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詩篇のデボーション

あなたが遠く感じられるときに

主よ、なぜ、あなたは遠く離れて立ち、苦しみのときに、身を隠されるのですか。(詩篇10:1)

天のお父さん、あなたが遠く離れて立ち、身を隠されているように感じられるときがあります。特に、苦しんでいるとき、私はそのように感じることが多いのです。

でも、真理は、あなたが私の良い王であり、永遠に治めておられるということです。(16節)

真理は、あなたが私の叫びを無視しておられるのではなく、耳を傾けてくださるということです。(17節)

そして、いつかの日に、あなたは正義をもたらし、すべてを癒してくださいます。(18節)

だから、私の良い王、あなたが遠く離れて感じられるとき、私は自分の感情ではなく、あなたを信じることができるように助けてください。

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エペソ人への手紙のデボーション

あなたのようになるように

しかしあなたがたは、キリストをそのように学んだのではありません。ただし、本当にあなたがたがキリストについて聞き、キリストにあって教えられているとすれば、です。真理はイエスにあるのですから。

その教えとは、あなたがたの以前の生活について言えば、人を欺く情欲によって腐敗していく古い人を、あなたがたが脱ぎ捨てること、また、あなたがたが霊と心において新しくされ続け、真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着ることでした。(エペソ人への手紙4:20~24)

天のお父さん、私たちは初めにあなたの似姿に造られました。(創世記1:26-27)

しかし、その似姿は私たちの罪によって歪められ、腐敗しています。

私の人生においても、あなたの似姿は私の罪によって歪められ、腐敗しています。

それでも、あなたは私を愛してくださり、あなたの恵みによって私を救ってくださいました。あなたの望みは、私があなたの御子のようになることです。(エペソ4:13)

ですから、私があなたにかたどって造られた新しい人を着ることができるように助けてください。私があなたの義、真理、愛、恵、親切さ、優しい心によって特徴づけられる者となるようにしてください。

周りの人々が私を見るとき、彼らがあなたを見てくださるように。私はあなたのようになりたいのです。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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ヨハネの手紙第三

私があなたの真理のうちに歩むことができるように

私にとって、自分の子どもたちが真理のうちに歩んでいることを聞くこと以上の大きな喜びはありません。(ヨハネの手紙第三4節)

天のお父さん、私が毎日、真理のうちに歩むことができるようにしてください。

あなたの真理が、私の人生を形作るように。あなたの真理が、私の思考と生き方を形作るように。

私が、この世の邪悪な道を歩まず、あなたを見習うようにしてください。(11節)

私が、することすべてにおいて、あなたの愛によってそれを行うようにしてください。(6節)

私が、忠実にあなたの民に仕えるようにしてください。(5節)

私が、あなたの福音の真理のために働く人々を支えるようにしてください。(8節)

ヨハネが、ガイオがあなたの真理のうちに歩んでいることを喜んだように、私があなたの真理のうちに歩んでいることを、あなたが喜んでくださいますように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ルカの福音書のデボーション

でも、真理は。。。

だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。(ルカの福音書7:23)

最近、私は霊的な戦いについて考えています。実は、日曜日から、私の教会では霊的な戦いに関するメッセージのシリーズが始まりました。

私たちの敵であるサタンについて考えたとき、私が気づいたのは、サタンの主な武器の一つが欺きと嘘であるということです。イエス様は、サタンを「偽りの父」と呼ばれました。(ヨハネ8:44)

サタンは、バプテスマのヨハネに対して、その武器を振るっていました。

「あなたの人生は無駄だった。あなたはこの牢に入っているが、いったい何を成し遂げたのか。

あなたはイエス様をメシアとして宣言したが、それは本当なのか?彼はローマ帝国からイスラエルを自由にしていないし、あなたを助けてもいない。あなたはまだここにいるではないか。」

嘘と真実を混ぜ合わせるのは、本当に効果的な武器ですね。

だから、ヨハネは自分の弟子たちをイエス様のもとに遣わし、尋ねました。「来るべき方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」

イエス様はどのように答えられたでしょうか。イエス様は、人々を癒し、悪霊を追い出し、福音を宣べ伝えられました。

そして、イエス様はヨハネに、基本的にこう言われたのです。

「あなたは、私に失望しているのですね。私があなたの予想通りにローマ帝国を倒していないから。

でも、真理は、私はメシアです。そして、私はメシアに関する聖書の預言を成就しています。

だから、自分の人生や働きが無駄だと思わないでください。真理をしっかり信じなさい。私自身が真理です。だれでも、私につまずかない者は幸いです。」

サタンが私たちを嘘で攻撃するとき、私たちのクリスチャン生活がうまくいかないとき、私たちがイエス様に失望し、イエス様が良い方であることを疑うとき、その痛みと疑いのサイクルを破って、宣言しましょう。

「私はこのように感じているかもしれません。でも、真理は、イエス様は良い方です。真理は、イエス様が本当に神の子で、私の救い主です。真理は、イエス様は私を愛しておられます。」

