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詩篇108-

息のあるものはみな。。。

いよいよ最後の詩篇に入りましょう。詩篇150篇は、まことにふさわしい言葉で締めくくられています。

息のあるものはみな、主をほめたたえよ。(詩篇150:6)

どこで、私たちは神様をほめたたえるべきでしょうか。神様の天の聖所と、この地の聖所で賛美するべきです。

神様の聖所は教会の建物だけではないことを覚えておくべきだと思います。むしろ、クリスチャンとして、私たちは神様の聖所です。

神様が私たちの中に住んでおられるので、私たちは神様の聖所なのです。だから、私たちの人生は神様に対する賛美になるべきです。

どうして、私たちは神様をほめたたえるべきなのでしょうか。

一つ目の理由は、神様は偉大な方で、私たちの賛美に相応しい方であることです。

それに、神様は私たちの近くにおられ、私たちを愛しています。だから、神様はイエス様を私たちの罪のために死なせるために送ってくださいました。そして、自分の力によって、神様はイエス様をよみがえらせました。

それに、神様の御業はまだ続いています。今でも、神様は自分自身を表し、人々を救っています。

どのように神様をほめたたえるべきでしょうか。

大喜びをもって、ほめたたえましょう。トランペットや、弦の琴や立琴や、タンバリンや、フルートを演奏して、ほめたたえましょう。私たちの踊りでも、主をほめたたえましょう。

私はダビデのことについて考えます。彼が本当に張り切って、踊ったり歌ったりしたので、彼の奥さんは彼を責めました。

「あなたはバカのように踊った。全然王のようにふるまわなかった。」と言いました。

しかし、ダビデはこう返事しました。

私はその主の前で喜び踊るのだ。私はこれより、もっと卑しめられよう。私の目に卑しく見え【る】。(第二サムエル記6:21-22)

それが私たちの態度となるように。私たちはいつも神様を賛美し、賛美にふさわしい神様に向かって「ハレルヤ」と叫びましょう。

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詩篇108-

歌うとき、戦うとき

多くの人々にとって、詩篇149篇は気持ち悪く感じられる部分があるでしょう。特に6節以降は少し読みにくいでしょう。

この詩篇の前半では、詩人は人々に神様を賛美するように招きます。なぜなら、神様は私たちの創造主であり、私たちの神だからです。詩人は、楽器で神様を賛美し、また踊りをもって賛美しようと呼びかけます。

私は全然踊れませんが、人々が神様を踊りを通して賛美する様子を見ると、感動し、祝福されます。

また、神様を賛美するために人々が楽器を演奏するとき、私は神様に近づくことができます。私の教会では、プロのヴァイオリニストがよく演奏しており、その賛美の雰囲気は本当に素晴らしいです。

私自身、賛美の時間を楽しみますが、神様はもっと喜んでおられます。たとえ音痴でも、楽器が演奏できなくても、踊れなくても、あなたが賛美するときに、神様は喜ばれます。詩人はこう言います。

主は、ご自分の民を愛し、救いをもって貧しい者を飾られる。(詩篇149:4)

神様は私たちの才能よりも、私たちの心を喜ばれます。私たちが神様を愛し、賛美するとき、神様は喜ばれます。

また、私たちがへりくだって、神様に信頼するとき、神様は私たちを救いで飾ってくださいます。だから私たちは喜ぶべきです。私たちは神様から何も値しないのに、神様は私たちに永遠の命を与えてくださいます。

けれども、この詩篇の後半は、少し気持ち悪く感じるかもしれません。なぜなら、詩人は私たちに神様を賛美するように招き、その後、神様のために戦うように招くからです。つまり、神様に反抗する人々と戦い、神様の裁きを行うことです。

イスラエル人がカナンに着いたとき、そうしなければなりませんでした。

神様はカナン人が悔い改めるために何百年も待っておられましたが、彼らはさらに悪化しました。だから、彼らの罪が満ちたとき(創世記15:16)、神様はイスラエル人を裁きを行うために遣わされました。

もちろん、私たちはそのイスラエル人ではありませんが、この詩篇は私たちにとってどんな意味を持つのでしょうか。

私たちは霊的な戦争に入っていることを覚えておかなければなりません。しかし、私たちの敵は人間ではありません。むしろ、霊的な力が人々を用いています。

だから、私たちは人々と戦わずに、その背後にある霊的な力と戦っています。

そして、私たちの武器は刀ではなく、神様のみ言葉です。そのみ言葉は、

生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。(へブル4:12)

だから私たちは人々と戦わないのです。むしろ、彼らが救われるために私たちは戦います。

私たちのメッセージは裁きのメッセージであり、救いのメッセージです。

信じる人々に対し、私たちはイエス様の名前によって、神様の赦しを宣言する権利があります。

しかし、神様の言葉を拒絶する人々に対しては、私たちは裁きのメッセージを伝える権利があります。(ヨハネ20:23)

だから忘れないでください。もちろん、私たちは神様を賛美するように招かれました。けれども、私たちは戦うようにも招かれています。罪に迷った人々のために戦わなければなりません。

だから、戦いに走りましょう。

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詩篇108-

礼拝の招き

ワーシップ・リーダーのトミー・ウォーカーは、「All the Saints Join In

(すべての聖徒たちは参加しよう)という歌を歌っています。この歌は、詩篇148篇に基づいています。

詩篇148篇では、詩人がすべての被造物に神様を賛美するように呼びかけています。天使、太陽、月、鳥、地上の被造物、海の生き物、王たち、若者、年老いた人々までもが、神様を礼拝するように招かれているのです。

なぜでしょうか。

主の御名だけがあがめられ、その威光は地と天の上にあるからだ。(13)

つまり、神様はすべての栄光にふさわしい方です。もし神様の被造物に栄光があるのなら、神様にはどれほどの栄光があるでしょうか。だからこそ、神様は私たちの賛美にふさわしい方なのです。

しかも、

主は、その民の角を上げられた。主のすべての聖徒たち、主の近くにいる民、イスラエルの子らの賛美を。(14)

聖書において、角は力の象徴です。ですから、私たちが打ち倒される時にも、神様は私たちのそばにいて、私たちを強め、救い出してくださいます。

ダビデ自身もそのような経験をしました。また、イスラエルの民がバビロンに追放された時にも、彼らは神様の救いを経験しました。

現代においても、神様はイスラエルの民に再び国を与えてくださいました。

最も良い例は、私たちが罪のゆえに地獄に値する者であった時、神様が私たちを愛し、救うためにイエス様を送ってくださったことです。イエス様は、私たちの救いの角なのです。(ルカ1:69)

イエス様はこの世におられた時、神様を現し、十字架の上で私たちの罪のための罰を受けてくださいました。ですから、イエス様の御業によって、私たちは赦され、新しい命をいただいたのです。

神様はまことに、私たちの賛美にふさわしい方です。ですから、すべての被造物と共に、神様を賛美しましょう。

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詩篇108-

神様を信頼するとき

詩篇146篇では、神様が私たちの信頼にふさわしい方であることが示されています。この詩篇は、神様に信頼することの結果を私たちに教えています。

イスラエルの民は長い間神様に背き、信頼することを怠ってきました。むしろ、自分自身や偽りの神々、周囲の国々に頼っていたのです。その結果、国は崩れてしまいました。

しかし、エズラ、ネヘミヤ、ハガイ、ゼカリヤのリーダーシップのもとで、彼らは再び神様に立ち返り始めました。こうして、癒しのプロセスが始まったのです。

向かい始めました。だから、癒しのプロセスが始まりました。

詩人はこう書きました。

主はエルサレムを建てイスラエルの追い散らされた者を集める。

主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む。(詩篇147:2-3)

そして、詩人はイスラエルの民に、神様の偉大さを思い起こさせました。また、なぜ神様が私たちの賛美にふさわしい方であるのかを思い起こさせます。それは、神様がすべてのものを造り、支えておられるからです。(5–9)

また、詩人はイスラエルの民に、神様が人間や動物の力に心を動かされることはないと教えています。むしろ、

主を恐れる者と御恵みを待ち望む者とを主は好まれる。(11)

だから、詩人はイスラエル人を励まします。

「あなたの人生において、神様をほめたたえましょう。神様が私たちの門を強め、私たちを祝福し、平和を与え、必要を満たしてくださることを心に留めておきましょう。」

そして、詩人は彼らに、神様がほかの国々にはご自身を現さず、イスラエルにだけご自身を現して祝福してくださったことを思い起こさせます。

しかし、ヘブル人への手紙の著者によれば、神様は預言者たちだけを通してご自分を現されませんでした。今はイエス様を通して、神様はご自分を現してくださいます。だから、私たち皆はイエス様を通して、神様に近づくことができます。

また、神様はイエス様にあって人間となられたので、私たちをよく理解でき、私たちに対して情け深いです。

だから、その確信を持って、神様に近づきましょう。私たちは神様を信頼しましょう。そうすれば、癒しと祝福、そして平和を見いだすことができます。

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詩篇108-

私たちの信頼にふさわしい神

多くの場合、私たちは人々にがっかりさせられます。私たちは彼らの助けと励ましを期待しますが、結局彼らはそうしてくれません。

だから、詩人はこう書きました。

君主たちにたよってはならない。救いのない人間の子に。(詩篇146:3)

イスラエルの歴史の中で、彼らは敵に脅されたとき、神様の助けを求めずに、周りの国々の助けを求めました。

その結果は何でしたか。その国々はイスラエルを裏切りました。または、彼らは最終的にイスラエルを助ける力がありませんでした。

だから、その時代の預言者たちのように、詩人はこう言いました。

幸いなことよ。ヤコブの神を助けとし、その神、主に望みを置く者は。

主は天と地と海とその中のいっさいを造った方。とこしえまでも真実を守り【ます】。(詩篇146:5-6)

しかし、神様は王たちやその王国だけを見守っておられるわけではありません。神様はご自身を愛する、苦しんでいる人々のことも見守っておられます。

神様は、抑圧されている人々、飢えている者、囚人、盲人、在留異国人、やもめ、みなしごと共におられます。彼らが苦しむことがあっても、神様は決して彼らを見捨てることはありません。そして、彼らの必要に備えてくださいます。

以前も述べたように、神様は無限の方であるだけでなく、私たちと共におられ、私たちを愛してくださいます。

ですから、あなたが苦しんでいる時も、そうでない時も、この無限であり、私たちを愛しておられる神様に近づきましょう。

そして、イザヤの言葉を心に留めておきましょう。

[神様]を信じる者は、あわてることがない。(イザヤ28:16)


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詩篇108-

私たちの無限の神、私たちに近い神

ある日、私はA Praying Lifeという本を読みました。残念ながら英語版しかありませんが、英語ができるなら、ぜひ読んでみてください。私は本当にその本をお勧めします。

とにかく、その本では、著者は神様の本質の二つについて話します。

一つ目は、神様が無限の方であることです。

二つ目は、神様が私たちに近い方であることです。

神様について考えるとき、両方のことを覚えていなければなりません。そうしないと、私たちの祈りは影響を受けます。

もし神様が無限の方であることを忘れたら、私たちの心の中で神様の力を制限してしまいます。もちろん、神様は何でもできるのですが、私たちがそう思わないなら、祈ることができません。

その反面、もし私たちが神様が私たちに近く、私たちを本当に愛していることを忘れたら、私たちは祈りません。なぜなら、「神様はこの小さいことに興味がないだろう」と思い始めるからです。

しかし、神様は私たちの人生の細かいことにも興味を持っておられます。そう思わないなら、もう一度詩篇139篇を読んでください。

詩篇145篇では、ダビデが両方のことを覚えていたことが分かります。最初に、彼は神様の偉大さについて歌います。

主は大いなる方。大いに賛美されるべき方。その偉大さを測り知ることができません。

代は代へと、あなたのみわざをほめ歌い、あなたの大能のわざを告げ知らせるでしょう。

私は栄光輝くあなたの主権と、あなたの奇しいわざに思いを潜めます。(詩篇145:3-5)

けれども、何度も、彼は私たちに対する神様の愛について歌います。

主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵みに富んでおられます。(8)

また9節です。

主はすべてのものにいつくしみ深く、そのあわれみは、造られたすべてのものの上にあります。(9)

そして13-16節で、彼はこう歌います。

あなたの王国は、永遠にわたる王国。あなたの統治は、代々限りなく続きます。

主は倒れる者をみなささえ、かがんでいる者をみな起こされます。

すべての目は、あなたを待ち望んでいます。あなたは時にかなって、彼らに食物を与えられます。

あなたは御手を開き、すべての生けるものの願いを満たされます。(13-16)

また、18-20節で、彼はこう歌います。

主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられる。

また主を恐れる者の願いをかなえ、彼らの叫びを聞いて、救われる。

すべて主を愛する者は主が守られる。(18-20)

ダビデはそのことをすべて信じたので、この詩篇の最初で、彼はこう叫びました。

私の神、王よ。私はあなたをあがめます。あなたの御名を世々限りなく、ほめたたえます。

日ごとにあなたをほめたたえ、あなたの御名を世々限りなく賛美します。(詩篇145:1ー2)

あなたはどうでしょうか。神様が無限の方であることを信じていますか。神様があなたの人生に立ちはだかる山に取り組むことができると信じていますか。また、神様があなたの敵に向き合うことができると信じていますか。

そして、神様があなたを愛しておられるゆえに、あなたを助けてくださるという確信がありますか。

神様の無限のご性質と深い愛を、決して忘れることのないようにしましょう。

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詩篇108-

勝利を与えてくださる神

多分、戦いの前に、ダビデは詩篇144篇を書いたでしょう。けれども、興味深いことは、ダビデがこの詩篇を賛美の言葉で始めたことです。

大変な状況に直面するとき、私たちは普段最初に、「神様、助けてください」と祈ります。しかし、ダビデはこう歌いました。

ほむべきかな。わが岩である主。主は、戦いのために私の手を、いくさのために私の指を、鍛えられる。(詩篇144:1)

