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神様の選びの神秘(5)

予定説に関するもう一つの疑問についてお話ししたいと思います。

以前にも述べたように、もし神様が人の心の中で働かれなければ、誰も救われることはありません。それなら、なぜ神様はすべての人々の心の中で働かれ、すべての人々を救われないのでしょうか。

正直に言うと、私にはわかりません。おそらく、私が理解できない要素があるのでしょう。さらに、聖書には神様がその理由を説明されていません。

しかし、私たちは二つのことを心に留めるべきです。

第一に、神様は人の信仰を非常に大切にされます。そして、信仰とは、目には見えなくても神様に信頼することです。

けれども、ある人々にとって、神様を信じる前に自分の目で神様を見たいと願うことがあります。彼らは基本的にこう言います。

「神様の存在を証明する証拠があることは認める。それでも、自分の目で見ない限り、私は神様を信じない。」

でも、それは信仰の姿勢ではありません。さらに、多くの場合、その言葉は反抗的な心から生じています。そのため、神様はその願いを叶えられないことが多いのです。

では、もう一つのことを考えてみましょう。

神様が人々の人生の中で働かれるとき、多くの場合、クリスチャンを通して働かれます。

そして、神様は私たちにこの世の人々に福音を述べ伝える責任を与えられました。神様は天の御国の鍵を私たちに与えてくださいました。それを使わずに福音を伝えないなら、私たちは神様に問われることになります。(エゼキエル書33:7~9)

それでも、神様は私たちにその鍵を使うことを強制されません。

だから、神様が人々の人生の中で働かれるとき、二つの方法を用いることができます。

第一に、神様は直接働かれることができます。つまり、神様はご自身を直接現されることができるのです。とはいえ、神様は信仰を望まれるため、その方法をほとんど用いられません。

もう一つの方法は、神様が人々を通して他の人々に触れられることです。ただし、神様はクリスチャンたちに福音を伝えることを強制されません。

そのため、多くの人々が救われないままとなります。

では、神様の考え方は正しいのでしょうか。神様は私たちの創造主であり、すべてのことを知っておられます。

一方、私たちはただの人間であり、限られたことしか理解できません。そのため、神様の判断を批判することはできないでしょう。

だから、予定説について考えるとき、最終的にアブラハムのように私たちはこう言うべきなのです。

全地をさばくお方は、公正を行うべきではありませんか。(創世記18:25)

結局、私はそう思います。そして、神様が公正を行われることを信じます。

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神様の選びの神秘(4)

予定説について話す際によく出る質問は次のようなものです。

「あなたは、神様が誰を天国へ導くかをあらかじめ定めると主張します。ということは、神様は誰が地獄に行くかも、あらかじめ定めているのではないでしょうか。」

前回の記事で、この疑問についてある程度触れました。

ある意味では、神様は誰が地獄に行くかをあらかじめ定めておられます。しかし、誤解しないでください。神様は決して、こう言われることはありません。

「あなたは地獄に行け。たとえ悔い改めようとも、イエス様を信じようとしてもかまわない。私はすでにあなたの運命を決めているのだから。」

むしろ、神様はこう語られます。「私の計画は、あなたの罪のためにあなたを罰することです。私は正義を執行しなくてはなりません。」

それでも、神様はその宣告を猶予され、その人が純粋に自分の意志で悔い改めるかどうかを待っておられます。その人が自らの意志のみで神様を求め始めるかどうかを待っておられます。

悲しいことに、自分の意志だけで神様を求める者は誰もいません。

だからこそ、私はこう信じます。人々は自らの自由意志によって地獄に行きます。しかし、神様の選びによって、人々は天国に行きます。

神様は人々に自由意志を与えてくださいました。私たちは皆、神様に従うかどうかを選ぶことができます。

ところが、もし神様が私たちの心の中で働かれず、私たちをそのままにされていたなら、私たちは皆、神様に反抗し、自分の道を進んでいくでしょう。例外は一切ありません。それが人類の歴史なのです。

そのため、神様は決断をしなくてはなりませんでした。神様が人間をそのままにされ、すべての人が滅びることを許されることもできました。あるいは、神様が働かれ、ある人々を救われることもできました。

そして、神様は最終的に、ある人々を救うことを選ばれました。

それゆえ、パウロはこう語りました。

また、イザヤがあらかじめ告げたとおりです。

「もしも、万軍の主が、私たちに子孫を残されなかったなら、私たちもソドムのようになり、ゴモラと同じようになっていたであろう。」(ローマ人への手紙9:29)

ソドムとゴモラの人々は、自らの自由意志で神様に反抗することを選びました。神様は彼らを憐れむことを選ばれず、彼らが値する裁きを与えられました。つまり、彼らは裁かれて死にました。

同様に、イスラエル人たちも自らの自由意志で神様に反抗することを選びました。しかし、神様は彼らを憐れまれ、彼らが値しないものを与えてくださいました。それは、命に至る恵みです。

では、ソドムとゴモラの人々とイスラエル人たちは何が違ったのでしょうか。イスラエル人たちはソドムとゴモラの人々よりも優れた者だったのでしょうか。

いいえ、そうではありません。違いはただ一つ、神様の選びです。

神様はイスラエル人を選ばれました。一方で、神様はソドムとゴモラの人々を選ばれませんでした。

もう一度言います。それこそが、恵みの不思議さです。私たちは、他の人々より優れた者ではありません。それでも、神様は私たちを救うことを選ばれました。

それゆえ、私たちは神様の選びによって救われたのです。その一方、人々が地獄に行くのだとすれば、それは自らの選択によるものです。

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神様の選びの神秘(3)