そして何よりも、覚えていましょう。「イエス様自身が真理です。」

真理は、イエス様に信頼する者が、決して失望させられることがないということです。(ローマ10:11、第一ペテロ2:6)

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テサロニケ人への手紙第二のデボーション

神が良い方であることを信じる

ですから兄弟たち。堅く立って、語ったことばであれ手紙であれ、私たちから学んだ教えをしっかりと守りなさい。(テサロニケ人への手紙第二2:15)

2章を読んだとき、3節にある言葉が私の心を打ちました。つまり、イエス様がこの世に来て、すべての悪を克服し、この世を癒す前に、まず背教が起こるということです。

言い換えると、ある日、かつてイエス様を信じると主張していた多くの人々が、イエス様に背を向けてしまうのです。

ユダは最初の背教者でしたが、多くの人々が彼の模範に従いました。かつて私と共に主に仕えていた人の中にも、今は主に背を向けている人がいます。アメリカでは、かつて有名だったクリスチャンの歌手や牧師たちも背教に陥ってしまいました。

人が主に背を向ける理由はさまざまですが、多くの場合、その根本的な理由は、彼らが真理を拒絶したということです。

つまり、彼らはもはや聖書が神の御言葉であることを信じていないのです。なぜなら、彼らはこの世の考え方に流されてしまったからです。

彼レアは、「良い神」とはどのような方かというこの世の定義に流されていました。

彼らは「良い神」が何を語るはずかというこの世の期待に流されていました。特に道徳に関して、彼らはこの世の価値観に流されていたのです。

そのような態度を持っているため、「不法の人」である反キリストが現れると、彼らは喜んで従うようになります。なぜなら、彼らはすでに真理を拒絶し、偽りと取り替えてしまったからです。

誤解しないでください。聖書に関して疑いや質問があっても、大丈夫です。神様の言葉について「どうして」と尋ねても構いません。

正直に言うと、私が神様とその道を理解できないときもあります。そのような疑いや質問があれば、牧師や成熟したクリスチャンにどうぞ尋ねてください。

しかし、最終的に、私たち皆は選択をしなくてはなりません。あなたは神様が良い方であることを信じるか、信じないか。

神様の御言葉が良いものであることを信じるか、信じないか。

神様の道が最善のものであることを信じるか、信じないか。

「いいえ」と答えるなら、私たちはユダのように背教に陥り、滅びてしまいます。

しかし、「はい」と答えるなら、私たちは喜びと命を知ることになります。

私はすでに選択しました。

神様が良い方であり、神の道が良いものであることを信じることを選びます。

なぜなら、私の人生において、私は神様の恵みといつくしみを見てきたからです。

あなたは何を信じますか。

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テサロニケ人への手紙第二のデボーション

真理を愛する者として生きる

また、あらゆる悪の欺きをもって、滅びる者たちに臨みます。彼らが滅びるのは、自分を救う真理を愛をもって受け入れなかったからです。(テサロニケ人への手紙第二2:10)

現代の世界では、真理、特に道徳的な真理というコンセプトは、なくなりつつあります。かつて道徳的に間違っていると考えられていたことの多くが、もはやそう考えられていないのです。

特にセックスや性的指向、ジェンダーに関して、多くの人々の考え方が変わってきました。彼らが主張しているのは、「時代遅れの考え方」を捨てることが、自由と幸せに至る道だということです。

けれども、その道は、実際には死に至ります。

そして反キリストが来て、いろんな奇跡や印を行うとき、多くの人々は簡単に騙されることになります。なぜなら、反キリストが教えることは、彼らがすでに信じていることだからです。反キリストが彼らのように不義を抱くので、彼らは反キリストを受け入れます。

ローマ人へのパウロの言葉は、現代においてこれまでにも増して真実味があります。

彼らは、そのような行いをする者たちが死に値するという神の定めを知りながら、自らそれを行っているだけでなく、それを行う者たちに同意もしているのです。(ローマ1;32)

では、私たちはどうするべきでしょうか。真理を抱きましょう。神のみ言葉が、この世の言葉に反しているなら、神のみ言葉を堅く持ちましょう。

また、パウロの言葉に従いましょう。

ですから、兄弟たち。堅く立って、語ったことばであれ手紙であれ、私たちから学んだ教えをしっかりと守りなさい。(テサロニケ人への手紙第二2:15)

神の真理を抱くなら、私たちは騙されることを恐れる必要がありません。

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テトスへの手紙

真理を擁護する

この手紙は、牧師へのパウロの最後の手紙です。この手紙で、パウロはテトスという牧師にどのようにクレタの教会を扱うべきか教えました。

どうやら、エペソにあるテモテの教会のように、クレタの教会も偽教師とその教えに直面していました。

ある人たちは、ユダヤ人の作り話や系図について教えたり、律法主義の宗教を教えたりしました。その教会は比較的新しかったため、その変な教えはすでに入り始めていました。

さらに、教会のメンバーたちはまだ未成熟なクリスチャンたちだったため、どのように聖なる人生を送るか分かりませんでした。

そのため、この手紙の最初から、パウロは、なぜ神様が彼をお召しになったのか説明します。それは、信者たちが真理を知るためです。

けれども、その真理は敬虔な人生と切り離すことはできません。反面、その真理によって、信者たちは神様が約束した永遠の命を得ます。(テトスへの手紙1:2-3)

