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マタイの福音書のデボーション

喜びに動かされて

天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。(マタイの福音書13:44)

このクリスチャン生活を送るとき、私たちは何によって動かされているのでしょうか。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」などの言葉を読むと(マタイ16:24)、私たちは渋々その言葉に従っているのでしょうか。私たちは、ただ何を失うかを考えているのでしょうか。

それとも、その言葉を聞くと、喜びをもってイエス様に従っているのでしょうか。

私たちが捨てるものは、得るものよりも価値がないと、本当に理解しているのでしょうか。

主よ、あなたは良い神です。ですから、私が義務ではなく、むしろ喜びに満ちて、何も惜しまずに、すべてをあなたにささげることができますように。

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エペソ人への手紙のデボーション

神の国に仕えるために造られた

実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。(エペソ人への手紙2:10)

その箇所を読んで、「良い行い」という言葉を反芻しました。

パウロによれば、私たちは良い行いをするために、キリスト・イエスにあって造られました。

でも、「良い行い」とは何でしょうか。それは、ただ聖書を読んだり、祈ったり、教会に行ったり、機会に気づいたら人に親切にしたりすることなのでしょうか。

もちろん、それらは良いことですけれども、パウロは続けてこうう言います。

その良い行いをもあらかじめ備えてくださいました。

神様が私たちのために、もっと具体的なプランを持っていることに聞こえます。

神様は、私たちそれぞれのために役割を整えておられました。だから、神様を求めて、私たちの役割が何であるかを訊きましょう。

天のお父様、私が生まれる前に、あなたは私のために良い計画を持っておられました。その計画は、私があなたの御国に仕え、周りの人々にあなたの愛で触れることです。

だから、聖霊様、私に語ってください。あなたが私のためにあらかじめ整えてくださった良い行いを教えてください。

わが主は、何をこのしもべに告げられるのでしょうか。聖霊様、私に教えてください。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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コリント人への手紙第一のデボーション

私たちは誰のものか、何のために生きるのか

今週、コリント人への手紙第一第6章〜第10章を読むことは、本当に興味深い体験でした。実は、私たちは第6章〜第10章をひとつのまとまりとして読むべきです。

この章全体を通して、二つのテーマが貫かれています。

第一のテーマは、コリント人たちの口癖です。それは、「すべてのことが許されている」(6:12;10:23)という言葉です。

この口癖によって、彼らは性的な罪を犯すことや、偶像に捧げた肉を食べることはまったく問題ないと考えていました。

パウロは、性的な罪については厳しく責めました(6:12;10:8)。しかし、偶像に捧げた肉を食べることについては、ある程度まで許容しました(第8章)。

パウロがコリント人たちの考え方を正そうとする中で、私たちは第二のテーマを見ることになります。それは、「私たちは誰のものか」、そして「私たちは何のために生きているのか」という問いです。

私たちは誰のものでしょうか。私たちは主のものです。なぜなら、イエス様が十字架でご自身の血によって、私たちを買い取ってくださったからです(6:19〜20;10:14〜20)。

では、私たちは何のために生きるべきでしょうか。私たちは、神様とその御国のために生きるべきです。

この真理は、結婚(第7章)、奉仕(第9章)、そしてクリスチャンとしての自由と権利(第8章と第10章)に関する私たちの考え方を形づくるはずです。

このことや、その他の生活における決断をするとき、私たちはまず「主に自分が何を望むか」を考えるべきではありません。

むしろ、最初に考えるべきことは、「神とその御国に仕える最も良い方法は何か」、そして「どのようにすれば、神の御国にできるだけ多くの人を導くことができるか」ということです。

パウロは、この第二のテーマを次のようにまとめています。

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。

ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、つまずきを与えない者になりなさい。

私も、人々が救われるために、自分の利益ではなく多くの人々の利益を求め、すべてのことですべての人を喜ばせようと努めているのです。(10:31ー33)

