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ルカの福音書のデボーション

ちっちゃい子どものように

それで、先の方に走って行き、イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った。イエスがそこを通り過ぎようとしておられたからであった。(ルカの福音書19:4)

この箇所を読んだとき、私は「この年になって木に登るなんて、どれほど恥ずかしいことだろう」と思わされました。

それでも、ザアカイは自分の品位を捨て、子どものようになりました。

私もザアカイのような心が必要だと思います。ときには、周囲の人々が私をどう見ているのかを気にしすぎてしまうことがあります。

けれども、イエス様との関係となると、そのような考え方を捨て、イエス様を見、知り、喜ばせることに心を向けたいと願っています。

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ルカの福音書のデボーション

ちっちゃい子供の心

しかし、イエスは幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。

まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」 (ルカの福音書18:16~17)

今朝、私は、ちっちゃい子どものように神の国を受け入れるとはどういう意味なのかと思い巡らしました。

ちっちゃい子どもは、プレゼントを受け取るとき、どのような態度を示すでしょうか。それは無関心でしょうか。あるいは、そのプレゼントや与える人の良さを疑うでしょうか。

違います。ちっちゃい子どもは、そのプレゼントを喜んで受け取ります。

一方で、金持ちの態度を考えてみてください。彼は悲しくなって、イエス様が与えようとされた御国から立ち去ってしまいました。

なぜでしょうか。それは、御国が自分の富よりも価値があると信じることができなかったからです。

さらに、イエス様を「良い先生」と呼んだにもかかわらず、イエス様に従うほどには信頼することができませんでした。

ペテロも、心の中である程度そのような戦いがあったようです。御国の素晴らしさよりも、自分が何を捨てたのかに心が向き、本当に甲斐があるのかどうかをイエス様に尋ねていました。

私たちは、常に御国の価値や、私たちの王の良さについて疑いを抱くなら、御国に入ることができません。

ただし、私は皆さんに、時おり心に浮かんでしまうような一時的な疑いのことを言っているのではありません。私が話しているのは、御国とイエス様に対する私たちの基本的な態度のことです。

ちっちゃい子どもの心は、御国に無関心でもなく、その価値を疑うこともありません。

ちっちゃい子どもの心は、自分の王に対して皮肉な態度を抱くこともありません。

むしろ、ちっちゃい子どもの心は、御国とその王を喜んで受け入れるのです。

あなたはどうでしょうか。ちっちゃい子どもの心を持っているでしょうか。

あなたはイエス王とその御国をどのように見なすでしょうか。

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マタイの福音書のデボーション

子どもの心

イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、あなたがたに妻を離縁することを許したのです。しかし、はじめの時からそうだったのではありません。(マタイの福音書19:8)

天のお父さん、私が単に「何が許されているのか」に基づいて決断することがないようにしてください。

特に、私の心の頑なさのゆえに、あなたが最善だと言われることを拒んでしまうときです。

どうか私に子どもの心――柔らかい心、あなたを信じる心――を与えてください。

「何が許されているのか」と尋ねるのではなく、むしろ「私の良いお父さんが何を願っておられるのか」と尋ねる者としてください。