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マタイの福音書のデボーション

あなたの血は私の上にある

すると、民はみな答えた。「その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に。」(マタイの福音書27:25)

イエス様、あなたの血は私の上にあり、私の責任です。私の罪のためにあなたは死なれました。

けれども、あなたの血は私の上にあり、私の心に振りかけられて、邪悪な良心をきよめてくださいました。(ヘブル書9:22~23;10:22~23)

あなたの十字架のゆえに、私を天の父から隔てていた神殿の幕が裂かれました。 今や、私は恐れず、大胆に天の父、またあなたの御前に進み出て、近づくことができます。

イエス様、あなたの血が私の上にあることを感謝します。

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マルコの福音書のデボーション

私を救うために

同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを嘲って言った。「他人は救ったが、自分は救えない。」(マルコの福音書15:31)

祭司長や律法学者たちの言葉は、いつも私の心に響きます。彼らはその言葉でイエス様をあざけりましたが、その言葉は彼らの理解を超えて真実でした。

私たちを救うために、イエス様はご自身を救うことができませんでした。むしろ、私の罪を背負って、激しい苦しみのうちに死なれなければなりませんでした。神の御怒りのすべてが、イエス様に注がれたのです。

しかし、イエス様のおかげで、神様と私の間に立っていた幕が、上から下まで真っ二つに裂けました。

私たちを救うために、イエス様がご自身を救うことを選ばれなかったことに心から感謝しています。

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ルカの福音書のデボーション

私たちを喜んで清めてくださる方

これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して言った。「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」(ルカの福音書5:8)

興味深いことに、ペテロの言葉はツァラアトに冒された人々の言葉に似ています。

神の律法によれば、ツァラアトに冒された人々は、「私から離れなさい。私は汚れているから。」と周囲の人々に警告するように求められていました。(レビ記13:45ー46)

しかし、ルカの福音書では、ツァラアトに冒された人がイエス様に近づき、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります。」と言っています。

イエス様は「わたしの心だ」と言われ、その人を清められました。さらに、イエス様はペテロと中風を患っている人の罪をも清められました。

マタイの場合、イエス様は積極的にマタイを追いかけ、その罪を清めてくださいました。

同じように、イエス様は私たちをも追いかけてくださいました。私たちが自分の道を行き、イエス様を価値のないものと見なしたにもかかわらず、イエス様は十字架で私たちの反逆の代償を払ってくださいました。

だから、私たちがイエス様に近づき、あわれみを願うとき、イエス様はこう言われます。「わたしの心だ。きよくなれ。」

ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル4:16)

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申命記のデボーション

あなたのようになれるように

天のお父さん、あなたが私に対して心を頑なにされることも、御手を閉ざされることもありません。(申命記15:7)

また、あなたが与えてくださるとき、物惜しみをされることもありません。(10節)

それどころか、あなたは御手を開かれ、気前よく与えてくださいます。(11節)

さらに、2000年前、十字架であなたは負債の免除を布告し、私の罪を赦してくださいました。(申命記15:2;コロサイ2:13-14)

だから、私も周囲の人々に対してあなたのようになれるよう助けてください。つまり、私がいつも手を開き、気前よく、また私に対する相手の罪を赦せるように助けてください。

私はまだまだそのような人にはなれていません。しかし、あなたのようになりたいのです。

どうか私があなたのようになれるよう助けてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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出エジプト記のデボーション

私たちの罪の深刻さ

翌日になって、モーセは民に言った。「あなたがたは大きな罪を犯した。」(出エジプト記32:30)

モーセの言葉で、私の心は本当に打たれました。

「あなたがたは大きな罪を犯した。」

それを読んで、私は考えました。

「私は自分の罪をどれだけ重く受け止めているだろうか。自分の罪を軽く見てしまうことがあるだろうか。」

パウロによれば、罪の報酬は死です。(ローマ書6:23)

イスラエル人たちは、その真理を学びました。3000人のイスラエル人が死に、さらに多くの人々が打たれました。

十字架でイエス様が死ななければならなかったほど、私たちの罪は深刻なものです。

私たちが自分の罪の深刻さを正しく理解してこそ、ダビデの言葉に含まれた喜びの深さを理解することができます。

幸いなことよ、その背きを赦され、罪をおおわれた人は。

幸いなことよ、主が咎をお認めにならず、その霊に欺きがない人は。(詩篇32:1ー2)

天のお父さん、私が決して自分の罪を軽く見ないようにしてください。私が決して、あなたの素晴らしい恵みを当たり前のものだと思わないようにしてください。

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マタイの福音書のデボーション

これはわたしの血

また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。

「みな、この杯から飲みなさい。これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。(マタイの福音書26:27~28)

イエス様の復活の後、聖餐式を受けるたびに、ペテロはイエス様の言葉の意味をどれほど深く感じたでしょうか。

彼は、イエス様を決して見捨てず、イエス様に忠実であることを誓いました。

でも、そのあと、イエス様がペテロに「わたしと一緒に目を覚まして、祈りなさい」と頼まれたのに、ペテロは寝てしまいました。

イエス様がペテロを起こされたとき、たぶんペテロは自分を責めて、ちゃんと目を覚まし、祈ろうと誓ったでしょう。

でも、ペテロは一回だけではなく、もう二回寝てしまいました。

そして、ユダがイエス様を裏切るために来たとき、ペテロは大祭司のしもべを襲いましたが、イエス様はペテロを誉めるのではなく、叱責されました。

さらにその後、ペテロは「イエスを知らない」と三度言いました。たぶん、鶏が鳴くまで、ペテロは自分が何をしているのか全然気づかなかったでしょう。でも、気づいた瞬間、彼は激しく泣きました。

聖餐式を受けるたびに、イエス様の言葉はペテロにとって、どれほどの意味があったのでしょうか。自分の罪と失敗を思い出すたびに、イエス様の言葉はペテロにとって、どれほどの意味があったでしょうか。

「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。ペテロ。これはあなたのために、あなたの罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」

私は、イエス様を裏切ったことが数え切れないほどあります。

私の誓いを破ったことがあります。良かれと思ってしたことが、悪い結果になってしまったことがあります。

私の言葉でイエス様を否定しなかったかもしれませんが、私の行動でイエス様を否定してしまったことがあります。

でも、イエス様は私に言われます。

「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。ブルース。これはあなたのために、あなたの罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」

だから、聖餐式を受けるときは、その言葉を心に留めましょう。罪や失敗を思い出して、罪悪感に沈みそうになるときも、その言葉を思い起こしましょう。そして、神様の恵みに安心しましょう。

これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。これはあなたのために、あなたの罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。

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マタイの福音書のデボーション

私たちが汚れているとき

すると見よ。ツァラアトに冒された人がみもとに来て、イエスに向かってひれ伏し、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と言った。

イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。(マタイの福音書8:2ー3)

ツァラアトは、とてもひどい病気でした。ツァラアトにかかった人たちは、のけ者とされ、神の神殿に入ることも許されませんでした。(レビ記13:45〜46;民数記5:2〜3)

その意味では、ツァラアトは罪を描写するものです。罪によって、私たちは霊的に汚れ、神様との関係、また周囲の人々との関係が壊れてしまいます。

しかし、今日の箇所では、ツァラアトに冒された人がイエス様のみもとに来て、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と言いました。

すると、イエス様は恵みとあわれみをもって、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われました。

私たちは、罪を犯したとき、神様が赦してくださるのか、受け入れてくださるのかと疑ってしまうことがあります。

だから、私たちはおどおどしながら神様のみもとに来て、「お心一つで私をきよくすることがおできになります」と祈ります。

イエス様は、ツァラアトに冒された人に答えてくださったように、私たちにも答えてくださいます。

「わたしの心だ。きよくなれ。」

ですから、神の子どもたちよ、神の御座に大胆に近づきましょう。なぜなら、私たちはあわれみを受け、恵みをいただくという確信をもっているからです。(ヘブル4:16)

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創世記のデボーション

天のお父さん、あなたは泣いたことがある?

ヨセフの兄弟たちは、自分たちの父が死んだのを見たとき、「ヨセフはわれわれを恨んで、われわれが彼に犯したすべての悪に対して、仕返しをするかもしれない」と言った。

そこで、彼らはヨセフに言い送った。

「あなたの父は死ぬ前に命じられました。

「ヨセフにこう言いなさい。おまえの兄弟たちは、実に、おまえに悪いことをしたが、兄弟たちの背きと罪を赦してやりなさい、と。」

今、どうか、父の神のしもべたちの背きを赦してください。」

ヨセフは彼らのこのことばを聞いて泣いた。( 創世記50:15ー17)

天のお父さん、あなたは泣いたことがあるでしょうか。

私たちを赦してくださったにも関わらず、私たちが罪悪感を抱き続けることを見るとき、あなたは泣いたことがあるでしょうか。

私たちが裁きと罰を恐れ、あなたから遠く離れて立つとき、あなたは泣いたことがあるでしょうか。

私たちをご自分の愛する子供たちと呼んでおられるにも関わらず、私たちが恐怖に陥れる奴隷として生きることを見るとき、あなたは泣いたことがあるでしょうか。

私たちが、あなたがどのようなお父さんであるかを知り、あなたに近づくように。

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創世記のデボーション

どうか私に近寄ってください

兄弟たちはヨセフを前にして、驚きのあまり、答えることができなかった。ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」(創世記45:3~4)

ヨセフの兄たちの立場になって想像してみましょう。

彼らは通訳者を通して、エジプトの支配者と話していました。(創世記42:23)

でも突然、通訳者とヨセフの他のしもべたちが部屋を出ていき、その支配者は彼らにヘブル語で話しかけます。それだけではなく、彼は、「私はヨセフです」と言います。

それを聞いて、彼らは恐れました。彼らは22年前にヨセフを奴隷として売ったからです。自分たちの罪をよく知っていて、ヨセフの怒りに値することを知っていました。

でも、ヨセフは彼らに言いました。「どうか私に近寄ってください。」

イエス様も同じことを私たちに言われます。

私たちはイエス様の御前に立ち、私たちの罪と失敗はすべて明らかになります。だから、私たちは神の怒りに値することをよく知っています。

でも、イエス様は私たちを見て、言われます。

「どうか私に近寄ってください。大いなる救いをもたらすために、神は私をあなたより先に遣わされた。

天の父は私をすべての主に任命された(第一コリント15:27)。

だから、あなたは神に近寄ることができる。

あなたが恐れず、毎日毎日、一瞬一瞬、私と共に歩み、私のそばにいることができる。

あなたの試練と苦しみの中で、私はあなたを支える。

だから、あなたの家族と回りの人々のところに行き、私の栄光、あなたが見た一切のことを告げなさい。そうすれば、彼らも私に近寄り、私を知るようになる。」

私はこういうことを考えて、本当に不思議だなぁと思います。

今日、私が祈った詩篇は、とても適切な反応だと思います。

全地よ、主に向かって喜びの声をあげよ。
喜びをもって主に仕えよ喜び歌いつつ御前に来たれ。

知れ。主こそ神。
主が私たちを造られた。
私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊。

感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に入れ。

主に感謝し、御名をほめたたえよ。

主はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで、
その真実は代々に至る。(詩篇100編)

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創世記のデボーション

壊れた人生に神の癒しを受けるため

そのころのことであった。ユダは兄弟たちから離れて下って行き、名をヒラというアドラム人の近くで天幕を張った。(38:1)

私は、上のことばを何度も読んだことがありますが、今日は初めて自問自答しました。「なぜ?」

なぜ、ユダは自分の責任を捨て、家族から離れたのでしょうか。

彼の兄たち、ルベン、シメオン、レビが父ヤコブの不興を買ったので、もしかしたら、ヤコブはユダを一族の長に任命しようと思っていたかもしれません。(創世記49:3〜7)

でも、ユダは立ち去りました。なぜでしょうか。

私はわかりませんが、もしかしたら、彼は罪悪感を深く感じていたのかもしれません。つまり、ヨセフを裏切ったあと、毎日ヤコブの苦しみを見て、もう耐えられなかったのかもしれません。(創世記37:26〜28、34〜35)

だから、彼は立ち去ったのです。

新しい人生を始めようと思ったのかもしれません。

でも、ユダは自分自身から逃げることはできませんでした。自分の罪深い心から逃げることはできませんでした。

たぶん、38章の出来事のあと、自分自身と向き合ったとき、ユダは自分の中にあるものを見て、それを嫌ったのでしょう。

もちろん、ヨセフはユダよりも正しい人でした。でも、神様を知らないカナン人の女性タマルでさえ、ユダよりも正しい人でした。

たぶん、彼はそのことを考えて、こう言ったでしょう。「もうだめだ。私はこのような生活を送ってはならない。もう逃げてはならない。」

彼の最初の一歩は、責任をとって、タマルとその二人の息子たちの世話をすることでした。

そして、彼は以前とは違う人として、ヤコブと兄弟たちのところに戻りました。

創世記44〜45章を読めば、ユダがどれほど変わったかがわかります。

ユダは、一朝一夕で変わったわけではありません。でも、彼は最初の一歩を踏み出しました。そして、彼は日々、神様の導きに従って、一歩一歩進みました。

そうすることで、彼の壊れた人生は癒されました。

ヨセフは、彼を許しました。(創世記45章)

ヤコブは、彼を許しました。(創世記49:8〜12)

もちろん、神様は、彼を赦してくださいました。

鏡を見るとき、自分が見ているものが好きでしょうか。

人生の変化、また癒しは、一歩から始まります。

次のステップに関して、神様はあなたに何を語っておられるのでしょうか。

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マルコの福音書のデボーション

私たちの罪と恥を取り去る方

イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。(マルコの福音書2:5)

人々はその中風の人に、何度こう言ったでしょうか。「神様はあなたを罰しているのではないか。あなたの苦しみは、あなた自身のせいだ。」

その時代、多くの人々がそのように考えていました。(ヨハネ9:1ー2;ルカ13:1ー4)

何年もの間、彼は罪と恥の重荷を負っていたのではないでしょうか。自分の不自由な体を見るたびに、彼は何度、自分の罪を思い出し、自分を責めたことでしょう。

彼の健康問題が本当に罪と結びついていたかどうかは分かりません。でも、彼の罪と、その罪から生まれた恥は、確かに彼の現実でした。

そんなある日、彼はイエス様のことを耳にしました。イエス様の教えを聞きました。そして、彼とその友人たちの心に、信仰が芽生えました。

おそらく、中風の人は、イエス様が自分を癒すことができると信じただけではなかったでしょう。彼は、イエス様の語られるすべてのメッセージを信じたのだと思います。

時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。(マルコ1:15)