イエス様の言葉も心に留めておきましょう。

まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの(つまり、あなたの必要なもの)はすべて、それに加えて与えられます。(マタイ6:33)

あなたの考え方や人生は何によって形成されているでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ22章

王子の婚宴のたとえ話:神様の国はいること

この話では、イエス様は私たちがイエス様を拒絶する危険性について警告し続けておられます。

このたとえ話では、ある王が自分の息子のために結婚の披露宴を催し、多くの人々を招待しました。ところが、その日が来たとき、招待されたお客さんたちは様々な理由をつけて来ませんでした。

王はもう一度彼らにしもべを遣わしましたが、彼らは気にもかけず、自分の用事であちこちへ行きました。

さらに、ある人々はそのしもべたちを捕まえて、侮辱し、殺してしまいました。

この話は、以前のたとえ話と同じようにイスラエルを描写しています。

とはいえ、それだけではなく、この話は福音に対する多くの人々の反応も描写しています。

神様はご自身の国に入るように私たちを招待します。神様は私たちのためにすべてを整えてくださいました。私たちがしなければならないことは、ただその招待に応えることだけです。

それでも、多くの人々はその招待を軽んじて、自分の道を行き続けます。さらに、ある人々は神様のメッセンジャーを侮辱し、迫害します。

その結果はどうなるのでしょうか?裁きです。死です。

しかし、この話には驚くべきどんでん返しもあります。王は他の人々を招待し、彼らが来た後に披露宴が始まりました。

ところが、その中に婚礼の礼服を着ていない人がいました。彼は傍若無人で、その王の要求を無視し、普通の服を着ていました。そのため、その王は彼のところに行き、こう言いました。

友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。(マタイの福音書22:12)

その人には良い言い訳がなかったので、彼は「人が泣いて歯ぎしりする暗闇」に放り出されました。(13)

このように、多くの人々は神様の招待を聞き、神の国に入りたいと願います。けれども、彼らは神様の条件を認めず、自分の方法で入ろうとします。

では、神様の条件とは何でしょうか。それについては、ヨハネが私たちに教えてくれます。

その証とは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。

御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。(第一ヨハネ5:11-12)

要するに、神の国に入りたいのであれば、イエス様を着る必要があるということです(ガラテヤ3:27)。

「イエス様を着る」とはどういう意味でしょうか。それは、イエス様をあなたの主として受け入れることです。

そうすることで、神様が私たちを見るとき、私たちの罪をではなく、キリストの義を見るのです。なぜなら、十字架でイエス様は私たちの罪の代価を支払ってくださったからです。

しかし、多くの人々はその条件を受け入れることを拒む傾向があります。彼らは自分の方法で神の国に入ろうとします。けれども、それでは神様の招待とイエス様の十字架の働きを軽んじることになります。

私たちはそのような行動を取るべきではありません。もしそうするなら、私たちは神様を侮辱することになるのです。

だからこそ、あなたには選択があります。あなたは神様の条件を受け入れ、神の国に入ることができます。または、自分の方法を選び、地獄に向かうことになります。他に選択肢はありません。

あなたはどうしますか。神様の条件を受け入れて、神様に近づこうとしますか。それとも、自分の方法で神様のもとに来ようとしますか。

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マタイの福音書 マタイ21章 マルコの福音書 マルコ12章 ルカの福音書 ルカ20章

悪い小作人のたとえ話:イエスを拒絶すると

イエス様はユダヤ人のリーダーたちに不信を責めた後、彼らが悔い改めない場合にどうなるかを警告されました。

このたとえ話はイザヤ書5章に似ています。イザヤ書の箇所では、神様がご自分の造られたぶどう園について話されています。そのぶどう園は北イスラエル王国とユダ王国を象徴しています。

