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ペテロの手紙第一

神様の御心に従って生きる(3)

神様の御心について考えるとき、ある重要な真理を深く考える人は恐らく少ないでしょう。その真理とは、時に神様の御心が、私たちが試練と苦しみを経験することである、ということです。

新約聖書を読めば読むほど、この結論は避けられないものだと感じます。

けれども、素晴らしい知らせは、その苦しみを通して神様が栄光を受けられるだけでなく、私たち自身も最終的に栄光を受けるということです。

だから、ペテロはこう言います。

愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。(ペテロの手紙第一4:12)

要するに、クリスチャンとしての生活において、試練は避けられないものです。イエス様のために、のけ者にされるのは当然のことなのです。

どうしてでしょうか。

それは、人々がイエス様ご自身をものけ者にしたからです。

ペテロはこう言います。

むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。(13)

言い換えると、「イエス様が不当に苦難を受けられたように、あなたが不当に苦難を経験するとき、それを喜びなさい。ある日、イエス様はこの世に戻られ、その栄光が現れるでしょう。そのとき、あなたは自分の苦難を忘れてしまうでしょう。」

しかし、イエス様が戻られる前にも、私たちには喜ぶ理由があります。ペテロはこう言います。

もしキリストの名のためにののしられるなら、あなたがたは幸いです。栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。(14)

その言葉を読むと、私はステパノの話を思い出します。ステパノは石打ちされる直前、自分を告発する人々に直面していたとき、その顔は天使のように輝いていました(使徒の働き6:15)。

さらに、最高法院の人々に迫害された後、使徒たちは祈り、御霊の力で満たされ、大胆に福音を宣べ伝えました(使徒の働き4:31)。

私たちがキリストのために苦しむとき、御霊が私たちの上にとどまり続けてくださいます。だからこそ、ペテロは私たちが祝福されていると言います。

だから、ペテロはこう言います。

しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、このことのゆえに神をあがめなさい。(16)

そして、ペテロはちょっと不思議なことを言います。

さばきが神の家から始まる時が来ているからです。それが、まず私たちから始まるとすれば、神の福音に従わない者たちの結末はどうなるのでしょうか。

「正しい者がかろうじて救われるのなら、不敬虔な者や罪人はどうなるのか。」(17-18)

それはどういう意味でしょうか。

神様はクリスチャンの人生に試練が起こることを許されます。けれども、神様の目的は、私たちを滅ぼすことではありません。むしろ、その試練を通して、私たちは金のように精錬され、キリストのように造り変えられていくのです。

それでも、その試練が楽しいものではないのは事実です。むしろ、そうした試練は苦しいものです。

けれども、神様をずっと拒絶し続けた人々にとって、裁きの日はもっと苦しいものになるでしょう。

だから、どうか心に留めてください。私たちは神様のために苦しむことがあるかもしれませんが、その試練は常に私たちの益となるためのものです。

さらに、私たちの試練を通して神様が栄光を受けられます。なぜなら、私たちはその火を通過した後、精錬された金のように輝くからです。

だから、ペテロはこう言います。

ですから、神のみこころにより苦しみにあっている人たちは、善を行いつつ、真実な創造者に自分のたましいをゆだねなさい。(19)

あなたは落ち着いている時期を迎えているでしょうか。喜び、感謝しましょう。ただし、覚えていてください。私たちは壊れた世界の中で生きているため、試練は必ずやって来ます。

あなたは今、苦しみの中にいるでしょうか。その中でも喜びましょう。なぜなら、その試練は一時的なものであり、あなたを滅ぼすことはないからです。むしろ、その試練はあなたの益となるものです。

いずれの場合であっても、善を行いながら、真実な創造者に自分のたましいをゆだねましょう。そして、あなたを通して神様は栄光を受けられるのです。

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ペテロの手紙第一

神様の御心に従って生きる(2)

多くの人々は、自分の人生における神様の御心を知りたいと願います。

けれども、神様の御心について考えるとき、彼らが求めるのは、「私はどの仕事を選ぶべきか」「誰と結婚すべきか」「どの奉仕活動に参加すべきか」といった具体的な問いに対する答えです。

