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使徒の働きのデボーション

知らずに礼拝している?

あなたがたは、あらゆる点で宗教心にあつい方々だと、私は見ております。 。。あなたがたが知らずに拝んでいる。。。(使徒の働き17:22ー23)

今日、上記の言葉を思い巡らせていました。アテネ人たちは宗教心が厚い人々でしたが、何を拝んでいるのかを知りませんでした。彼らの神様についての概念は大きく誤っていたため、パウロはその考え方を正そうとしました。

サマリア人たちも同じ問題を抱えていました。イエス様はあるサマリア人にこう言われました。

あなたがたは知らないで礼拝しています。(ヨハネ4:22)

もちろん、多くの人々は神様について誤った考えを持っています。

しかし、ある意味では、私たちクリスチャンも神様を知らないまま礼拝していることがあるでしょうか。

言い換えると、私たちの神様についての知識には、どれほど欠陥があるのでしょうか。また、私たちの個人的な経験によって、神様への理解はどれほど歪められているのでしょうか。

私たちの多くは、神様が自分たちの天のお父さんであることを理解しています。

けれども、父親との関係によって、「天のお父さん」というイメージがどれほど歪められているでしょうか。

また、私たちは神様が良い王であることを主張します。しかし、この世のリーダーたち、さらには教会のリーダーたちが自分の権力を乱用していることで、私たちはどれほどその概念に違和感を抱いているでしょうか。

私は神様について健全なイメージを持っていると思っています。それでも、私の神様についての知識にはまだ欠陥があるでしょうか。

その欠陥のために、私はどれほど神様に従うことをためらっているでしょうか。

その欠陥のために、私はどれほど神様に信頼することをちゅうちょしているでしょうか。

神様が私をどのように見ておられるかを知らないために、私はどれほど周囲の人々の称賛を求めているでしょうか。

私の人生には、そのような葛藤が見られます。それは、ある意味で、私がまだ神様を知らないまま礼拝しているからでしょうか。

だから今日、このように祈ります。

天のお父さん、私があなたをもっと深く知るように導いてください。あなたについての知識の欠陥を埋めてください。あなたをありのままに見たいのです。

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ヨハネの福音書のデボーション

 あなたを信じているの?

あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。(ヨハネの福音書14:1)

イエス様の言葉を考えるとき、私は自問しました。「私の心が騒いでいるとき、どれだけその理由は、私が神様を信じていないからでしょうか。」

神様が私の見方であると信じるでしょうか。

神様が私と共におられると信じるでしょうか。

私の状況、この世の中が狂っているとき、神様がまだすべてを支配しておられると信じるでしょうか。

神様が私を孤児のように決して捨てないと信じるでしょうか。むしろ、私が叫ぶと、神様がいつも来てくださると信じるでしょうか。

何も、死さえも神の愛から私を引き離すことはできないと信じるでしょうか。むしろ、この世を去るとき、イエス様がおられるところに私を迎えてくださると信じるでしょうか。

私たちが平安を失いそうなとき、この質問を訊くべきでしょう。「主よ、私はあなたを本当に信じているのですか?」

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ヨハネの福音書 ヨハネ5章

イエス様はだれでしょうか

イエス様はだれでしょうか。イエス様に出会った人々のすべてが、その質問に答えなくてはなりませんでした。

今でも、人々はイエス様に出会うと、その質問に答えなくてはなりません。

ユダヤ人たちも、イエス様と話したとき、その疑問に直面しました。イエス様はこう言われました。

わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。(ヨハネの福音書5:17)

私たちにとっては、その言葉は別にショッキングではないかもしれませんが、ユダヤ人たちは本当に面くらいました。

なぜなら、その時代、誰も神様を「私の父」と呼ばなかったからです。

「私たちの天の父」と言ったかもしれませんが、「私の父」とは言いませんでした。なぜなら、「神は私の父」というのは、「私は神性を持っている」という意味だったからです。

