カテゴリー
ガラテヤ人への手紙のデボーション

神の子の生き方

しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。(ガラテヤ人への手紙2:19ー20)

私は上の言葉が大好きです。

私はかつて神の律法の下にありました。その時、律法は私の養育係りとして、正しいことを教えてくれたけれど、正しいことを行うために力を与えることはできませんでした。(ガラテヤ3:24)

むしろ、私が失敗したとき、罪を犯したとき、神の律法は私を断罪することしかできませんでした。

でも、私を断罪した神の律法は、私をイエス様に導いてくれました。律法を通して、私にはイエス様が必要なのだと分かりました。そして律法が私をイエスの十字架に導いた途端、私は律法においては死んだ者となりました。

私はもはや律法によって断罪されていません。なぜなら、十字架でイエス様が私の罪と失敗の代価を払ってくださったからです。

そして、イエス様とともに、神様に敵対的だった私、神様を信頼できなかった私も死にました。

そして今は、キリストが私のうちに生きておられます。

私たちは、神の期待に応えられないことを恐れて生きているのではありません。

むしろ、イエス様が私を愛し、私のためにご自分を与えてくださったという確信を持って、生きているのです。

神様に愛され、受け入れられるため、頑張ってルールを守らなくてはならないと思って、生きているのではありません。

むしろ、神様が私をご自分の子供として愛し、受け入れてくださっているという確信を持ち、安心して生きているのです。

また、私は毎朝起きるたびに、神様が私を見て、「あなたは私の愛する子供です。私はあなたを喜ぶ」と言っておられるという確信をもって、生きているのです。

だから、私の最大の願いは、私の天のお父さんのために生き、天のお父さんを喜ばせることです。

それが神の子の生き方です。

それは、あなたの生き方でしょうか。

カテゴリー
テモテへの手紙第一のデボーション

神の律法の目的とは

私たちは知っています。律法は、次のことを知っていて適切に用いるなら、良いものです。

すなわち、律法は正しい人のためにあるのではなく、不法な者や不従順な者、不敬虔な者や罪深い者、汚れた者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、淫らな者、男色をする者、人を誘拐する者、噓をつく者、偽証する者のために、また、そのほかの健全な教えに反する行為のためにあるのです。

祝福に満ちた神の、栄光の福音によれば、そうなのであって、私はその福音を委ねられたのです。(テモテへの手紙第一1:8-11)

最近、あるクリスチャンたち、ある牧師でさえも、教会を旧約聖書の教えから「解き放とう」としています。つまり、彼らは神の律法が私たちにはまったく関係ないと教えているのです。

なぜなら、私たちは儀式的な律法—割礼、生贄、宗教的な祭りなど—を守る必要がないからです。

しかし、パウロによれば、律法を適切に用いるなら、それは今も私たちにとって有益なものです。では、律法を適切に用いるとは何でしょうか。それは、罪を定義することです。

上に挙げられたリストは、基本的に十戒の拡大版です。

そしてパウロが教えているのは、神の律法がすでに神様を喜ばせている義人のためではなく、むしろ神様に反抗している人々のためにあるということです。

つまり、律法は彼らの罪を指摘するのです。ローマ3:19–20では、パウロは「律法を通して生じるのは罪の意識です」と語っています。

それと同時に、パウロは「人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められない」とも語っています。なぜなら、律法を完全に行うことができる人は誰もいないからです。

だからこそ、私たちにはパウロが述べ伝える良い知らせが必要なのです。それは、

キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られたのです。(15)

しかし、「罪人」を定義するためには、「罪」を定義しなければなりません。神の律法は罪を定義します。その定義がなければ、福音は成り立ちません。私たちが罪とは何かを知らなければ、私たちは何から救われているのでしょうか。

残念ながら、教会を旧約聖書の教えから「解き放とう」としている多くの人々は、ヒメナイとアレクサンドロのように、健全な良心を捨て、自分の罪を抱え、信仰の破船に陥ってしまいました。(20)

私たちはそうではなく、信仰を保ち、立派に戦い抜き、きよい心と健全な良心、偽りのない信仰から生まれる愛の人生を歩みましょう。(5、18–19)

カテゴリー
使徒の働きのデボーション

神様にとって本当に重要なこと

うなじを固くする、心と耳に割礼を受けていない人たち。

あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖たちが逆らったように、あなたがたもそうしているのです。(使徒の働き7:51)

ユダヤ人の指導者たちはステパノに対して重大な告発をしました。つまり、ステパノが神殿や神の律法に逆らう言葉を語ったということです(6:13~14)。

しかし、ステパノによれば、その指導者たち自身が神様に逆らっていました。

過去にユダヤ人の先祖たちが、神様の任命された救い主であるヨセフ(創世記37:8、26~28;45:5~7)とモーセ(使徒の働き7:27、39)を拒絶したように、ユダヤ人の指導者たちはイエス様を拒絶してしまいました。

そして、その指導者たちが律法に従っていると主張したにもかかわらず、彼らは先祖たちと同様に、律法に何度も違反し、ついにはイエス様を十字架につけてしまいました。

さらに、彼らは神殿を大切にしましたが、その理由は誤っていました。

神殿自体は重要なものではありませんでした。なぜなら、人が造った建築物は主を収めることができないからです。むしろ、神殿は神様が人々の間に住まわれることを象徴するものにすぎませんでした(使徒の働き7:47~50)。

ヨハネによれば、イエス様こそが真の神殿です(ヨハネ2:19~21)。

イエス様にあって、神様は人となり、私たちの間に住まわれました。

原語では、ヨハネは文字通り「イエス様にあって、神様は私たちの間に幕屋を建てられた」と述べています(ヨハネ1:14)。

しかし、ユダヤ人の指導者たちはイエス様を大切にせず、むしろ十字架につけてしまいました。

では、神様にとって本当に重要なことは何でしょうか。それは、私たちが御子を敬い、御子に従うことです。天の父ご自身がこう言われました。

これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け。(マルコ9:7)

主よ、あなたこそが律法の指し示す方です。あなたこそが幕屋や神殿の象徴する方です。私が御霊に逆らったとき、どうか赦してください。また、あなたに耳と心を閉ざしたときも、赦してください。

十字架で、あなたは私のためにご自身の命を捧げられました。私の心の中で、もう二度とあなたを十字架につけたくはありません。(へブル6:6)

あなたは私の愛、敬い、従順にふさわしい方です。毎日、それらをあなたに捧げることができるよう、どうか助けてください。

私はあなたを愛しています。あなたがまず私を愛してくださり、ご自身の命を私のために捧げてくださったことは、本当に不思議なことです。心から感謝します。あなたのみ名によって祈ります。アーメン。

カテゴリー
マルコの福音書のデボーション

イエス様を微笑ませる

マルコは言わなかったけど、今日の箇所では、たぶん二人の人たちはイエス様を微笑ませたでしょう。

ちょっと驚くべきことですが、一人は律法学者でした。なぜそれは驚くべきでしょうか。なぜなら、多くの律法学者たちは、イエス様に敵対していたからです。

もう一人は、貧しいやもめでした。

どうして、私は、その二人がイエス様を微笑ませたと思うのでしょうか。

その二人には共通点がありました。それは、彼らが、神様が人々にルールを守らせることよりも、人々の心に関心を持っておられると理解したということです。

律法学者が理解したのは、神様がユダヤ人たちに全焼のささげ物やいけにえを捧げるように命じられたけれど、それらよりも、神様が人々に心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛することを望んでおられるということです。

さらに、神様は、人々が神様が大切にされる人々(つまり、すべての人々)を大切にすることを望んでおられます。

やもめが理解したのは、自分の捧げ物が小さいけれど、その捧げ物の大きさよりも、神様が神様への彼女の愛と信頼に関心を持っておられるということです。

その日、たぶん、多くの人々は神様の律法に従い、十一献金を捧げました。彼らはそのやもめよりもたくさんのお金を捧げたでしょう。

でも、そのやもめの心は神様のものでした。イエス様はそれを見抜かれました。

私たち皆が、イエス様を微笑ませる者となりますように。

カテゴリー
ガラテヤ人への手紙

恵みから落ちてしまう危険性

多くの人々はこの記事のタイトルを読んで、こう考えるかもしれません。「キリストから離れる?恵みから落ちてしまう?それは何と酷いことだろう。」

アメリカでは、ノン・クリスチャンであっても「恵みから落ちてしまう」という表現を使うことがあります。この言葉の意味は、ある尊敬されていた人が酷いことをしたために、その評判が失墜するということです。