前回の記事で私たちが見たのは、神様が人々を裁くことを決められる一方で、その裁きを猶予されるということです。その間、神様は彼らにこう語られます。

「私はあなたを裁こうと思っている。それでも、私の判断が誤っていることを証明する機会をあなたに与えよう。もし私が間違っているなら、それを証明しなさい。あなたが滅びに値しないことを示しなさい。」

そして神様は忍耐をもって、彼らの応答を待っておられます。

エゼキエル書にも、神様の考え方が示されています。神様はエゼキエルにこう語られました。

わたしは生きている──神である主のことば──。

わたしは決して悪しき者の死を喜ばない。悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。立ち返れ。悪の道から立ち返れ。

イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。(エゼキエル書33:11)

また、

わたしが悪しき者に「あなたは必ず死ぬ」と言っても、もし彼が自分の罪から立ち返り、公正と義を行い、その悪しき者が質物を返し、かすめた物を償い、不正を行わず、いのちの掟に従って歩むなら、彼は必ず生き、死ぬことはない。

彼が犯した罪は何一つ覚えられず、公正と義を行った彼は必ず生きる。(エゼキエル書33:14-16)

とはいえ、以前にも述べたように、問題は人々が悔い改めることなく、ますます悪くなってしまうことです。ファラオはその典型的な例の一つです。

神様はまずファラオに警告されました。その後、神様は彼を裁かれました。

それでも、ファラオは自分の心を柔らかくすることはありませんでした。彼は悔い改めませんでした。むしろ、彼は意図的に、自分の心を頑なにしたのです。

出エジプト記7:13、7:22、8:15、8:19、8:32、9:7において、そのパターンを見ることができます。

そして、その後、私たちは初めてこの言葉を目にします。

主はファラオの心を頑なにされた。(出エジプト記9:12)

ファラオが何度も自らの心を頑なにした後、神様は彼にこう語られました。

このことのために、わたしはあなたを立てておいた。わたしの力をあなたに示すため、そうして、わたしの名を全地に知らしめるためである。(出エジプト記9:16;ローマ9:17)

ファラオはそれを聞き、さらにもう一つの奇跡を見た後、一時的に心を柔らかくしました。ところが、すぐに再び自らの心を頑なにしてしまいました。(出エジプト記9:34)

その後、神様ご自身がファラオの心を積極的に頑なにされました。神様は基本的にファラオにこう語られました。

「あなたは自らの心を頑なにしたいのか。それならば、私はそのプロセスを速めよう。」

神様は、ファラオの心を変えるために、さらに何かをすることができたでしょうか。神様は、ファラオが悔い改めるまで憐れみを示すことができたでしょうか。

確かに、そうだったかもしれません。それでも、神様にはそのような義務があったわけではありません。むしろ、神様には罪を罰する義務がありました。そして、神様はその義務を果たされたのです。

恵みの不思議さはこうです。

私たちはファラオ同然でした。私たちは自らの心を頑なにしましたが、それでも神様は私たちを罪の状態のままにはされませんでした。

さらに、神様は私たちに値する罰を与えられませんでした。むしろ、私たちがようやく神様を信じ、愛するまで、神様は私たちを憐れんでくださいました。

だからこそ、ファラオのような話を読むとき、私たちはファラオや他の裁かれた人々を見下すことなどできません。

むしろ、パウロはこう語ります。

しかもそれが、栄光のためにあらかじめ備えられたあわれみの器に対して、ご自分の豊かな栄光を知らせるためであったとすれば、どうですか。(ローマ人への手紙9:23)

つまり、私たちがこのような話を読むとき、自分たちが裁かれた人々と同然であるにもかかわらず、神様が私たちを選び、救ってくださったことに驚くはずです。

私たちはかつて神様の民ではありませんでした。それでも、神様は私たちをご自身の子供として迎え入れられました。

私たちは神様の愛に値しなかったのに、神様はその愛を私たちに惜しみなく注がれました。(9章24~27節)

それこそが、恵みの不思議さです。

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神様の選びの神秘(2)

前回の記事の最後で、私はこう問いかけました。「もし私たちの救いが神様の選びによるのなら、神様はみだりに誰を救い、誰を地獄に送ることを決めているのでしょうか。」

もちろん、神様はみだりに選ばれることはありません。神様は確固とした計画を持っており、すべての決断はその計画に基づいています。

私たちの問題は、神様がその計画を私たちに完全に明らかにされていないということです。また、神様はご自身の決断の理由をすべて示されているわけではありません。特に、なぜある人々を救い、ある人々を救われないのかについては説明されていません。

そのため、この疑問をどのように考えても、私たちは完全に理解することはできません。神様はすべてをまだ明らかにされていないからです。

だから、多くの人々は、神様の選びが不公平に思えるのです。

神様は、「わたしはあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ」と言われました。(15節)

そして、パウロはこう記しています。「ですから、神は人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままに頑なにされるのです。」(18節)

すると、人々はこう叫びます。

「不公平だ。どうして神様はある人を憐れむのに、ある人を憐れまないのか。

もし神様がある人々を憐れまず、その心を頑なにされるのであれば、どうして神様は彼らを地獄に送るのか。

それは彼らのせいではない。だって、誰が神の意図に逆らえるのですか。」(19節)

パウロは、二つの答えを示します。

人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。

陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利を持っていないのでしょうか。(ローマ人への手紙9:20-21)

要するに、神様は創造主です。神様はご自身が造られたものを、思うままに扱う権利を持っておられます。また、神様はご自身の目的を果たすために、その造られたものを自由に用いる権利も持っておられます。

とはいえ、そのように述べた後で、パウロは興味深いことを語ります。

それでいて、もし神が、御怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられたのに、滅ぼされるはずの怒りの器を、豊かな寛容をもって耐え忍ばれたとすれば、どうですか。(22)