どうして、ユダヤ人たちはそのように思ったのでしょうか。

少し考えてみてください。子供たちはその父と同じ姿を持ちます。父が人間なら、その子供も人間です。父がサルなら、その子供もサルです。父が猫なら、その子供も猫です。

だから、もしイエス様の父が神なら、イエス様はだれでしょうか。

もちろん、私は神様がイエス様を産んだのだと言うわけではありません。また、私は神様が結婚してその妻がイエス様を生んだと言っているわけでもありません。

イエス様は永遠から天の父と聖霊様と一緒におられました。イエス様と天の父と聖霊様は神性を持っている。それでも、神は一つしかおられません。

神様の御姿をどのように説明すればよいか、誰も知りません。しかし神様は、そのようにご自身を現してくださいました。

それでは、私たちにとっては、その真理はどういう意味があるのでしょうか。

もしイエス様が神なら、私たちはイエス様の言葉を無視することはできません。

イエス様はただの人間ではありません。私たちはイエス様の言葉に反対する権利がありません。むしろ私たちは、その言葉を真理として受け入れ、その言葉に従わなければなりません。

あなたはどうでしょうか。イエス様がだれだと思いますか。

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エレミヤ書

大いなる神

アメリカでは、私たちは金の偶像や木製の偶像をあまり目にしません。けれども、セックスや力、お金はアメリカ人の「偶像」となっています。

日本にもそのような「偶像」がありますが、仏教の偶像や神道の偶像も多く見られます。

もちろん、多くの日本人にとって、仏教や神道は文化的な伝統でしかありません。彼らはそれらを本当に信じているわけではありません。

それでも、その偶像礼拝を見ると、私は本当に悲しくなります。なぜなら、それらの「神々」は全く力を持たないからです。

それらの「神々」は、ただの木材や金にすぎません。

だからこそ、神様はこのように言われました。

国々の民のならわしはむなしいからだ。それは、林から切り出された木、木工が、なたで造った物にすぎない。

それは銀と金で飾られ、釘や、槌で、動かないように打ちつけられる。

それは、きゅうり畑のかかしのようで、ものも言えず、歩けないので、いちいち運んでやらなければならない。

そんな物を恐れるな。わざわいも幸いも下せないからだ。」(エレミヤ書10:3ー5)

また、

すべての人間は愚かで無知だ。すべての金細工人は、偶像のために恥を見る。その鋳た像は偽りで、その中に息がないからだ。

それは、むなしいもの、物笑いの種だ。刑罰の時に、それらは滅びる。(14ー15)

しかし、神様はそれらの「神々」と全く異なります。

主よ。あなたに並ぶ者はありません。あなたは大いなる方。あなたの御名は、力ある大いなるものです。諸国の民の王よ。

だれかあなたを恐れない者がありましょうか。それは、あなたに対して当然なことです。

諸国の民のすべての知恵ある者たちの中にも、そのすべての王国の中にも、あなたと並ぶような者はいないからです。(6ー7)

また、

しかし、主はまことの神、生ける神、とこしえの王。その怒りに地は震え、その憤りに国々は耐えられない。。。

主は、御力をもって地を造り、知恵をもって世界を堅く建て、英知をもって天を張られた。(10、12)

私は、その偶像を礼拝している人々を嘲っているのではありません。けれども、彼らがその偶像を捨てて、まことの神様を礼拝するように祈ります。神様こそが、私たちの礼拝にふさわしいお方です。

