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詩篇のデボーション

聞かれた

ほむべきかな【主】。
主は私の願いの声を聞かれた。(詩篇28:6)

クリスマスの季節なので、先週の土曜日にルカの福音書にあるゼカリヤの物語を読んでいました。

そしてダビデの言葉を読んだとき、ゼカリヤに語られたガブリエルの言葉を思い出しました

恐れることはありません、ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。(ルカの福音書1:13)

正直に言うと、神様が私の祈りに聞き届けてくださらないように見えるとき、失望するのは容易なことです。

けれども、神様が思い起こさせてくださいました。

「わたしはあなたの祈りを聞いています。たとえ『ノー』と答える時でも、あなたの願いを確かに聞いています。あなたを無視しているのではありません。あなたを愛しているのです。」

だから、私はダビデと共に歌います。

【主】は私の力、私の盾。
私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。

私の心は喜び躍り
私は歌をもって主に感謝しよう。(詩篇26:7)

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詩篇のデボーション

神様の答えが遅く感じられるとき

私は声をあげて主を呼び求める。 すると 主はその聖なる山から私に答えてくださる。(詩篇3:4)

日曜日に、教会で「やもめと不正な裁判官のたとえ話」についてのメッセージを聞きました。

そのたとえ話の中で、やもめは裁判官が願いを聞き届けてくれるという確信を、どれほど持っていたでしょうか。彼が彼女のことをまったく気にかけていないことを、よく知っていたはずです。

それでも、彼女の願いを聞いてくれるのはその裁判官しかいなかったので、彼に願い続けるしかありませんでした。

一方、ダビデは、神様が自分を愛しておられるという確信を持っていました。だからこそ、神様に祈るとき、聞き届けてくださるという確信も持っていたのです。

今、私はこう思います。「神様の答えが遅く感じられるとき、私は神様が聞いてくださるという確信を、どれほど持っているだろうか。」

私は、ダビデのような信仰が欲しいです。

私は声をあげて主を呼び求める。 すると 主はその聖なる山から私に答えてくださる。(詩篇3:4)

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ルツ記のデボーション

神様は良い方なの?

ナオミは彼女たちに言った。「私をナオミ(「快い」の意味)と呼ばないで、マラ(「苦しむ」の意味)と呼んでください。全能者が私を大きな苦しみにあわせたのですから。

私は出て行くときは満ち足りていましたが、主は私を素手で帰されました。

どうして私をナオミと呼ぶのですか。主が私を卑しくし、全能者が私を辛い目にあわせられたというのに。」(ルツ記1:20~21)

今、私はナオミのように感じている知り合いのことを考えています。

神様が良い方であることを信じるのが難しいときもあります。

それでも、その知り合いのために祈っていた今朝、別の友人からSMSが届きました。

去年、彼は失業し、今年はさまざまな意味で本当に大変な一年でした。

正直に言うと、彼のために祈る中で、私が失望を感じることもありました。神様の答えが長い間、見えなかったからです。

でも今朝、彼が再雇用されたことを知らせてくれました。

そして神様は、もう一度私に思い起こさせてくださいました。「はい、わたしは良い方です。」

だから私はその真理を握りしめながら、今もなお苦しんでいる知り合いのために祈り続けています。特に、その人が神様がまことに良い方であることを知るようにと祈っています。

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コロサイ人への手紙のデボーション

自分の心を守る

たゆみなく祈りなさい。感謝をもって祈りつつ、目を覚ましていなさい。(コロサイ人への手紙4:2)

前回の記事で私は言いましたが、最近のニュースやSNSを見るとき、私の心が騒ぐのは簡単です。

でも今日、神様は、私が自分の心に注意を払うように思い起こさせてくださいました。 私は常に自分の思いを吟味し、祈って、それを神様に委ねる必要があります。

それだけではなく、私が自分の心を感謝へと導き、主にあって喜ぶことを選ぶようにと、神様は思い起こしてくださいました。

今日、たまたま詩篇17篇も読み、ダビデのことばを通して、神様の語りかけが私にいっそう深く響きました。

あなたは私の心を調べ、夜、私を問いただされました。私を炉で試されましたが、何も見つかりません。私は 、口の過ちを犯さないように心がけました。。。

私は、義のうちに御顔を仰ぎ見、目覚めるとき、御姿に満ち足りるでしょう。(詩篇17:3、15)

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コロサイ人への手紙のデボーション

困難のときの祈り

天のお父さん、ニュースやSNSを見るとき、この世の悪は明らかです。

だから、私たちの心が騒ぐのは簡単です。

でも、あなたは教会を選ばれ、私たちは聖なる、愛されている者です。(コロサイ人への手紙3:12)

私たちがその身分を覚えていられるように助けてください。

それを覚えて、怒り、憤り、悪意、罵りを捨てることができるように助けてください。この世はそれらによって特徴づけられていますが、私たちがあなたのかたちに従って新しくされ続けるようにしてください。(8、10節)

私たちが深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を身に着けるようにしてください。そして、そのすべての上に、私たちが愛を身に着けるようにしてください。

あなたの平和が私たちの心を支配するようにしてください。(15節)

あなたのことばが私たちのうちに豊かに住むようにしてください。私たちが知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心からあなたに向かって歌うようにしてください。(16節)

最後に、言葉であれ行いであれ、何をするときにも、あなたに感謝する心をもって、主イエスの御名によって行うようにしてください。(17節)

この困難に満ちた世界では、私たちが怒りや恐れに支配されるのではなく、あなたの愛、喜び、平和に治められるようにしてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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エペソ人への手紙のデボーション

霊的な記憶喪失

クリスチャンとして、忘れることは容易なことです。

神様がどれほど私たちを恵まれたかを忘れてしまいます。

世界の基が据えられる前から、神様が私たちを選んでくださったことを忘れてしまいます。

神様が私たちにふんだんに与えてくださった恵みを忘れてしまいます。

神の召しにより与えられる望みを忘れてしまいます。

私たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものであるかを忘れてしまいます。

私たちの中で働いている神の大能の力を忘れてしまいます。

私たちの王の偉大さを忘れてしまいます。イエス様は、「全ての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。」(エペソ人への手紙1:21)

だから、エペソ人への手紙では、パウロは神様が私たちの霊的な記憶喪失を癒すように祈ります。パウロは、私たちが上記の真理をしみじみと感じるように祈ります。

この箇所を読むとき、その言葉、その真理は心に響いているでしょうか。

それとも、全然何も感じていないでしょうか。あなたの心の喜びは冷めたでしょうか。

私はあなたのためにパウロの言葉を祈ります。

でも、私のためにも祈ってください。なぜなら、私も霊的な記憶喪失がある時もあるからです。

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マルコの福音書のデボーション

自給自足?神様に頼る?

イエスが家に入られると、弟子たちがそっと尋ねた。「私たちが霊を追い出せなかったのは、なぜですか。」

すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。」(マルコの福音書9:28-29)

今日、弟子たちとその失敗について思いを巡らせていました。彼らは男の子から悪霊を追い出そうとしましたが、できませんでした。

どうしてでしょうか。彼らは自分自身の権威と力に頼っていたように見えます。「祈ろう」という発想はまったくありませんでした。

その場面を読んで、私はこう思いました。「私は、弟子たちのようにどれほど振る舞っているだろうか。神様とその力に頼ることなく、どれほど自分に頼っているだろうか。」

私の最初の本能は祈ることだろうか。自分の力を超える問題に直面するときだけでなく、どんな状況であっても、それが私の第一の反応だろうか。

天のお父さん、私が決して自分の力で生きようとせず、いつもあなたに頼って生きる者となれますように。

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使徒の働きのデボーション

鎖が砕かれるように

すると突然、大きな地震が起こり、牢獄の土台が揺れ動き、たちまち扉が全部開いて、すべての囚人の鎖が外れてしまった。(使徒の働き16:26)

この言葉を読んだとき、私は、鎖が砕かれ、自由にされる必要のある人々のことを考えていました。

ある人は、傷つき、怒りや苦々しい思いに縛られています。別の人は、混乱や不安に縛られています。

また、自己肯定感が低く、自分が不十分だと感じ、縛られている人々もいます。

罪に縛られている人々もいます。

私が気づいていないだけで、サタンは別の鎖によってさらに多くの人々を縛っているのかもしれません。

そこで、今日、神様は私に思い起こさせてくださいました。「わたしはその鎖を砕きたい。」

リディア、悪霊に取りつかれた女性、囚人たち、そして看守の鎖を砕かれたように、神様は私の周囲の人々の鎖を砕くことを望んでおられます。

だから今、私は彼らのために祈っています。彼らにとって、私が天と地の交わる場所となるように祈っています。彼らにどのように触れ、助けることができるか、神様に尋ねています。

あなたの周りには、鎖に縛られた人々がいるのではないでしょうか。あなた自身は鎖に縛られているでしょうか。

神である主の霊がわたしの上にある。。。心の傷ついた者を癒やすため、 主はわたしに油を注ぎ、 わたしを遣わされた。 捕らわれ人には解放を、 囚人には釈放を告げ(ます)。。。(イザヤ書61:1)

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使徒の働きのデボーション

熱心に祈り続けている?

こうしてペテロは牢に閉じ込められていたが、教会は彼のために、熱心な祈りを神にささげていた。(使徒の働き12:5)

今日の箇所を読んだとき、私はクリスチャンたちの姿について考えました。彼らはヤコブのために熱心に祈りましたが、彼はヘロデによって殺されました。

それでも、ヘロデがペテロを拘束したとき、教会はペテロのために祈りました。そしてただ祈っただけでなく、熱心に祈りました。

そのことを考えながら、私は自問しました。 「神様の答えが遅く感じられるとき、私はどれほど熱心に祈り続けているだろうか。

そして、神様が『ノー』と答えられたことを思い出しながらも、それでも私は同じ熱心さで祈り続けているだろうか。」

今、私は二人の友人のことを考えています。彼らのためにずっと祈っていますが、今のところ神様の答えはまだ来ていません。

熱心に祈るときもあれば、あまり熱心に祈らないときもあります。

もちろん、熱心に祈ったからといって、必ず神様がその祈りを聞き届けてくださるとは限りません。

また、祈りの熱心さが、私の信仰の深さを証明するものとは限りません。(15-16節を読んでみてください。)

しかし、祈りの熱心さは、このような態度を表します。

「天のお父さん、私にとってこの問題は非常に重要です。あなたが私の願いを聞いてくださることを信じます。 あなたが私を愛してくださることを信じます。 だからこそ、私はあなたを信じて、すべてをあなたに委ねます。」

今日、そのような態度を持って、私は友人のために祈りたいと思います。

あなたはどうでしょうか。熱心に祈り続けていますか。

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使徒の働きのデボーション

御国が来ますように

彼らはみな。。。いつも心を一つにして祈っていた。(使徒の働き1:14)

使徒たちや他のクリスチャンたちは、何について祈っていたでしょうか。

ただ自分たちの個人的な必要のために祈っていたのでしょうか。

イエス様が神の御国について彼らに教え、「エルサレムで御霊を待ちなさい」と言われたことを考慮すると、彼らの祈りの焦点はそれだけではなかったでしょう。

ただ私の意見ですが、彼らは特に二つのことを祈っていたと思います。

「あなたの御国が来ますように。」

「あなたの御霊を遣わしてください。」

だから、今日、私はそのように祈ります。

天のお父さん、あなたの御国があなたの民の間に来ますように。

あなたの教会が天と地の交わる場所となりますように。

みこころが天で行われるように、あなたの民の間でも行われますように。

あなたの教会が、私たちの罪の鎖が砕かれ、壊れた人生が癒され、あなたとの関係が回復する場所となりますように。

しかし、それだけではなく、どうかあなたの御霊で私たちを満たしてください。イエス様が御霊に満たされたように、私たちをも満たしてください。それは、私たちが効果的な証人となるためです。

あなたが御国を私たちの人生にもたらされたように、私たちを用いて、周囲の人々にも御国をもたらしてください。人々の鎖を砕き、人生を癒し、人々をあなたへと導いてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ルカの福音書のデボーション

押しつぶされている?

