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使徒の働きのデボーション

神に出会える場所となる(3)

使徒の働き6章を読むたびに、ステパノについての記述が私の心に響きます。

「御霊に満ちた。」

「知恵に満ちた。」

「信仰に満ちた。」

「恵みに満ちた。」

「力に満ちた。」

今日、この言葉を読んで、私はこう考えました。

「もし私が、周囲の人々にとって神に出会える場所となりたいのなら、そのような人にならなければならない。」

しかし、ステパノはどのようにして、このような人物となったのでしょうか。

おそらく、その理由の一つは、彼が他のクリスチャンたちと同じように、御言葉と祈りに専念したからです。(使徒の働き2:42)

この二つの事柄は、12人の使徒たちのミニストリーの中心でした。(使徒の働き6:4)

ステパノは聖書に精通するにつれて、その知恵を深めていきました。

祈りによって、御霊と強く結ばれ、恵み、力、そして信仰に満ちるようになったのです。

だから、私は御言葉と祈りのために、もう少し時間を取る必要があると思います。もしかしたら、もっと多くの時間を取るべきなのかもしれません。

もちろん、私は仕事の責任、家族の義務、そして他にも果たすべき事柄があります。

しかし、もしかすると、神様が今、私に静かに語りかけておられるのではないかと思います。

「もう少し時間をちょうだい。もう少し時間を与えてくれないか。コンピューターの時間、YouTubeの時間、ポッドキャストの時間をもう少し減らして、私と過ごす時間を増やしてほしい。」

もしかしたら、神様はあなたにも同じようなことを語っておられるかもしれません。

あなたはどう思いますか。

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使徒の働きのデボーション

御霊と知恵に満ちた人

そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たちを七人選びなさい。

その人たちにこの務めを任せることにして、私たちは祈りと、みことばの奉仕に専念します。(使徒の働き6:3ー4)

今日の箇所を読んだとき、「祈りとみ言葉」と「御霊と知恵に満ちた人」の関係が見えてきました。

御霊に満ちた人になりたいですか。イエス様のように、御霊に導かれ、その力によって歩みたいですか(ルカ4:1、14)。

そのような人生を送りたいのであれば、御霊と繋がらなくてはなりません。つまり、私たちは祈らなくてはならないということです。毎日、私たちは、御霊が私たちを満たし、力を与え、導いてくださるように祈るべきです。

イエス様は私たちに言われました。「求め続けなさい。探し続けなさい。たたき続けなさい。そうすれば、神様は必ず御霊を与えてくださいます。」(ルカ11:9-13)

知恵に満ちた人になりたいですか。聖書に専念する人にならなくてはなりません。聖書を読み、その言葉に思いを巡らしてこそ、神様のように考え始めるのです。

使徒たちはその二つのことに専念したので、御霊と知恵に満ちた人になりました。でも、そのような生活は、ただ偉いクリスチャンたちのためのものではありません。

私たち皆が、そのようなクリスチャン生活を送るべきなのです。

使徒の働きの時代、すべてのクリスチャンたちはみ言葉と祈りに専念していました。(使徒の働き2:42)

だから、そのような生活は、ただ偉いクリスチャンのためであるという嘘を信じてはいけません。イエス様についていくすべてのクリスチャンが、そのように生きるべきなのです。

神様の民である私たちが御霊と知恵に満ちて生きるとき、私たちの愛する人々、そしてこの国の人々も変えられ、イエス様に従うようになります。

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伝道者の書のデボーション

神様が人生の中心であるなら

伝道者の書を読むと、気が沈むのは簡単なことです。

でも、この書の鍵は以下の表現にあります。

「もし、神様が私たちの人生の中心なら。。。」

もし、神様が私たちの人生の中心なら、私たちの仕事には意味があります。なぜなら、その仕事によって、私たちは神様に栄光を与えるからです(コロサイ3:17、23ー24)。

もし、仕事そのものが私たちの人生の中心なら、最終的に、私たちが振り返ると「私は意義のあることを本当にやり遂げただろうか」と疑問に思います。(3節)

神様が私たちの人生の中心なら、私たちは被造物を見ると、そのデザイン、また、その創造者に感嘆します(詩篇19:1ー6;詩篇104)。

でも、神様が私たちの人生の中心ではないなら、その畏敬の念を失ってしまいます。(伝道者の書1:5ー9)

神様が私たちの人生の中心なら、毎日は神様との新しい冒険です。神様のあわれみや慈しみは朝ごとに新しいですから(哀歌3:22ー23)。

でも、神様が私たちの人生の中心ではないなら、毎日、私たちは喜びがなく、何も期待せず、ただ一日を乗り切ろうとします。(伝道者の書1:8ー11)

神様が私たちの人生の中心なら、私たちはいつも希望を持っています。神様の知恵を持つので、私たちはこの壊れた世を見るけれど、神様が人間が壊したものを直すことができるという確信を持っています。

でも、神様から離れると、人間の知恵は絶望に至ります。なぜなら、私たちは人間の力の限界を見て、人間が自分で壊したものを直すことができないと分かるからです。(12ー18節)

だから、伝道者の書にあるソロモンの言葉を読むとき、ソロモンがどんなものの見方を表現するかに注意しましょう。神様中心のものの見方で話すときもあるし、神様中心ではないものの見方で話すときもあります。

ソロモンが悲観的な言葉、また、憂鬱な言葉を語るとき、考えてみてください。ソロモンが神様中心のものの見方を使えば、どのようにその言葉は変わるでしょうか。

でも、それだけではなく、自分に訊きましょう。「私の人生が神様中心のものなら、どのように、私のものの見方は変わるだろうか。」

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箴言のデボーション

神の知恵を尊ぶ

今日の箇所を読むとき、私たちはよく理想的な妻について考えます。

でも今日、私に思い浮かんだのは箴言8ー9章で、知恵が女性に擬人化されていることです。

残念なことですが、なぜか、新改訳では私たちはその描写を見ることができません。

とにかく、理想的な妻に関する言葉の多くは、知恵に関しても以前に箴言で書かれていました。

例えば、知恵は真珠よりもはるかに尊いものです。(箴言3:13ー15;31:10)

また、知恵は主を恐れることで特徴つけられています。(箴言9:10;31:30)

知恵は、努力や(箴言6:6ー11;31:13ー19)、気前が良い態度や(箴言11:24ー25、31:20)、未来に関する安心で特徴つけられています。(箴言24:14;31:25)

最後に、知恵は自分の言葉で自分自身を表現します。(箴言8:6ー9、14;10:11ー13、20ー21;31:26)

だから、私たち皆が、(女性でも、男性でも)箴言にある知恵を実践し、神様の知恵で特徴づけられる人になることを願います。

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箴言のデボーション

神の前にへりくだる

皮肉なことですが、箴言の終わりに私たちがたくさんの知恵を聞いたのに、アグルという人はこう言います。

まことに、私は粗野で、人ではない。私には人間としての分別がない。私はまだ知恵も学ばず、 聖なる方の知識も持っていない。(箴言30:2ー3)

でももしかしたら、私たちはそんな謙遜な態度を取るべきかもしれません。なぜなら、私たちがどんなに知恵を持っても、私たちの知恵は神様の知恵と比べられないものです。

それでも、苦しむときに、私たちは神様を疑います。

「どうして、神様は、コロナを許しただろうか。」

「どうして、神様は、天災を許すだろうか。」

「どうして、神様は、この世の悪を許すだろうか。」

ヨブのように、私たちは神様から答えを迫ろうとすることができます。ヨブの友達のように、私たちはもうその答えを知っているふりをすることができます。

でも、最終的に、私たちが認めなくてはならないのは、「私は何も知らない」ということです。

すべてのことを知っている方は一人しかおられません。でも、その人は私たちではありません。(4)

だから、私たちは選択があります。私たちは無知なままで、神様を罵ることができます。

もしくは、私たちはヨブのようにへりくだって、神様にこう認めることができます。

あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能ではないことを、私は知りました。

あなたは言われます。「知識もなしに摂理をおおい隠す者はだれか」と。

確かに私は、 自分の理解できないことを告げてしまいました。自分では知り得ない、あまりにも不思議なことを。(ヨブ記42:2ー3)

箴言の冒頭で、私たちはこの言葉を読みました。

主を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。(箴言1:7)

また、

主を恐れることは知恵の初め、 聖なる方を知ることは悟ることである。(箴言9:10)

私たちはすべてのことを理解することはできません。でも理解し始めたいと思うなら、私たちは二つのことをしなくてはなりません。

神様を恐れなくてはいけません。

神様を信頼しなくてはなりません。

あなたはどうするでしょうか。

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箴言のデボーション

知恵をもって箴言に向き合う

愚かな者が口にする箴言は、 足の萎えた者の垂れ下がった足。(箴言26:7)

愚かな者が口にする箴言は、 酔った人が手に取り上げる茨。(9節)

箴言を読むときに、多くの人々はどのように箴言を解釈するべきか分かりません。

でも上記の箴言が指摘するように、もし箴言の使い方が分からなければ、最善の場合でも箴言は役に立たないものになります。最悪な場合、箴言によって人は傷ついてしまいます。

ヨブの友達をちょっと考えてみてください。彼らはいつも箴言を語りました。さらに、パウロはその友達のひとつの箴言を引用しました。

だから、その言葉自体は間違っていませんでした。(ヨブ5:13;第一コリント3:19)

