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ヨハネの福音書のデボーション

恵みの道を歩んでいる

イエスは。。。ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」(ヨハネの福音書21:19)

ヨハネの福音書21章のペテロの話は、ルカ5:1ー11の話と似ているものです。

どちらの話でも、ペテロは自分の失敗と罪を認識しました。でも、イエス様はそれでもまだ「私に従いなさい」と招かれました。

ペテロは信仰の旅を恵みによって始め、3年後もその恵みによって歩んでいました。そして、もう一度イエス様の御顔を見るまで、ペテロは恵みによって歩み続けました。

私たちも旅の途中です。ペテロの旅のように、私たちの旅も恵みによって始まり、毎日恵みによって続きます。

私たちは不完全な存在です。私たちの愛も不完全です。それにもかかわらず、イエス様は私たちに「従いなさい」と招かれます。

だから、自分の罪、弱さ、失敗を見るとき、失望しないようにしましょう。むしろ、イエス様から目を離さずに従いましょう。

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平安があなたがたにあるように

「平安があなたがたにあるように。」(ヨハネの福音書20:19)

その時代も今も、ユダヤ人の間ではそれは日常的な挨拶です。

でも、それはただの挨拶だったでしょうか。イエス様はその言葉を繰り返して言われたので、たぶんそうではありません。

弟子たちは未来を恐れ、隠れていました。

イエス様がご自分を現されても、弟子たちは自分の失敗を考えて、どれほど不安を感じたでしょうか。

でも、イエス様は「平安があなたがたにあるように。私はここにおります。あなたたちの失敗に関わらず、受け入れております」と言われました。

そして、平和を持たない人々のところに、イエス様は弟子たちを遣わされました。

でも、平和の御霊が私たちのうちに住んでおられないなら、周囲の人々に平和を与えるのは難しいです。

だから、イエス様は彼らに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい。」

イエス様はあなたを遣わしたいと思っておられます。でも、あなた自身は平和を持っているでしょうか。

もしくは、あなたは未来を恐れているでしょうか。

それとも、神様があなたに関して何を思っておられるのか常に心配しているでしょうか。

覚えておきましょう。イエス様はあなたに言われます。「平安があなたがたにあるように。」

イエス様はすでに御霊をあなたに与えてくださいました。恐れの霊ではなく、私たちと一緒に「アバ、父」と叫ばれる御霊です。私たちは神との平和を持っています。(ローマ5:1,5;8:15)

だからその平和を持って、安心しましょう。そして、平和を持たない人に神の平和を与えましょう。

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「私はある」

モーセが神様の名前を求めたとき、神様は「私はある」(英訳:I am)と答えられました(出エジプト記3:14)。つまり、「私は永遠の方です。私の他に、神はいない」ということです。

「私はある」という言葉は、ギリシャ語に訳されたとき、「エイゴエイミ」と訳されました。興味深いことは、イエス様が「エイゴエイミ」と言われたとき、兵士たちは後ずさりし、地に倒れました。(ヨハネの福音書18:6)

でも、ペテロは、「あなたも、イエスの弟子ではないでしょうね」と尋ねられたとき、「違う」(英訳:I am not)と答えました。(17、25節)

つまり、ペテロは(比喩的に)倒れました。なぜでしょうか。なぜなら、彼はイエス様が誰であるかを完全に把握していなかったからです。

私たちはどうでしょうか。イエス様が誰であるかを本当に把握しているでしょうか。また、私たちへのイエス様の愛を把握しているでしょうか。

その真理を把握していないなら、ペテロのように私たちはすぐに倒れてしまうでしょう。

今日、私が祈るとき、たまたま詩篇146篇を読みました。時間があれば、ぜひ読んでください。

イエス様が誰であるのか考えましょう。

そして、あなたへのイエス様の愛を思い出しましょう。

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 イエス様は私たちのためにとりなしてくださいます

わたしは彼らのためにお願いします。(ヨハネの福音書17:9)

なぜか、その言葉は私の心に響きました。

イエス様は弟子たちのために祈ってくださいました。

私たちのためにも祈ってくださいました。(20節)

今なお、イエス様は私たちのために祈ってくださいます。(ローマ8:34;ヘブル7:25)

イエス様は、神様が私たちを守ってくださるように祈ってくださいます。(15節)

私たちが神の真理を知り、従うように祈ってくださいます。(17節)

私たちがイエス様と天の父をもっと親しく知るように祈ってくださいます。そして、神との関係が親しくなるにつれて、私たちクリスチャンの互いの関係も親しくなるように祈ってくださいます。(21ー23、26)

でも、それらのためだけではなく、イエス様は愛を持って、私たちのためにさらに具体的に祈ってくださるでしょう。

私たちは、「イエス様は私を愛してくださいます」とよく言います。

でも今日、この真理を噛み締めましょう。その真理が私たちの心に響くように。

「イエス様は私のために祈ってくださいます。」

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私を導いてください

あなたがたに話すことはまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐えられません。

しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。(ヨハネの福音書16:12-13)

イエス様、あなたが私に話してくださることはまだたくさんあると思いますが、私がまだ耐えられないゆえに、どれだけ教えてくださるのを控えられるのでしょうか。

あなたは私の気づいていない罪について、どれだけ教えてくださるのを控えられることがあるのでしょうか。なぜなら、私がすべてを見たならば、罪悪感に圧倒されてしまうからです。

私の未来に関して、どれだけ教えてくださるのを控えられることがあるのでしょうか。なぜなら、良いことを知っていたとしたら、私は無理にそれを起こそうとするからです。

また、大変な試練が迫っているとしたら、私は思い悩んでしまうからです。

それでも、あなたのタイミングで、あなたの御霊によって、私をすべての真理に導いてくださいます。

聖霊様、導いてください。

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 あなたを信じているの?

あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。(ヨハネの福音書14:1)

イエス様の言葉を考えるとき、私は自問しました。「私の心が騒いでいるとき、どれだけその理由は、私が神様を信じていないからでしょうか。」

神様が私の見方であると信じるでしょうか。

神様が私と共におられると信じるでしょうか。

私の状況、この世の中が狂っているとき、神様がまだすべてを支配しておられると信じるでしょうか。

神様が私を孤児のように決して捨てないと信じるでしょうか。むしろ、私が叫ぶと、神様がいつも来てくださると信じるでしょうか。

何も、死さえも神の愛から私を引き離すことはできないと信じるでしょうか。むしろ、この世を去るとき、イエス様がおられるところに私を迎えてくださると信じるでしょうか。

私たちが平安を失いそうなとき、この質問を訊くべきでしょう。「主よ、私はあなたを本当に信じているのですか?」

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私たちのイエス様に近づく権利

今日、私たちがイエス様に近づく権利について考えていました。私たちはその権利をどれだけ当たり前のものだと思っているでしょうか。

今日の箇所では、あるギリシア人たちはその権利を持っていないと考えていました。なぜなら、彼らは異邦人で、イスラエルでは部外者と見なされていたからです。また、イエス様は有名なラビでした。

しかし、イエス様が地上から上げられ、十字架につけられたので、私たち皆がイエス様に近づくことができます。(32節)

その真理を考えていたとき、昔の讃美歌を思い出しました。

What a friend we have in Jesus
イエス様はなんて素晴らしい友でしょう
All our sins and griefs to bear
イエス様は私たちの罪と悲しみをすべて背負ってくださるからです
What a privilege to carry everything to God in prayer
すべての重荷を神様に祈りで委ねることができるとはなんて素晴らしいことでしょう

O what peace we often forfeit
私たちはどれだけ平安を失っていることでしょう
O what needless pain we bear
私たちはどれだけ不必要な痛みを背負っていることでしょう
All because we do not carry everything to God in prayer
すべてを神様に祈りで委ねないからです

ーージョセフ・メドリコット・スクライブン

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本当のところ神様は私のことをどう思っておられるの?

イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。しかし、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。(ヨハネの福音書11:5ー6)

多くの人々、クリスチャンたちを含めて、「本当のところ神様は私のことをどう思っておられるのだろうか」と疑問に思います。

イエス様がすぐに来られず、ラザロが亡くなったとき、たぶんマルタとマリアもイエス様について同じことを考えていたでしょう。

「イエス様は本当に私たちを愛しておられるのでしょうか。なぜ来てくださらなかったのですか?なぜ兄を癒してくださらなかったのですか?」

しかし、真実は何だったのでしょうか。本当のところイエス様は彼らのことをどう思っておられたのでしょうか。

イエス様はラザロ、マルタ、マリアを愛しておられました。

私たちが苦しんでいて、神様が沈黙されている時、神様が私たちのことをどう思っておられるのか疑問に思うのは簡単なことです。

でも、覚えておきましょう。神様は私たちの味方です。さらに、神様は私たちを深く愛してくださっています。(ローマ8:31ー32)

そして、何も、死のとげさえも、私たちを神様の愛から引き離すことはできません。(ローマ8:38ー39;ヨハネ11:25)

でも私たちが自問しなければならないのは、その真実を信じるかどうかです。(ヨハネ11:26)

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私が天の父が喜ばれることをいつも行えるように

今日の箇所を読んだとき、私は多くの言葉に心を打たれました。特に、29節は私の心に響きました。イエス様は「わたしは、天の父が喜ばれることをいつも行います」と言われました。

私は、「それを言うことができたらいいのになあ」と思いました。

でも、私は他の言葉にも心を打たれました。

あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。(ヨハネの福音書8:31ー32)

まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。 奴隷はいつまでも家にいるわけではありませんが、息子はいつまでもいます。

ですから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。(34ー36)

私のことばはあなたの中で進行していません。(37、英訳)

神から出た者は、神のことばに聞き従います。(47)

わたしの父を敬っているのに、あなたがたはわたしを卑しめています。(49)

だから今日、私はその言葉をまとめて、このように祈りました。

イエス様、あなたのようになりたいです。あなたのように、「私は、天のお父さんが喜ばれることをいつも行います」と言えたいけど、言えません。私は天のお父さんが喜ばれないことをしばしば行うからです。赦してください。

私の言葉と行いによって、天のお父さんとあなたを決して卑しめることがないように。

むしろ、私がいつも心の中に、あなたのみ言葉のための場所を開けるように。

その御言葉が私の心の中で進行するように。私があなたのみ言葉をもっと理解することができるように助けてください。それだけではなく、私がその御言葉に従うことができるように助けてください。

アブラハムのように、私があなたの言葉の真理を聞き、信じ、受け入れ、従うことができるように助けてください。

イエス様、あなたの恵みを感謝します。あなたのおかげで、私はもはや罪の奴隷ではありません。十字架で流されたあなたの血によって、私は自由にされました。私を神の子にしてくださり、本当に感謝します。

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生ける水の川

さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」

イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。(ヨハネ7:37-39)

なぜかこの箇所を読むたびに私が最初に考えることは、私がイエス様のみもとに行くと、御霊が私の霊的な渇きを満たしてくださるということです。

でも今日、神様が私に思い出させたのは、単に私の渇きを満たすためだけに御霊を与えてくださるのではないということです。

むしろ神様は、私の周囲の霊的な渇きで死にそうになっている人たちが命を知ることができるように、神の生ける水の川が私の心の奥底から流れ出ることを望んでおられるのです。

だから、私はこのように祈りました。

聖霊様、私はあなたを受け、あなたは私の渇きを満たしてくださいました。でも、周囲の渇いている人たちも飲んで命を知ることができるように、あなたが川のように私から流れ出るように祈ります。

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三つの質問

イエスは目を上げて、大勢の群衆がご自分の方に来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」

イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。(ヨハネ6:5ー6)

今朝、私は、イエス様がピリポをどのように試されたのだろうかと考えていました。

イエス様はピリポに実際に何を尋ねられたのでしたか。

私はちょっと分かりませんけど、もしかしたらイエス様はこう訊かれていたかもしれません。

「私が誰であるのかすでに知っている?私が何ができるのか知っている?あなたは私をどれほど信じているのか?」

もしそれらがイエス様の質問であったなら、ピリポはそのテストに完全に落ちてしまいました。

ピリポが考えたのは、「この群衆の必要をどのように満たすことができるだろうか。私たちには無理だろう」ということです。

でもイエス様は、すでにご自分が何をしようとしているのかを、知っておられました。

そして、イエス様はピリポと他の弟子たちが持っていたわずかなもので群衆の空腹を満たしてくださいました。

時々、私はピリポのようです。イエス様は私の回りの人々を見て、その人に触れたいと思っておられます。ご自分が何をしようとしているのかを知っておられるけど、私に向かって、尋ねられます。

「私が誰であるのかすでに知っている?私が何ができるのか知っている?あなたは私をどれほど信じているのか?」

しかし、イエスが誰であり、何ができるかを見る代わりに、私は自分の弱さと力不足を見てしまいます。

でも真実は、私の弱さと力不足は関係ないのです。大切なのは、イエス様が誰であり、何ができるかということです。

だから、私が自問自答しなければならないのは、イエス様を信じるかどうかということです。

なぜなら、イエス様は愛を持って、私が持っているわずかなもので人々に触れることができるからです。

だから私はイエス様の三つの質問についてもっと考えなければならないでしょう。

「私が誰であるのかすでに知っている?」

「私が何ができるのか知っている?」

「私を信じてくれる?」

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まず神様に愛された

神は、このようにして世を愛された。そのひとり子をお与えになったのです。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16、英訳)

私はその英訳が好きです。多くの翻訳は、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」と訳されるけど、通常、そのギリシャ語は「ほどに」ではなく、「このように」と訳されます。

ヨハネの手紙では、ヨハネは違う言葉を使うけど、同じ概念を伝えます。

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって、私たちにいのちを得させてくださいました。それによって、神の愛が私たちに示されたのです。

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(第一ヨハネ4:9ー10)

パウロは似たようなことを言います。

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。(ローマ書5:8)

