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ルカの福音書のデボーション

押しつぶされている?

あなたがたの心が、放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされていて、その日が罠のように、突然あなたがたに臨むことにならないように、よく気をつけなさい。(ルカの福音書21:34)

今日、「押しつぶされる」という言葉に心を打たれました。

毎日のニュースを見るたびに、不安に押しつぶされることは簡単です。

ある人は、飲酒や仕事、趣味に没頭することで、その不安から逃れようとします。

また、SNSで思いの丈を吐き出すことで、ストレスを解消しようとする人もいます。

しかし、私たちはどれほどイエス様が命じられたこと、そしてご自身が実践されたことを行っているでしょうか。

つまり、私たちはどれほど天のお父さんと時間を過ごし、祈っているでしょうか。(ルカ21:36-37)

そうすることで、私たちは固く立つ力を受け、物の見方が正されます。

神の国は近いのです。この世の問題は永遠のものではありません。イエス様の御言葉はすべて成就するのです。

その真理を思い出すことで、私たちは身を起こし、頭を上げることができます。なぜなら、私たちの贖いが近づいていることを知っているからです。(ルカ21:28)

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天のお父さん、あなたのものとは何ですか?

「デナリ銀貨をわたしに見せなさい。だれの肖像と銘がありますか。」

彼らは、「カエサルのです」と言った。

すると、イエスは彼らに言われた。「では、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」(ルカの福音書20:24-25)

天のお父さん、あなたのものとは何ですか?それはただ十一献金なのでしょうか。

いいえ。私の持ち物のすべて、私自身のすべてはあなたのものです。

あなたは私に、ご自身の肖像と御名を刻んでくださいました。 (創世記1:26-27、黙示録3:12)

私は、あなたのものです。

だから、祭司長たちや律法学者のように、私はあなたの権威や御子の権威に異議を唱える者とならないようにしてください。 (ルカ20:2)

むしろ、謙虚で感謝に満ちた心を持ち、あなたを何も得られずに去らせることなく、毎日、あなたが求められた実をあなたにお返しできますように。

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私たちの王を歓迎する?

もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。。。神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。(ルカの福音書19:42、44)

今日、私は上記の言葉を反芻していました。

私たちの王を歓迎すると、平和を知るようになります。(38節)

ザアカイは王に心の戸を開け、平和と喜びを知るようになりました。

彼に対して、イエス様が嘆かれたパリサイ人たちや他のユダヤ人たちは、その後どうなったのでしょうか。

イエス様、あなたの良い支配を歓迎せず、私の心の戸をあなたに開けないことで、どれほどの平和を失うでしょうか。

私の前に立たれているあなたを認識さえしないことで、どれほどの平和を失うでしょうか。

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祈り続ける信仰を持っている?

いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために、イエスは弟子たちにたとえを話された。。。

彼は大声で、「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と言った。

先を行く人たちが、黙らせようとしてたしなめたが、その人はますます激しく「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と叫んだ。(ルカの福音書18:1、38ー39)

私はその三つの節を繋げたことがないと思います。

この章の始まりでは、イエス様は弟子たちに、いつでも祈り、失望してはいけないことを教えられました。そして、この章の最後の話では、ある盲人がその教えを示しています。

イエス様が彼の声を聞こえていないように見え、周囲の人々が彼に黙るよう叫んだにもかかわらず、彼は憐れみを願い続けました。そして、最終的に憐れみを受けることができました。

しかし、例え話に出てくる裁判官と異なり、イエス様はその叫び声にうんざりしたからではなく、憐れみ深い救い主であるがゆえに、盲人を憐れまれたのです。

私はどうだろう?神様が私の叫びに答えられるのが遅いように感じるとき、私はすぐに諦めるだろうか。

私は神様の愛と慈しみを疑い始めるだろうか。それとも、神様が本当に良い方であり、私を愛してくださっていることを信じ続けるだろうか。

イエス様が再びこの世に来られるとき、私の中に信仰を見ることができるだろうか。(8節)

イエス様はあなたの中にも信仰を見られるでしょうか。

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私の心を支配してください

パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。

『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」(ルカの福音書17:20ー21)

天のお父さん、あなたが人々の心を支配されるところに、あなたの御国は存在しています。

パリサイ人たちは、自分たちのただ中にある御国を見ることができませんでした。なぜなら、あなたが彼らの心を支配しておられなかったからです(ルカ16:14ー15)。

では、あなたは私の心を支配してくださっているでしょうか。

もし私が、あなたの御国が周囲の人々にも及ぶ姿を見たいと思うのなら、まずあなたが私の心の中にご自身の御国を確立してくださらなければなりません。

ですから、私の良い王よ、どうか私の心のすべてを支配してください。

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親しみやすい?

さて、取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。(ルカの福音書15:1)

今日、なぜか私はその言葉に心を打たれました。そして、こう自問しました。「イエス様を知らない人にとって、私は親しみやすい人だろうか。」

正直に言うと、私はあまり社交的ではありません。人は好きですが、私は外交的な性格だとは言えません。

初対面の人と話すのは少し(いや、だいぶ?)苦手です。以前よりはうまく話せるようになりましたが、おそらく完全に自然にできるようにはならないでしょう。

それでも、人々は私の中にイエス様の愛を見ることができるでしょうか。私が彼らを見下すでもなく、責めるでもないと知って、気軽に私に近づけるでしょうか。

それが私の願いです。しかし振り返ると、私が親しみやすくなかった時もあると気づきます。

それに比べて、イエス様は親しみやすい方でした。そのため、「罪人」と呼ばれる人々でさえ、イエス様に惹きつけられました。一方で、パリサイ人が親しみやすいと感じた人は誰もいなかったのです。

私たちは、神様の国を広げ、人々を神の良いご支配の下に招く使命を与えられています。だから、イエス様と同じように、私たちも親しみやすい人でなければなりません。そうでなければ、その使命を果たすことはできません。

だから、今日私はこのように祈りました。「イエス様、どうか私があなたのように親しみやすい人になる方法を教えてください。」

あなたはどのような人ですか。あなたは親しみやすい人ですか。

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ただ一緒に歩いている?本当に従っている?

さて、大勢の群衆がイエスと一緒に歩いていたが、イエスは振り向いて彼らに言われた。

「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。(ルカの福音書14:25ー27)

イエス様の言葉は厳しく聞こえるかもしれません。しかし、イエス様は彼らに基本的にこう尋ねられていたのです。

「あなたがたは私の国に参加することを本当に望み、心から従っているのですか。それとも、ただ私と一緒に歩いているだけなのですか。」

これは、語られた例え話の一つの要点でした。ある人々は、最初は宴会に参加する意欲を示したものの、最終的には他のものを優先しました。(その宴会は神の国を象徴していました)。(16ー20節)

真の弟子とただ一緒に歩いているだけの人の違いは何でしょうか。

真の弟子たちは、イエス様とその御国を家族、財産、さらには自分の人生さえも上回るほど大切にし、心からイエス様を愛しています。

もちろん、イエス様は私たちに、自分の家族を文字通り憎むことや、すべての持ち物を手放すことを求めておられるわけではありません。

しかし、イエス様はこう問いかけておられます。「あなたにとって、私はどのような価値を持っていますか?私をすべてのものよりも優先しますか?」

イエス様は、すべてを犠牲にするほど私たちを愛しておられました。私たちはそのようにイエス様を大切にしているでしょうか。

イエス様が良い王であり、イエス様に従うことで最終的に命を失うどころか、命を得ることを本当に信じているでしょうか。

Love so amazing, so divine,
驚くほど素晴らしく、神聖な愛は、
Demands my soul, my life, my all.
私の魂、命、そしてすべてを本当に呼び求めます。

O the wonderful cross
ああ、素晴らしい十字架よ
Bids me come and die that I may truly live.
私が来て死ぬように、そして豊かに生きるように招かれています。

–アイザック・ワッツ、クリス・トムリン

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いつでも整っている?

腰に帯を締め、明かりをともしていなさい。主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸を開けようと、その帰りを待っている人たちのようでありなさい。(35ー36)

今日の箇所では、イエス様は再臨の準備について語られています。

しかし、私はこう思いました。「イエス様がいつ戸をたたかれるときでも、私にはすぐにお応えできる心が必要です。」

私が全然予想しないとき、イエス様が突然戸をたたき、こう言われるかもしれません。 「今、私はあなたを必要としています。あなたに触れてほしい人がいるのです。」

そのとき、私はすぐにお応えすることができますか。

私にとって、それは決して簡単なことではありません。自分の人生が自分のものであるかのように生きることは容易だからです。けれども、私の人生はイエス様のものです。私はイエス様のしもべです。

だから、イエス様が私の戸をたたかれるとき、いつでも私の心は整えられていなければなりません。

あなたはどうでしょうか。あなたの心は整っていますか。

帰って来た主人に、目を覚ましているのを見てもらえるしもべたちは幸いです。(37)

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御名が聖なるものとされている?