あなたがたの心が、放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされていて、その日が罠のように、突然あなたがたに臨むことにならないように、よく気をつけなさい。(ルカの福音書21:34)

今日、「押しつぶされる」という言葉に心を打たれました。

毎日のニュースを見るたびに、不安に押しつぶされることは簡単です。

ある人は、飲酒や仕事、趣味に没頭することで、その不安から逃れようとします。

また、SNSで思いの丈を吐き出すことで、ストレスを解消しようとする人もいます。

しかし、私たちはどれほどイエス様が命じられたこと、そしてご自身が実践されたことを行っているでしょうか。

つまり、私たちはどれほど天のお父さんと時間を過ごし、祈っているでしょうか。(ルカ21:36-37)

そうすることで、私たちは固く立つ力を受け、物の見方が正されます。

神の国は近いのです。この世の問題は永遠のものではありません。イエス様の御言葉はすべて成就するのです。

その真理を思い出すことで、私たちは身を起こし、頭を上げることができます。なぜなら、私たちの贖いが近づいていることを知っているからです。(ルカ21:28)

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ルカの福音書のデボーション

祈り続ける信仰を持っている?

いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために、イエスは弟子たちにたとえを話された。。。

彼は大声で、「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と言った。

先を行く人たちが、黙らせようとしてたしなめたが、その人はますます激しく「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と叫んだ。(ルカの福音書18:1、38ー39)

私はその三つの節を繋げたことがないと思います。

この章の始まりでは、イエス様は弟子たちに、いつでも祈り、失望してはいけないことを教えられました。そして、この章の最後の話では、ある盲人がその教えを示しています。

イエス様が彼の声を聞こえていないように見え、周囲の人々が彼に黙るよう叫んだにもかかわらず、彼は憐れみを願い続けました。そして、最終的に憐れみを受けることができました。

しかし、例え話に出てくる裁判官と異なり、イエス様はその叫び声にうんざりしたからではなく、憐れみ深い救い主であるがゆえに、盲人を憐れまれたのです。

私はどうだろう?神様が私の叫びに答えられるのが遅いように感じるとき、私はすぐに諦めるだろうか。

私は神様の愛と慈しみを疑い始めるだろうか。それとも、神様が本当に良い方であり、私を愛してくださっていることを信じ続けるだろうか。

イエス様が再びこの世に来られるとき、私の中に信仰を見ることができるだろうか。(8節)

イエス様はあなたの中にも信仰を見られるでしょうか。

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マタイの福音書のデボーション

私たちのアバに祈るとき

また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。。。

ですから、あなたがたはこう祈りなさい。 「天にいます私たちの父よ。」」(マタイの福音書6:7、9)

イエス様の言葉を読んだとき、私は伝道者の書にあるソロモンの言葉を思い出しました。

神の前では、軽々しく 心焦ってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だから、ことばを少なくせよ。(伝導者の書5:2)

ソロモンは、神様に対して愚かな誓いを立てることを戒めました。時には、神様の祝福を得るため、あるいは神様を操ろうとして、私たちは守ることのできない誓いを立ててしまいます。でも、そのようなことをしてはなりません。

一方で、イエス様は、神様や周囲の人々を感動させるために、霊的な響きを持つ長い祈りをすることを戒められました。

いずれの場合も、イエス様とソロモンは同じことを語っています。「ことばを少なくせよ。無駄な言葉を多く口にするのではなく、神様に耳を傾けよ。」

けれども、神様に語るときには、イエス様の模範に従いましょう。

神様を聖なる方として認め、それを心に留めて、私たちは神様を礼拝しましょう。(マタイ6:9;黙示録4:8〜11)

祈るときには、神の国に心を向けましょう。「あなたが何をしておられるのかを教えてください」と祈りましょう。(マタイ6:10、33)

それを思いながら、自分の人生に神のみこころが行われるように祈りましょう。神のご計画に参加できるように祈りましょう。(マタイ6:10b)

でも、神様が天におられる偉大な神であるだけでなく、あなたの天のアバでもあることを覚えていましょう。そして、あなたがアバの愛する子どもであることも覚えていましょう。(マタイ6:9)

だから、自分の必要のために祈りましょう。(マタイ6:11、25〜32)

罪を犯したときでも、アバに近づくことをためらう必要はありません。ですから、アバに近づいて、神の赦しを求めましょう。(マタイ6:12)

私たちの壊れた人間関係についても、アバと語り合いましょう。特に、他人を許すことが難しいときには、アバの助けを求めましょう。(マタイ6:12b)

そして、アバがあなたを導き、守ってくださるように祈りましょう。(マタイ6:13)

神の子どもとして、私たちは素晴らしい特権を与えられています。私たちのアバに、いつでも自由に近づくことができるのです。だからこそ、その特権を生かして、アバに近づきましょう。

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使徒の働きのデボーション

より高い力に訴える

こうしてペテロは牢に閉じ込められていたが、教会は彼のために、熱心な祈りを神にささげていた。(使徒の働き12:5)

一方では、ヘロデの力によって、ペテロは捕らえられ、牢に閉じ込められていました。

他方では、教会はより高い力に訴えました。

それは覚えておく価値があります。

私たちは、自分たちより強い力に直面することが多くあります。そして、その力は私たちに敵対的なものです。

それは霊的な力かもしれません。あるいは、地上の力かもしれません。

けれども、どんな力に直面しても、神の子どもとして、私たちはより高い力に訴える権利を持っています。

その権利を用いて、教会がペテロのために熱心に祈ったように、私たちも熱心に祈りましょう。

そして、神様がどのように答えられるとしても、神様が忠実な方であることを覚えておきましょう。

神様は忠実な方で、ペテロをヘロデの手から救い出してくださいました。

しかし、神様はヤコブに対しても忠実でした。ヘロデはヤコブのからだを殺しましたが、ヤコブのたましいを殺すことはできませんでした。(マタイ10:28ー31)

そして、神様は忠実で、ヤコブを天国に導き、歓迎してくださいました。

いと高き方の隠れ場に住む者、その人は、全能者の陰に宿る。。。

主は、ご自分の羽であなたをおおい、あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は大盾、また砦。(詩篇91:1,4)

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イザヤ書のデボーション

私の祈り

わたしの民よ、わたしに心を留めよ。 わたしの国民よ、わたしに耳を傾けよ。 おしえはわたしのもとから出て。。。

義を知る者たちよ、わたしに聞け。 心にわたしのおしえを持つ民よ。。。」(イザヤ書51:4、7)

天のお父さん、

私の心を、あなたに導いてください。私の目が覚めるように。祈るとき、私があなたに耳を傾け、あなたの声を聞こうとする態度を持つことができるようにしてください。

あなたから出る教えを、聞きたいのです。私の心に、あなたの教えを宿すことができるようにしてください。

祈るとき、私が口先だけで「あなたのみこころが行われますように」と言うことがないようにしてください。むしろ、聖書の中であなたが何を語られたかを、思い出させてください。

あなたのことばによって、私はあなたのこころを本当に知ることができ、そのこころに従って祈ることができるようになるからです。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ヨハネの福音書のデボーション

もうダメ?

マルタはイエスに言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。(ヨハネの福音書11:21)

マリアはイエスがおられるところに来た。そしてイエスを見ると、足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(32節)

今まで、マリアとマルタの言葉を読んだとき、彼女たちがイエス様を責めているのだと思っていました。「何でもっと早く来てくださらなかったのですか。もっと早く来てくださっていたら、私の兄は死ななかったでしょうに。」

しかし今、私は彼女たちが本当にイエス様を責めていたのかどうか、少し疑問を感じています。

なぜなら、イエス様が着かれたとき、ラザロはすでに墓に葬られていて、四日が経っていたからです。つまり、イエス様がすぐに来られたとしても、ラザロはすでに二日間亡くなっていたということになります。

だから、たぶん、彼女たちが言いたかったのは、「イエス様のせいではないけれど、兄が病気になったとき、あなたがそんなに遠くにおられなかったらと思います。もしここにいてくださったなら、私の兄は死ななかったでしょうに」ということだったのかもしれません。

でも、はっきりしているのは、イエス様が着かれたとき、マリアとマルタには、イエス様がラザロを復活させることができるという考えがまったく思い浮かばなかったということです。イエス様にラザロを復活させていただきたいと願うという考えも、まったく思い浮かびませんでした。

マルタは「あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています」と言いましたが、24節と39節にあるマルタの言葉を見ると、彼女がイエス様にその日にラザロを復活させていただけるとは考えていなかったことが、はっきりと分かります。

それを読んで、私はこう考えました。「もうダメだ。祈り続けるのはもう無駄だ」と思うときがあるでしょうか。

「イエス様がこの死んだものを復活させることはできない。私の状況には、もう復活の希望がない」と思うときがあるでしょうか。

私は、イエス様がそんなに小さなお方だと思ってしまうでしょうか。

イエス様が、私の願いや思いをはるかに超えて行うことができると信じているでしょうか。それとも、イエス様にできることについての私の概念は、まだ小さすぎるのでしょうか。

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コロサイ人への手紙のデボーション

戦え!

彼はいつも、あなたがたが神のみこころのすべてを確信し、成熟した者として堅く立つことができるように、あなたがたのために祈りに励んでいます。(コロサイ人への手紙4:12)

「彼はいつも。。。あなたがたのために祈りに励んでいます。」

「励む」という言葉は、新約聖書では「戦う」と訳されることもあります(第一テモテ6:12;第二テモテ4:7)。

だから、パウロの言葉を「彼は祈りによっていつもあなたがたのために戦っています」と訳すことができるでしょう。

そのことばは、私の心に深く響きます。

私はどれほど祈りによって、人々のために戦っているでしょうか。

今、私は特に二人の苦しんでいる人たちのことを思い浮かべています。でも、他にも苦しんでいる人たちを知っています。

だから、神様が「彼らのために祈って戦いなさい」と語っておられるように感じます。「戦いなさい。ただ短く形だけの祈りをしてはいけない。彼らのために戦いなさい。」

神様は今、あなたが誰のために戦うことを望んでおられるのでしょうか。

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テモテへの手紙第一のデボーション

祈る男性たち

そういうわけで、私はこう願っています。男たちは怒ったり言い争ったりせずに、どこででも、きよい手を上げて祈りなさい。(テモテへの手紙第一2:8)

男性として、上の言葉はいつも私の心を打ちます。

私たち男性は、どれほど祈りを大切にしているでしょうか。

その一方で、どれほど私たちは無神論者のように生きているでしょうか。つまり、神様がおられないかのように、また、自分自身だけに頼るかのように生きているのではないでしょうか。

家庭や職場、教会において、私たちを特徴づけているのは何でしょうか。

それは怒りでしょうか。

それは議論好きな態度でしょうか。

もしかすると、祈りによって特徴づけられているでしょうか。私たちは毎日、きよい手を上げて祈っているでしょうか。

もちろん、女性たちも祈るべきです。これらのことは女性にも当てはまります。

しかし、この箇所では、パウロは特に男性に語っています。

だからこそ、神様の挑戦に応え、祈る男性になりましょう。

私たちはイエス様の兵士です。(第二テモテ2:3–4)

私たちはサタンと戦っています。サタンは私たちの家族、愛する人々、そして私たち自身さえも滅ぼそうとしている敵です。(エペソ6:10–14;第一ペテロ5:8;ヨハネ10:10)

だから、イエス様の兵士として、男らしく、ひざまずき、祈りによって戦いましょう!