しかし、ペテロが神様の御心について語るとき、そうした具体的なことには触れていません。むしろ、ペテロは神様の御心を、神様に栄光を与えるために生きることだと定義しています。

多くの人々は「神様の御心を知りたい」と言いながらも、日常生活において、神様の栄光ではなく、自分の栄光のために生きています。

では、どのようにすれば私たちは神様の栄光のために生きることができるのでしょうか。

まず第一に、私たちは互いに愛し合うべきです。ペテロはこう言いました。

何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。(ペテロの手紙第一4:8)

ギリシャ語で「熱心」という言葉には、限界を超えるというニュアンスが含まれています。たとえば、ランナーが競走で勝つために自分の限界を超え、さらに速く走ろうとするようなものです。

そのように、私たちも自分の愛の限界を超えて、互いに愛し合うべきなのです。

そのようにしていく中で、私たちは多くの罪を覆います(8b)。つまり、愛によって、私たちは相手の罪や欠点を寛大な心で受け入れ、許すことができるのです。

また、私たちがキリストを知らない人々にイエス様の愛を示すなら、彼らはイエス様に魅せられるかもしれません。そして彼らがイエス様に向かうと、イエス様は彼らの人生に働きかけ、彼らの罪を清めてくださいます。

この意味においても、愛は人々の罪を覆う力を持っています。

いずれにせよ、人々への私たちの愛を通して、私たちは神様に栄光を与えることができるのです。

ペテロは続けてこう言います。

不平を言わないで、互いにもてなし合いなさい。(9)

私たちが苦しんでいるとき、気前の良い態度で人々を助けるために自分を捧げることは、とても難しいかもしれません。しかし、キリストの模範に従い、たとえ苦しみの中にあっても自分自身を捧げるならば、私たちは神様に栄光を与えるのです。

最後に、ペテロは私たちに、神様から与えられた賜物を忠実に活用し、互いに仕え合うことを思い出させます。ペテロはこう言いました。

語るのであれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕するのであれば、神が備えてくださる力によって、ふさわしく奉仕しなさい。

すべてにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。この方に栄光と力が世々限りなくありますように。アーメン。(11)

言い換えれば、私たちのすべての賜物が神様から与えられたものであることを忘れてはなりません。

また、その賜物が効果的に用いられるのは、神様の力だけによるということを覚えておく必要があります。その結果として、人々は私たちを称賛するのではなく、神様をほめたたえるようになるのです。

あなたはどうでしょうか。神様の御心を知りたいと願っていますか。神様の御心とは、主に仕事や結婚、あるいは日々の細かな決断に関することではありません。むしろ、簡単に言えば、神様の御心とは次のようなものです。

あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。(第一コリント10:31)

あなたは何のために生きているでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ26章 マルコの福音書 マルコ14章 ルカの福音書 ルカ22章

私の心と神様の心が違うとき

時に、私たちは試練と苦しみに直面します。例えば、重い病気にかかったり、信仰のために家族の問題が生じたり、ミニストリーで困難があったりする時、私たちは神様の助けを願います。

時に、神様は私たちの祈りに応えてくださり、素晴らしい方法で状況を変えてくださいます。

しかし、神様が私たちの祈りに応えないこともあります。この箇所では、そのような答えを見ます。

イエス様は同じことを三度祈られました。最初にイエス様はこう祈られました。

わが父よ、できることなら、この「十字架の苦しみの」杯をわたしから過ぎ去らせてください。

しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。(マタイ26:39)

イエス様はこの祈りを静かに言われたのではありませんでした。イエス様は地面にひれ伏し、切に祈られました。(マルコ 14:35)

さらに、イエス様は大きな苦しみを感じ、汗が血のしずくのように地に落ちました。(ルカ 22:44)