父よ、御名が聖なるものとされますように。(ルカの福音書11:2)

天のお父さん、あなたの御名が聖なるものとされるとは、いったいどういう意味でしょうか。

それは、あなたを最高の誉れにふさわしい方とすることではないでしょうか。

つまり、私のすべてにおいて、あなたが最善を受けるにふさわしい方であると認めます。だから、二番目や三番目のもの、さらに残り物を捧げてはなりません。

あなたこそが、私のすべてを受けるべき方です。

私の愛のすべて。

私の信頼のすべて。

私の服従のすべて。

私の人生のすべて。

しかし私は、どれほどあなたを俗なもの、ありふれたものとして扱ってしまうでしょうか。

あなたにふさわしい誉れを捧げず、 あなたよりも他のものを優先し、 二番目や三番目のもの、さらに残り物をあなたに捧げてしまうことがあります。

あなたのご計画よりも自分の計画を求め、 さらには、あなたが忌み嫌われることにふけることすらあります。

天のお父さん、どうかあなたの御名が日本、アメリカ、そして世界中で聖なるものとされますように。すべての人々が、あなたにふさわしい誉れを捧げますように。

しかしまず、私の人生の中で、あなたの御名が聖なるものとされますように。

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開いた口

(マルタ)にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。(ルカの福音書10:39)

マリアの心について読むたびに、私は深く感動します。

でも今日は、祈るときに偶然にも詩篇81篇を開きました。その箇所で、神様は次のように言われました。

わたしは、あなたの神、主である。。。あなたの口を大きく開けよ。わたしが、それを満たそう。(詩篇81:10)

マルタは忙しすぎて、イエス様の御言葉を聞く時間がありませんでした。(40-41節)

律法の専門家は、イエス様の御言葉から逃げようとしました。(29節)

しかし、マリアはイエス様の御言葉に口を大きく開けました。そして、イエス様はその口を満たしてくださいました。

私もマリアのように、イエス様の御言葉に口を大きく開けたいと思います。それだけでなく、その言葉を素直に受け止めたいのです。

あなたのみことばは、私の上あごになんと甘いことでしょう。 蜜よりも私の口に甘いのです。(詩篇119:103)

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弟子とは

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。(ルカの福音書9:23)

今朝、イエス様の御言葉を反芻していました。その御言葉を言い換えるなら、

わたしの弟子になりたいと思うなら(実際、すべてのクリスチャンは弟子です):

1. 自分中心に生きることをやめなさい。「私の人生」という考え方を手放しなさい。

2. むしろ、毎日すべてを天の父に明け渡しなさい。すべてを捧げ、すべてにおいて従いなさい。(ピリピ2:8)

3. 毎日毎日、一瞬一瞬わたしと共に歩みなさい。わたしから学び、わたしの働きに参加しなさい。御父の良い統治のもとへ人々を招きなさい。

イエス様の言葉を考えると、「日々」という言葉が私の心に響きました。クリスチャン生活は、一週間に一度だけのものではなく、日々のものです。

さらに、イエス様だけではなく、天の父も私たちがイエス様の弟子となるように呼んでおられます。

これはわたしの選んだ子。彼の言うことを聞け。(ルカ9:35)

だから、今日私はこのように祈りました。

イエス様、あなたは私の良い王です。どうか、私が毎日あなたに従い、あなたの弟子として生きることができますように導いてください。

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権威

イエス様、あなたは私の王です。でも、私の人生で、あなたの権威を完全に認めているでしょうか。

百人隊長はあなたの御言葉の権威を認めていました。(ルカの福音書7:7ー8)

私もその権威を認めているでしょうか。

あなたの御言葉は、死人を復活させる力を持っておられます。(ルカ7:14ー15)

そして、いつの日か、あなたの御言葉によってすべての死人が復活し、あなたが彼らを裁かれます。私も裁かれるでしょう。(ヨハネ5:25ー29)

その日、あなたは私に何を語られるでしょうか。私の信仰に驚かれるでしょうか。私が完全にあなたを信頼し、その御言葉に従ったことを喜ばれるでしょうか。

それとも、あなたは「なぜあなたは、わたしを「主よ、主よ」と呼びながら、わたしの言うことを行わなかったのですか。」と尋ねられるでしょうか。(ルカ6:46)

私はあなたを心から信じています。それでも、私たちの信仰を増し加えてください。すべてにおいて、あなたに従うことができるよう導いてください。

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深く掘り下げる?

なぜあなたがたは、わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、わたしの言うことを行わないのですか。

わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行う人がみな、どんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。

その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、家を建てた人に似ています。(ルカの福音書6:46ー48)

天のお父さん、 聖書を読むとき、どうか私があなたの御言葉をただ表面的に読むのではなく、その意味を深く考え、思いを巡らすよう導いてください。

私があなたの御言葉を理解し、それを通してあなたが私に何を語られるのかを知ることができるように、求める心を与えてください。

イエス様、私があなたを「主よ、主よ」と呼びながら、あなたの御言葉に従わない者にならないようにしてください。

あなたは私の王です。あなたが良い王であることを信じています。だからこそ、あなたの御言葉に聞こうとする耳と、喜んで従う心を与えてください。

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私たちを喜んで清めてくださる方

これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して言った。「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」(ルカの福音書5:8)

興味深いことに、ペテロの言葉はツァラアトに冒された人々の言葉に似ています。

神の律法によれば、ツァラアトに冒された人々は、「私から離れなさい。私は汚れているから。」と周囲の人々に警告するように求められていました。(レビ記13:45ー46)

しかし、ルカの福音書では、ツァラアトに冒された人がイエス様に近づき、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります。」と言っています。

イエス様は「わたしの心だ」と言われ、その人を清められました。さらに、イエス様はペテロと中風を患っている人の罪をも清められました。

マタイの場合、イエス様は積極的にマタイを追いかけ、その罪を清めてくださいました。

同じように、イエス様は私たちをも追いかけてくださいました。私たちが自分の道を行き、イエス様を価値のないものと見なしたにもかかわらず、イエス様は十字架で私たちの反逆の代償を払ってくださいました。

だから、私たちがイエス様に近づき、あわれみを願うとき、イエス様はこう言われます。「わたしの心だ。きよくなれ。」

ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル4:16)

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開かれた耳、柔らかい心

私の意見ですが、もしかすると、イエス様がバプテスマを受けたとき、詩篇40:6ー8の言葉を祈られたのかもしれません。

あなたは私の耳を開いてくださいました。。。そのとき、私は申し上げました。「今、私はここに来ております。巻物の書に私のことが書いてあります。わが神よ、私は、あなたのみこころを行うことを喜びとします。

ヘブル書の著者によれば、イエス様はその言葉を祈られましたが、実際にご自身のバプテスマの際にその言葉を祈られたかどうかは分かりません。(ヘブル書10:5ー7)

いずれにせよ、イエス様が神様に対して常に開かれた耳と柔らかい心を持っておられたことは確かです。

その一方で、ヘロデにはそのようなものがありませんでした。特に、自分の罪のためにバプテスマのヨハネから責められたときには、それが顕著でした。(ルカの福音書3:19ー20)

一方、バプテスマを受けた人たちは開かれた耳と柔らかい心を持っていました。それは彼らの反応から分かります。

「私たちはどうすればよいのでしょうか。」(ルカ3:10、12、14)

これはまさに開かれた耳と柔らかい心の問いかけです。

イエス様はそのような心を常に持っておられました。

私もそのような心を持ちたいと思います。

あなたは、そのような心を持っていますか。

神の御言葉を読んだり聞いたりするとき、私たちもあの人たちと同じように反応しましょう。

「私たちはどうすればよいのでしょうか。私は、あなたのみこころを行うことを喜びとします。」

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真の平和

いと高き所で、栄光が神にあるように。 地の上で、平和が みこころにかなう人々にあるように。(ルカの福音書2:13ー14)

上記の言葉を読んだとき、私の牧師が最近語られたメッセージを思い起こしました。そのテーマは、イエス様がもたらされる平和がこの世の平和と異なることでした。

天の軍勢が現れたとき、もしかすると、羊飼いたちは天使たちがローマの圧迫を滅ぼすために来たと思ったかもしれません。

恐ろしいことですが、その天使たちが羊飼いたち自身を滅ぼすために来たと思ったかもしれません。神様の栄光によって、人々の罪が明らかにされるからです。

しかし、それどころか、天の軍勢は平和を宣言しました。その平和は羊飼いやユダヤ人たちだけのためではなく、すべての人々のためです。(ルカ2:10)

でも、どのような平和が伝えられたのでしょうか。

それは神様との平和です。

その平和は私たちの人生に入り込み、こう語ります。

「あなたは罪人ですが、恐れる必要はありません。イエス様があなたの罪の代償を支払ってくださいました。だから、あなたは今、恵まれた者です。

エリサベツとマリアと同じように、私の恵みを受けたのです。あなたは私の心にかなう者となりました。」(ルカ1:25、28ー30)

この真理は本当に心に納め、思い巡らすべきものです。(ルカ2:19)

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愚か者で、心が鈍い

そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。(ルカの福音書24:25)

イエス様、その二人の弟子たちのように、私は愚かで、心が鈍いために、預言者たちの言ったことだけではなく、あなたの言ったことを信じられない時がどれほど多いでしょうか。

私は愚かで、心が鈍いために、すぐに落ち込み、絶望する時がどれほど多いでしょうか。

私は愚かで、心が鈍いために、この世界で、私の中であなたが何をしようとしているのか分からない時がどれほど多いでしょうか。

私は愚かで、心が鈍いために、あなたを信頼せず、愚かな決断をする時がどれほど多いでしょうか。

赦してください。

イエス様、私の目を開いてください。私に悟りを与えてください。あなたの言葉によって、私の心が内で燃えて、希望といのちと平和と喜びが湧き上がるように。

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私たちがつまずくとき

シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。

しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。

ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカの福音書22:31ー32)

ペテロは大失敗してしまいました。22章の最後では、イエス様の目の前で、ペテロは「イエス様を知らない」と言っていました。

でも、私たち皆が大失敗する時があります。私たち皆がイエス様を失望させる時もあります。

では、私たちはどうやって立ち直ることができるでしょうか。

イエス様の言葉を思い起こすべきです。

つまり、イエス様はあなたのために祈っているということです。イエス様は私たちを見限っているわけではありません。今なお、イエス様は私たちのためにとりなしてくださっているのです。

だから、イエス様のもとに戻りましょう。

そして、他のつまずいてしまった人たちを見たら、彼らを力づけてやりましょう。彼らに言いましょう。

「私はあなたに共感できます。私も失敗することがあります。でも、イエス様は私を赦してくださいました。あなたをも赦してくださいます。だから、一緒にイエス様のもとに戻りましょう。」

サタンの気に入った嘘は、「あなただけだよ。あなただけがこのように失敗するよ」ということです。

でも、現実は、もっとも偉いクリスチャンでも大失敗することがあるということです。

真理は、イエス様が私たちを見限ることはないということです。今でも、イエス様は私たちのために祈っていて、待っていてくださるのです。

だから、互いにその真理を思い起こし、励まし合いましょう。

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主よ、私の目が見えるようにしてください

弟子たちには、(イエスが言われたこと)が何一つ分からなかった。彼らにはこのことばが隠されていて、話されたことが理解できなかった。(ルカの福音書18:34)