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列王記第二のデボーション

祈るときの私たちの態度

ああ、主よ、どうか思い出してください。私が真実と全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたの御目にかなうことを行ってきたことを。(列王記第二20:3)

この出来事は、アッシリアの王センナケリブがユダに侵略し始めた後、その軍隊がエルサレムを包囲する前に起こったようです。(20:13と18:14ー16を参考してください。)

私が気づいたのは、ヒゼキヤの祈りの根拠と神様の答えの根拠です。

ヒゼキヤは祈るとき、自分の忠実さを指して、「私は良い人だ」と主張しました。

でも、神様がなぜヒゼキヤを癒し、ユダをアッシリアから救ってくださったのかを説明された時、何と言われたでしょうか。

神様は、「わたしのために、わたしのしもべダビデのため」と言われました。(16節)

簡単に言うと、ヒゼキヤの真実さや善良さではなく、ご自分の栄光のため、また、ご自分のいつくしみ、忠実さ、恵みによって神様はそうしてくださいました。

神様はダビデにいろんな約束をしたので、その約束を忠実に守ってくださいました。

そして、ヒゼキヤを癒し、ユダをアッシリアから救われたことによって、神様はヒゼキヤだけでなく、ユダの人々にも、周囲の国々にも、ご自分の栄光といつくしみと恵みを現されたのです。

この話を読んで、私はこう考えました。

「何によって、私は神様の前に来て祈るのだろうか。自分の忠実さや良い行為を指すのだろうか。私は神様に『私はあなたの祝福に値する』と主張するだろうか。」

もしかすると、私はこう祈るだろうか。

「神様、私はあなたから何も受けるに値しません。でも、私へのあなたのいつくしみや恵みや忠実さによって、私はあなたの前に来て、祈ります。」

そのような心をもって、祈るだろうか。

もし、私たちが「神様の祝福に値する」と思うなら、ヒゼキヤのように、プライドの罠に陥りやすくなります。(12ー19節;歴代誌第二32:24ー25)

「神様が私の願いをかなえてくださることは当たり前だろう。私はふさわしいものだから。私は神様の祝福に値するのだ。」

その反面、神様が私の祈りに「いいえ」と答えると、私たちは怒ってしまいます。

あなたは、何によって神様の前に来て、祈るでしょうか。

自分の善良さを指すのでしょうか。

それとも、神様の恵み、いつくしみ、忠実さによって祈るでしょうか。

天のお父さん、あなたから私は何の良いものに値しません。

それでも、あなたの恵みによって、あなたが私をご自分の子供と呼んでくださり、私は何でも願うことができます。

だから、私はへりくだってあなたの前に来て祈ります。

私の善良さではなく、あなたのいつくしみ、恵み、真実さによって、私は祈ります。

そして、あなたが「はい」と答えても、「いいえ」と答えても、私は、あなたが良い方であり、あなたの道が最善のものであることを信じることを選びます。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ペテロの手紙第一のデボーション

目を覚ます

万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。(ペテロの手紙第一4:7)

身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。(ペテロの手紙第一5:8)

ペテロは上の言葉を書いたとき、自分の失敗を思い出していたでしょうか。

イエス様は、サタンがペテロを麦のようにふるいにかけることを願っていると警告されました。(ルカ22:31)また、イエス様はペテロに、「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい」と訓戒されました。(マタイ26:41)

ペテロはどう反応したでしょうか。彼は寝静まってしまいました。だから、試練が来たとき、彼は大きな失敗をしました。(マタイ26:69–75)

私たちの多くは、「試練が来るとき、私は堅く信仰に立ちたいけど、できるかなぁ」と言います。

でも、天の父に繋がっていなければ、もし毎日、天の父から力や導きや知恵を受けていなければ、私たちは固く立つことができません。

イエス様はこの世におられたとき、それをよく知っておられました。だからこそ、彼は毎日天の父と時間を過ごされました。そして、試練が来たとき、ペテロと違って、イエス様は固く立つことができました。

試練の時、あなたは固く立ちたいですか。毎日、天の父と繋がっていますか。時間を取って、聖書を読んでいますか。祈っていますか。

それとも、あなたは眠っているのでしょうか。

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ペテロの手紙第一のデボーション

無視されているわけではない

主の目は正しい人たちの上にあり、 主の耳は彼らの叫びに傾けられる。(ぺテロの手紙第一3:12)

この間、私は教会でメッセージをしました。テーマは、神様が私たちの祈りに「ノー」と答えるとき、また、神様の答えが遅く感じられるときについてでした。

最近、私にとって、神様の答えがとても遅く感じられます。つまり、一ヶ月ほど、私は健康問題と戦っています。

でも、ペテロの言葉、そして実際にはダビデの言葉(詩篇34:15)が本当に励ましてくれました。

神様の答えが遅く感じられても、神様が「ノー」と答えても、神の耳はいつも私たちの祈りに傾けられています。神様は私たちを無視しているわけではありません。

それに、神様の目は私たちの上にあります。

それは、私たちが本当に良い人だからとか、他の人よりも正しい人だからということではありません。

むしろ、神の愛する子供たちとして、私たちはキリストの義を着せられているからです。

それは本当にすごい真理ですね。

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使徒の働きのデボーション

神様の計画が見えない時に

クリスチャンとして、私たちはしばしば「どうして」と神に問いかけます。けれども、その答えが与えられることは、ほとんどありません。

ヘロデ王がイエスの弟子であり、ヨハネの兄でもあるヤコブを殺したとき、エルサレムのクリスチャンたちはきっと神様に「どうしてですか」と尋ねたことでしょう。

(ちなみに、このヘロデ王は、ベツレヘムでイエス様を殺そうとしたヘロデの孫です。また、17節に登場するヤコブは、イエス様の弟です。)

彼らがヤコブの死を悲しんでいる最中、ヘロデ王はすぐにペテロを捕らえ、牢に入れ、彼も処刑しようとしました。

しかし、神様は奇跡的にペテロを救い出されました。

では、なぜ神様はペテロを助け、ヤコブを助けられなかったのでしょうか。

ペテロのために祈ったとき、クリスチャンたちはより強い信仰を持っていたからでしょうか。

そうではありません。ペテロが門の前に立っていると告げられたとき、彼らは「あなたは気が変になっている」と言いました。

彼らはペテロのために熱心に祈っていたのに、神様が「はい」と答えられるとは全く信じていなかったようです。

では、なぜでしょうか。

私たちには分かりません。

不思議であり、時に痛みを伴う真理は、神様の計画が私たちの計画とは異なるということです。

では、私たちはどのように応答すべきでしょうか。

1. どんな試練に直面しても、神様が良い方であることを信じましょう。

私たちは神様の計画を理解できないかもしれませんが、その計画が良いものであるという確信を持つことができます。なぜなら、神様は良い方だからです。

2. 神様が最終的に正義をもたらされることを信じましょう。

神様はその正義を速やかにもたらされますが(ルカ18:7ー8)、私たちの「速やかさ」と神様の「速やかさ」は異なります(黙示録6:9ー11)。

それでも、神様はご自身の時に、正義をもたらしてくださいます。この話では、その正義を見ることができます。結局、神様はヘロデをさばいて殺されました(20~23節)。

3. 祈り続け、神様を求め続けましょう。

イエス様は私たちにそう命じられました(ルカ18:1)。

しかし、祈るときに覚えておくべき大切なことがあります。私たちの目的は、神様を私たちの計画に従わせることではなく、神様の計画を知り、その計画に従うことです。

最近、私の友人が興味深いことを言いました。「神様はいつも私の祈りに答えてくださいます。でも、ほとんどの場合、神様は私の期待通りには答えてくださいません。」

彼がそう言ったとき、苦々しい態度ではありませんでした。また、祈ることを諦めようとしているわけでもありませんでした。むしろ、神様が良い方であるという確信をもって語っていました。

神様は良い方です。神様の計画は良いものです。

けれども、イエス様がこの世に来られ、その計画が成就するとき、私たちはなお信仰をもっているでしょうか(ルカ18:8)。

あなたはどうでしょうか。そのような信仰を持っているでしょうか。

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ルカの福音書のデボーション

私たちの主の模範に倣う

「あなたがたの心が、放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされていて、その日が罠のように、突然あなたがたに臨むことにならないように、よく気をつけなさい。

その日は、全地の表に住むすべての人に突然臨むのです。

しかし、あなたがたは、必ず起こるこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。」

こうしてイエスは、昼は宮で教え、夜は外に出てオリーブという山で過ごされた。(ルカの福音書21:34~37)

イエス様は私たちに安楽な人生を約束してはいないのです。

弟子たちは、イエス様がローマ帝国を打ち倒し、自分の国を建てるという夢を持っていました。けれども、イエス様はエルサレムが倒れ、彼らがイエス様のために迫害されることを警告されました。

さらに、イエス様は、ご自身が雲のうちに来られる前に、他の試練も訪れることを警告されました。

だから、イエス様は彼らを戒められました。「いつも目を覚まして、その試練から逃げられるように祈っていなさい。」

興味深いのは、イエス様がすぐに弟子たちに模範を示されたということです。

イエス様には、ご自身の試練が迫っていました。つまり、彼はすぐに私たちの罪のために十字架にかけられるということです。

だから、イエス様は毎晩オリーブ山に登られました。彼が寝るために行ったとは思えません。おそらく、彼は力を得るために祈っておられたのでしょう。

もちろん、イエス様は十字架から逃げることはできませんでした。しかし、最終的に彼は十字架を耐え忍び、三日目によみがえられました。

イエス様のように、私たちも避けられない試練に直面するかもしれません。私たちが苦しむ時もあります。弟子たちのように、私たちがイエス様のために迫害されるかもしれません。

あなたは、その試練を耐える力を持っているかどうか疑問に思うかもしれません。あなたにはそのような力はありません。私にもありません。自分の力によって、その試練を乗り越えることはできません。

だから、イエス様の模範に従って、力を得るために祈りましょう。そして、天の父がイエス様を強くされたように、私たちをも強くしてくださいます。(ルカ22:43)

私たちは、自分の十字架に遭遇しなければならないかもしれません。でも、イエス様のように、復活をも経験するのです。

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ルカの福音書のデボーション

求め続けなさい、探し続けなさい、たたき続けなさい

ですから、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。

探しなさい。そうすれば見出します。

たたきなさい。そうすれば開かれます。

だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。

あなたがたの中で、子どもが魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか。

卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるでしょうか。

ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。

それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。(ルカの福音書11:9ー13)

9節はこのようにも訳すことができます。「求め続けなさい。探し続けなさい。たたき続けなさい。」

でも、イエス様は、私たちが求めるものを必ず受け取ることを約束しているわけではありません。むしろ、イエス様は、私たちが必要なものを受け取ることを約束しておられるのです。(8)

神様は知恵をもって、パンを三つではなく、二つだけ与えてくださる時もあります。でも、その知恵をもって、パンの代わりにステーキを与えてくださる時もあります。

時々、私たちは魚を求めていると思っているけれど、実際にはそれが蛇です。また、卵を求めていると思っているけれど、実際にはそれがサソリである時もあります。

でも、神様は良いものだけを与えてくださいます。

祈りは、神様を操って、自分が求めるものを受け取るための方法ではありません。むしろ、祈りは、神様に近づく方法です。

祈りによって、私たちは神様の性格や考え方、そして愛を知るようになります。

神様を探すなら、神様を見出します。神様の戸を叩くと、その戸は開かれます。

さらに、神様は私たちに最も必要なものを与えてくださいます。それは神様ご自身です。

私たちの試練や苦しみの中で、神様は私たちに御霊を与えてくださいます。そして、その時、御霊は私たちを導き、慰め、力を与えてくださいます。

だから、毎日、求め続けましょう。探し続けましょう。叩き続けましょう。

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サムエル記第二のデボーション

私たちのリーダーたちのために祈る

私たちは、リーダーたちからしばしばがっかりさせられることがあります。

政治家も教会のリーダーたちも、私たちを失望させる時が多いです。

なぜなら、彼らはただの人間だからです。そういうわけで、彼らには欠点も失敗も多くあります。

ダビデはイシュ・ボシェテよりも強い王だったかもしれませんが、イシュ・ボシェテがアブネルのことをうまく扱えなかったように、ダビデもヨアブのことをうまく扱うことができませんでした。

さらに、王に関する神様の戒めを無視して、ダビデは多くの妻を持っていました。(申命記17:17)

ダビデは、少なくとも一人の妻と政治的な理由で結婚しました。(第二サムエル記3:3)

また、たぶん愛のためではなく、むしろ政治的な理由のために、ダビデはサウルの娘ミカルを自分に返してくれるように要求しました。ミカルの夫は彼女を愛していたのに、ダビデはその要求をしました。

ミカルはどう感じたでしょうか。もちろん、彼女はかつてダビデを愛していました。(第一サムエル記18:28)

しかし、父サウルに悪く扱われ(第一サムエル記25:44)、ミカルは新しい夫と歩んでいくことを選んだようです。

ところが今、彼女はダビデの愛のために他の妻たちと競争しなければなりませんでした。

もしかすると、そういうわけで、彼女はダビデを軽蔑するようになったのかもしれません。(第二サムエル記6:20)

それでも、神様はご自分の目的をダビデを通してもたらしました。

今なお、私たちが神様の目的を理解できなくても、神様は政治家や教会のリーダーたちを通してその目的をもたらされます。

だから、そのリーダーたちのために祈りましょう。彼らの欠点や弱さにもかかわらず、彼らを通して神様がご自分の目的をもたらされるように祈りましょう。

もし、そのリーダーたちが神様をまだ知らないなら、彼らの救いのために祈りましょう。

もし、彼らが神様を知っているなら、神様が彼らを導かれるように祈りましょう。

そしてその導きによって、彼らがリーダーとして、また人間として成長し、彼らに与えられた神様の召しを果たすことができるように祈りましょう。

神様は彼らに恵みを与えてくださっているのです。

その恵みの心をもって、彼らのために祈りましょう。

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コロサイ人への手紙のデボーション

どうして祈るべきか?

