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コリント人への手紙第一のデボーション

互いに建て上げる

今日の箇所では、パウロは教会にさまざまな指示を与えています。特に、異言や預言に関する指示が中心です。

もちろん、それらの指示は重要ですが、それだけに注目するなら、私たちはパウロの主なポイントを見逃してしまうかもしれません。

それは、教会において、私たちはただ自分自身や自分の益について考えるべきではないということです。むしろ、周りの人々のことを考え、特にその人をどのように強めることができるかを思い巡らすべきです。

(新改訳第3版では「徳を高める」と訳され、第4版では「成長させる」と訳されていますが、ギリシャ語のニュアンスは「建てる」あるいは「強化する」という意味です。)

パウロは何度も教会を強めることについて語ります。けれども、彼が語っているのは組織の強化ではありません。むしろ、神の民をどのように強めることができるかを語っています。なぜなら、神の民そのものが教会だからです。

パウロによれば、教会に行くとき、ただ「どうすれば自分の益を得られるか」と考えるなら、私たちは子どものような考え方をしていることになります(20)。

多くのクリスチャンは教会に来て、「励まされたい」「力を受けたい」と言います。

もちろん、自分の教会で励まされたり、強められたりすることを願うのは自然なことです。

しかし、パウロが語っているのは、私たち全員が「どうすれば他の人を強めることができるか」を考えるべきだということです(26)。

ですから、日曜日に教会へ行くときは、意図的に誰かに声をかけましょう。その人を励ましましょう。その人のために祈りましょう。

もしオンライン礼拝に参加するなら、意図的に教会の人に電話やLINE、Zoomなどで連絡を取り、会話を持ちましょう。

意図的に互いに強め合い、励まし合う教会となりましょう。

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使徒の働きのデボーション

クリスチャンの交わりは必要ないのか?

そして(パウロとバルナバ)は、しばらくの間、弟子たち(つまり、クリスチャンたち)とともに過ごした。(使徒の働き14:28)

パウロとバルナバは、とても強いクリスチャンでした。それに、彼らは主の働きに大いに用いられていました。それでも、彼らはクリスチャンの交わりを大切にしていたのです。

彼らは、「私のイエス様との関係は大丈夫です。他のクリスチャンたちは必要ありません」と言うこともできたでしょう。

または、「私は神様のために重要な働きをしています。クリスチャンの交わりの時間はありません」と言うこともできたかもしれません。

しかし、彼らはそう言わずに、自分たちの教会で他のクリスチャンたちと多くの時間を過ごしました。

なぜでしょうか。おそらく、一つの理由は、彼らが兄弟姉妹を励ましたいと願っていたからです。そして、もう一つの理由は、その交わりによって、彼ら自身がリフレッシュされていたからではないでしょうか。

今、私たちの多くは自分の教会で集まることができません。それでも、私たちはクリスチャンの交わりを大切にしているでしょうか。私たちは互いに必要とされているのです。

このような緊急事態の中でも、私たちは誰かにメールを送ったり、ビデオチャットをしたり、電話をかけたりすることができます。

今日、あなたは誰に触れることができるでしょうか。

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ルカの福音書のデボーション

私たちはなぜ教会に来るのでしょうか

今日の箇所を読んだとき、いろいろなことを考えさせられましたが、会堂でのイエス様の言葉は私の心を打ちました。

会堂司が気にしていたのは、宗教的なルールを守ることでした。だから、イエス様がある女性を癒されたとき、会堂司はまったく喜びませんでした。逆に、彼は怒りました。

働くべき日は六日ある。だから、その間に来て治してもらいなさい。安息日にはいけない。(ルカの福音書13:14)

しかし、イエス様は答えられました。

この人はアブラハムの娘です。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日に、この束縛を解いてやるべきではありませんか。(16)

教会に行くとき、私たちは何を気にするのでしょうか。

たぶん、宗教的なルールを心配することはないかもしれませんが、どれほど自分のこと、特に教会で自分が何を得ることができるかを考えているでしょうか。

でも、毎週の日曜日、神様はサタンに縛られていて、解放が必要な人を教会に何人送っておられるでしょうか。彼らが教会に来たとき、私たちは気づくでしょうか。

主よ。教会に行くとき、私の目を開いてください。サタンに縛られ、傷ついている人に気づくように助けてください。

私があなたの愛のパイプラインとなるようにしてください。私を通して、彼らが解放されるようにしてください。

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ヨハネの黙示録

天国:花嫁が現れた!

いいえ、この記事でこのブログを終えることはありません。私たちは永遠に新しい天と新しい地にいるのですから、数日にわたって、それらがどんなところであるのかについて話していきましょう。🙂

皮肉なことに、最後の七つの災害に満ちた七つの鉢を持っていた七人の御使いのうちの一人がヨハネのもとに来て、「ここに来なさい。あなたに、子羊の妻である花嫁を見せましょう」と言います。

この御使いは、古い天と古い地の破壊に関わっていましたが、 彼は新しい天と新しい地をヨハネに紹介するのです。

前回の記事でも触れましたが、「新しいエルサレム」とは、文字通りの都市なのか、神様の民なのか、それともその両方なのかは分かりません。

でも、この場面を読んでいると、高価な真珠のたとえ話を思い出しました。そこでは、ある人がその真珠を得るために、持っていたものすべてを売り払いました(マタイ13:45〜46)。

イエス様は、十字架でご自分の血によって、教会という高価な真珠を、ご自分の花嫁として買い取られたのです。

パウロによれば、

キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。(エペソ5:26-27)

今日の聖句では、キリストの花嫁が登場し、私たちはその美しさを目にすることができます。ヨハネはこう語ります。

都には神の栄光があった。その輝きは最高の宝石に似ていて、透き通った碧玉のようであった。(黙示録21:11)

ヨハネが花嫁を描写するとき、「12」という数字や「12の倍数」という数字が頻繁に登場し、それらの数字は時に「1000」(完全さを表す数字)と組み合わされています。

なぜ「12」なのでしょうか。その答えは、21章12節と14節にあるかもしれません。

「12」とは、神様の民を象徴する数字です。イスラエルの十二部族は旧約聖書時代の神様の民を象徴し、12使徒は新約聖書時代の神様の民を象徴します。(私たちも新約聖書の時代に生きています。)

旧約の信仰者たちは、新約の信仰者たちと共に神様の民なのです。

そして、花嫁は旧約時代の祭司たちのように宝石で飾られます(出エジプト記28:15〜21)。

エデンの園もまた、宝石で飾られていました(エゼキエル書28:13)。

この花嫁には、神様と出会うために神殿に行く必要はありません。なぜなら、神様ご自身と子羊ご自身が「神殿」だからです(21:22)。

つまり、昔は神殿が神様の臨在を表しましたが、新しい天と地において、神様はご自身が私たちの間におられるため、そのような建物は不要です。その上、神の栄光、そして子羊の栄光が都市を照らしています(21:23)。

しかも、花嫁自身も輝いています。この世の国々は彼女の栄光によって照らされ、国民たちはそれぞれの栄光を彼女にささげます(21:24)。

花嫁は完全に安心しています。侵入者が入る恐れがないため、その都市の門は常に開かれています。アダムとエバが裸でも恥を感じず安心していたように、キリストの民も人間関係において完全に安心しています。

御霊の喜びに満たされるにつれて、私たちの心の奥底から、生ける水の川が流れ出ます(ヨハネ7:37-39)。そのため、私たちはいのちの実を結び、味わいます(22:1-2)。

でも、天国で花嫁にとって最も素晴らしい事は何でしょうか。それは、私たちが神様のみ顔を見ることです(22:4)。

この都市は立方体として描写されています(21:16)。

聖書の中で、他に立方体として描かれているのはただ一つ。それは神殿の至聖所であり、神様がそこに住んでおられました(列王記第一6:20)。

その立方体の意味は?前回の記事で、私たちはその意味を見ました。

見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。(21:3)

また、

もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え。。。彼らは世々限りなく王として治める。(22:3,5)

どうして、私たちはそんな素晴らしい祝福を得ることができるのでしょうか。

なぜなら、2000年前、イエス様は十字架で私たちの罪のために死んでくださいました。イエス様の働きのおかげで、私たちはイエス様の尊い宝石のように輝き、イエス様の花嫁として栄光を持って、イエス様と共におり、共に治めます。