私たちがイエス様を思い描く時、穏やかなイエス様を想像することが多いでしょう。けれども、この時のイエス様はまったく落ち着いていませんでした。

天の父はイエス様の深い感情をよくご存じでした。天の父はイエス様を心から愛しておられました。それでもイエス様の祈りに応えられませんでした。

イエス様はそれを悟られ、こう祈られました。

わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように。(マタイ26:42)

それでも、イエス様は別の方法を求め続けたかもしれません。しかし、天の父はその祈りに応えられませんでした。

私たちはこの出来事から何を学ぶことができるでしょうか。

あるクリスチャンたちはこう言います。「もしあなたが十分な信仰を持っていれば、神様はあなたの祈りを必ず叶えなくてはならない。」

けれども、それが真実ならば、私たちはイエス様の信仰が足りなかったと言わなければなりません。私たちは神の子を責めるでしょうか。

実は、私たちの心が神様の心と異なることもあります。神様は魔人ではありません。私たちは自分の願いに神様の心を無理に合わせることはできません。むしろ、私たちが自分の心を神様の心に合わせなければならないのです。

イエス様はその模範を示されました。イエス様は天の父が願いを叶えるよう強く主張されることはありませんでした。むしろ、イエス様は自分の心を天の父の心に合わせられました。私たちもそのようにすべきです。

そして、もし天の父が私たちの祈りに応えられない時、イエス様のように、私たちは立ち上がり、天の父の御心に従うべきです。

とはいえ、自分の力だけで神様の御心に従う必要はありません。あなたは、一人で試練に直面する必要はないのです。

イエス様も一人で試練に向かわれたわけではありません。イエス様の苦しみと痛みの中で、天の父はイエス様を励まし強めるために天使を送られました。天の父はあなたのためにも同じことをしてくださいます。

それだけではなく、御霊を通して、神様は直接私たちを慰めてくださいます。御霊は私たちの助け主であり、苦しむ時に私たちを支えてくださいます。(ヨハネ 14:16)

だから、パウロはこう言いました。

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。

人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ8:26-28)

では、もし神様が私たちの祈りに応えられない時、私たちはどうすべきでしょうか。

私たちは神様を信頼すべきです。神様の方法が私たちの方法よりもはるかに優れていることを信じるべきです。

私たちが試練に直面している間も、神様が私たちを助けてくださることを信じるべきです。

そして、立ち上がり、神様の御心に従い続けるべきです。

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マタイの福音書 マタイ11章 ルカの福音書 ルカ7章

私たちのための神の目的を拒否する

私たち皆は偶然ではなく、神様の目的のために造られた存在です。

その目的は何でしょうか。

それは、私たちが神様との関係を持つために造られたことです。

そして、私たちは人間関係のために造られました。私たちは周りの人々に触れることができるように、そして私たち自身も周りの人々に触れられることができるように造られたのです。

さらに、私たちは神様から授かった才能や賜物を通して神様の心を実践するように造られています。

残念ながら、多くの人々はその目的を知らずに生活を続けてしまいます。なぜでしょうか。彼らは神様が与えてくださった目的を拒絶し、自分自身のためだけに生きているからです。

このように、パリサイ人たちと律法学者たちはそのような生き方をしていました。イエス様はバプテスマのヨハネの働きが神様からのものであることを認められましたが、ルカによれば、パリサイ人たちと律法学者たちについてこう書かれています。

。。。パリサイ人、律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けないで、神の自分たちに対するみこころを拒みました。(ルカ7:30)

ヨハネのメッセージは次の通りでした。

1.悔い改めなさい。その悔い改めのしるしはバプテスマです。

2.メシア(救い主、または王)はすぐに来ます。自分の心を整えなさい。

しかし、パリサイ人たちと律法学者たちは、自分の義を誇りに思い、自分が悔い改める必要があるとは認めませんでした。

さらに、神様がご自身を現された時、つまりイエス様が来られた時、彼らはイエス様を拒絶しました。それだけではなく、彼らはイエス様を十字架にかけて殺してしまったのです。

だから、マタイはこう記しています。

バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。(マタイ11:12)

