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ルカの福音書のデボーション

御国に入りたいですか

金銭を好むパリサイ人たちは、これらすべてを聞いて、イエスをあざ笑っていた。

イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとするが、神はあなたがたの心をご存じです。人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです。

律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音が宣べ伝えられ、だれもが力ずくで、そこに入ろうとしています。

しかし、律法の一画が落ちるよりも、天地が滅びるほうが易しいのです。 (ルカの福音書16:14~17)

これまでは、この箇所の流れを追うのが少し難しいと思っていました。

けれども、たぶんイエス様はこのように言いたかったのではないでしょうか。「多くの人々は神の国に入ろうとしますが、あなたがたがしなければならないことは一つです。それは、あなたがたの王とその価値観を喜んで受け入れることです。」

パリサイ人たちは、それをしようとしませんでした。むしろ、彼らは自分の王とその価値観をあざ笑いました。その価値観が、彼ら自身が従うと主張していた神の律法や預言者の書に基づいていたにもかかわらず、彼らは嘲笑したのです。

彼らは、お金についてのイエス様の教えを嘲笑しました。

さらに、イエス様のようには結婚を重んじず、別の人と結婚するために、すぐに自分の妻を離婚してしまいました(ルカの福音書16:18)。

さらに、イエス様のようには、正義、あわれみ、神様の愛を重んじませんでした(マタイ12:7;ルカ11:42)。

むしろ、神の前では忌み嫌われるものを重んじてしまったのです。

そして彼らは、自分の王を十字架につけてしまいました。

その結果、彼らが入ろうと求めた御国は、彼らに対して閉ざされてしまいました。

あなたはどうでしょうか。

自分の王を喜んで受け入れているでしょうか。

また、その王の価値観を喜んで受け入れているでしょうか。

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ルカの福音書のデボーション

悔い改め

神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ。

ヨハネはヨルダン川周辺のすべての地域に行って、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。(ルカの福音書3:2~3)

「悔い改め」

私は、このような語を「クリスチャン語」と呼んでいます。

つまり、教会の中ではクリスチャンたちがよく使いますが、それ以外ではあまり使われない言葉だということです。

けれども、『悔い改め』とはいったい何でしょうか。バプテスマのヨハネは何を宣べ伝えていたのでしょうか。

それは、人々が自分の心の中で主の道を備えることです。

言い換えると、私が神様を王として喜んで受け入れ、その良い支配のもとに身を置くことです。

多くの場合、私たちは『悔い改め』を考えるとき、ヨハネが呼んだ「悔い改めの実」だけに目を向けてしまいます。

けれども、神様の主な関心は、ただ行動が変わることだけではありません。神様が望んでおられるのは、ご自身に対する柔らかい心です。私たちが神様を愛し、信頼することを願っておられるのです。

そのような心から、悔い改めの実は自然に結ばれます。毎日毎日、一瞬一瞬、私たちの考え方や生き方が変えられつつあるのです。

良い知らせは、王に対して反抗的な心を持ち続けるなら恐ろしい結果を招きますが、もし私たちが神様に向き直り、神様を王として受け入れるなら、神様は豊かに赦してくださるということです。(イザヤ書55:6~7)

十字架につけられた犯罪人のことを思い浮かべてみてください。(ルカの福音書23:39~43)

自分の悔い改めを証明するために、私たちが長い間泣き続ける必要はありません。

また、最終的に守れない約束をする必要もありません。

神様が求めておられるのは、私たちが神様を王として受け入れることです。そして、神様が良いお方であり、私たちの最善を知り、望み、深く愛してくださる方であると信頼することです。

それが悔い改めです。神様を見る目を変え、心を開くことです。

神様が喜ばれる人生は、そのような心から自然に流れ出てくるのです。

だからこそ、以前の記事で尋ねたように、私はもう一度問いかけます。

あなたはどのように主を見なすでしょうか。

主を愛しているのでしょうか。

主を信頼しているのでしょうか。

あなたの人生に王の良い支配を喜んで受け入れるのでしょうか。

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マタイの福音書のデボーション

私たちの王を見上げると

わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。

ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。(マタイ20:18~19)

「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。」

私はこのことばを思いめぐらしていました。イエス様は何を言われていたのでしょうか。

「私は王です。」

だからこそ、私たちはすべてにおいてイエス様の命じられたことに従い、人々にもそのように教えるべきです。

しかし、私たちはこの王をどのように見なすのでしょうか。

力をふるって人を押さえつける方でしょうか。恐ろしい方でしょうか。

興味深いことに、女性たちは墓から立ち去ったとき、喜びを抱きながらも、同時に恐れもありました。なぜ恐れていたのかは分かりませんが、イエス様が彼女たちに現れたとき、最初に言われたことばは何だったでしょうか。

「恐れることはありません。」(マタイの福音書28:10)

そして、彼女たちの恐れは消え去り、大きな喜びだけが残りました。

なぜなら、この王は恐れるべき方、すなわち私たちの敬いと従順のすべてにふさわしい方でありながら、良い王だからです。そして、この良い王は私たちを深く愛しておられます。

今朝、私はたまたま詩篇47篇も読みましたが、その詩篇は王に対する私たちのあるべき態度を美しく表現しています。それはあなたの態度でしょうか。

すべての国々の民よ、手をたたけ。
喜びの声をもって神に大声で叫べ。

まことにいと高き方【主】は恐るべき方。
全地を治める大いなる王。(詩篇47:1~2)

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マタイの福音書のデボーション

おことばを下さい

私も権威の下にある者だからです。(マタイの福音書8:9)

主よ、百人隊長はあなたの権威を認めました。

あなたの弟子たちもあなたの権威を認めましたが、その権威がどれほど及ぶのか、まだ学んでいる途中でした。(マタイの福音書8:27)

その一方で、悪霊やガダラ人たちは、あなたの権威と全く関わりたくありませんでした。(マタイの福音書8:29、34)

けれども、私はあなたが良い王であることを信じています。私の人生にあなたの支配を歓迎します。

だからこそ、おことばをください。私は従います。