カテゴリー
詩篇のデボーション

イエス樣を「主」と呼ぶ喜び

私は【主】に申し上げます。
「あなたこそ私の主。
私の幸いはあなたのほかにはありません。」(詩篇16:2)

今朝、ダビデの言葉を思いめぐらしました。そして、この考えが心に浮かびました。

「イエス様を『主』と呼ぶことには、喜びがあります。」

けれども、イエス様が良い方であり、私たちを深く愛してくださることを信じないなら、その喜びを知ることはできません。

その確信を持たないなら、イエス様を『主』と呼ぶことは、むしろ恐ろしいことになります。

ダビデは、神様を『主』と呼ぶ喜びを確かに味わいました。この詩篇を読むと、その喜びがはっきりと示されています。

私もその喜びを味わったことがあります。

けれども、私は毎日その喜びを満喫したいと願っています。

あなたはどうでしょうか。

イエス様を『主』と呼ぶ喜びをご存じですか。

カテゴリー
詩篇のデボーション

私たちが悲しむとき

私たちの人生は、いつも楽というわけではありません。ダビデはそれをよく知っていたので、哀歌を多く書きました。

でも、私たちがこの壊れた世界で悲しむとき、このことを心に留めておきましょう。

1.神様は私たちの神であり、私たちの王です。(詩篇5:2)。ですから、私たちは神様を敬い、神様に従うべきです。

多くのクリスチャンは、神様をお父さんとして、また友だちとして考えたいと思います。もちろん、神様は私たちのお父さんであり、友だちです。

でも、文句を言うとき、神様が私たちの神であり王であることを忘れてはなりません。神様は、私たちの敬いと従順にふさわしい方です。

2.神様は良い方です。

時々、私たちは周りの悪を見ると、神様のご性質を疑い始めます。神様が本当に良い方であるかどうか、疑い始めるのです。

でも、私たちはこの真理を心に留めておかなくてはなりません。神様が悪に取り組むのが遅く感じられるかもしれませんが、最終的に正義をもたらしてくださるのです。(第二ペテロ3:8〜10)

その日、すべての人々はダビデの言葉が正しいと知るようになります。

あなたは悪を喜ぶ神ではなく、わざわいは、あなたとともに住まないからです。(詩篇5:4)

だから、どんな悪を見ても、神様の良いご性質を疑わないようにしましょう。

3.私たちも、ただ恵みによって神様に近づくことができます。

私たちは周囲の悪人を見て怒るかもしれませんが、謙遜な態度を持って、神様の恵みがなければ、私たちも裁かれていたことを覚えておきましょう。

4.私たちが試練に直面するときこそ、神様の導きと助けが必要です。

だから、ダビデと一緒に祈りましょう。

主よ。私を待ち伏せている者がおりますから、(または、私には大変な問題があるので)あなたの義によって私を導いてください。私の前に、あなたの道をまっすぐにしてください。(8節)

最後に、主にあって喜び、主のことを誇りましょう。(11節)

私たちにトラブルがあるとき、文句を言うのは簡単なことです。そうせずに、神様に身を避けて、主を喜びましょう。

そうすれば、あなたの視点は完全に変わります。そして、神様の偉大さと比べると、あなたの問題は小さく見えるでしょう。

カテゴリー
コロサイ人への手紙のデボーション

自分の心を守る

たゆみなく祈りなさい。感謝をもって祈りつつ、目を覚ましていなさい。(コロサイ人への手紙4:2)

前回の記事で私は言いましたが、最近のニュースやSNSを見るとき、私の心が騒ぐのは簡単です。

でも今日、神様は、私が自分の心に注意を払うように思い起こさせてくださいました。 私は常に自分の思いを吟味し、祈って、それを神様に委ねる必要があります。

それだけではなく、私が自分の心を感謝へと導き、主にあって喜ぶことを選ぶようにと、神様は思い起こしてくださいました。

今日、たまたま詩篇17篇も読み、ダビデのことばを通して、神様の語りかけが私にいっそう深く響きました。

あなたは私の心を調べ、夜、私を問いただされました。私を炉で試されましたが、何も見つかりません。私は 、口の過ちを犯さないように心がけました。。。

私は、義のうちに御顔を仰ぎ見、目覚めるとき、御姿に満ち足りるでしょう。(詩篇17:3、15)

カテゴリー
コロサイ人への手紙のデボーション

ただの我慢?神の喜び?

神の栄光の支配により、あらゆる力をもって強くされ、どんなことにも忍耐し、寛容でいられますように。

また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格をあなたがたに与えてくださった御父に、喜びをもって感謝をささげることができますように。 (コロサイ人への手紙1:11~12)

日本では、「我慢」ということばが、まるで合言葉のように使われています。

苦しいとき、「我慢しなくちゃ」と言われることがよくあります。

ときには、私たち自身が自分に向かって「我慢しなくちゃ」と言い聞かせることもあります。

でも、私が気づいたのは、パウロがコロサイのクリスチャンたちに、ただ我慢することだけを求めていたわけではないということです。

パウロの願いは、彼らが神の喜びに満たされることでした。

困難のとき、私たちに堅く立つ力を与えるのは、「我慢」ではなく、神の喜びです。

その喜びがなければ、我慢はやがて耐えられない重荷になってしまいます。

私は、ただ我慢するのではなく、神様がしてくださったことを喜びたいのです。

御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。(13~14節)

カテゴリー
ピリピ人への手紙のデボーション

恐れおののいて

こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。(ピリピ人への手紙2:12)

「恐れおののいて。。。」

今日、その言葉を嚙み締めていました。

「恐れおののいて」というのは、どういう意味でしょうか。

自分の手紙の中で、パウロはその表現を三度使いました。その表現を使うたびに、パウロはイエス様への従順について話していました。

第二コリント7:15では、コリント人たちはテトスを恐れおののきながら迎えました。なぜなら、テトスはコリント人たちが従順したイエス様を代表していたからです。

エペソ6:5では、奴隷たちはイエス様に恐れおののいて従っていたように、自分の主人にも従うべきでした。

そして、今日の箇所では、ピリピ人たちがいつも従順であったように、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めるべきでした。

ある意味、十字架でイエス様は私たちの救いを完全に達成したけど、私たちがイエス様に従い仕えることで、私たちの救いの益をより完全に経験します。そして、救いの最大の益は、私たちを深く愛してくださる神様との関係の回復です。

だから、救いを達することの大部分は、その回復された関係の中で、毎日毎日、一瞬一瞬を歩むことを学ぶことなのです。

でも、どうして恐れおののいてそうするべきでしょうか。

なぜなら、イエス様はすべての名にまさる名を与えられ、すべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白しますから。

もしかしたら、パウロはその言葉を書いたとき、引用したイザヤ書45:23だけではなく、詩篇2編をも考えていたかもしれません。

詩篇2編は、メシアに関する詩篇です。その詩篇では、神様はイエス様を全世界の王として立てます。そして、イエス様に反抗する人たちのすべては滅ぼされます。そのような人々はイエス様の怒りを恐れるべきです。

でも、主に身を避ける人は喜びを知ります。(詩篇2:12)

だから詩人はこう書きました。

恐れつつ、主に仕えよ。おののきつつ喜べ。。。(詩篇2:11、脚注にある別訳)

上記の言葉はパウロの言葉に似ていますね。もしかしたら、「恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい」と言ったとき、詩人の言葉を考えていたかもしれません。

私たちはイエスと対等ではありません。

イエス様は王の王と主の主です。イエス様は私たちの従順にふさわしい方です。そして、イエス様はいつかすべての反逆者を裁きます。

そういうわけで、私たちはイエス様を軽んじてはいけません。

でも、イエス様を私たちの主と認めるなら、私たちが神様からの罰を恐れる必要はありません。裁きは私たちのためではなく、神様の敵のためですから。

むしろ、畏敬の念を抱き、さらに喜びの歌を歌って、イエス様に仕えます。(詩篇2:11;ピリピ2:13;詩篇100:2)

私たちはおののきながら、神様が私たちに与えてくださった恵を喜びます。神様がみこころのままに、私たちのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださることを喜びます。(ピリピ2:13)

もう一人の詩人は「恐れおののいて自分の救いを達成する」というコンセプトをまとめたと思います。

知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊。感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に入れ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。主はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。(詩篇100:3-5)

だから今年、私たちの主とその救いを軽んじないようにしましょう。

むしろ、恐れおののいて、また、喜びをもって、自分の救いを達成するよう努めましょう。

カテゴリー
マタイの福音書のデボーション

賜物を受ける心、大変さを恐れる心

イエスは答えられた。「あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめの時から「男と女に彼らを創造され」ました。

そして、「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである」と言われました。

ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。

そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません」。。。

弟子たちはイエスに言った。「もし夫と妻の関係がそのようなものなら、結婚しないほうがましです。」(マタイの福音書19:4ー6,10)

我々クリスチャンたちの考え方は、ときどき驚くべきものです。

神様は、私たちに良い賜物を与えたいと願っておられます。でも、私たちは「しなければならない」ということに拘ってしまいます。

神様は、結婚を私たちに賜物と祝福として与えてくださいます。けれども、弟子たちはその賜物を喜ばず、「えっ?妻とずっといなければならないのか」と考えてしまいました。

そのあと、イエス様は青年に、ご自分の弟子になる機会を与えてくださいました。真のいのちを知る機会を与えてくださいました。

しかし、その青年は、「えっ?私のものをすべて貧しい者に与えなくてはならないのか」と思っただけでした。(マタイの福音書19:21ー22)

どうして私たちは、すぐにそのようなことを考えてしまうのでしょうか。

神様は、私たちにこう語っておられます。「私があなたにどれだけ喜びを与えたいのか、知らないの?その賜物がどれほど良いものか、分からないの?」

天のお父さん、あなたは良い神です。私の堅くて愚かな心を赦してください。

「しなければならない」という考え方を捨てるように、私を助けてください。あなたが私に与えてくださる良い賜物を、喜んで抱く心を持ちたいです。

カテゴリー
マタイの福音書のデボーション

イエス様についていくという喜び

イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った。

イエスはそこから進んで行き、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイと一緒に舟の中で網を繕っているのを見ると、二人をお呼びになった。

彼らはすぐに舟と父親を残してイエスに従った。(マタイの福音書4:19ー22)

イエス様が「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」と言われたとき、ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネはどう感じたでしょうか。

自分はふさわしくないと感じたでしょうか。自分には資格がないと感じたでしょうか。少し不安を感じたでしょうか。

そう感じたかもしれません。でも、彼らはきっと深く感動し、圧倒的な喜びに満たされたことでしょう。

「俺なの?イエス様は俺を選んでくださったの?」

そして、深く感動し、圧倒的な喜びに満たされて、彼らはすぐに網と家業を捨てて、イエス様に従いました。

彼らは「イエス様についていかなくてはならないの?でも、そうすれば、俺はいろんなものを捨てなくてはならない」とは考えていなかったでしょう。

たぶん、彼らが考えていたのは、「俺はイエス様についていってもいいの?イエス様の仕事に参加してもいいの?すごい!やった!」と思っていたことでしょう。

でも、イエス様についていき、イエス様の仕事に参加することを考えるとき、私たちの多くは不安を感じます。「私はふさわしくない。私には資格がない。」

また、「これもしなくてはならない。あれもしなくてはならない」と考えて、重荷を感じます。

私がそう感じるときもあります。

でも、イエス様は私たちを深く愛してくださいます。

イエス様は私たちの失敗、弱さ、すべてをご存じで、それでも私たちを見て、こう誘ってくださいます。「私について来なさい。私の仕事に参加しなさい。」

それが、イエス様についていくという喜びです。イエス様は、私たちに素晴らしい特権を与えてくださいます。

イエス様についていき、その仕事に参加することは、「しなくてはならない」という重荷ではありません。

それは、「やってもいいの?すごい!」という大きな喜びです。

あなたはどうですか。その喜びを知っているでしょうか。

カテゴリー
使徒の働きのデボーション

喜びに特徴つけられる

あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前で、私を喜びで満たしてくださいます。(使徒の働き2:28)

ペテロが引用したダビデの言葉は私の心を打ちました。

私たちはダビデの確信を持ち、「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前で、必ず私を喜びで満たしてくださいます」と言えるでしょうか。

その言葉を本当に信じれば、私たちにとってクリスチャン生活は喜びになります。

み言葉や祈りやクリスチャンの交わりは単なる義務ではなく、私たちを喜びで満たすものになります。

そして、私たちの周りの人々は必ず気づくでしょう。(46-47節)

天のお父さん、イエス様を通して、あなたは私にいのちの道を知らせてくださいました。あなたの御前で、あなたは必ず私を喜びで満たしてくださいます。

周りの人々が私の喜びに気づいてあなたに引き寄せられるほど、私の人生が喜びに特徴つけられますように。

カテゴリー
ルカの福音書のデボーション

主よ、私の目が見えるようにしてください

弟子たちには、(イエスが言われたこと)が何一つ分からなかった。彼らにはこのことばが隠されていて、話されたことが理解できなかった。(ルカの福音書18:34)

(目の見えない人)が近くに来ると、イエスはお尋ねになった。「わたしに何をしてほしいのですか。」

するとその人は答えた。「主よ、目が見えるようにしてください。」(40ー41節)

イエス様、どれだけあなたは私に大切なこと、私が聞かなくてはならないことを伝えたいと思っておられるでしょうか。でも、弟子たちと同じように、私にはその言葉が隠されていて、理解できないのでしょうか。