その話でも、イエス様の話でも、その主人は受け取るべきぶどうを受け取れませんでした。けれども、イエス様の話では、特に農夫たちを責めておられます。

もちろん、その農夫たちは、預言者たちやイエス様を拒絶したユダヤ人のリーダーたちを表しています。彼らはイスラエル人の霊的な健康を守る責任を持っていました。

リーダーたちがその責務を果たしていれば、イスラエルは霊的な実を結んでいたでしょう。ところが、彼らは堕落し、その責任を果たしませんでした。

なぜでしょうか。それは、神様を重んじず、自分自身のために生きたからです。彼らはお金や権力、人々からの栄誉に執着していました。

だからこそ、イスラエルの民が実を結ばなかったのは当然のことでした。

そこで、神様は彼らにしもべを送りました。イスラエルの歴史の中で、神様は何度も預言者たちを遣わされました。預言者たちはイスラエル人たちに警告し、訓戒しました。

しかし、そのリーダーたちは幾度となく預言者たちを拒絶し、迫害しました。さらには、預言者たちを殺してしまうことさえありました。

最後に、神様は御自身のひとり子を送ってくださいました。けれども、そのリーダーたちは御子を殺そうと計画していたのです。

だから、イエス様がユダヤ人たちに「主人がその農夫たちをどうすると思いますか?」と尋ねられると、彼らはこう答えました。

その悪者どもを情け容赦なく滅ぼして、そのぶどう園を、収穫の時が来れば、収穫を納める別の農夫たちに貸すでしょう。(マタイ21:41)

それでも、ユダヤ人たちはそんな悪者が存在することに驚きました。そこで彼らは「そんなことが起こってはなりません。」と言いました。(ルカ20:16)

ところが、イエス様は次のように答えられました。

あなたがたは、聖書に次のようにあるのを読んだことがないのですか。「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には、不思議なことだ。」

ですから、わたしは言っておきます。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられます。

また、この石の上に落ちる人は粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を押しつぶします。(マタイ21:42-44)

イエス様が意味されたのは何でしょうか。イエス様はすべてのものの基礎です。イエス様は要の石です。

要の石とは、建物の最初に据えられる石を指します。その建物は要の石の周りに建てられます。この石は非常に重要であり、この石が少しでも歪むと、建物全体が歪んでしまいます。

同じように、神の御国、そして私たちの人生もイエス様の周りに建てられなければなりません。そうしないと、すべては歪んでしまいます。

しかし、ユダヤ人のリーダーたちはイエス様を拒絶したため、神の国は彼らが軽蔑していた人々に与えられました。つまり、収税人や売春婦、異邦人に与えられたのです。なぜなら、彼らはイエス様を救い主として受け入れたからです。

一方で、そのリーダーたちは裁かれ、すべてを失ってしまいました。

あなたはどうでしょうか。あなたの人生は何の上に建てられているでしょうか。お金でしょうか。財産でしょうか。力でしょうか。この世のものでしょうか。それともイエス様でしょうか。イエス様はあなたの要の石でしょうか。

神様はあなたに命を与えてくださいました。あなた自身も、あなたが持つものすべても神様に属しています。そして、神様はその御国のために、あなたに霊的な実を求めておられます。

しかし、自分のためだけに生きているなら、その実を結ぶことはできません。そして、ユダヤ人のリーダーたちのように要の石を拒絶すれば、裁きを受け、すべてを失ってしまいます。

あなたは誰のために生きているのでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ19章 マルコの福音書 マルコ10章 ルカの福音書 ルカ18章

子供のように

イエス様が弟子たちを子供たちを追い出そうとしたことで責められたとき、イエス様はこう言われました。

子供たちを、私のところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。

まことに、あなたがたに言います。子供のように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。(マルコ10:14-15)

子供のように神の国を受け入れるとは、どういう意味でしょうか。子供の性格はどんなものでしょうか。

1.彼らは人を全面的に信頼します。年月が経ち、さまざまな傷や嘘、裏切りを経験し、その心が固くなってしまうまで、彼らは人の言葉を信じ、疑うことを知りません。私たちはそのような純粋な心を持つべきです。

