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使徒の働きのデボーション

疲れた者を励ます言葉

神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに私を呼び覚まし、私の耳を呼び覚まして、 私が弟子として聞くようにされる。(イザヤ書50:4)

最近、上の言葉を暗記しようとしています。

そこで、使徒の働き27章を読んだとき、イザヤの言葉はパウロに当てはめられる、とふと思いました。

パウロが神の声を聞くために、神様はその耳を呼び覚ましてくださいました。(使徒の働き27:23ー24)

また、疲れた者をことばで励ますため、神様はパウロに弟子の舌を与えてくださいました。(使徒の働き27:25、33ー36)

私もそのような人になるように願っています。

天のお父さん、あなたの御声に気づくために私の耳を呼び覚ましてください。そして、疲れた者をことばで励ますために弟子の舌を与えてください。

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使徒の働きのデボーション

イエス・キリストに上訴します!

すると、パウロは言った。「私はカエサルの法廷に立っているのです。。。私はカエサルに上訴します。」(使徒の働き25章)

「法廷」という言葉は、聖書の別の箇所では「さばきの座」と訳されています。特に、「神のさばきの座」(ローマ14:10)と「キリストのさばきの座」(第二コリント5:10)です。

それゆえ、今日の箇所を読んだとき、私の心にはこの思いが浮かびました。

パウロがカエサルのさばきの座の前に立ったように、ある日、私たちも神のさばきの座の前に立たなければなりません。そのとき、サタンは私たちに対して、容赦ない告発を突きつけてくるでしょう。

しかし、パウロへの告発とは異なり、サタンの告発は正当なものであり、私たちは死に値する者です。なぜなら、私たちは確かに多くの罪を持っているからです。

それでも、私たちは神の子として宣言できます。「私はイエス・キリストに上訴します!」

そして、十字架で流されたイエス様の血によって、神様は私たちに対し「無罪」との判決を下してくださるのです。

これは、なんと素晴らしい真理でしょうか。

だからこそ、サタン、または自らの良心さえも容赦なく私たちを責めるとき、大胆に叫びましょう。

「私はイエス・キリストに上訴します!」

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使徒の働きのデボーション

健全な良心にしたがう(2)

そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、最善を尽くしています。(使徒の働き24:16)

23~24章では、パウロが健全な良心に従うことについて二度語っています。(23:1)

なぜ、パウロにとってそれがそんなに重要だったのでしょうか。

おそらく、三つの理由がありました。

第一の理由は、復活の希望があり、いつか必ずさばきの御座の前に立たなければならないと確信していたからです。(15節)

パウロは、コリントの信徒たちにこう記しました。

そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。

私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。(コリント人への手紙第二5:9ー10)

しかし、パウロは主への恐れだけでなく、主の愛を深く知っていました。だからこそ、彼はこれも記したのです。

というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。

キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。(コリント人への手紙第二5:14ー15)

そして、最後の理由は、健全な良心に従うことで、汚点のない証しを守ることができると知っていたからです。

パウロがフェリクスに神のさばきについて語ったとき、フェリクスは恐れました。(使徒の働き24:24ー25)

もしかすると、フェリクスが賄賂を求めた理由のひとつは、パウロの証しの力を弱めるためだったのかもしれません。つまり、もしパウロが賄賂を渡そうとしたのなら、彼は神のさばきを本当に信じていなかったということになったでしょう。

しかし、パウロは健全な良心を保ち続けたため、その証しは揺らぐことなく立ち続けました。

健全な良心を保つことは、私たちにとってどれほど重要でしょうか。

天のお父さん、私がいつも健全な良心を保てるように導いてください。あなたへの恐れのためです。あなたの愛のゆえです。そして、人々があなたへと引き寄せられるための、汚点のない証しを守るためです。

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健全な良心にしたがう

パウロは、最高法院の人々を見つめて言った。

「兄弟たち。私は今日まで、あくまでも健全な良心にしたがって、神の前に生きてきました。」(使徒の働き23:1)