私はこの歌を読むと、ヨシャパテの話を思い出します。彼が戦うとき、兵士たちの前に歌手たちを送りました。そして、彼らはこう歌いました。

主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。(歴代誌第二20:21)

この詩篇にも、ダビデは戦うときに、神様に対する信仰を言い表しました。自分の軍隊や盾に頼らずに、神様に頼りました。彼はこう歌いました。

主は私の恵み、私のとりで。私のやぐら、私を救う方。私の盾、私の身の避け所。私の民を私に服させる方。(詩篇144:2)

そして、8篇のように、ダビデはどうして神様が彼を愛しているのかを思い、驚きました。

彼は神様の愛を確信し、神様が戦いの中で彼を助けてくださることを願いました。また、神様が彼を敵から救い、彼の民に平安と繁栄をもたらしてくださるように祈りました。

そして、彼はこう歌って、この詩篇を終えました。

幸いなことよ。このようになる民は。幸いなことよ。主をおのれの神とするその民は。(15)

あなたはどんな戦いに直面しているでしょうか。職場や学校や家庭でも、戦いがあるかもしれません。

一日の始まりに心配事を考えず、まず神様を賛美しましょう。神様があなたを愛していることを覚え、その知識に安心しましょう。

もし、あなたの周りに争いがあれば、神様の平和があなたを通して流れるように祈りましょう。

そして、その戦いがあなたに対しても、周りの人々に対しても、さらに敵に対しても、祝福となるように祈りましょう。

なぜなら、私たちの敵は本当の敵ではないからです。イエス様は彼らのためにも死んでくださったのです。

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詩篇108-

どこに向かうか

私たちは困った時に、どこに向かうでしょうか。人々が私たちに反対するとき、私たちは助けを得るためにどこに行くでしょうか。ダビデは何度も自分にその質問をしなくてはなりませんでした。

ダビデも多くの人々のように、自分自身に頼ることができたでしょう。自分の力や知恵に頼ることができたでしょう。

しかし、彼は神様に向かいました。彼はこう祈りました。

主よ。私の祈りを聞き、私の願いに耳を傾けてください。あなたの真実と義によって、私に答えてください。(詩篇143:1)

暗闇の中で、自分の失望から、彼は叫びました。

私に行くべき道を知らせてください。私のたましいはあなたを仰いでいますから。

主よ。私を敵から救い出してください。私はあなたの中に、身を隠します。

あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから。あなたのいつくしみ深い霊が、平らな地に私を導いてくださるように。(詩篇143:8-10)

どれほど私たちは神様に頼らず、自分の力で問題に取り組もうと思うでしょうか。どれほど私たちは神様の言葉を聞かず、自分の知恵に頼るでしょうか。

ダビデはそうしませんでした。むしろ、彼は神様に何をすべきか尋ね、神様の知恵に頼りました。また彼は聖霊様の導きに従いました。

ヤコブはこう言いました。

あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。(ヤコブ1:5)

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詩篇108-

自分の嘆きを神様の前に注ぎ出す

以前、詩篇57篇と一緒にこの詩篇について話しましたが、今回は詩篇142篇だけについて話したいと思います。

ダビデがこの詩篇を書いたとき、サウルかアブサロムから逃げて洞穴に隠れていました。だから、ダビデは牢に入っているように感じていました。(詩篇142:7)

洞穴から彼は神様に叫びました。

私は御前に自分の嘆きを注ぎ出し、私の苦しみを御前に言い表わします。(詩篇142:2)

彼は本当に苦しんだので、時々彼のトラブルを大げさに言いました。彼はこう言いました。

私の右のほうに目を注いで、見てください。私を顧みる者もなく、私の逃げる所もなくなり、私のたましいに気を配る者もいません。(4)

実は、ダビデの周りには彼の兵隊たちがいました。彼らはダビデを愛し、本当に忠実でした。

また、ダビデがサウルから逃げたとき、親友(また、サウルの息子)ヨナタンはダビデを見つけて、励ましました。

また、ダビデがアブサロムから逃げたとき、他の親友がダビデを助け、アブサロムの計画を無にしました。

時々、私たちが試練に直面するとき、実際よりも状況を悪く考えることがあります。だから、文句を言ったり、自分の問題を大げさに言ったりします。

しかし、私たちがそうしても、神様は私たちをよく理解しておられます。だから、嘆きを注ぐとき、神様は私たちを責めずに、憐れみを注いでくださいます。

ダビデは、神様が彼を受け入れておられることを知っていたので、神様に正直に祈ることができました。

そして、神様が彼と共にいて、素晴らしい計画を持っておられることを知っていたので、ダビデはこう歌いました。

私の霊が私のうちで衰え果てたとき、あなたこそ、私の道を知っておられる方です。(3)

また、

あなたは私の避け所、生ける者の地で、私の分の土地です。(5)

だから、試練に直面するとき、ダビデのように、自分の嘆きを神様の前に注ぎ出しましょう。神様があなたを責めないことを心に留めておきましょう。

また、神様が私たちのために計画を持っておられる確信を捨てないようにしましょう。もし神様が私たちと共におられるなら、私たちは乏しいことがありません。

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詩篇108-

私たちを試みに会わせないように

詩篇140篇では、主の祈りのように、ダビデは「悪からお救いください」と祈りました。

詩篇141篇も、主の祈りに似ている点があります。この詩篇では、ダビデは祈りました。

私たちを試みに会わせないように。(マタイ6:13)

特に、ダビデはこう祈りました。

主よ。私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守ってください。

私の心を悪いことに向けさせず、不法を行なう者どもとともに、悪い行ないに携わらないようにしてください。私が彼らのうまい物を食べないようにしてください。(詩篇141:3-4)

ダビデは二つのことを気にしました。つまり、彼の言葉と思いを気にしました。

最初に、彼は祈りました。「私の口から悪い言葉が出ないように」

多くのクリスチャンは口の罪と戦います。彼らは文句を言ったり、噂をしたり、人々を傷つけたりします。私もそんな罪と戦います。時々その誘惑に負けてしまうこともあります。

でも、ダビデは自分の思いも気にしました。彼は祈りました。「私の心を悪いことに向けさせないように。私は悪者の生活を見たら、彼らをねたまないように。」

もし私たちが罪について考えて、悪者をねたんだら、罪に落ちるのは簡単なことです。

イエス様は私たちの思いについて注意を促されました。イエス様が言ったのは、もし私たちが心の中で兄弟に対する怒りを抱いたら、心の中で彼らを殺したのと同等であるということです。(マタイ5:21-22)

また、

だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。(マタイ5:28)

神様は私たちの行いだけでなく、私たちの心や思いも気にされます。ダビデはそのことを知っていたので、神様に彼の口と心を守ってくださるように祈りました。

そして、彼は謙遜な態度と柔らかい心のために祈りました。彼はこう祈りました。

正しい者が愛情をもって私を打ち、私を責めますように。それは頭にそそがれる油です。私の頭がそれを拒まないようにしてください。(詩篇141:5)

私たちの多くは、責められるのが嫌いです。でも、ダビデは、それを注がれる癒しの油のように受け入れました。

ダビデがバテ・シェバの夫を殺し、彼女と結婚したとき、預言者ナタンは彼を厳しく責めました。ダビデにとって、その言葉は本当に苦しかったと思います。

しかし、彼はその言葉を受け入れて、悔い改めました。だから神様は彼を赦してくださいました。

これは誘惑と戦うカギの一つです。私たちは神様の懲らしめを受け入れなくてはなりません。神様が私たちを責めるとき、私たちは柔らかい心が必要です。そして、悔い改めなくてはなりません。

この詩篇の終わりで、ダビデはもう一度、神様が彼を敵から救い出すように祈ります。

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。(マタイ6:13)

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詩篇108-

悪からお救いください

そろそろ、詩篇の学びを終えると思います。これまで4か月ほどかかり、あと2週間ほどかかると思います。

とにかく、詩篇140篇を読むとき、私は主の祈りを思い出します。

イエス様は私たちにこのように祈るべきだと教えました。

悪からお救いください。(マタイ6:13)

この詩篇では、ダビデはそのように祈りました。実は、141篇から144篇まで、ダビデはそのように祈りました。

おそらく、ダビデがサウルかアブサロムから逃げたときに、この詩篇を書いたと思います。彼はこう祈った。

主よ。私をよこしまな人から助け出し、暴虐の者から、私を守ってください。

彼らは心の中で悪をたくらみ、日ごとに戦いを仕掛けています。

蛇のように、その舌を鋭くし、そのくちびるの下には、まむしの毒があります。セラ

主よ。私を悪者の手から守り、暴虐の者から、私を守ってください。彼らは私の足を押し倒そうとたくらんでいます。

高ぶる者は、私にわなと綱を仕掛け、道ばたに網を広げ、私に落とし穴を設けました。(詩篇140:1-5)

ダビデは本当に大変な状況に陥っていたようです。人々が彼を殺そうとしたので、彼は何度も「私を敵から助け出してください」、「私を守ってください」と祈りました。

けれども、彼のトラブルの中で、私たちは神様に対するダビデの信仰を見ることができます。彼は祈りました。

私は主に申し上げます。「あなたは私の神。」(6)

また、

私の主、神、わが救いの力よ。あなたは私が武器をとる日に、私の頭をおおわれました。 (7)

そして、ダビデは神様が正義によって敵を裁くように祈りました。その後、彼はこう祈りました。

私は知っています。主は悩む者の訴えを支持し、貧しい者に、さばきを行なわれることを。

まことに、正しい者はあなたの御名に感謝し、直ぐな人はあなたの御前に住むでしょう。(12-13)

あなたはダビデのように試練を経験しているかもしれません。周りの人々はなぜかあなたを憎み、あなたを倒そうとしているかもしれません。

しかし、ダビデのように、その問題を神様に任せてください。正義を神様の手に委ねてください。そして、ダビデのように、私たちの敵に憐れみを与えてください。

あなたが今、攻撃されていないかもしれませんが、私たちが霊的な戦いに入っていることを覚えていてください。私たちに対する悪意を持つ霊的な力があり、彼らは私たちを滅ぼしたがっています。

イエス様はそれを知っていたので、私たちに「悪からお救いください」という祈りを教えてくださいました。

だから、私たちはそのように祈るべきです。私たちは壊れた世界に住み、私たちの周りにはたくさんの壊れた人々がいます。サタンはまだこの世にいて、機会があれば私たちを攻撃します。

だから、目を覚まして祈りましょう。

しかし、自分自身を守るだけでなく、サタンの国を攻撃してください。人間は私たちの敵ではありません。サタンは私たちの敵です。だから、神様がこの世の民を救い出すように、福音を宣べ伝えてください。

私たちに与えられた鎧は私たちの背中を守るためではなく、私たちの前を守るためであることを覚えていてください。

だから、神様について行って、前進してください。

古い讃美歌があります。日本語のタイトルは「見よや十字架」のですが、英語はちょっと違います。英語ではこう書いてあります。

クリスチャンの兵隊たちよ。
戦うために行進せよ。
イエス様の十字架は私たちの旗で、
その旗についていく。

キリストは私たちの王、私たちの主。
キリストは敵を戦うのに私たちを導いておられる。

その戦いに行進せよ。
キリストの旗を見て、戦おう。

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詩篇108-

私を知っておられる神、私を愛しておられる神

詩篇139篇は本当に有名な詩篇です。多くの人々が23篇と139篇が大好きだと思います。

どうして、この二つの詩篇は親しまれるでしょうか。なぜなら、それらは神様の愛をはっきりと表しているからです。

実は、あなたの視点によって、この詩篇は怖いかもしれません。

アメリカでは、たくさんの人々が「お兄さん」について心配しています。「お兄さん」というのは、政府が、衛星やほかのテクノロジーを通して、私たちを見ていることです。

しかし、神様は私たちの政府よりも有能な方です。私たちが出かけても、リビングにいても、神様は私たちを見てくださいます。

神様は私たちのすべての行動を知っておられます。私たちは暗い所でも隠れることができません。そして、私たちがどこに行っても、神様から逃げられません。

それに、神様は私たちの携帯電話の話も知っておられます。私たちが家にいても、職場にいても、神様は私たちのすべての言葉を知っておられます。

もし、私たちが神様ににらまれたら、それは怖いことでしょう。もし神様が私たちを罰するために待っておられるなら、それは怖いことでしょう。

けれども、神様は愛深く憐み深い目で私たちを見てくださいます。私たちが母のお腹の中にいたとき、神様は私たちを見守っておられました。その子宮の中で、神様は私たちを組み立ててくださいました。

そして、私たちを造っておられる間に、神様は私たちのために夢と計画をお持ちでした。神様は私たちについてずっと考えておられました。ダビデはこう言いました。

神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。その総計は、なんと多いことでしょう。

それを数えようとしても、それは砂よりも数多いのです。(詩篇139:17-18)

それに、神様がこの世界を造る前に、神様は私たちが何をするか、私たちの選択も知っておられたので、そのすべてを神様の計画に織り込みました。

神様は決して驚かれることがありません。神様はプランBの必要がありません。プランAだけがあります。そして、神様の計画は初めから決して変わることがありません。

だから、私たちが何をしても、また、どんなに失敗しても、私たちに対する神様の思いは決して変わりません。神様はご自身の計画に私たちの良い行動も悪い行動も織り込みます。

