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出エジプト記のデボーション

私たちをみこころに留めてくださる神

神は彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。

神はイスラエルの子らをご覧になった。神は彼らをみこころに留められた。(出エジプト記2:24-25)

どのようにイスラエルの民は嘆いたのでしょうか。

もしかすると、アサフは詩篇77篇で彼らの苦しみを代弁したのかもしれません。

主は、いつまでも拒まれるのか。
もう決して受け入れてくださらないのか。

主の恵みは、とこしえに尽き果てたのか。
約束のことばは、永久に絶えたのか。

神は、いつくしみを忘れられたのか。
怒って、あわれみを閉ざされたのか。(詩篇77:7-9)

どれほど私たちは、そのように感じることがあるでしょうか。

神様が私たちを拒まれたのではないかと疑問に思います。神様の愛や忍耐、そして私たちへの恵みが尽き果てたのではないかと疑問に思います。

しかし、神様は私たちの声を聞いてくださいます。神様は、私たちのために流されたイエス様の血による新しい契約を思い起こされます。そして、私たちの苦しみの中で、神様は私たちをご覧になり、みこころに留めてくださいます。

そして最も大切なのは、神様がご自分の民を救ってくださるということです。

エジプトで、神様はそうしてくださいました。十字架でも、神様はそうしてくださいました。

だから、神様がなさったすべてのことを思い巡らし、神様のみわざを静かに考えましょう。

そして、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフの霊的な子孫として、アサフとともに歌いましょう。

神よ。あなたの道は聖です。
私たちの神のように大いなる神がいるでしょうか。

あなたは奇しいみわざを行なわれる神。
国々の民の中で御力を現わされる方。

あなたは御腕をもって贖われました。
ご自分の民、ヤコブとヨセフの子らを。(詩篇77:13-15)

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ヘブル人への手紙

なぜ、これほど多くの血が必要だったのか

最近の記事で取り上げた重要な概念は、「写し」と「影」です。

つまり、子牛や雄やぎの生贄は、十字架におけるイエス様の究極のいけにえを予表していたのです。

けれども、そもそもなぜ生贄が必要だったのでしょうか。

神様は、いけにえを求めずとも、私たちを赦すことができなかったのでしょうか。他に方法はなかったのでしょうか。

この問いに向き合うために、イエス様のゲッセマネでの祈りに目を向けてみましょう。イエス様は、こう祈られました。

わが父よ、できることなら、この杯(つまり、十字架)をわたしから過ぎ去らせてください。(マタイ26:39)

他に方法があれば、神様はその道を選ばれたはずです。けれども、私たちの罪を赦すために、神様は生贄を求められました。

この手紙の著者は、こう述べています。

血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。(へブル人への手紙9:22)

その真理の種は、旧約聖書の律法の中に見ることができます。神様は、こう語られました。

実に、肉のいのちは血の中にある。わたしは、祭壇の上であなたがたのたましいのために宥めを行うよう、これをあなたがたに与えた。いのちとして宥めを行うのは血である。(レビ記17:11)

言い換えるなら、血はいのちの象徴です。そして、人のいのちが救われるためには、その代わりとして別のいのちが差し出されなければなりません。

旧約聖書の時代には、子牛や雄やぎ、羊のいのちが、イスラエルの民の身代わりとして捧げられました。けれども、以前の記事でも触れたように、それらの生贄は完全なものではありませんでした。なぜでしょうか。

第一の理由は、人間のいのちの価値が、動物のいのちの価値よりも高いからです。

第二の理由は、その動物たちが、自らの意志で人間の罪のために死んだのではないからです。

その一方で、イエス様は人間であると同時に、神でおられるお方です。だからこそ、イエス様のいのちは、私たちの罪を完全に償うことができました。

さらに、前回の記事で見たように、イエス様は自ら進んでご自身の命を差し出されたのです。そしてイエス様は、天の父に向かってこう祈られました。

今、わたしはあなたのみこころを行うために来ました。(へブル人への手紙10:9)

なぜ私たちが、イエス様の血によって贖われなければならないのか――この手紙の著者は、それを説明するために、さらに二つの描写を用いて語っています。

彼はこう述べています。

キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反から贖い出すための死が実現して、召された者たちが、約束された永遠の資産を受け継ぐためです。(9:15)