(目の見えない人)が近くに来ると、イエスはお尋ねになった。「わたしに何をしてほしいのですか。」

するとその人は答えた。「主よ、目が見えるようにしてください。」(40ー41節)

イエス様、どれだけあなたは私に大切なこと、私が聞かなくてはならないことを伝えたいと思っておられるでしょうか。でも、弟子たちと同じように、私にはその言葉が隠されていて、理解できないのでしょうか。

私は霊的に盲目になりたくありません。どうか、私の目が見えるようにしてください。あなたが言わんとしていることを理解できるように、私の心の目を開いてください。

あなたが私に言わんとしていることを理解し、受け入れることを妨げるものを、私の心から取り除いてください。

パリサイ人のプライドを、私の心から取り除いてください。

すべてをあなたに開け渡そうとしない指導者の態度を、私の心から取り除いてください。

主よ、あなたにすべてを開け渡すことには、喜びがあります。あなたに従うことには、喜びがあります。

目が見えない人は、その喜びを知りました。

私も、その喜びを知るように。

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自分自身に気をつけなさい

イエスは弟子たちに言われた。

「つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。

その者にとっては、これらの小さい者たちの一人をつまずかせるより、ひき臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれるほうがましです。

あなたがたは、自分自身に気をつけなさい。兄弟が罪を犯したなら、戒めなさい。そして悔い改めるなら、赦しなさい。

一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回あなたのところに来て『悔い改めます』と言うなら、赦しなさい。」(ルカの福音書17:1ー4)

「あなたがたは、自分自身に気をつけなさい」という言葉は、その前の言葉に繋がっているでしょうか。もしかすると、そのあとの言葉に繋がっているでしょうか。答えは少し微妙です。

(新約聖書の節番号は、西暦1555年に発明されたことをご存じでしたか。)

とにかく、「あなたがたは、自分自身に気をつけなさい」という言葉は、どちらにも繋がると考えるのが理にかなっています。

1ー2節を読むと、いつも身に染みます。今朝、私は祈りました。

「天のお父さん、私はつまずきをもたらす者になりたくありません。私のせいで妻と娘がつまずかないように。私のせいで同僚たちと生徒たちがつまずかないように。私のせいで教会の兄弟たちと姉妹たちがつまずかないように。」

でも、もう一つのことに関して、私たちは自分自身に気をつけなければなりません。

私たちは傷ついたとき、苦々しい思いに気をつけなければなりません。私たちは相手への怒りを心にずっと抱いてはいけません。むしろ、私たちはすぐに相手と話さなくてはなりません。その目的は、単に怒りをぶつけることではなく、和解を求めることです。

でも、相手が悔い改めても、悔い改めなくても、私たちは許すべきです。それは相手の益のためではなく、私たちの益のためです。

相手を許さないと、苦々しい思いは私たちの心を蝕んでしまいます。だから、そういう意味でも、私たちは自分自身に気をつけなければなりません。

神よ、私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。

私のうちに、傷のついた道があるかないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(詩篇139:23ー24)

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私たちが入ろうとしないとき

すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て彼をなだめた。(ルカの福音書15:28節)

上の言葉に私は心打たれました。

放蕩息子の話を読むとき、私たちはたいてい次男に注目します。

でも、この話に登場する父親は、次男だけではなく、長男をも愛していました。

だから、長男が愚かな態度を取り、苦々しい思いを抱いて、家に入ろうとしないと、父親はその息子のところに行きました。

私たちは、どれだけ長男のように振る舞うでしょうか。

自分の問題のため、あるいは神様に不当に扱われていると感じるために、私たちは愚かな態度を取り、苦々しい思いを抱いて、神様のもとに来ようとしません。

でも、私たちが入ろうとしないとき、神様は出て来ます。神様は私たちを救われたとき、そのような恵みを与えてくださったし、今なお、その同じ恵みを与えてくださいます。

詩人アサフも、そのような恵みを受けて、こう書きました。

私の心が苦みに満ち 私の内なる思いが突き刺されたとき、私は愚かで考えもなく、あなたの前で、獣のようでした。

しかし、私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手を、しっかりとつかんでくださいました。

あなたは、私を諭して導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいます。(詩篇73:21ー24)

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闇の力に縛られた国への祈り

この人はアブラハムの娘です。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。

安息日に、この束縛を解いてやるべきではありませんか。(直訳:安息日に、彼女はこの束縛から解き放たれる必要がないんですか。)(ルカの福音書13:16)

天のお父さん、この国のために祈ります。日本は、18年ではなく、何千年もの間サタンに縛られているのです。日本はこの束縛から解き放たれる必要がないのでしょうか。

サタンに縛られている人々のためのイエスのあわれみ深い心を私に与えてください。

天のお父さん、からし種のようにあなたの御国が成長し、日本中に広がり、人々があなただけにある平安を知るように。

また、パン種のように、あなたの御国がこの社会の隅々にまで浸透し、完全に変容するように。

天のお父さん、あなたの御国が来ますように。

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自分の心を守る

イエスはまず弟子たちに話し始められた。「パリサイ人のパン種、すなわち偽善には気をつけなさい。」(ルカの福音書12:1)

そして人々に言われた。「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」(15)

そのことばを読んだとき、私は、自分の心にどんな偽善や貪欲さがあるのかを考えました。今もなお考え続けていますが、もう一つの思いが心に浮かびました。

それは、イエス様が私たちの心、そして心の中にあるものを深く気にかけておられるということです。だからこそ、ルカ12章でイエス様は二度、「気を付けなさい。警戒しなさい」と言われました。

では、私たちはどうすれば、自分の心を守ることができるのでしょうか。

今日の箇所を読んで、私が思ったのは、「私たちは心の中でどんな対話をしているのだろうか」ということです。

興味深いのは、17節の「考えた」と訳されているギリシャ語の単語が、英語の “dialogue” の語源となっていることです。つまり、「対話」です。

イエス様のたとえ話に登場する人物は、心の中で考えていました。彼は、自分自身と対話していたのです。そして、その対話は、彼の貪欲さを明らかにしました。

あなたの心の中で何が起こっているのか、知りたいと思いますか。

では、あなたの心の中で、どんな対話をしているのでしょうか。

自分との対話だけではなく、心の中で他人との議論がどれだけあるでしょうか。

その対話は、私たちの心の中身を明らかにします。だから、イエス様は私たちに注意されます。「心の中の対話が、あなたをどこに導いているのか——気を付けなさい。」

天のお父さん、私が自分の心を守ることができるように助けてください。貪欲に対しても、偽善に対しても。あなたとの関係や、私たちの人間関係を損なう態度に対しても。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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指一本だけで

しかし、わたしが神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。(ルカの福音書11:20)

霊的な戦い、特に私たちの敵サタンを考えるとき、私たちは大切な真理を忘れがちです。

それは、神様がサタンよりも断然強いということです。

サタンは神様と対等ではありません。

神様は創造主です。サタンは、ただの被造物なのです。

神様は、小指一本だけでサタンを破ることができます。

だから、霊的な戦いに直面するとき、私たちのうちにおられる方を信じて、立ち向かいましょう。

そして、ヨハネのことばを心に留めておきましょう。

子どもたち。あなたがたは神から出た者であり、彼らに勝ちました。

あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも偉大だからです。(第一ヨハネ4:4)

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信仰があれば

恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われます。(ルカの福音書8:50)

今日、私は上のことばを反芻しました。

信仰が弱くて、弟子たちは嵐を恐れました。

信仰がなくて、ゲラサの人々はイエス様を恐れ、イエス様に自分たちのところから出て行ってほしいと願いました。

その一方で、長血を患って苦しんでいた女の人は、イエス様の反応を恐れましたが、信仰によって、イエス様に受け入れられ、癒されました。

また、ヤイロは恐れに負けず、イエス様を信じたゆえに、娘は復活しました。

信仰があれば、恐れる必要はありません。

嵐も、悪霊も、健康問題も、死も、そしてもちろんイエス様をも、恐れる必要はありません。

むしろ、私たちは赦し(7:50)、救い、神の受け入れ、平安、そして命を知るのです。

それは本当に素晴らしい真理ですね。

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でも、真理は。。。

だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。(ルカの福音書7:23)

最近、私は霊的な戦いについて考えています。実は、日曜日から、私の教会では霊的な戦いに関するメッセージのシリーズが始まりました。

私たちの敵であるサタンについて考えたとき、私が気づいたのは、サタンの主な武器の一つが欺きと嘘であるということです。イエス様は、サタンを「偽りの父」と呼ばれました。(ヨハネ8:44)

サタンは、バプテスマのヨハネに対して、その武器を振るっていました。

「あなたの人生は無駄だった。あなたはこの牢に入っているが、いったい何を成し遂げたのか。

あなたはイエス様をメシアとして宣言したが、それは本当なのか?彼はローマ帝国からイスラエルを自由にしていないし、あなたを助けてもいない。あなたはまだここにいるではないか。」

嘘と真実を混ぜ合わせるのは、本当に効果的な武器ですね。

だから、ヨハネは自分の弟子たちをイエス様のもとに遣わし、尋ねました。「来るべき方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」

イエス様はどのように答えられたでしょうか。イエス様は、人々を癒し、悪霊を追い出し、福音を宣べ伝えられました。

そして、イエス様はヨハネに、基本的にこう言われたのです。

「あなたは、私に失望しているのですね。私があなたの予想通りにローマ帝国を倒していないから。

でも、真理は、私はメシアです。そして、私はメシアに関する聖書の預言を成就しています。

だから、自分の人生や働きが無駄だと思わないでください。真理をしっかり信じなさい。私自身が真理です。だれでも、私につまずかない者は幸いです。」

サタンが私たちを嘘で攻撃するとき、私たちのクリスチャン生活がうまくいかないとき、私たちがイエス様に失望し、イエス様が良い方であることを疑うとき、その痛みと疑いのサイクルを破って、宣言しましょう。

「私はこのように感じているかもしれません。でも、真理は、イエス様は良い方です。真理は、イエス様が本当に神の子で、私の救い主です。真理は、イエス様は私を愛しておられます。」

そして何よりも、覚えていましょう。「イエス様自身が真理です。」

真理は、イエス様に信頼する者が、決して失望させられることがないということです。(ローマ10:11、第一ペテロ2:6)

