カテゴリー
マルコの福音書のデボーション

イエス様が生きておられるゆえに

青年は言った。「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。」(マルコの福音書16:6)

明日、母の葬式のためにハワイへ旅します。そして、葬式のあと、私たちは遺灰を地面に葬ります。

しかし本当のところ、母の本質は地面に葬られるのではありません。母の魂はイエス様と共にあるからです。やがて、その遺灰は地面からよみがえり、新しい体へと変えられ、母の魂と結び合わされるのです。

その体は朽ちず、死ぬことのないものとなります。

それが私の希望です。イエス様が生きておられるゆえに、母も生きるのです。(ヨハネ14:19)

そしていつか、私の体が死んでも、神の恵みによって、私も生きるのです。

Many still mourn
多くの人が今も嘆いており、
And many still weep
多くの人が今も涙を流しています。
For those that they love who have fallen asleep
眠りについた愛する人々を思って。

But we have this hope though our hearts may still ache
しかし、心がまだ痛んでいても、私たちには希望があります。
Just one shout from above
天からの大きな呼びかけによって、
and they all will awake
すべての眠る者たちは目を覚ますのです。

And in the reunion of joy we will see
喜びに満ちた再会のうちに、私たちは目にするのです。
Death will be swallowed in sweet victory.
死は、胸のすくような勝利に飲み込まれるのです。ーーボブ・ハートマン

カテゴリー
マルコの福音書のデボーション

私を救うために

同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを嘲って言った。「他人は救ったが、自分は救えない。」(マルコの福音書15:31)

祭司長や律法学者たちの言葉は、いつも私の心に響きます。彼らはその言葉でイエス様をあざけりましたが、その言葉は彼らの理解を超えて真実でした。

私たちを救うために、イエス様はご自身を救うことができませんでした。むしろ、私の罪を背負って、激しい苦しみのうちに死なれなければなりませんでした。神の御怒りのすべてが、イエス様に注がれたのです。

しかし、イエス様のおかげで、神様と私の間に立っていた幕が、上から下まで真っ二つに裂けました。

私たちを救うために、イエス様がご自身を救うことを選ばれなかったことに心から感謝しています。

カテゴリー
マルコの福音書のデボーション

イエス様が私たちに求められること

彼女は、自分にできることをしたのです。(マルコの福音書14:8)

今日、イエス様の言葉を思いめぐらしています。ラザロの妹であるマリアは、イエス様のためにほとんど何もすることができませんでした。

敵からイエス様を守ることもできず、最高法院の前で擁護することもできませんでした。

イエス様の処刑を阻止するために、彼女にできることは何もありませんでした。

でも、マリアは自分にできることをしました。

自分が何をしているのか完全には理解していなかったとしても、イエス様によれば、マリアはご自身の葬りの日のために、その香油を取っておいたのです。

彼女が理解していたのは、イエス様を愛していること、そして兄ラザロがよみがえったことで、自分の心が感謝に満ちていたことでした。(ヨハネの福音書11~12章)

だからこそ、マリアはイエス様のために、できることをしました。

イエス様が私たちに求められるのも、ただそれだけです。

私たちにできないことではなく、

周囲の人々が私たちに期待することでもなく、

むしろ、私たちの愛と感謝の心から、イエス様に仕えるためにできることを求めておられるのです。

だから、裁きの日に、イエス様が私についてこう言ってくださるように願います。

「ブルースは、自分にできることをしたのです。」

カテゴリー
マルコの福音書のデボーション

生きている者の神

死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の箇所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。

『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。

神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。(マルコの福音書12:26ー27)

3週間前、私の母はこの世を去りました。 おそらく、そのため、上の箇所は私の心に響きます。

「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。」

そして、いつかの日、天の父はイエス様のすべての敵をその足の下に置かれます。 その最後の敵は、死です。(第一コリント15:26ー27)

私は母に再び会います。

だからこそ、悲しみの中でも、喜びをもって、キリストの勝利の歌を歌っています。

死は勝利に吞み込まれた。
死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。
死よ、おまえのとげはどこにあるのか。(第一コリント15:54ー55)

カテゴリー
マルコの福音書のデボーション

手ぶらで去られる?

もしだれかが、『なぜそんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。。。』と言いなさい。(マルコの福音書11:3)

翌日、彼らがベタニアを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。 葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、その木に何かあるかどうか見に行かれたが、そこに来てみると、葉のほかには何も見つからなかった。

いちじくのなる季節ではなかったからである。(マルコの福音書11:12ー13)

今日まで、この二つの箇所の関係に気づいたことはありませんでした。

どちらの場合も、イエス様は何かを求めておられます。

しかし、前者の場合には、イエス様が求められるものを受け取られます。 後者の場合には、イエス様は何も受け取ることができません。

そして、私はこう考えていました。 「私から何か求められるとき、どれほどイエス様は手ぶらで去られるのでしょうか。」

イエス様、私から実を求められるとき、 あなたが決して手ぶらで去られないように。

カテゴリー
マルコの福音書のデボーション

初めの愛

けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。(ヨハネの黙示録2:4)

最近、私はこのことばを思い巡らしていました。

初めの愛の特徴とは何でしょうか。おそらく、その主な特徴は「喜び」ではないでしょうか。

では、何がその愛を芽生えさせるのでしょうか。それは、私たちに対する神の愛とあわれみです。(第一ヨハネ4:19)

今日の箇所に登場する金持ちは、そのような愛を持ったことがないように見えます。自分はすでに良い人間だと思っていて、あわれみを必要と感じることがなかったのでしょう。(マルコ10:19〜20)

だからこそ、イエス様が彼に、持ち物のすべてを売り払い、ご自身に従うよう招かれたとき、彼は喜ぶことなく、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去りました。(マルコ10:21〜22)

