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サムエル記第一のデボーション

私たちの忠実な祭司

人が人に対して罪を犯すなら、神がその仲裁をしてくださる。だが、主に対して人が罪を犯すなら、だれがその人のために仲裁に立つだろうか。(サムエル記第一2:25)

今朝、私はその言葉に思いを巡らせていました。

神様に対して罪を犯すとき、私たちのために仲裁に立ってくださる方がおられます。

神様はイエス様を、私たちの忠実な祭司として起こしてくださいました。さらに、イエス様はとこしえに私たちの祭司です。(サムエル記第一2:35;ヘブル書2:17~18;7:23~25)

私の罪によって神様をどれほど悲しませたかを振り返ると、その真理は本当に不思議なことだと思います。

だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。(ローマ人への手紙8:34)

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マルコの福音書のデボーション

イエス様が生きておられるゆえに

青年は言った。「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。」(マルコの福音書16:6)

明日、母の葬式のためにハワイへ旅します。そして、葬式のあと、私たちは遺灰を地面に葬ります。

しかし本当のところ、母の本質は地面に葬られるのではありません。母の魂はイエス様と共にあるからです。やがて、その遺灰は地面からよみがえり、新しい体へと変えられ、母の魂と結び合わされるのです。

その体は朽ちず、死ぬことのないものとなります。

それが私の希望です。イエス様が生きておられるゆえに、母も生きるのです。(ヨハネ14:19)

そしていつか、私の体が死んでも、神の恵みによって、私も生きるのです。

Many still mourn
多くの人が今も嘆いており、
And many still weep
多くの人が今も涙を流しています。
For those that they love who have fallen asleep
眠りについた愛する人々を思って。

But we have this hope though our hearts may still ache
しかし、心がまだ痛んでいても、私たちには希望があります。
Just one shout from above
天からの大きな呼びかけによって、
and they all will awake
すべての眠る者たちは目を覚ますのです。

And in the reunion of joy we will see
喜びに満ちた再会のうちに、私たちは目にするのです。
Death will be swallowed in sweet victory.
死は、胸のすくような勝利に飲み込まれるのです。ーーボブ・ハートマン

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マルコの福音書のデボーション

イエス様が私たちに求められること

彼女は、自分にできることをしたのです。(マルコの福音書14:8)

今日、イエス様の言葉を思いめぐらしています。ラザロの妹であるマリアは、イエス様のためにほとんど何もすることができませんでした。

敵からイエス様を守ることもできず、最高法院の前で擁護することもできませんでした。

イエス様の処刑を阻止するために、彼女にできることは何もありませんでした。

でも、マリアは自分にできることをしました。

自分が何をしているのか完全には理解していなかったとしても、イエス様によれば、マリアはご自身の葬りの日のために、その香油を取っておいたのです。

彼女が理解していたのは、イエス様を愛していること、そして兄ラザロがよみがえったことで、自分の心が感謝に満ちていたことでした。(ヨハネの福音書11~12章)

だからこそ、マリアはイエス様のために、できることをしました。

イエス様が私たちに求められるのも、ただそれだけです。

私たちにできないことではなく、

周囲の人々が私たちに期待することでもなく、

むしろ、私たちの愛と感謝の心から、イエス様に仕えるためにできることを求めておられるのです。

だから、裁きの日に、イエス様が私についてこう言ってくださるように願います。

「ブルースは、自分にできることをしたのです。」

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マルコの福音書のデボーション

生きている者の神

死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の箇所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。

『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。

神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。(マルコの福音書12:26ー27)

3週間前、私の母はこの世を去りました。 おそらく、そのため、上の箇所は私の心に響きます。

「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。」

そして、いつかの日、天の父はイエス様のすべての敵をその足の下に置かれます。 その最後の敵は、死です。(第一コリント15:26ー27)

私は母に再び会います。

だからこそ、悲しみの中でも、喜びをもって、キリストの勝利の歌を歌っています。

死は勝利に吞み込まれた。
死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。
死よ、おまえのとげはどこにあるのか。(第一コリント15:54ー55)

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マルコの福音書のデボーション

手ぶらで去られる?

もしだれかが、『なぜそんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。。。』と言いなさい。(マルコの福音書11:3)

翌日、彼らがベタニアを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。 葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、その木に何かあるかどうか見に行かれたが、そこに来てみると、葉のほかには何も見つからなかった。

いちじくのなる季節ではなかったからである。(マルコの福音書11:12ー13)

今日まで、この二つの箇所の関係に気づいたことはありませんでした。

どちらの場合も、イエス様は何かを求めておられます。

しかし、前者の場合には、イエス様が求められるものを受け取られます。 後者の場合には、イエス様は何も受け取ることができません。

そして、私はこう考えていました。 「私から何か求められるとき、どれほどイエス様は手ぶらで去られるのでしょうか。」

イエス様、私から実を求められるとき、 あなたが決して手ぶらで去られないように。

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マルコの福音書のデボーション

初めの愛

けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。(ヨハネの黙示録2:4)

最近、私はこのことばを思い巡らしていました。

初めの愛の特徴とは何でしょうか。おそらく、その主な特徴は「喜び」ではないでしょうか。

では、何がその愛を芽生えさせるのでしょうか。それは、私たちに対する神の愛とあわれみです。(第一ヨハネ4:19)

今日の箇所に登場する金持ちは、そのような愛を持ったことがないように見えます。自分はすでに良い人間だと思っていて、あわれみを必要と感じることがなかったのでしょう。(マルコ10:19〜20)

だからこそ、イエス様が彼に、持ち物のすべてを売り払い、ご自身に従うよう招かれたとき、彼は喜ぶことなく、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去りました。(マルコ10:21〜22)

一方、弟子たちはイエス様を愛していましたが、その動機にはまだ混じりけがありました。彼らはいつもこう考えていました。

「もしイエス様に従うなら、どのような益を受け取ることができるだろうか。」(マルコ10:28、35〜37)

しかし、バルティマイがイエス様に従ったとき、彼の心は大きな喜びに満ちていました。(ルカ18:43)

なぜでしょうか。

それは、バルティマイがあわれみを求め、そして受け取ったからです。

それこそが、初めの愛です。

イエス様は私を見つめるたびに、いつくしみをもって、あわれんでくださいます。(マルコ10:21、47)

私は、そのことを決して忘れないように祈ります。 そして、その愛を、決して当たり前のものと思わないように祈ります。

あなたのためにも、私はそのように祈ります。

Because you first loved me,
あなたが私をまず愛してくださったから
Jesus, you will always be
イエス様、あなたはこれからもずっと
You will always be
これからもずっと
My first love.
私の初めの愛です ーー ボブ・ハートマン

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マルコの福音書のデボーション

天のお父さん、私は何を堅く守っているでしょうか。

パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わずに食事をすることはなく。。。

あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです。(マルコの福音書7:3、8)

「堅く守っている」という言葉が、今日、私の心に深く残りました。

パリサイ人やユダヤ人たちは、自分たちの言い伝えを堅く守ることで、神様のことばを軽んじ、結果として神様ご自身をも軽んじてしまいました。口先では神様を敬いながらも、その心は神様から遠く離れていたのです。

現代にも、同じような問題が存在しています。人々は「クリスチャン」だと自称しながら、神のみことばを堅く守ることができず、代わりに現代の価値観を堅く保っているのです。

その結果、彼らもパリサイ人のように、口先では神様を敬っていても、心は神様から遠く離れてしまいます。

しかし、今日、私自身のことを思い巡らしました。

私は何を保とうとしているのだろうか。 イエス様とそのみことばに、私は本当にしがみついているのだろうか。

それとも、他のものにしがみついているのだろうか。 経済的な安定?自分のプライド? あるいは、悪い態度や罪そのもの?

イエス様、どうか私の心のすべてをあなたに捧げることができるよう助けてください。 私が、あなただけにしがみついて歩むことができますように。

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マルコの福音書のデボーション

どんな形でも、あなたとかかわっていたいです!

ナザレの人イエスよ、私たちと何の関係があるのですか。(マルコの福音書1:24)

今日、イエス様に対する悪霊の言葉を思い巡らしていました。悪霊は基本的に、「あなたとは関わりたくないです。あなたを信頼できないし、まったく愛していないのです」と言いました。

イエス様はユダヤ人にも私たちにもそのような態度こそを悔い改めるように促しておられました。

「天のお父さんはあなたを愛しておられる。あなたの最善を望んでおられ、ご自身の愛する子として御国に招いてくださるのです。だから、神様に向けなさい。天のお父さんを信頼しなさい。」

私はイエス様を信じているのです。

だから私は、心から叫びます。

「どんな形でも、あなたとかかわっていたいです!」

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使徒の働きのデボーション

神様に出会える場所となる

すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(使徒の働き3:6)

日曜日に、私の牧師は、エデンの園が天と地の交わる最初の場所について話していました。そこでは、アダムとエバが神様と直接出会うことができました。

その後、幕屋と神殿が、神様と出会える場所として設けられました。

そして、イエス様がこの世に来られ、人々はイエス様に出会うことで、初めて神様の御顔を見ることができました。

しかし今、聖霊様が私たちのうちに住んでおられ、私たち自身が天と地の交わる場所となっています。人々は私たちを通して神様に出会うことができるのです。

足の不自由な人にとって、ペテロとヨハネは天と地の交わる場所となりました。彼らを通して、彼だけでなく、何千人もの人々が神様に出会いました。

私も、周囲の人々にとって天と地の交わる場所となりたいです。ペテロとヨハネのように、神様が私に導かれる人々に気づき、神様の愛で触れたいです。

彼らの癒しのために祈り、励ましの言葉をかけ、イエス様の福音を伝えたいのです。

それが私の祈りです。

天のお父様、私が天と地の交わる場所となりますように。 私を通して、人々があなたに出会うことができますように。

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ルカの福音書のデボーション

親しみやすい?

