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マタイの福音書のデボーション

子どもの心

イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、あなたがたに妻を離縁することを許したのです。しかし、はじめの時からそうだったのではありません。(マタイの福音書19:8)

天のお父さん、私が単に「何が許されているのか」に基づいて決断することがないようにしてください。

特に、私の心の頑なさのゆえに、あなたが最善だと言われることを拒んでしまうときです。

どうか私に子どもの心――柔らかい心、あなたを信じる心――を与えてください。

「何が許されているのか」と尋ねるのではなく、むしろ「私の良いお父さんが何を願っておられるのか」と尋ねる者としてください。

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マタイの福音書のデボーション

新しいことを抱く心

それから、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「私たちとパリサイ人はたびたび断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか」と言った。(マタイの福音書9:14)

今朝、私はヨハネの弟子たちについて考えていました。なぜ彼らは、まだヨハネに従い続けていたのでしょうか。

ヨハネは牢に入れられ、自分の奉仕は終わりました。

その一方で、ヨハネが指し示していたイエス様の奉仕はすでに始まっていました。それなのに、どうしてイエス様とその道に従わず、ヨハネとその道にしがみついていたのでしょうか。

神様は新しいことをなさっていました。(マタイの福音書3:11)

けれども、ヨハネの弟子たちの心はそれに向いていませんでした。古い布や古い皮袋のように、彼らの心は柔軟さを失っていて、新しいものを受け入れることができませんでした。

ある弟子たちは、イエス様が死なれ、復活されてから何年も後になっても、心はそのままでした。(使徒の働き19:1~7)

私はそのように生きたくありません。しかし、私の心の中にも、その傾向を見ることができます。慣れたこと、心地よいことを好み、すぐに新しいことを抱くことができないのです。

イエス様は、私をヨハネの弟子たちのように戒められるでしょうか。

イエス様、あなたがなさっている新しいことに対して、私が柔らかい心を保つことができるようにしてください。

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サムエル記第一のデボーション

敬うべき神

サウルは言った。「私は困りきっています。ペリシテ人が私を攻めて来るのに、神は私から去っておられます。預言者によっても、夢によっても、もう私に答えてくださらないのです。。。」

サムエルは言った。。。「あなたが【主】の御声に聞き従わ(なかったからだ。」(サムエル記第一28:15、18)

天のお父さん、あなたは私の願いをかなえる単なるジーニーではありません。

あなたは私に操られる神ではありません。

あなたは敬い、従うべき神なのです。

サウルはその真理を決して学びませんでした。 むしろ、彼は自分の耳、さらに心をあなたに閉じてしまったのです。

だから最終的に、あなたは彼に語られなくなったのです。

どうか、私がそのようにならないように。 私がいつも柔らかい心と、あなたに傾いている耳を保つことができるようにしてください。

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ルカの福音書のデボーション

開かれた耳、柔らかい心

私の意見ですが、もしかすると、イエス様がバプテスマを受けたとき、詩篇40:6ー8の言葉を祈られたのかもしれません。

あなたは私の耳を開いてくださいました。。。そのとき、私は申し上げました。「今、私はここに来ております。巻物の書に私のことが書いてあります。わが神よ、私は、あなたのみこころを行うことを喜びとします。

ヘブル書の著者によれば、イエス様はその言葉を祈られましたが、実際にご自身のバプテスマの際にその言葉を祈られたかどうかは分かりません。(ヘブル書10:5ー7)

いずれにせよ、イエス様が神様に対して常に開かれた耳と柔らかい心を持っておられたことは確かです。

その一方で、ヘロデにはそのようなものがありませんでした。特に、自分の罪のためにバプテスマのヨハネから責められたときには、それが顕著でした。(ルカの福音書3:19ー20)

一方、バプテスマを受けた人たちは開かれた耳と柔らかい心を持っていました。それは彼らの反応から分かります。

「私たちはどうすればよいのでしょうか。」(ルカ3:10、12、14)

これはまさに開かれた耳と柔らかい心の問いかけです。

イエス様はそのような心を常に持っておられました。

私もそのような心を持ちたいと思います。

あなたは、そのような心を持っていますか。

神の御言葉を読んだり聞いたりするとき、私たちもあの人たちと同じように反応しましょう。

「私たちはどうすればよいのでしょうか。私は、あなたのみこころを行うことを喜びとします。」

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申命記のデボーション

あなたの御声が聞こえるように

まことに、あなたはもろもろの民を愛する方、 御手のうちにすべての聖なる者がいる。 彼らはあなたの足もとにひれ伏し、 あなたの御告げを受ける。(申命記33:3)