一方、弟子たちはイエス様を愛していましたが、その動機にはまだ混じりけがありました。彼らはいつもこう考えていました。

「もしイエス様に従うなら、どのような益を受け取ることができるだろうか。」(マルコ10:28、35〜37)

しかし、バルティマイがイエス様に従ったとき、彼の心は大きな喜びに満ちていました。(ルカ18:43)

なぜでしょうか。

それは、バルティマイがあわれみを求め、そして受け取ったからです。

それこそが、初めの愛です。

イエス様は私を見つめるたびに、いつくしみをもって、あわれんでくださいます。(マルコ10:21、47)

私は、そのことを決して忘れないように祈ります。 そして、その愛を、決して当たり前のものと思わないように祈ります。

あなたのためにも、私はそのように祈ります。

Because you first loved me,
あなたが私をまず愛してくださったから
Jesus, you will always be
イエス様、あなたはこれからもずっと
You will always be
これからもずっと
My first love.
私の初めの愛です ーー ボブ・ハートマン

カテゴリー
マルコの福音書のデボーション

自給自足?神様に頼る?

イエスが家に入られると、弟子たちがそっと尋ねた。「私たちが霊を追い出せなかったのは、なぜですか。」

すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。」(マルコの福音書9:28-29)

今日、弟子たちとその失敗について思いを巡らせていました。彼らは男の子から悪霊を追い出そうとしましたが、できませんでした。

どうしてでしょうか。彼らは自分自身の権威と力に頼っていたように見えます。「祈ろう」という発想はまったくありませんでした。

その場面を読んで、私はこう思いました。「私は、弟子たちのようにどれほど振る舞っているだろうか。神様とその力に頼ることなく、どれほど自分に頼っているだろうか。」

私の最初の本能は祈ることだろうか。自分の力を超える問題に直面するときだけでなく、どんな状況であっても、それが私の第一の反応だろうか。

天のお父さん、私が決して自分の力で生きようとせず、いつもあなたに頼って生きる者となれますように。

カテゴリー
マルコの福音書のデボーション

天のお父さん、私は何を堅く守っているでしょうか。

パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わずに食事をすることはなく。。。

あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです。(マルコの福音書7:3、8)

「堅く守っている」という言葉が、今日、私の心に深く残りました。

パリサイ人やユダヤ人たちは、自分たちの言い伝えを堅く守ることで、神様のことばを軽んじ、結果として神様ご自身をも軽んじてしまいました。口先では神様を敬いながらも、その心は神様から遠く離れていたのです。

現代にも、同じような問題が存在しています。人々は「クリスチャン」だと自称しながら、神のみことばを堅く守ることができず、代わりに現代の価値観を堅く保っているのです。

その結果、彼らもパリサイ人のように、口先では神様を敬っていても、心は神様から遠く離れてしまいます。

しかし、今日、私自身のことを思い巡らしました。

私は何を保とうとしているのだろうか。 イエス様とそのみことばに、私は本当にしがみついているのだろうか。

それとも、他のものにしがみついているのだろうか。 経済的な安定?自分のプライド? あるいは、悪い態度や罪そのもの?

イエス様、どうか私の心のすべてをあなたに捧げることができるよう助けてください。 私が、あなただけにしがみついて歩むことができますように。

カテゴリー
マルコの福音書のデボーション

しばらく休みなさい

するとイエスは彼らに言われた。「さあ、あなたがただけで、寂しいところへ行って、しばらく休みなさい。」

イエスは、弟子たちが向かい風のために漕ぎあぐねているのを見て、夜明けが近づいたころ、湖の上を歩いて彼らのところへ行かれた。(マルコ6:31,48)

今日、イエス様がどれほど良い羊飼いでおられるかを思い巡らしていました。

イエス様は、いつも「仕え、仕え、仕え」と私たちに迫る方ではありません。イエス様は、私たちが御国のために何をしているかだけに関心を持っておられるわけではないのです。

イエス様は、私たちを心から愛しておられます。

だからこそ、イエス様はときにこう言われます。「少し仕えることを休みなさい。わたしと一緒に時間を過ごしましょう。」

それだけではありません。

私たちが「漕ぎあぐねている」とき、風が私たちに逆らっているとき、イエス様は私たちの苦しみに無関心でおられるのではなく、私たちのもとに来て、助けてくださるのです。

51~52節が、私の心をとらえました。

弟子たちは心の中で非常に驚いた。彼らはパンのことを理解せず、その心が頑なになっていたからである。(51-52)

もちろん、弟子たちは、とりわけイエス様の力に驚いていました。しかし、「パンのこと」は、単なるイエス様の力に関する教訓ではありません。

それは、良い羊飼いのように、イエス様が私たちを愛しておられるということなのです。

今日の箇所を読んで、最も印象深かったのはこの真理でした。

私の羊飼いは、私を本当に愛しておられます。

カテゴリー
マルコの福音書のデボーション

聞きなさい!考えなさい!

よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。(マルコの福音書4:3)

上の箇所では、ある言葉は全く翻訳されていません。一方、別の箇所では、その言葉が「見よ」や「見なさい」と訳されています(例:マタイ1:20、ルカ1:31)。

その言葉は感嘆詞であり、「次の言葉は重要なので注意して聞きなさい」という意味を含んでいます。

つまり、イエス様が語られたのは、「よく聞きなさい。考えなさい。種を蒔く人について。」ということなのです。

結局のところ、この最初のたとえ話の要点は、「聞きなさい」「考えなさい」という二つの言葉にあります。

イエス様のみことばを聞きなさい。一つの耳から入って別の耳から出てしまうことのないように。

しかし、それだけではなく、みことばを深く考えなさい。真剣に思い巡らしなさい。みことばが心の奥深くに根づくように。そうすれば、困難が訪れるとき、自分の信仰は萎えることなく、力強く保たれます。

最後に、みことばが自分の生き方を形づけるように。みことばがこの世のものによって塞がれることなく、豊かに実を結ぶように努めましょう。

私の教会では、この合言葉を大切にしています。「ヘッド・ハート・ハンド。」

神様のみことばは、あなたの頭と心と手に働いているでしょうか。

カテゴリー
マルコの福音書のデボーション

天のお父さん、私は脆い存在なのでしょうか

まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになります。

新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるものです。(マルコの福音書2:22ー23)

天のお父さん、もしかして私は、古い皮袋のように脆い存在なのでしょうか。私があまりにも脆くて、もしあなたが人々に触れるために、御霊というぶどう酒を注がれると、私は裂けてしまうのでしょうか。

つまり、苦しんでいる人々への、あなたのあわれみと思いやりを欠いていることで、私は脆いのでしょうか。(5、17節)

また、周囲の人々をいつもさばいてしまうことで、私は脆いのでしょうか。(15ー16節)

あるいは、私の霊的な成熟度を他の人と比べることで、私は脆いのでしょうか。(18節)

天のお父さん、どうか、あなたが自由にぶどう酒を注ぐことのできる、新しい皮袋へと私を変えてください。あなたの注がれるぶどう酒が、無駄になることのないように。

カテゴリー
マルコの福音書のデボーション

どんな形でも、あなたとかかわっていたいです!

ナザレの人イエスよ、私たちと何の関係があるのですか。(マルコの福音書1:24)

今日、イエス様に対する悪霊の言葉を思い巡らしていました。悪霊は基本的に、「あなたとは関わりたくないです。あなたを信頼できないし、まったく愛していないのです」と言いました。

イエス様はユダヤ人にも私たちにもそのような態度こそを悔い改めるように促しておられました。

「天のお父さんはあなたを愛しておられる。あなたの最善を望んでおられ、ご自身の愛する子として御国に招いてくださるのです。だから、神様に向けなさい。天のお父さんを信頼しなさい。」

私はイエス様を信じているのです。

だから私は、心から叫びます。

「どんな形でも、あなたとかかわっていたいです!」

カテゴリー
マルコの福音書のデボーション

あなたをまだ信じているよ

さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。「イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできますと。」(マルコの福音書16:7)

天使のことばを読んだとき、ある表現が私の目に留まりました。それは、かなり普通で、読み流してしまいそうなことばですが、今日、私の心に深く響きました。

そのことばは——

「…とペテロ…」

天使は、ただ「弟子たちに伝えなさい」と言ったのではなく、「弟子たちとペテロに伝えなさい」と言ったのです。

私は確かなことは分かりませんが、きっとイエス様はその天使に特別に命じられたのでしょう。

「そのメッセージを伝えるとき、必ずペテロの名前を挙げなさい。彼は、私を知らないと言ってしまって以来、自分を責め続けている。でも、私は彼をまだ信じていると伝えなさい。」

もしかすると、そのことばを聞いても、ペテロはなお罪悪感を抱いていたかもしれません。

だからこそ、イエス様はペテロに直接現れて語られ(ルカ24:34;第一コリント15:5)、その後、もう一度ペテロと向き合い、励ましてくださいました(ヨハネ21章)。

ペテロに対するイエス様の反応を思うと、私は深く励まされます。私がどんなに失敗しても、イエス様は私の名前を呼び、「あなたをまだ信じているよ」と言ってくださるのです。

カテゴリー
マルコの福音書のデボーション

名ばかりの王?

そして、イエスに紫の衣を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、それから、「ユダヤ人の王様、万歳」と叫んで敬礼し始めた。

また、葦の棒でイエスの頭をたたき、唾をかけ、ひざまずいて拝んだ。(マルコの福音書15:17~19)

主よ、兵士たちはあなたを「王」と呼びました。ピラトもあなたを「ユダヤ人の王」と宣言しました。でも、それらは空虚な言葉にすぎませんでした。

彼らはあなたを打ち、十字架につけました。

私があなたを名ばかりの王として扱ってしまうことがあるでしょうか。

私の賛美の歌の中で、あなたを王と呼ぶことがどれほどあるでしょうか。

そのことばが、決して空虚なものにならないように。

あなたは名ばかりの王ではありません。

あなたは王の王です。あなたは、私の誉れと服従にふさわしい方です。

カテゴリー
マルコの福音書のデボーション

イエス様を大切にする。イエス様に大切にされる。

この箇所を読んで、私はラザロとマルタの妹、マリアの姿に驚かされました。(ヨハネ12:1-8)

彼女は、高価なナルド油をイエス様の頭に注ぐほど、イエス様を大切にしました。そのことを思いながら、私は自分自身に問いかけます。

「私はイエス様をどれほど大切にしているだろうか。」

私はマリアのようでしょうか。

もしかしたら、私はユダのようでしょうか。イエス様への愛を口では語っていても、行動によってイエス様を裏切っているかもしれません。

もしかしたら、私はペテロのようでしょうか。イエス様への愛を語っていても、祈らずに眠ってしまうかもしれません。

でも、この箇所で、もう一つ見逃してはならないことがあります。

私たちが弱くても、イエス様は私たちを大切にしてくださいます。

イエス様は、ご自身の試練が迫っていたことを知っておられました。弟子たちが逃げることも、ペテロがイエス様を知らないと言うことも、すべてご存じでした。

それでも、最後の晩餐で神様をほめたたえ、パンを裂いて、「取りなさい。これはわたしのからだです」と言われました。

また、イエス様は杯を取り、感謝の祈りをささげた後、弟子たちに与えて、「これは、多くの人のために流される、わたしの契約の血です」と言われました。(マルコの福音書14:22~24)

