が枯れてしまった時、イエス様は命の水を与えてくださり、私たちをもう一度栄えるようにしてくださいます。

ですから、神様があなたに怒り、あなたを諦めたと思う時には、イエス様を心に留めておきましょう。

神様は私たちが神様の愛と恵みを知ることができるように、この優しい方であるイエス様をこの世に送りました。そして、イエス様の十字架の働きによって、私たちの壊れた人生は癒されるのです。

その真理を心に留めておきましょう。

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エレミヤ書 オバデヤ書

裁きの理由

なぜ私はエレミヤ書とオバデヤ書の箇所を混ぜているのでしょうか。それは、オバデヤ書を読むと、このエレミヤ書の箇所に似ているからです。

例えば、エレミヤとオバデヤは同じ表現とイメージを使っています。だから、多分オバデヤはエレミヤの言葉を知っていたかもしれません。また、エレミヤはオバデヤの言葉を知っていたかもしれません。

一人の聖書の著者が別の聖書の著者を引用することは珍しいことではありませんでした。

あるいは、神様はオバデヤにこう言われたのかもしれません。「エレミヤの言葉を覚えていますか。彼が言ったことをもう一度書きなさい。」(逆の可能性もあります。)

または、彼らがお互いの預言を知らなかったけれど、神様は彼らに同じメッセージを伝えられたのかもしれません。それも珍しいことではありません。

とにかく、神様はユダの周りの国々を裁いておられます。おそらく、エレミヤ書27ー29章の出来事が起こったとき、この預言が書かれたのでしょう。27ー29章では、エレミヤはその同じ国々に対してネブカデネザルに降伏するよう警告しました。

どうして神様はその国々を裁かれたのでしょうか。神様は3つの理由を示されました。

1.偽物の神を礼拝すること。例えば、モアブ人の神はケモシュでした。またアモン人の神はモレクでした。すべての国々は真の神に背を向けて、自分の神々を礼拝しました。

2.プライドのこと。神様はモアブについてこう言われました。

おまえは自分の作った物や財宝に拠り頼んだので、おまえまで捕らえられ[る]。。。

私たちはモアブの高ぶりを聞いた。実に高慢だ。その高慢、その高ぶり、その誇り、その心の高ぶりを。「わたしは、彼の高ぶりを知っている。――主の御告げ――

その自慢話は正しくない。その行ないも正しくない。」(エレミヤ書48:7、29ー30)

アモンについて神様はこう言われました。

裏切り娘よ。あなたの谷には水が流れているからといって、なぜ、その多くの谷を誇るのか。あなたは自分の財宝に拠り頼んで、言う。「だれが、私のところに来よう。」(エレミヤ書49:4)

神様はエドムにこう言われました。

あなたの心は高慢だ。あなたが鷲のように巣を高くしても、わたしは、そこから引き降ろす。(エレミヤ書49:16)

そして、神様がケダルとハツォルという国について話されたとき、神様はネブカデネザルに命じられました。

さあ、安心して住んでいるのんきな国に攻め上れ。――主の御告げ。。。(エレミヤ書49:30-31)

3.その国々は、憐れみと情けを全然知らなかったこと。イスラエルが倒れたとき、モアブ人はイスラエル人をからかいました(エレミヤ書48:27)。

また、アモン人は追放されたイスラエル人の土地を奪いました(エレミヤ書49:1)。

そして、エドム人はイスラエル人の「兄弟」なのに、イスラエルが攻撃されたとき、エドムは全然助けませんでした。むしろ、イスラエルが倒れたとき、エドム人たちは喜んでいました。(オバデヤ12-13)

(エドムはエサウの子孫でした。イスラエル人はエサウの弟ヤコブの子孫でした。)

偶像礼拝。プライド。情けと憐れみのない心。あなたはそのような罪を犯すでしょうか。

仏壇を拝むでしょうか。もしくは、すべてのことよりもお金を大事にするでしょうか。あなたが一番大事にするものは、あなたの神です。

プライドはどうでしょうか。あなたは何に信頼するでしょうか。自分自身を信頼するでしょうか。それとも神様を信頼するでしょうか。

ナルニア国物語の著者C・S・ルイスはこう言いました。

「プライドは一番悪い罪です。ほかの罪よりも、プライドは私たちを神様から遠ざけるからです。なぜなら、プライドによって、私たちは神様がいらないと思うからです。そのプライドによって、私たちは神様に背を向けます。」

あなたには情け深くて、憐れみ深い心があるでしょうか。パリサイ人と律法学者にはそのような心がありませんでしたので、イエス様は彼らを厳しく批判されました。イエス様はこう言われました。「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。」