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イザヤ書

知恵はどこから来るのか

「神様は物理学を理解できるだろうか。生物学はどうだろうか。テクノロジーはどうだろうか。神様は本当にそんなことを理解できるだろうか。」

多くの人々はそのように考えます。

イザヤの時代でも、人々は神様の知恵を疑いました。そのため、彼らは何度も神様に信頼しませんでした。

この箇所では、神様はイスラエル人に、彼らの農業の知識がどこから来たのかを尋ねます。

これまで私は考えていませんでしたが、神様がアダムとエバを造り、エデンに置いたとき、多分神様は彼らに基本的な農業技術を教えたのかもしれません。

そして、時間が経つにつれて、神様はアダムとエバの子孫に、さらに高度な技術を授けられました。

直接教えなくても、神様が彼らに知恵を与えてくださったので、最終的に彼らは自分たちでその技術を学び取ることができました。

こうして、神様はご自身の問いに答えておられるのです。

農夫を指図する神は、彼に正しく教えておられる。(26)

また、

これもまた、万軍の主のもとから出ることで、そのはかりごとは奇しく、そのおもんぱかりはすばらしい。(イザヤ書28:29)

神様のポイントは何でしょうか?

私たちの知識は、もともと神様から来たものです。

世紀にもわたって、私たちはさまざまなことを学んできましたが、神様は最初から全てを知っておられました。私たちが学んだことの中で、神様が知らないことは一つもありません。

神様は、科学、政治学、経済学、心理学、人間関係など、全てを理解されています。私たちが良い人生を送るために何が必要なのか、神様はよくご存じです。

それなのに、なぜ私たちは神様に信頼しないのでしょうか。

多くの場合、私たちは神様の御言葉を読んで、こう言います。

「神様、あなたは分かっておられない。私たちの社会が分かっておられない。私の必要が分かっておられない。もし分かっているなら、あなたの御言葉にこんなことが書いてあるはずがない。」

でも、私たちがそのように考えると、私たちの心は神様を小さくします。

神様は偶然に私たちを造られたのではありません。神様は指を鳴らして、急に全てを造り、そのあとで、「どうやって全てを造ったのだろうか」と悩むような方ではありません。

神様は全てをご存じです。全てを理解されています。神様にあって、私たちが必要とする知恵が備えられています。

だから、神様をあなたの心の中で小さくしないでください。神様をありのままに認めましょう。

パウロが言ったように、

ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。

なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。

というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。

どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(ローマ11:33-36)

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イザヤ書

神様を忘れる

英語では、私たちはよく言います。「Out of sight, out of mind.」

つまり、しばらく相手を見ないとすぐに忘れてしまうのです。

残念なことですが、多くの人々は神様についてそのように考えます。神様を見ることができないため、もし活発に求めないと神様をすぐに忘れてしまうのです。

多くのクリスチャンも神様をすぐに忘れてしまいます。けれども、困った時には、私たちは神様をすぐに思い出して、叫びます。「神様!助けて!」

イスラエル人もその通りでした。彼らは偽物の神々と霊的な同盟を結び、シリアと政治的および軍事的同盟を結んだのです。

だから、神様は彼らを責められました。

あなたが救いの神を忘れてあなたの力の岩を覚えていなかったからだ。(イザヤ書17:10)

私たちはどれぐらいそのようなことをするでしょうか。私たちは他の神々を礼拝しないかもしれません。しかし、神様に頼れずに、私たちはお金に頼ります。神様ではなく、お金は私たちの岩になります。

あるいは、私たちの持ち物を何よりも大事にします。もしくは、私たちの仕事が上手くいくために妥協して、不敬虔な人々と働きます。

一時的にすべては上手くいくかもしれませんが、結局すべてを失います。イスラエル人とシリア人はそのことを学びました。

そして神様は言われました。

その日(つまり、全てを無くす日)、人は自分を造られた方に目を向け、その目はイスラエルの聖なる方を見、自分の手で造った祭壇に目を向けず、自分の指で造ったもの、アシェラ像や香の台を見もしない。(7-8)

その日が来る前に、今こそ神様を思い起こすべきではないでしょうか。

つまり、お金ではなく、神様こそを私たちの岩とすべきではないでしょうか。 なぜなら、人々が作った物ではなく、神様こそが強い砦だからです。