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使徒の働きのデボーション

鎖が砕かれるように

すると突然、大きな地震が起こり、牢獄の土台が揺れ動き、たちまち扉が全部開いて、すべての囚人の鎖が外れてしまった。(使徒の働き16:26)

この言葉を読んだとき、私は、鎖が砕かれ、自由にされる必要のある人々のことを考えていました。

ある人は、傷つき、怒りや苦々しい思いに縛られています。別の人は、混乱や不安に縛られています。

また、自己肯定感が低く、自分が不十分だと感じ、縛られている人々もいます。

罪に縛られている人々もいます。

私が気づいていないだけで、サタンは別の鎖によってさらに多くの人々を縛っているのかもしれません。

そこで、今日、神様は私に思い起こさせてくださいました。「わたしはその鎖を砕きたい。」

リディア、悪霊に取りつかれた女性、囚人たち、そして看守の鎖を砕かれたように、神様は私の周囲の人々の鎖を砕くことを望んでおられます。

だから今、私は彼らのために祈っています。彼らにとって、私が天と地の交わる場所となるように祈っています。彼らにどのように触れ、助けることができるか、神様に尋ねています。

あなたの周りには、鎖に縛られた人々がいるのではないでしょうか。あなた自身は鎖に縛られているでしょうか。

神である主の霊がわたしの上にある。。。心の傷ついた者を癒やすため、 主はわたしに油を注ぎ、 わたしを遣わされた。 捕らわれ人には解放を、 囚人には釈放を告げ(ます)。。。(イザヤ書61:1)

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申命記のデボーション

導き入られるため、導き出された

私たちをそこから導き出された。それは、私たちの父祖たちに誓われた地に私たちを導き入れ、その地を私たちに与えるためであった。(申命記6:23)

今朝、私は上記の言葉に思いを巡らしていました。

神様がイスラエル人たちをエジプトの奴隷生活から導き出してくださったように、私たちもサタンの国の罪の奴隷生活から導き出してくださいました。

しかし、神様は私たちが自ら放浪することを望んでおられるわけではありません。神様と共に歩み、真の命と平和を知るために、私たちをご自身の御国に導き入れるように望んでおられます。

けれども、私たちがそれを願うなら、エジプトを離れなければなりません。

つまり、私たちの古い考え方や生き方を手放さなければならないということです。

そして、神様の御心を抱き、神様の御考えを受け入れる必要があります。

神の御言葉が私たちの心、頭、手に触れることを願って求めなければなりません。

そのため、私はどのような古い考え方や生き方を捨てなければならないのかを考えていました。また、どのような新しい考え方や生き方を受け入れなければならないのかを考えていました。

神様はあなたに何を語っておられるでしょうか。

神様が私たちを導き出してくださいました。神様が私たちを新しい命へ導いてくださるよう、祈り求めましょう。

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ヨハネの福音書のデボーション

私が天の父が喜ばれることをいつも行えるように

今日の箇所を読んだとき、私は多くの言葉に心を打たれました。特に、29節は私の心に響きました。イエス様は「わたしは、天の父が喜ばれることをいつも行います」と言われました。

私は、「それを言うことができたらいいのになあ」と思いました。

でも、私は他の言葉にも心を打たれました。

あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。(ヨハネの福音書8:31ー32)

まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。 奴隷はいつまでも家にいるわけではありませんが、息子はいつまでもいます。

ですから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。(34ー36)

私のことばはあなたの中で進行していません。(37、英訳)

神から出た者は、神のことばに聞き従います。(47)

わたしの父を敬っているのに、あなたがたはわたしを卑しめています。(49)

だから今日、私はその言葉をまとめて、このように祈りました。

イエス様、あなたのようになりたいです。あなたのように、「私は、天のお父さんが喜ばれることをいつも行います」と言えたいけど、言えません。私は天のお父さんが喜ばれないことをしばしば行うからです。赦してください。

私の言葉と行いによって、天のお父さんとあなたを決して卑しめることがないように。

むしろ、私がいつも心の中に、あなたのみ言葉のための場所を開けるように。

その御言葉が私の心の中で進行するように。私があなたのみ言葉をもっと理解することができるように助けてください。それだけではなく、私がその御言葉に従うことができるように助けてください。

アブラハムのように、私があなたの言葉の真理を聞き、信じ、受け入れ、従うことができるように助けてください。

イエス様、あなたの恵みを感謝します。あなたのおかげで、私はもはや罪の奴隷ではありません。十字架で流されたあなたの血によって、私は自由にされました。私を神の子にしてくださり、本当に感謝します。

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ペテロの手紙第二のデボーション

偽りの自由の約束

その人たちに自由を約束しながら、自分自身は滅びの奴隷となっています。人は自分を打ち負かした人の奴隷となるのです。(ぺテロの手紙第二2:19)

今日の箇所で、ペテロは教会にいる偽教師について警告しています。実際、現代の教会にも多くの偽教師がいます。彼らは聖書を神の言葉ではなく、ただの人の言葉として見なしています。