だから、私たちにとっては一つの質問しかありません。私たちは喜んで神様の計画に参加するでしょうか。それとも、私たちは神様と戦うでしょうか。

もし、神様と戦うなら、神様は私たちの行動を神様の計画に織り込みますが、私たちは苦しむことになります。

ダビデはその選択肢を知っており、神様に従うことを選びました。

彼の言葉は厳しいかもしれませんが、神様が罪を憎んでおられることを知っていたので、ダビデも罪を憎みました。だから、ダビデは罪を犯したがらなかったし、罪人と付き合いたがらなかったのです。

むしろ、彼は神様の前に清い心を保ちたがり、神様を喜ばせたがりました。だから、彼はこう祈りました。

神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。

私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(23-24)

主よ。あなたが私を知って、愛してくださり感謝します。

私が母の胎にいるときに、あなたは私をもう知っていて、計画を持っておられました。

あなたの目的のために私を用いてください。私の人生はあなたのものです。私がどこに行っても、私が何をしても、私を導いてください。

私が変わらなくてはならないところを変えてください。私の罪を取り除き、清めてください。そして、とこしえの道に導いてください。アーメン。

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詩篇108-

私にかかわる計画を成し遂げてくださる神

詩篇137篇は少し憂鬱な詩篇でしたが、138篇は励ましてくれる詩篇です。なぜなら、この詩篇では、詩人(ダビデ)が神様に焦点を当てているからです。

ダビデがこの詩篇を書いた時期ははっきりしませんが、多分王になった後に書いたと思われます。

この詩篇を書きながら、彼は自分の人生や、神様が彼をどのように守り導いてくださったかを振り返っていたかもしれません。

彼はこのように歌い始めました。

私は心を尽くしてあなたに感謝します。天使たちの前であなたをほめ歌います。 (詩篇138:1)

どうしてダビデは神様をほめたたえたのでしょうか。それは、ダビデに対する神様の恵みとまことのためです。

つまり、ダビデが苦しんで神様に叫んだとき、神様は天から手を伸ばして助けてくださいました。

また、ダビデが殺されると思ったとき、神様は彼に勇気を与えてくださいました。

だから、ダビデが振り返ったとき、神様の偉大さと忠実さを見ることができました。神様はダビデに対するすべての約束を守りました。

だから、ダビデはこう歌いました。

主よ。地のすべての王たちは、あなたに感謝しましょう。彼らがあなたの口のみことばを聞いたからです。

彼らは主の道について歌うでしょう。主の栄光が大きいからです。(4-5)

また、神様の忠実さによって、ダビデは確信を持ってこう言いました。

主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます。主よ。あなたの恵みはとこしえにあります。(8)

あなたは疑いと戦っているでしょうか。迷って、神様に捨てられたと思いますか。

あなたの人生を振り返り、神様のあなたに対する忠実さを思い出してください。イエス様が十字架であなたのために何をしてくださったかを思い出してください。

あなたをキリストに導いてくれた人々のことを思い出してください。また、あなたがイエス様に出会った時の状況を思い起こしてください。そして、神様がその時から今日までしてくださったことを思い出してください。

その同じ神様は今でもあなたと共におられます。神様はあなたを見捨てられなかった。私たちがどんなに失敗しても、神様の恵みはとこしえにあります。

そして、「主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます。」

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詩篇108-

自己憐憫に浸る

これは本当に憂鬱な詩篇です。多分、詩人はバビロンに追放されたときに詩篇137篇を書いたのでしょう。

この詩篇では、詩人はバビロンの川のそばに座り、立琴を持っていたけれど、エルサレムの没落を悩んでいたので、もう弾く気がなくなりました。

むしろ、彼は、その立琴を柳の木々に掛けて、エルサレムの没落を嘆きました。

そして、あるバビロン人が来て、彼をからかいます。「おい。歌えよ。エルサレムの歌を聞いてみたい。」

しかし、詩人は拒絶して答えました。

「一体どうしてそんな歌を歌えるでしょうか。エルサレムは滅びたので、私はエルサレムについて喜びの歌を歌えません。私がそうする前に、私の右手がその巧みさを忘れるように。また私が歌えなくなるように。」

そして、彼はバビロンとエドムを呪います。どうしてでしょうか。

エドム人の先祖エサウがイスラエル人の先祖ヤコブのお兄さんだったのに、エルサレムが没落したとき、エドム人は喜びました。

そしてバビロン人はイスラエル人の子供たちを殺し、さまざまな酷いことを犯しました。

だから、詩人は彼らを呪って、バビロン人とエドム人に対してそのようなことが起こるように願いました。

どれぐらい、私たちはそのように感じるでしょうか。自分の罪のため、私たちは苦しんで落ち込んでいます。時々、私たちの家族でも、私たちをからかい、私たちの敵は笑って、「あなたの神はどこだろう」と聞きます。

どうやって、私たちは反応すべきでしょうか。

私たちには選択肢があります。私たちは自己憐憫に浸り、私たちが失ったものを嘆き、苦々しい思いに負けることができます。けれども、そうすれば、私たちは霊的に、また肉的に枯れます。

それとも、ダニエルとネヘミヤのように、神様に向かって、悔い改めることもできます。そうすれば、神様は私たちの壊れた人生を癒してくださいます。そして、もう一度私たちは神様からの喜びを知ります。

あなたはどうするでしょうか。どの選択肢を選ぶでしょうか。

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詩篇108-

神様の慈しみと恵みを心に留める

1節の言葉は詩篇136篇の要約です。

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。 (詩篇136:1)

この詩篇はイスラエルに対する神様の慈しみと恵みについてです。しかし、この詩篇を通して、私たちは神様がどんな方であるか分かります。

詩人は詩篇135篇のテーマを続け、神様を神の神と、主の主と呼びます。(2-3)

そして、詩人は神様を創造主として認めます。つまり、神様がご自身の知恵と力によって、天と地とすべてのものを造られたことを認めます。(4-9)

そして、詩人は神様を贖い主として礼拝します。なぜなら、神様はイスラエル人たちをエジプトから救い出し、エジプトの軍隊を打倒し、紅海を二つに分け、イスラエル人たちをその中を通らせたからです。(10-15)

そして、詩人は神様を羊飼いと比べます。イスラエル人たちが砂漠を渡った時に、神様は彼らを導き、彼らのニーズに備えてくださいました。(16-22)

そのあとで、詩人は神様を勇士として礼拝します。なぜなら、神様はイスラエル人たちを約束の地に導いたとき、その敵を倒して、その地を遺産として与えてくださったからです。(17-22)

23-25節では、詩人は神様を恵みと憐みの神として宣言します。

イスラエル人たちが卑しめられたとき、神様は彼らを敵の手から救い出してくださいました。また、神様はイスラエル人たちのニーズだけではなく、すべての人間と動物のニーズに備えてくださいます。

最後に、詩人は神様を天の主として認めます。神様はすべてを治める方です。(26)

以前、私は皮肉の危険について話しました。皮肉に対する武器の一つは感謝の態度です。つまり、私たちは神様がどんな方であるか、また神様が私たちのために何をしてくださったかを覚えるべきです。

時々、私たちはこの世における神様の行いが分からないこともありますが、神様がすべてのことをコントロールしていることを覚えていなくてはなりません。

また、神様がどのように私たちをサタンの国から救い出したかを思い出すべきです。

今でも、神様はこの世で巡礼している私たちを、神様が私たちのために整えた国に導いてくださいます。

また、私たちが霊的な力と戦うときに、神様が私たちの勇士であることを覚えていなくてはなりません。

そして、私たちが転ぶとき、神様が憐れみと恵みを私たちに与えてくださって、私たちを拾い上げてくださることを覚えているべきです。

毎日そのことを思い出しましょう。そのことに焦点を当てましょう。そして希望を持って、詩人のように歌いましょう。

「その恵みはとこしえまで。」

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詩篇108-

神の神

134篇のように、この詩篇は私たちを神様を礼拝するように招きます。また、詩篇135篇は115篇に似ているところもあります。

この詩篇のテーマは、神様が偉大な方で、ほかの(偽の)神々が神様と比べられないということです。

5節で詩人はこう歌います。

まことに、私は知る。主は大いなる方、私たちの主はすべての神々にまさっておられる。 (詩篇135:5)

そして、彼は神様がどのようにほかの神々よりも勝っているかを説明します。

つまり、神様は全能の主で、すべての被造物を支配しておられます。また、イスラエル人たちを救うために、神様はエジプトとその神々を倒し、さらに二人の王たちを倒してくださいました。

そして、詩人は神様を周りの国々の偶像と比べます。

神様はすべての被造物を造られましたが、偶像は人間の作品です。

偶像は目がありますが見ることができませんし、耳がありますが聞こえませんし、口がありますが息できませんし話せません。だから、詩人はその自分の手で作ったものを礼拝する人々をからかいます。

これを造る者もこれに信頼する者もみな、これと同じです。 (18)

そして、詩人はすべての人々をすべてを治める神様を礼拝するように招きます。

けれども、私が気に入ったところは4節です。

まことに、主はヤコブを選び、ご自分のものとされ、イスラエルを選んで、ご自分の宝とされた。 (4)

神様はヤコブとイスラエルを選び、ご自分のものとされ、またご自分の宝とされました。今でも、多くのイスラエル人たちがイエス様を拒絶しているけれど、神様は彼らを諦めていません。

パウロはイスラエルに関してこう言いました。

神の賜物と召命とは変わることがありません。 (ローマ11:29)

神様はイスラエルを捨てないが、神様はイエス様を信じる方々を見るとき、私たちに関しても、イスラエルに対する同じ言葉を言われます。

つまり、ペテロは私たちについてこう言いました。

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。

それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。 (第一ペテロ2:9)

なぜ神様は私たちを選び、ご自分の民とされたのでしょうか。それは、私たちが周りの人々に神様の素晴らしいみわざを宣べ伝えるためです。

そうすれば、彼らも闇の中から出て、神様の驚くべき光に行くように招かれます。

だから、詩人は私たちにこう言います。

イスラエルの家よ。主をほめたたえよ。アロンの家よ。主をほめたたえよ。

レビの家よ。主をほめたたえよ。主を恐れる者よ。主をほめたたえよ。

ほむべきかな。主。シオンにて。エルサレムに住む方。ハレルヤ。(詩篇135:19ー21)

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詩篇108-

礼拝する心を保つこと

これは最後の都上りの歌です。もしかしたら、イスラエル人たちはエルサレムへの巡礼が終わって、帰る時にこの歌を歌ったかもしれません。

帰る時、彼らは夕方にまだ宮で働く人々にこう歌ったかもしれません。

さあ、主をほめたたえよ。主のすべてのしもべたち、夜ごとに主の家で仕える者たちよ。

聖所に向かってあなたがたの手を上げ、主をほめたたえよ。(詩篇134:1-2)

彼らは祭司たちとレビ人に、怠けずに注意をし続け、主を礼拝し続け、主に仕え続けるように励ましました。

あるレビ人たちは歌う役割があって、昼となく夜となくその仕事に携わりました。(歴代誌第一9:33)

もしかしたら、イスラエル人たちはそのレビ人たちにその言葉を歌ったかもしれません。

とにかく、私たちが覚えているべきなのは、神様についてよく考えるべきだということです。

時々、私たちの考え方は皮肉っぽくなるので、その考え方が私たちの祈りに影響を与えてしまいます。私たちは神様の愛を忘れます。神様の良さを疑い始めます。

だから、祈る価値があるかどうかを疑います。そして、私たちは神様からもっと離れるように感じます。

けれども、感謝の心を持てば、神様がどんな方であるかを覚えていて、また神様の良さを覚えていたら、皮肉があなたの魂を毒することはありません。

神様の民として、私たちは神様の祭司です。しかし、皮肉っぽい祭司が本当に酷いものであることを覚えていてください。

あなたはどうですか。皮肉な態度はあなたの魂を毒しているでしょうか。皮肉はあなたのこの世に対する態度や、あなたの人生に対する態度を毒しているでしょうか。

もう一度私たちの思いを神様中心にしましょう。神様の良さに焦点を当ててください。神様のあなたに対する愛に焦点を当ててください。神様があなたのためにしてくださったことに焦点を当ててください。

感謝の態度を取りましょう。そうすれば、あなたの皮肉な態度はなくなって、あなたの喜びは戻ります。

巡礼者が帰る時、祭司たちはこう叫びました。

天地を造られた主がシオンからあなたを祝福されるように。(3)

この巡礼で、神様があなたにすべての霊的な祝福を与えてくださるように。神様があなたの皮肉な心を清めて、あなたの心に喜びを満たしてくださるように。

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詩篇108-

一致

イスラエル人たちはエルサレムに巡礼したとき、彼らは教会に対して大切なことについて歌いました。つまり、一致です。ダビデはこう歌いました。

見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。(詩篇133:1)

キリストの教会で、一致は本当に美しいものです。その反面、闘争や争いは教会の染みです。

人々が初めて教会に行って、キリストの愛によって一致している人々を見ると、彼らは興味が湧いてきて、イエス様とその教会について、もっと知りたいと思うでしょう。

しかし、もし彼らが入る時、文句やゴシップを聞いたり、苦々しい心を持っている人々を見るなら、彼らはすぐに逃げようと思います。彼らはとても悪い印象を受けて、尋ねます。

「教会の人々はこの世界の人々とどう違うだろうか。」

だから、イエス様は弟子たちにこう言われました。

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。

互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。(ヨハネ13:34-35)

そして、イエス様は教会のためにこう祈ってくださいました。

それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。

そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。(ヨハネ17:21)

キリストの教会が一致していれば、周りの人々は私たちの中にキリストを見て、神様とその祝福を知るようになります。それに、教会の人々も神様の祝福を知ります。

ダビデはこう書きました。

それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。(詩篇133:2)