パリサイ人と律法学者は神様を愛していると言いましたが、周りの人々を愛していませんでした。

あなたはどうでしょうか。あなたの周りの人々を愛しているでしょうか。それとも自分自身のことだけを考えるでしょうか。

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エレミヤ書

クロスロード(四つ辻)

私はクロスロードという教会のメンバーです。いろいろな意味で、その名前は本当にふさわしいです。

教会の一番近い駅は乗換場所です。それに、私たちは国際的な教会です。いろいろな国から、人々が私たちの教会に来てくださいます。

また、教会として、私たちは周りの人々に霊的な四つ辻となっています。つまり、人々が私たちの教会に来ると、彼らはイエス・キリストに従うかどうか選択しなくてはならないからです。

もちろん、彼らが初めて来た日には、そのような決断をする必要はありません。けれども、毎週来るようになると、最終的に彼らはご自身でイエス様に従って生きるかどうかを決断するようになります。

エレミヤはユダヤ人たちにそのような決断をするよう促しました。

「神様に従われますか。従われないですか。どうぞ決断してください。」

エレミヤはこう言いました。

主はこう仰せられる。「四つ辻に立って見渡し、昔からの通り道、幸いの道はどこにあるかを尋ね、それを歩んで、あなたがたのいこいを見いだせ。」(エレミヤ書6:16a)

神様は何を言われているでしょうか。

「あなたは選択しなくてはなりません。こちらの方に行くのか、そちらの方に行くのかを決めなさい。

アブラハム、イサク、ヤコブ、そして他の信仰のある人々が歩いた道を求めなさい。それは幸いの道です。その道を行くと、平和を見つけることができます。」

しかし、ユダヤ人たちはこう答えました。

そこを歩まない。(16b)

頑固な心。堅い心。ユダヤ人たちはそのような心を持っていました。

神様はエレミヤや他の預言者たちをユダヤ人たちに警告するために送りましたが、彼らはこう言いました。

「私たちは」注意しない。(17b)

だから、エレミヤはユダヤ人たちについてこう言いました。

私はだれに語りかけ、だれをさとして、聞かせようか。

見よ。彼らの耳は閉じたままで、聞くこともできない。

見よ。主のことばは、彼らにとって、そしりとなる。彼らはそれを喜ばない。(10)

その結果は?裁きです。

私が昨日のブログを英語で書いた時、Facebookで、そのブログからこの部分を書きました。

「皆は神様の愛とあわれみについて聞くのが好きです。しかし、だれも裁きについて聞きたくありません。」

ある人々は「いいね」とクリックしました。けれども、それを見た時、彼らが私の意味を理解しただろうかと思いました。

私が言いたかったのは、「神様の愛とあわれみは福音の一方だけです。しかし、もう一方があります。つまり、裁きです。」

けれども、ある人々は私の意味を誤解したかもしれません。彼らはこのように思ったかもしれません。

「私たちは神様の愛とあわれみだけを伝えた方が良いです。神様の裁きについて話さない方が良いです。」

偽物の預言者たちや祭司たちはそうしました。神様は彼らについてこう言われました。

彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている。(14)

宣教師であるジム・エリオットは、こう祈りました。

私が一つの道の里程標にならないように。むしろ、私が分岐点になるように。人々が私に会うと、彼らがイエス・キリストを見て、イエス様に従うか従わないかを決めるように。

あなたはどうですか。あなたは里程標であるだけでしょうか。それとも、あなたは分岐点でしょうか。

もう一度言います。人々が私たちに初めて会った時、私たちが「今、決めなさい」と言う必要はありません。

しかし、もし私たちと長く知り合っているなら、彼らはその決断のポイントに来るはずです。

彼らがそのポイントに決して来ないのであれば、多分私たちは神様から与えられた仕事を忠実に行っていないのかもしれません。あなたはその仕事をしているでしょうか。

ある人々は福音のメッセージを拒絶するかもしれません。けれども、ある人々はそれを聞いて救われます。だからこそ、神様の福音を伝え続けましょう。

私たちがただイエス様への道を指さすだけで終わらないように。むしろ、私たちが人々をその分岐点に導くように。

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イザヤ書

神様の前にへりくだっている?神様の前に低くさせられる?

