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マタイの福音書のデボーション

私たちの優しい王

彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がした。

弟子たちはこれを聞いて、ひれ伏した。そして非常に恐れた。

するとイエスが近づいて彼らに触れ、「起きなさい。恐れることはない」と言われた。 (マタイの福音書17:5~7)

私はペテロのことを考えていました。天の父のみ声を聞いたとき、彼はどれほど恐れたことでしょうか。その少し前、彼はイエス様をいさめようとしたばかりだったからです。(マタイの福音書16:22)

天の父は彼らにはっきりと言われました。「こちらは私の愛する子、私の喜ぶ者である。だから、彼の言うことに反対してはならない。彼の言うことを聞け。」

しかしその後、イエス様は柔和をもって、彼らに触れてくださいました。

主よ、あなたは聖なる方、大いなる方であり、私の従順を受けるにふさわしいお方です。それでも、あなたは私に対して本当に優しいお方です。そのことを感謝します。

主よ、私はあなたを愛し、あなたを喜びます。 あなたの言われることを聞き、従います。

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使徒の働きのデボーション

別の王、別の王国

彼らはみな、「イエスという別の王がいる」と言って、カエサルの詔勅に背く行いをしています。(使徒の働き17:7)

この言葉は、私の心を深く打ちました。それは、この世界への私たちのメッセージだからです。つまり、私たちには別の王がいるということです。

その王は天地の主です。なぜなら、その王はすべてのものを造られたからです。 だからこそ、その王は私たちの忠誠と愛にふさわしい方です。

ある意味、悔い改めとはイエス様が誰であるかを認めることです。つまり、イエス様は私たちの王であるということです。

罪とは、私たちの人生においてイエス様の権威を拒絶することです。 悔い改めとは、イエス様の権威に服従することです。

しかし、多くの人々はイエス様の権威に服従することを恐れています。パウロとシラスのメッセージを聞いた人々は、本当に動揺していました(17:8)。

だからこそ、私たちはこのメッセージが本当に「良い知らせ」であることを、周りの人々に伝えなければなりません。

私たちの王は良い方です。私たちの王は、私たちを深く愛しておられます。そして、すべてをその王に明け渡すとき、私たちは本当のいのちと喜びを知るのです。

私自身の人生において、その真理を経験しました。私はイエス様にすべてを明け渡す喜びを経験しました。そして、その喜びをもっと深く経験したいと願っています。

私は、神様のすべての民がその喜びを知るように祈ります。

この国の人々は、良い知らせを必要としています。あなたが愛している人々も、その良い知らせを必要としています。

しかし、私たち自身がそれを本当に「良い知らせ」だと信じていないなら、どうして彼らが信じるようになるでしょうか。

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ヨハネの福音書のデボーション

見よ、あなたの王だ

ピラトはユダヤ人たちに言った。「見よ、おまえたちの王だ。」(ヨハネ19:14)

すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」

こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。(20:19-20)

見よ、あなたの王だ。
血まみれで、体が引き裂かれた王。

見よ、あなたの王だ。
茨の冠をかぶせられた王。

見よ、あなたの王だ。
殴られ、顔があざだらけになった王

見よ、あなたの王だ。
不当に虐待された王。

見よ、あなたの王だ。
木にかけられた王。

見よ、あなたの王だ。
あなたのために死なれた王。

見よ、あなたの王だ。
墓から脱出された王。

見よ、あなたの王だ。
栄光によみがえられた王。

見よ、あなたの王だ。
手と脇腹を突き刺された王。

見よ、あなたの王だ。
その平安にとどまりましょう。

見よ、あなたの王だ。
すぐに来られる王。

見よ、あなたの王だ。
新しい天と地を造られる王。

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ヨハネの福音書のデボーション

見よ、この人だ。見よ、あなたの王だ。

ピラトのことばは、私の心に深く響きました。

見よ、この人だ。(ヨハネの福音書19:5)

その日、ユダヤ人たちは何を見たでしょうか。人間と同じ姿になられた神です。(ピリピ2:6-7)

その神は、むちで打たれ、拳で殴られ、いばらの冠をかぶせられ、紫色の着物を着せられた方です。

Amazing love! 
驚くべき愛

How can it be, that thou, my God, shouldst die for me? 
どうして、あなたが私の神であられるのに、私のために死んでくださったのでしょうか。