でも、その友達は愚か者で、その箴言によってヨブを傷つけてしまいました。

だから、箴言を読むときには、二つの大切なことを心に留めておきましょう。

1. 箴言は神様の約束ではありません。むしろ、箴言は、神様が造られた世界に関する一般的な原則を表現しています。でも、心に留めておいてください。一般的な原則にはいつも例外があります。

例えば、ヨブの友達がいつもヨブに語った一般的な原則は何でしょうか。それは、神様が良い人々を祝福され、悪い人々を呪われるということです。

でも、すべての金持ちが神様に祝福されているとは限りません。また、すべての苦しんでいる人々が神様に呪われているとは限りません。

この壊れた世界では、良い人も苦しむし、悪い人も栄えます。でも最終的に、神様が正義をもたらされて、良い人は栄え、悪い人は苦しみます。

また、箴言22:6をちょっと考えてみてください。

若者をその行く道にふさわしく教育せよ。 そうすれば、年老いても、それから離れない。

それは神様の約束でしょうか。

それは約束ではありません。それは一般的な原則です。

でも、自分の子供が悪い道を行ってしまう時、どれだけ良い両親が自責の念に苦しむでしょうか。

だから、箴言を読むときには、相手を責めること、また自分を責めることに注意しましょう。

2. 箴言には、適切な時も、不適切な時もあります。

例えば、箴言26:4〜5をちょっと読んでみましょう。

愚かな者には、その愚かさに合わせて答えるな。あなたも彼と同じようにならないためだ。

愚かな者には、その愚かさに合わせて答えよ。そうすれば彼は、 自分を知恵のある者と思わないだろう。

では、どうすれば良いのでしょうか。愚かなものにはその愚かさに合わせて答えるべきか、答えるべきではないでしょうか。

事情によって違います。あるとき、議論に巻き込まれたら、たくさんの熱は出てくるけど、光はあまり出ません。だから、何も言わない方が良いです。

でも、ある場合には、もしあなたが何も言わなければ、相手が自分の意見に固執し、自分や回りの人々を傷つけてしまいます。

だから、どうすれば良いか考えるときに、神様の知恵が必要です。

5節にも、6節にも知恵のある言葉があります。。。適切な時に使えば。

とにかく、箴言を読むときには、知恵を持って、その箴言を私たちの人生に当てはめましょう。

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箴言のデボーション

叱責を喜んで受け入れる心

嘲る者を戒める者は、自分が恥辱を受け、悪しき者を叱る者は、自分が傷を受ける。

嘲る者を叱るな。彼があなたを憎まないために。

知恵のある者を叱れ。彼はあなたを愛する。

知恵のある者に与えよ。彼はますます知恵ある者となる。

正しい人を教えよ。彼は洞察を深める。(詩篇9:7ー9)

その言葉を読むとき、私たちは他の人々の頑固さを思い浮かべるのは簡単です。

でも、私たちはどうでしょうか。私たちは、自分を叱る人を憎み、嘲る者でしょうか。

それとも、私たちは知恵ある者でしょうか。自分を叱る人を愛しているでしょうか。叱られるとき、ますます知恵ある者になるでしょうか。洞察を深めるでしょうか。

正直に言うと、私は頑固な人間です。人々が私を叱ったとき、私は何度もその言葉を無視し、「その言葉は私のためではない」と思いました。

だから、その頑固な態度を砕くために、神様には、私にこう言わなければならない時がありました。「注意しなさい。その言葉はあなたのためです。」

ところで、これはもう一つの大切なポイントです。私たちは周りの人々の叱責を受け入れるべきですが、神様の叱責を受け入れることはなおさら重要です。

だから、ソロモンはこう書きました。

主を恐れることは知恵の初め、 聖なる方を知ることは悟ることである。(10)

主よ、私がいつもあなたの叱責を受け入れる心を持つことができますように。

あなたが人を私のもとに遣わされるとき、私が聖書を読むとき、あなたの御霊が語られるとき、 どうか私に素直な心をお与えください。 イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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箴言のデボーション

聖書を読むとき

私たちは聖書を読むとき、どのような態度を持っているでしょうか。

私たちはその御言葉を受け入れるでしょうか。もしかすると、私たちは自分に都合の悪い言葉を拒むかもしれません。

神様の命令を心に蓄えるでしょうか。あるいは、その命令を時代遅れとして退けてしまうでしょうか。

私たちは自分の耳を神様の知恵に傾けるでしょうか。もしかすると、その知恵に耳を閉ざすかもしれません。

私たちは自分の心を英知に向けるでしょうか。あるいは、英知に背を向けるでしょうか。

私たちは謙遜な態度で、悟りを得るために神様に呼びかけるでしょうか。あるいは、無関心な態度を持っているでしょうか。

聖書が分からない時、私たちは神様に向かって声を上げるでしょうか。それとも、分からないままで沈黙しているでしょうか。

神様の知恵を銀のように探し求めるでしょうか。あるいは、一円玉のように見過ごしてしまうでしょうか。

隠された宝のように、神様の知恵を探し出すでしょうか。それとも、その言葉を昨日のごみのように放置するでしょうか。

神様は私たちに知識と英知を与えようとされています。神様は私たちを祝福したいと願っておられるからです。

しかし、私たちは本当に、その知識と英知を求めているでしょうか。

主よ、私は毎日、聖書を読むときに、私の心の目と耳を開いてください。私があなたの知恵を見て、聞いて、理解できるよう助けてください。

私の頑なな石のような心を取り除いてください。その代わりに、あなたの言葉を受け入れる柔らかい心を私に与えてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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箴言のデボーション

主よ、私に語りかけてください

主よ、私に語りかけてください。

あなたを恐れることは知識の初めです。私が決してあなたの知恵や訓戒を侮ることのないようにしてください。(箴言1:17)

むしろ、あなたが私を訓戒されるとき、その訓戒を受け入れる謙遜な心を与えてください。あなたの叱責に立ち返る心を与えてください。

そして、私があなたに向かうにつれて、私にあなたの霊を注ぎ、あなたの言葉を知らせてください。(23節)

私が聖書を読むとき、あなたが私に何を語りたいかを理解できるよう、悟りを与えてください。

私にはまだ分からないことがたくさんあります。この人生を歩むために、私はあなたの知恵と導きを必要としています。(2〜6節)

だから、主よ、私に語りかけてください。どうか、私に語りかけてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ヨハネの黙示録

知恵と思慮の必要性

今日の記事では、第二の獣について取り上げます。

この獣は地から現れ、子羊の角に似た二本の角を持っていますが、竜のように語ります。つまり、彼は神の子羊のように清く見えるものの、実際にはサタンの言葉を語るのです。

第一の獣は暴力を用いて、人々を従わせようとしました。けれども、第二の獣は欺瞞を使います。言葉だけでなく、奇跡も行います。しかし、結果は同じ——聖徒たちが迫害されるのです。

そして、中立的な立場は存在しません。あなたは獣の印を受けるか、神様の印を受けるか、いずれかを選ばなければなりません。

獣の印を受ければ、この世において通常通りに暮らし、必要なものを売り買いすることができます。ところが、神様の印を持っているなら、あなたは迫害を受けることになるのです。

そういうわけで、獣の印が文字通りの印なのかどうかは分かりません。クリスチャンの皆は神様の印を持っていますが、その印は誰の目にも見えません(7:3-4)。

ですから、もしかすると獣の印も目に見えるものではないのかもしれません。時が来れば、私たちはその印が何であるかを知ることになるでしょう。

では、今日の箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。あなたは迫害に備えて心構えをしているかもしれません。でも、欺瞞に対しても用心しているでしょうか。

イエス様はこう言われました。

偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうと、大きなしるしや不思議を行います。(マタイ24:24)

第二の獣は、最後の偽預言者です。

では、どのようにして私たちは彼と反キリストを識別することができるでしょうか。

ヨハネは、私たちには知恵と思慮が必要だと言っています(黙示録13:18)。

ヨハネによれば、第一の獣の番号は六百六十六です。聖書学者たちはその意味について議論を重ねていますが、依然として分かりにくいものです。だからこそ、私たちには知恵と思慮が必要なのです。🙂

私の意見ですが、こう考えています。聖書において「7」は「完全さ」を象徴します。したがって「777」は三位一体なる神様を表す数字です。

それに対して、「6」は「不完全さ」を象徴します。竜と二頭の獣は神様を真似ようとしますが、実際には不完全な偽物なのです。

私たちが知恵と思慮を得るためには、真の神様を知る必要があります。そうすることで、偽物を見分けることができるようになるのです。

あるクリスチャンは、自分にはそのような知恵や思慮は必要ないと思っています。なぜなら、反キリストが現れる前に、神様が彼らを天に引き上げてくださると信じているからです。

しかし、忘れてはならないのは、最後の反キリストや偽預言者が現れる前にも、別の反キリストたちや偽預言者たちはすでに登場するということです。

そして、第二の獣のように、彼らは子羊のように見えます。私たちと同じ言葉で語り、似たようなふるまいをします。ところが、実際には獰猛な狼なのです。私たちが彼らに惑わされないためにも、神様からの知恵と思慮が必要です。