私は霊的に盲目になりたくありません。どうか、私の目が見えるようにしてください。あなたが言わんとしていることを理解できるように、私の心の目を開いてください。

あなたが私に言わんとしていることを理解し、受け入れることを妨げるものを、私の心から取り除いてください。

パリサイ人のプライドを、私の心から取り除いてください。

すべてをあなたに開け渡そうとしない指導者の態度を、私の心から取り除いてください。

主よ、あなたにすべてを開け渡すことには、喜びがあります。あなたに従うことには、喜びがあります。

目が見えない人は、その喜びを知りました。

私も、その喜びを知るように。

カテゴリー
ローマ人への手紙のデボーション

心を歌わせる言葉

この箇所を読むとき、私には高校生の頃のある思い出がいつも思い浮かびます。

ある日、バス停から高校まで歩いていたとき、私はパウロのことばを思い巡らしていました。

その日、私の心は歌っていました。

そして今日も、私の心は歌っていました。たぶん高校生のときよりも、もっと深く歌っていたかもしれません。

なぜなら、私は罪に定められることは決してないからです。私は赦されました。私はもう、恐れる必要はありません。

私は神の子どもです。私のうちにおられる御霊は、「アバ、父」と叫んでおられます。

私には希望があります。

私の祈りがめちゃくちゃでも、御霊がとりなしてくださっています。

天の父が御霊の祈りを聞いてくださるので、すべてのことがともに働いて、私の益となります。

神様は、私に反対するのではなく、むしろ、私の味方です。

神様は、私をあらかじめ知っておられました。私は、イエス様のかたちと同じ姿にあらかじめ定められていました。

私は、召されました。

私は、義と認められました。

さらに、神様は私に栄光を与えてくださいました。

私は、責められることなく、義と認められました。私は、裁かれることなく、擁護されています。

そして、神の愛から私を引き離せるものは、何一つありません。

あなたの心は、すでに歌い始めているでしょうか。

パウロのことばを思い巡らしましょう。

そのことばに心を向けましょう。

あなたの心は、歌っているでしょうか。

カテゴリー
イザヤ書のデボーション

聖なる神、恵み深い神

これは、聖書の中で私が最も好きな箇所のひとつです。この箇所を読むたびに、私はいつも深く感動します。

今日は、神様の聖さと恵みについて思い巡らしていました。

セラフィム(ある種の天使)は叫びました。

聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 その栄光は全地に満ちる。(イザヤ書6:3)

残念なことですが、ウジヤ王はその生涯の後半において、神様の聖なるさを認めることを拒み、神様の目から見て、ひどい罪を犯してしまいました。(歴代誌第二26:16〜21)

その反面、イザヤは神様の聖なるさを認め、叫びました。

ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、 唇の汚れた民の間に住んでいる。 しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから。(5)

でも、それと同時に、私たちは神様の恵みも見ることができます。

皮肉なことに、イスラエルに対する神様の裁きの中に、私たちはその恵みを見ることができます。神様はイザヤに、「この人々の心を肥え鈍らせなさい」と言われました。

では、イザヤはどのようにして彼らの心を肥え鈍らせたのでしょうか。彼らが聞きたくない真理を語り続けることによって、イザヤはそうしたのです。

最終的に、イスラエルはバビロンに倒されました。でも、イザヤの言葉によって「切り株」が残されました。

その「切り株」とは、神様に忠実な人々のことでした。たとえば、ダニエル、エゼキエル、ネヘミヤ、エズラは、ずっと神様に忠実に仕えました。

そして、その「切り株」を通して、イエス様は来て、私たちを救ってくださいました。

幻でイザヤが見た王は、王座から下り、この世に来て、私たちのために死んでくださいました。(ヨハネ12:23〜41)

それがクリスマスの意味です。王は私たちを救うために、ご自分の王座からくだり、この世に来てくださいました。

だから今、イザヤのように、私たちは自分の恥と咎をもってイエス様のみ前に来るとき、イエス様は恵みをもって、私たちに言われます。「あなたの咎は取り除かれ、あなたの罪も赦された。」

だからこそ、私たちは歌います。

Joy to the world!
世界に喜びを!

The Lord is come!
主がおいでになりました!

Let earth receive her king!
地のすべての民は、その王をお迎えいたしましょう!

カテゴリー
テサロニケ人への手紙第一のデボーション

私たちのための神のみ心

いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。

これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(テサロニケ人への手紙第一5:16ー18)

多くのクリスチャンたちは、「私のための神の御心は何だろうか」とよく尋ねます。

この箇所でパウロは、神の御心のすべてを教えているわけではありませんが、神様が私たちにどのように生きることを望んでおられるのかを示しています。それは、「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことにおいて感謝する」ということです。

しかし、私たちの人生はいつも楽しいものではありません。私たちはしばしば試練に直面します。

では、どうすれば私たちはいつも喜び、すべてのことにおいて感謝することができるでしょうか。苦しいとき、何を喜び、何に感謝することができるでしょうか。

私たちは、神様が私たちをどのように見てくださっているかを思い起こし、それに感謝し、喜ぶことができます。つまり、神様が私たちをご覧になるとき、ご自分の似姿を見ておられるのです(創世記1:26ー27)。

また、私たちは神の祭司とされ、神様は私たちに「主の聖なるもの」という言葉を記してくださっています(出エジプト記36:28;申命記7:6;14:2;第一ペテロ2:5、9)。

そして、神のもの、神の祭司、神の民、神に愛されている子どもとして、私たちはいつでも神様の御前に出ることができます。神様が私たちを拒まれる恐れはまったくありません。

良いときでも、悪いときでも、勝利のときでも、苦しみのときでも、私たちは大胆に天の父に近づくことができます。

これこそが、私たちのための神の御心です。つまり、私たちが一瞬一瞬、神様と共に歩み、神様との関係を喜ぶことです。

カテゴリー
使徒の働きのデボーション

希望と喜びを持って、歩む

彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。(使徒の働き2:42)

今日の箇所を読むと、上の言葉をクリスチャンの生活のための方式にしてしまうのは簡単だと思います。

つまり、「良いクリスチャンになるためには、教会に行き、聖書を読み、祈り、聖餐式に参加しなければならない」という方式を作ることです。

私はいつも、主を前にしています。主が私の右におられるので、私は揺るがされることはありません。

それゆえ、私の心は喜び、私の舌は喜びにあふれます。私の身も、望みの中に住まいます。

あなたは、私のたましいをよみに捨て置かず、あなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。

あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前で、私を喜びで満たしてくださいます。(25-28節)

その言葉を読んだとき、私はダビデの喜びに気づかされました。

「主は、いつも私と共におられます。だから、暗い谷、死の陰の谷を歩んでも、私は揺るがされることはありません。あなたは私をよみに捨て置かれることはありません。だから、この世にあっても、あなたは私を見捨てられることはないでしょう。

あなたはいのちの道を示してくださいました。あなたの御前にいるだけで、私は喜びに満たされています。」

ダビデの希望のよりどころは、主が常に共におられるという確信でした。

あなたにある敬虔な者(つまり、イエス様)に滅びをお見せにならないからです。(27節)

イエス様が生きておられるからこそ、私たちも生きることができるのです。(ヨハネ14:19)

その希望と喜びをもって、初代のクリスチャンたちは日々を歩んでいました。

だからこそ、彼らは喜んで使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りを捧げていたのです。彼らにとって、愛してくださる主とその民と共に時を過ごすことは、何よりの喜びでした。

それゆえ、私は自分に問いかけました。「私はその希望と喜びをもって、生きているだろうか。」

あなたは、その希望と喜びをもって、生きていますか。

カテゴリー
マタイの福音書のデボーション

喜びに動かされて

天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。(マタイの福音書13:44)

このクリスチャン生活を送るとき、私たちは何によって動かされているのでしょうか。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」などの言葉を読むと(マタイ16:24)、私たちは渋々その言葉に従っているのでしょうか。私たちは、ただ何を失うかを考えているのでしょうか。

それとも、その言葉を聞くと、喜びをもってイエス様に従っているのでしょうか。

私たちが捨てるものは、得るものよりも価値がないと、本当に理解しているのでしょうか。

主よ、あなたは良い神です。ですから、私が義務ではなく、むしろ喜びに満ちて、何も惜しまずに、すべてをあなたにささげることができますように。

カテゴリー
詩篇のデボーション

喜びの理由

あなたがたは君主を頼みとしてはならない。 救いのない人間の子を。(詩篇146:3)

今日、その言葉は私の目に留まりました。特に、その最後の部分です。

「救いのない人間の子を頼みとしてはならない。」

でも、私たちクリスチャンは、救いのために人の子を信頼します。つまり、私たちはイエス様に信頼を寄せるということです。

なぜでしょうか。

なぜなら、イエス様は単なる人の子ではないからです。

むしろ、イエス様は、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって、力ある神の子として公に示された方です(ローマ1:4)。

単なる人間の子と違って、イエス様が死なれたとき、御自身の計画は滅び失せませんでした(4)。

むしろ、イエス様は復活して、永遠に生きておられる方です。

この世におられた時、イエス様は、飢えている者たちにパンを与え、目の見えない者たちの目を開け、かがんでいる者たちを起こされました。

そして、今、イエス様の十字架と復活によって、私たち霊的な囚人たちは解放されました。

また、ある日、イエス様はもう一度この世に来て、正義をもたらし、永遠に治められます。

だから、それを覚えていて、賛美しましょう。

ハレルヤ。

わがたましいよ、主をほめたたえよ。

私は生きているかぎり、 主をほめたたえる。

いのちのあるかぎり、 私の神にほめ歌を歌う。(1ー2節)

カテゴリー
詩篇のデボーション

私たちの望み、私たちの喜び

最近、私はヨハネ14章から16章をよく読んでいます。だから、この詩篇を読んだとき、私はこう思いました。

「この詩篇を歌ったとき、イエス様の弟子たちの心には、ヨハネ14章から16章にあるイエス様の言葉がどれほど思い浮かんだでしょうか。」

その時、イエス様はまもなく十字架にかかられることをご存じだったので、弟子たちに、「わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません」と言われました。

ぺテロはその言葉を受け入れず、いつものように自信満々で、イエス様に「あなたのために、私は命を捨てます」と言いました。

しかし、イエス様は彼に、「鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います」と言われました。

それを聞いて、ぺテロと他の弟子たちは本当に悲しみました。(ヨハネ13章33〜38節)

だから、イエス様は彼らに語られました。

あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。(ヨハネ14:1)

イエス様が復活されたあと、弟子たちがこの詩篇を歌った時、イエス様の言葉は彼らの心に深く響いたでしょう。つまり、

神よ、私の心は揺るぎません。 私は歌い ほめ歌います。 私の心の底も。(詩編108:1)

ダビデのように、彼らは、自分の力ではなく、むしろ神様の忠実さに信頼することを学びました。

イエス様が彼らに「わたしは去って行く」と言われた時、弟子たちはダビデのようにこう考えていたでしょう。

神よ、あなたは私たちを拒まれるのですか。 神よ、あなたはもはや、私たちとともに出陣なさらないのですか。(詩篇108:11)

しかし、イエス様は彼らを励まされました。

わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。

あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。(ヨハネ14:18ー19)

数年後、聖霊に満たされた弟子たちは、ダビデの言葉をどれほど勝利に満ちて歌ったでしょうか。つまり、

神にあって私たちは力ある働きをします。 神こそが、私たちの敵を踏みつけてくださいます。(詩篇108:13)

その言葉を歌った時、彼らはあの晩に語られたイエス様の最後の言葉を思い起こしたでしょうか。

これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。

しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。(ヨハネ16:33)

そして、彼らが復活された主を思い出した時、彼らの心はどれほどダビデの言葉を歌ったでしょうか。

主よ、私は諸国の民の間で あなたに感謝し、もろもろの国民の間で あなたをほめ歌います。

あなたの恵みは大きく、天の上に及び あなたのまことは雲にまで及ぶからです。

神よ、あなたが天で、あなたの栄光が全地であがめられますように。(詩篇108:3ー5)

イエス様の弟子たちのように、私たちは生きておられる救い主に仕えています。だからこそ、彼らのように、イエス様にある望みを喜びましょう。

 

カテゴリー
使徒の働きのデボーション

喜びに満たされた

弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。(使徒の働き13:52)

私はいつもすぐに忘れてしまいますが、使徒の働きにおいて「弟子」とは、「普通のクリスチャン」を意味します。

だから、「弟子たちは喜びと聖霊に満たされた」と書かれているとき、著者であるルカはパウロとバルナバのことを語っているのではありません。ルカは、彼らのメッセージによって救われた新しいクリスチャンたちのことを語っているのです。

自分たちのリーダーが迫害され、その地方から追い出されたのに、どうしてそのクリスチャンたちは喜びに満たされたのでしょうか。

おそらく、二つの理由があったと思われます。

一つ目は、彼らが自分の救いを喜んでいたということです。それまで、彼らは部外者と呼ばれていました。神様に受け入れられるためには、ユダヤ人にならなければならないと教えられていたのです。

しかし、パウロとバルナバが彼らに教えたのは、イエス様を信じることによって、彼らがすでに神様に受け入れられているということでした。

さらに、彼らが学んだのは、この世界が造られる前から、神様が彼らを愛し、選んでおられたということでした。(使徒の働き13:48、エペソ1:4〜6)

でも、もう一つの理由があったと思います。彼らは、パウロとバルナバがどのように迫害されたかを見ました。彼らは、パウロとバルナバの試練を目の当たりにしました。そして、その試練の中での彼らの喜びも見たのです。

私たちが自分の困難にどう反応するかによって、周りの人々は影響を受けます。

もし私たちが試練の時に、神様が私たちを愛し、選んでくださったという真理に根差しているなら、私たちは喜びを保つことができます。そして、周りの人々はそれに気づくのです。