パウロは何を伝えたいのでしょうか。たぶん、パウロのポイントはこうです。神様はご自身の計画を立てられましたが、滅びるべき怒りの対象となる人々にこう問いかけられました。

「あなたは私の判断が間違っていると思うのか。では、私の判断が誤っていることを証明しなさい。あなたが救いに値することを証明してみなさい。」

そして、神様は待っておられました。そして、さらに待っておられました。そして、さらに待っておられました。ところが、神様が待てば待つほど、人々はますます悪くなりました。

カナン人は、その例の一つです。アブラハムが初めてカナンに到着した時、神様は彼にこう語られました。

そして、四代目の者たちがここに帰って来る。それは、アモリ人の咎が、その時までに満ちることがないからである。(創世記15:16)

要するに、神様はアモリ人たちを裁くことを決められましたが、すぐにその裁きを実行されたわけではありません。むしろ、神様は彼らが滅びに値しないことを証明する機会を与えられました。

それでも、日々彼らが証明したのは、まさに自分たちがその裁きに値するということでした。そして、神様がイスラエル人をエジプトからカナンに導かれた時、イスラエル人を通してその裁きを実行されたのです。

大洪水の前にも、神様は同じようなことをされました。ノアは長い間、周囲の人々に警告しました。「神様はあなたたちを裁くことを決断された。あなたが悔い改めなければ、必ず滅びるでしょう。」

ノアが箱舟を造っている間、彼は彼らに繰り返し警告していました。そのため、彼らには悔い改める機会が十分に与えられていました。

彼らは神様の判断が誤っていることを証明する機会を持っていました。彼らがそれほど悪い人間ではないことを証明する機会も与えられていました。

けれども、結局彼らが証明したのは、自分たちがその裁きに値するということでした。

だから、心に留めておきましょう。人々が本当に神様を求め、従いたいと願うのに、神様がみだりに彼らを地獄に送ることはありません。

彼らが「神様、私は悔い改めます。赦してください。」と言うのに、神様が「残念だが、私はあなたを選んでいないので、君は地獄に行かなくてはならない」と答えることは決してありません。

むしろ、人々が神様に背を向けることを選び、神様がどれほど悔い改めの時間を与えられても、彼らは自分が滅びに値することを証明してしまいます。

だから、パウロはこう語ります。

ですから、これ(つまり、神様の選び)は人の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。(16節)

もし、神様の選びが私たちの願いや努力によるものなら、救われる人は誰もいないでしょう。なぜなら、神様が彼らを放っておかれたら、神様に従おうとする人は誰もいないからです。

だからこそ、神様の選びはただご自身の恵みと憐れみによるのです。

次の記事で、そのことをさらに詳しく説明します。

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神様の選びの神秘(1)

聖書の中で最も難しい概念の一つは、神様の選びです。つまり、神様が人々を聖徒として選ばれることです。

神様の選びを考えると、人間の自由意志という概念と矛盾するように思えます。また、神様の選びは、神様がすべての人々を愛しておられるという考え方とも矛盾しているように感じられます。

私の意見を述べる前に、まず言わなければならないことは、神様の選び、また予定説について、私たちの知識は不完全であるということです。どのように考えても、私たちはこの概念を完全に理解することはできません。

今日の箇所で、パウロはユダヤ人に対する自分の悩みを表現しています。なぜパウロは悩んでいたのでしょうか。それは、神様がご自身をユダヤ人たちに現されたにもかかわらず、多くのユダヤ人がイエス様をメシアとして拒絶したからです。

パウロ自身がユダヤ人であったため、特に深く悲しんでいました。

それでも、パウロは、アブラハムの子孫への神様の約束が無効になったわけではないと語ります。そして、パウロはその理由を二つ示します。

一つの理由は、11章に書かれています。もう一つの理由は、この箇所に記されています。

パウロの最初の答えは、単なる血統によって「私はユダヤ人だ」と主張することはできないということです。このことを説明するために、パウロはイサクとイシュマエルの例を挙げます。

パウロは「肉の子供」と「約束の子供」を対比します。

「肉の子供」とは、自然に生まれた子供のことです。イシュマエルは肉の子でした。アブラハムはハガルという若い女性と関係を持ち、その結果イシュマエルが生まれました。

一方で、イサクは「約束の子」でした。アブラハムの妻サラは長年、不妊の状態でしたが、神様は「サラは息子を産む」と約束されました。そして、彼女が90歳になった時、イサクを生みました。

彼女は神様の約束と力によってのみ、イサクを生むことができたのです。

このように、アブラハムの子孫となることは、自然のプロセスによるものではありません。それは血統によるものではなく、むしろ神様の恵みと約束によってのみ、私たちはアブラハムの霊的な子孫となるのです。

そして、パウロは重要なポイントを教えます。その約束は、私たちの行動に基づいているのではありません。

エサウとヤコブの話を通して、パウロはこの真理を説明します。

その子どもたちがまだ生まれもせず、善も悪も行わないうちに、選びによる神のご計画が、行いによるのではなく、召してくださる方によって進められるために、「兄が弟に仕える」と彼女に告げられました。(ローマ人への手紙9:11-12)

パウロのポイントは何でしょうか。神様がヤコブを選んだ理由は、ヤコブがエサウよりも優れた人だったからではありません。ヤコブが品行方正だったから、神様が彼を選ばれたわけでもありません。

むしろ、神様は恵みによってご自身の目的を果たすために、ヤコブを選び、約束をされたのです。

多くの人々は神様の選びを次のように説明しようとします。

「神様はご自身の予知によって人々を選ばれました。神様は誰が良い人になるか、悪い人になるかをあらかじめ知っておられました。また、神様は誰が神様を選ぶか、選ばないかをあらかじめ知っておられました。だから、神様はその予知によって人々を選ばれたのです。」