イエス様はその信仰をご覧になったとき、中風の人にこう言われました。「子よ、あなたの罪は赦された。」

その瞬間、彼の罪と恥は取り去られました。

あなたはどうでしょうか。今、自分の罪と恥の重荷を背負っているでしょうか。

イエス様は、私たちの罪と恥を取り去ってくださる方です。

悔い改めと信仰をもってイエス様のもとに行くなら、イエス様は私たちにもこう言われます。「子よ、あなたの罪は赦された。」

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ルカの福音書のデボーション

私たちがつまずくとき

シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。

しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。

ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカの福音書22:31ー32)

ペテロは大失敗してしまいました。22章の最後では、イエス様の目の前で、ペテロは「イエス様を知らない」と言っていました。

でも、私たち皆が大失敗する時があります。私たち皆がイエス様を失望させる時もあります。

では、私たちはどうやって立ち直ることができるでしょうか。

イエス様の言葉を思い起こすべきです。

つまり、イエス様はあなたのために祈っているということです。イエス様は私たちを見限っているわけではありません。今なお、イエス様は私たちのためにとりなしてくださっているのです。

だから、イエス様のもとに戻りましょう。

そして、他のつまずいてしまった人たちを見たら、彼らを力づけてやりましょう。彼らに言いましょう。

「私はあなたに共感できます。私も失敗することがあります。でも、イエス様は私を赦してくださいました。あなたをも赦してくださいます。だから、一緒にイエス様のもとに戻りましょう。」

サタンの気に入った嘘は、「あなただけだよ。あなただけがこのように失敗するよ」ということです。

でも、現実は、もっとも偉いクリスチャンでも大失敗することがあるということです。

真理は、イエス様が私たちを見限ることはないということです。今でも、イエス様は私たちのために祈っていて、待っていてくださるのです。

だから、互いにその真理を思い起こし、励まし合いましょう。

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イザヤ書のデボーション

赦され、忘れられた罪

かつての苦難は忘れられ、わたしの目から隠されるからだ。

見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。

先のことは思い出されず、心に上ることもない。(イザヤ書65:16ー17)

以前、上のことばを読んだとき、なぜか私はいつも、イザヤが「新しい天と新しい地」で神の御顔を見るときに、私たちがかつての苦難や罪や失敗を忘れる、と言っているのだと思っていました。

今でも、私たちの苦難や罪と失敗が忘れられると信じています。でも、それが神様の意図だとは思いません。

神様が言われたのは、「かつての苦難は忘れられ、わたしの目から隠される」ということです。

だから、「先のことは思い出されず、心に上ることもない」と言われるとき、神様が「先のことは思い出されず、わたしの心に上ることもない」と言っておられるのだと思います。

アダムとエバが初めて罪を犯して以来、私たちはこの世界でどれほどの苦しみを引き起こしてきたのでしょうか。

私たちは、どれほど神様の心を悲しませてきたでしょうか。

今日の箇所では、神様がそのことについて語られます。神様は、ご自身の民の罪と反逆について語り、彼らがどれほど神の心を悲しませたかを示されます。

それでも、神様は言われます。

「わたしはすべてを新しくします。その日、あなたの罪や、あなたがわたしの心を悲しませたすべてのことは忘れられ、わたしの目から隠されます。そのことは思い出されず、わたしの心に上ることもない。」

イエス様の十字架の働きによって、私たちのすべての罪は赦され、忘れられました。

それこそが、不思議な恵みですね。

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ヨハネの福音書のデボーション

すでにきよい

イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのです。。。」(ヨハネの福音書13:10)

たくさんのクリスチャンたちは、自分の罪によって、自責の念に苦しみます。彼らは、いつも自分の罪と失敗をくよくよします。

あなたも、よくそうすることがあるでしょうか。

もし、イエス様と、あなたのための十字架のみわざを信じるなら、イエス様のことばは、あなたのためのものです。

「あなたは、きよいです。」

そのことばが、あなたの心に響きますように。

「あなたは、きよいのです。」

そのことばによって、神様と私の関係は、完全に変わりました。

もちろん、この世を歩むと、罪によって、私の霊的な足は汚れてしまいます。

でも、イエス様が私を受け入れてくださっているという確信を持っています。

私がイエス様のもとに来ると、イエス様が恵みによって私の足を洗い、私がもう一度完全に清くなるという確信を持っています。

私は、その確信を持って、イエス様と毎日歩んでいます。そういうわけで、私の罪と失敗にもかかわらず、私はクリスチャンとして、喜びを持って歩んでいます。

あなたは、どうでしょうか。その確信と喜びをもって、イエス様と歩んでいますか。

イエス様のことばに思いを巡らしましょう。あなたの心の中で、そのことばを繰り返して言いましょう。

そのことばが、あなたの心に刻み込まれますように。

「あなたは、きよいです。」

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ヨハネの手紙第一のデボーション

希望があるから

愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。

やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。

キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。(ヨハネの手紙第一3:2-3)

天のお父さん、私は希望を持っています。なぜなら、あなたは私をご自分の子供と呼んでくださっているからです。

また、イエス様がこの世にもう一度来られるとき、私はイエス様に似た者になるという希望を持っています。その日、私はイエス様をありのままに見るからです。

そういうわけで、私は今、イエス様のようになろうと努めています。イエス様のように歩みたいです。イエス様と同じように、人々を愛したいです。

でも、私が失敗し、罪を犯すときでも、私はなお希望を持っています。なぜなら、あなたは決して私を諦めないからです。

むしろ、もし私が自分の罪を告白するなら、あなたは真実で正しい方で、その罪を赦し、私をすべての不義からきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

サタンが私を責めても、私の心が私を責めても、あなたは私の心よりも大きな方であり、すべてをご存じです。つまり、私があなたを本当に愛していることをご存じなのです。(ヨハネ20:15−21)

どうか、毎日、私があなたの愛と恵みと希望の中で歩むことができますように。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ルカの福音書のデボーション

赦し、清めようとされるイエスの心

「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります。」

イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。」(ルカの福音書5:12-13)

上の言葉は、5章の内容の多くをまとめていると思います。

イエス様は、三人の罪人に出会われました。すなわち、ペテロと中風を患っている人、そしてマタイです。

そして、ある人の全身がツァラアトに冒されていたように、ペテロと中風を患っている人、そしてマタイの心全体も罪に冒されていたのです。

しかし、イエス様がその人のツァラアトを清められたように、ペテロと中風を患っている人、そしてマタイの罪も清めてくださいました。

私たちは、ペテロのように叫んだことがあるでしょうか。 「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。どうして私を受け入れられるでしょうか。どうして私を赦すことができるでしょうか。」

けれども、イエス様は恵みをもって、釘のあとがある手を伸ばして私たちに触れ、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われます。

さらに、イエス様は私たちに言われます。 「これから、私と一緒に、神の国のために人間を取りましょう。そうすれば、彼らもあなたが受けた恵みを知るようになります。」

感謝と喜びをもって、イザヤと一緒に叫びましょう。 「ここに私がおります。私を遣わしてください。」(イザヤ書6:1ー8)

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サムエル記第二のデボーション

罪悪感を手放す

王は身を震わせ、門の屋上に上り、そこで泣いた。彼は泣きながら、こう言い続けた。

「わが子アブサロム。わが子、わが子アブサロムよ。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。

アブサロム。わが子よ、わが子よ。」(サムエル記第二18:33)

私の意見ですが、おそらくダビデはアブサロムの死が自分のせいだと思い、深い罪悪感を抱いていたでしょう。

なぜなら、アムノンがアブサロムの妹タマルを辱めた時、ダビデは何も行わなかったからです。

そして、アブサロムがアムノンを殺したあとも、ダビデは自分に与えられた神の恵みとあわれみをアブサロムに示さず、かえって彼から遠ざかってしまったのです。

でも、19章でヨアブが指摘したように、その罪悪感によって、ダビデとその国が滅ぼされる恐れがありました。

ダビデのように、私たちは自分の罪と失敗のために罪悪感を抱いているかもしれません。

その罪と失敗が、私たちの愛する人々にどのような影響を与えたかを見ると、それは特に苦しいことです。

でも、私たちがその罪悪感を手放して前に進まなければ、私たちの人生は壊れてしまいます。

私たちが自分の罪と失敗を軽視した方がいいと言っているわけではありません。自分の行為がそれほど悪くなかったと自分に言い聞かせようとしているわけでもありません。

むしろ、私たちは自分の罪を神様に告白するべきです。

そして、できれば私たちが傷つけた人に、自分の過ちを認めて、償いをするべきです。

また、私たちは反省して、自分の失敗や罪から学ぶべきです。

でも、そのあと、私たちは神様の赦しを抱くべきです。人々が私たちを許してくれなくても、神様は私たちを赦してくださいます。

罪悪感には私たちを滅ぼす力があります。でも、それは私たちのための神の望みではありません。

イエス様は十字架で、私たちのすべての罪と咎を背負われました。

そして、イエス様の血によって、私たちの罪は清められました(第一ヨハネ1:7)。

神様の目には、私たちはしみ一つない者です。

神様の目には、私たちは傷のない者です(エペソ1:4;5:27)。

私たちは赦されました!

あなたにとっては、それが信じにくいことかもしれません。

でも、それは本当です。

サタンの嘘を信じてはいけません。あなたの罪、あなたの失敗は赦されないものではありません。

神様の目には、あなたはしみ一つない者です。

神様の目には、あなたは傷のない者です。

あなたは赦されました!

だから、パウロの言葉を覚えていて、自分のものにしましょう。

こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1)

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サムエル記第二のデボーション

サタンが私たちを責める時

出て行け、出て行け。血まみれの男、よこしまな者よ。主がサウ ルの家のすべての血に報いたのだ。。。

今、おまえはわざわいにあうのだ。 おまえは血まみれの男なのだから。(サムエル記第二16:7ー8)

たぶん、その言葉はダビデの心に染みたでしょう。

もちろん、ダビデはサウルとイシュ・ボシェテを殺したわけではないし、サウルの王座を奪ったわけでもありません。

それでも、ダビデは殺人者でした。そして、ナタンはダビデに、神様がその罪のゆえにダビデの家の中からダビデの上にわざわいを引き起こす、と言っていました(第二サムエル記12:11)。

だから、シムイの言葉が大分間違っていても、その言葉には真実味がありました。

もしかしたら、そういうわけで、ダビデは、「彼が呪うのは、主が彼に『ダビデを呪え』と言われた。だれが彼に『おまえは、どうしてこういうことをするのだ』と言えるだろうか」と言ったのかもしれません(10節)。

ダビデは自分の罪の実を刈り取っていました。

それでも、神様はダビデを責めていたわけではありません。神様はすでにダビデを赦してくださっていたのです(第二サムエル記12:12)。

さらに、私たちは後で見ることになりますが、神様はダビデの味方でした(第二サムエル記17:14)。

時々、この世界で、私たちは自分の罪の実を刈り取ります。

その時、サタンが私たちを責め、その言葉は私たちの心に染みます。なぜなら、その言葉には真実味があるからです。

でも、私たちがすでに悔い改めたのなら、神様は私たちを責めていないことを覚えておきましょう。

神様は私たちをすでに赦してくださいました。さらに、神様は私たちの味方です。

だから、パウロの言葉を心に留めておきましょう。

だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。(神ではありません。)

神が義と認めてくださるのです。

だれが、私たちを罪ありとするのですか。(イエスではありません。)

死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。 (ローマ8:33ー34)

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サムエル記第二のデボーション

主に愛された者

彼女は男の子を生み、彼はその名をソロモンと名づけた。主は彼を愛されたので、預言者ナタンを遣わし、主のために、その名をエディデヤと名づけさせた。(「エディデヤ」とは「主に愛されたもの」を意味します)。(サムエル記第二12:24-25)

ダビデは大きな失敗をしていました。自分の罪によって、ダビデは主を蔑んでしまいました。そして、その罪の結果は、ダビデとその家族に長い間、大きな影響を与えました。

それでも。。。

ダビデの悔い改めに伴って、彼は神様の赦しを知りました。そのあと、ダビデはこの言葉を書きました。

東が西から遠く離れているように、
主は、私たちの背きの罪を私たちから遠く離される。(詩篇103:12)

もし私が神様だったら、たぶんこう言っていたと思います。

「ダビデとバテ・シェバを赦しはするが、この結婚を絶対に祝福しない。」

でも、神様はそのようには考えられませんでした。

ソロモンを「主に愛された者」と名づけることによって、神様はダビデとバテ・シェバにこのメッセージを伝えたかったのだと思われます。

「私はあなたたちをまだ愛している。あなたたちの罪によって、つらい時に直面することになるが、この子どもを見るとき、私の愛があなたたちから取り去られていないことを心に留めなさい。

ソロモンは私の愛する子どもです。あなたたちも、私の愛する子どもたちです。」

そして最終的に、ダビデとバテ・シェバとソロモンを通して、イエス様はこの世に来られました。(マタイ1:6–16)

それは恵みです。それは神の忠実な愛です。

あなたはどんな後悔を抱えているでしょうか。自分の過去の罪の結果によって、今も苦しんでいるでしょうか。

心に留めておきましょう。ダビデとバテ・シェバとソロモンのように、あなたは主に愛されている子どもです。

イエス様にあって、赦しがあり、神があなたのために整えられた道があります。

だからこそ、イエス様と共に、次の一歩を踏み出しましょう。

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コリント人への手紙第二のデボーション

癒しがない?赦しがない?

