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マタイの福音書のデボーション

みことばを真珠と見なしているだろうか

求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。

だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。 (マタイの福音書7:7~8)

そのことばを読んだとき、私はヤコブのことばを思い起こしました。

あなたがたのうちのだれかが知恵に欠けているなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます。(ヤコブの手紙1:5)

そして、私はこのように考えました。

神の導きと知恵を求めるとき、私はそのみことばを良い贈り物、完全な賜物、いのちを与えるものと見なしているでしょうか。(ヤコブの手紙1:17~18)

それとも、石や蛇のように見なしてしまうことがあるでしょうか。(マタイの福音書7:9~10)

私の天のお父さんが良い方であり、そのみことばが真珠のように尊ぶべきもの、従うべきものだと信じているでしょうか。

それとも、豚のように、そのみことばを踏みつけてしまうことがあるでしょうか。(マタイの福音書7:6)

二心の者でありたくありません。神様に知恵を求めながら、そのみことばの良さを疑いたくありません。(ヤコブの手紙1:6~7)

私は神の戒めの理由が完全に分からないにもかかわらず、私の良い王に信頼し、従いたいと願っています。

私の良い王よ、すべてにおいて、あなたを信頼することができるように助けてください。いのちを与えるあなたのみことばの上に、私の人生を築くことができるようにしてください。

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詩篇のデボーション

主が耳を傾けてくださったゆえ

今朝、私は詩篇39篇と40篇のつながりに初めて気付きました。

詩篇39篇では、ダビデはこう願いました。

【主】よ、私の祈りを聞いてください。
助けを求める叫びに耳を傾けてください。
私の涙に黙っていないでください。(詩篇39:12)

そして、40篇では、ダビデはこう歌いました。

私は切に【主】を待ち望んだ。
主は私に耳を傾け、
助けを求める叫びを聞いてくださった。

滅びの穴から泥沼から、
主は私を引き上げてくださった。
私の足を巌に立たせ、
私の歩みを確かにされた。

主はこの口に授けてくださった。
新しい歌を、私たちの神への賛美を。(詩篇40:1~3)

けれども、私にもっとも印象に残ったのは、ダビデの反応でした。

あなたはいけにえや穀物のささげ物を
お喜びにはなりませんでした。
あなたは私の耳を開いてくださいました。

全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物を
あなたはお求めになりませんでした。

そのとき、私は申し上げました。
「今、私はここに来ております。
巻物の書に、私のことが書いてあります。

わが神よ、私は
あなたのみこころを行うことを喜びとします。

あなたのみおしえは
私の心のうちにあります。」(詩篇40:6~8)

主がダビデに耳を傾けてくださったゆえ、ダビデは主に耳を傾けました。主がダビデにしてくださったことゆえ(詩篇40:1〜5)、ダビデは喜んで神様とその御心に従いました。神の御言葉は、ダビデの喜びだったのです。

それはダビデの心でした。

それはイエス様の心でした。(ヘブル書10:5〜7)

私もそのような心を願っています。

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申命記のデボーション

あなたの御声が聞こえるように

まことに、あなたはもろもろの民を愛する方、 御手のうちにすべての聖なる者がいる。 彼らはあなたの足もとにひれ伏し、 あなたの御告げを受ける。(申命記33:3)

天のお父さん、あなたの御言葉は空虚なものではありません。それらは私のいのちです。

どうか、私があなたの御言葉一つ一つを心にとどめることができるよう助けてください。(申命記32:46ー47)

あなたの御教えは雨のように私の目と心に降り注ぎ、あなたの御言葉は露のように滴るようにしてください。若草の上の小雨のように、青草の上の夕立のように。(32:2)

あなたが私を愛してくださることを信じます。私はあなたの御手のうちにいます。

だから、私はあなたのみもとに来て座ります。そして、あなたから私への御言葉を受け取ります。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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列王記第二のデボーション

み言葉に従う前に必要なこと

そのとき、大祭司ヒルキヤは書記シャファンに、「の宮で律法の書を見つけました」と言った。

そしてヒルキヤがその書物をシャファンに渡したので、彼はそれを読んだ。。。

シャファンは王の前でそれを読み上げた。王は律法の書のことばを聞いたとき、自分の衣を引き裂いた。(列王記第二22:8,10-11)

