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エペソ人への手紙のデボーション

霊的な記憶喪失

クリスチャンとして、忘れることは容易なことです。

神様がどれほど私たちを恵まれたかを忘れてしまいます。

世界の基が据えられる前から、神様が私たちを選んでくださったことを忘れてしまいます。

神様が私たちにふんだんに与えてくださった恵みを忘れてしまいます。

神の召しにより与えられる望みを忘れてしまいます。

私たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものであるかを忘れてしまいます。

私たちの中で働いている神の大能の力を忘れてしまいます。

私たちの王の偉大さを忘れてしまいます。イエス様は、「全ての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。」(エペソ人への手紙1:21)

だから、エペソ人への手紙では、パウロは神様が私たちの霊的な記憶喪失を癒すように祈ります。パウロは、私たちが上記の真理をしみじみと感じるように祈ります。

この箇所を読むとき、その言葉、その真理は心に響いているでしょうか。

それとも、全然何も感じていないでしょうか。あなたの心の喜びは冷めたでしょうか。

私はあなたのためにパウロの言葉を祈ります。

でも、私のためにも祈ってください。なぜなら、私も霊的な記憶喪失がある時もあるからです。

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申命記のデボーション

命を選びなさい

私は今日、あなたがたに対して天と地を証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいをあなたの前に置く。

あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためである。

まことにこの方こそあなたのいのちで(す)(申命記30:19ー20)

最近、私は私たちの神様との関係について考えていました。その時、鉢植えの花と切り花の違いに思いを巡らしました。

両方とも美しいですが、切り花は実際にはすでに死んだものです。なぜなら、命の源から切り離されているからです。

根元から切り離されたことで、その花はある意味で呪われた存在ともいえます。

私たちの神様との関係も同じです。

神様から切り離されると、私たちは呪われた存在となります。私たちはすでに死んだ者です。

しかし、神様につながり、日々命をいただくならば、私たちは栄えるのです。

では、私たちはどのようにして神様につながることができるでしょうか。

パウロは申命記30章を引用しながら、イエス様を指して、私たちがイエス様を信じ、自分の主とするように促します。(ローマ10:6-13)

ですから、命を選びましょう。

イエス様を選び、毎日愛し、御声に聞き従い、そしてすがりましょう。

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民数記のデボーション

神様はどんなまなさして私たちを見ているのか

私はどうして呪いをかけられるだろうか。 神が呪いをかけない者に。

私はどうして責めることができるだろうか。 主が責めない者を。(民数記23:8)

私は上の言葉を読んだとき、ローマのクリスチャンたちへのパウロの言葉を連想しました。

だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。

だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。(ローマ8:33ー34)

サタンは天の父の御前で、私たちの罪と失敗のために責めようとします。

私たち自身、自分を責めるときもあります。

でも、天の父が責めていない私たちを、どうして私たちは責めることができるでしょうか。

私たちのために流されたイエス様の血によって、神様は私たちを義と認めてくださいます。イエス様ご自身が、天の父の隣に立って、私たちを擁護してくださいます。

神様は、あらかじめ私たちを知っておられました。

神様は、私たちが御子のようになるように、自分の子供となるように、あらかじめ定められました。

神様は、私たちを召してくださいました。

神様は、私たちを義と認めてくださいました。

そして、私たちに栄光を与えてくださいました。

神様は、そのように私たちを考えておられます。天のお父さんは、愛に満ちたまなざしで私たちを見ているのです。

そして、良い知らせは、神様は私たちに対して気が変わることがないということです。

私は、民数記23:19の言葉が大好きです。

神は人ではないから、偽りを言うことがない。人の子ではないから、悔いることがない。

神が仰せられたら、実行されないだろうか。語られたら、成し遂げられないだろうか。

神様は、私たちが祝福されるように定められ、必ず祝福してくださいます。(民数記23:20)

神様は、私たちの罪のために懲らしめるかもしれませんが、私たちを決して見捨てることはありません。

神様は、気が変わることがないので、神様の愛から私たちを引き離すものは何もありません。(ローマ8:38~39)

神様は、私たちとともにおられます。だから、私たちの王をほめたたえましょう。(民数記23:21)

そして、毎日叫びましょう。

「神様が私のためにしてくださったことは、なんと素晴らしいことでしょう。」(民数記23:23)

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創世記のデボーション

祝福となる

地のすべての部族は、 あなたによって祝福される。(創世記12:3)

今朝、その言葉に思いを巡らしていました。

アブラハムの子孫であるイエス様を通して、神様はアブラハムへの約束を果たしてくださいました。イエス様によって、私たち皆は祝福されているのです(ガラテヤ人への手紙3:7-14)。

しかし今日、私が初めて気づいたのは、神の民である私たち自身が、その約束の成就の一部であるということです。

つまり、イエス様によるアブラハムの霊的な子孫として、私たちはこの地のすべての人々に対する神の祝福となるべき存在なのです。

神様は私たちを通して、この世の人々に触れたいと願っておられます。そして、私たちが周囲の人々に触れることによって、神様はアブラハムへの約束を今も果たし続けておられるのです。

それは本当に素晴らしいことですね。

天のお父さん、私を通して、アブラハムへのあなたの約束を果たし続けてください。私が周囲の人々と接するとき、私があなたから彼らへの祝福となるようにしてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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イザヤ書のデボーション

祝福されている

「彼らを見る者はみな、彼らが主に祝福された子孫であることを認める。」

私は主にあって大いに楽しみ、私のたましいも私の神にあって喜ぶ。主が私に救いの衣を着せ、正義(別訳:義)の外套をまとわせ。。。」(イザヤ書61:9-10)

この箇所を読むとき、たいてい1〜3節が私の目に留まります。 なぜなら、イエス様がそのことばを、ご自身に当てはめられたからです(ルカ4:18〜21)。

でも今日、9〜10節が私の目に留まりました。私はどれほど祝福されているかに気づかされました。

私はいつも、自分の欠点や失敗、そして罪ばかりを見てしまいます。でも、恵みによって、神様は私に救いの衣と、キリストの義の外套を着せてくださいました。

天のお父さん、私は本当に祝福されています。あなたにあって楽しみ、あなたにあって喜びます。なぜなら、あなたが私に救いの衣と、キリストの義の外套を着せてくださったからです。

私はその衣を作る必要はありませんでした。私はその外套を買う必要もありませんでした。

イエス様、あなたはご自身の血によってその衣を贖い取ってくださり、私に着せてくださいました。

ただ、「ありがとう」としか申し上げることができません。

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ヨハネの福音書のデボーション

イエス様の心

こうして彼らが陸地に上がると、そこには炭火がおこされていて、その上には魚があり、またパンがあるのが見えた。イエスは彼らに「今捕った魚を何匹か持って来なさい。。。さあ、朝の食事をしなさい。」

。。。イエスは来てパンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。(ヨハネの福音書21:9ー10,12ー13)

いろんな意味で、私はヨハネ21章が大好きです。なぜなら、私たちはイエス様の心を見ることができるからです。

もちろん、ペテロに対するイエス様の愛を見ることができますが、今日、上のことばを読んだとき、私はこう考えました。

「どうして、イエス様は弟子たちのために、わざわざ朝ごはんを作られたのだろうか。イエス様は、彼らのために大きな奇跡を行われたばかりなのに。」

その答えは、はっきりしていると思います。イエス様には、「私の弟子たちは、とても疲れて、お腹が空いているだろう。何か作ってあげよう」という思いが浮かばれたからです。

そのパンと魚は、どこから来たのでしょうか。イエス様が奇跡的にそれらを作られたわけではないと思います。(もちろん、イエス様はそのような力を持っておられましたが。)

たぶん、前日にその近くの村でパンを買われて、その日の朝、他の漁師たちから魚を買われたのではないでしょうか。

とにかく、イエス様は弟子たちのことを思っておられ、祝福したいと願われました。イエス様は、大きな奇跡を行われたわけではありません。むしろ、思いやりをもって、彼らを祝福されたのです。

私は、イエス様の心を持ち、その模範に従いたいです。

私の愛する人たちのニーズに、もっと気づけるようになりたいです。それは、大きなニーズだけではなく(たとえば、ペテロの弟子としての自信を建て直すこと)、小さなことにも気づけるようになりたいのです。そして、できる限り、私は彼らを祝福したいのです。

イエス様、そのような心を私に与えてください。

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詩篇のデボーション

神様に祝福され、神様をほめたたえる

私の神、王よ、私はあなたをあがめます。あなたの御名を世々限りなくほめたたえます。

日ごとにあなたをほめたたえ、あなたの御名を世々限りなく賛美します。(詩篇145:1-2)

今朝、私はその言葉に心打たれました。特に、2節に心打たれました。

日ごとにあなたをほめたたえ。。。(2節)

「ほめたたえ」という言葉は、興味深い言葉です。多くの場合、この言葉は「祝福」と訳されます。

神様が私たちを祝福されるとき、それは神様が私たちの満たせないニーズを備えてくださるという意味合いがあります(例えば、8–9節、14–16節、18–20節)。

しかし、ある意味で、私たちも神様を祝福します。

けれども、私たちが神様を祝福する方法は、神様が私たちを祝福される方法とはまったく異なります。

神様には、まったくニーズがありません。

神様は、私たちの愛を必要としておられるわけではありません。

神様は、私たちの礼拝を必要としておられるわけではありません。

それでも、神様は私たちを造り、愛しておられるので、私たちの愛と礼拝を大いに喜ばれます。そういう意味で、神様は私たちに祝福されるのです。

だからこそ、いつも「神様、私を祝福してください」と祈るだけではなく、むしろ、神様に対して感謝と愛をもって、このように祈りましょう。

主よ、今日、私をご覧になるとき、私の言葉を聞き、私の思いや行為をご覧になるとき、あなたが祝福されますように。

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創世記のデボーション

子どもたちのための祈り

今日、ヨセフの息子たちへのヤコブの祝福を読んだとき、私は自分の娘のために祈りました。

主よ、あなたは私の父が御前に歩んだ神です。それだけではなく、あなたは今日という日まで、ずっと私の羊飼いでいてくださいました。

あなたは私をすべてのわざわいから贖ってくださいました。私を罪から救い、私を滅ぼそうとする敵であるサタンからも救ってくださいました。

だから今、私は祈ります。私の娘を祝福してください。あなたがずっと私の羊飼いでいてくださったように、私の娘の羊飼いとなってください。私を贖ってくださったように、私の娘をも贖ってください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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詩篇のデボーション

主に仕える人を励ます

さあ、主をほめたたえよ。 主のすべてのしもべたち、夜ごとに主の家で仕える者たちよ。

聖所に向かってあなたがたの手を上げ、主をほめたたえよ。(詩篇134:1ー2)

エルサレムにたどり着くと、巡礼者たちは神殿で仕える人たちに上の言葉を歌いました。

それを聞いて、その神殿で仕える人たちは巡礼者たちを祝福しました。(3)

神殿で仕える人たちに、手を上げて主をほめたたえるように促すことは、ちょっと不思議だと思わないでしょうか。それは彼らの仕事ではないでしょうか。

でも、主に仕える人たちには、危険があります。それは、彼らが心を主に向かって礼拝することを忘れるほど、奉仕に集中してしまうことです。

だから、あなたが教会のリーダーなら、もちろん心を尽くして主に仕えてください。でも、それと同時に、主に向かって礼拝することを忘れないように注意してください。

そして、あなたが主に仕える人からよく祝福を受けるなら、その人を励ましてください。

もちろん、彼らに「ありがとうございます!」というべきです。でも、それよりも、彼らに主に向かって礼拝するように促しましょう。

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詩篇のデボーション

イエス様が苦しんでおられたから

「彼らは 私が若いころからひどく私を苦しめた。」 さあ イスラエルは言え。

「彼らは 私が若いころからひどく私を苦しめた。しかし 彼らは私に勝てなかった。耕す者たちは私の背に鋤をあて、長いあぜを作ったが。」

主は正しくあられ 悪しき者の綱を断ち切られた。」(詩篇129:1ー4)

