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ペテロの手紙第二のデボーション

神のみ言葉に目を留める

また私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。

夜が明けて、明けの明星があなたがたの心に昇るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。(ぺテロの手紙第二1:19)

「(そのみことば)に目を留めているとよいのです。」

その言葉が私の目に留まりました。🙂

多くの人々は神のみことばを軽んじます。なぜでしょうか。なぜなら、彼らは聖書が実際に神のことばであることを信じていないからです。むしろ、彼らは聖書を人の言葉や発想と見なします。

もちろん、神様は人々を通して語られました。でも、ペテロはそのプロセスについてこう言いました。

ただし、聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきなさい。

預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。(20ー21節)

ペテロは、ただのディクテーションについて話しているのではありません。むしろ、聖霊の導きによって、人々は、神様が伝えようとする真理を自分の言葉で表明しました。

イエス様は何度もそのみことばの真実性を断言し、私たちがそのみことばを信じなければならないと主張されました。(マタイ5:17~19;ヨハネ5:39、46;10:34~36;ルカ24:25~27)

あなたは、聖書をどのように見なしているでしょうか。ただの人の言葉と見なしているでしょうか。それとも、神のみことばと見なしているでしょうか。

真理がだんだん霞んでいくようなこの世界において、神様のみことばは光のように輝きます。

そして、私たちの明けの明星であるイエス様がこの世に帰られる日まで、そのみことばは私たちを導きます。

そのみことばに目を留めているとよいのです。

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ヨハネの黙示録

預言の中心におられる方、私たちの言動の中心となられる方

私が何年もこのブログを書いてきて、もうすぐ聖書全体を読み終えるところなので、できるだけ早くこのブログを終えたいという誘惑を感じています。

けれども、ヨハネが自分の語りの途中で少し脱線したように、私もそうしたいと思います。というのも、その言葉が、私がなぜこのブログを書き始めたのかを思い出させてくれるからです。

御使いが子羊の婚宴について語った後、ヨハネはその足もとにひれ伏して、礼拝しようとしました。

ヨハネの考えは理解しやすいでしょう。この御使いは、ヨハネよりも栄光に満ち、聖なる存在でした。だからこそ、束の間、ヨハネはその御使いこそ礼拝にふさわしい者だと思ったのです。

しかし、御使いはヨハネに言いました。

いけません。私はあなたや、イエスの証しを堅く保っている、あなたの兄弟たちと同じしもべです。

神を礼拝しなさい。イエスの証しは預言の霊なのです。(黙示録19:10)

要するに、「私があなたにこの幻を現す目的は、あなたが私を礼拝することではありません。私はこの幻の中心ではありません。

また、預言者たちは自分の預言の中心ではなく、あなたもこの預言の中心ではありません。

むしろ、イエス様がその預言の中心です。すべての預言は、イエス様に関して証しするためのものです」ということです。

これはとても大切で、心に留めておくべき真理です。イエス様はすべての中心におられる方です。特に、イエス様は私たちの言動の中心であるべきです。

私がこのブログを書くときも、教会でメッセージを語るときも、それは私の栄光のためではありません。それは、イエス様に栄光をお返しするためです。

あなたが教会や社会の場で仕えるときも、それはあなた自身の栄光のためではありません。それは、イエス様を証しするための奉仕です。

それを忘れると、私たちは非常に深刻な状態に落ちてしまいます。

名声を礼拝し始め、お金を礼拝し始め、周囲の人々からの称賛や尊敬を礼拝し始めます。イエス様は本来、私たちの人生の中心であるはずですが、私たちはそのお方を忘れてしまうのです。

だからこそ、私たちが自分自身に問いかけなければならないのは、教会で仕えるとき、私たちの心がイエス様に向けられた礼拝の姿勢になっているかどうかということです。

この社会に触れる時、私たちは神様に栄光をお返しする心を持っているでしょうか。

あなたは、誰の前に、また何の前に、ひれ伏して礼拝しているでしょうか。

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コリント人への手紙第一

教会を成長させるには

この箇所で、パウロは教会の礼拝のあるべき姿を教えています。パウロにとって重要なのは、コリントの人々(そして私たち)が、礼拝を秩序正しく行うことです。

そのため、パウロはこう語りました。

だれかが異言で語るのであれば、二人か、多くても三人で順番に行い、一人が解き明かしをしなさい。

解き明かす者がいなければ、教会では黙っていて、自分に対し、また神に対して語りなさい。(コリント人への手紙第一14:27-28)

なぜ、異言を語る際に解き明かす人が必要だったのでしょうか。それは、解き明かす人がいなければ、異言はクリスチャンたちの成長に役立たないからです。

さらに、パウロは預言について次のように語りました。

預言する者たちも、二人か三人が語り、ほかの者たちはそれを吟味しなさい。(29)