その油は祭司たちのためのものでした。オリーブ油は液体の没薬、かおりの強い肉桂、におい菖蒲、桂枝と混じりました。(出エジプト30:22-24)

ダビデが言ったのは、祭司にとっては(アロンはイスラエルの最初の大祭司でした)、一致はその油で注がれたようです。

現代でも、牧師たちはキリストにあって一致した教会を見ると、喜びます。教会のメンバーたちがキリストが命令したように愛し合ったり、仕え合ったりすると、牧師たちは本当に嬉しいです。

それに、油は聖霊の象徴です。人々は聖霊に導かれたら、一致に導く聖霊の実を結びます。それは愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、そして自制です。(ガラテ書5:22-23)

一致した教会はそのような実を結びます。

そして、ダビデはこう歌います。

それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。(詩篇133:3a)

ヘルモンの山がシオンの山々よりも高かったので、シオンはヘルモンからの露を受けました。その露はシオンをすっきりさせて、清めました。

一致とはそのようなものです。一致によって人々はすっきりした感じがあり、神様の手に触れられて、清められます。

だから、ダビデはこう歌います。

主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。(3b)

キリストにあって一致した教会は神様に祝福されています。そして、その人々は神様からの命を知ります。

あなたはどんな教会に行っているでしょうか。

実を結ぶ一致した教会に行っているでしょうか。もしくは闘争で満ちる教会に行っているでしょうか。

あなたは教会を建てていますか。もしくは、教会を取り壊していますか。

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詩篇108-

ご自身の約束を守ってくださる神

これは興味深い詩篇です。つまり、この詩篇の前半は神様に対する祈りですが、後半は神様の答えです。他の詩篇にそのパターンがあったのか、私は今思い出せません。

この詩篇も都上りの歌です。そして、イスラエル人たちはエルサレムに巡礼するとき、この歌を歌って、神様がご自身のダビデに対する約束を覚えるように祈ります。要するに、ダビデの子孫がいつも治めるように祈りました。

そして、彼らは神様の宮を建てるダビデの願いを思い出して、エルサレムに上がった時、礼拝する喜びを言い表しました。彼らはこう歌いました。

さあ、主の住まいに行き、主の足台のもとにひれ伏そう。(詩篇132:7)

そして、彼らは神様にこう祈りました。

主よ。立ち上がってください。あなたの安息の場所に、お入りください。あなたと、あなたの御力の箱も。

あなたの祭司たちは、義を身にまとい、あなたの聖徒たちは、喜び歌いますように。(8-9)

つまり、「私たちと共にいてください。あなたの祭司たちは聖くなりますように。また、私たちにあなたの喜びで満たしてください。」

私たちは礼拝するとき、そのような態度を取るべきです。神様が私たちと共にいて、神様の祭司が私たちを清め、私たちを喜びで満たしてくださるように祈るべきです。

イスラエル人たちの祈りを聞いた後、神様はその祈りに応えてくださいました。

神様は、シオンで彼らに会うと約束されました。シオンに関して、神様はこう言われました。

これはとこしえに、わたしの安息の場所、ここにわたしは住もう。わたしがそれを望んだから。

わたしは豊かにシオンの食物を祝福し、その貧しい者をパンで満ち足らせよう。(14-15)

それに、神様は彼らの他の願いに叶ってくださいました。神様はその祭司たちに救いを着せたし、イスラエル人に大喜びを与えてくださいました。(16)

そして、神様はダビデの王座に座る方を送ると約束しました。その王はイスラエルの敵をも治めるし、光り輝く冠を被と約束しました。もちろん、イエス様はこの世に戻る時、その約束が成就します。

この詩篇を読む時、私は希望があります。なぜなら、神様は決して変わらないし、その約束も変わりません。神様は約束したことを必ず行います。

だから、私はイエス様の帰りを待ち望みます。なぜなら、その日に神様のすべての約束が成就するからです。

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詩篇108-

謙遜

詩篇131篇もかなり短い詩篇ですが、この詩篇を通して、ダビデは私たちが神様に近づくときに、どのような心が必要かを教えています。

私たちはどんな心が必要でしょうか。へりくだる心が必要です。ダビデはこう書きました。

主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。(詩篇131:1)

心の中でプライドを持ったら、神様の前に行くのは無理です。私はヨブについて考えます。

彼が苦しんだ時に、彼は神様の正義を疑い始めました。だから、神様の前に行きたがって、神様の正義に関して議論したがりました。

多くの人々はそうします。彼らは神様と同じ知力を持っていると思い、神様と議論したら勝てると思っています。

多くの無神論者はこう思います。「たとえ神様が存在しても、どうして私が神様を信じなかったかを説明できます。」

けれども、彼らが神様の前に来て話す時、ヨブのように彼らの論法が虚しいと実感することでしょう。

しかし、他の人々はヨブの友達のようです。彼らは誇って、他の人々を見下し、すぐに裁きます。けれども、神様はそんな人々にも反対します。なぜなら、彼らの判断は間違っているからです。

しかし、ダビデは彼らとは違いました。神様に対しても、他の人々に対しても謙遜な態度を持っていました。

だから、彼が理解できないことが起きたり、またどうして神様がいろんな試練を許したか理解できない時、彼は謙遜に言いました。

及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません。(1b)

ヨブは、悔い改めた時、同じようなことを言いました。

まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。(ヨブ記42:3)

私たちも理解できないことを経験します。どうして神様が災いを許されるか分からないので、私たちは神様と議論したいと考えます。

しかし、ダビデのように、その疑いを置いておいて、神様に信頼しましょう。神様が私たちと共におられ、私たちを愛してくださることを信じ続けましょう。

「乳離れした子が母親の前にいるように」、また自分のニーズに供えられた子のように、神様の前に静まり、信頼しましょう。

ダビデのように私たちはこう言いましょう。

今よりとこしえまで主を待て。(詩篇131:3)

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詩篇108-

赦しの神、憐み深い神

詩篇130篇は短い詩篇ですが、私はこの詩篇が大好きです。苦しむ時、詩人は神様の赦しと愛を省みます。

いつこの詩篇が書かれたのか私は知らないけれど、バビロンへの追放の後に書かれた感じがします。ダニエルのような人がこの詩篇を書いたことが想像できます。

しかし、ダニエルの祈りと違って(ダニエル書9章)、この詩人は自分の罪のために赦しを願いました。彼は叫びました。

主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。

主よ。私の声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください。(詩篇130:1-2)

彼は自分の義に基づいて願いませんでした。むしろ神様の性格に基づいて願いました。彼は言いました。

主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。

しかし、あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます。(3-4)

その箇所が大好きです。誰も神様のみ前に立つ資格を持ちません。もし、神様が私たちの罪の記録を持っていたら、私たち皆死んでしまうでしょう。

たとえあなたが一日に三回ぐらい罪を犯したら、あなたは三十代になるともう罪を三万回ぐらい犯したことになります。

私がどれぐらい罪を犯したか考えたくありません。けれども、イエス様の血によって、私の罪は清められました。私の罪の記録に、もう何も書かれていません。

だから、詩人はこう言います。

私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ちます。(5)

彼は何を待ち望んでいるでしょうか。神様の恵みを待ち望んでいます。何に基づいて待っているでしょうか。神様の約束によって待ち望んでいます。

私たちも神様の約束に頼ることができます。つまり、

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

そして、夜明けが確かに来るように、悔い改める人に神様の赦しも確かに来ます。(詩編130:6)

自分の罪を悔い改めたあとで、詩人はイスラエルが悔い改めるように招きます。

イスラエルよ。主を待て。主には恵みがあり、豊かな贖いがある。

主は、すべての不義からイスラエルを贖い出される。(7-8)

私たちが神様の赦しを見つけたので、周りの人々に神様の憐れみについて伝え、彼らが悔い改めるように招きましょう。

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詩篇108-

私たちが迫害される時

詩篇129篇では、私たちは二つのことを見ることができます。

一つ目は、ユダヤ人の迫害される歴史です。彼らはエジプトで迫害されたし、士師の時代にも、王国の時代にも迫害され、そして最終的に追放されました。

その追放から戻った後にも、迫害は続きました。ギリシャ王国とローマの帝国の時代に彼らは本当に苦しみました。

現代でも、その迫害が続いています。ヒトラーはたくさんのユダヤ人を殺し、イスラエルは何回も周りの国々に攻撃されました。今でも、イスラエルが滅びたら、アラブ世界は喜ぶでしょう。

それでも、ユダヤ人はこう言えます。

彼らは私の若いころからひどく私を苦しめた。彼らは私に勝てなかった。(詩篇129:2)

つまり(これは二つ目のことなんですが)、試練の中で、神様の手はずっとイスラエル人の上にありました。

私たちもそう言えます。私たちはアブラハムの霊的な相続人です。私たちも迫害されるかもしれません。家族や友達や私たちの政府が私たちを襲うかもしれません。

しかし、神様は私たちが立つように助けてくださいます。また、神様は教会が立つように助けてくださいます。だから、私たちの敵は私たちに最終的に勝てません。

だから、イエス様の言葉を覚えていましょう。

義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。

喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。

あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。(マタイ5:10-12)

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詩篇108-

神様をまず第一に求めば

私たちの多くは自分の幸せを求めます。そして、私たちは自分の家族や仕事や家計によって、その幸せが見つけられると思います。

けれども、詩篇128篇では、本当の幸せの鍵を見ることができます。詩人はこう記しました。

幸いなことよ。すべて主を恐れ、主の道を歩む者は。

あなたは、自分の手の勤労の実を食べるとき、幸福で、しあわせであろう。

あなたの妻は、あなたの家の奥にいて、豊かに実を結ぶぶどうの木のようだ。あなたの子らは、あなたの食卓を囲んで、オリーブの木を囲む若木のようだ。

見よ。主を恐れる人は、確かに、このように祝福を受ける。(詩篇128:1ー4)

要するに、私たちが神様をすべてよりも敬い、神様の道を選べば、神様は私たちを祝福してくださいます。

多くの人々は、家計の不安から働きすぎてしまい、自分の健康や家族を顧みなくなります。

その結果、仕事の成果を十分に享受することができなくなります。つまり、妻との関係や子どもとの関係が悪化してしまうのです。場合によっては、若くして命を失うことさえあるかもしれません。

けれども、あなたが神様を敬うなら、神様はあなたの家計を祝福し、あなたの家族も祝福してくださいます。

神様が命じられたように、夫たちが自分の妻を愛し、子供たちを育てるなら、その妻と子供たちは実を結びます。

もちろん、妻が自分の夫を敬うなら、また、子供たちが親に従うなら、彼らも神様の祝福を受けます。

しかし、家族に関する多くの命令、もしくはすべての命令は主にお父さんたちや旦那さんたちに対するものです。

つまり、まずお父さんたちと旦那さんたちがその命令に従うべきです。そうすれば、妻や子供たちは喜んで従い始めます。

だから、男性たち、責任を取り、神様とその命令に従いましょう。そうすれば、神様の祝福を知ることができます。

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詩篇108-

私たちの努力の限界

ソロモンは詩篇127篇を書いたのですが、私はこの詩篇を読むと、ネヘミヤの話を思い浮かべます。

ソロモンはこう書きました。

主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。

主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。(詩篇127:1)

もちろん、ネヘミヤは自分の計画を立てました。ユダヤ人の敵がエルサレムを脅した時、彼は対策を練りました。とはいえ、神様がユダヤ人と共におられなかったら、その計画は虚しかったでしょう。

私たちが自分の役割を果たすことと、神様に信頼して委ねることのバランスがあります。

もし、私たちが座っているだけで何もしないなら、神様の祝福は期待できません。けれども、神様が私たちの計画の中心でなければ、私たちの努力は虚しくなるでしょう。

多くの場合、私たちはこう祈ります。「神様、私たちはこうすることにしました。私たちの計画を祝福してください。」

しかし、私は最初からこう祈るべきです。「神様、あなたの御心を教えてください。私たちはどうすれば良いでしょうか。」

ネヘミヤの話を見ると、彼が何をしても、いつも祈っていたことが分かります。私たちもそうするべきです。

ソロモンはこう書きました。

あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。

主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。(2)

多くの人々の問題は、その人生を仕事中心にすることです。けれども、彼らは自分の健康と家族を放置してしまいます。

もちろん、仕事は大切なのですが、私たちの優先順位が正しいかどうか確認しなくてはなりません。私たちはちゃんと寝るべきだし、ちゃんと食べるべきだし、家族と一緒に時間を過ごすべきです。

ソロモンはそれを理解していました。特に家族の大切さが分かっていました。だから彼はこう書きました。

見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。(3)

もし、あなたの仕事が大変すぎて、ちゃんと寝られず、しっかり食事をとれず、家族と時間を過ごせないなら、新しい仕事のために祈った方が良いと思います。

とにかく、心に留めてください。あなたの人生を神様中心にしてください。そうすれば、あなたの努力は決して虚しくなりません。しかし、そうしないなら、あなたの努力は最終的に虚しくなります。

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詩篇108-

解放された

多分、詩篇126篇はエズラとネヘミヤの時代に書かれたものでしょう。この詩篇では、ユダヤ人はバビロンの追放からエルサレムへの帰還を振り返っています。

この詩人の喜びをよく見ることができます。

主がシオンの繁栄を元どおりにされたとき、私たちは夢を見ている者のようであった。

そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。そのとき、国々の間で、人々は言った。

「主は彼らのために大いなることをなされた。」

主は私たちのために大いなることをなされ、私たちは喜んだ。(詩篇126:1-3)