この詩篇では、詩人は自分の苦しみを嘆きます。でも、最終的に主が自分を救い、自分の敵を呪うという希望を持っていました。

数百年後、イエス様も苦しんでおられました。

イエス様は、見下されることを深くご存じでした。イエス様は、苦しみを深く味わっておられました。ローマの兵隊は鞭でイエス様の背に鋤をあて、長いあぜを作りました。さらに、イエス様は十字架の恥と痛みをよくご存じでした。

しかし、神様はイエス様を復活させて、よみから救い出してくださいました。

でも、最も大切なのは、イエス様の苦しみによって、私たちが神様との平和を持っているということです。(イザヤ書53:4ー5)

そういうわけで、イエス様がお生まれになったとき、天使たちは私たちを呪いませんでした。

むしろ、天使たちは神様を賛美し、私たちに対する神様の祝福を宣言しました。

いと高き所で、栄光が神にあるように。 地の上で、平和が みこころにかなう人々にあるように。(ルカ2:14)

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創世記のデボーション

祝福されている

アブラムに祝福あれ。 いと高き神、天と地を造られた方より。いと高き神に誉れあれ。 あなたの敵をあなたの手に渡された方に。(創世記14:19ー20)

前回の記事でも言いましたが、クリスチャンとして、私たちはアブラハムの霊的な子孫であり、神様の祝福を受け継ぐ者です。(ガラテヤ3:8–9)

上記の聖句を読んだとき、私はその真理をさらに反芻しました。

メルキゼデクの祝福を読むとき、神の祝福を受け継ぐ者として、自分の名前を入れてみましょう。

「<自分の名前>に祝福あれ。いと高き神、天と地を造られた方より。」

私たちはさまざまな意味で祝福されています。神様は私たちに多くの霊的な祝福を与えてくださいました。(エペソ1:3–14)

さらに、イエス様によって、私たちは最後の敵に対する最終的な勝利を得ました。つまり、イエス様が死を克服し、私たちに永遠の命を与えてくださったということです。(第一コリント15:26、50–57)

しかし、最も驚くべきことは、創造者である神が、そのように祝福するほどに、私たちを愛しておられるということです。

少し静かになって、その真理を思い巡らしましょう。その素晴らしい真理に心を向けましょう。

そして、ダビデとともに歌いましょう。

あなたの指のわざである、あなたの天、あなたが整えられた月や星を見るに人とは何ものなのでしょう。

あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。

あなたは、人を御使いより、わずかに欠けがあるものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせてくださいました。(詩篇8:3ー5)

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創世記のデボーション

神の祝福を受け継ぐ者

あなたを祝福し。。。あなたは祝福となりなさい。。。地のすべての部族は、 あなたによって祝福される。(2ー3)

もうすぐクリスマスがやってくるなんて、信じられないですね。

今日の箇所では、私たちは最初のクリスマスの約束の一つを読みます。

神様は、アブラハムによって地のすべての部族が祝福されると約束されました。

最終的に、その約束はアブラハムの子孫であるイエス様によって成就されました。

そして、私たちはその祝福を受け継ぐ者たちです。(ガラテヤ3:8–9、エペソ1:3–14)

でも、アブラハムのように、私たちはただ神様の祝福を受けるように召されているわけではありません。むしろ、私たちは周りの人々を祝福するように召されています。

私たちの周りの人々も、私たち自身が受けた恵みを受けることができるように、私たちはイエス様の光を照らすべきです。

だから、キリストの教会として、この世界に出て、私たちの周りの人々に対して祝福となりましょう。

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創世記のデボーション

彼の血が私に叫んでいる

カインがアベルを殺した後、神様はカインにこう言われました。

あなたの弟の血が、その大地からわたしに向かって叫んでいる。(創世記4:10)

アベルの血は正義を求めていました。

だから、神様はカインにこう言われました。

今や、あなたはのろわれている。(11)

そして、カインは主の御前から出て行きました。(創世記4:14、16)

でも、数千年後、もう一人の無実の人が殺されました。イエス様は罪を全く犯されなかったのに、十字架で殺されました。

しかし、へブル人への手紙の著者は、イエス様とその血についてこう言っています。

あなたが近づいているのは。。。新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る、注ぎかけられたイエスの血です。(へブル12:22ー24)

アベルの血は正義を求めましたが、イエス様の血は罪人への神の恵みを願いました。

だから今、神様は私たちをご覧になると、こう言われます。

「わたしのひとり子の血は、その大地からわたしに向かって叫んでいる。だから、今や、あなたは祝福されている。呪いは取り除かれている。そして、わたしのひとり子の血によって、あなたの罪は赦されている。」

そういうわけで、へブル人への手紙の著者は私たちにこう励ましています。

こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。

イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。

また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。(へブル10:19ー22)

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詩篇のデボーション

喜ぶように命じられた

私にとって、詩篇81篇4〜5節は興味深い箇所です。1〜3節でアサフは、「神様に喜び歌え」、「喜び叫べ」、「ほめ歌を歌え」と語っています。

そして、4〜5節でアサフはその理由を示します。神様への賛美は、神様からのおきて、定め、さとしなのです。

神様はイスラエル人をエジプトから救い出されたとき、神様にあって喜ぶように命じられました。

では、なぜ神様はそのように命じられたのでしょうか。それは、イスラエル人が、神様がどのように彼らを救ってくださったかを思い出すためです。

神様は彼らの重荷を除き、奴隷の生活から自由にし、荒野を通って約束の地へと導かれました。

神様は私たちにも喜ぶように命じておられます。なぜなら、神様は私たちの罪の重荷を除き、サタンの国における奴隷の生活から自由にしてくださったからです。

また、神様が私たちと共におられ、私たちを神の永遠の御国に導いてくださっていることを、私たちは喜ぶのです。

それを覚えていることが、なぜ大切なのでしょうか。それは、私たちが神様を信頼し、喜んで従うようになるためです。そして、私たちは神の御言葉に口を大きく開けるようになります。(10節、また、エレミヤ書15:16、エゼキエル書3:1〜3)

私たちはそれをするにつれて、神様の祝福を受けます。(16)

もし、神様が私たちを愛し、祝福したいと願っておられることを覚えていたら、今よりもどれほど私たちは神様を信頼し、従うでしょうか。

もし、神様の救いの御業を思い起こして喜ぶなら、今よりもどれほど私たちは神様の慈しみを覚えているでしょうか。

そういうわけで、聖餐式はとても大切なのです。聖餐式を行うとき、私たちは神様の救いの御業を思い起こし、喜びます。

このコロナのシーズン、多くの教会が聖餐式を行えない状況ですが、私はもう一度、聖餐式によって神様の民と共に、神様の救いの御業を思い起こして喜ぶことを楽しみにしています。

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ガラテヤ人への手紙

私たちを支えてくれる人を支える

牧師の働きは非常に大変です。もし神様からの召しがなければ、私も牧師になろうとは思わないでしょう。

牧師は、日曜日のメッセージを準備するだけでなく、教会のメンバーの問題にも対応しなければなりません。その責任を担うとき、彼らはメンバーの不平にも耳を傾けなければなりません。

すべてのメンバーが教会や牧師に満足する教会は、おそらくどこにもないでしょう。

私たちの牧師たちも、自分自身の負担を抱えています。もちろん、イエス様は彼らに教会を導く使命を与えられました。

けれども、それだけではなく、彼らには家族を支える責任もあります。そのため、人の不平や批判を聞くと、その負担が急に重くなり、時には耐えきれなくなることもあるでしょう。

パウロは、この現実をよく理解していたと思います。だから、彼は「人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うことになるのです。」と言った後、こう語りました。

みことばを教えてもらう人は、教えてくれる人と、すべての良いものを分かち合いなさい。(ガラテヤ人への手紙6:6)

要するに、牧師は私たちに霊的な栄養を与え、霊的に支えてくれます。けれども、彼ら自身も支えられる必要があります。だからこそ、私たちはできる限り彼らを支えるべきです。

もちろん、彼らが家族を十分に支えることができるように、私たちは牧師を経済的に支える必要があります。そうすれば、彼らは神様から委ねられた働きに専念できるでしょう。しかし、それだけではなく、彼らには私たちの祈りと励ましの言葉が必要です。

私たちは牧師を「超クリスチャン」と見なしてしまいがちです。そのため、彼らもただの人間であり、私たちの支えを必要としていることを忘れてしまいます。私も時に忘れてしまうことがあります。

だから、意図的に彼らを支えましょう。彼らのために祈っていることを伝えましょう。メールや電話で励ましの言葉を届けましょう。言い換えると、牧師にとっての祝福となりましょう。

あなたはどうでしょうか。あなたは牧師にとって祝福となっていますか。

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ガラテヤ人への手紙

私たちはどのように喜びと祝福を失うのか

この手紙から、私たちはパウロがガラテヤ人たちに対してどれほど困惑していたかを知ることができます。

パウロが初めてガラテヤに来たとき、彼は何かしらの肉体的な問題を抱えていました。そのため、彼はガラテヤ人たちに負担をかけましたが、それにもかかわらず、彼らは喜んでパウロを歓迎しました。

どうしてでしょうか。それは、パウロが宣べ伝えた福音が彼らを罪から解放し、新しい命を与えたからです。福音を聞いたとき、彼らは神様の喜びと祝福に満たされました。

こうした理由から、ガラテヤ人たちはパウロを心から気遣い、その愛が彼に溢れ出しました。彼らは、できる限りパウロを助けたいと願いました。パウロは彼らについてこう言いました。

私はあなたがたのために証ししますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出して私に与えようとさえしたのです。(ガラテヤ人への手紙4:15)

しかし、ユダヤ人のクリスチャンたちの影響によって、すべてが変わってしまいました。

彼らの喜びは失われ、パウロのことを疑い始めました。彼らは、パウロが福音を正しく教えたかどうかを疑いました。また、パウロが福音から重要な真理を削除したのではないかと考え、自分の救いさえも疑うようになりました。

そこで、パウロは彼らに問いかけました。

あなたがたの幸いは、今どこにあるのですか。。。私はあなたがたに真理を語ったために、あなたがたの敵になったのでしょうか。(15-16)

「幸い」という言葉は、「祝福」という意味もあります。つまり、ガラテヤ人たちは信仰によって受けた神様の尊い賜物を失ったのです。

どのようにしてその賜物を失ったのでしょうか。

彼らは古い宗教的な修行や儀式に戻りました。

救いを得るために、彼らは自分の行いと努力に頼ったため、彼らにとってイエス様の十字架の御業の価値は失われてしまいました。

気をつけなければ、私たちもガラテヤ人たちのようになってしまうかもしれません。もし私たちのクリスチャン生活がルールに基づくものになってしまえば、私たちは自分の喜びと祝福を失うでしょう。そして、神様の好意を得ようと努め始めるでしょう。

そして、最終的に二つの結果が生じます。

一つ目は、自分が成功していると思い、プライドを持つことです。

二つ目は、そのルールを完全に守れないと気付き、落ち込むことです。

しかし、成功したと思っても、失敗したと思っても、私たちは神様の喜びと祝福を失ってしまいます。

けれども、私たちの救いが恵みによるものであることを悟ると、私たちは謙遜と感謝の態度を持つようになります。

私たちは神様の恵みに値しないことを理解するので、謙遜になります。また、私たちは神様の裁きを受けるに値するはずなのに、神様が恵みと憐れみを私たちに注いでくださったことを知ります。

さらに、その恵みと憐れみによって、私たちは喜びと感謝に満たされます。したがって、私たちは神様の祝福を受けるだけでなく、その祝福は私たちを通して周りの人々へと流れていきます。

あなたはどうでしょうか。プライドに満ちたクリスチャン生活を送っているでしょうか。それとも、失敗と失望に満ちたクリスチャン生活を送っているでしょうか。もしかしたら、喜びと祝福に満ちたクリスチャン生活を送っているでしょうか。