この描写によれば、私たちはかつて罪の奴隷でした。けれども、十字架において、イエス様はご自身の血によって、私たちを贖い出してくださいました。

イエス様は私たちを暗闇の力から救い出し、ご自身のご支配の中に移してくださったのです(コロサイ 1:13)。

さらにこの手紙の著者は、神様との新しい契約を「遺言」にたとえています。遺言が効力を発するためには、それを作成した者が死ななければなりません。

同じように、神様との新しい契約を有効にするために、イエス様は死ななくてはなりませんでした。

この箇所の要点は、私たちが永遠の命を受けるために、イエス様の死が不可欠だったということです。イエス様がその道を選ばれたことによって、聖霊様はイエス様を信じる人々のうちに住まわれ、彼らの心を新しくしてくださいます。

聖霊様は神様の律法を彼らの心に置き、その思いに書き記されるのです(10:16)。

その結果、彼らは自然と神様を喜ばせる者へと変えられていきます。そして神様は、彼らの実について、こう語られます。

わたしは、もはや彼らの罪と不法を思い起こさない(10:17)

だから、この手紙の著者は、こう語っています。

罪と不法が赦されるところでは、もう罪のきよめのささげ物はいりません。(10:18)

そういうわけで、イエス様は十字架の上でこう言われました。「救いの業は完了した。」(ヨハネ19:30)

そのことを思うと、私は改めて驚きに満たされます。

イエス様は、本当に死ななければならなかったのでしょうか。ある意味では、死ぬ必要はなかったのかもしれません。ご自身を救って、私たちをそのままにして、十字架を回避することもできました。

しかし、イエス様は私たちを愛し、私たちのためにご自身を捧げてくださったのです。

だからこそ、十字架と、そこで流されたイエス様の血を仰ぐとき、私たちは深い感謝と畏敬の念をもって心を向けましょう。イエス様は私たちを愛し、想像を絶する代価を支払ってくださったのです。

Amazing love.
驚くべき愛。
How can it be that you my King should die for me?
あなたは私の王なのに、どうして私のために死んでくださったのでしょうか。

Amazing love.
驚くべき愛。
I know it’s true.
あなたが私を本当に愛してくださること知っています。
And it’s my joy to honor you.
あなたをあがめることこそ、私の喜びです。

In all I do, I honor you.
私は、すべての営みの中で、あなたをあがめて生きていきます。

ーークリス・トムリン

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ローマ人への手紙

神様に受け入れられるのに

感じるときも、感じないときも、私たちの最も大切な必要は、神様に受け入れられることです。

私たちが神様に受け入れられることを理解すると、人生は完全に変わります。私たちは満足、平和、喜びを見つけます。さらに、本当のいのちを見つけます。

では、どのようにすれば私たちは神様に受け入れられるのでしょうか。パウロがはっきりと教えているのは、律法に従うことによって神様に受け入れられる人は誰もいないということです。

全ての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができ(ない)。(ローマ人への手紙3:23)

「罪」という言葉の原語は興味深いものです。それはアーチェリーの専門用語であり、「的を逸れる」という意味を持っています。

しかし、その意味は単に的の中心を逸れるだけではなく、むしろ的にまったく当たらないことを指します。

要するに、私たちは完全な人ではありません。神様と比べれば、私たちは決して聖い存在ではありません。

少し考えてみてください。

仮に一日に三回、悪いことを考えたり、言ったり、行ったりするとします。他の人々と比べれば、それほど悪いとは感じないかもしれません。

けれども、その三つの罪を365倍してみてください。一年間で約1000の罪になります。そして、その1000の罪をあなたの年齢に掛けると、どうなるでしょうか。それは何万という罪になります。

裁きの日に、あなたの罪について話すのに、何時間かかるでしょうか。もし、毎日三回以上罪を犯していれば、さらに多くの時間が必要になるでしょう。

したがって、私たち全員がすでに裁かれているのです。神様の前で、「私は、あなたに受け入れられるのにふさわしい者です。私は完全にあなたの律法に従いました。」と言える人は誰もいません。

けれども、良い知らせがあります。パウロはこう言いました。

しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証さて、神の義が示されました。(21)

どのようにすれば、私たちはその義を得ることができるのでしょうか。パウロは続けてこう言います。

すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。

そこに差別はありません。全ての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、値なしに義と認められるからです。