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目を覚まして祈る

そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。(ルカ6:12)

ルカ3〜6章を読んで、イエス様が祈るために、3回一人で出て行かれたことに気づきました。

5章によれば、イエス様はしばしばそうされました。

今朝、私が思ったのは、私もイエス様の模範に従うべきだということです。

天の父は私を愛し、私の回りの人々に触れたいと願っておられます。でも、私は天の父が何をなさっているのか、気づいているでしょうか。

その一方で、サタンは私を憎み、私と私の愛する人々を滅ぼそうとしています。でも、私はサタンが何を謀っているのか、気づいているでしょうか。

イエス様は私たちに、「目を覚まして祈っていなさい」と命じられました。

パウロとペテロも、同じことを私たちに語っています。(エペソ6:18、コロサイ4:2、第一ペテロ4:7)

でも、私はそのことばに従っているでしょうか。

天のお父さん、あなたが何をなさっているのか、また、サタンが何を謀っているのか、私がしっかり気づくことができますように。

イエス様がなさったように、目を覚まして祈ることを、私に教えてください。

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弱く、罪深くても

ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して言った。「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから」。。。

イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとるようになるのです。」(ルカの福音書5:8,10)

ルカ5章とヨハネ21章には共通点があります。特に、ペテロたちはイエス様のことばに従い、奇跡的にたくさんの魚を捕ったことです。

その二つの話にあるペテロの感情とイエス様の反応が、私の心に深く残りました。

ペテロは、自分の罪を見て、イエス様にこう叫びます。「私はあなたとともに歩むにふさわしくありません。」

しかし、イエス様はペテロに言われます。「恐れないで。私はあなたの罪を見ています。それでも、私はあなたとともに歩みたいし、私のミッションのためにあなたを用いたいのです。」

そして、三年が経ち、イエス様の復活の後、ペテロはさらに自分の罪深さと弱さを知ることになりました。イエス様に忠実であると約束した数時間後、ペテロは三度、イエス様を知らないと言ってしまいました。

そのあと、イエス様に出会ったとき、ペテロは「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから」とは言いませんでしたが、おそらくペテロは自分に対して、さらに疑いを抱いていたでしょう。

「イエス様は、まだ私を用いることができるだろうか。イエス様は、まだ私を用いたいと思っておられるだろうか。」

けれども、イエス様はペテロを励まされました。

「私を愛していますか。よし、私の子羊を飼いなさい。」

「私を愛していますか。よし、私の羊を牧しなさい。」

「私を愛していますか。よし、私の羊を飼いなさい。」

そして、イエス様はペテロに言われました。「私に従いなさい。」

それは本当に素晴らしいことだと思います。イエス様は、私の弱さと罪をご覧になります。

でも、私が「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。私はあなたにふさわしくない者です」と言うとき、イエス様はこう答えられます。

「恐れないで。あなたの失敗や罪に関わらず、私はあなたを受け入れました。さあ、私に従いなさい。私と一緒に行って、私から受けた愛と恵みで、周りの人々に触れましょう。」

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神の御子、神の子

イエスもバプテスマを受けられた。そして祈っておられると、天が開け、 聖霊が鳩のような形をして、イエスの上に降って来られた。

すると、天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」(ルカの福音書3:21ー22)

このアダムは神の子である。(38節、新改訳(第三版))

イエス様、あなたは天の父が喜ばれる神の子です。

天のお父さん、あなたはかつてアダムについても同じことを言われました。けれども、アダムは反逆し、罪を犯しました。そして、アダムによって、罪と死がこの世に入りました。

しかし、イエス様、あなたによって、私たちは赦され、永遠のいのちを与えられました。(ローマ5:12〜21)

天のお父さん、日本の人々、また世界中の人々が、あなたの救いを見ることができますように。(ルカ3:6)

イエス様、人々に悔い改めを促し、あなたに指し示したヨハネのような心と熱心を、私に与えてください。

また、あなたが救おうとされている人々に対する、あなたの心を私に与えてください。

あなたの心を、私に与えてください。

アーメン。

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天の父のことに関わる

わたしが自分の父の家にいるのは当然(直訳:必要)であることを、ご存じなかったのですか。(ルカの福音書2:49)

今朝、イエス様のことばは私の心を打ちました。12才のイエス様がすでにご存じだったのは、「わたしが自分の父の家にいるのは必要なのだ」ということです。

私には、この考えが思い浮かびました。「日曜日に、神の民は『私が自分の父の家にいるのは必要なのだ』と考えるだろうか。」

でも、49節の脚注を見ると、もう一つのことを思い起こしました。それは、ギリシャ語には「家」ということばは書かれていないということです。

文字通りには、イエス様が言われたのは、「わたしが自分の父のことに関わることは必要なのだ」ということです。

その「こと」は少し微妙です。イエス様の親たちはイエス様を探していたのだから、その「こと」が「父の家にいること」を意味するのは理にかなっています。

でも、新改訳の脚注によれば、さらに二つの可能性があります。それは、「父の者の間にいること」と「父のみわざのうちにいること」です。

正直に言うと、私が自己中心になるのは簡単なことです。

でも、私はイエス様のようになりたいです。天の父のみわざに関わりたいです。天の父が大事にされるものを、私も大事にしたいのです。

イエス様、あなたの心が欲しいです。毎日、天の父が大事にされるものを、私も大事にする者となれますように。

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どうして?

すなわち、暴動と人殺しのかどで牢に入れられていた男を願いどおりに釈放し、他方イエスを彼らに引き渡して好きなようにさせた。(ルカの福音書23:25)

「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。

だがこの方は、悪いことを何もしていない。」(40-41)

主よ、あなたが十字架で私のためにしてくださったことを理解するのは、あまりにも深く、難しいのです。

私は死刑を受けるべき者でした。罪人である私が死刑に値するのは当然のことでした(ローマ6:23)。

それに対して、あなたは無実でした。あなたは悪を何一つ行っておられませんでした。それなのに、あなたは十字架につけられるために引き渡され、私はバラバのように解放されました。

バラバは、「なぜイエスではなく、私が解放されたのだろうか」と疑問に思ったでしょうか。

また、「なぜ私ではなく、イエス様が十字架につけられたのだろうか」と思ったでしょうか。

あなたが十字架につけられたとき、バラバもその場にいて、あなたを見ていたでしょうか。

群衆と共に、彼も胸を打ち叩きながら悲しみに沈んで帰って行ったのでしょうか。

主よ、あなたが私のためにしてくださったことを思うとき、私は言葉を失います。

Amazing love! 
How can it be that you my King would die for me?

素晴らしい愛。どうしてこんなことが起こるのでしょうか。
あなた、私の王が、私のために死んでくださるなんて!

ビリー・ジェームズ・フット
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イエス様への祈り

シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。

しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカの福音書22:31ー32)

主よ、ある日、あなたはこの世に来て、すべてを治められます。その日、私たちはあなたと共に治めます(第二テモテ2:12)。

それに、私たちはあなたの食卓で食し、あなたとの交わりを楽しみます。

でも、今はその時ではありません。ペテロや弟子たちのように、私たちは試練に直面します。その試練によって、サタンは私たちを麦のようにふるいにかけようと望んでいます。

だから、ペテロのために祈ってくださったように、私たちのためにも祈ってください。私たちのためにとりなしてください。

主よ。私は自分のことをよく知っています。私が失敗する時が必ず来ます。

でも、その時、私を引き起こしてください。そして、私の兄弟たちを力づけるために、私を用いてください。彼らに、私が受けた恵みを彼らも受けることができることを思い出させてください。

そして、私が落ち込んでいる時、あなたの恵みが私から遠く感じる時、私を力づけるために、私の兄弟たちを用いてください。

あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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私たちの主の模範に倣う

「あなたがたの心が、放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされていて、その日が罠のように、突然あなたがたに臨むことにならないように、よく気をつけなさい。

その日は、全地の表に住むすべての人に突然臨むのです。

しかし、あなたがたは、必ず起こるこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。」

こうしてイエスは、昼は宮で教え、夜は外に出てオリーブという山で過ごされた。(ルカの福音書21:34~37)

イエス様は私たちに安楽な人生を約束してはいないのです。

弟子たちは、イエス様がローマ帝国を打ち倒し、自分の国を建てるという夢を持っていました。けれども、イエス様はエルサレムが倒れ、彼らがイエス様のために迫害されることを警告されました。

さらに、イエス様は、ご自身が雲のうちに来られる前に、他の試練も訪れることを警告されました。

だから、イエス様は彼らを戒められました。「いつも目を覚まして、その試練から逃げられるように祈っていなさい。」

興味深いのは、イエス様がすぐに弟子たちに模範を示されたということです。

イエス様には、ご自身の試練が迫っていました。つまり、彼はすぐに私たちの罪のために十字架にかけられるということです。

だから、イエス様は毎晩オリーブ山に登られました。彼が寝るために行ったとは思えません。おそらく、彼は力を得るために祈っておられたのでしょう。

もちろん、イエス様は十字架から逃げることはできませんでした。しかし、最終的に彼は十字架を耐え忍び、三日目によみがえられました。

イエス様のように、私たちも避けられない試練に直面するかもしれません。私たちが苦しむ時もあります。弟子たちのように、私たちがイエス様のために迫害されるかもしれません。

あなたは、その試練を耐える力を持っているかどうか疑問に思うかもしれません。あなたにはそのような力はありません。私にもありません。自分の力によって、その試練を乗り越えることはできません。

だから、イエス様の模範に従って、力を得るために祈りましょう。そして、天の父がイエス様を強くされたように、私たちをも強くしてくださいます。(ルカ22:43)

私たちは、自分の十字架に遭遇しなければならないかもしれません。でも、イエス様のように、復活をも経験するのです。

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イエス様が訪れるとき

もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。。。

神の訪れの時を、おまえが知らなかった。。。(ルカの福音書19:42,44)

数週間前、私の牧師が霊的な盲目について話して以来、私はそのテーマをルカの福音書の中で何度も見ています。

弟子たちもパリサイ人たちも、自分の霊的な目と耳を閉じていて、多くのことが彼らの目から隠されていました。(ルカ18:34;19:39-41)