しかし、この箇所でパウロが話しているのは、殺害や強姦、賄賂、その他の重大な犯罪についてではありません。

むしろ、パウロは律法主義について語っています。つまり、もし私たちが律法によって神様に義と認められようとするならば、私たちはキリストから離れ、恵みから落ちてしまうのです。

パウロは彼らに警告しました。

よく聞いてください。私パウロがあなたがたに言います。もしあなたがたが割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに、何の益ももたらさないことになります。

割礼を受けるすべての人に、もう一度はっきり言っておきます。そういう人には律法全体を行う義務があります。(ガラテヤ人への手紙5:2-3)

要するに、「律法主義の考え方を受け入れるならば、すべての律法を完全に守らなければ、あなたは神様に義と認められません。

割礼を受けるだけでは十分ではありません。旧約聖書に書かれているすべての律法に従わなければなりません。さらに、もしあなたが律法によって神様に義と認められようとするならば、キリストの死はあなたに何の益もないのです。」

ユダヤ人のクリスチャンたちが教えていたのは、「キリストの死を信じ、さらに努力して律法に従うならば、ガラテヤ人たちは義と認められる」という考え方でした。ところが、その考え方は間違っていました。

救いの道は二つしかありません。一つは、人が完全に律法を守ることです。もう一つは、イエス様を信じて、イエス様の義を受けることです。それ以外の方法は存在しません。

だから、パウロはガラテヤ人たちにこう語りました。

律法によって義と認められようとしているなら、あなたがたはキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。(4)

律法によって神様に義と認められようとするならば、あなたは実際にイエス様に背を向けているのです。あなたは基本的にイエス様にこう言っているのです。「あなたの十字架の働きは私には十分ではありません。」

その態度を取ることによって、あなたはイエス様の働きを否定することになってしまうでしょう。

モルモン教の教えによれば、あなたが努力して善を行えば、神様はあなたに恵みを与えてくださり、あなたは救われるとされています。

ところが、自分の行いによって救いを得ようとするならば、パウロの教えによれば、あなたは恵みを受けることができず、むしろ、恵みから落ちてしまうのです。

パウロは続けてこう言います。

私たちは、義とされる望みの実現を、信仰により、御霊によって待ち望んでいるのですから。(5)

私たちは今もなお罪を犯しています。それでもイエス様の十字架の働きによって義と認められています。

さらに、それだけではなく、私たちはより素晴らしい希望を持っています。それは、イエス様が再び来られる日、私たちは変えられ、真に義なる者となり、二度と罪を犯さなくなることです。

ローマ8:23で、パウロは「私たちは新しい体を受ける日を待ち望み、うめく」と語っています。なぜ、私たちはその日を待ち望むのでしょうか。

その理由の一つは、もう病気や死に向き合う必要がなくなるからです。

しかし、もう一つの理由は、罪との戦いを経験しなくなることです。その日、私たちは真に罪から自由にされます。

それこそが、私たちの義の希望です。そして、その希望を持っている人は罪に耽ることはありません。むしろ、自分を救ってくださった方を喜ばせたいと願うのです。それは、自らの救いを得るためではなく、すでに与えられた救いを喜ぶためです。

だから、パウロはこう語ります。

キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。(6)

あなたはどうでしょうか。まだ神様の好意を得ようとしているでしょうか。それが、神様を喜ばせるためのあなたの動機でしょうか。

あるいは、すでに神様に義と認められたことを知り、罪から完全に解放される日を楽しみにしているでしょうか。その希望があるゆえに、神様を愛し、喜ばせたいと願っているでしょうか。

カテゴリー
ガラテヤ人への手紙

無益な宗教に逆戻り

多くの人々は救いについて、なぜクリスチャンがそれほど排他的なのか疑問に思います。つまり、なぜクリスチャンは、イエス様以外には神様への道がないと主張するのでしょうか。

私は、ほかの宗教にも良い点があることを認めます。多くの宗教は悪に反対し、善行を促します。何が良いことであり、何が悪いことであるかについて、それぞれの宗教の教えは完全に一致するわけではありませんが、共通点は多くあります。

しかし、問題は宗教とその儀式が神様を描くという点にあります。ユダヤ教の場合、その描写は比較的正確です。なぜなら、神様ご自身がユダヤ人に対して、律法と儀式を通してご自身に関する描写や、キリストに関する描写を与えてくださったからです。

けれども、その他の宗教における神様の描写は、神様がどのような方であるかをほとんど分からなくするほどに、歪められています。そのため、その宗教の律法や儀式は、人々を神様へと近づけることができません。

ユダヤ教は他の宗教よりも優れていますが、それでもユダヤ教の律法と儀式は、イエス様と救いの現実そのものではなく、ただの描写にすぎません。

ユダヤ教の儀式、祭り、犠牲は、イエス様とその十字架の犠牲を描写していますが、それらは単なる象徴であり、現実ではありません。イエス様とその十字架の犠牲こそが現実なのです。

したがって、ユダヤ教の儀式、祭り、犠牲には、人を救う力がありません。そして、もし神様が定められた儀式や祭り、犠牲が人々を救うことができないのであれば、ましてや他の宗教のものが人を救うことはできないでしょう。

だから、パウロはこう言いました。

あなたがたは、かつて神を知らなかったとき、本来神ではない神々の奴隷でした。しかし、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうして弱くて貧弱な、もろもろの霊に逆戻りして、もう一度改めて奴隷になりたいと願うのですか。

あなたがたは、いろいろな日、月、季節、年を守っています。私は、あなたがたのために労したことが無駄になったのではないかと、あなたがたのことを心配しています。(ガラテや人への手紙4:9-11)

パウロは、かつての神々や修行について、ガラテヤ人たちに語ります。パウロは言いました。

「あなたたちが救われる前、本来神ではない神々の奴隷でした。救いをもたらすことのできない儀式や祭りを祝うように強制されていました。

けれども今や、あなたたちは知っているでしょう。あなたたちは神様を知っており、神様にも知られています。神様の子供として、神様と親しい関係を持っているのです。

それなら、どうして弱くて力のないものに戻ろうとしているのですか。あなたたちは、かつての神々や修行に戻っているわけではないかもしれません。けれども、今や自分の救いを得るために、ユダヤ教の儀式や修行に従い始めています。

ところが、かつての儀式や修行と同じく、ユダヤ教の儀式や修行にも力はまったくありません。

その儀式や修行は、神様を知るための初歩でした。その目的は、あなたが自分の罪と救い主の必要を理解することです。けれども、それ自体はあなたたちを救うことはできません。

むしろ、それを通してあなたたちが理解するのは、自分が律法を完全に守ることができないために、裁きに値するということです。それは惨めなことでしょう。そのことを知っているはずなのに、どうしてそのものに戻りたいのですか。」

そして、パウロは言いました。

「考えてみてください。私はあなたのようになったでしょう。私はあなたたちと共に食事をし、あなたたちの食べ物を食べて、ユダヤ教の習慣を破りました。

だから、あなたたちも私のようになってください。宗教のルールではなく、むしろキリストへの信仰によって生きてください。」

パウロは私たちにも同じことを言います。

私たちはキリストの象徴に従うのではなく、つまりユダヤ教の律法と儀式に従うのではなく、イエス様ご自身に従いましょう。なぜなら、それらには私たちを救う力がないからです。

むしろ、イエス様の十字架の働きを覚え、神様の子供として、神様との関係を喜びましょう。

カテゴリー
ガラテヤ人への手紙

律法とは何か、その役割とは(3)

前回の記事で私たちが確認したのは、律法が神様の作られたもう一つの救いの道ではないということです。むしろ、律法の目的は、私たちをキリストへ導くことです。パウロはこの真理をさらに具体的に説明します。

しかし、聖書は、すべてのものを罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人たちに与えられるためでした。

信仰が現れる前、私たちは律法の下で、監視され、来るべき信仰が啓示されるまで閉じ込められていました。(ガラテヤ人への手紙3:22-23)

パウロはローマ人への手紙第7章から第8章で、似たことを書きました。

その箇所でパウロが述べたのは、律法が現れる前、人々は罪が何であるかを理解していなかったということです。彼らは、自分の行いが神様を悲しませていることを知らず、幸せな人生を送っていました。

そして、神様は律法を示され、「あなたはこのように生きるべきです」と言われました。

けれども、人々はその律法を見たとき、「ああ、そうか。知らなかった。ごめんなさい。これから、あなたの道を歩みます」とは言いませんでした。むしろ、彼らの神様への態度はさらに反抗的になったのです。

悔い改める人もいましたが、神様を喜ばせたいと思っても、律法を完全に守ることはできませんでした。彼らはまだ罪深い心を持っていたため、律法を完全に守ることは不可能でした。言い換えると、彼らはまだ罪の奴隷だったのです。