だから、文化が聖書に反することを教えると、彼らはその文化に従います。文化と偽教師たちが約束するのは、神の言葉を捨てれば自由を得られるということです。

しかし、こうした「自由」は実際には多くのものを破壊します。人々の人生を破壊し、さらには人々の魂を滅ぼしてしまいます。

本当の自由を与えてくださるのは、イエス様だけです。本当の自由を望むなら、私たちはイエス様の教えを信じ、その教えにしがみつかなければなりません。イエス様の教えを拒む人は、自分がイエス様の弟子だと主張することはできません。

だから、イエス様の言葉を心に留めてしょう。

あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。

あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。(ヨハネ8:31ー32)

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使徒の働きのデボーション

囚人たちは聞き入っている

真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた。(使徒の働き16:25)

「囚人たちはそれに聞き入っていた。」

この世には、たくさんの囚人たちがいます。彼らはサタンの国の囚人なのです。また、彼らは自分の罪の囚人なのです。

その囚人たちは、私たちに聞き入っています。

でも、彼らは私たちから何を聞いているのでしょうか。

私たちが苦しんでいる姿を見たとき、囚人たちは私たちから何を聞いているのでしょうか。

私たちが不当な扱いを受けている姿を見たとき、囚人たちは私たちから何を聞いているのでしょうか。

彼らが聞いている私たちの言葉には、彼らの鎖を砕く力があるでしょうか。

私たちの言葉を聞いて、彼らは私たちにこう尋ねるでしょうか。「救われるためには、何をしなければなりませんか」(使徒16:30)。

囚人たちは聞き入っています。

あなたから、何を聞いているのでしょうか。

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士師記のデボーション

誰に自分を捧げているでしょうか

あなたがたは知らないのですか。あなたがたが自分自身を奴隷として献げて服従すれば、その服従する相手の奴隷となるのです。

つまり、罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至ります。(ローマ6:16)

今日の話を読んで、上記のパウロの言葉を連想しました。

イスラエル人たちは、アンモン人とペリシテ人の神々など、いろんな神々に仕え始めました。

どうしてでしょうか。私はわかりませんが、もしかしたら、彼らはその神々を通して、幸せと自由を見つけることができると思ったのかもしれません。でも逆に、アンモン人とペリシテ人たちがイスラエル人たちを苦しめ、打ち砕きました。

私たちはイスラエル人たちが愚かだったと思うかもしれませんが、私たちはどれだけ神様とその道を捨て、この世の神々を求めているでしょうか。

つまり、私たちは出世やセックスやお金やこの世のものを求めているということです。なぜなら、それらにおいて、私たちは自由と幸せを見つけられると思うからです。

でも、私たちに自由と幸せを約束するものは、逆に私たちを奴隷にして、滅ぼしてしまいます。喜びや命を見つけることなく、私たちは恥や苦しみや死を見つけてしまいます。

パウロの言葉を覚えて、その言葉に従いましょう。

以前あなたがたは、自分の手足を汚れと不法の奴隷として献げて、不法に進みました。同じように、今はその手足を義の奴隷として献げて、聖潔に進みなさい。。。

罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ6:19ー23)

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ヤコブの手紙のデボーション

自由をもたらす律法に従う歩み

自由をもたらす律法によってさばかれることになる者として、ふさわしく語り、ふさわしく行いなさい。

あわれみを示したことがない者に対しては、あわれみのないさばきが下されます。

あわれみがさばきに対して勝ち誇るのです。(ヤコブの手紙2:12-13)

主よ、あなたは、自由をもたらす律法、つまり、愛とあわれみの律法に従って生活するように私を召されました。

だから、私が周りの人々に愛とあわれみを与える人になるように。そして、私がその愛とあわれみを与えるにつれて、彼らが解放されるように。

彼らが劣等感から解放されるように。彼らが自分がほかの人々よりも価値がないという考えから解放されるように。(1-4、6節)

でも、それよりも、彼らが罪の鎖から解放されるように。彼らが罪の恥から解放されるように。また、彼らがあなたの裁きの恐れから解放されるように。(ローマ6:5-7、第一ヨハネ4:17-18)

私が周りの人々にあなたの愛とあわれみを与えるにつれて、彼らが神の子供たちの栄光の自由を知るように。(ローマ8:21)

私は完全な信仰を持っていると主張するかもしれないけど、愛がなければ、特に、私の言葉や行いによって表れる愛がなければ、その「信仰」は無益です。私は無に等しいのです。(14-26節、第一コリント13:2)

だから今日、また、毎日、私の人生が、あなたが私に与えてくださった愛とあわれみで特徴づけられますように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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エペソ人への手紙