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ローマ人への手紙

霊的な祝福を与えてくれる人に祝福を返す

お金の話は、いつも少し気まずいものです。特に教会では、十一献金について語ることが難しく感じられます。

多くのクリスチャンは、十一献金が新約聖書の教えではないと考えています。私も、ある程度その意見に同意できます。

とはいえ、聖書が明確に教えていることは、私たちを霊的に祝福してくれる人を経済的に支えるべきだということです。この箇所に、その原則を見ることができます。

もちろん、この箇所でパウロは十一献金について語っているわけではありません。彼が話しているのは、貧しいクリスチャンを助けるために、マケドニヤとアカヤからの経済的支援をエルサレムに届ける計画についてです。

それでも、パウロは非常に興味深いことを語っています。

彼らは喜んでそうすることにしたのですが、聖徒たちに対してそうする義務もあります。

異邦人は彼らの霊的なものにあずかったのですから、物質的なもので彼らに奉仕すべきです。(ローマ人への手紙15:27)

二つの点に注目してください。

一つ目は、マケドニヤ人とアカヤ人が自ら進んでユダヤ人のクリスチャンたちに与えたことです。

二つ目は、パウロによれば、彼らにはユダヤ人のクリスチャンたちを助ける義務があったということです。なぜなら、イエス様が言われたように、「救いはユダヤ人から出る」からです。(ヨハネ 4:22)

つまり、神様はユダヤ人を通してイエス様をこの世に送られました。そして、ペテロ、パウロ、バルナバ、そして他のユダヤ人たちが異邦人に福音を伝えたことで、多くの異邦人が救われたのです。

だから、パウロはこう語っています。「異邦人はユダヤ人から多くの霊的な祝福を受けたのだから、彼らはユダヤ人に物質的な祝福を返すべきです。」

同じように、私たちも自分の牧師を支えるべきだと思います。

牧師たちは私たちに多くの霊的な祝福を与えてくれました。私たちが神様を知ることができるように、彼らは自分のいのちを神様にささげました。

だから、彼らが自分の家族を支えることができるように、私たちは彼らを経済的に支えるべきです。

とはいえ、ただ義務感から与えるのではなく、心から喜んで捧げるべきです。別の書簡で、パウロはこう記しています。

一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。

神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。(第二コリント9:7)

だから、いやいやながら与えることはしないようにしましょう。もしそのような態度を持っているなら、むしろ与えない方がよいでしょう。

しかし、もしお金に執着し、あなたを霊的に支えてくれる人を経済的に支えたくないと感じるなら、その点で成長する必要があります。

なぜなら、イエス様こそ与える方だからです。イエス様は私たちのために天を離れ、さらに私たちのためにご自身のいのちをささげられました。

私たちが本当にイエス様を愛しているなら、そのような心を持つべきではないでしょうか。

あなたはどうでしょうか。あなたは人々に惜しみなく与える者でしょうか。

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使徒の働き

祝福を受けることができる前

多くの人々は、神様からの祝福を願います。

実際、神様は、自分の子どもに贈り物を与える愛に満ちた父です。神様の子どもとして、私たちは祝福を期待することができます。

けれども、その祝福を受ける前に、私たちがすべきことがあります。ペテロはユダヤ人たちにこう言いました。

ですから、悔い改めて神に立ち返りなさい。そうすれば、あなたがたの罪はぬぐい去られます。

そうして、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにあらかじめキリストとして定められていたイエスを、主は遣わしてくださいます。。。

モーセはこう言いました。

「あなたがたの神、主は、あなたがたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたがたのために起こされる。

彼があなたがたに告げることすべてに聞き従わなければならない。その預言者に聞き従わない者は誰でも、自分の民から断ち切られる」。。。

神はまず、そのしもべを立てて、あなたがたに遣わされました。その方が、あなた方一人ひとりを悪から立ち返らせて、祝福にあずからせてくださるのです。(使徒の働き3:19-20、22-23、26)

つまり、ペテロはこう語っていたのです。

「モーセ自身が、『モーセのような一人の預言者が来る』と言いました。そして、モーセは『あなたがたはその預言者に聞き従わなければならない。そうしなければ、あなたがたは自分の民から断ち切られる』とも語りました。

その預言者はすでに来られました。イエス様こそ、その預言者です。だから、イエス様の言葉を聞いて悔い改めなさい。

あなたを祝福するために、神様はイエス様を遣わしてくださいました。しかし、まずあなたがたが悔い改めなければなりません。そうすれば、イエス様があなたがたの罪をぬぐい去り、回復の時、そして祝福の時が訪れます。」

ペテロはこの言葉をユダヤ人たちに語りましたが、この言葉は私たちにも当てはまります。

神様はまずイエス様をユダヤ人たちのために遣わしましたが、同時に、神様は私たちのためにもイエス様を遣わしてくださいました。そして、イエス様がユダヤ人たちを祝福されたように、私たちも祝福してくださいます。

けれども、その前に、私たちは悔い改めなければなりません。自分の道を歩み続けることはできません。私たちはイエス様に聞き従わなければならないのです。

そうしなければ、決して神様からの祝福を知ることはできません。それどころか、神様の民から断ち切られ、神様の国に入ることもできません。

多くの人々は神様からの祝福を望みますが、自分の道を歩み続けたいと思います。自分勝手な条件でその祝福を望みます。しかし、本当に祝福を望むなら、自分勝手な条件ではなく、神様の条件に従う必要があります。

もちろん、救いも同じです。自分勝手な条件では、救いを得ることはできません。つまり、良い行いによって救いを得ることはできないのです。むしろ、イエス様とその十字架の働きを信じることが必要です。

ただイエス様への信仰によって、あなたは神様に義と認められます。

そして、救いを得た後も、私たちは同じ原則に従って生き続けます。もし、自分の道を歩むなら、神様からの祝福を期待することはできません。私たちは神様の道を歩まなければならないのです。

では、私たちは何とかしてその祝福を得るために努力しなければならないのでしょうか。違います。私たちは決してそんなことはできません。

とはいえ、神様は私たちの信仰を求めておられます。私たちは神様に従うほどに、神様を信じるでしょうか。それなら、私たちはその祝福を知ることができます。

ノアが箱舟を作ったとき、その教訓を学びました。

アブラハムがカナンに行ったとき、その教訓を学びました。

ダニエルが王の食べ物を拒絶したとき、その教訓を学びました。

聖書の時代でも、現代でも、多くの人々がその教訓を学びました。

あなたは神様からの祝福を求めていますか。

あなたはどれほど神様を信じていますか。自分の道をやめて、神様の道を歩むほどに、神様を信じていますか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ20章

イエス様を見たことがないのに

「百聞は一見にしかず。」

私たちはこのことわざを口にしますが、時として、何を見ても信じない人がいるものです。

パリサイ人たちと祭司長たちは、イエス様の奇跡を実際に目の当たりにしました。それでもなお、イエス様がメシアであることを信じませんでした。

たとえば、ラザロが復活したとき、彼らはラザロを殺そうとさえしました。なぜなら、人々がその奇跡を目撃し、イエス様を信じるようになったからです。

彼らの問題は何だったのでしょうか。それは、彼らが信じたくなかったということです。もし何かを信じたくないなら、人はいつでも信じられない理由を作り出すものです。

しかし、トマスは本当にイエス様の復活を信じたかったのです。それでも、なぜか自分自身を納得させることができませんでした。だから、彼はほかの弟子たちにこう言いました。

私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れて見なければ、決して信じません。(ヨハネの福音書20:25)

だから、イエス様が鍵がかけられた部屋に奇跡的に入って、トマスのぽかんと顔を見た時、多分イエス様は微笑みながら、こう言いました。

あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。(27)

トマスの反応は?

私の主。私の神よ。(28)

イエス様は答えました。

あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。(29)

つまり、「あなたは見たから信じているのです。けれども、真の祝福は、見ずに信じることで見いだされるのです」ということです。

アブラハムもその祝福を知りました。アブラハムは神様が彼をどこに導いているかよくわからなかったけど、アブラハムは自分の地元を去って、神様に従いました。なぜなら、アブラハムは神様の約束を信じたからです。

ノアもその祝福を知りました。神様が洪水が発生すると言ったから、ノアは大きい箱舟を作りました。

ダビデもその祝福を知りました。神様がダビデが王になると約束したから、サウロ王が何回もダビデを殺そうとしても、ダビデは仕返しを求めませんでした。そして、神様のタイミングで、ダビデは王になりました。

マリアもその祝福を知りました。彼女は天使のメッセージを信じて、イエス様の母になりました。

聖書の時代から現代まで、たくさんの人々は神様を信じて、祝福されました。

でも、それは盲信ではありません。

イエス様が生まれる何百年前に、いろんな預言者はたくさんのことをイエス様に関して預言しました。

また、イエス様に出会った人は自分の経験を書きました。ヨハネはこう書きました。

イエス様は弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。

これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。(30-31)

それに、私たちは教会の偉人たちの歩みを見ることができます。たとえば、アウグスティヌス、マルティン・ルター、ジャン・カルヴァンは、神の御国のために偉大な働きを成し遂げました。

今なお、教会には多くのクリスチャンがいます。神様は彼らの人生の中で働き、福音によって彼らを変えてくださいました。

また、私たち自身もイエス様に出会い、神様の御業をこの目で見ることができます。

しかし、私たちは一つの選択をしなければなりません。

「主よ。私はあなたを見たことがありません。それでも、私はあなたを信じます。」

そして、イエス様を信じて従うとき、イエス様はますますご自身を私たちに現してくださいました。そして、私たちも祝福を知るのです。

ペテロはこう言いました。

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども、愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。

あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。(第一ペテロ1:8-9)

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マタイの福音書 マタイ14章 マルコの福音書 マルコ6章 ヨハネの福音書 ヨハネ6章 ルカの福音書 ルカ9章

私たちがあまり持っていなくても

私はこの話を一億回読んだかのように感じています。(もちろん、少し大げさですが。)

それでも、今回は新しいことに気づきました。

イエス様の弟子たちは、宣教の旅から戻ったばかりで、きっと疲れ果てていたことでしょう。そんな中、マルコの福音書には、こう記されています。

そこでイエスは彼らに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」と言われた。人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである。(マルコ6:31)

とはいえ、おそらくもう一つの理由として、イエス様が弟子たちと一緒に寂しい所へ行きたがったのではないでしょうか。

イエスはこのこと(つまり、バプテスマのヨハネが殺されること)を聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。(マタイ14:13)

おそらく、イエス様はその出来事を聞かれた後、自分の安全を考えて寂しい場所に行かれたのだと思います。なぜなら、ヘロデ王がイエス様のことを耳にすると、イエス様を探し始めたからです。(ルカ9:9)

しかし、なぜイエス様は弟子たちだけと一緒に行きたがられたのでしょうか。

多くの場合、この点について深く考えることはありませんが、イエス様は100%神であると同時に、100%人間でもありました。

イエス様とヨハネがどれほど親しかったのかは分かりません。ただ、彼らが従兄弟であったことは確かです。もしかすると、子供の頃、一緒に遊んでいたこともあったかもしれません。

さらに、イエス様のミニストリーが始まった際、ヨハネがイエス様にバプテスマを授けられました。また、ヨハネが牢に入れられ、ひどく気落ちしていた時には、イエス様は彼を励まされました。

だからこそ、イエス様が「まあね。大丈夫。ヨハネは天国にいるからね。」とあっさり言われることはなかったのではないでしょうか。

むしろ、イエス様はヨハネの死を嘆きたかったのだと思います。さらにもう一つ覚えておいてください。イエス様の弟子たちの中には、もともとヨハネの弟子であった者が二人いたのです。(ヨハネ1:37)

おそらく、彼らもヨハネの死を嘆きたかったのではないでしょうか。

残念なことに、彼らにはそんな時間がありませんでした。大勢の人々がイエス様と弟子たちについて行き、イエス様とその弟子たちの疲れや悲しみを知らず、イエス様に自分たちの必要を満たすよう求めました。

もし私がイエス様だったなら、それを見て怒ったかもしれません。「出て行きなさい。私の友人の死を悼んでいることが分からないのか?」

せめて私はこう言ったかもしれません。「ごめんなさい。あなたと時間を過ごしたいけれど、今日は難しいです。明日来ていただけますか?」

しかし、イエス様は彼らを歓迎されました。(ルカ9:11)