弟子たちの場合、彼らは少なくともイエス様がメシアであることを認めていました。(メシアが何なのかはちゃんと分かっていなかったけれど。)

でもパリサイ人たちは、イエス様の奇跡を見て、イエス様の知恵に答えられなかったのに(ルカ13:17;14:6)、目と耳を閉じて、イエス様を拒絶しました。だから、彼らは神の訪れの時を知らなかったのです。

彼らとは対照的に、イエス様が訪れたとき、二人の人々はイエス様を本当に見たいし、聞きたいと願っていました。

エリコで、バルティマイという盲人は「私は見たい」と叫びました。

多くの人々が彼を黙らせようとしましたが、彼はあきらめずに叫び続けました。イエス様は彼の声を聞いて、彼を呼んでくださいました。

そして、バルティマイの信仰によって、彼は救われました。(ルカ18:35-43、マルコ10:46-52)

ザアカイは背が低かったので、イエス様を見るために、頑張って木に登って目を凝らしました。イエス様は彼も見て、呼んでくださいました。

そして、イエス様がザアカイの家に訪れて、悔い改めのメッセージを述べ伝えると、ザアカイは悔い改めて、救われました。(ルカ19:1-10)

イエス様は私たちのところに訪れ、私たちに平和と救いを与えたいと願っておられます。でも、私たちの目と耳を開かないと、その平和と救いを知ることができません。

クリスチャンでも、盲目になる可能性があります。

ラオディキアの教会は盲目でした。彼らは「良い生活」を送っていました。でも、イエス様によれば、彼らは実際にはみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸でした。(黙示録3:17)

だから、イエス様は彼らに言いました。「私はあなたに義を着せて、目が見えるようにします。」

イエス様は私たちにも同じことを言われます。

イエス様は私たちを愛して、ザアカイのように悔い改めるように呼びかけておられます。(黙示録3:19)

だから、イエス様の言葉に耳を傾けて、従いましょう。

見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(黙示録3:20)

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イエスに従うことを妨げるもの

イエスは皆に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。(ルカ9:23)

私たちがイエス様に従うことを妨げるものは何でしょうか。

パリサイ人の場合、プライドは大きな問題でした。特に、彼らは自分の義を誇り、自分の罪を見ることができなかったのです。そのような人々には、憐れみの必要性や救い主の必要性がわかりませんでした。(ルカ18:9-14)

指導者の場合、自分の持ち物が大きな問題でした。つまり、イエス様に従うことよりも、楽な生活と安心感を与えてくれるお金を優先したということです。(18-25)

弟子たちの場合、イエス様に従うことを妨げるものは、自分たちの夢でした。それは、イエス様がローマ帝国を打ち倒し、イエス様の国の中で彼らに偉大な地位を与えるという夢です。

それ以外のことについては、彼らはイエス様のためにすべてを捨てていましたが、その夢だけは手放すことができませんでした。

だから、イエス様がご自身の死について話されたとき、彼らは理解できなかったのです。ペテロの場合、彼はイエス様をいさめようとしました。(マルコ8:32)

神様、罪人の私をあわれんでください。

私のプライドを赦してください。自分の罪を軽く見て、ほかの人々を見下すことを赦してください。私が自分の罪を見て、あなたの恵みの必要性を認識するように助けてください。

私の偶像礼拝を赦してください。あなたに従うことよりも、ほかのものを優先することを赦してください。

自分の夢と希望にしがみつき、あなたの言葉に目と耳を閉じることを赦してください。

あなたは良い方です。だから、あなたに従うために私にとって尊いものを失っても、もっと素晴らしいものを見つけることを私は知っています。(ルカ18:29-30)

天のお父様、変わるのは本当に難しいです。正直に言うと、それは不可能に近いように思えます。でも、人にはできないことが、あなたにはできます。

あなたはすでに、誰にもできないことをしてくださいました。つまり、私を自分の罪から救ってくださったのです。だから、私の人生に始められた良い働きを完成させてください。(ピリピ1:6)

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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許し

イエスは弟子たちに言われた。「つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。

その者にとっては、これらの小さい者たちの一人をつまずかせるより、ひき臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれるほうがましです。あなたがたは、自分自身に気をつけなさい。

兄弟が罪を犯したなら、戒めなさい。そして悔い改めるなら、赦しなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回あなたのところに来て「悔い改めます」と言うなら、赦しなさい。。。

同じようにあなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、「私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」(ルカの福音書17:1ー4,10)

主よ、私は、あなたの子供たちをつまずかせる者になりたくありません。私の行為や言葉を守ってください。私が人をつまずかせる者ではなく、人の成長に役立つ者となるようにしてください。

そして、人々が私を傷つける時、私が相手を許すことができるように助けてください。

あなたは七回以上、私を赦してくださいました。あなたに何度も赦されたしもべである私が、相手を許すべきなのは当然のことではないでしょうか。それが、私のなすべきことではないでしょうか。

でも、時々、それは簡単なことではありません。特に、桑の木のように私の痛みが根深いときには、許すのは難しいのです。

でも、あなたが言われたのは、相手を許すために私には大きな信仰は要らないということです。私の小さな信仰でも、十分なのです。なぜなら、あなたは偉大な神だからです。

あなたがしてくださったことのゆえに、私がいつも感謝の心を持つことができますように。特に、あなたは私の多くの罪を赦してくださいました。

十人の人のツァラアトを清められたように、私の罪を清めてくださいました。私がその赦しを決して当たり前のものと思わないように。むしろ、その感謝の念が深まるにつれて、私が相手を許すことができますように。

あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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あなたは取るに足りない者ではない

私はこの話を何度も読んだことがあります。でも、今日、この言葉が思い浮かびました。

「神様の目には、取るに足りない人などいません。」

羊飼いはまだ99匹の羊を持っていたのに、彼にとって、いなくなった1匹の羊は取るに足りないものではありませんでした。

女の人はまだ9枚も銀貨を持っていたのに、彼女にとって、なくなった1枚の銀貨は取るに足りないものではありませんでした。

父にはもっと「忠実」な息子がいたのに、次男がその父に「お父さんが死ねば良いのに」と言ったのに、その父にとって、次男は取るに足りないものではありませんでした。

そのように、神様にとって、私たちも取るに足りないものではありません。

神様にはたくさんの子供たちがいるかもしれません。その子供たちは、私たちよりも才能があり、もっと忠実で、もっと素直な人かもしれません。

でも、神様は私たちを見捨てて、死なせたわけではありません。むしろ、私たちがまだ罪人であったとき、イエス様は私たちのために死んでくださいました。(ローマ5:8)

そして、私たちが悔い改めて神様のもとに戻ると、神様は私たちを大歓迎して、天使たちとともに大喜びしてくださいます。

だから、覚えておいてください。あなたは神様にとって取るに足りないものではありません。むしろ、神様にとって、あなたは尊い人です。

その真理に思いを馳せましょう。その真理を喜びましょう。

でも、それだけではなく、私たちが神様から受けた愛と憐れみを、周りの人々に与えましょう。

なぜなら、彼らも神様にとって取るに足りないものではないのです。

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私たちは塩気をなくする

塩は良いものです。しかし、もし塩が塩気をなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。

土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられます。

聞く耳のある者は聞きなさい。(ルカの福音書14:34-35)

イエス様の弟子として、私たちの「塩気」をなくすことは、簡単なことです。つまり、イエス様のためにこの世に触れる力を失うのは、簡単なのです。

例えば、人が作った宗教的なルールに集中しすぎて、人への神様の愛と憐れみを忘れてしまうと、私たちは塩気をなくしてしまいます。また、イエス様の教えを拒むと、私たちは塩気をなくしてしまいます。(1-6)

恩返しすることができない人たちに謙遜に仕えず、むしろ、誇りのゆえに自分の大切さを周りの人々に示そうとするなら、私たちは塩気をなくしてしまいます。(7-14)

神様のことを当たり前のものだと思い、神様よりも家族やほかのものを大事にするなら、私たちは塩気をなくしてしまいます。(15-20,26)

イエス様に従うことよりも、自分の人生や夢、快楽、経済的な安全性を大事にするなら、私たちは塩気をなくしてしまいます。(26-27,33)

イエス様、私の塩気をなくしたくありません。時々、私はあなたの言葉に耳を閉じてしまいます。あなたとその御国よりもほかのものを大事にするときもあります。どうか赦してください。

あなたの心を私に与えてください。つまり、私の周りの人々への、愛深く憐れみ深い心を与えてください。

私の目を開いてください。私があなたの栄光と憐れみを見ることができますように。私への愛を見ることができますように。

それらを見るとき、あなたへの愛と、あなたに仕える気持ちが再びかき立てられますように。あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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求め続けなさい、探し続けなさい、たたき続けなさい

ですから、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。

探しなさい。そうすれば見出します。

たたきなさい。そうすれば開かれます。

だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。

あなたがたの中で、子どもが魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか。

卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるでしょうか。

ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。

それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。(ルカの福音書11:9ー13)

9節はこのようにも訳すことができます。「求め続けなさい。探し続けなさい。たたき続けなさい。」

でも、イエス様は、私たちが求めるものを必ず受け取ることを約束しているわけではありません。むしろ、イエス様は、私たちが必要なものを受け取ることを約束しておられるのです。(8)

神様は知恵をもって、パンを三つではなく、二つだけ与えてくださる時もあります。でも、その知恵をもって、パンの代わりにステーキを与えてくださる時もあります。

時々、私たちは魚を求めていると思っているけれど、実際にはそれが蛇です。また、卵を求めていると思っているけれど、実際にはそれがサソリである時もあります。

でも、神様は良いものだけを与えてくださいます。

祈りは、神様を操って、自分が求めるものを受け取るための方法ではありません。むしろ、祈りは、神様に近づく方法です。

祈りによって、私たちは神様の性格や考え方、そして愛を知るようになります。

神様を探すなら、神様を見出します。神様の戸を叩くと、その戸は開かれます。

さらに、神様は私たちに最も必要なものを与えてくださいます。それは神様ご自身です。

私たちの試練や苦しみの中で、神様は私たちに御霊を与えてくださいます。そして、その時、御霊は私たちを導き、慰め、力を与えてくださいます。

だから、毎日、求め続けましょう。探し続けましょう。叩き続けましょう。

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イエス様に尋ねることを恐れる

これはわたしの選んだ子。彼の言うことを聞け。(ルカの福音書9:35)