驚くべきことは、神様が私たちの悔い改めを待たずに、まずご自身の愛を示してくださったことです。神は裁きではなく、憐れみをもって私たちに目を向けられます。

イエス様が「御子を遣わすことによって神様がこの世に愛を示された」と言ったとき、ニコデモはどう思ったでしょうか。

もしニコデモが、神が御子を遣わされたという概念を持っていたとしたら、それは反逆の世を裁くためだったでしょう(詩篇2篇)。

ニコデモは、詩篇2:12にある幸いな人たちがかつて反逆的な人たちであったことを考えたことがあったでしょうか。ニコデモは、御子を通して示された神の愛のゆえに、彼らが悔い改めたと考えたことがあったでしょうか。その詩篇を書いた詩人はそんなことを考えたことがあったでしょうか。

私にはわかりません。でも、ヨハネ3:16のもっとも驚くべきことを覚えていましょう。それは、神様が悔い改めることのない反逆の世(私たちを含む)をまず愛し、その世を救うために、御子を遣わしてくださったということです。

だから、今日、その言葉に思いを巡らしましょう。ヨハネ3:16、第一ヨハネ4:9−10、ローマ5:8に思いを巡らしましょう。

その真理を浴びましょう。「神様はまず私を愛しててくださいました。」

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私たちの心を知っておられる方

過越の祭りの祝いの間、イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた。

しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。

すべての人を知っていたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。イエスは、人のうちに何があるかを知っておられたのである。(ヨハネ2:23ー25)

ペテロは。。。イエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」(ヨハネ21:17)

イエス様、あなたは私の心を見ておられます。あなたは私の心に何があるのか、誰かに教えてもらう必要はありません。あなたは私のことをよく知っておられるからです。

だから、ぺテロとともに、私は言います。「あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」

あなたは私の愛がどれほど不完全なものであるのかよく知っておられます。私の失敗もよく知っておられます。それでも、あなたは私があなたを愛していることを知っておられます。

それにしても、自分を騙すのは簡単なことです。だから、私の心の層を剥がしてください。私の心の奥底を明らかにしてください。私の心を癒すために、あなたが見たものを見せてください。

イエス様、私はあなたのようになりたいのです。私をあなたのようにしてください。

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光を必要とする世界

この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。。。

すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。(ヨハネ1:4ー5,9)

最近のニュースによると、2024年に527人の小中高生が自殺しました。

たとえ1人でも多すぎるでしょう。

ヨハネは、イエス様にはいのちがあり、イエス様が闇の中を歩んでいる人々に光を与える方であると言いました。

闇の中を歩んでいる人々は多いです。希望のない人々は多いです。

彼らはイエス様の光を必要としているのです。

最近、クロスロードでは、私たちは天の父の目について話しています。つまり、神様がどんなまなざしで私たちを見ているのかを理解する必要があります。

その真理を理解すれば、神の光は私たちの闇を照らすでしょう。

イエス様はそのように人々に触れました。人々がイエス様を見るとき、天の父の目を見ました。そして、彼らが神の目を見たとき、神の光は彼らの闇を照らしました。

だから、私の祈りは、人々が私のうちに住んでおられるイエス様を見るようになることです。

私の妻、娘、生徒たち、同僚たちが私の目を見るとき、私の天のお父さんの目を見ることができるように祈ります。

そして、私を通して、神様が彼らの闇を照らしてくださるように祈ります。

私たち皆が天のお父さんの目を持つように。

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イエス様の心

こうして彼らが陸地に上がると、そこには炭火がおこされていて、その上には魚があり、またパンがあるのが見えた。イエスは彼らに「今捕った魚を何匹か持って来なさい。。。さあ、朝の食事をしなさい。」

。。。イエスは来てパンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。(ヨハネの福音書21:9ー10,12ー13)

いろんな意味で、私はヨハネ21章が大好きです。なぜなら、私たちはイエス様の心を見ることができるからです。

もちろん、ペテロに対するイエス様の愛を見ることができますが、今日、上のことばを読んだとき、私はこう考えました。

「どうして、イエス様は弟子たちのために、わざわざ朝ごはんを作られたのだろうか。イエス様は、彼らのために大きな奇跡を行われたばかりなのに。」

その答えは、はっきりしていると思います。イエス様には、「私の弟子たちは、とても疲れて、お腹が空いているだろう。何か作ってあげよう」という思いが浮かばれたからです。

そのパンと魚は、どこから来たのでしょうか。イエス様が奇跡的にそれらを作られたわけではないと思います。(もちろん、イエス様はそのような力を持っておられましたが。)

たぶん、前日にその近くの村でパンを買われて、その日の朝、他の漁師たちから魚を買われたのではないでしょうか。

とにかく、イエス様は弟子たちのことを思っておられ、祝福したいと願われました。イエス様は、大きな奇跡を行われたわけではありません。むしろ、思いやりをもって、彼らを祝福されたのです。

私は、イエス様の心を持ち、その模範に従いたいです。

私の愛する人たちのニーズに、もっと気づけるようになりたいです。それは、大きなニーズだけではなく(たとえば、ペテロの弟子としての自信を建て直すこと)、小さなことにも気づけるようになりたいのです。そして、できる限り、私は彼らを祝福したいのです。

イエス様、そのような心を私に与えてください。

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平安

イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」(ヨハネの福音書19:19)

今日の箇所を読んだとき、弟子たちがその日曜日に何を感じていたかを考えました。不安。恐れ。混乱。でも、イエス様は来られて、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われました。(19)

その後、イエス様はトマスに、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われました。(27)

そのことばを読んで、私は、イエス様が死ぬ前に弟子たちに語られたことばを思い出しました。

あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。(ヨハネ14:1)

今週、私はあることを気にかけています。正直に言うと、そのことをくよくよするのは、簡単なことです。そのことを心配するのは、簡単なことなのです。

それでも、イエス様は私のところに来られて、「平安があなたにあるように。私はあなたと共にいる。私を信頼しなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われます。

イエス様、私のトラブルの中で、あなたは私の主、私の神、平和の君、インマヌエルです。私がそれを忘れず、あなたに信頼することができるように助けてください。

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主の杯を受け入れる

イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を飲まずにいられるだろうか。」(ヨハネの福音書18:11)

時々、試練に直面し、私たちは祈りますが、神様はその試練を取り除かれないことがあります。その試練は、神様が私たちに与えられた杯なのです。

イエス様も、それを経験されました。(ルカ22:42〜43)

パウロも、それを経験しました。(第二コリント12:8〜9)

そして、その杯を前にして、私たちには選択肢があります。私たちは、苦々しい思いを抱いて、その杯と戦うこともできます。

あるいは、次のような態度を選ぶこともできます。「あなたの恵みは、私に十分です。あなたが私と共におられるので、私は満足しています。」

前者の道は、惨めな人生や死に至ります。でも、後者の道は、喜びに至り、そして最終的に復活に至ります。

だから今日、私が自問自答するのは、「神様の恵みは、私に十分だと思っているだろうか。『神様が私と共におられるので、私は満足しています』と告白できるだろうか」ということです。

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イエス様の忍耐

あなたがたに話すことはまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐えられません。

しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。(ヨハネの福音書16:12ー13)

上のことばを読んで、私はこう考えました。「どれだけイエス様は、私に同じことを語っておられるのだろうか。イエス様は、私に語りたいことがたくさんあるけれど、私はそのことばに耐えることができません。なぜなら、私の心はまだ整えられていないからです。