罪とは、基本的に神様に対する信頼の欠如と言えます。つまり、私たちは神様にこう言うのです。「あなたの言葉を信じません。あなたが私の最善を望んでいることを信じません。だから、自分の道を行きます。」

しかし、そのような態度でいるならば、私たちは決して神の国に入ることができません。

2.彼らは完全に大人に依存します。そして、そのことを素直に認めます。彼らは自分で料理を用意することも、服やその他必要なものを買うこともできません。彼らはそれらを受け取るために、両親に依存しています。

同じように、私たちがどれほど神様に依存しなければならないかを理解できなければ、私たちは決して神の国に入ることができません。

なぜなら、私たちには救いを買う力がないからです。そしてまた、私たちは救いのために働くこともできません。むしろ、神様の恵みとイエス・キリストの十字架の御業に完全に依存する必要があります。

その真理は非常に単純であるため、多くの人々にとって受け入れるのが難しいものです。また彼らは、その真理を信じることを拒むかもしれません。

自分の救いを買えると思いたいのです。または、自分の救いのために働くことができると思いたいのです。彼らは、自分には何もできないという事実を認めるのを嫌うのです。

けれども、私が以前に述べたように、彼らは子供のように神様を全面的に信頼することを学ばなければなりません。

イエス様はこう言われました。

神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神の御業です。(ヨハネ6:29)

あなたはどうですか。神様の前に子供のような心で来ているでしょうか。

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ルカの福音書 ルカ10章

祈りなさい。行きなさい。

この箇所では、イエス様は12人の弟子たちだけでなく、さらに72人を派遣されました。そして彼らに以前と同じ指示を与えられました。

2~3節は私の心に深く響きます。

イエス様は以前言われた言葉を繰り返されました。

実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。(ルカの福音書10:2)

要するに、多くの人々の心は福音を受け入れる準備が整っています。もし私たちが彼らに福音を伝えるなら、彼らはすぐにそのメッセージを受け入れるでしょう。

だからこそ、イエス様はこう言われます。「働き手のために祈りなさい。神様が彼らを送るように祈りなさい。」

けれども、それだけでは終わりません。イエス様は命じられます。「行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わす。。。」(3節)

イエス様は今でも私たちに同じことを言われます。

もちろん、イエス様は私たちが働き手のために祈ることを望んでおられます。

とはいえ、イエス様はあなた自身をも遣わそうと望んでおられるのです。イエス様は、あなたがその召しを聞き、周りの人々に触れていくことを望んでおられます。

時として、私たちは拒絶されることを恐れることがあります。しかし、イエス様は私たちにこう言われます

あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾ける者であり、あなたがたを拒む者は、わたしを拒む者です。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒む者です。(16)

要するに、人々があなたを拒絶しても、実際には彼らはイエス様を拒絶しているのです。ですから、失望しないでください。なぜなら、必ず福音を受け入れ、救われる人がいるからです。

このようにして、イエス様は私たちを励ましてくださいます。

あなたがたの見ていることを見る目は幸いです。

あなたがたに言いますが、多くの預言者や王たちがあなたがたの見ていることを見たいと願ったのに、見られなかったのです。

また、あなたがたの聞いていることを聞きたいと願ったのに、聞けなかったのです。(23-24)

長い間、モーセやダビデ、ダニエルなどは、神様の御国が力をもって到来することを願ってきました。けれども、キリストが来られたことにより、私たちはその御国が人々の人生に訪れるのを目の当たりにすることができます。

それでも、私たちが行動しなければ、その力を見ることはできません。しかし、私たちが行動すると、神様の御国が訪れ、力をもって人々の人生を変える様子を目の当たりにすることができます。

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マタイの福音書 マタイ18章 マルコの福音書 マルコ9章 ルカの福音書 ルカ9章