しかし、その若い教会はリーダーが不足していたため、パウロはテトスにクレタの町ごとの教会に長老たちを任命するように命じました。彼らは牧師の役割を果たすために任命されました。

そして、テモテへの手紙のように、パウロは長老たちに関して、二つのことを強調しました。

一つ目は、長老たちの性格です。その長老たちは非難されるところのない人であるべきです。

実は、反抗的な者、無益な話をする者、人を惑わす者が多くいます。特に、割礼を受けている人々の中に多くいます。そのような者たちの口は封じなければなりません。

彼らは、恥ずべき利益を得るために、教えてはならないことを教え、いくつかの家庭をことごとく破壊しています。

クレタ人のうちの一人、彼ら自身の預言者が言いました。「クレタ人はいつも噓つき、悪い獣、怠け者の大食漢。」(テトスへの手紙1:10-12)

現代の教会でも、私たちは同じようなことを見ます。ある人たちは神様の御言葉の一部が嫌いで、その教えを曲げてしまいます。そして、偽教師の教えによって、いくつかの家族がキリストから引き離されます。

クレタの偽教師のように、ある人の動機はお金です。

また、ある教師たちは、神様の恵みが足りないと思い、私たちが神様の救いのために働かなくてはならないと思っています。

他の教師たちは、自分勝手に生きたいと思い、神様の教えを曲げます。

だから、パウロはテトスに言いました。

ですから、彼らを厳しく戒めて、その信仰を健全にし(なさい)。。。(13)

簡単に言うと、「真理を擁護しなさい。その嘘を見逃してはいけません。神様が嘘をつかれない方なので、私たちは神様の模範に従わなくてはいけません。」(1:2)

パウロによれば、たくさんの人々は神様を知っていると主張しますが、彼らは自分の行為によって神様を否定します。なぜなら、彼らの知性も良心も汚れているからです。彼らは真理を受け入れたくないのです。

しかし、パウロはテトスにこう命じます。

あなたは健全な教えにふさわしいことを語りなさい。(2:1)

周りの人々は真理を拒絶するかもしれませんが、私たちは真理を擁護しなければなりません。私たちは真理を曲げてはいけません。

あなたはどうでしょうか。真理を擁護するでしょうか。それとも嘘を見逃して、人々が破滅に至ることを許すでしょうか。

さらに、自分の罪にふけるために、真理を曲げるでしょうか。

真理にどのように反応したかによって、私たちは裁かれます。裁きの日に、神様はあなたに何と言われるでしょうか。

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ローマ人への手紙

純朴な人にならないように

この手紙を締めくくる前に、パウロはローマのクリスチャンたちに警告を与えます。

兄弟たち、私はあなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに背いて、分裂とつまずきをもたらす者たちを警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。(ローマ人への手紙16:17)

パウロは何について話しているでしょうか。パウロは、偽教師とその教えについて話しているのです。

パウロの時代の教会でも、偽教師は大問題だったし、現代の教会でも、偽教師は大問題です。だからパウロは、「そんな人に注意しなさい」と警告します。

でも多くの場合、そんな人を認識するのは難しいです。なぜなら、彼らの教えは良いことに聞こえるから。パウロはこう書きました。

彼らは、滑らかな言葉、へつらいの言葉をもって、純朴な人たちの心をだましています。(18b)

でも実は、

そのような者たちは、私たちの主キリストにではなく、自分の欲望に仕えているのです。(18a)

だから、パウロはこう言います。

。。。なお私が願うのは、あなたがが善にはさとく、悪にはうとくあることです。(19b)

私たちは、どのように偽の教師とその教えが認識することが出来るでしょうか。そのカギは17節に書いてあります。彼らの教えは私たちの学んだ教えに背きます。

もちろん、私の前提はあなたがキリストに関する本当の教えを学んだ事があることです。

もしその教えを知らないなら、あなたは善にさとくないし、悪にうとくないのです。むしろあなたは狼の純朴な獲物になります。

でも、ローマ人のクリスチャンたちは神様のみ言葉に踏まえたので、パウロは彼らにこう言いました。

あなたがたの従順は皆の耳に届いています。ですから、私はあなたがたのことを喜んでいます。。。

平和の神は、速やかに、あなたがたの足の下でサタンを踏み砕いてくださいます。(19-20)

だからこそ、神様の言葉にしっかり立ち、神様の真理を求め続けてください。そうすれば、あなたは決して惑わされることはありません。

銀行員は偽札を識別するために、偽札そのものを学ぶのではありません。むしろ、彼らは常に本物の紙幣に触れることで、偽札に触れたときに違和感を覚えるのです。

同じように、神様の言葉を深く知っているなら、偽りに惑わされることはありません。

だから、神様の真理を熱心に学びましょう。そして、

平和の神は、速やかに、あなたがたの足の下でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みがあなたがたとともにありますように。(20)

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ヨハネの福音書 ヨハネ18章

私たちに真実を言う人を打つ?