神は、この方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。(22-25)

パウロは何を言いたいのでしょうか。この箇所には、さまざまなキリスト教の専門用語が出てきます。パウロは「贖い」について語ります。「贖い」とは何を意味するのでしょうか。

「贖い」とは、奴隷の自由を買い取ることです。私たちは皆、罪の奴隷であり、またサタンの国の奴隷でした。しかし、イエス様は私たちの自由を買い取ってくださいました。それが「贖い」の意味です。

では、イエス様はどのようにして私たちの自由を買われたのでしょうか。十字架でイエス様が流された血によって、私たちは自由とされたのです。

パウロは「宥めのささげ物」という言葉を使います。

この言葉の意味は、十字架でイエス様が私たちの罪に対する神様の怒りを受け入れ、その怒りが静められたということです。イエス様の血によって私たちの罪は覆われ、赦されました。

その結果、私たちは神様に近づくことができるのです。

したがって、私たちの良い行いによって神様が私たちを受け入れるのではなく、神様はイエス様の十字架の御業によって私たちを受け入れてくださいます。

言い換えれば、イエス様の死によって、私たちは神様に義と認められるのです。なぜなら、イエス様が私たちの罪の代価を支払われたので、神様は私たちを罪人として見なされないからです。まるで、私たちが罪を犯したことがないかのように見なされます。

今、私たちは恵みによって神様に受け入れられています。

「恵み」とは、私たちが値しないものを受けることを意味します。

本来なら、私たちは神様に背を向けたため、神様の怒りに値していました。けれども、今、神様は私たちを息子たちや娘たちとして受け入れてくださいます。

私たちに求められているのは、ただイエス様とその十字架の働きを信じて受け入れることなのです。

あなたはそれを受け入れましたか。

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詩篇

私たちの話を伝える

私はずっとクリスチャンだったけど、最近まで、詩篇107篇の美しさに気づいていませんでした。特に1-2節は私の心を打ちました。

「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」

主に贖われた者はこのように言え。(詩篇107:1-2)

ちょっとパラフレースだけど、ある英語の聖書は「主に贖われた者はこのように言え」を「主に贖われた者は自分の贖いの話を伝え」と訳しています。

この詩篇はそのような話です。人々は自分の贖い話をシェアして、神様を賛美します。

この詩篇は、賛美の言葉で始まります。イスラエルの詩篇では、この言葉がよく見られます。

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。(1)

この詩篇は、どうやって神様が私たちを贖って、自分の慈しみを表されたかを宣言します。

イスラエル人は、砂漠でさ迷って、飢え、渇き、自分の家がありませんでした。けれども、彼らが神様に叫んだら、神様は彼らの声を聞き、安全な所に導き、食べ物と水を備えてくださいました。

そのように、私たちは罪にさ迷って、霊的に飢えたり渇いたりし、平安を見つけませんでした。しかし、私たちが神様に叫んだら、神様は私たちを喜びと平和深い所に導いてくださいました。だから、私たちは満足します。

そして、詩人は囚人について歌います。彼らは神様に逆らったので、暗闇に住んでいました。けれども、彼らが神様に叫んだので、神様は彼らの鎖を打ち砕き、救い出してくださいました。マナセ王はそれを経験しました。

そのように、私たちも、神様を知っていましたが、神様に背を向けました。私たちは自由を求めて、この世の物を追い求めました。

しかし、私たちが追い求めたもの、つまり、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、かえって私たちを奴隷にしました。

それでも、私たちが神様にもう一度向かった時、神様はその鎖を砕いて、私たちを本当の自由に導いてくださいました。

ある人々は、自分の罪によって、病を経験しました。けれども、彼らが神様に叫んだら、神様は彼らを赦し、癒してくださいました。ダビデも、その経験があったかもしれません。(詩篇30,32,38-39)。

そのように、神様は私たちも注目を得るために倒されました。しかし、私たちが悔い改めたら、神様はすぐに赦してくださいました。

時々、私たちは人生の嵐に巻き込まれます。時々、それは私たちのせいですが、時々他の人のせいで苦しみます。それでも、私たちが神様に叫んだら、神様は私たちを救い出してくださいました。

他の人々は砂漠を渡った時に神様の備えを見たけれど、神様が約束の土地に着くと、彼らはすぐにそのことを忘れたので、自分の罪によってすべてを失ってしまいました。イスラエルの歴史はその通りでした。