さて、取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。(ルカの福音書15:1)

今日、なぜか私はその言葉に心を打たれました。そして、こう自問しました。「イエス様を知らない人にとって、私は親しみやすい人だろうか。」

正直に言うと、私はあまり社交的ではありません。人は好きですが、私は外交的な性格だとは言えません。

初対面の人と話すのは少し(いや、だいぶ?)苦手です。以前よりはうまく話せるようになりましたが、おそらく完全に自然にできるようにはならないでしょう。

それでも、人々は私の中にイエス様の愛を見ることができるでしょうか。私が彼らを見下すでもなく、責めるでもないと知って、気軽に私に近づけるでしょうか。

それが私の願いです。しかし振り返ると、私が親しみやすくなかった時もあると気づきます。

それに比べて、イエス様は親しみやすい方でした。そのため、「罪人」と呼ばれる人々でさえ、イエス様に惹きつけられました。一方で、パリサイ人が親しみやすいと感じた人は誰もいなかったのです。

私たちは、神様の国を広げ、人々を神の良いご支配の下に招く使命を与えられています。だから、イエス様と同じように、私たちも親しみやすい人でなければなりません。そうでなければ、その使命を果たすことはできません。

だから、今日私はこのように祈りました。「イエス様、どうか私があなたのように親しみやすい人になる方法を教えてください。」

あなたはどのような人ですか。あなたは親しみやすい人ですか。

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ルカの福音書のデボーション

深く掘り下げる?

なぜあなたがたは、わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、わたしの言うことを行わないのですか。

わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行う人がみな、どんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。

その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、家を建てた人に似ています。(ルカの福音書6:46ー48)

天のお父さん、 聖書を読むとき、どうか私があなたの御言葉をただ表面的に読むのではなく、その意味を深く考え、思いを巡らすよう導いてください。

私があなたの御言葉を理解し、それを通してあなたが私に何を語られるのかを知ることができるように、求める心を与えてください。

イエス様、私があなたを「主よ、主よ」と呼びながら、あなたの御言葉に従わない者にならないようにしてください。

あなたは私の王です。あなたが良い王であることを信じています。だからこそ、あなたの御言葉に聞こうとする耳と、喜んで従う心を与えてください。

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ルカの福音書のデボーション

私たちを喜んで清めてくださる方

これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して言った。「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」(ルカの福音書5:8)

興味深いことに、ペテロの言葉はツァラアトに冒された人々の言葉に似ています。

神の律法によれば、ツァラアトに冒された人々は、「私から離れなさい。私は汚れているから。」と周囲の人々に警告するように求められていました。(レビ記13:45ー46)

しかし、ルカの福音書では、ツァラアトに冒された人がイエス様に近づき、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります。」と言っています。

イエス様は「わたしの心だ」と言われ、その人を清められました。さらに、イエス様はペテロと中風を患っている人の罪をも清められました。

マタイの場合、イエス様は積極的にマタイを追いかけ、その罪を清めてくださいました。

同じように、イエス様は私たちをも追いかけてくださいました。私たちが自分の道を行き、イエス様を価値のないものと見なしたにもかかわらず、イエス様は十字架で私たちの反逆の代償を払ってくださいました。

だから、私たちがイエス様に近づき、あわれみを願うとき、イエス様はこう言われます。「わたしの心だ。きよくなれ。」

ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル4:16)

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ルカの福音書のデボーション

開かれた耳、柔らかい心

私の意見ですが、もしかすると、イエス様がバプテスマを受けたとき、詩篇40:6ー8の言葉を祈られたのかもしれません。

あなたは私の耳を開いてくださいました。。。そのとき、私は申し上げました。「今、私はここに来ております。巻物の書に私のことが書いてあります。わが神よ、私は、あなたのみこころを行うことを喜びとします。

ヘブル書の著者によれば、イエス様はその言葉を祈られましたが、実際にご自身のバプテスマの際にその言葉を祈られたかどうかは分かりません。(ヘブル書10:5ー7)

いずれにせよ、イエス様が神様に対して常に開かれた耳と柔らかい心を持っておられたことは確かです。

その一方で、ヘロデにはそのようなものがありませんでした。特に、自分の罪のためにバプテスマのヨハネから責められたときには、それが顕著でした。(ルカの福音書3:19ー20)

一方、バプテスマを受けた人たちは開かれた耳と柔らかい心を持っていました。それは彼らの反応から分かります。

「私たちはどうすればよいのでしょうか。」(ルカ3:10、12、14)

これはまさに開かれた耳と柔らかい心の問いかけです。

イエス様はそのような心を常に持っておられました。

私もそのような心を持ちたいと思います。

あなたは、そのような心を持っていますか。

神の御言葉を読んだり聞いたりするとき、私たちもあの人たちと同じように反応しましょう。

「私たちはどうすればよいのでしょうか。私は、あなたのみこころを行うことを喜びとします。」

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ルカの福音書のデボーション

真の平和

いと高き所で、栄光が神にあるように。 地の上で、平和が みこころにかなう人々にあるように。(ルカの福音書2:13ー14)

上記の言葉を読んだとき、私の牧師が最近語られたメッセージを思い起こしました。そのテーマは、イエス様がもたらされる平和がこの世の平和と異なることでした。

天の軍勢が現れたとき、もしかすると、羊飼いたちは天使たちがローマの圧迫を滅ぼすために来たと思ったかもしれません。

恐ろしいことですが、その天使たちが羊飼いたち自身を滅ぼすために来たと思ったかもしれません。神様の栄光によって、人々の罪が明らかにされるからです。

しかし、それどころか、天の軍勢は平和を宣言しました。その平和は羊飼いやユダヤ人たちだけのためではなく、すべての人々のためです。(ルカ2:10)

でも、どのような平和が伝えられたのでしょうか。

それは神様との平和です。

その平和は私たちの人生に入り込み、こう語ります。

「あなたは罪人ですが、恐れる必要はありません。イエス様があなたの罪の代償を支払ってくださいました。だから、あなたは今、恵まれた者です。

エリサベツとマリアと同じように、私の恵みを受けたのです。あなたは私の心にかなう者となりました。」(ルカ1:25、28ー30)

この真理は本当に心に納め、思い巡らすべきものです。(ルカ2:19)

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ヨハネの福音書のデボーション

恵みの道を歩んでいる

イエスは。。。ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」(ヨハネの福音書21:19)

ヨハネの福音書21章のペテロの話は、ルカ5:1ー11の話と似ているものです。

どちらの話でも、ペテロは自分の失敗と罪を認識しました。でも、イエス様はそれでもまだ「私に従いなさい」と招かれました。

ペテロは信仰の旅を恵みによって始め、3年後もその恵みによって歩んでいました。そして、もう一度イエス様の御顔を見るまで、ペテロは恵みによって歩み続けました。

私たちも旅の途中です。ペテロの旅のように、私たちの旅も恵みによって始まり、毎日恵みによって続きます。

私たちは不完全な存在です。私たちの愛も不完全です。それにもかかわらず、イエス様は私たちに「従いなさい」と招かれます。

だから、自分の罪、弱さ、失敗を見るとき、失望しないようにしましょう。むしろ、イエス様から目を離さずに従いましょう。

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ヨハネの福音書のデボーション

平安があなたがたにあるように

「平安があなたがたにあるように。」(ヨハネの福音書20:19)

その時代も今も、ユダヤ人の間ではそれは日常的な挨拶です。

でも、それはただの挨拶だったでしょうか。イエス様はその言葉を繰り返して言われたので、たぶんそうではありません。

弟子たちは未来を恐れ、隠れていました。

イエス様がご自分を現されても、弟子たちは自分の失敗を考えて、どれほど不安を感じたでしょうか。

でも、イエス様は「平安があなたがたにあるように。私はここにおります。あなたたちの失敗に関わらず、受け入れております」と言われました。

そして、平和を持たない人々のところに、イエス様は弟子たちを遣わされました。

でも、平和の御霊が私たちのうちに住んでおられないなら、周囲の人々に平和を与えるのは難しいです。

だから、イエス様は彼らに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい。」

イエス様はあなたを遣わしたいと思っておられます。でも、あなた自身は平和を持っているでしょうか。

もしくは、あなたは未来を恐れているでしょうか。

それとも、神様があなたに関して何を思っておられるのか常に心配しているでしょうか。

覚えておきましょう。イエス様はあなたに言われます。「平安があなたがたにあるように。」

イエス様はすでに御霊をあなたに与えてくださいました。恐れの霊ではなく、私たちと一緒に「アバ、父」と叫ばれる御霊です。私たちは神との平和を持っています。(ローマ5:1,5;8:15)

