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サムエル記第一のデボーション

敬うべき神

サウルは言った。「私は困りきっています。ペリシテ人が私を攻めて来るのに、神は私から去っておられます。預言者によっても、夢によっても、もう私に答えてくださらないのです。。。」

サムエルは言った。。。「あなたが【主】の御声に聞き従わ(なかったからだ。」(サムエル記第一28:15、18)

天のお父さん、あなたは私の願いをかなえる単なるジーニーではありません。

あなたは私に操られる神ではありません。

あなたは敬い、従うべき神なのです。

サウルはその真理を決して学びませんでした。 むしろ、彼は自分の耳、さらに心をあなたに閉じてしまったのです。

だから最終的に、あなたは彼に語られなくなったのです。

どうか、私がそのようにならないように。 私がいつも柔らかい心と、あなたに傾いている耳を保つことができるようにしてください。

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ヨシュア記のデボーション

神のことばを一言も省かずに

主がそのしもべモーセに命じられたとおりに、モーセはヨシュアに命じ、ヨシュアはそのとおりに行った。主がモーセに命じられたすべてのことばを、彼は一言も省かなかった。(ヨシュア記11:15)

ヨシュア記には、いくつかの有名な箇所があります。 第1章5〜9節と第24章15節は、特に有名です。

けれども、私はこの箇所も気に入ります。「主がモーセに命じられたすべてのことばを、彼は一言も省かなかった。」

私も、そのような人になりたいのです。 特に、罪に向き合うときにこそ、そうありたいと願います。

私は、言い訳をしたくありません。 自分の罪を軽く見たくもありません。 むしろ、ヨシュアとイスラエルの民がカナン人とその悪を根絶やしにしたように、 私も自分の罪を根絶やしにしたいのです。(レビ記18章、特に24〜25節)

天のお父さん、どうか私の罪を根絶やしにするよう助けてください。 あなたが命じられたすべてのことばを、私は一言も省かない者となることができますように。

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ヨシュア記のデボーション

御言葉が厳しくても、心強くても

その後、ヨシュアは、みおしえの書に記されているとおりに、律法のすべてのことばを、祝福ものろいも読み上げた。

モーセが命じたすべてのことばの中で、ヨシュアが。。。読み上げなかったことばは、一つもなかった。(ヨシュア記8:34ー35)

そのことばは、私の心に響きました。

ヨシュアは、自分が気に入った聖書の箇所だけでなく、 厳しい内容の箇所も、すべて読んでいました。

聖書のすべての箇所が、神の愛とあわれみだけを語っているわけではありません。心強いことばばかりで満ちているわけでもないのです。

神のさばきと正義についての、厳しいことばも含まれています。

そして、その真理を忘れてしまうと、アカンのように、私たちは自分の罪や、神様ご自身を軽く見てしまうかもしれません。(ヨシュア記7章)

しかし、より大切なのは、厳しくても励ましに満ちていても、 神のことばのすべては、私たちの益のためであるということです。

だからこそ、気に入った心強いみことばだけでなく、ヨシュアのように、そのすべてを読みましょう。

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使徒の働きのデボーション

三つの質問

そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが分かりますか」と言った。(使徒の働き8:30)

ピリポの質問は本当に印象的です。少し想像してみてください。

あなたが聖書を読んでいると、ピリポが近づき、こう尋ねます。

「あなたは、読んでいることが分かりますか。」

あなたはどのように答えるでしょうか。

宦官と同じように、「私はさっぱりわからない」と答えることは、まったく問題ありません。

しかし、あなたはどれほど理解したいと思っていますか。分からない部分について積極的に尋ねるほど知りたいのですか。

宦官は本当に理解したかったので、ピリポを自分の隣に座らせ、謙虚に聖書の解説を願いました。

けれども、もっとも重要な問いは、「私は理解した真理をどのように扱っているのか」ということです。

ピリポの教えを通して、宦官は悟りました。

「私はイエス様を信じなければならない。そして、その最初の一歩はバプテスマを受けることだ。」

だから彼はすぐにバプテスマを受けることを願ったのです。

イエス様はこう語られました。

ですから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人はさらに与えられ(ます)。。。(ルカの福音書8:18)