今日の箇所を読んだとき、「パウロの言葉を言うことができたらいいのに」と思いました。

もちろん、そう言うときに、傲慢で独善的な態度を取ってはいけません。

実際、私たちは健全な良心に従おうとしても、時にはひどいことをしてしまうことがあります。パウロは、他の多くの人々以上に、そのことを理解していたでしょう。(第一テモテ1:13〜14)

しかし、私は決して自分の良心に反して故意に罪を犯したくありません。

むしろ、自分の罪を見いだすとき、私はパウロのように柔らかい心を持ち、すぐに悔い改めたいです。(使徒の働き23:5)

だから、これはいつも私の心の祈りです。

だれが、自分の過ちを悟ることができるでしょう。

どうか、隠れた罪から私を解き放ってください。

あなたのしもべを傲慢から守ってください。それらが私を支配しないようにしてください。そのとき私は大きな背きから解き放たれて、全き者となるでしょう。

私の口のことばと、私の心の思いとが御前に受け入れられますように。主よ、わが岩、わが贖い主よ。」(詩篇19:12〜14)

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使徒の働きのデボーション

恵みを与える人

興味深いことに、パウロは恵みによる救いの概念のために激しく戦いましたが、マルコに対してはほとんど恵みを示しませんでした。

以前の宣教旅行で、マルコは途中で一行から離れ、パウロとバルナバを失望させました。彼の理由ははっきりしていませんが、いずれにせよ、パウロは彼にセカンドチャンスを与えようとしませんでした。

この話を読んだとき、私はこう考えました。「私はどれほどパウロのように振る舞うだろうか。人々が私の基準に達せず、私をがっかりさせるとき、どれほど彼らに恵みを与えないことがあるだろうか。」

おそらく、それは数えきれないほどあるでしょう。

しかし、私は恵みを与える人になりたい。特に、キリストにある私の兄弟姉妹に対して恵みを示す者になりたい。

あなたは恵みを与える人でしょうか。

兄弟姉妹が私たちをがっかりさせるとき、心に留めておくべきことがあります。

神様は彼らの心を知っておられます。そして、彼らの弱さや失敗にも関わらず、御霊は私たちのために証されたように、彼らのためにも証し、「あなたは神の子です」と語っておられます。

神様は私たちと彼らの間に何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださいました。(使徒の働き15:8-9)

だから、彼らが私たちをがっかりさせるとしても、神様が彼らに、そして私たちにも注がれた恵みを示しましょう。

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使徒の働きのデボーション

私たちのそばに立っておられる神

その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。。。」といわれた。(使徒の働き23:11)

今朝、上の言葉は私の心を打ちました。

「主がパウロのそばに立ちました。」

私たちがどんな試練に直面していても、神様を見ることができるかどうかにかかわらず、神様は私たちのそばに立っておられます。そして、神様は私たちにささやかれます。「勇気を出しなさい。私はあなたと共にいるよ。」

今日の話を読んで、私にはさらに2つの聖書箇所が思い浮かびました。

恐れるな。わたしはあなたとともにいる。

たじろぐな。わたしがあなたの神だから。

わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。(イザヤ書41:10.しかし、どうぞ11-14節も読んでください。)

詩篇16篇にあるダビデの言葉も思い出しました。

私はほめたたえます。助言を下さる主を。 実に、夜ごとに内なる思いが私を教えます。

私はいつも、主を前にしています。主が私の右におられるので、私は揺るがされることがありません。(詩篇16:7-8)

今日、少し時間を取って、この真理に思いを巡らせましょう。「主が私のそばに立っておられます。」

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コリント人への手紙第一

無駄な恵みではない

あなたは、自分自身をどのような人物だと思いますか。

パウロの自己認識は、とても興味深いものです。彼はクリスチャンになると、名前を「サウロ」から「パウロ」に変えました。「パウロ」という名前には、「小さい」という意味があります。