バプテスマのヨハネの時代に、王であるイエス様が来られたにもかかわらず、パリサイ人たちと律法学者たちは、その王国に激しく敵対しました。

彼らは神の王国を守っていると思っていたのに、実際には神様の王国を攻撃してしまったのです。その結果、彼らは神様が彼らに対して持っていた御心を逃してしまいました。

しかし、ルカは他の人々についてこう記しています。

ヨハネの教えを聞いたすべての民は、取税人たちさえ、ヨハネのバプテスマを受けて、神の正しいことを認めたのです。(7:29)

その人々はへりくだり、神様の道が正しいことを認め、悔い改め、最終的にイエス様を王として受け入れたため、神様の王国に入ることができました。また、彼らは神様が彼らのために持っていた目的に立ち返ったのです。

あなた自身はどうでしょうか。神様があなたに与えてくださった目的に従っていますか。

最初のステップは悔い改めです。自分の最善を知らないことを認め、神様の道を受け入れる態度を取ることが必要です。特に、イエス様が真理であり、道であり、命であることを認めなくてはなりません。

言い換えると、イエス様をあなたの主として受け入れるべきなのです。

今、そうしませんか。

主よ、私は長い間、自分自身の道を歩み続け、あなたが私に示してくださった目的を逃してしまいました。私を赦してください。

私の罪のために十字架で死んでくださり、そして三日目によみがえられたイエス様を信じます。どうか私の主となってください。

これからは、あなたに従いたいです。あなたの御心に従いたいです。私をあなたに近づけてください。そして、あなたの御心を私に示してください。イエス様のみ名によってお祈りします。アーメン。

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マタイの福音書 マタイ5章

山上の説教:天の父に従う

柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。(5:5)

英語では、「Blessed are the meek」と書かれています。

「Meek」、つまり「柔和」という言葉を見たとき、私はその意味をよく調べる必要があります。なぜなら、アメリカ人はこの言葉をあまり使わないからです。

「柔和」という言葉が日本人にとってどのようなイメージを持つかはわかりませんが、多くのアメリカ人にとって「Meek」という言葉は「弱い」という印象があります。

ところが、この言葉は「弱い」という意味ではありません。モーセとイエス様は柔和な者だと呼ばれました。この箇所では、新改訳聖書は「謙遜」や「へりくだっている」という表現を用いています。(申命記12:3、マタイ11:29)

彼らは謙遜な人だったかもしれませんが、彼らを「弱い」と呼ぶことはできません。彼らは本当に強い人たちでした。

実は、この言葉は飼いならされた動物を指す際にも使われていました。飼いならされた動物は、自分の力を持ちながらも、飼い主に従い、仕えるのです。

その意味で、モーセとイエス様は柔和な者でした。

モーセは、最初は自分の力でイスラエル人を奴隷の生活から解放しようとしました。けれども、結局彼はパロから逃げなければならず、諦めました。

しかしその後、モーセは神様の権威に従い、神様とイスラエル人のために偉大な働きをすることができました。

イエス様は神の御姿でありましたが、天の父に従い、天の父の計画を成し遂げられました。つまり、イエス様は十字架にかかり、私たちの罪のために死んでくださり、私たちを救われました。

モーセとイエス様はいろいろな試練に直面しました。彼らは自分の弱さと戦いました。それでも、彼らは最後まで神の計画を成し遂げるまで仕え続けました。

それが柔和な者です。

あなたはどうでしょうか。あなたは柔和な者でしょうか。

あなたは天の父に従いますか。試練に直面するとき、「どうして私はこんなに苦しまなければならないのでしょうか。私はあなたの御心に従っているはずなのに」と不満を言うでしょうか。

それとも、へりくだって神様の御心に従い続けるでしょうか。

そのような人に、イエス様は言われます。「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。」

私たちは毎日、天の父に従うなら、最終的に報いを受けることができます。

しかし、私たちは本当にそうするでしょうか。

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箴言

私たちの心を神様の心に合わせる

私たちはしばしば、自分の計画を勝手に立て、「神様、私の計画に参加しませんか」と祈ります。

けれども、そんな考え方は間違っています。

私たちは神様に私たちの計画に参加するように招待しない方が良いです。むしろ、神様が何をしておられるのか訊いて、どうやって神様の計画に参加できるか考えた方が良いです。