今週、私はヨハネ15章を反芻しています。そして、神のみ言葉が私たちにとどまるとはどういう意味かを考えていました。

もちろん、神のみ言葉が私たちにとどまるためには、私たちはそのみ言葉を信じ、従わなければなりません。

でも、そのみ言葉を信じて従う前に、もう一つのことをしなければなりません。

私たちは、そのみ言葉を知るべきです。

今日の話では、私たちはその真理を見ます。

神殿の状態は本当にひどいものでした。どうして祭司たちは神の律法の巻物がどこにあるのか、ずっと知らなかったのでしょうか。

ヨシヤは神様に対して柔らかい心を持っていました。神のみ言葉に対するヨシヤの反応は、自分の心を明らかにしました。ヨシヤはそのみ言葉を信じて従いました。

でも、私たちは知らないことを信じて従うことはできません。

あなたは神のみ言葉を知っているでしょうか。

神様の目には、無知は言い訳ではありません。ユダの無知によって、神の怒りと裁きは彼らに下ろうとしていました。

そのように、私たちが神様のみ言葉を信じ、従わなければ、私たちの人生、つまり、私たちの家族やほかの人間関係や経済などは、めちゃくちゃになってしまいます。

でも、私はもう一度言います。信じ、従う前に、神のみ言葉を知らなければなりません。

あなたは毎日、神のみ言葉を読む時間を取っていますか。もしかすると、聖書はあなたの家に、あるいはあなたのスマホに「見当たらない」のではないでしょうか。

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ヨハネの福音書のデボーション

神の口から出る一つ一つのことばによって生きる

イエス様、あなたは「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」と言われました。

あなたはこのことばに従って、日々を歩まれました。あなたは天の父の口から出る一つ一つのことばによって生きられました。

天の父が命じられたとおりに、あなたはすべてを行われました。(ヨハネの福音書14:31)

ですから今、私もあなたの口から出る一つ一つのことばによって生きる者となれますように。なぜなら、あなたが語られたすべてのことばは、天の父の口から出たものだからです。(10,24節)

私が自分の悟りに頼ることのないように。

私が罪によって歪められたこの世の知恵にも頼ることのないように。

むしろ、あなたのことばが私の思考を形づくり、あなたのことばが私の価値観を形づくり、あなたのことばが私の優先順位を形づくるように。

なぜなら、あなたのことばは真理であり、そのことばは私に命を与えてくださるものだからです。

あなたの真理を教え、あなたが語られたことを思い起こさせるために御霊を与えてくださったことを感謝します。(26節)

私が日々、御霊と歩調を合わせて歩むことができますように。

あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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ヨハネの福音書のデボーション

みことばのための場所を開ける

わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです。(ヨハネの福音書8:37)

そのことばを読んだとき、私は深く考えさせられました。

私たちは神の民として、自分の心の中に神様のみことばのための場所を開けているでしょうか。

言い換えれば、聖書を読むことによって、そのみことばを本当に大切にしているでしょうか。SNSやYouTube、テレビ、音楽、本などを少し脇に置いて、聖書を読む時間を作っているでしょうか。

しかし、それだけではありません。聖書を読むとき、神様が語りかける機会を与えているでしょうか。それとも、単に聖書を読んで「今日のクリスチャンとしての義務は果たした」と言って終わってしまうのでしょうか。

また、時には、聖書のことばが私たちの考え方や価値観に反することがあります。そのとき、私たちはどうするでしょうか。そのことばを押し退けて、「これは私のためのことばではない」あるいは「今は考えたくない」と言うのでしょうか。

それとも、自分の心から古い考え方や価値観を追い出し、その代わりにみことばを歓迎するのでしょうか。

天のお父さん、私がいつも心の中にみことばのための場所を開ける者でありますように。

あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。

あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。(31-32節)

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ペテロの手紙第一のデボーション

あなたがいつくしみ深い方だから

生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。

あなたがたは、主がいつくしみ深い方であることを、確かに味わいました。(ペテロの手紙第一2:3)

主よ。私は何度もあなたのいつくしみを味わってきました。あなたは私を選び、あなたの祭司とされました。あなたは私を御国に歓迎し、ご自分の尊いものとしてくださり、闇の中から驚くべき光の中へと召してくださいました。