言い換えれば、私たちが理解を求め、さらに、すでに知っている真理を実践すると、イエス様はさらに多くの御言葉を私たちに明らかにしてくださいます。

宦官はそれを経験しました。

では、私たちはどうでしょうか。おそらく、理解できない聖書の箇所が多くあるでしょう。もちろん、それらの箇所について理解を求めるべきです。

しかし、私たちはすでに理解している真理をどう扱っているでしょうか。私たちはイエス様に「はい」と答え、その御言葉に従っているでしょうか。

だからこそ、挑戦してみましょう。次に聖書を読むとき、自問してみましょう。

  1. 私は、読んでいることが分かりますか。
  2. 私は、この分からないところについて誰かに尋ねるほど理解したいのですか。
  3. 私は、すでに理解していることについてどうするのですか。
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申命記のデボーション

 私のすべて

あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおりに守り行いなさい。

右にも左にもそれてはならない。 あなたがたの神、主が命じられた道をあくまで歩み続けなければならない。

あなたがたが生き、幸せになり、あなたがたが所有するその地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。(申命記5:32ー33)

天のお父さん、あなたの御言葉は命です。ですから、どうか私がその御言葉から右にも左にもそれないように助けてください。

私が古い考え方を手放し、あなたの戒めの全体に従うように助けてください。

その一部ではなく、一部さえを除かずに全体に従うように助けてください。

どうかあなたを恐れる心を与えてください。あなたを敬う心を与えてください。

私のすべてをあなたに捧げたいのです。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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民数記のデボーション

 神様の信頼を裏切る

あなたがたはわたしを信頼せず、イスラエルの子らの見ている前でわたしが聖であることを現さなかった。

それゆえ、あなたがたはこの集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。(民数記20:12)

今朝、私はモーセとアロンへの神様の御言葉を反芻していました。

「あなたはわたしを信頼してくれなかった。」

神様の戒めを信じて従う代わりに、モーセは勝手に行動しました。

そうすることで、イスラエル人たちが自分の文句と反抗的な態度で神様を敬わなかったのと同じように、モーセも神様を敬いませんでした。

申命記では、モーセは神様の御言葉をこのように言い換えました。

「あなたは私の信頼を裏切りました。あなたは私に不誠実でした。」(申命記32:51)

神様は、人が自分の友達と語るように、顔と顔を合わせてモーセと語られました。(出エジプト記33:11)

でも、モーセはその信頼を裏切りました。

天の父は、どれだけモーセの裏切りに心を痛められたでしょうか。

天のお父さん、私はモーセのように、何度あなたを信じなかったことでしょうか。

あなたの戒めに信じて従う代わりに、私はどれだけ勝手に行動するでしょうか。

あなたは、恵みによって私を救ってくださいました。その恵みによって、私をご自分のものとし、私を「友達」と呼ばれます。

あなたの信頼を裏切ったと知りながら、あなたの目を見たくありません。

私がいつも、あなたを聖なる方としてあがめるように。

私のすべての言葉と行動によって、あなたにふさわしい名誉をお与えするように。

そして、回りの人々が私を見るとき、彼らがあなたを見ることができるように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ピリピ人への手紙のデボーション

恐れおののいて

こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。(ピリピ人への手紙2:12)

「恐れおののいて。。。」

今日、その言葉を嚙み締めていました。

「恐れおののいて」というのは、どういう意味でしょうか。

自分の手紙の中で、パウロはその表現を三度使いました。その表現を使うたびに、パウロはイエス様への従順について話していました。

第二コリント7:15では、コリント人たちはテトスを恐れおののきながら迎えました。なぜなら、テトスはコリント人たちが従順したイエス様を代表していたからです。

エペソ6:5では、奴隷たちはイエス様に恐れおののいて従っていたように、自分の主人にも従うべきでした。

そして、今日の箇所では、ピリピ人たちがいつも従順であったように、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めるべきでした。

ある意味、十字架でイエス様は私たちの救いを完全に達成したけど、私たちがイエス様に従い仕えることで、私たちの救いの益をより完全に経験します。そして、救いの最大の益は、私たちを深く愛してくださる神様との関係の回復です。