ソロモンはそれを知っていたので、箴言16章では、彼はこう言いました。

人は心に計画を持つ。主はその舌に答えを下さる。(箴言16;1)

また、

人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。(9)

私たちはいろんな計画を立てることができますが、最後の答えは神様から来ます。もし、私たちの計画が神様の御心に合っていないなら、その計画は上手くいきません。

ソロモンは続けてこう言います。

人は自分の行ないがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値うちをはかられる。(2)

また、

人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。(25)

時々私たちは自分の動機に関して、自分自身を騙してしまいます。私たちは自分が正しいことをしていると思いますが、神様は私たちの本当の動機を知っておられます。

そして、私たちは自分の立てた計画が良いものだと思っているのに、結局その計画のために大損をしてしまうことがあります。

だから、計画を立てる時、私たちはこう祈った方が良いです。

「神様、私を探り、私の心を知ってください。なぜ、私はこの計画を立てるのでしょうか。この計画はあなたから来たものでしょうか。これは私の考えに過ぎないでしょうか。」

ソロモンはこう言いました。

あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。(3)

私が以前言ったように、ソロモンは、「自分の計画を立てて、神様の祝福のために祈りなさい」と言っていません。

むしろ、私たちは主の御心に従って、こう訊くべきです。「主よ。これはあなたの御心でしょうか。私はこの道を行った方が良いでしょうか。」

私たちがすべてを神様に奉げ、自分の計画を主に委ねてこそ、私たちの計画は成功します。

ソロモンはこう言いました。

主はすべてのものを、ご自分の目的のために造り、悪者さえもわざわいの日のために造られた。(4)

神様は決して驚かれません。私たちの選択を見る時、神様は決して面食らわれません。神様は皆の選択を既に知っておられ、神様がどう反応された方が良いかを知っておられます。

だから、私たちの計画は神様の計画を決して妨げることはできません。けれども、私たちの計画が神様の計画に反しているなら、私たちの計画は失敗してしまいます。

だから、私たちはどうしたら良いでしょうか。へりくだって、神様の御心を求めるべきです。多くの人々は、神様が要らないと思うので、自分の知恵によって計画を立てます。

しかし、ソロモンはこう言いました。

高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。(18)

その反面、

みことばに心を留める者は幸いを見つける。主に拠り頼む者は幸いである。(20)

あなたはどうですか。

あなたの人生をどのように送っているでしょうか。あなたは勝手に自分の計画を立て、「神様、私の計画を祝福してください」と祈っていますか。神様の御心をあなたの計画に合わせようとしていますか。

それとも、あなたの計画を神様の御心に合わせようとしているでしょうか。

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エステル記

神様の心に従い、用いられているでしょうか

私が読んだエステル記を解説する本によれば、エステル記について疑問を抱く人もいるそうです。

一つの理由は、エステル記で「神様」や「主」という言葉が全く出てこないということです。

どうしてでしょうか。もしかすると、この本がペルシャ人に対して、ユダヤ人がプリムの祭りをどのようにしてお祝いするかを説明するために書かれたのであり、ペルシャ人が宗教的な事柄に特に興味を持っていなかったからだと考えられます。

もう一つの理由は、神様はエステルの事情の中で全く働かれなかったという説明です。むしろ、ユダヤ人は神様を頼ることなく、自分たちの力と知恵によって行動しました。

そのような考え方は伝道者の書にも見ることができます。また、サウルやアブラハム、イサク、ヤコブも時々そのように生きました。

とはいえ、エステル記を読むと、私は神様が確かにその事情の中で働かれたと考えます。ただ、神様がエステルやモルデカイのすべての行動に同意されたかどうかは、私は断言できません。