それだけではなく、イエス様は一日中彼らと共におられました。

やがて日が暮れ始めた頃、弟子たちはイエス様のもとに来てこう言いました。「先生、もう遅いので、食事をするために、皆を帰らせた方が良いのではないでしょうか。」

これは、その群衆を帰らせる絶好の言い訳でした。けれども、イエス様はそうされませんでした。むしろ、イエス様は弟子たちにこう言われました。「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物をあげなさい。」(マタイ14:16)

弟子たちは答えました。「でも、この人たちは多すぎます。私たちには到底無理です。」

そこでイエス様は尋ねられました。「あなたがたは何を持っていますか。」

弟子たちは言いました。「少ししかありません。」

イエス様は仰いました。「それを私に持ってきなさい。」

そして、イエス様はそのパンと魚を取り、祝福して、驚くべき奇跡を行われました。弟子たちだけでなく、その群衆も満腹するほど食べることができました。

それだけではなく、食べ物は多く余りました。

私は「新しいことに気づいた」と言いましたが、それは何でしょうか。

時々、私たちは疲れ果てたり傷ついているため、「自分には人々に与えるものが何もない」と考えることがあります。

けれども、神様が私たちにそのように行動するよう求められるなら、神様は相手の必要を満たすために私たちに必要なものを与えるだけではなく、私たち自身の必要も満たしてくださいます。そしてその満たしは限界ぎりぎりではなく、豊かに溢れるほどに与えられるのです。

ここでのキーフレーズは、「神様があなたに求められるとき」です。

神様は私たちにすべての人々の必要を満たすことを要求されるわけではありません。もし私たちがそれをしようとすれば、燃え尽きてしまうでしょう。

そのため、私たちはこう問いかけるべきです。「自分にはほとんど与えるものがないように思えるけれど、神様は私にその人たちに対して情け深い心を与えてくださっているだろうか?神様は私にその人たちに仕えるよう求めておられるだろうか?

それとも、ただ『これは私の義務だ。私はその人に触れなければならない』と感じているだけなのだろうか?」

もし、神様が情け深い心を与えておられず、あなたの心に語りかけておられないなら、あなたはその人を別の誰かに任せた方が良いかもしれません。

しかし、神様が「行きなさい」と語られるなら、神様はあなたの持っているものを取り、祝福し、相手の必要を満たすだけでなく、あなたの必要も豊かに満たしてくださるでしょう。

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マタイの福音書 マタイ9章

イエス様ができること。イエス様がしないこと。

この箇所を見ると、私たちはイエス様が何をすることができるのか、また何をしないのかを知ることができます。

イエス様は盲人や口のきけない人を癒すことができます。

けれども、イエス様はご自身を無理やり人々に信じさせることはされません。

わたしにそんなことができると信じるのか。(マタイの福音書9:28)

彼らが「そうです。主よ。」と答えた時、イエス様は「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われました。(29)

つまり、彼らが本当に信じなかったなら、彼らは癒されなかったのです。

実際には、私たちが信仰を持っていなくても、イエス様は私たちを癒すことができます。ある日、相手がイエス様のことをよく知らず、まったく信仰を持っていなかった状況でも、イエス様はその人を癒されました。(ヨハネ5:1-15)

とはいえ、多くの場合、イエス様は人々の信仰を求められました。

この話では、二人の盲人が信じたために癒されました。

ところが、次の話では、イエス様が口のきけない人を癒された時、多くの人々は驚きましたが、パリサイ人たちはイエス様を信じず、「彼は悪霊どものかしらを使って、悪霊どもを追い出しているのだ」と言いました。(34)

イエス様がどんな奇跡やしるしを行っても、パリサイ人たちは信じることを拒み続けました。

イエス様は彼らの信仰を求められましたが、彼らに無理やり信じさせることはありませんでした。

同じように、イエス様は私たちにも無理やり信じさせることはされません。

イエス様は私たちに聖書を与えてくださり、神様が私たちの人生にどのように働いているかを示し、神様に従う時の祝福を思い起こさせてくださいます。

それでも、私たちは毎日自分自身に問いかけるべきです。「私は神様を信じるだろうか。私は神様を信じるので、神様の道を行くだろうか。」

そうすれば、神様からの祝福と癒しを見いだすことができます。

そうしない場合、パリサイ人のように、神様の祝福と癒しを決して知ることはできません。

さて、あなたはどうしますか。

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ルカの福音書 ルカ11章

祝福を得るため

私たち皆、神様の祝福を知りたいと願っています。でも、その祝福をどのようにして得ることができるでしょうか。

イエス様が群衆に語られた時、ある女性がこう叫びました。

あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。(ルカの福音書11:27)

しかし、イエス様はこう答えられました。

いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。(28)

クリスチャンたちにとっても、「従順」という言葉は、あまり人気のある言葉ではありません。多くのクリスチャンは従順よりも、神様の恵みについて語ることを好みます。

もちろん、神様の恵みがなければ、だれも神様の祝福を受けることはできません。なぜなら、私たちは神様の祝福に値しないからです。

とはいえ、神様の祝福を受ける鍵は、信仰による従順な心です。

私たちは「神様を信じる。神様のみ言葉を信じる」と言うかもしれません。

けれども、従順な心を持たなければ、その言葉は意味をなしません。

もし私たちが本当に神様に信頼するなら、また、本当にそのみ言葉を信じるなら、私たちは神様の言葉に従うでしょう。

だから、一番大切な質問は、「あなたは本当に神様を信頼していますか。」ということです。あなたは、その言葉に従うなら、祝福されると信じていますか。

例えば、結婚する日まで、婚前交渉を控えるなら、あなたの結婚はより祝福されると信じていますか。

あなたが献金をささげるなら、あなたの経済が悪化することなく、祝福されると信じていますか。

あなたが主に従うように、自分の夫に従うなら、または、キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたが自分の妻を愛するなら、あなたの結婚が祝福されると信じていますか。

もしくは、あなたはその言葉が理想的すぎると考えていますか。

もし、本当の祝福を見つけたいなら、神様に信頼することを学ぶ必要があります。 あなたは神様の道が最善であると信じる必要があります。

そして、その言葉に従うことが求められます。

それは簡単でしょうか。いいえ、そうではありません。

しかし、心に留めてきましょう。神様の恵みによって、私たちは神様を信じ始めました。同じように、神様の恵みによって、私たちは神様の言葉に従う力を持つことができます。

私たちが神様に頼みさえすれば、神様は私たちにその力を与えてくださいます。 イエス様はこう言われました。

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。

だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。(ルカ11:9-10)

あなたはどうでしょうか。神様に信頼し、従っていますか。

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マタイの福音書 マタイ5章 ルカの福音書 ルカ6章

山上の説教:迫害

迫害を好む人はいません。誰もが嫌われることを望んではいません。理想的なのは、すべての人々があなたを愛してくれる世界です。

しかし、ここは理想的な世界ではありません。この世界は罪によって堕落しました。そのため、多くの人々の心はゆがみ、善と悪を見分けることができなくなっています。たとえ善悪が分かっていても、多くの場合、彼らは悪を選びます。

ヨハネはこう言いました。

(イエス様を通して)光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。(ヨハネ3:19)

だから、イエス様は弟子たちに警告されました。

もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。(ヨハネ15:20)

少し考えてみてください。イエス様は完全な方でした。彼は一切罪を犯されませんでした。イエス様は愛そのものでした。それにもかかわらず、人々は彼を憎み、十字架で殺しました。

もしイエス様が完全であるにもかかわらず迫害されたのであれば、私たちは何を期待すればよいでしょうか。

しかし、イエス様はこう言われます。

義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。(マタイ5:10)

つまり、私たちがイエス様に従うがゆえに迫害されるなら、私たちは祝福されるのです。

それは少し奇妙に聞こえる言葉かもしれません。迫害が祝福なのでしょうか。正直なところ、私自身も迫害されたいとは思いません。

迫害そのものが祝福であるというわけではありません。ただ、私たちが迫害されるとき、それは主の足跡に従っている証拠となるのです。

要するに、私たちが愛しているイエス様が迫害されたように、私たちも迫害されるのです。それは私たちに与えられた特権であり、またその迫害は決して無意味なものではありません。裁きの日に、神様は私たちの忠実さに報いてくださいます。

ですから、イエス様のために迫害されても、決して絶望しないでください。友人や家族から拒絶されるときも、あきらめないでください。

あなたはいつも周りの人々を喜ばせることはできません。イエス様ですらそれができませんでした。だからこそ、神様を喜ばせることに焦点を当ててください。

そうすることで、本当の祝福を体験することができます。

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ルカの福音書 ルカ1章

祝福された

マリヤがエリサベツの妊娠の知らせを聞くと、すぐに彼女を訪ねました。その反応は非常に理解できます。おそらく、マリヤは自分の経験が夢や幻覚ではないことを確認したかったのでしょう。

しかし、エリサベツがマリヤを見かけた瞬間、マリヤの心に残っていた疑いはすべて消えたのではないでしょうか。その瞬間、エリサベツの胎内の子どもが跳ね動き、エリサベツは聖霊に満たされて声高らかに叫びました。

あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。

ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳に入ったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。

主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。(ルカの福音書1:42-45)

どうしてエリサベツは、マリヤが妊娠しており、その子がメシアになることを知っていたのでしょうか。それには一つの方法しかありませんでした。神様が彼女にそのことを示されたのです。

エリサベツの言葉を聞いたことで、マリヤの疑いはすべて消え、彼女は歌い始めました。

わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。

ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。

その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。(46-50)

マリヤの言葉を読むと、私は神様が私たちをどのように祝福してくださったかについて、深く考え始めます。

マリヤのように、私たちも神様の祝福に値しない者です。私たちはただの神様の卑しいしもべにすぎません。私たちは立派な行いによってではなく、神様の素晴らしい御業によって祝福されるのです。

神様は私たちのために何をしてくださったのでしょうか。

1. 神様は私たちに哀れみを与えてくださいました。 これは、私たちだけでなく、私たちの前に生きていた信者たちにも、そして私たちの後に生きる信者たちにも与えられています。

私たちは、自分の罪のゆえに罰に値する者ですが、神様は哀れみを与えてくださいます。なぜでしょうか。

それは、十字架において、神様がご自身の怒りを私たちの代わりにイエス様に注いだからです。イエス様が私たちの罰を受けてくださったことで、私たちは神様の哀れみを受けることができるのです。

2. 神様は私たちの利益のために働いてくださいました。 (51節)たとえば、イスラエル人がエジプト人の奴隷であったとき、神様はパロを王座から引き降ろし、モーセとイスラエル人を高く引き上げてくださいました。

さらに、神様はイスラエルよりも強い国々や支配者たちを打ち倒し、イスラエル人を約束の地に導かれました。

そして、イスラエル人が何度も神様に背を向けたにもかかわらず、神様はご自身の約束を忘れずに今まで彼らを守り続けてこられました。

それは本当に驚くべきことです。いくつもの国が滅び、いくつもの民族が消えていった中で、ユダヤ人を滅ぼそうとする試みが繰り返されましたが、イスラエル人は今でも残っています。

神様がイスラエル人の利益のために働かれたように、私たちの利益のためにも働いてくださっています。そのために神様はイエス様を送られたのです。そして今でも、神様は私たちの利益のために働いておられます。

私たちの問題が私たちよりも大きいとき、神様は私たちに勝利を与えてくださいます。

私たちに必要があるとき、神様はそのニーズに備えてくださいます。

サタンが私たちを滅ぼそうとするとき、神様は私たちを守ってくださいます。

だから、マリヤのように、私たちも主をほめたたえましょう。神様が私たち一人一人に大きなことをしてくださったからです。私たちは本当に祝福されています。

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箴言

怠ける

子供の時に、私は本当に怠けていました。特に、私はよく宿題をサボっていました。

4年生の時、私がずっと宿題をサボっていたので、父は私に、「お前はハワイ島への修学旅行に行けないかもしれない」と警告しました。

5年生の時も、中学1年生の時も、私は宿題をサボったので、叱られてしまいました。

そのあとに、私はやっとその教訓を学びました。

なぜか分からないけれど、大学についての悪夢を見ます。その夢で、私はある授業をずっとサボっていて、期末試験が迫っています。だから、私は全然準備できなくて、パニックになります。