しかし、もし神様がそのように人々を選ばれるのであれば、11節にあるパウロのポイントは意味を持たないことになります。

この考え方によれば、人々の選びは彼らの行為によるものではなく、彼らが将来何をするかという神様の知識によって決定されることになります。

けれども、パウロによれば、神様の選びは人々の過去の行いにも将来の行いにも左右されないのです。

むしろ、パウロは「行いによるのではなく(過去の行いでも、将来の行いでも)、召してくださる方によって」と語っています。

そして、パウロは預言者マラキの言葉を引用します。

わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。(13)

私はその言葉をこの記事でさらに詳しく説明しましたが、簡単に言えば、神様のポイントは、ヤコブの行いによるのではなく、神様の恵みと目的によってヤコブを選ばれたということです。

けれども、それは不公平ではないでしょうか。神様は、誰を救い、誰を地獄に送るのかを、みだりに選ばれるのでしょうか。

次の記事で、その疑問について詳しく考察します。

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私たちが苦しんでも

今日の箇所では、パウロは15-18節の話をまとめています。

15-16節では、パウロは私たちが神様とどのような関係を持っているのかを教えています。私たちは神様を恐れずに、神様の御前に来て「アバ、お父さん」と呼ぶ権利を持っています。

そして、17-18節では、パウロは私たちがこの世界で苦しむこともあると警告しています。

時には、私たちはイエス様に従うゆえに苦しみます。時には、ただこの壊れた世に住んでいることで苦しむのです。

けれども、35節では、パウロは私たちにとても大切なことを思い出させます。私たちは苦しむとき、この言葉を心に留めるべきです。

だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。

こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」(ローマ人への手紙8:35-36)

もちろん、その答えは、私たちをキリストの愛から引き離せるものは何もないということです。

私たちが直面する苦難、迫害、災害、飢えなどは、私たちをその愛から引き離すことはできません。たとえ私たちが死んでも、神様の愛から離れることはありません。

けれども、パウロはさらに語ります。

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(38-39)

だから、霊的な力や、私たちの不安や将来への恐れ、この世のどんな力も、私たちをイエス様の愛から引き離すことはできません。

たとえあなたが海底にいようとも、宇宙にいようとも、どこにいようとも、神様の愛はあなたに届くのです。

だから、パウロはこう言うことができるのです。

これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。(ローマ人への手紙8:37)

要するに、イエス様は十字架で勝利を得られたので、最終的に私たちも勝利を得るのです。十字架でイエス様はサタンを打ち破り、その計画を覆されました。

だから、サタンが私たちを誘惑したり、責めたり、苦しめたりしても、神様は変わらず私たちを愛しておられるので、私たちには希望があります。そして、私たちをその愛から引き離せるものは何もありません。

だから、苦しむとき、その愛によって安心しましょう。その愛の慰めを受けましょう。なぜなら、神様の愛は決して私たちを手放さないからです。

そして、どんな試練に直面しても、その愛によって私たちは乗り越えるのです。

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神様が私たちの味方ならば。。。

クリスチャンであっても、罪悪感に苦しみ、神様に責められているように感じることがあります。

私たちの誤った決断によって物事が崩れてしまい、「どうして私はいつも失敗してしまうのだろう」と嘆くことがあります。

あるいは、誘惑と戦いながら、「私は長い間クリスチャンなのに、どうして今もこの罪に引き寄せられてしまうのだろう」と悩みます。

また、聖書で御霊の実について読むと、自分自身を責めてしまうことがあります。

「愛?いや、私にはその実が十分に育っていない。寛容?いや、まるで足りない。柔和?いや、それも欠けている。」

そして、私たちは自分自身に問いかけます。

「どうして私はその実を持っていないのだろう。どうして私は変われないのだろう。私はやっぱりだめなのだろうか。」

しかし、前回の記事で私が言ったことを心に留めておきましょう。

神様はこの世を創造される前から、あなたのことを深く知っておられました。神様は、あなたがどのような人になるかをすべてご存じでした。

神様は、あなたがどのような罪と戦うことになるかを知っておられました。神様は、あなたの人生において、どの御霊の実が現れるまでに長い時間がかかるかを理解しておられました。

そして、神様はあなたが御子のように変えられるまでに、どれほどの年月が必要かも知っておられました。

それでも、神様はあなたを選ばれました。そして、神様はあなたを召されました。そのあと、神様はあなたを義と認められました。そして、ある日、神様はあなたに栄光を与えてくださいます。

その日、私たちはキリストに似た者となります。なぜなら、私たちはキリストをありのままに見るからです。(第一ヨハネ3:2)

だから、パウロはこう語ります。

では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。(ローマ人への手紙8:31)

神様は私たちの味方です。神様はあなたを選ばれるほどに、愛しておられました。だから、誰があなたに反対できるでしょうか。

パウロはその概念をさらに深く説明します。

私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。(32)

要するに、神様が私たちにとって最も重要な必要、つまり私たちの罪の赦しを備えてくださったのなら、他の必要にも必ず備えてくださるのではないでしょうか。

だから、イエス様はこう語られました。

ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。

あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。

まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。(マタイ6:31-33)

そして、パウロは私たちを神様の法廷へと導き、こう問いかけます。

だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。(ローマ人への手紙8:33)

つまり、神様の法廷では、神様はあなたを訴えてはいません。むしろ、神様はあなたを義と認めておられるのです。

そして、パウロは問いかけます。

だれが、私たちを罪ありとするのですか。

死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。(34)