イエス様は、それほどまでに私たちを愛してくださいました。私たちが弱く、壊れやすい存在であるにもかかわらず、イエス様はご自身のいのちを十字架でささげてくださいました。

それは、簡単な決断ではありませんでした。イエス様は、あっさりとご自身のいのちをささげたわけではありません。

イエス様は苦しみながら、天の父に祈られました。「どうか、この杯をわたしから取り去ってください。十字架に行きたくないのです。」

それでも最終的に、イエス様は十字架に向かい、私たちのために死んでくださいました。

なぜでしょうか。それほどまでに、イエス様は私たちを大切にしてくださったからです。

だからこそ、私たちも毎日、マリアのようにイエス様を大切にしましょう。

そして同時に、イエス様がどれほど私たちを愛してくださるのかを、心に留めておきましょう。

ヨハネはこう書きました。

私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。(第一ヨハネ4:19)

カテゴリー
マルコの福音書のデボーション

神様から与えられた仕事に忠実であること

気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたは知らないからです。

それはちょうど、旅に出る人のようです。家を離れるとき、しもべたちそれぞれに、仕事を割り当てて、責任(別訳:権限)を持たせ、門番には目を覚ましているように命じます。

ですから、目を覚ましていなさい。家の主人がいつ帰って来るのか。。。分からないからです。(マルコの福音書13:33ー35)

主人は「しもべたちそれぞれに、仕事を割り当てて、権限を持たせました。」

そのことばが、私の目に留まりました。

イエス様は、いつかこの世に帰って来られます。でもその間、イエス様は私たち一人ひとりに仕事を割り当ててくださり、その仕事を果たすための権限も与えてくださいました。

私たちは、神様から与えられた仕事を果たすのに、他人の許可を求める必要はありません。ただ、その仕事に忠実であるべきです。

最近、私は自分自身のことを考えています。できる限り、神様から与えられた仕事を果たそうとしています。でも、自信がなくて、失敗を恐れて、ためらうことがあります。

その恐れを乗り越えなくてはなりません。その点で、私は成長しようとしています。恐れずに、大胆に、神様から委ねられた仕事を果たしたいのです。

あなたはどうでしょうか。神様は、あなたにどんな仕事を割り当てられたでしょうか。神様があなたに触れさせるために与えた人は、誰でしょうか。あなたは忠実に、神様に仕えているでしょうか。

イエス様、あなたが帰って来られる日を待ち望みながら、私があなたから与えられた仕事に忠実であるように。

カテゴリー
マルコの福音書のデボーション

私は神様のものを返しているでしょうか

するとイエスは言われた。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」(マルコの福音書12:17)

(律法学者は)イエスに尋ねた。「すべての中で、どれが第一の戒めですか。」

イエスは答えられた。。。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(28~30節)

イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。

皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」(43~44節)

天のお父さん、私は正当にあなたのものを返しているでしょうか。私のすべては、あなたのものでしょうか。私は本当に、心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたを愛しているのでしょうか。

私はもはや、自分自身のものではありません。私は、代価を払って買い取られた者です。イエス様の血によって、私は買い取られました。

ですから、やもめのように、毎日、自分のからだ、持ち物、私のすべてをもって、あなたの栄光を現す者となります。(第一コリント6:19~20)

もし、私があなたに捧げていないものがあるなら、それを明らかにしてください。

あなたは、私のすべてを受けるにふさわしい方だからです。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

カテゴリー
マルコの福音書のデボーション

塩気を失う?

今日の箇所を読んで、さまざまなことを考えさせられました。でも、イエス様の最後のことばには、特に心を打たれました。

塩は良いものです。しかし、塩に塩気がなくなったら、あなたがたは何によってそれに味をつけるでしょうか。

あなたがたは自分自身のうちに塩気を保ち、互いに平和に過ごしなさい。(マルコの福音書9:50)

イエス様は、私たちを地の塩と呼ばれました(マタイ5:13)。

私たちは、神の愛と恵みによって、この世に味をつけるべきです。

けれども、神の民が互いに愛し合うことができなければ、教会は塩気を失ってしまいます。

プライド、苦々しい思い、人を許せない心、自分勝手な態度によって、私たちは塩気を失うことがあります。

今日の箇所、そして関連箇所であるマタイ18章では、弟子たちがそのような問題を抱えていたことが明らかです。

しかし、正直に言うと、私自身もそのような問題を抱えています。

特に、自分勝手な態度とプライドは大きな問題です。昨日を振り返ると、そうした問題がまた現れました。だから、私は悔い改める必要がありました。

あなたはどうですか。人間関係の問題を抱えているでしょうか。特に、兄弟姉妹との関係に問題を抱えているでしょうか。

その関係の中で、あなたは塩気を失いかけているでしょうか。

イエス様はこう言われました。

互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネ13:34ー35)

イエス様の戒めを心に留め、互いに愛し合いましょう。そうすれば、神の教会は塩気を失うことなく、神の恵みと愛によって、この世界、そして日本に味をつけていくのです。

カテゴリー
マルコの福音書のデボーション

主よ、ため息をつかれることはありますか

すると、パリサイ人たちがやって来てイエスと議論を始めた。彼らは天からのしるしを求め、イエスを試みようとしたのである。

イエスは、心の中で深くため息をついて、こう言われた。「この時代はなぜ、しるしを求めるのか。」(マルコの福音書8:11ー12)

イエスはそれに気がついて(弟子たちに)言われた。

「なぜ、パンを持っていないことについて議論しているのですか。まだ分からないのですか、悟らないのですか。心を頑なにしているのですか。

目があっても見ないのですか。耳があっても聞かないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。。。

まだ悟らないのですか。」(17ー18,21節)