あなたはどうでしょうか。

あなたは、ご自身の主とその言葉をどれほどよく知っているでしょうか。あなたは、偽物を見分けることができるでしょうか。

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テモテへの手紙第ー

キリストのことばから離れているなら

現代において、多くの人々はキリストのことばに耳を傾けようとせず、それに従いたくもないと考えています。

また別の人々は、自分の都合に合わせてイエス様のことばの一部だけを受け入れ、残りは切り捨ててしまいます。

しかし、イエス様の弟子として生きる私たちは、そのような態度を取ることはできません。イエス様ご自身が、それをはっきりと教えておられました(マタイ7:21〜27)。

この真理を、パウロはテモテに力強く伝えました。そして彼はこう語ったのです。

違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと、敬虔にかなう教えに同意しない者がいるなら、その人は高慢になっていて、何一つ理解しておらず、議論やことばの争いをする病気にかかっているのです。

そこから、ねたみ、争い、ののしり、邪推、絶え間ない言い争いが生じます。

これらは、知性が腐って真理を失い、敬虔を利得の手段と考える者たちの間に生じるのです。(テモテへの手紙第一6:3-5)

おそらくパウロがこのことばを語ったとき、イエス様のたとえ話「岩の上に建てられた家と砂の上に建てられた家」を思い起こしていた可能性は高いでしょう。

なぜなら、イエス様とパウロの語る結論は非常に似ているからです。すなわち、イエス様に従わない者は、実は何も理解していないということです。彼らは自分が賢いと思い込み、自分の知恵を誇りますが、実際には愚か者なのです。

その愚かさは、彼らが生み出す「実」によって明らかになります。彼らの語ることばは、ねたみ、争い、ののしり、邪推、そして絶え間ない言い争いを引き起こします。彼らは「敬虔」ということばの意味をねじまげ、それを利得の手段として用いてしまうのです。

残念ながら、現代のアメリカのテレビで放送されている一部の伝道師の番組にも、こうした様子が見受けられることがあります。

だからこそ、パウロはテモテに強く戒めを与えたのです。

テモテよ、委ねられたものを守りなさい。

そして、俗悪な無駄話や、間違って「知識」と呼ばれている反対論を避けなさい。ある者たちはこの「知識」を持っていると主張して、信仰から外れてしまっています。(20-21)

簡単に言えば、「私はイエス様のことばをあなたにゆだねました。そのことばを守りなさい。そのことばを手放して、他の人々が『知恵』と呼んでいるものを受け入れてはなりません。むしろ、命をもたらすことばを教え、勧めなさい」(2〜3節)。

もし、誰かがイエス様のことばを攻撃してくるなら、そのことばを擁護しなさい。なぜなら、イエス様が再び来られるとき、あなたに託されたみことばについて、あなたは責任を問われるからです(13〜14節)。

あなたはどうでしょうか。たとえ牧師でなくても、神様はそのみことばをあなたに託しておられます。

あなたは、そのことばを堅く守っているでしょうか。それとも、この時代の文化があなたの確信を揺るがしているでしょうか。

この世の知恵を退けましょう。この世の傲慢さに惑わされて、キリストのことばから引き離されないように。

むしろ、自分の心の奥深くにキリストのことばを大切にとどめましょう。そして、イエス様のことばが非難されるときには、恐れずに堅く立ち、そのことばを語り続けましょう。

この世が語る教えは、やがて死に至ります。しかし、イエス様のことばは命へと導きます。

では、あなたは今、誰のことばを語り、誰の声に従っているでしょうか。

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コロサイ人への手紙

すべての信者のための祈り

クリスチャンの友人のために祈りたいと思っても、「○○さんを祝福してください」という祈りにとどまらず、もっと深く祈りたいと願うなら、パウロの祈りに目を向けてみると良いでしょう。

パウロの模範から、私たちは神様の御心に従って人々のためにどのように祈るべきかを学ぶことができます。

その一つの模範は、コロサイ人への手紙第1章に見られます。パウロはコロサイの人々に会ったことはありませんでしたが、エパフラスという人から、彼らの信仰について報告を受けていました。

彼らの信仰を聞いたとき、パウロは心から喜びました。そして彼は、コロサイの人々のために、非常に具体的な内容をもって祈りました。彼は何を願って祈ったのでしょうか。

どうか、あなたがたが、あらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころについての知識に満たされますように。(コロサイ人への手紙1:9)

クリスチャンとして、私たちは皆、そのような知恵と理解を必要としています。なぜでしょうか。

また、主にふさわしく歩み、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる良いわざのうちに実を結び、神を知ることにおいて成長しますように。(10)

神様を喜ばせたいと願うなら、また、実を結ぶ者となりたいなら、私たちは神様の御心を知らなければなりません。

そして、神様がその知恵と理解をもって私たちを満たしてくださるにつれて、私たちは神様のことをより深く知るようになります。神様の考え方を理解し、神様にとって何が大切かを知るようになるのです。

私たちは、神様のことについて知るだけでなく、神様ご自身を知るようになります。特に、神様がその力をもって私たちを強めてくださるとき、私たちは神様をさらに深く知るようになるのです。

だからこそ、パウロはコロサイの人々のために、こう祈ったのです。

神の栄光の支配により、あらゆる力をもって強くされ、どんなことにも忍耐し、寛容でいられますように。

また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格をあなたがたに与えてくださった御父に、喜びをもって感謝をささげることができますように。(11-12)

神様は、私たちが自分の力でクリスチャン生活を送ることを望んでおられません。

多くのクリスチャンは、確かに試練に耐え、寛容を示してはいますが、そこに喜びが伴っていないのが現実です。なぜでしょうか。それは、彼らが神様の力ではなく、自分の力に頼っているからです。

パウロの祈りは、コロサイの人々が自分の力によって試練に耐えるようにというものではありませんでした。むしろ、神様の力に満たされ、喜びをもって忍耐し、歩むことができるようにと祈ったのです。

またパウロは、彼らが自分自身に焦点を当てるのではなく、神様に目を向けるようにと祈りました。パウロの祈りの根底には、コロサイの人々が自分の努力ではなく、神様の恵みによって多くの祝福を受けたことを思い起こすように、という願いがありました。

私たちが神様の相続にあずかることができるのは、神様が私たちにその資格を与えてくださったからです。

それだけではなく

御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。(13-14)

もう一度、はっきりと言います。それらすべては、神様の働きです。

神様は、私たちを暗闇の力から救い出してくださいました。そして、私たちを御子のご支配の中へと移してくださいました。私たち自身によってではなく、イエス様にあって、私たちは贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。

ところが、多くのクリスチャンはこの真理を忘れてしまいます。そのため、自分の力や知恵によって生きようとして、やがて喜びを失ってしまうのです。

しかし、私たちが神様の知恵と知識、そして力に満たされ、自分の努力ではなくキリストの働きから祝福がもたらされていることを思い起こすとき、私たちは喜びを知るようになります。

ですから、クリスチャンの兄弟姉妹のために祈るとき、ただ「神様、この人を祝福してください」と祈るだけで終わらないでください。パウロのように祈りましょう。

そして、自分自身のためにも、そのように祈りましょう。

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コリント人への手紙第一

神様の思いを知るため

目に見えない神がご自身を私たちに現されなければ、私たちはその神について何も知ることはできません。

さらに、たとえ神がご自身を私たちに現されたとしても、私たちに理解できる心を与えてくださらなければ、その啓示を正しく認識することはできないでしょう。

これこそ、救いと恵みの神秘の一つです。私たちの目には神様は見えませんが、神様はご自身を現してくださいました。

そして、私たちは自分の知恵によって神様の啓示を理解することができませんでしたが、神様は御霊を通して私たちにその理解を与えてくださいました。

この箇所において、私たちはこの真理を知ることができます。

パウロは次のように問いかけました。

人間のことは、その人のうちにある人間の霊のほかに、いったいだれが知っているでしょう。

同じように、神のことは、神の霊のほかにはだれも知りません。(コリント人への手紙第一2:11)

結婚する前、私は婚約者にこう言いました。「私はあなたの思いを読み取ることはできません。だから、気になることがあれば、私に教えてください。」

人の思いを読み取ることは、とても難しいことです。彼らはいったい何を考えているのでしょうか。何を感じているのでしょうか。何を計画しているのでしょうか。

もし目に見える人の思いさえ読み取ることができないなら、どうして目に見えない神の思いを理解できるでしょうか。

人は自分の知恵によって神様とその計画を理解することはできません。

7~8節で、パウロはその例として神様の救いの計画を示しました。神様は初めからご自身の計画を知っておられましたが、人々はその計画を完全に理解することができませんでした。

神様はユダヤ人に儀式や預言者の言葉を通して救いの描写を示してくださいました。けれども、彼らはその描写を正しく把握することができませんでした。

だから、パウロは次のように語りました。

この知恵を、この世の支配者たちは、だれ一人知りませんでした。もし知っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。(8)

大祭司であったカヤパでさえ、その計画を理解することはできませんでした。皮肉なことに、カヤパは自分の言葉の意味を正しく把握していませんでした。彼はイエス様について次のように語りました。

一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だということを、考えてもいない。(ヨハネの福音書11:50)

ヨハネは後にカヤパの言葉を解説しました。

このことは、彼が自分から言ったのではなかった。

彼はその年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子らを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。(ヨハネの福音書11:51-52)

神様がカヤパを通して預言されたのは、実に不思議なことです。けれども、パウロの次の言葉はまさにカヤパの姿を的確に描写しています。

生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。

それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです。(14)