私たち皆、後悔することがあります。そして、自分の罪と失敗の結果を見ると、罪悪感に圧倒される時もあります。

確かに、私たちの敵であるサタンは、私たちが自分の罪の重さに押しつぶされることを望んでいます。

けれども、神様は何を望んでおられるのでしょうか。

さまざまな意味で、パウロの心は私たちの天の父の心を映しています。

パウロは手紙を書きながら、コリント人たちを彼らの罪のために責めていました。その手紙を読んで、彼らは罪悪感を抱き、悲しみました。

それでも、パウロはその悲しみについて何と言ったでしょうか。

今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。

あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちから何の害も受けなかったのです。(コリント人への手紙第二7:9)

人に傷つけられるとき、私たちはよく、相手が自分の悪さを認め、苦しむことを望みます。相手が罪悪感に押しつぶされるのを見て、私たちは喜んでしまうことがあります。

実のところ、私たちが相手の苦しみによって滅びることを望む時さえあります。

しかし、パウロはそう望みませんでした。コリント人たちが害を受けることを望んだわけではありません。パウロが望んだのは、ただ彼らが悔い改めることでした。

私たちの天の父も、同じことを望んでおられます。

罪の結果は、本当に苦しい時もあります。圧倒的な罪悪感に押しつぶされそうになることもあります。

けれども、神様が私たちを押しつぶしたいわけではありません。むしろ、神様が望んでおられるのは、私たちが悔い改めることです。そして、悔い改めるなら、その結果は死ではなく、癒しです。

パウロはこう言っています。

神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。(10節)

もしかしたら、あなたは罪悪感に押しつぶされそうになっているかもしれません。「私には癒しがない。赦しがない。」と思っているかもしれません。

しかし、癒しはあります。赦しもあります。

必要なのは、ただ悔い改めることです。自分の罪を認め、神様の赦しを願うなら、神様は必ず赦してくださいます。

「さあ、来たれ。論じ合おう。」──主は言われる──

「たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。 たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ書1:18)

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創世記のデボーション

何の申し開きもできないでしょう

ユダが答えた。「あなた様に何を申し上げられるでしょう。何の申し開きができるでしょう。何と言って弁解することができるでしょう。神がしもべどもの咎を暴かれたのです。」(創世記44:16)

ユダの言葉は、私たちすべてに当てはまるでしょう。

私たちは天の御座の前に立ち、神様が私たちの人生の記録を開かれたとき、何も言うことができません。弁解することもできません。

ユダが自分の父ヤコブに語った言葉も、本当に印象に残ります。

もしも、あの子をお父さんのもとに連れ帰らなかったなら、私は一生あなたの前に罪ある者となります。(32節)

ヤコブは知らなかったかもしれませんが、ユダの言葉には、二つの意味があったと思われます。

ヨセフを奴隷として売るように勧めたのは、ユダでした。(創世記37:26ー27)

しかし、44章では、ユダが自分の罪の重さをどれほど感じていたかがわかります。

ヨセフを奴隷として売ったことで、もちろんヨセフに罪を犯しましたが、自分の父にも罪を犯しました。

ユダは過去を変えることはできませんでした。でも、ベニヤミンの命を保証することによって、自分の罪の償いをしようとしたのだと思います。

ユダの隠されたメッセージは、こうだったのかもしれません。

「もし、ベニヤミンを父のもとに連れ帰らなかったなら、私は一生あなたの前で、ヨセフに関して罪ある者となります。」

でも実際には、ユダがベニヤミンを父のもとに連れ帰ったとしても、その罪の償いをしたことにはなりません。

私たちは、どれほどユダのように、自分の罪の償いをしようとするでしょうか。でも、どんなに良いことをしても、私たちはその罪の償いをすることはできません。

神様が私たちの咎を暴かれるとき、私たちは弁解することができません。

しかし、良い知らせがあります。イエス様は十字架で、私たちの罪を背負われ、その代価を支払ってくださいました。私たちがしなければならないのは、ただイエス様の働きを信じて、休むことです。

だから、パウロはこう言いました。

こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。

そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。(ローマ5:1ー2)

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ヨハネの手紙第一

私たちが罪に落ちると

前回の記事で、私たちが学んだのは、私たちが光の子どもとして生きるように呼ばれているけれども、まだ罪に落ちる時もあるということです。その時、私たちが悔い改めるなら、神様は私たちを赦してくださいます。

今日の箇所では、私たちはその赦しの基礎を見ることができます。ヨハネはこう言いました。

私の子供たち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとなりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。

この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげものです。(ヨハネの手紙第一2:1-2)

ヨハネは改めて強調します。私たちは光の子どもだから、暗闇の中で歩んではいけません。

しかし、そのあと、ヨハネは心強い言葉を伝えます。それは、私たちが罪に落ちるとき、私たちを擁護する方がおられるということです。イエス様は御父の前で、私たちのためにとりなしてくださいます。

では、その擁護のよりどころは何でしょうか。それは、十字架でのイエス様の宥めのささげものです。

それはどういうことでしょうか。

その時代、いろんな国では、人々は神々の怒りを宥めるため、また神々のご恩を得るために、さまざまな生贄を捧げました。

ヨハネは同じ描写を使いますが、大きな違いがあります。私たちはその生贄を捧げるのではありません。むしろ、神様ご自身が自分の怒りを宥めるために、その生贄を捧げられました。そして、その生贄によって、神様はもう一度私たちに恵みを与えてくださいます。

天の父による救いの働きを伏線する話として、アブラハムはこう言いました。

神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。(創世記22:8)

十字架で、天の父はその羊を備えてくださいました。義なるイエス・キリストがその羊でした。イエス様は罪を犯したことがなかったのに、私たちの罪の罰を受けてくださいました。イエス様が十字架につけられた時、神様はご自身の怒りのすべてをイエス様に注がれました。

その結果は何でしょうか。イエス様は天の父の前に私たちと共に立ち、こう言われます。「私はその人の罪の代価を払いました。」

天の父は答えられます。「あなたの支払いを受け入れます」

そして、天の父は私たちの罪を赦すだけではなく、私たちに愛を注いでくださいます。

それは憐れみです。それは恵みです。その恵みと憐れみは神様の子どもたちに属します。イエス様を通して、私たちはその恵みと憐れみを受けるのです。

だから感謝をもって、私たちを救った神様に仕えましょう。イエス様のようになるように努めましょう。

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ヨハネの手紙第一

神様との交わりを持つため(2)

前回の記事で、私たちが学んだのは、神様が光であり、神様には闇の部分が全くないということです。だから、私たちが神様との交わりがあると主張するなら、私たちも光の中で神様と共に歩まなくてはなりません。

ヨハネによれば、私たちが神様の命令をごまかし、その言葉をあえて無視しながら、神様との交わりがあると主張するなら、私たちは嘘つきです。

そして、ヨハネは具体的な例を挙げます。実は、この手紙では、ヨハネはその例を何回も繰り返しています。

愛する者たち。私があなたがたに書いているのは、新しい命令ではなく、あなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いているみことばです。

私は、それを新しい命令として、もう一度あなたがたに書いているのです。それはイエスにおいて真理であり、あなたがたにおいても真理です。闇が消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。(ヨハネの手紙第一2:7-8)

この古くて新しい命令は何でしょうか。たぶん、それは「隣人を愛しなさい」という命令でしょう。

ヨハネは後で言いますが、隣人を愛することは、神様に対するあなたの愛を証明します。

モーセの律法では、神様はこう言われました。「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」

それは古い命令でした。

しかし、イエス様において新しい命令は、自分自身のように隣人を愛することだけではなく、むしろ、イエス様があなたを愛するように隣人を愛することです。(ヨハネ13:34-35)

つまり、私たちは神様の愛を十分に知っているゆえに、その愛が私たちから周りの人々に自然に溢れ出し始めるということです。

だから、ヨハネが言ったのは、その命令がイエス様において真理であり、イエス様を信じる私たちにおいても真理であるということなのです。

なぜなら、イエス様の愛のまことの光は私たちの中ですでに輝いているからです。そして、暗闇は私たちの心からすでに消えているのです。

そういうわけで、ヨハネはこう言います。

光の中にいると言いながら自分の兄弟を憎んでいる人は、今でもまだ闇の中にいるのです。自分の兄弟を愛している人は光の中にとどまり、その人のうちにはつまずきがありません。

しかし、自分の兄弟を憎んでいる人は闇の中にいて、闇の中を歩み、自分がどこへ行くのかが分かりません。闇が目を見えなくしたからです。(2:9-11)

その言葉には、1:5-7節の関係があります。もし、私たちが兄弟や姉妹を憎むなら、私たちが神様との関係があると主張することはできません。人を憎む人は光ではなく、暗闇の中で歩んでいるのです。

もちろん、その憎しみは人種差別などで現れることもあります。また、憎しみは妬みとして現れるかもしれません。

けれども、憎しみがしばしば現れるところは、人を許さない心です。多くの人々は人を許さないため、暗闇につまずき、苦々しい思いや憎しみに縛られています。

そして、私が以前言ったように、相手を許さないことを正当化するために、多くの人々は聖句をごまかし、あえて無視します。彼らは相手を許さず、傷つけられたことに対する憎しみを抱き続けます。

けれども、私たちが神様の愛や、私たちが与えられた赦しを知るなら、どうして私たちはその憎しみを抱き続けることができるでしょうか。

れっきとした神の子どもは、そのようなことができません。

かといって、私の言葉を誤解しないでください。クリスチャンたちが許したくないという態度と戦わなくてはならないことがないわけではありません。

多くのクリスチャンはその戦いに直面します。さらに、その痛みが深いものであれば、相手を許すのはとても難しいことです。

しかし、あなたが本当に神様の子どもなら、暗闇にとどまってはいけません。自分の憎しみのために言い訳してはいけません。「相手を許すのはありえない。私は許せない」と言ってはいけません。

そう言うとき、あなたは光を出て、暗闇に入ります。そのままで、自分が神様との交わりがあると主張すれば、あなたは嘘つきになります。

れっきとした光の子どもは、光に入り、イエス様の癒しを受けます。そして、イエス様の力と恵みによって、そのクリスチャンは相手を許します。

あなたはどうですか。自分が憎む人がいるでしょうか。自分が許せない人がいるでしょうか。その態度を持ち続けるなら、あなたは神様との交わりがあると主張することはできません。

もちろん、癒しには時間がかかります。あなたは祈らなくてはならないし、兄弟たちと姉妹たちの祈りが必要です。また、兄弟たちと姉妹たちの感情的な支えも必要です。

もしかすると、あなたにはカウンセリングが必要かもしれません。

あなたは必ず聖霊の力と愛が必要です。

けれども、言い訳するのをやめましょう。光に入りましょう。

そうするまで、あなたの神様との関係はうまくいかず、壁にぶつかることでしょう。

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コリント人への手紙第一

罪を容認し、誇る?

以前の記事で、私は「寛容」について述べました。「寛容」という言葉は、アメリカ人にとっては一種の合言葉のようなものです。

もちろん、ある意味で寛容は素晴らしいことです。たとえば、相手と意見が異なっていても、互いに尊敬し合い、良好な関係を築くことができるなら、それは非常に価値のあることです。

私たちクリスチャンは、当然ながらノン・クリスチャンに対して寛容であるべきです。彼らは私たちと同じ信仰を持っていないため、私たちと同じように振る舞うことは期待できません。

そのことを理解しつつ、彼らを愛し、共に時間を過ごし、福音を伝え、彼らのために祈るべきです。

イエス様はそのようにされました。イエス様は「罪びとの友」と呼ばれていました。実際、宗教的な人々が反感を抱くほど、イエス様は罪人たちと積極的に時間を過ごされました。

それでも、パウロははっきりと語ります。自らをクリスチャンだと主張しながら厚かましく罪を犯す者に対して、私たちは安易に寛容であってはなりません。

けれども、ある教会は「愛」と「受け入れ」という名のもとに、そうした振る舞いを許容してしまうことがあります。コリントの人々もそのようにしていたようです。

ある人は、自分をクリスチャンだと主張しながら、母と関係を持っていました。もしかすると、それは実の母ではなく義理の母だったかもしれません。一般のコリントの人々でも、そのような関係を容認していませんでした。

それでも、コリントの教会はこうした態度をとっていたようです。

「私たちは愛に満ちた教会です。私たちはすぐに人を許し、受け入れます。私たちはとても寛容な教会なので、たとえ義理の母と関係を持っていたとしても、その人を受け入れます。」

この報告を聞いたパウロは、深く驚きました。そして、彼は次のように語りました。

あなたがたが誇っているのは、良くないことです。わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませることを、あなたがたは知らないのですか。

新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。

ですから、古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで、誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか。(コリント人への手紙第一5:6-8)

聖書では、パン種は罪の比喩とされています。そのため、過ぎ越し祭りの時、ユダヤ人たちはパン種のないパンを食べました。

何百年後、過ぎ越しの祭りの時に、イエス様はパンを裂いて「これは私の体だ」と言われました。そのパンは、イエス様の罪のない人生を象徴しています。イエス様は罪を犯さなかったにもかかわらず、私たちのために命を捧げてくださいました。

そこで、パウロはコリントの人々に次のように語りました。

「もしその罪を放置すれば、やがて教会全体に広がってしまいます。もし、このクリスチャンが厚かましく罪を犯しているにもかかわらず、あなたたちがその振る舞いを容認するなら、他の人々もその模範に倣い始めるでしょう。」

だから、その悪意と邪悪のパン種を取り除き、誠実と真実に満ちた教会となりなさい。

パウロはさらに続けて語りました。

私が今書いたのは、兄弟と呼ばれる者で、淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者がいたなら、そのような者とは付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけない、ということです。(11)

それは厳しい言葉です。多くの教会は今日、その言葉を愛の言葉とは見なしません。けれども、パウロの言葉は極めて明確です。

ただし、注意が必要です。パウロは、ノン・クリスチャンの罪人と、厚かましく罪を犯すクリスチャンを区別しています。

パウロは次のように語りました。

外部の人たちをさばくことは、私がすべきことでしょうか。(それは違います。)

あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。(もちろん。)(12)

そしてパウロはこう言います。

外部の人たちは神がおさばきになります。「あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。(13)」

教会の人々は罪人を愛するべきでしょうか。当然です。

しかし、愛の名のもとに、クリスチャンの厚かましい罪を許容すべきでしょうか。それは許されることではありません。

それでも、明日、私はさらに詳しく説明することがあると思います。どうぞお楽しみに。

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マタイの福音書 マタイ27章 マルコの福音書 マルコ15章 ヨハネの福音書 ヨハネ19章 ルカの福音書 ルカ23章

神様をののしること。神様の前にへりくだること。

これは、十字架にまつわる有名な話の一つです。イエス様の隣には、二人の犯罪人も十字架につけられました。そして、ルカはその二人についてこう記しています。

十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え、」と言った。(ルカ23:39)

「ののしり」という言葉が私の心に強く響きました。それを思い、こう考えました。「どれほどの人々が自分の罪による苦しみの中で、神様をののしるだろうか。」

この犯罪人は悪事を働いたために罰を受けていましたが、悔い改めることなく、その罰について不満を述べていました。

もしかすると、彼は自分の行為が正しいと思い込み、イエス様にこう叫んだのかもしれません。「あなたは本当にキリストなのですか。私はこの罰に値しない。私を救いなさい。」

他の福音書によれば、最初はもう一人の犯罪人もイエス様をののしっていました。しかし、おそらくイエス様は答えることなく、情け深く彼らを見つめられたのでしょう。

だからこそ、二人目の犯罪人は次第に静まっていったのかもしれません。彼が悟ったのは、ローマ人がイエス様の尊厳を奪おうとしていたにもかかわらず、イエス様がその尊厳を保ち続けておられたということでした。

