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創世記のデボーション

天のお父さん、あなたは泣いたことがある?

ヨセフの兄弟たちは、自分たちの父が死んだのを見たとき、「ヨセフはわれわれを恨んで、われわれが彼に犯したすべての悪に対して、仕返しをするかもしれない」と言った。

そこで、彼らはヨセフに言い送った。

「あなたの父は死ぬ前に命じられました。

「ヨセフにこう言いなさい。おまえの兄弟たちは、実に、おまえに悪いことをしたが、兄弟たちの背きと罪を赦してやりなさい、と。」

今、どうか、父の神のしもべたちの背きを赦してください。」

ヨセフは彼らのこのことばを聞いて泣いた。( 創世記50:15ー17)

天のお父さん、あなたは泣いたことがあるでしょうか。

私たちを赦してくださったにも関わらず、私たちが罪悪感を抱き続けることを見るとき、あなたは泣いたことがあるでしょうか。

私たちが裁きと罰を恐れ、あなたから遠く離れて立つとき、あなたは泣いたことがあるでしょうか。

私たちをご自分の愛する子供たちと呼んでおられるにも関わらず、私たちが恐怖に陥れる奴隷として生きることを見るとき、あなたは泣いたことがあるでしょうか。

私たちが、あなたがどのようなお父さんであるかを知り、あなたに近づくように。

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私たちがだれのものであるかを心に留めておく

ヨセフは民に言った。「見よ。私は今、おまえたちとおまえたちの土地を買い取って、ファラオのものとした。」(創世記47:23)

「すると彼らは言った。「あなた様は私たちを生かしてくださいました。私たちは、あなた様のご好意を受けて、ファラオの奴隷となりましょう。」(25節)

上の言葉を読むたびに、私はイエス様が私たちのためにしてくださったことを思い出します。

エジプト人たちと同じように、私たちは死にかけていましたが、イエス様は私たちを買い取って、ご自分のもの、また天の父のものとされ、救ってくださいました。(黙示録5:9;第一ペテロ1:18〜19)

そして、エジプト人たちが収穫の五分の一を納めたとき、ファラオのいつくしみを思い出していたように、私たちは献金を捧げるとき、神のいつくしみを思い出します。

でも、素晴らしい真理は、イエス様が私たちを神の奴隷ではなく、神の子供とするために買い取ってくださったということです。

パウロの言葉を借りれば、

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。

御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。子どもであるなら、相続人でもあります。。。

神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。(ローマ8:15ー17)

だから、毎日、喜びをもって、私たちが誰のものであるかを心に留め、私たちの人生を神様に捧げましょう。

あなたがたはもはや自分自身のものではありません。

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。

ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。(第一コリント6:19ー20)

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どうか私に近寄ってください

兄弟たちはヨセフを前にして、驚きのあまり、答えることができなかった。ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」(創世記45:3~4)

ヨセフの兄たちの立場になって想像してみましょう。

彼らは通訳者を通して、エジプトの支配者と話していました。(創世記42:23)

でも突然、通訳者とヨセフの他のしもべたちが部屋を出ていき、その支配者は彼らにヘブル語で話しかけます。それだけではなく、彼は、「私はヨセフです」と言います。

それを聞いて、彼らは恐れました。彼らは22年前にヨセフを奴隷として売ったからです。自分たちの罪をよく知っていて、ヨセフの怒りに値することを知っていました。

でも、ヨセフは彼らに言いました。「どうか私に近寄ってください。」

イエス様も同じことを私たちに言われます。

私たちはイエス様の御前に立ち、私たちの罪と失敗はすべて明らかになります。だから、私たちは神の怒りに値することをよく知っています。

でも、イエス様は私たちを見て、言われます。

「どうか私に近寄ってください。大いなる救いをもたらすために、神は私をあなたより先に遣わされた。

天の父は私をすべての主に任命された(第一コリント15:27)。

だから、あなたは神に近寄ることができる。

あなたが恐れず、毎日毎日、一瞬一瞬、私と共に歩み、私のそばにいることができる。

あなたの試練と苦しみの中で、私はあなたを支える。

だから、あなたの家族と回りの人々のところに行き、私の栄光、あなたが見た一切のことを告げなさい。そうすれば、彼らも私に近寄り、私を知るようになる。」

私はこういうことを考えて、本当に不思議だなぁと思います。

今日、私が祈った詩篇は、とても適切な反応だと思います。

全地よ、主に向かって喜びの声をあげよ。
喜びをもって主に仕えよ喜び歌いつつ御前に来たれ。

知れ。主こそ神。
主が私たちを造られた。
私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊。

感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に入れ。

主に感謝し、御名をほめたたえよ。

主はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで、
その真実は代々に至る。(詩篇100編)

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悔い改め

ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなた様の奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと一緒に帰らせてください。

あの子が一緒でなくて、どうして私は父のところへ帰れるでしょう。父に起こるわざわいを見たくありません。(創世記44:33ー34)

その言葉は、ユダの心がどれほど変わったかを明らかにします。

以前は、ユダは薄情な者で、ヨセフを奴隷として売ろうと勧めました。(創世記37:26〜27)

そして、父ヤコブの悲しみを見て、ユダは逃げてしまいました。(創世記37:33〜34;38:1)

でも今、ベニヤミンが戻らなかった場合のヤコブの悲しみを考えて、ユダは逃げるのではなく、ベニヤミンの代わりに自分自身をヨセフに奴隷として捧げました。

もしかしたら、ユダはこう考えていたかもしれません。

「これが正義だ。私はヨセフを奴隷として売った。だから今、ベニヤミンを自由にするため、私は奴隷になろう。そうすれば、ヨセフに対する罪を償うことができる。」

悔い改めとは、単に罪に対する罪悪感を感じることではありません。

悔い改めとは、単に相手を傷つけたことを後悔することではありません。

悔い改めとは、自分の罪を認め、他人を傷つけた場合、できるだけその罪を償うことです。

ユダはそうしようとしていました。

でも、実際のところ、私たちは完全に罪を償うことはできません。私たちは自分の罪を償うため、いろんな良いことをしようとしても、その罪の染みを完全に清めることはできません。

でも、良い知らせは、私たちの罪を清めてくださる方がおられるということです。

ユダがベニヤミンの代わりに自分自身を捧げたように、ユダの子孫であるイエス様は、私たちの代わりに自分自身を捧げられました。

皮肉なことに、ベニヤミンが父ヤコブのもとに戻るため、有罪であるユダは無罪であるベニヤミンの代わりに自分自身を捧げましたが、私たちが天の父のもとに戻るために、罪のないイエス様は罪深い私たちの代わりに自分自身を捧げました。

ぺテロの言葉を借りれば、

キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは。。。あなたがたを神に導くためでした。(第一ぺテロ3:18)

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この世には、苦難があっても

ヨセフは長子をマナセ(意味:「忘れる」)と名づけた。「神が、私のすべての労苦と、私の父の家のすべてのことを忘れさせてくださった」からである。

また、二番目の子をエフライム(意味:「実り多い」)と名づけた。「神が、私の苦しみの地で、私を実り多い者としてくださった」からである。(創世記41:51ー52)

イエス様、あなたは、「世にあっては苦難があります」と言われました。(ヨハネ16:33)

でもヨセフと同じように、ある日、私の苦しみはなくなり、過去が私に影響を及ぼすことはなくなります。(黙示録21:24)

やがて私に啓示される栄光に比べれば、今の時の私の苦難が取るに足りないものであることを感謝します。(ローマ8:18)

私の苦しみの中で、私がどう祈ればいいのかよく分からないとき、御霊が私のために祈ってくださることを感謝します。(ローマ8:26)

あなたを愛する私たち、あなたのご計画にしたがって召された私たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを感謝します。(ローマ8:28)

それが私の希望です。あなたこそが私の希望なのです。

だから苦しみに満ちたこの世にいる間、私はあなたに信頼することを選びます。

私のためにあなたの計画を成し遂げてください。私があなたのために実を結ぶように。あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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自己憐憫を捨てよう

朝、ヨセフが彼らのところに来て、見ると、彼らは顔色がすぐれなかった。

それで彼は、自分の主人の家に一緒に拘留されている、このファラオの廷臣たちに「なぜ、今日、お二人は顔色がさえないのですか」と尋ねた。(創世記40:6ー7)

ヨセフが自分の問題にくよくよし、自己憐憫に浸っていたとしたら、私たちはそれをよくわかってあげられると思います。でも、彼はそうするのではなく、他の二人の囚人たちのことを気にかけました。

この間、私の牧師は、回りの人々のニーズに気づき、彼らに触れることについて話しました。

けれども、自己憐憫に浸っているなら、私たちは回りの人々のニーズに気づくことはないでしょう。自分のことだけについて考えているなら、私たちは彼らに触れることはないでしょう。

私はヨセフのようになりたいです。自分のことだけを考えるのではなく、回りの人々のニーズに気づきたいです。神様が私を用いて、彼らに触れてほしいです。

あなたはどうですか。

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辛いときに信仰を保つ

ヨセフが自分の心の中で何を考えていたのか、私は時々知りたいと思います。

創世記40章では、私たちはヨセフの心を垣間見ることができ、42〜45章では、ヨセフの思いはもっと明らかになります。

でも、39章では、私たちはヨセフの思いをよく知ることができません。

そういうわけで、私たちはよく考えます。「ヨセフは本当に敬虔な人でした。どんな試練に直面しても、ヨセフは忠実に神様に仕えたのです。彼の心は決して揺らぐことはなかったのです。」

でも今日、私が考えたのは、「ヨセフにとって、その態度を保つのは、そんなに簡単だっただろうか」ということです。

奴隷として売られたとき、その最初の数日間、ヨセフは兄弟たちに対して苦々しい思いを抱いていたでしょうか。ヨセフは神様に、「どうしてそんなひどいことを許されたのか」と尋ねたでしょうか。

ポティファルの妻がヨセフに言いがかりをつけ、ヨセフが牢に座っていたとき、神様に対して苦々しい思いを抱くように誘惑されたでしょうか。

「私は神様の道に従ったのに、どうしてこんなことになったのだろうか。神様に従うのは無駄なのだ。」

たぶん、ヨセフはそのような思いと戦いました。彼はただの人間だったのです。彼は不完全な人だったのです。

それでも、彼は結局、自分の信仰を保ち、神様に忠実に仕え続けました。

その意味では、ヨセフはダビデのようでした。ダビデもヨセフも回りの人々に不当に扱われました。(詩篇62:3〜4)

彼らは、人に対して、また神様に対して苦々しい思いを抱く理由がありました。

それでも、彼らは神様を信じ続けることを選びました。そして、結局、神様はその信頼に値する方であることを証明されました。

今日、たまたま詩篇62編も読んでいました。そして、牢でヨセフがダビデの言葉と似たようなことを歌っているのを想像することができました。

私のたましいよ、黙って、ただ神を待ち望め。私の望みは神から来るからだ。神こそ、わが岩、わが救い、わがやぐら。私は揺るがされることがない。

私の救いと栄光は、ただ神にある。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。

民よ、どんなときにも神に信頼せよ。

あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。

神はわれらの避け所である。(詩篇62:5ー8)