カヤパは大祭司でしたが、もし誰かが「イエス様は人々の罪のために死ななければならない」と伝えていたなら、カヤパはその人を愚かだと思ったことでしょう。

なぜでしょうか。それは、聖霊様がカヤパのうちに住んでおられなかったからです。

しかし、聖霊様は私たちのうちに住んでおられます。だから、パウロは次のように語りました。

しかし、このことは、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった」と書いてあるとおりでした。

それを、神は私たちに御霊によって啓示してくださいました。御霊はすべてのことを、神の深みさえも探られるからです。(9-10)

また、

しかし私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神が私たちに恵みとして与えてくださったものを知るのです。(12)

また、

「だれが主の心を知り、主に助言するというのですか。」しかし、私たちはキリストの心を持っています。(16)

私たちはすべてのことを理解できるでしょうか。もちろん、そうではありません。まだはっきりと見えないことがたくさんあります。神様は私たちの救いを明らかにしてくださいましたが、救いはなお神秘的なものです。

けれども、神様に近づき、霊的に成長するにつれて、神様は霊的な真理を教え、さらに多くのことを示してくださいます。(13)

だから、このように祈りましょう。

聖霊様、私があなたを知るように、また、あなたが整えてくださったことを知るように、私の心の目と耳を開いてください。

そのように祈れば、聖霊様は必ずご自身を現してくださいます。

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コリント人への手紙第一

人間の哲学と知恵の空しさ

第18節を読んだとき、パウロの言葉は私の心に深く響きました。

十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。(コリント人への手紙第一1:18)

私は子供のころからクリスチャンだったので、十字架の言葉(つまり、十字架のメッセージ)は私にとって当たり前のものでした。幼い頃からそのメッセージを教えられ、それを信じてきました。

とはいえ、もし誰かが「あなたの救いは電気椅子のメッセージによるものです」と言ったり、「あなたの救いは絞縄のメッセージによるものです」と言ったりしたら、私はその人が正気ではないと思うでしょう。

同じように、ユダヤ人やギリシア人たちはパウロのメッセージを聞いたとき、彼の言葉が理解できず、彼の頭がおかしいと思ったのです。

パウロは次のように語りました。

ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。

しかし、私たちは十字架につけられたキリストを述べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとってはおろかなことです。。。(22-23)

神様がさまざまな奇跡を通してイスラエルの民をエジプトから救い出されたように、ユダヤ人は神様が力を振るい、彼らを再び救い出されることを期待していました。

神様がモーセを通して数々のしるしを行い、エジプトの軍隊を滅ぼされたため、ユダヤ人はメシアが同じようなしるしを行い、ローマ帝国を滅ぼすことを望んでいました。

しかし、パウロが宣べ伝えた救いのメッセージは、ローマの十字架にかけられて死なれたメシアについてのものでした。ローマ人はそのメシアを打ち、十字架につけて殺しました。

そのため、多くのユダヤ人はイエス様がメシアであることを受け入れることができませんでした。

一方で、ギリシア人は哲学に深く感銘を受けていました。そのため、イエス様の教えが彼らの思考に挑戦するものであれば、興味を持ったでしょう。

ところが、パウロがアテネでイエス様について語ったとき、彼が話したのはイエス様の教えではなく、イエス様の死と復活についてでした。そのため、彼らはパウロの言葉をすぐに拒み、「このパウロは正気ではない」と思ったのです。(使徒の働き17:31-32)

自分の考えや知恵に固執しながら、神様の知恵を求めることは大きな問題です。そのような姿勢では、神様が私たちの期待に沿うことを求めてしまいます。神様の言葉と行いが私たちの知恵と論理に適合することを求めてしまうのです。

そして、もし神様の知恵や行いが私たちの知恵や考えに合わない場合、神様の言葉と行いを愚かだと判断し、退けてしまいます。

しかし、パウロは次のように語ります。

神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。(25)

私は、神様の行いとその理由が分からないときがあることを率直に認めます。例えば、なぜイエス様の十字架の働きが私たちの罪の代価を支払うことができるのでしょうか。その具体的な説明を知りたいと思います。

なぜ、一人の行いがすべてのクリスチャンの罪を覆うことができるのでしょうか。私は完全には理解できません。

これまで多くの説明や描写を聞いてきたため、ある程度は分かります。けれども、それと同時に、なぜある人々がこの教えを愚かだと考え、信じようとしないのかも理解できます。

しかし、神様は、私たちが愚かだと思うものが実際には賢明であることを証明されます。私たちが神様の弱さを見出したと思うとき、神様はその弱さこそが力であることを示されるのです。

そして最終的に、神様は「知恵ある者の知恵を滅ぼし、悟りある者の悟りを消し去る。」(19)

だから、パウロは問いかけます。

知恵ある者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論客はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。

神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教の言葉の愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。(20-21)

私たちは自分の知恵や条件によって神様を見つけることはできません。なぜなら、私たちの考えはあまりにも限られているからです。もし神様を見出したいと願うなら、私たちは神様とその知恵に従わなくてはなりません。

最初のステップは、イエス様を主として認めることです。なぜなら、十字架につけられたイエス様こそが私たちにとって神様の力と知恵だからです。(24)

イエス様は、私たちを救う神様の力です。そして、イエス様は人間となった神様の知恵です。その知恵は人間の知恵をはるかに超えています。

今、イエス様に従いませんか。

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マタイの福音書 マタイ13章

毒麦のたとえ話:どうして悪があるの?

多くの人々は、なぜ神様がこの世に悪を許されるのかについて疑問を持ちます。

このたとえ話で、イエス様はその理由の一つを示してくださいました。

私たちが理解しなくてはならないのは、神様がこの世の悪の源ではないということです。神様は聖なる方であり、決して悪いことをされません。神様は良い種だけを蒔かれます。

とはいえ、私たちには敵がいます。サタンは人々の心に悪い種を蒔きます。その種は毒麦となり、人々を傷つけ、さまざまな害をもたらします。

イエス様はその人々を引き抜くこともできますが、そうすると神様が救いたい人々に悪い影響を与える可能性があります。

どうしてなのでしょうか。正直に言うと、私はすべてを理解しているわけではありません。しかし、例えば、ある人々は神様に対して本当に無関心である場合があります。時として、苦難がなければ、彼らは決して神様に向かおうとしないのです。

それは天災であることもあれば、犯罪による被害であることもあります。もしかすると、彼らは本当に傷つくかもしれません。

けれども、その苦しみを通して、彼らは神様を見出し、救いに至るのです。そして、もしその苦しみがなければ、その人が救われることは決してなかったと神様はご存じなのです。だからこそ、神様は毒麦が残ることを許されているのです。

簡単に言えば、神様には私たちには見えないことが見えています。神様は私たちが知らないことを深くご存じです。

しかし、忘れないでください。裁きの日は必ず来ます。

人を殺す者には裁きが下されます。女性を傷つけた者にも裁きが下されます。神様に反抗する者には、裁きが訪れます。

その日には、すべての人が、神様に仕える者と神様を拒む者の違いをはっきりと理解するでしょう。

だから、この邪悪な世界を見て絶望しないでください。裁きの日を待ち望んでください。その日は正義がもたらされます。そして、その日にはすべての人が神様の知恵と正義を知るのです。

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箴言

話す前に

箴言では、ソロモンは何度も私たちの言葉について警告します。

私の友だちは、一時期、箴言を読むのを避けたと認めました。なぜなら、彼の言葉が悪かったことを知っていて、ソロモンの警告を読みたがらなかったからです。

(ところが結局、彼の努力は無駄でした。神様は別の箇所を通して、私の友達を訓戒されました。)

とにかく、この箇所では、私たちが話す前に考えるように警告します。また、私たちが話す前に、相手の意見を聞くように忠告しています。

ソロモンはこう言いました。

愚かな者は英知を喜ばない。ただ自分の意見だけを表わす。(箴言18:2)

この箇所によれば、相手から学ぶ興味がなくて、自分が話すのが好きな人もいます。けれども、彼らが相手の意見を聞いてこそ、知恵を獲得します。

ソロモンは続けてこう言います。

人の口のことばは深い水のようだ。知恵の泉はわいて流れる川のようだ。(4)

また、

愚かな者のくちびるは争いを起こし、その口はむち打つ者を呼び寄せる。愚かな者の口は自分の滅びとなり、そのくちびるは自分のたましいのわなとなる。(6-7)

さらに、

よく聞かないうちに返事をする者は、愚かであって、侮辱を受ける。(13)

要するに、先に考えずに話せば、妻や夫、友達や上司を怒らせるかもしれません。だから、ソロモンはこう言いました。

反抗する兄弟は堅固な城よりも近寄りにくい。敵意は宮殿のかんぬきのようだ。(19)

どれほど、あなたが先を考えずに話したために、愛する人を傷つけたでしょうか。話すのは簡単なことです。しかし、その言葉が出たら、取り戻すのは不可能です。

だから、ソロモンはこう言います。

人はその口の結ぶ実によって腹を満たし、そのくちびるによる収穫に満たされる。

死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。(20-21)