だからその平和を持って、安心しましょう。そして、平和を持たない人に神の平和を与えましょう。

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ヨハネの福音書のデボーション

「私はある」

モーセが神様の名前を求めたとき、神様は「私はある」(英訳:I am)と答えられました(出エジプト記3:14)。つまり、「私は永遠の方です。私の他に、神はいない」ということです。

「私はある」という言葉は、ギリシャ語に訳されたとき、「エイゴエイミ」と訳されました。興味深いことは、イエス様が「エイゴエイミ」と言われたとき、兵士たちは後ずさりし、地に倒れました。(ヨハネの福音書18:6)

でも、ペテロは、「あなたも、イエスの弟子ではないでしょうね」と尋ねられたとき、「違う」(英訳:I am not)と答えました。(17、25節)

つまり、ペテロは(比喩的に)倒れました。なぜでしょうか。なぜなら、彼はイエス様が誰であるかを完全に把握していなかったからです。

私たちはどうでしょうか。イエス様が誰であるかを本当に把握しているでしょうか。また、私たちへのイエス様の愛を把握しているでしょうか。

その真理を把握していないなら、ペテロのように私たちはすぐに倒れてしまうでしょう。

今日、私が祈るとき、たまたま詩篇146篇を読みました。時間があれば、ぜひ読んでください。

イエス様が誰であるのか考えましょう。

そして、あなたへのイエス様の愛を思い出しましょう。

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ヨハネの福音書のデボーション

 イエス様は私たちのためにとりなしてくださいます

わたしは彼らのためにお願いします。(ヨハネの福音書17:9)

なぜか、その言葉は私の心に響きました。

イエス様は弟子たちのために祈ってくださいました。

私たちのためにも祈ってくださいました。(20節)

今なお、イエス様は私たちのために祈ってくださいます。(ローマ8:34;ヘブル7:25)

イエス様は、神様が私たちを守ってくださるように祈ってくださいます。(15節)

私たちが神の真理を知り、従うように祈ってくださいます。(17節)

私たちがイエス様と天の父をもっと親しく知るように祈ってくださいます。そして、神との関係が親しくなるにつれて、私たちクリスチャンの互いの関係も親しくなるように祈ってくださいます。(21ー23、26)

でも、それらのためだけではなく、イエス様は愛を持って、私たちのためにさらに具体的に祈ってくださるでしょう。

私たちは、「イエス様は私を愛してくださいます」とよく言います。

でも今日、この真理を噛み締めましょう。その真理が私たちの心に響くように。

「イエス様は私のために祈ってくださいます。」

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ヨハネの福音書のデボーション

 あなたを信じているの?

あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。(ヨハネの福音書14:1)

イエス様の言葉を考えるとき、私は自問しました。「私の心が騒いでいるとき、どれだけその理由は、私が神様を信じていないからでしょうか。」

神様が私の見方であると信じるでしょうか。

神様が私と共におられると信じるでしょうか。

私の状況、この世の中が狂っているとき、神様がまだすべてを支配しておられると信じるでしょうか。

神様が私を孤児のように決して捨てないと信じるでしょうか。むしろ、私が叫ぶと、神様がいつも来てくださると信じるでしょうか。

何も、死さえも神の愛から私を引き離すことはできないと信じるでしょうか。むしろ、この世を去るとき、イエス様がおられるところに私を迎えてくださると信じるでしょうか。

私たちが平安を失いそうなとき、この質問を訊くべきでしょう。「主よ、私はあなたを本当に信じているのですか?」

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ヨハネの福音書のデボーション

本当のところ神様は私のことをどう思っておられるの?

イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。しかし、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。(ヨハネの福音書11:5ー6)

多くの人々、クリスチャンたちを含めて、「本当のところ神様は私のことをどう思っておられるのだろうか」と疑問に思います。

イエス様がすぐに来られず、ラザロが亡くなったとき、たぶんマルタとマリアもイエス様について同じことを考えていたでしょう。

「イエス様は本当に私たちを愛しておられるのでしょうか。なぜ来てくださらなかったのですか?なぜ兄を癒してくださらなかったのですか?」

しかし、真実は何だったのでしょうか。本当のところイエス様は彼らのことをどう思っておられたのでしょうか。

イエス様はラザロ、マルタ、マリアを愛しておられました。

私たちが苦しんでいて、神様が沈黙されている時、神様が私たちのことをどう思っておられるのか疑問に思うのは簡単なことです。

でも、覚えておきましょう。神様は私たちの味方です。さらに、神様は私たちを深く愛してくださっています。(ローマ8:31ー32)

そして、何も、死のとげさえも、私たちを神様の愛から引き離すことはできません。(ローマ8:38ー39;ヨハネ11:25)

でも私たちが自問しなければならないのは、その真実を信じるかどうかです。(ヨハネ11:26)

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ヨハネの福音書のデボーション

私たちの心を知っておられる方

過越の祭りの祝いの間、イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた。

しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。

すべての人を知っていたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。イエスは、人のうちに何があるかを知っておられたのである。(ヨハネ2:23ー25)

ペテロは。。。イエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」(ヨハネ21:17)

イエス様、あなたは私の心を見ておられます。あなたは私の心に何があるのか、誰かに教えてもらう必要はありません。あなたは私のことをよく知っておられるからです。

だから、ぺテロとともに、私は言います。「あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」

あなたは私の愛がどれほど不完全なものであるのかよく知っておられます。私の失敗もよく知っておられます。それでも、あなたは私があなたを愛していることを知っておられます。

それにしても、自分を騙すのは簡単なことです。だから、私の心の層を剥がしてください。私の心の奥底を明らかにしてください。私の心を癒すために、あなたが見たものを見せてください。

イエス様、私はあなたのようになりたいのです。私をあなたのようにしてください。

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民数記のデボーション

 私があなたをあがめるように

聞け、わたしのことばを。

もし、あなたがたの間に預言者がいるなら、主であるわたしは、幻の中でその人にわたし自身を知らせ、夢の中でその人と語る。

だがわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者。(民数記12:6ー7)

ですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちが告白する、使徒であり大祭司であるイエスのことを考えなさい。

モーセが神の家全体の中で忠実であったのと同様に、イエスはご自分を立てた方に対して忠実でした。

家よりも、家を建てる人が大いなる栄誉を持つのと同じように、イエスはモーセよりも大いなる栄光を受けるにふさわしいとされました。。。

モーセは、後に語られることを証しするために、神の家全体の中でしもべとして忠実でした。

しかしキリストは、御子として神の家を治めることに忠実でした。そして、私たちが神の家です。。。(ヘブル人への手紙3:1ー6)

イエス様、モーセは天の父の家全体の中で、しもべとして忠実でした。だから、彼は栄誉や栄光を受けるにふさわしい人でした。

でも、あなたは天の父の家全体の中で、御子として忠実でした。そういうわけで、モーセよりも、あなたは大いなる栄誉と栄光を受けるにふさわしい方です。

だから、私の言動によって、あなたがあがめられるように。あなたは、私の服従と敬いにふさわしい方です。

私があなたに従わないとき、あなたを敬わないとき、赦してください。

そんなときにも関わらず、あなたが私の大祭司として、私のために忠実にとりなし続けてくださり、感謝します。

あなたの素晴らしい恵みを感謝します。

あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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マタイの福音書のデボーション

イエス様に伝えなかればならない

なぜか、12節のことばが私の心を打ちました。

それから、ヨハネの弟子たちがやって来て遺体を引き取り、葬った。そして、イエスのところに行って報告した。(マタイの福音書14:12)

ヨハネを葬ったあと、その弟子たちが最初に考えたのは、「イエス様に伝えなければならない」ということでした。

なぜでしょうか。

もしかすると、彼らはイエス様にヘロデについて警告したかったのかもしれません。(ルカ9:9)

でも、もう一つの理由は、彼らがイエス様がヨハネを本当に愛しておられることを知っていたからではないでしょうか。

しかし、彼らはイエス様が自分たちを愛してくださっていることを知っていたでしょうか。

「イエス様はすべての人々を愛してくださっている」ではなく、「イエス様は私自身を愛し、私の悲しみをよく知っておられる」ということを、彼らは知っていたでしょうか。

あなたはどうでしょうか。イエス様があなたを愛してくださっていることを、あなたは知っているでしょうか。

「イエス様がすべての人々を愛してくださっている」ではなく、「イエス様は私自身を本当に愛してくださっている」ということを、あなたは知っているでしょうか。

試練と苦しみを経験するとき、あなたが最初に考えるのは、「私はイエス様に伝えなければならない」ということでしょうか。

I must tell Jesus all of my trials;
イエス様に、私のすべての試練を伝えなければなりません。I cannot bear these burdens alone;
私は、一人でその重荷を背負うことができません