彼らはどのように預言を吟味したでしょうか。主に三つの方法があります。

一つ目は、聖書です。 神様は決してご自身の言葉に反することはないため、もし預言が聖書の教えに反しているなら、その言葉は神様からのものではありません。

二つ目は、聖霊様の証しです。 聖霊様が人々の心に働き、その預言が神様からのものであることを確認させてくださいます。

三つ目は、その預言の成就を見極めることです。 もし預言が将来の出来事に関するものであれば、その言葉が実際に成就するかどうかを確認する必要があります。

また、異言を語るときと同様に、預言を語る際も人々は順番に話すべきです。もし多くの人が同時に預言しようとすれば、礼拝の場が混乱に陥るからです。

そして、パウロはここで少し奇妙なことを語りました。

女の人は教会では黙っていなさい。彼女たちは語ることを許されていません。律法も言っているように、従いなさい。(34)

この箇所にはさまざまな解釈がありますが、パウロはすべての女性が教会で完全に沈黙しなければならないと言ったわけではありません。

なぜなら、11章では、パウロは女性が祈ったり預言したりすることについて語っているからです。また、パウロが女性に沈黙を求めた理由を説明する際、彼は説教に関する女性たちの質問について言及しているようです。

現代では、教会で牧師が説教するとき、皆が静かに聞きます。ところが、おそらくコリントの女性たちはそうしなかったのでしょう。

ある聖書学者によれば、ユダヤ人の会堂の礼拝と同様に、コリントの教会でも男性と女性が別々に座っていた可能性があります。

そのため、女性たちが夫に何かを尋ねたいと思ったとき、大きな声で質問せざるを得ませんでした。けれども、それが礼拝の妨げとなってしまったのです。

この説が正しいかどうかは分かりませんが、女性たちが礼拝の進行を妨げていたことは確かです。そのため、パウロはこう語りました。

もし何かを知りたければ、家で自分の夫に尋ねなさい。教会で語ることは、女の人にとって恥ずかしいことなのです。(35)

でもパウロは決して、女性たちが預言することとか、祈ることを禁止しません。

むしろ、パウロはこう言いました。

それでは、兄弟たち、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれが賛美したり、教えたり、啓示を告げたり、異言を話したり、解き明かしたりすることができます。

そのすべてのことを、成長に役立てるためにしなさい。(26)

つまり、教会のすべての人が、教会の成長に貢献できるものを持っていくべきだということです。

では、この箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

コリントの教会では、訳されない異言で話していたため、礼拝の妨げとなっていました。

また、順番を守らずに話す人がいたことで、教会内に混乱が生じていました。

さらに、説教の際にある人が大きな声で質問したため、その説教の妨げになっていました。

その結果、彼らは教会の成長を妨げました。

あなたはそうしないかもしれませんが、別の形で教会の成長を阻んでいることはないでしょうか。

人の問題のために祈らず、その問題について噂を広めてしまうことはないでしょうか。

人々を励ますことなく、批判してしまうことはないでしょうか。

自分の役割を守るために、同じ賜物を持つ人を助けることを拒んでしまうことはないでしょうか。

あなたの行動が、教会の成長を妨げてしまってはいないでしょうか。あるいは、怠惰な態度や消極的な姿勢のゆえに、教会の成長を阻んでしまってはいないでしょうか。

それとも、あなたは教会の成長を支え、建て上げる者として歩んでいるでしょうか。

私は、教会の成長に用いられたいと願っています。

あなたはどうですか。

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コリント人への手紙第一

私たちの賜物を正しく理解する?

この箇所を解釈するのは、非常に難しいです。私はさまざまな解釈を聞いてきたので、この箇所の意味を理解しているつもりですが、それが正しいのかどうかは分かりません。もしかすると、将来的に私の考えは変わるかもしれません。

前回の記事で述べたように、パウロは異言と預言の違いを説明し、教会においてなぜ預言がより重要なのかを教えています。

パウロはまず、こう語りました。

兄弟たち、考え方において子どもになってはいけません。悪事においては幼子でありなさい。けれども、考え方においては大人になりなさい。(コリント人への手紙第一14:20)

コリントの人々はどのように幼子のように振る舞っていたのでしょうか。

彼らにとって、霊的な賜物、特に異言はまるで新しいおもちゃのようでした。彼らはその賜物を用いましたが、周囲の人々への影響をほとんど考えていませんでした。むしろ、彼らはただ賜物を使うことを楽しんでいたのです。