ーーチャールズ・ウェズリー

見よ、おまえたちの王だ。(14)

ユダヤ人たちは何を見たでしょうか。

それは、死刑を宣告された王です。ご自分の罪のためではなく、私たちの罪のために。

Amazing love! 
驚くべき愛

How can it be that you my King, would die for me?
どうして、あなたが私の王であられるのに、私のために死んでくださったのでしょうか。

ーービリー・ジェームズ・フット

今日の話を何度も読んだことがあるかもしれませんが、どうかざっと読まないでください。そして、読んですぐに忘れないでください。

少し時間を取って、ユダヤ人たちがその日、何を見たのかを深く考えてみましょう。その場面を心に描いてみましょう。

イエス様があなたのために何をしてくださったのかを思い巡らしましょう。

イエス様の苦しみを心に留めましょう。

イエス様の死を黙想しましょう。

そして、イエス様の復活を覚えておきましょう。

ユダヤ人の指導者たちの模範に倣ってはいけません。私たちの王を軽んじてはいけません。

むしろ、深い感謝と喜びをもって、「あなたは私の王です」と歌いましょう。

そして、毎日、毎秒、私たちの人生をイエス様にささげましょう。

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詩篇のデボーション

王なる祭司への祈り

イエス様、あなたはダビデの主でした。あなたは、私の主です。(マタイ22:41ー45)

あなたは、天の父の右の座に着いておられます。あなたは、すべてを治めておられます。(へブル人への手紙1:3、8:1、10:12、12:2)

さらに、あなたは永遠に私の祭司でした。あなたは、いつも生きていて、私のためにとりなしをしておられるので、私を完全に救うことができます。(へブル人への手紙7:24ー25)

そういうわけで、この霊的な戦いにおいて、私は喜んであなたに仕えます。

私たちは人間と戦うのではなく、霊的な力と戦っています。その霊的な力は、人々を滅ぼそうとしています。(エペソ人への手紙6:12)

だから、私の周りの人々に、あなたの愛で触れるために、私を用いてください。

ここに私がおります。私を遣わしてください。あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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ヨハネの福音書 ヨハネ19章

あなたの王は誰でしょうか

ピラトと祭司長たちの会話を見てみると、聖書の物語の中でも最も皮肉な場面の一つが描かれています。

ピラトは神様をまったく知らなかったにもかかわらず、祭司長たちや他のユダヤ人に向かって叫びました。「見よ。お前たちの王だ。」

ピラトの言葉は、まさに真実でした。イエス様はユダヤ人の王だったのです。

しかし、神をよく知っているはずの祭司長たちはこう主張しました。「カエサルのほかには、私たちに王はありません。」

本来、「カエサルのほかには、私たちに王はない」と言うべき立場だったピラト。ところが、彼が「イエス様は王だ」と宣言したのです。

その反面、「イエス様は王」と言うべきだったユダヤ人たちは、むしろ「カエサルは王だ」と言い張りました。

祭司長がそう信じていなかったとしても、彼らは「神こそ王だ」と宣言すべきでした。しかし、怒りに駆られた彼らは、何も考えずに「カエサルは王だ」と叫んでしまったのです。

では、あなたはどうでしょうか。あなたの王は誰ですか。

祭司長とは違い、「イエス様は王だ」と言うかもしれません。けれども、あなたの行動はその言葉と一致しているでしょうか。

もしかすると、周りの人々はあなたの行動を見て、「あなたの王は会社だ」と言うかもしれません。なぜなら、仕事が最も大切だからです。

あるいは、「あなたの王は家族だ」と言われるでしょうか。

もしくは、「あなたの王は趣味だ」と言われるでしょうか。

日本では、最も大きな「神」として君臨しているのは、文化という存在かもしれません。

多くのクリスチャンにとっても、文化は王のように支配しています。

日本の文化に従うプレッシャーは非常に強く、だからこそ、人々は家族の平和を守るために、自分の信仰を妥協してしまうことがあります。

また、自分のキャリアを守るために、教会へ行くことをやめてしまう人もいます。

もし誰かがあなたの人生を見て、「これがあなたの神だ」と言ったら、それは何を指すでしょうか。

それはあなたの仕事でしょうか。

それとも、文化でしょうか。

あるいは、あなた自身でしょうか。

もしかすると、神を指すでしょうか。

もっと重要なのは、あなたの答えです。もしあなた自身の人生を振り返ったとき、あなたは正直に「神こそが私の神だ」と言えるでしょうか。

もしかすると、別のものを指すべきなのかもしれません。

あなたの王は誰でしょうか。

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マタイの福音書 マタイ2

王の到着のため、恐れ惑う

クリスマスの時、多くの人はイエス様を飼葉おけに眠る赤ちゃんとして思い浮かべます。そのイメージを好む人が多いのは、イエス様が優しく、何も求めず、ただ眠っているように見えるからでしょう。