だから、救いを達することの大部分は、その回復された関係の中で、毎日毎日、一瞬一瞬を歩むことを学ぶことなのです。

でも、どうして恐れおののいてそうするべきでしょうか。

なぜなら、イエス様はすべての名にまさる名を与えられ、すべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白しますから。

もしかしたら、パウロはその言葉を書いたとき、引用したイザヤ書45:23だけではなく、詩篇2編をも考えていたかもしれません。

詩篇2編は、メシアに関する詩篇です。その詩篇では、神様はイエス様を全世界の王として立てます。そして、イエス様に反抗する人たちのすべては滅ぼされます。そのような人々はイエス様の怒りを恐れるべきです。

でも、主に身を避ける人は喜びを知ります。(詩篇2:12)

だから詩人はこう書きました。

恐れつつ、主に仕えよ。おののきつつ喜べ。。。(詩篇2:11、脚注にある別訳)

上記の言葉はパウロの言葉に似ていますね。もしかしたら、「恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい」と言ったとき、詩人の言葉を考えていたかもしれません。

私たちはイエスと対等ではありません。

イエス様は王の王と主の主です。イエス様は私たちの従順にふさわしい方です。そして、イエス様はいつかすべての反逆者を裁きます。

そういうわけで、私たちはイエス様を軽んじてはいけません。

でも、イエス様を私たちの主と認めるなら、私たちが神様からの罰を恐れる必要はありません。裁きは私たちのためではなく、神様の敵のためですから。

むしろ、畏敬の念を抱き、さらに喜びの歌を歌って、イエス様に仕えます。(詩篇2:11;ピリピ2:13;詩篇100:2)

私たちはおののきながら、神様が私たちに与えてくださった恵を喜びます。神様がみこころのままに、私たちのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださることを喜びます。(ピリピ2:13)

もう一人の詩人は「恐れおののいて自分の救いを達成する」というコンセプトをまとめたと思います。

知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊。感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に入れ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。主はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。(詩篇100:3-5)

だから今年、私たちの主とその救いを軽んじないようにしましょう。

むしろ、恐れおののいて、また、喜びをもって、自分の救いを達成するよう努めましょう。

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出エジプト記のデボーション

安息を拒むことなく

七日目になって、民の中のある者たちが集めに出て行った。しかし、何も見つからなかった。

主はモーセに言われた。

「あなたがたは、いつまでわたしの命令とおしえを拒み、守らないのか。心せよ。主があなたがたに安息を与えたのだ。(出エジプト記16:27~29)

「主があなたがたに安息を与えたのだ。」

その言葉に、私は心を打たれました。

神様はイスラエル人たちに安息を与えようとされました。その安息は、彼らへの賜物でした。でも、神様を信頼し、従うことを拒む限り、彼らはその安息を知ることができませんでした。

彼らが神様の愛といつくしみを、どれほど早く忘れてしまったか驚くばかりです。

彼らはこう歌ったばかりでした。

「主よ、神々のうちに、だれかあなたのような方がいるでしょうか。だれかあなたのように、聖であって輝き、たたえられつつ恐れられ、奇しいわざを行う方がいるでしょうか……

あなたが贖われたこの民を、あなたは恵みをもって導き、御力をもって、あなたの聖なる住まいに伴われた」(出エジプト記15:11、13)

それなのに、彼らはすぐに「エジプトでの奴隷生活の方がましだった」と文句を言い始めました。

私はそのような人間になりたくありません。

日曜日に「偉大なる主を誉めよ」と歌いながら、その後の6日間、神様を信頼し、従うことを拒むような人間になりたくありません。

そうすれば、私は天の父を悲しませ、神様の安息と平安の賜物を逃してしまうからです。

天のお父さん、あなたの安息と平安を知りたいです。さらに、あなたは、私がその安息と平安を経験することを望んでおられます。

だから、私があなたを信頼し、従うことができるように助けてください。

あなたは良い方で、信頼でき、私を深く愛してくださいます。

私がその3つのことを決して忘れないようにしてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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列王記第二のデボーション