私たちの子どもたちや友人、同僚たちは気づきます。

そして、クリスチャンたちは私たちを見るとき、励まされます。一方で、ノンクリスチャンたちはそれを見て、なぜ私たちが喜びに満たされているのか疑問に思うのです。

この世の多くの人々は、喜びを見つけることができません。もし彼らが私たちの人生の中にその喜びを見いだせないなら、いったいどこで見つけることができるでしょうか。

カテゴリー
使徒の働きのデボーション

この世に喜びを届ける

サウロは家から家に押し入って、教会を荒らし、男も女も引きずり出して、牢に入れた。

散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた。。。

その町には、大きな喜びがあった。(使徒の働き8:3-4,8)

この世には、喜びがあまりありません。毎日、私たちはコロナのニュース、戦争のニュース、災害のニュースを目にします。それらは私たちクリスチャンにも影響を与えました。

でも、使徒の働きの時代のクリスチャンたちの模範に従いましょう。

この世で本当の喜びを与えることができるものは、ただ一つしかありません。それは、イエス様の福音です。

だから、その福音を周りの人々に伝えて、喜びを広げる者になりましょう。

その良い知らせは、私たちに命を与えてくれました。だから、その命を他の人々にも分かち合いましょう。

カテゴリー
使徒の働きのデボーション

あるがままを見る信仰

しかし、聖霊に満たされ、じっと天を見つめていたステパノは、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見(ました)。(使徒の働き7:55)

天のお父さん。このめちゃくちゃな世界の中で、私が本当に必要としているのは、あなたの聖霊に満たされることです。

この世界を見るとき、すべてが混乱していると感じるのは簡単なことです。あなたがもうこの世界の問題をコントロールできなくなったと考えるのも、簡単なことです。

でも、ステパノは、物事を実際にあるがままに見ました。彼はあなたの栄光を見て、あなたが今も御座に座っておられ、イエス様があなたの右に立っておられるのを見たのです。

だからこそ、彼自身が苦しい状況にあり、周囲の人々に憎まれ、迫害されていたにもかかわらず、ステパノは喜び、あわれみと恵みに満ちていました。

聖霊様、どうか私のうちに住んでください。私を満たしてください。私を導いてください。物事を実際にあるがままに見ることができるよう、私を助けてください。

そして、この世が切実に必要としている喜びとあわれみと恵みで、私を満たしてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

カテゴリー
使徒の働きのデボーション

人生が辛いときに、どう生きるか

人生が辛いとき、私たちはどのように反応するでしょうか。

もし使徒たちが人々や神様に怒っていたら、私は彼らに共感できたと思います。

なぜなら、彼らは悪いことを何もせず、むしろ人を癒し、イエス様の福音を述べ伝えたのに、迫害されたからです。

でも、彼らはどのように反応したでしょうか。

彼らは喜んで自分たちのミッションに集中しました。それは、死にかけている世界に福音を述べ伝えることです。

私たちはどうでしょうか。辛いとき、私たちの反応はどのようなものでしょうか。

ただ落ち込んでしまうでしょうか。

ただ怒ってしまうでしょうか。

ただ歯を食いしばって頑張るでしょうか。

それとも、主の喜びに満ちた心を持ち、主を本当に必要としている人々に触れるでしょうか。

カテゴリー
ルカの福音書のデボーション

喜び

主よ、私がザアカイの喜びを知ることができますように。

私が、あなたに愛されている喜びを知ることができますように。私が、あなたに受け入れられている喜びを知ることができますように。あなたが私と交わりたいと願っておられる喜びを知ることができますように。

私が、あなたの赦しと憐れみの喜びを知ることができますように。

そして、その喜びによって、私がザアカイのように、あなたを本当に喜ばせたいという心を持つことができますように。

周りの人々が私について何を考え、何を言おうとも、私は気にしません。

あなたが私を愛し、受け入れてくださっているので、私は満足です。

私はあなたを心から愛しています。

あなたの恵みと愛に感謝します。あなたの御名によって祈ります。アーメン。

カテゴリー
伝道者の書のデボーション

私たちの喜びの源

前回の記事で私は言いましたが、伝道者の書で、ソロモンは神様中心の生活を送っていない人であるかのようによく話します。なぜでしょうか。

なぜなら、長い間ソロモンはそんな生活を送っていたからです。彼は外国人の女性と結婚して、彼女たちの偶像を礼拝し始めました。

ソロモンはまだ神様も礼拝していましたが、その礼拝は希薄なものになりました。さらに、ソロモンは神様から離れて、喜びを追い求め始めました。

今なお、多くの人々は同じ罪を犯してしまいます。彼らは神様から離れて、喜びを追い求めます。

彼らは快楽によって、喜びを追い求めます。(伝道者の書2:1)

彼らは仕事や物を得ることによって、喜びを追い求めます。(4ー9節)

また、彼らはこう考えます。「もし私は他の人よりも頭が良く、知恵を持つなら、幸せな人生を送るだろう。」(12節)

それらによって、彼らは一時的に幸せになるかもしれません。でも、神様から離れると、彼らは最終的にそのものの空しさが分かってきて、絶望してしまいます。(1ー2、11、14ー23節)

最終的にソロモンもその真理が分かってきました。もちろん神様は、私たちが与えられた世界を楽しむことを望まれます。でも、私たちは賜物を与える方から賜物を切り離すことはできません。

だから、ソロモンはこの話をこのようにまとめます。

実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができるだろうか。なぜなら神は、ご自分が良しとする人には知恵と知識と喜びを与え(ます)。。。(25ー26節)

ソロモンのようにならず、時間を無駄にせず、その教訓を学びましょう。

神様は、私たちがこの人生を楽しむことを望まれます。命は神様からの賜物です。でも、神様から離れるなら、私たちは決して真の喜びを見つけることができません。

だから、神様中心の生活を送りましょう。そうすれば、私たちは喜びだけではなく、満ち溢れる喜びを持つことができます。(ヨハネ15:9ー11)

カテゴリー
詩篇のデボーション

喜びの理由

主よ。私は暗い世にいます。私の回りでは、人々の道徳観念は曲がって来たし、彼らは希望のない人生を送っています。

でも、私はあなたにあって喜ぶために召されています。私は新しい歌を歌うために召されています。なぜなら、あなたは私に喜びの理由を与えてくださったからです。(詩篇96:1-2)

あなたは私を救い、私の罪を赦し、私に新しい命を与えてくださいました。

だから、私はあなたに日から日へと御救いの良い知らせを告げるために召されています。また、私はあなたの栄光や奇しい救いのみわざを死にかけている人々に伝えるために召されています。(3節)

主よ。彼らは力のない偽りの神々に従っています。でも、私たちはあなたを礼拝します。あなたは大いなる方、大いに賛美される方です。

あなたは王です。そして、ある日、あなたは正義と真実をもって、この世の民を裁かれます。(4-5,10,13節)

主よ、私はその日を楽しみにしています。

でも、私の回りにいる、たくさんの人々はあなたをまだ知りません。あなたの慈しみを知らないし、あなたの救いを知らないのです。

彼らが私の中にあるあなたの喜びを見るようにしてください。そして、あなたの奇しい救いのみわざを彼らに伝える機会を与えてください。

また、あなたの福音を伝える勇気を私に与えてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

カテゴリー
ヨハネの手紙第一

命である方を宣言する

これは聖書に記されている最後の長い手紙です。

そして、この手紙の初めから、私たちは使徒ヨハネの情緒を感じ取ることができます。イエス様に愛された弟子と呼ばれた使徒はこう言われます。

初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。

このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。(ヨハネの手紙第一1-2)

「いのちのことば」とはイエス様です。イエス様ご自身は、いのちの表現です。イエス様にあって、私たちはいのちがどのようなものであるべきかを分かります。イエス様にあって、私たちは完全で不備のないいのちを見ることができます。

いのちの創造者である神様は、いのちの言葉であるイエス様を通してご自身を表されます。

また、イエス様ご自身がいのちです。

だから、ヨハネは、「このいのちが現れました」と言うと、イエス様の受肉について話しています。つまり、イエス様が人間としてこの世に来られたことです。

だからヨハネやほかの使徒たちは自分の耳でイエス様の声を聞き、自分の目でイエス様を見、復活の後、自分の手でイエス様の手の傷跡に触れることができました。

そして、ヨハネは、イエス様を「永遠のいのち」と呼びます。イエス様は永遠の方で、時間が始まる前から天の父と共におられました。

また、イエス様は死んだ者にいのちを与えてくださいます。もちろん、神様はご自身から遠く離れている霊的に死んでいる人たちにいのちを与えてくださいます。

しかし、ある日、イエス様は肉体的に死んだ者たちにいのちを与えてくださいます。つまり、イエス様がご自身のような体を彼らに与えてくださるのです。

それを考慮に入れると、ヨハネはこう言います。

私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。

私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。(3-4)

ヨハネと他の使徒たちは神様との関係をただ楽しみたいとは思いませんでした。むしろ、ほかの人々も神様との交わりを得るまで、使徒たちは自分の喜びが完成されたものではないと考えました。

そういうわけで、彼らは大胆に自分が見たことと聞いたことを宣言しました。

私たちは彼らの模範に従うべきです。

多くのクリスチャンたちは救われて、とても嬉しいです。彼らが神様の愛と赦しを受け、とても幸せです。また、神様が彼らの傷を癒してくださり、彼らは喜びます。

しかし、それだけで私たちは満足してはいけません。それは自己中心的な態度です。

たくさんの人々が神様から遠く離れて、毎日死んでいます。彼らは神様の愛を知らず、神様の赦しを知りません。また、彼らは神様からの癒しを知りません。私たちは彼らを哀れむべきです。

だから、ヨハネと他の使徒たちのように、私たちは与えられたいのちを宣言するべきです。そうすれば、周りの人々も神様との関係を得るでしょう。

あなたはどうでしょうか。救いが必要な周りの人々に気づかないほどに、あなたは自分の救いを喜びますか。

この世の人々の所に行きましょう。私たちの愛している人々にイエス様のことを宣言しましょう。私たちの近所や職場や学校にも行って、イエス様を宣言しましょう。そうすれば、人々が神様の御国に入って、私たちの喜びは満ち溢れるでしょう。

カテゴリー
ペテロの手紙第一

神様の御心に従って生きる(3)

神様の御心について考えるとき、ある重要な真理を深く考える人は恐らく少ないでしょう。その真理とは、時に神様の御心が、私たちが試練と苦しみを経験することである、ということです。

新約聖書を読めば読むほど、この結論は避けられないものだと感じます。

けれども、素晴らしい知らせは、その苦しみを通して神様が栄光を受けられるだけでなく、私たち自身も最終的に栄光を受けるということです。

だから、ペテロはこう言います。

愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。(ペテロの手紙第一4:12)

要するに、クリスチャンとしての生活において、試練は避けられないものです。イエス様のために、のけ者にされるのは当然のことなのです。

どうしてでしょうか。

それは、人々がイエス様ご自身をものけ者にしたからです。

ペテロはこう言います。

むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。(13)

言い換えると、「イエス様が不当に苦難を受けられたように、あなたが不当に苦難を経験するとき、それを喜びなさい。ある日、イエス様はこの世に戻られ、その栄光が現れるでしょう。そのとき、あなたは自分の苦難を忘れてしまうでしょう。」

しかし、イエス様が戻られる前にも、私たちには喜ぶ理由があります。ペテロはこう言います。

もしキリストの名のためにののしられるなら、あなたがたは幸いです。栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。(14)

その言葉を読むと、私はステパノの話を思い出します。ステパノは石打ちされる直前、自分を告発する人々に直面していたとき、その顔は天使のように輝いていました(使徒の働き6:15)。

さらに、最高法院の人々に迫害された後、使徒たちは祈り、御霊の力で満たされ、大胆に福音を宣べ伝えました(使徒の働き4:31)。

私たちがキリストのために苦しむとき、御霊が私たちの上にとどまり続けてくださいます。だからこそ、ペテロは私たちが祝福されていると言います。

だから、ペテロはこう言います。

しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、このことのゆえに神をあがめなさい。(16)

そして、ペテロはちょっと不思議なことを言います。

さばきが神の家から始まる時が来ているからです。それが、まず私たちから始まるとすれば、神の福音に従わない者たちの結末はどうなるのでしょうか。

「正しい者がかろうじて救われるのなら、不敬虔な者や罪人はどうなるのか。」(17-18)

それはどういう意味でしょうか。

神様はクリスチャンの人生に試練が起こることを許されます。けれども、神様の目的は、私たちを滅ぼすことではありません。むしろ、その試練を通して、私たちは金のように精錬され、キリストのように造り変えられていくのです。

それでも、その試練が楽しいものではないのは事実です。むしろ、そうした試練は苦しいものです。

けれども、神様をずっと拒絶し続けた人々にとって、裁きの日はもっと苦しいものになるでしょう。

だから、どうか心に留めてください。私たちは神様のために苦しむことがあるかもしれませんが、その試練は常に私たちの益となるためのものです。

さらに、私たちの試練を通して神様が栄光を受けられます。なぜなら、私たちはその火を通過した後、精錬された金のように輝くからです。

だから、ペテロはこう言います。

ですから、神のみこころにより苦しみにあっている人たちは、善を行いつつ、真実な創造者に自分のたましいをゆだねなさい。(19)

あなたは落ち着いている時期を迎えているでしょうか。喜び、感謝しましょう。ただし、覚えていてください。私たちは壊れた世界の中で生きているため、試練は必ずやって来ます。

あなたは今、苦しみの中にいるでしょうか。その中でも喜びましょう。なぜなら、その試練は一時的なものであり、あなたを滅ぼすことはないからです。むしろ、その試練はあなたの益となるものです。

いずれの場合であっても、善を行いながら、真実な創造者に自分のたましいをゆだねましょう。そして、あなたを通して神様は栄光を受けられるのです。

カテゴリー
テサロニケ人への手紙第一

イエス様が帰って来られるから(2)