私はその日が来るのを待ちきれません。

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ヨハネの黙示録

主の訪れに備えず、不意を突かれるとき

サルディスには、突き通せない都市という評判がありました。しかし、この都市は二度も陥落したのです。なぜでしょうか。それは、見張りの者が眠っていたからです。

そのような歴史を踏まえて、イエス様はサルディスの教会の目を覚まさせようとされました。イエス様は、こう語られました。

また、サルディスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊と七つの星を持つ方が、こう言われる──。

わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。目を覚まし、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いがわたしの神の御前に完了したとは見ていない。

だから、どのように受け、聞いたのか思い起こし、それを守り、悔い改めなさい。目を覚まさないなら、わたしは盗人のように来る。わたしがいつあなたのところに来るか、あなたには決して分からない。(黙示録3:1-3)

イエス様は何を言いたかったのでしょうか。

かつての都市と同じように、サルディスの教会も丈夫で、元気で、生きているように見えました。けれども、実のところその教会は、死んだものでした。なぜなら、イエス様が彼らを裁くために来られたのに、彼らはその備えをしていなかったからです。

では、どのように備えができていなかったのでしょうか。イエス様は彼らに、こう語られました。「あなたの行いが、わたしの神の御前に完了したとは見ていない。」

それは何を意味するのでしょうか。私にもすぐにはわかりませんが、おそらく彼らには二つの問題があったのではないかと思います。一つ目は、彼らが聖なる人生を送っていなかったことです。操を守ることをやめ、自ら進んで罪に手を染めていたのです。

そこでイエス様は、「寝ているサルディスのクリスチャンたち」と「衣を汚さなかった者たち」を比較しておられます。(4)

しかし、イエス様はもう一つのことを意味しておられたのでしょう。

かつて、この教会は多くの良い働きを行い、周囲の人々に愛を届けていました。けれども、彼らはそれをやめ、自己中心になってしまったのです。周囲の人々への配慮を失い、ただ自分の実績だけを見て、誇りに満ちていました。

そのため、彼らは霊的に死にかけていたのです。自分の聖さや使命に関して、彼らの行いはまだ神の前に完成していませんでした。

それゆえに、イエス様は彼らに訓戒を与えられました。「原点に帰りなさい。最も大切なことを思い起こしなさい。自己中心的な態度を悔い改めなさい。自分の罪から離れなさい。そうしないなら、私は来て、あなたたちを裁くことになる。」

この言葉は、マタイの福音書第24〜25章のたとえ話に通じています。

多くの場合、私たちはそのたとえ話や、サルディスの教会に対する言葉を読んで、自分自身の人生を省みます。私たちは、個々のクリスチャンとして、主の帰還の日に向けて備えているかどうかを考えるのです。

もちろん、イエス様は一人ひとりのクリスチャンにも語っておられます。特に第4〜5節では、忠実なクリスチャンたちに向けて語っておられます。

けれども、覚えておきましょう。この手紙は、教会全体に向けて書かれているのです。

サルディスの教会と同じように、多くの教会は「生きている」という評判があります。ところが、実際には霊的に死んでいるのです。カリスマ性のある牧師がいて、賛美や礼拝の雰囲気は明るく盛り上がっています。

けれども、悔い改めていない罪のために、教会の内部は腐敗しています。信仰を公に宣言してはいても、その行動はその宣言と一致していないのです。

他の教会は、自分たちの実績を誇るだけです。かつては周囲の人々に、イエス様の愛を届けていました。けれども今では、その実績を祝って互いに褒め合い、自己満足に浸っているのです。まるで社交クラブのようになり、ただ交わりの時間を楽しむばかりです。

けれども彼らが忘れているのは、彼らの働きがまだ終わっていないということです。イエス様がこの世に戻られるその日まで、その働きは完成しないのです。

私たちはこの真理を心に刻まなければなりません。イエス様は必ず戻ってこられます。その日、イエス様が教会をご覧になるとき、何を語られるでしょうか。

周囲の世界に触れている教会をご覧になるでしょうか。命にあふれた教会をご覧になるでしょうか。それとも、自己中心的な教会をご覧になるでしょうか。罪に汚れた教会をご覧になるでしょうか。

イエス様が、あなたの教会をご覧になるとき、何を語られるでしょうか。

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ヨハネの黙示録

教会に愛がなければ

今日の箇所では、私たちはエペソにある教会に宛てて語られたイエス様の最初の訓戒を読みます。

実際、イエス様はその教会について、多くの良いことを語っておられます。彼らは神の国のために忠実に励み、さまざまな苦難にも耐え忍び、疲れ果てることはありませんでした(黙示録2:2-3)。

さらに、彼らは偽教師を見抜き、自らを使徒と名乗る者たちも試して、見分けることができました。この教会は、そうした者たちを退け、偽りの教えを拒絶していました(2,6)。

しかし、彼らには重大な問題がありました。イエス様はこう言われました。

けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい。(黙示録2:4-5)

残念ながら、多くの教会も同様の問題を抱えています。彼らは、自分の奉仕において熱心に励みます。迫害が訪れると、彼らは忍耐強く耐え忍びます。彼らは聖書の教えを守り抜き、偽教師たちを見抜き、罪に対しても寛容ではありません。

それでも、彼らは最も大切なことを忘れてしまいました。それは、神様への愛、そして人への愛です。その愛がなければ、教会は空っぽな殻のようになってしまいます。

だから、神様は彼らに訓戒されます。「悔い改めなさい。私は、ただ熱心な奉仕者たちだけを求めているのではありません。ただ忍耐を示す殉教者たちだけを求めているのではありません。ただ用心深い兵士たちだけを求めているのではありません。

むしろ私は、私を愛する者たちを求めています。また、世の人々に私の愛を分かち与える者たちを求めています。」

私たちがそのように生きないなら、いったいどうなるでしょうか。

そうせず、悔い改めないなら、わたしはあなたのところに行って、あなたの燭台をその場所から取り除く。(5b)

覚えていてください。燭台とは、人の救いではなく、教会を意味します。だから神様がこう語っておられます。

「もし私の教会であるあなたたちは初めの愛に戻らないと、私はあなたを自分の場所を取り除きます。あなたは礼拝は続けるかもしれないけど、私はあなたをこの世の光として用いません。」

私は第一コリント13章を連想します。その言葉をちょっとパラフレーズにします。

教会が聖書を正しく教え、偽教師や偽りの教えを見抜き、そうした者たちを退け、また聖さを語り、罪を拒んだとしても、愛がなければ、その教会は、騒がしいどらやうるさいシンバルと同じです。

教会の人々が熱心に励み、貧しい者たちを助け、教会の内外でさまざまな良い働きをしたとしても、愛がなければ、その教会は無に等しいのです。

教会の人々が迫害を耐え忍んだとしても、愛がなければ、それは何の益にもなりません。

多くの反キリストたちは、すでにこの世に現れています。そして、最後の反キリストが近づいています。その者が現れるとき、私たちはさまざまな苦難に直面することでしょう。しかし、もし私たちに愛がなければ、私たちはまだ備えができているとは言えません。

あなたの教会はどうでしょうか。その教会は備えができているでしょうか。あるいは、教会はその場所から取り除かれる瀬戸際にあるのではないでしょうか。

あなた自身はどうでしょうか。あなたは、初めの愛から離れていないでしょうか。

イエス様はこう語られました。

耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。(7)

この言葉は、あなた自身と、あなたの教会のために語られています。

イエス様と人々への愛を失わずに、反キリストや苦難、迫害を乗り越えるなら、イエス様はあなたにこう語られるでしょう。

わたしはいのちの木から食べることを許す。それは神のパラダイスにある。(7b)

裁きの日に、イエス様は私たちに何を語られるでしょうか。

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ペテロの手紙第一

教会として苦しみの直面する

この手紙において、ペテロは、イエス様のために迫害や苦しみに直面しているクリスチャンたちに語りかけています。

最初にペテロは、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの教会に対し、一つのキリストのからだとして演説しました。そして、彼らが「生ける石」として神様の霊の家に築き上げられていることを思い起こさせました。