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壊れた人生に神の癒しを受けるため

そのころのことであった。ユダは兄弟たちから離れて下って行き、名をヒラというアドラム人の近くで天幕を張った。(38:1)

私は、上のことばを何度も読んだことがありますが、今日は初めて自問自答しました。「なぜ?」

なぜ、ユダは自分の責任を捨て、家族から離れたのでしょうか。

彼の兄たち、ルベン、シメオン、レビが父ヤコブの不興を買ったので、もしかしたら、ヤコブはユダを一族の長に任命しようと思っていたかもしれません。(創世記49:3〜7)

でも、ユダは立ち去りました。なぜでしょうか。

私はわかりませんが、もしかしたら、彼は罪悪感を深く感じていたのかもしれません。つまり、ヨセフを裏切ったあと、毎日ヤコブの苦しみを見て、もう耐えられなかったのかもしれません。(創世記37:26〜28、34〜35)

だから、彼は立ち去ったのです。

新しい人生を始めようと思ったのかもしれません。

でも、ユダは自分自身から逃げることはできませんでした。自分の罪深い心から逃げることはできませんでした。

たぶん、38章の出来事のあと、自分自身と向き合ったとき、ユダは自分の中にあるものを見て、それを嫌ったのでしょう。

もちろん、ヨセフはユダよりも正しい人でした。でも、神様を知らないカナン人の女性タマルでさえ、ユダよりも正しい人でした。

たぶん、彼はそのことを考えて、こう言ったでしょう。「もうだめだ。私はこのような生活を送ってはならない。もう逃げてはならない。」

彼の最初の一歩は、責任をとって、タマルとその二人の息子たちの世話をすることでした。

そして、彼は以前とは違う人として、ヤコブと兄弟たちのところに戻りました。

創世記44〜45章を読めば、ユダがどれほど変わったかがわかります。

ユダは、一朝一夕で変わったわけではありません。でも、彼は最初の一歩を踏み出しました。そして、彼は日々、神様の導きに従って、一歩一歩進みました。

そうすることで、彼の壊れた人生は癒されました。

ヨセフは、彼を許しました。(創世記45章)

ヤコブは、彼を許しました。(創世記49:8〜12)

もちろん、神様は、彼を赦してくださいました。

鏡を見るとき、自分が見ているものが好きでしょうか。

人生の変化、また癒しは、一歩から始まります。

次のステップに関して、神様はあなたに何を語っておられるのでしょうか。

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穴にいるとき

今日、私たちは創世記37章を読んでいますが、私はたまたま詩篇118篇も読んで祈りました。

詩篇118篇を読んで、私はこう思いました。「自分の人生のもっとも暗いときを振り返ると、ヨセフはこの歌を歌うことができただろう。」

(この詩篇は、ヨセフの死後何百年も経ってから作られたものですが。)

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。(詩篇118:1)

苦しみのうちから、私は主を呼び求めた。主は答えて、私を広やかな地へ導かれた。

主は私の味方。私は恐れない。人は私に何ができよう。主は私の味方、私を助ける方。

私は、私を憎む者をものともしない。(詩篇118:5ー7)

おまえは私を激しく押し倒そうとしたが、主が私を助けられた。主は私の力、またほめ歌。主は私の救いとなられた。(13ー14)

興味深いことは、いろんな意味で、ヨセフの物語がイエス様の物語と似ているということです。

つまり、ヨセフは、自分を拒絶し、裏切った兄弟たちを救ったのです。だから、イエス様に関する預言は、ヨセフにも当てはめられるのです。

家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。(詩篇118:22)

振り返ると、ヨセフは喜びをもって、その歌を歌うことができたでしょう。でも、あの穴の中にいたときや、奴隷として売られたときには、そのことばを歌うのは難しかったでしょう。

それでも、ヨセフは自分の信仰にしがみつきました。神様が良い方であり、その恵みがとこしえまで続くことを、信じ続けました。次の数章を読めば、私たちはその姿を見ることができます。

その結果は?ヨセフは、パウロも学んだことを学びました。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)

私たちの人生がうまくいっているとき、神様が良い方であること、神様の愛を信じるのは簡単です。

でも、あの穴の中にいるとき、私たちはまだそれを言うことができるでしょうか。

ヨセフと一緒に、あの歌を歌えるでしょうか。

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。(詩篇118:1)

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神様と共に前進する

それで、ヤコブは自分の家族と、自分と一緒にいるすべての者に言った。

「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、衣を着替えなさい。

私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこに、苦難の日に私に答え、私が歩んだ道でともにいてくださった神に、祭壇を築こう。」(創世記35:2~3)

34章にある恐ろしい出来事の後、私たちはヤコブの人生に神の恵みを見ることができます。

ヤコブの息子たちの恐ろしい罪にも関わらず、神様はヤコブに言われました。「私はまだあなたと共にいる。私が最初にあなたに現れた場所、ベテルに戻りなさい。」

だから、ヤコブは家族に異国の神々を取り除き、身をきよめ、衣を着替え、ベテルに上って行くように命じました。

ベテルで、神様はヤコブに約束を再確認しました。また、神様はもう一度ヤコブを「イスラエル」と名付けました。

「イスラエル」とは、「神と戦う」という意味もあるし、「神は戦う」という意味もあります。

たぶん、後者の定義の方が適切かもしれません。なぜなら、ヤコブは神様と戦うことをやめ、神様の支配に従っていたからです。さらに、神様はヤコブとその家族のために戦っていたのです。(5節)

この話を読んで、私は励まされました。私たちがどんなに失敗しても、神様は私たちを決して見捨てないのです。むしろ、私たちが神様と共に前進するように招いてくださいます。

神様と共に前進するため、私たちはどうすればいいでしょうか。

私たちの罪を捨て、私たちを清めるイエス様の血で洗われ(第一ヨハネ1:7)、そして、再びイエス・キリストとその義を着るべきです(ローマ書13:14)。

そして、サタンが私たちを責めるとき、神様が私たちのために戦っていることを覚えていましょう。(ローマ書8:31〜34)

だから毎日、神の恵みによって歩み、神様と共に前進し続けましょう。

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神の祝福を得るため

ヤコブは言った。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」(創世記32:26)

ヤコブは、生涯を通じて神の祝福を得ようと努力しました。

その祝福を得るため、ヤコブは父と兄を騙しました。(創世記26〜27章)

その後、神の祝福を得るため、ヤコブは神様と交渉しようとしました。(創世記28:20〜22)

そして、今日の箇所では、神の祝福を得るため、ヤコブは神様と格闘しました。

彼が理解していなかったのは、神様が単純にヤコブを祝福したいと願っておられたということです。

ヤコブがするべきことは、神のあわれみと忠実さに信頼することだけでした。神様は、私たちのようなふさわしくない者にも、喜んでそのあわれみと忠実さを示してくださるのです。(10節)

その真理を把握することができれば、私たちはどんなに喜ぶことでしょう。

私たちは、神の祝福を得ようと努力する必要はありません。神のあわれみと真実さを信じ、ただその祝福を受けることができるのです。

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 心が壊れている人々のために祈る

昨日、私は姉とある従姉妹の話をしていました。その従姉妹は、叔父がどれほどひどい父親だったかを語っていました。

彼は男の子を望んでいたため、従姉妹が生まれたとき、病院に来てくれませんでした。

どうやら、彼は娘に「あなたが男の子だったら良かったのに……」と何度も言ったらしいです。

従姉妹は、50年もの間、その傷を抱えて生きています。

今日の箇所を読んだとき、この世界の歴史の中には、いつも傷ついた人がいたことを思い出しました。レアも、ラケルも、ヤコブも、心が壊れた人々でした。

でも、神様は私たちを見ておられ、聞いておられ、心に留めてくださいます。神様は、私たちを痛みのサイクルから解放し、平和のサイクルへと導こうと望んでおられます。

つまり、神様は、ご自分の真理と愛が私たちの心に治めることを望んでおられるのです。そうして初めて、私たちは癒しを知ることができます。

だから、今日、私は従姉妹のために祈っています。

従姉妹が神様を知るように祈っています。

神の恵みによって、従姉妹が過去の痛みと恥から解放されるように祈っています。

また、神との関係を通して、従姉妹が平和を知るように祈っています。

心が壊れている人々を知っているでしょうか。

今日、その人のために祈りましょう。

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 自分の目にある梁を取り除く

朝になって、見ると、それはレアであった。それで彼はラバンに言った。

「あなたは私に何ということをしたのですか。私はラケルのために、あなたに仕えたのではありませんか。なぜ、私をだましたのですか。」(創世記29:25)

今朝、上のことばを読んだとき、私は考えました。

「エサウはヤコブのことばを聞いていたら、どれほど笑っただろうか。ヤコブは、自分のことばがどれほど皮肉なものであったかを理解していただろうか。」

そして、私は自分のことを考えました。

先週、私をイライラさせる人について考えていました。

でも、私も同じようなことをしたことがあるでしょうか。たとえ同じことをしていないとしても、私が気づいていない自分の過ちは何でしょうか。

それを考えるとき、イエス様のことばを思い出しました。

あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。

兄弟に向かって、「あなたの目からちりを取り除かせてください」と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。

偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。(マタイ7:3~5)

だから、私はもう一度祈りました。「天のお父さん、私を探り、私の心を知ってください。私のうちに、傷のついた道があるかないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」(詩篇139:23~24)

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私たちを決して見捨てない方

見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。

わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。創世記28:15)

ヤコブがどれほど失敗したかを考えれば、神様の約束は本当に驚くべきものです。

でも、神様は私たちに関して、同じようなことを言っておられます。私たちがどんなに失敗しても、神様は私たちを決して見捨てません。

むしろ、神様は私たちとともに歩み、守り続けてくださいます。

さらに、御霊は毎日、私たちの心の中に働き、私たちをイエス様のようにしてくださいます。

そして、ご自分が約束してくださったことを成し遂げ、私たちが完成されて、顔と顔を合わせて神様を見るまで、神様は私たちを決して捨てません。

パウロのことばを借りれば、

あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。(ピリピ1:6)

それは、私たちの希望です。その希望を持って、歩みましょう。

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誰の計画?