けれども、イエス様はもはや飼葉おけに眠る赤ちゃんではありません。イエス様は王の王、主の主です。そして、いつか私たちはそのことを認めなければなりません。

この箇所を読むと、一つのことが目を引きます。それは、イエス様の誕生の知らせに対するヘロデ王とユダヤ人の反応です。

ある日、東方の博士たちがエルサレムにやって来ました。

彼らは誰だったのでしょうか。様々な説がありますが、メディヤ人の祭司たちであった可能性があります。(メディヤ人は、現在のイランの地域に住んでいました。)

彼らは占星術や天文学に精通し、バビロン帝国やペルシャ帝国では、しばしば王の助言者を務めていました。さらに、ペルシャでは王位継承の際に、彼らの承認が必要でした。

ダニエル書によると、バビロンにおいてダニエルは、呪法師、呪文師、カルデヤ人、星占いたちの長となりました。

多くの聖書学者は、ダニエルの影響により、この博士たちが将来来るユダヤ人の王についての預言を知っていたと考えています。さらに、ダニエルはその王がいつ現れるのかを予言しました。ダニエル書9章

そのため、博士たちは王の到来のしるしを待ち続けていました。そして、ある夜、彼らは王の星を見ました。

この星が何であったかは誰にも分かりません。このことについても、さまざまな意見があります。

いずれにせよ、彼らはその星を見た瞬間、エルサレムへ向かい、その王について尋ねました。

ところが、誰もそのことを知らなかったため、博士たちは非常に驚きました。さらに、王やユダヤ人の反応は、驚くべきものでした。

それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。(3)

なぜ、ヘロデは恐れ惑ったのでしょうか。

一つ目の理由は、ユダヤ人の目には、彼が本当の王ではなかったことです。なぜなら、彼はダビデの子孫ではなく、ヤコブの系図にさえ属していませんでした。彼の血筋はエサウの系統から来ていました。

そのため、ユダヤ人は彼を真の王として認めませんでした。

二つ目の理由は、彼が自分の地位に対して極めて嫉妬深かったことです。権力を守るために、彼は自分の息子たちですら殺してしまいました。

では、なぜユダヤ人たちは恐れ惑ったのでしょうか。それは、彼らがヘロデの性格をよく知っていたからです。彼の反応は、容易に予測できました。

あなたもこの話をよく知っているかもしれません。ヘロデは博士たちに、この王を見つけるように頼みました。そして、「私も行って拝みたいから」と言いました。

博士たちはイエス様を見つけましたが、ヘロデに報告しようとしたとき、神様が夢を通して彼らに警告され、博士たちは別の道から帰りました。

ヘロデはそのことを知り、ベツレヘムにいる2歳以下の男の子をすべて殺すように命じました。

なぜでしょうか。博士たちの話によれば、2年ほど前にその星が現れたからです。(多くの人が思っているのとは違い、イエス様が生まれて2年後に博士たちはエルサレムに到着しました。)

しかし、神様はヨセフにヘロデの企みについて警告されたため、彼らはエジプトへ逃れました。

もう一度、ヘロデとユダヤ人の反応について考えてみてください。彼らは王の誕生を聞いたとき、恐れ惑いました。

今でも、多くの人々はイエス様を単なる赤ちゃんとしてではなく、自分たちの忠誠を求める王として見たとき、戸惑いを感じます。

ある人は、ヘロデのように、自分の心の王座をイエス様に譲りたくないため、怒り、反抗的な態度を取ります。彼らは自分の人生を支配し続けたいのです。

イエス様に従うことで、周囲の人がどう思うかを気にする人もいます。家族や友人から拒絶されることを恐れます。

けれども、ある日、「イエスの御名によって、すべての人はひざをかがめ、すべての口が『イエス・キリストは主である』と告白します。」(ピリピ2:10-11)