たゆみなく祈りなさい。感謝をもって祈りつつ、目を覚ましていなさい。(コロサイ人への手紙4:2)

どうして私たちは祈るべきなのでしょうか。パウロのこの指示の中に、私たちはいくつかの理由を見いだします。

「祈りつつ、目を覚ましていなさい。」

この言葉を読んで、私は弟子たちに対するイエス様の言葉を思い起こしました。

誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。(マタイ26:41)

サタンがどのように私たちを攻撃しようとしているか分かるように、私たちは祈ります。

また、私たちは弱い者だから、祈ります。サタンの攻撃や試練に直面するとき、私たちは神様の力が必要なのです。

でも、それだけではなく、神様が私たちの周りで何をなさっているか分かるために、私たちは祈ります。そうすれば、神様から与えられる機会を十分に活かし、私たちは神様の働きに参加できます。(5節)

もうひとつの理由があります。

祈りは、神様が良い方であることを思い出すための時間です。祈るとき、私たちは神様の恵みとあわれみを思い出します。そして、神様の恵みとあわれみを覚えているにつれて、私たちは感謝と喜びをもって歩みます。

だから、毎日、目を覚ましていて、感謝に満ちて祈りましょう。

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エペソ人への手紙のデボーション

願いと思いを超えて働かれる神

どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に。。。(エペソ人への手紙3:20)

主よ。私があなたを小さな神と見なすことがありませんように。なぜなら、あなたは私が願うところ、思うところのすべてを、はるかに超えて行うことのできる方だからです。

イエスを死者の中からよみがえらせた力は、今、私のうちに働いています。(エペソ1:19–20)

だから、不可能と思われることのためにも、私がためらわずに祈れるように、私を助けてください。また、私が人々やさまざまな問題について祈るとき、もしあなたが私にしてほしいことがあれば、教えてください。

時々、自分の信仰が小さいと感じます。でも、あなたは、ほんのわずかな信仰心で十分だと言われました。(マタイ17:20)

だから、私の小さな信仰を用いてください。そして、私の小さな信仰を増し加えてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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コリント人への手紙第二のデボーション

あなたに喜ばれる者となるために

そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。

私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。。。

というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。

キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。(コリント人への手紙第二5:9ー10、14ー15)

主よ。私が心から願うのは、あなたに喜ばれることです。私のすべての行為や思いによって、あなたを喜ばせたいのです。

しかし、私は自分の人生を振り返ると、どれほど失敗してきたかが分かります。そして、私は改めて、なぜあなたが十字架で死なれなければならなかったのかを悟ります。けれども、あなたの十字架の御わざによって、私は神の義とされました。

あなたが私を見ると、私の罪や失敗を認めません。むしろ、私はキリストの完全な義に包まれています。

そういうわけで、あなたは私を受け入れます。あなたは私に言われます。「あなたはわたしの愛する子です。わたしはあなたを喜ぶ。」

あなたの愛は素晴らしいものです。

その愛が私の人生を動かしますように。あなたの愛が、私の人生観を形づけますように。また、あなたの愛が、私が周りの人々を見る目を形づけますように。

私が毎日、自分のためではなく、あなたのために生きますように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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創世記のデボーション

子どもたちのための祈り

今日、ヨセフの息子たちへのヤコブの祝福を読んだとき、私は自分の娘のために祈りました。

主よ、あなたは私の父が御前に歩んだ神です。それだけではなく、あなたは今日という日まで、ずっと私の羊飼いでいてくださいました。

あなたは私をすべてのわざわいから贖ってくださいました。私を罪から救い、私を滅ぼそうとする敵であるサタンからも救ってくださいました。

だから今、私は祈ります。私の娘を祝福してください。あなたがずっと私の羊飼いでいてくださったように、私の娘の羊飼いとなってください。私を贖ってくださったように、私の娘をも贖ってください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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マルコの福音書のデボーション

目を覚まし、祈る

ですから、目を覚ましていなさい。家の主人がいつ帰って来るのか、夕方なのか、夜中なのか、鶏の鳴くころなのか、明け方なのか、分からないからです。

主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見ることがないようにしなさい。

わたしがあなたがたに言っていることは、すべての人に言っているのです。目を覚ましていなさい。」(マルコ13:35ー37)

彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい。」。。。イエスは戻り、彼らが眠っているのを見(ました。)(マルコ14:34、37)

興味深いことは、ゲツセマネで弟子たちが、イエス様がさっき語られた例え話を演じたということです。例え話を語られたとき、またゲツセマネに着かれたとき、イエス様は同じことを言われました。「目を覚ましていなさい。」

ところが、弟子たちの主が戻られると、彼らは眠っていました。なぜでしょうか。ルカは説明します。「彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。」(ルカ22:45)

その前、イエス様はご自身がすぐに去っていかれると言われました(ヨハネ16:5〜6)。

イエス様は、弟子の一人がご自身を裏切ると言われました(マルコ14:18)。

イエス様は、弟子たち全員がご自身を見捨てると言われました(マルコ14:27)。

イエス様の言葉を聞いて、弟子たちは本当に悲しんでいました。

けれども、その悲しみのゆえに、彼らは目を覚まして祈ることができませんでした。そのため、試練が訪れたとき、彼らは大きく失敗しました。(50)

時に、私たちは重荷のゆえにこう言います。「もう祈れない。もう疲れた。あまりにも弱く感じる。」

しかし、まさにその時こそ、私たちは目を覚まし、祈らなければなりません。

イエス様も疲れていました。特に、精神的に疲れ果てていました。それでも、ゲツセマネで、イエス様は目を覚まし、祈られました。そのため、試練が訪れたとき、イエス様は立つことができました。

あなたは疲れていますか。精神的に疲れ果てていませんか。今こそ、目を覚まし、神様に祈る必要があります。

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詩篇のデボーション

祈り

主よ、あなたは私たちの岩を打ちました。つまり、十字架で、あなたはイエス様を打ちました。そういうわけで、イエス様を通して、私たちは生ける水を受けています。

私たちの霊的な乾きを癒してください。(第一コリント10:4; 出エジプト記17:6; 民数記20:7ー11; ヨハネ4:10、7:37ー39)

私たちはかつてサタンの国に属し、罪の奴隷でしたが、あなたは私たちを救い出してくださいました。(コロサイ1:13)

だから、今、私たちがあなたの聖所となるように。私たちがあなたの王国となるように。(エペソ2:16ー22; 黙示録1:5ー6)

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ルカの福音書のデボーション

祈りの必要

今日の箇所を読んだとき、私は21章に記されているイエス様の言葉を思い起こしました。

イエス様は弟子たちにこう言われました。

あなたがたの心が、放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされていて、その日が罠のように、突然あなたがたに臨むことにならないように、よく気をつけなさい。その日は、全地の表に住むすべての人に突然臨むのです。

あなたがたは、必ず起こるこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。

民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい光景や天からの大きなしるしが現れます。。。

それから、太陽と月と星にしるしが現れ、地上では海と波が荒れどよめいて、諸国の民が不安に陥って苦悩します。

人々は、この世界に起ころうとしていることを予測して、恐ろしさのあまり気を失います。天のもろもろの力が揺り動かされるからです(ルカの福音書21:34ー36)

イエス様はご自身の言葉に従われました。本当に苦しまれたとき、イエス様が天の父に祈られたので、天の父は迫る試練のためにイエス様を力づけてくださいました。(ルカ22:41ー43)

その反面、弟子たちは眠ってしまいました。どうしてでしょうか。彼らはただ疲れていたからでしょうか。いいえ、むしろ、悲しみの果てに眠り込んでしまったのです。(ルカ22:45)

イエス様の以前の言葉のゆえに、彼らは精神的に疲れ果てていました。だからこそ、彼らは眠り込んでしまったのです。

彼らの行動はよく理解できます。私も、きっと同じことをしていたでしょう。でも、試練が来たとき、彼らは恐れて逃げてしまいました。(マタイ26:56)

ペテロはイエス様について行きましたが、最終的にはイエス様を知っていることを否定してしまいました。イエス様の前に立つことができず、ペテロも恥を負って逃げてしまったのです。(ルカ22:54ー60)

私たち皆、弱い者です。コロナが長く続いている中で、私たちが精神的に疲れているのは当然のことです。

でも、特にこのような時こそ、私たちは祈らなくてはなりません。なぜなら、天の父の助けがなければ、私たちは立つことができないからです。しかし、神様の御前に来るなら、天の父は私たちを力づけてくださいます。

そして、もし私たちが弟子たちのように大きな失敗をしてしまったとしても、どうかへこたれないでください。イエス様がペテロと他の弟子たちに恵みを与えられたように、私たちにも恵みを与え、私たちの信仰を修復してくださいます。

だから、ヘブル人への手紙の著者の言葉を覚えていましょう。

さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。

ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(へブル4:14ー16)

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詩篇のデボーション

弟子の祈り

味わい、見つめよ。主がいつくしみ深い方であることを。(詩篇34:8)

主よ。私は慈しみを味わったことがあります。でも、あなたの慈しみをもっともっと味わいたいと思います。

聖書を読むとき、私があなたの慈しみを味わうように。

私が祈って、あなたの御声を聞くとき、私があなたの慈しみを味わうように。

あなたが私の祈りに応えてくださるにつれて、私があなたの慈しみを味わうように。

私がもう一度失敗して、罪に落ちるとき、あなたの赦しの甘さを知って、あなたの慈しみを味わうように。

試練に直面して苦しむとき、私の弱さと力不足を見るとき、私があなたの恵みは私に十分であり、あなたの力が弱さのうちに完全に現れることが分かるにつれて、あなたの慈しみを味わうように。

私が社会に出て、周りの人々に触れるにつれて、彼らがあなたの慈しみを味わうように。

私を通して、私の家族があなたの慈しみを味わうように。

私を通して、私の友人や同僚や隣人があなたの慈しみを味わうように。

私を通して、あなたの民があなたの慈しみを味わうように。

そして、不完全な神の子供である私を通してあなたが人々に触れてくださるにつれて、私があなたの慈しみを味わうように。

私が毎日、何かとあなたの慈しみを味わうように。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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詩篇のデボーション

喜びの理由

主よ。私は暗い世にいます。私の回りでは、人々の道徳観念は曲がって来たし、彼らは希望のない人生を送っています。

でも、私はあなたにあって喜ぶために召されています。私は新しい歌を歌うために召されています。なぜなら、あなたは私に喜びの理由を与えてくださったからです。(詩篇96:1-2)

あなたは私を救い、私の罪を赦し、私に新しい命を与えてくださいました。

だから、私はあなたに日から日へと御救いの良い知らせを告げるために召されています。また、私はあなたの栄光や奇しい救いのみわざを死にかけている人々に伝えるために召されています。(3節)

主よ。彼らは力のない偽りの神々に従っています。でも、私たちはあなたを礼拝します。あなたは大いなる方、大いに賛美される方です。

あなたは王です。そして、ある日、あなたは正義と真実をもって、この世の民を裁かれます。(4-5,10,13節)

主よ、私はその日を楽しみにしています。

でも、私の回りにいる、たくさんの人々はあなたをまだ知りません。あなたの慈しみを知らないし、あなたの救いを知らないのです。

彼らが私の中にあるあなたの喜びを見るようにしてください。そして、あなたの奇しい救いのみわざを彼らに伝える機会を与えてください。

また、あなたの福音を伝える勇気を私に与えてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ピリピ人への手紙のデボーション

新しいシーズンを迎える人々への祈り

たくさんの日本人にとって、4月は新しいシーズンの始まりです。 新しい学校や、新しい仕事をスタートする人は多いです。

もしかしたら、あなたは新しいシーズンに臨んでいるかもしれません。 私もそうしています。

私は、7年間同じ高校で働いていましたが、今年度からは3つの中学校で働くことになりました。

今日の聖句を読んだとき、9〜11節は私の心を打ちました。

この新しいシーズンに、私は自分のためにその祈りを祈っています。 また、新しいシーズンに臨んでいる皆さんのためにも祈っています。 特に、この新しいシーズンに大きな決断をしなければならない人々のために祈っています。

私はこう祈っています。あなた方の愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、大切なことを見分けることができますように。

こうしてあなた方が、キリストの日に備えて、純真で避難されることのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現されますように。(ピリピ人への手紙1:9-11)

 

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ヨハネの手紙第一

私たちに対する神様の愛に関する確信を持つなら

この手紙では、ヨハネの話がしばしばあっちこっちに飛んでいるように見えるかもしれません。

特に13節と14節では、そのように感じられるでしょう。ヨハネは私たちの救いの確信について話していたかと思うと、突然、神様が私たちの祈りに答えることについて語り始めます。それはなぜでしょうか。

しかし、この場合、その二つの聖句には深い繋がりがあるように思います。パウロはこう書きました。

私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。(ローマ8:32)

言い換えると、神様が最も尊いものを私たちに与えるほど私たちを愛しておられるのなら、神様は私たちのすべてのニーズにも備えてくださる、ということです。

おそらくヨハネも同じことを言っているのでしょう。彼はこう言いました。

神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。

何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。(ヨハネの手紙第一5:13-14)

時々、私たちは神様に何かを願うことをためらうことがあります。それは、自分が自己中心だと思うかもしれないからです。

しかし、神様の子どもとして、どんな願いであっても確信を持って神様に頼むべきです。なぜでしょうか。

それは、私たちが神様を呼び求めたとき、神様が私たちを救ってくださったほどに、神様は私たちを愛しておられるからです。その愛ゆえに、神様は私たちの大きな願いも小さな願いも聞いてくださいます。

さらに、神様が私たちを救ってくださったので、私たちは神様が私たちの最善を望んでおられることを確信できます。だから、神様は私たちを傷つけるものではなく、良い賜物だけを与えてくださるのです。

これが、私たちの願いの条件です。もし私たちが神の御心に従って願うなら、神様はその願いを聞いてくださいます。そして、もしその願いが私たちの益となるなら、神様はその祈りをかなえてくださいます。

けれども、その願いが私たちの益とならないのであれば、神様はその祈りをかなえてくださらないのです。

ですから、神様に願うことをためらわず、どんな願いもお伝えしましょう。

そして、神様に信頼する心を持ちましょう。神様が「はい」と答えるときも、「いいえ」と答えるときも、私たちは神様に信頼する子どもとして、神様が私たちの最善を望んでおられることを信じましょう。

十字架において、神様は私たちに対する愛と信頼に値するお方であることを証明されたのです。

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テモテへの手紙第ー

男らしくふるまう?