この詩篇について考えると、新しいエルサレムはそのようなものだろうと思います。私たちの目が光り輝き、私たちの口は喜びと笑いで満たされるでしょう。

この世の旅を振り返ると、私たちは神様の御業を見ます。つまり、神様は十字架によって、私たちをサタンの国から解放してくださいました。

この世では、私たちはたくさんの涙と共に種を蒔くかもしれませんが、最終的には喜び叫びながら刈り取ります。それに、私たちの苦労のために、神様は報いを与えてくださいます。

だからパウロはこう書きました。

ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。

あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。(第一コリント15:58)

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詩篇108-

揺るぐことはない

詩篇125篇も私のお気に入りです。実は、私が高校生の時、私の教会はこの詩篇をもとにした歌を歌っていました。

主に信頼する人々はシオンの山のようだ。ゆるぐことなく、とこしえにながらえる。

山々がエルサレムを取り囲むように、主は御民を今よりとこしえまでも囲まれる。(詩篇125:1-2)

詩人は二つの生き生きとした描写を使います。一つ目は、揺るがない山です。

詩人は神様に信頼する人がシオンの山のようだと言います。

どうして、シオンは揺るがなかったのでしょうか。大きな山だからでしょうか。それは違います。

シオンの高さは約730メートルしかありません。富士山の方が断然大きいです(3776メートル)。富士山と比べると、シオンはただの丘です。

しかし、神様がシオンを見守ってくださったので、シオンは揺るがなかったのです。そのように、神様が私たちを見守ってくださるので、私たちは揺るがないのです。

それに、山々がエルサレムを取り囲むように、神様は私たちを囲んでくださいます。主は私たちの砦であり、私たちを滅ぼそうとする悪魔から守ってくださいます。

そして、詩人は神様の正義に関して、確信を言い表します。つまり、悪者は義人を治めないということです。なぜなら、悪者が義人を治めれば、最終的に義人は罪に落ちるかもしれないからです。

残念なことですが、詩人の言葉は神様の約束ではありません。とはいえ、神様は支配者の行動に限界を置いてくださいます。神様はどれくらいその支配者の治世が続くかの限界を置くし、信者に対する迫害の限界も置いてくださいます。

だから、いつか世界の酷い苦難のため、神様は最後の日数を少なくしてくださいます。イエス様はその時についてこう言いました。

もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。(マタイ24:22)

とにかく、詩人は神様が自分の民に慈しみを施してくださるように祈りました。また、悪者がいつか裁かれることを覚えています。(詩篇125:4ー5)

そして、彼は祈ります。

イスラエルの上に平和があるように。(5b)

私たちの人生はいつもスムーズに行きません。けれども、神様に信頼しましょう。神様が私たちを見守り、私たちと共におられることを覚えておきましょう。そうすれば、私たちは決して揺るぐことがありません。

また、私たちの苦難の中で、詩人のように、神様の祝福と恵みのために祈りましょう。そうすれば、イスラエルを見守った神様が、私たちをも守ってくださることを実感するでしょう。

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詩篇108-

神様の恵みを喜ぶ

ダビデは詩篇124篇を書いたのですが、いつ彼が書いたのかは分かりません。多分大きな勝利の後に書いたのでしょう。

その時、ダビデは神様の恵みを喜びました。彼は叫びました。

「もしも主が私たちの味方でなかったなら、私たちは敵に滅ぼされただろう。しかし、神様がその罠を壊してくださったので、私たちは免れました。」(詩篇124:1ー7)

そして、彼は歌います。

私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある。(8)

幸いなことに、私は敵にそのように攻撃されたことはありません。けれども、神様が私をサタンの罠から救い出してくださったことに感謝します。私が自分自身を救えなかった時、キリストは私の罪のために死んでくださいました。

なぜ、イエス様は私のために死んでくださったのでしょうか。それは、私を愛しているからです。イエス様は私の味方だからです。

なぜ、イエス様が私を愛して、私を助けたがったのか分かりませんが、そのことに感謝します。

さらに、神様はあなたの味方です。

だからこそ、この詩篇を読むとき、この私たちに豊かに注がれた恵みを忘れないでください。

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詩篇108-

憐れみを求める叫び

詩篇123篇は興味深い比喩を使っています。詩人はこう書きました。

あなたに向かって、私は目を上げます。天の御座に着いておられる方よ。

ご覧ください。奴隷の目が主人の手に向けられ、女奴隷の目が女主人の手に向けられているように、私たちの目は私たちの神、主に向けられています。(詩篇123:1~2)

一見したところ、この詩篇は奴隷がその主人に仕えることを描写しています。その時代、もちろん、奴隷はその主人の言葉に注意しましたが、それ以上に奴隷は主人の合図に注意して、その主人の必要を察していました。

そのように、私たちも神様に目を上げて、仕える心を持つべきです。私たちの人生は自分中心ではありません。私たちが自分だけのために生きるのは良くありません。むしろ、私たちの創造主に仕えるべきです。

けれども、2節の全体を見ると、こう書いてあります。

ご覧ください。奴隷の目が主人の手に向けられ、女奴隷の目が女主人の手に向けられているように、私たちの目は私たちの神、主に向けられています。主が私たちをあわれまれるまで。

要するに、奴隷は仕えるために主人に目を上げたのではありません。むしろ、彼は憐れみを求めていました。彼は叫びます。

私たちをあわれんでください。主よ。私たちをあわれんでください。私たちはさげすみで、もういっぱいです。

私たちのたましいは、安逸をむさぼる者たちのあざけりと、高ぶる者たちのさげすみとで、もういっぱいです。(3-4)

詩篇の背景ははっきりしません。バビロンへの追放の時に書かれたかもしれません。もしかしたら、アンティオコス4世エピファネスの時代に書かれたかもしれません。彼は、主の宮で祭壇の上で豚を殺し、その行動によって、主の宮を汚しました。

とにかく、イスラエル人にはあまり希望がありませんでした。だから、詩人は主に目を上げました。詩人は、イスラエル人の罪のため、彼らが神様からの祝福に値しないことをよく知っていました。

とはいえ、彼は神様の性格も知っていました。つまり、神様が私たちを懲らしめるかもしれませんが、私たちをまだ愛しておられることを知っていました。また、私たちが悔い改めると、神様が赦してくださることを知っていました。

この詩篇を読むと、私はイエス様のたとえ話を思い出します。ある人は神様の前に立って、自分の胸をたたいて言いました。「神さま、こんな罪人の私をあわれんでください。」

イエス様はその人についてこう言われました。

あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。(ルカ18:14)

あなたの罪のために、神様に懲らしめられているかもしれません。あなたは神様に捨てられたと思うかもしれません。

しかし、イエス様に目を上げて、悔い改めましょう。憐れみを願いましょう。そうすれば、イエス様はあなたを赦してくださいます。

あなたが神様の憐れみを知るように。

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詩篇108-

神様の民と一緒にいる喜び

巡礼者がエルサレムの門にたどり着くと、詩篇122篇を歌い始めたでしょう。この歌は、詩人が神様の宮に入る喜びを言い表しています。

人々が私に、「さあ、主の家に行こう」と言ったとき、私は喜んだ。(詩篇122:1)

私は若い時、あまりそんな喜びはありませんでした。私は7-8歳ぐらいでクリスチャンになったのですが、中学生になったとき、もう教会に行きたくなくなりました。

私の教会は良い場所でしたが、私は他のことをしたかったのです。

けれども、高校生になった時、初めて神様の臨在を感じました。私が賛美をするとき、急に理解したのは、私たちはカラオケをしているのではなく、その歌を通して神様に祈っているということです。

その経験で、私の教会と礼拝に対する考え方が変わりました。

時々、クリスチャンは教会が必要ないと思います。なぜなら、彼らは自分で礼拝できると思うからです。

もちろん、礼拝には個人的な側面もあります。しかし、もし私たちが他のクリスチャンと共に礼拝することを嫌うのであれば、その態度は正しくありません。

ときには、私たちの心にプライドの問題があります。「私はもう聖書をよく知っている。牧師の説教は必要ない。」

人を赦せないゆえに、教会に行きたくなくなることもあります。「どの教会に行っても、誰かが私を傷つける。だから、もう教会はいいです。」

また、ときには私たちは人をさばく態度を取ってしまいます。「メンバーはみんな偽善者だ。彼らとは関わりたくない。」

そして、自己中心な思いに支配されることもあります。「私にとって、教会に行く益がない。」

けれども、教会に行くのは、ただ私たちの利益のためではありません。教会で、私たちは神様に賛美を捧げます。

また、私たちは周りの人々に仕えるべきです。そして、彼らと一緒にそのコミュニティに仕えるべきです。

この詩篇では、詩人はエルサレムの平和のために祈ることについて話します。また、彼はエルサレムの繁栄を求めます。そのように、私たちは自分の都市のために祈るべきであり、その都市の繁栄を求めるべきです。

一人では、このようなことは私たちはあまりできません。しかし、キリストの体として、教会は私たちのコミュニティに影響を与えることができます。

もしあなたが、ただ礼拝に出て、すぐに帰るなら、あなたは神様の計画が全然見えません。

だから、教会の人々と交わり、一緒に働いてください。神様の体で、あなたには自分の役割があるので、その役割を果たしましょう。

ヘブル人への手紙の著者はこう書きました。

また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。

ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。(へブル書10:24-25)

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詩篇108-

私たちを見守る神

詩篇121篇は本当に美しい詩篇です。私の父が生前、この詩篇が大好きだったので、彼が亡くなった時、葬式でこの詩篇が読まれました。

この詩篇では、詩人は主に対する信頼を言い表しています。彼は歌います。

私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。

私の助けは、天地を造られた主から来る。(詩篇121:1-2)

120篇のように、これは都上りの歌です。人々はエルサレムに巡礼するときにこの歌を歌いました。

だから、彼らが目を上げてエルサレムを見るとき、心の中で喜びが湧いてきたことが想像できます。なぜなら、神様がソロモン王に約束したように、神様の臨在は主の宮にあったからです。(列王記9:4)

もちろん、主の宮は神様をお入れすることはできませんでした。ソロモンもそのことを認めました。

でも神様は、宮に来てイスラエル人に会うように約束してくださいました。また、彼らが宮に向かい、祈るとき、神様はその祈りに答えるように約束してくださいました。

だから、人々がエルサレムに巡礼したとき、決して眠らない神様が彼らを見守ってくださることを思い出して、慰められました。

暑い日には、神様は彼らの陰でした。また夜には、神様は彼らを守ってくださいました。

それだけでなく、彼らの人生を送る間に、神様が彼らと共におられることを思い出していました。

だから、詩人はこう歌いました。

主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。

主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。(7-8)

私たちもその言葉によって慰められましょう。何が起きても、神様はあなたを「耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。」(第一コリント10:13)

私たちがこの世界に生きる間に、神様は私たちを見守ってくださいます。そして、私たちを栄光に導いてくださるのです。

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詩篇108-

私たちの周りの悪によって怒られる

どれほどあなたは周りの悪によって怒るでしょうか。

詩人はそれを見て、本当に怒りました。彼は何を見たのでしょうか。偽りの唇。欺きの舌。平和を憎む人。戦いを望む人。

だから、詩人は呻きました。

ああ、哀れな私よ。メシェクに寄留し、ケダルの天幕で暮らすとは。(詩篇120:5)

メシェク人とケダル人たちは放浪の部族で、彼らは周りの人々を攻撃しました。

この詩人が彼らの間に住んだのか、それともそのような人々の間に住んだのかは、私は分かりません。

けれども、興味深いことは、この詩篇が都上りの歌であることです。つまり、人々がエルサレムに巡礼するとき、この歌を歌いました。

なぜ、彼らが神様に心を向け、礼拝するときに、このような歌を歌ったのでしょうか。あなたはそれがちょっと不思議だと思うかもしれません。しかし、私はそんなに不思議だとは思いません。

なぜなら、私たちの人生はいつも楽しいわけではないからです。私たちがこの世界を見るとき、落ち込むのは簡単なことです。

そのとき、私たちは神様がどこにおられるのかと思うかもしれません。また、神様が何かをしておられるのかと思うかもしれません。

けれども、詩人が神様に向かうとき、自分自身に思い出させます。「神様はいつか正義によって治めてくださるから、すべてのことは大丈夫。」

だから、彼はこう書きました。

欺きの舌よ。おまえに何が与えられ、おまえに何が加えられるのか。

勇士の鋭い矢、それに、えにしだの熱い炭火だ。(3-4)

だから、テレビのニュースを見るとき、がっかりしないでください。神様が良い方で、正義の方であることを覚えておきましょう。

そして、この世の悪に焦点を当てずに、全てを解決してくださる神を仰ぎましょう。

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詩篇108-

悪に負けない

それでは、今日詩篇119を終えます。

以前私は言いましたが、私たちはこの詩の著者を知りません。しかし、もしダビデがこの詩篇を書いたのだとしたら、驚くには及びません。なぜなら、この詩篇の終わりで、私たちは詩人が経験したことを読むからです。

つまり、彼は敵に追いかけられたり、迫害されたりしましたが、彼は復讐を求めませんでした。むしろ、彼は主に叫びました。

私はあなたを呼びました。私をお救いください。私はあなたのさとしを守ります。

私は夜明け前に起きて叫び求めます。私はあなたのことばを待ち望んでいます。(詩篇119:146-147)

それでも、彼の神様の道を行く決心は決して揺るぎませんでした。

彼は寝る前に、どうやって復讐しようか全然考えませんでした。むしろ、彼はこう言いました。

私の目は夜明けの見張りよりも先に目覚め、みことばに思いを潜めます。(148)

彼の敵が神様の言葉を捨てて、彼を殺そうと思ったのに、彼は神様の言葉を捨てずに、自分の命を神様の手に委ねました。

私の悩みを顧み、私を助け出してください。私はあなたのみおしえを忘れません。

私の言い分を取り上げ、私を贖ってください。みことばにしたがって、私を生かしてください。(153-154)