私たちの目的を果たすには

ディズニー映画『アナと雪の女王』では、エルサ女王が自分の力を現してしまい、人々の恐れによって王国を離れざるを得なくなります。

それまでエルサは、自分の力を周囲の人々から隠していました。けれども、追放された後、彼女は「ありのままの姿を見せるのよ。ありのままの自分になるの」と決意します。

そして、彼女は歌います。

もう自由よ。
何でもできる。
どこまでやれるか、自分を試してみたい。

英語では、彼女はこう歌います。

正しいも悪いもない。
私にとって、もうそんなルールは存在しないのよ。
私は自由だから。

しかし、その「自由」は長くは続きませんでした。 妹のアナがエルサのもとを訪れ、彼女が「自由」を活用した結果、王国がどれほど混乱してしまったかを伝えます。

だから、エルサは英語の歌でこう歌います。

なんて愚かだったの….自由なんて無理。
内なる嵐から逃れる術はないのよ。
コントロールできない…この呪いを!
なんて恐ろしい。

そして、アナがエルサに「すべてを治せる」と説得しようとしたとき、エルサは答えました。

「私にはできない。」

多くの人々は「ありのままで」という歌を好みますが、エルサが最終的に何を悟ったのかを理解している人はどれほどいるでしょうか。

つまり、本当の自由はただ自分自身を理解することからは生まれないのです。

なぜなら、私たちの内にあるものは、結局私たちを滅ぼしてしまうからです。そして、私たちは自分自身を恐れるようになり、また、自分の問題を解決することができないと気づきます。

けれども、多くの人々はこのことに気づいていません。むしろ、パウロによれば、彼らはむなしい心で歩んでいるのです。

パウロはこう言います。

彼らは知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、頑なな心のゆえに、神のいのちから遠く離れています。

無感覚になった彼らは、好色に身を任せて、あらゆる不潔な行いを貪るようになっています。(エペソ人への手紙4:18-19)

もちろん、このすべての言葉をエルサに当てはめることはできません。なぜなら、その映画はクリスチャンの寓話ではないからです。

とはいえ、エルサの知性が暗かったため、彼女は自分がどうあるべきかわかりませんでした。彼女を拒絶した人々の影響で心が頑なになり、彼女は自分の道を進むことで自由を得たと思いました。

同じように、多くの人々の知性が暗く、彼らは自分が何者であるべきかを理解できません。神様は愛を持って彼らを御自身の似姿に造られましたが、彼らは無知のゆえに神様に対して頑なな心を持っています。

そのため、彼らは善悪という「鎖」を捨て、自分の道を歩んでしまいます。そして、「自分の道を行けば自由を見つけられる」と思っています。

ところが、結局彼らは自由を得ることはありません。むしろ、人生は混乱し、何をすればよいのかわからなくなってしまいます。

クリスチャンとして、私たちはそのように生きるべきではありません。

むしろ、私たちは古い人生を捨てるべきです。私たちは古い態度や習慣も捨てなくてはなりません。 なぜなら、それらは腐敗したものであり、それに従い続ければ、私たちは滅びてしまうからです。(22)

特に、私たちは一つの考え方を捨てなくてはなりません。それは、神様からの独立を求める態度です。 自分の道を行くことで自由を得ることはできません。むしろ、その道は呪いとなり、私たちを縛ってしまいます。

だから、パウロは言います。

あなたがたが霊と心において新しくされ続け(なさい)。(23)

神様が私たちの心を変えてくださるように祈るべきです。 そして、私たちは「真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着るべきです。」(23ー24)

私たちはそのような人になるべきです。私たちは神様のように歩むべきです。

もちろん、クリスチャンにはそれぞれ違いがあります。私たちは多様な賜物を与えられており、それぞれの性格を持っています。 クリスチャンになったからといって、それらを失うわけではありません。

むしろ、エルサのように、私たちの賜物は神様の計画のもとで美しく輝くものとなります。 また、神様の御心に従うことで、私たち自身も神様が意図された通りに美しい創造物となります。

しかし、その美しさを持つためには、自給自足の態度を捨てなくてはなりません。神様からの独立を求める思いを捨てなくてはなりません>。 そして、私たちは自分が何者であるべきかを忘れずに歩まなくてはなりません。

それは、神様の似姿に造られた者であるということです。

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エペソ人への手紙

自由と確信

私たちは、キリストにあって与えられている恵みや特権を、どれほど当たり前のこととして受け止めてしまっているでしょうか。

パウロによれば、旧約の預言者たちや祭司たちは、神様のご計画の奥義を完全に理解していたわけではありません。おそらく、彼らはその一部すらも十分に把握していなかったでしょう。

もしモーセ、エリヤ、イザヤ、エレミヤ、ダニエルといった人々が、現代の教会の姿を見ることができたなら、どう思うでしょうか。彼らが、クリスチャンたちが大胆に神様に近づいている様子を目にするなら、きっと驚きに満たされることでしょう。

しかし、パウロはこう語っています。私たちは、今やそのような大胆さをもって、神様に近づく権利を与えられているのです。

私たちはこのキリストにあって、キリストに対する信仰により、確信をもって大胆に神に近づくことができます。(エペソ人への手紙3:12)