さらに、彼はイエス様が敵に対して情けと愛と赦しの心を持っておられるのを目にしました。

もしかすると、その犯罪人は以前にイエス様の奇跡を目の当たりにしたことがあり、イエス様の教えを聞いたことがあったのかもしれません。

そして、彼は自分自身を見つめ直し、初めてこう認めたのでしょう。「やはり私は悪かったのだ。いろいろと言い訳をしたが、それはただの言い訳にすぎなかった。私は確かにこの罰に値する。」

だからこそ、もう一人の犯罪人がイエス様をののしり続けると、彼はこう言いました。

おまえは神を恐れないのか。お前も同じ刑罰を受けているではないか。

おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。(40-41)

そして、彼はイエス様に向き直り、こう願いました。

イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。(42)

私のただの想像にすぎませんが、たぶんイエス様は十字架の上で初めて微笑まれたのかもしれません。そしてイエス様はこう答えられました。

まことに、あなたに言います。あなたは今日、私とともにパラダイスにいます。(43)

その瞬間、その犯罪人は救われました。彼は死にかけていながらも、命を見いだしたのです。

私は前にも述べましたが、多くの人々は一人目の犯罪人のような態度を取ります。彼らは悪事を行いますが、罰を受けて苦しむと、自分の悪さを認めることなく神様をののしるのです。

多くの人々が、なぜ神様が地獄で人々を永遠に罰するのか疑問を持ちます。

その理由の一つとして、地獄では誰も悔い改めないからかもしれません。むしろ、彼らは永遠に神様をののしり続けます。

彼らは自分の行為が正しかったと主張し続けます。彼らの心では、自分の悪さを理解していながらも、自分の罰について不平を言い続けるのです。

地獄では、人々は自分の罪深さを認識し、その罰に値することも理解していますが、それを決して認めることはありません。

しかし、自分の罪を認め、へりくだって悔い改める人は、二人目の犯罪人のように赦され、命を見いだすのです。

そのための時間は「今」しかありません。死んでからでは、すでに手遅れなのです。だからこそ、パウロはこう書きました。

見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。(第二コリント6:2)

あなたはどうでしょうか。イエス様の前にへりくだって来ることができるでしょうか。そして、イエス様からの救いを受け入れるでしょうか。

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ルカの福音書 ルカ23章

彼らをお赦しください

多くの人々にとって、相手を許すことは非常に難しいことです。それは、私たちの心に深い傷があるからです。そして、その傷が深ければ深いほど、癒しにはより長い時間がかかります。

もし指を針で刺されたなら、癒しは早いでしょう。けれども、誰かが意図的にあなたの背中をナイフで刺したなら、その傷が癒えるには非常に長い時間を要するでしょう。

だからこそ、敵に対するイエス様の反応は本当に驚くべきものです。十字架の上で、イエス様はこう言われました。

父よ。彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。(ルカの福音書23:34)

イエス様の言葉について、少し考えてみてください。

もし相手が自分が何をしているのか分かっていなかったなら、その人を許すことは比較的簡単なことでしょう。多くの場合、彼らが自分の行為に気づくとすぐに謝罪し、それを許しやすく感じることが多いからです。

しかし、もし相手が意図的にあなたを傷つけたのであれば、それを許すのは非常に難しいことです。

では、パリサイ人たちや祭司長たちの場合はどうでしょうか。彼らはイエス様にこう言ったでしょうか。

「あれ?イエス様、私たちの行為によって、あなたが十字架につけられているのですか。ごめんなさい。今すぐあなたを助けます。」

そうではありません。彼らは最初から意図的にイエス様を殺そうと計画していました。

彼らは代価を支払ってユダにイエス様を裏切らせました。最高法院での裁判のために偽りの証人を集め、さらにピラトやヘロデのもとでイエス様について数々の嘘をつきました。

彼らの影響力によって、ユダヤ人たちは「十字架につけろ!」と叫びました。それだけではなく、イエス様が十字架にかかっている間も、彼らはイエス様を侮辱し、からかいました。

では、イエス様は本当に「彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」と言うことができたのでしょうか。彼らはすべてを理解していたように見えます。

それでも、彼らは実際には知りませんでした。彼らは自分の嫉妬によって目が曇らされていました。彼らのプライドや罪がその視野を曇らせていたのです。さらに、サタン自身が彼らの思いを暗くしたのです。

実は、私たち全員が、かつて霊的に盲目でした。

たとえ人々が意図的にあなたを傷つけたとしても、その理由は彼ら自身も霊的に盲目であるからかもしれません。

もしかすると、彼らはあなたにどれほどのダメージを与えたか気づいていないかもしれません。 もしくは、彼らは神様の目にはあなたが価値ある存在であることを知らないのかもしれません。

あるいは、彼ら自身が深い傷を抱えているため、思わずあなたを傷つけてしまうことがあるかもしれません。そして、自分の行為について自覚していない場合もあるでしょう。

例えば、ある男性は長年、家族を虐待していた父親を許せませんでした。けれども、神様はその男性に、その父親自身も子供の頃に虐待を受けていたことを明らかにされました。癒されていない傷が原因で、その父親は大人になってから自分の家族を傷つけてしまったのです。

その息子が父親の傷を理解したとき、父親に対する共感が生まれ、許すことができるようになりました。

私たちが相手を許せないときには、次のことのために祈るべきです。つまり、私たちが自分の傷から目をそらし、私たちを傷つけた人の心を理解できるように祈るのです。

イエス様は十字架の上でまさにそれをなさいました。イエス様はご自身の傷ではなく、イエス様を憎む人々のニーズに目を向けられました。その人々は決して悔い改めることはありませんでしたが、それでもイエス様は彼らを赦してくださいました。

神様の助けによって、あなたも相手の傷を理解することができるようになります。それでも、相手は悔い改めないかもしれません。

けれども、あなたが相手のことを理解することができたなら、あなた自身が変わります。あなたは自分の傷ではなく、相手の傷に焦点を当てるようになります。

そして、神様があなたの心にその人への愛と憐れみを注いでくださり、彼らを赦すことができるようになるのです。

許せない人がいるでしょうか。その人を理解できるように祈ってください。その人の傷を知ることができるように祈りましょう。そして、イエス様のように祈りましょう。

父よ。彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。

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マタイの福音書 マタイ27章

死をもたらす悲しみ

この話では、私たちはイスカリオテのユダの死について知ることができます。

イエス様が死刑を宣告されたのを見て、ユダは深く後悔し、祭司長たちと民の長老たちの元へ行き、こう言いました。

私は無実の人の血を打って罪を犯しました。(マタイの福音書27:4)

そして、ユダは受け取ったお金を返そうとしましたが、祭司長たちや長老たちはそのお金を受け取ることを拒みました。そのため、ユダはそのお金を神殿に投げ込んで立ち去り、その後、首を吊りました。

コリント人への手紙第二7章で、パウロは二種類の悲しみについて語っています。パウロはこう書きました。

神様のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせます。。。(7:10a)

ペテロも同じような悲しみを経験しました。彼はイエス様を知ることを三度否定し、深い悲しみに包まれました。それでも、彼は悔い改め、赦されて、イエス様の弟子としての役割に戻ることができました。

それに対して、ユダは決して悔い改めることはありませんでした。もちろん、彼は自分の行為の結果を後悔しました。しかし、神様からの赦しを求める代わりに、ユダは自ら命を絶ちました。

パウロはこのような悲しみを「死をもたらす悲しみ」と呼びました。(第二コリント7:10b)

残念ながら、多くの人々はユダのような悲しみを経験しています。

彼らは自分の行為によって生じた悪い結果を目の当たりにし、赦される希望を持てないと感じています。その行為があまりにも重大であるため、神様が自分を赦すことなどできないと思い込んでいるのです。

私たちはそのような人々のために何をしているのでしょうか。

祭司長たちはユダに、神様からの赦しを知る手助けをするべきでした。ところが、彼らはそうしませんでした。むしろ、ユダの悲しみを見て、「で?もしあなたが悪いことをしたなら、それは自分の責任だ。私たちには関係ない。」と言い放ちました。

もちろん、祭司長たちは罪深い心を持っていたため、ユダを助けることができませんでした。ユダを助けるためには、彼ら自身の罪を認める必要があったでしょう。しかし、彼らは自分の罪を認めたくありませんでした。

皮肉なことに、そのお金が「血の代価」であるため、彼らはそのお金を神殿の金庫に入れることはできないと思いました。実際には、彼らは自分たちの罪を自覚していたのでしょう。

それでもなお、神様の祭司として、私たちは罪に苦しんでいる人々を助けるべきです。私たちはその役割を果たしているでしょうか。私たちは、彼らが悔い改めれば、神様が赦してくださることを伝えているでしょうか。

あるいは、彼らの苦しみに対して、私たちはむしろ喜んでいるでしょうか。「それはあなたの責任だ。身から出た錆だ。私に助けを求めるな。」と冷たく言い放っているでしょうか。

イエス様はペテロに厳しく責める権利を持っておられました。それどころか、ペテロだけでなく、すべての弟子たちに対しても、同じように責めることができたはずです。

けれども、イエス様はその代わりに、彼らに恵みを与えられました。神様からの赦しを示されたのです。その結果、彼らは悔い改め、人生が根本から変えられました。

イエス様は、私たちが周囲の人々に対しても、同じように恵みをもって接することを望んでおられます。あなたは、そのように行動しているでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ8章

わたしはあなたを罪に定めない。行きなさい。

私はこの話が大好きです。

イエス様は宮で教えておられます。多くの人々がイエス様を取り囲み、その教えに耳を傾けています。けれども、突然、パリサイ人たちと律法学者たちがイエス様のもとにやって来ました。

彼らは一人の女性を連れてきて、イエス様の足元に彼女を押し付けます。おそらく彼女は泣きながら、その目には恐怖が溢れていたことでしょう。

すると、一人のパリサイ人がこう言いました。

先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。(ヨハネの福音書8:4-5)

しかし、イエス様が彼らの目を見たとき、その心を見抜かれました。彼らは、その女性の罪に驚き、どうすればよいかわからなくて困っていたわけではありませんでした。

むしろ、彼らはイエス様に何か言わせて、罠に陥れようと考えていたのです。

例えば、イエス様が「彼女に石を投げなさい」と言えば、彼らはその言葉をローマ人たちに伝えていたでしょう。なぜなら、ローマ帝国の律法では、死刑を執行できるのはローマ政府だけだったからです。

また、イエス様が「罪人の友達」として知られていたにもかかわらず、そのような言葉を発したなら、罪人たちはイエス様を遠ざけたかもしれません。

一方で、イエス様が「その女性を逃せ」と言えば、パリサイ人たちは「イエス様はモーセの律法に反対している」と非難できたでしょう。その結果、人々はイエス様の言葉を信じなくなった可能性があります。

いずれにせよ、イエス様は彼らに直接答えず、指で地面に何かを書き始められました。つまり、イエス様は彼らを無視されたのです。

当然、彼らは腹を立て、イエス様に向かって叫びました。「おい、私たちを無視するな。答えろ。この女性は重大な罪を犯したのだ。どうすればいいか答えろ。」

ついに、イエス様は立ち上がり、彼らにこうおっしゃいました。「それなら、彼女に石を投げなさい。」

おそらく、これを聞いて彼らは微笑み始めたかもしれません。しかし、イエス様は続けてこう言われました。

あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。(7)

そして、イエス様はもう一度地面に書き始めました。何を書いたのでしょうか。

私はわかりませんが、時々「書く」という言葉には、「人の罪を書き留める」というニュアンスがあります。だから、もしかしたらイエス様は彼らの名前と罪を書き留められたかもしれません。

もし、誰かが皆の前であなたの名前と隠した罪を書き留めたら、あなたはどうしますか。おそらく、パリサイ人たちや律法学者たちのように、あなたは逃げるでしょう。

結局、その女性だけがイエス様の前に残りました。そしてイエス様は彼女にこう訊ねられました。

婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。(10)

彼女が目を上げると、誰もいませんでした。彼女は驚いて、こう答えました。

{主よ。}だれもいません。(11)

おそらく、イエス様は微笑まれました。そして、イエス様はこう言われました。

わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。(11b)

時々、私たちは鏡をのぞくと、こう思います。「どうして神様は私のことを愛しているだろうか。どうして私を受け入れるだろうか。」

なぜなら、私たちは自分の罪を目にし、私たちの人生はめちゃくちゃだからです。

けれども、イエス様は私たちにこう言われます。「わたしはあなたを罪に定めない。」

それだけではなく、イエス様はこう言われます。

「あなたの後悔に浸るな。いつも振り返るのをやめなさい。あなたはもう赦されたから。

そして、あなたの人生を壊した罪を捨てなさい。行きなさい。私はあなたの人生のすべてを新しくします。私の死によって、あなたには新しい人生があります。その新しい人生を送りなさい。」

あなたの後悔で思い詰めているでしょうか。あなたに対する神様の愛と赦しを疑うでしょうか。この言葉を覚えていてください。

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。」

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(第二コリント5:17)

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マタイの福音書 マタイ18章 マルコの福音書 マルコ9章

仲間を赦さない悪い家来のたとえ話:憐れみか火か:どちらで塩気がつけられる?