In my distress He kindly will help me;
私の苦しみの中で、イエス様は優しく助けてくださいます。
He ever loves and cares for His own.
イエス様は、いつもご自分のものを愛し、心にかけてくださいます。

I must tell Jesus! I must tell Jesus!
私はイエス様に伝えなければならない。私はイエス様に伝えなければならない。
I cannot bear my burdens alone;
私は、一人でその重荷を背負うことができません。

I must tell Jesus! I must tell Jesus!
私はイエス様に伝えなければならない。私はイエス様に伝えなければならない。
Jesus can help me, Jesus alone.
私を助けることができるのは、イエス様ただお一人です。ーーエリシャ・ホフマン

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士師記のデボーション

私たちの羊飼いの模範に倣う

エフライム人たちは本当に怒りっぽい人たちでした。8章でも、私たちはそのことを見ました。

そして、傲慢で怒りっぽい人たちは、しばしば愚かなことを言い、人を傷つけてしまいます。

私たちは彼らの行為をコントロールすることはできません。でも、自分の反応をコントロールすることはできます。

では、私たちはどのように反応すべきでしょうか。私たちの羊飼いの模範に従うべきです。

ペテロはこう書いています。

しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。

このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、 あなたがたに模範を残された。

キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。(第一ぺテロ2:20ー23)

エフタのように、イエス様も良いことを行われたのに、言いがかりをつけられ、脅かされました。

しかし、自分の敵を殺したエフタとは違い、イエス様は罪を犯すことなく、すべてを天の父に委ねられました。イエス様は十字架に向かわれ、敵のために祈り、私たちの救いを買い取ってくださいました。(第一ペテロ2:24)

私たちは、さまよっていた羊のようでしたが、私たちの羊飼いは恵みによって私たちを引き戻してくださいました。(第一ペテロ2:25)

イエス様の模範に倣い、私たちを傷つけた人たちに対しても、そのように応答しましょう。

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創世記のデボーション

私たちの希望

夢が二度ファラオに繰り返されたのは、このことが神によって定められ、神が速やかにこれをなさるからです。(創世記41:32)

その言葉は本当に興味深いです。

ヨセフはいろいろな苦しみを経験しました。どのようにしてヨセフは希望を持ち続けることができたのでしょうか。

ヨセフの言葉の中に、私たちは彼の希望の理由を見ることができると思います。

つまり、彼が若いときに二つの夢を見て、その夢によって神様はヨセフの将来の希望を示されました。その希望は、神様のいつくしみと忠実さに基づいていました。

ヨセフの場合、「速やか」とは約20年のことでした。でも、結局、その日は来ました。

私たちも希望を持っています。その希望は確かなものです。

なぜでしょうか。

へブル人への手紙の著者によれば、私たちの希望は、変わらない二つのものに基づいています。それは、神様の変わらない約束と誓いです。(へブル6:17〜18)

おそらく、もう一つ加えることができるでしょう。それは、神様の良いご計画です。

その変わらないものによって、私たちには大祭司が与えられています。それはイエス様です。イエス様は私たちの大祭司であり、私たちの永遠の救いの源となられました。(へブル5:5〜10、7:10〜28)

だからこそ、前に置かれている希望をつかもうとして逃れてきた私たちは、力強い励ましを受けるのです。その希望は、安全で確かな、たましいの錨のようなものです。(へブル6:18〜19)

だから、どんな試練に遭っていても、ヨセフのように、キリストにある希望にしがみつきましょう。

あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。

「もうしばらくすれば、来たるべき方が来られる。遅れることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし恐れ退くなら、 わたしの心は彼を喜ばない。

しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」(へブル10:36ー39)

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創世記のデボーション

苦しみの子、右手の子

メリークリスマス!

ヤコブはベツレヘムに行く途中、ラケルはヤコブの末っ子を生みました。でも、その子を生んだ後、ラケルはすぐに亡くなりました。

ラケルは死に臨み、その子をベン・オニと呼びました。ベン・オニとは、「私の苦しみの子」を意味します。

でも、その後、ヤコブはその子をベニヤミンと名付けました。ベニヤミンとは、「右手の子」を意味します。

約2000年後、もう一人の赤ちゃんが生まれました。その子はベツレヘムに生まれました。

ある意味、その子は「ベン・オニ」でした。イエス様が十字架にかけられたとき、剣はマリアの心を刺し貫きました。(ルカ2:34ー35)

さらに、イエス様ご自身が苦しみ、悲しみや痛みや人に拒絶されることを経験なさいました。(イザヤ53:3)

でも、十字架で、イエス様はご自分のいのちを死に明け渡し、私たちの罪を負い、神様に背いた私たちのために、とりなしをしてくださいました。(イザヤ53:12)

その後、天の父なる神様はイエス様を復活させて、

天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。(エペソ1:20ー21)

苦しみの子。

天の父なる神様の右手の子。

それはイエス様です。

そして、それはクリスマスの意味です。

Joy to the world!

世界に喜びを。

The Lord is come.

主が来られた。

Let earth receive her King !

この世に王を迎え入れよう。

ーーアイザック・ウォッツ

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詩篇のデボーション

イエス様が苦しんでおられたから

「彼らは 私が若いころからひどく私を苦しめた。」 さあ イスラエルは言え。

「彼らは 私が若いころからひどく私を苦しめた。しかし 彼らは私に勝てなかった。耕す者たちは私の背に鋤をあて、長いあぜを作ったが。」

主は正しくあられ 悪しき者の綱を断ち切られた。」(詩篇129:1ー4)

この詩篇では、詩人は自分の苦しみを嘆きます。でも、最終的に主が自分を救い、自分の敵を呪うという希望を持っていました。

数百年後、イエス様も苦しんでおられました。

イエス様は、見下されることを深くご存じでした。イエス様は、苦しみを深く味わっておられました。ローマの兵隊は鞭でイエス様の背に鋤をあて、長いあぜを作りました。さらに、イエス様は十字架の恥と痛みをよくご存じでした。

しかし、神様はイエス様を復活させて、よみから救い出してくださいました。

でも、最も大切なのは、イエス様の苦しみによって、私たちが神様との平和を持っているということです。(イザヤ書53:4ー5)

そういうわけで、イエス様がお生まれになったとき、天使たちは私たちを呪いませんでした。

むしろ、天使たちは神様を賛美し、私たちに対する神様の祝福を宣言しました。

いと高き所で、栄光が神にあるように。 地の上で、平和が みこころにかなう人々にあるように。(ルカ2:14)

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創世記のデボーション

聖書は、わたしについて証ししているものです

イエス様が「聖書はわたしについて証ししているものです」と言われたとき、創世記第22章についても触れておられたのではないでしょうか。

神様はアブラハムにこう言われました。

あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。

そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。(創世記22:2)

最終的に、神様がアブラハムに「イサクを殺してはならない」と言われましたが、神様はご自身の愛する一人の子を惜しむことなく、十字架の死に渡されました。

そういうわけで、使徒ヨハネはこの言葉を書きました。

神はそのひとり子を世に遣わし、 その方によって 私たちにいのちを得させてくださいました。

それによって 神の愛が私たちに示されたのです。

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、 私たちの罪のために、 宥めのささげ物としての御子を遣わされました。

ここに愛があるのです。(第一ヨハネ4:9〜10)

また、

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)

アブラハムとイサクがその山を登ったとき、イサクは「全焼のささげ物にする羊は、どこにいますか」と訊きました。

アブラハムはこう答えました。

神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。(創世記22:2)

数百年後、バプテスマのヨハネはイエス様についてこう言いました。

見よ、世の罪を取り除く神の子羊。(ヨハネ1:29)

その山を登ったときにイサクが捧げ物のための薪を背負ったように、イエス様はゴルゴタを登った時に十字架を背負われました。

そして、イサクがある意味で復活しましたが、イエス様は実際に復活されました。(へブル11:19)

最後に、アブラハムの子孫であるイエス様によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになりました。(創世記第22:18;マタイ第1:1〜16)

時々、クリスチャンたちは「どうして旧約聖書を読むべきだろうか」と疑問に思います。

最も大切な理由は、旧約聖書では、私たちはイエス様を見るからです。

だからこそ、私たちが旧約聖書を読むとき、一緒にイエス様のことを探しましょう。

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創世記のデボーション

定めた時に

たぶん、クリスマスがもうすぐやって来るからかもしれませんが、最近、私はクリスマスのレンズで聖書を読んでいます。

主はアブラハムに言われました。

なぜサラは笑って、「私は本当に子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに」と言うのか。

主にとって不可能なことがあるだろうか。

わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子が生まれている。(創世記18:13ー14)

私はそれを読んで、マリアに対するガブリエルの言葉を思い起こしました。

聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。

見なさい。あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六か月です。

神にとって不可能なことは何もありません。(ルカ1:35ー37)

そして、ガラテヤ人たちに対するパウロの言葉を思い起こしました。

しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。

それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。(ガラテヤ4:4ー5)