もしかすると、彼らはそれによる霊的な益を感じていたかもしれません(4)。

あるいは、ノンクリスチャンの前で自分の賜物を披露したいと考えていたのかもしれません。

そのため、パウロは彼らにこう言いました。

「悪事においては幼子でありなさい。けれども、霊的な賜物やその他の霊的なことについては、大人のように考えなさい。

自分のことだけを考えるのではなく、周囲のノンクリスチャンのことを考え、特に、あなたの行動がどのように彼らに影響を与えるかをよく考えなさい。」

コリントの人々はどのように考えていたでしょうか。もしかすると、彼らはノンクリスチャンに良い影響を与えていると思っていたかもしれません。なぜなら、何年も前、ペンテコステの時に異言を通して、多くのノンクリスチャンが信仰に導かれたからです。

けれども、コリントの人々は大切なことを忘れてしまいました。ペンテコステの日、エルサレムに集まった外国人たちは異言を理解しました。それは、使徒たちや他のクリスチャンが彼らの言葉で神の栄光を賛美したからです。

その一方、コリントの礼拝では、参加したノンクリスチャンたちは異言をまったく理解できませんでした。そのため、彼らは感動するどころか、むしろコリントのクリスチャンたちを奇妙に思ったのです。

そこで、パウロは彼らにこう言いました。「あなたがたは礼拝の際に異言で話し、ノンクリスチャンを感動させようとしているかもしれません。けれども、聖書の言葉をよく考えなさい。」

つまり、

「わたしは、異国の舌で、異なる唇でこの民に語る。それでも彼らは、わたしの言うことを聞こうとはしない」と主は言われる。(コリント人への手紙第一14:21)

この言葉は、イザヤ書 28:11ー12 から来ています。

その文脈では、イスラエルの人々は神の言葉を意味のないものとして扱いました。そこで、神は彼らにこう言われました。

「あなたが私の言葉をちんぷんかんぷんだと思うのなら、では、本当の意味の分からない言葉を示そう。あなたがたが他国へ追放されれば、その国の言葉はあなたにとって全く理解できないものとなる。それでもあなたがたは悔い改めないだろう。」

パウロはこの神の言葉を異言に当てはめています。

「分からないのですか。訳されていない異言はノンクリスチャンにとっては、確かにしるしです(22)。

ところが、そのしるしは彼らの悔い改めのためではなく、むしろ裁きのためのものです。彼らが理解できる言葉を拒絶した結果、神の言葉はすべて彼らにとって意味の分からないものとなり、彼らの心はさらに頑なになるのです。」

そこで、パウロは彼らにこう言いました。

ですから、教会全体が一緒に集まって、皆が異言で語るなら、初心の人か信じていない人が入って来たとき、あなたがたは気が変になっていると言われることにならないでしょうか。(23)

ペンテコステの日にも、異言を理解できなかったユダヤ人たちはそのように言いました。(使徒の働き2:13)

対照的に、預言は信じる者となる人々へのしるしです。(コリント人へ手紙第一14:22)

しかし、皆が預言をするなら、信じていない人や初心の人が入って来たとき、その人は皆に誤りを指摘され、皆に問いただされ、心の秘密があらわにされます。

こうして、「神が確かにあなたがたの中におられる」と言い、ひれ伏して神を拝むでしょう。(24-25)

認めなければならないことがあります。22節で、パウロは「信じるようになる人」とは言わず、「信じている人」と述べています。

しかし、24-25節を見ると、パウロは将来信じるようになる人について語っているようです。

では、この箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

コリントの人々は霊的な賜物とその目的を正しく理解できていませんでした。そこで、パウロは彼らに警告しました。

「あなたの賜物の使い方は、あなたの望む結果をもたらすのではなく、むしろ逆効果をもたらすでしょう。」

あなたはどうでしょうか。あなたは自分の賜物を正しく理解していますか。その賜物が誰のためであり、何のためであるかを覚えていますか。

その賜物を誤った方法で用いるなら、あなたはその結果に驚くことになるでしょう。

だから、心に留めておきましょう。賜物は主に私たち自身の益のためではありません。むしろ、それは神様の目的と栄光のためのものです。あなたはどのように自分の賜物を用いていますか。

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マタイの福音書 マタイ27章 マルコの福音書 マルコ15章 ヨハネの福音書 ヨハネ19章 ルカの福音書 ルカ23章

聖書が成就するため

この箇所を読むと明らかなのは、イエス様の死が偶然ではなかったということです。また、イエス様の死は神様の間違いでもありませんでした。むしろ、神様はこの時が始まる前から、私たちの救いを計画しておられたのです。

皮肉なことに、祭司長たちがイエス様がメシアであるしるしを求めたとき、イエス様は確かにそのしるしを与えられました。けれども、彼らはそのしるしを認識することができませんでした。