また、

ご覧ください。どんなに私があなたの戒めを愛しているかを。主よ。あなたの恵みによって、私を生かしてください。(159)

また、

君主らは、ゆえもなく私を迫害しています。しかし私の心は、あなたのことばを恐れています。(161)

どうして、彼はそのように生きたのでしょうか。なぜなら、彼は神様の道が最も良いと思ったからです。彼はこう書きました。

あなたのみおしえを愛する者には豊かな平和があり、つまずきがありません。(165)

そして、彼はもう一度、へりくだって、神様の導きを頼み、神様の道を行くことを決心し、自分の命を神様の手に委ね、神様からの救いを待ち望みました。

あなたはどうですか。あなたは傷ついたら、どう反応するでしょうか。攻められる時、あなたは怒って、悪をもって悪に報いるでしょうか。

あなたは「それは許せない。神様の道じゃないかもしれないけど、復讐する」と言うでしょうか。

そう思うなら、詩人の態度を覚えておきましょう。また、十字架にかけられたイエス様の態度を覚えておきましょう。

イエス様は復讐を求めませんでした。むしろ、その敵を赦してくださいました。また、イエス様は私たちをも赦してくださいました。

最後に、パウロの言葉も覚えておきましょう。

愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」

もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。

悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。(ローマ12:19-21)

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詩篇108-

理解への道

私たちは皆、ますます理解と知恵において成長したいと思います。この箇所では、私たちがどのように成長できるかを見ることができます。

詩人はこう書きました。

あなたの仰せは、私を私の敵よりも賢くします。それはとこしえに、私のものだからです。

私は私のすべての師よりも悟りがあります。それはあなたのさとしが私の思いだからです。

私は老人よりもわきまえがあります。それは、私があなたの戒めを守っているからです。(詩篇119:98-100)

詩人はどのように賢くなったのでしょうか。神様の言葉を知っているだけではなく、その言葉に思いを巡らすだけでなく、彼は神様の言葉に従いました。

たくさんの人々は神様の言葉を知っていますが、知恵を持っていません。彼らは、神様が何を言われたか知っていますが、自分の道を行き続けるので、結局彼らは苦しんでしまいます。

でもこの詩人はそのような人ではありませんでした。彼は神様の言葉を愛したので、その言葉は彼をだんだん変化させました。

神様が憎まれるものを彼は憎み始めました。神様が愛されるものを彼は愛し始めました。(103-104、127-128)

それに、神様の言葉が彼の言動の基準になりました。その言葉は、彼の足のともしびと道の光になりました。(105)

だから彼は悪者とその意見を避けました。(113、115)

それに、彼は神様の前にへりくだって、神様から学び(125、133、135、144)、神様の戒めに従うために神様の力に頼りました。(133-134)

どうして彼はそうしたのでしょうか。彼は大切な真理を発見したからです。つまり、

あなたのみことばは、よく練られていて、あなたのしもべは、それを愛しています。。。

あなたの義は、永遠の義、あなたのみおしえは、まことです。(140,142)

要するに、彼は神様の約束と命令を試したとき、神様が真実で、その言葉は正しいと分かるようになったのです。

あなたはどうですか。あなたには本当の理解があるでしょうか。あなたは神様の命令を実行するでしょうか。あなたは神様が忠実な方であると分かるようになりましたか。

もしそうなら、あなたは本当の知恵を見つけたのです。

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詩篇108-

私たちは何によって希望があるか

今日私たちは詩篇119篇の中間点を過ぎます。

私は81節が大好きです。

私のたましいは、あなたの救いを慕って絶え入るばかりです。私はあなたのみことばを待ち望んでいます。

時々、私たちは試練を経験します。この詩人もいろんな試練を経験しました。たくさんの人々が、彼を迫害したり、彼を殺そうとしたりしました。(詩篇119:85-87,95)

83節では、彼は「私は煙の中の皮袋のようになった」と言いました。

その時代、人々が砂漠を渡った時、テントの中で火が必要なら、彼らは火の上に皮袋を吊るしました。その皮袋は煙を吸い込みましたが、だんだん縮んで堅くなりました。

そのように、周りの人々の罪によって、詩人は苦しみを吸い込み、縮んでしまいました。だから、彼は叫びました。

いつあなたは私を慰めてくださるのですか。。。

あなたのしもべの日数は、どれだけでしょうか。

あなたはいつ、私を迫害する者どもをさばかれるのでしょうか。(82-84)

それでも、神様の言葉と約束によって彼には希望がありました。最悪な状態になっても、彼はその言葉と約束にしがみつきました。どうしてでしょうか。

主よ。あなたのことばは、とこしえから、天において定まっています。

あなたの真実は代々に至ります。

あなたが地を据えたので、地は堅く立っています。(89-90)

要するに、彼は神様とその約束が決して変わらないと知っていました。人々が不実なのに、神様がいつも忠実であることを知っていました。

だから、何が起きても、彼が信じたのは、神様はいつも彼を助けてくださることです。

あなたはどうでしょうか。人生の暗闇を通る時、あなたは神様の御言葉に従うでしょうか。神様が忠実であることを信じるでしょうか。

試練に直面するとき、「神様の道を行くのは空しいです。自分の道を行った方が良い。」と言うのは簡単です。

だから、私たちの結婚や、私たちの家計はダメになってしまいます。

でも、大変な時が来ても、自分自身に頼らないでください。自分の知恵に頼らないでください。むしろ、神様を待ち望みましょう。

何千年が経っても、神様の言葉は決して変わりませんでした。だから、その言葉を信頼できます。イザヤはこう言いました。

草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。(イザヤ40:8)

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詩篇108-

柔らかい心

このブログで以前私は、詩篇119篇を書いた詩人が謙遜な心を持っていたと書きました。彼はすべてのことを知らないと認め、神様から学びたいと願っていました。

この箇所でも、その心が見えますし、神様に対する柔らかい心も見えます。

66節で、彼はもう一度「私に教えてください」と祈りましたが、67節で彼はこう言いました。

苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。

そして、71節で、彼はこう言います。

苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。

つまり、神様は彼を懲らしめられました。どのように彼が懲らしめられたか分かりませんが、私たちは彼の反応を知っています。彼は悔い改めたのです。

どうして彼は悔い改めたのでしょうか。なぜなら、彼は神様が良い方であり、神様が彼の最善を望んでおられることを信じたからです。だから、彼はこう歌いました。

なたはいつくしみ深くあられ、いつくしみを施されます。どうか、あなたのおきてを私に教えてください。(詩篇119:68)

悪者に関して、彼はこう歌いました。

彼らの心は脂肪のように鈍感です。(70a)

けれども、自分自身に関して、彼は歌いました。

しかし、私は、あなたのみおしえを喜んでいます。(70b)

そして、彼は祈ります。

どうか、私の心が、あなたのおきてのうちに全きものとなりますように。それは、私が恥を見ることのないためです。(80)

私たちの心は神様とその言葉に対してどれぐらい柔らかいでしょうか。

神様が私たちを懲らしめられる時、私たちは腹が立つでしょうか。もしくは、私たちはへりくだって、悔い改めるでしょうか。

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詩篇108-

自由と慰めを与える言葉

詩篇119篇を読む時、私は詩人の神様の御言葉に対する姿勢がよく見えます。

多くの人々は神様の御言葉を人を縛るものとして考えます。つまり、彼らは神様の御言葉が人生の楽しみを奪ってしまうと考えます。

「こうしなさい。こうするな。」

けれども、詩人はそのように考えませんでした。どうしてでしょうか。多分、彼には神様について正しい視点があったからです。彼はこう歌います。

主よ。あなたの恵みと、あなたの救いとが、みことばのとおりに、私にもたらされますように。(詩篇119:41)

また、

主よ。地はあなたの恵みに満ちています。(64)

要するに、彼は神様が彼を愛し、彼の最善を望んでおられることを理解していました。また、この壊れた世界において、神様が彼の救いだと分かっていました。

だから、彼が神様の戒めを見る時、神様が彼の楽しみを取り去ろうとしておられるとは思いませんでした。むしろ、神様が彼に本当の命を与えようとしておられるのだと分かりました。

だから、彼はこう書きました。

そうして私は広やかに歩いて行くでしょう。それは私が、あなたの戒めを求めているからです。(45)

この詩人にとっては、神様の戒めは人々を縛らずに、人々を自由にするものです。どうしてでしょうか。

もし神様のデザインの通りに私たちがこの人生を生きたら、精一杯に生きるからです。

多くの人々はスマートフォンを持っています。しかし、彼らは説明書を読まないので、その機能を少ししか使いません。

けれども、その機能が分かれば、彼らの人生はもっと便利になります。彼らが今までできなかったことができるようになります。

そのように、聖書は人生の説明書です。聖書によって、私たちは神様がどのように人間をデザインされたか分かります。

そして、聖書に従うと、私たちは縛られず、むしろ、私たちは自由にされます。また、本当の命を見つけます。

それに、苦しみの時に、神様の御言葉は私たちを慰めてくださいます。なぜなら、聖書によって、私たちは神様を愛する人に対する神様の約束を読むからです。だから、この壊れた世に、私たちは希望を見つけます。

詩人はこう書きました。

どうか、あなたのしもべへのみことばを思い出してください。あなたは私がそれを待ち望むようになさいました。

これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします。(49-50)

私の気にいる箇所はヨハネ14:1-3.イエス様は弟子たちにこう言われました。

あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。

わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。

あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。

わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

弟子たちが迫害と死に直面した時、その言葉によって慰められたと思います。この約束は私たちをも慰めます。

けれども、ちょっと考えてください。神様が良い方だと思いますか。神様があなたの最善を望んでおられると思いますか。

それなら、神様の御言葉はあなたを慰め、自由にします。

そうしないなら、多分あなたは神様の御言葉に対する詩人の熱心が理解できないでしょう。

あなたはどのように神様について考えているでしょうか。

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詩篇108-

理解の必要

この箇所では、私たちは詩人のへりくだる心が見えます。彼は、「全てのことを知っているわけではありません。だから教えてください」と言います。

私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。

私は地では旅人です。あなたの仰せを私に隠さないでください。(詩篇119:18-19)

要するに、

「私は旅人です。だから、あなたの道と律法がよく分かりません。あなたが私に何を要求されるか分かりません。

けれども、あなたが私の最善を望んでおられることを知っています。だから、私の目を開いてください。あなたの道が理解できるように助けてください。」

彼は祈り続けます。

どうか、あなたのおきてを私に教えてください。

あなたの戒めの道を私に悟らせてください。私が、あなたの奇しいわざに思いを潜めることができるようにしてください。(26-27)

もう一度、私たちは詩人のへりくだる心が見えます。多分、彼は自分の罪のため、「ちりに打ち伏しています」と言いました。(25)

だから、彼はこう言いました。

みことばのとおりに私を堅くささえてください。(28)

また、

私は真実の道を選び取り[ます](30)

また、

私はあなたの仰せの道を走ります。(32)

なぜでしょうか。

あなたが、私の心を広くしてくださるからです。(32b)

そして、彼はもう一度言います。

あなたのおきての道を私に教えてください。(33)

また、

あなたのおきての道を私に教えてください。(34)

また、

私に、あなたの仰せの道を踏み行かせてください。(35)

つまり、「私はあなたの道を知らないので、教えてください。私は本当にあなたの道を理解したいです。」

けれども、多くの場合、私たちは「もう知っている」と言う態度を取ります。私たちの知恵と知識がもう十分だと思います。

しかし、そのような態度は破壊と恥に導きます。私たちはいつもへりくだる心が必要です。私たちは神様の教えに耳を開かなくてはならないのです。

また、私たちは自分の力で神様の道を歩むことができないと認めなくてはならないのです。

だから、詩人は神様の助けのために祈ります。

私の心をあなたのさとしに傾かせ、不正な利得に傾かないようにしてください。

むなしいものを見ないように私の目をそらせ、あなたの道に私を生かしてください。(36-37)

そして、彼は40節で祈ります。「どうか私の義によって、私を生かしてください。」(40)

実は上記の箇所で、一つのミスがあります。あなたは気づいたでしょうか。

ダビデが言ったのは、「どうかあなたの義によって、私を生かしてください。」と言っていました。

神様は私たちを私たち自身の義によって救われません。むしろ、神様の義によって私たちを救ってくださいます。神様の義によって、私たちは神様の目に義と認められます。

あなたはそのことを認めますか。詩人はそう認めました。

だから、プライドを捨てましょう。自分の義や知恵に頼らないようにしましょう。

むしろ、神様の前にへりくだって来て、「教えてください」と言いましょう。

そうすれば、神様は私たちに教えてくださいます。

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詩篇108-

聖さの望み

詩篇119篇は最も長い詩篇であり、最も長い聖書の章です。だから、少しずつこの詩篇を読み、そのテーマについて話していこうと思います。

この箇所では、私たちは詩人の聖さの望みを見ることができます。だから、この詩人がダビデかもしれないと考える方もいるでしょう。なぜなら、ダビデは神様の心に叶うものと呼ばれたからです。(とはいえ、この詩篇は無名の詩人によって書かれました。)

最初に、詩人は全き道を行く人々の幸せについて話します。そして、彼は心から叫びます。

どうか、私の道を堅くしてください。あなたのおきてを守るように。

そうすれば、私はあなたのすべての仰せを見ても恥じることがないでしょう。(詩篇119:5-6)

つまり、「どうして、聖い人生を生きることができないのだろう。私はよく自分の罪を恥じます。あなたの命令を守ることができたらいいのに。」

そして、もう一度、彼は約束します。

私は、あなたのおきてを守ります。どうか私を、見捨てないでください。(8)