でも、イエス様は私を叱られることはありません。むしろ、イエス様は忍耐をもって待っていてくださいます。そして、イエス様の時に、御霊が私に必要なことを語ってくださいます。」

イエス様、あなたは私の心をよく知っておられます。私が何を聞くに耐えられるか、耐えられないかを、よくご存じです。

私に対するあなたの忍耐と柔和さを感謝します。あなたのことばを聞くために、私の心を整え続けてください。私があなたに対して、柔らかい心を保つことができるように助けてください。

聖霊様、私は自分の心をあなたに開きます。あなたの時に、私をすべての真理へと導いてください。その真理が、私には受け入れがたいものであったとしても、その真理へと導いてください。

そして、イエス様、私へのあなたの忍耐と柔和さを、私も周りの人々に示すことができるように助けてください。

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イエス様を知る

イエスは彼に言われた。「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。(ヨハネの福音書14:9)

イエス様のことばを読んだとき、私はこう考えました。「イエス様は、時々私に同じ質問をされるのだろうか。」

「こんなに長い間、あなたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。」

もちろん、私が初めてクリスチャンになった時よりも、私はイエス様を知っています。去年よりも、私はイエス様を知っていると思いたいです。

でも、私はあとどれだけイエス様について知らなくてはならないのでしょうか。それは、一生続くプロセスでしょう。

使徒パウロは、長い間クリスチャンでしたが、「キリストを知りたい」と言いました。(ピリピ3:10)

パウロはイエス様をよく知っていましたが、イエス様をもっと知る必要があると認めていました。

正直に言うと、私もそうしなければなりません。

イエス様、あなたをもっと知りたいです。あなたを、本当に知りたいのです。私は、頭ではあなたについてたくさんのことを知っています。でも、そのすべての知識が、私の心に入ってくるように祈ります。

あなたに、もっと信頼したいです。あなたの働きに参加したいです。あなたが行われるわざを行い、さらに大きなわざを行いたいです。

正直に言うと、私はその概念を把握できていません。

あなたは、あなたを愛する人たちに、ご自身を現すと約束してくださいました。(21)

だから、私は願っています。あなたが、毎日ご自身を私に、もっともっと現してください。あなたを、本当に知りたいですから。アーメン。

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すでにきよい

イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのです。。。」(ヨハネの福音書13:10)

たくさんのクリスチャンたちは、自分の罪によって、自責の念に苦しみます。彼らは、いつも自分の罪と失敗をくよくよします。

あなたも、よくそうすることがあるでしょうか。

もし、イエス様と、あなたのための十字架のみわざを信じるなら、イエス様のことばは、あなたのためのものです。

「あなたは、きよいです。」

そのことばが、あなたの心に響きますように。

「あなたは、きよいのです。」

そのことばによって、神様と私の関係は、完全に変わりました。

もちろん、この世を歩むと、罪によって、私の霊的な足は汚れてしまいます。

でも、イエス様が私を受け入れてくださっているという確信を持っています。

私がイエス様のもとに来ると、イエス様が恵みによって私の足を洗い、私がもう一度完全に清くなるという確信を持っています。

私は、その確信を持って、イエス様と毎日歩んでいます。そういうわけで、私の罪と失敗にもかかわらず、私はクリスチャンとして、喜びを持って歩んでいます。

あなたは、どうでしょうか。その確信と喜びをもって、イエス様と歩んでいますか。

イエス様のことばに思いを巡らしましょう。あなたの心の中で、そのことばを繰り返して言いましょう。

そのことばが、あなたの心に刻み込まれますように。

「あなたは、きよいです。」

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もうダメ?

マルタはイエスに言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。(ヨハネの福音書11:21)

マリアはイエスがおられるところに来た。そしてイエスを見ると、足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(32節)

今まで、マリアとマルタの言葉を読んだとき、彼女たちがイエス様を責めているのだと思っていました。「何でもっと早く来てくださらなかったのですか。もっと早く来てくださっていたら、私の兄は死ななかったでしょうに。」

しかし今、私は彼女たちが本当にイエス様を責めていたのかどうか、少し疑問を感じています。

なぜなら、イエス様が着かれたとき、ラザロはすでに墓に葬られていて、四日が経っていたからです。つまり、イエス様がすぐに来られたとしても、ラザロはすでに二日間亡くなっていたということになります。

だから、たぶん、彼女たちが言いたかったのは、「イエス様のせいではないけれど、兄が病気になったとき、あなたがそんなに遠くにおられなかったらと思います。もしここにいてくださったなら、私の兄は死ななかったでしょうに」ということだったのかもしれません。

でも、はっきりしているのは、イエス様が着かれたとき、マリアとマルタには、イエス様がラザロを復活させることができるという考えがまったく思い浮かばなかったということです。イエス様にラザロを復活させていただきたいと願うという考えも、まったく思い浮かびませんでした。

マルタは「あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています」と言いましたが、24節と39節にあるマルタの言葉を見ると、彼女がイエス様にその日にラザロを復活させていただけるとは考えていなかったことが、はっきりと分かります。

それを読んで、私はこう考えました。「もうダメだ。祈り続けるのはもう無駄だ」と思うときがあるでしょうか。

「イエス様がこの死んだものを復活させることはできない。私の状況には、もう復活の希望がない」と思うときがあるでしょうか。

私は、イエス様がそんなに小さなお方だと思ってしまうでしょうか。

イエス様が、私の願いや思いをはるかに超えて行うことができると信じているでしょうか。それとも、イエス様にできることについての私の概念は、まだ小さすぎるのでしょうか。

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私は信じる

イエスは、ユダヤ人たちが彼を外に追い出したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」

その人は答えた。「主よ、私が信じることができるように教えてください。その人はどなたですか。」

イエスは彼に言われた。「あなたはその人を見ています。あなたと話しているのが、その人です。」

彼は「主よ、信じます」と言って、イエスを礼拝した。」(ヨハネの福音書9:35ー38)

天のお父さん、私が、かつて目の見えなかった人のような心を持つことができますように。あなたに開かれた心を持つことができますように。周りの人々が何を言おうとも、あなたをすぐに信じ、信頼し、礼拝し、従う心を持つことができますように。

パリサイ人たちの態度は、まったく違っていました。彼らはわざと目を閉じ、明らかなことを信じることを拒み、あなたを信じることを拒みました。

私は、パリサイ人たちのようにはなりたくありません。

だから今日、あの、かつて目の見えなかった人とともに、私はあなたのもとに来て、礼拝し、子どものような心を持ち、「主よ、信じます」と言います。

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弟子のしるし

イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。(ヨハネの福音書8:31)

その言葉を読んだとき、イエス様は私の心に語りかけられました。

弟子のしるしの一つは、もちろん愛です。(ヨハネ13:34〜35)

しかし、イエス様によれば、もう一つの弟子のしるしは、私たちがただイエス様を信じることだけではなく、そのことばにとどまることです。つまり、私たちはいつもそのことばに心を開き、受け入れ、従うということです。

