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コリント人への手紙第一のデボーション

裁きと懲らしめの違い

コリント人たちの一つの問題は、聖餐式において主とその十字架の御わざを祝いながら、キリストのからだを軽んじてしまったことです。つまり、彼らは貧しいクリスチャンたちに恥ずかしい思いをさせていたのです。

そのため、あるコリント人たちは主によって裁かれ、病気になったり、亡くなったりしました(コリント人への手紙第一11:22、30)。

それは本当に厳しい裁きであったため、パウロはコリント人たちに警告します。「そのような裁きを避けるために、聖餐式を受ける前に、自分の心を吟味しなさい」(28、31)。

神様の懲らしめが厳しいときもあります。しかし、覚えておきましょう。私たちが主から受ける懲らしめは、この世が受ける裁きとは異なります。

パウロはこう言いました。

私たちがさばかれるとすれば、それは、この世とともにさばきを下されることがないように、主によって懲らしめられる、ということなのです。(コリント人への手紙第一11:32)

主から私たちが受ける懲らしめがどんなに厳しくても、それは永遠の死に至るものではありません。その意味で、私たちは主の怒りを恐れる必要はありません。

しかし、覚えておきましょう。神様は私たちの罪を軽んじられません。だから、私たちも自分の罪を軽んじてはなりません。そうでなければ、神様の懲らしめが非常に苦しいものとなることがあります。その意味で、私たちは主を恐れるべきです。

もちろん、神様は私たちを愛しておられます。しかし、それは私たちが主の懲らしめを免れるという意味ではありません。だから、ヘブル人への手紙の著者の言葉を覚えておきましょう。

わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。 主に叱られて気落ちしてはならない。

主はその愛する者を訓練し、 受け入れるすべての子に、 むちを加えられるのだから。(へブル12:5ー6)

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マタイの福音書 マタイ23章

神様に遣わされた人々を拒絶すると

叱られるのが好きな人は誰もいません。

「君は間違っている」と言われるのが好きな人もいません。

では、そう言われたとき、あなたはどう反応するでしょうか。

パリサイ人たちは彼らの先祖たちの例に従いました。彼らは懲らしめられたとき、その言葉に耳を貸さず、悔い改めることもせず、神様に遣わされた人々を攻撃しました。

彼らはイエス様に反対し、殺してしまいました。その後、彼らは弟子たちに反対し、彼らを殺そうとしました。それでも彼らはこう言いました。「私たちが自分の先祖なら、私たちは決して預言者たちを殺さなかっただろう。」

だから、イエス様は彼らにこう言われました。

蛇よ。まむしの子孫よ。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうして逃れることができるだろうか。

だから、見よ。私は預言者、知者、律法学者を遣わすが、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して回る。

それは、義人アベルの血から、神殿と祭壇の間でおまえたちが殺した、バラキヤの子ザカリヤの血まで、地上で流される正しい人の血が、すべておまえたちに降りかかるようになるためだ。

まことに、おまえたちに言う。これらの報いはすべて、この時代の上に降りかかる。(マタイの福音書23:33-36)

それで、イエス様は泣いて、こう言われました。

エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。

見よ。おまえたちの家は、荒れ果てたまま見捨てられる。わたしはおまえたちに言う。

今から後、「祝福あれ、主のみ名によって来られる方に」とおまえたちが言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない。」(37-39)

最終的にそれは起こりました。イエス様を殺した世代の人々が生きているうちに、イスラエルは滅び、その神殿が破壊され、今なお再建されていません。

私たちが神様に遣わされた人々を拒絶すると、何が起こるでしょうか。私たちの人生は崩れ去り、私たちは裁かれます。

神様はそれを見て、決して喜ばれることはありません。神様はそれを見て、泣かれるのです。けれども、私たちが自分の主としてイエス様を認めるまで、私たちは決して命と平和を知ることができません。

ソロモンはこう記しました。

愛する者が傷つけるのは誠実による。(箴言27:6)