今日、やっとイザヤ書を読み通すのを完成しました。

この箇所では、神様は正しい者と悪者の区別を説明しておられます。

正しい者とはどのような人でしょうか。

神様はこう言われます。

わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。(イザヤ書66:2)

正しい者はへりくだっています。

その人はすべてのことを知らないことを認めます。その人は自分の罪と弱さをよく知っています。そして、罪を犯すと、すぐに悔い改めます。

さらに、その人は神様の言葉を軽く考えず、その言葉におののきます。なぜなら、その言葉は命の言葉だからです。

悪者とはどのような人でしょうか。神様はこう言われます。

実に彼らは自分かってな道を選び、その心は忌むべき物を喜ぶ。。。

わたしが呼んでもだれも答えず、わたしが語りかけても聞かず、わたしの目の前に悪を行ない、わたしの喜ばない事を彼らが選んだからだ。」(3-4)

悪者は神様の言葉を侮ります。彼らはその言葉がもう時代遅れだと思います。そのため、神様の言葉を無視し、罪を犯します。

それだけではなく、彼らは神様に従う者をからかいます。けれども、結局彼らは恥ずかしい思いをし、その罪の結果を受けます。(5、6)

その一方、正しい者は喜びます。彼らは神様からの平和と慰めと満足と祝福を知っています。(10-14)

そして、神様は追放から戻ったイスラエル人についてこう言われました。

[彼らを]諸国に遣わす。。。これらはわたしのうわさを聞いたこともなく、わたしの栄光を見たこともない。彼らはわたしの栄光を諸国の民に告げ知らせよう。

彼らは、すべての国々から、あなたがたの同胞をみな、主への贈り物として。。。わたしの聖なる山、エルサレムに連れて来る。。。

わたしは彼らの中からある者を選んで祭司とし「ます」。(19~21)

そのように、私たちクリスチャンは神様の栄光を国々に伝えるべきです。私たちは人々を神様に導くべきです。そうすれば、私たちが触れた人々も神様の祭司としもべになります。

しかし、もう一つのことを覚えていなくてはなりません。裁きの日に、天と地が新しくなり、皆は神様の前に平伏します。(23)

その日、あなたは、へりくだって神様の前に来るでしょうか。それとも、神様の前に低くさせられるのでしょうか。へりくだって、悔い改めた心のある人々に、神様は赦しといつまでも続く名前を与えてくださいます。

けれども、神様に背いた人々は低くされます。イザヤは彼らについてこう言われました。

そのうじは死なず、その火も消えず、それはすべての人に、忌みきらわれる。(24)

だから、その日が来る前に神様の前にへりくだりましょう。そうすれば、あわれみを知ることができます。そうすれば、永遠の命を知ることができます。

他の方法はないのです。

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イザヤ書

今日の祈り

この祈りが大好きです。

主よ。私たちをあわれんでください。私たちはあなたを待ち望みます。

朝ごとに、私たちの腕となり、苦難の時の私たちの救いとなってください。(イザヤ書33:2)

この箇所は私の心の中に深く響いています。

主よ、私たちをあわれんでください。

主よ、私たちは毎日あなたの憐れみを必要としています。私は毎日失敗したり、罪を犯したりして、あなたを悲しませてしまいます。どうか赦してください。憐れんでください。

そして、この憐れみを受けた私が、周りの人々にその受けた憐れみを与えることができるように助けてください。

私たちはあなたを待ち望みます。

主よ、私の魂はあなたを慕いあえぎます。私の人生にもっともっとあなたを求めています。どうか私の心があなたを求め続けるようにしてください。そして、私の心を一つにしてください。

朝ごとに、私たちの腕となってください。(腕は力のシンボルです。)

主よ、毎朝私が目覚めるとき、私の力となってください。

試練に直面するとき、私の力となってください。難しい人と向き合うとき、私の力となってください。大変な状況に立ち向かうとき、私の力となってください。そして、今日、私とともに歩んでください。

苦難のとき、私たちの救いとなってください。

主よ、私が心配の重荷を抱えているときに助けてください。敵が迫ってくるとき、私の救い主となってください。

主よ、私は弱い者です。自分の力では敵と戦うことができません。どうか悪から私をお救いください。そして、私がその悪を乗り越えることができるように助けてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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ミカ書

神様の怒りと憐れみ

ある人々は「旧約聖書の神」を批判します。(「旧約聖書の神」と「新約聖書の神」は実際には同じ方であるにもかかわらず。)

彼らはこう言います。「旧約聖書の神は憐れみの神ではなく、怒りの神です。」

けれども、そのような主張をする人々は旧約聖書を慎重に読んでいないように感じます。彼らは神様の怒りの例を頻繁に見る一方で、なぜか神様の憐れみの例には目を向けようとしないのです。