私は以前、あなたの国民に属していませんでしたが、今はあなたの国民に属しています。かつてはあわれみを受けたことがありませんでしたが、今はあわれみを受けています。

私は羊のようにさまよっていました。しかし、あなたは良い羊飼いとして私を取り戻してくださいました。

あなたは本当にあわれみ深い方です。あなたは良い方です。

だから今、私があなたの御言葉をもっと慕い求める者となりますように。

クリスチャンの本は素晴らしいものです。そして、ノンクリスチャンの人たちからも学ぶことができます。

でも、あなたの御言葉だけによって、私は純粋な真理を得ることができます。

その真理は私に命を与えてくださいます。

その真理はあなたを現してくださいます。

だから、私はあなたの言葉に飛び込みます。

私がそうしなければならないからではありません。

聖書を読むのがクリスチャンのやるべきことというわけでもありません。

むしろ、私があなたを愛しているからです。

私はあなたのいつくしみを味わったからです。そして、あなたの御言葉を通して、あなたのいつくしみをもっと味わいたいのです。

あなたの尊い御名によって祈ります。アーメン。

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ペテロの手紙第二のデボーション

神のみ言葉に目を留める

また私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。

夜が明けて、明けの明星があなたがたの心に昇るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。(ぺテロの手紙第二1:19)

「(そのみことば)に目を留めているとよいのです。」

その言葉が私の目に留まりました。🙂

多くの人々は神のみことばを軽んじます。なぜでしょうか。なぜなら、彼らは聖書が実際に神のことばであることを信じていないからです。むしろ、彼らは聖書を人の言葉や発想と見なします。

もちろん、神様は人々を通して語られました。でも、ペテロはそのプロセスについてこう言いました。

ただし、聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきなさい。

預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。(20ー21節)

ペテロは、ただのディクテーションについて話しているのではありません。むしろ、聖霊の導きによって、人々は、神様が伝えようとする真理を自分の言葉で表明しました。

イエス様は何度もそのみことばの真実性を断言し、私たちがそのみことばを信じなければならないと主張されました。(マタイ5:17~19;ヨハネ5:39、46;10:34~36;ルカ24:25~27)

あなたは、聖書をどのように見なしているでしょうか。ただの人の言葉と見なしているでしょうか。それとも、神のみことばと見なしているでしょうか。

真理がだんだん霞んでいくようなこの世界において、神様のみことばは光のように輝きます。

そして、私たちの明けの明星であるイエス様がこの世に帰られる日まで、そのみことばは私たちを導きます。

そのみことばに目を留めているとよいのです。

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マタイの福音書 マタイ15章 マルコの福音書 マルコ7章

私たちの価値観の土台とは?

何によって、自分の価値観が基づいているのでしょうか。それは本当に重要な質問です。なぜなら、あなたの価値観が、あなたのさまざまな決断に影響を与えるからです。

パリサイ人たちにとって、モーセの律法や預言者の言葉は非常に大切なものでした。とはいえ、彼らにとって伝統はそれ以上に重要なものでした。

おそらく彼らは言葉では表さなかったかもしれませんが、行動でそれを示していました。そのため、時々彼らは神様の戒めを無視し、自分たちの伝統に従うことを選んでいました。

だからこそ、イエス様は彼らを厳しく非難されたのです。

あなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。(マタイ15:6)

あいにく、たくさんのクリスチャンがそのように生きています。神様の言葉を無にして、別の基準に従うのです。

ある人は自分の文化や伝統に従います。たとえば、仏壇で線香をあげる人がいます。

「それはただの文化的なことです。深い意味はありません。ただ日本の風習です。」

けれども、そのようにすることで、文化や伝統のために神様の戒めを無視しているのです。(第一コリント10:19-22)

文化は別の形で私たちに影響を与えることもあります。

例えば、アメリカでは、一部の人々がこう言います。「私はキリストを信じて従います。とはいえ、聖書が間違っていると信じ、同性愛は良いものだと考えます。」

なぜ彼らはそのように信じているのでしょうか。彼らは神様に反抗する文化にますます従っているからです。彼らの価値観は、この世の文化に合わせて調整されています。しかし、それをすることで、神様の戒めを捨てざるを得なくなります。

あるクリスチャンは自分の誤った意見を離さずに神様の戒めを捨てます。例えば、神様は「クリスチャンではない人と結婚してはならない」と言われます。

それでも、彼らはこう言います。「でも、私はこの人を愛しています。きっとなんとかなるでしょう。」

その結果、彼らは神様の戒めを捨て、その人と結婚するのです。

あなたはどうでしょうか。あなたの価値観の基準は何でしょうか。文化でしょうか。伝統でしょうか。自分の意見でしょうか。

真実はただ一つの基準しかありません。それは神様の言葉です。

文化は変わるかもしれません。伝統は変わるかもしれません。あなたの意見も変わるかもしれません。しかし、神様の言葉は決して変わることはありません。

預言者イザヤはこう言いました。

草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。(イザヤ40:8)