37節では、イエス様はユダヤ人たちにこう言われました。

わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかし、あなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです。

ある英訳には、こう書かれています。

私のことばは、あなたのうちで前進していません。

口語訳も非常に興味深い表現をしています。

わたしの言葉が、あなたがたのうちに根をおろしていないからである。

それを読んだとき、神様が私たちにこう問いかけておられるように感じました。「あなたは、私のことばに心を開いているでしょうか。私のことばは、あなたのうちで前進しているでしょうか。」

私たちが神のことばに心を開くと、そのことばによって私たちは変えられます。私たちの考え方も、私たちの行いも変えられます。私たちはイエス様のように考え、生き始めます。神の子どもたちのように考え、生き始めます。

そして、イエス様によれば、私たちが神のことばにとどまり、心を開き、そのことばを信じ、受け入れ、従うなら、その真理は私たちを自由にします。(32節)

あなたはどうでしょうか。あなたは神のことばに心を開いているでしょうか。そのことばは、あなたのうちで前進しているでしょうか。

天のお父さん、あなたのことばは、私のうちでどこまで前進しているでしょうか。時々、私は「どうかなぁ」と思います。

私が、あなたのことばに開かれた心を持つことができますように。

教会のメッセージを聞くとき、聖書を読むとき、兄弟姉妹があなたのことばを分かち合うとき、そのことばが厳しくても、そのことばを聞きたくなくても、私がそのことばを聞き、受け入れ、従うことができますように助けてください。

なぜなら、私はあなたが良い方であることを信じているからです。また、あなたのことばによって、私が自由と喜びを知ることができると信じているからです。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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イエス様が私たちに与えたいもの

イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです」。。。

イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ6:26,35)

どうして、私たちはイエス様を求めるのでしょうか。どうしてイエス様のもとに行くのでしょうか。それは、私たちが単にイエス様から何かを求めているからでしょうか。それとも、私たちはイエス様に出会いたいのでしょうか。イエス様をもっと知りたいのでしょうか。

もちろん、イエス様は私たちのニーズに備えたいと願っておられます。でも、イエス様は他のどんなものよりも、ご自身を私たちに与えたいと願っておられます。なぜなら、イエス様こそが私たちの魂の飢えと乾きを満たすことができる方だからです。

良い知らせは、私たちがイエス様のドアを叩けば、イエス様はいつもそのドアを開けてくださるということです。そして、イエス様はこう言われます。

わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。(37)

イエス様、今日、私はあなたのもとに来ます。私は、あなたから何かを求めているわけではありません。私が欲しいのは、あなただけなのです。

あなたをもっと知りたいのです。あなたがいつも私にドアを開けてくださることに感謝します。

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キリストの労苦の中に入る

わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。。。

わたしはあなたがたを、自分たちが労苦したのでないものを刈り入れるために遣わしました。

ほかの者たちが労苦し、あなたがたがその労苦の実にあずかっているのです(直訳:ほかの者たちが苦労し、あなたは彼らの労苦の中に入りました)。(ヨハネの福音書4:34、38)

「彼らの労苦の中に入りました。」

神様は私の心をその言葉で打たれました。

サマリアの女の人の証しによって、たくさんのサマリア人たちがイエス様を求めに来て、弟子たちはその女の人の労苦の中に入りました。

彼らはイエス様の労苦の中に入ったとも言えます。イエス様が彼女に語りかけ、その言葉によって彼女は心を動かされ、町の人たちにイエス様のことを伝えました。

その箇所を読んで、神様はこの思いを私の心に与えられました。

「私は、あなたと私の民すべてがイエスの労苦の中に入ることを望んでいます。イエスは十字架でその労苦を始められました。他のクリスチャンたちは何百年にもわたってその労苦の中に入りました。あなたがたもその労苦の中に入ることを望んでいます。

だから、目を上げなさい。罪によって死にかけている人々に目をつぶってはいけません。彼らには私が必要です。

彼らを無視してはなりません。むしろ、彼らに手を伸ばし、私の愛によって彼らに触れなさい。」

だから、今日このように祈りました。

天のお父さん、今日だけではなく、毎日、私があなたの労苦の中に入るように。

イエス様は私の周りの人々のために死なれました。だから、私を用いてください。

私が彼らにあなたの愛によって触れるように。私があなたのみこころを行い、あなたのわざを成し遂げるように。イエス様の御名によって祈ります。アーメン

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奇跡を求めるとき

母は給仕の者たちに言った。「あの方が言われることは、何でもしてください。」(ヨハネの福音書2:5)

あなたは今年、奇跡を求めているかもしれません。それは、身体の癒しかもしれません。それは、人間関係の癒しかもしれません。あなたは新しい仕事を探しているかもしれません。あなたは果てしのない問題の解決策を求めているかもしれません。

しかし、その奇跡を求めて神様のもとに来るとき、マリアの態度を取りましょう。

「神様、私の問題を解決してください」と繰り返して祈るだけではなく、むしろイエス様に、「あなたは私に何をしてほしいのか。あなたが言われることは、私はします」と祈りましょう。

神様はそのような心を求めておられます。

神様は、神様をジーニーのように見る心ではなく、神様を操ろうとする心ではなく、むしろ神様に完全に従う心を求めておられるのです。

そして、私たちが神様に従うときに分かるようになるのは、最大の奇跡とは神様が私たちの状況にもたらす変化ではなく、神様が私たち自身の心にもたらす変化であるということです。

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あなたは、わたしに従いなさい

イエスはペテロに言われた。「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」(ヨハネの福音書21:22)

多くの人々は、しばしば自分を周りの人々と比べてしまいます。正直に言うと、私もよくそうしてしまいます。

でも、そうしてしまうと、私たちは一番大切なことを忘れてしまいます。それは、イエス様に従うことです。

今日の話を読んだとき、私はペテロのことを思い起こしました。イエス様を見ると、ペテロは湖に飛び込んで、イエス様のもとへ泳いでいきました。

私の最初の思いは、「イエス様に対するペテロの情熱が欲しいなぁ」ということでした。

次の思いは、「ペテロはクレージーだった。私は絶対に湖に飛び込まない」というものでした。

もちろん、私はイエス様を愛しています。でも、ペテロの性格と私の性格はまったく違います。

(あなたはどうでしょうか。イエス様を見たら、湖に飛び込んで、イエス様のもとへ泳いでいくでしょうか。)

でも、神様は私にこう言われました。「たとえ私がペテロにそのような性格を与えようと望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。私はあなたを、ありのままに造りました。あなたは、私に従いなさい。」

神様は、私がペテロのようになることを望んでおられるのではありません。神様は、私が自分の牧師や他のクリスチャンのようになることを望んでおられるのではありません。神様は、私を造られたとおりに生きることを望んでおられるのです。

神様は、あなたに対しても同じように感じておられます。

もし私たちがイエス様から目を離さず、イエス様に従い、神様に託されたものを忠実に用いるなら、神様は喜ばれます。

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見よ、あなたの王だ

ピラトはユダヤ人たちに言った。「見よ、おまえたちの王だ。」(ヨハネ19:14)

すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」

こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。(20:19-20)