けれども、彼らが神様に向かったら、神様は彼らをその土地に戻らせ、もう一度彼らを祝福してくださいました。

あなたもそのような経験があるかもしれません。砂漠で神様の祝福を見たのに、あなたの人生が上手くいき始めたら、神様を忘れたので、すべてを失ってしまいます。それでも、私たちが悔い改めたら、神様は私たちを赦し、癒してくださいました。

だから、私たちはどう反応するべきでしょうか。

彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。(15,21,31)

また、私たちの話を次の世代に伝えましょう。そうすれば、彼れらはこれらのことに心を留め、主の恵みを悟ります。(43)

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詩篇

お金で買えない物

英語では、「Money makes the world go round」ということわざがあります。つまり、「金は天下の回りもの。」ということです。

お金がないと、私たちの社会は動きません。

しかし、詩篇49篇では、詩人はもっと大切な真理を教えます。「お金で買えない物もあります。」

詩人はこう書きました。

人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。

自分の身代金を神に払うことはできない。――たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない――人はとこしえまでも生きながらえるであろうか。墓を見ないであろうか。(詩篇49:7-9)

言い換えれば、お金で永遠の命を買うことはできません。私たち皆は、お金持ちでも貧乏な人でも、賢い人でも愚か者でも、強い人でも弱い人でも、いつか死にます。そして、死ぬと、貯まったお金を天国に(または地獄に)持って行けません。

だから、私たちのお金では天国に入ることはできません。「天国への切符」を買うことはできません。

なぜなら、私たちの罪によって、神様に対する負債があるからです。けれども、この世界のお金のすべてを持って行っても、私たちの負債を支払うことはできません。

神様だけが、その代価を支払うことができます。だから、神様自身が人間としてこの世に来て、私たちの負債を支払ってくださいました。しかし、お金を使わずに、十字架で自分の血を流されました。

びっくりするのは、この詩人がイエス様について全然知らなかったのに、彼がその真理を知っていたということです。彼はこう書きました。

しかし神は私のたましいをよみの手から買い戻される。神が私を受け入れてくださるからだ。(15)

イエス様が生まれる何百年も前に、神様が私たちを贖なうので、私たちが永遠に神様と共にいる確信が詩人にはありました。だから、彼はこう書いた。

恐れるな。人が富を得ても、その人の家の栄誉が増し加わっても。

人は、死ぬとき、何一つ持って行くことができず、その栄誉も彼に従って下っては行かないのだ。

彼が生きている間、自分を祝福できても、また、あなたが幸いな暮らしをしているために、人々があなたをほめたたえても。

あなたは、自分の先祖の世代に行き、彼らは決して光を見ないであろう。(16-19)

あなたはどうですか。金持ちをねたんでいるでしょうか。あなたは富を求めているでしょうか。もしくは、あなたにはお金がたくさんあるけど、まだ満足していないでしょうか。もっともっとお金を儲けたいでしょうか。

詩人の言葉を覚えておきましょう。

人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい。(20)

お金や富を持つことは悪いことではありません。この世では、また神様の国のために、私たちはお金でたくさんの良いことができます。

けれども、お金は一番大切なものではありません。もっと大切なものがあります。

だから覚えておきましょう。きっと、お金で買えない物があります。

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エレミヤ書

救い主、贖い主

クリスマスの時、私はいつもの時よりも、イエス様について考えます。特に、どうしてイエス様がこの世に来られたかを思い出します。

イエス様は私たちを裁くために来られたのではありません。イエス様は私たちを罪から救い出してくださり、贖うために来られました。そして、その働きによって、私たちは神様と和解しました。

この箇所では、いつも通り、私たちは裁きの話を見ます。

神様はエレミヤに言われました。

「人が亡くなると、その家族と友達と一緒に泣いてはなりません。なぜなら、慰める言葉がないからです。つまり、私はいつくしみと、あわれみを彼らから取り去ったからです。

そして、すぐに、多くの人々が亡くなり、皆が苦しむため、誰も慰める言葉を与えられません。」(エレミヤ書16:5-7)

また、神様はエレミヤに言われました。「ユダ人の宴会にも参加してはなりません。なぜなら、すぐに、私は彼らの喜びを取り去るからです。」(8)