喜びをもってそう言う人もいれば、歯ぎしりしながら言う人も、恥じながら言う人もいるでしょう。しかし、すべての人がイエス様を王として認めるのです。

それならば、今こそ、喜びをもってイエス様を王として認めるほうが良いと思いませんか。

あなたの王は誰でしょうか。

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詩篇

私たちの王と祭司

これは、本当に有名なメシアについての詩篇です。イエス様はその詩篇を引用して、パリサイ人が答えられない謎をかけられました。(マタイ22:41-45)

詩篇110篇では、主(つまり、天の父)は、ダビデの主(つまり、メシヤ)にこう言います。

わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。(詩篇110:1)

昔は、戦勝した王は敗戦した王の首を踏みました。

この箇所では、天の父がイエス様に敵を打ち勝たせることを約束しておられます。また、イエス様がご自身に逆らう者さえも支配されることを約束しておられます。

しかし第4節によれば、イエス様はただの王ではありません。イエス様は私たちの祭司でもあります。

ただし、イエス様はアロンの系統に属する祭司ではありません。むしろ、天の父はこう言われました。

主は誓い、そしてみこころを変えない。「あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司である。」(4)

アブラハムの時代、メルキゼデクは祭司であり、王でした。

ダビデとその息子ソロモンは王でしたが、時に祭司のように、いけにえをささげたり、主の名によって人々を祝福したりしました。それでも、彼らは祭司ではありませんでした。

しかし、イエス様は私たちの王であり、祭司でもあります。

ただし、アロンの系統に属する祭司の職と、イエス様の祭司の職には大きな違いがあります。アロンとその子孫は、一時的に祭司として神様に仕えました。

その一方、イエス様は永遠の祭司です。なぜなら、イエス様は永遠の方だからです。(へブル人への手紙7:24)

そして、6節によれば、最後の日にイエス様はすべての国々を裁かれます。その日、すべての人々はイエス様の王座の前に立って、裁かれます。

良い知らせは、イエス様は私たちの大祭司なので、天の父の前で私たちのためにとりなしてくださることです。だから、私たちは神様を恐れる必要はありません。

むしろ、へブル人への手紙の著者はこう言います。

ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(へブル4:16)

イエス様、あなたは私の王と神と裁判官です。けれども、一番感謝しているのは、あなたは私の大祭司であることです。

あなたは私のためにとりなし、私の罪をあなたの血によって取り去ってくださり、感謝します。

けれども、それよりも、あなたが本当に素晴らしい神であることを感謝します。あなたの名前によって祈ります。アーメン。

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詩篇

私たちの王を喜ぶ

詩篇97篇も、私たちの王の偉大さを喜びます。

詩人は叫びます。

主は、王だ。地は、こおどりし、多くの島々は喜べ。(詩篇97:1)

「地は、小躍りせよ。」

完全な世では、すべての国民は神様を私たちの王として喜ぶでしょう。

完全な世では、彼らは義と裁きが神様の王座の基であることを喜ぶでしょう。(2)

また、彼らは神様の力を喜ぶでしょう。(3-5)

また、神様の栄光を喜ぶでしょう。(6)

しかし今は、この世の人々はそうしません。むしろ、彼らの偶像にしがみついて、お金や、セックスや力を追い求めます。だから、ある日、彼らは恥を見ます。(7)

それでは、私たちは何を喜ぶでしょうか。私たちの王の偉大さを喜ぶでしょうか。それとも恥を与えるものを喜ぶでしょうか。

もし、神様を喜ぶなら、詩人は私たちに言います。

主を愛する者たちよ。悪を憎め。(10)

あなたは神様を愛しながら、悪を抱くことができません。だから、神様を愛するなら、あなたは神様が憎むものを知って、その物を捨てなくてはなりません。

そのような人に関して、詩人は言います。

主は聖徒たちのいのちを守り、悪者どもの手から、彼らを救い出される。

光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。喜びは、心の直ぐな人のために。(10-11)

そして、詩人はこの詩篇をまとめます。

正しい者たち。主にあって喜べ。その聖なる御名に感謝せよ。(12)