キリストはあなたを責めていません。私たちが裁かれないように、イエス様は十字架で命を捧げられました。

さらに、イエス様は裁判官の右の座に着き、あなたのためにとりなしをしてくださいます。

その判決はすでに決まっています。裁判官も検事もあなたの味方なのです。

それなら、どうして私たちはいつも自分自身を責めてしまうのでしょうか。裁判官も検事もそうしないのです。だから、私たちが自分自身を責める必要はありません。

だから、罪悪感に苦しみ、裁かれているように感じるとき、また、神様の恵みに値しないと思うとき、この聖書の言葉を心に留めてください。

神様はあなたの味方です。あなたが生まれる前から、神様はあなたの味方でした。そして、永遠に至るまで、神様はあなたの味方なのです。

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私たちの希望の理由(2)

この箇所では、私たちが苦しみの中で希望を持つ理由をもう一つ見いだすことができます。それは、神様が永遠の昔から私たちのために計画を持っておられたことです。

パウロはこう記しました。

神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。

神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。(ローマ人への手紙8:29-30)

多くの人々は、自由意志や予定説(すなわち、神様があらかじめすべてを定めておられること)という概念について考えると混乱します。

他の記事で私はこのテーマについて触れましたし、また9章について書くときに、改めてこのことを論じる予定です。

しかし、まずはクリスチャンにとってのパウロの言葉の意味を考えてみましょう。

あなたが生まれる前から、神様はあなたのことを深く知っておられました。

エペソ人への手紙1章で、パウロはこう述べています。神様はこの世を創造される前から、すでにあなたを知っておられました。

神様はあなたの良い面も、弱さも、すべてをご存じです。神様はあなたの得意なことも不得意なことも理解しておられます。

そして、あなたがどのような善を行い、どのような過ちを犯すかも、すべてをご存じです。

それでも、神様はあなたを選ばれました。そして、あなたのために良い計画を立てておられます。その計画とは、あなたが神様の御子のかたちに変えられることです。

神様は、あなたが罪深く、弱く、反抗的になってしまうことをすべてご存じでした。それでもなお、神様は恵みを与え、あなたを栄光に満ちた存在へと変えることを計画されたのです。

その計画を成就するために、神様はあなたを召されました。あなたが神様を求めていなかったとしても、神様はあなたを召されました。

そして、あなたが信仰を持って神様に向かうと、神様はあなたを義と認められました。イエス様が十字架の上であなたの罪の代価を支払われたので、神様はあなたに関して「無罪」と宣言することがおできになります。

そして、ある日、神様はあなたに栄光を与えてくださいます。イエス様と同じような栄光の体を授けてくださいます。その体は決して朽ちることなく、罪に汚れることもありません。それは、真に栄光に満ちたものなのです。

それは、神様があなたのために立てられた計画です。そして、その計画は確実なものです。結局のところ、神様の計画を変えられるものは何一つ存在しません。

神様は永遠の昔からすべてを知っておられるので、私たちを見てこう言うことは決してありません。

「あれ?彼を選んだけれど、ダメになってしまった。彼の人生はめちゃくちゃだ。もうどうしようもない。私でさえ彼を救うことができない。」

神様は、決してそんなことを言われることはありません。神様は、そもそもあなたのすべてを知っておられた上で、あなたを選ばれたのです。

そして、パウロは私たちへの神様の賜物について、こう記しています。

神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。(ローマ人への手紙11:29)

あなたは、自分自身を見つめたとき、気が重くなることはありますか。クリスチャンとして思うように成長していないと感じ、失望してしまうことはあるでしょうか。

神様はあなたに失望されることはありません。神様は、はるか昔からあなたを知っておられます。神様はそもそも、あなたがイエス様のかたちに変えられるまでにどれだけの時間がかかるかを完全に理解しておられます。

だからこそ、神様は決してあなたを見放されることはありません。

そして、どんな試練に直面しても、その試練が神様の計画を狂わせることは決してありません。神様が驚かれることはなく、すでにあなたをどのように助けるかを知っておられます。

だから、苦しみの中でも絶望せず、パウロの言葉を心に留めてください。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ人への手紙8:28)

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私たちの希望の理由

聖書の中で、これは私が最も好きな箇所の一つです。実は、26節から8章の最後までの言葉が大好きです。なぜでしょうか。この箇所は、私たちの希望の根拠を示しているからです。

多くの人々は28節を引用します。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ人への手紙8:28)

けれども、神を愛する人々のために、なぜすべてのことが共に働いて益となるのでしょうか。26-27節において、パウロはその理由を説明しています。

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。

私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。

人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。(26-27)

祈りの時に、私たちはしばしば何のために祈るべきか、またどのように祈るべきか分からなくなります

。言葉が出ず、祈れない時もあります。また、時には間違ったことのために祈ってしまうこともあります。

イエス様のたとえを用いるなら、私たちはパンを求めているつもりでも、実は石を求めてしまっていることがあるのです。

しかし、良い知らせがあります。それは、神様が私たちの弱さや、誤った祈りに制限されることはないということです。

神様が最も望んでおられるのは、私たちが神様と交わり、語り合うことです。

私たちが祈るとき、聖霊様は私たちのためにとりなしをしてくださいます。聖霊様は、私たちのうめきや言葉にならない祈り、誤った祈りを取り、神様の御心にかなう祈りへと変えてくださいます。

だから、パウロはこう語ります。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ人への手紙8:28)

私にとって、この言葉はとても心強いものです。

私の娘が赤ちゃんだった頃、私と妻は時々フラストレーションを感じました。なぜなら、娘が泣いたときに、なぜ泣いているのか分からないことがあったからです。彼女の泣き声や叫びは、私たちに彼女のニーズを正確に伝えてはくれませんでした。