その預言者たちは、神様に大胆に近づく確信を持っていたでしょうか。彼らには、「アバ、父」と神様を呼ぶ自由があったでしょうか。

おそらく、そうではなかったでしょう。

彼らが神様に近づくときには、恐れを感じていたと思われます。たとえ神様の御前にいないときでも、自分の失敗や罪を意識していたはずです。

また、祭司たちは幕屋や神殿に赴き、聖所や至聖所に入る際には、細心の注意を払わなければなりませんでした。そうでなければ、命を落とすことさえありうると、彼らは理解していたのです。

そんな祭司たちが、クリスチャンたちが神様に自由に近づく姿を見たなら、何を思ったでしょうか。

しかし、イエス様とその十字架の御業のゆえに、私たちは罪から清められ、イエス様の義を着せられています。そして、イエス様を通して、私たちは確信を持って、大胆に神様に近づくことができるのです。

私たちの姿を見て、天使たちも悪霊たちも、きっと驚いていることでしょう。(エペソ3:10)

なぜなら、私たちは神様の民とされたからです。私たちは自分の義を身にまとうのではなく、イエス様の義を着せられているのです。

さらに、神様が私たちを喜んで受け入れてくださっているので、私たちは喜びをもって、大胆に神様の御前に進み出ることができるのです。

もし旧約時代の預言者たちや祭司たちがこれを目にしたとしたら、どれほど驚いたことでしょうか。

そして、あなたはどうでしょう。この恵みに、驚いているでしょうか。

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ガラテヤ人への手紙

割り込まれた

私が大嫌いなことの一つは、運転中に突然私の車線に割り込む人がいることです。そのせいで、私は急ブレーキをかけざるを得なくなります。最悪の場合、すぐに別の車線へ移らなければなりません。

今日の箇所で、パウロはこのような例えを用いて語ります。

ガラテヤ人たちはクリスチャンのレースの中で、ゴールを目指し、恵みによって走っていました。

ところが、突然、ユダヤ人のクリスチャンたちが割り込み、ガラテヤ人たちがそのゴールに到達することを妨げました。さらに、ガラテヤ人たちは恵みの道から逸れ、律法の道を走り始めてしまったのです。

だから、パウロはガラテヤ人たちにこう語りました。

あなたがたはよく走っていたのに、だれがあなたがたの邪魔をして、真理に従わないようにさせたのですか。

そのような説得は、あなたがたを召された方から出たものではありません。(ガラテヤ人への手紙5:7-8)

要するに、「あなたたちはよく走っていたのに、なぜ恵みの道を逸れ、律法の道を走り始めたのですか?それはイエス様の導きではありません。イエス様は、あなたたちがイエス様への信仰によって恵みの道を走るように招かれたのです。」

そして、パウロはこう語りました。

わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませるのです。(9)

この箇所の伝統的な解説では、ガラテヤ人たちが注意しなければ、ユダヤ人クリスチャンたちの教えがすぐに教会に浸透してしまう危険性があるとされています。

けれども、もう一つの応用が考えられます。

もし私たちが「神様に受け入れていただくためには律法を守らなければならない」という教えの種を受け入れるならば、結局その考え方は私たちの思考や生き方を支配してしまいます。

その結果、私たちは「神様の愛に値しないにもかかわらず、神様に受け入れていただいている」という喜びを失ってしまうのです。

むしろ、私たちは律法を完全に守ることができないと気づき、落胆してしまいます。または、律法を守れていると思うことで、プライドを持ち始めてしまいます。

ガラテヤ人の問題は、『スター・ウォーズ』のヨーダの言葉を連想させます。 「もし暗い道を歩き始めると、その道はあなたの運命を支配します。その道はあなたを食い尽くしてしまいます。」

結局、ヨーダの言葉は完全に正しかったわけではありません。アナキン・スカイウォーカーは最終的にその道から脱出しました。しかし、その前に、彼は自らの人生をめちゃくちゃにしてしまいました。

だから、パウロはガラテヤ人たちに警告しました。 「割礼を受けるな。それを受ければ、律法に従う義務はそれだけでは終わりません。むしろ、あなたはすべての律法を守らなければならなくなるのです。

毎日毎日、一瞬一瞬、その律法を完全に守っているかどうかを気にしなければならなくなります。そして、その恐れがあなたの思いを支配し、神様があなたのために望まれた自由と喜びを失ってしまうのです。」

あなたは最終的にその道を抜け出せるかもしれません。しかし、その日が来るまで、あなたのクリスチャン生活は混乱してしまうでしょう。

さらに、律法主義の生き方によって、あなたは周りの人々を裁き始め、彼らの人生も混乱させてしまうかもしれません。

あなたはどうでしょうか。毎日、神様の恵みによって歩んでいるでしょうか。もしかすると、プライドによって歩んでいるかもしれません。または、神様の裁きを感じ、常に罪悪感を抱いているでしょうか。

ほかの人があなたの歩みを妨げることを許さないでください。

神様があなたをご自身の子供として受け入れてくださったことを覚えていてください。そのことを忘れずにいるならば、神様の計画のもとで、あなたは神様の子供として自由と喜びを知ることができるのです。