言い換えると、結局、私たちは自分の言葉の実を食べます。その実は美味しいでしょうか。まずいでしょうか。

私たちがどこにいても、私たちの言葉は私たちの人間関係に影響を与えます。私たちの言葉によって、人々は私たちを愛します。もしくは、私たちを憎みます。

だから、妻や夫、子供や同僚、教会の人たちと話す時に、私たちの言葉に気を付けましょう。

イエス様の言葉は、人々に命を与えてくださいました。私たちの言葉もイエス様の言葉のようになるように。

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箴言

考えなさい

私には日本人の親のことはよく分かりませんが、アメリカでは、子どもが愚かなことをしたとき、親の叱責の最後にしばしばこう言われます——「考えなさい」。

私は詳しく覚えていませんが、私の父にそう言われたことがある気がします。

この箇所では、ソロモンも「考えなさい」と言います。

利口な者は自分の知恵で自分の道をわきまえ、愚かな者は自分の愚かさで自分を欺く。(箴言14:8)

また、

わきまえのない者は何でも言われたことを信じ、利口な者は自分の歩みをわきまえる。(15)

どれくらい、私たちは考えずに行動するでしょうか。そして、その軽率な行動によって、私たちは苦しんでしまいます。特に、私たちが怒るとき、しばしば愚かなことをしてしまいます。

だから、ソロモンはこう言いました。

愚かな者は怒りやすくて自信が強い。短気な者は愚かなことをする。(16-17)

また、私たちは神様の知恵に頼らずに、自分の知恵に頼ることがあります。その時、私たちはソロモンの言葉が正しいと分かるようになります。

人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。(12)

それでは、私たちはどうすれば良いでしょうか。まず、ソロモンは二つの警告をします。

あざける者は知恵を捜しても得られない。しかし悟りのある者はたやすく知識を得る。

愚かな者の前を離れ去れ。知識のことばはそこにはない。(6-7)

つまり、神様からの知恵をあざけるな、ということです。聖書を読む時、「この言葉は昔の時代には合うと思う。けれども、現代には適応できない。その道徳は昔の人のためにふさわしかったかもしれないけど、もう21世紀だよ。」と言ってはなりません。

そんなことを言ったら、あなたは神様の言葉を見下しています。しかし、神様はご自分の御言葉が決して変わらないと言われます。

多くの人々は神様の知恵を捨てて、現代にふさわしい知恵を求めますが、結局見つけられません。なぜなら、神様の知恵を拒絶すると、知恵がなくなってしまうからです。

二つ目の警告は、愚か者から知恵を求めるなということです。ある人は、高ぶって、馬鹿です。彼らは神様の道を考えないし、叱責を決して受け入れません。

だから、彼らの知恵は神様の知恵に反対するものです。もし彼らの知恵に従うと、あなたは苦しんでしまいます。

では、どう生きればいいでしょうか。どうやって、最もいい道が見分けられるでしょうか。ソロモンはこう言います。

知恵のある者は用心深くて悪を避け[ます]。(16)

また、

力強い信頼は主を恐れることにあり、子たちの避け所となる。主を恐れることはいのちの泉、死のわなからのがれさせる。(26-27)

つまり、私たちの道を考える時、私たちは主を恐れるべきです。私たちは主に尋ねるべきです。「どの道が最も良いでしょうか。どうすれば良いでしょうか。」

そうすれば、神様は本当の知恵を教えてくださいます。

ヤコブはこう言いました。

あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。(ヤコブ1:5)

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箴言

神様のみ言葉を正しく理解する

時として、人々は聖書をどのように読めばよいか分からず、聖書の内容を正しく理解できないことがあります。

たとえば、関係のない箇所を組み合わせてしまい、奇妙な解釈や誤った理解が生まれることがあります。箴言8章と第一コリント1章24節は、その一例です。

たとえば、エホバの証人は箴言8章を読んで、「この箇所はイエス様のことを語っている」と考えます。なぜそう思うのでしょうか。

それは、「知恵」が人間のように語っているからです。特に22ー31節では、知恵がこう語っています

主は、その働きを始める前から、そのみわざの初めから、わたしを得ておられた。

大昔から、初めから、大地の始まりから、わたしは立てられた。(箴言8:22-23)

また、

地の基を定められたとき、わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。(29-30)

だからエホバの証人はこう言います。

「第一コリント1:24によれば、キリストは神の知恵です。

ですから、箴言8章では、イエス様が語っているのです。この箇所によれば、神様は創造の働きを始める前から、イエス様を立てられました。つまり、神様がイエス様を造られたのです。

だからイエス様は神様ではなく、神様の被造物なのです。」

けれども、箴言7章から8章を丁寧に読むなら、その考え方が誤っていることに気づくはずです。

残念ながら、新改訳の表現ではその誤解が見えにくいかもしれません。それでも、7章と8章を通して、知恵が女性として描かれていることがわかります。

実際、新改訳でも7:4にその描写が見られます。

知恵に向かって、「あなたは私の姉妹だ」と言い、悟りを「身内の者」と呼べ。

そして、8章でも、ヘブル語で、こう書いてあります。

知恵は呼ばわらないだろうか。英知は彼女

これは丘の頂、道のかたわら、通り道の四つかどに彼女は立ち、門のかたわら、町の入口、正門の入口で彼女は

英語の翻訳を読むと、「彼女(she)」という表現が明確に使われていることがわかります。

それを見ると、おそらくエホバの証人の解釈に問題があることに気づくでしょう。彼らは「イエスは箴言8章の知恵である」と主張しますが、イエス様は女性ではありません。

それでも彼らは、箴言の箇所と第一コリントの箇所、さらにコロサイ1:15ー17節を組み合わせて、「イエス様は神ではなく、被造物である」と結論づけます。

しかし、そのようなまとめ方をすれば、聖書からどんな主張でも導き出せてしまうことになります。

「ユダは」外に出て行って、首をつった。(マタイ27:5)

するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」(ルカ10:37)

さあ、自殺しようか。

それは極端で愚かな話です。けれども、文脈を無視して関連のない箇所を組み合わせると、そのような誤った解釈が生まれてしまいます。

ですから、聖書を読むときには、必ずその箇所の前後を丁寧に読みましょう。そうしないと、エホバの証人のように、私たちも誤った考えに導かれてしまうかもしれません。

箴言7章から8章にかけて、ソロモンは何を語ろうとしているのでしょうか。知恵は本当に女性なのでしょうか。そうではありません。彼は比喩を用いて、知恵を女性になぞらえているのです。

そして、ソロモンはこう語ります。 「知恵はあなたを呼びかけています。不貞な女があなたを誘惑するように(7章参照)、知恵もあなたに語りかけているのです。

しかし、不貞な女はあなたを死へと招いています。

知恵はあなたを真の命へと導きます。神様が天地を創造された時、知恵は神様とともにおられました。そして、知恵を通して、すべての被造物はどのように生きるべきかを知ることができるのです。」

知恵によって、王たちは治め、君主たちは正義を定めます。知恵によって、支配者たちは国を導きます。

今、知恵は分別のない者に呼びかけています。知恵を通して、あなたも分別を身につけることができます。思慮深さを得て、祝福にあずかることができるのです。

知恵を見出すなら、この世のどんな宝物にもまさる価値あるものを見つけることになります。

知恵は真珠にまさり、どんな喜びも、これには比べられないからだ。(11)

実は、私は少し古い歌「More Precious Than Silver」(銀にまさる)がとても好きです。この歌は箴言8:11と3:15節に基づいています。

その歌の作詞者の意図は分かりませんが、おそらく彼はその箇所を正確に理解していなかったのでしょう。きっと「知恵はイエス様のことだ」と考えたのだと思います。

だから、彼はこう書きました。

「主よ、あなたは銀にまさります。あなたは金より価値があります。あなたはダイヤよりも美しいです。私が求めるものは、何もあなたに勝るものはありません。」

もちろん、イエス様はすべてにまさるお方です。とはいえ、箴言のこの箇所では、知恵は「男性」ではなく「女性」として描かれています。

とにかく、私たちは主を求めましょう。主の知恵を求めましょう。ただし、その言葉を正しく読み、正しく理解することが大切です。

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箴言

知恵を尊重する

この箇所では、ソロモンはその父ダビデの言葉を思い出します。ソロモンにとって、その言葉は本当に印象に残りました。ダビデはこう言いました。

父は私を教えて言った。

「私のことばを心に留め、私の命令を守って、生きよ。知恵を得よ。悟りを得よ。

忘れてはならない。私の口の授けたことばからそれてはならない。

知恵を捨てるな。それがあなたを守る。これを愛せ。これがあなたを保つ。

知恵の初めに、知恵を得よ。あなたのすべての財産をかけて、悟りを得よ。

それを尊べ。そうすれば、それはあなたを高めてくれる。それを抱きしめると、それはあなたに誉れを与える。

それはあなたの頭に麗しい花輪を与え、光栄の冠をあなたに授けよう。」 (箴言4:4-9)

ソロモンはその言葉に感動したので、神様がソロモンに「あなたに何を与えようか。願え。」と言われたとき、ソロモンは富や力を願いませんでした。むしろ、知恵を願いました。神様は喜んでその知恵を与えてくださいました。

そのように、もしあなたが知恵を求めると、神様はその知恵をあなたに与えてくださいます。ヤコブはこう言いました。

あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。(ヤコブ1:5)