見よ、あなたの王だ。
血まみれで、体が引き裂かれた王。

見よ、あなたの王だ。
茨の冠をかぶせられた王。

見よ、あなたの王だ。
殴られ、顔があざだらけになった王

見よ、あなたの王だ。
不当に虐待された王。

見よ、あなたの王だ。
木にかけられた王。

見よ、あなたの王だ。
あなたのために死なれた王。

見よ、あなたの王だ。
墓から脱出された王。

見よ、あなたの王だ。
栄光によみがえられた王。

見よ、あなたの王だ。
手と脇腹を突き刺された王。

見よ、あなたの王だ。
その平安にとどまりましょう。

見よ、あなたの王だ。
すぐに来られる王。

見よ、あなたの王だ。
新しい天と地を造られる王。

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神様が記されたもの

「そこで、ユダヤ人の祭司長たちはピラトに、「ユダヤ人の王と書かないで、この者はユダヤ人の王と自称したと書いてください」と言った。

ピラトは答えた。「私が書いたものは、書いたままにしておけ。」」(ヨハネの福音書19:21ー22)

天のお父様、ユダヤ人は怒り、文句を言いましたが、ピラトのことばは立ちました。

それなら、なおのこと、あなたの御言葉は確かに立つでしょう。この世の民がどれほどあなたのことばに反対し、あなたに背いても、あなたのことばは揺るぎません。

あなたが記されたものは、すでに定められているのです。

預言者たちを通して語られたすべてのことばは成就しました。(24、28、36ー37節)

それが、私の希望です。

この世は壊れています。この世の民はあなたに背きました。

しかし、あなたはご自分の王を立てられました。(詩篇2:6)

この世はその王を十字架につけました。

しかし、あなたはその王を復活させられました。

そして、ある日、その王はこの世に戻り、この世のすべてを新しくしてくださいます。

私はその日を待ち望んでいます。

なぜなら、あなたが記されたことはすでに定められており、そのすべてのことばは、あなたの時に成就するからです。

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見よ、この人だ。見よ、あなたの王だ。

ピラトのことばは、私の心に深く響きました。

見よ、この人だ。(ヨハネの福音書19:5)

その日、ユダヤ人たちは何を見たでしょうか。人間と同じ姿になられた神です。(ピリピ2:6-7)

その神は、むちで打たれ、拳で殴られ、いばらの冠をかぶせられ、紫色の着物を着せられた方です。

Amazing love! 
驚くべき愛

How can it be, that thou, my God, shouldst die for me? 
どうして、あなたが私の神であられるのに、私のために死んでくださったのでしょうか。

ーーチャールズ・ウェズリー

見よ、おまえたちの王だ。(14)

ユダヤ人たちは何を見たでしょうか。

それは、死刑を宣告された王です。ご自分の罪のためではなく、私たちの罪のために。

Amazing love! 
驚くべき愛

How can it be that you my King, would die for me?
どうして、あなたが私の王であられるのに、私のために死んでくださったのでしょうか。

ーービリー・ジェームズ・フット

今日の話を何度も読んだことがあるかもしれませんが、どうかざっと読まないでください。そして、読んですぐに忘れないでください。

少し時間を取って、ユダヤ人たちがその日、何を見たのかを深く考えてみましょう。その場面を心に描いてみましょう。

イエス様があなたのために何をしてくださったのかを思い巡らしましょう。

イエス様の苦しみを心に留めましょう。

イエス様の死を黙想しましょう。

そして、イエス様の復活を覚えておきましょう。

ユダヤ人の指導者たちの模範に倣ってはいけません。私たちの王を軽んじてはいけません。

むしろ、深い感謝と喜びをもって、「あなたは私の王です」と歌いましょう。

そして、毎日、毎秒、私たちの人生をイエス様にささげましょう。

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自分の疑問の解決がもう気にならなくなる日

あなたがたも今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたがたに会います。そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。

その日には、あなたがたはわたしに何も尋ねません。(ヨハネの福音書16:22ー23)

今日、私は上のことばに思いを巡らしました。日曜日は父の日でした。だから、いつものように、私は12年前に亡くなった父のことを思い出しました。

私の父は、さまざまな苦しみに直面しました。特に、最後の10年間は、多くの健康問題を抱えていました。

もし父が「どうして」と尋ねたとしても、不思議ではなかったでしょう。でも、実際には決してそうは訊きませんでした。

この世を見渡すと、私はよく「どうして」と問いかけます。

ガンで亡くなった友人もいたし、うつ病で自ら命を絶った親戚もいました。「良い人」(実のところ、私たち皆は罪人です)に悪いことが起こるのを見たこともあります。

だから、私は悲しみを知っています。痛みを知っています。そして、まだ理解できない疑問をたくさん抱えています。

でも、イエス様によれば、イエス様の御顔を見る日が来ます。その日、私は喜びに満たされ、イエス様に何も尋ねることはありません。

なぜでしょうか。もしかすると、その日、私は神様のご計画のすべてを知ることになるからかもしれません。

でも、もしかすると、その日、私はもう自分の疑問の解決を気にしなくなるかもしれません。なぜなら、私の目でイエス様を見るからです。そして、イエス様が私と共におられ、私の悲しみと痛みは洗い去られるからです。

とはいえ、今の時点でも、私は天の父にアクセスすることができます。私の願いを神様に委ねることができます。そして、天の父は私の願いを聞いてくださいます。私を愛してくださるからです。

そして、私の良いパパは知恵をもって、私が求めていることが良いと判断されるなら、それを与えてくださいます。(第一ヨハネ5:14ー15;マタイ6:11)

だから、私はイエス様のことばを固く信じます。

これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。

世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。(ヨハネ16:33)

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きよい

わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます(別訳:「きよくなさいます」。

あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。(ヨハネの福音書15:2ー3)

今朝、上の箇所を反芻していたとき、イエス様が13章で似たようなことばを語られたことを思い出しました。

水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのです。。。(ヨハネ13:10)

イエス様のことばは私を励ましてくださいました。イエス様は私の心に語られました。

「あなたが私のことばを信じたから、私を信じたから、私の目にはあなたはすでにきよいのです。あなたはすでに天の父に受け入れられているのです。」

この世を歩む中で、私の霊的な足は罪によって汚れてしまいます。

最近、神様は、ある人に対する私の悪い態度を示してくださいました。その態度のゆえに、神様が望まれるほどには、私は実を結んでいません。

それでも、神様は私を決して諦められません。

むしろ、豊かな忍耐と愛と恵みをもって、神様は私をきよめてくださいます。また、私がさらに多くの実を結ぶように、神様は私を刈り込みしてくださいます。

神様はあなたのためにも、同じことをしてくださいます。

神様の鏡、すなわち御言葉を覗くと、あなたも自分の罪や、実を妨げるものを見るかもしれません。でも、あなたへの神様のことばを心に留めておきましょう。

「私の目にはあなたはすでにきよいのです。」

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神の口から出る一つ一つのことばによって生きる

イエス様、あなたは「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」と言われました。

あなたはこのことばに従って、日々を歩まれました。あなたは天の父の口から出る一つ一つのことばによって生きられました。

天の父が命じられたとおりに、あなたはすべてを行われました。(ヨハネの福音書14:31)

ですから今、私もあなたの口から出る一つ一つのことばによって生きる者となれますように。なぜなら、あなたが語られたすべてのことばは、天の父の口から出たものだからです。(10,24節)

私が自分の悟りに頼ることのないように。

私が罪によって歪められたこの世の知恵にも頼ることのないように。

むしろ、あなたのことばが私の思考を形づくり、あなたのことばが私の価値観を形づくり、あなたのことばが私の優先順位を形づくるように。

なぜなら、あなたのことばは真理であり、そのことばは私に命を与えてくださるものだからです。

あなたの真理を教え、あなたが語られたことを思い起こさせるために御霊を与えてくださったことを感謝します。(26節)

私が日々、御霊と歩調を合わせて歩むことができますように。

あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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イエス様の愛を疑う?

イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。 しかし(別訳:「そのようなわけで」)、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。(ヨハネの福音書11:5ー6)

ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか。」

しかし、彼らのうちのある者たちは、「見えない人の目を開けたこの方も、ラザロが死なないようにすることはできなかったのか」と言った。(36ー37節)

しかし、彼らのうちの一人で、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だということを、考えてもいない。」

このことは、彼が自分から言ったのではなかった。彼はその年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子らを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。(49ー52節)

イエス様は私たちを愛しておられます。それでも、イエス様が私たちの望むように応えてくださらない時もあります。

そのような時、私たちは苦しみ、「どうして」と問いかけます。また、「イエス様は本当に私を愛しておられるのだろうか」と思うこともあります。

けれども、実のところ、多くの場合、私たちは何も分かっていません。神様はすべてをご存じですが、私たちはまったく考えていない要素が多くあるのです。

最大の例は、十字架です。神様がなさっていたことを、誰も理解していませんでした。祭司たちも、パリサイ人たちも、イエス様の弟子たちも、イエス様の母マリアさえも、神の計画を知りませんでした。

しかし、十字架こそが、神様の愛の最大の表現だったのです。

あなたは今、さまざまな疑問を抱え、苦しんでいるでしょうか。神様に「どうして」と問いかけているでしょうか。

マリアとマルタの模範に従いましょう。彼女たちは深く傷ついていましたが、イエス様に背を向けることはありませんでした。むしろ、彼女たちはイエス様のもとに走り寄り、イエス様を信じ続け、従い続けました。

彼女たちの模範に従うなら、私たちもいつか神様の栄光を見ることができます。

私たちは、奥義のうちにある、隠された神の知恵を語るのであって、その知恵は、神が私たちの栄光のために、世界の始まる前から定めておられたものです。

この知恵を、この世の支配者たちは、だれ一人知りませんでした。もし知っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。

しかし、このことは、 「目が見たことのないもの、 耳が聞いたことのないもの、 人の心に思い浮かんだことがないものを、 神は、神を愛する者たちに備えてくださった」 と書いてあるとおりでした。」(第一コリント3:7ー9)

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羊飼いへの祈り

牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。羊たちをみな外に出すと、牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きます。(ヨハネの福音書10:3ー4)

イエス様、なぜかそのことばは私の心に響きます。

あなたにとって、私は名前も顔も知らない羊ではありません。あなたは私の名前を知っていて、呼びかけてくださいます。「おい、こっちにおいで。行きましょう!」

あなたは私たちの先頭に立って行かれます。私たちを導いてくださいます。その道を拓いてくださいます。私たちを災いから守ってくださいます。良い牧草を探してくださいます。

だから、主よ、私の先に行ってください。私が決してあなたの先に行かないように。あなたが先に行かれ、私はついていきます。

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私たちに神のわざが現れるため

さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」

イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。(ヨハネの福音書9:1-3)

時に、悪いことが起こると、神様が私たちを罰しておられるのではないかと思うことがあります。しかし、私たちは二つの真理を覚えていなければなりません。

一つ目は、もちろん、自分の罪のために苦しむこともあるということです。けれども、私たちは壊れた世界に生きており、壊れた人々と共に生活しているために、苦しみがあるということも覚えていなければなりません。

その苦しみを通して、私たちは大切なことを思い出します。それは、この世界が私たちの故郷ではないということです。私たちはただ通過している者です。私たちは「もっと良い故郷、すなわち天の故郷」を憧れながら歩んでいるのです(ヘブル11:16)。

二つ目は、神様が私たちの苦しみを許されることがあるのは、ご自身の御業が私たちに現れるためだということです。そして、その御業を見るためには、私たちは盲人の模範に従わなければなりません。つまり、イエス様を信じ、イエス様に従うということです(ヨハネ7:37-38)。

あなたは今、どんな試練や苦しみに直面しているでしょうか。イエス様が良い方であり、あなたを愛し、あなたの最善を望んでおられると信じて、イエス様の前にひれ伏し、礼拝するでしょうか。

それだけではなく、イエス様に従うでしょうか。

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みことばのための場所を開ける

わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです。(ヨハネの福音書8:37)

そのことばを読んだとき、私は深く考えさせられました。

私たちは神の民として、自分の心の中に神様のみことばのための場所を開けているでしょうか。

言い換えれば、聖書を読むことによって、そのみことばを本当に大切にしているでしょうか。SNSやYouTube、テレビ、音楽、本などを少し脇に置いて、聖書を読む時間を作っているでしょうか。

しかし、それだけではありません。聖書を読むとき、神様が語りかける機会を与えているでしょうか。それとも、単に聖書を読んで「今日のクリスチャンとしての義務は果たした」と言って終わってしまうのでしょうか。

また、時には、聖書のことばが私たちの考え方や価値観に反することがあります。そのとき、私たちはどうするでしょうか。そのことばを押し退けて、「これは私のためのことばではない」あるいは「今は考えたくない」と言うのでしょうか。

それとも、自分の心から古い考え方や価値観を追い出し、その代わりにみことばを歓迎するのでしょうか。

天のお父さん、私がいつも心の中にみことばのための場所を開ける者でありますように。

あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。

あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。(31-32節)

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私がいのちを受けるため

イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。

なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」

すると、彼らはイエスに言った。「神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか。」

イエスは答えられた。「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」(ヨハネの福音書6:26-29)

イエス様、あなたのもとに来た人々は、ただパンを求めていました。まるでパンが一番大切なものであるかのように、彼らはふるまいました。まるでパンが永遠のいのちを与えるものであるかのように、彼らはふるまいました。

しかし、イエス様、私があなたのもとに来る理由は、あなたご自身を望むことです。なぜなら、あなたこそがいのちの源だからです。

十字架の上で、あなたはこの世のためにご自分のいのちをささげられました。この世の罪、私の罪のために、あなたの体は十字架にかけられ、あなたの血は流されました。

私の代わりにあなたが死んでくださったおかげで、私は今いのちを持っています。

けれども、それだけではありません。あなたは今もなお、継続的に私にいのちを与えてくださいます。初めてあなたのもとに来て、あなたを信じたとき、私はいのちを受けました。でも、毎日あなたのもとに来て信じることによって、私はいのちを継続的に受けています。