根本的な問題

こうなったのは、イスラエルの子らが。。。主に対して罪を犯し(ました。)(列王記第二17:7)

数年前、私はメッセージを聞いたとき、牧師は興味深い質問を訊きました。

「私たちの問題には、いろんな理由があるかもしれません。でも、根本的な理由は何でしょうか。」

7節を読んだとき、その牧師の言葉を思い出しました。

イスラエルが倒れた理由はたくさんありました。

そのころ、アッシリアは大国でしたが、イスラエルは小さな国でした。

ホセア王はアッシリアの王と条約を結びましたが、その条約を破りました。

この二つの理由によって、イスラエルが倒れたことを説明することはできます。

でも、それらは根本的な理由でしょうか。

18章と19章では、ヒゼキヤもアッシリアとの条約を破り、エルサレムはアッシリアの軍隊に囲まれました。

アッシリアはユダ王国よりも強かったのですが、ヒゼキヤが神様の御前にへりくだったとき、神様はエルサレムを救ってくださいました。

その時だけではなく、イスラエルが何度もより強い敵に直面したとき、イスラエルの民が神様を信頼したので、神様は彼らを救ってくださいました。

イスラエルがアッシリアに倒された根本的な理由は、イスラエルの民が神様に背を向け、ほかの神々を礼拝していたからです。

神様とその道に従わず、イスラエルの民は周囲の国々の道を歩みました。

今日の話を読んで、自分の問題について考えました。

私の問題にはさまざまな理由があるかもしれません。でも、最も根本的な理由は何でしょうか。

私の心は神様の目にかなっているでしょうか。私は神様とその道に従っているでしょうか。

それとも、私は自分の道を歩んでいるのでしょうか。

神様が私の罪を指摘されるとき、私は悔い改めているでしょうか。

それとも、ただ言い訳をしているのでしょうか。

天のお父さん、私の心を探り、知ってください。

あなたは私の問題をすべてご存じです。その問題の根本的な理由を現してください。

私がしなければならないことがあれば、悔い改めるべきことがあれば、明らかにしてください。

私があなたを信頼し、従うことができるように助けてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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列王記第一のデボーション

不従順への言い訳

必ず、あなたの神、主が選ばれる者をあなたの上に王として立てなければならない。。。

ただし王は、決して自分のために馬を増やしてはならない。

馬を増やすために民をエジプトに戻らせてはならない。

主は「二度とこの道を戻ってはならない」とあなたがたに言われた。

また王は、自分のために多くの妻を持って、心がそれることがあってはならない。

自分のために銀や金を過剰に持ってはならない。(申命記17:15ー17)

モーセを通して、神様はイスラエル人たちに王に関してそのルールを与えられました。

ソロモンはそのルールをことごとく破ってしまいました。(列王記第一9:28;10:14ー21、26ー29;11:1ー3)

どうして、ソロモンはそのルールを破ったのでしょうか。

私には分かりません。

でも、もしかしたら、ソロモンはそのルールがそれほど大切ではないと思っていたのかもしれません。

神様への私たちの不従順に対して、私たちはいろいろな言い訳を考えることができます。

「私はまだ主を愛しているよ。私はまだ主を礼拝しているよ。さらに、回りの人々はそのように生活しているの。」

たぶん、ソロモンもそのように考えていたのでしょう。彼はまだ主を礼拝していました。

でも、問題は「彼の心が神、主と一つにはなっていなかった」ということです(列王記第一11:4)。

そして、最終的に、ソロモンは主の目にまったく悪であることを行ってしまいました(列王記第一11:6)。

自分を騙して、自分の不従順に対していろんな言い訳を考えるのは簡単なことです。

でもそうすれば、最善の事態であっても、私たちの心はもはや100%神のものではなくなってしまいます。

最悪の事態では、私たちは主の目に全く悪であることを行ってしまいます。

イエス様、あなたは、「私を愛する人は、私の戒めを保ちます。」と言いました。

私があなたを愛することはあなたがご存じです。だから、私の不従順に対する言い訳を捨てるように助けてください。私の心がすべてにおいてあなたのものになるように。

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ヨハネの福音書のデボーション

神の口から出る一つ一つのことばによって生きる

イエス様、あなたは「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」と言われました。

あなたはこのことばに従って、日々を歩まれました。あなたは天の父の口から出る一つ一つのことばによって生きられました。

天の父が命じられたとおりに、あなたはすべてを行われました。(ヨハネの福音書14:31)