イエスは弟子たちにこう言われた。「あなたがたは、これらのことばを自分の耳に入れておきなさい。人の子は、人々の手に渡されようとしています。」

しかし、弟子たちには、このことばが理解できなかった。彼らには分からないように、彼らから隠されていたのであった。彼らは、このことばについてイエスに尋ねるのを恐れていた。(43ー45節)

その最後の言葉は私の心を打ちました。

「弟子たちには、このことばが理解できなかった。。。彼らは、このことばについてイエスに尋ねるのを恐れていた。」

どうして、彼らはイエス様に尋ねるのを恐れていたのでしょうか。8章では、彼らは気軽に「それがどういう意味なのか」と尋ねていました。(8:9)

どうして彼らが恐れていたのか、私は分かりません。でも、もしかしたら、彼らは実際にその答えを知りたくなかったのかもしれません。なぜなら、その答えは彼らの希望や夢を壊してしまうからです。彼らの考え方を全く変えなくてはならないのです。

たぶん、心の中で、その答えをもう知っていたのでしょう。イエス様はとてもはっきりと語っておられました。でも、彼らはその言葉を受け入れたくなかったのです。

それが、自分の目と耳を神様の御言葉に閉じるということです。

イエス様は、どれほど私たちに「これらのことばを自分の耳に入れておきなさい」と言われるでしょうか。

もしかしたら、聖書を読むとき、自分の罪に気づくかもしれません。

あるいは、祈るとき、神様からの思いが浮かぶことがあります。「あなたは違う進路を行かなくてはならない。あなたの計画を変えなくてはならないのです。」

でも、私たちはイエス様に、「あなたが私に何を言おうとしているのか」と尋ねることを恐れています。なぜなら、私たちはイエス様の答えを恐れているからです。

だから私たちは言い訳をします。「私はその言葉がわからなかったのです。」

でも、実際には、私たちは知りたくなかったのです。

私もそれをしたことがあります。特に日本に引っ越すことについてです。

でも、天の父は私たちに言われます。「これはわたしの選んだ子。彼の言うことを聞け。」

イエス様についていくのは、簡単なことではありません。支払わなくてはならない代価があります。

イエス様についていくと、私たちが苦しむことは珍しくありません(23ー24)。多くの場合、イエスに従うには、犠牲を払う必要があります(57ー62)。

でも、私が学んだこと、そして今も学び続けていることは、命を見つけるためには、イエス様に従わなくてはならないということです。私も代価を支払わなくてはなりませんでした。

でも、私は後悔していません。なぜなら、私が失ったものは、私が得たものと比べものにならないからです。

私はハワイに、家族や友達、そして素晴らしい教会を残してきました。でも、日本では、新しい家族、新しい友達、そして素晴らしい教会を見つけました。さらに、私のための神様の目的を見つけました。

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。

自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを救うのです。(23ー24)

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私たちの目と耳を開く

聞く耳のある者は聞きなさい。(ルカの福音書8:8)

今日の箇所を読んで、私の牧師のメッセージを思い出しました。そのメッセージは霊的な盲目について語っていました。(マルコ8章)

マタイの福音書では、マタイはルカよりもイザヤ書からもう少し多く引用しています。(10節)

この民の心は鈍くなり、 耳は遠くなり、目は閉じているからである。 彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、 心で悟ることも、立ち返ることもないように。

そして、わたしが癒やすこともないように。(マタイ13:15)

今、私は考えています。「私の心が鈍くなっているところがあるだろうか。以前は、ある御言葉が私の心を打ったり、私の心にしみたりしたけれど、私が何もしなかったために、今その御言葉を聞いても、何も感じなくなってしまった……そういう御言葉があるだろうか。」

また、私の耳が鈍くなるようなものはないだろうか。私のプライドによって、「私はもう知っている」という態度で、私の耳が遠くなってしまっただろうか。

もしかしたら、YouTubeやポッドキャストなどの騒音が多すぎて、神様が私に語ろうとしていることが聞こえなくなっているのだろうか。

私が見たくないために、神の御言葉に対して私の目を閉じる時があるだろうか。なぜなら、その言葉を見ると、私の考え方や行動を変えなくてはならないけれど、私は変わりたくないから。

イエス様は、私に言われているのだろうか。「聞きなさい。あなたの目を開きなさい。あなたを癒したいから。あなたを導きたい。私はあなたのために、より良いものを整えているから。」

主よ、あなたの恵みによって、私の目を開いてくださいました。私の罪や頑固さによって、私がその目をもう一度閉じることがないようにしてください。

あなたの御声が聞こえるように、私の耳を開いてくださいました。私のプライドやこの世の騒音によって、その耳が鈍くならないようにしてください。

あなたは良い方です。あなたの御言葉は良いものです。だから、私がその御言葉をしっかり守るように助けてください。

その言葉に従うのが難しいときも、私があなたと一緒に前に進むように助けてください。あなたのために実を結びたいから。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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私にどんな恵みがあるだろうか

自分を愛してくれる者たちを愛したとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。(ルカの福音書6:32)

今朝、私はその言葉に思いを巡らしていました。

もし、私が愛してくれる人たちだけを愛し、良いことをしてくれる人たちだけに良いことをするなら、私は神様からどんな恵みを受けることになるでしょうか。

神様から、私が人々に与えているような「恵み」(それは実際には恵みではないでしょう)を受けることになるでしょうか。

神様が、私が値したものだけを与えてくださるとしたら、私は何を受けることになるでしょうか。

また、もし私が周りの人々に与えている恵みがそのようなものだとしたら、私は本当に神の恵みを理解していると言えるでしょうか。

主よ、私の心を探ってください。私はあなたの恵みを本当に理解しているでしょうか。

あなたの恵みをもっと深く知るように助けてください。その恵みを把握し、私が周りの人々へのあなたの恵みのチャンネルとなるようにしてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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赦し、清めようとされるイエスの心

「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります。」

イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。」(ルカの福音書5:12-13)

上の言葉は、5章の内容の多くをまとめていると思います。

イエス様は、三人の罪人に出会われました。すなわち、ペテロと中風を患っている人、そしてマタイです。

そして、ある人の全身がツァラアトに冒されていたように、ペテロと中風を患っている人、そしてマタイの心全体も罪に冒されていたのです。

しかし、イエス様がその人のツァラアトを清められたように、ペテロと中風を患っている人、そしてマタイの罪も清めてくださいました。

私たちは、ペテロのように叫んだことがあるでしょうか。 「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。どうして私を受け入れられるでしょうか。どうして私を赦すことができるでしょうか。」

けれども、イエス様は恵みをもって、釘のあとがある手を伸ばして私たちに触れ、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われます。

さらに、イエス様は私たちに言われます。 「これから、私と一緒に、神の国のために人間を取りましょう。そうすれば、彼らもあなたが受けた恵みを知るようになります。」

感謝と喜びをもって、イザヤと一緒に叫びましょう。 「ここに私がおります。私を遣わしてください。」(イザヤ書6:1ー8)

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満たされ、導かれ、力を帯びている

さて、イエすは聖霊に満ちてヨルダンから帰られた。そして御霊によって荒野に導かれ、四十日間、悪魔の試みを受けられた。。。。

イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。(ルカの福音書4:1-2,14)

聖霊様、あなたが私と共におられなければ、私はこのクリスチャン生活を送ることができません。

私には誘惑に打ち勝つ力がありません。

私は試練や霊的な荒野を耐えることができません。

私はあなたの働きをすることができません。私には人に触れる力がありません。

私にはあなたが必要です。

あなたがイエス様を満たされたように、私を満たしてください。

あなたがイエス様を導かれたように、私を導いてください。

あなたがイエス様に力を与えられたように、私に力を与えてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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真の悔い改め

それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。(ルカの福音書3:8)

主よ、私はあなたのようになりたいです。 だから、どうか真の悔い改めの心を与えてください。

あなたの言葉が私の罪を明らかにするとき、私が言い訳をし、その罪を正当化しようとしないようにしてください。

むしろ、私がへりくだり、「私はどうすればよいのでしょうか。あなたは私に何を望んでおられるのでしょうか」と尋ねることができるようにしてください。

そして、あなたに従う力を与えてください。 私が悔い改めにふさわしい実を結ぶように助けてください。 あなたを離れては、私は変わることができません。(ヨハネ15:5)

神よ、私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。

私のうちに、傷のついた道があるかないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(詩篇139:23-24)

私へのあなたの恵みと忍耐を感謝します。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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神様が約束されたことを信じる

主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。(ルカの福音書1:45)

神様が約束されたことを信じることには、祝福があります。

その約束を信じるとき、苦しい時にも、私たちは希望を与えられます。 なぜなら、神様が私たちの味方であることを知っており、神様が私たちのための計画を実現してくださることも知っているからです。(ローマ8:18-32)

さらに、

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。

神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。(へブル11:6)

だから、私たちが自分に問いかけなくてはならないのは、「神様が約束されたことを信じているだろうか」ということです。

私たちは、マリアと一緒にこの歌を歌えるでしょうか。

私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。この卑しいはしために、目を留めてくださったからです。

ご覧ください。今から後、どの時代の人々も、私を幸いな者と呼ぶでしょう。力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。

その御名は聖なるもの、主のあわれみは、代々にわたって、主を恐れる者に及びます。(46-50節)

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御霊が私たちの上に臨むとき

聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。(ルカの福音書1:35)

もちろん、御使いはマリアに語り、処女であるにもかかわらず、どのようにして赤ちゃんを産むことができるかを説明しました。

けれども、今日私が気づいたのは、イエス様が昇天される前に、似たような言葉を弟子たちに語られたということです。

しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。

そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。(使徒の働き1:8)

イエス様が生まれるために、聖霊様がマリアの上に臨み、神の力がマリアを覆ってくださったように、すべての国民が新しく生まれるために、聖霊様は私たちの上にも臨み、神の力が私たちを覆ってくださいます。

あなたは、自分を普通の人だと思うかもしれません。

しかし、マリアも普通の人でした。

弟子たちも普通の人たちでした。

それでも、神様は彼らを用いてくださいました。

同じように、神様は周りの人々に命を与えるために、あなたをも用いてくださいます。

聖霊様、私の上に臨んでください。あなたの力で私を満たしてください。私を用いて、周りの人々に命を与えてください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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恵まれた人

主は今このようにして(別訳:恵みと感心を持って)私に目を留め、人々の間から私の恥を取り除いてくださいました。(ルカの福音書1:25)

おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。(28節)

恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。(30節)

上の言葉は私の心に打ちました。

神様は関心と恵みを持ってエリサベツに目を留め、子どもがいないという恥を取り除かれました。(その時代、子どもがいないことは、とても恥ずかしいことだったのです。)

また、神様は恵みを持ってマリアに目を留め、御子の母となるように選ばれました。

そして、神様はエリサベツとマリアに恵みを持って目を留められたように、私たちにも恵みを持って目を留めてくださいます。

マリアのように、私たちは恐れずに、むしろ、大胆に神様に近づくことができます。

また、神様はエリサベツの恥を取り除かれたように、イエス様の十字架によって、私たちの恥、つまり私たちの罪の恥を取り除いてくださいました。

だから、その真理に思いを巡らしましょう。

「神様は恵みを持って私に目を留めておられます。神様から恵みを受けたのです。」

「神様は私と共におられます。」

「神様は私の恥を取り除きました。だから、私は大胆に神様に近づくことができます。」

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どうして、私にこんなに優しくしてくださるの?