だから私は、一度だけではなく、何度も何度もあなたのもとに行って、あなたから霊的な栄養を受けなければなりません。

あなたは永遠のいのちのことばを持っておられます。

私が毎日の困難に直面するとき、そのことばは私にいのちを与えてくださいます。励ましてくださいます。導いてくださいます。知恵を与えてくださいます。私が間違った道を歩き始めるとき、そのことばは正しい道へと引き戻してくださいます。

しかし、あなたのことばだけでなく、私が失敗するときには、あなたの恵みも与えてくださいます。今もなお、私はあなたの十字架の御業に頼っています。

そして、その十字架の御業によって、私はあなたの力にアクセスすることができます。天の父があなたを復活させたその力は、今、私のうちにも働いています。

誘惑を克服する力。サタンの攻撃に打ち勝つ力。難しい人に対応する力。この世が私に投げつけるものを乗り越える力。

あなたのからだが十字架にかけられ、あなたの血が流されたとき、あなたは赦しと力といのちを買い取ってくださいました。

けれども、あなたが私に与えてくださった最も素晴らしい賜物は、あなたご自身です。毎日、あなたは私と共に歩んでくださいます。

だから、イエス様、私はあなたのもとに来て、こう願います。「あなたご自身を私に与えてください。私が必要としているのは、あなただけですから。」

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かわいそうパーティーを立ち去る

この話に登場する病の人は、まるで本格的な「かわいそうパーティー」を開いているようでした。

イエス様が「良くなりたいか」と尋ねられると、その人は「誰も助けてくれない」と文句を言いました。

しかし、イエス様は彼にこう言われました。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」

そして、イエス様の力によって、その人は癒されました。

私たちが苦しんでいるとき、どれほど「かわいそうパーティー」を開いているでしょうか。どれほど「誰も私を愛してくれない。誰も助けてくれない」と文句を言っているでしょうか。

けれども、イエス様は私たちに語りかけておられます。「私の助けを望んでいるの?私は喜んで助けてあげるよ。」

そして、もし私たちがイエス様の言葉に従うなら、神様の力によって、私たちの人生は変えられます。

あなたはどうでしょうか。あなたは「かわいそうパーティー」から立ち上がって、イエス様の言葉に従いますか。

それとも、そのまま座り続けて、自分をかわいそうに思い続けますか。

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壊れた水溜めに気づくために

しかし、あなたがたに言います。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。(ヨハネの福音書4:35)

今朝、その言葉は私の心に響きました。神様が私にその言葉を語っておられるのを感じたのです。

この世には、今日の話に登場する女性のような人々が多くいます。彼らは壊れた水溜めから水を飲んでいます(エレミヤ 2:13)。

心が空っぽで、その穴をさまざまなもので埋めようとします。一時的には満たされ、満足するかもしれませんが、最終的にはまた空っぽになってしまいます。

この女性は、何年も男性との関係で心の穴を満たそうとしてきました。しかし、五人の男性は壊れた水溜めであることが明らかになりました。そして、今一緒に暮らしている男性も、彼女と結婚するつもりはないようでした。

今、私は二人の人のことを思い浮かべています。彼らは深く苦しんでいて、イエス様を必要としています。だから、私は彼らに触れる機会のために祈っています。その機会を見逃さないために、私自身の目を開かなければなりません。

同時に、私はこう考えています。「私の周りには、壊れた水溜めから水を飲んでいる人々が何人いるのだろうか。」

あなたの周りにも、壊れた水溜めから水を飲んでいる人々がいるでしょうか。彼らに気づいていますか。

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 あなたが私の心を知っておられるから

人についてだれの証言も必要とされなかったからである。イエスは、人のうちに何があるかを知っておられたのである。(ヨハネの福音書2:25)

イエス様、あなたは私について誰の証言も必要とされません。私のうちに何があるのかを、すでに知っておられるからです。私の心の中に何があるのかを、すでに知っておられるのです。

正直に言えば、私自身が知っている以上に、あなたは私のことをよく知っておられます。ですから、み言葉という鏡をもって、私の心の中にあるものを映し出してください。

私がその姿を見ることを恐れる必要がないことを感謝します。なぜなら、鏡に映る私の姿がどんなに見苦しくても、あなたはすでにご自分の子どもとして私を受け入れてくださっているからです。そして、あなたの恵みによって私をきよめてくださいます。

あなたは普通の水を素晴らしいぶどう酒に変えられました。そのように、あなたが普通の私を素晴らしいものに変えてくださることを信じます。

私へのあなたの恵みと忠実さに感謝します。

あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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イエス様のもとにとどまる、イエス様にとどまる

イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」

彼らは言った。「ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊まりですか。」

イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすれば分かります。」

そこで、彼らはついて行って、イエスが泊まっておられるところを見た。そしてその日、イエスのもとにとどまった。(ヨハネの福音書1:38ー39)

わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。

枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。(ヨハネ15:4)

イエス様、アンデレとヨハネ(?)があなたに最初に尋ねたのは、「ラビ、どこにお泊まりですか。」ということでした。

あなたが彼らを歓迎されたので、彼らは一日中あなたのもとにとどまりました。

イエス様、私はあなたがおられるところに、私もいたいのです。私はあなたのもとにとどまりたいのです。あなたにとどまりたいのです。あなたの満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けるからです。

あなたの恵みで私を満たしてください。あなたの力で私を満たしてください。あなたの知恵で私を満たしてください。今日、私があなたのために実を結ぶことができますように。

あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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ヨハネの福音書のデボーション

私たちがイエス様を裏切るとき

今日、ヨハネの福音書21章を読んだとき、私はこう思いました。

どれだけペテロは自分の罪の重さを感じたでしょうか。どれだけ、ペテロはイエス様を裏切ったことを覚えていて、後悔したでしょうか。

でも、ペテロがイエス様の御前に立ったとき、イエス様は彼を叱り飛ばすようなことはなさいませんでした。イエス様はペテロから償いを要求しませんでした。

むしろ、イエス様はただ一つの質問を訊かれました。

「ペテロ、あなたは私を愛しますか。」

そして、ペテロの愛が不完全なものであったのに、イエス様はその愛を受け入れられました。

その後、イエス様はペテロに言われました。

「私に従いなさい。」

さらに、イエス様はペテロに御国の働きを委ねられました。

時々、私たちは罪悪感に打ちのめされます。私たちは自分の罪と失敗の大きさを見るから。

私たちは、いったいイエス様が私たちの罪を赦すことができるのか疑問に思います。

でも、イエス様は私たちにただ一つの質問を訊かれます。

「あなたは私を愛しますか。」

そして、私たちの愛がどんなに不完全なものであるにもかかわらず、イエス様はその愛を受け入れられます。

そして、イエス様は私たちに言われます。

「私に従いなさい。」

さらに、イエス様は、私たちのような壊れた人々に触れる働きを私たちに委ねられます。

だから、自分の罪の大きさを感じましょう。

でも、そのあと、神様のさらに大きな恵みを受けましょう。

私たちの罪は大きなものかもしれないけど、神様の恵みはさらに満ち溢れますから。(ローマ書5:20)