神様はアブラハムに、「あなたによってすべての国民は祝福される」と約束されました。

サラがイサクを出産したことによって、神様はその約束の成就を始められました。

その時、サラは九十歳で、最初は赤ちゃんを産むのはもう無理だと思っていました。

しかし、イサクを生んだとき、サラの疑いの笑いは喜びの笑いに変わりました。

そして、時が満ちて、神様は処女であるマリアを通して、イエス様を送られました。

たぶん、マリアも少し疑いを持っていたかもしれませんが、最終的にガブリエルの言葉を信じて、イエス様を生みました。

そして、イエス様によって、私たちは神様の子供たちとして喜びます。

そういうわけで、パウロはこう書きました。

そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。

ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。(ガラテヤ4:6ー7)

だからパウロと共に感謝しましょう。

ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。(第二コリント9:15)

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ヘブル人への手紙

なぜ福音を無視してはならないのか

へブル人への手紙の主なテーマの一つは、イエス様の偉大さです。

第1〜2章では、イエス様が預言者たちや天使たちよりも優れたお方であることが示されています。第3章では、モーセよりも、そして第4章では、ヨシュアよりも優れておられることが語られています。

けれども、イエス様の偉大さを考えるとき、私たちは、非常に大切な真理を覚えておく必要があります。

それは、かつて天使たちや預言者たちが神様の言葉を語ったとき、人々がそのことばに対して責任を問われた、ということです。

もしイエス様が、天使たちや預言者たちよりも優れたお方であるなら、私たちはなおさら、イエス様のことばに従うべきなのです。

だから、この手紙の著者は、こう語っています。

こういうわけで、私たちは聞いたことを、ますますしっかりと心に留め、押し流されないようにしなければなりません。

御使いたちを通して語られたみことばに効力があり、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたのなら、こんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、私たちはどうして処罰を逃れることができるでしょう。

この救いは、初めに主によって語られ、それを聞いた人たちが確かなものとして私たちに示したものです。

そのうえ神も、しるしと不思議と様々な力あるわざにより、また、みこころにしたがって聖霊が分け与えてくださる賜物によって、救いを証ししてくださいました。(ヘブル人への手紙2:1-4)

この手紙の著者は、「語られたみことば」として、モーセを通して与えられた律法に言及しているようです(申命記33章2節、使徒の働き7章53節、ガラテヤ人への手紙3章19節)。

その律法に従わなければ、人々は裁かれました。けれども、その律法を語ったのはイエス様ではなく、天使たちでした。

ところが今や、イエス様ご自身が、ご自分の口から福音を語られました。それだけでなく、イエス様は使徒たちを通してその福音を宣べ伝えられました。

そして神様は、しるしと不思議、さまざまな力あるわざによって、そのメッセージが真実であることをあかしされました。

さらに聖霊様も、御心にしたがってクリスチャンに賜物を与え、その福音が神からのものであることをあかしされました。

天使ではなく、父なる神、御子なる神、聖霊なる神ご自身が福音をあかししておられるとするならば、私たちがその福音に対して責任を問われることは、なおさらのことです。

もし三位一体の神ご自身がこの福音をあかしされたのなら、私たちがそれを無視するならば、必ず裁きを免れることはできません。

そして、この手紙の著者は、イエス様をモーセと比較します。モーセは偉大な指導者であり、神様は彼を通してイスラエルの民をエジプトから救い出し、律法を与えられました。

それにもかかわらず、著者はこう語っています。

家よりも、家を建てる人が大いなる栄誉を持つのと同じように、イエスはモーセよりも大いなる栄光を受けるにふさわしいとされました。

家はそれぞれだれかが建てるのですが、すべてのものを造られたのは神です。モーセは、後に語られることを証しするために、神の家全体の中でしもべとして忠実でした。

しかしキリストは、御子として神の家を治めることに忠実でした。そして、私たちが神の家です。もし確信と、希望による誇りを持ち続けさえすれば、そうなのです。(3:3-6)

著者によれば、モーセは忠実なしもべでしたが、あくまでもしもべに過ぎませんでした。それでも、イスラエルの民はモーセを通して与えられた律法に従わなくてはなりませんでした。

ましてや、イエス様が神の御子であり、神の家を建てられたお方であるならば、私たちがイエス様に従うべきことは、なおさら明らかです。

ですから、私たちはイエス様が告げられた救いの福音を無視してはなりません。私たちは別の裁判所に訴えることなどできないのです。イエス様こそ、最終的な裁きを下される裁判官です。

だから、著者はこう語っているのです。

ですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちが告白する、使徒であり大祭司であるイエスのことを考えなさい。(3:1)

あなたはどうでしょうか。あなたは福音を軽く扱おうとしているのではありませんか。そのメッセージを無視しようとしてはいませんか。

そのメッセージがあなたに気に入るかどうかにかかわらず、あなたは福音によって裁かれるのです。

だから、まだ時が与えられている今、福音を信じ、受け入れてください。そうすれば、あなたはいのちを知ることになります。

しかし、福音を拒むなら、あなたは裁かれ、永遠の死に至るのです。

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ルカの福音書 ルカ23章

イエス様が答えてくださらない人

この箇所では、私たちはイエス様に対するヘロデの反応を見ることができます。

しかし、より正確に言えば、私たちはヘロデに対するイエス様の反応を見ることができるのです。

このヘロデは、バプテスマのヨハネを殺害しました。そして、彼がイエス様のことを初めて聞いた時、イエス様が実はよみがえったヨハネではないかと疑問に思いました。(マタイ14:12; ルカ9:7-9)

そのため、ヘロデはイエス様に会いたいと思いました。一方で、パリサイ人によれば、ヘロデはイエス様を捕まえたいとも考えていました。(ルカ13:31-33)

しかし、この物語では、ついにヘロデはイエス様に会うことができました。彼はイエス様に奇跡を行うよう頼んだり、さまざまな質問を投げかけたりしましたが、イエス様は何もお答えになりませんでした。

なぜでしょうか。おそらく、イエス様はヘロデが何を聞いても、イエス様を信じず、従わないことを知っていたからでしょう。

ヘロデは、かつて何度もバプテスマのヨハネの言葉を聞き、「非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けていた」にもかかわらず、悔い改めることはありませんでした。(マルコ6:20)

ヘロデはイエス様に対しても同じ態度を取りました。ヘロデにとって、イエス様は興味深い存在であったかもしれません。もしかしたら、イエス様が何か奇跡を披露してくれると期待していたのかもしれません。

けれども、ヘロデはイエス様を重んじることはなく、イエス様に従う意思も全くありませんでした。そのため、イエス様は何もお答えになりませんでした。

この物語は私たちへの警告です。もし私たちがイエス様に対して頑なな心を持っているならば、イエス様は私たちに語りかけることをおやめになるかもしれません。

イエス様は、私たちの願望を叶えるためだけの存在ではありません。私たちは、イエス様を軽んじてはなりません。

イエス様は私たちの神です。

イエス様は私たちの王です。

イエス様は私たちの主です。

あなたはどうでしょうか。あなたはイエス様をどのように考えますか。

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マタイの福音書 マタイ26章 マルコの福音書 マルコ14章 ルカの福音書 ルカ22章

最も大切な質問

イエス様の裁判はいろいろな意味で本当にひどいものでした。

その最大の理由は、祭司たちと最高法院がイエス様が無実であることを十分に理解していたことです。 それにもかかわらず、彼らはイエス様を妬み、憎んでいたため、必死にイエス様を殺す理由を探し続けました。

神様の律法によれば、人を告発するには、二人の証人の証言が一致しなければなりませんでした。 けれども、彼らは証人たちを何人も尋問しましたが、証言が一致する二人の証人を見つけることができませんでした。

ようやく彼らは証言が一致していると思われる二人の証人を見つけたかのように思いました。その証人たちによれば、イエス様は「神殿を壊し、新しい神殿を建てる」と宣言されたというのです。

しかし、実際にイエス様が意味していたのは、「あなた方がこの神殿を壊しても、私はそれをよみがえらせる」ということでした。そして、イエス様がお話しされた神殿はヘロデの神殿ではなく、ご自身の死と復活に関するものでした。(ヨハネ2:19-21)

それにもかかわらず、大祭司がその証人たちを詳しく尋問すると、彼らの証言の中に矛盾があることが明らかになり、その証言は無効となりました。

フラストレーションを感じた大祭司は、イエス様を直接尋問することにしました。けれども、イエス様が沈黙を守り続けられたため、大祭司は叫びました。

私は生ける神によっておまえに命じる。おまえは神の子キリストなのか、答えよ。(マタイ26:63)

それは最も重要な質問です。 イエス様とは誰でしょうか。 イエス様は本当に神の子でしょうか。 イエス様は本当にキリストでしょうか。

ちなみに、「キリスト」というのは名前ではなく肩書です。簡単に説明すると、「キリスト」とは、「神様が約束された王」を意味します。

だからこそ、もしイエス様がキリストであるなら、私たちは自分の人生をイエス様に捧げるべきです。さらに、いつかイエス様は私たちを裁かれるお方です。だからこそ、イエス様は彼らに警告を与えられたのです。

あなたが言ったとおりです。しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。(マタイ26:64)