最も偉い人

時々、私はクリスチャンとしてどれほど成長しなければならないかを見て、落胆してしまいます。けれども、弟子たちに対するイエス様の忍耐を思うと、私は励まされます。

弟子たちがカペナウムへ向かう途中、彼らは「誰が一番偉いか」について議論していました。おそらく、イエス様はそのやり取りを聞きながら、静かに歩みを進めておられたのでしょう。そして、彼らが家に着いたとき、イエス様はこう尋ねられました。

道で何を論じ合っていたのですか。(マルコ9:33)

多分、弟子たちは恥ずかしくて、何について話していたのかを認めることができず、黙っていました。そこで、イエス様は彼らにこう語られました。

だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。(マルコ9:35)

おそらく、弟子たちはそれを聞いて混乱し、イエス様に尋ねました。

それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。(マタイ18:1)

おそらく、弟子たちは「私たちの中で、一番偉いのは誰でしょうか」と尋ねたかったのでしょう。

すると、イエス様は小さな子供を腕に抱き寄せ、こう答えられました。

まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。(マタイ18:3-4)

イエス様が意味されたことは何でしょうか。

まず一つ目は、小さな子供のようにならなければ、誰も天国に入ることができないということです。

小さな子供の特徴は何でしょうか。彼らは謙遜であり、すべてを知っているとは思いません。そのため、いつも両親に質問をし、何事にも両親を頼りにします。

私たちが天国に入りたいのなら、そのような態度を持たなければなりません。神様の前で謙遜になり、自分がすべてを知っているわけではないと認め、神様の知恵と導きを求める必要があります。

また、神様に頼ることを学ばなければなりません。もちろん、救いのために神様に頼ることは不可欠です。けれども、それだけではなく、日々の生活の中で神様の知恵と力に頼ることを学ぶ必要があります。

しかし、多くの人々はそのように生きません。彼らは、自分の力と知恵が十分であると考え、それに頼って生きています。けれども、そのように考え、生きるなら、彼らは決して神様の国に入ることはできません。

クリスチャンの中にも、自分の知恵と力に頼り続ける人がいます。私自身もそのようになりがちです。しかし、私も少しずつ、自分の弱さを理解し、どれほど神様が必要なのかを実感するようになっています。

イエス様の二つ目のポイントは、偉さとは、何人の人があなたに仕えるかによって測られるものではないということです。むしろ、一番偉い人は周囲の人々に仕える者です。だから、イエス様はこう言われました。

「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」

偉大なリーダーたちについて考えてみてください。彼らは無理やり人々を従わせる必要はありませんでした。むしろ、人々はそのリーダーに喜んで従いました。そして、彼ら自身も周囲の人々に仕えるために生きました。

そのため、たとえ相手から何の利益も得なくても、真のリーダーは人々に仕えるのです。

イエス様はこう言われました。

だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。

また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。(マルコ9:37)

子供に仕えても、大きな利益があるわけではありません。なぜなら、彼らはあなたに多くを与えることができないからです。しかし、子供に仕えることは、実はイエス様に仕えることなのです。

さらに、イエス様への愛ゆえに、あなたが誰かに仕えるとき、実はイエス様に仕えているのです。イエス様の目には、そのような人こそ偉大な存在です。

あなたは偉い人になりたいでしょうか。

子供のようになりましょう。謙遜でいましょう。他者に仕えましょう。相手が偉い人であっても、そうでなくても、彼らのニーズを優先しましょう。

あなたはどうしますか。

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マタイの福音書 マタイ13章 ルカの福音書 ルカ13章

パン種のたとえ話:変えられた

私はパン屋ではありませんが、おそらく誰でもこの個所のたとえ話を理解できるでしょう。イエス様は再び神の国について語られています。

パン職人がパンを焼くとき、生地にパン種を入れます。そのパン種は何をするでしょうか。

まず、パン種は生地全体に広がり、次に、生地の性質を変えます。もしパン種が入らなければ、そのパンは平たく、固いものになります。しかし、パン種のおかげでパンはふんわりと膨らみ、おいしくなります。