2章を読む時、私はいろいろな疑問を持ちます。

例えば、エステルは自主的に「女王のコンテスト」に参加したのでしょうか。彼女には選択肢があったでしょうか。

それともモルデカイがエステルにそのコンテストに参加するように勧めたのでしょうか。もしそうなら、本当に悪い決断だったと思います。

なぜなら、神様はユダヤ人が偶像礼拝をしている人々と結婚することを禁止されているからです。このことはエズラ記やマラキ書に書かれています。

さらに、エステルは女王にならなくても家に帰ることができませんでした。むしろ、彼女が王と一夜を共にした時点で、彼女はその後王のそばめになりました。しかし、たぶん彼女はもう王と会うことはなかったでしょう。

もしエステルが自主的にそのコンテストに参加していたなら、神様の律法に基づけば、それは罪だったと言えるでしょう。

もしエステルが自主的に参加していなかったとしたら、どうしてモルデカイはエステルに自分の国籍を隠すように命じたのでしょうか。

その時代、ユダヤ人は迫害されていませんでした。エズラ4:6によると、ある人々がアハシュエロスに告訴状を送り、ユダヤ人を非難しましたが、彼は何もしなかったようです。

また、エステル記全体を読むと、アハシュエロスがユダヤ人を憎んでいなかったことがわかります。

では、どうしてエステルは国籍を隠したのでしょうか。私はわかりませんが、たぶんモルデカイはペルシャ人がエステルの国籍を知ったら、彼女が女王になれないと考えたのではないでしょうか。

しかし、もしそれが真実だったとしたら、それは良いことだったのではないでしょうか。もし彼女が正直に国籍を明かしていたら、アハシュエロスに会う前にエステルは家に帰されていたかもしれません。

あなたはこう言うかもしれません。「でも、エステルが女王にならなかったら、ユダヤ人は殺されてしまったでしょう。」

けれども、以下の二つのことを心に留めてください。

一つ目は、4章でモルデカイがエステルにこう言ったことです。

もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。(エステル記4:14)

もしエステルが女王にならなかったとしても、モルデカイの言葉は依然として真実だったと思います。神様は別の方法でユダヤ人を救われたことでしょう。

二つ目の理由として、もしハマンがエステルがユダヤ人であることを知っていたなら、ユダヤ人を殺す計画を立てたでしょうか(エステル3章)。きっとそうはしなかったと思います。

ここで私が言いたいのは次のことです。私たちが神様の心に従っているからこそ、神様は私たちを用いられるのでしょうか。それとも、私たちが悪い決断をしてしまったとしても、神様は私たちを用いられるのでしょうか。

もちろん、神様は働かれてユダヤ人を救われました。そして、エステルがすでに女王であったため、神様は彼女を通してユダヤ人を救われました。しかし、もし彼女が女王ではなかったとしても、神様は別の方法でユダヤ人を救われたことでしょう。

私たちはモルデカイとエステルを悪い人だと言っているのでしょうか。そうではありません。おそらく彼らは困難な状況の中で、自分たちの目に正しいと思えることを行っていたのでしょう。(士師記21:25)

とはいえ、時には彼らは誤った決断をしてしまいました。彼らの目には正しいと思えていたかもしれませんが、神様の目から見ると、彼らが行っていたことは正しくありませんでした。

ですから注意してください。あなたの行動を神様の言葉によって判断してください。あなた自身の目に正しいと思えることを行うのではなく、神様の基準によって生きてください。

あなたの状況を持ち出して、自分の行動を正当化しようとするかもしれません。

または、あなたは「でも、神様は私を通して良いことを行われました」と言うかもしれません。

しかし、どうして神様はあなたを用いられたのでしょうか。

あなたは神様の心に従っているからでしょうか。

それとも、あなたが誤った決断をしたにもかかわらず、神様はあなたを用いられたのでしょうか。

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エレミヤ書

良くても、悪くても

正直に言うと、時々私たちは神様の言葉を好ましく思わないことがあります。つまり、私たちは神様に求められたことをしたくないのです。そのようなとき、神様の言葉を無視し、自分の欲望に集中し、自分の道を行くのは簡単なことです。

