英語では「brutal honesty」という表現があります。直訳すると「残酷な正直さ」という意味です。
その意味は、相手がその真理を聞けばきっと傷つくかもしれないけれど、それでも率直に真理を伝えることです。なぜなら、真理は真理だからです。
もちろん、真理は真理です。そして、私たち全員が真理に直面しなければなりません。とはいえ、「残酷な正直さ」の問題はこうです。多くの場合、その真理を伝える人は、相手を助けたいという気持ちではなく、むしろ故意に傷つけたいという思いを持っているのです。
さらに、それを喜びをもって行う人もいます。彼らは相手に対する愛から真理を伝えるのではなく、相手を苦しませたいという意図を持っていることがあります。
イエス様が率直に話されたことがあるのは確かです。そして、バプテスマのヨハネも率直に話した時がありました。彼らのパリサイ人やサドカイ人との交流を見れば、彼らが非常に単刀直入であったことがわかります。
では、なぜ彼らはパリサイ人やサドカイ人に対してそこまで率直だったのでしょうか。それは、おそらく彼らがあまりに頑なで、他の言葉では届かなかったからかもしれません。
時にはイエス様が語られた真理は厳しいものでした。それでも、多くの場合、イエス様は情けとあわれみをもって真理を伝えられました。
残念ながら、教会にはそのような態度を持つ人はあまり多くありません。けれども、この箇所では、イエス様のあわれみがはっきりと示されています。
興味深いことに、使徒ヨハネによれば、イエス様はサマリヤを通って行かなければならなかったと記されています(ヨハネ4:4)。
実は、サマリヤを通るほうが早い道でしたが、多くのユダヤ人はサマリヤを通ることを拒みました。なぜなら、サマリヤ人は本当のユダヤ人とみなされていなかったからです。
つまり、何百年も前に、サマリヤにいたユダヤ人たちは偶像を礼拝する外国人と結婚し、本来のユダヤ教を汚したと考えられていました。
けれども、文化的なルールが天の父の御心に反するならば、イエス様はそのルールを無視されました。ですから、弟子たちはしばしば困惑したことでしょう。
さて、サマリヤにおられたとき、イエス様は弟子たちを食物を買うために町へ送られました。イエス様ご自身は疲れて、井戸のそばに座っておられました。その時、ひとりの女性が井戸に近づいて来られるのをイエス様はご覧になりました。
イエス様はすでにサマリヤに入ることで文化的なルールを破られていましたが、この女性が井戸にやって来たとき、イエス様はさらに大きな文化的なルールを破られました。
ラビ(ユダヤ教の先生)は、通常、人前で女性と話すことは決してありませんでした。さらに、この女性は嫌われたサマリヤ人でもありました。
それでも、イエス様は彼女に話しかけられました。
わたしに水を飲ませてください。(ヨハネの福音書4:7)
それは本当にシンプルな願いでしたが、彼女はとても驚きました。
彼女は何を思っていたのでしょうか。おそらく、彼女は自分の民の間で評判の悪い人だとみなされていたのではないでしょうか。
新改訳によれば、彼女は第六時ごろに井戸に来たと記されています。この文化では、第六時とは正午を意味します。普通、最も暑い時間帯に女性たちは井戸に来ることはありません。
ところが、彼女は他の女性たちを避けたいと思い、その時間に井戸に来たのかもしれません。
さらに、彼女は何度も離婚しており、現在一緒に住んでいた男性は彼女の夫ではありませんでした。
ですから、イエス様が彼女に話しかけたとき、彼女は「この人は私を売春婦だと思うだろうか」と感じたかもしれません。
いずれにせよ、彼女はイエス様に興味を持っていなかったため、こう答えました。
あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。(9)
けれども、イエス様は優しく応じられました。
もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。(10)
「生ける水」というのは何でしょうか。ヨハネ7:37-39によれば、イエス様は聖霊様について話しておられました。
しかし、この女性は物理的な水のことだと思っていたので、彼女は次のように答えました。
先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。(11)
イエス様はこのように答えられました。
この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。
わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。(13-14)
つまり、「物理的な水について話しているのではありません。その水は一時的にあなたを満たしますが、私が与える水は永遠の命を与えるものです。そして、あなたがそれを飲むと、決して霊的に渇くことがありません。」
おそらく、彼女はイエス様の言葉の意味を理解できなかったのかもしれません。または、自分の心が痛んでおり、自分の必要性を認めたくなかったのかもしれません。
いずれにせよ、彼女は少しイエス様の言葉をからかうような態度を見せました。
先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。(15)
そして、イエス様は突然、とても痛烈な言葉を話されました。
行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。(16)
たぶん、彼女は傷ついた心の痛みから返答したのでしょう。
私には夫はありません。(17a)
イエス様はこう答えられました。
私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。(17b-18)
その言葉は本当に痛烈なものでした。
その瞬間、彼女の痛みは明らかになりました。彼女はずっと自分を本当に愛してくれる人を探していました。その愛を得るために、何度も自分の体を男性たちに捧げました。もしかしたら、他の女性たちの夫を奪ったこともあったかもしれません。
けれども最終的には、拒絶され、現在一緒に住んでいる男性は彼女と結婚することを拒んでいました。
では、どうしてイエス様は彼女の秘密を明らかにされたのでしょうか。痛みを見て喜ばれたからでしょうか。いいえ、そうではありません。イエス様は彼女を愛されたからです。
彼女が宗教的な議論を挑もうとしたとき、イエス様はその疑問に優しく応じられました。
そして彼女が「私はよくわかりませんが、メシアを待っています」と言ったとき、イエス様はこう答えられました。「私をご覧なさい。あなたが待っているその人は私です。私がメシアです。」
その瞬間、イエス様の目を見たとき、完全に理解している方を見ました。イエス様は心の奥深くまで知っておられました。しかし彼女は、イエス様が自分を本当に愛しておられることに気づいたのです。
どれほど多くの人々が、私たちについて同じことを言えるでしょうか。神様の真理を伝えるとき、イエス様の愛を見るでしょうか。そしてさらに、心から「あなたを愛しています」と言えるでしょうか。
イエス様はサマリヤの女性の心を変えられました。真理は彼女に正しい道を示しました。 けれども、彼女の心を本当に変えたのは愛でした。
あなたは相手を愛さずにただ真理を伝えますか。それとも、キリストの愛が溢れ出し、人々の心を変えるでしょうか。