今日の箇所は、「男らしくふるまうこと」について語られています。神様は、男性たちにどのように振る舞うよう勧めておられるのでしょうか。

第1〜4節では、パウロはテモテを通して、エペソの人々に祈るように勧めました。前回の記事でも述べましたが、この霊的な戦いに参加し、人々をイエス様に導きたいと願うなら、私たちの最初のステップは「祈り」です。

そして、パウロは第8節でこう言いました。

そういうわけで、私はこう願っています。男たちは怒ったり言い争ったりせずに、どこででも、きよい手を上げて祈りなさい。(テモテへの手紙第一2:8)

この箇所で、パウロが語っているのは女性たちではなく、男性たちに対してです。言い換えれば、パウロはこう語っているのです。「男らしく、神様から与えられた責任を果たしなさい。」

では、その責任とは何でしょうか。それは、教会で主導権を持つことです。特に、祈りにおいてリードすることです。

もちろん、女性たちも祈るべきです。けれども、パウロは男性たちにこう語ります。「教会の皆が祈るとき、しっかりとリードしなさい。祈りの働きを女性たちに任せきりにしてはいけません。あなたたち自身が祈りなさい。そして、祈る人の模範となりなさい。」

残念ながら、当時のエペソの男性たちは、そのようにしていなかったようです。むしろ彼らは、無駄な作り話や系図について論じ合っていました。

そのような議論は、プライドや間違った教えへとつながっていったのです。終わりのない議論によって、彼らは教会の中で多くの「熱」は生みましたが、「光」はあまり生み出しませんでした。

しかも、彼らは祈りを共にすることさえ忘れてしまっていたのです。

サタンはそれを見て、ほくそ笑んだことでしょう。

しかし、私たち男性は、どれほどそのようにしているでしょうか。もちろん、私たちは系図や作り話について議論するわけではありません。けれども、どれほど私たちはミニストリーのやり方や、あらゆるくだらない事柄について議論しているでしょうか。

それだけではありません。私たちは互いを傷つけ合い、争うことで、一致を失ってしまいます。さらには、祈りを共にし、使命を果たすことすら忘れてしまうほどに、私たちは争ってしまうのです。

では、私たちの使命とは何でしょうか。それは、迷っている世界に福音を宣べ伝えることです。だからこそ、サタンは私たちを見て、あざ笑うのです。

家庭においても、多くの夫たちは男らしくふるまっていません。私たちは霊的なリーダーシップを妻たちに任せてしまいます。家庭の中で、聖書を読み、祈ることにおいてリードせず、 その責任を妻に委ねてしまっているのです。

また、私たちは妻たちのために祈らず、妻たちと共に祈らず、 その代わりに、重要なことについても、些細なことについても争ってしまいます。

私たちは、謙遜と愛と赦しの模範とはなっていません。むしろ、プライドや苦々しい思い、怒りにしがみついてしまうのです。だからこそ、サタンは私たちを見て、嘲笑うのです。

あなたはどうでしょうか。男性であるなら、神様はあなたに「男らしくふるまいなさい」と召しておられます。あなたはその召しに応えているでしょうか。

もしそう願うのなら、最初のステップは、膝をついて祈ることです。それは日々行うべきことです。あなたは、今日もそうしているでしょうか。

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エペソ人への手紙

一致して祈り合う

エペソ人への手紙についての最後の記事を書くにあたって、 あらためて、この手紙の中心的なテーマを皆さんに思い起こしていただきたいと思います。

――そうです、もう覚えておられるでしょう。 そのテーマは、「一致」です。

パウロは、霊的な戦いについて語り、 私たちがどんな武具を身につけるべきかを教えました。

そしてその直後、パウロはこう語っています

あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。

また、私のためにも、私が口を開くときに語るべきことばが与えられて、福音の奥義を大胆に知らせることができるように、祈ってください。私はこの福音のために、鎖につながれながらも使節の務めを果たしています。

宣べ伝える際、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。(エペソ人への手紙6:18-20)

もちろん、私たちは神様の武具を身につけるべきですが、 その力がどこから来るのかを忘れてはなりません。 その力は、私たち自身からではなく、神様から来るのです。

ですから、私たちはあらゆる祈りと願いをもって、 どんなときにも御霊によって祈るべきです。

では、「御霊によって祈る」とはどういう意味でしょうか。 それは、御霊の導きに従って祈るということです。 祈りの初めに、 「今日、どう祈ればよいでしょうか」と御霊に尋ねるのが良いでしょう。

しかし、多くの場合、私たちは自分の思いだけで祈ってしまいます。 そのため、神様がどのように祈ってほしいかを知らずに終えてしまうのです。

ですから、祈るときには、 聖霊様の導きに心を向けましょう。 聖霊様の祈りを、あなた自身の祈りとしましょう。

良い時にも、悪い時にも、祈りましょう。

あらゆる祈りをもって祈りましょう。 感謝の祈り。賛美の祈り。罪の告白の祈り。 そして、自分自身の必要のためにも祈りましょう。

また、共に立って祈りましょう。 もう一度言います。私たちは一人で この霊的な戦いを戦ってはならないのです。 この戦いのただ中で、私たちは「一致」を守らなければなりません。 だからこそ、互いのために祈り合いましょう。 そして、ともに祈りましょう。

特に、この霊的な戦いの最前線に立つ人々のために祈るべきです。 すなわち、福音を宣べ伝える者たちのために祈りましょう。

神様が彼らにふさわしい言葉を与えてくださるように祈りましょう。 御霊によって、彼らに力が与えられるように祈りましょう。 そして、その語られる言葉を通して、多くの人々の心が変えられるように祈りましょう。

もしあなたが今、最前線で戦っているのなら、 あなたは決して一人ではないことを忘れないでください。 パウロのように、ほかのクリスチャンたちの祈りを求めてください。

自分の経験や思いを分かち合ってください。 自分だけで頑張る必要はありません。 私たちは互いになくてはならない存在なのです。

ですから、あなたがどこにいても―― 共に立ちましょう。 そのとき、私たちは勝利を得るのです。

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コリント人への手紙第二

私たちの祈りの大切さ

私たちの祈りは、本当に効果的なものでしょうか。それとも、私たちが祈ろうが祈るまいが、神様はご自身の御心を行われるのでしょうか。

この疑問について、パウロは明確な意見を持っていました。彼はこう語りました。

神は、それほど大きな死の危険から私たちを救い出してくださいました。これからも救い出してくださいます。

私たちはこの神に希望を置いています。あなたがたも祈りによって協力してくれれば、神は私たちを救い出してくださいます。(コリント人への手紙第二1:10-11)

パウロは、コリントの人々の祈りの効果を信じていたので、彼らに祈るように願いました。彼は彼らを励まし、「あなたの祈りには本当に効果があります」と語りました。

なぜ神様は私たちの祈りを求められるのでしょうか。なぜ、多くの場合、神様は行動される前に私たちの祈りを待っておられるのでしょうか。

おそらく、一番大切な理由は、神様が私たちとの関係を望んでおられるからです。さらに、神様は私たちが神とともに働く者となることを望んでおられます。

私たちが祈り始めると、特に他の人々のために祈り始めると、何が起こるでしょうか。

1.私たちは自分自身だけに焦点を当てず、周囲の人々の必要に目を向け始めます。

それを神様は喜ばれます。なぜなら、私たちは神様のようになりつつあるからです。

では、私たちの祈りによって、神様が人々の人生に働かれる可能性は高くなるでしょうか。聖書は、そのように教えているようです。

例えば、ヤコブはこう書きました。

あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。

熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりします。

自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。(ヤコブの手紙4:2)

イエス様自身はこう言われました。

今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。

求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。(ヨハネ16:24)

2.神様が私たちに何を望んでおられるのかが分かるようになります。

私たちが祈るにつれて、神様は私たちの心にどのように周囲の人々に触れることができるかをささやかれます。

大変な一日が終わるころ、イエス様の弟子たちはこう言いました。「群衆を帰らせてください。もう遅いですし、彼らはお腹が空いているでしょう。」

おそらく、彼らは群衆の必要を深く考えていなかったでしょう。彼らは一日中、群衆に仕えていたため、ただ休みたいと思っていたのかもしれません。

しかし、イエス様は彼らにこう言われました。「あなたがたがあの人たちに食べる物をあげなさい。」(マタイ14:16)

彼らはパンと魚を持っている少年を見つけ、その食べ物をイエス様のもとへ持って行きました。そして、イエス様は驚くべき奇跡を行われました。

同じように、私たちが人々の必要を見て祈り始めると、イエス様は私たちにどのようにイエス様の働きに参加できるかを教えてくださいます。

3.神様はその祈りに応えられるとき、私たちは神様の良さをより深く知るようになります。

その結果、私たちはさらに祈るように励まされます。

4.あなただけでなく、他の人も神様の良さを見て励まされます。

パウロはこう語りました。

そのようにして、多くの人たちの助けを通して私たちに与えられた恵みについて、多くの人たちが感謝をささげるようになるのです。(コリント人への手紙第二1:11b)

だからこそ、祈りの大切さを信じてください。そして、神様の働きに加わり、周囲の人々のために祈りましょう。

神様は、あなたに誰のために祈ることを望んでおられるでしょうか。

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使徒の働き

神様の応答、私たちの信仰

この話は多くの意味で非常に面白い場面です。

特に面白いのは、天使がペテロを牢から救い出し、ペテロがマリアの家に行ってノックをしたとき、召使いのロデがあまりにも興奮しすぎて、ペテロを外に立たせたまま、他のクリスチャンたちに良い知らせを伝えた場面です。

けれども、この話を読んで、私はこう思いました。

「どうして神様はペテロを助けたのに、ヤコブを救ってくださらなかったのだろうか。」

その答えを私たちは知りません。

クリスチャンたちはヤコブのためにも祈っていたはずです。そして、ペテロのために祈ったとき、彼らの信仰がより強かったから神様が答えてくださったわけではありません。

なぜなら、ロデがペテロが外にいると伝えたとき、彼らはロデの言葉を信じませんでした。もし彼らに強い信仰があったなら、すぐに扉を開けていたでしょう。それでも彼らはそうせず、ロデが正気かどうかを疑い続けました。

私たちはクリスチャンたちの不信仰を批判できないと思います。なぜなら、彼らはヤコブのために祈ったのに、ヤコブは殺されてしまったからです。

彼らがヤコブのために祈ったとき、おそらく彼らの信仰は非常に強かったはずです。なぜなら、それ以前に神様は使徒たちを敵から救い出してくださったからです。(使徒の働き5章)