あなたは何を喜ぶでしょうか。

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詩篇

王様のために心を整える

詩篇23篇で、私たちは神様を羊飼いとして見ました。詩篇24篇では、神様を王として見ます。

神様はどのような理由で私たちの王であると主張しておられますか?神様は私たちの創造主だからです。ダビデはこう歌いました。

地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。

まことに主は、海に地の基を据え、また、もろもろの川の上に、それを築き上げられた。(詩篇24:1-2)

大体すべての人々は、もし誰かが何かを自分の手で、また自分の原料で作ったら、その物がその人に属することを認めます。

そのように、神様はこの世の全てを造られたから、すべては主の物です。神様は私たち皆をも造られたので、私たちも神様に属します。そして、いつか私たちの王の前に私たち皆は、自分のことを申し開きすることになります。

その日、誰が神様の前に立てるでしょうか。

手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。

その人は主から祝福を受け、その救いの神から義を受ける。

これこそ、神を求める者の一族、あなたの御顔を慕い求める人々、ヤコブである。(4-6)

この箇所によれば、「良い人生」を生きることは不十分です。

神様をあなたの王として認めなくてはなりません。あなたの神として認めなくてはなりません。また、あなたの救い主として認めなくてはなりません。それに、あなたは神様を求める心が必要です。

神様にとって、それらは大切なことです。神様は、毎日私たちが神様に信頼することを望んでおられます。その態度によって、アブラハムは救われました。

アブラハムは何回も罪を犯しましたが、心の中で神様に信頼していたので、彼は神様の目には義人と認められました。

その信仰によって、旧約聖書の人々も、新約聖書の人々も、私たちも救われました。

神様はそのような人を祝福し、裁きの日に「無罪」と宣言されます。

あなたはどうですか。神様をあなたの王として認めていますか。あなたの心を王のために整えていますか。ダビデはこう書きました。

門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。

栄光の王とは、だれか。強く、力ある主。戦いに力ある主。

門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。

その栄光の王とはだれか。万軍の主。これぞ、栄光の王。(7-10)

私たちの心の門を開いて、私たちの王を歓迎しましょう。そして、その王に従いましょう。

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ゼカリヤ書

再びこの世に来られる方

私が好きな歌の一つは、ダラス・ホルムの「Rise Again(よみがえる)」という歌です。この歌は、十字架のイエス様の言葉を想像しています。そして、イエス様が死からよみがえられた後、この歌の中で、イエス様はこう言われます。

どうぞ、私がもう死んだと言ってみてください。
しかし、あなたが間違っていることが分かるでしょう。

どうぞ、私を隠そうとしてみてください。
しかし、結局、この世のすべての人々が、私が救い主であることを知ることになります。

なぜなら、私はこの世に戻るからです。
私が戻ってくるのを止めることができる者は、誰もいません。

私はこの世に戻ります。 私の民を取り戻すために、私は戻ります。

この聖書の箇所は、キリストの再臨について記されています。1〜8節には、神様がこの世の国々とその民を裁かれることが書かれています。

この箇所を黙示録6章と比較すると、おそらく白い馬は戦争を表し、赤い馬は暴力と流血を象徴し、黒い馬は飢饉と死を表しています。また、まだら毛の馬は、黙示録に登場する青ざめた馬と同様に死病を象徴している可能性があります。

これは非常に恐ろしい光景ですが、それでも神様は全てをコントロールされています。あなたは、私たちがその災いをすでに経験していると思うかもしれません。けれども、実際、神様はまだ完全な裁きを注いでいないのです。

しかし、ある日、神様はご自身の怒りのすべてをこの世に注がれます。その時、これまで誰も知らなかったような苦しみがこの世に訪れるのです。

その後、イエス様がこの世に戻られます。この箇所では、大祭司ヨシュアがイエス様を象徴しています。(以前述べたように、「ヨシュア」という名前はギリシャ語で「イエス」を意味します。)

ゼカリヤはヨシュアのために冠を作り、その頭にかぶらせました。その時、ゼカリヤはヨシュアが象徴する救い主について預言しました。

ヨシュアは大祭司でした。一方で、ゼルバベルはダビデの子孫でしたが、王ではなく総督でした。しかし、将来現れる救い主は、王であり、同時に大祭司でもあるのです。

ゼカリヤはこう言いました。

彼は主の神殿を建て、彼は尊厳を帯び、その王座に着いて支配する。その王座のかたわらに、ひとりの祭司がいて、このふたりの間には平和の一致がある。(11)