しかし、どれぐらい私たちは知恵を尊重するでしょうか。私たちは知恵を積極的に求めているでしょうか。

特に、あなたは聖書から知恵を求めているでしょうか。毎日時間を取って、聖書を読むでしょうか。どれぐらい読むでしょうか。

多くのクリスチャンは日曜日だけに聖書を読みます。後は、彼らは「聖書の断食」をします。

だから、私たちの人生を送る時、私たちは知恵がないので、どうして私たちの人生がうまくいかないか分かりません。

だから、ソロモンはこう言いました。

知恵の初めに、知恵を得よ。あなたのすべての財産をかけて、悟りを得よ。(7)

けれども、知恵を学ぶだけでは十分ではありません。その知恵に従うべきです。ヤコブはこう言いました。

ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。

そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。(ヤコブ1:6-8)

時々、人々は神様から知恵を求めるけど、その知恵を聞くと、神様の道が最も良いかどうか疑います。だから、彼らは自分の道を行き続けます。

けれども、そのような人は人生に安定を決して見つけられません。むしろ、その人は自分の状況やほかの人々の意見によって、吹かれて揺れ動いてしまいます。

しかし、私たちは知恵を尊重し、その知恵に従うと、平和や安定と誉を見つけます。

あなたはどうですか。知恵を尊重していますか。

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箴言

愛と忠実さ

愛と忠実さ。この世では、その二つのものは見つけられません。だから、たくさんの人間関係、特に結婚の関係は壊れています。

ソロモンはこう書きました。

恵みとまことを捨ててはならない。それをあなたの首に結び、あなたの心の板に書きしるせ。神と人との前に好意と聡明を得よ。(箴言3:3-4)

その恵みは「変わらない愛」という意味です。そして、たくさんの英語の翻訳は「誠」という言葉を「忠実さ」と翻訳します。

神様に対する愛と忠実さはどういう意味でしょうか。それは、神様に信頼するので、従うという意味です。

簡単に言うと、あなたに対する神様の愛の確信を持って、あなたがその信仰によって生きることです。

ソロモンはその真理をもっと説明します。

心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。

あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

自分を知恵のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。(5-7)

私たちが神様を愛するなら、私たちは全く神様に信頼します。私たちが何をしても、私たちがどこにいても、私たちは自己中心の生活を送らず、神様中心の生活を送ります。そして私たちの知恵に頼らずに、神様の知恵に頼ります。

時々、それは難しいです。正直に言うと、多くの場合、それは難しいです。

特に難しいところは、私たちの家計です。ソロモンはこう書きました。

あなたの財産とすべての収穫の初物で、主をあがめよ。そうすれば、あなたの倉は豊かに満たされ、あなたの酒ぶねは新しいぶどう酒であふれる。(9-10)

あなたが十一献金が新約聖書の教えであることを信じるかどうか分かりませんけど、はっきりしているのは、あなたのお金は実はあなたのものではないことです。あなたは、代価を払って買い取られたのですから(第一コリント6:20)。

そして、もし、自分の体をもって、神の栄光を現わすべきなら、お金によって、神の栄光を現わすべきです。

十一献金に反対する多くの人々は、自分の心で「これは私のお金です。私は好きなように使える権利がある。」と思います。

もちろん、あなたの給料の10%は神様に属しません。実は、すべては神様のものです。あなたは、ただその神様が与えてくださるお金の管理人です。

だから十一献金を捧げても、捧げなくても、あなたはこう聞かなくてはならない。「神様、私がどうやってこのお金を使えば良いか教えてください。これはあなたのものだから。」

そして、私たちは神様の懲らしめを謙遜に受け入れなくてはなりません。ソロモンはこう書きました。

わが子よ。主の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな。

父がかわいがる子をしかるように、主は愛する者をしかる。(11-12)

私たちが聖書を読むとき、また教会の説教を聞くとき、厳しいことを聞くこともあります。その時、聖霊様は私たちを懲らしめてくださいます。

例えば、私たちの結婚の関係に関して、また、子供との関係に関して、神様は私たちに話してくださいます。もしくは、私たちの家計や仕事に関して話してくださいます。

そして、神様の懲らしめを聞くのは辛くて、私たちはその言葉を全然聞きたくないです。

けれども、私たちが本当に神様を愛するなら、その言葉に従います。私たちの知恵に頼らずに、神様の道を選びます。

そうすれば、神様は私たちが命と平和を得ると約束してくださいます。(16-18)

また私たちはその知恵にしがみつき、神様を恐れると、ほかのものを恐れる必要がないです。(21-26)

しかし、私たちは周りの人々にも愛と忠実さを与えるべきです。ソロモンはこう言いました。

あなたの手に善を行なう力があるとき、求める者に、それを拒むな。

あなたに財産があるとき、あなたの隣人に向かい、「去って、また来なさい。あす、あげよう」と言うな。(27-28)

つまり、周りの人々を祝福する機会があれば、待たないでください。すぐにその人を祝福してください。

また、彼らを裏切らないでください。なぜなら、神様はあなたを見ておられるし、そんな人々に反対されるからです。

最後に、ソロモンはこう言いました。

あざける者を主はあざけり、へりくだる者には恵みを授ける。

知恵のある者は誉れを受け継ぎ、愚かな者は恥を得る。(34-35)

私たちが神様の知恵をあざけり、自分の道を行くことを決めたら、蒔いたものを刈り取ります。つまり、恥や悲しみや死を刈り取ります。

けれども、あなたが謙遜に、神様の懲らしめを受け入れて、神様の道を行くなら、神様はあなたに命や、恵みや、平和や、誉れを与えてくださいます。

あなたはどうするでしょうか。

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箴言

柔らかい心を保つ

昨日の記事では、神様とその知恵に対する固い心を持つ危険を見ました。けれども、この箴言2章では、神様とその言葉に対する柔らかい心を持つ祝福を見ます。

ソロモンはこう書きました。

わが子よ。もしあなたが、私のことばを受け入れ、私の命令をあなたのうちにたくわえ、あなたの耳を知恵に傾け、あなたの心を英知に向けるなら、もしあなたが悟りを呼び求め、英知を求めて声をあげ、銀のように、これを捜し、隠された宝のように、これを探り出すなら、そのとき、あなたは、主を恐れることを悟り、神の知識を見いだそう。

主が知恵を与え、御口を通して知識と英知を与えられるからだ。(箴言2:1-6)

神様とその言葉に対する柔らかい心を持つというのは、どういう意味でしょうか。

1. 神様の言葉を受け入れることです。

「あなたの言葉は良いし、正しい」と認めることです。

2. 神様の言葉をあなたの心に蓄えることです。

私たちはよく神様の言葉を聞いて同意しますが、すぐにその言葉を忘れてしまいます。

けれども、それでは物足りないです。私たちはその言葉に思いを巡らし、その言葉を生かすべきです。

3. あなたの耳を知恵に傾けることです。

つまり、神様は聖書や牧師や友達を通して話されるとき、私たちは自分の心を開かなくてはなりません。しかし、多くの場合、私たちは「もう知っているよ」または「その言葉は私の場合に当てはめられないよ」と言います。

しかし、柔らかい心はその言葉を受け入れ、その言葉によって変えられていきます。では、知恵が心を変えるために、私たちはどうすればよいのでしょうか。

4.あなたの心を英知に向けるべきです。

「この言葉はどういう意味でしょうか。どうやってこの言葉を私の人生に当てはめられるでしょうか」と聞いた方がいいです。

また、

5.悟りを呼び求め、英知を求めて声をあげるべきです。

つまり、私たちは神様から英知と悟りを求めるべきです。

自分の人生に聖書のことばをどう当てはめればよいか分からないときでも、そのことばを捨ててはなりません。「私の人生には関係ない」と言ってはなりません。

むしろ、神様に尋ねてみましょう。そうすれば、

主が知恵を与え、御口を通して知識と英知を与えられる。(6)

さらに、知恵に従うことを決めて、また、神様の道を行くことを決めたら、勝利を得ることができ、神様は私たちを見守ってくださいます。その知恵は私たちを悪の道から救い出してくださいます。

悪者は知恵を拒絶するので滅びますが、私たちは命を見つけます。

あなたはどうですか。神様とその知恵に柔らかい心を持っているでしょうか。積極的にその知恵を求めているでしょうか。その知恵をあなたの人生に当てはめているでしょうか。

そうすれば、満ちたりた人生を見つけることができます。

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箴言

知恵を拒絶すると

この箇所では、神様の知恵を拒絶し、自分の知恵に頼る危険を見ることができます。

この個所を読むと、ノアの話を思い出します。洪水が来る前に、ノアはずっと人々に警告していました。

この個所の「知恵」のように、広場でノアは声を上げたでしょう。

「わきまえのない者たち。あなたがたは、いつまで、わきまえのないことを好むのか。あなたには道徳観念がないので、悪魔の言葉にすぐに騙され、悪に落ちてしまいます。(箴言1:22a)

(実は、箴言で、「わきまえのない者」というのは、道徳観念がなく、すぐに騙される人という意味です。)

多分、ノアは「知恵」のように、「いつまで、あなたは神様の言葉をあざけることを楽しむでしょう。いつまで神様の言葉を憎むでしょうか。」と尋ねていました。(22b)

そして、神様はノアを通して、彼らにこう叫んだでしょう。

「わたしの叱責に心を留めるなら、今すぐ、あなたがたにわたしの霊を注ぎ、あなたがたにわたしのことばを知らせよう。しかし、むしろ、あなたはわたしを拒絶します。

わたしの手を伸ばすのに、あなたは顧みません。あなたがたはわたしのすべての忠告を無視し、わたしの叱責を受け入れません。」(23-25)