今日の箇所を読んだとき、私は考えました。

「イサクは誰の計画に従っていただろうか。神様がヤコブとエサウに関してリベカに何と言われたか知っていただろうか(創世記25:23)。」

きっと、イサクはエサウがヤコブに長子の権利を売っていたことを知っていたでしょう。それでも、イサクはヤコブではなく、エサウの方を祝福しようとしました。

そして、私はもう一つのことを考えました。「ヤコブは誰の計画に従っていただろうか。」

ヤコブは「もちろん、神様の計画に従っているよ。だって、神様はエサウが私に仕えると約束してくださった」と主張することができたでしょう。

でも、私はダビデ王のことを思い出しました。

ダビデも同じようなことを言うことができました。神様はダビデがイスラエルの王になると約束してくださいました。しかし、サウルを殺す機会が二度あったのに、ダビデはそうしませんでした。

むしろ、ダビデは神様とそのタイミングを待ちました。

今日、私はたまたま詩篇25篇を祈っていて、ダビデの態度を見ました。

主よ、あなたをわがたましいは仰ぎ求めます。。。

まことに、あなたを待ち望む者がだれも恥を見ず、ゆえなく裏切る者が恥を見ますように。(詩篇25:1、3)

ヤコブは、神様とそのタイミングを待つのではなく、むしろ、ゆえなくイサクとエサウを裏切りました。その結果、ヤコブは恥を見ました。

エサウがヤコブを殺そうと思っていたので、ヤコブは逃げなくてはなりませんでした。彼は母リベカの顔を見ることは、二度とありませんでした。

エサウは最終的にヤコブを許してくれましたが、ヤコブは何年もの間、恐れと苦しみをもって生きていました。

それでも、神様はヤコブに恵みを与えてくださいました。

ダビデと同じように、ヤコブがこのようなことばを祈る姿を想像できます。

私の若いころの罪や背きを思い起こさないでください。あなたの恵みによって、私を覚えていてください。主よ、あなたのいつくしみのゆえに。(詩篇25:7)

神様は、そのような恵みをヤコブに与えてくださいました。

とにかく、私が考えていたのは、「私は誰の計画に従っているだろうか。神の計画だろうか。私の計画だろうか」ということです。

だから、今日、私はダビデのことばを祈りました。

主よ、あなたの道を私に知らせ、あなたの進む道を私に教えてください。

あなたの真理に私を導き、教えてください。

あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望みます。(詩篇25:4ー5)

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この世にいるけど、この世のものではない

[あなたはこの地に寄留しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福する。」

(イサク)はそこからベエル・シェバに上った。主はその夜、彼に現れて言われた。

「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加える。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」

イサクはそこに祭壇を築き、主の御名を呼び求めた。彼はそこに天幕を張り(ました)」。。。(創世記26:3,23~25)

天のお父さん、私はこの世にいるけれど、この世のものではありません。私は短い間、この世に寄留しているだけです。

だから、私がこの世の一時的なものに執着しないようにしてください。

むしろ、私が何よりもあなたを慕い求め、あなたがおられるところに、私の天幕を常に張る者となりますように。

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神の子供の権利を侮る

エサウは、「見てくれ。私は死にそうだ。長子の権利など、私にとって何になろう」と言った。。。

こうしてエサウは長子の権利を侮った。(創世記25:32~34)

イサクの長子として、エサウは特別な権利を持っていました。彼の遺産はヤコブの二倍だったし、イサクが亡くなった後、エサウは一族の長になるはずでした。

でも、最も大切な権利は、アブラハムとイサクに約束された神との契約の祝福でした。つまり、神との特別な関係です。

しかし、一瞬にして、エサウはその権利を失いました。なぜなら、彼は自分の「肉」に従って、その権利を侮ったからです。

最近の教会の説教で、私は「肉」をこのように定義しました。「本能、欲望、感情、その他すべての、神様から私たちを引き離すもの。」

エサウの場合、お腹を満たすために、彼は長子の権利をヤコブに売ってしまいました。

私たちクリスチャンは、自分の肉に従うことで、神の子供としての権利をどれほど侮っているでしょうか。

神の子供として、私たちはさまざまな祝福を受けています。神との新しい関係、神の子供としてのアイデンティティ、過去からの解放、神の恵みと力へのアクセスなどです。

でも、私たちはそれらを本当に大切にしているでしょうか。

それとも、自分の肉に従うことで、その祝福を侮っているでしょうか。

例えば、神の子供としての祝福の一つは、私たちが霊的な家族に属することです。

でも、できるだけ毎週の日曜日に教会に行こうとするほど、その祝福を大切にしているでしょうか。

それとも、教会を軽く見て、あっさりと自分のやりたいことを選んでしまうのでしょうか。

あるいは、私たちは十字架でイエス様が支払われた代価を軽んじて、自分の罪にふけり、「後で、神様の赦しを願うから」と言う時があるでしょうか。

いろんな意味で、私たちは自分の肉に従って、霊的な権利を侮ることができます。

でも、私はそうしたくありません。

私は肉の流れに逆らい、神の子供としての権利を抱きたいのです。

あなたはどうでしょうか。

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見てくださる神、聞いてくださる神

創世記16章では、ハガルは神様を「エル・ロイ」、つまり、「私を見てくださる神」と呼びました。

そして、彼女は神様に出会った場所を「ベエル・ラハイ・ロイです」、つまり、「私を見てくださる生きておられる神の井戸」と呼びました。

数年後、イサクはベエル・ラハイ・ロイに行きました。

母サラが亡くなったばかりで、イサクは深い悲しみの中にいたようです。

新改訳では「散歩に出かけた」と訳されていますが、原語の意味はもっと繊細です。

イサクはただ歩いていたのではなく、心の中で多くのことを思い巡らし、祈っていたのかもしれません。

もしかすると、彼はこう祈っていたのではないでしょうか。「神様、あなたは本当に私を見てくださっているのですか。私の悲しみをご存じなのですか。」

神様は確かにイサクを見ておられました。そして、恵みによって、イサクの心の必要に備えてくださいました。

私は創世記24章67節が大好きです。イサクはリベカを迎え、彼女を愛し、母の死後、慰めを得ました。

私たちの心を見てくださる神。私たちの祈りに耳を傾けてくださる神。私たちの深い必要に備えてくださる神。

そのような神様に、今日も信頼して歩みます。

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神様が備えてくださる

御使いは言われた。「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった」 。。。

アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエ(つまり、「主が備えてくださる」、または、「主が見てくださる」という意味)と呼んだ。

今日も、「主の山には備えがある」と言われている。(創世記22:12、14)

この話を読むたびに、私はいつも感動します。でも今日、初めて気づいたことがあります。

もしかすると、パウロはこの話を思いながら、こう書いたのかもしれません。

神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。

私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。(ローマ8:31ー32)

2000年前、カルバリという丘の上で、神様はご自分の御子を惜しむことなく、私たちの救いのために備えてくださいました。

神様がそうしてくださったのなら、どうして私は神様が私のすべての必要に備えてくださることを疑うことができるでしょうか。

天のお父さん、あなたはアドナイ・イルエです。あなたは私を見てくださる主です。あなたは私の必要に備えてくださる主です。

カルバリで、あなたがそのような神であることを証明してくださいました。

どうか私がその真理を忘れないように。あなたがどのような神であるか、私が決して忘れないように。

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私たちに笑いをくださる神

主は約束したとおりに、サラを顧みられた。主は告げたとおりに、サラのために行われた。

サラは身ごもり、神がアブラハムに告げられたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。。。

サラは言った。「神は私に笑いを下さいました。これを聞く人もみな、私のことで笑うでしょう。」(創世記21:1ー2、6)

この壊れた世界では、私たちが苦しむことがあります。

サラもその苦しみをよく知っていました。彼女は長い間、子どもを望んでいましたが、与えられませんでした。

しかし、神様の時に、神様はサラを顧みられ、子どもを与えてくださいました。その時、サラは再び笑うことができました。

今、私は二人の人のことを思い浮かべています。一人は自分の罪のために苦しんでいます。もう一人は結婚の問題で苦しんでいます。

だから、私は彼らのために祈っています。

「天のお父さん、あなたがサラを顧みられたように、その二人の人をも顧みてください。彼らを癒してください。そして、あなたの時に、彼らが再び笑うことができるようにしてください。」

あなたは、苦しんでいる人を知っているかもしれません。その人のために祈りましょう。そして、できる限り、神様の愛でその人に触れましょう。

もしかすると、あなた自身が今、苦しんでいるかもしれません。

どうか絶望しないでください。神様はあなたを今も愛しておられます。神様はあなたを赦し、癒してくださいます。

そして、神様はいつも、ご自分の約束を守ってくださいます。

だから、神様に従い、待ち望み続けましょう。そうすれば、神様の時に、あなたは再び笑うことができるようになります。

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隠れた罪?

アビメレクは。。。言った。「主よ。。。私は、全き心と汚れのない手で、このことをしたのです。」

神は夢の中で彼に仰せられた。

「そのとおりだ。あなたが全き心でこのことをしたのを、わたし自身もよく知っている。それでわたしも、あなたがわたしの前に罪ある者とならないようにした。だからわたしは、あなたが彼女に触れることを許さなかったのだ。」(創世記20:4ー6)

アブラハムの妻を奪ったアビメレクを責めることは難しいです。なぜなら、アブラハムは嘘をついて、「サラは私の妹だ」と言っていたからです。

でも、意図的に奪おうとしたわけではなくても、アビメレクはそうしてしまい、神様に対して罪を犯しました。

神様の恵みによって、アビメレクはサラと寝て、さらに大きな罪を犯すことはありませんでした。

この話を読んだとき、私はコリント人へのパウロの言葉を思い出しました。

私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。(第一コリント4:4)

私たちは、自分の罪に気づいていないことがあります。だからこそ、詩篇19篇にあるダビデの祈りを、時々祈る必要があります。

正直に言うと、私はその祈りをもっと祈るべきです。

今日、私はそうします。

だれが、自分の過ちを悟ることができるでしょう。

どうか 隠れた罪から私を解き放ってください。

あなたのしもべを、傲慢から守ってください。それらが私を支配しないようにしてください。

そのとき私は 大きな背きから解き放たれて、全き者となるでしょう。(詩篇19:12ー13)

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恐ろしい言葉?

わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。(創世記17:1)

その言葉を読んだとき、あなたが何を感じたかわかりませんが、私の目に留まりました。

「私は全能の主、万物の創造主、宇宙の支配者です。私の前に歩みなさい。

私から離れて、自分の道を行ってはならない。

全き者であれ。自分の罪にふけってはならない。あなたは聖なる者でなければならない。私が聖だからです。

すべてにおいて、私の真似をしなさい。私の性格の真似をし、私の価値観と心に従いなさい。」

その言葉をちょっと考えてみてください。正直なところ、一つの真理を心に留めておかなければ、私はこの言葉に圧倒されてしまうでしょう。

その真理とは?神様は私たちを愛してくださる父であるということです。

そして、神様はアブラハムと契約を結ばれたように、私たちとも契約を結ばれました。しかし、その契約は私たちの行いによるものではなく、イエス様の十字架の働きによるものです。

イエス様の働きによって、私たちは失敗しても、神様が私たちを受け入れてくださる確信を持ち、大胆に神様のみ前に進み出ることができます。(へブル4:16;10:19)

だから毎日毎日、一瞬一瞬、全き者として神様の御前に歩みましょう。そして、サタンが私たちを責めるとき、以下の言葉を覚えていましょう。

すなわち神は、世界の基が据えられる前から、(イエス・キリスト)にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。

神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。

この恵みを、神はあらゆる知恵と思慮をもって私たちの上にあふれさせ(ます)。(エペソ1:4ー8)

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私を見てくださる神

ひざまずく、のけ者にとって、あなたは見てくださる神でした。ーーマイケル・カード

天のお父さん、あなたはエル・ロイです。つまり、あなたは「私を見てくださる神」なのです。

あなたはラハイ・ロイです。つまり、あなたは、「私を見てくださる生きておられる神」なのです。

でも、あなたはただ遠くから私を観察する神ではありません。

あなたは私の名前を知っておられます。

あなたは私と私の苦しみを聞いてくださる神です。

また、あなたは私を探し、見つけてくださる神です。

まことに、主は高くあられますが、低い者を顧みてくださいます。。。

主は私のためにすべてを成し遂げてくださいます。

主よ、あなたの恵みはとこしえにあります。(詩篇138:6,8)

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私はあなたの盾です

アブラムよ、恐れるな。 わたしはあなたの盾である。(創世記15:1)

今日、アブラムへの神の御ことば、そして私たちへの神の御ことばを思い巡らしていました。

わたしはあなたの盾である。

あなたのお金ではなく、あなたの持ち物ではなく、あなたの力ではなく、あなたの知識や知恵ではなく、他のどんなものや人でもなく、わたしはあなたの盾である。

わたしはあなたの盾である。

「以前はわたしはあなたの盾であったが、これからはあなた自身で自分を守らなければならない」と言っているのではない。わたしはあなたの盾である。

わたしはあなたの盾である。

わたしはあなたを愛している。わたしはあなたのことを思っている。わたしの手はあなたの上にある。わたしはあなたの盾である。

わたしはあなたの盾である。

あなたの敵であるサタンがあなたを攻撃するとき、この世のものがあなたを攻撃するとき、わたしはあなたを守る。わたしはあなたにいつも忠実である。わたしの真実、わたしの忠実さはあなたの大盾である(詩篇91:4)

天のお父さん、あなたは私の盾です。だからこそ、アブラムがあなたを信じたように、私もあなたを信じることができるように助けてください。

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祝福となる

地のすべての部族は、 あなたによって祝福される。(創世記12:3)

今朝、その言葉に思いを巡らしていました。

アブラハムの子孫であるイエス様を通して、神様はアブラハムへの約束を果たしてくださいました。イエス様によって、私たち皆は祝福されているのです(ガラテヤ人への手紙3:7-14)。

しかし今日、私が初めて気づいたのは、神の民である私たち自身が、その約束の成就の一部であるということです。

つまり、イエス様によるアブラハムの霊的な子孫として、私たちはこの地のすべての人々に対する神の祝福となるべき存在なのです。

神様は私たちを通して、この世の人々に触れたいと願っておられます。そして、私たちが周囲の人々に触れることによって、神様はアブラハムへの約束を今も果たし続けておられるのです。

それは本当に素晴らしいことですね。

天のお父さん、私を通して、アブラハムへのあなたの約束を果たし続けてください。私が周囲の人々と接するとき、私があなたから彼らへの祝福となるようにしてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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正しくて、全き人

主は地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。

それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。。。

しかしノアは主の心にかなっていた。。。

ノアは正しい人で、彼の世代の中にあって全き人であった。

ノアは神とともに歩んだ。(創世記6:5-6,8-9)

ノアのように、私たちは人の悪が増大している世界に生きています。人々の心に図ることがみな、いつも悪に傾いているようです。だから、私たちの主は悲しんでおられます。

でも、今日の箇所を読んだとき、ノアの名前の代わりに自分の名前を入れようと思いました。

「ブルースは正しい人で、彼の世代の中にあって全き人であった。ブルースは神とともに歩んだ。」

正直に言うと、自分の罪や失敗を見ると、神様が私を正しくて全き人と呼ぶのは、想像しにくいです。「私は本当に主の心にかなっているだろうか」と思います。

でも、神様が私に思い出させてくださったのは、私が正しくて全き人と呼ばれている理由は、私が完全な人だからではなく、むしろ、私がただ神様と共に歩み、神様を信頼し、神様に従い、私の主であり創造主としてあがめ、神が良い方であることを信じているからなのです。

私は完全な人ではありませんが、イエス様が私の罪のために十字架で死なれ、私の罪を清め、私にイエスの義を着せてくださったので、神様は私を正しくて全き人と呼ぶことができます。(エペソ1:4、コロサイ1:22)

神様の恵みは本当に不思議だと思います。

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心からの従順

ユダは獅子の子。 わが子よ、おまえは獲物によって成長する。 雄獅子のように、雌獅子のように、 うずくまり、身を伏せる。 だれがこれを起こせるだろうか。

王権はユダを離れず、 王笏はその足の間を離れない。 ついには彼がシロに来て、 諸国の民は彼に従う。(創世記49:9ー10)

この預言では、私たちが初めて知るのは、ユダの血筋から全世界を治める支配者が来ることです。

最終的に、ユダ族から出た獅子であるイエス様がその預言を成就されました。(黙示録5:5)

しかし、私に印象に残ったのは、その最後の言葉です。「諸国の民は彼に従う。」

私たちもイエス様に従わなくてはなりません。なぜなら、イエス様は私たちの正当な王であり主だからです。

けれども、イエス様は、私たちがただルールに従うことを求めておられるのではありません。

それよりも、イエス様は私たちの心を求めておられます。つまり、イエス様を信頼し、愛する心を求めておられるのです。

私たちがそのような心を持たなければ、私たちの「従順」でさえ、神様を喜ばせることにはなりません。(へブル11:6)

あなたはどうでしょうか。あなたの心は神様のものでしょうか。

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子どもたちのための祈り

今日、ヨセフの息子たちへのヤコブの祝福を読んだとき、私は自分の娘のために祈りました。

主よ、あなたは私の父が御前に歩んだ神です。それだけではなく、あなたは今日という日まで、ずっと私の羊飼いでいてくださいました。

あなたは私をすべてのわざわいから贖ってくださいました。私を罪から救い、私を滅ぼそうとする敵であるサタンからも救ってくださいました。

だから今、私は祈ります。私の娘を祝福してください。あなたがずっと私の羊飼いでいてくださったように、私の娘の羊飼いとなってください。私を贖ってくださったように、私の娘をも贖ってください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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わずかで、いろいろなわざわいがある

 ファラオはヤコブに尋ねた。「あなたの生きてきた年月は、どれほどになりますか。」

ヤコブはファラオに答えた。「私がたどってきた年月は百三十年です。

私の生きてきた年月はわずかで、いろいろなわざわいがあり、私の先祖がたどった日々、生きた年月には及びません。」(創世記47:8ー9)

ヤコブの言葉を読んで、私はモーセの詩篇を思い浮かべました。

もしかしたら、モーセが詩篇90篇を書いたとき、このヤコブの話を考えていたのかもしれません。

ヤコブは、辛い時も経験しました。ある問題はヤコブ自身のせいで起こりました。例えば、ヤコブが父と兄を騙したことで、さまざまなトラブルがヤコブに降りかかりました。

そのあと、神様はヤコブに騙される痛みを教えられました。ヤコブの息子たちの嘘によって、ヤコブは20年間ヨセフが亡くなったものと思っていました。

ヤコブの人生は、アブラハムやイサクと比べると短いものでした。(創世記25:7、35:28)

しかし、その短い人生の中で、ヤコブはいろいろな試練に臨みました。

モーセの時代には、人間の寿命はさらに短くなっていました。それでも、ヤコブはモーセの言葉に同意したことでしょう。

私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。そのほとんどは労苦とわざわいです。瞬く間に時は過ぎ、私たちは飛び去ります。(詩篇90:10)

しかし、人生の終わりに、ヤコブは神の忠実な愛と恵みを見ました。(詩篇90:14)

神様は、ヤコブが苦しみとわざわいを経験することをお許しになりましたが、ヤコブは自分の人生に神様の御業と威光を見出しました。(詩篇90:16)

また、ヤコブは自分に対する神様の素晴らしい慈愛を見ました。(詩篇90:17)

私たちも旅の途中です。

この世は、私たちの住まいではありません。

この旅は短く、私たちは悲しみや苦労に臨むことがよくあります。

それでも、神様から目を離さず、私たちに対する神の忠実な愛と恵みを覚えていましょう。

そして、毎日、モーセとともに祈りましょう。

どうか教えてください。自分の日を数えることを。 そうして私たちに 知恵の心を得させてください。(詩篇90:12)

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神の恵みの計画

いろいろな意味で、ヨセフはイエス様の前触れでした。

ヨセフは父に愛されました。(創世記37:3;マタイ3:17)

ヨセフは自分の民に拒絶されました。(創世記37:8;ヨハネ1:10〜11)

ヨセフは銀で売られました。(創世記37:28;マタイ26:14〜16)

ヨセフは言いがかりをつけられました。(創世記39:16〜18;マタイ26:59〜61)

ヨセフは権力の座を与えられました。(創世記41:37〜44;ピリピ2:9〜11)

ヨセフは自分の民に、大いなる救いを備えてくださいました。(創世記45:7;マタイ1:21)

45章では、私たちの救いの描写を見ることができます。

ヨセフの兄弟たちのように、ある日、私たちはイエス様の御前に立ち、自分の罪を知り、自分が死刑に値することもわかります。

でも、ヨセフのように、イエス様は私たちに優しく言われます。

「どうか私に近寄ってください。神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによって、あなたがたを生き延びさせるためだったのです。」(創世記45:4,7)

今なお、ユダヤ人の間には、恵みによって救われた残りの者がいます。(ローマ11:5)

神様の恵みによって、私たちも神様の家族に属しています。私たちもイエス様の大いなる救いを受けました。

その救いは偶然ではありませんでした。ヨセフの場合と同じように、それは神様の恵みの計画の一部でした。(創世記45:5〜8;使徒2:13〜18、4:27〜28)

だから、パウロとともに歌いましょう。

ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。

「だれが主の心を知っているのですか。 だれが主の助言者になったのですか。だれがまず主に与え、 主から報いを受けるのですか。」

すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(ローマ12:33ー36)

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何の申し開きもできないでしょう

ユダが答えた。「あなた様に何を申し上げられるでしょう。何の申し開きができるでしょう。何と言って弁解することができるでしょう。神がしもべどもの咎を暴かれたのです。」(創世記44:16)

ユダの言葉は、私たちすべてに当てはまるでしょう。

私たちは天の御座の前に立ち、神様が私たちの人生の記録を開かれたとき、何も言うことができません。弁解することもできません。

ユダが自分の父ヤコブに語った言葉も、本当に印象に残ります。

もしも、あの子をお父さんのもとに連れ帰らなかったなら、私は一生あなたの前に罪ある者となります。(32節)