多分、この宮はヨシュアとゼルバベルが建てた宮ではなく、むしろエゼキエル書40~43章に記されている宮でしょう。その時、イエス様は完全な王であり、大祭司となられます。

先に進む前に、少し説明しなくてはならないことがあります。聖書の翻訳は非常に難しく、この箇所ではヘブル語の意味が微妙です。

例えば、ヘブル語の11節では「二」と記されています。この「二」が、「二人」を指すのか、「二つの任務」、つまり「王と大祭司の任務」を指すのか解釈が分かれるのです。

ある英語訳では、「the counsel of peace will be between the two offices」(二つの任務の間に平和の一致がある)と訳されています。

一方、日本語訳では、「このふたりの間には平和の一致がある。」とされています。(実際、日本語訳に近い英語訳もあります。)

これらの解釈の違いは、さらに他の箇所の翻訳にも影響を与えています。日本語訳では、「その王座のかたわらに、ひとりの祭司がいる」と訳されていますが、英語訳では、「he will be a priest on his throne」(彼は祭司であって、王座にいる)とされています。

したがって、日本語訳を読むと、大祭司と王は別々の人物であるかのように感じられますが、英語訳では、大祭司と王が同一人物であることが示唆されています。

明確にしておきたいのは、英語訳も日本語訳もヘブル語に忠実であることです。とはいえ、神様が与えられたビジョンを考慮すると、多分英語訳がより適切かもしれません。

例えば、祭司ヨシュアが王の冠を受け取ったことは、この箇所の重要な象徴です。また、聖書の他の箇所からも、イエス様が王であるだけでなく、大祭司でもあることが明らかにされています。

さて、この箇所から私たちは何を学べるのでしょうか。それは、どんな状況にあっても私たちには希望があるということです。

私たちの世界には多くの問題があります。政治家に目を向けても、彼らを完全に信頼することは難しいです。アメリカでは「正直な政治家」という言葉が矛盾しているかのように感じられています。(日本人はどう思うでしょうか。)

さらに、スキャンダルの影響でクリスチャンのリーダーたちも評判を失うことがあります。

けれども、イエス様が再び戻られる時、この世を正義によって支配し、イエス様の清さはすべての人々に明らかにされます。そして、イエス様を通して、私たちは天の父なる神様の御性質を知ることができるのです。

ですから、戦争や病気、飢饉、天災を見るとき、失望しないでください。神様がすべてを支配しておられるからです。

また、腐敗した政治家や霊的に堕落したリーダーを見るときも、がっかりしないでください。イエス様は必ずこの世に戻って来られるのです。

だからこそ、イエス様に焦点を当ててください。他のものに焦点を当てると、私たちはすぐに失望してしまいます。しかし、イエス様に焦点を当て続ければ、希望は決して奪われることはありません。

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エレミヤ書

全ての国民が王として認める方

このブログを英語で書いた時、クリスマス・イブでした。

クリスマスの時、多くの人々はイエス様について考えます。けれども、イエス様について考えた時、どのようなイメージを見るのでしょうか。

クリスマスの時、多くの人々はイエス様を飼い葉おけに寝ておられる可愛い赤ちゃんとして考えます。彼らは、そのイエス様が好きです。

なぜでしょうか。そのイエス様は彼らから何も要求されないからです。イエス様はただ寝ておられるだけです。

しかし、いつかの日、

イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリピ2:10ー11)

その日に、

[主]のもとに、諸国の民は地の果てから来て言うでしょう。

「私たちの先祖が受け継いだものは、ただ偽るもの、何の役にも立たないむなしいものばかりだった。

人間は、自分のために神々を造れようか。そんなものは神ではない」と。(エレミヤ16:19ー20)

ある人々は喜んでそのことを告白します。けれども、ある人々は苦しんで泣きます。彼らはその神々を見て、その神々がただの木製か石の偶像であると分かるようになります。

また、ある人々は何を求めていたかを思い出します。つまり、お金や、セックスや、力や、この世の物を求めていましたが、そのものがすべて無駄なものであると分かるようになります。