どうしてでしょうか?大学生の時、私は真面目に勉強したのに。😀

とにかく、箴言では、私たちは、いろんな怠け癖に関する警告を読みます。

ソロモンは何度も怠け者をからかいます。

なまけ者は手を皿に差し入れても、それを口に持っていこうとしない。(19:24)

また、

なまけ者は言う。「獅子が外にいる。私はちまたで殺される」と。(22:13)

そして、彼は怠け者に関して、当たり前のことも言います。

怠惰は人を深い眠りに陥らせ、なまけ者は飢える。(19:15)

また、

しばらく眠り、しばらくまどろみ、しばらく手をこまねいて、また休む。

だから、あなたの貧しさは浮浪者のように、あなたの乏しさは横着者のようにやって来る。(箴言24:33-34)

しかし、私に対して、一番印象が残る箇所は、21:25-26です。

なまけ者の欲望はその身を殺す。その手が働くことを拒むからだ。

この者は一日中、自分の欲望に明け暮れている。しかし、正しい人は人に与えて惜しまない。

神様は私たちが周りの人々を祝福するように望んでおられます。けれども、私たちが怠けたら、私たちはもちろん苦しむことになりますが、周りの人々を祝福することができません。

また、私たちが怠けたら、神様からの賜物を無駄にしてしまいます。そして、ある日、私たちは神様の前に申し開きしなくてはなりません。

イエス様はタラントのたとえ話で、その真理を教えられました。(マタイ25:14-30)

あなたはどうでしょうか。神様からの賜物を無駄にしているでしょうか。

神様があなたの脳や、手を与えてくださったのに、あなたはそれらをちゃんと使っているでしょうか。神様はあなたに才能や、霊的な賜物を与えてくださったのに、ちゃんと使っていますか。

怠けないようにしましょう。あなたの賜物をちゃんと生かしましょう。そうすれば、あなた自身が祝福され、周りの人々も祝福されます。

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詩篇

神様を信頼するとき

詩篇146篇では、神様が私たちの信頼にふさわしい方であることが示されています。この詩篇は、神様に信頼することの結果を私たちに教えています。

イスラエルの民は長い間神様に背き、信頼することを怠ってきました。むしろ、自分自身や偽りの神々、周囲の国々に頼っていたのです。その結果、国は崩れてしまいました。

しかし、エズラ、ネヘミヤ、ハガイ、ゼカリヤのリーダーシップのもとで、彼らは再び神様に立ち返り始めました。こうして、癒しのプロセスが始まったのです。

向かい始めました。だから、癒しのプロセスが始まりました。

詩人はこう書きました。

主はエルサレムを建てイスラエルの追い散らされた者を集める。

主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む。(詩篇147:2-3)

そして、詩人はイスラエルの民に、神様の偉大さを思い起こさせました。また、なぜ神様が私たちの賛美にふさわしい方であるのかを思い起こさせます。それは、神様がすべてのものを造り、支えておられるからです。(5–9)

また、詩人はイスラエルの民に、神様が人間や動物の力に心を動かされることはないと教えています。むしろ、

主を恐れる者と御恵みを待ち望む者とを主は好まれる。(11)

だから、詩人はイスラエル人を励まします。

「あなたの人生において、神様をほめたたえましょう。神様が私たちの門を強め、私たちを祝福し、平和を与え、必要を満たしてくださることを心に留めておきましょう。」

そして、詩人は彼らに、神様がほかの国々にはご自身を現さず、イスラエルにだけご自身を現して祝福してくださったことを思い起こさせます。

しかし、ヘブル人への手紙の著者によれば、神様は預言者たちだけを通してご自分を現されませんでした。今はイエス様を通して、神様はご自分を現してくださいます。だから、私たち皆はイエス様を通して、神様に近づくことができます。

また、神様はイエス様にあって人間となられたので、私たちをよく理解でき、私たちに対して情け深いです。

だから、その確信を持って、神様に近づきましょう。私たちは神様を信頼しましょう。そうすれば、癒しと祝福、そして平和を見いだすことができます。

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詩篇

神様をまず第一に求めば

私たちの多くは自分の幸せを求めます。そして、私たちは自分の家族や仕事や家計によって、その幸せが見つけられると思います。

けれども、詩篇128篇では、本当の幸せの鍵を見ることができます。詩人はこう記しました。

幸いなことよ。すべて主を恐れ、主の道を歩む者は。

あなたは、自分の手の勤労の実を食べるとき、幸福で、しあわせであろう。

あなたの妻は、あなたの家の奥にいて、豊かに実を結ぶぶどうの木のようだ。あなたの子らは、あなたの食卓を囲んで、オリーブの木を囲む若木のようだ。

見よ。主を恐れる人は、確かに、このように祝福を受ける。(詩篇128:1ー4)

要するに、私たちが神様をすべてよりも敬い、神様の道を選べば、神様は私たちを祝福してくださいます。

多くの人々は、家計の不安から働きすぎてしまい、自分の健康や家族を顧みなくなります。

その結果、仕事の成果を十分に享受することができなくなります。つまり、妻との関係や子どもとの関係が悪化してしまうのです。場合によっては、若くして命を失うことさえあるかもしれません。

けれども、あなたが神様を敬うなら、神様はあなたの家計を祝福し、あなたの家族も祝福してくださいます。

神様が命じられたように、夫たちが自分の妻を愛し、子供たちを育てるなら、その妻と子供たちは実を結びます。

もちろん、妻が自分の夫を敬うなら、また、子供たちが親に従うなら、彼らも神様の祝福を受けます。

しかし、家族に関する多くの命令、もしくはすべての命令は主にお父さんたちや旦那さんたちに対するものです。

つまり、まずお父さんたちと旦那さんたちがその命令に従うべきです。そうすれば、妻や子供たちは喜んで従い始めます。

だから、男性たち、責任を取り、神様とその命令に従いましょう。そうすれば、神様の祝福を知ることができます。

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神様を恐れる祝福、神様を喜ぶ祝福

恐れと喜び。私たちはふだんその言葉をいっしょに使うことはありません。けれども、詩篇112篇では、詩人はそうします。

彼は神様を恐れる祝福と、神様とその言葉を喜ぶ祝福について話します。

詩人はこう言います。

ハレルヤ。幸いなことよ。主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人は。(詩篇112:1)

神様を恐れることは、どういう意味でしょうか。

一つ目は、神様の偉大さに畏敬の念を抱くことです。

私たちは神様が私たちよりも偉大な方であり、私たちよりも聖い方であることを理解します。その知識によって、私たちは神様を恐れます。なぜなら、私たちは神様の前に立つことに値しないからです。

むしろ、私たちの罪のため、私たちは死に値します。聖書で神様に会う人々はそう感じました。

しかし、同時に彼らは、彼らに対する神様の愛と憐れみを知ったので、神様を喜び、神様を喜ばせたいと思いました。

詩人はそのような人々が祝福を知ることを言います。

そして、彼らは天の父の性格を取るようになります。彼らも、恵み深く、情け深くなり、義の道を歩みます。彼らも気前がよく、自由に人に貸し、義によって行います。(4-5)

その結果は?

彼は決してゆるがされない。正しい者はとこしえに覚えられる。

その人は悪い知らせを恐れず、主に信頼して、その心はゆるがない。

その心は堅固で、恐れることなく、自分の敵をものともしないまでになる。(6-8)

多くの人々は自分自身だけを信頼するので、将来について心配します。どうしてでしょうか。なぜなら、将来をコントロールできないからです。だから、悪い便りを聞くと、彼らはパニックになります。

しかし、神様に信頼したら、悪い時が来ても、私たちは安心できるし、将来を恐れません。

どうしてでしょうか。

なぜなら、私たちは全てをコントロールできる方の手に任せるからです。そして、人々が私たちを攻めても、神様は私たちに勝利を与えてくださいます。

詩人は悪者についてこう言います。

悪者はそれを見ていらだち、歯ぎしりして溶け去る。悪者の願いは滅びうせる。(10)

その一方、神様に信頼する人は周りの人々を祝福します。それに、神様は私たちに栄光を与えてくださいます。(9)

だから、毎日この聖く、良く、素晴らしい神を恐れ、喜びましょう。

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詩篇

神様に聞き従いさえすれば

詩篇81篇の最初で、詩人は私たちを神様を礼拝するために招いています。

われらの力であられる神に喜び歌え。ヤコブの神に喜び叫べ。

声高らかにほめ歌を歌え。タンバリンを打ち鳴らせ。六弦の琴に合わせて、良い音の立琴をかき鳴らせ。(詩篇81:1-2)

多分、この詩篇は祭りのために書かれたのだと思います。

神様の律法で、神様はイスラエル人がさまざまな祭りを祝うように命じられました。過ぎ越しの祭りと仮庵の祭りは特に大切な祭りでした。

過ぎ越しの祭りは、神様がどのようにイスラエル人をエジプトから救い出してくださったかを記念してお祝いしました。

仮庵の祭りは、神様がイスラエル人を砂漠を通って導いてくださったことを記念してお祝いしました。

どうして神様はその祭りを祝うように命じられたのでしょうか。それは、イスラエル人が神様が彼らのために何をしてくださったかを忘れないためです。

この詩篇では、詩人はそのことを思い出して歌います。

私は、まだ知らなかったことばを聞いた。

「わたしは、彼の肩から重荷を取り除き、彼の手を荷かごから離してやった。

あなたは苦しみのときに、呼び求め、わたしは、あなたを助け出した。わたしは、雷の隠れ場から、あなたに答え、メリバの水のほとりで、あなたをためした。(5-7)

しかし、私たちは神様の心の叫びも聞きます。

聞け。わが民よ。わたしは、あなたをたしなめよう。イスラエルよ。よくわたしの言うことを聞け。

あなたのうちに、ほかの神があってはならない。あなたは、外国の神を拝んではならない。

わたしが、あなたの神、主である。わたしはあなたをエジプトの地から連れ上った。あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。(8-10)

また、

ああ、ただ、わが民がわたしに聞き従い、イスラエルが、わたしの道を歩いたのだったら。

わたしはただちに、彼らの敵を征服し、彼らの仇に、わたしの手を向けたのに。」。。。

わたしは岩の上にできる蜜で、あなたを満ち足らせよう。(13-14,16)

つまり、「もしあなたが私に聞き従いさえすれば、私はあなたを祝福し、あなたのニーズに備え、あなたのために戦います。」

ところが、神様は言い続けられます。

しかしわが民は、わたしの声を聞かず、イスラエルは、わたしに従わなかった。

それでわたしは、彼らをかたくなな心のままに任せ、自分たちのおもんぱかりのままに歩かせた。(11-12)

神様は私たちを祝福したいと望んでおられます。私たちの人生に素晴らしいことをしてくださろうとしています。けれども、もし私たちが自分の道を行きたいなら、神様は私たちに行かせます。

しかし、そうすれば、私たちの人生は悲しくなるし、神様も悲しまれます。

あなたはどうするでしょうか。あなたの耳を開き、神様に聞き従うでしょうか。そうすれば、あなたは祝福されます。けれども、頑固な心を持ち続けたら、破壊に導かれます。

それはあなたの選択です。あなたはどうしますか。

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詩篇

キリストがこの世を治める時

ソロモン王は詩篇72篇を書きました。しかし、彼も王の王の治世、つまりイエス様の治世を待ち望んでいました。

私たちは大統領や総理大臣を見ると、しばしばがっかりします。なぜなら、彼らが私たちの福祉のために働くはずなのに、多くの場合、彼らは自分自身の福祉のために働くからです。

もし、自分にとって利益があれば、その時だけ彼らは私たちの福祉のためにも働きます。

けれども、この箇所では、本当の義にあってキリストがこの世を治めることが見えます。キリストは悩んでいる人や貧しい人を愛しているので、彼らを助けてくださいます。(1ー4、12ー14)

さらに、キリストがこの世を治める時、義人は栄え、祝福されます。私は6節が好きです。

彼は牧草地に降る雨のように、地を潤す夕立のように下って来る。(詩篇72:6)