天のお父さん、あなたの御言葉は空虚なものではありません。それらは私のいのちです。

どうか、私があなたの御言葉一つ一つを心にとどめることができるよう助けてください。(申命記32:46ー47)

あなたの御教えは雨のように私の目と心に降り注ぎ、あなたの御言葉は露のように滴るようにしてください。若草の上の小雨のように、青草の上の夕立のように。(32:2)

あなたが私を愛してくださることを信じます。私はあなたの御手のうちにいます。

だから、私はあなたのみもとに来て座ります。そして、あなたから私への御言葉を受け取ります。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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マタイの福音書のデボーション

あなたの言葉が受け入れ難いとき

イエス様、時にあなたのことばは、私にとって受け入れがたいものです。

あなたが結婚について語られたとき、弟子たちにとって、そのことばは受け入れがたいものでした。

若い金持ちにとって、「あなたが執着しているものを手放し、私について来なさい」というあなたのことばは、受け入れがたいものでした。

そして時に、あなたは私にも受け入れがたいことを語られます。

私の心は頑なで、あなたの道よりも楽な道を選びたくなるのです。

また、私が手放したくないものもあります。

けれども、あなたのことばが受け入れがたいとき、私があなたが良い方であることを思い起こすことができるように助けてください。

あなたのことばが受け入れがたいとき、あなたの道が最善であることを思い起こすことができるように助けてください。

あなたのことばが受け入れがたいとき、私が柔らかい心を保ち、あなたとその道に従うことができるように助けてください。

なぜなら、あなたのことばは受け入れがたいものかもしれませんが、そのことばはいのちだからです。(ヨハネ6:63、68)

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民数記のデボーション

神様にを信頼し従うように、互いに励まし合う

わたしの栄光と、わたしがエジプトとこの荒野で行ったしるしとを見ながら、十度もこのようにわたしを試み、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、だれ一人、わたしが彼らの父祖たちに誓った地を見ることはない。

わたしを侮った者たちは、だれ一人、それを見ることはない。

ただし、わたしのしもべカレブは、ほかの者とは違った霊を持ち、わたしに従い通したので、わたしは、彼が行って来た地に彼を導き入れる。彼の子孫はその地を所有するようになる。(民数記14:22ー24)

時間があれば、この箇所と一緒にへブル書3章を読む甲斐があります。なぜなら、へブル書の著者がこの出来事の霊的な応用を説明しているからです。

兄弟たち。あなたがたのうちに、不信仰な悪い心になって、生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。(へブル3:12)

不信仰で悪い心は、多くのイスラエルの民の問題でした。

彼らは、自分たちをエジプトから贖ってくださった主を侮りました。

神様が多くのことをしてくださったのに、彼らは神様に信頼することを拒みました。

私たちは、どのような心を持っているでしょうか。

神様に対して頑なな心を持っているでしょうか。神様を信頼しない心を持っているでしょうか。

それとも、私たちはカレブとヨシュアのように、柔らかい心を持っているでしょうか。彼らのように、私たちは周りの兄弟姉妹に神様に信頼するように促すでしょうか。

罪に欺かれるのは簡単なことです。心が頑なになるのも簡単なことです。

だからこそ、クリスチャンの交わりはとても大切なのです。

ですから、カレブやヨシュアのような人々と時間を過ごしましょう。

また、周りのクリスチャンに対して、私たち自身がカレブやヨシュアのような者となりましょう。

「今日」と言われている間、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい。(へブル3:13)

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コリント人への手紙第二のデボーション

自分自身を試し、吟味する

あなたがたは、信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい。

それとも、あなたがたは自分自身のことを、自分のうちにイエス・キリストがおられることを、自覚していないのですか。

あなたがたが不適格な者なら別ですが。(コリント人へん手紙第二13:5)

それはかなり厳しい言葉ですね。

でも、その文脈を覚えていた方がいいです。あるコリント人たちは、自分がクリスチャンと自称したのに、パウロの権威を拒絶し、神様の権威をも拒絶してしまいました。

さらに、彼らは自分の罪を悔い改めることを拒みました(10〜12章)。

そんなことをしてしまったら、自分がクリスチャンであると主張することはできません。

真のクリスチャンは、罪に何度も落ちてしまうかもしれませんが、神様の権威を拒絶しません。また、罪を犯したとき、言い訳をしません。むしろ、悲しんで、すぐに悔い改めます。

