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ヨハネの福音書のデボーション

「石を取りのけなさい」

イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだラザロの姉妹マルタは言った。「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」

イエスは彼女に言われた。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」

そこで、彼らは石を取りのけた。(ヨハネの福音書11:39~41)

「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」

イエス様のみことばは私の心を打ちました。

ときには、私たちは人生の重い石を取りのけるのが遅くなってしまいます。その石は、私たちの心の中にある死んだものを覆い隠しているからです。

傷、絶望、苦々しい思い、許さない心、その他の罪は、心の奥に埋もれています。

しかし、イエス様を信じなければ、私たちの人生に神の栄光を見ることは決してありません。

もちろん、従順は信仰とともに来るはずです。本当に信じるなら、私たちは良い王に従うはずです。

私たちは不従順のために、さまざまな言い訳をすることができます。

「しょうがない。私はこういう人間だから。私の状況は決して変わらないだろう。」

しかし、その道を選ぶなら、私たちの人生に神の栄光やみわざを見ることはないでしょう。

私たちは石を取りのけ、心の中の死んだものすべてを神様の前に表に出さなければなりません。

そして、一歩一歩、神様の恵みと助けによって、その死んだものを捨てていかなければなりません。

主よ、あなたがキリスト、すなわち良い王であることを信じます。だからこそ、私の心とその中にあるすべてをあなたの前に表に出します。私があなたを信頼し、従うことができるよう助けてください。

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ルカの福音書のデボーション

悔い改め

神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ。

ヨハネはヨルダン川周辺のすべての地域に行って、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。(ルカの福音書3:2~3)

「悔い改め」

私は、このような語を「クリスチャン語」と呼んでいます。

つまり、教会の中ではクリスチャンたちがよく使いますが、それ以外ではあまり使われない言葉だということです。

けれども、『悔い改め』とはいったい何でしょうか。バプテスマのヨハネは何を宣べ伝えていたのでしょうか。

それは、人々が自分の心の中で主の道を備えることです。

言い換えると、私が神様を王として喜んで受け入れ、その良い支配のもとに身を置くことです。

多くの場合、私たちは『悔い改め』を考えるとき、ヨハネが呼んだ「悔い改めの実」だけに目を向けてしまいます。

けれども、神様の主な関心は、ただ行動が変わることだけではありません。神様が望んでおられるのは、ご自身に対する柔らかい心です。私たちが神様を愛し、信頼することを願っておられるのです。

そのような心から、悔い改めの実は自然に結ばれます。毎日毎日、一瞬一瞬、私たちの考え方や生き方が変えられつつあるのです。

良い知らせは、王に対して反抗的な心を持ち続けるなら恐ろしい結果を招きますが、もし私たちが神様に向き直り、神様を王として受け入れるなら、神様は豊かに赦してくださるということです。(イザヤ書55:6~7)

十字架につけられた犯罪人のことを思い浮かべてみてください。(ルカの福音書23:39~43)

自分の悔い改めを証明するために、私たちが長い間泣き続ける必要はありません。

また、最終的に守れない約束をする必要もありません。

神様が求めておられるのは、私たちが神様を王として受け入れることです。そして、神様が良いお方であり、私たちの最善を知り、望み、深く愛してくださる方であると信頼することです。

それが悔い改めです。神様を見る目を変え、心を開くことです。

神様が喜ばれる人生は、そのような心から自然に流れ出てくるのです。

だからこそ、以前の記事で尋ねたように、私はもう一度問いかけます。

あなたはどのように主を見なすでしょうか。

主を愛しているのでしょうか。

主を信頼しているのでしょうか。

あなたの人生に王の良い支配を喜んで受け入れるのでしょうか。