ヤコブは知らなかったかもしれませんが、ユダの言葉には、二つの意味があったと思われます。

ヨセフを奴隷として売るように勧めたのは、ユダでした。(創世記37:26ー27)

しかし、44章では、ユダが自分の罪の重さをどれほど感じていたかがわかります。

ヨセフを奴隷として売ったことで、もちろんヨセフに罪を犯しましたが、自分の父にも罪を犯しました。

ユダは過去を変えることはできませんでした。でも、ベニヤミンの命を保証することによって、自分の罪の償いをしようとしたのだと思います。

ユダの隠されたメッセージは、こうだったのかもしれません。

「もし、ベニヤミンを父のもとに連れ帰らなかったなら、私は一生あなたの前で、ヨセフに関して罪ある者となります。」

でも実際には、ユダがベニヤミンを父のもとに連れ帰ったとしても、その罪の償いをしたことにはなりません。

私たちは、どれほどユダのように、自分の罪の償いをしようとするでしょうか。でも、どんなに良いことをしても、私たちはその罪の償いをすることはできません。

神様が私たちの咎を暴かれるとき、私たちは弁解することができません。

しかし、良い知らせがあります。イエス様は十字架で、私たちの罪を背負われ、その代価を支払ってくださいました。私たちがしなければならないのは、ただイエス様の働きを信じて、休むことです。

だから、パウロはこう言いました。

こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。

そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。(ローマ5:1ー2)

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神様の訓練

ここは実に興味深い箇所です。

今日の箇所では、ヨセフは過去の傷に直面します。

20年ぶりに、彼は「正直な」兄たちに会います。(創世記42:11)

(「正直者?あなたたちは私に何をしたか、正直にお父さんに伝えたの?」)

兄たちと話したとき、ヨセフは奴隷として売られたことを思い出します。

もう一人の弟はいなくなりました。(13)

そして、私たちはヨセフの兄たちを見ます。神様は、彼らがずっと埋めようとしていた罪悪感を掘り起こされました。

まったく、われわれは弟のことで罰を受けているのだ。(21)

最後にヤコブがいます。

ヨセフがいなくなってから、ヤコブはずっとその憂いに明け暮れていました。たぶん彼は、「神様はどこにいらっしゃるのだろうか」と思っていたでしょう。

ヨセフはいなくなり、シメオンもいなくなった。そして今、ベニヤミンまで取ろうとしている。こんなことがみな、私に降りかかってきたのだ。(36)

私たちはよく苦しみに遭います。人に傷つけられることもあります。罪悪感に苦しむこともあります。だから、「神様はそんなに私を憎んでおられるのか」と疑問に思うことがあります。

でも、神様の目的は私たちを苦しませることではありません。むしろ、神様は私たちに癒しと救いをもたらしてくださっています。

ヨセフが初めて知ったのは、ルベンがヨセフを売ることに反対していたということです。むしろ、ルベンはヨセフをかばってくれていました。

また、ヨセフは兄たちがそれほど薄情ではなかったことも分かりました。つまり、彼らはずっと罪悪感に苦しんでいたのです。(21〜22)

それを理解したことで、ヨセフは彼らを許すことができたのでしょう。

ヨセフの兄たちは、自分たちは神様の裁きを受けていると思いました。(21、28)

でも実際には、彼らは神様の救いを見ていたのです。

そして、ヨセフがいなくなってから、ヤコブは神様から何も語られていませんでしたが、最終的にヤコブが知ったのは、神様がヤコブの益のために働いてくださっていたということです。

だから、へブル人への手紙の著者が語る励ましの言葉を心に留めておきましょう。

私たちには肉の父がいて、私たちを訓練しましたが、私たちはその父たちを尊敬していました。それなら、なおのこと、私たちは霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。

肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。

すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。

ですから、弱った手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。また、あなたがたは自分の足のために、まっすぐな道を作りなさい。足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろ癒やされるためです。(へブル12:9ー13)

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私たちの希望

夢が二度ファラオに繰り返されたのは、このことが神によって定められ、神が速やかにこれをなさるからです。(創世記41:32)

その言葉は本当に興味深いです。

ヨセフはいろいろな苦しみを経験しました。どのようにしてヨセフは希望を持ち続けることができたのでしょうか。

ヨセフの言葉の中に、私たちは彼の希望の理由を見ることができると思います。

つまり、彼が若いときに二つの夢を見て、その夢によって神様はヨセフの将来の希望を示されました。その希望は、神様のいつくしみと忠実さに基づいていました。

ヨセフの場合、「速やか」とは約20年のことでした。でも、結局、その日は来ました。

私たちも希望を持っています。その希望は確かなものです。

なぜでしょうか。

へブル人への手紙の著者によれば、私たちの希望は、変わらない二つのものに基づいています。それは、神様の変わらない約束と誓いです。(へブル6:17〜18)

おそらく、もう一つ加えることができるでしょう。それは、神様の良いご計画です。

その変わらないものによって、私たちには大祭司が与えられています。それはイエス様です。イエス様は私たちの大祭司であり、私たちの永遠の救いの源となられました。(へブル5:5〜10、7:10〜28)

だからこそ、前に置かれている希望をつかもうとして逃れてきた私たちは、力強い励ましを受けるのです。その希望は、安全で確かな、たましいの錨のようなものです。(へブル6:18〜19)

だから、どんな試練に遭っていても、ヨセフのように、キリストにある希望にしがみつきましょう。

あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。

「もうしばらくすれば、来たるべき方が来られる。遅れることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし恐れ退くなら、 わたしの心は彼を喜ばない。

しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」(へブル10:36ー39)

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私を思い出してください

「あなたが幸せになったときには、どうか私を思い出してください。私のことをファラオに話して、この家から私が出られるように、私に恵みを施してください。」

。。。ところが、献酌官長はヨセフのことを思い出さないで、忘れてしまった。(創世記40:14、23)

献酌官長がヨセフのことをすっかり忘れてしまったとき、ヨセフはどれほど失望していたことでしょうか。

ヨセフが言った通りに献酌官長が自由にされ、元の地位に戻されたとき、ヨセフはその最初の数日間、どれほど希望を持っていたことでしょうか。

でも、数日が過ぎました。数週間が過ぎました。ヨセフの状況はまったく変わりませんでした。

人間は不完全な存在です。人々が私たちをがっかりさせることもあります。

でも良い知らせは、神様が私たちのことを忘れないということです。

39章には、「神様はヨセフと共におられた」と4回書かれています。

ヨセフは神様の臨在を感じ取れない時もあったかもしれませんが、神様はいつもヨセフと共におられました。

数千年後、もう一人の人が叫びました。「どうか私を思い出してください」と願いました。

十字架の上で、イエス様はその人にこう言われました。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)

でも、献酌官長と違って、イエス様はその人を思い出し、天の父のもとで、その人のためにとりなしてくださいました。

そのように、イエス様は私たちのためにもとりなしてくださいます。(へブル7:22〜25)

だから、私たちはどんなに苦しんでいても、イエス様にある希望にしがみつきましょう。

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聖書にはどうしてこんなに酷い話があるの?

「どうして、聖書には、こんなに酷い話が書いてあるのだろうか」と疑問に思ったことがありますか。

ユダとタマルの話は、本当に酷いと思いませんか。でも、聖書には他にも酷い話がたくさん書かれています。

簡単に答えると、それが人間の歴史なのです。人間の歴史は、酷い話に満ちています。

聖書は、理想的な人間の歴史を描いているのではありません。聖書は、罪深い人間の歴史を描いています。

でも、それだけではなく、聖書は、罪に歪んだ人間をあがなうことができる神を描いています。

ユダとタマルの話は本当に酷いですが、最終的に私たちの救い主は、その血筋から来られました。(マタイの福音書1章を調べてください。)

あなたは、この世界や自分の生活の中で、多くのひどい罪やひどい状況を目にするかもしれません。

けれども、私たちが神様に信頼を寄せるなら、神様があがなうことができない人や状況はありません。

だからこそ、パウロはこう書きました。

私は福音を恥としません。福音は。。。信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。(ローマ1:16)

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私たちと共におられる神

ドタンで、ヨセフの兄弟たちが彼を捕らえ、イシュマエル人に奴隷として売ったとき、ヨセフは何を考えていたでしょうか。

「神様はどこだろう」と思うのは、自然な反応かもしれません。

不思議なことですが、何百年後、同じドタンの地で、もう一人の人物が似たような思いを抱いていました。

預言者エリシャとそのしもべが敵の軍隊に包囲されたとき、しもべは恐れにとらわれてパニックになりました。でも、エリシャは彼に言いました。

恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから(列王記第二6:16)

そして、エリシャは祈りました。

どうか、彼の目を開いて、見えるようにしてください。(列王記第二6:17)

そして、そのしもべは、神様の軍隊が彼らを守っていることを見ました。神様は彼らを見捨てたわけではありませんでした。神様は最初から、彼らと共におられました。

そのように、神様はヨセフと共におられました。

そして、数千年後、イエス様が「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたとき、神様は実際にイエス様と共におられました。

また、神様がヨセフの兄弟たちの罪を用いて、ヤコブの家族(その兄弟たちを含む)の救いをもたらされたように、神様はユダヤ人たちの罪を用いて、私たちの救いをもたらされました。

だからこそ、あなたがどんな試練に直面しても、心に留めておきましょう。

その試練の中で神様を見ることができないかもしれませんが、神様はあなたと共におられます。そして、神様はあなたの益のために働いてくださいます。(ローマ8:28)

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神様を後回しにするとき

聖書の中で、これは最も酷い話の一つです。ディナがレイプされたことはもちろん酷かったけれど、そのお兄さんたちの反応も酷かったのです。

でも、ヤコブが一つのことをしていたら、その事変を避けられていたかもしれません。それは、ベテルに行って、神様に対する誓いを果たすことです。(創世記28:18ー22)

ヤコブはもう一日旅していたら、ベテルに着いていたはずですが、そうせずに、シェケムで土地を買い取って、そこに暮らしていました。その間、若い子供たち(33:13ー14)は青年になりました。

もしかしたら、町のとなりに住むのはもっと便利だったかもしれません。また、もしかしたら、ヤコブは「ベテルは近い。ここでも、私の誓いを果たすことができるだろう」と思ったのかもしれません。

でも、実際には、シェケムの事変の後まで、ヤコブはその誓いを果たさなかったようです。(35:1ー4)

どれだけ、私たちは神様をすべてのものよりも優先しないために、悪い状態に入ってしまうでしょうか。

もちろん、神様は私たちにセカンドチャンスを与えてくださる神です。シェケムの事変の後、ヤコブもセカンドチャンスを受けました。

でも、最初から神様に私たちの心を尽くしていれば、私たちはどれだけ苦しみを避けることができるでしょうか。

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神様の御顔を見るとき

ヤコブは自ら彼らの先に立って進んだ。彼は兄に近づくまで、七回地にひれ伏した。

エサウは迎えに走って来て、彼を抱きしめ、首に抱きついて口づけし、二人は泣いた。。。

ヤコブは答えた。「。。。私は兄上のお顔を見て、神の御顔を見ているようです。兄上は私を喜んでくださいましたから。」(創世記33:3ー4、10)

時々、私たちは、神様が私たちのことをどのように考えておられるか疑問に思います。

ヤコブがエサウに対して罪を犯したように、私たちは神様に対して罪を犯しました。だから、神様が私たちを本当に受け入れてくださるかどうか疑います。

でも、驚くべきことは、私たちがうつむき、神様の罰を恐れるのに、エサウのように神様は迎えに走って来て、私たちを抱きしめ、口づけしてくださるということです。言い換えれば、神様は私たちを受け入れてくださいます。

ヤコブに対するエサウの反応は、イエス様の有名なたとえ話に登場する父親の反応によく似ています。

ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。(ルカ15:20)

私たちが天の父なる神様の御顔を見るとき、同じような反応が見られます。

あわれみ。

赦し。

受け入れること。

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苦しみの子、右手の子

メリークリスマス!