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コリント人への手紙第一

キリストにある自由の誤解

パウロの書簡の中で、一つの重要なテーマは、私たちが律法から解放されていることです。私たちはもはや律法の下にはなく、恵みの下にあるのです。

けれども、現代の人々と同様に、パウロの時代の人々もその教えを曲げてしまいました。

コリントの人々は故意に罪を犯し、互いに傷つけ合っていたため、パウロは彼らを厳しく戒めました。

そこで、パウロは次のように語りました。

あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。

思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません。(コリント人への手紙第一6:9-10)

コリントの人々はどのように反応したのでしょうか。彼らはこう言いました。

「でもね、パウロ。あなたは『すべてのことが私には許されている』と言いましたよね。だったら、罪を犯してもいいんじゃないですか?結局、これは私の人生でしょう?」

けれども、パウロは答えました。

「すべてのことが許されているかもしれない。しかし、すべてが益となるわけではありません。」(12)

8章では、一つの例が示されています。

偶像に捧げられた食べ物を食べること自体は罪ではありません。とはいえ、もしあなたの兄弟がそれを見て躓いてしまうと分かっているなら、あなたはそのような食べ物を食べてはならないのです。それは兄弟にとって益にならないからです。

さらに、パウロは続けます。「すべてのことがあなたに許されている。それでも、あなたは何ものにも支配されてはなりません。特に、罪に支配されてはなりません。」(12)

ローマ人への手紙では、パウロはさらに詳しく説明します。

あなたがたは知らないのですか。あなたがたが自分自身を奴隷として献げて服従すれば、その服従する相手の奴隷となるのです。

つまり、罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至ります。(ローマ人への手紙6:16)

多くの人は、最初は自ら罪を選ぶが、やがてその罪の奴隷となってしまいます。

飽食はその一例です。ポルノもまた一例です。人々は故意にその罪に耽りますが、ある時、自分の行動をもはやコントロールできなくなっていることに気づきます。

医師が「体重を減らさなければならない。そうしなければ、必ず心臓発作を起こすでしょう」と警告しても、彼らは食生活を変えることができません。

または、結婚生活が困難になっても、ポルノをやめることができません。

あるコリントの人々はこう言いました。

「でも、神様の御心は私たちが食べることです。そのために私たちに胃袋を与えられました。また、神様は私たちを性的な存在として創造されました。それゆえ、私たちにはそのニーズを満たすことが必要です。なぜ、さまざまな制限が課されるのでしょうか。」

しかし、パウロが答えたのは、確かに私たちは胃袋を持ち、性的な存在であるものの、それらの欲求を満たすことが私たちの主な目的ではないということです。

私たちは単に自分のために生きるために創造されたのではありません。私たちは自分自身を喜ばせるためだけに存在するのではないのです。

そこで、パウロは次のように語りました。

「食物は腹のためにあり、腹は食物のためにある」と言いますが、神は、そのどちらも滅ぼされます。(13a)

要するに、食べ物も腹も永遠のものではなく、一時的なものです。したがって、私たちはただ自分の腹を満たすために創造されたのではありません。

パウロは続けてこう言いました。

からだは淫らな行いのためではなく、主のためにあり、主はからだのためにおられるのです。(13b)

つまり、私たちは罪を犯すためではなく、むしろ主を喜ばせるために創造されたのです。

私たちは主の宮となるように創造されました。そして、イエス様は私たちを贖うために、十字架で大きな代価を支払われました。

そこで、パウロは次のように書き記しました。

あなたがたは知らないのですか。

あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。

ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。(19-20)

キリストにある自由とは、私たちが自分のためだけに生き、罪に耽ることではありません。むしろ、それは私たちを滅ぼしていた罪から解放するものです。

したがって、私たちはもはや神様からの罰を恐れる必要はありません。むしろ、神様が私たちを愛しておられ、聖霊様が私たちのうちに住んでおられることを知り、安心して歩むことができます。そして、私たちが創造された本来の目的を全うするのです。

それは、神様を愛し、敬い、栄光を捧げることです。

あなたはどうでしょうか。あなたはどのように自分の自由を用いるでしょうか。

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ローマ人への手紙

本当の自由

どうして多くの人々は神様に従わずに、逃げるのでしょうか。もしかしたら、彼らは「自由」を求めているのかもしれません。

しかし、彼らにとって「自由」とはどういう意味でしょうか。おそらく、彼らは好き勝手に生きたいと思っているのでしょう。

彼らはこのように考えます。

「神様に従うと、好き勝手に生きることができない。むしろ、私はいろいろなルールに従わなくてはならないのだろう」

おそらく、パウロの時代でも、多くの人々は同じように考えたでしょう。だからこそ、彼らはこう問いかけました。

「恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか。」

あるいは、「私たちは律法の下ではなく、恵みの下にあるのだから、罪を犯してもよいのではないでしょうか。」

けれども、本当の自由とは、好き勝手に生きることなのでしょうか。それとも、本当の自由には、まったく異なる意味があるのでしょうか。

私は、本当の自由には、まったく異なる意味があると思います。

少し考えてみてください。

日本に住んでいるアメリカ人として、私にとっての課題の一つは、電化製品を購入する際、その説明書が日本語で書かれていることです。なぜなら、私には日本語の読み書きがとても難しいからです。