それでも、神様はヤコブを救い出さずに、ペテロを救い出してくださいました。

この話から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

1.私たちがどれほど強い信仰を持っていたとしても、神様は私たちの祈りに応えてくださらないことがあります。

時に、私たちの願いは神様の御心と一致していないため、神様は私たちの願いを退け、ご自身の計画を成し遂げられます。

その時、私たちはどう反応するでしょうか。

失望しても、なお神様に信頼し続けるでしょうか。

神様の方法が最善であることを信じ続けるでしょうか。

また、失望の中でも祈り続けるでしょうか。

この話のクリスチャンたちはそうしました。彼らは失望しても、信仰をあきらめませんでした。神様に対して苦々しい思いを抱くこともありませんでした。

むしろ、次の試練が訪れたとき、彼らはすぐに祈り始めました。そして、彼らの信仰が弱かったにもかかわらず、神様の恵みによってペテロは救われました。

これが私の次のポイントです。

2.私たちの信仰や不信仰は神様を制限しません。

もちろん、神様は私たちの信仰を望まれます。けれども、私たちの信仰が弱いときでも、神様はその不信仰によって制限されることはありません。神様は恵みに満ちた方であり、私たちに値しないものさえも与えてくださいます。

だから、私たちは神様のもとへ行き続け、神様が良い方であることを信じ続け、また、神様が最善を知り、それを行われることを信じ続けなければなりません。

神様はいつも私たちの願いを叶えられるわけではありません。しかし、神様はそのような信仰をいつも祝福されます。なぜなら、その信仰こそが神様を喜ばせるからです。

へブル人への手紙の著者はこう書きました。

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。(へブル11:6)

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マタイの福音書 マタイ26章 マルコの福音書 マルコ14章 ルカの福音書 ルカ22章

私の心と神様の心が違うとき

時に、私たちは試練と苦しみに直面します。例えば、重い病気にかかったり、信仰のために家族の問題が生じたり、ミニストリーで困難があったりする時、私たちは神様の助けを願います。

時に、神様は私たちの祈りに応えてくださり、素晴らしい方法で状況を変えてくださいます。

しかし、神様が私たちの祈りに応えないこともあります。この箇所では、そのような答えを見ます。

イエス様は同じことを三度祈られました。最初にイエス様はこう祈られました。

わが父よ、できることなら、この「十字架の苦しみの」杯をわたしから過ぎ去らせてください。

しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。(マタイ26:39)

イエス様はこの祈りを静かに言われたのではありませんでした。イエス様は地面にひれ伏し、切に祈られました。(マルコ 14:35)

さらに、イエス様は大きな苦しみを感じ、汗が血のしずくのように地に落ちました。(ルカ 22:44)

私たちがイエス様を思い描く時、穏やかなイエス様を想像することが多いでしょう。けれども、この時のイエス様はまったく落ち着いていませんでした。

天の父はイエス様の深い感情をよくご存じでした。天の父はイエス様を心から愛しておられました。それでもイエス様の祈りに応えられませんでした。

イエス様はそれを悟られ、こう祈られました。

わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように。(マタイ26:42)

それでも、イエス様は別の方法を求め続けたかもしれません。しかし、天の父はその祈りに応えられませんでした。

私たちはこの出来事から何を学ぶことができるでしょうか。

あるクリスチャンたちはこう言います。「もしあなたが十分な信仰を持っていれば、神様はあなたの祈りを必ず叶えなくてはならない。」

けれども、それが真実ならば、私たちはイエス様の信仰が足りなかったと言わなければなりません。私たちは神の子を責めるでしょうか。

実は、私たちの心が神様の心と異なることもあります。神様は魔人ではありません。私たちは自分の願いに神様の心を無理に合わせることはできません。むしろ、私たちが自分の心を神様の心に合わせなければならないのです。

イエス様はその模範を示されました。イエス様は天の父が願いを叶えるよう強く主張されることはありませんでした。むしろ、イエス様は自分の心を天の父の心に合わせられました。私たちもそのようにすべきです。

そして、もし天の父が私たちの祈りに応えられない時、イエス様のように、私たちは立ち上がり、天の父の御心に従うべきです。

とはいえ、自分の力だけで神様の御心に従う必要はありません。あなたは、一人で試練に直面する必要はないのです。

イエス様も一人で試練に向かわれたわけではありません。イエス様の苦しみと痛みの中で、天の父はイエス様を励まし強めるために天使を送られました。天の父はあなたのためにも同じことをしてくださいます。

それだけではなく、御霊を通して、神様は直接私たちを慰めてくださいます。御霊は私たちの助け主であり、苦しむ時に私たちを支えてくださいます。(ヨハネ 14:16)

だから、パウロはこう言いました。

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。

人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ8:26-28)

では、もし神様が私たちの祈りに応えられない時、私たちはどうすべきでしょうか。

私たちは神様を信頼すべきです。神様の方法が私たちの方法よりもはるかに優れていることを信じるべきです。

私たちが試練に直面している間も、神様が私たちを助けてくださることを信じるべきです。

そして、立ち上がり、神様の御心に従い続けるべきです。

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ヨハネの福音書 ヨハネ15章

私たちが実を結ぶように祈る

この箇所で、イエス様は非常に驚くべき約束をされます。

あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。(ヨハネの福音書15:7)

このイエス様の言葉を読むと、多くの人々は「では、私が長者になるように祈ろう」と考えます。

しかし、イエス様の言葉を注意深く読んでください。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら。。。」

前回の記事で、私はイエス様にとどまることについて話しました。それは、イエス様に信頼する人生を送ることです。つまり、私たちはイエス様が私たちの最善を知り、私たちの最善を求めておられることを信じるのです。

完全に神様に信頼する人は、お金に執着するでしょうか。それはありえないと思います。

お金や持ち物などの一時的なものを求めるのではなく、その人は何を追求するでしょうか。

その人は神様との関係を追求します。また、その人は神様の国のために、周りの人々に触れたいと思います。要するに、その人は神様のために実を結びたいと願うのです。

だから、イエス様は8節でこう言われました。

あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。(8)

私たちが何でも欲しいものを求めるという教えの文脈は、イエス様のために実を結ぶことです。

イエス様は続けて語られます。

あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため。。。(16a)

そう言った後、イエス様はもう一度語られます。

また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。(16b)

実を結ぶ方法のひとつは何でしょうか。他のどんなことよりも、イエス様はこのことを望まれます。

あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます。(17)

こうすることで、私たちは周りの人々に神様の性格を示し、この世に触れることができます。そのようにして、私たちは実を結びます。それだけではなく、永遠に残る実を結ぶのです。

もし私たちが変えられた心を持つなら、つまり、一時的なものではなく永遠のものに焦点を当てる心を持つなら、神様は喜んで私たちの祈りをかなえてくださいます。なぜなら、私たちがさらに多くの実を結ぶからです。

あなたはどうですか。あなたはイエス様にとどまっているでしょうか。何よりもイエス様を喜ばせたいと思うでしょうか。イエス様に仕え、この世に触れたいと思うでしょうか。

それとも、一時的なものにまだ執着しているでしょうか。

あなたの心の状態はどうですか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ14章

驚くべき約束

この箇所で、イエス様は驚くべき約束をされました。もしかすると、その約束を聞いたあなたは、「本当ですか?イエス様は本気なのですか?」と思うかもしれません。

イエス様はこう言われました。

まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。(ヨハネの福音書14:12)

イエス様はさまざまな驚くべきことを行われました。病に苦しむ人々を癒し、死者をよみがえらせ、何千人もの人々に教え、福音を通して希望を与えられました。

では、イエス様を信じる人々もそのようなことをするのでしょうか。さらに大きなわざを行うのでしょうか。

もしかすると、使徒の働きを読んで、イエス様が弟子たちだけについて語られたのだと思うかもしれません。なぜなら、彼らはイエス様が行ったような奇跡を行い、福音をイスラエルだけでなく全世界に広めたからです。

しかし、イエス様は「わたしを信じる者」と言われました。

弟子たちだけではなく、イエス様を信じるすべての人々のことを指していたのです。新約聖書の時代に生きていた人々だけではなく、イエス様を信じる者がさらに大きなわざを行うと約束されました。

では、なぜイエス様はそのようなことを言われたのでしょうか。それは、イエス様が天の父のもとへ帰り、私たちに聖霊を送られたからです。その聖霊が私たちの心の内に住んでおられるため、聖霊の力を通して私たちはこの世を変えることができるのです。

では、私たちはイエス様のように病に苦しむ人々を癒し、死者をよみがえらせることができるのでしょうか。

時々、私はこう考えます。「私たちは不信のゆえに、どれほど神様の働きを制限しているのだろうか。」

私は発展途上国のクリスチャンたちの素晴らしい証を聞いたことがあります。彼らは「現実」を気にせず、イエス様の言葉をそのまま受け入れ、信じました。その結果、神様は驚くべき奇跡を行われました。

正直に言うと、私はしばしば懐疑的な態度を持っています。日本で癒しの話を聞くこともありますが、「本当にその人は癒されたのだろうか。その健康状態はどれくらい続くのだろうか」と思うことがあります。

それでも、私は神様が今もなお働いておられると信じています。この瞬間も、神様は確かに働いておられます。

だからこそ、私たちはイエス様の言葉をもっと信じるべきだと思います。

またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。

あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。(13-14)

もちろん、私たちがスポーツカーを求めて祈ったとしても、イエス様が必ずその祈りに答えるわけではありません。

しかし、私たちが自分自身の栄光を求めるのではなく、神様の栄光を求め、自分の願いではなく神様のみこころを求めるなら、多くの場合、神様は私たちの祈りに応えてくださいます。

さらに、神様は、私たちが願うこと、思うことのすべてをはるかに超えて行ってくださいます。(エペソ3:20)

神様は、私たちを通してこの世に触れたいと望んでおられます。では、神様が私たちを用いてくださると、あなたは信じていますか。

あなたは、自分の不信や懐疑を捨てて、「あなたの御心が行われますように。私を用いてください。」と神様に祈るでしょうか。

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ルカの福音書 ルカ18章

やもめと裁判官のたとえ話:試練に直面するとき、信仰を貫く

一節だけ読むと、イエス様のポイントは「神様がすぐに祈りに応えないときでも、祈り続けるべきである」ということだと思うかもしれません。

もちろん、それも正しいのですが、実際には、イエス様は特定の種類の祈りについて話されています。

この箇所では、イエス様はまだこの世の最後の日について話しています。その日は、悩みの日であり、試練に満ちた日です。

イエス様は私たちが自分の罪のために裁かれないことを約束されましたが、試練や苦しみを経験しないとは約束されませんでした。

時には、私たちは不正義を経験します。特に、反キリストが現れてこの世を支配する時には、クリスチャンたちは大いに苦しむことでしょう。

この箇所でイエス様は、そうしたクリスチャンたちについて語られています。聖書によれば、すべてのクリスチャンが迫害を受けるとされています。

そのような時には、「神様はどこにおられるのだろうか。神様は私を見捨てたのだろうか。まだ私を愛しておられるだろうか。正義はいつ実現するのだろうか」と疑問に思うかもしれません。

だからこそ、イエス様はこのたとえ話をされたのです。この話では、ある女性が不正義を経験したため、裁判官のもとへ行き、正義を求めました。

けれども、その裁判官は彼女の願いを何度も断りました。それでも彼女はあきらめず、何度も裁判官のもとへ行き、お願いを続けました。最終的に、裁判官はこう言いました。

私は神を恐れ ず、人を人と思わ ない が、このやもめは、うるさくて仕方がないから、彼女のために裁判をしてやることにしよ う。

そうでないと、ひっきりなしに やって来 て、私は疲れ果ててしまう。(ルカの福音書18:4-5)

イエス様の意味されたことは何でしょうか。神様がその裁判官のように、私たちに正義を与えたくないために、毎日祈りで神様を困らせないと応えてくださらないということでしょうか。それは違います。

実際には、イエス様はその正反対のことを言われています。この不正な裁判官でさえ、その女性のしつこい願いに応じて正義を与えたのです。まして、あなたを愛する公正な神様が、喜んであなたに正義を与えてくださらないことがあるでしょうか。

黙示録6:9-11には、似たような場面が描かれています。その箇所では、聖徒たちはイエス様のために迫害を受けましたが、この世では正義を受けることはありませんでした。

それでも神様は彼らを励まし、「正義は必ず来る」と約束されました。

しかし、苦しんでいるときに正義を待つことは非常に辛いものです。だからこそ、イエス様は私たちにこう問いかけておられるのです。

だが、人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。(8)

もしかすると、あなたはこう考えるかもしれません。

「大丈夫です。私はひどい苦難(マタイ24:21-22)に直面しない。イエス様はその前にクリスチャンたちのすべてを天国に連れて行ってくださるから、心配しなくていい。反キリストを見ることは決してないだろう。」