ですから今、私もあなたの口から出る一つ一つのことばによって生きる者となれますように。なぜなら、あなたが語られたすべてのことばは、天の父の口から出たものだからです。(10,24節)

私が自分の悟りに頼ることのないように。

私が罪によって歪められたこの世の知恵にも頼ることのないように。

むしろ、あなたのことばが私の思考を形づくり、あなたのことばが私の価値観を形づくり、あなたのことばが私の優先順位を形づくるように。

なぜなら、あなたのことばは真理であり、そのことばは私に命を与えてくださるものだからです。

あなたの真理を教え、あなたが語られたことを思い起こさせるために御霊を与えてくださったことを感謝します。(26節)

私が日々、御霊と歩調を合わせて歩むことができますように。

あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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サムエル記第二のデボーション

従順を選ぶ

いろんな意味で、これはとても難しい箇所です。

イスラエル人たちは罪を犯していました。

何の罪を犯したのか私たちは分かりませんが、もしかすると、その罪は、神様がイスラエルのために選ばれた王であるダビデを拒み、アブサロムやシェバに従ったことかもしれません。

とにかく、彼らの罪のために、神様はイスラエルの民を裁くことにされたのです。ところで、それはとても重要なポイントです。

ダビデの意見とは違って(17節)、イスラエル人たちは有罪であり、神の裁きにふさわしい者たちでした。

しかし、「ダビデをそそのかして、イスラエル人たちに向かわせた」とは、いったいどういう意味でしょうか。

神様はダビデに罪を犯させたのでしょうか。

また、歴代誌第一21章によれば、サタンがダビデをそそのかしてイスラエルの人口を数えさせたと書かれています。

では、ダビデの行動は誰の責任だったのでしょうか。

それは難しい疑問です。

けれども、私たちは三つのことを覚えていなくてはなりません。

一つ目は、サタンが常に神の民に敵対して立ち上がるということです。サタンは私たちを滅ぼそうとします。

しかし、ヨブ記の物語から分かるのは、神様がサタンの働きを制限されるということです(ヨブ記1〜2章)。

二つ目は、神様が人々を試すため、あるいは裁くために、その制限を一時的に緩められることがあるということです。

サウル王やアハブ王の場合には、神の裁きが示されました。(第一サムエル記16:14;列王記第一22:19〜23)

ヨブやイエス様(マタイ4:1)の場合には、神様が彼らを試されました。

三つ目は、神様が制限を緩められても、人が罪を犯さなければならないわけではないということです。人は正しいことを選ぶことができます。

ヨブとイエス様は正しい道を選びましたが、サウル王とアハブ王は罪を選びました。

ですから、神様が裁きの目的でサタンへの制限を緩められたとしても、ダビデには選択の余地がありました。そして、彼は罪を選びました。

ダビデ自身、自らの責任を認めています(10節、17節)。

神様がダビデに罪を犯すよう強制されたわけではなく、サタンが彼に罪を犯させたわけでもありません。

むしろ、ダビデは自らの心にある罪によって、罪を犯したのです(ヤコブ1:14)。

おそらく、ダビデの問題はプライドだったのかもしれません。つまり、自分の軍隊の力を誇りたかったのです。そのために、イスラエルの民を数えようとしたのでしょう。

ここで、さらに二つのポイントを指摘したいと思います。

一つ目は、イエス様の十字架のあと、私たちは神の子供として、神の裁きを恐れる必要がないということです。(第一ヨハネ4:14〜19)

イスラエルの民と同じように、私たちも神様の裁きにふさわしい者です。けれども、十字架において、イエス様は私たちの代わりに神の裁きを受けてくださいました。

神様が私たちを懲らしめられることはありますが、私たちは神様の裁きを受けることはありません。(へブル12:5〜11;ローマ8:1)