マタイ、マルコ、ルカの三人は、同じ事件について語っています。その話をまとめることは本当に興味深いものです。

けれども、この話の最初に戻りましょう。それは、弟子たちが誰が一番偉いかを論じ合っていたことです。

おそらく論じ合う中で、多くの酷い言葉が交わされ、人々は深く傷ついたでしょう。そのため、イエス様は私たちが傷ついた時、どのように対応するべきかを教えてくださいました。

その後、ペテロがイエス様に質問をしました。おそらく他の弟子たちは彼を傷つけたことでしょう。それが初めてではなく、おそらくこれからもペテロは傷つけられることがあるでしょう。そのため、ペテロはイエス様に問いかけたのです。

主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。(マタイ18:21)

おそらく、ペテロは相手を七回赦すことが寛容な態度であると考えたのでしょう。その時代、多くの先生たちは三回赦すことが適切であると教えていました。(「ただし、聖書にはそのような教えは記されていません。)

しかし、イエス様はこう答えられました。

七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。(マタイ18:22)

イエス様が意味されたことは、私たちが490回まで許さなくてはならないというわけではありません。むしろ、私たちは数えることなく許さなくてはならないのです。

そして、イエス様は有名なたとえ話を語られました。

ある王が、しもべの大きな借金を免除しました。けれども、そのすぐ後、そのしもべは別の人に出会いました。その以前、しもべはその人にお金を貸していたため、返済を要求しました。相手が払えなかったので、しもべはその人を牢に投げ込みました。

王はそのことを聞いたとき、そのしもべを呼びました。そして、しもべが来た時、王はこう言われました。

悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。(マタイ18:32-33)

そのため、借金をすべて返済するまで、そのしもべは牢に投げ込まれました。そしてイエス様はこう言われました。

あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。(35)

この話から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

そのしもべにとって、仲間が返済しなければならなかった借金は大きなものでした。それは約4か月分の給料に相当しました。

けれども、その借金をしもべが王に返済しなければならなかった借金と比べると、非常に小さいものでした。その額は何億円にも及ぶものでした。

時々、人々は私たちを傷つけ、その傷は本当に深いものです。とはいえ、私たちの神様に対する負債の方がはるかに大きいのです。私たちは自分の罪が小さいものだと思うことがあるかもしれませんが、実際にはその罪は積み重なります。

もし、あなたが毎日罪を3回ほど犯すとすれば、それは1年間で約1000の罪になります。そしてその数字をあなたの年齢に掛けると、何千もの罪になるのです。

それにもかかわらず、神様はあなたの罪をすべて赦してくださいました。だからこそ、私たちも他の人々を許すべきです。

では、もしそうしなかった場合にはどうなるでしょうか。そのしもべが仲間を牢に投げ込んだ時、その仲間は罪悪感に浸りました。

私たちも、しばしば同じような行動を取ります。私たちは相手を許さず、その縁を切ります。そして私たちは、相手が罪悪感に浸ることを望んでいるのです。

しかし、例え話では、王はそのしもべの行動を知った時、彼を獄吏に引き渡しました。その時代、獄吏は囚人を見張るだけでなく、その囚人を拷問する役割を担っていました。

同じように、私たちが相手を許さないなら、神様が私たちをサタンに引き渡すことがあると思います。(異なる文脈ですが、第一コリント5:5をご参照ください。)

その結果、サタンは私たちを苦しめ、私たちは自分の怒りや苦々しい思いに浸ることになります。

なぜ神様はそのようなことをされるのでしょうか。それは、私たちを憎んでいるからでしょうか。違います。それは、私たちが悔い改めることを望んでおられるからです。

いずれにせよ、このたとえ話の後に、もしかしたらイエス様はこう言われたかもしれません。

すべては、火によって、塩けをつけられるのです。(マルコ9:49)

つまり、もしあなたが神様の憐れみによって塩気を付けられないなら、火によって塩気を付けられることになります。あなたが悔い改めるまで、あなたの人生は惨めなものになるでしょう。

そして、イエス様はこう言われました。

塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。(マルコ9:50a)

イエス様は、私たちを地の塩と呼ばれました。私たちは、この世の人々を憐れみと恵みで味付けする役割を果たすべきです。

けれども、もし怒りや苦々しい思いを持ち続けるなら、私たちは塩気を失ってしまいます。そのため、イエス様は弟子たちと私たちにこう語られます。

あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。(マルコ9:50b)

あなたはどうでしょうか。あなたを傷つける人に対して、あなたは塩の役割を果たしているでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ18章

傷ついたとき、神様の手を解く?

この箇所は、マタイ16章に似ています。この箇所も少し解釈が難しいです。

マタイ16章では、イエス様は繋ぐことと解くことについて話されています。

何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。(16:19)

その箇所では、イエス様は神の国と救いについて話されています。新約聖書を読むと、多くの場合、神様が私たちを通して人々に触れたいと望んでおられることがわかります。

私たちはキリストの体です。私たちは周りの人々にとって、イエス様の目や耳、口、そして手です。

もし私たちが出て行って福音を伝えるなら、神様の手が解き、多くの人々が救われます。しかし、私たちが福音を伝えないなら、ある程度まで神様の手は縛られてしまいます。

もちろん、私たちが働かなくても神様は働くことができますが、多くの場合、私たちが働かない時、神様は何もしません。

ペテロは二つの方法で神様の手を解きました。彼はユダヤ人たちに福音を伝えました。

それでも、弟子たちはイエス様の命令に従わず、異邦人たちに福音を伝えませんでした。そこで、神様は直接行動を起こされました。神様はペテロに幻を示し、またコルネリオという異邦人に天使を遣わされました。

それは神様の理想ではありませんでした。神様の理想は、ペテロたちが積極的に異邦人たちに福音を伝えることでした。

それでも、その話の後、神様は天使を遣わず、人々を通して異邦人たちを救われました。弟子たちが福音を伝え、多くの人々が救われたのです。

さらに、ペテロは異邦人たちをユダヤ人の律法の要求から解放しました。それによって神様の手が解き、多くの人々が救われました。

とはいえ、この箇所では、その前後は全く異なります。そして再び、イエス様は語られます。

何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。(マタイ18:18)

でも、この場合、イエス様が意味されたことは何でしょうか。

私の意見ですが、もし相手があなたを傷つけ、謝らないなら、あなたはその人のために祈るべきです。そうすることで、私たちが神様の手を解き、神様は彼らの人生に働き始められます。

多くの場合、私たちは相手に対する怒りや苦々しい思いに縛られています。私たちは相手のために祈るのではなく、相手について祈っています。

「主よ、彼が何をしたかご覧になりましたか?信じられません。彼を罰してください。」

ところが、十字架の上で、イエス様は敵について祈られたのではありません。イエス様は彼らのために祈られました。

父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。(ルカ23:34)

その祈りを通して、神様は彼らの人生に働き始め、さらに救いの業を行われました。

そのように、もし私たちが相手のために祈るなら、神様の手を解き、神様は彼らの人生に働き始められます。

もちろん、私たちが祈らなくても、神様は働くことができます。とはいえ、多くの場合、神様は働く前に私たちの祈りを待っておられることがあります。

けれども、私たちが苦々しい思いを持ち続けるなら、神様の手を縛ることになり、神様は私たちの人生にも、相手の人生にも働かれません。

怒りや苦々しい思いを手放すことは難しいものです。そのため、神様は私たちを支えてくださる兄弟姉妹たちを与えてくださいました。彼らは、和解をもたらすために助けてくれ、私たちのために祈ってくれます。

だから、イエス様はこう言われました。

まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。

ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。(19-20)

あなたはどうですか。心の中で何か痛みを抱えているでしょうか。あなたは天の父の手を縛っているでしょうか。それとも、その手を解いているでしょうか。

つまり、あなたはただ相手について祈っているのでしょうか。それとも、相手のために心から祈っているのでしょうか。

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ルカの福音書 ルカ7章

あなたの愛はどこでしょうか

この箇所を読むと、私はこう感じます。「私はどれほどイエス様を愛しているのだろうか。」

この話には二人の人物が登場します。

一人は罪深い女性です。私たちは彼女の具体的な罪については知らないものの、周囲の人々は彼女の罪をよく知っていたようです。もしかすると彼女は売春婦だったかもしれません。ただ、それは単なる推測にすぎません。

一方、もう一人はシモンというパリサイ人です。彼は「正しい人」として知られていました。彼の言動は正しく、人生は順調に進んでいました。

そんな中で、シモンは食事にイエス様を招きました。食事の最中、その女性は泣きながらシモンの家に入りました。彼女の涙がイエス様の足にこぼれたため、彼女は自分の髪の毛でその足を拭い、香油を塗ったのです。

これに対するシモンの反応はどうだったでしょうか。それは軽蔑でした。彼女に対する軽蔑であり、イエス様に対する軽蔑でもありました。

そして、シモンはこう考えました。

この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。(ルカの福音書7:39)

けれでも、イエス様はシモンに向かってたとえ話を語られました。

その話では、一人は少額のお金を借り、もう一人は多額のお金を借りましたが、結局、二人ともそのお金を返すことができませんでした。そこで、金貸しは二人の借金を赦しました。

そして、イエス様はシモンにこう問いかけられました。

では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。(42)

多分シモンはこう考えたかもしれません。「イエス様のポイントは何だろうか。これは落とし穴のある質問なのだろうか。」

けれども、最終的に、彼は次のように答えました。

よけいに赦してもらったほうだと思います。(43)

そして、イエス様はこう言われました。「あなたの判断は正しいです。」

ところが、その次のイエス様の言葉は、シモンの心をナイフのように刺しました。

「実は、これは普通のユダヤ人のマナーですが、お客さんが来たとき、良い主人は足を洗う水を提供し、口づけで挨拶し、そのお客さんの頭に油を塗ります。

けれども、あなたは私のために何もしてくれませんでした。一方で、この女性は私が来たとき、私の足を涙で洗い、私の足に口づけし、高価な香油で私の足を塗りました。」

要するに、「シモン、あなたの愛はどこにあるのでしょうか。

この女性は私を深く愛しています。彼女は自分の行動を通して、神様の赦しに対する感謝を示しました。彼女はどれほど赦されたかを理解しているため、その愛は非常に深いです。

その一方、あなたは自分がどれほど赦しを必要としているかを理解していないため、あなたの愛はほとんどありません。さらに、あなたは私を軽んじ、いや、私に対して軽蔑的な態度を取ってしまいました。」

そして、イエス様はその女性に向かってこう言われました。

あなたの罪は赦されています。(48)

多分、周りにいた人々はその言葉を聞いて面食らったことでしょう。なぜなら、罪を赦すことができるのは神様だけだからです。

しかし、イエス様はさらに続けて言われました。

あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。(50)

あなたはどうでしょうか。あなたの愛の深さはどれほどでしょうか。

あなたは、シモンのように、自分の罪の深さを理解していないため、また、どれほど自分が赦されたかを知らないために、イエス様やその十字架の働きを軽んじてしまうのでしょうか。

私たちが神様の赦しを理解していない状態でいると、次の二つの結果が生じます。

1.私たちは独善的な態度を取り、周りの人々を軽蔑し、裁くようになります。

2.私たちの神様への愛は極端に薄くなります。

しかし、私たちが神様の愛をしっかりと理解すれば、私たちの心は神様への愛と感謝で満たされます。そして、その愛と憐れみを周りの人々にも分け与え始めます。

あなたは、どのような心を持っているでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ7章 ルカの福音書 ルカ6章

山上の説教:相手を裁くと

相手の欠点を見て裁くのは簡単なことです。つまり、相手の性格や行動を裁くのは容易いことです。特に、私が傷ついた時、相手を裁くことはさらに簡単になります。

ルカの箇所では、イエス様はこの教えを敵を愛し、憐れむことについて語られた後に言われました。そのため、私たちを侮辱する人、そして私たちを呪う人に関して、イエス様はこう言われました。

あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。(ルカ6:36)

その直後、イエス様は相手を裁くことについて語られます。

さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。

赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。(ルカ7:37)

つまり、相手があなたを傷つけても、その人を裁いてはいけません。なぜなら、それはあなたの責任ではなく、神様の責任だからです。むしろ、イエス様は「相手を許しなさい」と言われます。

実は、相手を許すことは、相手のためというよりも、あなた自身のためなのです。なぜなら、私が以前言ったように、相手を許さないことで、あなたは過去の傷に縛られ続けてしまうからです。そして、神様が望んでおられる未来に進むことができなくなります。

だから、神様は「その傷を手放し、許しなさい」と言われます。そうすれば、相手が変わることもあるかもしれませんが、それは神様の約束ではありません。

(イエス様が十字架の上でパリサイ人とサドカイ人の赦しのために祈られましたが、彼らの多くは決して悔い改めませんでした。)

さらに、私たちは主の祈りを思い出すべきです。すなわち、「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」

もしそうしないなら、もし私たちが受けた傷のために相手に裁きを注ぐのであれば、イエス様はこう警告されます。

与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。

あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。(ルカ6:38)

多くの人々は、この箇所を読むとき、イエス様が献金について話していると考えます。けれども、イエス様は献金について全く話していません。この箇所の前後は裁きと憐れみについて語られているのです。

イエス様のたとえは、農家が袋に穀物を入れる様子を描写しています。私たちはその光景をすぐに想像するのが難しいかもしれません。そこで、別の例えを考えてみましょう。

ごみ袋を思い浮かべてみてください。ごみの日に、どのようにごみを袋に入れるでしょうか。

まず、ごみを袋に入れます。けれども、袋が少し一杯になったらどうするでしょうか?袋を軽く揺らすと、ごみが下に詰まり、さらにごみを入れられるようになります。

しかし、袋がいっぱいになった後は、揺すってもごみが下に詰まりません。そこで、袋の上から手で押して、もう少しごみを入れます。けれども、袋の限界に達すると、ごみが袋から溢れます。

イエス様が言われたのはこのようなことです。

「もしあなたが相手に裁きを注ぐなら、神様は裁きをあなたに注がれるでしょう。そして、あなたにさらに裁きを注ぐために、神様はすでに注いだ裁きを揺すり、押されます。そして、裁きが溢れるまで、神様はあなたの人生に裁きを注がれます。

しかしその反対に、もしあなたが相手に憐れみと許しを注ぐなら、神様は憐れみと赦しをあなたの人生に溢れるほど注がれるのです。」

あなたはご自身に何を注がれることを望みますか?