イエス様、ペテロのように、あなたの慈しみに値しない私は、あなたから豊かに祝福されています。

私が受けた祝福を見て、そして自分の罪を見つめると、私は叫びます。 「どうして、私にこんなに優しくしてくださるのですか?私から離れてください。私は罪深い人間です。あなたの慈しみに値しません。」

しかし、あなたは優しい目で私を見て、こう言われます。 「恐れることはない。私の働きに加わりなさい。私があなたに触れたように、周囲の人々に触れなさい。」

だから、ペテロと同じように、私は言います。 「おことばですので、私はそうします。」

あなたの尊い御名によって祈ります。アーメン。

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イエス様に望みをかけていたのに。。。

私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。(ルカの福音書24:21)

最近、私の牧師は希望について語っていました。彼はこう問いかけました。

「私たちは何かを望んでいるでしょうか。コロナの終息を望んでいるでしょうか。普通の日常が早く戻ることを望んでいるでしょうか。

それとも、私たちは誰かに望みを託しているでしょうか。特に、イエス様に望みを託しているでしょうか。」

イエス様が私たちの真ん中に立っておられるのに、私たちはどれほど取り乱しているのでしょうか。どれほど心に疑いを抱いているのでしょうか。

イエス様は私たちにこう言っておられるでしょうか。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、私の言葉を信じられない者たち。」

イエス様、あなたは死を打ち破られた方です。だから、私はあなたに望みを託すことを選びます。

コロナがいつまで続くか分かりません。いつ普通の日常が戻るかも分かりません。

でも、私はあなたを仰ぐことを選びます。あなたこそ、私の望みです。だから、弟子たちのように、私は大いに喜びます。あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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祈りの必要

今日の箇所を読んだとき、私は21章に記されているイエス様の言葉を思い起こしました。

イエス様は弟子たちにこう言われました。

あなたがたの心が、放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされていて、その日が罠のように、突然あなたがたに臨むことにならないように、よく気をつけなさい。その日は、全地の表に住むすべての人に突然臨むのです。

あなたがたは、必ず起こるこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。

民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい光景や天からの大きなしるしが現れます。。。

それから、太陽と月と星にしるしが現れ、地上では海と波が荒れどよめいて、諸国の民が不安に陥って苦悩します。

人々は、この世界に起ころうとしていることを予測して、恐ろしさのあまり気を失います。天のもろもろの力が揺り動かされるからです(ルカの福音書21:34ー36)

イエス様はご自身の言葉に従われました。本当に苦しまれたとき、イエス様が天の父に祈られたので、天の父は迫る試練のためにイエス様を力づけてくださいました。(ルカ22:41ー43)

その反面、弟子たちは眠ってしまいました。どうしてでしょうか。彼らはただ疲れていたからでしょうか。いいえ、むしろ、悲しみの果てに眠り込んでしまったのです。(ルカ22:45)

イエス様の以前の言葉のゆえに、彼らは精神的に疲れ果てていました。だからこそ、彼らは眠り込んでしまったのです。

彼らの行動はよく理解できます。私も、きっと同じことをしていたでしょう。でも、試練が来たとき、彼らは恐れて逃げてしまいました。(マタイ26:56)

ペテロはイエス様について行きましたが、最終的にはイエス様を知っていることを否定してしまいました。イエス様の前に立つことができず、ペテロも恥を負って逃げてしまったのです。(ルカ22:54ー60)

私たち皆、弱い者です。コロナが長く続いている中で、私たちが精神的に疲れているのは当然のことです。

でも、特にこのような時こそ、私たちは祈らなくてはなりません。なぜなら、天の父の助けがなければ、私たちは立つことができないからです。しかし、神様の御前に来るなら、天の父は私たちを力づけてくださいます。

そして、もし私たちが弟子たちのように大きな失敗をしてしまったとしても、どうかへこたれないでください。イエス様がペテロと他の弟子たちに恵みを与えられたように、私たちにも恵みを与え、私たちの信仰を修復してくださいます。

だから、ヘブル人への手紙の著者の言葉を覚えていましょう。

さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。

ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(へブル4:14ー16)

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暗い時代にあっての私たちの希望

民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい光景や天からの大きなしるしが現れます。。。

それから、太陽と月と星にしるしが現れ、地上では海と波が荒れどよめいて、諸国の民が不安に陥って苦悩します。

人々は、この世界に起ころうとしていることを予測して、恐ろしさのあまり気を失います。天のもろもろの力が揺り動かされるからです。(ルカの福音書21:10-11,25-26)

イエス様の言葉を読むと、最近のニュースがすぐに思い浮かびます。多くの人々は、この世の問題のゆえに、心配や恐れを抱えて生きています。

でも、私たちは希望を持っています。

そのとき人々は、人の子(つまり、イエス様)が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。(27節)

この世のすべての人がイエス様を歓迎するわけではありません。でも、イエス様を愛している私たちは、その日を心待ちにしています。この暗い時代にあって、イエス様は私たちの希望です。

そして、いつか天地は消え去りますが、私たちに対するイエス様の言葉、イエス様の約束は決して消え去ることがありません。(33節)

だから、

これらのことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなさい。あなたがたの贖いが近づいているからです。(28節)

でも、それと同時に、自分の心を守りましょう。特に、イエス様の言葉を心に留めておきましょう。

あなたがたの心が、放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされていて、その日が罠のように、突然あなたがたに臨むことにならないように、よく気をつけなさい。

その日は、全地の表に住むすべての人に突然臨むのです。(34-35節)

だから、

あなたがたは、必ず起こるこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。(36節)

私たち皆は弱いものです。イエス様から離れると、簡単に倒れてしまいます。

だからこそ、預言者イザヤの言葉を心に留めておきましょう。

あなたは知らないのか。聞いたことがないのか。

主は永遠の神、地の果てまで創造した方。疲れることなく、弱ることなく、その英知は測り知れない。

疲れた者には力を与え、精力のない者には勢いを与えられる。若者も疲れて力尽き、若い男たちも、つまずき倒れる。

しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。

走っても力衰えず、歩いても疲れない。(イザヤ書40:28-31)

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喜び

主よ、私がザアカイの喜びを知ることができますように。

私が、あなたに愛されている喜びを知ることができますように。私が、あなたに受け入れられている喜びを知ることができますように。あなたが私と交わりたいと願っておられる喜びを知ることができますように。

私が、あなたの赦しと憐れみの喜びを知ることができますように。

そして、その喜びによって、私がザアカイのように、あなたを本当に喜ばせたいという心を持つことができますように。

周りの人々が私について何を考え、何を言おうとも、私は気にしません。

あなたが私を愛し、受け入れてくださっているので、私は満足です。

私はあなたを心から愛しています。

あなたの恵みと愛に感謝します。あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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感謝の心

そのうちの一人は、自分が癒やされたことが分かると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。(ルカの福音書17:15ー16)

この言葉を読んだとき、私は、あのサマリア人が癒されたとき、どのように反応したかを考えました。

彼は、静かな声で「神様、ありがとう」と言ったのではありません。むしろ、大きな声で神様をほめたたえていました。

また、イエス様のところに戻ったとき、彼はイエス様と握手をしたのではありません。むしろ、イエス様の足元にひれ伏して、何度も「ありがとう、ありがとう!」と言っていました。

そして、私は考えました。「私はそんな感謝の心を持っているだろうか。私は謙虚で、喜びに満ちた感謝の心を持っているだろうか。」

私たちは本当に大変な時代に生きています。でも、あのサマリア人のように、私たちが謙虚で、喜びに満ちた感謝の心を持っているとしたら、どれほど私たちの物の見方は変わるでしょうか。

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自分を正しいと思い込もうとしていないか

イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとするが、神はあなたがたの心をご存じです。

人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです。(ルカの福音書16:15)

主よ、私が悪いことをするとき、言い訳するのは簡単です。

私は周りの人々に、自分が正しいことをしていたと思わせるかもしれないし、自分自身にもそう思わせるかもしれません。でも、あなたは私の心をご存じです。

時々、私は言い訳しながら、あなたが忌み嫌われることをしてしまいます。ごめんなさい。

あなたの恵みに感謝します。

どうか、毎日、私を探り、私の心を知ってください。そして、私があなたを喜ばせる人生を送るように助けてください。

あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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良い父?