真実は厳しいかもしれません。真実を聞くのは辛いかもしれません。しかし、真実を受け入れると、私たちは癒されます。

あなたが叱られるとき、どう反応するでしょうか。

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詩篇

人々を裁く神、私たちを懲らしめてくださる神

裁きか懲らしめか。私たちの人生に悪いことが起きる時、神様がそのどちらかをしているのではないかと、私たちは混乱することがあります。

だから、私たちが「神様が私を裁いて、罰している」と考えるのは簡単なことです。

けれども、神様はそのように考えておられるでしょうか。

詩篇94篇では、裁きと懲らしめの違いを見ることができます。裁きは神様を拒絶する人のためですが、懲らしめは神様の民のためです。

この詩篇の最初の部分では、詩人は神様が悪者を裁くように祈ります。

地をさばく方よ。立ち上がってください。高ぶる者に報復してください。

主よ。悪者どもはいつまで、いつまで、悪者どもは、勝ち誇るのでしょう。(詩篇94:2-3)

そして、詩人は悪者の行動について話します。その人は「神様は私の罪を見ない」と思っています。

だから、詩人は彼らを責めます。

気づけ。民のうちのまぬけ者ども。愚か者ども。おまえらは、いつになったら、わかるのか。

耳を植えつけられた方が、お聞きにならないだろうか。目を造られた方が、ご覧にならないだろうか。

国々を戒める方が、お責めにならないだろうか。人に知識を教えるその方が。

主は、人の思い計ることがいかにむなしいかを、知っておられる。(8-11)

そして、彼らについて詩人はこう言います。

主は彼らの不義をその身に返し、彼らの悪のゆえに、彼らを滅ぼされます。われらの神、主が、彼らを滅ぼされます。(23)

けれども、神様の子供が罪を犯したら、神様はどうされるでしょうか。神様はどのようにその罪を扱われるでしょうか。

主よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに、戒められ、あなたのみおしえを教えられる、その人は。

わざわいの日に、あなたがその人に平安を賜わるからです。その間に、悪者のためには穴が掘られます。

まことに、主は、ご自分の民を見放さず、ご自分のものである民を、お見捨てになりません。(12-14)

この詩篇によって、私たちは神様の懲らしめについて二つのことを学びます。

一つ目は、神様は私たちの益のために懲らしめてくださるということです。神様は私たちを苦しませるために懲らしめるのではなく、私たちを苦しみから守るために懲らしめてくださいます。

二つ目は、私たちがどんなに失敗しても、神様は私たちを決して見捨てないことです。

それに、神様は私たちを擁護してくださいます。詩人はこう歌いました。

だれが、私のために、悪を行なう者に向かって立ち上がるのでしょうか。だれが、私のために、不法を行なう者に向かって堅く立つのでしょうか。

もしも主が私の助けでなかったなら、私のたましいはただちに沈黙のうちに住んだことでしょう。

もしも私が、「私の足はよろけています」と言ったとすれば、主よ、あなたの恵みが私をささえてくださいますように。

私のうちで、思い煩いが増すときに、あなたの慰めが、私のたましいを喜ばしてくださいますように。(16-19)

つまり、悪者が私たちを攻める時、神様は私たちを擁護してくださいます。サタンが私たちを責める時、神様は私たちを擁護してくださいます。

だから、詩人はこう書きます。

彼らは、正しい者のいのちを求めて共に集まり、罪に定めて、罪を犯さない人の血を流します。

しかし主は、わがとりでとなり、わが神は、わが避け所の岩となられました。(21-22)

だから、神様の子供として、神様の裁きと神様の懲らしめを取り違えないようにしましょう。

私たちが罪を犯すと、神様は私たちを懲らしめてくださいます。しかし、それは私たちに損害を与えるためではなく、私たちの益のためです。

神様は私たちを滅ぼそうとは思っておられません。私たちを救いたいと望んでおられます。だから、覚えておきましょう。あなたがどんなに失敗しても、神様は私たちを決して見捨てません。

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詩篇

神様が私たちを懲らしめると

この詩篇のタイトルによれば、この詩篇は「主の家を捧げる歌」でした。

多分、自分のプライドによってダビデがイスラエルの人口を数えた罪を犯した後、彼はこの詩篇を書きました。(歴代誌第一21章;歴代誌第二3章1節)