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マタイの福音書 マタイ6章

山上の説教:許しの必要性

多くの人々にとって、この箇所は本当に受け入れがたいものです。

イエス様は、このように祈るように教えます。

「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」(マタイの福音書6:12)

そして、イエス様は続けてこう言われます。

もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。(6:14-15)

それは本当に厳しい言葉です。そして、他の箇所では、イエス様はその言葉をさらに具体的に説明されています。

では、その祈りを少し見てみましょう。「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」

多くの人々は、この祈りをしばしば祈りますが、自分が何を言っているのか真剣に考えません。

けれども、この祈りを想像してみてください。「主よ。私は姉に本当に怒っています。彼女は私を深く傷つけました。私は絶対に許せません。だから、主よ、お願いがあります。私が姉を許さないように、私を赦さないでください。」

それは愚かな祈りに思えるかもしれませんが、主の祈りを祈るとき、実際にはそのような意味を込めているのです。

「私が相手を許すように、私を赦してください。けれども、もし私が相手を許さないなら、私を赦さないでください。私が怒りと苦さを彼らに注ぐように、あなたも私に怒りと裁きを注いでください。」

神様の目には、許しは選択肢ではありません。もしあなたが相手を許さないなら、あなたは神様からの赦しを期待することはできません。

どうしてでしょうか。

なぜなら、あなたが神様からの赦しに値しなかったにもかかわらず、神様はあなたを赦すために高い代価を支払われたからです。その代価は、御子イエスの命でした。

あなたは決して、神様からの赦しを買うことができませんでした。また、あなたの罪のために償うこともできませんでした。それでも、神様はあなたを憐れんでくださいました。

神様が私たちを赦してくださったのなら、どうして私たちは相手を許せないのでしょうか。

もしあなたが相手を許せないなら、あなたは本当に神様の赦しを理解していません。

それはつまり、「私の罪はそんなに悪くなかったのです。だから神様は私を許してくれました。」と言っているのと同じです。ようるするに、あなたは自分の罪を軽く見てしまい、深刻さを控えめに捉えています。

しかし、あなたの罪のために、あなたは地獄に行くことに値しました。あなたの罪があまりにも深刻だったので、イエス様はその罪のために十字架で死なれなければなりませんでした。それを本当に信じているでしょうか。

それなのに、どうして「私の罪はそんなに悪くない」という態度を取れるのでしょうか。

もしあなたが相手を許せないなら、あなたは自分の罪をあまりにも軽く考えています。自分の罪の深刻さを正しく理解するなら、相手を許せないはずがありません。

だから、次の二つのことを考えてください。

1.あなたはどれだけ真剣に自分の罪の深刻さを考えるでしょうか。その罪のゆえに、あなたが地獄に値することを信じるでしょうか。

2.神様があなたの酷い罪を赦してくださったのなら、どうしてあなたはあなたに対して犯された酷い罪を許せないのでしょうか。

許すことは簡単なことでしょうか。多くの場合、許すことは本当に難しいです。もしあなたが深い傷を受けたなら、自分の力だけで許すことは難しいでしょう。もしくは、不可能でしょう。

けれども、神様の恵みと憐れみによって、あなたが赦されたように、神様の恵みと憐れみによって、あなたは相手を許す力をいただくことができます。

そのため、自分自身に次の質問をするべきです。「私は今、相手を許せないかもしれないけれど、神様が私の心を変えてくださることを望んでいるでしょうか。」

もし「はい」と答えるなら、このように祈ってください。

主よ、私は深く傷ついており、今は相手を許す意思が全くありません。

しかし、私があなたの憐れみに値しなかったにもかかわらず、あなたは私を赦してくださいました。私を赦すために、あなたは高い代価を支払われました。

どうか私がその真理をさらに深く理解できるように。私がその真理を心から感じることができるように助けてください。

そして、相手を許す心を私に与えてください。どうか私の心を変えてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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マタイの福音書 マタイ5章 ルカ6章

山上の説教:完全の愛。完全の憐れみ。

おそらく、私たちクリスチャンは、イエス様のこの言葉をよく耳にすることでしょう。

だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。(マタイ5:48)

この箇所の前後は興味深いです。もちろん、私たちは清い人生を送るべきです。とはいえ、この箇所では、イエス様は特に愛について語って言われるようです。私たちの愛は、完全であるべきなのです。

時々、人々は、イエス様の「しかし、わたしはあなたがたに言います。」という表現を誤解します。彼らは、イエス様が神様の律法に反対していると思うのです。

けれども、イエス様は神様の律法に反対されたのではなく、パリサイ人や律法学者の律法に関する間違った解釈に反対されたのです。

前回の記事で、この点について学びました。イエス様は、その正義に関する律法に反対されたわけではありませんでした。「目や歯に害を与えた者を殺してもよい」といった言葉を語られたのではありません。

むしろ、イエス様はこう言われました。「民法によれば、罪に応じた罰を与えるべきです。けれども、あなたがたは律法を乱用し、復讐の言い訳としてその律法を持ち出しているのです。」

もちろん、公平さと正義を求めること自体は良いことです。とはいえ、自分のためにいつも公平さと正義を求めるのではなく、相手に憐れみと愛を与えたら、あなたがたは天の父のようになり、この世でもっと輝く光となるでしょう。」

イエス様は、そのような人生を送られました。もしイエス様が自分のために正義を要求されていたら、十字架で死なれることは決してなかったでしょう。

この箇所では、私たちはさらにもう一つの律法に関する間違った解釈を見ることができます。旧約聖書には「自分の隣人を愛しなさい」という命令が簡単に見つかります。(レビ記19:18)

けれども、「自分の敵を憎め」という命令はどこにもありません。それはユダヤ人たちがそのアイデアを付け加えたものです。

そこで、イエス様はその考え方を訂正されました。

自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:44)

また、

あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。(ルカ6:27-28)

イエス様は、十字架の上でそうされました。

イエス様の敵が彼を十字架にかけた時、そして彼を嘲笑した時でさえ、イエス様は彼らのために祈られました。

イエス様は彼について祈られたわけではありません。「ほら、彼らはひどいでしょう?」とは言われませんでした。

むしろ、イエス様は彼らのために祈られたのです。

父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。(ルカ23:34)

彼らがイエス様を憎んでいたとしても、イエス様は彼らのことを愛されました。そして、イエス様の死によって、私たちは永遠の命への希望を持つことができるのです。

イエス様はこう言われました。「あなたを愛している人を愛するのは簡単なことです。誰にでもできることです。悪い人でさえそれができます。けれども、あなたを憎む人を愛することは本当に難しいのです。」

しかし、神様はそれをされます。私たちが神様を憎んだり侮ったりして背を向けても、神様は毎日私たちにさまざまな祝福を与えてくださいます。

天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。(マタイ5:45)

それに、私たちを罪から救い出すために、神様はご自身の子をこの世に送られました。

だから、神様は私たちにご自身のようになるように呼びかけておられます。私たちの愛は神様の愛のように完全であるべきです。神様が憐れみに富んでおられるように、私たちも憐れみに富むべきです。

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マタイの福音書 マタイ5章

山上の説教:憐れみ

数年前、私は不思議な夢を見ました。その夢の中で、私は中国でミニストリーの訓練を受けていました。(実際には、中国に行ったことはありません。)

すると、先生はこう言いました。「あなたたちは聖書をよく知っていますね。けれども、あなたたちは毎日その言葉に従っているでしょうか。」

そして、彼は憐れみについて話し始め、この箇所を引用しました。

「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」とはどういう意味か、行って学んで来なさい。(マタイ9:13)

その言葉を聞いた瞬間、私は目を覚ましました。

「これはどういう意味なのだろうか。」と、私は思いました。

その夢を見たとき、私はハワイを旅行していました。そして、その夜、兄の教会に行き、礼拝が始まる前に、もう一度マタイの箇所を読みました。

賛美の時間の後、兄はヤコブの手紙からメッセージを語りました。そのテーマは何だったでしょうか。憐れみでした。

翌週の日曜日、私は自分の教会に戻りました。そして、牧師は再び憐れみについて語りました。

そのとき、私は思いました。「神様は私に憐れみについて学んでほしいのだろうか。」

そして、神様は私に憐れみについて教え始められました。

今でも私は憐れみについて学んでいます。本当は、「私は憐れみ深い人間です」と言いたいのですが、そうは言えません。まだまだ成長しなければならないのです。

イエス様はこう言われました。

あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。(5-7)

憐れみとは何でしょうか。

まず一つ目の意味は、人々を常に裁かないことです。つまり、私たちの基準や期待を押し付けるのをやめることです。

ある日、神様は私にこのことを教えられました。私が英会話の生徒を教えていたとき、彼らはなかなか上達していませんでした。そのため、私はフラストレーションを感じました。

「私は何度もこのことを教えたのに、どうして覚えていないのだろう。もう学んだはずなのに。なぜできないのか。」と私は思いました。(もちろん、口には出しませんでした。)

けれども、神様はこう語られました。 「ブルース、自分が立てた基準によって彼らを裁いてはいけません。あなたは、彼らが知っているはずだと思うかもしれませんが、彼らはまだ理解していません。

だから、批判するのをやめて、彼らのレベルを受け入れなさい。そして、彼らの英語学習の必要を理解し、その必要に応えられるように努めなさい。」

多くの場合、私たちは友人、配偶者、同僚、子どもが私たちの期待を満たさないと、彼らを批判してしまいます。

しかし、憐れみとは彼らを批判するのではなく、こう問いかけることです。 「彼らの本当の必要は何だろうか。どうすれば私はその必要に応えることができるだろうか。」

イエス様とパリサイ人の態度は大きく違いました。福音書の中で、イエス様は人々に仕えましたが、パリサイ人は人々を裁きました。

憐れみにはもう一つの側面があります。それは、人を許すことです。

多くの人は私たちの赦しに値しないかもしれません。決して謝らない人もいるでしょう。その結果、私たちの心には怒りや恨みが積み重なります。

英語の「resent」、つまり「恨み」という言葉の意味は、「再び感じる」です。私たちが恨みを持つとき、再び過去の傷を感じてしまいます。

恨みや苦々しい思いは、私たちを過去に縛り付けます。神様は私たちにそれを望まれていません。神様は私たちが恨みを手放し、神様の目的のために生きることを望まれます。

神様は私たちを素晴らしい目的のために造られました。しかし、恨みを持ち続けるなら、その目的を果たすことはできません。

それに、私たちは神様の憐れみに値しなかったにもかかわらず、神様は憐れみを注いでくださいました。同じように、私たちは値しない人々にも憐れみを与えるように呼ばれています。

イエス様は何度も言われました。 「もし神様の憐れみを望むなら、周りの人々に憐れみを示すべきです。」

この箇所でイエス様はそう教えられましたし、主の祈りでもそう教えられました。また、たとえ話の中でもそう語られました。

あなたはどうでしょうか。あなたは憐れみ深い人ですか。

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救われる希望がない?

私はこの箇所が大好きです。なぜなら、この箇所から私たちは重要なことを学べるからです。つまり、たとえ私たちがどんなに堕落していても、神様は私たちを救おうとしてくださるのです。

ある日、イエス様は収税所に近づき、マタイという取税人をご覧になりました。マタイがイエス様を見たとき、彼は心の中で何を考えたのでしょうか。

私には分かりませんが、多分、彼は深い後悔の念を抱いていたことでしょう。彼は数年前、自分の魂を売るような選択をしてしまったからです。

イスラエル人は取税人を非常に嫌っていました。収税人はローマ帝国のために税金を徴収していたため、彼らは敵に協力する者と見なされていました。

さらに、彼らはローマ帝国が要求する税額以上のお金をイスラエル人同士から取り上げ、その余分な金を自分のポケットに入れていました。

どうしてマタイがその道を選んだのかは分かりません。しかし、多分、時間が経つにつれて、そのお金の価値は彼の中で失われていったのでしょう。つまり、彼が何を買っても満足できず、ますます惨めになったのです。

マタイはイエス様を見ると、多分イエス様について行った群衆を羨ましいと思ったかもしれません。彼もまた、イエス様について行きたかったのではないでしょうか。

彼はイエス様の教えを耳にし、イエス様が行われた奇跡についても聞いていました。そして、イエス様に従えば、その惨めな人生から救われると思ったのかもしれません。

けれども、多分彼はこうも考えたでしょう。「それは無理だ。私はもうだめだ。イエス様は決して私のような者を弟子として受け入れないだろう。」

ところが、突然イエス様は、マタイが座っている収税所の前で立ち止まられました。そして、イエス様はマタイに目を留められました。マタイがイエス様の目を見ると、多分、自分の心のすべてが見透かされたと感じて恥ずかしくなり、頭をうなだれたことでしょう。

でも、イエス様は「マタイ」と名前を呼ばれました。

マタイが再びイエス様の目を見ると、その中に叱責は見えませんでした。むしろ、慈悲がありました。赦しがありました。

そして、イエス様はこう言われました。「私について来なさい。」

それはとても単純な言葉です。「私について来なさい。」

でも、その言葉には、深い意味がありました。「あなたにとって、遅すぎることはありません。私はあなたを赦します。あなたには希望があります。救いがあります。私について来なさい。」

だから、マタイはすべてを捨てて、イエス様について行きました。もちろん、彼の心の中にはまだ罪が残っていました。けれども、その日、彼は新しい人生に踏み出しました。

あなたはどうでしょうか。あなたに救われる希望はないと思いますか。自分がもうだめだから、神様があなたをあきらめたと思いますか。

神様は決してあなたをあきらめていません。神様は今でもあなたを愛しておられます。神様は慈悲深い目であなたを見ておられます。そして、赦しと哀れみをあなたに与えてくださいます。

あなたが神様に従うことを決心し、踏み出すなら、神様はあなたを受け入れてくださいます。

もちろん、人生が急にすべて変わるわけではありません。それは時間が必要です。

マタイのように、あなたが一晩で完璧になることはありません。時には罪と戦い、時には失敗することもあるでしょう。

しかし、あなたが「イエス様、あなたに従いたいです。私の主になってください」と祈るなら、イエス様はあなたに新しい心を与えてくださいます。そして、イエス様があなたの心を変え始め、やがてあなたの行動も変わり始めます。

あなたは、その新しい人生に踏み出す決心をしませんか。

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赦しの権威

イエス様は誰でしょうか。ただの偉い宗教的なリーダーだったのでしょうか。ただの良い人だったのでしょうか。それとも、奇跡を行う人だったのでしょうか。いや、イエス様はそれらをはるかに超えたお方だったのです。

この箇所を通して、私たちはイエス様がそうしたお方であることを理解できます。イエス様はカペナウムに戻られました。(その頃、イエス様の家はカペナウムにありました。(マタイ4:13))

この話では、イエス様がその日ご自分の家におられたかは定かではありませんが、イエス様がおられた家は人々でいっぱいでした。おそらく、窓の外からも大勢の人が覗き込み、イエス様の言葉を聞こうとしたのでしょう。

そして、四人の人たちが足が不自由な友達をその家に連れて行き、癒しを求めました。けれども、人があまりにも多く、家の中に入ることができませんでした。

そこで彼らは工夫して、クリエイティブな方法を考えました。彼らは屋根をはがし、穴を開け、その穴から友達を寝かせたまま床に吊り下ろしました。

そのシーンを想像してみてください。イエス様が教えている最中、突然屋根から奇妙な音がし始めます。

そして、急に屋根の破片が落ちてきて、人々は逃げようとしましたが、家が人でいっぱいだったため、逃げるのが難しい状況でした。

結局、人々は家から出て、スペースを空けました。当然ながら、イエス様の説教は中断されました。そして、皆は何が起こるのか気になり、じっと見守っていました。

やがて、足が不自由なその人がイエス様の足下に運ばれてきました。多分、皆はイエス様がその人をすぐに癒やすと期待していたでしょう。ところが、イエス様は意外なことを言われました。

子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。(マタイ9:2)

多分、その落ちた屋根の破片よりも、その言葉がさらに強い衝撃を与えたことでしょう。皆は静まり返りました。そして、パリサイ人と律法の学者が、皆の心に浮かんだ思いを代弁しました。

神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。(ルカ5:21)