この手紙の締めくくりにおいて、 パウロは、イエス様の再臨を心に留めながら、 テサロニケの人々がどのように生きるべきかを教えています。

パウロはこう語ります。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。

これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(テサロニケ人への手紙第一5:16-18)

テサロニケの人々は、迫害を受けていました。 それでも、その苦しみのただ中で、パウロは彼らにこう語りました。

「神様が望んでおられるのは、あなたがたがいつも喜び、 絶えず祈り、どんなときにも感謝することです。」

その言葉を書いたとき、パウロは自分のピリピでの経験を思い出していたかもしれません。

テサロニケに行く前、パウロとシラスはピリピで鞭打たれ、牢に投げ込まれたのです。 では、彼らはそのとき、どう反応したでしょうか。 彼らは主にあって喜び、賛美歌を歌い、神様に感謝をささげました。

その結果、どうなったでしょうか? 神様は文字どおりその場所を揺り動かし、 パウロとシラスを解き放ち、 看守とその家族を救ってくださいました。

このような経験があったからこそ、 パウロはテサロニケの人々に対して、 同じように歩むことを勧めることができたのです。

そして彼は、さらに彼らに訓戒を与えました。

御霊を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。あらゆる形の悪から離れなさい。(19-22)

私たちは、どのようにして御霊とその働きを消してしまうのでしょうか。 最も大きな原因は、御霊の語りかけを聞かず、信頼しないことです。

イスラエルの民が約束の地を目前にしながら、 その御声に従おうとしなかった時、まさにそれが起こりました。 (ヘブル3:17−19)

ですからパウロは、こう語るのです。 「預言を軽んじてはいけません。」

今もなお、神様は人を通して語ることができます。 けれども私たちは、その人の語る言葉を吟味しなければなりません。 特に、その言葉が神様のみことばと一致しているかどうかを、 みことばに照らして確かめるべきです。

もし一致していれば、信じて受け取りましょう。 一致していなければ、拒むべきです。

しかし何よりも大切なのは、 神様が聖書を通して、あるいは人を通して語られるときに、 その声を無視してはならないということです。

その語りかけを退けてしまえば、 私たちは御霊を消すことになるのです。そして主の日に、神様はその責任をお問いになります。

最後に、パウロはこのように祈りました。

平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。

あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。(23)

そして、パウロは私たちに思い起こさせます。

あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。(24)

主が再び来られるのですから、 私たちは責められるところのない者として歩むべきです。

しかし、そのような人生を、自分の力だけで生きることはできません。 だからこそ、私たちは御霊の力に頼らなくてはならないのです。

ですから、聖霊様にすがりつきましょう。 御霊を消してはなりません。 むしろ、御霊に満たされて歩みましょう。

そうすれば、聖霊様は私たち自身をきよめるだけでなく、 私たちのまわりの人々にも、触れてくださるのです。

私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたとともにありますように。(28)

カテゴリー
コロサイ人への手紙

すべての信者のための祈り

クリスチャンの友人のために祈りたいと思っても、「○○さんを祝福してください」という祈りにとどまらず、もっと深く祈りたいと願うなら、パウロの祈りに目を向けてみると良いでしょう。

パウロの模範から、私たちは神様の御心に従って人々のためにどのように祈るべきかを学ぶことができます。

その一つの模範は、コロサイ人への手紙第1章に見られます。パウロはコロサイの人々に会ったことはありませんでしたが、エパフラスという人から、彼らの信仰について報告を受けていました。

彼らの信仰を聞いたとき、パウロは心から喜びました。そして彼は、コロサイの人々のために、非常に具体的な内容をもって祈りました。彼は何を願って祈ったのでしょうか。

どうか、あなたがたが、あらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころについての知識に満たされますように。(コロサイ人への手紙1:9)

クリスチャンとして、私たちは皆、そのような知恵と理解を必要としています。なぜでしょうか。

また、主にふさわしく歩み、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる良いわざのうちに実を結び、神を知ることにおいて成長しますように。(10)

神様を喜ばせたいと願うなら、また、実を結ぶ者となりたいなら、私たちは神様の御心を知らなければなりません。

そして、神様がその知恵と理解をもって私たちを満たしてくださるにつれて、私たちは神様のことをより深く知るようになります。神様の考え方を理解し、神様にとって何が大切かを知るようになるのです。

私たちは、神様のことについて知るだけでなく、神様ご自身を知るようになります。特に、神様がその力をもって私たちを強めてくださるとき、私たちは神様をさらに深く知るようになるのです。

だからこそ、パウロはコロサイの人々のために、こう祈ったのです。

神の栄光の支配により、あらゆる力をもって強くされ、どんなことにも忍耐し、寛容でいられますように。

また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格をあなたがたに与えてくださった御父に、喜びをもって感謝をささげることができますように。(11-12)

神様は、私たちが自分の力でクリスチャン生活を送ることを望んでおられません。

多くのクリスチャンは、確かに試練に耐え、寛容を示してはいますが、そこに喜びが伴っていないのが現実です。なぜでしょうか。それは、彼らが神様の力ではなく、自分の力に頼っているからです。

パウロの祈りは、コロサイの人々が自分の力によって試練に耐えるようにというものではありませんでした。むしろ、神様の力に満たされ、喜びをもって忍耐し、歩むことができるようにと祈ったのです。

またパウロは、彼らが自分自身に焦点を当てるのではなく、神様に目を向けるようにと祈りました。パウロの祈りの根底には、コロサイの人々が自分の努力ではなく、神様の恵みによって多くの祝福を受けたことを思い起こすように、という願いがありました。

私たちが神様の相続にあずかることができるのは、神様が私たちにその資格を与えてくださったからです。

それだけではなく

御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。(13-14)

もう一度、はっきりと言います。それらすべては、神様の働きです。

神様は、私たちを暗闇の力から救い出してくださいました。そして、私たちを御子のご支配の中へと移してくださいました。私たち自身によってではなく、イエス様にあって、私たちは贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。

ところが、多くのクリスチャンはこの真理を忘れてしまいます。そのため、自分の力や知恵によって生きようとして、やがて喜びを失ってしまうのです。

しかし、私たちが神様の知恵と知識、そして力に満たされ、自分の努力ではなくキリストの働きから祝福がもたらされていることを思い起こすとき、私たちは喜びを知るようになります。

ですから、クリスチャンの兄弟姉妹のために祈るとき、ただ「神様、この人を祝福してください」と祈るだけで終わらないでください。パウロのように祈りましょう。

そして、自分自身のためにも、そのように祈りましょう。

カテゴリー
ピリピ人への手紙

満足さの秘訣

私たちは電子レンジのような社会に生きています。今すぐに欲しいものを受け取りたいと願い、それがかなわないと、不平を言い始めてしまいます。

けれども、私たちはそのような態度を取るべきでしょうか。

パウロは決してそのような態度を取りませんでした。ピリピ人たちの気前のよさに感謝を表すとき、彼はこう語りました。

乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。

満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。

私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。(ピリピ人への手紙4:11-13)

「ありとあらゆる境遇に秘訣を心得ています。」

では、パウロはどのような秘訣を学んだのでしょうか。実のところ、彼はその中身を具体的には述べていません。2017年版の新改訳では、「ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています」と記されています。

一方、第3版では、こう訳されています。「どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。」

実際、多くの英語訳聖書でも、パウロの言葉はそのように訳されています。

「どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。」

私たちも、そう言えるでしょうか。

パウロは乏しいときにも、満ち足りていました。富んでいるときにも、満ち足りていました。

乏しいときに満ち足りることを学ぶべきだということは、比較的理解しやすいかもしれません。でも、なぜ富んでいるときにも、満ち足りることを学ばなければならないのでしょうか。

もしかすると、あなたは必要なもの以上にすでに持っているかもしれません。それでも、まだ欲しいものがあって、不平を口にすることはないでしょうか。

なぜ私たちはそのようにしてしまうのでしょうか。たとえ多くのものを持っていても、なぜ満ち足りることはそんなにも難しいのでしょうか。

おそらく、それは私たちが非常に自己中心だからです。多くのクリスチャンもまた、なお自己中心にとらわれています。

彼らは自分の必要や欲望についてよく考えます。しかし、そうしたものにばかり心を向けるあまり、本当に満ち足りることができるお方のことを忘れてしまうのです──それは、イエス様です。

イエス様との関係こそが、真の満ち足りる秘訣です。すなわち、私たちはイエス様を知り、また、イエス様の復活の力を知ることなのです。

たとえさまざまな試練や苦しみを経験していても、私たちは日ごとに鏡をのぞく中で、自分のうちにイエス様の姿がだんだん映されているのを見ることができます。そしてまた日々、神様がなぜ私たちを選んでくださったのか、その理由が少しずつ分かるようになるのです。

パウロはそのすべてを完全に経験したわけではありませんが、おそらく多くの人々よりも深くそれをつかんでいたのでしょう。

だからこそ、試練の中にあっても、彼の喜びは奪われませんでした。物が乏しいときにも、イエス様にあって喜び、豊かなときにも、イエス様にあって喜んでいたのです。

日本では、「我慢」という言葉がよく語られます。苦しいときに耐え忍ぶことを、美徳として誇る傾向があります。しかし、私たちはしばしば自分の力に頼ってしまうために、結局のところ、もう耐えられないという限界に達してしまうのです。

けれども、パウロはただ「我慢」していたのではありません。彼はイエス様との関係を喜んでいました。だからこそ、どのような試練にあっても、パウロはそれを乗り越える力を持っていたのです。

あなたは、どうでしょうか。あなたの心には、満ち足りる思いがあるでしょうか。イエス様は、あなたの人生の中心におられるでしょうか。あるいは、満足を求めて、世のものばかりを追いかけてはいないでしょうか。

世のものは、あなたを本当には満たすことができません。イエス様との関係だけが、あなたの心に真の満足を与えるのです。

あなたの人生の中心は、いったい何でしょうか。

カテゴリー
ピリピ人への手紙

神様が私たちのうちで行っておられること

パウロはいろんな試練を経験していましたが、この手紙の中には、彼の喜びがあふれています。おそらく、パウロはこの手紙をローマの牢獄から書いたのでしょう。それにもかかわらず、私たちは何度も「喜び」や「喜ぶ」という言葉を目にします。

パウロが喜んでいたことの一つは、ピリピのクリスチャンたちの中に見られる神様の働きでした。ピリピの教会は、ヨーロッパで最初に生まれた教会です。

パウロがピリピを訪れたとき、リディアという裕福な女性に出会いました。彼女は神様を敬っていましたが、イエス様のことはまだ知りませんでした。しかし、パウロがリディアとその家族に福音を語ったとき、彼らは信じて救われました(使徒の働き16:11-15)。

けれども、ピリピでの宣教は平穏ではありませんでした。パウロはさまざまな困難に直面し、逮捕され、牢に入れられます。それでも、神様はその中で確かに働いておられました。看守とその家族までもが、パウロを通して救われたのです(使徒の働き16:16-40)。

それは、ピリピの教会にとっての原点でした。そして彼らは、パウロの宣教活動を経済的に支える教会のひとつとなったのです。

彼らが福音の働きに共に携わる中で、パウロは彼らの間にある神様の良い働きを見ることができました。だからこそ、パウロはこう書いたのです。

あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り、あなたがたが最初の日から今日まで、福音を伝えることにともに携わってきたことを感謝しています。

あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。(ピリピ人の手紙1:4-6)

キリストの福音の驚くべきことのひとつは、救いが最初から最後まで恵みによるものであるということです。

私たちがまだ神様のことを考えてもいなかったときに、神様は私たちを救うために手を伸ばしてくださいました。そして恵みによって、神様は私たちを罪という不潔な穴から引き上げ、十字架で流されたイエス様の血によって清めてくださったのです。

しかし、救いはそれだけでは終わりません。神様は「あなたを清めましたよ。あとは自分の力で頑張ってね」と告げて私たちを放っておかれることはありません。

むしろ、今もなお、神様は私たちのうちで働いておられます。 そして、イエス様がこの世に戻られるその日まで、神様は私たちのうちで働き続けてくださるのです。その日、イエス様は私たちを完成へと導いてくださいます。

では、神様はどのように私たちのうちで働かれるのでしょうか。 パウロが私たちにそのことを教えてくれています。

私はこう祈っています。あなたがたの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、大切なことを見分けることができますように。

こうしてあなたがたが、キリストの日に備えて、純真で非難されるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現されますように。(9-11)

パウロが祈っているのは、愛の実、つまり、神様に対する愛と人々に対する愛が、私たちの人生に豊かに実ることです。

では、その実はどのように成長するのでしょうか。それは、私たちが神様とその愛の素晴らしさを深く知れば知るほど、愛もまた大きく咲き広がるからです。神様への愛も、隣人への愛も、共に成長していきます。

このようにして愛の実を結び始めるとき、私たちは神様のご計画を少しずつ知るようになります。そのとき、私たちは「良い」だけでなく、「最も良いもの」を選び取るようになります。そして私たちの人生には、神様の義の実が次々と結ばれていくのです。

けれども、ここでパウロの言葉に目を向けましょう。その義の実は、私たち自身の努力によって結ばれるわけではありません。 私たちはイエス様に繋がっていなければならないのです。だからこそ、イエス様はこう言われました。

わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。(ヨハネ15:5)

では、この箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

第一に、自分の罪を見ても、落胆しないでください。神様はあなたのうちに良い働きを始めてくださいました。その働きは十字架において始まりました。そして神様があなたを呼ばれたとき、あなたはその御声に応えて神様のもとに来ました。

それだけではありません。あなたが完成へと導かれるその日まで、神様は絶えず働き続けてくださいます。

第二に、私たちはイエス様に繋がるべきだということです。それこそが、あなたの人生が変わる鍵です。その鍵とは、あなたの努力や自制だけではありません。その鍵とは、イエス様があなたのうちに住んでおられるという事実なのです。