その後、ペテロは個々のクリスチャンたちに語りました。特に、クリスチャンの奴隷たち、妻たち、そして夫たちに向けて具体的に話をしました。

そして、ペテロは再び教会全体に向けて語りかけ、一つのキリストのからだとしての立場を強調しました。

けれども、5章では、おそらくペテロは個々の教会に対して演説したのだと思われます。ペテロは、ある教会が苦しみに直面したとき、それにどう反応すればよいかについて語りました。

リーダーたちには重要な役割があります。彼らは教会の人々の模範だからです。特に試練の時には、彼らは羊飼いとして教会の人々の世話をしなければなりません。(ペテロの手紙第一5:2)

試練の時には、自分のことだけを考えるのは簡単ですが、リーダーたちはそうしてはなりません。また、彼らは傲慢な態度で教会の人々を支配してはいけません。むしろ、リーダーたちは自分の羊とそのニーズを自分よりも優先しなければなりません。(3)

おそらく、ペテロがこの言葉を書いたとき、預言者エゼキエルの言葉を思い浮かべていたのかもしれません。

エゼキエル書34章では、神様がイスラエルのリーダーたちを責められています。それは、神様が彼らにイスラエルの民を導くよう命じられたにもかかわらず、そのリーダーたちは自分のために生きていたからです。

だから、おそらくペテロはそれを覚えていて、クリスチャンのリーダーたちに訓戒を与えていました。

「その羊飼いたちの模範に従ってはいけません。自分の群れを牧しなさい。なぜなら、神様はあなたの責任を問われるからです。」

しかし、ペテロは忠実なリーダーたちを励まし、次のように語りました。

そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠をいただくことになります。(4)

そしてペテロは若い人々に「長老たちに従いなさい」と命じました。(5)

若い人々にとって、自分がすべてを知っていると思い、リーダーたちを批判するのは簡単なことです。けれども、ペテロはこう語ります。

「あなたのリーダーたちに従いなさい。たとえ彼らの意見がいつも正しいわけではなくても、従いなさい。あなたのプライドが原因で教会を分裂させてはなりません。」

そして、ペテロはこう言いました。

みな互いに謙遜を身に着けなさい。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」のです。

ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(5-7)

試練の時、自分のプライドのために人々が喧嘩するのは容易なことです。けれども、ペテロはこう促しました。

「兄弟たちや姉妹たちと話すとき、謙遜な態度を取りなさい。特に神様の御前で謙遜でありなさい。そうすれば、神様はあなたを試練から救い出し、時が来るとあなたを高く上げてくださいます。」

私たちはすべての問題を自分の力で解決することはできません。そのため、神様の御前で謙遜な態度を取るべきです。そして、私たちのすべての思い煩いを神様に委ねるべきです。なぜなら、神様は私たちを深く愛しておられるからです。

しかし、多くの場合、私たちはそうすることができず、平和を見いだせません。私たちのプライドによって、「この問題を自分で対処できる」と思い込むことで、必要のない負担を背負ってしまうのです。

けれども、神様は私たちにこう語られます。「私に信頼しなさい。へりくだり、その問題を私に委ねなさい。そうすれば、私はその問題を解決します。」

また、ペテロは教会に訓戒します。試練を通してサタンは教会を滅ぼそうとします。

しかし、ペテロはこう語ります。

「堅く信仰に立ちなさい。あなたは苦しんでいるかもしれませんが、それはあなたたちだけではありません。あなたたちの兄弟たちと姉妹たちも共に苦しんでいます。だからこそ、互いに励まし合いなさい。」

そして、ペテロはこう言います。

あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。

どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。(10-11)

その言葉で、ペテロはこの手紙の冒頭の言葉を繰り返して述べています。神様はあなたを召されました。あなたが御子のようになるために、神様は毎日あなたを精錬し、清めておられます。

そのプロセスの一部が、あなたの苦しみなのです。けれども、神様の目的は、あなたがイエス様のために生きることにあります。良い時も、試練の時も、あなたはイエス様のために生きるべきです。

ただし、覚えておいてください。それを自分の力で成し遂げなければならないわけではありません。むしろ、神様の御前でへりくだりましょう。そして、神様に信頼しましょう。

そうすることで、あなたは堅く立ち、強くなり、不動の者となるでしょう。それは、すべて神様の栄光のためです。

キリストにあるあなたがたすべての者に、平安がありますように。(14)

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ピリピ人への手紙

教会の一致を保つ

パウロはこの手紙を書いていたとき、ユウオディアとシンティケの対立について、どれほど心を痛めていたことでしょうか。

彼女たちはかつて、パウロと共に福音のために働いた者たちであり、彼にとって愛する、かけがえのない姉妹でした。

しかし、この手紙を書いたとき、その二人の女性たちは争っていました。なぜ彼女たちが争っていたのか、私たちは知りません。

けれども、パウロは「ユウオディア、あなたが悪い。謝りなさい」とは言わず、「シンティケ、あなたが悪い。謝りなさい」とも言いませんでした。

むしろ、パウロはこう語りました。

ユウオディアに勧め、シンティケに勧めます。あなたがたは、主にあって同じ思いになってください。(ピリピ人への手紙4:2)

この手紙を通して一貫して語られている主題の一つは、教会の一致です。だからこそ、パウロはピリピの人々にこう語りました。

「あなたがたは霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにして、ともに戦っていなさい。」(1:27)

そしてパウロは、さらにこう語ります。

あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。。。キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。(2:2、5)

また、

すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。(2:14-16)

そして、第3章では、パウロは彼らにこう語りました。「自分の立場や実績に対するプライドを捨てて、イエス様に心を向けなさい。イエス様を知ることを、あなたの目当てとしなさい。あなたがたは御国の市民なのだから、そのように生きなさい。」

このように多くのことを語った上で、パウロはユウオディアとシンティケにこう勧めました。

「あなたがたのプライドを捨てなさい。争いを手放しなさい。互いに受け入れ合いなさい。そして、もう一度、福音のために力を合わせて仕えなさい。」

もしパウロが今日のクリスチャンたちを見たとしたら、私たちにもきっと同じ言葉を語ったのではないでしょうか。

今もなお、多くのクリスチャンたちは主を愛し、イエス様に仕えたいと願っていながら、自分のプライドのゆえに、他のクリスチャンたちと争っています。

私もパウロの痛みに共感します。なぜなら、私自身も教会の中で、そうした分裂を目の当たりにしてきたからです。

このような問題を見たとき、私たちはただ黙って見過ごし、状況が悪化するのを許すことはできません。パウロはこう語りました

そうです、真の協力者よ、あなたにもお願いします。彼女たちを助けてあげてください。この人たちは、いのちの書に名が記されているクレメンスやそのほかの私の同労者たちとともに、福音のために私と一緒に戦ったのです。(4:3)

その「真の協力者」がだれだったか分かりませんけど、パウロはその人に言いました。「この二人の姉妹たちが和解するように助けてください。どうか、何とかしてください。」

でも、和解をもたらさずに、多くのクリスチャンたちは、二つに分かれてしまいます。または、あるクリスチャンたちはそのことについて噂を広めます。でも、教会の一致を保ちたいと思うなら、そんなことをしてはいけません。

むしろ、パウロは私たちにこう言います。

平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。(エペソ4:3)

あなたは、そのように歩んでいるでしょうか。

それとも、自分のプライドのせいで、相手と和解することを拒んでいるでしょうか。たとえ相手があなたを傷つけたとしても、あるいはあなたが相手を傷つけたとしても、できる限り和解を目指すべきです。

兄弟姉妹が争っているとき、あなたは平和をもたらそうとしているでしょうか。それとも、片方の味方についてしまっているでしょうか。

あいにく、多くの人は争いを解決しようとしません。むしろ、争いを放置した結果、やがてそれが爆発し、当事者の一人、あるいは両者ともが教会を離れてしまうのです。しかし、そのような結果が、イエス様に栄誉を帰すものでしょうか。

教会はイエス様に栄光を現し、この世にイエス様がどのようなお方であるかを示すべき存在です。けれども、教会の中に亀裂があれば、私たちはその使命を果たすことができません。