けれども、特に大好きな箇所は17節です。

彼の名はとこしえに続き、その名は日の照るかぎり、いや増し、人々は彼によって祝福され、すべての国々は彼をほめたたえますように。

多分、ソロモンは神様がアブラハムにされた約束について考えていたでしょう。

そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し。。。

地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。(創世記12:2-3)

キリストにあって、その約束は完全に成就されます。だから、ソロモンはこの詩篇をこのようにまとめて、祈ります。

ほむべきかな。神、主、イスラエルの神。ただ、主ひとり、奇しいわざを行なう。

とこしえに、ほむべきかな。その栄光の御名。その栄光は地に満ちわたれ。アーメン。アーメン。(18-19)

アーメン。イエス様、すぐに来てください。

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詩篇

すべての人々が神様を知るように祝福された

この詩篇は、申命記6:24-26の祭司の祝福に似ています。

どうか、神が私たちをあわれみ、祝福し、御顔を私たちの上に照り輝かしてくださるように。(詩篇67:1)

私が興味深いと思うのは、その詩人の動機です。

それは、あなたの道が地の上に、あなたの御救いがすべての国々の間に知られるためです。(2)

多くのクリスチャンは自己中心的な理由のために「主よ。私を祝福してください」と祈ります。

しかし、詩人はこのように祈ります。

「主よ、私たちをあわれんでください。祝福してください。なぜなら、周りの人々があなたの恵みと慈しみを見るなら、あなたとの関係を求めるから。そして、私たちだけではなく、彼らもあなたの救いを知ります。」

詩人はその日を楽しみにして、歌います。

神よ。国々の民があなたをほめたたえ、国々の民がこぞってあなたをほめたたえますように。

国民が喜び、また、喜び歌いますように。それはあなたが公正をもって国々の民をさばかれ、地の国民を導かれるからです。セラ

神よ。国々の民があなたをほめたたえ、国々の民がこぞってあなたをほめたたえますように。(3-5)

詩人は、すべての国民が自分の心を神様に向けることを見るし、もう一つのことを見ます。それは、神様を恐れる人に対する神様の祝福です。

地はその産物を出しました。神、私たちの神が、私たちを祝福してくださいますように。

神が私たちを祝福してくださって、地の果て果てが、ことごとく神を恐れますように。(6-7)

神様、あなたの恵みを与えてください。主よ、私を引き寄せ、あなたの御顔を私の上に照り輝かせてくださるように。そして、私の周りの人々が私を見る時、彼らはあなたを見て、あなたに近づくように。

あなたの光が私を通して輝くように。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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詩篇

私たちを救い、 満たしてくださる神

私はこの詩篇がいつ書かれたのか分かりません。もしかすると、神様の裁きによってイスラエルには飢饉があったのかもしれません。けれども、その後イスラエル人が悔い改めたので、もう一度神様の祝福を受けたのでしょう。

だから、詩人は神様のあわれみに感謝します。

神よ。あなたの御前には静けさがあり、シオンには賛美があります。あなたに誓いが果たされますように。

祈りを聞かれる方よ。みもとにすべての肉なる者が参ります。

咎が私を圧倒しています。しかし、あなたは、私たちのそむきの罪を赦してくださいます。

幸いなことよ。あなたが選び、近寄せられた人、あなたの大庭に住むその人は。私たちは、あなたの家、あなたの聖なる宮の良いもので満ち足りるでしょう。(詩篇65:1-4)

この個所で、詩人はイスラエルの罪と神様の裁きを思い出します。私は3節が大好きです。

咎が私を圧倒しています。しかし、あなたは、私たちのそむきの罪を赦してくださいます。

私たちは自分の罪に圧倒されました。私たちは神様の裁きから逃げられなかった。けれども、パウロが言ったように、「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった。」(ローマ5:8)

だから今、神様は私たちを近づけて、祝福を注いでくださいます。私たちはもう神様を恐れる必要がありません。むしろ、神様のあわれみと恵みを受けたので、愛で満たされた心で私たちは神様を仰ぎます。

そして、ある日、天国で私たち皆は神様のあわれみを賛美します。(1)

5節でダビデはこう言います。

私たちの救いの神よ。あなたは、恐ろしい事柄をもって、義のうちに私たちに答えられます。あなたは、地のすべての果て果て、遠い大海の、信頼の的です。

この詩篇の後半で、ダビデは神様の創造の力を思い出し、どうやって神様が雨を降らして、この世を支え、祝福することについて歌います。

けれども、この詩篇を読むとき、私はもう一つのことを見ます。それは私たちの救い主の業です。つまり、イエス様は私たちの罪のために死んでくださったので、この死にかけている世においても、私たちには希望があります。

神様がこの世を祝福するために天から雨を降らすように、神様は生ける水、つまり聖霊を私たちに注ぎ、毎日私たちを満たしてくださいます。

また御霊によって、神様は私たちと私たちが触れる人に恵みを注いでくださるので、私たちは豊かな実を結びます。

主よ、あなたが私に注いでくださった恵みを感謝します。その恵みによって私は救われました。私が自分自身を救う力がないとき、あなたは私を救ってくださいました。

今、あなたの聖霊で私を満たしてください。あなたの聖霊が私の人生にあふれ、私が実を結び、周りの人々に触れるように。

あなたが私の人生に注いでくださる喜びを感謝します。主イエスキリストのみ名によって祈ります。アーメン。

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ゼカリヤ書

全ての祝福は神様から来る

この箇所では、ゼカリヤはイスラエルの救いについて話し続けます。しかし、この箇所を読むと、この言葉は私の心を打ちます。

主はいなびかりを造り、大雨を人々に与え、野の草をすべての人に下さる。(ゼカリヤ書10:1)

わたしは雄やぎを罰しよう。万軍の主はご自分の群れであるユダの家を訪れ、彼らを戦場のすばらしい馬のようにされる。(3)

わたしはユダの家を強め、ヨセフの家を救う。わたしは彼らを連れ戻す。(6)

わたしは彼らに合図して、彼らを集める。わたしが彼らを贖ったからだ。(8)

彼らの力は主にあり、彼らは主の名によって歩き回る。――主の御告げ―― (12)

つまり、私たちの祝福のすべては神様から来ます。

神様から雨や作物が来ます。(1)

神様は悪いリーダー(つまり、雄やぎ)を罰し、ご自分の民を世話してくださいます。(3)

神様は私たちを強め、救い、癒してくださいます。私たちが呼ぶ時、神様は応えてくださいます。(6)

神様は私たちを呼び、集め、贖ってくださいます。(8)

神様の力と名前によって、私たちはこの世に恐れずに歩き回ることができます。(12)

どうして、神様は私たちをそのように祝福してくださるのでしょうか。私たちが良い人だからでしょうか。違います。神様の恵みによって、祝福してくださいます。

私たちのすべては、神様から来ます。私たちのすべては神様の恵みによって与えられたのです。

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ゼカリヤ書

祝福になるために救われた

ゼカリヤ書には、たくさんの警告と戒めがあります。けれども、同時に、励ましの言葉も記されています。

この箇所では、両方の要素を見ることができます。

神様はまず、ユダヤ人を励まされました。エルサレムは復興し、喜びと平和に満ちた安全な場所になると約束されました。また、散らされていた人々がイスラエルに帰還し、再び彼らは神様の民となり、神様も彼らの神となられるのです。

ユダヤ人にとって、それは想像を超える希望でした。それでも、神様は彼らに力強く語りかけられました。

もし、これが、その日、この民の残りの者の目に不思議に見えても、わたしの目に、これが不思議に見えるだろうか。――万軍の主の御告げ――(ゼカリヤ書8:6)

もちろん、そうではありません。なぜなら、神様は何でもできるからです。

だからこそ、神様は彼らにこう語られました。

勇気を出せ。あなたがたは、万軍の主の家である神殿を建てるための礎が据えられた日以来、預言者たちの口から、これらのことばを日ごろ聞いているではないか。(9)

ユダヤ人たちが神殿の礎を据えたとき、神様の預言者たちは彼らを励まされました。それゆえ、ゼカリヤは彼らに言いました。「その預言者の言葉を思い出し、諦めないでください。反対があっても勇気を出し、この神殿建設を終えなさい。」

神様は私たちにも同じように言われます。神様の力によって私たちは救われました。だからこそ、反対があっても私たちは勇気を出し、神様が計画されたように神様の宮となるべきです。

神様は私たちの内に住んでおられるのですから、私たちは聖なるものとなり、神様のために生きるべきです。

そして、神様はこう言われました。

ユダの家よ。イスラエルの家よ。あなたがたは諸国の民の間でのろいとなったが、そのように、わたしはあなたがたを救って、祝福とならせる。恐れるな。勇気を出せ。(13)

そのように、私たちが救われる前、私たちの人生は罪によって呪われていました。また、私たちの罪によって周りの人々をも呪っていました。

しかし、神様が私たちを救われたことによって、私たちは周りの人々に祝福をもたらす存在になります。神様は同じ約束をアブラハムにも与えられました。

地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。(創世記15:3)

神様は私たちにも同じことを望まれます。それゆえ、神様はこう言われました。

これがあなたがたのしなければならないことだ。互いに真実を語り、あなたがたの町囲みのうちで、真実と平和のさばきを行なえ。互いに心の中で悪を計るな。偽りの誓いを愛するな。

これらはみな、わたしが憎むからだ。――主の御告げ――」(16-17)

つまり、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」(マルコ12:31)

そうすれば、周りの人々は私たちに引き付けられ、神様にも引き付けられるでしょう。

最後にゼカリヤはこう言いました。

「多くの国々の民、強い国々がエルサレムで万軍の主を尋ね求め、主の恵みを請うために来よう。」万軍の主はこう仰せられる。

「その日には、外国語を話すあらゆる民のうちの十人が、ひとりのユダヤ人のすそを堅くつかみ、「私たちもあなたがたといっしょに行きたい。神があなたがたとともにおられる、と聞いたからだ」と言う。」(22-23)

いつか、すべての人がユダヤ人についてこう言うでしょう。 しかし、日ごとに人々が私たちについても同じことを言うようになりますように。

「私たちもあなたがたと一緒に行きたい。神があなたがたとともにおられると聞いたからです。」

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エレミヤ書

私たちの益のため

この箇所では、エルサレムはまだ包囲されていました。また、エレミヤはまだ牢屋にいました。その時、神様はエレミヤにこう言われました。

「あなたのいとこが、土地を売るためにあなたのところに来る。その時、その土地を買いなさい。」

普通に考えれば、それは良い機会のように思えますが、エルサレルムが包囲されていたため、エレミヤがその土地を持ち続けられるかどうかは不明であり、少し愚かな決断に見えるかもしれません。

それでも、神様は「買いなさい」と言われました。それは神様がこう言われたからです。

まことに、イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。再びこの国で、家や、畑や、ぶどう畑が買われるようになるのだ。(エレミヤ書32:15)

つまり、エレミヤの土地の購入は、イスラエル人の帰国のしるしでした。

エレミヤの反応は少し複雑でした。(16-25節)

それは信仰に基づく祈りだったのでしょうか。それとも、神様が本当にイスラエル人を御自身の国に帰らせてくださるかどうかを疑っていたのでしょうか。または、その祈りには信仰と疑いの両方が混在していたのでしょうか。

私たちも、イエス様に息子の癒しを願った父親のような立場にいることがあるのではないでしょうか。イエス様は父親に言われました。

「私があなたの息子を癒せることを信じますか。」

その父親は次のように答えました。「信じます。不信仰な私をお助けください。」(マルコ9:25)

エレミヤもこのように祈ったように思えます。

「主よ。あなたはすべてのことができます。あなたにとって、不可能なことはありません。あなたは、バビロン人が来てエルサレムを包囲すると警告してくださり、あなたが言われた通りに彼らが来ました。私は信じます。

けれども、あなたは私に言われます。『その土地を買いなさい。なぜなら、ある日イスラエル人がこの土地に戻るからです。』

それは本当なのでしょうか。私たちは本当にこの国に戻れるのでしょうか。」

おそらく、エレミヤは神様の力そのものを疑っていたのではありませんでした。むしろ、イスラエル人が本当に悔い改めるのかどうかを疑っていたのかもしれません。なぜなら、その時点で彼らは全く悔い改めていなかったからです。