だから、このブログの記事を掲載する前に、私の妻はいつも編集してくれます。(本当に感謝しています。)

とにかく、4年前、私はブルーレイ・プレイヤーを購入し、テレビやケーブルモデムに接続しようと思いましたが、日本語の説明書がよく理解できませんでした。だから、私は混乱し、正しく接続するのに何時間もかかりました。

けれども、私が説明書を使わなかった言い訳がありました。それは、その説明書の漢字や専門用語が理解しにくかったからです。

その一方、多くの日本人(特に男性たち)は、ブルーレイ・プレイヤーやコンピューターをセットする際、「説明書は要らない。私は何とかできる」と思います。

その結果、私と同じようにフラストレーションを感じることになります。それは本当の自由なのでしょうか。

神様は私たちにこう言われます。「私はこのように人間を創造しました。このように生きるなら、あなたの人生はうまくいくでしょう。私に信頼するならば、あなたは祝福されます。」

しかし、多くの人々はこう答えます。「いや、あなたの言葉は必要ありません。私は自分の方法に従っても、すべて何とかなるでしょう。」

けれども、彼らが自分の道に従うと、結婚や親子関係、その他の人間関係を壊し、自分の健康や人生をめちゃくちゃにしてしまい、最終的にフラストレーションを感じることになります。

彼らが求める幸せを手に入れることはできません。それは本当の自由なのでしょうか。

だから、パウロはこう言いました。

あなたがたは、罪の奴隷であったとき、義については自由にふるまっていました。

ではそのころ、あなたがたはどんな実を得ましたか。今では恥ずかしく思っているものです。それらの行き着くところは死です。(ローマ人への手紙6:20-21)

つまり、神様から離れたとき、好き勝手に生きる自由を持ちましたが、その自由はどこへ導いたでしょうか。それは恥へと至りました。そして、その自由はあなたを滅ぼしてしまいました。

しかし、私たちの人生を神様に委ね、神様の導きに従うならば、どうなるのでしょうか。

(あなたは)罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得ています。その行き着くところは永遠のいのちです。(22)

つまり、私たちの人生は完全なものとなります。永遠の命は天国で始まるのではなく、この地上で始まります。

神様に従うならば、私たちは豊かな人生を歩み始めます。なぜなら、神様は私たちをどのように創造されたかをご存じであり、私たちはその創造の意図に従うからです。

それこそが、本当の自由なのです。

では、自由の鍵は何でしょうか。それは、神様に信頼することです。

私たちは、神様が最も良い生き方をご存じであると信じます。また、神様が私たちの最善を望んでおられることを信じます。

だからこそ、私たちは毎日、自分の人生を神様にささげます。そうすることで、本当の自由を見つけるのです。

あなたはどうでしょうか。本当の自由を見つけたのでしょうか。

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使徒の働き

解放された

この箇所のテーマの一つは、「解放」です。

ルデヤとその家族は罪から救われました。もしかすると、彼女たちはユダヤ人の律法の要求からも自由にされたのかもしれません。

ある女性は、悪霊の力から解放されました。

看守は、(もしかすると他の囚人も)自分の罪から救われました。

そして、パウロとシラスは牢の鎖から解放されました。

さまざまな意味において、パウロとシラスの経験はこのテーマを象徴していると言えるでしょう。

彼らは牢に座り、鞭による傷の痛みに苦しんでいたはずです。それにもかかわらず、彼らは祈り、賛美の歌を歌いました。

おそらく、最初は他の囚人たちはパウロとシラスを不思議な人物だと思ったでしょう。けれども、彼らの祈りと賛美を聞くうちに、囚人たちはパウロとシラスの信仰の真実さを理解し始めました。

もしかすると、彼らは神様の臨在を感じ、パウロとシラスに神様について尋ねたかもしれません。

看守はその様子を見て、皆がおかしいと思い、自室に戻って眠りにつきました。ところが、突然地震が起こりました。そして、

たちまち扉が全部開いてすべての囚人の鎖が外れてしまった。(使徒の働き16:26)

その言葉は私の心を打ちました。なぜなら、私たちが自分自身を神様にささげると、霊的な牢の扉が開き、囚人の鎖が外れるからです。

もちろん、そのようなことは私たちの人生にも起こりますが、私たちが触れる人々の人生にも起こるのです。

パウロが囚人たちに「逃げないでください」と願ったとき、神様の愛が彼らの心にすでに触れていたので、誰一人として逃げる者はいませんでした。

その様子を見た看守は、叫びました。

先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか。(30)

それ以前、サタンは看守とその家族を長い間縛っていました。しかし、パウロから流れた愛と憐れみによって、彼らはサタンの鎖から解放されました。だから彼らは喜びに満ちました。