神様はその罪のために、ダビデとイスラエルを懲らしめられました。つまり、イスラエルに疫病を下されました。聖書には書かれていませんが、その時、多分ダビデも病気になったと思います。

詩篇30篇では、私たちは神様からの懲らしめに対するダビデの反応を見ます。

ダビデは癒された後、神様を賛美しました。

主よ。私はあなたをあがめます。あなたが私を引き上げ、私の敵を喜ばせることはされなかったからです。

私の神、主よ。私があなたに叫び求めると、あなたは私を、いやされました。

主よ。あなたは私のたましいをよみから引き上げ、私が穴に下って行かないように、私を生かしておかれました。(詩篇30:1-3)

そして、ダビデは、なぜ神様が彼を打たれたのか説明します。

私が栄えたときに、私はこう言った。「私は決してゆるがされない。」(6)

その時、ダビデの安心は神様から来ませんでした。むしろダビデは、自分の力と自分の軍隊を信頼しました。だから、彼はその兵隊を数えました。

けれども、ダビデが懲らしめられた後、ダビデは本当の安全がどこから来るか分かるようになりました。

主よ。あなたはご恩寵のうちに、私の山を強く立たせてくださいました。あなたが御顔を隠され、私はおじ惑っていましたが。(7)

だから、ダビデは主の前にへりくだりました。彼は振り返る時、こう言いました。

主よ。私はあなたを呼び求めます。私の主にあわれみを請います。

私が墓に下っても、私の血に何の益があるのでしょうか。ちりが、あなたを、ほめたたえるでしょうか。あなたのまことを、告げるでしょうか。

聞いてください。主よ。私をあわれんでください。主よ。私の助けとなってください。(8-10)

神様はダビデの悔い改めを見られ、ダビデを憐れんで、赦してくださいました。だから、ダビデは神様を賛美しました。

あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました。

私のたましいがあなたをほめ歌い、黙っていることがないために。私の神、主よ。私はとこしえまでも、あなたに感謝します。(11-12)

私たちは何を学ぶことができますか。

まず、何かをはっきりと言いたいです。

もしあなたが病気なら、神様はあなたの罪のために懲らしめておられるかもしれませんが、そうではない時もあります。

例えば、ヨブは本当に苦しんでいましたが、その時、神様は彼を罰しておられませんでした。他の理由のために彼は苦しんでいました。

とはいえ、時々、私たちが悪い道を行き始めると、神様は病気を通して私たちを止めてくださいます。

だから、あなたが病気の時、またあなたにトラブルがある時、「神様、私の心の中には罪があるでしょうか」と祈った方が良いです。

そして、神様があなたの罪を表されたら、ダビデのようにへりくだって悔い改めなければなりません。けれども、神様が何も表さないなら、多分その病気やトラブルには他の原因があります。

なぜ私はそう考えるのでしょうか。なぜなら、神様は私たちが苦しむことを喜ばれないからです。もし、私たちが悔い改めるために苦しみを送られたなら、私たちが悔い改めると、神様はすぐに赦してくださいます。

神様は「もし、自分の罪が分からないなら、私はあなたに伝えない」と全然言われません。

また、神様は「あなたがこの経験から学んで、もうその罪を犯さないためにあなたをもっと苦しませよう」と言われません。

むしろ、ダビデはこう書きました。

まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。

夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。(5)

思い出しましょう。神様は私たちを憎むので懲らしめるわけではなく、私たちを愛しておられるので、懲らしめられます。

だから、懲らしめられる時、へりくだって悔い改めましょう。

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エレミヤ書

裁きと懲らしめ

エレミヤはこの箇所を書いた時、ネブカデネザルは周りの国々を脅していました。彼はユダを脅しましたし、エジプトも脅しました。

この箇所では、神様はエジプト人とペリシテ人への裁きについて話しておられます。神様は、エジプトを通してペリシテは倒れるが、バビロンを通してエジプトは倒れると言われました。