神の国も同じようなものです。

まず、私たちは福音の種を人々の心に蒔きます。そして、ある人々は信仰によって福音を受け入れます。福音は彼らの魂の中に広がり、やがて彼らは全く新しい人へと変えられます。

彼らの考え方が変わり、行動も変わり、彼らのすべてが新しくなります。

だから、パウロはこう記しました。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 (第二コリント5:17)

神の国とは、そのようなものです。

私たちは、この世界を政治的な方法によって変えることはできません。新しい法律が制定されたとしても、世界そのものは変わりません。

誤解しないでください。もちろん、民主的な社会において、私たちは自分の権利を行使し、変化のために戦うべきです。

しかし、新しい法律によって人々の心を変えられると考えるなら、それは私たちが自分自身を欺いていることになります。

たとえば、同性愛に反対する法律が制定されても、人々の振る舞いは変わりません。中絶を禁止する法律ができても、中絶する人がいなくなるわけではありません。

神の国は、一瞬にしてこの世に現れるものではありません。聖霊様は人々を一人ずつ変えていかれます。

まず、聖霊様は私たちの心を変えてくださいます。そして、私たちを通して、聖霊様はほかの人々に触れ、彼らを変えていかれます。こうして、少しずつ神の国は広がり、やがて国々も変わり始めます。

だからこそ、私たちは自分自身に問いかけるべきです。私たちは福音をもって、何をしているでしょうか。あなたは福音を受け入れ、その結果、あなたの人生は変えられているでしょうか。

そして、あなたは周囲の人々に福音を伝えているでしょうか。そうすることで、聖霊様は彼らの心にも働き始めてくださいます。

だから、毎日祈りましょう。

御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。(マタイ6:10)

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からし種のたとえ話:小さいものから始まること

私は、イエス様が御自身の説教で用いられた生き生きとした描写が大好きです。

この話では、イエス様は神の国をからし種に例えられました。その種はとても小さいものですが、やがて大きな木に成長し、鳥はその枝に巣を作ります。

イエス様の要点は何でしょうか。たいていの場合、神の国は最初から大きなものとして始まるのではなく、むしろ小さなものとして始まります。

特に、多くの場合、神様は御自身の国を建てるために、世の目には取るに足りないと思われる人々を選ばれます。

例えば、マリアは貧しい十代の女性でした。ヨセフはただの大工でした。

そして、イエス様が来られたとき、大軍を率いる王としてではなく、父ヨセフと同じく大工として来られました。

イエス様が弟子たちを選ばれたとき、漁師、ローマ帝国と協力する収税人、そしてローマ帝国を憎む愛国者を選ばれました。

キリスト教が始まったとき、それは世の基準では取るに足りない都市で始まりました。当時の世界にはエルサレムよりも重要な都市がいくつもありましたが、神様はエルサレムを選ばれました。

それでも、その取るに足りない都市から、クリスチャンたちは世界中に行き、福音を宣べ伝えました。

では、この話から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

あなたは自分を取るに足りない人間だと思うかもしれません。神様が天の国のためにあなたを用いることはできないと思うかもしれません。

けれども、世の目には取るに足りないと思われるからこそ、神様は喜んであなたを用いられます。神の国には、たくさんの「取るに足りない人」がいるのです。

そして、あなたのような人を通して、神の国は広がり、この世の人々に触れていきます。

だからこそ、パウロはこう記しました。

兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。

しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。

また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。

これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。(第一コリント1:26-29)

心に留めておきましょう。神様の目には、あなたは取るに足りない人ではありません。むしろ、神様は小さな者を通して偉大な御業を行われます。

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マタイの福音書 マタイ6章 ルカの福音書 ルカ12章

山上の説教:心配

私はこの箇所の意味を頭では理解していますが、この真理を本当に実感できているかはわかりません。

今はあまり心配していません。けれども、5年前、私は仕事や家計についてよく悩んでいました。

そのとき、この箇所を読んでこう思いました。「これは理にかなっている。神様は鳥を養い、花を美しく保っておられる。だから、神様はきっと私のことも世話してくださるだろう。」