正直に言えば、私はその確信は持てません。もしかすると、私たちはそのひどい苦難を経験し、反キリストに直面するかもしれません。

とはいえ、仮にそれを避けられるとしても、あなたの信仰はどれほど強いでしょうか。

辛い時、あなたは神様とその正義を疑い始めるでしょうか。「神様、どこにおられるのですか。私を愛しておられるでしょうか。どうして私はこんなに苦しむのでしょうか。」と問いかけるでしょうか。

それとも、信仰を貫いて、こう言うでしょうか。

「神様、私はまだあなたを信じます。たとえ苦しんでいても、あなたを捨てません。私は、最終的にあなたが私に正義を与えてくださると信じます。この世ではその正義を見ないかもしれませんが、後に必ずあなたの正義を知ることになると信じます。」

イエス様があなたをご覧になるとき、揺らぐ信仰をご覧になるでしょうか。それとも、動じない信仰をご覧になるでしょうか。

へブル人への手紙の著者の言葉を心に留めましょう。

ですから、弱った手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。(へブル12:12)

そして、私たちの忠実な神様への信仰を貫き続けましょう。

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マタイの福音書 マタイ7章 ルカの福音書 ルカ11章

山上の説教:惜しげなく良いものを与える天の父

アメリカでは、ある牧師や伝道師がこう教えています。「もし、あなたが何かを欲しがっているなら、あなたがイエス様のみ名によって願うと、神様はその祈りをかなえなくてはならなくなるのです。」

彼らにとって、神様はまるでアラジンの魔人のような存在です。しかし、神様は魔人ではありません。神様には私たちの願いをかなえる必要などありません。

ここで注意すべき言葉の一つは「良いもの」です。つまり、神様は求める者たちに「良いもの」を与えてくださいます。(マタイ7:11)

けれども、時には、私たちが神様に何かを祈っても、その願いが良くないことを神様はご存じです。

例えば、私たちはパンを願っていると思っていても、実際には石を求めているかもしれません。

また、私たちは魚を願っていると思っていても、実際には蛇を求めているかもしれません。

その場合、神様は石を与えてくださるでしょうか?蛇を与えてくださるでしょうか?きっとそのようなものは与えられません。なぜなら、神様は良いお父さんだからです。

そのため、私たちは大胆に神様に祈ることができます。もし私たちが良いものを祈るなら、神様は最も良いタイミングでその祈りをかなえてくださいます。しかし、もし私たちが悪いものを求めるなら、神様はその祈りを断られます。

このようにして、イエス様はこう教えられました。

わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。

だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。(ルカ11:9-10)

多くの場合、神様から与えられない理由は、私たちが求めないのです。

時々、私たちはこう考えます。「これは自分勝手な祈りではないだろうか。他のものを祈るべきではないか。もっと大切なことを祈るべきではないか。」

このような時に覚えておくべきことが二つあります。

1.私たちの想像以上に、神様は気前の良い方です。神様は私たちを愛しておられ、良いものを私たちに与えてくださいます。

ルカの福音書では、イエス様が少しユーモラスな話をされます。ある人が寝ようとしていたところ、隣人がしつこくその人をたたき起こして「パンをちょうだい」と頼み続けました。最終的に、その人は「しつこいなあ」と思いながらも隣人にパンを与えました。

イエス様は神様がそのようにイライラされると言っているのではありません。むしろ、イエス様はこう言われます。

「その人が疲れて隣人のしつこさにイライラしていても、相手にパンを与えるなら、なおさら、あなたを愛しておられる天の父が喜んであなたの祈りに答えないことがあるでしょうか。」

2.神様は私たちがご自分をもっとよく知ることを望んでおられます。また、私たちが神様をより信頼することを望んでおられます。そして、私たちが神様の良さを体験し、知ることを望んでおられます。

祈りは、この神様を知るプロセスの重要な部分です。私たちは祈れば祈るほど、神様の御心をより深く理解できるようになります。何が「良いもの」であり、何が「悪いもの」であるかを区別できるようになります。

そして、かなえられた祈りと断られた祈りを通して、私たちは神様の判断と知恵を信頼する方法を学びます。

けれども、私たちが求めなければ、そのような学びや成長は決して得ることができません。

だからこそ、求めなさい。捜しなさい。たたきなさい。そうするなら、あなたが期待する以上に多くのドアが開かれるでしょう。そして、神様のことをもっと知り、その御心を理解することで、神様とのより親しい関係が築かれるでしょう。

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マタイの福音書 マタイ6章 ルカの福音書 ルカ11章

山上の説教:私たちのニーズのために祈る

私にとって驚くべきことは、この宇宙を支配される神様が、私を愛してくださることです。また、私が些細なことについて祈る時でさえ、神様は私の祈りをしっかりと聞いてくださいます。

イエス様もそのことを教えてくださいました。彼はこう言われました。

だから、こう祈りなさい。。。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。(マタイ6:9,11)

イエス様がこの説教の後半で「心配」について話される時、神様が私たちのニーズをどれほど気にかけてくださるかを教えられます。

つまり、イエス様によれば、神様は私たちが食料や衣類、寝る場所を持っているかどうかを気にかけておられるのです。

もちろん、こういったものを手に入れるためにはお金が必要であり、さらにお金を得るには仕事が必要です。

私たちは、そういったことをよく心配します。

しかし、神様は「そんなことについて心配するな」と言われます。このような心配が私たちの心を支配してはいけません。むしろ神様は、天の父が私たちを愛しておられ、私たちのニーズに備えてくださることを信じるように望まれているのです。

だからこそ、私たちはそのニーズについて祈った後は、神様の手に委ねるべきです。

とはいえ、私たちはどれほど祈ることなく心配してしまうでしょうか。私自身も、そうする時があります。

私たちはこう自問すべきです。「私の天のお父さんが本当に私を愛しておられると信じているだろうか。私の天のお父さんが本当に私のニーズに備えてくださると信じているだろうか。」

もし、そのことを本当に信じるならば、私たちの心配はすぐになくなるでしょう。

あなたはどうでしょうか。あなたはただ心配しているでしょうか。それとも、祈っているでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ6章

山上の説教:無駄な言葉

祈りは簡単なものです。けれども、ある意味では祈りは難しいものでもあります。

根本的に、祈りとは神様と話すことです。私たちが他の人々と話すように、私たちは神様と話します。

それなら、どうして祈りはそんなに難しいのでしょうか。

おそらく、一つの理由は、私たちが耳で神様の答えを聞くことができないからです。もしモーセのように神様と直接話すことができたなら、祈りはもっと簡単なものになるでしょう。

しかし、私たちがそのように会話することができないために、私たちはしばしば「神様は本当に私の祈りを聞いてくださるだろうか。もしかして、私は間違った方法で祈っているのだろうか」と疑問に思います。

そのため、多くの人々は自然に神様と話すことができず、「祈りの形式」を使用します。つまり、「主の祈り」を彼らの祈りの指針とします。

けれども、祈りはただの形式ではありません。「主の祈り」を通して、私たちは祈りがどんなものか理解し、どんなことについて祈るべきかを知ることができます。

ただし、「主の祈り」は魔法の言葉ではありません。その言葉を言ったとしても、それが必ず神様があなたの言葉を聞かれることを意味するわけではありません。

それでも、多くの人々はそのように考えます。彼らは「主の祈り」をただの形式として使います。なぜなら、「イエス様はそのように祈りなさいと言われたでしょう?」と思うからです。

しかし、イエス様はこう言われました。

また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。

彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。

あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。(マタイの福音書6:7-8)

つまり、神様と普通に話す方が良いのです。特別な言葉は必要ありません。長く祈る必要もないし、美しい言葉を使う必要もありません。そのような祈りは神様を感動させるものではありません。

神様は、あなたの心からの言葉だけを聞くことを望んでおられます。

時々、人々はこう訊きます。「もし、神様が私の願いをするより先に、私に必要なものを知っておられるなら、どうして祈らなくてはならないのでしょうか。」

それは、神様があなたとの親しい関係を望んでおられるからです。もちろん、私たちが話さなくても、神様は私たちの思いをよく知っておられます。そして、私たちが願わなくても、神様は私たちのニーズに備えることがおできになります。

しかし、私たちが祈るとき、私たちは神様と出会い、その関係はさらに親しいものになります。神様は何よりも、そのような関係を望んでおられます。

一方で、私たちが何を言っているか考えずに祈ったり、ただ暗記した言葉を繰り返したりすると、そのような親しい関係を築くことはできません。

神様は、私たちの祈りを聞いてくださいます。そして、私たちが心を開いて聞けば、神様は私たちに語りかけてくださいます。だから、形式的な祈りをやめましょう。むしろ、心から神様と話しましょう。すべての喜び、悲しみ、悩みを神様に伝えましょう。

あなたはどうでしょうか。本当に祈っているでしょうか。それとも、ただ無駄な言葉を繰り返しているだけでしょうか。

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詩篇

自分の嘆きを神様の前に注ぎ出す

以前、詩篇57篇と一緒にこの詩篇について話しましたが、今回は詩篇142篇だけについて話したいと思います。

ダビデがこの詩篇を書いたとき、サウルかアブサロムから逃げて洞穴に隠れていました。だから、ダビデは牢に入っているように感じていました。(詩篇142:7)

洞穴から彼は神様に叫びました。

私は御前に自分の嘆きを注ぎ出し、私の苦しみを御前に言い表わします。(詩篇142:2)

彼は本当に苦しんだので、時々彼のトラブルを大げさに言いました。彼はこう言いました。

私の右のほうに目を注いで、見てください。私を顧みる者もなく、私の逃げる所もなくなり、私のたましいに気を配る者もいません。(4)

実は、ダビデの周りには彼の兵隊たちがいました。彼らはダビデを愛し、本当に忠実でした。

また、ダビデがサウルから逃げたとき、親友(また、サウルの息子)ヨナタンはダビデを見つけて、励ましました。

また、ダビデがアブサロムから逃げたとき、他の親友がダビデを助け、アブサロムの計画を無にしました。

時々、私たちが試練に直面するとき、実際よりも状況を悪く考えることがあります。だから、文句を言ったり、自分の問題を大げさに言ったりします。

しかし、私たちがそうしても、神様は私たちをよく理解しておられます。だから、嘆きを注ぐとき、神様は私たちを責めずに、憐れみを注いでくださいます。

ダビデは、神様が彼を受け入れておられることを知っていたので、神様に正直に祈ることができました。

そして、神様が彼と共にいて、素晴らしい計画を持っておられることを知っていたので、ダビデはこう歌いました。

私の霊が私のうちで衰え果てたとき、あなたこそ、私の道を知っておられる方です。(3)

また、

あなたは私の避け所、生ける者の地で、私の分の土地です。(5)

だから、試練に直面するとき、ダビデのように、自分の嘆きを神様の前に注ぎ出しましょう。神様があなたを責めないことを心に留めておきましょう。

また、神様が私たちのために計画を持っておられる確信を捨てないようにしましょう。もし神様が私たちと共におられるなら、私たちは乏しいことがありません。

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詩篇

悪からお救いください

詩篇83篇を読むとき、私は主の祈りについて考えます。つまり、「悪からお救いください」という願いです。(マタイ6:13)

この詩篇では、イスラエルは周りの国々に脅かされました。だから、詩人は叫びます。

神よ。沈黙を続けないでください。黙っていないでください。神よ。じっとしていないでください。

今、あなたの敵どもが立ち騒ぎ、あなたを憎む者どもが頭をもたげています。

彼らは、あなたの民に対して悪賢いはかりごとを巡らし、あなたのかくまわれる者たちに悪だくみをしています。

彼らは言っています。「さあ、彼らの国を消し去って、イスラエルの名がもはや覚えられないようにしよう。」(詩篇83:1-4)

そして、詩人はイスラエルを襲う国々の名前をリストアップします。けれども、その後で、彼は神様が以前イスラエルをどのように救い出してくださったかを思い出します。

その敵からの救いを願った後、彼は祈ります。

こうして彼らが知りますように。その名、主であるあなただけが、全地の上にいますいと高き方であることを。(18)