それでも、キリストが来られるまで、律法はある程度、人の罪を抑制していました。だから、パウロは言いました。

信仰が現れる前、私たちは律法の下で、監視され、来るべき信仰が啓示されるまで閉じ込められていました。(23)

要するに、律法は旧約聖書の信者たちの罪を完全に止めることはできませんでしたが、その罪をある程度抑制しました。だから、パウロはこう言いました。

こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認めらえるためです。(24)

パウロの時代、養育係は少年の人生、特にその道徳を監視しました。その少年がどこへ行っても、養育係も同行し、少年がトラブルに巻き込まれないように見張っていました。登校するとき、養育係はその少年を連れて行き、先生に預けました。

律法も旧約聖書の信者たちに対して同じ役割を果たしました。律法は彼らが罪に巻き込まれないように監視しました。(もっとも、彼らが罪に陥ることもありました。)

そして、律法は彼らを本当の先生、すなわちイエス様へと導きました。、律法はどのようにして彼らを導いたのでしょうか。

律法を通して、神様は救い主についての多くの描写を与えられました。例えば、全焼のいけにえ、過ぎ越しの祭り、贖罪の日などは、イエス様を指し示すものでした。

もちろん、それ自体は信者たちを救うことはできませんでした。けれども、その描写を通して、イエス様の時代に至るまで、モーセやほかのイスラエルの民は神様に従い続けました。

そして、イエス様が現れたとき、神様を愛する人々は、その描写を覚えていて、イエス様とその十字架の働きの意義を理解し(ヨハネ5:39、46)、イエス様を信じました。

もう一度言います。律法自体は彼らを救うことはできませんでした。しかし、律法によって、彼らはイエス様を信じるようになりました。

もちろん、旧約聖書の信者たちはイエス様を知りませんでした。そのため、神様のご計画を具体的に知ることはできませんでした。

それでも、彼らは、そのイエス様の描写を信じたので救われました。彼らは律法の従順によって救われたのではなく、その信仰によって救われたのです。

パウロはこの真理を次のようにまとめます。

しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。(25)

イエス様がすでに来られたので、その描写が明らかになり、私たちの信仰はもはや微かなものではありません。

モーセやほかの旧約聖書の信者たちとは異なり、私たちには、もはや微かな描写は必要ありません。キリストにあって、私たちは真実のものを持っているので、律法という養育係は不要です。

むしろ、私たちは救いのためにイエス様だけを信頼します。そして、イエス様が私たちに与えてくださった聖霊様を通して、私たちは自然に神様を喜ばせ始めます。

だから、さまざまな規則に従うことに焦点を当てるのではなく、感謝を持って十字架を仰ぎ、聖霊様の導きによって歩みましょう。それが真のクリスチャンの生活です。

カテゴリー
ガラテヤ人への手紙

律法とは何か、その役割とは(2)

前回の記事では、律法が何をしないのかについてお話ししました。つまり、律法は神様の約束に取って代わるものではないということです。

神様とアブラハムの契約は、神様の約束による一方的なものでした。その契約は、アブラハムやその子孫の行いに基づくものではありませんでした。したがって、律法がその契約に取って代わることはありません。

パウロはこの真理をさらに説明します。

(律法は)御使いたちを通して仲介者の手で定められたものです。仲介者は、当事者が一人であれば、いりません。しかし約束を与えになった神は唯一の方です。(ガラテヤ人への手紙3:19-20)

モーセが十戒を受けるためにシナイ山を登ったとき、イスラエルの民は神様の偉大さに圧倒され、恐れおののきました。そして、彼らはモーセにこう言いました。

あなたが私たちに語ってください。私たちは聞き従います。しかし、神が私たちにお語りになりませんように。さもないと、私たちは死んでしまいます。(出エジプト記20:19)

だから、モーセは神様に近づきましたが、イスラエルの民は神様から遠く離れて立っていました。(出エジプト記20:21)

イスラエルの民への神様の言葉は、モーセを通して語られました。神様はモーセに言われました。「イスラエルの民は、これとこれとこれをしなければならない。そうすれば彼らは生きる。けれども、そうしなければ、彼らは死ぬ。」

そして、モーセはその指示をイスラエルの民に伝えました。

でも、少し考えてみてください。なぜ神様は仲介者(つまりモーセ)を必要とされたのでしょうか。

それは、律法が双方向の契約だったからです。

神様には果たさなければならない義務があり、イスラエルの民にも果たさなければならない義務がありました。そして、イスラエルの民が自分の義務を果たさなければ、神様が約束された祝福は無効になってしまいました。

最終的に、それが起こりました。イスラエルの民が何度もその契約を破ったため、神様はその契約を無効にされました。その契約は非常に壊れやすいものでした。

ところが、パウロはこう言いました。「約束を与えになった神は唯一の方です。」

要するに、神様がアブラハムとその子孫と契約を結ばれたとき、義務を果たさなければならないのは神様だけでした。祝福を得るために、アブラハムは何もする必要がありませんでした。

だからこそ、アブラハムとの契約はイスラエルの民との契約とは全く異なっていました。アブラハムとの契約は無効にすることのできないものでした。なぜなら、その契約は私たちの行動ではなく、神様の行動によるものだったからです。

簡単に言えば、壊れやすい契約が、無効にすることのできない契約に取って代わることはできないのです。

それでは、律法とは何でしょうか。(19)

それは論理的な質問ですね。

パウロは答えます。

それは、約束を受けたこの子孫が来られるときまで、違反を示すために付け加えられたもので(す)。。。(19b)

要するに、キリストが来られるまで、律法は一時的に罪を対処する方法でした。モーセの時代からイエス様が来られるまで、何百年もの歳月が流れました。その間、神様は罪を正しく扱わなければなりませんでした。そこで、神様は律法を用いられました。

とはいえ、パウロは重要な質問を投げかけます。

それでは、律法は神の約束に反するのでしょうか。(21)

言い換えると、律法はもう一つの救いの道でしょうか。

答えは?

決してそんなことはありません。もし、いのちを与えることが出来る律法が与えられたのであれば、義は確かに律法によるものだったでしょう。(21b)

要するに、もし律法がもう一つの救いの道だとしたら、イエス様が来られる必要はなかったでしょう。なぜなら、私たちが律法に従えば、救われるからです。

しかし、律法を完全に守ることができる人はいないので、律法にはいのちを与える力がありません。むしろ、律法は私たちを罪から救うことができる方へ導くのです。

次の記事で、そのことをさらに説明します。

カテゴリー
ガラテヤ人への手紙

律法とは何か、その役割とは

多くの人々は十戒や旧約聖書の律法を見ると、こう考えます。「律法によって私は義と認められるだろう。永遠の命を望むなら、その律法に従うべきだろう。」

ところが、この考え方は、律法が何であるか、そして何ではないかについての誤解です。また、律法が何をするのか、何をしないのかについての誤解でもあります。

そこで、パウロは律法について具体的に説明します。

人間の契約でも、いったん結ばれたら、だれもそれを無効にしたり、それにつけ加えたりはしません。

約束は、アブラハムとその子孫に告げられました。神は、「子孫たちに」と言って多数を指すことなく、一人を指して「あなたの子孫に」と言っておられます。それはキリストのことです。

私の言おうとしていることは、こうです。先に神によって結ばれた契約を、その後四百三十年たってできた律法が無効にし、その約束を破棄することはありません。(ガラテヤ人への手紙3:15-17)

パウロによれば、契約がいったん結ばれると、それを簡単に無効にすることはできません。この箇所で、パウロが言う「契約」とは、おそらく遺言について語っているのでしょう。

人が遺言を書き、亡くなった後、その遺言を簡単に無効にすることはできません。なぜでしょうか。それは一方的な契約だからです。つまり、一人の人だけが契約の条件を定め、その人の約束に従って契約の条件が実行されるのです。

神様はアブラハムとそのような契約を結ばれました。この契約はアブラハムの行いに基づいているのではなく、むしろ神様の約束のみに基づいていました。

創世記第15章では、神様はアブラハムの子孫についてさまざまな約束をされました。そして、煙の立つかまどと燃えているたいまつとして現れ、アブラハムへの約束の証として、切り裂かれた動物の間を通り過ぎられました。

現代の私たちの文化では、それは非常に不思議なことのように思えますが、当時の文化では、人々はそのように契約を結んでいました。(その時代には印鑑などが存在していませんでした。)

通常、契約を結んだ二者が、切り裂かれた動物の間を通り過ぎました。その意味は、「もし私がこの契約を守らなければ、この動物のように殺されることになる」というものでした。