彼らはイエス様に十字架から降りるように挑戦しましたが、イエス様は預言の成就を示されました。

そして、イエス様は叫ばれたのです。

わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。(マタイ27:46)

祭司長たちは、イエス様がエリヤという預言者を呼ばれているのだと思いました。しかし、実際にはイエス様は彼らに詩篇22篇を指しておられたのです。なぜでしょうか。それは十字架の上でイエス様がダビデによって書かれた言葉を成就されたからです。

十字架の上で、イエス様は侮辱され、軽蔑されました。驚くべきことに、祭司長たちは知らず知らずのうちにダビデの詩篇を引用していたのです。詩篇22篇において、ダビデの敵はこう語りました。

主に身を任せよ。助け出してもらえばよい。主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから。(詩篇22:8)

祭司長たちはイエス様について、こう言いました。

彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。「わたしは神の子だ」と言っているのだから。(マタイ27:43)

ダビデの時代には、十字架という刑罰はまだ存在していませんでした。それにもかかわらず、ダビデは十字架による死を生々しく描写しました。ダビデはこう語りました。

水のように 私は注ぎ出され、
骨はみな外れました。(詩篇22:14a)

実際には、十字架にかけられた人々の骨の関節がしばしば外れたとされています。

そして、ダビデはこう語りました。

心はろうのように
私のうちで溶けました。(詩篇22:14b)

ヨハネによれば、兵士がイエス様の脇腹を槍で突き刺したとき、血と水が流れ出ました。現代の医師によれば、その血と水が流れる現象は、心不全の兆候である可能性があるとされています。

さらに、ダビデはイエス様が喉が渇くことについても預言していました。

舌は上あごに貼り付いています。(詩篇22:15)

さらに、ダビデはイエス様の手と足が刺されることについても預言しました。(ダビデは釘ではなく、犬の歯や、場合によってはライオンの歯のような描写を使用しています。詳細については詩篇22篇の13節をご覧ください。)

犬どもが私を取り囲み
悪者どもの群れが私を取り巻いて
私の手足にかみついたからです。(詩篇22:16)

さらに、十字架にかけられた人々は、自分の胸郭を見ることができたとされています。

ダビデはそのような状況についても詩篇の中で描写しました。

私は自分の骨をみな数えることができます。(紙片22:17)

さらに、ダビデは兵士たちがイエス様の服をめぐって賭けをすることについても預言されました。

彼らは私の衣服を分け合い
私の衣をくじ引きにします。(詩篇22:18)

それらの預言はイエス様を指していました。祭司長たちは聖書をよく知っていましたが、それを認識することができませんでした。

ヨハネは他の聖書の箇所も参考にしています。詩篇34篇と69篇、またゼカリヤ書12章もイエス様のことを指しています。

さらに、イザヤ書53章は特に具体的にイエス様のことを指しています。

イエス様は私たちの背きのために刺されました。また、イエス様は私たちの罪のために砕かれました。(5節)

証人たちがイエス様に言いがかりをつけたにもかかわらず、イエス様は何も言われませんでした。(7節)

イエス様は自分の敵のためにとりなしをされました。(12節)

イエス様は悪者たちと一緒に葬られるはずでしたが、最終的にお金持ちの人のお墓に葬られました。(9節)

そして、イエス様はよみがえられました。(10-11節)

だから、私はもう一度言います。イエス様の死は偶然ではありませんでした。時間が始まる前に、天の父はイエス様の死、そして私たちの救いを計画しておられたのです。

ですから、イエス様の十字架の御業を当たり前のものだと決して思わないでください。むしろ、感謝を持って、私たちの救いのため、またイエス様が支払われた代価のために、天の父をほめたたえましょう。

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ルカの福音書 ルカ17章

神様の御国を見るため

この箇所で、パリサイ人たちはイエス様に、神の国がいつ来るのかを尋ねました。

もしかすると、彼らの意図は、「あなたは本当にメシアなのですか?もしそうなら、私たちにしるしを示してください」ということだったのかもしれません。

しかし、いつものように、イエス様は批判者に対してしるしを与えることを拒まれました。むしろ、イエス様はこう答えられました。

神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。

「そら、ここにある」とか、「あそこにある」とか言えるようなものではありません。

いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。(ルカの福音書17:320-21)

イエス様は何を意味されたのでしょうか。「あなたたちは神の国のしるしを求めすぎて、その到来をすでに目の前で見ながらも認識できていません。」

つまり、「あなたの王はすでに来ています。その王はあなたがたの間で御国の業を行っています。それを目の当たりにしているのに、なぜなおもしるしを求めるのですか。」ということです。