神様は、あなたの周りの人々を自由にしたいと望んでおられます。そのために、2000年前、天の父はイエス様を送ってくださいました。

だからこそ、神様の愛を彼らに示しましょう。また、パウロが伝えた福音のメッセージを語りましょう。

主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。(使徒の働き16:31)

その言葉を信じるなら、あなたの周りの人々も救われるでしょう。

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詩篇

自由と慰めを与える言葉

詩篇119篇を読む時、私は詩人の神様の御言葉に対する姿勢がよく見えます。

多くの人々は神様の御言葉を人を縛るものとして考えます。つまり、彼らは神様の御言葉が人生の楽しみを奪ってしまうと考えます。

「こうしなさい。こうするな。」

けれども、詩人はそのように考えませんでした。どうしてでしょうか。多分、彼には神様について正しい視点があったからです。彼はこう歌います。

主よ。あなたの恵みと、あなたの救いとが、みことばのとおりに、私にもたらされますように。(詩篇119:41)

また、

主よ。地はあなたの恵みに満ちています。(64)

要するに、彼は神様が彼を愛し、彼の最善を望んでおられることを理解していました。また、この壊れた世界において、神様が彼の救いだと分かっていました。

だから、彼が神様の戒めを見る時、神様が彼の楽しみを取り去ろうとしておられるとは思いませんでした。むしろ、神様が彼に本当の命を与えようとしておられるのだと分かりました。

だから、彼はこう書きました。

そうして私は広やかに歩いて行くでしょう。それは私が、あなたの戒めを求めているからです。(45)

この詩人にとっては、神様の戒めは人々を縛らずに、人々を自由にするものです。どうしてでしょうか。

もし神様のデザインの通りに私たちがこの人生を生きたら、精一杯に生きるからです。

多くの人々はスマートフォンを持っています。しかし、彼らは説明書を読まないので、その機能を少ししか使いません。

けれども、その機能が分かれば、彼らの人生はもっと便利になります。彼らが今までできなかったことができるようになります。

そのように、聖書は人生の説明書です。聖書によって、私たちは神様がどのように人間をデザインされたか分かります。

そして、聖書に従うと、私たちは縛られず、むしろ、私たちは自由にされます。また、本当の命を見つけます。

それに、苦しみの時に、神様の御言葉は私たちを慰めてくださいます。なぜなら、聖書によって、私たちは神様を愛する人に対する神様の約束を読むからです。だから、この壊れた世に、私たちは希望を見つけます。

詩人はこう書きました。

どうか、あなたのしもべへのみことばを思い出してください。あなたは私がそれを待ち望むようになさいました。

これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします。(49-50)

私の気にいる箇所はヨハネ14:1-3.イエス様は弟子たちにこう言われました。

あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。

わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。

あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。

わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

弟子たちが迫害と死に直面した時、その言葉によって慰められたと思います。この約束は私たちをも慰めます。

けれども、ちょっと考えてください。神様が良い方だと思いますか。神様があなたの最善を望んでおられると思いますか。

それなら、神様の御言葉はあなたを慰め、自由にします。

そうしないなら、多分あなたは神様の御言葉に対する詩人の熱心が理解できないでしょう。

あなたはどのように神様について考えているでしょうか。

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詩篇

暗い時に希望

私が高校生の時、詩篇116篇にちなんだ歌を聴きました。その時から、この詩篇は私のお気に入りになりました。

そのソングライターはリビング・バイブルの訳を引用しました。

私は主を愛します。なぜなら、主は私の祈りに聞き、答えてくださるから。

主が私に耳を傾けられるので、私は生きる限り祈ります。(詩篇116:1-2)

なぜか、「主が私に耳を傾けられる」と言う言葉は私の心の中に響きます。

神様は私を愛しておられるので、私のすべての言葉を聞くために耳を傾けてくださいます。

そのことについて考える時、私は驚きます。

私には7歳の娘がいます。もちろん私の方が背が高いので、時々、私はちょっと低くして、彼女と話します。なぜなら、私が彼女の言葉を聞くのがもっと簡単になるし、彼女の目がちゃんと見えるからです。

神様は私たちのためにもそうしてくださいます。特に、私たちが暗闇の中にいる時に神様はそうしてくださいます。この詩篇では、詩人は自分のそんな時について歌います。

死の綱が私を取り巻き、よみの恐怖が私を襲い、私は苦しみと悲しみの中にあった。

そのとき、私は主の御名を呼び求めた。「主よ。どうか私のいのちを助け出してください。」(3-4)

そして、神様は憐れみと恵みによって、その詩人に触れられました。だから、詩人は歌います。

私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。主はおまえに、良くしてくださったからだ。(7)

けれども、この詩篇で私たちが学ぶのは、神様に従ったとしても、時々私たちは困難に直面することです。

詩人はこう書きました。

「私は大いに悩んだ」と言ったときも、私は信じた。(10)