(皮肉なことに、その人々が新約聖書を読む際には、神様の憐れみの例をよく見るものの、神様の怒りの例はほとんど見ていないようです。)

このミカ書の箇所では、神様の怒りの例と憐れみの例の両方を見ることができます。9節にはこのように記されています。

私(つまり、イスラエル)は主の激しい怒りを身に受けている。私が主に罪を犯したからだ。(ミカ書7:9)

ある人々はこの箇所を読み、こう言います。「ほら、これが神様の怒りだよ。私が罪を犯すと、神様はすぐに私を罰すると書いてあるじゃないか。」

とはいえ、その箇所の最後の部分にも目を向けてください。

しかし、それは、主が私の訴えを取り上げ、私を正しくさばいてくださるまでだ。主は私を光に連れ出し、私はその義を見ることができる。

この箇所を読むとき、私はパウロの言葉を思い起こします。

神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。

罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。(ローマ書8:33-34)

このミカ書の箇所とローマ書の箇所に基づくと、神様は私たちの裁判官であるだけでなく、私たちの弁護士でもあるのです。もし私たちがイエス様に属しているなら、イエス様は私たちの隣に立ち、とりなしをしてくださいます。

その時、イエス様はこのように言われることでしょう。

「父よ、私はこの人の罪のためにすでに支払いました。私の血によって、彼の債務は完全に支払われました。」

そして、神様はこう言われます。

「そうだ。それは真実だ。正義は成し遂げられた。あなたの罪は赦され、あなたは自由だ。」

このミカ書の最後の部分は本当に素晴らしいと思います。

あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは、咎を赦し、ご自分のものである残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです。

もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください。(18-19)

この箇所で描かれる神様の姿が本当に素晴らしいと思います。

神様は私たちの罪のゆえに私たちを踏みつけることはされません。むしろ、神様は私たちの罪そのものを踏みつけてくださるのです。

神様は私たちを鎖で縛り、船から海の深みに投げ入れることはされません。むしろ、神様は私たちの罪を包み、海の深みに投げ入れてくださるのです。

この方こそ私たちの神です。怒りの神であるだけでなく、憐れみの神でもあるのです。

ミカはこう言いました。

昔、私たちの先祖に誓われたように、真実をヤコブに、いつくしみをアブラハムに与えてください。(20)

神様がヤコブとアブラハムに真実と憐れみを与えられたように、神様は私たちにも真実と慈しみを与えてくださいます。神様はそのように誓われました。(ヘブル6:13-20)

だから、ヨハネはこう書きました。

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

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イザヤ書

兄弟のための思いやり

兄弟の憎しみは他の憎しみよりも大変なことです。なぜなら、私たちは自分の兄弟からもっと期待するものだからです。

モアブ人はイスラエル人ともっと親しい関係があるべきでしたが、全然親しくありませんでした。

彼らの先祖はアブラハムとロトでした。アブラハムはロトのおじでした。そして、アブラハムの子孫たちはイスラエル人で、ロトの子孫はモアブ人でした。

それでも、その二つの国の関係は大部分において悪いものでした。

そして、この箇所で神様はモアブを裁かれました。しかし、イザヤのモアブへの裁きに対する反応は、他の国々の裁きに対する反応と違いました。

イザヤは言いました。

わたしの心はモアブのために叫ぶ。。。

それゆえ、わたしのはらわたはモアブのために、わたしの内臓はキル・ヘレスのために立琴のようにわななく。(イザヤ書15:5;16:11)

どうしてイザヤは、イスラエルとユダの敵のために泣いていたのでしょうか。多分彼らは兄弟のはずだったからです。だからモアブはユダやイスラエルと仲良くないのに、イザヤはまだその人々を愛していました。

イザヤはモアブ人に、「保護のためにユダに行ってください」と言いました。

そして、ユダ人にイザヤは言いました。「モアブ人を受け入れて、保護してください。」

また、イザヤはモアブ人を慰めようとしました。彼は言いました。

「しいたげる者(アッシリヤ人)は死にます。もしあなたがユダに行ったら、あなたは安全と正義を見つけることになるでしょう。」(イザヤ書16:1ー4)

そしてイザヤは言いました。

一つの王座が恵みによって堅く立てられ、さばきをなし、公正を求め、正義をすみやかに行なう者が、ダビデの天幕で、真実をもって、そこにすわる。(イザヤ書16:5)

つまり、彼らには一つの希望しかありませんでした。それは、将来のエルサレムを治められる救い主です。

残念なことに、モアブ人はイザヤの言葉を無視しました。だからイザヤは彼らに言いました。

雇い人の年期のように、三年のうちに、モアブの栄光は、そのおびただしい群衆とともに軽んじられ、残りの者もしばらくすれば、力がなくなる。(イザヤ書16:14)