しかし、神様はこのようにお答えになりました。

「見よ。わたしは、わたしの怒りと、憤りと、激怒とをもって散らしたすべての国々から彼らを集め、この所に帰らせ、安らかに住まわせる。

彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。

わたしは、いつもわたしを恐れさせるため、彼らと彼らの後の子らの幸福のために、彼らに一つの心と一つの道を与え、 わたしが彼らから離れず、彼らを幸福にするため、彼らととこしえの契約を結ぶ。

わたしは、彼らがわたしから去らないようにわたしに対する恐れを彼らの心に与える。

わたしは彼らを幸福にして、彼らをわたしの喜びとし、真実をもって、心を尽くし思いを尽くして、彼らをこの国に植えよう。」(エレミヤ書32:37ー41)

つまり、神様は、きっとイスラエル人を御自身の国に帰らせると言われました。

けれども、神様が31章で言われたように、イスラエルの霊的な復活は、イスラエル人の働きではなく、神様の働きです。神様が彼らの心を変えてくださり、彼らは悔い改めます。そして、神様は彼らをもう一度祝福すると約束してくださいました。

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

第一に、私たちが疑うときでも、神様は私たちの益のために働いてくださっているということです。神様は、私たちを祝福したいと思われます。神様は、私たちを祝福することを喜ばれます。

私たちがそのことを心に留めるなら、神様を信頼し従うことがさらに容易になるでしょう。

第二に、神様は、いつも私たちの心に働きかけて、神様が望まれるように私たちを形作ってくださるということです。

私たちの役割は、神様と協力することです。そうすれば、神様は私たちを祝福してくださいます。

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エレミヤ書

一時的な悔い改め

いつ34章の事件が起こったか分かりませんが、32-33章の前に起こったと思います。なぜなら、32-33章では、エレミヤは牢にいたからです。

最初に、エレミヤはゼデキヤ王に警告しました。「ネブカデネザルはエルサレムを倒すけれど、ゼデキヤは剣で死なない」と言いました。

おそらく、その言葉によって、ゼデキヤとユダ人たちはある程度まで悔い改めました。その時まで、彼らはずっと自分の兄弟を奴隷にしていました。

神様の律法によると、7年ごとに、彼らはその奴隷を解放するべきでした。(その時代、負債の問題によって、多くの人々は自分自身を奴隷として売りました。)けれども、彼らはその律法をずっと破り続けました。

そのため、バビロン人が来て、またユダ人がエレミヤの警告を聞いたので、ゼデキヤとユダ人は神様との契約を結びました。つまり、彼らはすべての奴隷を解放することを約束しました。そして、彼らはその約束を守りました。

しかし、その悔い改めは一時的なものでした。

事件のタイミングははっきり分かりませんが、恐らく彼らがその奴隷を解放した直後に、ネブカデネザルとその軍隊はエジプト人と戦うためにエルサレムの包囲を解きました。(エレミヤ書34:21)

ネブカデネザルが行ってしまったので、ユダ人は自分たちの約束を破り、解放された奴隷を勝手に連れ戻し、もう一度奴隷にしました。そのため、神様は裁きを宣言されました。

わたしはまた、ユダの王ゼデキヤとそのつかさたちを敵の手、いのちをねらう者たちの手、あなたがたのところから退却したバビロンの王の軍勢の手に渡す。見よ。わたしは命じ、――主の御告げ――

彼らをこの町に引き返させる。彼らはこの町を攻め、これを取り、火で焼く。わたしはユダの町々を、住む者もいない荒れ果てた地とする。』」(エレミヤ書34:21ー22)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。時々、人々は困って神様に向かい、悔い改めます。神様は彼らを赦し、彼らの人生に働きかけて癒されます。

けれども、全てが上手くいくと、彼らは神様の恵みを忘れ、自分の道に戻ります。その結果、彼らは再びトラブルに巻き込まれて苦しみます。

彼らは自分の救いを失うことはありませんが、この世でその罪の結果を経験します。

あなたはどうでしょうか。悔い改めて癒されたのに、また古い道に戻ってしまっているでしょうか。

その道に戻らないでください。むしろ、罪から避け、神様に従いましょう。そうすれば、あなたは神様の祝福を受けることができます。

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エレミヤ書

服従からの祝福

多くの場合、私たちは神様の言葉を知っていても、その言葉に従いません。

なぜなら、「楽しいこと」をしたいと思うからです。また、神様の道を歩まずに、自分の道を行けば幸せになれると考えるからです。

ユダの人々もそう考えました。しかし、この箇所では、神様は服従から来る祝福について教えられます。

神様はエレミヤに、ある家族を主の宮に連れて行くよう命じられました。彼らはレカブという人の子孫でした。

他のユダの人々は、この家族を見て少し不思議な家族だと思っていました。なぜなら、ユダの人々は自分の家を建てていたのに対し、レカブ人たちは今でもテントに住んでいたからです。また、彼らは全くお酒を飲まなかったからです。

その家族は宮に行き、ハナンという人の息子たちが住んでいる部屋に入りました。そこで、エレミヤは彼らにお酒を差し出しましたが、彼らはこう言いました。

「私たちはぶどう酒を飲みません。それは、私たちの先祖レカブの子ヨナダブが私たちに命じて、『あなたがたも、あなたがたの子らも、永久にぶどう酒を飲んではならない。

あなたがたは家を建てたり、種を蒔いたり、ぶどう畑を作ったり、また所有したりしてはならない。

あなたがたが寄留している地の面に末長く生きるために、一生、天幕に住め』と言ったからです。

それで、私たちは、私たちの先祖レカブの子ヨナダブが私たちに命じたすべての命令に聞き従い、私たちも、妻も、息子、娘たちも、一生、ぶどう酒を飲まず、住む家も建てず、ぶどう畑も、畑も、種も持ちません。

私たちは天幕に住み、すべて先祖ヨナダブが私たちに命じたとおりに、聞いて行なってきました。(エレミヤ書35:6-10)

ネブカデネザル王がユダを攻撃し、その家族が自分の土地を離れてエルサレムに逃れなければならなくなったとしても、彼らはヨナダブの命令に忠実に従い続けました。

そのため、神様はこう語られました。

イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。行って、ユダの人とエルサレムの住民に言え。

『あなたがたはわたしのことばを聞いて懲らしめを受けようとしないのか。――主の御告げ――レカブの子ヨナダブが、酒を飲むなと子らに命じた命令は守られた。彼らは先祖の命令に聞き従ったので、今日まで飲まなかった。

ところが、わたしがあなたがたにたびたび語っても、あなたがたはわたしに聞かなかった。(13-14)

つまり、「ヨナダブはただの人間であるにもかかわらず、その子孫たちは彼の言葉に従い続けています。私はあなたがたの神です。それなのに、あなたがたは私の言葉に従いません。なぜ、私の言葉に従わないのですか。」

そして、神様はレカブ人たちにこう語られました。

エレミヤはレカブ人の家の者に言った。「イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。

『あなたがたは、先祖ヨナダブの命令に聞き従い、そのすべての命令を守り、すべて彼があなたがたに命じたとおりに行なった。』

それゆえ、イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。

『レカブの子、ヨナダブには、いつも、わたしの前に立つ人が絶えることはない。』」(18-19)

レカブ人たちはその先祖と神様に忠実であったため、ユダが裁きを受けた時も、神様は彼らを祝福されました。

あなたはどうでしょうか。神様に従うことで祝福されると信じていますか。

私は以前言ったように、神様に従うことで、あなたの人生が必ずしも楽になるわけではないかもしれません。しかし、神様に従うなら、どんな試練の中にあっても、喜びと満足を見いだすことができます。

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エレミヤ書

悔い改めなさい

私がハワイにいた時、エホバの証人やモルモン教の人たちが私の家によく訪ねてきました。私が日本に引っ越して、神戸に住んでいた時でも、エホバの証人たちが時々訪ねてきました。

けれども、現在住んでいるマンションにはルールがあるため、ほとんどのセールスや宗教の人々は戸別訪問ができません。

ある意味、それは残念なことです。時々興味深い会話があったからです。

いずれにせよ、このエホバの証人やモルモン教の人々は「私たちはクリスチャンです」と言います。しかし、彼らにはいくつかの問題があります。

例えば、彼らはクリスチャンの言葉を用いますが、その意味は全く異なります。

エホバの証人にとって、イエス様は御使いのかしらであるミカエルです。

モルモン教にとって、イエス様はサタンの兄弟とされています。

もう一つの問題は、彼らの預言者たちが偽の預言を語ったことです。(申命記28:21ー22では、神様は偽物の預言者について警告しておられます。どうぞお読みください。)

エホバの証人やモルモン教の人々の言い訳はこうです。

「聖書に記された本当の預言者たちでもミスをしました。ヨナの話を覚えているでしょうか。ヨナがニネベは滅びると預言しましたが、結局ニネベは滅びませんでした。」

しかし、ヨナの言葉は預言ではなく、警告でした。神様はニネベの人々が悔い改めることを望んでおられたので、ヨナをニネベに遣わされました。

この箇所では、その真実を見ることができます。神様はエレミヤにこのように言われました。

わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、引き倒し、滅ぼすと語ったその時、もし、わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改めるなら、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す。

わたしが、一つの国、一つの王国について、建て直し、植えると語ったその時、もし、それがわたしの声に聞き従わず、わたしの目の前に悪を行なうなら、わたしは、それに与えると言ったしあわせを思い直す。(エレミヤ書18:7ー10)

この箇所を読むと、ヨナ書をより深く理解できると思います。ニネベの人々は悔い改めたので、神様は彼らに憐れみを注いでくださいました。

一方で、神様はイスラエルの人々に多くの祝福を約束されました。それは、彼らが神様の命令に従うならば、彼らが神様の民となり、神様が彼らの神となられるということです。

ところが、彼らは神様に背を向けたので、神様はその祝福を取り消され、彼らに災いを下されました。

この箇所の終わりでは、彼らの心が硬く、全く神様のメッセージを聞きたくなかったため、彼らはエレミヤを無視し、責めました。その結果は追放です。

私の言葉を誤解しないでください。神様はイスラエルの人々のためにまだ計画を持っておられます。神様は常にご自身の約束を守られます。

とはいえ、イスラエルの人々が悔い改めなければ、神様の祝福を得ることができません。(ローマ11章をお読みください。)

とにかく、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。私たちの罪を悔い改めるべきです。私たちの自己中心的な態度を捨てるべきです。そして、神様に向かうべきです。

そうすれば、本当の命を見つけることができるでしょう。

あなたはどのような罪を悔い改めるべきでしょうか。また、神様はあなたに何を望んでおられるのでしょうか。

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エレミヤ書

偽の悔い改め

私の娘が3歳の時、時々悪いことをすると、私は「謝りなさい」と言いました。

彼女は謝りましたが、時々心から謝っていませんでした。むしろ、彼女は笑いながら、「ごめんなさい~」と言っていました。

ユダ人たちは私の娘のようでした。神様は彼らについてこう言われました。

あなたは遊女の額をしていて、恥じようともしない。今でも、わたしに、こう呼びかけているではないか。

『父よ。あなたは私の若いころの連れ合いです。いつまでも怒られるのですか。永久に怒り続けるのですか』と。

なんと、あなたはこう言っていても、できるだけ多くの悪を行なっている。(エレミヤ書3:3ー5)

口では、彼らは「ごめんなさい」と言いましたが、彼らの行動はその心を表していました。

そして、神様は彼らを追放されたイスラエル人たちと比べられました。神様は彼らの「不倫」によって「離婚」されたのです。

つまり、彼らが偽物の神々を求めたために、神様は彼らをアッシリヤ人の手に渡されました。

ユダはそのことを知っていたにもかかわらず、悔い改めませんでした。悔い改めの言葉を口にしたものの、心から悔い改めることはありませんでした。

神様は彼らについてこう言われました。

このようなことをしながら、裏切る女、妹のユダは、心を尽くしてわたしに帰らず、ただ偽っていたにすぎなかった。――主の御告げ――」

主はまた、私に仰せられた。「背信の女イスラエルは、裏切る女ユダよりも正しかった。(10ー11)