あなたは、教会に生じたその亀裂の一つとなっているでしょうか。それとも、もしかしたら、その亀裂を修復する者なのでしょうか。

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エペソ人への手紙

一致する結婚(2)

この箇所で興味深いのは、パウロによれば、結婚が私たちとキリストとの関係を描くものであるという点です。 パウロはこう語りました。

夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。

キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。

同様に夫たちも、自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する人は自分自身を愛しているのです。

いまだかつて自分の身を憎んだ人はいません。むしろ、それを養い育てます。キリストも教会に対してそのようになさるのです。私たちはキリストのからだの部分だからです。

「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」

この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。(エペソ人への手紙5:25-32)

イエス様は教会のために何をしてくださったのでしょうか。 イエス様は天を離れ、この世に来られました。 そして、十字架の上でご自身のいのちを捧げられました。

今もなお、イエス様は私たちの世話をしてくださり、 私たちの物理的な必要や霊的な必要に応え、 神様の愛をもって私たちを養い、育ててくださっています。

なぜイエス様はこのようにしてくださるのでしょうか。 それは、イエス様がご自身を愛するように、私たちを愛しておられるからです。 実際、イエス様は私たちを、ご自身のからだの一部として見なしておられます。

夫も同じようにするべきです。 彼は親を離れ、自分の妻と一つになります。 妻のために自分のいのちを捧げ、妻の世話をし、 妻の物理的な必要や霊的な必要に応え、 愛によって妻を養い、育てるべきです。

なぜ夫はそのようにすべきなのでしょうか。 それは、彼が自分自身を愛するように、妻を愛するべきだからです。 実際、神様の目には、妻は夫のからだの一部と見なされているのです。

いろいろな意味で、夫は妻にとってイエス様の姿を映す存在であるべきです。 同じように、妻はイエス様を敬い、その導きに従うのと同じように、 自分の夫を敬い、夫の導きに従うべきです。

では、夫たち。あなたは、どれほどイエス様を妻に反映しているでしょうか。 あなたは、妻をあなた自身の一部として扱っているでしょうか。

もしかすると、妻をそこまで敬っていないかもしれません。 しかし、キリストは教会をそのように深く愛しておられます。 だからこそ、私たちもそのように愛すべきなのです。

妻たち。あなたはどれほどイエス様に従っているでしょうか。 もしイエス様に従うことが難しいと感じるなら、 自分の夫に従うことは、なおさら難しいかもしれません。

このようにして、パウロはこの教えを次のようにまとめています

それはそれとして、あなたがたもそれぞれ、自分の妻を自分と同じように愛しなさい。妻もまた、自分の夫を敬いなさい。(33)

あなたの結婚はどうでしょうか。 あなたの結婚は、イエス様と教会との関係を映し出しているでしょうか。

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エペソ人への手紙

私たちがどのように歩んでいる?

私は、この箇所でパウロが「歩む」という言葉をどのように用いているかが好きです。

「愛のうちに歩みまさい。」(エペソ人への手紙5:2)

「光の子どもとして歩みなさい。」(8)

「ですから、自分がどのように歩んでいるか、あなたがたは細かく注意を払いなさい。」(15)

要するに、この人生において、私たちは一歩一歩進むごとに、神様の愛をより深く知るはずです。 そして、その愛は私たちを通して流れ出すはずです。

また、周囲の人々が私たちの人生を見るとき、そこに神様の光を見出すはずです。

だから、私たちは次の一歩を踏み出すたびに、 その選択が私たちをどこへ導くのかに注意を払うべきなのです。

パウロはこの教えを、次のようにまとめています。

ですから、自分がどのように歩んでいるか、あなたがたは細かく注意を払いなさい。知恵のない者としてではなく、知恵のある者として、機会を十分に活かしなさい。

悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころが何であるかを悟りなさい。(15-17)

言い換えれば、私たちは愚かに生きてはならないのです。 かつて私たちは、死に至る道を歩んでいました。 だから、再びその道に戻ってはなりません。 また、いまもその道を歩んでいる人たちと、共に歩んではならないのです。

もちろん、私たちは彼らを完全に避けて生きることはできません。 けれども、彼らが私たちに影響を与えることを許してはなりません。 むしろ、私たちこそが彼らに影響を与えるべきなのです。

そしてパウロは、ほとんど同じことを二度にわたって語っています。

何が主に喜ばれることなのかを吟味しなさい。(10)

また、

主のみこころが何であるかを悟りなさい。(17)

私は改めて強調したいのですが、パウロは個々のクリスチャンたちに語っているのではありません。 彼は、キリストにあって一つとされた「からだ」としての教会に語っているのです。 パウロは彼らにこう言いました。

「あなたがた皆は、キリストのからだとして、知恵をもって歩みなさい。 教会として、あなたがたは時を賢く用いていますか。 神様の教会として、与えられた機会を十分に生かしなさい。」

けれども、現実には多くの場合、神様の民はそのように歩んでいません。 教会は、暗闇の中に輝く光ではなく、 むしろ、暗闇の業に加わってしまうことすらあるのです。

また、私たちは互いに噛み合い、食い合い、 心に苦々しさを抱き、他のクリスチャンを許さずに恨んでしまうこともあります。

だから、パウロは言います。 「そのような態度を捨てなさい。 それは神様の御心ではありません。 そのように生きることは、愚か者の道です。 あなたがたは、自分たちに与えられた時間と機会を無駄にしているのです。

そうではなく、キリストのからだのために、神様のみこころを正しく知りなさい。」

では、神様のみこころとは何でしょうか。

また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。

詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。

キリストを恐れて、互いに従い合いなさい。(エペソ人への手紙5:18-21)

「御霊に満たされなさい」という言葉を見るとき、私たちはしばしば個々のクリスチャンのことを思い浮かべます。 つまり、一人ひとりのクリスチャンが御霊に満たされるべきだと考えるのです。

しかし、パウロが語っているのは、 「あなたがたはキリストのからだとして、御霊に満たされるべきである」ということです。

教会にとって最も必要なのは、御霊に満たされることです。 けれども、多くの場合、教会は貪りや恨み、分裂的な思いに満ちてしまっています。

もし神様の教会が御霊に満たされ、御霊に導かれ、 御霊の力によって歩んでいるならば、 この世界にどれほど大きな影響を与えることができるでしょうか。

もし神様の教会の人々が互いに引き裂き合わず、 御霊による喜びに満たされ、賛美をもって互いに励まし合っているならば、 この世にどれほど大きな影響を与えることができるでしょうか。

また、もし教会の人々が恨みや分裂的な思いに満たされず、 互いに敬意を払い合い、キリストを畏れつつ互いに従い合っているならば、 どれほどこの世は変えられることでしょうか。

私たちは、そのように生きているでしょうか。 教会として、私たちはそのように歩んでいるでしょうか。 また、個々のクリスチャンとして、そのように歩んでいるでしょうか。

あなたは、今、どのように歩んでいるでしょうか。

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エペソ人への手紙

私たちが神様の栄光で満たされるように

歴代誌第一には、ソロモンが神殿を完成させた後のこの出来事が、このように記されています。

祭司たちが聖所から出てきたとき、雲が主の宮に満ちた。祭司たちは、その雲のために、立って仕えることが出来なかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。(列王記第一8:10-11)

ソロモンの神殿が主の栄光で満たされたように、神様の望みは、ご自身の教会がその栄光で満ちることです。だから、パウロはそのために祈ったのです。

どうか御父が、その栄光の豊かさに従って、内なる人に働く御霊により、力を持ってあなたがたを強めてくださいますように。

信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。

そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。

そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。(エペソ人への手紙3:16-19)

パウロは、ただ一人のエペソのクリスチャンに宛てて書いたのではありません。むしろ、すべてのエペソのクリスチャンたちを対象として書いていました。彼は「あなた」ではなく、「あなたがた」と記していたのです。

もちろん、パウロは個々のクリスチャン一人ひとりのためにそれを願っていました。

しかし、この祈りを記したとき、彼はエペソの教会のクリスチャンたちを「一つのもの」として捉えていました。なぜなら、キリストにあって、すべてのクリスチャンは一つだからです。