そして、洪水が来ました。その時、おそらく彼らはやっと神様に叫びましたが、神様は応えてくださいませんでした。彼らが神様を探しても、見つけられませんでした。なぜでしょうか。

なぜなら、彼らは知識を憎み、主を恐れなかったからです。だから、彼らの行ないの実を食らいました。(31)

彼らの背信は自分を殺し、彼らの安心は自分を滅ぼしました。(32)

けれどもノアとその家族は主に従ったので、恐れずに、安全でした。

あなたはどうですか。

道徳観念がなくて、罪を犯しても安心するなら、あなたは結局滅びてしまいます。あなたの人生はめちゃくちゃになるし、最終的に地獄に行ってしまいます。

そして、地獄に行くなら、もう遅すぎます。つまり、悔い改める機会がありません。むしろ、あなたは自分の行いの実を食べます。

しかし、あなたが生きている間に、まだ希望があります。

だから、悔い改めてめましょう。神様の叱責を受け入れましょう。あなたの耳を開きましょう。

あなたの心が柔らかいなら、神様は自分の心をあなたに開いてくださいます。神様は命の道を教えてくださいます。天国への道だけではなく、この世にどうやって満ちた人生を送れるか教えてくださいます。

そして、あなたの人生は神様の喜びと平和で満ちます。

ノアのように、神様の声を聞いて従いましょう。そして、嵐が来るとき、あなたは恐れずに安心して生きることができます。

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箴言

知恵はどこから始まるか

それでは、箴言を始めましょう。

実は、どのように箴言について書くかちょっと迷いました。なぜなら、箴言にはいろんなテーマがあるし、一つの章でも、いろんなテーマがあるからです。

最初は、「テーマごとに整理してみようか」とも考えましたが、最終的には、いつも通りの進め方で書くことに決めました。

初めに、ソロモンがどうして箴言を書いたか説明します。

これは、知恵と訓戒とを学び、悟りのことばを理解するためであり、正義と公義と公正と、思慮ある訓戒を体得するためであり、わきまえのない者に分別を与え、若い者に知識と思慮を得させるためである。

知恵のある者はこれを聞いて理解を深め、悟りのある者は指導を得る。これは箴言と、比喩と、知恵のある者のことばと、そのなぞとを理解するためである。(箴言1:1-6)

箴言は誰のために書かれたのでしょうか。まず、わきまえのない者や若者のためです。(4)

つまり、彼らに分別を与えるためです。要するに、彼らが実世界に入る時、良い決断ができるようにするためです。

さらに、ソロモンは彼らに知識と思慮を授けたいと願っていました。そうすることで、彼らが自分の経済や人間関係において賢く決断できるようになるのです。

けれども、ソロモンは知恵がある者のためにも書きました。そして、箴言を通して、彼らは自分の理解を深め、指導を得ます。

私たちが年を取れば取るほど、「私はもう知っている」という態度を取ることが容易になります。

しかし、ソロモンが言っているのは、私たちが自分の知恵を深めなければならないということです。私たちの勉強は決して終わらないのです。

なぜなら、賢い人でも、知恵を忘れてしまい、愚かな決断をして、自分の人生を壊してしまうことがあるからです。

実は、ソロモンもそうでした。彼はこの世界で一番賢い人だったのに、自分の悪い決断によって自分の人生を壊してしまいました。

さて、知恵のカギは何でしょうか。ソロモンは7節でそのカギを教えてくれます。

主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。(7)

箴言9:10で、ソロモンはこれも書きました。

主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。(9:10)

知恵がある者は主を恐れます。私たちが主を恐れ始めると、私たちは知恵を知り初めます。

なぜでしょうか。なぜなら、神様は私たちの創造主だからです。神様は私たちの人生がどのようにうまくいくかを知っておられます。もし、何かのデザインを知りたいなら、そのデザイナーに尋ねた方がいいです。

しかし自分の道に行こうとしたら、最終的にあなたは困ってしまいます。

私たちは「愚か者」と聞いたら、「馬鹿な人」だと考えます。もちろん、自分の道を行くと、あなたはいろんな愚かな決断をしてしまいます。

けれども、聖書によれば、愚か者は堕落する人です。

私たちが神様とその知恵を侮ると、愚かな決断をして、私たちは損なわれます。私たちは神様の形として造られました。しかし、私たちの罪はその形に傷をつけてしまいます。

どれぐらい、あなたは鏡を見て、神様の形を見ずに、損なわれたイメージを見るでしょうか。

神様は私たちが完全になるように望んでおられます。また、神様は私たちが神様の形を映すことを望んでおられます。

けれども、そのために、私たちは神様とその知恵を受け入れなくてはなりません。神様から知恵を求めれば、神様は喜んで与えてくださいます。

愚か者にならないでください。すべてのことをもう知っていると思わないでください。

箴言を読むとき、あなたの心を開きましょう。その知恵を受け入れましょう。神様があなたに語りかけ、神の形にあなたを形成してくださるように祈りましょう。

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詩篇

どこに向かうか

私たちは困った時に、どこに向かうでしょうか。人々が私たちに反対するとき、私たちは助けを得るためにどこに行くでしょうか。ダビデは何度も自分にその質問をしなくてはなりませんでした。

ダビデも多くの人々のように、自分自身に頼ることができたでしょう。自分の力や知恵に頼ることができたでしょう。

しかし、彼は神様に向かいました。彼はこう祈りました。

主よ。私の祈りを聞き、私の願いに耳を傾けてください。あなたの真実と義によって、私に答えてください。(詩篇143:1)

暗闇の中で、自分の失望から、彼は叫びました。

私に行くべき道を知らせてください。私のたましいはあなたを仰いでいますから。

主よ。私を敵から救い出してください。私はあなたの中に、身を隠します。

あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから。あなたのいつくしみ深い霊が、平らな地に私を導いてくださるように。(詩篇143:8-10)

どれほど私たちは神様に頼らず、自分の力で問題に取り組もうと思うでしょうか。どれほど私たちは神様の言葉を聞かず、自分の知恵に頼るでしょうか。

ダビデはそうしませんでした。むしろ、彼は神様に何をすべきか尋ね、神様の知恵に頼りました。また彼は聖霊様の導きに従いました。

ヤコブはこう言いました。

あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。(ヤコブ1:5)

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詩篇

理解への道

私たちは皆、ますます理解と知恵において成長したいと思います。この箇所では、私たちがどのように成長できるかを見ることができます。

詩人はこう書きました。

あなたの仰せは、私を私の敵よりも賢くします。それはとこしえに、私のものだからです。

私は私のすべての師よりも悟りがあります。それはあなたのさとしが私の思いだからです。

私は老人よりもわきまえがあります。それは、私があなたの戒めを守っているからです。(詩篇119:98-100)

詩人はどのように賢くなったのでしょうか。神様の言葉を知っているだけではなく、その言葉に思いを巡らすだけでなく、彼は神様の言葉に従いました。

たくさんの人々は神様の言葉を知っていますが、知恵を持っていません。彼らは、神様が何を言われたか知っていますが、自分の道を行き続けるので、結局彼らは苦しんでしまいます。

でもこの詩人はそのような人ではありませんでした。彼は神様の言葉を愛したので、その言葉は彼をだんだん変化させました。

神様が憎まれるものを彼は憎み始めました。神様が愛されるものを彼は愛し始めました。(103-104、127-128)

それに、神様の言葉が彼の言動の基準になりました。その言葉は、彼の足のともしびと道の光になりました。(105)

だから彼は悪者とその意見を避けました。(113、115)

それに、彼は神様の前にへりくだって、神様から学び(125、133、135、144)、神様の戒めに従うために神様の力に頼りました。(133-134)

どうして彼はそうしたのでしょうか。彼は大切な真理を発見したからです。つまり、

あなたのみことばは、よく練られていて、あなたのしもべは、それを愛しています。。。

あなたの義は、永遠の義、あなたのみおしえは、まことです。(140,142)

要するに、彼は神様の約束と命令を試したとき、神様が真実で、その言葉は正しいと分かるようになったのです。

あなたはどうですか。あなたには本当の理解があるでしょうか。あなたは神様の命令を実行するでしょうか。あなたは神様が忠実な方であると分かるようになりましたか。

もしそうなら、あなたは本当の知恵を見つけたのです。

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詩篇

勝利の鍵

多分、戦争の前にダビデはこの詩篇を書いたでしょう。だから、イスラエル人は神様がダビデとその軍隊を祝福してくださるように祈りました。

苦難の日に主があなたにお答えになりますように。ヤコブの神の名が、あなたを高く上げますように。

主が聖所から、あなたに助けを送り、シオンから、あなたをささえられますように。

あなたの穀物のささげ物をすべて心に留め、あなたの全焼のいけにえを受け入れてくださいますように。セラ

主があなたの願いどおりにしてくださいますように。あなたのすべてのはかりごとを遂げさせてくださいますように。

私たちは、あなたの勝利を喜び歌いましょう。私たちの神の御名により旗を高く掲げましょう。主があなたの願いのすべてを遂げさせてくださいますように。(詩篇20:1-5)

それは素晴らしい祈りです。けれども、そのあと、ダビデは彼らに勝利の鍵を思い出させます。

ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。

彼らは、ひざをつき、そして倒れた。しかし、私たちは、立ち上がり、まっすぐに立った。(7-8)