二つ目は、神様がサタンへの制限を緩められることがあり、私たちが試練や誘惑に直面することもありますが、私たちは罪を選ぶ必要はありません。

むしろ、パウロが言ったように、

あなたがたが経験した試練(別訳;誘惑)はみな、人の知らないものではありません。

神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。

むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。(第一コリント10:13)

だから、私たちへの神様の忠実さと愛を信じ、ヤコブの言葉を覚えながら、神様についていきましょう。

試練に耐える人は幸いです。

耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。(ヤコブ1:12)

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創世記のデボーション

心からの従順

ユダは獅子の子。 わが子よ、おまえは獲物によって成長する。 雄獅子のように、雌獅子のように、 うずくまり、身を伏せる。 だれがこれを起こせるだろうか。

王権はユダを離れず、 王笏はその足の間を離れない。 ついには彼がシロに来て、 諸国の民は彼に従う。(創世記49:9ー10)

この預言では、私たちが初めて知るのは、ユダの血筋から全世界を治める支配者が来ることです。

最終的に、ユダ族から出た獅子であるイエス様がその預言を成就されました。(黙示録5:5)

しかし、私に印象に残ったのは、その最後の言葉です。「諸国の民は彼に従う。」

私たちもイエス様に従わなくてはなりません。なぜなら、イエス様は私たちの正当な王であり主だからです。

けれども、イエス様は、私たちがただルールに従うことを求めておられるのではありません。

それよりも、イエス様は私たちの心を求めておられます。つまり、イエス様を信頼し、愛する心を求めておられるのです。

私たちがそのような心を持たなければ、私たちの「従順」でさえ、神様を喜ばせることにはなりません。(へブル11:6)

あなたはどうでしょうか。あなたの心は神様のものでしょうか。

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コリント人への手紙第一

権威と従順

この箇所は、聖書の中でも特に解釈が難しく、適用しづらい部分の一つです。

例えば、ある牧師はこの箇所を根拠に、教会では女性が帽子をかぶるべきだと教えます。一方で、別の牧師は、この教えは単なる文化的な習慣に過ぎないと説明します。

正直に言えば、私自身もこのパウロの教えの意味を完全には理解していません。

それでも、この箇所から私たちは結婚に関する重要な原則を学ぶことができると思います。パウロはこう教えました。

しかし、あなたがたに次のことを知ってほしいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。(コリント人への手紙第一11:3)

パウロの言葉から、私たちは神様の本質について重要なことを学ぶことができます。神様の本質には、権威と従順の関係があり、それは私たちとイエス様の関係に反映されるだけでなく、夫婦の関係にも反映されています。

パウロは「キリストのかしらは神です」と言いました。それはどういう意味でしょうか。他の聖書の箇所を読むと、パウロの意図がより明確になると思います。

ヨハネはこう言いました。

。。。御父が御子を世の救い主として遣わされた。。。(第一ヨハネ4:14)

そして、この世に来たとき、イエス様は天の父にこう語られました。

今、わたしはここに来ております。巻物の書にわたしのことが書いてあります。神よ、あなたのみこころを行うために。(へブル10:7)

この世におられたとき、イエス様はユダヤ人たちにこう語られました。

わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うためです。(ヨハネ6:38)

しかし、天の父に対するイエス様の従順は一時的なものではありませんでした。イエス様が復活し、天に戻られたあとも、その従順は続きました。

むしろ、パウロはイエス様の再臨と永遠の御国について語ったとき、こう述べました。

それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます。

すべての敵をその足の下に置くまで、キリストは王として治めることになっているからです。。。

「神は万物をその方の足の下に従わせた」のです。

しかし、万物が従わせられたと言うとき、そこには万物をキリストに従わせた方が含まれていないことは明らかです。

そして、万物が御子に従うとき、御子自身も、万物をご自分に従わせてくださった方に従われます。

これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。(第一コリント15:24-25、27-28)

これらの聖書の箇所を考慮すると、一つのことが明らかです。イエス様は真に神の本質を持っておられますが、それでも永遠に天の父に従われます。

けれども、それによって天の父がイエス様よりも神であると言うことはできません。また、本質において天の父がイエス様よりも優れた方であるとも言えません。むしろ、本質において彼らは完全に平等です。