この箇所では、私たちはイエス様の最初の裁判を目にします。アンナスという人物は裁判官でした。

カヤパが大祭司となる前、アンナスは大祭司でしたが、ローマ帝国が彼を退け、その代わりにカヤパを大祭司に任命しました。

それでも、ユダヤ人の指導者たちはなおアンナスを敬い、カヤパが大祭司であるにもかかわらず、アンナスの影響力は依然として非常に強かったと考えられます。

いずれにせよ、アンナスはイエス様に対し、弟子たちや教えについて尋問しました。けれども、イエス様は直接答えるのではなく、こう言われました。

わたしは世に対して公然と話しました。いつでも、ユダヤ人がみな集まる会堂や宮で教えました。何も隠れて話してはいません。

なぜ、わたしに尋ねるのですか。わたしが人々に何を話したかは、それを聞いた人たちに尋ねなさい。その人たちなら、わたしが話したことを知っています。(ヨハネの福音書18:20-21)

要するに、「あなた方は律法を尊重すると主張しているでしょう。では、その律法に従いなさい。律法によれば、あなたがたが私を告発したいと思うなら、証人が必要です。証人たちはどこにいるのですか。」ということです。

けれども、イエス様がそう言われたとき、下役の一人がイエス様を打ち、「大祭司にそのような答え方をするのか」と言いました。

それに対して、イエス様は答えられました。

わたしの言ったことが悪いのなら、悪いという証拠を示しなさい。正しいのなら、なぜ、わたしを打つのですか。(23)

アンナスはそれを聞いて、返す言葉がありませんでした。なぜなら、イエス様の言葉は正しかったからです。そこで彼は、イエス様を正式な裁判のためにカヤパのもとへ送りました。

しかし、イエス様の問いは私に深く考えさせます。人々が私に真理を伝えるとき、私はどのように反応するでしょうか。特に、その真理が私の罪を指摘するとき、私はどう反応するでしょうか。

アンナスのように高慢になり、自分の過ちを認めないでしょうか。あるいは、アンナスの下役のように、その人を攻撃するでしょうか。

もしかすると、私はその真理を受け入れるでしょうか。

真理を聞くのがつらいときもあります。正直に言うと、私は頑固なので、神様が私に「ブルース、その人の言葉を聞きなさい」と語られることもあります。

それでも、時々私はその真理と戦います。自分の過ちを認めたくないからです。私はなお、自分の道を歩み続けたいと思うことがあります。

しかし、キリストの弟子として、私たちはそのように生きてはいけません。私たちは真理を愛するべきです。たとえ耳に痛くても、その真理を愛するべきです。

だから、ヤコブの言葉に従いましょう。

ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。

みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。(ヤコブ1:21-22)

人々があなたに真理を伝えたとき、あなたはどのように反応するでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ14章

天の父のもとへの道

多くの人々はこの個所を読むと、心が乱され、怒りを感じることがあります。なぜなら、イエス様の言葉を受け入れることが難しいからです。そのため、彼らはその言葉を拒絶してしまいます。

では、イエス様は何を語られたのでしょうか。

背景を少し説明すると、イエス様は弟子たちに「私はあなたがたのために場所を用意しに行く」と語ったばかりでした。そして、イエス様は彼らにこう言われました。

わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。(ヨハネの福音書14:4)

けれども、トマスはイエス様の言葉を理解できなかったため、ごく自然な質問をしました。

主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。(14:5)

イエス様はこう答えられました。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。(14:6)

イエス様は「私は父のみもとへの道を教えます」とは言われませんでした。

イエス様は「父のみもとへ行くために、あなたがたが何をすべきかを教える」とも言われませんでした。

イエス様は「私が父のみもとへの道である」と語られました。 「もし天国に行き、天の父に会いたいと思うなら、私を通して行かなければなりません。」

これは驚くべき主張です。

けれども、少し考えてみてください。

もしアメリカ大統領に会いたいと思っても、自分の意思でホワイトハウスのオーバルオフィスに入ることはできません。

招待状が必要であり、さらに、誰かが扉であなたを迎え入れ、大統領のもとへ案内してくれます。

その人がいなければ、あなたは決して大統領に会うことはできません。その人こそが、大統領のもとへ至る道なのです。

このように、イエス様は天の父のみもとへ至る道です。しかし、イエス様は単なる天国の案内人ではありません。イエス様は神の子です。

イエス様が十字架で死に、私たちの罪の代価を払われたことによって、私たちは神様との関係を持つことができます。

イエス様は私たちを天の父のみもとへ導き、大祭司として私たちのためにとりなしをしてくださいます。(ローマ8:34、へブル10:19-22)