多くの場合、私たちは神様に相談せずに計画を立てて、「神様、私たちの計画を祝福してください」と祈ります。そして、私たちの計画がうまくいかないと、「どうしてでしょうか?」と尋ねます。

けれども、ダビデは自分の民に、そして私たちに思い出させます。成功の鍵は自分の力や知恵ではありません。むしろ、成功の鍵は神様に信頼することです。

自分の力と知恵に頼ると、結局あなたは倒れます。しかし、神様に信頼すると、結局あなたは立ち上がり、まっすぐに立つのです。

あなたはどうでしょうか。自分の力と知恵に頼りながら、神様の祝福のために祈っているでしょうか。それとも神様に頼り、信頼しているでしょうか。

戦う時だけではなく、計画を立てる時にも神様を求めているでしょうか。

私たちの知恵と力ではなく、神様とその言葉が私たちの基礎となりますように。

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ネヘミヤ記

嘘、識別、と力

エルサレムの城壁の修理がほとんど完成されたので、もう一度ユダヤ人の敵はその働きを止めようと計画しました。彼らはそれが最後のチャンスだと分かっていました。

最初に、彼らはネヘミヤに言いました。「私たちは今まで喧嘩していたけれど、ここで話し合いましょう。」

しかし、ネヘミヤがエルサレムを去ると、彼らは彼を殺す計画を立てていました。ネヘミヤはそれを知っていたので、彼らに会うことを拒絶しました。彼らは四回ネヘミヤを誘いましたが、彼は四回拒絶しました。

それゆえ、彼らはネヘミヤに言いました。

諸国民の間に言いふらされ、また、ゲシェムも言っているが、あなたとユダヤ人たちは反逆をたくらんでおり、そのために、あなたは城壁を建て直している。

このうわさによれば、あなたは彼らの王になろうとしている。また、あなたはエルサレムで、自分について宣言させるために、預言者たちを任命して、『ユダに王がいる』と言わせている。

今にこのようなことが王に聞こえるであろう。さあ、来なさい。いっしょに相談しよう。(ネヘミヤ6:6-7)

多分、彼らはゼカリヤ書9章を読んで、その預言によってネヘミヤを責めました。

けれども、ネヘミヤはその冤罪を否定しました。なぜなら、彼は王になることを全く計画しておらず、王のサポートがあることを知っていたからです。その敵もそのことを知っていたので、結局、彼らは王に手紙を送りませんでした。

そして、その敵がある祭司を買収し、その祭司はネヘミヤにこう言いました。

私たちは、神の宮、本堂の中で会い、本堂の戸を閉じておこう。彼らがあなたを殺しにやって来るからだ。きっと夜分にあなたを殺しにやって来る。(10)

けれども、ネヘミヤは再び拒絶しました。なぜなら、彼がリーダーであり、もし隠れたら、人々の信頼を失ったかもしれないからです。

それに、神様の律法によれば、彼が聖所に入ることは禁止されていました。そうすれば、ユダヤ人の尊敬を失ってしまったでしょう。

そして、彼らはスパイをネヘミヤに送りました。彼らはユダヤ人の敵トビヤについていろいろな良いことを言いましたが、ネヘミヤは騙されませんでした。だから、トビヤは再びネヘミヤを脅しました。

しかし、その試練の時、ネヘミヤはこう祈りました。

ああ、今、私を力づけてください。(9)

神様はその祈りに応えてくださいました。ユダヤ人の敵の努力にもかかわらず、城壁の修理は完成されました。そして、ユダヤ人とその敵の皆は、神様の助けによって彼らがその修理を完成したことを認めました。

私たちはこの箇所から何を学ぶことができるでしょうか。

私たちが神様の働きをすることを止めるために、サタンは努力します。私たちに嘘をつき、私たちを誘惑し、攻撃します。

どのようにしてサタンと戦うことができるでしょうか。

神様からの知恵と識別が必要です。それらを得るために、私たちは毎日祈り、聖書を読むべきです。そうすれば、私たちは真理と嘘を見分け、神様の御心を知ることができます。

そして、サタンが私たちを脅して攻撃する時、ネヘミヤのように、私たちは神様の前に跪き、力を求めるべきです。

だから、私たちがこの世において神様の働きをする時、神様の知恵と識別と力を求めましょう。そうすれば、サタンは私たちを止めることができません。

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イザヤ書

知恵はどこから来るのか

「神様は物理学を理解できるだろうか。生物学はどうだろうか。テクノロジーはどうだろうか。神様は本当にそんなことを理解できるだろうか。」

多くの人々はそのように考えます。

イザヤの時代でも、人々は神様の知恵を疑いました。そのため、彼らは何度も神様に信頼しませんでした。

この箇所では、神様はイスラエル人に、彼らの農業の知識がどこから来たのかを尋ねます。

これまで私は考えていませんでしたが、神様がアダムとエバを造り、エデンに置いたとき、多分神様は彼らに基本的な農業技術を教えたのかもしれません。

そして、時間が経つにつれて、神様はアダムとエバの子孫に、さらに高度な技術を授けられました。

直接教えなくても、神様が彼らに知恵を与えてくださったので、最終的に彼らは自分たちでその技術を学び取ることができました。

こうして、神様はご自身の問いに答えておられるのです。

農夫を指図する神は、彼に正しく教えておられる。(26)

また、

これもまた、万軍の主のもとから出ることで、そのはかりごとは奇しく、そのおもんぱかりはすばらしい。(イザヤ書28:29)

神様のポイントは何でしょうか?

私たちの知識は、もともと神様から来たものです。

世紀にもわたって、私たちはさまざまなことを学んできましたが、神様は最初から全てを知っておられました。私たちが学んだことの中で、神様が知らないことは一つもありません。

神様は、科学、政治学、経済学、心理学、人間関係など、全てを理解されています。私たちが良い人生を送るために何が必要なのか、神様はよくご存じです。

それなのに、なぜ私たちは神様に信頼しないのでしょうか。

多くの場合、私たちは神様の御言葉を読んで、こう言います。

「神様、あなたは分かっておられない。私たちの社会が分かっておられない。私の必要が分かっておられない。もし分かっているなら、あなたの御言葉にこんなことが書いてあるはずがない。」

でも、私たちがそのように考えると、私たちの心は神様を小さくします。

神様は偶然に私たちを造られたのではありません。神様は指を鳴らして、急に全てを造り、そのあとで、「どうやって全てを造ったのだろうか」と悩むような方ではありません。

神様は全てをご存じです。全てを理解されています。神様にあって、私たちが必要とする知恵が備えられています。

だから、神様をあなたの心の中で小さくしないでください。神様をありのままに認めましょう。

パウロが言ったように、

ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。

なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。

というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。

どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(ローマ11:33-36)

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イザヤ書

この同じ御霊

もちろんこの箇所はイエス様についてです。つまり、イエス様はこの世に来られ、そして御霊がイエス様の上にとどまって、イエス様を知恵と悟りと力に満たされました。

そして、イザヤは将来の国について話しました。その時、狼は子羊とともに宿り、子供はコブラの隣に遊び、イエス様はイスラエルを回復し、この世界を義によって治められます。

けれども、この箇所を読んだ時、私はこう思いました。イエス様の上にとどまった御霊は私たちに与えられました。この同じ知恵と悟りとはかりごとと能力の御霊は私たちにも与えられました。

イエス様が約束されたのは「私は天国に帰ると聖霊をあなたに送る。その御霊によってあなたは私よりも素晴らしい業を行う」という事です。(ヨハネ14:12−17)

また、イエス様は、御霊が私たちにすべてのことを教えると約束されました。(ヨハネ14:26)

また、イエス様は、私たちがこの世に影響を与えるために、御霊が私たちに知恵を与えると約束されました(ヨハネ16:13−15)。

今日まで、私は気づいていませんでしたが、多分パウロはエペソ人への手紙を書いた時に、この箇所について考えていたかもしれません。パウロの言葉はイザヤ書のパラフレーズのようです。

パウロはこう記しました。

どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。

また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせ[た」。(エペソ1:17-20)

「私たちが神様を知るための知恵と啓示の御霊。」

心の目がはっきり見えるようになったので、私たちは与えられた望みが分かります。全能の力ある御霊は私たちの中で働いています。その力によって神様はキリストをよみがえらせました。

時々、私たちは「どうして神様はこの世の中にもっと働かないの?」と訊きます。

一つの理由は御霊に満たされたクリスチャンがあまりいないからです。知恵と悟りと力に満たされたクリスチャンは少ないです。また神様を恐れるクリスチャンもあまりいません。

むしろ、私たちはこの世の物で私たちの人生を満たそうとします。私たちは仕事や趣味に集中しすぎます。私たちは御霊の力に満たされずに、空っぽで生きます。だからこそ、この世界は死にかけているのです。

しかし、イエス様の上にとどまっていた同じ御霊を、私たちも受けることができます。

御霊を求めているでしょうか。御霊に満たされることを望んでいるでしょうか。そうすれば、私たちの人生だけでなく、この世界も変わります。けれども、そうでなければ何も変わりません。

あなたはどうですか。あなたは空っぽでしょうか。あなたは御霊に飢えているでしょうか。

私たちが求めると、きっと満たされます。

イエス様は言われました。

してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。

とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。(ルカ11:13)