パリサイ人たちは、神様が何をしているのかを見ることができませんでした。とはいえ、あなたはどうでしょうか。

神様はあなたの周りの人々の心の中で働いています。神様は彼らの人生を変えたいと願っておられます。そして、神様はあなたを通して彼らに触れたいと願っておられます。

けれども、あなたは自分の人生に気を取られすぎて、神様が何をしているのか気づけていないでしょうか。

あるいは、聖書に書かれた預言に強い関心を持ち、イエス様がいつ再臨されるのかばかりを気にしすぎるあまり、神様があなたの周囲でどのように働いておられるのかを見失ってはいないでしょうか。

もちろん、聖書の預言は重要です。けれども、もし神様の働きを見失っているなら、私たちの視点はゆがんでおり、神様は私たちを御国の働きのために用いることができません。

あなたはどうでしょうか。あなたの周りで神様がどのように働いておられるのかを見ているでしょうか。

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ダニエル書3

メシヤが来られること、反キリストが来ること

この箇所は、本当に素晴らしい預言です。

以前、私は他のダニエル書の預言について話しました。つまり、バビロン帝国、ペルシャ帝国、ギリシャ帝国、そしてローマ帝国についての預言です。

多くの人々はその預言を見ても信じません。彼らは、「その預言はきっと本物ではない。その出来事が起こった後に、誰かがダニエルの名前を使ってこの預言を書いたのだろう」と言います。

彼らは超自然的なことを全く信じず、そのようなことを言うのです。

けれども、この9章の箇所はその考えを覆すのではないかと思います。なぜなら、この箇所はイエス様の生涯と働き、さらにはエルサレムの没落を預言しているからです。

旧約聖書全体が紀元前3年から1年の間にギリシャ語に翻訳されたことを考えると、エルサレムの没落の後にダニエル書を編集することは不可能でした。

神様はダニエルにこう言われました。

あなたの民とあなたの聖なる都(つまり、エルサレム)については、七十週が定められている。(ダニエル書9:24)

その「70週」というのは70の7年期間を指します。その間に、

  • 神様はそむきをやめさせます。
  • 神様は罪を終わらせます。
  • 神様は咎を贖います。
  • 神様は永遠の義をもたらします。
  • 神様は幻と預言を確証します。
  • 神様は至聖所(つまり、主の宮)に油を注ぎます。

その最初の7年間がいつ始まるのかについて、聖書学者たちは議論を続けています。おそらく、その始まりはエズラ記7章に記されている出来事だと思われます。

その時、ペルシャの王アルタシャスタが祭司エズラに主の宮を立て直し、飾るよう命じました。その箇所の焦点は宮を立て直すことにありますが、エズラ記9:9によれば、イスラエル人はエルサレムの城壁を立て直す許可も与えられたようです。

その後、ネヘミヤがエルサレムの城壁がまだ崩れていることを聞き、非常に落胆した場面があります。

いずれにしても、この預言によれば、最初の7年期間で苦しみの時代にエルサレムは立て直されると書かれています。(25節)

エズラとネヘミヤの時代、それは確かにその通りでした。彼らは主の宮とエルサレムの城壁を立て直そうとしましたが、数々の反対に直面しました。

それだけでなく、エステルの時代には、誰かが全てのユダヤ人を殺そうと計画したことがありました。(エステル記をぜひお読みください。)

その時から、62の7年期間(つまり、434年間)を数えると、それは紀元27年頃になります。その時、「油そそがれた者」が現れました。

私たちはいつもイエス・キリストと言いますが、「キリスト」は名前ではありません。「キリスト」という言葉は、「油そそがれた者」という意味です。

したがって、この箇所はイエス様について語っています。そして、紀元27年頃にイエス様はご自身のミニストリーを始められました。

その62の7年期間の後、「油そそがれた者」(つまり、イエス・キリスト)は断たれました。直訳すると、キリストは殺されました。また、「彼には何も残らない」と書かれています。

おそらく、その意味は、弟子たちがキリストを捨てたということでしょう。

その時、イエス様は十字架で私たちの罪をあがなわれました。その後、紀元70年にエルサレムと主の宮は滅びました。(26節)

最後の7年期間は将来の出来事です。その時、反キリストが現れるでしょう。彼は多くの者(つまり、ユダヤ人)と契約を結びますが、半週(3年半)の間にその契約を破り、ユダヤ人のいけにえとささげ物をやめさせます。

けれども、最終的に反キリストは倒され、その時、神様は罪を終わらせ、永遠の義をもたらされます。そして、新しい宮に油を注がれます(おそらく、エゼキエル書40-44章に記されている宮でしょう)。この預言はすべて成就されます。

この箇所には数多くの預言が含まれています。しかし、大切なのは、神様が未来を完全に支配しておられるということです。

もし、神様が帝国の興亡、イエス様の来臨、エルサレムの没落を正確に預言されたのであれば、私たちは反キリストや将来の神の国についての預言も信じることができるでしょう。