聖さの鍵は何でしょうか。詩人は私たちにその答えを示してくれます。

どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。

私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください。

あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。(9-11)

私たちはどのように聖い人生を生きられるでしょうか。私たちは神様の言葉に従って守るべきです。私たちは神様の言葉を心にたくわえ、その言葉に思いを巡らすべきです。

私たちは聖書を本棚にずっと置かずに、その言葉を読んで、喜ぶべきです。

私たちを清める御言葉を喜ぶでしょうか。また、私たちは神様の聖さを喜ぶでしょうか。

時々私はそうしません。聖いものに思いを巡らさずに、そのものを喜ばずに、私は聖くないものに焦点を当てます。だから、私は罪に落ちます。

だから、パウロのように私は叫びます。

私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(ローマ7:24)

もし自分の力で聖い人生を求めるなら、それは当然の結果です。

それでは、その解決は何でしょうか。パウロはこう言います。

私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。(ローマ7:25)

私たちは自分の力によって聖い人生を生きることはできません。それは無理です。詩人もそのことが分かりました。だから、彼は神様に叫びました。

どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください。(詩篇119:10)

要するに、「私は聖い人生を送れません。助けてください。」

この詩篇を読む時、律法主義の考え方を持つことは簡単です。多くのクリスチャンは「私は自分の力で聖い人生を生きなくてはならない。」と思います。

けれども、私たちが神様の恵みによって救われたことを決して忘れないでください。また、神様が私たちの中で働いてくださらないなら、私たちは決して聖い人生を生きることができません。

しかし、「もしそれは無理なら、どうして努力するだろうか」と思わないでください。

むしろ、私たちは義に飢え渇きましょう。そうすれば、どうして私たちが神様が必要かはっきり分かるようになります。その時、神様の恵みが私たちの心に注がれます。

また、自分の正しさに関するプライドが無くなって、神様の恵みと憐れみを見ますので、私たちはへりくだります。

その結果は何ですか。私たちが自分の力に頼らず、神様の力に頼るので、私たちは神様ともっと親しく歩みます。そして、神様が私たちの心を変えてくださいますので、私たちの人生は変わります。

それが私たちが聖くなるプロセスです。

あなたはどうですか。神様の聖さに飢えるでしょうか。

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詩篇108-

救いの歌

イエス様がこの世に再臨される日に、クリスチャンたちが詩篇を歌うなら、多分この詩篇を歌うでしょう。なぜならこれは救いの讃美歌だからです。

多分、詩篇118篇の詩人よりも、この詩篇は私たちにとって意味があると思います。

新エルサレムに入る時、多分私たちはこう歌うでしょう。

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。(詩篇118:1)

どうして私たちはそう歌うでしょうか。なぜなら、私たちが苦しんだ時、また私たちが自分の罪によって死にかけていて、神様に叫んだ時、神様は私たちを自由にしてくださったからです。

それに、毎日、神様は私たちを見守ってくださいます。人々は私たちの体を滅ぼすかもしれませんが、私たちの魂を滅ぼすことはできません。だから詩人はこう歌いました。

主は私の味方。私は恐れない。人は、私に何ができよう。(6)

そして詩人はどのように神様の力によって敵を断ち切ったか歌います。そのように、神様は私たちにサタンに対する勝利を与えてくださいます。だから、私たちもこう歌います。

おまえは、私をひどく押して倒そうとしたが、主が私を助けられた。

主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。。。

主の右の手は高く上げられ、主の右の手は力ある働きをする。

私は死ぬことなく、かえって生き、そして主のみわざを語り告げよう。(13-17)

時々、詩人のように、私たちは神様の懲らしめの手を見ることがあります。けれども、神様は私たちを滅ぼすために懲らしめるのではなく、私たちに命を与えるために懲らしめてくださいます。

だから、私たちはエルサレムの門に着くとき、門番にこう言えます。

義の門よ。私のために開け。私はそこから入り、主に感謝しよう。(19)

どうして、私たちにはその門に入られる確信があるでしょうか。それは、私たちが救いの基礎を知っているからです。

家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。

これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。(22-23)

イエス様は私たちの救いの礎の石になりました。ユダヤ人たちはイエス様を拒絶しましたが、十字架で流されたイエス様の血によって、私たちは救いを見つけることができます。

だから、毎日私たちの希望が新しくなり、私たちは歌うことができます。

これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。(24)

そして、イエス様がエルサレムに来られたとき、人々が叫んだように、いつか私たちも歌います。「ホサナ。ああ、主よ。どうぞ救ってください。」(25)

けれども、私たちがそう歌う時には、もう救いが来るのを待っているのではなく、むしろ、私たちの救いを振り返ります。そして、もう一度、私たちは歌います。

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。(29)

アーメン。イエス様、すぐに来てください。

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詩篇108-

全ての国民は礼拝するとき

これは聖書の中で、一番短い章です。けれども、すぐに一番長い章を読みます。だから、私の英語のブログで、私は、「This is the calm before the storm.」と言いました。

つまり、「これは嵐の前の静けさです。」 🙂

とにかく、詩篇117篇はメシアについての詩篇です。なぜなら、詩人はすべての国民が神様を礼拝する日を楽しみにしているからです。彼はこう歌いました。

すべての国々よ。主をほめたたえよ。すべての民よ。主をほめ歌え。(詩篇117:1)

パウロはこの箇所によって、キリストがユダヤ人のためだけではなく、すべての人々のために来てくださったことを証明します。(ローマ15:11)

なぜ、詩人はすべての国民が神様をほめたたえるように招くのでしょうか。二つの理由があります。

一つ目は、神様の私たちに対する大きな恵みです。神様は、十字架でキリストの死によってその恵みを示してくださいました。

その死によって、私たちの罪が赦され、私たちは神様の家族に入ることができます。

その真理を理解したので、ヨハネはこう叫びました。

私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。(第一ヨハネ3:1)

あなたが日本人でも、アメリカ人でも、ユダヤ人でも、あなたがイエス様を信じたら、神様は自分の子供としてあなたを受け入れてくださいます。

二つ目の理由は、神様の忠実さは永遠に続くことです。私たちがどんなに失敗しても、神様は私たちを決して見捨てません。

日本語の聖書では、こう訳されています。

主のまことはとこしえに。(詩篇117:2)

つまり、神様とそのみことばは決して変わることがありません。

神様が気まぐれな方であると心配する必要はありません。神様が何かを語られるなら、その御心が変わることを恐れる必要はありません。

だから、私たちは恐れずに神様に信頼することができます。

だからこそ、詩人は歌います。

ハレルヤ。(2)

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詩篇108-

暗い時に希望

私が高校生の時、詩篇116篇にちなんだ歌を聴きました。その時から、この詩篇は私のお気に入りになりました。

そのソングライターはリビング・バイブルの訳を引用しました。

私は主を愛します。なぜなら、主は私の祈りに聞き、答えてくださるから。

主が私に耳を傾けられるので、私は生きる限り祈ります。(詩篇116:1-2)

なぜか、「主が私に耳を傾けられる」と言う言葉は私の心の中に響きます。

神様は私を愛しておられるので、私のすべての言葉を聞くために耳を傾けてくださいます。

そのことについて考える時、私は驚きます。

私には7歳の娘がいます。もちろん私の方が背が高いので、時々、私はちょっと低くして、彼女と話します。なぜなら、私が彼女の言葉を聞くのがもっと簡単になるし、彼女の目がちゃんと見えるからです。

神様は私たちのためにもそうしてくださいます。特に、私たちが暗闇の中にいる時に神様はそうしてくださいます。この詩篇では、詩人は自分のそんな時について歌います。

死の綱が私を取り巻き、よみの恐怖が私を襲い、私は苦しみと悲しみの中にあった。

そのとき、私は主の御名を呼び求めた。「主よ。どうか私のいのちを助け出してください。」(3-4)

そして、神様は憐れみと恵みによって、その詩人に触れられました。だから、詩人は歌います。

私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。主はおまえに、良くしてくださったからだ。(7)

けれども、この詩篇で私たちが学ぶのは、神様に従ったとしても、時々私たちは困難に直面することです。

詩人はこう書きました。

「私は大いに悩んだ」と言ったときも、私は信じた。(10)

パウロは、自分の試練について話した時、この詩篇を引用しました。彼はこう言いました。

私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。

途方にくれていますが、行きづまることはありません。

迫害されていますが、見捨てられることはありません。

倒されますが、滅びません。(第二コリント4:8-9)

そして、彼はこう言いました。「私が福音のために苦しんでいても、イエス様の命は私たちを通して表れました。だから、私の周りの人々はその命を受けました。」(第二コリント4:10-12)

だから、パウロは詩人のように言いました。

「私は信じた。それゆえに語った。」(第二コリント4:13)

要するに、「私が福音を述べ伝えることができるなら、私は喜んで暗い時を通って、苦しみます。」

だから、パウロはこう言います。

ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(第二コリント4:16-18)

詩人も主からの救いを知ったので、永遠の物に照準を合わせ、主をほめたたえ、自分の人生を主に奉げました。彼は歌いました。

主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか。

私は救いの杯をかかげ、主の御名を呼び求めよう。

私は、自分の誓いを主に果たそう。ああ、御民すべてのいる所で。(詩篇116:12-14)

神様は私たちの鎖も打ち砕いてくださいました。だから、心から主をほめたたえ、感謝のいけにえを捧げ、周りの人々に主が私たちのために何をしてくださったか伝えましょう。

そうすれば、彼らも暗闇から自由にされます。

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詩篇108-

私たちの賛美と信頼にふさわしい方

この詩人の叫びは、私の心に響きます。

私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。(詩篇115:1)

あなたは誰のために生きているでしょうか。何のために生きているでしょうか。お金を儲けるためでしょうか。栄光を得るためでしょうか。

もしくは、全ての栄光に値する方のために生きているでしょうか。神様の恵みとまことのために、主にあなたの人生を捧げるでしょうか。

この詩篇では、詩人は私たちが神様に信頼し、神様を賛美するように励まします。どうしてでしょうか。どうして、神様は私たちの信頼と賛美にふさわしいのでしょうか。

一つの理由は、神様は全能の主です。

詩人はこう言います。

私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行なわれる。(3)

そのことを聞くと、恐れる人がいます。彼らは「神様が自分が望むことをことごとく行われるなら、神様は私をどのように取り扱われるだろうか」と思います。

けれども、神様を知っている人は、神様に畏敬の念を抱きます。なぜなら、この全能の神は私たちを愛しておられるからです。それに、私たちがどんなに不実でも、神様はいつも私たちに忠実です。

それに、神様は、口があっても語れず、目があっても見えず、耳があっても聞こえず、手があっても触れず、足があっても歩けず、のどがあっても声をたてることもできない偶像ではありません。

そのような「神」は自分自身を支えられないし、私たちをも助けられません。

むしろ、神様は私たちを見る時、私たちの叫びを聞き、応えてくださいます。また、神様は私たちを助けてくださいます。

だから、詩人は言います。

主を恐れる者たちよ。主に信頼せよ。この方こそ、彼らの助け、また盾である。(11)

そうすれば、どうなるでしょうか。

主はわれらを御心に留められた。主は祝福してくださる。イスラエルの家を祝福し、アロンの家を祝福し、主を恐れる者を祝福してくださる。小さな者も、大いなる者も。(12-13)

あなたはどのように生きているでしょうか。あなたは自分の人生をコントロールしようとしているでしょうか。あなたがすべてのことをコントロールできないので、思い悩んでいるでしょうか。

神様に信頼してください。神様は全能の主なので、あなたがコントロールできないことを神様は掌握できます。

だから、詩人はこう歌います。

しかし、私たちは、今よりとこしえまで、主をほめたたえよう。ハレルヤ。(18)

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詩篇108-

聖所となるように救われた、神の国民になるように救われた

詩篇114篇では、詩人はどうやって神様がイスラエル人をエジプトから救い出し、砂漠を通して、約束の地に導いてくださったかを話します。

神様はイスラエル人のためにいろんな奇跡を行って、自分の力を表されました。(詩篇114:3ー8)

けれども、2節は私の心を打ちます。

詩人はこう歌います。

ユダは神の聖所となり、イスラエルはその領地となった。(詩篇114:2)

どうして、神様はイスラエル人のためにたくさんの奇跡を行われたでしょうか。

神様の目的は、神様が彼らの間に住み、イスラエル人が神様の聖い国民になることです。

そのように、神様は、ただ私たちが天国に行くために私たちを救ったのではありませんでした。むしろ、神様は私たちの間に住むように私たを救われました。

また、私たちが神様の宮となり、神様は私たちの中に住まわれます。そして、神様の民として、私たちは神様が設立する国に参加します。

だからペテロはこう書きました。

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。

それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。(第一ペテロ2:9)

その最後の部分に注意してください。どうして、神様は私たちを聖所とされるのでしょうか。どうして、神様は私たちを自分の国民とされるのでしょうか。

私たちが神様の素晴らしい御業を宣べ伝え、私たちの周りの人々を闇の中から神様の驚くべき光の中に導くためです。

主よ。私の中に住んで、私があなたの使節になるようにしてください。あなたが私を闇の中から光の中に招いてくださり、ありがとうございます。

私たちの周りの人々があなたの光に来るように私たちを用いてください。アーメン。

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詩篇108-

高い御位に座る神、身を低くして覧になる神

多分、神様に関して最も驚いたことは、神様は威光ある方でありながら、私たちを愛しておられることです。

詩人は詩篇113篇の最初から私たちを礼拝するように呼びかけます。

ハレルヤ。主のしもべたちよ。ほめたたえよ。主の御名をほめたたえよ。

今よりとこしえまで、主の御名はほめられよ。

日の上る所から沈む所まで、主の御名がほめたたえられるように。(詩篇113:1-3)

