時に、私たちは試練と苦しみに直面します。例えば、重い病気にかかったり、信仰のために家族の問題が生じたり、ミニストリーで困難があったりする時、私たちは神様の助けを願います。
時に、神様は私たちの祈りに応えてくださり、素晴らしい方法で状況を変えてくださいます。
しかし、神様が私たちの祈りに応えないこともあります。この箇所では、そのような答えを見ます。
イエス様は同じことを三度祈られました。最初にイエス様はこう祈られました。
わが父よ、できることなら、この「十字架の苦しみの」杯をわたしから過ぎ去らせてください。
しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。(マタイ26:39)
イエス様はこの祈りを静かに言われたのではありませんでした。イエス様は地面にひれ伏し、切に祈られました。(マルコ 14:35)
さらに、イエス様は大きな苦しみを感じ、汗が血のしずくのように地に落ちました。(ルカ 22:44)
私たちがイエス様を思い描く時、穏やかなイエス様を想像することが多いでしょう。けれども、この時のイエス様はまったく落ち着いていませんでした。
天の父はイエス様の深い感情をよくご存じでした。天の父はイエス様を心から愛しておられました。それでもイエス様の祈りに応えられませんでした。
イエス様はそれを悟られ、こう祈られました。
わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように。(マタイ26:42)
それでも、イエス様は別の方法を求め続けたかもしれません。しかし、天の父はその祈りに応えられませんでした。
私たちはこの出来事から何を学ぶことができるでしょうか。
あるクリスチャンたちはこう言います。「もしあなたが十分な信仰を持っていれば、神様はあなたの祈りを必ず叶えなくてはならない。」
けれども、それが真実ならば、私たちはイエス様の信仰が足りなかったと言わなければなりません。私たちは神の子を責めるでしょうか。
実は、私たちの心が神様の心と異なることもあります。神様は魔人ではありません。私たちは自分の願いに神様の心を無理に合わせることはできません。むしろ、私たちが自分の心を神様の心に合わせなければならないのです。
イエス様はその模範を示されました。イエス様は天の父が願いを叶えるよう強く主張されることはありませんでした。むしろ、イエス様は自分の心を天の父の心に合わせられました。私たちもそのようにすべきです。
そして、もし天の父が私たちの祈りに応えられない時、イエス様のように、私たちは立ち上がり、天の父の御心に従うべきです。
とはいえ、自分の力だけで神様の御心に従う必要はありません。あなたは、一人で試練に直面する必要はないのです。
イエス様も一人で試練に向かわれたわけではありません。イエス様の苦しみと痛みの中で、天の父はイエス様を励まし強めるために天使を送られました。天の父はあなたのためにも同じことをしてくださいます。
それだけではなく、御霊を通して、神様は直接私たちを慰めてくださいます。御霊は私たちの助け主であり、苦しむ時に私たちを支えてくださいます。(ヨハネ 14:16)
だから、パウロはこう言いました。
同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。
人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。
神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ8:26-28)
では、もし神様が私たちの祈りに応えられない時、私たちはどうすべきでしょうか。
私たちは神様を信頼すべきです。神様の方法が私たちの方法よりもはるかに優れていることを信じるべきです。
私たちが試練に直面している間も、神様が私たちを助けてくださることを信じるべきです。
そして、立ち上がり、神様の御心に従い続けるべきです。