だから、将来が困難になったとしても、心配しすぎないでください。神様はすべてを支配しており、神様が約束されたすべてのことは必ず成就されるからです。

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ダニエル書3

儚い力

4頭の獣の幻の2年後、ダニエルは2頭の獣の幻を見ました。この二つの幻にはいくつかの共通点があります。

この夢の中で、ダニエルは一頭の雄羊を見ました。その雄羊には二本の角がありましたが、一方の角はもう一方よりも長かったのです。ガブリエルによると、その雄羊はメディア・ペルシア帝国を象徴していました。

(以前述べたように、ペルシア(長い角)はメディア(短い角)よりも強かったのです。)

メディア・ペルシャ帝国は非常に強力で、自分たちの思いのままにふるまいました。誰もその帝国を阻止することはできませんでした。

ところが、そこに一頭の雄やぎが現れました。その雄やぎには非常に目立つ一本の角がありました。そして、その雄やぎは雄羊を打ち破り、その角をへし折ったのです。雄やぎは高ぶりましたが、

その強くなったときに、あの大きな角が折れた。そしてその代わりに、天の四方に向かって、著しく目だつ四本の角が生え出た。(ダニエル書8:8)

その雄やぎはアレキサンダー大王を象徴していました。そして、預言通りに、彼が最も強くなった時に死に、四人の将軍たちが支配を始めました。この出来事は最初の幻ですでに示されていました。

けれども、この幻では、より具体的なことが示されます。そして、その事情は将来の出来事を表しています。

その雄やぎの一本の角は小さかったものの、やがて大きくなりました。ダニエルは次のように語っています。

それは大きくなって、天の軍勢に達し、星の軍勢のうちの幾つかを地に落として、これを踏みにじり、軍勢の長にまでのし上がった。

それによって、常供のささげ物は取り上げられ、その聖所の基はくつがえされる。軍勢は渡され、常供のささげ物に代えてそむきの罪がささげられた。

その角は真理を地に投げ捨て、ほしいままにふるまって、それを成し遂げた。(10-12)

その角はアンティオコス4世エピファネスという人物です。彼は、ギリシャ帝国の4分の1(つまり、セレウコスの領土)を取って支配しました。

彼の治世において、彼は2万人の軍隊を送り、エルサレムを攻撃しました。その際、主の宮にゼウスの偶像を立て、神様の祭壇の上で豚を犠牲として捧げました。

(神様の律法によれば、豚は不潔な動物とされているため、その祭壇は汚されました。)

この行動は、「荒らす者のするそむきの罪」と呼ばれるものです。(ダニエル書8:13)

「星」とは、アンティオコスに迫害され、命を奪われたユダヤ人のことです。

そして、ダニエルが預言した通り、アンティオコスは常供のささげ物を取り上げ、真理を地に投げ捨てました。神様の宮はゼウスの宮になったのです。

アンティオコスのプライドゆえに、彼は「私は神だ」と宣言しました。お金には「現れた神」という言葉が刻まれました。

けれども結局、彼は廃されました。ユダス・マカベウスというユダヤ人が反抗を導きました。ユダヤ人たちは最終的に神様の宮を清め、再びその宮を神様に奉献しました。そして、アンティオコスは急病により命を落としました。

ダニエルはこれらの出来事を全て預言していました。

とはいえ、この箇所には、私たちは反キリストの姿を見ることもできます。反キリストはアンティオコスが行ったことを模倣するでしょう。しかし最終的に、神様は反キリストも廃されます。

私たちはここから何を学ぶことができるでしょうか。力は儚いものです。

ペルシャの王たちは自分が強いと思っていましたが、彼らは廃されました。

アレキサンダー大王もそう考えていましたが、彼も廃されました。

アンティオコスも廃されました。

反キリストはサタンの力によって一時的に支配するでしょうが、最終的に彼も廃されます。

おそらく、あなたはこの世を支配しようとは考えていないでしょう。けれども、あなたの人生についてどのように考えているでしょうか。あなたは自分の人生の中心ですか。

周りの人々があなたに仕えるべきだと思っていますか。あなたの目標を果たすために他の人々を踏みにじりますか。また、あなたの心の王座から神様を追い出しますか。

もしそうするなら、あなたはその支配者たちが学んだ教訓を自ら学ぶことになるでしょう。あなたの力は儚いものです。

私たちは喜んで神様に従った方が良いのです。そうしなければ、最終的にあなたの力は取り去られるでしょう。神様に従うと、命を見つけます。しかし、力を握り続けたいのであれば、最終的には死に至ります。

イエス様はこう言われました。

いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。(マタイ16:25)