第2章では、パウロはそのことを繰り返し強調しており、第3章と第4章でも同じテーマが続けて語られています。

パウロの祈りを言い換えると、次のようにまとめることができます。

神様、あなたの御霊を通して、一人ひとりのクリスチャンの内に働いてくださる中で、あなたの教会全体に力を与えてください。

イエス様、あなたに対する彼らの信仰によって、どうか彼らの心のうちに住んでください。

天のお父様、彼らがあなたの愛にしっかりと根を下ろすことができますように。その愛が彼らの人生の土台となりますように。

そして、その愛に深く根差すにつれて、彼らが互いの兄弟姉妹への愛にも生きることができますように。

そのように愛に生きる中で、彼らがあなたの知恵と愛の広さ、長さ、高さ、深さを共に理解し、知る者となりますように。

そして、かつてソロモンの神殿があなたの栄光で満たされたように、あなたの教会があなたの満ちあふれる豊かさにまで満たされますように。

それこそが、教会に対する神様の望みです。神様のご計画は、私たちが神様の神殿となり、神様の栄光に満たされて、その栄光をこの世に映し出すことです。

しかし、それは私たち自身の努力によって成し遂げられるのではありません。むしろ、神様が教会に力を与え、教会のうちに働いてくださるときに、そのことは実現するのです。

ですから、自分自身や教会を見て落胆しそうになるときには、思い出してください。神様は、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うこと、思い描くことのすべてを、はるかに超えて成し遂げることのできるお方です(エペソ3:20)。

神様は今も奇跡を行われます。壊れた人生や教会を、栄光に満ちたものへと変えてくださるのです。私たちがすべきことは、ただ神様と協力することです。

そして、いつの日か、神様は私たちのうちにおいて、また、十字架で流された血によって私たちを贖われた御子において、栄光を受けられるのです。

ですから、絶望しないでください。むしろ、パウロの賛歌を私たちの祈りとして歌いましょう。

どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。(20-21)

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コリント人への手紙第一

教会を団結させるための賜物

この箇所で、パウロはまだコリント教会の分裂について考えていたかもしれません。この手紙の中で、彼はすでに二度その問題について触れています。

パウロは、霊的な賜物がコリント教会を分裂させたとは述べていません。しかし、その賜物が分裂を引き起こす可能性があることは見ていたかもしれません。

実際、現代の教会でも同じような問題が見られます。

だから、パウロは冒頭から明確に語ります。霊的な賜物は教会を分裂させるためのものではなく、教会のメンバーたちを団結させるためのものです。

パウロはこう記しました。

さて、賜物はいろいろありますが、与える方は同じ御霊です。

奉仕はいろいろありますが、仕える相手は同じ主です。

働きはいろいろありますが、同じ神がすべての人の中で、すべての働きをなさいます。(コリント人への手紙第一12:4-6)

パウロの言葉から、三位一体が霊的な賜物に深く関わっていることが分かります。

異なる賜物がありますが、同じ御霊によって与えられます。

異なる奉仕がありますが、同じ主(イエス)に仕えます。

異なる働きがありますが、すべては同じ神(天の父)によって行われます。

パウロの意図はこうかもしれません。天の父、イエス様、聖霊様はそれぞれ異なる役割を持っておられますが、なお一つの神です。

同じように、私たちの賜物がそれぞれ異なっていても、私たちはなお一つの教会です。だから、私たちには心の一致が必要です。

7節で、パウロはこのことを明確に述べています。

皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。(7)

普通、私たちがプレゼントを受け取るとき、その贈り物は私たち自身の益のためです。けれども、霊的な賜物は異なります。それらは、すべての人の益のために与えられるものです。特に、教会の兄弟姉妹たちを支えるためのものです。

だからこそ、霊的な賜物について考えるとき、自分中心の考えを捨てるべきです。むしろ、その賜物をどのように用いて、周囲の人々に益をもたらせるかを考えるべきです。

このように、霊的な賜物に関しては、プライドや嫉妬の余地はありません。

パウロはこう記しました。

たとえ足が「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。

たとえ耳が「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。(15-16)

けれども、ある人は他者の賜物をうらやみ、その感情に基づいて行動してしまうことがあります。

自分が神様から与えられた賜物を気に入らず、不満を抱き、苦々しい態度を持ってしまいます。

または、同じ賜物を持っているものの、他者の方がより豊かにそれを持っているため、嫉妬し、怒りを抱くこともあります。

その結果、彼らは相手に対しても、神様に対しても怒りを向けてしまいます。

しかし、逆の問題もあります。

パウロはこう記しました。

目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。(21)

要するに、より「重要な」賜物を持っている人は、他の人を取るに足りない存在として見下してしまいがちです。

どちらの態度も害を及ぼし、教会を分裂へと導きます。皮肉なことに、以前述べたように、賜物は本来、教会を一つにするために与えられたものです。

だからこそ、私たちは自分自身に問いかけるべきです。

「兄弟姉妹に対する私の態度は正しいだろうか。自分の賜物と他者の賜物に関する私の態度は、教会を分裂へと導くか、それとも一致へと導くだろうか。」

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コリント人への手紙第一

私たちは世にどう映るのか

アメリカでは訴訟が日常茶飯事となっています。どんなに理不尽な訴えであっても、人々は相手を訴えることがあります。

アメリカと比べると、日本では訴訟の件数はそれほど多くありませんが、それでも相手を訴える人はいます。

コリントのクリスチャンたちの間でも、多くの訴訟が行われていたようです。パウロはそれを見て、二つの点に困惑しました。

一つ目は、兄弟姉妹が故意に罪を犯していたことです。二つ目は、傷ついた兄弟姉妹が相手を訴えていたことです。

さらに、傷ついた者自身が「毒をもって毒を制す」ように、相手に対して悪事を働いてしまいました。

そこで、パウロは彼らに次のように語りました。

それどころか、あなたがた自身が不正を行い、だまし取っています。しかも、そのようなことを兄弟たちに対してしています。

あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。

淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をするもの、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することが出来ません。(コリント人への手紙第一6:8-10)

要するに、自分自身を欺いてはいけないということです。たとえクリスチャンを自称していたとしても、悔い改めることなく罪を犯し続けるなら、神の国を相続することはできません。

ある人は、パウロが救いを失った人について語っていると考えます。けれども、そのような人はそもそも真のクリスチャンではなかったのではないでしょうか。

とはいえ、パウロはコリントの人々が本物のクリスチャンであることを前提としています。だから、パウロは次のように語りました。

あなたがたのうちのある人たちは、以前はそのような者でした。

しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。(11)

つまり、「あなたたちは神様に清められ、神様のために聖別されました。あなたたちは新しく造られた者となったのです。それなのに、どうして兄弟姉妹をこのように扱うのでしょうか」ということです。

そして、クリスチャン同士の訴訟について、パウロは次のように語りました。

「やがて、あなたたちは世界の人々を裁くことになるのです。さらに、天使たちをも裁く立場となるでしょう。それならば、どうしてこんな些細な問題すら解決できないのでしょうか。」(2~5節)

けれども、パウロが本当に怒ったのは、コリントの人々が自らの恥をノンクリスチャンの前にさらしてしまったことです。それを目の当たりにしたノンクリスチャンは、こう問いかけます。

「クリスチャンとは、そのようなものなのですか?結局、私たちと変わらないのではないですか?彼らも互いに傷つけ合っているではありませんか。」

要するに、彼らの罪は教会の汚点となってしまったのです。

だから、パウロは次のように語りました。

そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。

どうして、むしろ不正な行いを甘んじて受けないのですか。

どうして、むしろ、だまし取られるままでいないのですか。(7)

コリントの人々は二つの点で敗北してしまいました。

一つ目は、彼らがサタンと戦うことなく、互いに争い合ってしまったことです。

二つ目は、彼らの評判が損なわれてしまったことです。

イエス様は次のように語られました。

互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネ13:35)

しかし、私たちは教会でそのように行動しているでしょうか。それとも、互いに争い合い、サタンに勝利を許してしまっているのでしょうか。

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コリント人への手紙第一

何の原料で教会を建てるでしょうか

今日の箇所で、パウロは私たちがどのように教会を建てているかについて語っています。そして、私たちはその建て方に注意を払わなければならないと警告しています。

まず、パウロは教会の土台について語ります。もちろん、その土台はキリストです。(11)