彼は「ヘブル人の中のヘブル人」でした。また、かつてはパリサイ人でした。クリスチャンになる前、彼は自分の立場や経歴を誇っていました。

けれども、イエス様と出会うことで、彼は謙遜になりました。それまで神様に仕えていると思っていた彼は、実は神様を迫害していたことに気づかされました。彼は、自分が正しい人ではなく、むしろ殺人者であったことを理解したのです。

この箇所で、パウロは自分自身を「月足らずで生まれた者のような人」と呼びました。つまり、彼は霊的な意味で死産児のような存在だったのです。

過去の罪深い歩みを振り返り、パウロは自分を「使徒の中で最も小さい者」と呼びました。また、「私は使徒と呼ばれるに値しない者だ」とも言いました。

あなたも、自分自身について同じように感じているかもしれません。自分を取るに足りない存在だと見なし、「生まれなければよかった」と思うことがあるかもしれません。

パウロの言葉を読んで、思い巡らしてください

ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず。。。(コリント人への手紙第一15:10)

パウロが伝えたかったことは何でしょうか。

それは、彼の過去にもかかわらず、神様が彼を受け入れ、恵みによって彼が変わり続けているということです。神様は決してパウロを見捨てませんでした。

私たちも、この真理を忘れてはなりません。あなたの過去にも、現在の状態にもかかわらず、神様はありのままのあなたを受け入れてくださいます。あなたの罪や失敗にもかかわらず、神様はあなたを受け入れます。

そして、神様はあなたを罪の中に放置することなく、あなたを清め、ご自身の計画に従って形作り続けてくださいます。

では、私たちはどのように応答すべきでしょうか。感謝と謙遜をもって応答するべきです。

パウロはこう書きました。

私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。(10)

パウロは神様への感謝から、心を尽くして仕えたいと願いました。それでも彼は自分の業績を誇ることはありませんでした。パウロは、神様が彼を用いることを選ばれたのは、神様の恵みであると理解していました。

神様がパウロを用いる必要はありませんでした。彼は汚れた、壊れた器でした。それでも、神様はご自身の栄光のために彼を用いられました。

あなたはどうでしょうか。自分自身をどのように見ていますか。

パウロのように、「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず」と言えるでしょうか。

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コリント人への手紙第一

人々をイエス様の立場まで引き上げる?

クリスチャンがリーダーに感心し、模範として見上げるのは自然なことです。なぜなら、彼らは長年イエス様に従い、豊かな知恵と知識を持っているはずだからです。さらに、私たちは彼らと直接会い、話すこともできます。

もちろん、人を模範として見上げること自体は悪いことではありません。

ところが、もし私たちが彼らをイエス様の立場にまで引き上げるなら、それは危険です。なぜなら、私たちはイエス様ではなく、そのリーダーに従い始めてしまうからです。そして、そのリーダーがイエス様よりも私たちの模範となってしまいます。

こうなると、教会の分裂が生じやすくなります。コリントのクリスチャンたちはまさにこの問題を抱えていました。

ある人々は「私はパウロにつく」と言い、ほかの人々は「私はアポロにつく」と言い、さらに別の人々は「私はケファ(つまり、ペテロ)につく」と言いました。

そこで、パウロは皮肉を込めて語ったのです。

キリストが分割されたのですか。

パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によってバプテスマを受けたのですか。(コリント人への手紙1:13)

要するに、「いったい誰に従っているのか。」

第3章で、パウロは次のように語りました。

アポロとは何なのでしょう。パウロとは何なのでしょう。あなたがたが信じるために用いられた奉仕者であって、主がそれぞれに与えられた通りのことをしたのです。

私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。

ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐものでもなく、成長させてくださる神です。(3:5-7)