パウロは、自分の試練について話した時、この詩篇を引用しました。彼はこう言いました。

私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。

途方にくれていますが、行きづまることはありません。

迫害されていますが、見捨てられることはありません。

倒されますが、滅びません。(第二コリント4:8-9)

そして、彼はこう言いました。「私が福音のために苦しんでいても、イエス様の命は私たちを通して表れました。だから、私の周りの人々はその命を受けました。」(第二コリント4:10-12)

だから、パウロは詩人のように言いました。

「私は信じた。それゆえに語った。」(第二コリント4:13)

要するに、「私が福音を述べ伝えることができるなら、私は喜んで暗い時を通って、苦しみます。」

だから、パウロはこう言います。

ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(第二コリント4:16-18)

詩人も主からの救いを知ったので、永遠の物に照準を合わせ、主をほめたたえ、自分の人生を主に奉げました。彼は歌いました。

主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか。

私は救いの杯をかかげ、主の御名を呼び求めよう。

私は、自分の誓いを主に果たそう。ああ、御民すべてのいる所で。(詩篇116:12-14)

神様は私たちの鎖も打ち砕いてくださいました。だから、心から主をほめたたえ、感謝のいけにえを捧げ、周りの人々に主が私たちのために何をしてくださったか伝えましょう。

そうすれば、彼らも暗闇から自由にされます。

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エゼキエル書

あなたの滅びる情欲

この箇所では、たとえ話を用いて、エゼキエルは北イスラエル王国とユダ王国を責めています。

この話は二人の売春婦についてのものです。彼女たちは姉妹であり、姉の名前はオホラ、妹の名前はオホリバでした。

オホラは北イスラエル王国の首都サマリヤを象徴します。

ユダ王国から分離したとき、北イスラエル王国は自分たちの礼拝所を建設しました。それを「神様のため」と言いましたが、実際には偶像を礼拝するための場所でした。(「オホラ」という名前は「彼女自身の幕屋」という意味です。)

オホリバはユダ王国の首都エルサレムを象徴します。ユダ王国には神様の宮がありました。(「オホリバ」という名前は「彼女に私の幕屋がある」という意味です。)

このたとえ話では、その姉妹はかつてエジプトで売春婦でしたが、神様が彼女たちをその生活から救い出しました。

この意味は、エジプトにいたとき、イスラエルの人々が他の神々を礼拝していたにもかかわらず、神様が彼らに偶像を捨てて自分に従うようにと呼びかけたということです。

その後、オホラはアッシリヤ人を恋い慕い、姦淫を犯しました。けれども、最終的にアッシリヤ人によって彼女は殺され、その子どもたちは奴隷にされました。

これは、北イスラエル王国がアッシリヤと同盟を結び、その神々を礼拝するようになったものの、最終的にアッシリヤ人に滅ぼされ、追放されたことを象徴しています。

一方、オホリバは姉の罪から何も学びませんでした。そのため、彼女もアッシリヤ人を恋い慕い、さらにはバビロン人も恋い慕いました。

けれども、後に彼女の心はバビロン人から離れ、再びエジプト人に戻りました。それでも、将来バビロン人が彼女を追ってきて、彼女を殺し、その子どもたちを奴隷にすることになります。

その意味は、ユダ王国がアッシリヤ人、バビロン人、そしてエジプト人と同盟を結び、それぞれの神々を礼拝していたということです。ところが、最終的に彼らはバビロンに追放されることになりました。

神様の言葉はすべて成就しました。

この話から二つの重要な教訓を学ぶことができます。

一つ目は、神様は私たちに神様に従うことを強制されないということです。

私たちが神様から離れようとするならば、神様は私たちを止めません。むしろ、神様は私たちを、私たちが恋い慕うものに引き渡されます。

二つ目は、私たちが恋い慕うものは、最終的に私たちを滅ぼすということです。

それらが喜びや安全、そして祝福を与えてくれるように思えるかもしれませんが、実際には私たちを奴隷にし、滅ぼします。

パウロはこのように言いました。

あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。。。

罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。

その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。(ローマ6:16、20-21)

イスラエルの人々はそのような経験をしました。そして、私たちも同じような経験をする可能性があります。

どれほど多くの夫が不倫によって自分の家族を壊しているでしょうか。彼らの行動は妻や子どもたちを深く傷つけます。

そのような夫は自分の行動がもたらす結果を十分理解しているにもかかわらず、自分自身を止めることができません。

また、どれほど多くの人々がアルコールや麻薬によって自分の人生を破壊しているでしょうか。

さらに、お金への執着のあまり、働きすぎて家族や健康を損なう人々はどれほど多いでしょうか。

多くの人は、自分の情欲に従って生きることを「自由」だと思っています。

しかし、自分自身を止められないなら、それは本当に自由でしょうか。情欲によって自らの人生が壊れることが自由と言えるでしょうか。

あなたを滅ぼすものから解放するために、イエス様は十字架で死なれました。イエス様はあなたが真に生きるために命を捧げられたのです。

けれども、自分に問いかけなければならないのは、「私は本当に自由になりたいのだろうか」ということです。