そして、神様はエレミヤに言われました。

「この裁きの理由を彼らにはっきりと伝えなさい。つまり、彼らは自分の心を堅くし、私に背を向けて、自分の神々を礼拝し始めたからです。」(10-13)

けれども、14-15節から、神様のトーンは変わります。神様はエレミヤに言われました。

「今、皆は、どうやって私がイスラエル人たちをエジプトから救い出したかを思い出しています。しかし、ある日、私はもっと素晴らしいことをします。

イスラエル人たちとユダ人たちは追放されますが、いつか、私はもう一度彼らを自分の土地に導きます。なぜなら、私は彼らの先祖にその土地を与えると約束したからです。

そして、人々はエジプトからの救いについて話すよりも、追放からの救いについて話し始めます。」(14-15)

神様はその約束を守られました。神様はイスラエル人たちをペルシアから自分の土地に導かれました。

そして、イエス様の使徒の時代に、ローマがエルサレムを滅ぼし、ユダヤ人たちは各地に散らされました。自分の国は無くなりました。

けれども、1948年に、神様はもう一度彼らをイスラエルに導かれました。

なぜでしょうか。神様がイスラエルの救い主と贖い主であることを証明するためです。

ある日、全イスラエルはそのことを認めます。神様は彼らについてこう言われました。

だから、見よ、わたしは彼らに知らせる。今度こそ彼らに、わたしの手と、わたしの力を知らせる。彼らは、わたしの名が主であることを知る。(21)

現代、多くの人々は罪に迷っています。彼らはイスラエル人のように堅い心を持ち、神様に背を向けました。

しかし、イエス様は彼らを救い、贖うために来られました。また、イエス様は彼らに神様を表し、彼らが神様を知り、神様と和解するために来られました。

そのことを覚えておきしょう。そして、私たちの周りの人々にその良いニュースを伝えましょう。

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イザヤ書

新しい名前

あなたは自分の名前を変えたいと思ったことがありますか。私は子供の頃、そう思ったことがあります。

なぜなら、「Bruce」という名前は、たくさんの言葉と韻を踏むからです。例えば、「goose」「loose」「moose」「juice」などです。そのため、友達はいつも私をからかっていました。

ところで、イスラエル人もさまざまな名前で呼ばれていました。彼らが追放された時、周りの人々はイスラエル人を「見捨てられている人」と呼び、その国を「荒れ果てている国」と呼びました。

けれども、この箇所では、神様はこう言われました。

シオンのために、わたしは黙っていない。エルサレムのために、黙りこまない。その義が朝日のように光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまでは。

そのとき、国々はあなたの義を見、すべての王があなたの栄光を見る。あなたは、主の口が名づける新しい名で呼ばれよう。(イザヤ書62:1-2)

その新しい名前は何でしょうか。

あなたはもう、「見捨てられている」と言われず、あなたの国はもう、「荒れ果てている」とは言われない。

かえって、あなたは「わたしの喜びは、彼女にある」と呼ばれ、あなたの国は夫のある国と呼ばれよう。主の喜びがあなたにあり、あなたの国が夫を得るからである。(4)

神様がこう言われました。「あなたは私に捨てられたと思っているかもしれません。あなたの国が荒れ果てていると思っているかもしれません。しかし、ある日、私はもう一度あなたを喜びます。もう一度、あなたは私の愛する花嫁となるのです。」

そして、神様はこう言われました。

見よ。主は、地の果てまで聞こえるように仰せられた。「シオンの娘に言え。「見よ。あなたの救いが来る。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある」と。

彼らは、聖なる民、主に贖われた者と呼ばれ、あなたは、尋ね求められる者、見捨てられない町と呼ばれる。」(11-12)

つまり、「あなたは神様に捨てられた都市と呼ばれることはありません。むしろ、『神様の聖なる民』、『主に贖われたもの』、そして『尋ね求められるもの』と呼ばれるのです。」

神様は私たちにもそれらの名前を与えてくださいます。けれども、それらの名前は何を意味するのでしょうか。

神様の聖なる民。

聖なるというのは、神様のために聖別されたものという意味です。つまり、私たちは神様の尊い民です。

主に贖われたもの。

贖うというのは、失ったものをもう一度買い戻すという意味です。神様は私たちを造られたので、私たちは本来神様のものでした。しかし、私たちは自分自身を罪の奴隷として売り、サタンの国の囚人となりました。