では、なぜこのポイントがそれほど重要なのでしょうか。それは、現代において、多くの人々が「妻が夫の権威に従うことは彼女の本質への侮辱だ」と主張するからです。彼らはこう言います。

「もしあなたが『妻は夫に従うべきだ』と教えるならば、それは女性を劣った存在として扱うことになる。」

そのため、「女のかしらは男である」という言葉を聞くと、彼らはパウロの言葉の意味を曖昧にしようとします。

しかし、パウロは、人間関係には秩序があると教えています。イエス様は天の父の権威に従われます。男性はイエス様に従い、女性は男性に従います。

とはいえ、人間の本質において、男性が女性よりも優れているとは決して言えません。パウロはそのような考えに断固として反対しました。そして、彼はこう述べました。

とはいえ、主にあっては、女は男なしにあるものではなく、男も女なしにあるものではありません。

女が男から出たのと同様に、男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から出ています。(11-12)

つまり、神様はリーダーシップの役割を男性に与えましたが、男性と女性は互いに必要とし合う存在です。

そして、男性が自らの権威を利用して女性を支配することは決して許されません。むしろ、天の父がイエス様を愛し、尊敬されるように、男性は女性を愛し、尊敬しなければなりません。

さらに、神様が私たちの創造主である以上、男性は神様に従うことを常に覚えていなければなりません。私たちは神様の前で責任を問われるのです。

だからこそ、既婚女性は自分自身にこう問いかけるべきです。

「イエス様が天の父に従われるように、私は夫に従っているだろうか。夫がキリストに従う限り、私は夫に従うべきだろうか。」

既婚男性は、自分自身にこう問いかけるべきです。

「天の父がイエス様を愛し、尊敬されるように、私は妻を愛し、尊敬しているだろうか。イエス様が私を愛し、ご自身の命を捧げられたように、私も妻を愛し、彼女のために私の命を捧げることができるだろうか。」

シングルの女性は、こう問いかけるべきです。

「私の彼氏(または婚約者)はイエス様に従っているだろうか。私がイエス様に従うように、彼に従うほど彼を信頼できるだろうか。」

もし「はい」と答えられないなら、結婚を後回しにするべきです。

シングルの男性は、こう問いかけるべきです。

「私はイエス様に従っているだろうか。もし私がイエス様に従うなら、結婚した後、私は妻をどのように扱うべきだろうか。」

その問いに正しく答えられないなら、結婚を後回しにするべきです。

あなたは誰に従っているでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ14章

私たちが本当にイエス様を愛しているなら

この箇所を読むと、多くの人々は驚くことでしょう。

イエス様はこう言われました。

もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。(ヨハネの福音書14:15)

少し考えてみてください。もし、あなたの恋人や夫、妻が「もし私を愛しているなら、あなたは私の戒めを守るはずです」と言ったら、あなたはどう反応するでしょうか。

多くの人々は「そんなの嫌だ」と答え、その人と絶交するかもしれません。

けれども、私たちのイエス様との関係について、次のことを心に留めておきましょう。

第一に、イエス様は私たちの救い主であるだけでなく、私たちの主でもあるということです。しかし、イエス様は、自分の歪んだ喜びのために私たちの人生を惨めなものにしようとされるのではありません。むしろ、イエス様は私たちを深く愛し、私たちの最善を望んでおられます。

さらに、イエス様は私たちの創造者であり、私たちの人生のデザインを完全にご存じです。そのため、イエス様の言葉に従うなら、私たちの人生は祝福され、うまくいくのです。

だからこそ、イエス様は「私の言葉に従いなさい」と命じるのではなく、こう言われます。「私を信じなさい。あなたが私を愛しているなら、私を信じなさい。私はあなたの最善を知り、それを心から願っているからです。」

残念ながら、私たちの経験では、多くの人々が「こうしなさい」「ああしなさい」と指示するとき、彼らは私たちの最善を求めているのではなく、自分自身の最善を求めています。