そして、イエス様の働きによって、神様の栄光はあなたの人生に現れ、あなたは真の喜びを知るのです。

カテゴリー
ガラテヤ人への手紙

割り込まれた

私が大嫌いなことの一つは、運転中に突然私の車線に割り込む人がいることです。そのせいで、私は急ブレーキをかけざるを得なくなります。最悪の場合、すぐに別の車線へ移らなければなりません。

今日の箇所で、パウロはこのような例えを用いて語ります。

ガラテヤ人たちはクリスチャンのレースの中で、ゴールを目指し、恵みによって走っていました。

ところが、突然、ユダヤ人のクリスチャンたちが割り込み、ガラテヤ人たちがそのゴールに到達することを妨げました。さらに、ガラテヤ人たちは恵みの道から逸れ、律法の道を走り始めてしまったのです。

だから、パウロはガラテヤ人たちにこう語りました。

あなたがたはよく走っていたのに、だれがあなたがたの邪魔をして、真理に従わないようにさせたのですか。

そのような説得は、あなたがたを召された方から出たものではありません。(ガラテヤ人への手紙5:7-8)

要するに、「あなたたちはよく走っていたのに、なぜ恵みの道を逸れ、律法の道を走り始めたのですか?それはイエス様の導きではありません。イエス様は、あなたたちがイエス様への信仰によって恵みの道を走るように招かれたのです。」

そして、パウロはこう語りました。

わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませるのです。(9)

この箇所の伝統的な解説では、ガラテヤ人たちが注意しなければ、ユダヤ人クリスチャンたちの教えがすぐに教会に浸透してしまう危険性があるとされています。

けれども、もう一つの応用が考えられます。

もし私たちが「神様に受け入れていただくためには律法を守らなければならない」という教えの種を受け入れるならば、結局その考え方は私たちの思考や生き方を支配してしまいます。

その結果、私たちは「神様の愛に値しないにもかかわらず、神様に受け入れていただいている」という喜びを失ってしまうのです。

むしろ、私たちは律法を完全に守ることができないと気づき、落胆してしまいます。または、律法を守れていると思うことで、プライドを持ち始めてしまいます。

ガラテヤ人の問題は、『スター・ウォーズ』のヨーダの言葉を連想させます。 「もし暗い道を歩き始めると、その道はあなたの運命を支配します。その道はあなたを食い尽くしてしまいます。」

結局、ヨーダの言葉は完全に正しかったわけではありません。アナキン・スカイウォーカーは最終的にその道から脱出しました。しかし、その前に、彼は自らの人生をめちゃくちゃにしてしまいました。

だから、パウロはガラテヤ人たちに警告しました。 「割礼を受けるな。それを受ければ、律法に従う義務はそれだけでは終わりません。むしろ、あなたはすべての律法を守らなければならなくなるのです。

毎日毎日、一瞬一瞬、その律法を完全に守っているかどうかを気にしなければならなくなります。そして、その恐れがあなたの思いを支配し、神様があなたのために望まれた自由と喜びを失ってしまうのです。」

あなたは最終的にその道を抜け出せるかもしれません。しかし、その日が来るまで、あなたのクリスチャン生活は混乱してしまうでしょう。

さらに、律法主義の生き方によって、あなたは周りの人々を裁き始め、彼らの人生も混乱させてしまうかもしれません。

あなたはどうでしょうか。毎日、神様の恵みによって歩んでいるでしょうか。もしかすると、プライドによって歩んでいるかもしれません。または、神様の裁きを感じ、常に罪悪感を抱いているでしょうか。

ほかの人があなたの歩みを妨げることを許さないでください。

神様があなたをご自身の子供として受け入れてくださったことを覚えていてください。そのことを忘れずにいるならば、神様の計画のもとで、あなたは神様の子供として自由と喜びを知ることができるのです。

カテゴリー
ガラテヤ人への手紙

私たちはどのように喜びと祝福を失うのか

この手紙から、私たちはパウロがガラテヤ人たちに対してどれほど困惑していたかを知ることができます。

パウロが初めてガラテヤに来たとき、彼は何かしらの肉体的な問題を抱えていました。そのため、彼はガラテヤ人たちに負担をかけましたが、それにもかかわらず、彼らは喜んでパウロを歓迎しました。

どうしてでしょうか。それは、パウロが宣べ伝えた福音が彼らを罪から解放し、新しい命を与えたからです。福音を聞いたとき、彼らは神様の喜びと祝福に満たされました。

こうした理由から、ガラテヤ人たちはパウロを心から気遣い、その愛が彼に溢れ出しました。彼らは、できる限りパウロを助けたいと願いました。パウロは彼らについてこう言いました。

私はあなたがたのために証ししますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出して私に与えようとさえしたのです。(ガラテヤ人への手紙4:15)

しかし、ユダヤ人のクリスチャンたちの影響によって、すべてが変わってしまいました。

彼らの喜びは失われ、パウロのことを疑い始めました。彼らは、パウロが福音を正しく教えたかどうかを疑いました。また、パウロが福音から重要な真理を削除したのではないかと考え、自分の救いさえも疑うようになりました。

そこで、パウロは彼らに問いかけました。

あなたがたの幸いは、今どこにあるのですか。。。私はあなたがたに真理を語ったために、あなたがたの敵になったのでしょうか。(15-16)

「幸い」という言葉は、「祝福」という意味もあります。つまり、ガラテヤ人たちは信仰によって受けた神様の尊い賜物を失ったのです。

どのようにしてその賜物を失ったのでしょうか。

彼らは古い宗教的な修行や儀式に戻りました。

救いを得るために、彼らは自分の行いと努力に頼ったため、彼らにとってイエス様の十字架の御業の価値は失われてしまいました。

気をつけなければ、私たちもガラテヤ人たちのようになってしまうかもしれません。もし私たちのクリスチャン生活がルールに基づくものになってしまえば、私たちは自分の喜びと祝福を失うでしょう。そして、神様の好意を得ようと努め始めるでしょう。

そして、最終的に二つの結果が生じます。

一つ目は、自分が成功していると思い、プライドを持つことです。

二つ目は、そのルールを完全に守れないと気付き、落ち込むことです。

しかし、成功したと思っても、失敗したと思っても、私たちは神様の喜びと祝福を失ってしまいます。

けれども、私たちの救いが恵みによるものであることを悟ると、私たちは謙遜と感謝の態度を持つようになります。

私たちは神様の恵みに値しないことを理解するので、謙遜になります。また、私たちは神様の裁きを受けるに値するはずなのに、神様が恵みと憐れみを私たちに注いでくださったことを知ります。

さらに、その恵みと憐れみによって、私たちは喜びと感謝に満たされます。したがって、私たちは神様の祝福を受けるだけでなく、その祝福は私たちを通して周りの人々へと流れていきます。

あなたはどうでしょうか。プライドに満ちたクリスチャン生活を送っているでしょうか。それとも、失敗と失望に満ちたクリスチャン生活を送っているでしょうか。もしかしたら、喜びと祝福に満ちたクリスチャン生活を送っているでしょうか。

カテゴリー
使徒の働き

喜びを分かち合う?

この箇所では、クリスチャンたちはエルサレムを離れ、キリストによる喜びを広げ始めました。とはいえ、彼らはエルサレムから押し出される必要がありました。

ステパノが殺された後、サウロというパリサイ人がクリスチャンたちを迫害し始めました。

皮肉なことに、サウロはキリスト教を根絶しようとしましたが、その迫害によってキリスト教はかえって広まり、多くの新しい教会が生まれました。

その後、クリスチャンになったサウロは宣教者として教会を訪れて強め、さらに多くの新しい教会を設立しました。その結果、キリスト教はローマ帝国全体に広がっていきました。

けれども、もし使徒たちが初めから使命を忠実に果たしていたなら、神様はこの迫害を許されたでしょうか。イエス様は彼らに命じられました。

あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。(ルカ24:49)

そして、イエス様は天に帰られる直前に、弟子たちにこう言われました。

しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。(使徒の働き1:8)

それでも、御霊が彼らの上に臨んだ後も、使徒たちはエルサレムにとどまり続けました。

もしイエス様の命令通りに彼らがエルサレムを離れていたなら、教会は迫害を受けたでしょうか。また、使徒たちは隠れなければならなかったでしょうか。

そうかもしれません。けれども、もしかすると彼らはその困難を避けることができたかもしれません。

迫害が始まっても、使徒たちはなおエルサレムにとどまり続けました。なぜだったのでしょうか。それははっきりとは分かりません。

彼らは教会の人々に自らの勇気を示したいと思ったのかもしれません。しかし、主の命令への不従順は続いていました。

一方、ほかのクリスチャンたちはエルサレムを離れました。

執事のひとりであるピリポは、サマリアへ行きました。イエス様はかつてサマリアを訪れましたが、多くのユダヤ人はサマリアを避けていました。彼らはサマリア人を軽蔑していたからです。

けれども、ピリポはイエス様の模範に従い、サマリアで福音を述べ伝え、奇跡を行いました。その結果はどうだったでしょうか。

その町には、大きな喜びがあった。(使徒の働き8:8)

自己中心になるのは簡単なことです。自分のことだけを考えるのは、誰にとっても容易なことです。しかし、イエス様が望まれるのは、私たちが受けた喜びを周りの人々と分かち合うことです。

多くの人々が苦しんでおり、イエス様を必要としています。だからこそ、私たちは毎日御霊に満ち溢れるべきです。そうするならば、私たちが周りの人々に触れるとき、彼らは御霊に触れられ、変えられるのです。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ28章 マルコの福音書 マルコ16章 ヨハネの福音書 ヨハネ20章 ルカの福音書 ルカ24章

いつも私たちと共におられる方

イエス様の復活について、二つの注意事項をお伝えしたいと思います。

一つ目は、マルコ16:9-20を省略することです。なぜなら、多くの聖書学者によれば、マルコはこの部分を書いていなかったと考えられているからです。

では、なぜマルコは具体的にイエス様の復活について語らなかったのでしょうか。私は三つの説を聞いたことがあります。

1つ目は、マルコが福音書を完成させる前に亡くなったという説です。

2つ目は、元々の結末が何らかの理由で失われたという説です。

3つ目は、使徒の時代には、教会で牧師がマルコの福音書を朗読した後に、イエス様の復活を目撃した人々が自分の証を語っていた可能性があるという説です。

いずれにせよ、マルコが亡くなった後、現在の結末が加えられたと考えられています。

二つ目の注意事項は、福音書間でイエス様の復活の記録を統合するのが非常に難しいということです。できる限り、復活の出来事の順番を整理しようと思いますが、これはあくまで私の考えです。

とはいえ、どの福音書を読んでも、基本的な事実は一致しています。

女性たちがイエス様の墓に着いたとき、その墓はすでに空っぽでした。そして、天使たちが現れ、イエス様の復活を彼女たちに知らせました。

その後、イエス様はマリアやほかの女性たちにご自身を現され、彼女たちは弟子たちにイエス様の復活を伝えました。

現代の弁護士によれば、法廷では証人の証言に多少の違いがあったとしても、これらの四つの事実は十分に認められるでしょう。

では、簡単にですが、復活の出来事の順番を説明します。

1.女性たちはイエス様の墓に行ったが、イエス様の遺体はありませんでした。

2.マリアが墓に入り、イエス様の遺体がないと分かると、すぐに弟子たちに知らせるために戻りました。

3.ほかの女性たちはその場に残り、おそらく何が起こったのか疑問に思ったでしょう。そして、二人の天使が現れ、そのうちの一人がイエス様の復活の良い知らせを伝えました。

4.そこで、女性たちは弟子たちに伝えるために急いで戻りました。彼女たちは急いでいたため、誰とも話しませんでした。(マタイ28:5-8;マルコ16:1-8;ルカ24:1-10)

5.その間に、マリアは弟子たちにイエス様の遺体がなくなったことを伝えました。(ヨハネ20:2)そこで、ペテロと(おそらく)ヨハネは墓を調べに行きました。マリアは彼らと共に墓に戻りました。

彼らが家を出た後、ほかの女性たちは家に来て、残っていた弟子たちに天使のメッセージを伝えました。(ルカ24:9-11)

6.ペテロとヨハネは墓に着き、マリアの話を確認しました。ヨハネはイエス様が復活されたと信じたようですが、ペテロはまだ疑っていたようです。おそらく、彼らは戻る途中でそのことを話し合ったでしょう。(ルカ24:12;ヨハネ20:3-9)

7.ペテロとヨハネが墓へ向かう際、走ったため、もしかするとマリアは遅れて着いたかもしれません。そのため、マリアがようやく墓に着いたとき、ペテロとヨハネがまだそこにいたかどうかは分かりません。

そして、イエス様はマリアの前に現れ、彼女を慰められました。その後、彼女はすぐに弟子たちのもとへ戻りました。(ヨハネ20:12-18)

8.マリアが戻っている間に、イエス様はほかの女性たちの前に現れました。彼女たちは道中だったのかもしれません。また、弟子たちが彼女たちの言葉を信じなかったため、多少の失望を感じていたかもしれません。

けれども、イエス様が彼女たちを励まされたので、彼女たちはもう一度弟子たちのもとへ向かいました。

その頃、マリアも戻ってきたため、弟子たちはマリアと女性たちの話を聞きました。(マタイ28:9-10)