それでも、神様は私たちを愛し、贖ってくださいました。神様はイエス様の十字架で流された血によって、私たちの罪の代価を支払われたのです。だからこそ、私たちはもう一度神様のものとなりました。

尋ね求められるもの。

私たちが罪に落ちた時、神様は私たちを捨てませんでした。むしろ、羊飼いが迷った羊を探すように、神様は私たちを探してくださいました。イエス様はこう言われました。

もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。(マタイ18:12)

そのように、イエス様は私たちを探してくださいました。イエス様はそのように私たちを愛しておられます。

あなたは神様に捨てられたと思いますか。拒絶されたと感じますか。神様はあなたのために新しい名前を用意されています。

「尋ね求められるもの。」

「贖われたもの。」

「尊い、聖別された者。」

「愛する花嫁。」

「神様の喜び。」

あなたがクリスチャンであるなら、それらはすでにあなたの名前です。神様に属する者として、それらはあなたの名前です。

だから、サタンの嘘を信じないでください。例えば、「神様はあなたを嫌っている」とか、「神様はあなたを見捨てた」などの嘘です。

神様はすでにあなたに新しい名前を与えてくださいました。その名前について深く考え、そして神様の愛に安心してください。

もし、あなたがまだクリスチャンでないなら、神様は今もあなたを尋ね求めておられます。あなたが誰であっても、どのように呼ばれていようとも、神様はあなたのために新しい名前を用意されています。あなたが神様に向かう時、その名前を受け取ることができます。

もしそうしたいと願うなら、この祈りを祈りましょう。

主よ、あなたの御言葉によれば、あなたは私を尋ね求めておられます。また、イエス様は十字架で私を贖ってくださいました。そのことを感謝します。どうか私の罪を赦してください。

私を清めてください。私の人生に来てください。私をあなたの花嫁としてください。私をあなたの喜びとしてくださいますように。毎日、私にあなたのことを教えてください。アーメン。

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イザヤ書

裁きと贖い

裁きと贖い。聖書では、この二つのコンセプトを頻繁に目にします。この箇所でも、その二つのコンセプトを見ることができます。

34章では、神様がイスラエルを攻撃した国々を裁き、滅ぼします。

35章では、イスラエルの贖いが描かれています。その贖いはどのように来るのでしょうか。

それは、イエス・キリストを通してやって来ます。

イザヤはイスラエル人を励まします。

弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。心騒ぐ者たちに言え。

「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」(イザヤ書35:3-4)

「あなたの神は来られる。」

短期的には、神様はアッシリヤ人やバビロン人を裁きに来られました。しかし、神様は救いのためにも来られました。

5-6節で、イザヤはこう言っています。

そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。

そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。(35:5-6a)

バプテスマのヨハネは牢にいた時、自分の弟子たちをイエス様のもとに送り、こう質問しました。「あなたは本当にメシアでしょうか。」

それに対して、イエス様は答えられました。

あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。

目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。(マタイ11:4-5)

多分、イエス様はこのイザヤの箇所を考えておられたのでしょう。イエス様はこう言われました。

「イザヤの言葉を覚えていますか。つまり、神様が来ると、目の見えない者の目が開かれ、耳の聞こえない者の耳が開き、足の不自由な者は鹿のように跳びはねるということです。覚えていますか。

今、それは起こっています。

だから、ヨハネに伝えてください。「あなたの弱い手を強め、あなたのよろめく膝をしっかりせよ。強くあれ。恐れるな。私は来たから。あなたの希望を捨てないでください。」」

ヨハネのように、私たちは時々神様を疑うことがあるかもしれません。私たちの信仰が枯れて、神様が本当に存在するのかを疑い、神様の愛を疑い、神様からの救いが本当に来るのかどうかを迷うことがあります。

しかし、イエス様がヨハネに言われたように、疑いに負けないでください。イエス様にすがってください。イエス様は来られたのです。

そして、イエス様はあなたのところに来てくださいます。イエス様が来られると、

荒野に水がわき出し、荒地に川が流れる。。。

焼けた地は沢となり潤いのない地は水のわく所となり[ます]。。。(イザヤ書35:6b-7a)

そして、ある日、あなたは、

喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。

楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る。(イザヤ書35:10)