つまり、「悔い改めるふりをするな。偽りの悔い改めよりも、反抗の方がまだ良い。」ということです。

しかし、もちろん、反抗よりも、神様は真実の悔い改めを望んでおられます。そのため、神様はこう言われました。

背信の女イスラエル。帰れ。――主の御告げ――

わたしはあなたがたをしからない。わたしは恵み深いから。――主の御告げ――

わたしは、いつまでも怒ってはいない。ただ、あなたは自分の咎を知れ。

あなたは自分の神、主にそむいて、すべての茂った木の下で、他国の男とかってなまねをし、わたしの声を聞き入れなかった。――主の御告げ――

背信の子らよ。帰れ。――主の御告げ――

わたしが、あなたがたの夫になるからだ。わたしはあなたがたを、町からひとり、氏族からふたり選び取り、シオンに連れて行こう。。。

背信の子らよ。帰れ。わたしがあなたがたの背信をいやそう。(エレミヤ書3:12-14,22)

私たちはどのように反応するべきでしょうか。

今、私たちはあなたのもとにまいります。あなたこそ、私たちの神、主だからです。(エレミヤ書3:22b)

神様はこう応えられます。

耕地を開拓せよ。いばらの中に種を蒔くな。

ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。(エレミヤ書4:3ー4)

つまり、神様に対して、あなたの心を柔らかくしなさい。心の堅い土壌を耕しなさい。罪のとげを取り除きなさい。あなたを神様から遠ざけるものを取り除きなさい。

そうすれば、私たちの悔い改めは私たち自身に影響を与えるだけでなく、周りの人々にも影響を与えます。

神様はこう言われます。

イスラエルよ。もし帰るのなら、――主の御告げ――わたしのところに帰って来い。

もし、あなたが忌むべき物をわたしの前から除くなら、あなたは迷うことはない。

あなたが真実と公義と正義とによって『主は生きておられる』と誓うなら、国々は主によって互いに祝福し合い、主によって誇り合う。(4:1ー2)

つまり、私たちが悔い改め、主のために生き始めるならば、神様は私たちを通して働き、私たちの周りの人々に触れて、彼らを祝福されるのです。

私たちがそのような心を持つことができますように。

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イザヤ書

過去を忘れて、進んでいく

この箇所を読めば読むほど、ますます好きになります。

先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。

見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。

確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。(イザヤ書43:18-19)

神様がイスラエルの民に語られたことはこうです。

「あなたたちは失敗した。あなたたちは罪を犯した。それゆえに追放された。けれども、そのことをもう考えるな。私はあなたたちの人生に新しいことをする。

目を開きなさい。そうすれば、私は帰る道を造り、あなたの人生の荒野に命の川を備えるだろう。」

私たちも、しばしば失敗に囚われすぎて、過去に焦点を当ててしまうことがあります。その結果、神様が私たちの未来のために何を計画しているのか気づかないことが多いのです。振り返ってばかりいると、当然ながら前を見ることはできません。

しかし、神様は私たちの人生に新しいことをなさりたいと望んでおられます。今この瞬間でも、私たちが心の目を開けば、神様の計画が見えるのです。

ところが、多くの場合、私たちがその計画を見逃してしまう原因があります。それは何でしょうか。

しかしヤコブよ。あなたはわたしを呼び求めなかった。イスラエルよ。あなたはわたしのために労苦しなかった。。。

あなたの罪で、わたしに苦労をさせ、あなたの不義で、わたしを煩わせただけだ。(22、24)

心を尽くして神様を求めるなら、私たちは神様の働きを見ることができ、神様の祝福を受け取ることができます。

けれども、多くの場合、私たちは神様を無視し、求めるとしても心が伴わず、消極的にそうしているのです。

それだけではなく、私たちはしばしば自己中心的になり、高慢になります。自分自身のためだけに生きているがゆえに、私たちの罪が神様を悲しませることもあります。

しかし、もし悔い改めて心から神様を求めるなら、神様は私たちのために素晴らしいことをなさりたいと願っておられます。神様には私たち一人一人のための素晴らしいご計画があります。

だから、神様はこう語られます。

わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。(25)

あなたの人生はめちゃくちゃになっていると感じていますか。経済はどうですか。結婚はどうでしょうか。仕事についてはどうですか。

過去に焦点を当てるのはやめましょう。代わりに、神様があなたの人生においてどのように働いておられるのかを見てください。

神様に祈って尋ねてください。「神様、あなたは私に何をしてほしいと願っておられるのでしょうか。」

そして、あなたの罪や悪い態度によって神様を悲しませることをやめましょう。

悔い改めて、心を尽くして神様を求めましょう。そうすれば、神様の祝福を知ることができるでしょう。

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イザヤ書 列王記第二 歴代誌第二

神様の恵みを忘れる

この箇所を読んで私が驚いたのは、神様がいろいろな不思議な方法でヒゼキヤを助けられたにもかかわらず、ヒゼキヤがその恵みを忘れてしまったことです。

歴代誌第二32:35には、このことについてこう記されています。

ところが、ヒゼキヤは、自分に与えられた恵みにしたがって報いようとせず、かえってその心を高ぶらせた。そこで、彼の上に、また、ユダとエルサレムの上に御怒りが下った。

ヒゼキヤはどのように高ぶったのでしょうか。神様がヒゼキヤの病気を癒された後、バビロンから使者がやって来ました。彼らは、神様がヒゼキヤのために何をしてくださったのかを聞いたからです。

しかし、ヒゼキヤは神様を誉めることなく、自分の富、つまり金や銀、武器、そして宝物のすべてを見せびらかしました。

そのため、イザヤはヒゼキヤにこう言いました。

万軍の主のことばを聞きなさい。見よ。あなたの家にある物、あなたの先祖たちが今日まで、たくわえてきた物がすべて、バビロンへ運び去られる日が来ている。何一つ残されまい、と主は仰せられます。

また、あなたの生む、あなた自身の息子たちのうち、捕らえられてバビロンの王の宮殿で宦官となる者があろう。(イザヤ39:5-7)

多分、その日バビロン人はヒゼキヤの富を目にしたことで、後にその富を得るためにユダを攻めようと考え始めたのでしょう。

それだけではなく、ヒゼキヤはバビロン人に神様の恵みについて伝える絶好のチャンスを逃してしまいました。もし彼が神様の恵みを語っていたなら、彼らは悔い改めて神様に従い始めた可能性もあったのです。

私たちも、神様の恵みを忘れると同じようなことが起こるかもしれません。自分の持ち物や、自分が成し遂げたことを誇ってしまい、それらの祝福がどこから来たのかを見失ってしまうのです。

そして、他の人々が私たちの祝福を見るとき、私たちは時に神様が与えてくださった恵みを忘れてしまい、自分自身がどのようにそれらを得たのかを誇ることがあります。

その結果、彼らは私たちが仕える神様を誉めるのではなく、私たち自身を誉めてしまうのです。

あなたはどうでしょうか。他の人々があなたを見るとき、その人たちはあなたの成功に感動し、あなたを誉めるのでしょうか。

それとも、彼らはあなたを通して神様を知り、神様を求め始めるのでしょうか。

どうか、神様の恵みを忘れないでください。むしろ、謙遜な心を持ち、いつも神様に感謝を捧げ、神様からいただいた恵みを周りの人々と分かち合いましょう。

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イザヤ書

祝福を得るために打たれた。人々を祝福するために打たれた。

子供の時に、私はよくしつけられました。もちろん、それは楽しい思い出ではありません。けれども、振り返ると、私は父に感謝しています。なぜなら、そのしつけによって私は人として成長したからです。

そのように神様は私たちをしつけられます。しかし、多くの人々のイメージと違って、神様は怒りの神ではありません。むしろ、神様は私たちを祝福したいと思っておられます。

この箇所の最初の部分では、モーセの時代のように、神様はエジプトを厳しく裁いておられました。けれども、急に神様のトーンが変わります。

その日、エジプトの国には。。。万軍の主に誓いを立てる五つの町が起こり。。。彼らがしいたげられて主に叫ぶとき、主は、彼らのために戦って彼らを救い出す救い主を送られる。

そのようにして主はエジプト人にご自身を示し、その日、エジプト人は主を知り。。。主はエジプト人を打ち、打って彼らをいやされる。

彼らが主に立ち返れば、彼らの願いを聞き入れ、彼らをいやされる。(イザヤ書19:18,20-22)

それだけではなく、神様はエジプトの敵アッシリヤ人の心の中に働くと約束されました。そしてエジプト人とアッシリヤ人に関して、神様はこう言われました。

その日、エジプトからアッシリヤへの大路ができ、アッシリヤ人はエジプトに、エジプト人はアッシリヤに行き、エジプト人はアッシリヤ人とともに主に仕える。

その日、イスラエルはエジプトとアッシリヤと並んで、第三のものとなり、大地の真ん中で祝福を受ける。(23-24)

この箇所を読んだ時、ちょっと驚きました。なぜなら、普通は神様はイスラエルだけに関してそのような言葉を言われるからです。けれども、この箇所によると、神様に戻る人々全てを神様は受け入れてくださいます。

もちろん、私たちが罪を犯すと神様は私たちを打たれます。とはいえ、神様の望みは、私たちが悔い改めることです。そうすれば、神様は私たちを癒してくださいます。

それだけではなく、神様は私たちを祝福したいと思っておられます。そして、神様は私たちが周りの人々に対して祝福になることを望んでおられます。

神様は今あなたを懲らしめておられるでしょうか。あなたの罪によって、あなたの状況は辛いでしょうか。

神様に向かって悔い改めましょう。神様は私たちを打ちたくはありません。むしろ、私たちを祝福したいと思っておられます。

私たちが周りの人々に対して呪いになることを望んでおられません。むしろ、私たちが周りの人々に対して祝福になることを望んでおられます。

だから、へブル人への手紙の著者の言葉を覚えておきましょう。

主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。

主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。(へブル12:5-6)

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ヨナ書

自分への恵みを捨てる

この箇所を読むと、この話がいかに劇的かを改めて感じます。嵐の中で、ヨナは海に投げ込まれ、波にのまれて、どんどん深く沈み、命の危機に瀕していました。しかし、土壇場になり、ヨナは心の底から叫びました。「神様!助けてください!」

その時、大きな魚が現れ、ヨナを飲み込んでしまいました。

こうして、ヨナは「初めての潜水艦」に乗ることになります。その中で、ヨナはこう思いました。

むなしい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます。(ヨナ書2:8)

ヨナは何について考えていたでしょうか。自分の民についてだったでしょうか。それとも、ニネベの民について考えていたでしょうか。おそらくその両方だったかもしれません。

けれども、ヨナの心には空しい偶像がありました。もちろん、ヨナはバアルやヤロブアムが立てた金の子牛を拝んでいたわけではありませんが、別の偶像を心の中に建てていました。それは、「私」という偶像です。

そのため、神様が「ニネベに行きなさい」と命じられたとき、ヨナは「私」という神に従ったのです。

その結果、ヨナは神様からの祝福を自ら捨ててしまうことになりました。

神様はヨナを通して素晴らしい働きを成し遂げたかったのです。もしヨナが進んでニネベでの務めを果たしていたなら、神様は彼を豊かに祝福されたことでしょう。

しかし、ヨナはニネベの民にも、神様にも心を頑なにしてしまいました。

ようやくニネベに行ったときも、ヨナはしぶしぶと神様のメッセージを伝えました。そのため、彼は再び神様からの祝福を逃してしまいました。

あなたはどうでしょうか。「私」という偶像に従っているでしょうか。あなた自身とあなたの欲望があなたの人生の中心にあるでしょうか。ヨナの生涯から学び、彼の言葉を心に留めておきましょう。

むなしい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます。(8)

「私」という偶像を手放しましょう。神様に私たちの人生の王座を捧げましょう。そうすることで、神様からの祝福を心から受け取ることができるのです。