つまり、「イエス様には罪を赦す権威がないでしょう。神様だけが罪を赦すことができます。」

彼らの言うことの半分は確かに正しいことでした。

もちろん、罪を赦すことができるのは神様だけです。傷つけられた方だけが、相手を赦すことができるのです。

しかし、彼らが理解していなかったのは、神様ご自身が彼らの間に立っておられたということです。イエス様は神なので、罪を赦す権威をお持ちです。

そして、イエス様はその人の癒やしを通して、その赦す権威を明確に示されました。

イエス様は、ただの宗教的なリーダーではありません。ただの良い人でもありません。また、ただの奇跡を行う人でもありません。イエス様において、神様は人間となられたのです。

イエス様はこの世に来られ、私たちと共におられました。そしてその後、私たちの罪のために十字架で死なれました。その御業を通して、神様は私たちの罪を赦すことができるのです。

イエス様は、その人を赦し救われたように、あなたをも赦し救ってくださいます。あなたがイエス様に祈るなら、必ず応えてくださいます。

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詩篇

赦しの神、憐み深い神

詩篇130篇は短い詩篇ですが、私はこの詩篇が大好きです。苦しむ時、詩人は神様の赦しと愛を省みます。

いつこの詩篇が書かれたのか私は知らないけれど、バビロンへの追放の後に書かれた感じがします。ダニエルのような人がこの詩篇を書いたことが想像できます。

しかし、ダニエルの祈りと違って(ダニエル書9章)、この詩人は自分の罪のために赦しを願いました。彼は叫びました。

主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。

主よ。私の声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください。(詩篇130:1-2)

彼は自分の義に基づいて願いませんでした。むしろ神様の性格に基づいて願いました。彼は言いました。

主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。

しかし、あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます。(3-4)

その個所が大好きです。誰も神様のみ前に立つ資格を持ちません。もし、神様が私たちの罪の記録を持っていたら、私たち皆死んでしまうでしょう。

たとえあなたが一日に三回ぐらい罪を犯したら、あなたは三十代になるともう罪を三万回ぐらい犯したことになります。

私がどれぐらい罪を犯したか考えたくありません。けれども、イエス様の血によって、私の罪は清められました。私の罪の記録に、もう何も書かれていません。

だから、詩人はこう言います。

私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ちます。(5)

彼は何を待ち望んでいるでしょうか。神様の恵みを待ち望んでいます。何に基づいて待っているでしょうか。神様の約束によって待ち望んでいます。

私たちも神様の約束に頼ることができます。つまり、

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

そして、夜明けが確かに来るように、悔い改める人に神様の赦しも確かに来ます。(詩編130:6)

自分の罪を悔い改めたあとで、詩人はイスラエルが悔い改めるように招きます。

イスラエルよ。主を待て。主には恵みがあり、豊かな贖いがある。

主は、すべての不義からイスラエルを贖い出される。(7-8)

私たちが神様の赦しを見つけたので、周りの人々に神様の憐れみについて伝え、彼らが悔い改めるように招きましょう。

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詩篇

神様に叫ぶ

私は、よくダビデの詩篇の背景を知りたいです。時々、ある詩篇のタイトルで、その背景が書かれています。けれども、この詩篇では、その背景が書かれていません。

詩篇25篇で、ダビデはトラブルの中で神様に叫びました。彼はこう歌いました。

主よ。私のたましいは、あなたを仰いでいます。

わが神。私は、あなたに信頼いたします。(詩篇25:1-2)

つまり、「私のすべてをあなたに捧げます。私のすべてはあなたのものです。あなたを信頼するから。」

その言葉を言うことは簡単です。とはいえ、その言葉を生きるのは難しいことです。私はよく神様に捧げたものを取り戻します。多くの場合、私は信仰を持たないので、神様を信頼しません。

けれども、私は失敗しても、ダビデのようにその言葉を叫びます。

そして、ダビデはこう祈りました。

主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください。

あなたの真理のうちに私を導き、私を教えてください。あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望んでいるのです。(4-5)

この箇所では、私たちはダビデの謙遜な態度を見ることができます。私たちはしばしば、すべてのことを知っているかのような態度を持ち、神様に相談する必要がないと思いがちです。

しかし、ダビデはへりくだって、神様に言いました。「私はすべてのことを知りません。最も良い道を知りません。だから教えてください。導いてください。」

どうしてダビデは神様の道を求めたのでしょうか。それは、ダビデが神様を愛し、神様を喜ばせたかったからです。だから彼は「あなたは救いの神です。私はあなたを待ち望みます。」と言いました。

そして、ダビデは請いました。

主よ。あなたのあわれみと恵みを覚えていてください。それらはとこしえからあったのですから。

私の若い時の罪やそむきを覚えていないでください。あなたの恵みによって、私を覚えていてください。主よ。あなたのいつくしみのゆえに。。。

主よ。御名のために、私の咎をお赦しください。大きな咎を。(6-7,11)

ダビデはアブサロムから逃げた時、この言葉を書いたのでしょうか。もしそうなら、多分、バテ・シェバとの罪について考えたかもしれません。神様はダビデを赦されましたが、その罪は結局ダビデを追放に導きました。だから、ダビデは祈りました。

「私の咎は大きいけれども、どうか赦してください。
私はあなたの赦しに値しません。しかし、あなたの恵みとあわれみによって、どうか赦してください。」

多くの場合、私たちが振り返る時、私たちの罪は神様に赦されましたが、その罪が結局私たちのトラブルを起こしたことが分かります。その時、私たちは、「神様は本当に私を赦されたのだろうか。」と思います。

けれども、私たちが心から悔い改めたら、神様は私たちをきっと赦してくださいます。そして、私たちが赦しに値しないのに、裁きの日に、神様は私たちにあわれみを与えてくださいます。

それでも、神様は、この世における罪の結果を取り去らないかもしれません。しかし、ダビデの時と同じように、神様は私たちと共にいて、支えてくださいます。

だからダビデは歌いました。

主は、いつくしみ深く、正しくあられる。それゆえ、罪人に道を教えられる。

主は貧しい者を公義に導き、貧しい者にご自身の道を教えられる。

主の小道はみな恵みと、まことである。その契約とそのさとしを守る者には。(8-10)

つまり、私たちが罪を犯しても、神様を求め続けたら、神様は私たちを決して諦めません。神様は私たちを導き続け、教え続けてくださいます。

もちろん、私たちはダビデと大きな違いがあります。それは、私たちがモーセの律法の下に生きていないことです。だから、私たちが罪を犯しても、神様の私たちに対する愛と忠実さは決して変わりません。

パウロはこう書きました。

私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。(第二テモテ2:13)

そして、ダビデは神様の守りのために祈りました。

私のたましいを守り、私を救い出してください。私が恥を見ないようにしてください。私はあなたに身を避けています。

誠実と正しさが私を保ちますように。私はあなたを待ち望んでいます。(20-21)

だから、ダビデはこの詩篇を始めたように、この詩篇を終えます。彼は自分の魂を神様の御手に委ね、神様を待ち望みました。

試練の中で、私たちもそのようにしましょう。

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ダニエル書3

自分の罪によってあなたの人生が壊れた時

ペルシアがバビロンを打ち破った後、ダニエルはエレミヤの預言を思い出しました。それは、イスラエルの追放が70年間続くというものでした。その70年が過ぎたとき、ダニエルは神様の前に跪き、祈りを捧げました。

実際、他のイスラエル人と比べると、ダニエルは正しい人でした。彼は一貫して神様に忠実であり、それほど悔い改める必要がありませんでした。

それでもなお、イスラエル人のために祈るとき、ダニエルは「私は正しい人だからイスラエル人のために祈ります」とは言いませんでした。むしろ、自分の罪を認め、神様の恵みの必要性を訴えました。

ダニエルはこの祈りを通して、私たちの人生が罪によって壊れたとき、どのように祈るべきかを教えてくれます。

第一に、ダニエルは言い訳をせず、正直に自分の罪を告白することです。彼はこのように祈りました。

私たちは罪を犯し、不義をなし、悪を行ない、あなたにそむき、あなたの命令と定めとを離れました。

私たちはまた、あなたのしもべである預言者たちが御名によって、私たちの王たち、首長たち、先祖たち、および一般の人すべてに語ったことばに、聞き従いませんでした。(ダニエル書9:5-6)

第二に、ダニエルはユダヤ人が抱えるトラブルの原因を神様のせいにせず、彼ら自身の責任を認めることです。

イスラエル人はみな、あなたの律法を犯して離れ去り、御声に聞き従いませんでした。そこで、神のしもべモーセの律法に書かれているのろいと誓いが、私たちの上にふりかかりました。私たちが神に罪を犯したからです。

神は、大きなわざわいを私たちにもたらすと、かつて私たちと、私たちをさばいたさばきつかさたちに対して告げられたみことばを、成就されたのです。(ダニエル書9:11-12)

第三に、ダニエルはイスラエル人ではなく、神様こそが正義の方であることを認めることです。

私たちの神、主のみわざは、すべて正しいのです。私たちが、御声に聞き従わなかったからです。(ダニエル書9:14)

最後に、ダニエルはユダヤ人の良い行いに基づくのではなく、神様の恵みに基づいて赦しを願うことです。

私たちが御前に伏して願いをささげるのは、私たちの正しい行ないによるのではなく、あなたの大いなるあわれみによるのです。

主よ。聞いてください。主よ。お赦しください。(ダニエル書9:18-19)

私たちの人生が罪によって壊れるとき、私たちはしばしば自分自身を責めるのではなく、周りの人々を責めます。

時には神様さえも責めることがあります。「あなたは不公平です。どうして私の人生はこんなにもめちゃくちゃになったのですか?」と文句を言うこともあります。

たとえ自分が悪かったと認めたとしても、私たちはよく自分の行動を弁解しようとします。

しかし、そのような態度を持ち続けるなら、私たちの人生は壊れたままで、神様の赦しを知ることは決してありません。むしろ、苦々しい心だけを抱くことになるでしょう。

もし赦しと癒しを知りたいなら、ダニエルのように祈るべきです。言い訳をせず、正直に神様に「私は悪かった。私は罪を犯しました」と告白することが必要です。

また、「神様、あなたは不公平です。だから私の人生はめちゃくちゃになったのです」と言うのではなく、自分の責任を認めることが大切です。

さらに、神様の判断が正しいと認めるべきです。

そして、神様の憐れみによってのみ、神様の赦しを願うべきです。私たちは神様の赦しに値する存在ではありません。神様の憐れみを得るために何かをすることはできません。ただへりくだって神様に頼ることしかできません。

そうすれば、神様がイスラエルの人々を触れて癒されたように、私たちの人生にも触れて癒してくださいます。

あなたはどうでしょうか。あなたの罪によって、あなたの人生は壊れているのですか。神様を責めていますか。他の人々を責めていますか。

今こそ、自分の責任を認め、罪を告白する時です。そうすれば、神様の赦しと癒しを知ることができるでしょう。

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エゼキエル書

私たちが倒れると

この箇所では、神様は再びユダの周辺の国々を厳しく責められます。なぜなら、エルサレムが倒れたとき、彼らがそれを喜んだからです。

まず、神様はエドムを責められました。エドムはユダに対して悪意や妬み、怒りを抱いていただけでなく、ユダの苦しみを自分たちの利益のために利用しようとしました。

そして、神様はイスラエルにその国々の裁きとイスラエルの癒しについて伝えられました。

とはいえ、イスラエルはその憐れみにまったく値しませんでした。彼らが癒されるのは、イスラエルの性格によるのではなく、神様の恵みによるのです。

むしろ、彼らが癒されるのは、神様のご性質によるのです。

エルサレムの没落の際、周りの国々は神様に向かって「高慢なことばを吐いた」のです。(35:13)

けれども、神様がイスラエルを癒すとき、その国々は神様がどのようなお方であるかを知ることになります。

つまり、神様は力ある神であり、恐るべき神です。また、神様は約束を守られる神であり、罰を与える神でありながら癒す神でもあります。怒りの神でありながら、人を赦す神なのです。

したがって、イスラエルを通じて周辺の国々は、神様だけが主であることを知るようになります。

神様はどのようにしてイスラエルを癒されるのでしょうか。それは人間の心を変えることです。他の神々には決してできないことです。

そして、神様はこう言われました。

わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。

わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。

わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。

わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。(25ー27)

そのようにして、神様は私たちの心に働きかけておられます。私たちは神様に背を向け、自分の道を歩みましたが、それでも神様は私たちを救ってくださいます。

私たちの良い性格によってではなく、神様ご自身が素晴らしいお方であるからこそ、私たちを救われるのです。

私たちの行いによってではなく、むしろ神様の御業によって、私たちは救われます。

パウロはこう書きました。

神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。

神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。

それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。(テトス3:5-7)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。私たちがどんなに倒れても、神様は私たちを救うことができます。神様は私たちを良い性格によって救われるのではありません。

もし私たちが本当に良い人であれば、救いを必要としないでしょう。しかし、私たちは罪人であり、救いが必要です。なぜなら、私たちは神様に背を向けて、自分の道を歩んだからです。

ですから、もしあなたが神様から遠く離れているのなら、神様に向き直りましょう。そして、神様の赦しを求めましょう。そうすれば、神様はあなたの声を聞き、あなたを癒してくださいます。

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エゼキエル書

曲がった正義感

「神様はフェアじゃない。」

人々がそんなことを言うのは、どこか皮肉なことです。なぜなら、神様は完璧で聖なる方だからです。一方で、私たちの心は罪によって堕落しています。

それでも、堕落した心を持つ私たちは、神様の裁きを批判して「これはフェアじゃない」と口にします。

90年代に、ジェフリー・ダーマーという殺人者がいました。彼の犯罪は非常に酷いものでした。けれども、彼は刑務所にいる間にクリスチャンとなりました。その後、他の囚人によって彼は殺されました。

そして、私はダーマーについてクリスチャンたちの様々な意見を目にしました。

死ぬ前、ダーマーはインタビューで自分の証しを語りました。そのインタビューを見たクリスチャンたちは、彼が本当に悔い改めたと考えました。

けれども、インタビューを見ていないクリスチャンたちは、彼をただのモンスターと見なしました。ある一人はこう言いました。

「神様がそんなに悪い犯罪者を赦すはずがありません。彼が心から悔い改めたはずはない。」

多くの人々はこの最後の意見に同意します。

けれども、そのような人々も、自分の罪によって苦しむ時、神様に文句を言います。「神様、どうして私を罰しているのですか。」

しかし、彼らはそのように文句を言いながら、自分の責任を見落としています。

イスラエルの人々もそのような態度をとっていました。そこで、神様は彼らにこう言われました。

あなたがたは、「主の態度は公正でない』と言っている。

さあ、聞け。イスラエルの家よ。わたしの態度は公正でないのか。公正でないのはあなたがたの態度ではないのか。

正しい人が自分の正しい行ないから遠ざかり、不正をし、そのために死ぬなら、彼は自分の行なった不正によって死ぬ。

しかし、悪者でも、自分がしている悪事をやめ、公義と正義とを行なうなら、彼は自分のいのちを生かす。

彼は反省して、自分のすべてのそむきの罪を悔い改めたのだから、彼は必ず生き、死ぬことはない。

それでも、イスラエルの家は、『主の態度は公正でない』と言う。

イスラエルの家よ。わたしの態度は公正でないのか。公正でないのはあなたがたの態度ではないのか。」(エゼキエル書18:25-29)