ところが、神様とアブラハムの契約では、アブラハムはその切り裂かれた動物の間を通り過ぎませんでした。神様だけが通り過ぎられました。それは一方的な契約でした。

そして、パウロによれば、その契約はアブラハムだけのためではありませんでした。その契約はアブラハムの子孫、つまりイエス様のためだったのです。

創世記第12章7節、第13章6節、第15章18節におけるアブラハムへの神様の約束に関するパウロの解釈は、とても興味深いものです。

「子孫」という言葉は、一人の子孫を指す場合もあれば、多くの子孫を指す場合もあります。創世記では、神様は主にアブラハムの多くの子孫について語られました。

ところが、パウロによれば、もちろんその契約の祝福はアブラハムの真の子孫すべてのためでしたが、特にイエス様のためのものでした。そして、イエス様を通して、アブラハムのほかの子孫は祝福を受けるのです。

また、パウロは一つの重要なことをはっきりと教えています。律法は神様の約束の条件を変えるものではありません。その約束はアブラハムの行いに基づくものではありませんでした。だからこそ、神様の約束は私たちの律法を守る能力に基づくものでもないのです。

なぜでしょうか。パウロはこれについて説明します。

相続がもし律法によるなら、もはやそれは約束によるのではありません。しかし、神は約束を通して、アブラハムに相続の恵みを下さったのです。(18)

要するに、もし神様の祝福が律法の遵守によるものであるなら、その祝福はもはや神様の約束による一方的な契約に基づくものではなくなります。むしろ、その祝福は律法の遵守に依存することになります。

ところが、神様が祝福の約束を与えた時、その約束には条件がありませんでした。神様の契約は、恵みによる一方的なものです。

その契約が一方的なものであるため、神様はそれを簡単に無効にすることはできません。神様はご自身の約束を必ず守られます。なぜなら、それが神様の御性質だからです。神様はご自身が約束されたことを必ず成し遂げられます。

だから、覚えておきましょう。律法は神様の約束に取って代わるものではありません。アブラハムとその子孫に神様が約束された祝福は、神様の律法の遵守に基づいているのではありません。

では、律法の目的とは何でしょうか。次の記事で、そのことについてお話しします。

カテゴリー
コリント人への手紙第二

律法の目的を正しく理解する

多くのクリスチャンは、クリスチャン生活をさまざまなルールを守ることだと考えています。多くのノンクリスチャンも同じように捉えているでしょう。

しかし、クリスチャンとして、私たちの栄光はルールにあるのではありません。なぜでしょうか。

パウロは、律法についてこう書きました。

石の上に刻まれた文字による、死に仕える務めさえ栄光を帯びたものであり、イスラエルの子らはモーセの顔にあった消え去る栄光のために、モーセの顔を見つめることができないほどでした。

そうであれば、御霊に仕える務めは、もっと栄光を帯びたものとならないでしょうか。

罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めは、なおいっそう栄光に満ちあふれます。実にこの点において、かつては栄光を受けたものが、それよりさらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているのです。

消え去るべきものが栄光の中にあったのなら、永続するものは、なおのこと栄光に包まれているはずです。(コリント人への手紙第二3:7-11)

律法が与えられたことは、本当に栄光に満ちた出来事でした。なぜなら、律法を通して、私たちは神様がどのような方であるか、そして私たちに対する神様の御心を知ることができるからです。

律法が与えられる前、人々はそのことを知りませんでしたが、律法によって、その真理が明らかにされました。

けれども、律法には問題がありました。律法を完全に守ることができる人は誰もいません。そのため、律法は私たちを死に至らせました。だからこそ、その栄光はすぐに消え去りました。モーセの顔に輝いていた栄光も、すぐに消え去りました。

モーセがシナイ山から降り、十戒を持ってきたとき、彼の顔は神様の栄光に輝いていました。イスラエルの民はその輝きを見て恐れたため、モーセは顔に覆いをかけました。

ところが、パウロによれば、その栄光が消え去りつつあっても、モーセはその覆いを外しませんでした。

もしかすると、モーセは恥ずかしさを感じていたのかもしれません。または、こう思っていたかもしれません。

「もし私がもっと聖い人であれば、この栄光は消え去らなかったのではないか。」

もしかしたら、そうだったのかもしれません。

私はもう一度言います。律法の問題は、律法を完全に守ることができる人が誰もいないことです。そのため、律法は誰にもいのちを与えることができません。律法には、私たちをキリストと同じかたちに変える力がありません。

それにもかかわらず、多くの人々は律法を守ることで、神様が彼らを受け入れると考えています。パウロによれば、彼らが律法を読むと、覆いが彼らの心にかけられます。(14-15)

そのため、彼らは律法に関する真理を見ることができません。

つまり、律法の栄光はすでに消え去ったのです。けれども彼らは、まだ律法が栄光に満ちていると思い込み、その律法を通して神様に受け入れられると考えています。だから、彼らは必死に律法を守ろうとします。

しかし実際のところ、律法は彼らの罪を明らかにし、裁きをもたらすのです。

けれども、覆いが取り除けられると、私たちは気づきます。それは、律法の栄光がすでに過ぎ去ったということです。そして、私たちは本当に栄光に満ちたものを探し始めるのです。

それは何でしょうか。それは、御霊の働きです。イエス様の御業によって、聖霊様の務めが始まりました。十字架において、イエス様は私たちの罪の代価を支払われました。

だから、私たちが信仰をもって、自分の罪を悔い改め、イエス様を自分の主とすると、聖霊様は私たちの心を変え始めます。そして、私たちは日々、栄光から栄光へと主と同じかたちに変えられていきます。

「栄光から栄光へと。」

律法の栄光とは異なり、御霊の務めの栄光は決して消え去ることがありません。なぜなら、御霊の務めの栄光は、律法の栄光よりもはるかに優れているからです。

だからこそ、私たちは律法の目的を正しく理解する必要があります。律法によって、私たちは神様がどのような方であるかを知り、神様の御心を理解しました。

しかし、その栄光はすでに過ぎ去りました。もし新しい心を持ちたいと願うなら、律法や自分の努力に頼るのではなく、御霊の導きに委ねて歩みましょう。

むしろ、毎日、聖霊様とともに歩むことを学びましょう。そうすれば、私たちは周りの人々に天の父の栄光を映し出すことができるのです。

カテゴリー
ローマ人への手紙

破れた力

この箇所を初めて読んだとき、私は本当に混乱しました。というのも、パウロは自分のポイントを説明するために、結婚の比喩を用いました。けれども、パウロは結婚の比喩をちぐはぐな形で用いています。

つまり、パウロは私たちと律法との関係や、私たちと神様との関係について語る際に、結婚の比喩を用いたのです。

その比喩では、ある男性が亡くなったことで、結婚の律法は妻に対してもはや効力を持たなくなりました。

つまり、その律法によれば、夫が生きている間、彼女は別の人と結婚することができませんでした。しかし、彼が亡くなると、彼女は別の人と結婚することができたのです。

そこで、私はこう考えました。

「この比喩では、夫は誰なのか。妻は誰なのか。

パウロによれば、私たちは律法に対して死にました。ということは、私たちが夫で律法が妻なのだろうか。

いや、違う。なぜなら、この比喩では、夫が死ぬと妻は別の人(つまりキリスト)と結婚できる。

もしそうなら、律法がキリストと結婚することになるのか?それはナンセンスです。

さらに、パウロが言っているのは、私たちがキリストと結婚するということなのです。

では、律法が夫で、私たちは妻なのでしょうか。いや、違います。パウロは律法が死ぬとは言っていません。むしろ、私たちが死んだと言いました。」

最終的に、私たちはパウロの比喩の使い方にあまり拘りすぎない方がよいでしょう。

パウロはあるポイントを伝えたいと思っていました。たとえその比喩の使い方がちぐはぐであったとしても、私たちはその比喩そのものに拘るのではなく、パウロの伝えたかった要点を理解しようとすべきです。

では、パウロの要点とは何でしょうか。

「死によって、人に対する律法の力が破られます。」

つまり、結婚の場合、夫の死によって、その妻に対する結婚の律法の力は無効になります。

私が以前言ったように、夫が生きている間は、律法によって、彼女は別の人と結婚することができませんでした。けれども、夫が亡くなると、その律法は彼女に適用されなくなり、彼女は別の人と結婚することができるのです。

私たちの場合、私たちは別の律法の下にありました。それは神様の律法です。

その律法は、何が善で何が悪かを示していました。そして、その律法のもとで私たちは罪を犯すと裁かれました。

さらに、私たちの罪によって、神様から離れてしまい、神様との関係を持つことができませんでした。

しかし、キリストにあって、私たちは死にました。ローマ書6章に、私たちはそのことを読みました。

イエス様が十字架で死んだとき、私たちはイエス様と共に死にました。そして、イエス様は私たちを新しい人として復活させてくださいました。(6:3-7)