ヤコブはベツレヘムに行く途中、ラケルはヤコブの末っ子を生みました。でも、その子を生んだ後、ラケルはすぐに亡くなりました。

ラケルは死に臨み、その子をベン・オニと呼びました。ベン・オニとは、「私の苦しみの子」を意味します。

でも、その後、ヤコブはその子をベニヤミンと名付けました。ベニヤミンとは、「右手の子」を意味します。

約2000年後、もう一人の赤ちゃんが生まれました。その子はベツレヘムに生まれました。

ある意味、その子は「ベン・オニ」でした。イエス様が十字架にかけられたとき、剣はマリアの心を刺し貫きました。(ルカ2:34ー35)

さらに、イエス様ご自身が苦しみ、悲しみや痛みや人に拒絶されることを経験なさいました。(イザヤ53:3)

でも、十字架で、イエス様はご自分のいのちを死に明け渡し、私たちの罪を負い、神様に背いた私たちのために、とりなしをしてくださいました。(イザヤ53:12)

その後、天の父なる神様はイエス様を復活させて、

天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。(エペソ1:20ー21)

苦しみの子。

天の父なる神様の右手の子。

それはイエス様です。

そして、それはクリスマスの意味です。

Joy to the world!

世界に喜びを。

The Lord is come.

主が来られた。

Let earth receive her King !

この世に王を迎え入れよう。

ーーアイザック・ウォッツ

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神は戦う

その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」(創世記32:28)

ヤコブを祝福するとき、神様は彼に新しい名前を与えました:イスラエル。その名前には、二つの意味があります。イスラエルとは、「神と戦う」と「神は戦う」を意味します。

今まで、私は一つ目の意味が分かっていました。ヤコブは神の祝福と好意を得るため、ずっと神様と戦わなくてはならないと思っていました。

例えば、神様のタイミングを待たずに、ヤコブはエサウの長子の権利と祝福を奪い取りました。

また、神様を信頼せずに、ヤコブとその家族はラバンからひっそりと逃げました。

でも、今日、私は二つ目の意味が分かるようになりました。

ヤコブが学ばなくてはならなかったのは、神の祝福や好意を得るために戦わなくていいということです。なぜなら、神様はもうヤコブの味方でしたから。神様はヤコブのために戦っておられたのです。

ヤコブがラバンと戦うとき、神様はヤコブのために戦っておられました。(創世記31:6ー13、24、42)

また、エサウとの和解のため、神様はヤコブのために戦っておられました。(創世記33章)

神様の祝福と好意を得るために、私たちの多くは頑張って努力しなくてはならないと思います。でも、そうすることで、私たちは神と戦うことになってしまいます。

また、ヤコブがエサウの許しと好意を買おうとしたように、私たちは、神様の赦しと好意を買わなくてはならないと考えます。

でも、神様は私たちに言われます。「私はもうあなたの味方です。私はあなたのために戦っています。」

イエス様は十字架でそれをはっきりと証明してくださいました。(コロサイ2:13ー15)

だからパウロの言葉を心に留めておきましょう。

では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。

神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。

私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。

 だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。

だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。

 だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。。。

しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ8:31ー35、37ー39)

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この世の取るに足りない者や見下されている者のため

私にとって興味深いのは、神様がラケルではなく、レアを選ばれ、イエス様がレアの血筋であったことです。

ラケルはヤコブに愛されていた人でした。レアは愛されていませんでした。ラケルは美人でした。レアは不美人でした。

それでも、神様はレアを選ばれました。

その話を考えると、コリント人たちへのパウロの言葉を連想します。

兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。

しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。

有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。(第一コリント1:26ー28)

どうして、神様はそのような人を選ばれるのでしょうか。

肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。(第一コリント1:29)

神様の恵みとキリストの働きだけによって、私たちは義と認められ、清められ、贖われました。(第一コリント1:30)

だから、パウロはこう言います。

誇る者は主を誇れ。(第一コリント1:31)

最終的にレアはそうしました。

最初の三人の息子たちが生まれたとき、レアは自分の惨めな状態で思い詰めました。「私は悩んでいる。私は嫌われている。私は愛されていない。」

でもユダが生まれた時、レアは自分の惨めな状態から目を離して、主に向かって、こう言いました。

今度は、私は主をほめたたえます。(創世記29:35)

そういうわけで、イエス様がユダの血筋であったことがとてもふさわしいと思います。

あなたは、自分が取るに足りない人だと思うかもしれません。自分が見下されている人と思うかもしれません。

でも、神様は特にそのような人に恵みを注ぐことを喜びます。

さらに、イエス様はそのような人に共感します。預言者イザヤはイエス様に関してこう言いました。

彼には見るべき姿も輝きもなく、 私たちが慕うような見栄えもない。

彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、 悲しみの人で、病を知っていた。

人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。(イザヤ書53:2ー3)

でも、イエス様は取るに足りない人や見下される人に共感するためだけにこの世に来たわけではありません。イエス様が彼らを贖ってくださいました。

しかし、彼は私たちの背きのために刺され、 私たちの咎のために砕かれたのだ。

彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、 その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。(イザヤ書53:5)

クリスマスはただ嬉しい人や愛されている人や力のある人のためではありません。

クリスマスはレアのような人のためです。クリスマスはあなたのためです。クリスマスは私のためです。

だからレアと一緒に主を誇り、歌いましょう。「主よ。あなたをほめたたえます。」

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私たちのはしご、門、神殿、神

すると彼は夢を見た。見よ、一つのはしごが地に立てられていた。その上の端は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしていた。

そして、見よ、主がその上に立って、こう言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。」。。。

 ヤコブは眠りから覚めて、言った。「まことに主はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」

 彼は恐れて言った。「この場所は、なんと恐れ多いところだろう。ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ。」(創世記28:12ー13、16ー17)

このシーンを想像してみてください。

ヤコブは自分の罪のために、兄エサウから逃げていました。それでも、恵みによって、神様はヤコブに現れてくださいました。それだけではなく、神様はヤコブを祝福してくださいました。

約二千年後、ナタナエルという人がイエス様の前に立ちました。

ヤコブのように、ナタナエルは少し怖がりました。なぜなら、イエス様はナタナエルについて、神様だけが知っておられることを語られたからです。だから、ナタナエルはイエス様をメシアとして認めました。

しかし、ナタナエルはイエス様がただのメシアではないことをまだ理解していませんでした。

イエス様は彼にこう言われました。

それよりも大きなことを、あなたは見ることになります。。。

まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります。(ヨハネ1:50ー51)

ヤコブの話では、神の使いたちは、はしごを上り下りしていました。

でも、ヨハネの福音書では、イエス様は「私ははしごだ」と言われました。

けれども、「頑張ってはしごを登りなさい」と言われたのではなく、イエス様は私たちのところに来てくださいました。

さらに、イエス様は新しい神の家です。つまり、イエス様は新しい神殿です。

イエス様によって、神様の栄光が現れ、イエス様の十字架の働きによって、私たちは神様に近づくことができます。(ヨハネ2:20;12:32)

それだけではなく、イエス様は天国の門です。イエス様によって、私たちは救われます。(ヨハネ10:9)

それがクリスマスの意味です。イエス様は、私たちのはしごや神殿や門です。でも、最も大切なのは、イエス様が私たちの主と神であることです。

そして、私たちが気づいていなくても、イエス様はここにおられます。イエス様はインマヌエルです。「神は私たちと共におられます。」

だから、ヤコブとナタナエルと一緒に、神様のみ前に立ち、畏敬の念を抱きましょう。

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わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福する

あなたはこの地に寄留しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福する。。。

わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしはあなたを祝福し。。。(創世記26:3、24)

アブラハム、イサク、ヤコブはこの世に属しませんでした。彼らは神とその御国に属していました。でも、彼らは寄留者としてこの世に生きるように召されました。(へブル11:13–16)

彼らは周りの人々の生活様式や価値観を取り入れてはいけませんでした。むしろ、彼らはこの世の人々と違い、天の御国の市民として生きるべきでした。

そして、神様が約束されたのは、彼らが外国で寄留者のように生きていても、神様が彼らと共におられ、彼らを祝福してくださるということです。

その約束を心に留めている限り、彼らは神様を喜ばせる人生を送りました。でも、それを忘れたとき、彼らはいろいろなトラブルに巻き込まれました。

アブラハムとイサクはその約束を忘れたとき、隣人を恐れ、自分の妻を妹と呼びました。

ヤコブの場合、神様の約束が自分のためかどうか分からなかったので、神様の祝福を得るために、彼は父と兄を騙しました。

アブラハム、イサク、ヤコブのように、私たちも外国で暮らしている寄留者のようです。(第一ペテロ2:11、ヨハネ17:14–16)

神様が私たちと共におられ、私たちを祝福してくださることを信じていますか。その真理によって、私たちは生活しているでしょうか。

以下のパウロの言葉を少し考えてみましょう。その言葉の意味を噛み締めましょう。

私たちは、奥義のうちにある、隠された神の知恵を語るのであって、その知恵は、神が私たちの栄光のために、世界の始まる前から定めておられたものです。 。。

しかし、このことは、 「目が見たことのないもの、 耳が聞いたことのないもの、 人の心に思い浮かんだことがないものを、 神は、神を愛する者たちに備えてくださった」 と書いてあるとおりでした。(第一コリント2:7、9)

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私たちを見て、慰めてくださる神

私にとって驚くべきことは、同じ聖書の箇所を何度も読んでいても、時々その意義にまったく気づかないということです。

今日の箇所を何度も読んだことがありますが、今日、以下の聖句が初めて私の目に留まりました。

一方イサクは、ベエル・ラハイ・ロイ地方から帰って来ていた。彼はネゲブの地に住んでいたのであった。(創世記24:62)