簡単に言うと、真のクリスチャンは神様に対して柔らかい心を持っています。

あなたは、そのような心を持っていますか。

もしそのような心を持っていないなら、自分がクリスチャンかどうかを疑わなくてはなりません。

でも、神様に対して柔らかい心を持っているなら、心配しなくていいです。なぜなら、神様はあなたのことを諦められないからです。

むしろ、神様はあなたのうちに始められたことを完成させてくださいます(ピリピ1:6)。

あなたが弱くて、何度も失敗しても、主イエスの恵み、天の父の愛、聖霊の交わりは、永遠にあなたとともにあります。

だから、毎日それを心に留めておいて、心を安らかにしましょう。

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マタイの福音書 マタイ12章 マルコの福音書 マルコ3章 ルカの福音書 ルカ11章

自分の心を固くする危険性

この箇所では、イエス様は再びパリサイ人たちに出くわします。

その時、目が見えず、口がきけない人がイエス様のもとに連れて来られました。この場合、その原因は悪霊でした。そこで、イエス様がその悪霊を追い出された後、その人は目が見えるようになり、話せるようになりました。

周りの人々は驚きましたが、パリサイ人たちは、この奇跡がベルゼブル(つまり、サタン)の力によって行われたものだと言いました。

ここで注目すべきなのは、パリサイ人たちはイエス様の奇跡を否定しなかったことです。彼らはただ、イエス様の力がどこから来たのかを疑ったのです。

現代の人々だけが、イエス様が奇跡を行われたかどうかを疑います。なぜなら、2000年前に起こったことは疑いやすいものだからです。けれども、目の前で起こった出来事は否定しにくいものです。

それこそがパリサイ人たちの問題でした。彼らはイエス様のことが嫌いでしたが、イエス様の奇跡を否定することはできませんでした。

このパリサイ人たちの態度は、重要なポイントを示しています。

以前にも述べましたが、どんな証拠を見ても、意図的に信じない人がいるものです。彼らは「信じられない」のではなく、「信じたくない」のです。そのため、彼らは心を固くし、神様の存在を否定するために、できる限り神様の御業を歪めようとします。

その結果、パリサイ人たちは「イエス様は汚れた霊に取り憑かれている」「サタンの力によって悪霊を追い出している」と言いました。

しかし、イエス様は彼らに二つのことを言われました。

1.もしサタンが自分自身と戦うなら、その国は立ち行かなくなります。

2.イエス様が悪霊を追い出されたことは、イエス様がサタンの味方ではないことの証明です。イエス様はサタンの国を攻撃され、その悪霊は逃げ去りました。そして、イエス様はサタンを縛り、人々を自由にされました。

そして、イエス様はパリサイ人たちに警告されます。

だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されません。また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。

しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。(マタイ12:31-32)

マルコはイエス様の言葉を解釈しました。

このように言われたのは、彼らが、「イエスは、汚れた霊につかれている」と言っていたからである。(マルコ3:30)

つまり、パリサイ人たちは自分の心をあまりにも固くしたため、神様が何をされていたのかが分からなくなりました。さらに、彼らは神様の御業をサタンのものだと言いました。

これが、心を固くすることの危険性です。それを続ければ、最終的に聖霊の声が聞こえなくなり、神様の御業を見ても、それを認識できなくなります。そして、もしそうなってしまったら、救いの希望はなくなってしまいます。

そのため、イエス様はこの態度を「赦されない罪」と呼ばれました。彼らの心があまりにも固くなりすぎたため、彼らには救いの希望がなくなったのです。

モーセの時代、パロも同じ罪を犯しました。そのため、彼は滅びました。

では、人はいつその境界線に至るのでしょうか。それは神様だけがご存知です。ある人々の心は、救われるには固すぎるように見えるかもしれませんが、彼らが最終的に救われる可能性もあります。使徒パウロは、そのような例の一つです。

時々、クリスチャンは「私は赦されない罪を犯してしまったのではないか」と心配します。

けれども、もしそのように心配しているなら、たぶんその罪を犯していません。自分の罪を認識し、神様に対して柔らかい心を持って悔い改めるなら、心配する必要はありません。

本当に注意すべきなのは、自分の心を固くしてしまっている人たちです。

では、どのように柔らかい心を保つことができるでしょうか。それは、謙遜な態度を持ち、罪を犯したならすぐに悔い改めることです。そして、毎日、イエス様のように天の父の心を求め、従うことです。