その順番が正しいかどうかは分かりませんが、これが私の推測です。

さて、マリアのことを少し考えてみましょう。私がこの場面を想像すると、イエス様の墓の外で、マリアが深い悲しみに沈み、絶望している姿が浮かびます。

もし私の考えが正しければ、彼女はまだほかの女性たちの天使の経験を聞いていません。マリアが知っているのは、ただイエス様の遺体がなくなったという事実だけです。

そして、マリアが墓に入ると、二人の天使がいました。ところが、ほかの女性たちの話をまだ聞いていなかったため、マリアは彼らが天使であることを認識しませんでした。

すると、天使たちは「なぜあなたは泣いているのですか」と尋ねました。

マリアはただこう答えました。「誰かが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」

もしかすると、天使たちがイエス様の復活を伝えようとしたその瞬間、イエス様が現れたのかもしれません。

最初、マリアはイエス様を認識しませんでした。しかし、イエス様が彼女の名前を呼ばれました。

「マリア。」

その瞬間、マリアの悲しみの涙は、一気に大きな喜びへと変わりました。

私たちはどれほどマリアのようでしょうか。苦しみに沈み、神様が遠く感じることがあります。

祈っても、まるでその祈りが天井にぶつかり、神様に届かないかのように感じることもあります。

神様を求めても、見つけられないことがあります。まるで神様が沈黙し、いなくなったかのように思えることもあります。

けれども、実際には神様は私たちとともにおられます。マリアのように、私たちは神様を見ていないだけかもしれません。しかし、神様は確かにそこにおられます。そして、最もふさわしい時に、ご自身を現してくださいます。

だから、諦めないでください。誰もが悲しみの時を経験します。誰もが、神様が遠く感じる時を通ることがあります。けれども、神様はインマヌエルです。すなわち、「神様は私たちとともにおられる」ということです。

そして、イエス様を復活させたのと同じ力で、神様は私たちの悲しみを喜びへと変えてくださいます。

カテゴリー
ヨハネの福音書 ヨハネ16章

平和と喜びを見つけるために

この箇所を読むと、弟子たちがイエス様の言葉に困惑していることが分かります。なぜなら、イエス様は去って行くと話されたからです。彼らはその言葉に囚われ、イエス様のほかの言葉がかすんでしまいました。

聖霊様の約束や、将来の祝福についてのイエス様の言葉に耳を傾けることなく、彼らは繰り返しこう思いました。「イエス様は去って行かれる。私たちはどうすればいいのか。」

だから、イエス様は彼らを励ますと同時に、警告を与えられました。

まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜びます。あなたがたは悲しみます。しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。

女は子を産むとき、苦しみます。自分の時が来たからです。しかし、子を産んでしまうと、一人の人が世に生まれた喜びのために、その激しい痛みをもう覚えていません。

あなたがたも今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたがたに会います。

そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。(ヨハネの福音書16:20-22)

イエス様の死と復活によって、その言葉は成就しました。

イエス様が十字架につけられたとき、敵は喜びましたが、弟子たちは絶望しました。けれども、よみがえられたイエス様を見たとき、彼らの悲しみは喜びに変わりました。

だから、彼らが迫害やさまざまな苦しみに直面しても、その喜びを奪うことができる者は誰もいませんでした。そして、その喜びを持って、彼らはこの世を変えたのです。

しかし、イエス様の言葉は私たちにも当てはまります。イエス様が再びこの世に来られるまで、私たちは多くの試練に直面します。今は、私たちの悲しみの時です。

パウロはこう書きました。

私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。

それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。(ローマ人への手紙8:22-23)

けれども、イエス様がこの世に戻られるとき、私たちは御顔を直接見て喜ぶでしょう。そして、私たちの喜びを奪うことのできる者は誰もいません。

とはいえ、イエス様が戻られるまで、十字架の御業によって、私たちは神様に近づくことができます。

だから、イエス様のみ名によって、私たちは天の父に何でも求めることができ、神様はそれを与えてくださいます。そして、私たちの喜びは満ち溢れるようになります。(ヨハネ 15:23-24; 26-27)

時々、私たちはイエス様の言葉の例外ばかりを強調しすぎてしまうことがあります。

もちろん、私たちの祈りは神様の御心に沿うものでなければなりません。

確かに、もし私たちが誤って蛇を求めてしまったなら、神様はそれを断る権利を持っておられます。

けれども、その例外に囚われすぎると、私たちは神様に何も願わなくなってしまいます。

しかし、天の父は、私たちにためらわずに願ってほしいのです。

どれほど私たちは祈らないために、神様の祝福を逃しているでしょうか。

どれほど私たちは心の願いを神様に求めないために、喜びを不完全なものにしているでしょうか。

だから、願い求めましょう。

パウロの言葉を心に留めてください。

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。

人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。(ローマ人への手紙8:26-27)

時々、私たちは弱さのゆえに、何のために祈るべきか分からないことがあります。時には、誤ったことのために祈ってしまうことさえあります。けれども、そのようなとき、聖霊様が私たちのためにとりなし、私たちの益となるように祈ってくださいます。

だから、パウロはこう書きました。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ人への手紙8:28)

だから、この三つのことを覚えて、安心しましょう。

1.私たちの事情がどんなに悪くても、イエス様はこの世に戻り、すべてを癒してくださいます。

2.神様が私たちを愛しているので、私たちは何でも願い求めることができます。そして、聖霊様が私たちのためにとりなし、私たちに良いものだけを与えてくださいます。

3.神様はご自身の計画に従い、すべてのことを私たちの益となるように働かせてくださいます。

この三つの約束を心に留めるなら、イエス様の言葉はあなたの心により深く響くでしょう。

これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。

しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。(33)

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ13章

隠された宝と真珠の商人のたとえ話:救いの喜び

数年前、私は興味深い記事を読みました。ある夫婦が自分の庭にいたとき、木の下に埋まっていた缶を見つけました。それはただのごみのように見えましたが、注意深く見ると、中には古い金貨が入っていました。その金貨は1800年代のものでした。

さらに庭を探してみると、彼らは金貨が入った缶をいくつも見つけました。その金貨の価値は約10億円でした。私もそんな宝物を見つけられたらいいのにと思います。

この箇所で、イエス様のたとえ話は、この話に似ています。

最初のたとえ話では、ある男性が畑に隠された宝を見つけました。けれども、その畑は自分のものではなかったため、その宝をもう一度埋めた後、彼は自分の持ち物をすべて売り払って、その畑を購入しました。

2つ目のたとえ話では、商人が真珠を探していて、素晴らしい真珠を見つけました。しかし、その真珠は非常に高価だったため、彼は自分の持ち物をすべて売り払って、その真珠を購入しました。

これら2つの話を読むとき、私は2つのことに心を打たれます。

1つ目は、宝を見つけた人たちの喜びです。2つ目は、どうしてもその宝物を手に入れようとする彼らの決意です。

多くの人々がこの話を読むとき、キリストを見つけた人の喜びを思い浮かべます。

イエス様との関係には計り知れない価値があるため、彼らはイエス様を得るためにすべてを捨てる覚悟があります。イエス様に従うために、自分の家や家族、持ち物を手放します。(マルコ10:29)

それは少し痛いかもしれませんが、彼の喜びはその苦しみをはるかに上回ります。

けれども、この話にはもう一つの解釈があります。それは、私たちが宝物であり、真珠であるということです。そして、イエス様が私たちを探している人です。

私たちは自分の罪のために迷い、霊的に死んでいました。ところが、イエス様が私たちを見つけたとき、喜びをもってすべてを売り払って私たちを買い取られました。イエス様は天国を去り、自分の栄光を天国に残して人間となられました。

この世にいる間、イエス様は空腹を感じることもあり、喉が渇くこともあり、疲れることもあり、痛みに耐えることもありました。そして、イエス様は十字架で苦しみ抜いて死なれました。

なぜでしょうか。それは、イエス様にとって私たちがすばらしい価値を持つ真珠だからです。私たちは埋もれている宝物です。

私たちは汚れていて、錆びついているかもしれませんが、イエス様の目には非常に高い価値がありました。だからこそ、イエス様はすべてを捨てて、私たちを買い取られました。

では、私たちはどのように応答すべきでしょうか。

パウロは次のように言いました。

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。(第一コリント6:19-20)

だからこそ、毎日私たちを愛してくださる救い主をほめたたえましょう。。

カテゴリー
ルカの福音書 ルカ2章

喜びを広める

羊飼いたちは救い主の誕生を聞くと、すぐにベツレヘムへ走りました。そして、イエス様を見つけたとき、彼らは大喜びしました。帰り道では、「神をあがめ、賛美しました。」(20)

しかし、その言葉だけでは、彼らが感じた喜びを十分に表せていないように思います。彼らの喜びは溢れんばかりのものでした。

その喜びを誰かに伝えずにはいられなかった彼らは、できるだけ多くの人々にその良い知らせを伝えました。

その話を聞いた人々は、羊飼いの言葉に驚きました。けれども、その後彼らはどうしたでしょうか。羊飼いの話を信じて、イエス様を捜し求めようとした人もいたかもしれませんが、ルカはそのことについて何も書いていません。

それでも、羊飼いたちにとって、相手の反応は問題ではありませんでした。彼らの喜びはあふれすぎて、何かを言わずにはいられない状態だったのです。

あなたはどうでしょうか。あなたの喜びが溢れすぎて、周囲の人々に福音を伝えずにはいられないほどでしょうか。

私たちは人々の反応をコントロールすることはできません。また、彼らの反応は私たちの責任ではありません。

とはいえ、もし私たちが本当にイエス様を愛していて、イエス様の喜びが私たちの心に溢れているなら、その良い知らせを周囲の人々に伝えずにはいられないでしょう。

そうすれば、彼らも私たちが知っているその喜びを見つけることができるようになるでしょう。

あなたはその喜びを広めていますか。

カテゴリー
ルカの福音書 ルカ2章

喜びが訪れたとき

私は最初のクリスマスの夜について考えると、少し圧倒される思いがします。なぜなら、その夜に喜びがこの世に訪れたからです。

天使が羊飼いたちに現れたとき、彼はこう言いました。

恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。(ルカの福音書2:10-11)

この箇所を読むと、あるクリスマスの歌の歌詞が心に浮かびます。

Long lay the world in sin and error pining

この世の人々は長い間、罪と咎に悩み、死の陰を歩んでいました。

‘til he appeared and the soul felt its worth.

しかし、イエス様が現れたことで、私たちは自分の価値を知ることができるようになりました。

アダムとエバがエデンで罪を犯して以来、この世の人々は死の陰を歩んでいました。

私たちは自分の罪のために永遠の死に値する者となりました。そして、「この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。」(エペソ2:12)

特に、イエス様の時代には、神様がイスラエル人を捨てたのではないかと思う人もいました。なぜなら、神様はアブラハムやヤコブ、ほかの先祖たちに現れましたが、その後、約400年間、神様はずっと沈黙されていたからです。

しかし、突然、神様は語りかけてくださいました。「私はここにいる。あなたを忘れなかった。」

イマヌエルがついに来ました。(「イマヌエル」という名前には、「神は私たちと共におられる」という意味があります。)

イエス様のお生まれによって、神様はこう語られました。「私はあなたを愛し、あなたと共に歩みます。私はあなたの暗闇の中で光となります。私はあなたに希望を与え、救いをもたらします。」

けれども、神様がその良い知らせを伝えるために天使を送ったとき、祭司たちには送りませんでした。律法学者や最も宗教的とされる人々にも天使を送りませんでした。

神様は天使を普通の人々、つまり羊飼いたちに送りました。その時代、人々は羊飼いを見下していました。それでも、どうして神様は彼らに先に知らせを伝えたのでしょうか。

それは、この知らせがすべての人々のためのものだったからです。イエス様は、偉大な人々のためにも、身分の低い人々のためにも来られたのです。

さらに、イエス様が来られたとき、神様と人間の間にあった壁は崩れました。神様との平和が可能になったのです。

しかし、それは最初のクリスマスの日に起こったのではありませんでした。イエス様が十字架で死なれたとき、神様と私たちの間にあった幕が永遠に裂けたのです。

どうか、あなたがその平和を知り、そして羊飼いが感じた喜びがあなたの心を満たしますように。

Joy to the World! The Lord is come!
この世に喜びがありますように。主が来られたからです。

カテゴリー
マタイ1章 マタイの福音書

没我的な人生

「私の人生です。」

「私の権利です。」

「私の幸福です。」

どれほど私たちは、こうした言葉を耳にするでしょうか。どれほど私たちは、そのような言葉を口にするでしょうか。

しかし、ある著者が言ったように、「あなたの人生の中心は、あなたではありません。」

むしろ、あなたの人生の中心は神様です。そして、神様はこの世界に歴史を織り成しておられます。

ヨセフの話を読むとき、この真理を見ることができます。

彼のマリヤに対する反応について考えてみてください。彼らは婚約していましたが、当時の文化では、現代の私たちが考える婚約よりもはるかに強いコミットメントでした。

彼らはまだ一緒に生活しておらず、肉体的な関係もありませんでしたが、ユダヤの律法によれば、婚約を解消するには離婚の手続きをしなければなりませんでした。

けれども、その婚約の期間中に、マリヤは妊娠しました。

ヨセフはどう感じたでしょうか。深く傷ついたことでしょう。裏切られたと感じたかもしれません。怒りに震えたかもしれません。そして、ユダヤの律法によれば、彼にはマリヤを処刑する権利がありました。

しかし、彼の反応を見てみましょう。

夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。(19)

どうやら、ヨセフはもはやマリヤと結婚することを望んでいなかったようです。その状況では、おそらく誰もマリヤと結婚したがらなかったでしょう。

けれども、彼は傷ついても、復讐を望みませんでした。「正義」を主張しませんでした。自分の「権利」を訴えませんでした。

むしろ、彼はマリヤをあわれみました。彼は彼女を公の場で恥さらしにしたくありませんでした。できる限り彼女を守るために、内密に離婚しようと考えました。

マリヤは、自分の妊娠についてヨセフに説明しようとしたでしょうか。一体何が言えるでしょうか。

「誤解しないでください。私はほかの男性と関係を持ったわけではありません。この子は神様によるものです。」

そう言ったとしても、ヨセフがそれを信じるはずがありませんでした。

神様はその状況をよく理解しておられたので、ヨセフのもとに天使を遣わされました。その天使はこう言いました。

ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。

マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。(20-21)