けれども、イエス様の十字架の働きがなければ、また、イエス様が私たちとともにおられなければ、私たちは天国に入ることも、天の父に会うこともできません。

イエス様はトマスにもう一つのことを語られました。「私は真理です。」

多くの人々は真理を求めています。

けれども、最近では多くの人々が、真理は存在しないと考えています。特に霊的な真理はないと感じる人が増えています。

しかし、イエス様は「わたしは真理である」と主張されました。

「私の言葉は真理です。真理は相対的なものではありません。私の言葉は完全な真理です。私から離れてしまえば、あなたは真理を見つけることができません。」

さらに、イエス様は「私は命である」と主張されました。

多くの人々は人生の意義を求めています。彼らは意味のある人生を探し、生きがいのある人生を求めています。そして最終的に、死後の命を求めています。

だから、イエス様は言われました。

「私は命です。あなたは人生の意義を求めていますか。私のもとに来なさい。

意味のある人生を探していますか。生きがいのある人生を求めていますか。あなたは、お金や家族、持ち物、力、結婚、子供などによって充実した人生を得ようとするかもしれません。

しかし、それらはあなたに命を与えることはできません。最終的に、あなたの心は空っぽになってしまいます。私を通してのみ、あなたは生きがいのある人生を見つけることができます。

また、もし死後の命を求めているなら、仏やムハンマド、その他の宗教的な指導者を通してその命を得ることはできません。私を通してのみ、あなたの罪は赦され、永遠の命を受けることができます。」

けれども、多くの人々はこの言葉を信じたくありません。なぜなら、彼らは自分の宝物を手放さなければならないかもしれないからです。また、もはや自分の思いのままに生きることができなくなるからです。

だから、人々はイエス様を嘘つきだと言います。あるいは、イエス様が間違っていたと言います。または、イエス様の言葉が正しく引用されなかったのだと主張します。

しかし、本当の命を見つけたいのなら、イエス様を通してのみ、それを得ることができます。

真理は相対的なものではなく、確かなものです。イエス様のうちにこそ、真理を見つけることができます。

また、もし天国に行き、天の父に会いたいのなら、イエス様があなたの隣におられなければなりません。

だから、イザヤの言葉に耳を傾け、それに従いましょう。

主を求めよ、お会いできる間に。呼び求めよ、近くにおられるうちに。

悪しきものは自分の道を、不法者は自分のはかりごとを捨て去れ。

主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。(イザヤ55:6-7)

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マルコの福音書 マルコ10章

真理を言うほどに、人々を愛している?

この話では、イエス様は意地悪だったのでしょうか。どう思いますか。

この若い役人は必死に神の国に入りたいと願っていましたが、イエス様は彼に不可能とも思える挑戦を与えられました。その人が神様に対する熱心を持っていたのに、イエス様の言葉によって、その熱心は弱まってしまったように見えます。

それでも、マルコは興味深いことを記しています。彼は、イエス様がその役人にどのような感情を抱いておられたかを説明しています。

イエスは彼を見つめ、その人をいつくし[みました]。(マルコ10:2a)

イエス様は彼のうわべだけを見ず、その人の心も見つめられました。イエス様は彼の熱心をよく理解しておられました。けれども、イエス様は彼に欠けているものも見抜かれました。

そこで、イエス様はその人が自分に何が欠けているのかを理解することを望まれたのです。そうすれば、その人はイエス様の助けを求め、永遠の命を見つけることができたでしょう。

そのため、イエス様は彼にこう言われました。

あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っているものをすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。(21b)

要するに、イエス様はこう言われていました。

「さっき、あなたは自分に何かまだ欠けているように感じると言いましたね?その通りです。あなたは神様を愛するよりも、お金に執着しています。

だから、あなたが持っているものをすべて売り払いなさい。そして、あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。持ち物を売って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、あなたは本当の宝を得ることができます。

そして、わたしに従って来なさい。」

その言葉を言われた時、イエス様の願いは、彼が本当の命を見つけることでした。しかし彼は悲しみながら帰っていきました。

イエス様は真理を取り繕うことはされませんでした。イエス様は率直に真理をお伝えになりました。

時として、真理を聞くのは難しいものです。そして時には、人々はその真理を拒絶することもあります。それでも、私たちは真理を伝えなければなりません。

それでもなお、私たちは本当の愛と憐れみをもって真理を伝えなければなりません。

相手がまだ真理を拒絶するかもしれませんが、彼らが私たちの愛を理解するように努めましょう。

彼らが傷つくかもしれませんが、私たちが彼らの最善を望んでいることが伝わるように祈りましょう。

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ヨハネの福音書 ヨハネ11章 ヨハネ12章

真理を認識できる?