この箇所で、ユダ人たちはそうしました。

ゲダルヤが殺害された後、イシュマエルと彼を助けた人々はアモン人のところへ逃げました。なぜなら、アモンの王がイシュマエルをゲダルヤを殺害するために送り込んだからです。

けれども、ユダの将校たちヨハナンとイザヌヤは他の将校たちと共にイシュマエルと戦いました。イシュマエルと8人の仲間は逃げましたが、その将校たちはイシュマエルの虜を解放しました。

その後、ヨハナンとイザヌヤは少し迷いました。彼らはネブカデネザルがゲダルヤの死の責任を追及するのではないかと恐れたため、エジプトに逃げようとしました。

しかし、逃げる前に、彼らはエレミヤに相談しました。

あなたの神、【主】が、私たちの歩むべき道と、なすべきことを私たちに告げてくださいますように。。。

それが良くても悪くても、私たちは、あなたを遣わされた私たちの神、【主】の御声に聞き従います。私たちの神、【主】の御声に聞き従って幸せを得るためです。(エレミヤ書42:3、6)

ところが、おそらく彼らは本当に神様の御心を求めていたわけではありませんでした。むしろ、彼らは神様が自分たちの計画を祝福してくださるように望んでいたのです。

だから、彼らはエレミヤが「神様は、あなたたちがエジプトに行くことを望んでおられる」と言うことを予想して、その準備を始めていたのかもしれません。

けれども、エレミヤは反対のことを語りました。

あなたがたは自分たちのために嘆願してもらおうと私を主に遣わしたが、そのイスラエルの神、【主】はこう言われる。

『もし、あなたがたがこの地にとどまるのであれば、わたしはあなたがたを建て直して、壊すことなく、あなたがたを植えて、引き抜くことはない。わたしは、あなたがたに下したあのわざわいを悔やんでいるからだ。

あなたがたが恐れているバビロンの王を恐れるな。彼を恐れるな──【主】のことば──。わたしがあなたがたとともにいて、彼の手からあなたがたを救い、助け出すからだ。

わたしがあなたがたにあわれみを施すので、彼はあなたがたをあわれんで、あなたがたを自分たちの土地に帰らせる。』(エレミヤ書42:9-12)

しかし、エレミヤは彼らに警告しました。

もし、あなたがたがエジプトに行こうと決意し、そこに行って寄留するなら、あなたがたの恐れている剣が、あのエジプトの地であなたがたを襲い、あなたがたの心配している飢饉が、あのエジプトであなたがたに追い迫り、あなたがたはそこで死ぬ。

エジプトに行ってそこに寄留しようと決意した者たちはみな、そこで剣と飢饉と疫病で死ぬ。わたしが彼らに下すわざわいから、生き残る者も逃れる者もいない。(エレミヤ書42:13,15-17)

そして、エレミヤは彼らに言いました。

あなたがたは、自分たちのいのちの危険を冒して迷い出てしまったからだ。

あなたがたは私をあなたがたの神、【主】のもとに遣わして、『私たちのために、私たちの神、【主】に祈り、すべて私たちの神、【主】の言われるとおりに、私たちに告げてください。私たちはそれを行います』と言ったのだ。

私は今日、あなたがたに告げたが、あなたがたは、自分たちの神、【主】の御声を、すなわち、主がそのために私をあなたがたに遣わされたすべてのことを聞こうとしなかった。(42:20-21)

「あなたがたは、自分たちのいのちの危険を冒して迷い出てしまった。」

なぜでしょうか。それは、彼らが本当に神様を信頼していなかったからです。彼らは神様を求めるふりをしていましたが、心から神様を求めてはいませんでした。

ある英語の聖書では、この言葉を次のように翻訳しています。

「あなたは偽善者です。なぜなら、あなたは私に相談したけれど、自分が聞きたいことだけを受け入れるからです。」

彼らは、神様の言葉に従うことを約束しました。その言葉が良くても悪くても、従うと約束しました。けれども、彼らはその約束を破り、エジプトに逃げました。

あなたはどうでしょうか。神様のアドバイスを求めるとき、偽善的な心を持ってはいないでしょうか。

あなたが「あなたが言うことに従います」と祈るとき、その本当の意味は「もし、あなたの言葉が私がしたいことに合うなら、私は従います」という意味になっていないでしょうか。