私たちの天のお父さんが、どんなに良い方であるかを、私たちは分かっているでしょうか。

放蕩息子は分かっていませんでした。その文化では、自分の遺産を早く受け取るように頼むことは、基本的に「あなたは死んでしまえばいい」と父に言うのと同じ意味でした。

そして彼は飢え、必死になったとき、自分の父が許してくれて、息子として受け入れてくれるとは想像できませんでした。

その兄も、父がどんなに良い方であるかを分かっていませんでした。むしろ、自分を奴隷のように見なしていました。「俺はずっと父のために働いているのに、決して報いを受けていない」と思っていたのです。

しかし最終的に、その父は自分の良い性格を証明しました。放蕩息子の罪にもかかわらず、父は彼を許し、息子として喜んで受け入れてくれました。

また、長男が怒って、ふてくされていたときも、父は愛を持って、手を差し伸べました。

あなたはどうでしょうか。あなたの天のお父さんが、どんなに良い方であるかを分かっているでしょうか。

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私たちはなぜ教会に来るのでしょうか

今日の箇所を読んだとき、いろいろなことを考えさせられましたが、会堂でのイエス様の言葉は私の心を打ちました。

会堂司が気にしていたのは、宗教的なルールを守ることでした。だから、イエス様がある女性を癒されたとき、会堂司はまったく喜びませんでした。逆に、彼は怒りました。

働くべき日は六日ある。だから、その間に来て治してもらいなさい。安息日にはいけない。(ルカの福音書13:14)

しかし、イエス様は答えられました。

この人はアブラハムの娘です。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日に、この束縛を解いてやるべきではありませんか。(16)

教会に行くとき、私たちは何を気にするのでしょうか。

たぶん、宗教的なルールを心配することはないかもしれませんが、どれほど自分のこと、特に教会で自分が何を得ることができるかを考えているでしょうか。

でも、毎週の日曜日、神様はサタンに縛られていて、解放が必要な人を教会に何人送っておられるでしょうか。彼らが教会に来たとき、私たちは気づくでしょうか。

主よ。教会に行くとき、私の目を開いてください。サタンに縛られ、傷ついている人に気づくように助けてください。

私があなたの愛のパイプラインとなるようにしてください。私を通して、彼らが解放されるようにしてください。

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信仰の薄い人?

天のお父さん、私が心配に満ちて、信仰の薄い人にならないようにしてください。あなたは、烏やゆりのお世話をしてくださいます。だから、あなたが私のお世話をしてくださることを信じるように助けてください。

私の心が心配に満ちず、あなたに向かうように。

私にとって、あなたが私に御国を喜んでくださることは驚くべき事です。その真理を実感して、私がこの世のものに執着しないように。

喜びに満ちている心をもって、私があなたの御国のために周囲の人々に触れるように。私の中の喜びを見ると、彼らがあなたとの関係を望むようにしてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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間違った疑問

今日の箇所では、私たちはとても有名な例え話を読みました。それは、良いサマリア人の話です。

イエス様と律法の専門家は、神様を愛することと、隣人を愛することについて話していました。専門家は隣人を正しく愛していなかったので、自分が正しいことを示そうとして、イエス様に訊きました。「私の隣人とは誰ですか。」(ルカの福音書10:29)

興味深いのは、イエス様がその疑問に直接答えられなかったということです。どうしてでしょうか。なぜなら、それは間違った疑問だったからです。

では、正しい疑問は何でしょうか。

イエス様は例え話を語られたあと、専門家に訊かれました。「だれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」(36)

専門家は答えました。「その人にあわれみ深い行いをした人です。」(37a)

イエス様は彼に言われました。「正解です。では、あなたも行って、同じようにしなさい。」(37b)

つまり、正しい疑問は「私の隣人は誰だろうか」ではありません。私たちは、誰を愛するか、愛さないかを選んではいけません。

正しい疑問は、「私は隣人だろうか。私は憐れみを与える人だろうか。」です。そう訊いたら、私たちは誰を愛するか選ぶことができません。むしろ、私たちは周りの人々すべてを愛さなくてはなりません。

私が告白しなくてはならないのは、人を愛することが難しいときもあるということです。愛しにくい人もいるからです。

だからこそ、私は救い主が必要です。実は、私たち皆が救い主を必要としています。なぜなら、私たちは人を正しく愛せないときがあるからです。

ところで、それこそがイエス様の要点でした。イエス様は、専門家が自分の罪を認めるように望まれました。でも、専門家は言い訳しようとしました。

とにかく、私の祈りはこうです。

主よ。あなたは私を憐れんで救ってくださるほどに、私を愛しておられました。だから、あなたの恵みによって、私も周りの人々に対する隣人、また憐れみを与える者となることができるように助けてください。

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周りの人々のニーズに備えるため

そこでイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げ、それらのゆえに神をほめたたえてそれを裂き、群衆に配るように弟子たちにお与えになった。

人々はみな、食べて満腹した。(ルカの福音書9:16ー17)

英語の翻訳では、「イエスは。。。パンと魚を群衆に配るように弟子たちに何回もお与えになっていました。」

「何回もお与えになっていました。」

その言葉は、私の心に残りました。

私たちの周りには、霊的なニーズを持つ人々が多くいます。でも、弟子たちのように、私たちには彼らに与えられるものがあまりありません。

それでも、イエス様は私たちに、ただ「あなたがたが、あの人たちのニーズに備えなさい」と言われるだけではありません。

むしろ、彼らのニーズに備えるために、イエス様は私たちに恵みと資源を与え続けてくださいます。

でも、それらを望むなら、私たちはイエス様に繋がらなくてはなりません。その資源を受け、恵みに満たされて溢れるために、私たちは常に霊的な蛇口の下に立たなくてはなりません。

でも、私たちはそうしているでしょうか。

イエス様はこう言われました。

わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。。。

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。(ヨハネ15:5、9)

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どれほど、私の目にはあなたが小さく見えてしまうのでしょうか

主よ、どれほど、私の目にはあなたが小さく見えてしまうのでしょうか。

私の人生には嵐が訪れ、その嵐はとても大きなものに見えます。でも、私が忘れてしまうのは、あなたがその嵐よりも大きな方であるということです。

そして、私はパニックになり、あなたは私に訊かれます。「あなたの信仰はどこにあるのですか。」

主よ、私があなたの偉大さを悟ることができるように助けてください。私があなたの力に畏敬の念を抱くことができるように助けてください。

でも、あなたの力と偉大さを見たとき、ゲラサ人たちのようにあなたを恐れるのではなく、悪霊から解放された人や、癒された女性、復活した少女の両親のように、あなたの慈しみを悟ることができるようにしてください。

私が恐れず、ただあなたを信じることができるように助けてください。(ルカの福音書8:50)

あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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資格がある?資格がない?

今日の箇所には、人々が自分自身をどのように見なしていたかについて、興味深いことが記されています。特に、自分がイエス様にお付き合いいただく資格があると思っていたかどうかが注目されます。

百人隊長について見ると、ユダヤ人たちは、彼にはイエス様の助けを受ける資格があると考えていました。なぜなら、彼は多くの良いことをしていたからです。

しかし、百人隊長自身はそうは思いませんでした。だからこそ、彼はイエス様にこう言いました。

あなた様を、私のような者の家の屋根の下にお入れする資格はありませんので。(ルカの福音書7:7)

その反面、シモンは、自分が資格を持っていると思っていました。もしかしたら、彼は、イエス様がシモンの家に入る資格がないと思っていたかもしれません。

さらに、シモンは、罪深い女性が偉い先生に付き合う資格はないと思っていました。

でも、実は、私たち皆は資格のない者です。なぜなら、私たち皆は返すことができない罪の借金を持っているからです。でも、私たちがへりくだって、イエス様のもとに来ると、イエス様は私たちに言います。「あなたの罪は赦されています。」

そして、恵みによって、イエス様は私たちを受け入れてくださいます。

だから、感謝に満ちている心をもって、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づきましょう。(へブル4:16)

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私たちを喜ばれる神

さて、民がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマを受けられた。

そして祈っておられると、天が開け、 聖霊が鳩のような形をして、イエスの上に降って来られた。

すると、天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。(ルカの福音書3:21ー22)

私にとって興味深いのは、この話のあと、ルカがイエス様の家系図について書いていることです。そして、その家系図の最後に、ルカはこう記します。「アダムは神の子である」。

それを読んで、私はこう考えました。「アダムを造ったとき、神様はアダムに『あなたは私の愛する子。わたしはあなたを喜ぶ』と言われたのだろうか」。

私は分かりません。でも、もしかしたら、神様はそう言われたかもしれません。

もちろん、イエス様は罪のない神の子です。

でも、アダムも神様によって、完全な人間として造られました。

だから、神様がアダムに『あなたは私の愛する子。わたしはあなたを喜ぶ』と言われたとしても、不思議ではありません。

でも驚くべきことは、罪深い私たちに対しても、神様が『あなたは私の愛する子。わたしはあなたを喜ぶ』と言われることです。

どうして、神様はそう言えるのでしょうか。

それは、十字架でイエス様が、私たちの罪の代価を支払ってくださったからです。だから神様は、私たちを見るとき、罪ではなく、イエス様の義に包まれた私たちをご覧になります。

だから神様は、私たちに微笑みながら、『あなたは私の愛する子。わたしはあなたを喜ぶ』と言われるのです。

『あなたに怒る』とは言われません。

『あなたにはがっかりです』とも言われません。

むしろ、『あなたを喜ぶ』と言われます。

そのことを思い巡らし、心から喜びましょう。

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神様の慈しみを心に留める

しかしマリアは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。(ルカの福音書2:19)

その言葉を読んだとき、私はこう思いました。「どれだけ、私はそうするだろうか。神様が私のために良いことをしてくださるとき、その出来事を私の心に納めるだろうか。どれだけ、私はその出来事に思いを巡らすだろうか。」

神様が私たちのためにしてくださったことを忘れるのは、簡単なことです。私たちは、意識してその出来事を自分の心に納めないと、苦しみの中で絶望するのも、簡単なことです。

私たちの人生では、剣が私たちの心を刺し貫く時もあります。(35)

だから、そんな時が来る前に、神様がご自身の慈しみを私たちに現してくださるとき、神様が何をしてくださったかを、私たちの心に納めましょう。

いっそのこと、神様の慈しみを忘れないように、日記やスマホ、コンピューターのWordファイルなどに、神様が何をしてくださったかを書き留めましょう。そして、神様の慈しみに思いを巡らしましょう。

それだけではなく、羊飼いたちのように、周りの人々に、神様が私たちのためにしてくださったことを伝えましょう。