私は以前にも言いましたが、パリサイ人たちと祭司たちの大きな問題は、彼らがイエス様の言葉を聞き、イエス様の御業を目の当たりにしていながら、それでもなおイエス様を信じなかったことです。

だからこそ、この箇所で彼らは危機に直面しました。

イエス様はラザロをよみがえらせました。そして、彼らはその奇跡を否定できませんでした。皆が、ラザロが4日間死んでいたのに、イエス様が彼をよみがえらせたことを知っていました。そのため、多くの人々がイエス様を信じるようになりました。

けれども、パリサイ人たちと祭司たちの反応はどうだったでしょうか。

「私たちはイエス様の御業をよく知っています。私たちはその奇跡を否定できません。それでも私たちはまだ信じません。」

イエス様がメシアである証拠は十分にありました。それにもかかわらず、彼らはどうしてもイエス様を信じようとはしませんでした。

一方で、彼らはユダヤ人たちの反応に思い悩みました。つまり、ユダヤ人たちがイエス様を王にしようとすれば、ローマ帝国がイスラエルの土地と国民を奪い取ることになる、という懸念です。

ヨハネは、大祭司カヤパの言葉の皮肉さを認識しました。カヤパは次のように言いました。

あなたがたは全然何もわかっていない。

ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。(ヨハネの福音書11:49-50)

カヤパが意味したのは、ローマが彼らの国を奪い取るよりも、イエス様が死ぬ方が方便だということです。

しかし、ヨハネは次のように解説しました。

ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。(51-52)

自分の口から発せられる真理さえ認識できないほど、彼らのプライドと野心は彼らの目を曇らせていました。

あなたはどうでしょうか。真理を聞いたとき、その真理を認識できるでしょうか。

イエス様は、「私は真理だ」と言われました。

真理を理解するためには、あなたはたった一つのことを認めなければなりません。つまり、イエス様が生ける神の御子キリストであることです。

それを認めない限り、あなたは決して真理を理解することはできません。

あなたはどうでしょうか。真理を認識できるでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ9章

もう学ぶ必要がないを思うと

この箇所では、強烈な皮肉があります。

生まれつき盲目の人はイエス様をキリストとして認識したため、イエス様を拝みました。

一方で、ずっと見える目を持つ人たちは、イエス様を見ても、イエス様がキリストであることを認めませんでした。

さらに、彼らはイエス様の奇跡を目にしましたし、イエス様と論じようとするたびにいつも負けました。それでも彼らはイエス様を信じませんでした。

どうして彼らは真理を見ることができなかったのでしょうか。それは、彼らが自分はすでに真理を知っていると思っていたからです。

彼らは律法と預言者の書をよく知っており、若い頃からその知識を誇っていました。そのため、イエス様が来て彼らの誤った考え方を暴露したとき、彼らはその考えを手放すことができませんでした。自分が間違っていると認めることができなかったのです。

イエス様はこう言われました。

わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。(ヨハネの福音書9:39)

イエス様が意味されたことは何だったのでしょうか。イエス様に会うと、人々は分かれ目に立つことになります。もし彼らがへりくだり、イエス様を受け入れるなら、彼らの霊的な目が開かれ、救いを得るでしょう。

しかし、もし彼らが自分のプライドを手放さず、すでに真理を知っていると思うなら、イエス様に関する真理を見ることはできません。それは、彼らがその真理に目をつぶってしまうからです。

パリサイ人たちがしたのはまさにそれでした。彼らはイエス様にこう尋ねました。

私たちも盲目なのですか。(40)

現代でも、多くの人々はこう尋ねます。「私が盲目だって?私にはいい学歴がある。私には、いろんな経験がある。私はもうこの世のことを知っている。」

けれども、イエス様はこう答えられます。

もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。(41)

要するに、イエス様は彼らにこう言われていたのです。

「はい、あなたは盲目です。もし、あなたが謙遜で、助けを求め、自分の目が見えないと認めるなら、神様はあなたの罪を赦してくださるでしょう。

けれども、もしあなたがすでに真理を知っていると思い、あなたのプライドのために私の真理を拒絶するなら、あなたの罪は残るのです。」

あなたはどうですか。もう学ぶ必要がないと思いますか。それとも、あなたはへりくだり、イエス様の真理を受け入れますか。イエス様自身が真理であることを信じますか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ8章

人々を開放する真理

時々、人々は「キリスト教のルール」を見て、束縛されるように感じます。だから、彼らはこう思います。「私がそのルールに従うなら、私は人生を楽しめない。」

しかし、イエス様の言葉は私たちを束縛するためのものではなく、私たちを解放するためです。だから、イエス様はユダヤ人たちにこう言われました。

もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。(ヨハネの福音書8:31-32)

それを聞いて、多くの現代の人たちはそのユダヤ人たちのように反応します。

私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、「あなたがたは自由になる」と言われるのですか。(33)

現代では、多くの人々はこう言います。「私は日本人です。(または、アメリカ人などです)。私は奴隷じゃない。私は好きなように生きられます。「あなたが自由になる」って、どういう意味でしょうか。」

けれども、イエス様は私たちにこう言われます。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。奴隷はいつまでも家にいるのではありません。

しかし、息子はいつまでもいます。ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。(34-36)