バプテスマはこの真理を象徴するものです。水はお墓を象徴しています。そして、私たちが水に沈むとき、それは霊的な真理を表します。

私たちの古い人生—つまり、自分のために生きる私たち、また、神様に反抗する私たちは死にました。そして、私たちは新しい人として復活するのです。

私たちは神様に従いたいのです。そして、これから神様のために生きたいのです。

それでもなお、もっと大切なのは、聖霊様を通して神様が私たちのうちに住んでおられることです。神様は私たちに、御自分を喜ばせたいという望みを与え、さらにその望みを実現する力を与えてくださいます。

では、パウロのポイントに戻りましょう。

私たちはイエス様と共に死んだので、神様の律法はもはや私たちに対して力を持ちません。

私たちと神様との関係は、私たちが律法を守ることに基づくものではなく、神様の恵みとイエス様の十字架の働きに基づいています。

律法は、もはや私たちを裁くことができません。なぜなら、イエス様が私たちの罪の罰を、すでに身代わりとして受けてくださったからです。

たとえ私たちが罪を犯しても、律法はもはや私たちを神様から引き離すことはできません。むしろ、イエス様にあって、私たちは神様との関係を持っています。

イエス様と教会の関係が、新郎と新婦の関係として描写されているのは、偶然ではないと思います。

教会の一員として、私たちはイエス様と結びつけられています。そして、私たちはイエス様のために実を結びます。

もちろん、これは文字通りの子どもを生むという意味ではありません。

けれども、私たちが霊的な実を結ぶことによって、つまり、神様の愛と福音を分かち合うことによって、神様の国は広がっていきます。

この真理に思いを巡らし、喜びましょう。

カテゴリー
ローマ人への手紙

満ち溢れる恵み

この箇所は二つの真理を示しています。

第一の真理は律法の限界、第二の真理は恵みの力です。

パウロはこう言いました。

律法が入って来たのは、違反が増し加わるためでした。(ローマ人への手紙5:20)

それは少し奇妙に聞こえるかもしれません。人の罪を増やすことが神の律法の目的なのでしょうか。

けれども、13節を読むと、パウロの意図がより明確になります。

実に、律法が与えられる以前にも、罪は世にあったのですが、律法がなければ、罪は罪として認めらないのです。(13)

律法が存在する前に、人々は悪いことをしました。しかし、人々が神様の基準を知らないかぎり、その基準によって裁かれることはありません。それでも、神様に背を向けたため、そのことによって彼らは裁かれました。

さらに、自分の良心や律法に反したため、彼らの良心や律法が神様の基準に一致しているかぎり、彼らは裁かれました。(ローマ2:14-15)

けれども、彼らの良心や律法は不完全でした。それらは汚れた鏡のようでした。

だから、神様はご自身の律法を人々に与えてくださいました。その律法によって、人々は何が良いことであり、何が悪いことなのかをはっきりと知るようになりました。

ところが、人々がその律法を知るにつれて、罪は増えました。なぜなら、彼らは意図的に神様の律法に違反し始めたからです。

これこそが律法の限界です。律法は私たちを良い人に変えることはできません。むしろ、私たちは罪を知ることで、責任が増します。

それに、私たちは罪人の心を持ち、神様に逆らうため、その律法を見ると、罪をさらに犯したくなるのです。

その結果は何でしょうか。死です。

けれども、良い知らせがあります。

しかし、罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。

それは、罪が死によって支配したように、恵みもまた義によって支配して、私たちの主イエス・キリストにより永遠のいのちに導くためなのです。(20b-21)

ある人々はこう思うかもしれません。

「どうして神様は律法を与えられたのでしょうか。私たちの責任が増えれば増えるほど、私たちの罰は厳しくなります。

それを知っていても、神様の律法は私たちに与えられました。それは厳しすぎるのではないでしょうか。神様はただ罰したいのでしょうか。」

パウロはそのように考えませんでした。なぜなら、どんなに罪が増えても、イエス様を救い主として受け入れる人に対して、恵みは満ち溢れるからです。神様の恵みが覆うことのできない罪は、何ひとつないのです。

さらに、人がどんなに悪くても、神様の恵みはその人を変えることができます。パウロは、「恵みもまた義によって支配する」と言いました。

もちろん、恵みによって神様が私たちを見てくだされば、「この人は無罪だ」と言われます。

しかし、それだけではなく、神様の恵みによって私たちは新しい心を受けます。その新しい心を受けることで、私たちは自然に良いことを行い始めます。私たちの考え方、行い、言葉は神様を喜ばせます。

言い換えると、私たちは神様の目には義人として認められるだけでなく、実際に義人とされるのです。究極的に、神様が私たちの内に働かれることによる結果は、永遠のいのちです。

だからこそ、恵みは驚くべきものです。どんなに悪い状態でも、神様の恵みはあなたを変えることができます。あなたがすべきことは、ただその恵みを受けることです。

あなたはどうでしょうか。神様の恵みを本当に知っていますか。

カテゴリー
ローマ人への手紙

律法を捨ててしまう?

多くの人が3章を読むと、次のように尋ねるかもしれません。

「もし律法によって私たちが神様に義と認められないのなら、律法を捨ててしまってもよいでしょう。結局、律法には意味がないのだから。」

けれども、パウロはこのように答えました。

それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法を確立することになります。(ローマ人への手紙3:31)

「律法を確立する」とはどういう意味でしょうか。

言い換えれば、私たちが律法には、私たちを救いへと導く役割があることを認めるということです。

ガラテヤ人への手紙で、パウロは律法を私たちの「養育係」と呼びました。

では、律法は私たちに何を教えたのでしょうか。律法は神様の聖さを示しました。さらに、律法は私たちの罪を明らかにしました。

だから、パウロはこう書きました。

なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。(ローマ人への手紙3:20)

そして、律法が私たちの罪を明らかにすることで、私たちは救い主の必要性を理解するようになりました。

もし私たちの罪が明らかにならなかったら、救い主の必要性を感じなかったでしょう。なぜなら、「私たちはすでに十分に善良であり、神様がきっと私たちを受け入れてくださる」と思い込んでしまうからです。

そう考えるなら、私たちは、イエス様がなぜ私たちのために死ななければならなかったのかを理解できないでしょう。

しかし、律法は私たちの罪を明らかにすることはできても、その罪を取り除くことはできません。

少し考えてみてください。

鏡は男性のひげを映し出すことができます。けれども、鏡自体はそのひげを剃ることはできません。ひげを剃ることができるのは、髭剃りだけです。

同様に、律法は私たちの罪を映し出すことができますが、その罪を取り除く力は持っていません。しかし、神様の恵みは髭剃りのように私たちの罪を取り去ることができます。

さらに考えてみてください。確かに、鏡は私たちのひげを剃ることはできません。とはいえ、だからといって鏡が不要になるでしょうか?そうではありません。鏡は、私たちが剃るべき部分を映し出してくれるのです。

同様に、律法は私たちの罪や不完全な部分を明らかにします。そして、私たちがそれを認識すると、聖霊様が私たちを導き始めてくださるのです。

例えば、聖霊様は男性たちにこう語りかけるかもしれません。「『あなたの妻を愛しなさい』と書いてあるでしょう。では、今日どのように奥さんを愛するべきか教えます。」

または、「『許しなさい』と書いてあるでしょう。では、あなたはまだ〇〇さんを許していないでしょう。あなたの傷は深いかもしれません。それでも、私があなたを癒すので、相手を許しなさい。」

覚えておきましょう。律法は私たちに「自分の力だけでこのルールに従いなさい」と求めているわけではありません。

むしろ、神様は律法を通して私たちの目を開いてくださいます。そして、私たちは神様が私たちの人生の中で何をなさりたいのかを理解するようになります。

鏡を見ると、ただ自分の姿が映るだけではなく、私たちの天の父を見ることができます。そして、天の父は愛をもって、その恵みの髭剃りで私たちの罪を取り除き始めてくださいます。

私たちはその髭剃りを見て、少し怖いと感じるかもしれません。けれども、私たちが信仰をもって神様に「はい」と応じるなら、神様は私たちの罪を少しずつ取り去ってくださいます。