イエス様はダニエル書7章を参照されました。ダニエルによれば、すべての力と権威と栄光がメシアに与えられ、メシアに立ち向かう者たちは裁きを受けるということです。

祭司たちと最高法院はそれを聞いた時、どのように反応したでしょうか。 彼らはイエス様とその言葉を拒絶しました。イエス様が彼らのメシアであり、神の子であることを信じることを拒みました。

その代わりに、彼らはイエス様を神への冒涜で告発し、死刑を宣告しました。

多くの人々は同じように反応します。彼らは福音を聞き、イエス様の主張を理解します。 それにもかかわらず、イエス様を拒絶します。

むしろ、彼らは十字架で自分のために死んでくださった方を踏みつけます。 そのため、へブル人への手紙の著者によれば、彼らはいつか裁かれるのです。(へブル 10:28-30)

しかし、イエス様を信じて受け入れる人は、神の子どもとなる特権を与えられます。(ヨハネ 1:12)

あなたはどうしますか。 イエス様を拒絶しますか。それともイエス様を受け入れますか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ14章

神様を見ること。神様を知ること。

私たちはどのようにして神様を知ることができるでしょうか。どのようにして神様がどのようなお方かを知ることができるでしょうか。

神様は目に見えない方なので、この疑問には唯一の答えしかありません。それは、神様ご自身が私たちにご自身を現わさなければならない、ということです。

初めに、神様はご自身を幻や夢、天使や預言者を通して現わされました。

そして、イエス様はこの世に来られました。しかし、イエス様は単なる人間ではありませんでした。イエス様ご自身が神であり、私たちの間に生きておられました。だからこそ、イエス様はこう言われました。

あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。(ヨハネの福音書14:7)

ピリポがそれを聞いて、「私たちに父を見せてください」と言ったとき、イエス様はこう答えられました。

ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。

わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、「私たちに父を見せてください」と言うのですか。

わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。

わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。

わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。(9-11)

イエス様の言葉を誤解しないでください。天の父とイエス様は同じお方ではありません。天の父はイエス様ではなく、イエス様は天の父ではありません。

とはいえ、パウロはこう書きました。

御子は、見えない神のかたちであり「ます」。(コロサイ人への手紙1:15)

イエス様を通して、私たちは天の父の「かたち」を見ます。(もう一度繰り返しますが、誤解しないでください。神様は霊なので、物質的なかたちを持っておられません。)

イエス様の言葉を聞けば、私たちは天の父の言葉を聞いているのです。

さまざまな状況におけるイエス様の反応を見れば、私たちは天の父の反応を知ることができます。

だからこそ、天の父を知りたいのなら、イエス様を見てください。

少し考えてみてください。私の娘を見た人々は、よく「ブルース、お嬢さんはあなたに似ていますね」と言います。

そして、彼女が成長すると、彼女の行動や考え方は、私の影響を受けます。彼女を見ることで、あなたは私について多くのことを知ることができます。それは親子の常です。

それでも、彼女は私の不完全な反映にすぎません。それに対して、イエス様は天の父の完全な反映なのです。

では、私の言いたいことは何でしょうか。

神様を知りたいのなら、イエス様を見てください。

神様の考え方を知りたいのなら、イエス様の言葉を読んでください。

さまざまな状況に対する神様の反応を知りたいのなら、イエス様の反応を見てください。

私たちは神様がどのようなお方かを想像する必要はありません。すでに知っているのです。なぜなら、神様はこの世に来られ、人間となられたからです。

だからこそ、神様との関係を求めましょう。そうすれば、必ず神様を見いだすことができます。

ヤコブはこう言いました。

神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。(ヤコブ4:8)

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ヨハネの福音書 ヨハネ8章

光と命を与える方

この世では、多くの人々が道に迷っています。つまり、彼らは良い人生や良い結婚、良い仕事、そして何にも増して喜びと平和を求めていますが、なぜかそれらを見つけられません。

アダムとエバがエデンから追い出されて以来、人々はそのように生きてきました。

そして、イエス様は来て、こう宣言されました。

わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。(ヨハネ8:12)

要するに、「良い人生を求めているでしょうか。喜びと平和に満ちている人生を求めているでしょうか。どうやってそんな人生を得ることか分からないので、あなたは暗中模索しているでしょうか。

私のところに来なさい。私はあなたに光を与えます。あなたはもう暗闇に躓きません。むしろあなたは、本当の命を見つけます。」

けれども、パリサイ人たちや律法学者のように、多くの人々はイエス様の資格を疑います。イエス様はどなたでしょうか。どうしてイエス様がそんなことを言う権利を持っているのでしょうか。

もしイエス様がただの人間なら、そんな権利を持っていないでしょう。なぜなら、人間の知識には限界があるからです。

しかし、イエス様は人間であるばかりではありません。イエス様は神です。

だから、イエス様はユダヤ人たちにこう言われました。

あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。(ヨハネ8:56)

ユダヤ人たちは、それを聞いて驚きました。そして、彼らはこう答えました。

あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。(57)

そして、イエス様はこう言われました。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。(58)

イエス様が意味したものは何ですか。イエス様はユダヤ人に出エジプト記3章を示されました。神様がご自身をモーセに現した時、モーセは神様の名前を尋ねました。神様はこう答えられました。

わたしは、「わたしはある」という者である。。。あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。「わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた」と。(出エジプト記3:14)

つまり、神様は永遠の方であることです。過去でも、今でも、未来でも、神様は変わりません。そして、神様以外に、ほかの神がおられません。

新改訳では、イエス様が何をしたか見えませんけど、原文では(また英語の翻訳では)私たちがはっきり見えるのは、イエス様が神様の名前を自分自身に当てはめたことです。イエス様は「私は永遠の神です」と言われました。

ユダヤ人たちはそれを聞いて、イエス様の言葉がよくわかりました。だから、彼らは石を取ってイエス様に投げつけようとしました。なぜなら、彼らはイエス様の主張を信じなかったから。そして、ただの人間が「私は神だ」と言うなら、それは死に値する罪でした。

あなたはどうですか。イエス様が誰だと思うでしょうか。イエス様はただの人間だったでしょうか。預言者だったでしょうか。もしかすると、素晴らしい先生だったでしょうか。

もしそうなら、あなたはイエス様の言葉をあっさりと拒絶することができます。

けれども、イエス様が本当に神様なら、あなたはイエス様の言葉を重視しなくてはなりません。なぜなら、もしあなたの人生に光を見つけたいなら、イエス様だけを通して、あなたはその光を見つけることができるからです。

さらに、イエス様を拒絶するなら、あなたは死だけを知ります。あなたの体も死ぬし、あなたは永遠に神様から離れます。その暗闇で、あなたには苦しみと悲しみだけが残ります。

イエス様はこう言われました。

もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。(ヨハネ8:24)

あなたはイエス様が神であることを信じているでしょうか。それだけではなく、あなたはイエス様に従っているでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ7章

イエス様は誰でしょうか

以前、イエス様は弟子たちに「私が誰だと思うか」と問いかけられました。(マタイ16:13)

この箇所では、ほかのユダヤ人たちがエルサレムで同じ質問に直面しました。

いろいろな意見がありました。

「イエス様は良い人だ。」

「イエス様は預言者だ。」

「違う。イエス様は群衆を惑わしている。彼は悪霊につかれている。」

「いや、メシアじゃないでしょうか。」

どうしてユダヤ人たちはそんなに混乱していたのでしょうか。

一つの理由は、彼らが「メシア」、つまり「キリスト」がどんな方であるかを誤解していたからです。

彼らはキリストが奇跡的に現れると思っていました。けれども、彼らはイエス様の家族を知っていると思い込んでいました。(ただし、その話の全てを理解していたわけではありません)。

それに、イエス様は律法学者のように特別な教育を受けていませんでした。

もう一つの理由は、イエス様が律法学者の伝統を何度も破ったことです。例えば、安息日にイエス様は人々を癒しました。

イエス様は安息日に良いことをするのは合法であると教えましたが、彼らは自分たちの伝統を手放すことができませんでした。彼らは自分たちが律法をよく知っていると思い込んでいたため、その大工の意見を受け入れることができなかったのです。

三つ目の理由は、ユダヤ人のリーダーたちが律法をよく知っていると思っていたものの、実際には多くのことを見逃していたからです。そのため、ニコデモがイエス様を擁護しようとした際、彼らはこう答えました。

あなたもガリラヤの出身なのか。調べてみなさい。ガリラヤから預言者は起こらない。(ヨハネの福音書7:52)

けれども、イザヤ書9章には、キリストがガリラヤで現れることが書かれています。

とはいえ、イエス様は最も大切な理由を伝えられます。

だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。(17)

つまり、あなたが心から神様を求めるなら、神様を見つけることができます。そして、イエス様を見るなら、イエス様がキリストであることを理解します。けれども、心から神様を求めなければ、その真理を理解することはできません。

パリサイ人たちは宗教的な熱心を持っていましたが、同時にプライドを持ち、偽善者でした。彼らは神様を求めているように見えましたが、実際には人間の喝采を求めていました。そのため、彼らはイエス様を見ても、イエス様を認めませんでした。