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エゼキエル書

神様が言われた通り

この箇所では、私たちは神様の忠実さをはっきりと見ることができます。つまり、もし神様が何かを語られるなら、私たちはその言葉を信じることができるのです。

この箇所では、神様はエルサレムの追放について話されています。具体的には、神様はユダの最後の王ゼデキヤの追放について語られました。

そのため、神様はエゼキエルにユダ人の前で小さな劇を演じるよう命じられました。

エゼキエルはゼデキヤの役を演じました。夕方、彼は家の壁に穴を開け、捕囚のための荷物を持ってその穴から出て行きました。そして歩きながら顔を覆いました。

その劇が意味することとは何でしょうか。

ゼデキヤは暗闇の中、エルサレムから逃げざるを得ませんでした。しかし、彼は捕らえられ、目を潰されてバビロンの王ネブカデネザルの前に連れて行かれることになる、ということです。

さらに、イスラエル人は諸国に散らされました。神様が語られた通りに、すべてそのように起こったのです。

どうして神様はエゼキエルとイスラエル人にそのメッセージを伝えられたのでしょうか。

それは、その預言が成就したときに、彼らが神様だけが主であることを知るためです。

イスラエル人にとって、その真理を受け入れることは簡単ではありませんでした。そして、神様が長い間忍耐を示されたため、彼らは次第に神様の裁きの警告を信じなくなっていました。

彼らはこう言いました。

日は延ばされ、すべての幻は消えうせる。(エゼキエル書12:22)

エゼキエルの時代には、それはよく知られたことわざでした。イスラエル人は、エゼキエルやエレミヤの幻を嘘や妄想だと思っていました。

しかし、神様はイスラエル人にこう言われました。

それゆえ、神である主はこう仰せられると言え。『わたしは、あのことわざをやめさせる。それで、彼らはイスラエルでは、もうくり返してそれを言わなくなる。

かえって、その日は近づき、すべての幻は実現する』と彼らに告げよ。

もう、むなしい幻も、へつらいの占いもことごとく、イスラエルの家からなくなるからだ。

それは、主であるわたしが語り、わたしが語ったことを実現し、決して延ばさないからだ。

反逆の家よ。あなたがたが生きているうちに、わたしは言ったことを成就する。――神である主の御告げ――」(23ー25)

神様の言葉は、いつでも私たちが信頼することのできるものです。

神様からの預言だけでなく、神様の約束も信じることができます。神様が何かを約束されたなら、その約束は必ず守られます。

では、神様はどのような約束を私たちに与えてくださったのでしょうか。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1)

わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。(へブル13:5)

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1;9)

また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。(ピリピ4:19)

それだけではなく、聖書には神様からの約束が数多く記されています。

ですから、私たちはその約束にすがり、信じ続けましょう。神様の言葉はいつでも私たちが頼ることのできるものだからです。

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エレミヤ書

悔い改めなさい

私がハワイにいた時、エホバの証人やモルモン教の人たちが私の家によく訪ねてきました。私が日本に引っ越して、神戸に住んでいた時でも、エホバの証人たちが時々訪ねてきました。

けれども、現在住んでいるマンションにはルールがあるため、ほとんどのセールスや宗教の人々は戸別訪問ができません。

ある意味、それは残念なことです。時々興味深い会話があったからです。

いずれにせよ、このエホバの証人やモルモン教の人々は「私たちはクリスチャンです」と言います。しかし、彼らにはいくつかの問題があります。

例えば、彼らはクリスチャンの言葉を用いますが、その意味は全く異なります。

エホバの証人にとって、イエス様は御使いのかしらであるミカエルです。

モルモン教にとって、イエス様はサタンの兄弟とされています。

もう一つの問題は、彼らの預言者たちが偽の預言を語ったことです。(申命記28:21ー22では、神様は偽物の預言者について警告しておられます。どうぞお読みください。)

エホバの証人やモルモン教の人々の言い訳はこうです。

「聖書に記された本当の預言者たちでもミスをしました。ヨナの話を覚えているでしょうか。ヨナがニネベは滅びると預言しましたが、結局ニネベは滅びませんでした。」

しかし、ヨナの言葉は預言ではなく、警告でした。神様はニネベの人々が悔い改めることを望んでおられたので、ヨナをニネベに遣わされました。

この箇所では、その真実を見ることができます。神様はエレミヤにこのように言われました。

わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、引き倒し、滅ぼすと語ったその時、もし、わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改めるなら、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す。

わたしが、一つの国、一つの王国について、建て直し、植えると語ったその時、もし、それがわたしの声に聞き従わず、わたしの目の前に悪を行なうなら、わたしは、それに与えると言ったしあわせを思い直す。(エレミヤ書18:7ー10)