それは、あまり目立たない聖句でしょう。

でも、それを読んで、「たしか、ベエル・ラハイ・ロイという地名を読んだことがある」と思いました。

そして、創世記16章を読んで、「やっぱり」と思いました。ベエル・ラハイ・ロイという所で、ハガルは神様に出会いました。その時、ハガルはサラから逃げていました。

神様に出会ったあと、ハガルは神様を「エル・ロイ」と呼びました。その名前の意味は、「私を見てくださる神」ということです。ベエル・ラハイ・ロイとは、「生きて私を見てくださる方の井戸」を意味します。

もしかしたら、その所にいるとき、イサクはこう祈ったかもしれません。

「神様。私の兄イシュマエルのお母さんであるハガルがここにいた時、あなたはハガルと共におられました。ハガルが本当に苦しんでいた時、あなたは彼女を見てくださいました。

でも今、苦しんでいるのは、私です。母が亡くなり、私はとても寂しいのです。あなたは、私も見てくださるでしょうか。私と共におられるでしょうか。」

神様は、そうしてくださいました。神様の恵みによって、ご自身の素晴らしいタイミングで、リベカをイサクのもとに導いてくださいました。その時、

イサクは、その母サラの天幕にリベカを連れて行き、リベカを迎えて妻とし、彼女を愛した。イサクは、母の亡き後、慰めを得た。(創世記24:67)

クリスマスは喜ぶときであるはずです。でも、ある人にとって、クリスマスはとても辛い時です。特に、今年、あなたの愛する人が亡くなった場合、本当に辛いでしょう。

でも、心に留めてください。神様は「エル・ロイ」です。神様はあなたを見てくださいます。また、イエス様は「インマヌエル」です。イエス様はあなたと共におられる神です。

だから、あなたが苦しんでいるなら、神様のもとに行ってください。

神様は、あわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちた神です。そして、どのような苦しみのときにも、神様は私たちを慰めてくださいます。(第ニコリント1:3–4)

さらに、神のひとり子であるイエス様はあなたと共におられます。

ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。

主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。(イザヤ9:6)

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寄留者と居留者

私は、あなたがたのところに在住している寄留者(直訳:奇留者と居留者)です。。。(創世記23:4)

サラが亡くなったとき、アブラハムにその真理はしみじみと感じられたことでしょう。

アブラハムは、神が約束された土地に住んでいましたが、彼が所有していた土地は、サラを埋葬するために買った墓地だけでした。彼は、ただの寄留者や居留者として暮らしていました。

私たちも寄留者や居留者としてこの世界に暮らしています。

この世の文化は、神の国の市民である私たちの文化とは異なります。この世界の人々の考え方や生き方は、私たちのものとは違います。だから、私たちは少し違和感を覚えることでしょう。

さらに、この世の痛みや、死がどのように人々を支配しているかを見ると、私たちは天国に憧れます。私たちが愛するのは、この世ではありません。むしろ、私たちはより良い世界に憧れているのです。

しかし、それは単なる夢物語ではありません。私たちは希望を持っています。それは、決して約束を破らない神によって与えられた、約束された遺産なのです。

だから、絶望せずに、希望をしっかりと抱き、前を向いて、アブラハムやサラ、そして他の信仰の先人たちの姿勢を見習いましょう。

これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。

約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。

そのように言っている人たちは、自分の故郷を求めていることを明らかにしています。も

し彼らが思っていたのが、出て来た故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。

ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。(へブル11:13ー16)

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聖書は、わたしについて証ししているものです

イエス様が「聖書はわたしについて証ししているものです」と言われたとき、創世記第22章についても触れておられたのではないでしょうか。

神様はアブラハムにこう言われました。

あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。

そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。(創世記22:2)

最終的に、神様がアブラハムに「イサクを殺してはならない」と言われましたが、神様はご自身の愛する一人の子を惜しむことなく、十字架の死に渡されました。

そういうわけで、使徒ヨハネはこの言葉を書きました。

神はそのひとり子を世に遣わし、 その方によって 私たちにいのちを得させてくださいました。

それによって 神の愛が私たちに示されたのです。

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、 私たちの罪のために、 宥めのささげ物としての御子を遣わされました。

ここに愛があるのです。(第一ヨハネ4:9〜10)

また、

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)

アブラハムとイサクがその山を登ったとき、イサクは「全焼のささげ物にする羊は、どこにいますか」と訊きました。

アブラハムはこう答えました。

神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。(創世記22:2)

数百年後、バプテスマのヨハネはイエス様についてこう言いました。

見よ、世の罪を取り除く神の子羊。(ヨハネ1:29)

その山を登ったときにイサクが捧げ物のための薪を背負ったように、イエス様はゴルゴタを登った時に十字架を背負われました。

そして、イサクがある意味で復活しましたが、イエス様は実際に復活されました。(へブル11:19)

最後に、アブラハムの子孫であるイエス様によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになりました。(創世記第22:18;マタイ第1:1〜16)

時々、クリスチャンたちは「どうして旧約聖書を読むべきだろうか」と疑問に思います。

最も大切な理由は、旧約聖書では、私たちはイエス様を見るからです。

だからこそ、私たちが旧約聖書を読むとき、一緒にイエス様のことを探しましょう。

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神様は訪れられるとき

主は約束したとおりに、サラを顧みられた。主は告げたとおりに、サラのために行われた。(創世記21:1)

聖書の翻訳は、とても興味深いものです。新改訳では「主はサラを顧みられた」とあり、英訳では「主はサラに恵みを与えた」または「神様はサラを訪れた」と訳されています。

実は、これら三つの訳はすべて正しいのです。へブル語の原文には、神様が人を心に留め、祝福するために、あるいは裁くために訪れるというニュアンスが含まれています。

サラの場合、神様は彼女を心に留め、祝福するために訪れられました。

それから何百年後、主はもう一人の女性を訪れられました。それはマリアです。その時、神様はもう一つの約束を果たされました。それは、私たちに救い主を送るという約束です。

そして、イエス様によって、私たちは恵みの上にさらに恵みを受けました(ヨハネ 1:16)。

私は以前にも申し上げましたが、もう一度言わせてください。

ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。(第二コリント9:15)

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定めた時に

たぶん、クリスマスがもうすぐやって来るからかもしれませんが、最近、私はクリスマスのレンズで聖書を読んでいます。

主はアブラハムに言われました。

なぜサラは笑って、「私は本当に子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに」と言うのか。

主にとって不可能なことがあるだろうか。

わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子が生まれている。(創世記18:13ー14)

私はそれを読んで、マリアに対するガブリエルの言葉を思い起こしました。

聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。

見なさい。あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六か月です。

神にとって不可能なことは何もありません。(ルカ1:35ー37)

そして、ガラテヤ人たちに対するパウロの言葉を思い起こしました。

しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。

それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。(ガラテヤ4:4ー5)

神様はアブラハムに、「あなたによってすべての国民は祝福される」と約束されました。

サラがイサクを出産したことによって、神様はその約束の成就を始められました。

その時、サラは九十歳で、最初は赤ちゃんを産むのはもう無理だと思っていました。

しかし、イサクを生んだとき、サラの疑いの笑いは喜びの笑いに変わりました。

そして、時が満ちて、神様は処女であるマリアを通して、イエス様を送られました。

たぶん、マリアも少し疑いを持っていたかもしれませんが、最終的にガブリエルの言葉を信じて、イエス様を生みました。

そして、イエス様によって、私たちは神様の子供たちとして喜びます。

そういうわけで、パウロはこう書きました。

そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。

ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。(ガラテヤ4:6ー7)

だからパウロと共に感謝しましょう。

ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。(第二コリント9:15)

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私たちを聞いてくださる神、私たちを見てくださる神

今日の箇所では、私たちは神を描写する名前を二つ見ます。

イシュマエル:「神は聞かれる。」

エル・ロイ:「私を見てくださる神。」

ハガルに対して、神様はそのような神でした。

けれども、ハガルは神様の恵みとあわれみに値するような人ではありませんでした。

ハガルは大きな失敗をしたため、逃げなくてはなりませんでした。

それでも、神様はハガルをご覧くださいました。

また、神様はハガルの言葉を聞いてくださいました。

そして、神様は荒野に来られ、ハガルを引き戻そうとされました。

「主の使い」とは興味深い言葉です。

時に、「主の使い」とは天使を意味します。

しかし、「主の使い」とは、文字通りに「主の言葉を伝える方」を意味します。

そして、旧約聖書では、時に、その使いは神様であるかのように語られます。

今日の箇所では、その使いがそうされました。彼はこう言われました。

わたしはあなたの子孫を増し加える。それは、数えきれないほど多くなる。(創世記16:10)

ある聖書学者によれば、その使いはイエス様であったかもしれません。

赤ちゃんとしてお生まれになる前に、イエス様は時にこの世に現れたようです。

そして、ハガルにとっても、イエス様はインマヌエルでした。

イエス様はハガルをご覧になる神であられました。イエス様はハガルの声を聞かれる神でした。

ハガルのように、あなたは霊的な荒野を歩んでいるかもしれません。ハガルのように、それはあなた自身の過ちによるものかもしれません。

それでも、神様はあなたを見限られることはありません。神様はあなたを探しに来られます。

神様はあなたをご覧くださいます。

神様はあなたの声を聞いてくださいます。

神様は永遠から永遠までインマヌエルです。

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あなたを信じることを選びます

これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨んだ。「アブラムよ、恐れるな。 わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい。」。。。

アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。(15:1、6)

たぶん、へブル人への手紙の著者は、以上の話を考えながら、この言葉を書いたのかもしれません。

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。

神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。(へブル11:6)

アブラハムは疑いを持っていた時もありました。アブラハムは自己憐憫に浸る時もありました。(創世記15:2–3)

アブラハムの信仰が揺らいだ時もありました。(創世記16–17章、20章)

しかし、最終的な彼の心の態度は、「主よ。私はあなたを信じることを選びます。」というものでした。

神様はそのような人を受け入れてくださいます。神様はそのような人を求めておられます。そのような人は神様を喜ばせるからです。

主よ。あなたが良い方であることを信じます。あなたが私を愛し、私の最善を望んでおられることを信じます。

だからこそ、アブラハムとともに私は宣言します。「あなたを信じることを選びます。」

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祝福されている

アブラムに祝福あれ。 いと高き神、天と地を造られた方より。いと高き神に誉れあれ。 あなたの敵をあなたの手に渡された方に。(創世記14:19ー20)

前回の記事でも言いましたが、クリスチャンとして、私たちはアブラハムの霊的な子孫であり、神様の祝福を受け継ぐ者です。(ガラテヤ3:8–9)

上記の聖句を読んだとき、私はその真理をさらに反芻しました。

メルキゼデクの祝福を読むとき、神の祝福を受け継ぐ者として、自分の名前を入れてみましょう。

「<自分の名前>に祝福あれ。いと高き神、天と地を造られた方より。」

私たちはさまざまな意味で祝福されています。神様は私たちに多くの霊的な祝福を与えてくださいました。(エペソ1:3–14)