それでも、私は心配し続けました。「どうやって、お金を節約できるだろうか。もっといい仕事が見つかるだろうか。」

振り返ってみると、神様の忠実さと良さを見て取ることができます。だからこそ、私はこれから心配する必要はないはずです。

とはいえ、将来トラブルが起こったとき、私はどう反応するでしょうか。

時々、私がある程度コントロールできる問題に直面します。でも、まったくコントロールできない問題に直面することもあります。

そのとき、私の心はこう言います。「もう、自分にできることはやったでしょう?もう心配せずに、そのことを神様の手に委ねよう。」

それでも、心の別の部分では、なおも心配し続けます。

私は、イエス様の言葉を想像できます。

「信仰の薄いブルース。この世の人々は、こういったものを求めている。しかし、あなたの天の父があなたを愛しておられることを知らないのか。あなたのことを養ってくださることを知らないのか。

だから、この世のことから目を離し、天の父に焦点を当てなさい。天の父にあなたの悩みを委ねなさい。そうすれば、すべてよりも神の御国を第一に求めるならば、天の父は必ずあなたを養ってくださる。」

天のお父さん。あなたは私を愛してくださると約束されました。それを信じています。でも、私の信仰を強めてください。

私は信仰が薄いため、よく心配してしまいます。しかし、あなたはこれまで私にあなたの忠実さを示してくださいました。私には、あなたを疑う理由が何もありません。それなのに、どうして疑ってしまうことがあるのでしょうか。

私が自分の心配を手放せるように助けてください。あなたの光によって、私の問題が力のない影のようになるように。

私があなたに焦点を当てられるように助けてください。あなたを信頼できるように助けてください。アーメン。

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マタイの福音書 マタイ5章

山上の説教:全く新しい考え方

あなたがこの箇所を読むなら、イエス様の考え方がこの世の考え方と全く違うことが分かると思います。

多くの人は、あなたが超宗教的な人であれば、神様があなたを祝福すると考えます。また、祝福されたいなら、特別な霊的な段階に至らなくてはならないと考えます。

しかし、イエス様はこう言われました。

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。(5:3)

つまり、神様は霊的に破産した人を祝福します。なぜなら、そんな人は恵みの必要性が分かるからです。その真実が分かれば、私たちは救われます。

世の人は、祝福される人とは、この世で幸福を見つける人だと思います。だから、彼らは「何か気持ちがいいなら、それをしろ」と言います。

しかし、イエス様はこう教えられます。「あなたの罪を嘆くなら、また、この世の罪による痛みを嘆くなら、あなたは祝福されます。」

なぜなら、私たちは私たちの人生とこの世を変えることのできるイエス様の力を見出すからです。

この世の人は、思い切って自分の人生とその状況をコントロールすれば祝福されると思います。

しかし、イエス様はこう語れます。「良い時でも悪い時でも、神様に従う人は祝福されます。」

つまり、私たちは神様の良さと判断を信頼するべきです。そうすれば、私たちの人生はうまくいくでしょう。

この世の人は、やりたい放題の人が祝福されると思います。彼らは、幸せを得るために、何でもします。

しかし、イエス様はこう言われました。

義に飢え渇く者は幸いです。(5:6)

正しい道はいつも簡単ではないし、いつも快楽的なものでもありません。けれども、それに従えば、あなたは満ち足ります。

この世の人々は、「自分のために生きなさい。自分の目的を果たすためなら、周りの人々を踏みつけても構わない」と言います。

しかし、イエス様はこう言われました。

あわれみ深い者は幸いです。(5:7)

つまり、周りの人々のニーズを自分のニーズよりも優先して考えてください。

特に、相手を許すときにそうするべきです。自分の痛みを脇に置き、あなたを傷つけた人の痛みとニーズに焦点を当てるのです。

そうすれば、私たちはイエス様のようになることができます。イエス様が十字架にかけられた時、このように祈られました。

父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。(ルカ23:34)