ある程度、ヨセフは安心したかもしれません。とはいえ、その責任を拒むのは容易だったでしょう。

なぜなら、もし彼がマリヤと結婚すれば、おそらく彼の評判が傷つくからです。周囲の人々はこう思ったかもしれません。 「ああ、ヨセフは結婚する前にマリヤと関係を持ったに違いない。マリヤだけでなく、ヨセフも悪かったのだ。」

また、ヨセフはこのように答えることもできたでしょう。 「分かっているけれど、私の子ではない。私はこの子のために祈ったことはないし、あなたは事前に私の意見を求めなかった。どうして私がその責任を負わなければならないのか。」

けれども、ヨセフはそのようにはしませんでした。彼はマリヤと結婚しました。噂やさまざまな困難があったにもかかわらず、彼はマリヤと結婚しました。なぜでしょうか。

それは、ヨセフが自分の人生の中心が自分自身ではないことを知っていたからです。

神様がイスラエル、そしてこの世界を救うための計画を立てておられることを理解していました。そして、その計画が自分よりもはるかに大きなものであることも知っていました。

だからこそ、ヨセフは自分の権利や計画を脇に置き、神様とマリヤに仕えることを選びました。そして、その決断を通して、彼は本当の喜びを見出したのだと思います。

あなたはどうでしょうか。自分のために生きているでしょうか。もしそうなら、あなたの人生はむなしいものになるでしょう。しかし、神様のために、神様の目的のために生きるなら、充実した人生を見出すことができます。

イエス様はこう言われました。

いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。(マタイ16:25)

あなたは誰のために生きているのでしょうか。

カテゴリー
詩篇

ご自身の約束を守ってくださる神

これは興味深い詩篇です。つまり、この詩篇の前半は神様に対する祈りですが、後半は神様の答えです。他の詩篇にそのパターンがあったのか、私は今思い出せません。

この詩篇も都上りの歌です。そして、イスラエル人たちはエルサレムに巡礼するとき、この歌を歌って、神様がご自身のダビデに対する約束を覚えるように祈ります。要するに、ダビデの子孫がいつも治めるように祈りました。

そして、彼らは神様の宮を建てるダビデの願いを思い出して、エルサレムに上がった時、礼拝する喜びを言い表しました。彼らはこう歌いました。

さあ、主の住まいに行き、主の足台のもとにひれ伏そう。(詩篇132:7)

そして、彼らは神様にこう祈りました。

主よ。立ち上がってください。あなたの安息の場所に、お入りください。あなたと、あなたの御力の箱も。

あなたの祭司たちは、義を身にまとい、あなたの聖徒たちは、喜び歌いますように。(8-9)

つまり、「私たちと共にいてください。あなたの祭司たちは聖くなりますように。また、私たちにあなたの喜びで満たしてください。」

私たちは礼拝するとき、そのような態度を取るべきです。神様が私たちと共にいて、神様の祭司が私たちを清め、私たちを喜びで満たしてくださるように祈るべきです。

イスラエル人たちの祈りを聞いた後、神様はその祈りに応えてくださいました。

神様は、シオンで彼らに会うと約束されました。シオンに関して、神様はこう言われました。

これはとこしえに、わたしの安息の場所、ここにわたしは住もう。わたしがそれを望んだから。

わたしは豊かにシオンの食物を祝福し、その貧しい者をパンで満ち足らせよう。(14-15)

それに、神様は彼らの他の願いに叶ってくださいました。神様はその祭司たちに救いを着せたし、イスラエル人に大喜びを与えてくださいました。(16)

そして、神様はダビデの王座に座る方を送ると約束しました。その王はイスラエルの敵をも治めるし、光り輝く冠を被と約束しました。もちろん、イエス様はこの世に戻る時、その約束が成就します。

この詩篇を読む時、私は希望があります。なぜなら、神様は決して変わらないし、その約束も変わりません。神様は約束したことを必ず行います。

だから、私はイエス様の帰りを待ち望みます。なぜなら、その日に神様のすべての約束が成就するからです。

カテゴリー
詩篇

解放された

多分、詩篇126篇はエズラとネヘミヤの時代に書かれたものでしょう。この詩篇では、ユダヤ人はバビロンの追放からエルサレムへの帰還を振り返っています。

この詩人の喜びをよく見ることができます。

主がシオンの繁栄を元どおりにされたとき、私たちは夢を見ている者のようであった。

そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。そのとき、国々の間で、人々は言った。

「主は彼らのために大いなることをなされた。」

主は私たちのために大いなることをなされ、私たちは喜んだ。(詩篇126:1-3)

この詩篇について考えると、新しいエルサレムはそのようなものだろうと思います。私たちの目が光り輝き、私たちの口は喜びと笑いで満たされるでしょう。

この世の旅を振り返ると、私たちは神様の御業を見ます。つまり、神様は十字架によって、私たちをサタンの国から解放してくださいました。

この世では、私たちはたくさんの涙と共に種を蒔くかもしれませんが、最終的には喜び叫びながら刈り取ります。それに、私たちの苦労のために、神様は報いを与えてくださいます。

だからパウロはこう書きました。

ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。

あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。(第一コリント15:58)

カテゴリー
詩篇

私たちの救いを喜ぶ

私たちはこの詩篇の著者を知らないため、いつ書かれたのかは分かりません。

もしかすると、イスラエル人がエジプトから救い出された後に書かれたのかもしれません。あるいは、ダビデが王になった時に書かれたのかもしれません。または、イスラエルが国として確立された後に書かれた可能性もあります。

そんなわけで、私にはいつ書かれたのか分かりませんが、詩篇98篇を読むと、その詩人の喜びがはっきり見えます。

詩人は歌います。

新しい歌を主に歌え。(詩篇98:1)

時々私はギターを弾いて、昔の賛美の歌を歌います。その歌は今も好きですが、教会で新しい歌を歌うのも好きです。

昔の歌は素敵ですが、歌いすぎるとすぐに飽きてしまいます。なぜなら、その歌の意味を考えずに歌い始めてしまうからです。祈りを歌うというより、カラオケになってしまいます。

その一方、新しい歌を歌うとき、何を歌っているのか考えなくてはなりません。だから、もう一度私たちは神様が私たちのために何をしてくださったかを思い出します。

だから、詩人はこの新しい歌を書きました。彼は歌いました。

奇しいわざをなさった。その右の御手と、その聖なる御腕とが、主に勝利をもたらしたのだ。

主は御救いを知らしめ、その義を国々の前に現わされた。

主はイスラエルの家への恵みと真実を覚えておられる。地の果て果てまでもが、みな、われらの神の救いを見ている。(1-3)

その箇所を読むと、イザヤ書59章を思い出します。イザヤはこう書きました。

主はこれを見て、公義のないのに心を痛められた。主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。

そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。(イザヤ59:15-16)

神様は世の悪を見る時、その悪に取り組む人を見ませんでした。だから、神様自身が何かをされました。

私たちが自分の罪のせいで神様が見えなかった時、また私たちが救いを求めなかった時、神様は救いのわざを行われました。パウロはこう書きました。

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ5:8)

だから今、神様を信じる人はその救いを受けることができます。

詩人はその真理が分かったので、こう書きました。

地の果て果てまでもが、みな、われらの神の救いを見ている。(3)

そして、彼は叫びます。

全地よ。主に喜び叫べ。大声で叫び、喜び歌い、ほめ歌を歌え。

立琴に合わせて、主にほめ歌を歌え。立琴と歌の調べに合わせて。

ラッパと角笛の音に合わせて、主である王の御前で喜び叫べ。(4-6)

そして、詩人は全創造物を呼んで、「神様をこの救いのためにほめたたえよう」と言います。(7-8)

私たちの救いを喜ぶことは良いことです。それに、そうするべきです。しかし、詩人の最後の言葉を思い出しましょう。

確かに、主は地をさばくために来られる。主は義をもって世界をさばき、公正をもって国々の民を、さばかれる。(9)

イエス様を救い主として受け入れた人は、もはや罪に定められることがないため、将来の裁きを喜びをもって迎えることができます。

けれども、私たちが愛している人々も、その裁きに備えることができているでしょうか。

もちろん私たちの救いを喜びましょう。しかし、私たちの喜びと希望を周りの人々とシェアしましょう。

そうすれば、彼らもその希望と喜びを知るのです。

カテゴリー
詩篇

私たちの信頼できる神

詩篇88篇は本当に暗い歌だったけど、詩篇89篇はもっと明るく始まります。それでも、この詩篇は、苦しんだ時に書かれました。 詩人は歌います。

私は、主の恵みを、とこしえに歌います。あなたの真実を代々限りなく私の口で知らせます。

私はこう言います。「御恵みは、とこしえに建てられ、あなたは、その真実を天に堅く立てられる」と。(詩篇89:1-2)

そして詩人は神様の偉大さを思い出します。

主よ。天は、あなたの奇しいわざをほめたたえます。また、聖徒たちの集まりで、あなたの真実をも。

まことに、雲の上ではだれが主と並びえましょう。力ある者の子らの中でだれが主に似ているでしょう。

主は、聖徒たちのつどいで大いに恐れられている神。主の回りのすべての者にまさって恐れられている方です。

万軍の神、主。だれが、あなたのように力がありましょう。主よ。あなたの真実はあなたを取り囲んでいます。(5-8)

そして、彼は神様に従う人の喜びについて歌い(15-17)、神様のダビデに対する約束を思い出します。つまり、ダビデの子孫はいつまでもイスラエルを王として治めます。(3-4,19-37)

けれども、急にこの詩篇の感情は変わります。なぜなら、その約束はもうだめになったようだからです。

ダビデの子孫の罪のせいで、神様は彼らを拒絶され、彼らに背を向けられました。だから詩人は叫びます。

いつまでですか。主よ。あなたがどこまでも身を隠し、あなたの憤りが火のように燃えるのは。。。

主よ。あなたのさきの恵みはどこにあるのでしょうか。それはあなたが真実をもってダビデに誓われたものです。(46,49)

けれども、イスラエルの状態は暗かったのに、神様は変わりませんでした。神様はイスラエル人を自分の土地に一回だけではなく、二回戻されました。

そして、いつかダビデの子孫イエス様はこの世に戻って、神様が約束通りにこの世を永遠に治めてくださいます。

私たちは時々見えないけれど、神様の愛と忠実さは決して変わらないものです。神様が約束されると、いつもその約束を守ってくださいます。

神様はイスラエル人への約束を守ってくださったし、私たちへの約束も守ってくださいます。だから、詩人のように神様に信頼し続けて、歌いましょう。

ほむべきかな。主。とこしえまでも。アーメン。アーメン。(52)

カテゴリー
詩篇

私たちを救い、 満たしてくださる神

私はこの詩篇がいつ書かれたのか分かりません。もしかすると、神様の裁きによってイスラエルには飢饉があったのかもしれません。けれども、その後イスラエル人が悔い改めたので、もう一度神様の祝福を受けたのでしょう。

だから、詩人は神様のあわれみに感謝します。

神よ。あなたの御前には静けさがあり、シオンには賛美があります。あなたに誓いが果たされますように。

祈りを聞かれる方よ。みもとにすべての肉なる者が参ります。

咎が私を圧倒しています。しかし、あなたは、私たちのそむきの罪を赦してくださいます。

幸いなことよ。あなたが選び、近寄せられた人、あなたの大庭に住むその人は。私たちは、あなたの家、あなたの聖なる宮の良いもので満ち足りるでしょう。(詩篇65:1-4)

この個所で、詩人はイスラエルの罪と神様の裁きを思い出します。私は3節が大好きです。

咎が私を圧倒しています。しかし、あなたは、私たちのそむきの罪を赦してくださいます。

私たちは自分の罪に圧倒されました。私たちは神様の裁きから逃げられなかった。けれども、パウロが言ったように、「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった。」(ローマ5:8)

だから今、神様は私たちを近づけて、祝福を注いでくださいます。私たちはもう神様を恐れる必要がありません。むしろ、神様のあわれみと恵みを受けたので、愛で満たされた心で私たちは神様を仰ぎます。

そして、ある日、天国で私たち皆は神様のあわれみを賛美します。(1)

5節でダビデはこう言います。

私たちの救いの神よ。あなたは、恐ろしい事柄をもって、義のうちに私たちに答えられます。あなたは、地のすべての果て果て、遠い大海の、信頼の的です。

この詩篇の後半で、ダビデは神様の創造の力を思い出し、どうやって神様が雨を降らして、この世を支え、祝福することについて歌います。

けれども、この詩篇を読むとき、私はもう一つのことを見ます。それは私たちの救い主の業です。つまり、イエス様は私たちの罪のために死んでくださったので、この死にかけている世においても、私たちには希望があります。

神様がこの世を祝福するために天から雨を降らすように、神様は生ける水、つまり聖霊を私たちに注ぎ、毎日私たちを満たしてくださいます。

また御霊によって、神様は私たちと私たちが触れる人に恵みを注いでくださるので、私たちは豊かな実を結びます。

主よ、あなたが私に注いでくださった恵みを感謝します。その恵みによって私は救われました。私が自分自身を救う力がないとき、あなたは私を救ってくださいました。

今、あなたの聖霊で私を満たしてください。あなたの聖霊が私の人生にあふれ、私が実を結び、周りの人々に触れるように。

あなたが私の人生に注いでくださる喜びを感謝します。主イエスキリストのみ名によって祈ります。アーメン。

カテゴリー
詩篇

私たちと共におられる神

詩篇61篇で、ダビデはもう一度敵から逃げています。この詩篇を書いた時、ダビデはすでにイスラエルの王でした。

多分、この詩篇の背景にはアブサロムのクーデターがあるでしょう。アブサロムはダビデの王座を奪い、ダビデを追放しました。

だからダビデは叫びました。

神よ。私の叫びを聞き、私の祈りを心に留めてください。

私の心が衰え果てるとき、私は地の果てから、あなたに呼ばわります。(詩篇61:1-2)