そのため、神様が「私を信じなさい。私はあなたの最善を求めている」と言われても、私たちはその言葉を疑ってしまいます。

これは新しい問題ではありません。エデンの時代にも、同じ問題が起こりました。神様はアダムとエバにこう言われました。

「私を信じなさい。私はあなたの最善を求めている。だから、善悪の知識の木の実を食べてはならない。あなたが悪を知れば、深く苦しむことになるから。」

けれども、サタンがエバを欺いたため、彼女は神様の意図を疑いました。

彼女はこう思いました。「神様は私の最善を望んでいないかもしれない。神様は私にこの良いものを与えてくださらないかもしれない。」

そして今もなお、多くの人々が同じように考えています。

もう一つのことを心に留めておきましょう。

私たちが罪を犯すと、神様は傷つかれます。神様は聖なるお方なので、罪をご覧になると深く悲しまれます。

あなたは本当に神様を愛しているでしょうか。神様を悲しませたいと思いますか。それとも、神様を喜ばせたいと願いますか。

少し考えてみてください。もしあなたが妻や夫を愛しているなら、わざとその人を傷つけるでしょうか。「私はこうすれば相手を傷つけると分かっているけど、気にしない」と言うでしょうか。

もちろん、そのような態度は取らないでしょう。むしろ、あなたは相手を喜ばせたいと思うはずです。

それと同じように、私たちは神様を愛するべきです。もし私たちが本当に神様を愛するなら、神様を悲しませるのではなく、神様を喜ばせたいと願うべきです。

イエス様はこの世で生きておられた間、まさにそのような態度を取られました。イエス様は天の父を愛し、信じておられたので、いつも天の父の言葉に従われました。そして十字架に至るまで、天の父の言葉に従われました。

なぜでしょうか。それは、イエス様が天の父は私たちの最善を求められることを信じておられたからです。

あなたはどうですか。あなたはイエス様の言葉に従うほどに、イエス様を信じるでしょうか。

カテゴリー
ルカの福音書 ルカ11章

祝福を得るため

私たち皆、神様の祝福を知りたいと願っています。でも、その祝福をどのようにして得ることができるでしょうか。

イエス様が群衆に語られた時、ある女性がこう叫びました。

あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。(ルカの福音書11:27)

しかし、イエス様はこう答えられました。

いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。(28)

クリスチャンたちにとっても、「従順」という言葉は、あまり人気のある言葉ではありません。多くのクリスチャンは従順よりも、神様の恵みについて語ることを好みます。

もちろん、神様の恵みがなければ、だれも神様の祝福を受けることはできません。なぜなら、私たちは神様の祝福に値しないからです。

とはいえ、神様の祝福を受ける鍵は、信仰による従順な心です。

私たちは「神様を信じる。神様のみ言葉を信じる」と言うかもしれません。

けれども、従順な心を持たなければ、その言葉は意味をなしません。

もし私たちが本当に神様に信頼するなら、また、本当にそのみ言葉を信じるなら、私たちは神様の言葉に従うでしょう。

だから、一番大切な質問は、「あなたは本当に神様を信頼していますか。」ということです。あなたは、その言葉に従うなら、祝福されると信じていますか。

例えば、結婚する日まで、婚前交渉を控えるなら、あなたの結婚はより祝福されると信じていますか。

あなたが献金をささげるなら、あなたの経済が悪化することなく、祝福されると信じていますか。

あなたが主に従うように、自分の夫に従うなら、または、キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたが自分の妻を愛するなら、あなたの結婚が祝福されると信じていますか。

もしくは、あなたはその言葉が理想的すぎると考えていますか。

もし、本当の祝福を見つけたいなら、神様に信頼することを学ぶ必要があります。 あなたは神様の道が最善であると信じる必要があります。

そして、その言葉に従うことが求められます。

それは簡単でしょうか。いいえ、そうではありません。

しかし、心に留めてきましょう。神様の恵みによって、私たちは神様を信じ始めました。同じように、神様の恵みによって、私たちは神様の言葉に従う力を持つことができます。

私たちが神様に頼みさえすれば、神様は私たちにその力を与えてくださいます。 イエス様はこう言われました。

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。

だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。(ルカ11:9-10)

あなたはどうでしょうか。神様に信頼し、従っていますか。