この箇所を読むと、ヨナ書をより深く理解できると思います。ニネベの人々は悔い改めたので、神様は彼らに憐れみを注いでくださいました。

一方で、神様はイスラエルの人々に多くの祝福を約束されました。それは、彼らが神様の命令に従うならば、彼らが神様の民となり、神様が彼らの神となられるということです。

ところが、彼らは神様に背を向けたので、神様はその祝福を取り消され、彼らに災いを下されました。

この箇所の終わりでは、彼らの心が硬く、全く神様のメッセージを聞きたくなかったため、彼らはエレミヤを無視し、責めました。その結果は追放です。

私の言葉を誤解しないでください。神様はイスラエルの人々のためにまだ計画を持っておられます。神様は常にご自身の約束を守られます。

とはいえ、イスラエルの人々が悔い改めなければ、神様の祝福を得ることができません。(ローマ11章をお読みください。)

とにかく、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。私たちの罪を悔い改めるべきです。私たちの自己中心的な態度を捨てるべきです。そして、神様に向かうべきです。

そうすれば、本当の命を見つけることができるでしょう。

あなたはどのような罪を悔い改めるべきでしょうか。また、神様はあなたに何を望んでおられるのでしょうか。

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イザヤ書

あなたの名前を知っておられる神

多くの聖書学者は、イザヤが40-66章を書いたかどうかについて疑問を抱いています。もちろん、その学者の大部分はクリスチャンではありません。

さらに、中には「私はクリスチャンだ」と言いながらも、この部分について疑いを持つ人もいます。

どうしてでしょうか。それは、イザヤが将来の出来事を、あたかも過去に起こった出来事のように書いたからです。また、イザヤの預言が実際に成就しているからでもあります。

イザヤ書を読む時に思い出さなくてはならないのは、イザヤがバビロンやペルシア、そしてイスラエルの追放について記した時、ほとんど何も起こっていなかったという事実です。

当時、バビロンとペルシアはまだ大国ではありませんでした。また、北イスラエル王国はすでに追放されていましたが、ユダ王国はまだ存続していました。

実は、イスラエルにとって最大の敵は、バビロンでもペルシアでもありませんでした。一番の敵はアッシリアでした。

それはさておき、多くの人々がイザヤの預言を読む時、こう言います。

「イザヤの預言はあまりにも完全だ。これは本当の預言であるはずがない。きっとイザヤが亡くなった後、さらにペルシアの王クロスがイスラエル人を自分たちの土地に帰らせた後になって、誰かがこの『預言』を書いたに違いない。」

けれども、それは不信仰な態度です。そのような人々が実際に言っているのは、「神様など存在せず、超自然的な知識はあり得ない。仮に神様が存在したとしても、この世の中にそのように働くはずがないのです」ということです。

ここでは具体的にその疑問に答えませんが、これだけは断言できます。イエス様が生まれる100年以上も前に、旧約聖書のすべてがギリシャ語に翻訳されていました。この点についてはクリスチャンもノンクリスチャンも疑いません。

それでも、旧約聖書にはイエス様についての多くの預言が記されています。例えば、イエス様がどこで、いつ生まれるのか、また、イエス様の死とよみがえりについて、旧約聖書の中で預言されているのです。

だから、私はこのバビロンとペルシアに関する預言を疑いません。

この44章で最も不思議な預言の一つは、クロス王がエルサレムの再建を命じるということです。

なぜそれが不思議なのでしょうか。それは、クロス王がまだ生まれていなかったからです。クロス王が生まれる前に、神様はすでにその名前を知っておられ、クロス王が何をするかをご存じでした。

おそらく、クロス王はその預言を目にしたのでしょう。そして、きっとクロス王はエレミヤの預言も読んだに違いありません。(歴代誌第二36:22-23)

おそらく、その預言によってクロス王は深く感動し、ユダの人々をエルサレムに帰還させる決断をしたのだと思います。

クロス王が学んだ教訓は、私たちにとっても非常に重要です。もちろん、神様は将来を完全に知っておられます。しかし、神様はそれだけではありません。

神様は、私たちが母の胎内にいる時から形造ってくださった方であり、私たちを深く愛し、私たちの名前をご存じです。そして、私たちが神様と協力するならば、神様は私たちのために素晴らしい計画をご用意してくださいます。

パウロはこう言いました。

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。

神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。(エペソ1:4-6)

エペソ1:3-14を読んでください。その言葉を深く心に留めましょう。神様があなたの将来だけでなく、あなたの名前も知っておられることを覚えておきましょう。そして、神様はあなたを深く愛しておられるのです。

それを知り、心に平安を持ちましょう。その希望によって、安心しましょう。