「私は地の果てから、あなたに呼ばわります」という言葉は私の心を打ちます。ダビデは自分の家から遠く離れていて、ダビデが愛した神様の幕屋からも遠かったのです。

けれども、ダビデがどこにいても、神様が彼の声を聞いてくださることを知っていました。だから、ダビデは自分の苦しみの中で神様に叫びました。

どうか、私の及びがたいほど高い岩の上に、私を導いてください。

まことに、あなたは私の避け所、敵に対して強いやぐらです。

私は、あなたの幕屋に、いつまでも住み、御翼の陰に、身を避けたいのです。(2b-4)

言い換えれば、「あなたにあって、私は安心します。あなたを慕い求めるけど、あなたは遠く離れるようです。私をあなたのところに導いてください」ということです。

私たちはどれほどダビデのように感じるでしょうか。私たちは、神様に捨てられたと思うことがあります。神様にあって休みたいけど、神様は遠く離れているように感じます。

時々、私たちはダビデのように誓いをします。「私を助けてくだされば、私はこうします。」

その誓いをすれば、守らなくてはなりません。しかし、そんな誓いは要りません。神様からの私たちの遺産は恵みによって受けるのです。その遺産は、神様を愛し恐れる人のものです。

それは、困難の中の平和と希望の遺産です。

それは、神様が私たちを自分の子供と呼ぶ遺産です。

それは、神様が私たちの叫びに応える遺産です。

それは、いつか私たちがキリストとともに治める遺産です。(第二テモテ2:12)

だから困るとき、また神様が遠く離れると思うとき、その遺産を思い出しましょう。

私たちが想像するよりも、神様は近いです。

神様は聖霊によって、私たちを及びがたいほど高い岩の上に導いてくださいます。その高いところから、私たちのトラブルは小さく見えます。

その時、ダビデのように私たちは神様の御名をとこしえまでもほめ歌います。(8)

カテゴリー
詩篇

私たちの周りにカオスがある時

カオス。

子供が叫んだり、夫が病気だったり、締め切りがあったり、八方からプレッシャーがかけられたりします。

そんな経験をしたことがあるでしょうか。

誰しも人生の混乱を経験します。時々、全世界が私たちの上に落ちてくるように感じます。

また、ニュースを見ると、戦争の話や天災の話をよく聞きます。

だから、神様がだんだん見えなくなって、パニックになってしまいます。そして嵐にいたペテロのように、私たちは溺れ始めます。

詩人の言う解決策は何でしょうか。

やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。(詩篇46:10)

つまり、ちょっと止まってください。あなたの状況を見るのを止めて、少し神様を仰いでください。あなたの問題の大きさについて考えずに、神様の大きさについて考えてください。

そうすれば、何が分かるようになるでしょうか。

神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。

それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。

たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。(詩篇46:1-3)

私たちが見回ったら、

国々は立ち騒ぎ、諸方の王国は揺らいだ。(6)

しかし、

万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。(7,11)

私たちが自分の問題に焦点を当てると、神様がすべてのことをコントロールしていることを忘れてしまいがちです。神様の力はすべての問題を乗り越えます。

神様が声をかければ、この世は解けるでしょう。神様が「終わり」と言われれば、すべての戦争が終わり、すべての人々が裁かれます。

だから、主の前に静まりましょう。恐れを静め、疑問を止めましょう。そして、神様の大きさを見てください。

神様は私たちの中におられ、私たちは倒れることがありません。神様が私たちを助けてくださることを信じましょう。

神様の御霊は川のように私たちの中で流れ、私たちの人生の中で働いて、私たちを通して周りの人々に触れてくださいます。

だから、あなたはどんな問題に直面しても、神様の喜びと平和を知ることができます。

カテゴリー
ネヘミヤ記

喜び

ユダヤ人は城壁の修理を完成した後、レビ記23章で神様が命じられたように、ラッパの祭りを祝いました。

その日、祭司エズラはユダヤ人に神様の律法の書を読みました。この箇所を読んだ時、いくつかのことが私の心に響きました。

一つ目は、彼らが神様を恐れ、その言葉を尊重したことです。エズラが律法の書を開いた時、ユダヤ人は皆立ち上がりました。そして、エズラが読み上げている間、彼らは注意深く聞きました。

また、エズラが神様をほめたたえた時、彼らは「手を上げながら、『アーメン、アーメン』と答えてひざまずき、地にひれ伏して主を礼拝しました。」(ネヘミヤ記8:6)

私たちは神様をどれほど深く恐れているでしょうか。私たちは神様の言葉をどれくらい尊重しているでしょうか。

神様の前に来る時、へりくだる心を持っているでしょうか。私たちは注意深く神様の言葉に耳を傾けているでしょうか。それとも、すぐに心が他のことへと逸れてしまうでしょうか。

二つ目は、私たちには聖書を上手に教える人が必要だということです。8節にはこう書かれています。

彼らが神の律法の書をはっきりと読んで説明したので、民は読まれたことを理解した。(ネヘミヤ記8:8)

現代においても、教会にはそのような人が必要です。つまり、聖書をはっきりと読んで、人々が理解できるように説明できる人が必要です。

三つ目は、ユダヤ人の反応です。彼らは神様の言葉を聞くと、すぐに泣きました。なぜなら、彼らは神様の律法を犯したことを知ったからです。また、彼らの苦しみは自分たちのせいであることを悟りました。

神様が私たちの罪を示されたら、私たちはどのように反応するでしょうか。私たちは泣いて、悔い改めるでしょうか。それとも、私たちの心はさらに堅くなるでしょうか。

最後のポイントは、神様が私たちが自分の悲しみに浸ることを望んでおられないということです。むしろ、神様は私たちが神様の喜びによって生きることを望んでおられます。ネヘミヤはユダヤ人にこう言いました。

悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。(10)

9-10章は、彼らが悔い改める時間でした。けれども、8章では、神様は彼らの失敗によって、悲しみに浸ることを望んでおられませんでした。むしろ、神様は彼らが神様の慈しみと忠実さを喜ぶことを望んでおられました。

私たちが罪を犯した時、へりくだって悔い改めるべきです。しかし、私たちの涙と後悔に浸らないようにしましょう。

むしろ、十字架を思い出し、イエス様が私たちの罰を受けてくださったことを思い出しましょう。神様の恵みと私たちの救いを思い出しましょう。そうすれば、私たちは神様の喜びをもう一度知ることができます。

私たちが自分の罪を悲しむだけのために、神様が聖書を与えたのではありません。私たちの喜びを取り去るために、聖書を与えたのでもありません。

神様が望んでおられるのは、私たちが神様と親しい関係を持ち、神様の愛と喜びを知ることです。イエス様はこう言われました。

もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。

わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。(ヨハネ15:10-11)

カテゴリー
エステル記

神様の慈しみを祝う

祝宴。喜び。祝い。

この箇所では、何度もこれらの言葉を目にします。なぜなら、ユダヤ人が自分たちを敵から自衛した後、その救いと勝利を祝ったからです。

そして、モルデカイとエステルは、イスラエルの歴史で初めて、モーセの律法によって要求されていない祭りを始めました。それがプリムという祭りです。その祭りを説明するとき、彼らはこう言いました。

また、この両日は、代々にわたり、すべての家族、諸州、町々においても記念され、祝われなければならないとし、これらのプリムの日が、ユダヤ人の間で廃止されることがなく、この記念が彼らの子孫の中でとだえてしまわないようにした。(エステル記9:28)

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。それは、私たちが神様の祝福と慈しみを決して忘れてはいけないということです。また、次の世代に神様の御業を伝えるべきだということです。

多くの場合、私たちが祈ると、神様はその祈りに応えてくださいます。私たちは感謝しますが、すぐにその祝福を忘れてしまうことがあります。

モルデカイとエステルは、ユダヤ人がその祝福を忘れることを望みませんでした。だからこそ、その新しい祭りを始めました。

同じように、神様があなたを祝福された時には、そのことを決して忘れないでください。例えば、その祝福について日記を書くのも良いでしょう。

または、祈りのリストを作ることもできます。そのリストがあれば、神様がどのように答えてくださったのかも記録してください。

そして、例えば、クリスマスの時、そのリストや日記を振り返り、何が書かれているかを読み返し、もう一度神様に感謝しましょう。そして、子供たちに神様がしてくださったことを教えるのも大切です。

けれども何よりも、イエス様がこの世に来て、私たちの罪のために死んでくださったことを思い出し、感謝しましょう。イエス様の働きを当たり前のこととして考えるのは簡単ですが、イエス様は私たちのために本当に高い代価を払われました。

だからこそ、特にクリスマスやイースターの時に、あなたの救いを喜び祝いましょう。しかし、それらの日だけでなく、一年を通して祝い続けましょう。

ダビデはこう書きました。

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。(詩篇118:1)

カテゴリー
エズラ記

喜びと後悔

この箇所では、私たちはいくつかのことを見ます。

一つ目は、ユダヤ人たちがもう一度いけにえと捧げ物を捧げ始めたということです。また、何年かぶりに彼らは仮庵の祭りを祝いました。

二つ目は、彼らが主の宮を再建し始めたということです。そして、神殿の礎を据えたとき、彼らは大いに喜びました。

11節には、こう書かれています。

そして、彼らは主を賛美し、感謝しながら、互いに、「主はいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに」と歌い合った。こうして、主の宮の礎が据えられたので、民はみな、主を賛美して大声で喜び叫んだ。(エズラ記3:11)

けれども、同時に、泣いている人もおり、その涙は喜びのためではありませんでした。

しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、最初の宮を見たことのある多くの老人たちは、彼らの目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。

一方、ほかの多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げた。そのため、だれも喜びの叫び声と民の泣き声とを区別することができなかった。民が大声をあげて喜び叫んだので、その声は遠い所まで聞こえた。(12-13)

どうして彼らは泣いていたのでしょうか。おそらく、彼らにはほろ苦い思いがあったのだと思います。彼らは愛する宮の再建を見て、喜びました。それでも、ソロモンの宮と比べると、その新しい宮には栄光がありませんでした。

時々、私たちの悪い決断によって、私たちの人生はめちゃくちゃになります。つまり、私たちの罪によって、私たちの結婚や、健康や、家計を壊してしまいます。

そして、私たちが悔い改めると、神様は私たちを赦してくださいます。また少しずつ、神様は私たちの人生を癒し始めます。その癒しによって、私たちは喜びます。

しかし同時に、私たちは振り返って後悔します。私たちが人生の被害を見て、だんだん私たちの関係や、私たちの人生は癒されているけれど、そのプロセスは苦しいです。そして、私たちが再建するものは以前のものほど、あまり良くないと思います。

それでも、あなたの後悔によって圧倒されないようにしましょう。私たちが悔い改めると、神様は私たちが自分の失敗とその結果に焦点を当てることを望んでおられません。

むしろ、私たちが神様の赦しと恵みに休んで、未来に焦点を当てることを望んでおられます。そうすれば、神様は私たちのすべての涙をすっかりぬぐい取ってくださり、神様の栄光は私たちを通してもう一度輝き始めます。

パウロの言葉を覚えておきましょう。

神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせます。。。(第二コリント7:10)

カテゴリー
イザヤ書

救いの喜び

ある日曜日、ヨハネ3章についてのメッセージを聞きました。その日、私の牧師は16節を読みました。多分ヨハネ3:16は一番有名な聖書の箇所です。

そして、私の牧師は私たちに訊きました。「この箇所はあなたの心にまだ触れるでしょうか。それとも、その言葉を聞いても何も感じなくなったでしょうか。」

時々、私たちは救いを当然のことだと思います。つまり、救いについて考えても、特に感謝の心を持ちません。

どれぐらいあなたは救いの意味について本当に考えるでしょうか。前回はいつだったでしょうか。

この箇所を読むと、私は救いの意味を思い出します。

「主よ。感謝します。あなたは、私を怒られたのに、あなたの怒りは去り、私を慰めてくださいました。」

見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。

ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。

あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。(イザヤ書12:1-3)

子供の時に、私はいつも父の怒りを恐れていました。特に私が悪いことをした時に父の怒りを恐れました。

多くの人々は神様についてそのように考えます。神様が彼らを罰すると思うから、神様から隠れます。

しかし、この箇所によると、神様を恐れる必要はありません。神様の恵みとあわれみによって、神様の怒りは私たちから去られました。イエス様を通して私たちは罪の罰から救われました。

だから、神様を恐れて隠れる必要はありません。むしろ、神様は私たちの喜びと歌になられました。

それだけではなくて、神様は毎日私たちと共におられます。私たちがどこに行っても、何をしても、神様の手は私たちの上にあります。祝福してくださるために。導いてくださるために。また守ってくださるために。

私はそのことについてもっと考えるべきです。イエス様にあって、どのような祝福を持っているか覚えているべきです。

感謝するべきものがたくさんあります。そして、この世界は私たちを自由にさせられたメッセージを聞くべきです。

イザヤが書いたように、

主に感謝せよ。その御名を呼び求めよ。そのみわざを、国々の民の中に知らせよ。御名があがめられていることを語り告げよ。

主をほめ歌え。主はすばらしいことをされた。これを、全世界に知らせよ。シオンに住む者。

大声をあげて、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は、あなたの中におられる、大いなる方。(4-6)