そのため、私たちは彼女のニーズを推測するしかありませんでした。当たりだったこともあれば、まったく的外れだったこともありました。

その一方、私たちがうめいたり、言葉を使わずに祈るときでも、聖霊様は私たちのニーズを完全に理解しておられます。だからこそ、聖霊様は正しくとりなし、私たちを助けてくださいます。

あなたは今、どんな試練に直面していますか。祈るときにフラストレーションを感じることはあるでしょうか。あなたの祈りが天井にぶつかり、届かないように思えることはありますか。

希望があります。今もなお、聖霊様はあなたのためにとりなしてくださいます。そして、その祈りは神様の御心にかなっています。

だから、安心しましょう。神様はあなたの試練を用いて、良いことをもたらしてくださいます。

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どうして私は苦しまなくてはならないだろうか

ローマ書8:16-17節の言葉は、本当に心強いものです。

御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。子どもであるなら、相続人でもあります。

すべてのクリスチャンはそれを読み、励まされることでしょう。私たちは神様の愛する子供です。そして、私たちは神様の相続人なのです。

ところが、パウロはさらに語り続けます。

私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。(ローマ人への手紙8:17b)

苦難?誰も苦難を望みません。では、パウロはどのような苦難について語っているのでしょうか。

35節で、パウロはいくつかの例を挙げています。「迫害」、「飢え」、「裸」、「危険」、「剣」です。

私たち全員が苦しみを経験することがあります。この世において、苦しみを完全に避けることはできません。

それは、ノンクリスチャンだけでなく、クリスチャンも同じです。なぜなら、キリストに従うことによって、時にはそのゆえに人々から憎まれることがあるからです。

けれども、なぜ私たちは苦しまなくてはならないのでしょうか。なぜ神様は単にその苦しみを取り除かないのでしょうか。そもそも、なぜ神様は苦しみを許されるのでしょうか。

それは難しい疑問です。パウロは、その答えの一部を説明しています。

被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。

被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。

私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。(20-22)

どうして地震や津波、その他の天災が起こるのでしょうか。どうして先天的障害や病気、そして死があるのでしょうか。神様はそれらを取り除くことができるでしょう。

もちろん、神様にはそれが可能です。それなのに、神様はそれらを許されます。なぜでしょうか。

そんなものが存在しない世界を想像してみましょう。確かに、私たちの人生は楽になるでしょう。それでも、人々は罪を犯し続けるでしょう。

彼らは神様のことを考えずに罪を犯し、それを気にしない態度を持つでしょう。自分の罪の悪さに気づかないまま、生きるでしょう。結果として、この世の状態はさらに悪化するかもしれません。

しかし、この世の苦難を通して、人々は自分の死ぬべき運命に向き合わなければなりません。

さらに、彼らは罪の悪さを直視する機会を持つのです。そして、人々は目を覚まし、神様を求め、救いへと導かれます。

だからこそ、神様はこのような苦難を許されるのです。神様の望みは、人々が神様に向き、本当の喜びを知ることです。そして、神様の救いの計画が成就すると、イエス様はこの世に戻り、すべてを新しくされます。

とはいえ、パウロによれば、その日が来るまで、この世は産みの苦しみを経験し続けます。それは死に至る痛みではなく、新しい命へとつながる痛みです。

そして、この世の苦難を通して、多くの人々が神様へと向かい、神様の子供となり、神様の国が広がります。

それでも、この世の産みの苦しみは本当に大変なものです。

クリスチャンたちの苦しみもまた、決して軽いものではありません。

そして、パウロはこう語ります。

それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。(23)

私たちは苦しみのゆえに、うめきます。私たちは自分の罪と戦いながら、うめきます。そして、この世の罪や苦しみから解放される日を待ち望んでいます。

けれども、待ち望む間にも、私たちには希望があります。それは、私たちがキリストとともに苦難を経験しているとしても、やがてイエス様の栄光を受けるということです。

また、その栄光と比べると、今の苦しみは取るに足りないものです。(18)

さらに、私たちには、いつかすべてが新しくされるという希望があります。それは、今は目に見えない希望です。パウロによれば、「目に見える望みは望みではありません。」(24)

そして、パウロはさらにこう語りました。

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ人への手紙5:5)

では、待ち望んでいる間に、私たちはどうすべきでしょうか。

忍耐しながら希望を持ち続けましょう。必ずその希望は現実となるからです。

あなたはどうでしょうか。今、苦しみの中にいるでしょうか。希望を持ち、待ち望んでいるでしょうか。

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全く違う関係に導かれた

もしかすると、パウロは、自分が6章で書いた言葉を振り返り、その意味をさらに説明する必要があると感じたのかもしれません。

6章では、パウロは、私たちはかつて罪の奴隷だったが、今は神様の奴隷であると記しました。

「神様の奴隷」という言葉は、少し不思議に聞こえるかもしれません。おそらく、パウロの意図は、私たちが完全に神様のものとなったことを強調することだったのでしょう。

しかし、「奴隷」という言葉を聞くと、「自由がない」とか「罰の恐れ」といったイメージを思い浮かべる人もいるかもしれません。

だから、パウロは、その誤解を解こうと考えたのかもしれません。

そして、パウロはこう語りました。

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。

この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。

子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。(15-17)

つまり、聖霊様は私たちを導かれますが、決して厳しい主人ではありません。

私たちが罪を犯したり、失敗したりしても、聖霊様は鞭で私たちを罰することはありません。また、「あなたは価値のない人だ。天の父は決してあなたを受け入れることはできない」と言われることもありません。