あなたはどうでしょうか。鏡を見ると、自分の罪や失敗だけが目に入るでしょうか。

それとも、あなたの天の父を見るでしょうか。天の父はきっとあなたの人生に働き、あなたを癒してくださいます。

カテゴリー
ローマ人への手紙

自分自身を見るとき

この箇所で、パウロはユダヤ人たちに語っています。そして、彼のポイントはこうです。

律法によって神様の前で義と認められたいのなら、ただ律法を知っているだけでは不十分です。あなたはその律法に完全に従わなければなりません。

だから、パウロはこう語ります。

あなたが自らユダヤ人と称し、律法を頼みとし、神を誇り、みこころを知り、律法から教えられて、大切なことをわきまえているなら、また、律法のうちに具体的に示された知識と真理を持っているので、目の見えない人の案内人、闇の中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だ、と自負しているなら、どうして、他人を教えながら、自分自身を教えないのですか。

盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿の物をかすめ取るのですか。

律法を誇りとするあなたは、律法に違反することで、神を侮っているのです。(ローマ人への手紙2:17-23)

つまり、あなたたちは律法を知っていて、誇り高く思っています。神様の律法を与えられ、神様の民と呼ばれることを誇っています。

あなたたちは、すべてを理解していると思い、もし誰かが神様とその道を知りたいなら、自分たちのもとに来るべきだと考えています。

しかし、あなたたちは自分が教える律法に本当に従っているでしょうか。もしかすると、神様の言葉を伝えた後で、その言葉に反する行動をしてはいないでしょうか。

そして、パウロは彼らにこう語りました。

「あなたがたのゆえに、神の御名は異邦人の間で汚されている」と書いてあるとおりです。(24)

正直に言えば、聖書を教える者として、この箇所は非常に厳しく感じます。私は、自分の行動のせいで神様の御名が友人や同僚の間で汚されることを望みません。偽善者にはなりたくないのです。

それでも、私はしばしば失敗してしまいます。時には、偽善的な行動をとってしまうこともあります。正しいことを行うのが難しい時もありますし、自分が説いていることに従うのが難しい時もあります。

説教する時や、このブログを書く時、私は多くの場合、自分自身に向かって語っているのです。

結局、私はただ、神様の御座の前にひれ伏し、憐れみを請うことしかできません。

実は、それこそがパウロのポイントです。私たちは皆、神様の恵みを必要としています。もし、律法によって自分が義と認められたいと主張するなら、その律法に完全に従わなければなりません。けれども、それができる人は誰もいません。

あなたはどうでしょうか。あなたはどれほど神様の恵みを必要としているか、理解していますか。

もし、「私はまあまあ良い人だ。ほかの人よりも、私はましだと思う」と考えているなら、自分自身をもっと見つめる必要があるかもしれません。なぜなら、私たちは自分が思うほど良い人ではないからです。

その真理を理解しない限り、私たちはどれほど神様を必要としているのかを正しく知ることはできません。

鏡を眺めると、あなたは何を見るでしょうか。

カテゴリー
ローマ人への手紙

福音を聞いたことない人は、どうなるの?

多くの人々は、キリスト教のメッセージを聞いたときに、こう尋ねます。「もし、ある人々が聖書のことを聞いたことがないなら、どうして神様は彼らを裁かれるのでしょうか。それは不公平ではないでしょうか。」

この箇所で、パウロはその疑問に答えます。パウロはこう言います。

「悪を行うすべての人が裁かれます。ユダヤ人たちは先に裁かれますが、その後、異邦人(つまりユダヤ人ではない人々)も裁かれます。

その反面、善を行うすべての人は報いを受けます。ユダヤ人たちは先に報いを受けますが、その後、異邦人たちも報いを受けます。」

では、なぜその順番が決まっているのでしょうか。それは、ユダヤ人たちが神様から直接律法を授かったからです。したがって、彼らの責任はより重いのです。

イエス様はこのことを次のように説明されました。

主人の思いを知りながら用意もせず、その思いどおりに働きもしなかったしもべは、むちでひどく打たれます。

しかし、主人の思いを知らずにいて、むち打たれるに値することをしたしもべは、少ししか打たれません。

多く与えられた者はみな、多くを求められ、多く任された者は、さらに多くを要求されます。(ルカ12:47-48)

パウロは、その概念をより具体的に説明しています。

律法なしに罪を犯した者はみな、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はみな、律法によってさばかれます。(ローマ2:12)

簡単に言えば、人々は自分が持っている知識に基づいて裁かれます。しかし、持っていない知識によって裁かれることはありません。

もし、ユダヤ人が神様から与えられた律法を知っているなら、その律法によって裁かれます。けれども、その律法を知らない人々は、異なる基準で裁かれることになります。

では、彼らはどのような基準で裁かれるのでしょうか。

自分の律法が神様の律法に適合する限り、彼らはその律法によって裁かれます。パウロはこのことを説明しています。

律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じることを行う場合は、律法を持たなくても、彼ら自身が自分に対する律法なのです。

彼らは、律法の命じる行いが自分の心に記されていることを示しています。彼らの良心も証ししていて、彼らの心の思いは互いに責め合ったり、また弁明し合ったりさえするのです。(ローマ人への手紙2:14-15)

つまり、どの国でも、どんな文化でも、すべての国民の律法には、神様の律法と一致する部分があります。

もちろん、それらの律法が神様の律法に完全に一致するわけではありません。しかし、律法が神様の律法と一致する限り、人々はその律法によって裁かれます。

例えば、文化によって盗難の定義は異なるかもしれません。けれども、もしある人がその国の盗難に関する律法を破れば、その人は神様に裁かれます。

さらに、神様はもう一つの基準で人々を裁かれます。それは良心です。

例えば、自分の文化では、結婚前に恋人と肉体的な関係を持つことは許されているかもしれません。それでも、もし誰かが自分の良心に反してその行為をするなら、その人は神様に裁かれます。

なぜでしょうか。それは、罪悪感が心の中で「その行為は悪い」と認識させているからです。

もちろん、私たちの良心は神様の律法を完全に反映するわけではありません。とはいえ、良心が神様の律法と一致する限り、人々は裁かれます。

そして、パウロはさらにこう語ります。

なぜなら、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が義と認められるからです。(13)

パウロのポイントは、律法を完全に守れる人がいるわけではない、ということです。また、パウロは、律法によって義と認められる人が存在すると言っているわけではありません。

パウロのポイントは、律法を知っているだけでは十分ではない、ということです。もし律法によって義と認められたいなら、あなたは完全にその律法に従わなければなりません。

けれども、問題があります。律法を完全に守れる人は、一人もいません。この厳しい現実については、別の記事で詳しく話します。

それでも、今日の要点は、神様は公平な方だということです。神様は、あなたが持っていない知識によって、あなたを裁くことはありません。むしろ、あなたが持っている知識によって、神様はあなたを裁かれます。

だから、自分自身に問いかけてください。「自分が持っている知識のもとで、私はどのように生きているだろうか。」

カテゴリー
ルカの福音書 ルカ11章

律法主義という問題

イエス様はパリサイ人たちを批判された後、律法学者たちにも言及されました。

イエス様はこう言われました。

おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本さわろうとはしない。(ルカの福音書11:46)

この箇所では、私たちは律法主義がなぜそんなに悪いのかを学びます。

第一の理由は、律法主義が人々に耐えられないほどの重荷を負わせ、その重荷を取り除く希望が全くないことです。つまり、律法学者たちは神様の律法に多くの余計な規則を加えたのです。

例えば、律法では安息日に仕事をすることが禁じられていましたが、律法学者たちは「仕事」の定義を極めて細かく設定していました。

例えば、安息日に女性はアクセサリーを付けてはいけませんでした。なぜなら、もし彼女たちがアクセサリーを外そうとすると、それを手に持たなければならず、それが「重荷」とみなされるため、安息日の律法を破ることになってしまいます。

また、安息日に歩く距離にも制限がありました。もし 2.5キロメートル 以上歩いてしまうと、安息日の律法に違反することになってしまいます。

このような余計な規則は何百もありました。そして、これらの規則を破ると、律法学者たちから責められることになりました。

律法学者の規則は今では存在しませんが、今日のクリスチャンたちはどれほど他のクリスチャンに余計な規則を押し付けているでしょうか。聖書には記されていないにもかかわらず、それを守るべきだと考えるのです。

例えば、「酔ってはならない」という戒めではなく、「一切お酒を飲んではならない」と言います。

または、「映画を見てはならない。」

または、「踊ってはならない。」

こうした規則は、もう一つの問題につながります。それは、人を裁く態度です。

つまり、「あなたはその規則を守らないから、良いクリスチャンではない。」という考え方です。

さらに、「私は規則を守っている」と思うことで、プライドを感じます。

しかし、たとえ規則を守ったとしても、パリサイ人のように公義と神への愛と憐れみを忘れてしまいます。彼らは自分を正しい人間だと思いますが、神様の目にはパリサイ人や律法学者たちと変わりません。