さらに、イエス様によって、私たちは最後の敵に対する最終的な勝利を得ました。つまり、イエス様が死を克服し、私たちに永遠の命を与えてくださったということです。(第一コリント15:26、50–57)

しかし、最も驚くべきことは、創造者である神が、そのように祝福するほどに、私たちを愛しておられるということです。

少し静かになって、その真理を思い巡らしましょう。その素晴らしい真理に心を向けましょう。

そして、ダビデとともに歌いましょう。

あなたの指のわざである、あなたの天、あなたが整えられた月や星を見るに人とは何ものなのでしょう。

あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。

あなたは、人を御使いより、わずかに欠けがあるものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせてくださいました。(詩篇8:3ー5)

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神の祝福を受け継ぐ者

あなたを祝福し。。。あなたは祝福となりなさい。。。地のすべての部族は、 あなたによって祝福される。(2ー3)

もうすぐクリスマスがやってくるなんて、信じられないですね。

今日の箇所では、私たちは最初のクリスマスの約束の一つを読みます。

神様は、アブラハムによって地のすべての部族が祝福されると約束されました。

最終的に、その約束はアブラハムの子孫であるイエス様によって成就されました。

そして、私たちはその祝福を受け継ぐ者たちです。(ガラテヤ3:8–9、エペソ1:3–14)

でも、アブラハムのように、私たちはただ神様の祝福を受けるように召されているわけではありません。むしろ、私たちは周りの人々を祝福するように召されています。

私たちの周りの人々も、私たち自身が受けた恵みを受けることができるように、私たちはイエス様の光を照らすべきです。

だから、キリストの教会として、この世界に出て、私たちの周りの人々に対して祝福となりましょう。

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約束を思い起こされる神

わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現れる。

そのとき、わたしは、わたしとあなたがたとの間、すべての肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い起こす。大水は、再び、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水となることはない。

虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべての肉なるものとの間の永遠の契約を思い起こそう。(創世記9:14ー16)

神が忘れっぽい神だったら、どうなるでしょうか。

それは恐ろしい考えです。

でも、神様は御自分の約束を忘れません。神様は、御自分の約束を思い起こし、その約束を守られます。

だからこそ、私たちは希望を持つことができます。

私たちが真実でなくても、神様は常に真実でおられます。(第二テモテ2:13)

だから、エレミヤはこの歌を歌いました。

「私は待ち望む。主の恵みを。」

実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。

「あなたの真実は偉大です。(哀歌3:22ー23)

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忘れられたわけではない

水は百五十日間、地の上に増し続けた。神は、ノア。。。を覚えておられた。神は地の上に風を吹き渡らせた。

すると水は引き始めた。。。

第二の月の二十七日には、地はすっかり乾いた。(創世記7:24ー8:1、14)

コロナのせいで、私たちは何度も外出自粛するように要請されました。

でも、船が大きくても、一年以上の船の中での生活を想像できるでしょうか。

ノアとその家族はそうしなくてはなりませんでした。

大洪水が第一の月の十七日に始まり、次の年の第二の月の二十七日に地はやっと乾きました。(創世記7:11、8:14)

その間、神様は何回ぐらいノアと話しておられたでしょうか。

一回でしょうか。二回でしょうか。全然話しておられなかったでしょうか。

私は分かりませんが、「神はノアを覚えておられた」と書いてあります。

神様は一旦ノアたちを忘れて、「あ、しまった。ノアくんたちはまだその箱船にいる!忘れていた」と言われたわけではありません。

むしろ、神様はずっとノアたちを見守っておられました。

私たちは自分の試練やトラブルに直面しているかもしれません。でも、心に留めておいてください。あなたが神様に忘れられる時は一度もありません。

神様は私たちにこう言われます。

恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。

あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。

川を渡るときも、あなたは押し流されず、 火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。

わたしはあなたの神、主、イスラエルの聖なる者、 あなたの救い主であるからだ。(イザヤ書43:1ー3)

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創世記のデボーション

彼の血が私に叫んでいる

カインがアベルを殺した後、神様はカインにこう言われました。

あなたの弟の血が、その大地からわたしに向かって叫んでいる。(創世記4:10)

アベルの血は正義を求めていました。

だから、神様はカインにこう言われました。

今や、あなたはのろわれている。(11)

そして、カインは主の御前から出て行きました。(創世記4:14、16)

でも、数千年後、もう一人の無実の人が殺されました。イエス様は罪を全く犯されなかったのに、十字架で殺されました。

しかし、へブル人への手紙の著者は、イエス様とその血についてこう言っています。

あなたが近づいているのは。。。新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る、注ぎかけられたイエスの血です。(へブル12:22ー24)

アベルの血は正義を求めましたが、イエス様の血は罪人への神の恵みを願いました。

だから今、神様は私たちをご覧になると、こう言われます。

「わたしのひとり子の血は、その大地からわたしに向かって叫んでいる。だから、今や、あなたは祝福されている。呪いは取り除かれている。そして、わたしのひとり子の血によって、あなたの罪は赦されている。」

そういうわけで、へブル人への手紙の著者は私たちにこう励ましています。

こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。

イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。

また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。(へブル10:19ー22)

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呪いが解かれる日

今日の箇所を読んだとき、罪の呪いを思い起こしました。

罪悪感。恥。苦しみ。死。

でも、最も恐ろしいのは、神様の御前から投げ捨てられることです。

それでも、神様の御言葉によって、アダムとエバはなお希望を持っていました。

神様はサタンにこう言われました。

わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。

彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。(創世記3:15)

神様はその約束を守ってくださいました。

十字架で、イエス様は死なれましたが、それと同時に、サタンに致命的な打撃を与えられました。

さらに、三日目にイエス様は蘇られました。

そういうわけで、私たちは呪いが取り除かれる日を心待ちにしています。

ヨハネは幻の中でその日を見て、こう言いました。

また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。

私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。

「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。

神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」

すると、御座に座っておられる方が言われた。「見よ、わたしはすべてを新しくする。」(黙示録21:1-5)

アーメン。主イエスよ。来てください。(黙示録22:20)

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男と女に私たちを創造された

「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。。。」

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。(創世記1:26ー27)

このブログを始めたとき、「いつかジェンダーのことを話すべきだ」とは全然考えていませんでした。

でも今は、「男」と「女」とは、ただの人間が作った概念だと教える人がたくさんいます。彼らによれば、その概念は現実に基づいていません。

だから、彼らが教えるのは、人間が「男」と「女」に分かれるという概念を捨てるべきだということです。

でも、今日の箇所によれば、「男」と「女」という概念は人間的な考えではなく、むしろ、それは神様の発明です。

イエス様ご自身も、その真理を受け入れ、教えられました。イエス様はパリサイ人たちにこう言われました。

あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめの時から「男と女に彼らを創造され」した。(マタイ19:14)

神様は私たちを男と女に造られました。神様によれば、それは良いことです。(創世記1:31)

一つ目の理由は、神様の望みが私たちがこの地に満ちることです。(創世記1:28)

もう一つの理由は、私たちが神様のかたちをより良く反映することです。

男と女は、ちょうど同じ方法で神様のかたちを反映するわけではありません。でも、男と女の両方を見ると、神様がどんな方であるか私たちは分かります。

例えば、聖書では、神様はほとんどご自身を父として描写されますが、母として描写されることもあります。(イザヤ書49:15、イザヤ書66:13、詩篇131:2、詩篇103:13、ガラテヤ4:6―7、へブル12:5ー11)

「男」と「女」という概念を捨てるのは、私たちの創造者の教えと人間のための計画を捨てることです。

そうすれば、私たちは人間とは何であるかを理解することができません。

だから、この世の嘘を受け入れてはいけません。

「男」と「女」という概念は人間的な考えではありません。それは神様の計画です。私たちが新しいジェンダーアイデンティティーを作るとき、それは人間的な発明です。

もしかすると、あなたは自分のジェンダーアイデンティティーについて混乱しているかもしれません。

しかし、心に留めておいてください。

神様はあなたを愛しておられます。神様はあなたのために良い計画を持っておられるのです。

でも、この世の嘘によって、あなたは自分の問題を解決することはできません。

イエス様はこう言われました。

あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。。。

ですから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。(ヨハネ8:31ー32、36)

だから、神様の真理にしがみつきましょう。そして、イエス様の教えを信じましょう。

神様は人間を男と女に造られました。それは良いことです。

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ただの動物?

この世によれば、私たち人間はただの動物です。

この世によれば、私たちは特別な存在ではありません。私たちは他の動物とあまり違いません。

でも、今日の箇所はその嘘を見破ります。

興味深いことに、神様は動物と人間を祝福して、「生めよ。増えよ。海の水や地に満ちよ。」と言われました。

しかし、神様は人間だけにこう言われました。

地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。(創世記1:28)

でも、神様が人間にもう一つの特徴を与えてくださらなかったら、人間はその命令を守ることができなかったでしょう。

その特徴は何でしょうか。

「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。。。」

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。(創世記1:26ー27)

神様は私たちをご自身のかたちとして造られました。

神様と同じく、私たちは考えることができます。

神様と同じく、私たちはコミュニケーションを取ることができます。

神様と同じく、私たちは愛することができます。

神様と同じく、私たちはものを作ることができます。

神様と同じく、私たちは道徳観念を持っています。(私たちの道徳観念は時々歪んでいるものですけど)。

喫茶店や公園や電車にいるとき、周りの人々を観察してください。

彼らは日常のことをしているかもしれませんけど、自分自身に聞いてみてください。

「その人たちはただの動物なのだろうか。彼らは、動物と違いがないのだろうか。動物よりも価値がないのだろうか。」

もちろん、私たちには動物と共通点があります。でも、神様は私たちを優れたものとして造られました。

だから、私たちの創造者に畏敬の念を抱きましょう。

そして、人間の不思議さに心を打たれましょう。

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始めに神。。。

どうして私たちは神様を礼拝するのでしょうか。どうして神様に信頼を寄せるのでしょうか。

その理由は、聖書の最初の言葉にあります。

「始めに神。」

その言葉を噛み締めましょう。

他のものが存在する前に、神様はすでにおられました。

存在するもののすべては、神様から生まれました。

ご自身の知恵によって、神様はすべてのものを造られました。

神様の力によって、すべてのものは造られました。

神様の思いは、私たちの小さな頭では把握できないほど多く、深いものです。

神様の力は無限です。

この方こそ、私たちが礼拝する神です。

でも驚くべきことは、この神が私たちを愛してくださることです。

だから、天使たちと一緒に歌いましょう。

聖なる、聖なる、聖なる、 主なる神、全能者。 昔おられ、今もおられ、やがて来られる方。。。

主よ、私たちの神よ。 あなたこそ 栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。 あなたが万物を創造されました。 みこころのゆえに、それらは存在し、 また創造されたのです。(黙示録4:8、11)