イエス様、私たちの頑固さ、私の不信仰に、あなたはどれほど深くため息をつかれるのでしょうか。私が頑なな心を持ち、目が見えず、耳が聞こえず、何も悟れないとき、あなたはどれほど深くため息をつかれるのでしょうか。

それでも、あなたは私を諦めることはありません。

目の見えない人が見えるようになるまで、あなたがその目に触れ続けてくださったように、私が見えるようになるまで、私の目にも触れ続けてくださいます。

そして、私が聞こえるようになるまで、私の耳に触れ続けてくださり、心が和らぎ、悟るようになるまで、私の心にも触れ続けてくださいます。

あなたの素晴らしい恵みに感謝します。

カテゴリー
マルコの福音書のデボーション

神の支配を拒むとき

「この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。」

あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです。(マルコの福音書7:6ー8)

この箇所を読むたびに、イエス様のことばに心を打たれます。

今日、私が考えているのは、私たちクリスチャンは何を堅く守っているのか、ということです。

イエス様は、私たちにこう言われるでしょうか。私にこう言われるでしょうか。

「あなたがたは神の戒めを捨てて、社会の価値観や考え方を堅く守っているのです。」

「あなたがたは神の戒めを捨てて、自分の意見に固執しているのです。」

「あなたがたは神の戒めを捨てて、自分の心に従っているのです。」

「あなたがたは神の戒めを捨てて、自分の罪や言い訳にしがみついているのです。」

神様の支配を拒むなら、私たちの礼拝はむなしいものとなります。

神様の支配を拒むなら、私たちは口先で神様を敬うかもしれませんが、心は神様から遠く離れています。

天のお父さん、毎日、そして一瞬一瞬、私の心があなたのものとなりますように。どうか私の心を支配してください。私の思いの王、選びの王、行動の王、そして心の王となってください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

カテゴリー
マルコの福音書のデボーション

イエス様がこの世に来られた理由

その悪魔のわざを打ち破るために、神の御子が現れました。(第一ヨハネ3:8)

マルコ5章を読んだとき、ヨハネのことばが心に浮かびました。

エデンでサタンがアダムとエバを欺き、彼らは罪に落ちました。サタンのわざによって、あらゆる災いがこの世に入りました。今もなお、サタンは積極的に人々を滅ぼそうとしています。

けれども、イエス様はサタンのわざを打ち破るために、この世に来られました。

マルコ5章では、イエス様がサタンのわざを打ち破っておられることが示されています。イエス様は、悪霊に取りつかれた人を自由にし、12年間も出血が止まらなかった女性を癒し、死んだ少女を生き返らせました。

イエス様は今も同じように働いておられます。イエス様は、サタンに虐げられている人々を自由にし、肉体的・精神的・霊的な癒しをもたらし、霊的に死んだ人々を新しく生かしてくださいます。

そして、やがて来る日には、イエス様は死そのものを打ち破ってくださいます。

しかし、私はその真実をただ喜ぶだけではありません。イエス様の弟子として、私はイエス様の働きに加わりたいのです。私の周りの人々に、神様の愛で触れたいのです。神様がしておられることに、私自身も加わりたいのです。あなたはどうですか。

イエス様、あなたの働きにどのように加わることができるかを教えてください。私の周りにあるサタンのわざを打ち破るために、どうか私を用いてください。

カテゴリー
マルコの福音書のデボーション

神様の言葉を理解する鍵

多くのクリスチャンは、「聖書をもっと理解できたらいいのに」と言います。(あなたも、そう思ったことがあるかもしれません。)

今日の箇所で、イエス様は、私たちが聖書をより深く理解するための道を教えてくださいます。

第一の鍵は、自分の心を神様のみ言葉に開くことです。イエス様は、私たちが理解できる範囲で、みことばを教えてくださいます。(33節。ギリシャ語では、「聞く」という言葉に「理解する」という意味も含まれています。)

しかし、イエス様は二度、同じことを繰り返されます。「聞く耳のある者は、聞きなさい」(マルコの福音書4:9、23)

多くの人々の問題は、理解できるみ言葉を歓迎しないことです。

むしろ、彼らは神様と議論しようとしたり、神様のみ言葉を無視したりします。

だからこそ、イエス様はこう言われるのです。

聞いていることに注意しなさい。あなたがたは、自分が量るその秤で自分にも量り与えられ、その上に増し加えられます。

持っている人はさらに与えられ、持っていない人は、持っているものまで取り上げられてしまうからです。(マルコの福音書4:24-25)

聖書を理解する鍵は、ただ知らないことをたくさん学ぶことではありません。理解の鍵は、すでに把握しているみ言葉を実践することです。

もう一度言います。多くのクリスチャンの問題は、聖書についての知識が少ないことではありません。問題は、すでに把握しているみ言葉を実践しないことです。さらに、み言葉に逆らってしまうこともあります。

もし、あなたがすでに把握していることを実践するなら、神様はあなたの聖書理解をさらに深めてくださいます。

しかし、そうしないなら、あなたはイエス様が批判された人々のようになってしまいます。つまり、見るには見るが、知ることはなく、聞くには聞くが悟ることはない者となるのです。(12)

あなたは聖書をもっと理解したいと願っていますか。すでに把握しているみ言葉を、どれだけ実践しているでしょうか。

カテゴリー
マルコの福音書のデボーション

頑なな心

イエスは怒って彼らを見回し、その心の頑なさを嘆き悲しみ。。。(マルコの福音書3:5)