けれども、律法主義の最も恐ろしい問題は、律法が正しいことと悪いことを教える一方で、正しいことを行う力を与えないことです。むしろ、人が失敗すると、律法は彼らを裁くばかりです。そのため、人々は何度も失敗し、やがて絶望してしまうのです。

イエス様の時代、多くの人々がそのように感じていました。彼らは律法学者の規則を守ろうとしましたが、できませんでした。

そして、彼らが律法学者に「どうすればよいでしょうか」と尋ねると、「もっと努力しなさい」と言われました。

つまり、律法学者たちは彼らを決して助けようとはしなかったのです。

たとえあなたが余計な規則を捨て、モーセの律法だけを守ろうとしても、その律法にはあなたを救う力はありません。最終的に、あなたはパウロのようにこう叫ぶでしょう。

私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(ローマ7:24)

しかし、イエス様の時代の人々とは異なり、パウロは希望を持っていました。

私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。(ローマ7:25)

律法主義はあなたを救うことができません。律法はあなたを救うことができません。

でもイエス様は、十字架の働きを通して、あなたを救うことができます。イエス様は十字架で私の罰を受けたから。だから、パウロはこう言いました。

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(8:1)

だから、律法主義を捨てましょう。プライドと絶望も捨てましょう。むしろ、イエス様とその十字架に向かいましょう。

そうすれば、私たちは赦され、神様を喜ばせる力を受けるのです。

カテゴリー
使徒の働きのデボーション

抜かれた?(旧約聖書が私たちに関係あるでしょうか)

普段私はこんなことをしないけど、最近、私は有名なアメリカの牧師のメッセージを聞いたので、そのことについて話したいと思います。

彼は、使徒の働き15章から話しました。私は、そのメッセージの80%ぐらいに賛成できたけど、あと20%は賛成できませんでした。

でも、彼を批判するよりも、私は、どのように旧約聖書が私たちに関係があるか話したいと思います。

多分、彼の要点は、クリスチャンになるために、私たちがユダヤ人になる必要がないことです。つまり、ユダヤ人たちは神様がモーセとイスラエル人に与えた契約に結ばれたけど、私たちは、その契約とは結ばれていません。

今、クリスチャンたちの皆は(ユダヤ人でも、ユダヤ人じゃなくても)神様の恵みによって、神様の民になります。私たち皆、救い主が必要である罪人です。

多分、彼はそう言いたかったと思います。もしその牧師が、そのように説明していたら、彼を批判する人はいないと思います。でも、彼はこう言いました。

「不品行を定義するために、パウロやほかの使徒たちは旧約聖書、つまり、モーセの律法を調べませんでした。実は、彼らは罪を定義するために旧約聖書を全然調べませんでした。」

「あなたは、十戒とは全く関係ありません。あなたは、そのユダヤ人の律法、またモーセの律法に全然関係ありません。あなたは十戒に従うべきではありません。なぜなら、その律法は、あなたのためではないから。

あなたが従う律法(つまり、隣人を愛する戒め)は、より優れたものです。あなたが従う律法は、もっと理解しやすいです。実は、あなたが従う律法は、あなたからもっと要求します。」

「ペテロとヤコブとパウロがクリスチャンの信仰について話したとき、旧約聖書に頼りませんでした。彼らは教会から旧約聖書の世界観や、価値観や、律法を抜きました。

どうやってクリスチャンになることについて教えたとき、旧約聖書を全然使いませんでした。教会から旧約聖書の全体を抜きました。使徒たちは、クリスチャンの信仰から旧約聖書を抜いたし、私たちもそうするべきです。」

私は、この牧師の言葉を言いなおします。そうすれば、あなたには、彼の言葉と聖書の言葉の違いをはっきり見ることができると思います。彼の最後のポイントから始めましょう。

1.ペテロとヤコブとパウロは、クリスチャンになることと、ユダヤ人になることを区別しました。

ユダヤ人の世界観によれば、あなたが救われたいなら、ユダヤ人にならなくてはいけませんでした。また、モーセの律法のすべてを守らなくてはなりませんでした。

だから、使徒の働き15章では、あるユダヤ人たちは「クリスチャンになりたいなら、ユダヤ人になるべきです」と言いました。

でも、ペテロたちは、その考え方を捨てました。私たちも、そうするべきです。

それでも、旧約聖書は、教会とその教えにとって欠かせないものでした。だから、パウロはテモテにこう言いました。

私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい。(第一テモテ4:13)

パウロは「聖書」と言ったけど、私たちの66書のある聖書(創世記から黙示録)について話していません。なぜなら、パウロがその言葉を書いた時、新約聖書は、まだ書かれている途中だったから。

もう書かれた手紙と福音書があっても、多分テモテはそのすべてを持っていなかったでしょう。

それに、新約聖書の著者たちが「聖書」と言ったとき、その意味が「新約聖書の書」だったのは二回だけでした。(第二ペテロ3:15-16--パウロの手紙、第一テモテ5:17-18--多分ルカの福音書)。

だからパウロは「聖書」と言ったとき、だいたい旧約聖書について話していました。

ところで、その牧師の話の話では、もう一つの問題が出てきます。彼は、よく言います。

「使徒たちの信仰は特別な本(つまり、聖書)に基づいていなかった。なぜなら、彼らは特別な本を持っていなかったから。」

もちろん、使徒たちは新約聖書の全部を持ってはいなかったけど、彼はきっと旧約聖書をもって、教えました。

使徒たちは、すべての教会で旧約聖書の全体を持っていたかどうかわかりませんけど、彼らの手紙でも、福音書でも、また彼らのメッセージでも、彼らは、いつも旧約聖書を引用しました。

また、上記の箇所では、パウロはテモテに、「旧約聖書を朗読しさい」と言いました。

この牧師は、もう一つのことをよく言います。「使徒の働きでは、ペテロたちは、いつもイエス様の復活について教えました。聖書ではなく、イエス様の復活は彼らの信仰の基礎でした。」

もちろん、イエス様の復活は、彼らの信仰の基礎でした。でも使徒の働きで、彼らのユダヤ人に対するメッセージを読んで見てください。彼らは復活だけはなく、旧約聖書も指摘しました。

「ほら、旧約聖書では、神様は、イエス様の死と復活について話しています。」

そして、パウロはコリント人に復活について話したとき、最初に旧約聖書を指摘しました。(第一コリント15:3-4)

だから、教会にとっては、旧約聖書は欠かせないものでした。でも、彼らは旧約聖書を読んだとき、ほかのユダヤ人と違うレンズを使いました。イエス様の復活の後、イエス様は彼らにそのレンズを与えました。(ルカ24:26-27、44-47)

もしあなたがそのことを疑うなら、使徒の働きと使徒たちの手紙を読んでみてください。何回も彼らはイエス様からのレンズを用いて、旧約聖書を教えました。彼らの教えには、旧約聖書は欠かせないものでした。

ところで、そのレンズは何でしたか。旧約聖書のすべてがイエス様を指していることです。イエス様の死と復活は一つの例です。

また、そのレンズのため、儀式に関る律法は私たちには、もう関係がないのです。その儀式はイエス様のことを示していました。でも、イエス様はもう来て、その律法を満たしたので、その儀式はもういりません。(へブル人への手紙8-10章を読んでください。)

ユダヤ人の民法もイエス様のことを指しています。

例えば民法は聖さの大切さを教えました。また民法は、罪の深刻さを教えました。もしあなたが、民法に書かれた罰がひどいと思うなら、十字架を見てください。そこで、イエス様は私たちの罰を受けてくださいました。

とにかく、ユダヤ人の民法の目的もイエス様を指しているので、イエス様が来た後、私たちはその律法に従う必要がありません。でも、その律法を読むとき、イエス様があなたのために何をしてくださったか忘れないでください。

2.教会で使徒たちは不品行や、ほかの罪について教えたとき、旧約聖書によって、その罪を定義しました。

私たちにとっては、「不品行」というのは、ちょっとあいまいなことかもしれないど、パウロは具体的にそれを説明しました。そして、その定義は旧約聖書の律法から来ました。パウロはこう言いました。

それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。

ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。

律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。(ローマ7:7)

パウロは、むさぼることについて話したけど、それは例だけでした。ほかの罪を入れてもいいです。だから、その言葉をちょっと変えてみましょう。

律法が、「姦淫してはならない。同性愛は罪です。獣と寝てはならない」と言わなかったら、私は不品行を知らなかったでしょう。

でも律法は足りませんでした。なぜなら、律法は罪を定義するけど、私たちに罪を克服する力を与えてくれないから。

だから、パウロはこう言いました。

なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。(ローマ3:20)