その一方、神様を求める人々は真理を見ることができました。なぜなら、彼らは神様の前にへりくだったからです。

あなたはどうでしょうか。あなたはまだイエス様が誰なのか疑問に思っていますか。自分のプライドを捨ててください。神様に関するあなた自身の意見を捨ててください。

お金よりも、自分の幸せよりも、すべてよりも、神様を求めてください。そうすれば、あなたの混乱がなくなり、神様はご自身をあなたに現わしてくださいます。

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聞きなさい

福音書の中で、これは最も興味深い話の一つだと思います。また、この出来事のタイミングも印象的です。

イエス様は、メシアに関する弟子たちのイメージを打ち砕いたばかりでした。

さらに、弟子たちはイエス様が死んでよみがえるという話をまったく理解できませんでした。だから、イエス様が十字架で死ぬまで、彼らはその話を脇に置き、それについて深く考えないよう努めました。

弟子たちは、「イエス様はただのたとえ話をしているのだろう。もしかすると、イエス様は間違えているのかもしれない」と考えた可能性があります。いずれにせよ、彼らは心の中でイエス様の言葉に真剣に向き合っていませんでした。

そこで、一週間ほど後、イエス様は最も親しい弟子である三人に、このことを理解させようとされました。

ところで、マタイとマルコは「それから六日たって」と記していますが、ルカは「これらの教えがあってから八日ほどして」と述べています。どちらの記述が正しいのでしょうか。ルカは誤っていたのでしょうか。

実は、「八日ほど」というギリシャ語の表現は、当時広く使われた熟語でした。その意味は「およそ一週間」ということです。

もう一つの可能性として、当時のユダヤ人たちは、一日の一部(一時間でも)を一日と数える習慣がありました。(これはイエス様の復活に関する記述でも見られる考え方です。)

そのため、ルカの言葉の意味は、メシアに関する会話が最初の日に始まり、山での出来事が最後の日に起こり、その間に六日間が経過した、ということかもしれません。

いずれにせよ、イエス様はペテロ、ヤコブ、ヨハネを高い山へ連れて行かれました。そして、イエス様が祈っておられる間、彼らは眠ってしまったようです。したがって、おそらく次の出来事をほとんど見逃してしまいました。

イエス様は輝き、エリヤとモーセと話しておられました。そして弟子たちが目を覚まし、イエス様とエリヤ、モーセの会話を聞いたとき、モーセとエリヤは、イエス様の死と復活について語っていました。(ルカ9:30ー31)

弟子たちはそれを目の当たりにし、完全に目を覚ました後、いつものようにペテロが真っ先に話し始めました。

先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。(マタイ17:4)

ところが、光り輝く雲が弟子たちを包み込み、その雲の中から声が響き渡りました。

これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。(マタイ17:5)

その声を聞くと、彼らは恐れ、ひれ伏しました。けれども、すぐに彼らは別の声を耳にしました。それは、彼らが愛するイエス様の声でした。

起きなさい。こわがることはない。(マタイ17:7)

彼らが目を上げると、イエス様は元の姿に戻っていました。彼はもう輝いておらず、モーセとエリヤの姿もすでに消えていました。

そして、彼らが山を降りた時、イエス様は彼らに警告されました。

人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見た幻をだれにも話してはならない。(マタイ17:9)

どうしてイエス様は彼らにその幻を見せられたのでしょうか。おそらく、一つの理由は、彼らがイエス様の使命を理解するためです。

けれども、イエス様はもう一つのことを教えようとされました。それは、死は終わりではないということです。

彼らはモーセとエリヤを目にしました。モーセは山で死にましたが、エリヤは死なずに天国へと引き上げられました。それでも、彼らはなお生きており、イエス様と語り合っていました。

それでも、その三人の弟子たちはまだ理解していませんでした。そこで、彼らが山を降りている時、「死人の中からよみがえる」と言われたことの意味について論じ合いました。(マルコ9:10)

ただし、私にとって最も印象に残ったのは、天の父の言葉です。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」

時には、イエス様の弟子たちのように、私たちもイエス様の言葉を完全には理解できないことがあります。そして、後になって弟子たちと同じように、その言葉の意味を悟ることができるようになるでしょう。

しかし、その意味がわかっても、わからなくても、イエス様は私たちの主です。天の父がイエス様を送られたのですから、私たちはイエス様の言葉を聞き、従わなければなりません。

あなたはどうでしょうか。イエス様の言葉を理解できなくても、イエス様を信頼し、その言葉に従うことができますか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ5章

イエス様はだれでしょうか

イエス様はだれでしょうか。イエス様に出会った人々のすべてが、その質問に答えなくてはなりませんでした。

今でも、人々はイエス様に出会うと、その質問に答えなくてはなりません。

ユダヤ人たちも、イエス様と話したとき、その疑問に直面しました。イエス様はこう言われました。

わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。(ヨハネの福音書5:17)

私たちにとっては、その言葉は別にショッキングではないかもしれませんが、ユダヤ人たちは本当に面くらいました。

なぜなら、その時代、誰も神様を「私の父」と呼ばなかったからです。

「私たちの天の父」と言ったかもしれませんが、「私の父」とは言いませんでした。なぜなら、「神は私の父」というのは、「私は神性を持っている」という意味だったからです。

どうして、ユダヤ人たちはそのように思ったのでしょうか。

少し考えてみてください。子供たちはその父と同じ姿を持ちます。父が人間なら、その子供も人間です。父がサルなら、その子供もサルです。父が猫なら、その子供も猫です。

だから、もしイエス様の父が神なら、イエス様はだれでしょうか。

もちろん、私は神様がイエス様を産んだのだと言うわけではありません。また、私は神様が結婚してその妻がイエス様を生んだと言っているわけでもありません。

イエス様は永遠から天の父と聖霊様と一緒におられました。イエス様と天の父と聖霊様は神性を持っている。それでも、神は一つしかおられません。

神様の御姿をどのように説明すればよいか、誰も知りません。しかし神様は、そのようにご自身を現してくださいました。

それでは、私たちにとっては、その真理はどういう意味があるのでしょうか。

もしイエス様が神なら、私たちはイエス様の言葉を無視することはできません。

イエス様はただの人間ではありません。私たちはイエス様の言葉に反対する権利がありません。むしろ私たちは、その言葉を真理として受け入れ、その言葉に従わなければなりません。

あなたはどうでしょうか。イエス様がだれだと思いますか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ1章

イエス様への道を指し示す

多くのクリスチャンは、家族や友達にイエス様について話すことを恐れることがあります。

一つ目の理由は、彼らが自分にはその資格がないと思っていることです。また、相手の質問に答えるために、聖書についてすべてを知っていなければならないと感じることもあります。

もちろん、その知識があれば役に立ちます。そして、私たちがクリスチャンとして成長するにつれて、イエス様に関する知識が増えるべきです。

とはいえ、私たちの責任は相手を説得することではなく、イエス様への道を指し示すことです。この箇所から、その真理を学ぶことができます。

その最初の例として、バプテスマのヨハネが挙げられます。

祭司たちやレビ人たちがヨハネのところに来た時、彼らはヨハネに資格を問いただしました。「あなたはキリストですか。あなたはエリヤですか。あなたは神様が約束された預言者ですか。」(申命記18:15)

ヨハネが「違います」と答えると、彼らはさらに尋ねました。「では、あなたは誰ですか。」

その時、ヨハネはどのように感じたでしょうか。宗教的なリーダーたちが彼を尋問している時、ヨハネは少し緊張したのでしょうか。

その以前に、ヨハネはパリサイ人やサドカイ人を厳しく責めたので、緊張しなかった可能性もあります。それでも、こうした「資格のある人々」に尋問されるのは大変なことだと思ったかもしれません。

これは私の想像にすぎませんが、その瞬間ヨハネは、砂漠から戻ってきたばかりのイエス様を見たのではないでしょうか。なぜなら、ヨハネがこう答えたからです。

私は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。

その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。(ヨハネの福音書1:26-27)

要するに、「私の資格は別に重要ではありません。私の後から来られる方は、私よりもはるかに偉大な方です。実は、彼は今ここにおられます。私はその方のしもべになる資格すらありません。」

時々、人々は私たちの資格を疑うかもしれませんが、私たちが自分自身に注意を向けさせる必要はありません。私たちが述べ伝えているのはイエス様であり、私たち自身の偉大さではありません。

だから、人々があなたの資格を疑ったとしても、彼らの心を自分に向けさせるのではなく、イエス様に向けるようにしましょう。

その翌日、ヨハネはもう一度人々にイエス様を指し示しました。そのため、ヨハネの弟子たちのうち二人がイエス様について行きました。

私たちは自分の弟子を作るのではなく、イエス様の弟子を作ることを心に留めておきましょう。そのため、私たちは彼らが私たちに頼ることを教えるのではなく、イエス様に頼ることを教えています。

ヨハネもそのようにしました。だから、彼の弟子たちがイエス様についていった時、おそらくヨハネは喜んだことでしょう。

その弟子たちはすぐにヨハネを見習いました。つまり、彼らはペテロをイエス様に紹介しました。(ペテロは、イエス様について行く弟子アンデレの兄であり、アンデレはもともとヨハネの弟子でした。)