あなたはどうでしょうか。どのような心を持っていますか。

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箴言

柔らかい心を保つ

昨日の記事では、神様とその知恵に対する固い心を持つ危険を見ました。けれども、この箴言2章では、神様とその言葉に対する柔らかい心を持つ祝福を見ます。

ソロモンはこう書きました。

わが子よ。もしあなたが、私のことばを受け入れ、私の命令をあなたのうちにたくわえ、あなたの耳を知恵に傾け、あなたの心を英知に向けるなら、もしあなたが悟りを呼び求め、英知を求めて声をあげ、銀のように、これを捜し、隠された宝のように、これを探り出すなら、そのとき、あなたは、主を恐れることを悟り、神の知識を見いだそう。

主が知恵を与え、御口を通して知識と英知を与えられるからだ。(箴言2:1-6)

神様とその言葉に対する柔らかい心を持つというのは、どういう意味でしょうか。

1. 神様の言葉を受け入れることです。

「あなたの言葉は良いし、正しい」と認めることです。

2. 神様の言葉をあなたの心に蓄えることです。

私たちはよく神様の言葉を聞いて同意しますが、すぐにその言葉を忘れてしまいます。

けれども、それでは物足りないです。私たちはその言葉に思いを巡らし、その言葉を生かすべきです。

3. あなたの耳を知恵に傾けることです。

つまり、神様は聖書や牧師や友達を通して話されるとき、私たちは自分の心を開かなくてはなりません。しかし、多くの場合、私たちは「もう知っているよ」または「その言葉は私の場合に当てはめられないよ」と言います。

しかし、柔らかい心はその言葉を受け入れ、その言葉によって変えられていきます。では、知恵が心を変えるために、私たちはどうすればよいのでしょうか。

4.あなたの心を英知に向けるべきです。

「この言葉はどういう意味でしょうか。どうやってこの言葉を私の人生に当てはめられるでしょうか」と聞いた方がいいです。

また、

5.悟りを呼び求め、英知を求めて声をあげるべきです。

つまり、私たちは神様から英知と悟りを求めるべきです。

自分の人生に聖書のことばをどう当てはめればよいか分からないときでも、そのことばを捨ててはなりません。「私の人生には関係ない」と言ってはなりません。

むしろ、神様に尋ねてみましょう。そうすれば、

主が知恵を与え、御口を通して知識と英知を与えられる。(6)

さらに、知恵に従うことを決めて、また、神様の道を行くことを決めたら、勝利を得ることができ、神様は私たちを見守ってくださいます。その知恵は私たちを悪の道から救い出してくださいます。

悪者は知恵を拒絶するので滅びますが、私たちは命を見つけます。

あなたはどうですか。神様とその知恵に柔らかい心を持っているでしょうか。積極的にその知恵を求めているでしょうか。その知恵をあなたの人生に当てはめているでしょうか。

そうすれば、満ちたりた人生を見つけることができます。

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詩篇

柔らかい心

このブログで以前私は、詩篇119篇を書いた詩人が謙遜な心を持っていたと書きました。彼はすべてのことを知らないと認め、神様から学びたいと願っていました。

この箇所でも、その心が見えますし、神様に対する柔らかい心も見えます。

66節で、彼はもう一度「私に教えてください」と祈りましたが、67節で彼はこう言いました。

苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。

そして、71節で、彼はこう言います。

苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。

つまり、神様は彼を懲らしめられました。どのように彼が懲らしめられたか分かりませんが、私たちは彼の反応を知っています。彼は悔い改めたのです。

どうして彼は悔い改めたのでしょうか。なぜなら、彼は神様が良い方であり、神様が彼の最善を望んでおられることを信じたからです。だから、彼はこう歌いました。

なたはいつくしみ深くあられ、いつくしみを施されます。どうか、あなたのおきてを私に教えてください。(詩篇119:68)

悪者に関して、彼はこう歌いました。

彼らの心は脂肪のように鈍感です。(70a)

けれども、自分自身に関して、彼は歌いました。

しかし、私は、あなたのみおしえを喜んでいます。(70b)

そして、彼は祈ります。

どうか、私の心が、あなたのおきてのうちに全きものとなりますように。それは、私が恥を見ることのないためです。(80)

私たちの心は神様とその言葉に対してどれぐらい柔らかいでしょうか。

神様が私たちを懲らしめられる時、私たちは腹が立つでしょうか。もしくは、私たちはへりくだって、悔い改めるでしょうか。