地図は私たちの目的地を示していますが、その地図が私たちの手を取って、導くことはできません。そして、私たちが地図を読めなくて、フラストレーションを感じるとき、その地図は私たちを慰めず、助けることができません。

そのように、神様の律法は、正しいことと罪を定義することできるけど、私たちに罪と戦う力、また正しいことをする力を与えることができません。むしろ、私たちが罪を犯すと、律法は私たちを裁きます。だからこそ、私たち皆にイエス様が必要です。

3.あなたがクリスチャンなら、あなたは十戒に従います。

「あなたがクリスチャンなら、十戒に従いなさい」と言っていません。

クリスチャンが十戒に従うのは、事実です。もちろん、あなたは完全に十戒に従うことができません。でも、聖霊様の導きと力によって、あなたはだんだん十戒に従い始めます。

あなたが頑張っているから、十戒に従うというわけではないです。むしろ、毎日、聖霊様が、あなたを導いて、あなたの考え方と生き方を変えるのです。

聖霊の導きによって、私たちは律法の文字だけに従うだけではなく、その律法の精神にも従い始めます。つまり、私たちは神様を愛し、隣人を私たち自身のように愛します。

それは、もちろんより優れた命令です。なぜなら、その命令には、抜け穴がないのですから。

要するに、私たちはユダヤ人になる必要はありませんが、私たちはまだ旧約聖書に強い関係があります。私たちはユダヤ人ではありませんが、私たちが教会に入れる理由は、ヤコブが教会を旧約聖書につないだから。つまり、

この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。

それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。

大昔からこれらのことを知らせておられる主が、こう言われる。(使途の働き15:16-18)

もちろん、私たちは新約聖書と旧約聖書(つまり、神様との新しい契約、神様との古い契約)を混ぜません。

でも、私たちは旧約聖書が私たちにまったく関係ないと言えません。むしろ、私たちは新しいレンズを用いて、旧約聖書を読みます。そのレンズは、イエス様のレンズ。

そこで、イエスは、聖書(つまり、旧約聖書)を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。

キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。(ルカ24:45-47)

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ12章 マルコの福音書 マルコ2章 ルカの福音書 ルカ6章

罪のない者たちを罪に定めはする?

以前の記事では、私たちは宗教的なリーダーたちが、イエス様が安息日を破ったと責めたことを見ました。しかし実際には、イエス様は神様の安息日に関する律法を破ったわけではありません。イエス様が破ったのは、彼らが作った余計なルールでした。

この箇所でも、イエス様は宗教的なリーダーたちと安息日について議論されます。イエス様とその弟子たちが麦畑を通っていた時、弟子たちはお腹が空いたため、穂を摘んで食べ始めました。

(その時代、それは合法的な行為でした。申命記23:25に記されています。)

けれども、パリサイ人の目には、穂を摘む行為は仕事と見なされました。そして、律法では安息日に仕事をしてはならないとされていました。

それに対して、イエス様は二つの理由を挙げてその考え方を否定されました。

一つ目は、祭司たちが安息日に働いていても、それが罪とは見なされなかったことです。

二つ目は、ある律法はほかの律法よりも優先されるべきだということです。つまり、命を守ることは安息日の律法よりも重要だということです。この点については、パリサイ人もある程度同意していました。

例えば、誰かが死にかけている場合、お医者さんはその人が次の日まで生き延びられるように治療を行い、その後、その人を完全に治療しました。

そして、もう一度、イエス様は預言者ホセアの言葉を引用されます。

「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。(マタイ12:7)

多くの人々は、神様の目にはルールを守ることが最も重要なことであると思っています。そして、彼らは神様が私たちを罰する機会を待っていると考えています。

けれども、実際には神様はルールを守ることよりも、人々自身を大切にされます。

パリサイ人はこのことを理解しておらず、神様の律法を守るために、たくさんの余計なルールを作り出しました。そして、その余計なルールを守らない人を見ると、パリサイ人はその人を責めました。

しかし、イエス様は彼らにこう言われました。

安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。(マルコ2:27)

神様が立てられたルールはすべて正しいものです。それらのルールは、私たちの利益のために存在しています。

私たちはそのルールのために造られたのではありません。神様は、私たちを支配するためではなく、私たちを祝福するためにそのルールを作られました。

その原則を理解すれば、ルールの目的を正しく把握し、それを私たちの人生に適切に当てはめることができます。

、その原則を理解しなければ、パリサイ人のようにルールの本質が分からず、間違った方法で当てはめてしまうでしょう。それだけでなく、私たちは神様の目に無実の人を責めることになりかねません。

あなたはどうでしょうか。神様のルールをどのように考えているでしょうか。それらを余計なルールだと思っているでしょうか。

あるいは、それらのルールがあなたの利益のためだと理解しているでしょうか。そして、そのルールの背後にある理由を正しく理解しているでしょうか。

そのように理解すれば、無実の人を責めることはなくなるでしょう。

カテゴリー
ヨハネの福音書 ヨハネ5章

ルールに目がくらむこと

ルールは良いものです。カオスの状態では、ルールによって秩序が確立されます。そういうわけで、学校の教室でも、家庭でも、社会でも、ルールは大切なものです。

とはいえ、人々がルールの目的を忘れると、ルールは害となることがあります。私たちがルールの精神を思い出さない限り、非常に困難な状況に陥る可能性があります。

さらに、ある人々はルールを守るために、余計なルールを作り出します。例えば、パウロはこう言いました。

また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。(エペソ5:18)

そこだけではなく、聖書のさまざまな箇所で、酔ってはいけないという警告がたくさんあります。どうしてでしょうか。

酔うと、自分自身をコントロールできなくなるからです。それに、神様ではなく、お酒があなたの行動をコントロールするようになります。

けれども、ある人々は余計なルールを作ります。「全くお酒を飲んではいけません。あなたが飲むと酔う可能性があるから。」

そのルール自体は悪いわけではありません。そのため、私はお酒を飲みません。(その上、その味が嫌いなのです。)

ですが、他の人々がその余計なルールを守らないからといって、彼らを批判してはいけません。

パリサイ人たちはそのようなことをしていました。神様はこう命じられました。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。(出エジプト記20:28)

つまり、その日に働いてはいけません。

その律法の精神は何でしたか。

一つ目は、人々が神様に焦点を当てる時間を取ることです。

二つ目は、神様を信頼することです。つまり、毎日働かずに、一週間に一日休んでも、神様があなたの必要を満たしてくださるのを信じるのです。

三つ目は、彼らがリラックスすることです。神様は彼らを愛しておられるので、時々休んでほしいと思われました。

それらがその律法の精神でした。しかし、パリサイ人と律法学者たちは、その律法のためにさまざまな余計なルールを作りました。例えば、どれくらい旅ができるかとか、何キロのものなら運んでもいいというルールを作りました。

医者に対しても、安息日に関するルールがありました。安息日に、誰かが死にかけている場合だけ、医者がその人を助けることができました。その場合でも、その人が次の日まで生き延びられるようにするだけでした。

ところが、そのルールのせいで、彼らはその律法の精神を忘れてしまいました。彼らは人々に神様が望んでいなかった重荷を負わせました。

さらに、誰かが神様が立てていないルールを破った場合、その人を批判しました。

その上、そのルールのせいで、彼らは神様がなさっていることに目を向けられなくなりました。

この箇所では、そのことを見ることができます。

彼らは、安息日に床を取り上げている人を見ました。(彼は安息日に荷物を運ぶルールを破りました。なぜなら、それは「仕事」でした。)

パリサイ人たちは言いました。「お前は働いているよ。なぜ安息日に働いているのか。」

「私をいやしてくれた人は『床を取り上げて歩け』と言ったからです。」

つまり、「もしその人に私をいやす力があれば、私に『床を取り上げなさい』と言う権利もあるでしょう。」

この箇所では、注意事項が二つあります。

一つ目は、その人が病気にかかっていた間に、パリサイ人たちは彼のことに全然気づいていなかったということです。けれども、彼が彼らのルールを破った時に、初めて彼に気づきました。

私たちは、どれくらいそのようにふるまうでしょうか。私たちの周りに霊的な必要がある人がいるのに、彼らが私たちのルールを破る時以外には彼らを無視します。

二つ目は、その奇跡にやっと気づいた時、彼らはルールに集中しすぎたせいで、神様がその人のために何をしてくださったかに感謝することができませんでした。

そのため、彼らはそのルールを破った人が誰かという疑問に集中し、イエス様だと分かった時、イエス様を迫害しました。

これがルールに集中しすぎることの危険性です。私たちの周りの人々のニーズが見えなくなり、神様が何をなさっているかを認識できなくなります。

あなたはどうでしょうか。あなたはルールに目がくらんでいますか。