その日、彼らはイエス様がもう飼い葉おけに寝ておられる赤ちゃんではないと分かるようになります。むしろ、彼らはイエス様が主であり、王であることを認めます。

その時について、神様はこう言われます。

だから、見よ、わたしは彼らに知らせる。今度こそ彼らに、わたしの手と、わたしの力を知らせる。

彼らは、わたしの名が主であることを知る。(21)

あなたはどうでしょうか。イエス様について考えた時、どのようなイメージが思い浮かぶでしょうか。ベツレヘムの飼い葉おけに寝ておられる赤ちゃんを見るでしょうか。

それとも、あなたの主であり王であるお方を見るでしょうか。

イエス様がこの世に戻られる時、あなたはひれ伏して、愛を持って、「イエスは主です」と言うでしょうか。

それとも、苦々しい心を抱きながら、その言葉を言うでしょうか。

どうか、イエス様を飼い葉おけに寝ておられる赤ちゃんとしてではなく、あなたの主であり、王である方として知ることができますように。

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イザヤ書

「本当の男」って?

男とは何でしょうか。

30年前、私は興味深いアメリカの記事を読んだことがあります。その記事によれば、アメリカには「本当の男」がほとんどいなかったそうです。つまり、多くの男性が弱虫だとされていました。

ある女性はこう言いました。「アメリカには、他の国よりも弱虫が多いと思います。多くの若い男性たちは弱虫です。私が知っている男性たちの大部分は弱虫です。」

それは本当に辛い言葉です。では、今はどうでしょうか。「本当の男」はいるのでしょうか。

「本当の男」とはどんな男性を指すのでしょうか。相手をいじめる人でしょうか。威力を振るう人でしょうか。それとも、相手に自分の意志を押し付ける人でしょうか。

この箇所では、その答えを見つけることができると思います。イザヤは正義によって治める王について語っています。

ヒゼキヤについて述べているのかもしれませんが、将来の王、つまりイエス様についても語っていると思います。

そして、その王(と首長)についての記述を通して、本当の王とは何か、また本当の男とはどういう人かが分かると思います。

彼らはみな、風を避ける避け所、あらしを避ける隠れ場のようになり、砂漠にある水の流れ、かわききった地にある大きな岩の陰のようになる。(イザヤ書32:2)

つまり、「本当の男」とは、神様が彼に委ねられた人々を守る者です。嵐が訪れても、彼はその民を守ります。彼は水の流れのように人々を潤し、リフレッシュさせます。

気短な者の心も知識を悟り、どもりの舌も、はっきりと早口で語ることができる。

もはや、しれ者が高貴な人と呼ばれることがなく、ならず者が上流の人と言われることもない。(3-4)

この箇所によれば、本当の男とは教師です。彼の言葉を通して、相手の耳と目が開かれ、彼らは真理を理解できるようになります。その結果、彼らの人生は変えられます。

そして最後に、イザヤは次のように言いました。

しかし、高貴な人は高貴なことを計画し、高貴なことを、いつもする。(8)

つまり、「本当の男」とは、神様の目にかなう計画を立て、神様の目にかなうことを行う人です。

けれども、6~7節では、イザヤは違う種類の男性について述べています。

その男性は、恥ずべき言葉を語り、悪事を企むだけでなく、それを実行します。さらに、神様とその心について誤った教えを広めます。

また、相手を潤すこともなく、必要なものを与えず、人々を励ますどころか、自らの言葉と行動によって相手を滅ぼしてしまいます。

父として、夫として、私が自問しなければならないのは、「私はどんな男なのか」ということです。

私は、しばしば自分の失敗に気づかされます。神様は私を男として生きるように召してくださいましたが、私はなお、男として成長し続けなければなりません。

しかし、イエス様こそが本当の男でした。私がこれまで成し得なかったことを、すべて成し遂げられた方です。

イエス様は私の弱さをよく知っておられ、私の誘惑も深く理解しておられます。

ヘブル人への手紙の著者は次のように書いています。

さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(へブル4:14-16)

イエス様の再臨まで、私はその恵みの御座に近づきます。

男性の皆さん。あなたはどのような男でしょうか。イエス様のような男でしょうか。

女性の皆さん、特にシングルの女性たち。どのようなボーイフレンドと付き合っていますか。また、どのような伴侶を探していますか。イエス様のような人を求めていますか。