しかし、私たちはどのような材料を用いて、その土台の上に教会を建てるのでしょうか。牧師のカリスマでしょうか。それとも、ねたみでしょうか。陰口でしょうか。あるいは、プライドでしょうか。

牧師のカリスマは悪いものではありませんが、それは安定した建材ではありません。

では、その他のものはどうでしょうか。それらは教会を壊してしまいます。

だから、教会のメンバー—牧師であれ、新しく加わったばかりのメンバーであれ—それぞれが自分の役割を果たしている間に、自ら問いかけるべきです。「私はどのような材料を用いて、この教会を建てようとしているのだろうか。」

私たちが用いる材料によって、私たちは裁かれます。

パウロは次のように語りました。

だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、藁で家を建てると、それぞれの働きは明らかになります。「その日」がそれを明るみに出すのです。

その日は火とともに現れ、この火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すからです。

だれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。

だれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります。(コリント人への手紙第一3:12-15)

もし自分の役割を十分に果たさなければ、私たちは地獄に行くことはありませんが、自分の報いを失ってしまいます。そのため、ある人は天国に入るものの、彼らの成果はすべて失われてしまうのです。

なぜでしょうか。それは、彼らの心が神様の目に正しくなかったからです。彼らはねたみやプライドに満ちた心を持っていました。そのような態度によって教会に分裂が生じ、さらには教会が破壊されてしまうこともあります。

だから、パウロは次のように語りました。

あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。

もし、だれかが神の宮を壊すなら、神がその人を滅ぼされます。神の宮は聖なるものだからです。あなたがたは、その宮です。(16-17)

パウロが語ったのは、クリスチャンである私たちは神様の宮であるということです。言い換えれば、教会は神様の宮なのです。

もし私たちの行動によって教会が滅びるなら、神様は私たちを裁かれます。私たちのプライドやねたみによって教会が壊れたなら、私たちは神様の前で責任を問われることになります。

だから、パウロは「そんなものを捨てなさい」と命じています。プライドやねたみ、そして分裂を生み出す知恵を捨て去りましょう。むしろ、十字架の「愚かさ」を抱きましょう。

十字架の愚かさこそが、私たちに謙遜と感謝の心をもたらします。そのような心を持つなら、私たちは互いに受け入れ合う態度へと導かれるのです。

あなたはどうでしょうか。あなたが牧師であれ、教会の最も新しいメンバーであれ、あなたには教会を建てる役割があります。どのような材料を用いて教会を建てているでしょうか。

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使徒の働き

ひとつになって、ひとつにする

今日、私はこの箇所を締めくくろうと思いますが、44節と46節の「一つになって」と「心を一つにして」という言葉は、私の心を打ちました。

この言葉は、42節と関係があると思います。つまり、クリスチャンたちは交わりに専念していました。

彼らは他のクリスチャンとの関係を大切にしていたので、積極的に共に時間を過ごそうと努めました。けれども、ただ宮に集まっただけではなく、彼らは自分の家にも集まりました。そして、週に一度ではなく、毎日集まりました。

さらに、彼らは本当に互いに愛し合いました。だから、貧しい兄弟姉妹を常に助けました。

そして、彼らは心を一つにしました。

では、彼らは決して喧嘩しなかったのでしょうか。それは違うと思います。

彼らはいつも意見が一致していたのでしょうか。おそらく、そうではなかったでしょう。

けれども、最終的に彼らは、相手の違いを受け入れ、兄弟姉妹として見なすことができました。彼らは互いに必要であると認め、さらにその関係に専念しました。

クリスチャンが新しい夫婦にアドバイスを与えるとき、しばしばこう言います。

「困難な時にも、この関係を守ろうと努めなさい。相手に対するコミットメントはとても大切です。だから、喧嘩するときも、傷つけられるときも、努力してその関係を守りなさい。」

もちろん、その通りです。

しかし、どれほど多くのクリスチャンが他のクリスチャンと喧嘩し、その関係を捨ててしまうでしょうか。

神様は私たちにこう言われます。

「兄弟姉妹との関係を守りなさい。私はあなたにそのようなコミットメントを望んでいます。」

それにもかかわらず、私たちはこのことをほとんど考えようとしません。辛いときも、喧嘩するときも、傷ついたときも、神様は私たちに忠実なコミットメントを求めておられます。

結婚と同じように、クリスチャンの交わりにはコミットメントが必要です。そして、苦労も伴います。けれども、そのコミットメントを持てば、素晴らしい報いがあります。

そのようなコミットメントがあれば、私たちは祝福されます。さらに、この世の人々は、私たちの互いの愛を見て、イエス様に惹かれるでしょう。使徒の時代にも、そのようなことが起こりました。

神様の民の愛と一致、そして彼らの間で働かれる神様の力によって、教会は成長しました。ルカはこう記しています。

主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。(使徒の働き2:47)

確かに、教会の中にはさまざまな問題があります。教会が人間によって成り立っている限り、問題があるのは当然です。

なぜなら、イエス様は完全な人々のために来られたのではなく、霊的に病んでいる人々のために、また、傷ついた人々のために来られたからです。

牧師や他のリーダーたちが失敗することもあります。教会では、人が人を傷つけることもあるでしょう。

それでも、その関係にコミットメントを持ち続けますか。あなたのプライドを脇へ置き、困難の中でも人間関係の問題に向き合うでしょうか。イエス様のためにそうしませんか。

主の言葉を心に留めておきましょう。

私はあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネ13:34-35)

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使徒の働き

クリスチャンの交わりに専念する?

この記事は前回の記事の続きです。前回の記事では、私は教会をやめる人について話しました。

彼らの一つの不満は、教会で訓戒されることに飽きたということです。また、彼らは「もう知っている」という態度を持っていました。

今日は、さらに重要な問題について話したいと思います。おそらく、多くの人々が教会をやめる理由は、説教ではなく人間関係にあるでしょう。つまり、リーダーやほかの教会のメンバーたちと気が合わないということです。

私の友人が掲載した記事を読んだとき、私は少し混乱しました。その記事でインタビューされたクリスチャンの一人はこう言いました。

「人間関係の問題のせいで、私は教会をやめるわけではありません。私はかっとして急にやめたわけではありませんでした。私は、教会をやめる決断をじっくり考えました。」

けれども、その記事には、その人が教会をやめた理由が書かれていません。

その人は、人間関係の問題を控えめに語っています。しかし、記事(とコメント欄)を読むと、多くの場合、人間関係の問題こそが教会をやめる根本的な理由であることが明らかになります。

ある人々は、教会の方向性について、リーダーたちに賛成できませんでした。

ある人々は、リーダーたちの行動を批判しました。

ある人々は、教会に愛が欠けていると不満を述べました。

そのため、彼らは教会をやめてしまいました。

けれども、使徒の時代のクリスチャンたちは、そのようにはしませんでした。

新改訳では、翻訳者たちは「守り」(別訳:「専念」)という言葉を使徒たちの教えだけに結び付けています。

しかし、ほとんどの英訳では、「専念」という言葉を「使徒たちの教え」だけではなく、交わり、パンを裂くこと、祈りにも結び付けています。

したがって、この箇所を次のように翻訳できます。「彼らはいつも。。。(クリスチャンの)交わりに専念していました。」

つまり、彼らはクリスチャンの交わりに熱心でした。

私の友人の一人は、その記事を読んでこう言いました。

「まあ、私はもう教会に行かないけれど、クリスチャンの友人がいて、私たちは霊的な成長や個人的な成長のために、互いに励まし合っていますよ。」

彼らが本当にそうしているのなら、それは素晴らしいことだと思います。とはいえ、具体的に彼らは何を意味しているのでしょうか。一週間に一度くらい電話をするのでしょうか。一か月に一度?一年に一度?