イスラエルの人々は苦しんでいたため、神様を不正義な方だと非難しました。けれども、彼らの罪が神様の裁きを招いたことを無視していました。

あなた自身はどうでしょうか。神様があなたを懲らしめるとき、あなたは怒りますか。それとも、神様が他の人々に憐れみを与えるとき、あなたは憤りますか。

神様が正義の方であることを常に覚えていてください。あなたは神様の決断に同意しないかもしれませんが、神様は常に正しいことをされます。

神様の決断が間違っているのではありません。歪んでいるのは、あなたの正義感です。

ですから、神様の御前でへりくだる心を持つよう努めましょう。周りの人々が悔い改めるなら、彼らに憐れみを示しましょう。また、神様があなたを懲らしめられるなら、悔い改めましょう。

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列王記第二 歴代誌第二

たった一つの悪い選択

選択。それは神様からの贈り物です。けれども、選択することは責任を伴います。私たちは日々、数多くの選択を迫られています。

深刻ではない選択もあります。たとえば、朝食に何を食べるか、通勤にバスと電車のどちらを使うべきかといった選択です。

しかし、もっと重要な選択もあります。それは、今日神様に従うか従わないか、また、この瞬間に神様に従うかどうかという選択です。

ヨシヤ王は、基本的に神様に従う生涯を送りました。

王として、さまざまな賢明な決断を下し、ユダを導きました。

他のユダやイスラエルの王たちと比較すると、ヨシヤは本当に優れた王でした。

ところが、ある日、神様の声を無視したことで彼は命を落としました。

エジプトの王が他国と戦おうとしていたとき、ヨシヤは彼を止めようとして出向きました。その際、エジプトの王はヨシヤにこう語りました。

ユダの王よ。私とあなたと何の関係があるのですか。

きょうは、あなたを攻めに来たのではありません。私の戦う家へ行くところなのです。

神は、早く行けと命じておられます。

私とともにおられる神に逆らわずに、控えていなさい。さもなければ、神があなたを滅ぼされます。(歴代誌第二35:21)

神様の命令によって、エジプトの王はそう語りました。(歴代誌第二35:22)

けれども、ヨシヤは神様の声に従いませんでした。

どうしてだったのでしょうか。ヨシヤのプライドが原因だったのでしょうか。

たとえば、彼自身の軍隊についてのプライドや、自分の作戦に対するプライドがあったのかもしれません。(彼はその戦いのために変装していました。)

あるいは、ヨシヤはプライドから神様が外国の王に語りかけるはずがないと思っていたのかもしれません。

ヨシヤの考えを正確に知ることはできませんが、確かなのは、彼がその日に命を落としたということです。そして、ユダの没落は間もなく始まりました。

時には、正しいと分かっていても、あえて悪い選択をしてしまうことがあります。

ときに、自分の行動を正当化しようとすることもあります。あるいは、言い訳さえせずに悪を行ってしまうこともあるのです。

ヨシヤの人生から、この大切な真実を心に刻みましょう。

「たった一つの悪い選択が、私たちの人生を壊してしまう可能性がある。」

たとえば、一つの悪い選択によって、不倫をしてしまい、結婚生活を崩壊させることがあります。

一つの罪によって、自分のミニストリーを破壊してしまうこともあります。

もちろん、罪を犯したとしても、悔い改めるならば神様は赦してくださいます。

神様はヨシヤを赦されました。

ヨシヤは天国に入りました。

それでも、彼の治世と命はそこで終わってしまったのです。

だからこそ、毎日毎日、一瞬一瞬、神様に従うことを選びましょう。

さらに、主の祈りを心に留め、祈り続けましょう。

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。(マタイ6:13)

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列王記第二 歴代誌第二

決して遅すぎない

「私にはもう遅すぎるでしょう。」

ジョージ・ルーカスは『スター・ウォーズ』がダース・ベイダーの贖いについての物語だと語っています。つまり、ベイダーは悪によって腐敗しましたが、息子の愛によって救われたのです。

『ジェダイの帰還』で、ルーク・スカイウォーカーは父ベイダーにこう願いました。

「あなたの憎しみを捨ててください。皇帝を拒絶して、私と一緒に逃げましょう。」

けれども、ベイダーは悲しく答えました。「私にはもう遅すぎるのです。私は主人に従わなければなりません。」

その後、皇帝はルークを殺そうとしました。ルークはベイダーの助けをもう一度求めました。

ベイダーはその光景を見て心を悩ませましたが、最終的に皇帝を攻撃して倒したのです。こうして、彼はルークだけでなく、自分自身も救ったのです。

この箇所の話も似たような内容です。

マナセはヒゼキヤ王の息子でした。ヒゼキヤは本当に良い王でしたが、マナセは別の道を歩みました。

彼は偶像を礼拝し始め、偶像とその祭壇を主の宮に築きました。さらに霊媒や口寄せに相談し、占いも行いました。

それだけではなく、彼は自分の息子を火の中に通しました。列王記によると、

罪のない者の血まで多量に流し、それがエルサレムの隅々に満ちるほどであった。(列王記第二21:16)

何度も預言者たちはマナセに警告しましたが、マナセは全く耳を貸しませんでした。むしろ、彼はその預言者たちを殺してしまいました。

ユダヤ人の伝承によれば、マナセが預言者イザヤを殺害したとされています。へブル人への手紙11章37節にある「[他の人たちは]のこぎりで引かれ[た]」という表現は、イザヤを指している可能性があります。

そのため、神様はこう言われました。

見よ。わたしはエルサレムとユダにわざわいをもたらす。だれでもそれを聞く者は、二つの耳が鳴るであろう。

わたしは、サマリヤに使った測りなわと、アハブの家に使ったおもりとをエルサレムの上に伸ばし、人が皿をぬぐい、それをぬぐって伏せるように、わたしはエルサレムをぬぐい去ろう。

わたしは、わたしのものである民の残りの者を捨て去り、彼らを敵の手に渡す。

彼らはそのすべての敵のえじきとなり、奪い取られる。

それは、彼らの先祖がエジプトを出た日から今日まで、わたしの目の前に悪を行ない、わたしの怒りを引き起こしたからである。(列王記第二21:12-15)

そして、アッシリヤ人たちはマナセを鉤で捕らえ、青銅の足かせにつないでバビロンへ引いて行きました。

列王記ではそれ以上の記録はありませんが、歴代誌の記述はもう少し続きます。

バビロンで、マナセはへりくだり、悔い改め、神様を求め始めました。そこで、神様はマナセを赦してくださいました。

そして、マナセはエルサレムに戻り、再びユダの王として立つことができました。

彼は偶像とその祭壇を取り除き、主の祭壇をもう一度築き、その上で和解のいけにえと感謝のいけにえをささげました。

マナセは数々の悪事を行っていました。ユダの王の中でも、彼は本当に酷い王でした。それでもマナセが悔い改めるのは遅すぎることはありませんでした。

神様はマナセのように人々を裁かれますが、多くの場合、神様は長く待った後で裁かれます。神様はマナセを何度も警告し、ついに裁かれたのです。

しかし、私たちが悔い改めると、神様はすぐに赦してくださいます。

悔い改めるのが遅すぎると思うでしょうか。失敗しすぎたから、神様がもうあなたを赦せないと思うでしょうか。

遅すぎることは決してありません。

悔い改めると、神様はあなたのために待つだけでなく、あなたのもとに走り、喜んで歓迎してくださいます。

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ミカ書

船を揺さぶるな

英語には、「Don’t rock the boat」という興味深い表現があります。

その直訳は、「船を揺さぶるな。」

つまり、「余計なもめ事を起こすな。」

また、「人を怒らせることを言うな。」

普通は、それは良いアドバイスです。

とはいえ、クリスチャンとして、いつもその言葉に従うことはできません。時には、相手が聞きたくないことを言わなくてはならないのです。

けれども、多くのクリスチャンはそうしたくありません。残念なことに、多くの教会もそうしたくありません。

その結果はどうなるでしょうか?神様の言葉、特に福音を正しく伝えないことです。つまり、神様の愛と恵みについてはよく話されますが、罪と裁きについてはほとんど話されません。

しかし、ミカは船を揺さぶることを恐れませんでした。ユダのリーダーたちはその民に正義を与えなかったため、ミカは彼らを責めました。

さらに、ユダの「預言者」たちは人々が聞きたいことだけを語っていたため、ミカは彼らにこう言いました。

預言者たちについて、主はこう仰せられる。彼らはわたしの民を惑わせ、歯でかむ物があれば、「平和があるように」と叫ぶが、彼らの口に何も与えない者には、聖戦を宣言する。

それゆえ、夜になっても、あなたがたには幻がなく、暗やみになっても、あなたがたには占いがない。

太陽も預言者たちの上に沈み、昼も彼らの上で暗くなる。先見者たちは恥を見、占い師たちははずかしめを受ける。彼らはみな、口ひげをおおう。神の答えがないからだ。(ミカ書3:5-7)

そしてミカはこう言いました。

しかし、私は、力と、主の霊と、公義と、勇気とに満ち、ヤコブにはそのそむきの罪を、イスラエルにはその罪を告げよう。(8)

私たちはそのようなクリスチャンにならなければなりません。愛する人々が罪の道を歩んでいるなら、私たちは彼らに警告しなければなりません。

たとえ彼らが怒っても、それは仕方がありません。クリスチャンとしての私たちの責任は、彼らに警告することなのです。

もちろん、「あなたは地獄に行くよ!」と叫ぶ必要はありません。

私が以前述べたように、ある人たちはそのようなメッセージを伝えることが大好きなように見えます。彼らは、まるで人々が地獄で苦しむことを喜んでいるかのようです。

しかし、神様はそのようなことを喜ばれません。神様は涙を流されます。私たちも泣くべきです。

けれども、泣くだけでは足りません。人々に警告しなければなりません。しかしそうすることで、時には船を揺さぶることになるでしょう。

ミカは船を揺さぶりました。幸いなことに、ヒゼキヤ王はこの警告を聞いて悔い改めました(エレミヤ書26:17ー19)。

イザヤもまた、真実を語ることをためらいませんでした。だからこそ、ミカとイザヤ、そして他の預言者たちの働きによって、その社会に影響を与えることができたのです。

あなたはどうでしょうか?船を揺さぶることを恐れていますか?他の人々の反応を恐れて、神様の言葉のすべてを伝えないままでいるのでしょうか?

その言葉とは何でしょうか。それは、イエス・キリストにあって、罪の赦しがあるということです。しかし、その賜物を拒むなら、裁きしかありません。

イエス様のみ名によって船を揺さぶることを恐れないでください。

もちろん、ただ人を怒らせるために船を揺さぶるのではありません。

そうではなく、イエス様の愛をもって、人々が悔い改めて救われるために船を揺さぶりましょう。

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イザヤ書

兄弟のための思いやり

兄弟の憎しみは他の憎しみよりも大変なことです。なぜなら、私たちは自分の兄弟からもっと期待するものだからです。

モアブ人はイスラエル人ともっと親しい関係があるべきでしたが、全然親しくありませんでした。

彼らの先祖はアブラハムとロトでした。アブラハムはロトのおじでした。そして、アブラハムの子孫たちはイスラエル人で、ロトの子孫はモアブ人でした。

それでも、その二つの国の関係は大部分において悪いものでした。

そして、この箇所で神様はモアブを裁かれました。しかし、イザヤのモアブへの裁きに対する反応は、他の国々の裁きに対する反応と違いました。

イザヤは言いました。

わたしの心はモアブのために叫ぶ。。。

それゆえ、わたしのはらわたはモアブのために、わたしの内臓はキル・ヘレスのために立琴のようにわななく。(イザヤ書15:5;16:11)

どうしてイザヤは、イスラエルとユダの敵のために泣いていたのでしょうか。多分彼らは兄弟のはずだったからです。だからモアブはユダやイスラエルと仲良くないのに、イザヤはまだその人々を愛していました。

イザヤはモアブ人に、「保護のためにユダに行ってください」と言いました。

そして、ユダ人にイザヤは言いました。「モアブ人を受け入れて、保護してください。」

また、イザヤはモアブ人を慰めようとしました。彼は言いました。

「しいたげる者(アッシリヤ人)は死にます。もしあなたがユダに行ったら、あなたは安全と正義を見つけることになるでしょう。」(イザヤ書16:1ー4)

そしてイザヤは言いました。

一つの王座が恵みによって堅く立てられ、さばきをなし、公正を求め、正義をすみやかに行なう者が、ダビデの天幕で、真実をもって、そこにすわる。(イザヤ書16:5)

つまり、彼らには一つの希望しかありませんでした。それは、将来のエルサレムを治められる救い主です。

残念なことに、モアブ人はイザヤの言葉を無視しました。だからイザヤは彼らに言いました。

雇い人の年期のように、三年のうちに、モアブの栄光は、そのおびただしい群衆とともに軽んじられ、残りの者もしばらくすれば、力がなくなる。(イザヤ書16:14)

この箇所を読むと、私たちを憎む人々に対する思いやりの必要を思い出します。

時々親友は私たちを裏切ります。しかし、彼らが苦しむ時、私たちは喜ぶべきではありません。むしろ私たちは彼らのために祈るべきです。

そしてイザヤのように、私たちは彼らに「イエス様に向かってください」と願うべきです。また、彼らのただ一つの希望はイエス様にあることを伝えるべきです。

あなたはどうですか。あなたを憎む人々が苦しむ時に、あなたは喜ぶでしょうか。それとも泣くでしょうか。

「彼らが苦しんで良かった」と言いますか。それとも彼らの癒しのために祈るでしょうか。

イエス様は私たちに教えられました。

自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:44)

イエス様にとっては、それは言葉だけではありませんでした。イエス様はその言葉に従われました。十字架で死にかけているときにも、イエス様はご自身の敵のために祈られました。

その愛によって、イエス様を信じる私たちは救われました。

私たちも、その受けた憐れみを、私たちを傷つけた人々に与えるように。