簡単に言えば、「人を神様の立場にまで引き上げるのはやめなさい。その人々はただ神様のしもべなのです。主人よりもしもべを大切にする人はいません。

だからこそ、教会のリーダーたちがしもべにすぎないのなら、どうして彼らを神様の立場にまで引き上げるのでしょうか。」ということです。

それでも、多くのクリスチャンはそうしてしまいます。そのため、多くの教会にはさまざまな分裂が生じています。

さらに、人を神様の立場に上げることには、もう一つの問題があります。それは、彼らがただの人間であるがゆえに、最終的には私たちを失望させてしまうということです。

もし、私たちの信仰が神様ではなく人に基づいているなら、その人が失敗したり、私たちを落胆させたりすると、私たちの信仰そのものが揺らいでしまうかもしれません。

だから、人がどれほど敬虔であろうとも、私たちのために死んで復活されたイエス様の立場に引き上げることはしてはなりません。

牧師を比較しないでください。どの牧師がより偉大かを議論することも避けましょう。

神様は彼らそれぞれに働きを与えておられます。私たちには彼らを裁く権利はなく、また他の牧師と比較する権利もありません。その判断は彼らの主であるイエス様に委ねましょう。

そして、自分の信仰を他の人の信仰に基づけるべきではありません。むしろ、自分の信仰と希望は神様にこそ基づくべきです。

もし私たちの信仰を人に基づけてしまうなら、最終的に失望することになります。しかし、イエス様に信頼するなら、決して失望させられることはありません。(ローマ書10:11)

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使徒の働き

続いていく物語

今日、私たちは「使徒の働き」の最後の話を読みます。それだけでなく、これは聖書の最後の歴史書でもあります。残っているのは、使徒たちからの手紙と黙示録です。

この書には少し不思議な終わり方があります。実は、この書には明確なエンディングがありません。

今日の箇所では、パウロはついにローマに到着し、そこにいるユダヤ人たちに福音を述べ伝え始めました。いつものように、福音を信じる人もいれば、信じない人もいました。

そして、あるユダヤ人たちがパウロのメッセージを拒絶すると、パウロは異邦人のもとへ行き、彼らに福音を述べ伝え始めました。

ルカは、この話をまとめると、こう言いました。

パウロは、まる二年間、自費で借りた家に住み、訪ねてくる人たちをみな迎えて、少しもはばかることなく、また妨げられることもなく、神の国を述べ伝え、

主イエス・キリストのことを教えた。(使徒の働き28:30-31)

あなたは、パウロがカエサルの前に立ったとき、何を言ったのか知りたいと思わないでしょうか。また、パウロの最後の日について聞きたいと思わないでしょうか。

私は聞きたいです。

けれども、ルカはそれらのことについて何も語りません。

むしろ、最後の場面では、パウロは人々に福音を述べ伝えています。

おしまい。

なぜ、ルカはこの書をそのように終えたのでしょうか。私には分かりません。

もしかすると、ルカはこう言いたかったのかもしれません。

「この話はまだ終わっていません。今なお、福音はこの世に広がり続けているのです。」

ある人々は、パウロの時代のユダヤ人たちのように、自らの目を閉じ、耳を塞ぎ、福音を拒絶します。

しかし、迫害があっても、外からの教会への攻撃があっても、内側からの教会への攻撃があっても、神様は教会を守り、福音は今なおこの世に広がり続けています。

そして、今、私たちはその物語の一部となっています。私たちは福音を聞き、信じるようになりました。

それだけでなく、パウロのように、私たちも自らの教会から遣わされ、聖霊様に満たされて、すべての国民に福音を述べ伝えるように呼ばれています。

あなたはどうでしょうか。

あなたは聖霊様に満たされているでしょうか。

聖霊様に満たされなければ、私たちは神様が命じたように福音を述べ伝える力を持つことはできません。

日本語では、この書は「使徒の働き」と呼ばれています。

けれども、この書の最初から最後まで、実際には聖霊様の働きについて描かれています。聖霊様はご自身の民を通して働いておられました。

だから、もう一度イエス様の言葉を読みましょう。

しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。

そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全地、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。(使徒の働き1:8)