この世の人々は、道徳的な価値観は相対的なものであると考えています。だから、他人の道徳的な価値観を裁くことができないと思います。彼らにとって、すべての人の道徳的な価値観は平等です。

しかし、イエス様はこう語れました。

心のきよい者は幸いです。(5:8)

つまり、神様の聖なるさを知る人だけが神様を見ます。

この世の人々は、「すべての道は天国に至ります。だから、周りの人々にイエス様のことについて話さなくてもいい。仏教や、神道や、ヒンズー教を信じても大丈夫です。」と考えます。

しかし、イエス様はこう言われます。「神様の使節として福音を宣べ伝えるは、神様の子供たちです。なぜなら、彼らは神様と人々を和解させるからです。

また、ケンカしている人を和解させる人は、その天の父のようになります。なぜなら、天の父は、私たちとの和解のために働かれたからです。」

この世の人々によれば、あなたが皆に好かれたら、あなたは祝福されています。

しかし、イエス様は私たちがすべての人々を喜ばせる必要はないと語れます。だから、周りの人々よりも、神様を喜ばせる態度を取るべきです。

神様の国には、この世のものとは全く異なる価値観があります。けれども、それを受け入れると、本当の命を知ります。

だから、パウロはこう言いました。

この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(ローマ12:2)

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詩篇

お金で買えない物

英語では、「Money makes the world go round」ということわざがあります。つまり、「金は天下の回りもの。」ということです。

お金がないと、私たちの社会は動きません。

しかし、詩篇49篇では、詩人はもっと大切な真理を教えます。「お金で買えない物もあります。」

詩人はこう書きました。

人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。

自分の身代金を神に払うことはできない。――たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない――人はとこしえまでも生きながらえるであろうか。墓を見ないであろうか。(詩篇49:7-9)

言い換えれば、お金で永遠の命を買うことはできません。私たち皆は、お金持ちでも貧乏な人でも、賢い人でも愚か者でも、強い人でも弱い人でも、いつか死にます。そして、死ぬと、貯まったお金を天国に(または地獄に)持って行けません。

だから、私たちのお金では天国に入ることはできません。「天国への切符」を買うことはできません。

なぜなら、私たちの罪によって、神様に対する負債があるからです。けれども、この世界のお金のすべてを持って行っても、私たちの負債を支払うことはできません。

神様だけが、その代価を支払うことができます。だから、神様自身が人間としてこの世に来て、私たちの負債を支払ってくださいました。しかし、お金を使わずに、十字架で自分の血を流されました。

びっくりするのは、この詩人がイエス様について全然知らなかったのに、彼がその真理を知っていたということです。彼はこう書きました。

しかし神は私のたましいをよみの手から買い戻される。神が私を受け入れてくださるからだ。(15)

イエス様が生まれる何百年も前に、神様が私たちを贖なうので、私たちが永遠に神様と共にいる確信が詩人にはありました。だから、彼はこう書いた。

恐れるな。人が富を得ても、その人の家の栄誉が増し加わっても。

人は、死ぬとき、何一つ持って行くことができず、その栄誉も彼に従って下っては行かないのだ。

彼が生きている間、自分を祝福できても、また、あなたが幸いな暮らしをしているために、人々があなたをほめたたえても。

あなたは、自分の先祖の世代に行き、彼らは決して光を見ないであろう。(16-19)

あなたはどうですか。金持ちをねたんでいるでしょうか。あなたは富を求めているでしょうか。もしくは、あなたにはお金がたくさんあるけど、まだ満足していないでしょうか。もっともっとお金を儲けたいでしょうか。

詩人の言葉を覚えておきましょう。

人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい。(20)

お金や富を持つことは悪いことではありません。この世では、また神様の国のために、私たちはお金でたくさんの良いことができます。

けれども、お金は一番大切なものではありません。もっと大切なものがあります。

だから覚えておきましょう。きっと、お金で買えない物があります。