神様は国々を裁くために、そのようなパターンをよく用いられます。

けれども、その裁きのメッセージの間に、神様はユダにこう言われました。

わたしのしもべヤコブよ。恐れるな。イスラエルよ。おののくな。見よ。わたしが、あなたを遠くから、あなたの子孫を捕囚の地から、救うからだ。

ヤコブは帰って来て、平穏に安らかに生き、おびえさせる者はだれもいない。わたしのしもべヤコブよ。恐れるな。――主の御告げ――

わたしがあなたとともにいるからだ。わた しは、あなたを追いやった先のすべての国々を滅ぼし尽くすからだ。わたしはあなたを滅ぼし尽くさない。

公義によって、あなたを懲らしめ、あなたを罰せずに おくことは決してないが。(エレミヤ書46:27ー28)

この箇所では、私は、神様がご自身の者と他の人々を区別されることに気づきます。

神様の者でなければ、裁きが来ます。そして、その裁きは確かなものです。

しかし、神様はご自身の者を決して捨てられません。神様は私たちを懲らしめられるかもしれませんが、時にはその懲らしめが非常に厳しいこともあります。

それでも、神様はいつも私たちの悔い改めのために働いておられます。そして、私たちがどんなに失敗しても、神様は私たちと共におられることを約束されます。

あなたの罪のため、神様があなたを罰していると思うかもしれません。また、神様があなたをもう諦めたと思うかもしれません。

しかし、イエス様があなたの主であるならば、あなたは神様の子です。そして、神様はあなたにこう言われます。

わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。(へブル13:5)

だから、

主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。

主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。。。

なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。

すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。(へブル12:5ー6,10ー11)

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イザヤ書

祝福を得るために打たれた。人々を祝福するために打たれた。

子供の時に、私はよくしつけられました。もちろん、それは楽しい思い出ではありません。けれども、振り返ると、私は父に感謝しています。なぜなら、そのしつけによって私は人として成長したからです。

そのように神様は私たちをしつけられます。しかし、多くの人々のイメージと違って、神様は怒りの神ではありません。むしろ、神様は私たちを祝福したいと思っておられます。

この箇所の最初の部分では、モーセの時代のように、神様はエジプトを厳しく裁いておられました。けれども、急に神様のトーンが変わります。

その日、エジプトの国には。。。万軍の主に誓いを立てる五つの町が起こり。。。彼らがしいたげられて主に叫ぶとき、主は、彼らのために戦って彼らを救い出す救い主を送られる。

そのようにして主はエジプト人にご自身を示し、その日、エジプト人は主を知り。。。主はエジプト人を打ち、打って彼らをいやされる。

彼らが主に立ち返れば、彼らの願いを聞き入れ、彼らをいやされる。(イザヤ書19:18,20-22)

それだけではなく、神様はエジプトの敵アッシリヤ人の心の中に働くと約束されました。そしてエジプト人とアッシリヤ人に関して、神様はこう言われました。

その日、エジプトからアッシリヤへの大路ができ、アッシリヤ人はエジプトに、エジプト人はアッシリヤに行き、エジプト人はアッシリヤ人とともに主に仕える。

その日、イスラエルはエジプトとアッシリヤと並んで、第三のものとなり、大地の真ん中で祝福を受ける。(23-24)

この箇所を読んだ時、ちょっと驚きました。なぜなら、普通は神様はイスラエルだけに関してそのような言葉を言われるからです。けれども、この箇所によると、神様に戻る人々全てを神様は受け入れてくださいます。

もちろん、私たちが罪を犯すと神様は私たちを打たれます。とはいえ、神様の望みは、私たちが悔い改めることです。そうすれば、神様は私たちを癒してくださいます。

それだけではなく、神様は私たちを祝福したいと思っておられます。そして、神様は私たちが周りの人々に対して祝福になることを望んでおられます。

神様は今あなたを懲らしめておられるでしょうか。あなたの罪によって、あなたの状況は辛いでしょうか。

神様に向かって悔い改めましょう。神様は私たちを打ちたくはありません。むしろ、私たちを祝福したいと思っておられます。

私たちが周りの人々に対して呪いになることを望んでおられません。むしろ、私たちが周りの人々に対して祝福になることを望んでおられます。

だから、へブル人への手紙の著者の言葉を覚えておきましょう。

主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。

主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。(へブル12:5-6)