その言葉は、私の心を深く打ちました。私はこう考えました。

イエス様は、私の心の頑なさを、どれほど頻繁に嘆き悲しんでおられるのでしょうか。

私が頑固で、自分の過ちを認めようとしないとき、イエス様はどれほど頻繁に嘆き悲しんでおられるのでしょうか。

イエス様が、私の周りの人々をどれほど愛しておられるかを忘れてしまうとき、イエス様はどれほど頻繁に嘆き悲しんでおられるのでしょうか。

神様がその人々に触れようとしておられることに気づかないほど、私の心が固くなっているとき、イエス様はどれほど頻繁に嘆き悲しんでおられるのでしょうか。

What can be done for an old heart like mine?
私のような古い心には、何ができるでしょうか。

Soften it up with oil and wine
主よ、油とぶどう酒で、私の心を柔らかくしてください。

The oil is You, Your Spirit of love
その油は、あなたご自身。あなたの愛の御霊です。

Please wash me anew in the wine of Your blood”
どうか、あなたの血であるぶどう酒によって、私を洗い、新しくしてください。

カテゴリー
マルコの福音書のデボーション

私たちの罪と恥を取り去る方

イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。(マルコの福音書2:5)

人々はその中風の人に、何度こう言ったでしょうか。「神様はあなたを罰しているのではないか。あなたの苦しみは、あなた自身のせいだ。」

その時代、多くの人々がそのように考えていました。(ヨハネ9:1ー2;ルカ13:1ー4)

何年もの間、彼は罪と恥の重荷を負っていたのではないでしょうか。自分の不自由な体を見るたびに、彼は何度、自分の罪を思い出し、自分を責めたことでしょう。

彼の健康問題が本当に罪と結びついていたかどうかは分かりません。でも、彼の罪と、その罪から生まれた恥は、確かに彼の現実でした。

そんなある日、彼はイエス様のことを耳にしました。イエス様の教えを聞きました。そして、彼とその友人たちの心に、信仰が芽生えました。

おそらく、中風の人は、イエス様が自分を癒すことができると信じただけではなかったでしょう。彼は、イエス様の語られるすべてのメッセージを信じたのだと思います。

時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。(マルコ1:15)

イエス様はその信仰をご覧になったとき、中風の人にこう言われました。「子よ、あなたの罪は赦された。」

その瞬間、彼の罪と恥は取り去られました。

あなたはどうでしょうか。今、自分の罪と恥の重荷を背負っているでしょうか。

イエス様は、私たちの罪と恥を取り去ってくださる方です。

悔い改めと信仰をもってイエス様のもとに行くなら、イエス様は私たちにもこう言われます。「子よ、あなたの罪は赦された。」

カテゴリー
マルコの福音書のデボーション

目を覚まし、祈る

ですから、目を覚ましていなさい。家の主人がいつ帰って来るのか、夕方なのか、夜中なのか、鶏の鳴くころなのか、明け方なのか、分からないからです。

主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見ることがないようにしなさい。

わたしがあなたがたに言っていることは、すべての人に言っているのです。目を覚ましていなさい。」(マルコ13:35ー37)

彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい。」。。。イエスは戻り、彼らが眠っているのを見(ました。)(マルコ14:34、37)

興味深いことは、ゲツセマネで弟子たちが、イエス様がさっき語られた例え話を演じたということです。例え話を語られたとき、またゲツセマネに着かれたとき、イエス様は同じことを言われました。「目を覚ましていなさい。」

ところが、弟子たちの主が戻られると、彼らは眠っていました。なぜでしょうか。ルカは説明します。「彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。」(ルカ22:45)

その前、イエス様はご自身がすぐに去っていかれると言われました(ヨハネ16:5〜6)。

イエス様は、弟子の一人がご自身を裏切ると言われました(マルコ14:18)。

イエス様は、弟子たち全員がご自身を見捨てると言われました(マルコ14:27)。

イエス様の言葉を聞いて、弟子たちは本当に悲しんでいました。

けれども、その悲しみのゆえに、彼らは目を覚まして祈ることができませんでした。そのため、試練が訪れたとき、彼らは大きく失敗しました。(50)

時に、私たちは重荷のゆえにこう言います。「もう祈れない。もう疲れた。あまりにも弱く感じる。」

しかし、まさにその時こそ、私たちは目を覚まし、祈らなければなりません。

イエス様も疲れていました。特に、精神的に疲れ果てていました。それでも、ゲツセマネで、イエス様は目を覚まし、祈られました。そのため、試練が訪れたとき、イエス様は立つことができました。

あなたは疲れていますか。精神的に疲れ果てていませんか。今こそ、目を覚まし、神様に祈る必要があります。

カテゴリー
マルコの福音書のデボーション

目を覚まして、主を待ち望む

同じように、これらのことが起こるのを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていることを知りなさい。。。

気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたは知らないからです。(マルコの福音書13:29、33)

イエス様がいつ再びこの世に来られるかは、誰にも分かりません。 しかし、イエス様がとても苦しい時にこの世に来られることは確かです。(マルコ13:22〜27)

私たちが気をつけなければならないのは、苦しみの中で、自分の問題に心を奪われやすいということです。 そのような時、私たちは自己中心になり、イエス様を待ち望むことを忘れてしまいがちです。

けれども、イエス様を待ち望むとは、ただ空を見上げてイエス様を探すことではありません。

本当にイエス様を待ち望んでいるなら、イエス様から託された仕事を、日々誠実に果たしているはずです。(ルカ12:42〜43)

その主な仕事の一つは、神様が私たちに与えてくださった人々に、神の愛をもって触れることです。

一日の終わりに、私たちは「今日、そうしていた」と言えるでしょうか。 それとも、振り返ってみると、一日中ただ自分のことばかり考えていたと気づくでしょうか。

私たちの日々を無駄にしないように。むしろ、毎日、主を待ち望みながら歩みましょう。

カテゴリー
マルコの福音書のデボーション

イエス様を微笑ませる

マルコは言わなかったけど、今日の箇所では、たぶん二人の人たちはイエス様を微笑ませたでしょう。

ちょっと驚くべきことですが、一人は律法学者でした。なぜそれは驚くべきでしょうか。なぜなら、多くの律法学者たちは、イエス様に敵対していたからです。

もう一人は、貧しいやもめでした。

どうして、私は、その二人がイエス様を微笑ませたと思うのでしょうか。

その二人には共通点がありました。それは、彼らが、神様が人々にルールを守らせることよりも、人々の心に関心を持っておられると理解したということです。

律法学者が理解したのは、神様がユダヤ人たちに全焼のささげ物やいけにえを捧げるように命じられたけれど、それらよりも、神様が人々に心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛することを望んでおられるということです。