彼らはその友人と時間を過ごし、互いに話し合い、励まし合い、もし必要があれば訓戒し合っているでしょうか。彼らにとって、それをすることは優先度が高いのでしょうか。

彼らは一緒に祈ることに専念しているでしょうか。

彼らは一緒にパンを裂いているでしょうか。

もしかすると、彼らはまず仕事や家族、学校を優先し、時間があればほかのクリスチャンとの時間を割いているのでしょうか。

しかし、使徒の時代のクリスチャンたちは交わりを優先していました。

信者となった人々はみな一つになって、一切のものを共有し、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。

そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし(ました)。。。(使徒の働き2:44-46)

彼らは交わりに熱心だったので、毎日宮に集まりました。彼らは家々で時間を過ごしました。そして、他のクリスチャンたちのニーズを満たしました。

その結果は?

主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。(47)

教会はなぜ成長したのでしょうか。イエス様はその理由を私たちに説明されました。イエス様は弟子たちにこう言いました。

互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネの福音書13:35)

少し注意してください。イエス様は「あなたがたがすべての人々に対する愛があるなら、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります」とは言いませんでした。

イエス様は「互いの間に愛があるなら…」と言われました。

もちろん、私たちは教会の外の人々を愛するべきです。また、私たちは教会の人々だけを愛することに焦点を当てるべきではありません。私たちは教会の外にいる人々と関わるべきです。

とはいえ、この世の人々が私たちを見るとき、私たちが喧嘩し、怒り合い、許し合わず、苦々しい思いを持っているのを見たなら、彼らはどう思うでしょうか。

次のような会話を想像してみてください。あなたが友人にイエス様のことをずっと伝えていたとします。そして、彼らが「じゃあ、あなたの教会に行きたいと思うけど」と言います。

けれども、あなたは「実は、私はもう教会に行っていない」と答えます。

彼らが「どうして?」と訊いたら、あなたはどう答えるでしょうか。

「まあ、人間関係の問題があって。。。」

「少しリーダーたちと教会の方向性について言い争いをしてしまったので。。。」

相手はそれを聞いて、どう反応するでしょうか。イエス様が教会を愛し、その教会のために死なれたのに、あなたがその教会の悪口を言ったら、彼らはクリスチャンになりたいと思うでしょうか。

第一ヨハネ4:20を少し言い直すと、あなたの心に強く響くかもしれません。

「神を愛すると言いながら兄弟との交わりを拒むなら、その人は偽り者です。見える兄弟との関係を断つ者に、目に見えない神を愛することはできません。」

もし、教会の兄弟姉妹との交わりを拒むなら、あなたは神様を愛していると主張できるでしょうか。もしその関係を断つなら、あなたは本当に神様を愛していると言えるでしょうか。

友人を愛することは簡単です。

兄弟姉妹に欠点があっても、あなたは彼らを愛するでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ16章

教会が立つ基礎

これは本当に印象的な箇所ですので、もう一度見てみましょう。

ペテロがイエス様に向かって「あなたはキリストです」と告白した後、イエス様は彼を称賛されました。

するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。

ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。

わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」(マタイの福音書16:17-19)

それは本当に印象的な言葉ですが、その言葉が意味するものとは何でしょうか。そして、私たちは何を学ぶことができるのでしょうか。

まず最初に、神様がご自身を現わされると救いがもたらされるということです。

人々は神様を自ら見出すことができないため、神様がご自身とその真理を明らかにされなければ、私たちは神様のことを知ることはできません。そのため、救いはまさに恵みから来るものなのです。

カトリック教徒たちはペテロを尊敬し、ペテロの権威によってイエス様が教会を建てられたと教えています。

けれども、この箇所では、イエス様はそのように教えられたわけではありません。「ペテロ」という名前は「小さい石」という意味を持っていますが、イエス様は「岩の上に教会を建てる」と言われました。

ペテロ自身もその言葉を忘れず、こう語っています。

主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。

あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。

なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」(第一ペテロ2:4-6)

ペテロによれば、教会は何の石の上に立つでしょうか。それはイエス様です。

私たちクリスチャンは何者でしょうか。私たちは生ける石です。そして、神様は私たちを用いて、ご自身の家、つまりご自身の神殿を建てておられます。

さらに、私たちはイエス様の十字架の働きのゆえに、神様の祭司となりました。

私たちには祭司が要りません。なぜなら、私たち自身が神様の祭司だからです。私たちは確信をもって、大胆に天の父の御もとに近づくことができます。

教会がイエス様の上に建てられたので、ハデスの門もそれには打ち勝つことができません。サタンはずっと教会を滅ぼそうとしましたが、教会は今もなお立っており、イエス様が戻られるまで立ち続けるでしょう。

イエス様はペテロに特別な権威を与えられたでしょうか。おそらくそうされたでしょう。しかし、その時、ペテロとほかの弟子たちはイエス様の言葉を完全に理解していなかったと思います。

イエス様が天に戻られた後、ペテロの最初のメッセージを通して、多くのユダヤ人がクリスチャンとなりました。(使徒の働き2章)

また、異邦人もペテロを通して福音を聞き、初めてクリスチャンになりました。(使徒の働き10–11)

つまり、ペテロは天の御国の鍵を使ったことで、ユダヤ人と異邦人が初めて神の国の門に入ることができました。

さらに、その鍵を用いて、ペテロとヤコブは、ユダヤ人の儀式的な律法および食事に関するルールのほとんどを解きましたが、教会の平和を守るためにいくつかの律法を守るよう指示しました。(使徒の働き15章)

それでも、ペテロが最初の法王であり、他の人々がペテロの権威と立場を継いだとは言えません。イエス様は、そのようなことを決して言われませんでした。

実は、ある程度、イエス様の言葉はすべてのクリスチャンに当てはまります。

神様の祭司として、私たち皆は天の御国の鍵を受けています。そして、私たちが福音を伝えると、その福音を聞いて信じる人々に天の国の門が開かれます。

また、私たちは信じる人々に対して、彼らの罪が恵みによって赦されることを宣言する権威を持っています。したがって、彼らは自分の働きによって救いを得ようとする考え方から解放されます。

ですから、その鍵を使いましょう。そうすれば、彼らも私たちがいただいた救いを受けることができるのです。

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詩篇

神様の民と一緒にいる喜び

巡礼者がエルサレムの門にたどり着くと、詩篇122篇を歌い始めたでしょう。この歌は、詩人が神様の宮に入る喜びを言い表しています。

人々が私に、「さあ、主の家に行こう」と言ったとき、私は喜んだ。(詩篇122:1)

私は若い時、あまりそんな喜びはありませんでした。私は7-8歳ぐらいでクリスチャンになったのですが、中学生になったとき、もう教会に行きたくなくなりました。

私の教会は良い場所でしたが、私は他のことをしたかったのです。

けれども、高校生になった時、初めて神様の臨在を感じました。私が賛美をするとき、急に理解したのは、私たちはカラオケをしているのではなく、その歌を通して神様に祈っているということです。

その経験で、私の教会と礼拝に対する考え方が変わりました。

時々、クリスチャンは教会が必要ないと思います。なぜなら、彼らは自分で礼拝できると思うからです。

もちろん、礼拝には個人的な側面もあります。しかし、もし私たちが他のクリスチャンと一緒に礼拝するのが嫌いなら、私たちの態度は間違っています。

時々、私たちにはプライドの問題があります。「私は聖書をもうよく知っている。牧師の説教は必要ない。」

時々、私たちは人々を許せないので、教会に行きたくないと思います。「どの教会に行っても、誰かが私を傷つける。だから、教会はもういいです。」

時々、私たちはいつも人々を裁きます。「全てのメンバーは偽善者だ。彼らと付き合いたくない。」

また、時々私たちは自己中心です。「私にとって、教会に行く益がない。」

けれども、教会に行くのは、ただ私たちの利益のためではありません。教会で、私たちは神様に賛美を捧げます。

また、私たちは周りの人々に仕えるべきです。そして、彼らと一緒にそのコミュニティに仕えるべきです。

この詩篇では、詩人はエルサレムの平和のために祈ることについて話します。また、彼はエルサレムの繁栄を求めます。そのように、私たちは自分の都市のために祈るべきであり、その都市の繁栄を求めるべきです。

一人では、このようなことは私たちはあまりできません。しかし、キリストの体として、教会は私たちのコミュニティに影響を与えることができます。

もしあなたが、ただ礼拝に出て、すぐに帰るなら、あなたは神様の計画が全然見えません。

だから、教会の人々と交わり、一緒に働いてください。神様の体で、あなたには自分の役割があるので、その役割を果たしましょう。

ヘブル人への手紙の著者はこう書きました。

また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。

ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。(へブル書10:24-25)