周りの国々はあなたを襲わないかもしれませんが、あなたを憎む人がいるかもしれません。

また、エペソ人への手紙で、パウロは私たちを襲う霊的な力があると警告します。時々悪霊は人を通して、私たちを物理的に、感情的に、また霊的に襲います。

しかし、覚えておきましょう。神様は全地の上におられるいと高き方です。神様はすべてをコントロールしておられます。だから、攻撃されるなら、神様に向かいましょう。

今攻撃されていなくても、神様の守りを祈った方が良いです。なぜなら、神様に従うなら、結局サタンはそれに気づいて、あなたを攻撃し始めるからです。

もし、イエス様が「悪からお救いください」と祈りなさいと言われたら、そうするべきでしょう。

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ダニエル書3

戦い

私が高校生だった頃、天使と悪魔について描かれたフィクションの本を読んだことがあります。その時、私は目に見えない霊的な戦いについて深く考え、祈りの重要性を実感するようになりました。

おそらく、その著者がその作品を書いた時、この箇所を思い浮かべていたのかもしれません。なぜなら、聖書のこの箇所で初めて、霊的な戦いについて明確に描かれているからです。

この箇所の冒頭には、ダニエルが3週間の喪に服していたと記されています。彼が何に悩んでいたのかははっきりしません。

もしかすると、彼はエルサレム再建にまつわる問題を聞いて心を痛めていたのかもしれません。

または、ユダヤ人が神様を敬うことを忘れ、自分のことだけを考えているという話を聞いていたのかもしれません。(預言者ハガイが彼らのその態度を批判しています。)

いずれにせよ、ダニエルは断食し、神様の御心を求めていました。けれども、約3週間もの間、ダニエルは何の答えも受け取ることがありませんでした。

私たちも同じように感じることがあるのではないでしょうか。困難に直面し、神様の御心を求めても、神様が私たちを無視しているように思えることがあります。

しかし、本当に神様はダニエルを無視していたのでしょうか。違います。ある日、天使が現れました。そして、彼はダニエルにこう言いました。

恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。

ペルシヤの国の君が二十一日間、私に向かって立っていたが、そこに、第一の君のひとり、ミカエルが私を助けに来てくれたので、私は彼をペルシヤの王たちのところに残しておき[た]。(ダニエル書10:12-13)

その天使は、ダニエルを強め、そのメッセージを聞く準備を整えさせてから、こう言いました。

私が、なぜあなたのところに来たかを知っているか。今は、ペルシヤの君と戦うために帰って行く。私が出かけると、見よ、ギリシヤの君がやって来る。

しかし、真理の書に書かれていることを、あなたに知らせよう。あなたがたの君ミカエルのほかには、私とともに奮い立って、彼らに立ち向かう者はひとりもいない。(20-21)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。この世の問題に直面するとき、私たちは時折、神様が沈黙しているように感じることがあります。けれども、私たちの目には見えない多くのことが存在しています。それは、霊的な戦いです。

パウロは次のように書きました。

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6:12)

時折、私たちクリスチャンは周りの人々と戦っていると感じることがありますが、実際には霊的な力と戦っているのです。その力と戦うためには、霊的な武具が必要です。(エペソ書6:13ー17)

ここでは、この武具について詳しく説明しませんが、一つ重要なポイントを覚えておいてください。その武具はあなたの体の前を守るためのものです。後ろを守る武具は存在しません。

どうしてでしょうか。それは、私たちが逃げることなく、前進し続けることを求められているからです。

しかし、その武具だけでは十分ではありません。私たちは祈らなくてはなりません。

パウロはこう書きました。

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。

そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。(エペソ6:18)

私たちは一人では戦えませんし、自分だけの力では太刀打ちできません。私たちには、聖霊様が私たちのために戦ってくださることが必要です。

ですから、自分自身のためだけでなく、キリストにある兄弟姉妹たちのためにも祈ってください。牧師のために祈りましょう。苦しんでいる兄弟姉妹たちのために祈りましょう。

ひとりよがりになることを避けましょう。サタンはほえたける獅子のように私たちを狙っているので、目を覚ましていましょう。そして、神様の命令に従い、祈りを欠かさずに行いましょう。また、信仰の戦いを勇敢に戦いましょう。

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エゼキエル書

破れ口に立つ?

私たちは、この世の悪を目にするたびに、しばしば文句を言います。けれども、本当にそれを気にかけているのでしょうか。その悪に対して、私たちは具体的にどのような行動をしているのでしょうか。

この箇所では、神様はエゼキエルに、間近に迫ったイスラエルの裁きについて警告するよう命じられました。

すなわち、バビロンを通して、イスラエルのリーダーたちの地位が取り去られることになるのです。祭司たちの被り物は剥ぎ取られ、王の冠は取り去られます。(エゼキエルしょ21:25-26)

神様はエゼキエルにこう言われました。

人の子よ。嘆け。彼らが見ているところで腰が砕けるほど激しく嘆け。(21:6)

なぜなら、そのように裁きの日が来ると、イスラエルの人々は皆嘆くことになるからです。

では、どうして裁きが来るのでしょうか。それは彼らの罪のためです。イスラエルには、偶像礼拝があり、殺人事件があり、性的な罪があり、その他さまざまな堕落がありました。

簡単に言うと、イスラエルの人々は神様を忘れ、自分の道を歩んでいたのです。(22:1-12)

しかし、22章の最後で、神様はとても興味深いことを語られます。

わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった。

それで、わたしは彼らの上に憤りを注ぎ、激しい怒りの火で彼らを絶滅し、彼らの頭上に彼らの行ないを返した。――神である主の御告げ――」(30-31)

壊れた石垣を築く者、破れ口を修理する者。

昔の都市の防御は石垣でした。その石垣が壊れると、その都市は敵の攻撃を受けやすくなります。

イスラエルの霊的な石垣は崩れ、大きな穴が開いてしまいました。つまり、彼らは神様に背を向け、さまざまな罪を犯していたのです。

そこで、神様は問いかけられました。「その道徳の石垣を修理する者はいないのか。私の律法は彼らを守るためのものだったが、彼らはその律法を取り壊してしまった。」

けれども、神様はもう一つのことを示されているようです。

日本語の聖書では、「破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めている」と訳されていますが、ヘブル語で使われている「修理する」という語には、複数の意味があります。その一つが、「立つ」という意味です。

英語の聖書の多くでは、この箇所がそのように訳されています。つまり、「神様は破れ口に立つ者を探している」という表現になっています。

神様はその破れ口に入ろうとされています。そして、そのまま裁きが訪れます。果たして、誰かがその破れ口に立つでしょうか。

誰もいないなら、多くの人々が滅びることになります。しかし、誰かがその破れ口に立ち、そこから人々のために祈るならば、神様は憐れみを与えるかもしれません。

何度もモーセはイスラエルの人々のために祈り、神様は彼らを滅ぼさずに憐れみを与えられました。モーセはその破れ口に立ち、祈り続けたのです。

けれども、エゼキエルの時代には、ほとんど誰もそのように立ち上がる者はいませんでした。その結果、裁きが訪れることになりました。

では、あなたはどうでしょうか。この世の悪を見るとき、ただ文句を言うだけでしょうか。ただ嘆くだけでしょうか。

それとも、何か行動を起こすのでしょうか。エゼキエルのように、正義のために戦いますか。周りの人々に裁きについて警告しますか。

あなたは彼らのために祈りますか。

聖霊が彼らの心に働いて、その破れ口を修理するように祈りますか。イエス様がその破れ口の中に立ち、彼らを救ってくださるように祈りますか。

私たちがただ涙を流すだけでは十分ではありません。その破れ口に立たなければなりません。

あなたはその一歩を踏み出すでしょうか。

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イザヤ書

今日の祈り

この祈りが大好きです。

主よ。私たちをあわれんでください。私たちはあなたを待ち望みます。

朝ごとに、私たちの腕となり、苦難の時の私たちの救いとなってください。(イザヤ書33:2)

この箇所は私の心の中に深く響いています。

主よ、私たちをあわれんでください。

主よ、私たちは毎日あなたの憐れみを必要としています。私は毎日失敗したり、罪を犯したりして、あなたを悲しませてしまいます。どうか赦してください。憐れんでください。

そして、この憐れみを受けた私が、周りの人々にその受けた憐れみを与えることができるように助けてください。

私たちはあなたを待ち望みます。

主よ、私の魂はあなたを慕いあえぎます。私の人生にもっともっとあなたを求めています。どうか私の心があなたを求め続けるようにしてください。そして、私の心を一つにしてください。

朝ごとに、私たちの腕となってください。(腕は力のシンボルです。)

主よ、毎朝私が目覚めるとき、私の力となってください。

試練に直面するとき、私の力となってください。難しい人と向き合うとき、私の力となってください。大変な状況に立ち向かうとき、私の力となってください。そして、今日、私とともに歩んでください。

苦難のとき、私たちの救いとなってください。

主よ、私が心配の重荷を抱えているときに助けてください。敵が迫ってくるとき、私の救い主となってください。

主よ、私は弱い者です。自分の力では敵と戦うことができません。どうか悪から私をお救いください。そして、私がその悪を乗り越えることができるように助けてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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サムエル記第一

私たちを聞いてくださる神

聖書では、名前は本当に大事です。

神様はアブラムを「アブラハム」と名づけられました。なぜなら、「アブラハム」というのは「多くの人々の父」という意味であり、アブラハムが本当に大きな国の父となったからです。

神様はヤコブを「イスラエル」と名づけられました。「イスラエル」という名前には二つの意味があります。「神様と戦う」と「神様と共にいる王子」という意味です。

この新しい名前は、ヤコブの神様との関係がどのように変わったかを反映しています。ヤコブはまず神様と戦いましたが、最終的に神様が彼を祝福し、高めてくださったため、今では皆がヤコブを尊敬しています。

この箇所では、ある男の子が「サムエル」と名づけられました。「サムエル」という名前は「神様が聞いた」という意味です。

ハンナという女性は子供がいなくて、本当に惨めな思いをしていました。その時代、子供がいないことは恥ずべきこととされていました。

私は詳細は分かりませんが、多分そのためにハンナの夫には二人の妻がいたのかもしれません。その夫は、まだハンナを本当に愛していましたが、もう一人の妻が常にハンナをからかい、彼女の恥を思い起こさせていました。

そこで、ある日、ハンナは主の宮に行き、神様の前で泣きながら祈り、誓いを立てました。

万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますならば、私はその子の一生を主におささげします。(サムエル記第一1:11)

神様はその祈りを聞き、息子を与えられました。その息子を通して、神様はハンナの恥を取り除き、言葉では表せない喜びを与えてくださいました。

とはいえ、ちょっと考えてみてください。おそらく、ずっと前からハンナとその夫は息子のために祈っていたかもしれません。神様はその祈りを聞いていたけれど、ご自身の目的のために「イエス」とは言われなかったのです。

時々、私たちは祈りながら、神様が本当に私たちの祈りを聞いてくださっているのかどうか疑問を持ちます。

私たちは、神様が私たちに夫や妻を与えてくださるように祈ります。新しい仕事のために祈ります。癒しのためにも祈ります。

それでも、何も起こらない時があります。そうなると、私たちはこう尋ねるかもしれません。「神様は本当に聞いておられるのだろうか。私を本当に愛しておられるのだろうか」と。

もちろん、神様は私たちの祈りを聞き、私たちを愛しておられます。神様は私たちの涙のすべてをご覧になり、呻きのすべてを聞いておられます。

しかし、時々、神様は「待ちなさい」と言われることがあります。そして、もっと辛いかもしれませんが、時には神様は「ノー」と言われることもあります。

けれども、私たちが自分自身に問いかけなくてはならないのは、「神様がどのように応えられても、私は信頼し続けるだろうか。」ということです。

ある友だちはずっと子供のために祈っていますが、妊娠できない状況にあります。なぜそうなのか分かりません。おそらく、それを考えること自体が本当に苦しいでしょう。それでも、その友達は神様に信頼し続け、神様の慈しみを信じています。

彼女がいつか子供を授かるかどうか、私には分かりません。神様が「待ちなさい」と言われているのかもしれませんし、神様が「ノー」と言われているのかもしれません。

けれども、私が知っているのは、神様がその友だちの祈りを聞いておられることです。

そして、神様は彼女を本当に愛しておられます。また、神様は彼女のために良い計画を持ち、祝福してくださることです。なぜなら、どのような状況が起こっても、彼女が神様に従う決意を固めているからです。

神様、あなたが私たちの祈りをいつも聞いてくださることを感謝します。そして、あなたが私たちを決して無視されないことにも感謝します。

時にはあなたのために待つことは辛いです。また、あなたの「ノー」という答えも、本当に辛いことです。

それでも、私があなたに信頼し続けることができるように助けてください。私があなたに従い続けることができるように助けてください。

そして、あなたが私を愛し、良い計画を持っておられることを信じる信仰を与えてください。アーメン。