さらに、神様は、人々が神様が大切にされる人々(つまり、すべての人々)を大切にすることを望んでおられます。

やもめが理解したのは、自分の捧げ物が小さいけれど、その捧げ物の大きさよりも、神様が神様への彼女の愛と信頼に関心を持っておられるということです。

その日、たぶん、多くの人々は神様の律法に従い、十一献金を捧げました。彼らはそのやもめよりもたくさんのお金を捧げたでしょう。

でも、そのやもめの心は神様のものでした。イエス様はそれを見抜かれました。

私たち皆が、イエス様を微笑ませる者となりますように。

カテゴリー
マルコの福音書のデボーション

私たちの力の源

イエスが家に入られると、弟子たちがそっと尋ねた。「私たちが霊を追い出せなかったのは、なぜですか。」

すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。」(マルコの福音書9:28-29)

イエス様の弟子たちはとても恥ずかしかったのです。彼らは何回も悪霊を追い出したことがありました。でも、今回はその悪霊を追い出せませんでした。なぜでしょうか。

たぶん、彼らは悪霊を追い出す力が自分から来たと思い始めたからです。彼らはそう言わなかったかもしれませんが、彼らの態度や行動はその考え方を現していました。

つまり、悪霊がその人から去ることを拒んだとき、弟子たちは神様のみ前に来て願わずに、ただフラストレーションを感じただけでした。

多くの場合、私たちがクリスチャンの奉仕をすればするほど、私たちの自信はつきます。「私はこれができる!」と思い始めます。

でも、私たちは何を信じているでしょうか。

私たちは自分と自分の賜物を信じているのでしょうか。

もしかすると、神様を信じているのでしょうか。

私たちがただ自分と自分の賜物に頼るなら、その奉仕はしばらくうまく行くかもしれません。

でも、最終的に、イエス様の弟子たちのように、私たちは失敗してしまって、フラストレーションを感じてしまいます。

だから、私たちの力がどこから来るか覚えていましょう。イエス様は私たちに言われます。「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(ヨハネ15:4ー5)

カテゴリー
マルコの福音書のデボーション

恥じているのですか

だれでも、このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るとき、その人を恥じます。(マルコの福音書8:38)

今まで気づいていなかったけど、イエス様の言葉には、皮肉があります。

イエス様はこの世の民を「姦淫と罪の時代」と呼ばれます。

彼らはイエス様の言葉を聞いて、恥を感じるはずでしょう。でも、実は、多くの人々は自分の罪を誇ります。さらに、彼らは罪を行う人たちを応援します。(ローマ1:21ー32)

それだけではなく、彼らはキリストの言葉に従う人たちに恥をかかせようとします。

でも、イエス様は私たちにこう言われます。

だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。(34節)

たぶん、十字架は、最も苦しくて恥ずべき死に方だったでしょう。人々は裸で十字架にかけられました。イエス様が十字架にかけられたとき、周りの人々はイエス様をあざ笑いました。

イエス様の弟子とは、自分の十字架を負い、イエス様の恥と苦しみを受けることを意味します。

ある人々は私たちを憎みます。

私たちをあざ笑う人もいます。

でも、イエス様が教えられたのは、私たちの恥の中に、私たちが祝福を得るということです。(マタイ5:10ー12)

さらに、私たちの大胆さによって、今、私たちをあざ笑っている人たちは、いつか救われるかもしれません。

だから、パウロと一緒に言いましょう。

私は福音を恥としません。福音は。。。信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。(ローマ1:16)

カテゴリー
マルコの福音書のデボーション

神様の戒めを捨てる

「この民は口先でわたしを敬うが、 その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。 人間の命令を、教えとして教えるのだから。」

あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです。。。

あなたがたは、自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをないがしろにしています。(マルコの福音書7:6ー9)

今日の箇所を読んで、私は現代の文化を考えました。特に、その文化に入っている自称するクリスチャンたちを考えました。

自分がクリスチャンと主張する人たちの多くは、口先で神様を敬って、神様を愛し、神様に従うと主張しますが、道徳に関して、神様の戒めを捨ててしまいました。

教会では、そのような人たちがますます増えています。彼らは見事に神様の戒めをないがしろにして、自分の道徳観念を確立し、この世の教えを真理として教えています。

特に、性的な道徳やジェンダーに関してそうしている自称するクリスチャンたちは、ますます増えています。彼らは神様の戒めを捨て、この世の考えを抱いています。

おまけに、彼らは神様の教えをこの世の教えに合わせるため、神様のみ言葉を曲げてしまいます。

でも、イエス様はそのような人々に関してご自身の意見をはっきりと教えられました。

あなたが神様を愛し、神様に従うと主張しながら、同時に神様の戒めを捨て、この世の教えに従うことはできません。

あなたはどうですか。あなたは口先で神様を敬いながら、神様の命令を捨てているでしょうか。

もしくは、あなたの心は本当に神様のものでしょうか。

カテゴリー
マルコの福音書のデボーション

苦しむ人々で満ちた世界

今日の箇所を読んで、この世の中で苦しんでいる人々のことを考えました。

死がこの世に入って来て、愛している人々に触れたために苦しんでいる人々がいます。(マルコの福音書5:22ー23、35節)