私たちは聖霊様に満たされ、この世へ出て、2000年前に始まった物語を受け継ぎましょう。

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使徒の働き

御霊に満たされるなら

私が子供のころ、あるアクションドラマには「一人の人でも、この世を変えられる」というテーマがありました。

この箇所では、その真理を見ることができます。けれども、そのモットーを少し変えたほうがいいかもしれません。それは、「御霊に満たされれば、一人の人でもこの世を変えることができる」ということです。

パウロたちはマルタという島に到着し、寒さをしのぐために火を焚きました。けれども、パウロが枯れ枝を集めたとき、まむしが彼の手に噛みつきました。しかも、そのまむしはパウロの手にぶら下がっていました。

島の人々はそれを見て、こう言いました。

この人はきっと人殺しだ。海からは救われたが、正義の女神はこの人を生かしておかないのだ。(使徒の働き28:4)

しかし、パウロがそれでも生きていたため、彼らは「この人は神だ」と思い始めました。

もちろん、パウロは彼らの誤った考えを正し、真の神について教え始めました。

その後、パウロは島の長官プブリウスの家を訪問し、プブリウスの病気の父のために祈りました。その父が癒されたので、多くの人々がパウロのもとへ訪れました。そして、パウロは彼らの病気を癒しました。

その結果は?

マルタはキリスト教を信じる国となり、今なお、キリスト教はマルタの主要な宗教です。

私のポイントは?

聖霊が私たちのうちに働くなら、私たちはこの世を変えることができます。

私たちはまむしを手から振り落とすことはないかもしれませんし、人を癒すことはできないかもしれません。けれども、聖霊が私たちのうちで働くなら、周囲の人々はそれに気づき、聖霊の働きによって変えられます。

だから、毎日、御霊に満たされましょう。(エペソ人5章18節)

そうすれば、周囲の人々は私たちを通して神を知るようになります。

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使徒の働き

私たちのそばに立ってくださる神

時々、聖書を読むと、私たちは使徒たちやほかの聖書の登場人物をスーパーヒーローのように見なします。例えば、彼らは勇気を持ち、恐れることなく死に直面します。

もちろん、そのような話もあります。シャデラク、メシャク、そしてアベデ・ネゴは、まさにそのような勇気を持っていたようです。(ダニエル書3章)

とはいえ、神様を信じた人々が常にそんな勇気を持っていたのかどうかは、私にはわかりません。結局、彼らもただの人間だからです。

そのため、今日の箇所を読むと、パウロの心の中に何があったのか、私は考えずにはいられません。

最高法院の人々の論争が激しくなり、千人隊長はパウロが彼らに引き裂かれてしまうのではないかと恐れました。そこで、兵士たちはパウロを最高法院の人々の中から救い出し、兵営へと連れて行きました。

その夜、パウロは眠りにつくとき、何を考えていたでしょうか。彼は恐れていたでしょうか。彼は、神様からの使命を全うできるのか疑っていたでしょうか。

パウロが何を考えていたか、私にはわかりません。しかし、イエス様はパウロを励まされました。

その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」と言われた。
(使徒の働き23:11)

二つのことが、私の心を打ちました。

一つ目は、イエス様がパウロのそばに立たれたことです。

私たちが最も暗い時、試練の中にいる時、恐れや疑いにさいなまれる時、イエス様はいつも私たちのそばに立ってくださいます。

二つ目は、イエス様がパウロに「勇気を出しなさい。」と言われたことです。

もしパウロがすでに勇気を持っていたなら、なぜイエス様は 「勇気を出しなさい」と言われたのでしょうか。

もしかすると、パウロの境遇のために、彼の心は少し揺れていたのかもしれませんが、イエス様は彼を安心させ、「勇気を出しなさい」と励まされました。

時々、私たちの信仰も揺らぐことがあります。神様の道を歩んでいるとき、本当に正しい道を進んでいるのかどうかを疑うことがあります。

けれども、イエス様はパウロに言われたように、私たちにも語られます。「勇気を出しなさい。」

では、どうすれば私たちは勇気を持つことができるのでしょうか。それは、神様が私たちの人生においてご自身の計画を成し遂げられるからです。そして、サタンやこの世のどんな力も神様の計画を妨げることはできません。