むしろ、私たちが自分の失敗を見て絶望するとき、また、放蕩息子のように神様を「お父さん」と呼ぶ資格がないと思うとき、聖霊様は私たちの心にささやかれます。

「ちょっと待ってください。あなたはまだ神様の子供です。天の父は今もあなたを愛しておられます。神様を『お父さん』と呼んでもよいのです。天の父はそれを聞いて、心から喜ばれます。」

そして、私たちが試練に直面し、苦しむとき、聖霊様は私たちに希望があることを思い出させてくださいます。私たちは神様の相続人だからです。そして、私たちの苦しみは永遠に続くものではありません。

簡単に言うと、私たちは単なる奴隷ではありません。私たちは神様の愛される子供です。そのことを決して忘れないでください。

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私たちがイエス様に属すると

5-8節を読むと、私は、パウロがクリスチャンについて話しているのかどうか疑問に思いました。

つまり、パウロは、神様をまったく知らず、自分の罪深い心に従う人について話しているのでしょうか。

それとも、パウロは、かつての罪深い心の残された影響に従い続けるクリスチャンについて話しているのでしょうか。

けれども、9節を読むと、パウロがノンクリスチャンについて話していることが明らかになります。

パウロはこう語りました。

しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。

もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。(ローマ人への手紙8:9)

5ー8節では、パウロが語っているのは、罪深い心を持つ人(つまり、「肉のうちにある人」)は、神様を喜ばせることができないということです。実際、その人は神様に敵対しており、その行く道は死へと導かれます。

けれども、9節では、パウロは御霊を持っている私たちを、そのような人と対比しています。

パウロが語っているのは、御霊を持っていないなら、あなたはキリストのものではないということです。要するに、あなたは本当にクリスチャンではありません。

しかし、聖霊様があなたのうちにおられるなら、聖霊様はあなたの心の中で働き、イエス様と同じかたちにあなたを変えてくださいます。あなたはもはや罪深い心の奴隷ではありません。

そして、パウロはこう語ります。

キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。(10)

パウロによれば、私たちは罪のゆえに皆、やがて死を迎えます。それでも、イエス様は私たちのうちにおられ、ご自身の義を私たちに与えてくださいます。

だから、私たちの体が死んでも、私たちの魂は生き続けます。

けれでも、心に留めてください。神様は私たちについて「無罪」と宣言されるだけでなく、私たちを真の義人へと変えてくださいます。

そして、パウロは続けてこう言います。

イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。(11)

私たちは二つの希望を持っています。

第一の希望は、私たちのうちにおられる御霊のゆえに、私たちの体が死んでも、新しく朽ちることのない体を受けることです。

しかし、今もなお、聖霊様は私たちに命を与えてくださっています。聖霊様は私たちをイエス様と同じかたちへと変えてくださいます。私たちの性格は変わりつつあり、神様の御計画のとおりに歩み始めます。

それでは、私たちはこの箇所から何を学ぶことができるでしょうか。

そして、パウロはこう語ります。

ですから、兄弟たちよ、私たちには義務があります。肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。

しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます。

神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。(12-14)

つまり、私たちは、死んだものに対して何の義務も負っていません。私たちは、かつての罪深い心を拝んではなりません。かつて、その罪深い心は私たちを死へと導いていました。

けれども、今や、聖霊様の力と導きによって、私たちはその罪深い影響を滅ぼし、真の命を知ることができます。パウロによれば、神様の子供たちは皆、そのように歩みます。

あなたはどうでしょうか。あなたは、罪深い心に義務があるかのように生きているでしょうか。それとも、聖霊様の導きによって、神様の子供として歩んでいるでしょうか。

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私たちを責める言葉が一つもない

映画の中で、私が最も好きな作品のひとつは「ア・フュー・グッドメン」です。

特に印象的なシーンは、軍事裁判所で二人の被告が判決を聞く場面です。その直前、海兵隊の大佐は、自らが海兵隊員たちに別の隊員を「しつける」よう命じたことを認めました。

けれども、その命令によって、彼らはその隊員を誤って死に至らしめてしまいました。

当然、その大佐は逮捕されましたが、その後も陪審員たちは二人の海兵隊員についての判断を下さなければなりませんでした。

陪審員が評決を決めた後、裁判官がその結果を読み上げます。

「殺害の容疑に関して、陪審は被告人たちに無罪の判決を下します。」

「殺害を謀った容疑に関して、陪審は被告人たちに無罪の判決を下します。」

その言葉を聞いて、多くの人は二人がまったく罰を受けないと思ったかもしれません。

ところが、裁判官は続けました。

「米国海兵隊員としてふさわしくない行為の容疑に関して、陪審は被告人たちに有罪の判決を下します。」

そして、裁判官はその刑を宣告しました。

けれども、その裁判官とは違い、パウロは私たちについてまったく異なることを語ります。

こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ人への手紙8:1)

ある聖書学者は、この箇所を次のように言い換えました。「神様は私たちを責める言葉を一つも言われません。」

映画の裁判官とは違い、神様は「この容疑について、あなたに無罪の判決を与える。この容疑についても、あなたに無罪の判決を与える。けれども、この容疑については、有罪の判決を下す」とは言われません。

むしろ、神様は私たちに「すべての容疑について、あなたに無罪の判決を与える。」と言われます。

どうしてでしょうか。

なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の原理が、罪と死の原理からあなたを開放したからです。(2)(「原理」は別訳です。聖書の脚注を見てください。)

罪と死の原理とは何でしょうか。それは、「罪を犯すと、あなたは死ぬ」という原理です。

もし神様の律法に違反すれば、あなたは裁かれることになります。そして、私たちは皆、罪を犯したので、すでに裁きを受けています。

けれども、御霊の原理は私たちを罪と死の原理から解放します。

では、御霊の原理とは何でしょうか。それは、神様の恵みによって、私たちが義と認められることです。御霊が私たちのうちに住んでおられるので、私たちは新しい命を受けました。