多くの人々は、自分の良心から解放されて、罪を好きなだけ犯せば、それは本当の自由だと思います。

ところが、事実は、最初は彼らが罪を犯すことを選んでも、最終的に彼らは罪の奴隷になることです。彼らはもうその罪を犯したくなくても、自分自身を止められません。ポルノの中毒とか、ギャンブル中毒とか、アルコール中毒とか、いろんな例があります。

それだけではなく、多くの人々は苦々しい思いの奴隷です。

または、彼らは自分の悪い習慣の奴隷のゆえに、自分の結婚や人間関係を壊しますが、その習慣を捨てられません。

しかし、私たちがイエス様に従うと、イエス様は私たちを解放してくださいます。

私たちは自分の人生を滅ぼすものに鎖で縛られていましたが、イエス様はその鎖を壊して、より優れた道を示してくださいます。それだけではなく、その道を歩む力を与えてくださいます。

イエス様は「しなさい」だけを言われません。むしろ、イエス様はこう言われます。「私の手を取ってください。一歩一歩、一緒に進みましょう。」

そして、私たちは少しずつ変わりつつあり、気がつけば、私たちは完全に解放されていました。

あなたはどうですか。もうあきらめてこう言っているでしょうか。「もう無理です。私はこの罪をやめられない。その罪が私の人間関係や私の人生を壊しているのに、やめられない。」

イエス様はあなたを解放できます。ただし、あなたはイエス様の助けを求めなくてはいけません。

「イエス様、あなたが私を愛して、私の最善を望んでおられることを信じます。だから、私はあなたの道を行きたいです。助けてください。」

そうすれば、あなたの人間関係やあなたの人生は癒されます。そして、あなたは本当の自由を知ります。

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ヨハネの福音書 ヨハネ7章

真理を言うとき

昨日もこの個所について書きましたが、また別のことが私の心を打ちました。

時に、私たちが人々に神様の真理を伝えると、相手にむっとされることがあります。その人が真理を信じず、私たちを憎むことさえあるかもしれません。

イエス様も、そうした不信と憎しみを経験されました。イエス様の兄弟たちでさえ、イエス様を信じず、からかったのです。

そのため、イエス様は彼らにこう言われました。

世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます。わたしが、世について、その行ないが悪いことをあかしするからです。(ヨハネの福音書7:7)

現代のアメリカでは、クリスチャンたちが同性愛は罪であると言うと、多くの人々は「あなたの心は狭い。あなたは偏屈だ」と言います。

イエス様はこの箇所で、そのことについて警告されました。私たちは世の中で、その行いが悪いことを証しするなら、憎まれ、迫害されることがあります。

以前私が言ったように、真理を伝えるには正しい方法と悪い方法があります。私たちは相手を憎まず、愛をもって真理を伝えるべきです。

私の娘が4歳の時、私はよくこう言いました。「危ないよ。駐車場や道に飛び出してはいけない。車に轢かれるよ。」

どうして私はそう言ったのでしょうか。それは娘を愛しているからです。

人々を彼らの罪のゆえに警告するとき、私たちもそんな態度を取るべきです。その罪が本当に酷いものでも、私たちは彼らを軽蔑せず、憎むべきではありません。

むしろ、彼らが悔い改めて救われることを願うべきです。そして、彼らが神様の恵みと憐れみを知ることを願うべきです。

しかし、愛をもって真理を伝えても、私たちが憎まれる場合もあります。イエス様は完全な神の子でした。それでも、人々はイエス様を信じず、憎み、イエス様を十字架で殺しました。

私たちは違う反応を期待するべきでしょうか。

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真理を語っている?

この話では、私たちは18年間ほど時を飛ばします。イエス様は30歳になり、自分のミニストリーを始められました。けれども、彼が始める前に、イエス様のいとこバプテスマのヨハネは、すでに自分のミニストリーを始めていました。

使徒ヨハネは、バプテスマのヨハネが誰であるかを説明します。

神から遣わされたヨハネという人が現われた。この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。

彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。(ヨハネ1:6-8)

祭司たちや、パリサイ人、サドカイ人(パリサイ人とサドカイ人はユダヤ人の宗派です)がヨハネに「あなたはどなたですか」と尋ねたとき、彼はこう答えました。

私はキリスト(つまり、メシア、または、救い主)ではありません。。。私は、預言者イザヤが言ったように「主の道をまっすぐにせよ」と荒野で叫んでいる者の声です。(ヨハネ1:20,23)

彼の人生の目的は、人々の心をイエス様をメシアとして受け入れるために整えることでした。

私たちはイエス様の弟子として、神様から同じ使命を与えられています。私たちは周りの人々の心をイエス様のために整えるべきです。私たち自身には彼らを救う力はありません。ただ、神様の言葉という種を彼らの心にまくことができるだけです。