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エレミヤ書

誰に聞いた方がいいでしょうか

教会でメッセージを聞く時、だれも違和感を感じたくありません。けれども、良い牧師は慰めと励ましのメッセージだけを伝えるのではなく、私たちが成長できるように、私たちにチャレンジするメッセージも伝えます。

そのようなメッセージを聞くと、私たちはよく違和感を覚えることがあります。

エレミヤの時代、ユダの祭司たち、預言者たち、そして他のリーダーたちは、ユダ人たちにチャレンジするメッセージを全く伝えませんでした。そのリーダーたちがその民をしっかりと世話しなかったので、エレミヤは彼らを責めました。

政治的な意味では、そのリーダーたちはその民のニーズや正義を顧みませんでした。

霊的な意味では、彼らはユダ人たちを偶像礼拝と霊的な姦淫へと導きました。

彼らは民の中の悪を止めなかっただけではなく、その悪を推進しました。そして、ユダ人たちが悪いことをしても、そのリーダーたちは励ましの言葉しか言いませんでした。

神様は彼らについてこのように言われました。

[預言者たち]の走る道は悪で、正しくないものをその力とする。実に、預言者も祭司も汚れている。わたしの家の中にも、わたしは彼らの悪を見いだした。。。

彼らはバアルによって預言し、わたしの民イスラエルを惑わした。

エルサレムの預言者たちの中にも、恐ろしい事をわたしは見た。彼らは姦通し、うそをついて歩き、悪を行なう者どもの手を強くして、その悪からだれをも戻らせない。。。

あなたがたに預言する預言者たちのことばを聞くな。彼らはあなたがたをむなしいものにしようとしている。主の口からではなく、自分の心の幻を語っている。

彼らは、わたしを侮る者に向かって、『主はあなたがたに平安があると告げられた』としきりに言っており、また、かたくなな心のままに歩むすべての者に向かって、『あなたがたにはわざわいが来ない』と言っている。。。

それゆえ、見よ、――主の御告げ――わたしは、おのおのわたしのことばを盗む預言者たちの敵となる。見よ。――主の御告げ――

わたしは、自分たちの舌を使って御告げを告げる預言者たちの敵となる。見よ。わたしは偽りの夢を預言する者たちの敵となる。――主の御告げ――

彼らは、偽りと自慢話をわたしの民に述べて惑わしている。わたしは彼らを遣わさず、彼らに命じもしなかった。彼らはこの民にとって、何の役にも立ちはしない。――主の御告げ―― (エレミヤ書23:10-11、13-14、16-17、30-32)

多くの教会はその通りです。彼らは神様が「悪」と呼ばれることを「善」と呼びます。そして、その民のために裁きが来ていても、教会のリーダーたちは神様の平和だけを伝えます。

しかし、その希望は偽物です。

神様はそのようなリーダーたちにこのように言われます。

夢を見る預言者は夢を述べるがよい。しかし、わたしのことばを聞く者は、わたしのことばを忠実に語らなければならない。麦はわらと何のかかわりがあろうか。――主の御告げ――

わたしのことばは火のようではないか。また、岩を砕く金槌のようではないか。――主の御告げ――(28-29)

あなたはどのような教会に出ているのでしょうか。

あなたの教会で、神様の言葉は火のように燃え、あなたの罪を取り除いているでしょうか。

神様の言葉は金槌のように、あなたの心の堅い部分を砕いているでしょうか。

その言葉によって、あなたの心が柔らかくなり、神様の実を結んでいるでしょうか。

それがそうでない場合、別の教会に行った方が良いと思います。あなたが成長できる教会に行った方が良いです。

いつの日か、イエス様はこの世に戻られます。「彼は王となって治め、栄え、この国に公義と正義を行われる。」(5)

その日が来るまで、私たちは神様に従いましょう。また、神様に従う教会に出ましょう。

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教会は避け所。。。じゃない?

英語では、私たちは教会を [sanctuary] と呼びます。

一つの意味は「聖所」です。

けれども、もう一つの意味は「避け所」です。つまり、教会に行くと、神様にお会いし、安全を見つけることができます。

しかし、教会はすべての人にとって避け所であるわけではありません。神様はユダ人たちにこのように言われました。

イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。あなたがたの行ないと、わざとを改めよ。そうすれば、わたしは、あなたがたをこの所に住ませよう。

あなたがたは、『これは主の宮、主の宮、主の宮だ』と言っている偽りのことばを信頼してはならない。

もし、ほんとうに、あなたがたが行ないとわざとを改め、あなたがたの間で公義を行ない、在留異国人、みなしご、やもめをしいたげず、罪のない者の血をこの所で流さず、ほかの神々に従って自分の身にわざわいを招くようなことをしなければ、わたしはこの所、わたしがあなたがたの先祖に与えたこの地に、とこしえからとこしえまで、あなたがたを住ませよう。

なんと、あなたがたは、役にも立たない偽りのことばにたよっている。

しかも、あなたがたは盗み、殺し、姦通し、偽って誓い、バアルのためにいけにえを焼き、あなたがたの知らなかったほかの神々に従っている。

それなのに、あなたがたは、わたしの名がつけられているこの家のわたしの前にやって来て立ち、『私たちは救われている』と言う。

それは、このようなすべての忌みきらうべきことをするためか。

わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目には強盗の巣と見えたのか。

そうだ。わたしにも、そう見えていた。――主の御告げ―― (エレミヤ書7:3ー11)

つまり、罪深い道を行くと、あなたにとって教会は避け所とはなりません。

ダビデの将軍ヨアブはそう学びました。彼はずっと自分の道を行き、無罪の人々を殺しましたが、ダビデの息子ソロモン王の正義を避けるために主の幕屋に逃げました。

なぜでしょうか。それは神様が律法を定められたからです。もし誰かが偶然に人を殺し、殺された人の家族から逃げるために、その殺人者が幕屋に行った場合、守られました。(出エジプト記 21:13ー14)

けれども、ヨアブが故意に人々を殺したので、ソロモンはその幕屋でヨアブを殺しました。(列王記第一2:28ー34)

神様はユダ人に言われました。

「シロを見なさい。以前、わたしの幕屋はシロにありました。しかし、その人々がわたしに背を向けたので、彼らは滅びました。

あなたたちが悔い改めないなら、エルサレムの宮も倒れます。(エレミヤ書7:12ー15)

わたしはあなたたちのいけにえや儀式に興味があるわけではありません。わたしはあなたの服従を望みます。

わたしに従うなら、あなたの人生はうまくいくでしょう。しかし、あなたたちは先祖たちのように、自分の心を堅くし続けます。」(エレミヤ書7:21ー27)

そして、神様はこのように言われました。

この民は、自分の神、主の声を聞かず、懲らしめを受けなかった民だ。真実は消えうせ、彼らの口から断たれた。。。

わたしの目の前に悪を行なったからだ。――主の御告げ――

彼らは、わたしの名がつけられているこの家に自分たちの忌むべき物を置いて、これを汚した。。。

それゆえ、見よ、その日が来る。――主の御告げ――その日には、もはや、そこはトフェテとかベン・ヒノムの谷と呼ばれない。ただ虐殺の谷と呼ばれる。

人々はトフェテに、余地がないほどに葬る。(28ー30、32)

トフェテという所は、イスラエル人たちが自分の子供たちを偽物の神々にいけにえとしてささげた所でした。彼らが主の宮でいけにえを捧げながら、彼らはトフェテで、この酷いいけにえをささげました。

だから、神様は言われました。

「あなたを裁きます。あなたが私の宮に行っても、赦しません。なぜなら、あなたの心から史実が消え、あなたたちは私の言葉に聞かずに程いことをするからです。」

あなたはどうですか。教会に行くからといって、月曜日から土曜日まで犯した罪が赦されると思いますか。

その罪は赦されていません。もし月曜日から土曜日まで自分の道を行くなら、教会に行く意味はありません。

だから、毎日私たちは神様のために生きましょう。また、ミカの言葉を覚えておきましょう。

主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。

それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。(ミカ書6:8)