時々、私たちにとって神様の言葉が良いと思えることがあります。そのとき、神様に従うことは簡単です。しかし、神様の言葉が気に入らないときはどうでしょうか。

例えば、神様があなたに「安定した仕事を辞めなさい」と語られたら、あなたはどうするでしょう。

また、神様が「ノンクリスチャンの彼や彼女と別れなさい」と語られたら、あなたはどうするでしょう。

神様は私たちの最善を望んでおられます。あなたはそのことを認識し、神様を信頼して従うことができるでしょうか。

あなたはどうするでしょうか。

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アモス書

あなたがもっと知っていると。。。

「無知であることは幸せだ。」

時々、人々はそのように考えることがありますが、神様によると、その考えは間違っています。

1章と2章では、神様が多くの国々を裁くと警告されました。なぜでしょうか。神様はその理由を語られています。

彼らは正しいことを行なうことを知らない。(アモス書3:10)

けれども、「神様の律法を知らない」というのは言い訳にはなりません。なぜでしょうか。それは、彼らが自分の心の中で、自分が悪いと分かっていたからです。パウロはこのように説明しています。

律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをする場合は、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。

彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。

彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。(ローマ書2:14ー15)

しかし、たとえ他の国々が無知を言い訳にできたとしても、イスラエルとユダはそのような言い訳をすることはできませんでした。

神様は彼らを他の国々から選び、彼らに直接ご自身を現されたからです。そのため、彼らには周りの国々よりも大きな責任がありました。

神様は彼らにこう言われました。

わたしは地上のすべての部族の中から、あなたがただけを選び出した。それゆえ、わたしはあなたがたのすべての咎をあなたがたに報いる。(3:2)

つまり、「あなたたちは言い訳をする余地はありません。あなたたちは周りの国々よりも多くを知っているはずです。モーセを通して、私はあなたたちに律法を与えました。何度も預言者を通してあなたたちに警告しました。

それにもかかわらず、裁きの日が来ると警告されていたのに、あなたたちは罪を犯し続けています。(3:7-8)

あなたたちは私の律法を知っているはずです。だからこそ、あなたたちはいけにえをささげたり、十一献金をささげたり、感謝の捧げものをささげたりしました。

けれども、私はこれらの捧げものが不十分であることを何度も警告しました。それでも、あなたたちは私の警告を無視し続けました。(4:4-11)

だから、あなたの神に会う備えをしなさい。あなたは私の前に立ち、あなたの行動について申し開きをしなければならないのです。」(4:12)

私たちはこの警告を通して何を学ぶことができるでしょうか。イエス様はこう言われました。

主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。

しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。

すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。(ルカ12:47-48)

あなたが神様の御心を知っていても、知らなくても、それは言い訳にはなりません。

もし悪いことをすれば、裁きが来ます。あなたが神様の御心を知っているなら、その罰はさらに厳しいでしょう。

けれども、知らないとしても、裁きは免れません。

だからこそ、無知であることは幸せではないのです。私たちは神様の御心を求めなくてはなりません。

しかし、神様の御心を知ることだけでは不十分です。その御心に従わなくてはならないのです。

あなたはどうでしょうか。神様の言葉を知っていますか。もし知らないのなら、ぜひ読んでください。神様はこう言われました。

「わたしを求めて生きよ。偽物の神と偽りを求めるな。」(5:4-5)

「主を求めて生きよ。そうしなければ裁きが来る。」(5:6)

もし、あなたが神様の言葉を知っているなら、その言葉に従いましょう。神様はこう言われました。

善を求めよ。悪を求めるな。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたが言うように、万軍の神、主が、あなたがたとともにおられよう。悪を憎み、善を愛し「なさい」。(アモス書5:14-15)

イエス様が言われたように、

聞く耳のある者は聞きなさい。(ルカ8:8)

そして、神のみ言葉に従いましょう。