この箇所を読むと、私たちを憎む人々に対する思いやりの必要を思い出します。

時々親友は私たちを裏切ります。しかし、彼らが苦しむ時、私たちは喜ぶべきではありません。むしろ私たちは彼らのために祈るべきです。

そしてイザヤのように、私たちは彼らに「イエス様に向かってください」と願うべきです。また、彼らのただ一つの希望はイエス様にあることを伝えるべきです。

あなたはどうですか。あなたを憎む人々が苦しむ時に、あなたは喜ぶでしょうか。それとも泣くでしょうか。

「彼らが苦しんで良かった」と言いますか。それとも彼らの癒しのために祈るでしょうか。

イエス様は私たちに教えられました。

自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:44)

イエス様にとっては、それは言葉だけではありませんでした。イエス様はその言葉に従われました。十字架で死にかけているときにも、イエス様はご自身の敵のために祈られました。

その愛によって、イエス様を信じる私たちは救われました。

私たちも、その受けた憐れみを、私たちを傷つけた人々に与えるように。

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ヨナ書

憐みを喜ぶ神

ヨナはニネベに神様からのメッセージを伝えた時、どのような態度だったでしょうか。

時折、アメリカでゲイのパレードや集会の際に、クリスチャンが「あなたは地獄に行く」と書かれた看板を持つ光景を見ることがあります。

ヨナもそのような態度を持っていたのでしょうか。彼が「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる」と伝えた時、心の中で「地獄に行け」と思っていたのかもしれません。

興味深い点として、ある学者はヨナのメッセージに「悔い改めなさい」という言葉が含まれていないことに注目しています。本当にヨナがその言葉を言わなかったのかは分かりませんが、4章を読むとその可能性を考えることができるでしょう。

また、ヨナの父の名前はアミタイで、「真実」を意味します。ヨナは「真実」の子であったかもしれませんが、「憐れみ」の子ではなかったのです。

そのため、ニネベの人々が悔い改めると、ヨナは深く失望しました。彼は「その悔い改めは遅すぎたのではないか。神様はまだ彼らを罰するかもしれない」とさえ思ったかもしれません。

それでヨナはニネベを出て、座り込みながら、神様がソドムとゴモラを滅ぼしたようにニネベを滅ぼすのを待ち望みました。

けれども、時が経つにつれ、ヨナの心には苦々しい思いが増していきました。彼は次第に理解したのです。「神様はニネベの人々に憐れみを与えてくださる。」

神様はユニークな方法でヨナに憐れみについて教えられました。

神様はヨナのために一本のとうごまを備えられました。それは奇跡的に早く成長し、ヨナはその陰で大いに喜びました。

ところが、一匹の虫が現れ、そのとうごまを噛んだため、とうごまはすぐに枯れてしまいました。

その後、非常に暑い天候が続いたことで、ヨナは神様に叫びました。

私は生きているより死んだほうがましだ。(ヨナ書4:8)

神様はヨナに訊かれました。

このとうごまのために、あなたは当然のことのように怒るのか。(9a)

ヨナはこう答えました。

私が死ぬほど怒るのは当然のことです。(9b)

神様はそれを聞いて答えられました。

「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。

まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」(10-11)

つまり、「あなたはそのとうごまを造るために何もしていないにもかかわらず、それをそんなに大切に思っていますね。

一方、ニネベには十二万以上の人々がいて、彼らは私や私の心について何も知らず、彼らの罪のために滅びなければならないと考えていました。

しかし、私はこのニネベの人々を造りました。彼らは私の大切な被造物ですから、私は彼らを深く愛しています。どうしてあなたは私の思いを理解できないのでしょうか。」

ヨナはヨナ書の著者であるため、神様の御心を最終的に理解したのかもしれません。

けれども、私たちはどうでしょうか。

ヨナのように、ある人々が地獄に行くことを喜ぶでしょうか。それとも、神様のように、彼らのために涙を流し、彼らの救いのために尽力するでしょうか。

彼らが悔い改めたとき、私たちは怒るでしょうか。それとも喜ぶでしょうか。

中には、ヨナのように真実だけを喜ぶ人もいます。その結果、彼らは「あなたは地獄に行く」と叫びながら喜びます。

しかし、神様はそのような方ではありません。神様は憐れみを喜ばれるのです。だから、私たちも憐れみを喜ぶ者であるべきです。

あなたはそのようにできるでしょうか。