イエス様はパウロにこう言われました。

あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。(11)

要するに、「あなたの敵について心配するな。あなたは私の目的を果たす。だから、しっかりして、私に信頼しなさい。」

あなたはどうですか。あなたの境遇のため、信仰をだんだん失いかけているでしょうか。相手があなたに反対しているので、恐れているでしょうか。

勇気を出しましょう。イエス様があなたのそばに立ってくださっていることを覚えておきましょう。そして、イエス様に信頼し続け、従い続けましょう。イエス様がご自身の計画を成し遂げられることを確信しましょう。

そして、パウロの言葉を心に刻みましょう。

主は近いのです。何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ人への手紙4:5-7)

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使徒の働き

遠く離れない神

私の一番好きな歌は、このように始まります。

As little children, we would dream of Christmas morn,
私たちが幼い頃、クリスマスの朝を夢見ていました。
Of all the gifts and toys we knew we’d find.
つまり、きっと見つけることのできるプレゼントやおもちゃのことを思い描いていました。
But we never realized a baby born one blessed night,
しかし、私たちは気づいていませんでした。ある祝福された夜に生まれた赤ちゃんが、
Gave us the greatest gift of our lives.
私たちの人生にとって最も素晴らしい贈り物であることを。

その夜、目に見えない神が、目に見える存在となりました。また、知られていない神が現れ、私たちに近づかれました。

パウロは、その真理をアテネの人々に伝えようとしました。彼らは「知られていない神」のために祭壇を設けていました。

そこで、パウロは彼らにこう言いました。「その神は、今や知られるようになりました。神ご自身が私たちにご自身を現してくださいました。その神はすべての神々の中の一つではなく、唯一の神です。

そして、その神は、この世界とその中にあるすべてのものを創造されました。

神は天地の主であり、命を与えるお方です。

また、神はご自身の計画に従って、すべてを成し遂げられました。その目的は何でしょうか。

それは、神を求めさせるためです。もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう。(使徒の働き17:27a)

そして、神様を求める人々にとって、良い知らせがあります。

確かに、神は私たちに一人ひとりから遠く離れてはおられません。(27b)

イエス様のもう一つの名前は「インマヌエル」です。

クリスマスの良い知らせとは、神様が私たちに近づいてくださり、神様を知ることができるようになったことです。

イエス様を通して、私たちは神様と親しい関係を持つことができます。

神様は私たちに近づいてくださいました。だからこそ、私たちも毎日神様に近づいていきましょう。

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使徒の働き

すべての人に、すべてのものとなる

この箇所では、私たちは少し不思議な出来事を目にします。パウロは各地を巡り、クリスチャンたちに異邦人に関する教会の決定を伝えました。つまり、異邦人は割礼を受ける必要がないということです。

それにもかかわらず、パウロはテモテに割礼を受けさせました。なぜでしょうか。

おそらく、テモテが純血のギリシャ人であれば、パウロは彼に割礼を受けさせなかったでしょう。

実際、テトスという人物は純血のギリシャ人であり、パウロは彼に割礼を受けさせませんでした(ガラテヤ2:3)。さらに、テトスの働きの対象は主に異邦人でした。

けれども、テモテの場合、彼の母がユダヤ人であり、彼自身もユダヤ人たちに福音を伝えたいと願っていました。そして、もしテモテが割礼を受けていなかったならば、ユダヤ人たちは彼の言葉に決して耳を傾けることはなかったでしょう。