さらに、イエス様は彼らの友人であるピリポを招かれました。そして、ピリポは彼の友人ナタナエルをイエス様に紹介しました。

けれども、ナタナエルはイエス様のことを聞いた時、ピリポの話を疑いました。

ナザレから何の良いものが出るだろう。(46)

イエス様の出身地であるナザレは、良い評判がない町でした。特に、預言者や偉大な霊的リーダーがナザレから出ることはほとんどありませんでした。

しかし、ピリポはナタナエルと議論することはしませんでした。むしろ、彼はこう答えました。

来て、そして、見なさい。(46b)

ピリポはナタナエルをイエス様のところに連れて行きましたが、ナタナエルを説得したのはイエス様でした。

もちろん、私たちはできる限り人々の質問に答える努力をすべきです。けれども、質問に答えたからといって、彼らが必ずしもクリスチャンになるわけではありません。

議論によって人々を天国に導くことはできません。人々の心を変えることができるのはイエス様だけです。

だからこそ、彼らの質問に答えた後は、ピリポのように「来て、そして、見なさい。」と言うべきです。

どうでしょうか。あなたは周りの人々をイエス様に指し示していますか。

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マタイ1章 マタイの福音書 ルカの福音書 ルカ3章

罪深い人と同じような形を取られた方

私たちがイエス様の系図を見るとき、二つの注意点があります。

一つ目は、マタイの福音書にある系図が不完全であるということです。つまり、いくつかの王たち(ヨアシュ、アマツヤ、エホヤキムなど)が省略されています。

英語の訳では「誰々は誰々の父である」と翻訳されていますが、この「父」という言葉は「先祖」という意味も含みます。

そのため、例えば「ヨラムにウジヤが生まれた」と書かれていても、実際の意味は「ヨラムはウジヤの先祖である」となります。

二つ目は、多くの学者が、マタイの福音書に記された系図がヨセフの系図であり、ルカの福音書に記された系図がマリヤの系図だと考えている点です。これは、ルカの福音書に「イエス様は人々からヨセフの子だと思われていた」と記されているためです。

そのため、言い換えると、「イエス様は人々からヨセフの子だと思われていたが、実際には彼はヘリの子孫であった」ということになります。

(「父」という言葉が「先祖」を意味するように、「子」という言葉も「子孫」を意味する場合があります。)

実際、この系図の違いについてはさまざまな学説がありますが、それが非常に複雑であるため、ここでそれ以上深掘りすることはしません。😊

さて、この系図を見たときに、私の心に強く響いたことがありました。それは、イエス様がこの世に来られたとき、天から降りてきて「私は神だ!」と宣言するのではなく、私たち罪びとと同じ姿を取られたということです。イエス様は人間となったのです。

イエス様の先祖を見てみましょう。

アダムは完全な世界に造られたのに、罪をこの世に招き入れました。

テラ(アブラハムの父)は偶像を礼拝していました。おそらく彼の先祖たちも同じように偶像を礼拝していたでしょう。

ヤコブは詐欺師でした。

ユダは、義理の娘タマルに騙され、彼女が売春婦だと思ったため、彼女と寝ました。その結果、タマルは双子を産み、そのうちの一人がイエス様の先祖となりました。(創世記38章)

ラハブは、イスラエル人から見れば外国人であり、売春婦でもありました。

ルツもまた外国人であり、モアブ人でした。通常、ユダヤ人はモアブ人を見下していました。(申命記23:3-4)

ダビデは、ほかの人の妻バテ・シェバと関係を持ち、彼女の夫を殺しました。けれども、ダビデとバテ・シェバの間にはソロモン(マタイ1:6)とナタン(ただし預言者ナタンではありません。ルカ3:31)が生まれました。

また、多くのユダの王たちは神様に背を向けました。(例えば、アハズとマナセ)。

イエス様はそのような系図から来られました。 なぜでしょうか。なぜ、別の系図に属されなかったのでしょうか。なぜ、直接天から来られなかったのでしょうか。

ところが、イエス様はそうはされませんでした。むしろ、人間となられて、「私はあなたのようになります」と示されたのです。

また、別の方法でも、イエス様は私たちのようになられました。

彼は特別にハンサムな方ではありませんでした。(イザヤ書53:2)

彼は貧しい家庭にお生まれになり、その父ヨセフが亡くなった後、イエス様は懸命に働いて家族のニーズを支えられました。

イエス様は時々疲れ、時にはお腹がすくこともありました。

彼はさまざまな試練を経験されました。拒絶され、誤解され、虐待され、裏切られ、そして深い苦しみを味わわれました。

それはなぜでしょうか。

そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。

それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。(へブル4:17)

つまり、イエス様は私たちを理解するために人間となられました。イエス様が私たちのことを深く理解されているからこそ、彼は私たちの大祭司として慈悲深いのです。それゆえ、へブル人への手紙の著者は次のように言っています。

ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(へブル4:16)

今日、あなたはどのように感じていますか。自分の罪によって落ち込んでいるでしょうか。家族を支えるために、いつも疲れ切っていますか。苦しみの中にいるでしょうか。拒絶されたと感じていますか。傷ついているでしょうか。裏切られた経験がありますか。

その感情をイエス様の前に捧げましょう。イエス様はあなたのことを深く理解されています。そして、イエス様は必ずあなたを助けてくださいます。

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エレミヤ書

天の父に近づくためにいのちをかける者

エレミヤは、エルサレムの没落について預言しましたが、その民に希望の言葉を伝えました。つまり、神様は彼らを懲らしめられますが、まったく滅ぼされないということです。(エレミヤ書30:10-11)

それでも、エレミヤは彼らの状況を正直に説明します。

あなたの傷はいやしにくく、あなたの打ち傷は痛んでいる。あなたの訴えを弁護する者もなく、はれものに薬をつけて、あなたをいやす者もいない。

あなたの咎が大きく、あなたの罪が重いため、わたしはこれらの事を、あなたにしたのだ。(エレミヤ書30:12-13,15)

しかし、神様は救い主を送られることを約束されます。

その権力者は、彼らのうちのひとり、その支配者はその中から出る。

わたしは彼を近づけ、彼はわたしに近づく。わたしに近づくためにいのちをかける者は、いったいだれなのか。――主の御告げ――

あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」

見よ。主の暴風、――憤り。――吹きつける暴風が起こり、悪者の頭上にうずを巻く。

主の燃える怒りは、御心の思うところを行なって、成し遂げるまで去ることはない。終わりの日に、あなたがたはそれを悟ろう。(21-24)

この箇所はイエス様についてです。私は21節が好きです。神様は訊かれます。「わたしに近づくためにいのちをかける者は、いったいだれなのか。」

エレミヤの時代に、誰も神様に近づくことができませんでした。一年に一回、大祭司はその権利がありましたが、エレミヤの時代には、祭司たちは偽物の神々を礼拝していました。

しかし、神のひとり子として、イエス様は天の父に近づき、私たちのためにとりなしてくださいます。イエス様は破れ口に立って

十字架の上で、私たちの罪のために神様の怒りを受けて、死なれました。だから、私たちに対する神様の怒りは静められました。

ですから、もし私たちがイエス様を信じるなら、私たちは恐れずに天の父に近づくことができます。ヘブル人への手紙の著者はこう書きました。

こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。

イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。

また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。

そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。(へブル10:19-23)

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イザヤ書

良い知らせ

この世では多くの悪いニュースを耳にします。地震が起こり、犯罪が増え、戦争も絶えません。私たちがこうしたニュースを見ると、落ち込んでしまうのは自然なことです。

しかし、イエス様がこの世に来られた時、イザヤ書のこの箇所を引用されました。

神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。

捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年。。。を告げ「知らせるために。」。(イザヤ書61:1-2)

良い知らせ。それは、誰もが必要とするものです。多くの人々の心は傷ついており、罪に捕らわれています。また、多くの人々は暗闇の中で生きており、希望を見出せないでいます。

しかし、イエス様は彼らを解放するために来られました。

イエス様は、苦しむ者を慰めるために来られました。絶望の言葉を取り去り、彼らの口に賛美を満たすために来られました。

彼らの人生の灰の代わりに、頭の飾りを与えるために来られました。

そして、彼らを義の樫の木のように植えるために来られました。だからこそ、人生の嵐が襲っても、彼らは立ち続けることができます。また、彼らは神様の栄光のために生きるのです。(イザヤ書61:2-3)

イエス様は、彼らの人生の廃墟を建て直し、荒れ跡を復興するために来られました。(4節)

イエス様は、彼らを神様の祭司と仕える者にするために来られました。(6節)

イエス様は、彼らの恥を取り去り、彼らに永遠の遺産を与えるために来られました。それは、「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない」遺産です。(第一ペテロ1:4、イザヤ書61:7)

イエス様は、私たちに救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせるために来られました。

イエス様の血によって、私たちは義と認められます。また、聖霊の働きによって、私たちは毎日少しずつ聖くなっていきます。

良い知らせでしょうか。それは、なんと素晴らしい知らせでしょう!だからこそ、その知らせを周りの人々に伝えましょう。

イザヤが言ったように、

良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる」とシオンに言う者の足は。(イザヤ書52:7)