ある人々は、何をしても自分の問題が悪化しているので、苦しんでいます。(25ー26節)

ある人々は心の中で、昼も夜も叫び続けます。(5節)

イエス様はそのような人々を憐れんでくださいました。イエス様は彼らに触れて、癒してくださいました。

今、イエス様は私たちが同じことをするように召しておられます。この壊れた世界には、私たちはイエス様の目、耳、口、手と足です。

主よ。私の目を開いてください。私の周りの苦しんでいる人々を見ることができるように助けてください。どうか私を用いてください。私があなたの愛で彼らに触れ、あなたからの癒しを与えることができるように助けてください。

カテゴリー
マルコの福音書のデボーション

どうして怖がるのですか

どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。(マルコの福音書4:40)

今日、イエス様の言葉は私の心を打ちました。

どれだけ、私たちは恐れや心配を持って、自分の問題を見てしまうでしょうか。

どれだけ、イエス様が私たちにこう訊かれるでしょうか。「どうして怖がるのですか。どうして心配するのですか。まだ私に信頼していないのですか。私があなたを愛し、あなたの益のためにすべてのことを働かせていることを、あなたはまだ信じていないのですか?」

私たちが自分の問題に集中せずに、イエス様を見て、「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどなたなのだろうか。もしイエス様がそんなに力強い方で、私をそんなに愛しておられるなら、どうして私はこんなに心配しているのだろうか」と言ったら、どれだけ、私たちのストレスは解消されるでしょうか。

主よ、私の信仰を増やしてください。あなたに信頼することを教えてください。

カテゴリー
マルコの福音書のデボーション

イエス様と共に歩み、戦うために選ばれた

イエスは十二人を任命し、彼らを使徒と呼ばれた。それは、彼らをご自分のそばに置くため、また彼らを遣わして宣教をさせ、彼らに悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。(マルコの福音書3:14-15)

クリスチャンの生活を送るとはどういうことでしょうか。

その答えは14-15節にあります。

私たちはイエス様のそばにいるために選ばれました。それは、朝にイエス様と時間を過ごし、聖書を読み、祈ることだけではありません。(もちろん、それも大切ですけど。)

多くのクリスチャンたちはイエス様と時間を過ごしますが、そのあと、自分のために生きます。それはクリスチャンの生活ではありません。

イエス様のそばにいるとは、毎日、毎秒、イエス様と歩むことです。私たちは一日中、イエス様の声に聴き、イエス様の導きを求めることです。(ヨハネ15:4-5)

でも、イエス様のそばにいるためだけではなく、私たちは霊的な戦いに参加するために選ばれました。(エペソ6:11-12;第二コリント10:3-5)

私たちは悪霊を人から追い出さないかもしれませんが、私たちはサタンとその国と戦うために選ばれました。つまり、私たちは福音を周りの人々に伝えるために選ばれたのです。福音によって、地獄の門は倒され、人々はサタンの国から自由にされます。

それがクリスチャンの生活です。イエス様のそばにいて、人を福音で触れることです。

そうすれば、イエス様は微笑み、私たちを見て、こう言われます。

わたしの母、わたしの兄弟とはだれでしょうか」と言われた。。。

ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟です。だれでも神のみこころを行う人、その人がわたしの兄弟、姉妹、母なのです。(マルコ3:33-35)

カテゴリー
マルコの福音書のデボーション

神様は私たちを愛しておられるから

そのころ、イエスはガリラヤのナザレからやって来て、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられた。

イエスは、水の中から上がるとすぐに、天が裂けて御霊が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になった。

すると天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」

それからすぐに、御霊はイエスを荒野に追いやられた。

イエスは四十日間荒野にいて、サタンの試みを受けられた。イエスは野の獣とともにおられ、御使いたちが仕えていた。(マルコの福音書1:9-13)

いつも私を驚かせるのは、この個所では、神様がイエス様に「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」と言われた直後、聖霊様はイエス様を荒野に追いやられたということです。

時々、私たちはこう思います。「神様は私を愛しているのに、時々私が砂漠を体験することを許される。」

でも、今日、私にこの考えが思い浮かびました。「神様は私を愛しているので、時々、私を砂漠に追いやられます。」

でも、どうして神様はそうされるのでしょうか。

その答えは、へブル12:6-7に書いてあります。

「主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」

訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。(へブル12:6-7)

イエス様は罪を犯されたことがなかったのに、神様の訓練を受けられました。

今日の個所では、私たちはその一つの例を見ます。でも、どうして罪のないイエス様が訓練を受けなくてはならなかったのでしょうか。

その答えも、へブル書に記されています。

キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり(ました)。(へブル5:8-9)

人間として、イエス様も従順を学ばなくてはなりませんでした。でも、従順は、良い時ではなく、辛い時に試されます。すべてがうまく行くとき、神様に従うのは簡単なことです。でも、砂漠を渡るとき、従順は難しいのです。

砂漠におられるとき、イエス様は従順を学ばれました。その従順は、ゲツセマネでも試されました。(マルコ14:36-40)

でも今、イエス様が従順を学ばれたので、へブル人への手紙の著者はこう言います。

イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。(へブル2:18)

だから、あなたが砂漠を渡っているなら、絶望しないでください。神様があなたを砂漠に追いやられた理由は、あなたを憎んでおられるからではありません。神様はあなたを愛しておられるので、あなたを砂漠に追いやられました。

神様はイエス様を訓練されたように、私たちをも訓練されます。私たちを滅ぼすためではなく、私たちの益のためです。(へブル12:10-11)

もし、あなたが砂漠を渡っているなら、イエス様があなたの苦しみを理解しておられることを心に留めてください。なぜなら、イエス様も、天の父の訓練を受けられたからです。

さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。

ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(へブル4:14-16)