そのため、テモテがユダヤ人に仕えたいと願うのであれば、割礼を受ける必要がありました。

パウロはその真理を次のように説明しました。

ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を獲得するためです。

律法の下にある人たちにはーー私自身は律法の下にはいませんがーー律法の下にあるもののようになりました。律法の下にある人たちを獲得するためです。。。

すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。(第一コリント9:20,22)

では、パウロの模範から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

できる限り、あなたが仕える人々に共感するべきです。そうしなければ、彼らはあなたの言葉に耳を傾けてくれないでしょう。

日本の宣教師として、私は日本人の言語や文化、考え方を学ぶべきです。

とはいえ、あなたが自分の国に住んでいる場合でも、周りの人々の考え方や生活、楽しんでいることを知るべきです。そして、できる限り相手のことを理解し、共感するよう努めるべきです。

例えば、あなたは社交的な人かもしれませんが、相手は内気な人かもしれません。

その場合、最初から大きな教会に彼らを紹介するのではなく、一対一で時間を過ごす方がよいかもしれません。また、もう一人か二人のクリスチャンの友人を紹介するのもよいでしょう。

もしかしたら、あなたはスポーツがあまり好きではないかもしれません。それでも、相手から誘われたなら、一緒に行く方がよいでしょう。

簡単に言うと、できる限り相手のことを理解し、共感しましょう。テモテもパウロもそうしました。

あなたはどうでしょうか。神様はあなたの人生にどのような人を置かれたでしょうか。彼らが救われるために、どのように彼らをもっと知り、共感できるでしょうか。

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使徒の働き

もう一つのチャンスを与える?

この箇所では、私たちはパウロとバルナバが別れる場面を目にします。

その理由は、マルコという若い男性です。マルコはバルナバのいとこであり、パウロとバルナバが最初の宣教旅行に出発する際、彼も同行しました。けれども、なぜか途中で帰ってしまいました。

私たちはその理由を知りません。もしかしたら、彼はホームシックだったのかもしれません。あるいは、福音の敵と対峙したときに恐れを感じたのかもしれません。

いずれにせよ、どうやらパウロはマルコの決断を受け入れられなかったようです。

そのため、パウロとバルナバが再び宣教旅行に行こうとしたとき、バルナバがマルコを同行させようと提案すると、パウロは強く反対しました。

バルナバはそのことで怒り、マルコとともにキプロスへ渡り、宣教の働きを続けました。一方、パウロはシラスという人物とともに別の地へ赴きました。

私はパウロの気持ちがよく分かります。信頼できない人と働くのは、とても難しいことです。とはいえ、この場面では、パウロは自分が説いていた教えを忘れてしまいました。それは「恵み」です。

その後、パウロはそのことを理解するようになりました。マルコはもう一度チャンスを与えられ、バルナバとともに忠実に仕えました。その後、彼はペテロとともに忠実に仕えました。

そして最終的には、彼はパウロとともに忠実に仕えました。パウロはマルコについて、テモテにこう言いました。

マルコを伴って、一緒に来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。(第二テモテ4:11)

実は、パウロとマルコは互いに恵みを与え合わなければなりませんでした。

パウロはマルコの過去の失敗を許さなければなりませんでした。けれども、マルコもまた、パウロの以前の態度を許さなければなりませんでした。互いに許し合ったことで、二人は祝福されました。

あなたはどうでしょうか。あなたをがっかりさせた人がいるでしょうか。あなたを傷つけた人がいるでしょうか。

神様は何度も私たちにチャンスを与えてくださるので、私たちも周りの人々にそのようなチャンスを与えるべきです。

もちろん、すぐに相手を完全に信頼しなければならないわけではありません。それでも、信頼を得る機会を与えるべきです。

そして、彼らが私たちの信頼に値することを示せば示すほど、もう一度彼らを信頼しましょう。

天のお父様は、もう一度チャンスを与える方です。神様の子どもとして、私たちもそうすべきです。