私たちのメッセージもヨハネのメッセージとほぼ同じです。

主な違いは、ヨハネの時代には神様からの救いがイエス様を通してまだ到来していなかったという点です。しかし、イエス様がすぐに来られるので、彼らは自分の心を準備しなくてはなりませんでした。(ルカ3:6)

一方で、私たちのメッセージは、イエス様を通して神様の救いがすでに到来したということです。

また、ヨハネの言葉を見ると、一つのことが私の心に深く響きます。ヨハネは率直に話しました。

パリサイ人とサドカイ人が来たとき、彼はこう言いました。

まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。

「われわれの父はアブラハムだ」と心の中で言うような考えではいけない。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。

斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。

私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。

その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。(マタイ3:7-12)

どうしてヨハネはそんなに厳しく話したのでしょうか。それは、彼らが偽善者だったからです。彼らは神の律法を守ろうと努力しました。つまり、外面的には正しいことを行いましたが、心は堕落していました。

彼らはこう思っていました。「私はユダヤ人だから、神様に受け入れられているだろう。それに、神の律法を知らない多くのユダヤ人と違って、私はよく知っている。」

しかし、彼らの心がプライドに満ちていたため、神様のあわれみを知ることができませんでした。

一方で、ヨハネは他の人々に対してもっと優しく話しました。イスラエル人に嫌われていた人々(取税人やローマの兵士)にも優しく接しながら、「悔い改めなさい」と語りました。裁きの日が来るので、罪深い人生を続けてはいけなかったのです。

私たちも真理を伝えなければなりません。そのメッセージは厳しく感じられるかもしれませんが、伝えることが重要です。

もちろん、イエス様の愛についても語るべきです。そして、イエス様が彼らの罪のために死なれたこと、またその死によって赦され、その心が癒されることを伝えるべきです。

けれども、彼らがプライドや罪、頑固さを持ち続けるなら、私たちは裁きの日について警告すべきです。そうしないと、神様は私たちに責任を負わせるでしょう。(エゼキエル書3:16-21;使徒の働き20:26-27)

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エレミヤ書

騙す心、嘘をつく舌

できるだけ、私は正直でいるようにしています。私は「罪のない嘘」であっても好きではありません。

何かをしたくない場合は、正直に言います。優しく伝えますが、正直に言います。

もし何かが好きではない場合、普通は何も言いません。英語では、このようなことわざがあります。

「もし、優しいことが言えないなら、何も言わない方が良いです。」

できるだけ、その言葉に従っています。もし何かを言わなければならない場合は、できるだけ優しく伝えます。(とはいえ、時々失敗することもあります。)

どうして、私はあまり嘘をつかないのでしょうか。一つ目は、私は嘘をつくのが苦手だからです。しかし、もっと大切な理由は、神様が私たちに真実を語る人々であることを望んでおられるからです。

この箇所では、そのことを読むことができます。神様はエレミヤにこのように言われました。

彼らは舌を弓のように曲げ、真実でなく、偽りをもって、地にはびこる。まことに彼らは、悪から悪へ進み、わたしを知らない。――主の御告げ――

おのおの互いに警戒せよ。どの兄弟も信用するな。どの兄弟も人を押しのけ、どの友も中傷して歩き回るからだ。

彼らはおのおの、だまし合って、真実を語らない。偽りを語ることを舌に教え、悪事を働き、依然として悔い改めない。

彼らはしいたげに、しいたげを重ね、欺きに欺きを重ねて、わたしを知ろうともしなかった。――主の御告げ――

それゆえ、万軍の主はこう仰せられる。「見よ。わたしは彼らを溶かしてためす。いったい、わたしの民の娘に対し、ほかに何ができようか。

彼らの舌はとがった矢で、欺きを語る。口先では友人に平和を語るが、腹の中では待ち伏せを計る。(エレミヤ書9:3ー8)

神様は非常に惨めな光景を描かれます。エレミヤは自分の家族や友人を信頼することができませんでした。彼らは優しい言葉を語りましたが、その舌は毒で満たされていました。

だから、神様はそのような人々についてこのように言われました。

これらのために、わたしは彼らを罰しないだろうか。――主の御告げ――このような国に対して、わたしが復讐しないだろうか。(9)

あなたはどのような人でしょうか。あなたは偽りを語ることを舌に教えているでしょうか。それとも、愛をもって真理を語ることを舌に教えているでしょうか。

あなたの口は嘘で満ちているでしょうか。それとも、あなたの口は真実で満ちているでしょうか。

妻や夫と話す時、彼らに何かを隠しているでしょうか。それとも、何も隠さないでしょうか。

仕事では、クライアントと契約を結ぶために、何かを隠しているでしょうか。それとも、本当に正直でいるでしょうか。

口で優しいことを言いながらも、心の中で相手を侮っているでしょうか。それとも、イエス様のように相手を愛し、あなたの言葉と心が一致しているでしょうか。

もしあなたが真理を愛していないなら、本当に神様を知っていると言えるでしょうか。

神様は真理です。そして、神様は私たちが真理を語る人であることを望んでおられます。

あなたはそのような人でしょうか。