そして、彼は歌います。

主はすべての国々の上に高くいまし、その栄光は天の上にある。

だれが、われらの神、主のようであろうか。主は高い御位に座し。。。(4-5)

要するに、「神様は偉大な方です。神様を他のものと比べられません。神様が私たちの賛美に値する方だから、ほめたたえましょう。」

けれども、6節で、詩人はこう言います。

「神様は」身を低くして天と地をご覧になる。(6)

そして、詩人は、どうやって神様が弱いもの、貧しいもの、子供のいない女性(その時代、それは本当に恥ずかしいことでした)を引き上げ、祝福してくださることについて話します。(7-9)

神様は私たちを見るために身を低くし、私たちに触れられました。

しかし、それだけではなく、神様は人間として、この世に来られ、私たちと共に住まわれました。パウロはこう書きました。

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現われ[た]。(ピリピ2:6-7)

だから、神様は私たちのことを本当に理解しておられます。

さらに、神様は私たちの最大の必要を見て、十字架で私たちの罪のための罰を受けられました。

イエス様は死に値しなかったのに、私たちを愛し、この世に来て、私たちのために死んでくださいました。

だから、詩人が歌ったように、

日の上る所から沈む所まで、主の御名がほめたたえられるように。(3)

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詩篇108-

神様を恐れる祝福、神様を喜ぶ祝福

恐れと喜び。私たちはふだんその言葉をいっしょに使うことはありません。けれども、詩篇112篇では、詩人はそうします。

彼は神様を恐れる祝福と、神様とその言葉を喜ぶ祝福について話します。

詩人はこう言います。

ハレルヤ。幸いなことよ。主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人は。(詩篇112:1)

神様を恐れることは、どういう意味でしょうか。

一つ目は、神様の偉大さに畏敬の念を抱くことです。

私たちは神様が私たちよりも偉大な方であり、私たちよりも聖い方であることを理解します。その知識によって、私たちは神様を恐れます。なぜなら、私たちは神様の前に立つことに値しないからです。

むしろ、私たちの罪のため、私たちは死に値します。聖書で神様に会う人々はそう感じました。

しかし、同時に彼らは、彼らに対する神様の愛と憐れみを知ったので、神様を喜び、神様を喜ばせたいと思いました。

詩人はそのような人々が祝福を知ることを言います。

そして、彼らは天の父の性格を取るようになります。彼らも、恵み深く、情け深くなり、義の道を歩みます。彼らも気前がよく、自由に人に貸し、義によって行います。(4-5)

その結果は?

彼は決してゆるがされない。正しい者はとこしえに覚えられる。

その人は悪い知らせを恐れず、主に信頼して、その心はゆるがない。

その心は堅固で、恐れることなく、自分の敵をものともしないまでになる。(6-8)

多くの人々は自分自身だけを信頼するので、将来について心配します。どうしてでしょうか。なぜなら、将来をコントロールできないからです。だから、悪い便りを聞くと、彼らはパニックになります。

しかし、神様に信頼したら、悪い時が来ても、私たちは安心できるし、将来を恐れません。

どうしてでしょうか。

なぜなら、私たちは全てをコントロールできる方の手に任せるからです。そして、人々が私たちを攻めても、神様は私たちに勝利を与えてくださいます。

詩人は悪者についてこう言います。

悪者はそれを見ていらだち、歯ぎしりして溶け去る。悪者の願いは滅びうせる。(10)

その一方、神様に信頼する人は周りの人々を祝福します。それに、神様は私たちに栄光を与えてくださいます。(9)

だから、毎日この聖く、良く、素晴らしい神を恐れ、喜びましょう。

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詩篇108-

主の御業に思いを巡らす

私たちが悪いことについて考え続けるのは簡単なことです。私たちは自分の問題を思い出して、その問題のことしか考えられなくなります。

そして、私たちにその問題を解決する力がないなら、私たちのストレスは増します。私には何度もそんな経験があります。

でも、詩人は私たちが他のことについて考えるように励まします。

ハレルヤ。私は心を尽くして主に感謝しよう。直ぐな人のつどいと集会において。

主のみわざは偉大で、みわざを喜ぶすべての人々に尋ね求められる。

そのみわざは尊厳と威光。その義は永遠に堅く立つ。(詩篇111:1-3)

この箇所では、詩人は神様がどんな方であるか、また神様が何をしたか考えるように私たちを励まします。

神様はどんな方でしょうか。神様は義の神だし(3)、情け深く、あわれみ深い神です。(4)。また、神様の戒めは確かです。(7)

神様は何をしたでしょうか。イスラエル人を憐れんで、エジプトから彼らを贖い、砂漠で彼らのニーズに備え(5)、彼らに自分の土地を与えて、国として確立しました(6)。

そして、イスラエルの民の罪のゆえに追放された時、神様は彼らをバビロンから贖ってくださいました。(9)

それに、神様は私たちのためにもそうして下さいます。神様は私たちのニーズに備え、私たちを憐れみ、サタンの国から私たちを贖い、私たちを神様の民にし、約束の地に導いてくださいます。

私たちの命は一時的なものです。だから、私たちが天国に行くと、この世の苦しみとトラブルをすぐに忘れます。

それなら、どうして、私たちは心配しているでしょうか。心配すると、私たちはストレスを溜めるだけです。

だから、詩人はこう書きます。

主を恐れることは、知恵の初め。(詩篇111:10)

私たちが神様に畏敬の念を抱くとき、この世の一時的なトラブルは小さく見えるようになります。

私たちが神様がどんな方であるか、また、神様が何をされたか思いを巡らすと、私たちは心配しなくて良いと悟ります。

それこそが知恵ではありませんか。

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詩篇108-

私たちの王と祭司

これは、本当に有名なメシアについての詩篇です。イエス様はその詩篇を引用して、パリサイ人が答えられない謎をかけられました。(マタイ22:41-45)

詩篇110篇では、主(つまり、天の父)は、ダビデの主(つまり、メシヤ)にこう言います。

わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。(詩篇110:1)

昔は、戦勝した王は敗戦した王の首を踏みました。

この箇所では、天の父がイエス様に敵を打ち勝たせることを約束しておられます。また、イエス様がご自身に逆らう者さえも支配されることを約束しておられます。

しかし第4節によれば、イエス様はただの王ではありません。イエス様は私たちの祭司でもあります。

ただし、イエス様はアロンの系統に属する祭司ではありません。むしろ、天の父はこう言われました。

主は誓い、そしてみこころを変えない。「あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司である。」(4)

アブラハムの時代、メルキゼデクは祭司であり、王でした。

ダビデとその息子ソロモンは王でしたが、時に祭司のように、いけにえをささげたり、主の名によって人々を祝福したりしました。それでも、彼らは祭司ではありませんでした。

しかし、イエス様は私たちの王であり、祭司でもあります。

ただし、アロンの系統に属する祭司の職と、イエス様の祭司の職には大きな違いがあります。アロンとその子孫は、一時的に祭司として神様に仕えました。

その一方、イエス様は永遠の祭司です。なぜなら、イエス様は永遠の方だからです。(へブル人への手紙7:24)

そして、6節によれば、最後の日にイエス様はすべての国々を裁かれます。その日、すべての人々はイエス様の王座の前に立って、裁かれます。

良い知らせは、イエス様は私たちの大祭司なので、天の父の前で私たちのためにとりなしてくださることです。だから、私たちは神様を恐れる必要はありません。

むしろ、へブル人への手紙の著者はこう言います。

ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(へブル4:16)

イエス様、あなたは私の王と神と裁判官です。けれども、一番感謝しているのは、あなたは私の大祭司であることです。

あなたは私のためにとりなし、私の罪をあなたの血によって取り去ってくださり、感謝します。

けれども、それよりも、あなたが本当に素晴らしい神であることを感謝します。あなたの名前によって祈ります。アーメン。

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詩篇108-

苦々しい心と許し、憐れみと正義

詩篇109篇は「呪いの詩篇」です。

時々、詩篇の中で、ダビデは自分の敵を呪ったり、その敵に対する神様の裁きを求めて祈ります。

多くの人々は(私も)こんな詩篇を読む時、気持ちがよくありません。なぜなら、イエス様は私たちに自分の敵を赦しなさいと命じられたからです。

以前、このブログでこのことについて説明したことがあるけど、繰り返した方が良いと思います。

王として、ダビデは正義の大切さをよく知っていました。彼は悪が続くことを許しませんでした。だから、ダビデはその悪者が自分が蒔いたものを刈り入れるように祈りました。

ダビデは無実なのに敵に責められたので、ダビデは彼らが裁かれるように祈ったのです。

「どうか、悪者を彼に遣わしてください。なじる者が彼の右に立つようにしてください。」という言葉は少し難しいです。

もしかしたら、ダビデは彼らも不公平に責められる経験を知ることを望んだのかもしれません。

そして、ダビデは祈ります。

その子らはみなしごとなり、彼の妻はやもめとなりますように。

彼の子らは、さまよい歩いて、物ごいをしますように。その荒れ果てた家から離れて、物ごいをしますように。(詩篇109:9-10)

それは酷い祈りです。とはいえ、その悪者は他の家族をそのように苦しませたのです。

最近、私はニュースを見て、ある殺人者が刑務所で自殺したことを聞きました。彼は婚約者と娘を残しました。

私たちの罪は自分自身に影響を与えるだけでなく、私たちが愛する者にも影響を与えてしまいます。

そして、私たちが悔い改めないなら、神様の赦しを決して知ることがありません。

けれども、このことを覚えていてください。私たちは正義を望むかもしれないけど、苦々しい心を持ってはいけません。なぜなら、苦々しい心は相手を傷つけるよりも、自分自身を傷つけるからです。

興味深いのは、ペテロがこの詩篇をユダに当てはめたことです。ユダは理由もなくイエス様を裏切り、善にかえて悪を与え、愛にかえて憎しみを返しました。

そして、彼が決して悔い改めなかったため、神様は彼を赦されませんでした。その結果、彼の人生は短く終わり、彼の務めと立場は他の人に引き継がれました。

しかし、イエス様はユダに対して苦々しい心を持っておられませんでした。むしろ、最後の晩餐ではユダの足を洗い、彼にパンを与えられました。

そして、ユダが裏切るためにゲツセマネの園に来た時も、イエス様は苦々しさを示されませんでした。むしろ、イエス様はユダに対して情け深く接しておられました。

イエス様は騙されやすい方ではありませんでした。イエス様はユダの性格と動機をよく知っておられました。

それでも、イエス様はユダに憐れみと愛を示されました。その愛と憐れみによって、イエス様は彼の頭に燃える炭火を積まれたので(箴言25:21-22)、結局ユダは自分の罪悪感を感じて、自殺しました。

けれども、イエス様は苦々しさに汚れませんでした。

ダビデも苦々しさに汚れませんでした。一回だけ、ダビデは苦々しい心を持って、誰かを殺したいと思いました。

けれども、彼は本当の正義を思い出して、その苦々しい心を手放し、その人に憐れみを与えました。そして、彼が神様の正義を見たとき、この詩篇のように、彼は喜びました。

私は、この口をもって、大いに主に感謝します。私は多くの人々の真ん中で、賛美します。

主は貧しい者の右に立ち、死刑を宣告する者たちから、彼を救われるからです。(30-31)

だから、苦々しい心を手放しましょう。むしろ、憐れみ、赦し、そして正義を大事にしましょう。

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詩篇108-

勝利を思い出す

ちょっと詩篇108篇に飛びます。なぜなら、詩篇108篇には詩篇57篇と詩篇60篇の部分が含まれているからです。

具体的には、詩篇108:1-5は詩篇57篇の最後の部分から来ており、詩篇108:6-13は詩篇60篇の最後の部分から来ています。

詩篇108篇がその二つの詩篇のメドレーかどうかは分かりません。もしかしたら、ダビデはその二つの詩篇から新しい詩篇を書いたのかもしれません。でも、どうしてダビデはその二つの詩篇を組み合わせたのでしょうか。

私は二つの推測をしています。

一つ目は、ダビデが詩篇60篇を書いたときに、同時に詩篇108篇も書いたということです。

詩篇60篇の背景には、イスラエルが敵に敗れたことで苦しんでいた時期があります。だから、ダビデは神様が洞穴でどのように彼をサウルから救い出してくださったかを思い出したのでしょう。

多分彼は自分にこう言ったのです。「この敗戦には失望してはならない。神様が過去に何をしてくださったかを思い出そう。もし、過去に神様が私を救い出したなら、将来も神様は私を救い出してくださるだろう。」

二つ目は、詩篇108篇はその二つの事件の後に書かれたものであるということです。つまり、ダビデは振り返り、神様が何をしてくださったかを思い出して、神様を賛美したのです。

そのように、私たちも過去の勝利を思い出したほうが良いです。特に、苦難の時に、過去の勝利を思い出したほうが良いです。

そして、神様が私たちを救い出してくださった後、私たちは神様に感謝するべきです。

どうしてそうするべきでしょうか。

希望のためです。

苦しい時、勝利を思い出すことは私たちに希望を与えます。希望がないなら、試練に直面することは難しいです。

でも希望を持てば、どんな試練に直面しても、私たちは乗り越えられます。なぜなら、神様が私たちの味方で、私たちを助けてくださることを知っているからです。

あなたはどんな勝利を経験したでしょうか。その勝利について書きましょう。神様があなたの祈りに応えてくださるとき、そのことについて書きましょう。それだけではなく、神様をほめたたえましょう。

そうすれば、試練が来るとき、あなたは立つことができます。