そして、パウロは続けてこう言います。

肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。

神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪の清めのために遣わし、肉において罪を処罰されました。

それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに律法の要求が満たされるためなのです。(3-4)

律法には、何ができないのでしょうか。律法は私たちを義とすることができませんでした。なぜでしょうか。

それは、律法が何が善で何が悪かを示すことしかできなかったからです。けれども、私たちは罪深い心を持ち、神様に逆らっていたため、その律法に従おうとはしませんでした。

神様はそれをご覧になり、何をされたでしょうか。神様は私たちの罪に対処するために、イエス様を遣わしてくださいました。

イエス様は罪を犯すことなく、完全に律法に従われました。そして、十字架において、天の父はイエス様に私たちの罪を置かれました。私たちの代わりに、イエス様は私たちの罰を受けてくださいました。

律法によれば、すべての罪は罰せられなくてはなりません。イエス様が十字架で死なれたとき、私たちのすべての罪は罰されました。だからこそ、イエス様を通して、律法の要求が満たされたのです。

ところが、それだけではありません。私たちがクリスチャンになるとき、神様は聖霊様を遣わされ、聖霊様は私たちのうちに住まわれます。そして、聖霊様の導きによって、私たちは義人として歩み始めます。

私たちは、かつての罪深い心の影響を感じることがあるかもしれません。しかし、聖霊様が罪に対する勝利を与えてくださり、私たちは神様の御計画のとおりに生き始めるのです。

そして、私たちが裁かれているかのように感じるとき、また、神様の愛と恵みにふさわしくないと感じるとき、聖霊様は私たちの心にささやかれます。

「あなたは神様の子供です。あなたは神様に属する者です。あなたはもう裁かれていません。」

あなたはどうでしょうか。「神様は、私が安心したころを見計らって、突然私を罰する」と思っているでしょうか。

神様は決してそのようなことをされません。あなたが神様に属するなら、神様はあなたを責めることはありません。

だからこそ、パウロはこう言うのです。

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。

この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。(ローマ人への手紙8:15)

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希望

前回の記事で、私たちには罪に打ち勝つ希望があると述べました。

それにもかかわらず、多くのクリスチャンは絶望してしまうことがあります。彼らは問いかけます。

「私は本当にクリスチャンなのだろうか?何度も罪を犯してしまうが、本物のクリスチャンがそんなことをするはずがないだろう。私は正しいことをしたいと思っているのに、何度も失敗してしまう。」

けれども、ここでパウロの言葉を見てみましょう。

私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。

自分のしたくないことを行っているなら、私は律法に同意し、それを良いものと認めていることになります。。。

私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。

私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。(ローマ人への手紙7:15-16,19-20)

この箇所のテーマは何でしょうか。それは「戦い」です。

神様の恵みに触れていないノンクリスチャンは罪と戦うことはありません。多くの場合、彼らは自分の罪の問題に気づくことすらありません。

一方で、クリスチャンはその問題を認識し、戦うのです。

もし、「私はクリスチャンだ」と言い張る人が、神様が罪について何を語ったかを知っていながら、意図的に罪を犯し、なおかつ「私が罪を犯しているって?そんなことはないよ。」と言うなら、私はその人の「私はクリスチャンだ」という主張を疑うでしょう。

もしかすると、彼らは本当はクリスチャンではないのかもしれません。あるいは、彼らはクリスチャンだけれど、心を頑なにしてしまい、神様の声が聞こえなくなってしまったのかもしれません。

(もちろん、神様の言葉をあまり知らない若いクリスチャンもいます。その人たちの信仰を疑うわけではありません。とはいえ、私たちはその人たちにしっかりと教える責任があります。)

しかし、私は罪と戦っているクリスチャンの信仰を疑いません。むしろ、私は神様がその人の心の中で働いていることを確信しています。

そして、もし神様がその人の心の中で働いているなら、神様は必ずその働きを完成してくださいます。

パウロはこう言いました。

あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り。。。

あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信してます。【ピリピ1:4,6)

もし神様があなたの罪を指摘しているなら、神様があなたを見捨てて豚小屋に置き去りにすることはないと信じ、安心してください。神様はあなたに勝利を与えてくださいます。これが、私たちの希望です。

だから、パウロは「私は本当に惨めな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(24節)」と叫びました。

けれども、すぐに「神に感謝します。それは、私たちの主イエス・キリストによるのです。」とも叫ぶことができました。(これは25節の別訳です。その脚注を参照してください。)

私たちは、自分の力で自分自身をより良い人にすることはできません。私たちには、自分自身を変える力がありません。しかし、神様にはその力があります。これも、私たちの希望です。

では、私たちはどのように変わることができるのでしょうか。それは、私たちの内に住んでおられる聖霊様を通してです。

この点については、別の記事で詳しく扱います。どうぞお楽しみに。

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どうして私たちはまだ罪と戦うでしょうか。

前回の記事でも述べたように、聖書学者たちはこの箇所について議論を続けています。つまり、パウロが罪との戦いについて語る際、クリスチャンとして話しているのでしょうか?それとも、ノンクリスチャンとして話しているのでしょうか?

ひとまず、パウロがクリスチャンとして話していると仮定しましょう。

パウロはこう言いました。

。。。私は肉的な者であり、売り渡されて罪の下にある者です。(ローマ人への手紙7:14)

また、彼はこう言いました。

。。。この私は。。。肉では罪の律法に仕えているのです。(25)

その言葉を読むと、当然生じる疑問があります。もしパウロがクリスチャンとして話しているのなら、神様が彼を贖い、罪から解放したはずです。

それなのに、どうしてパウロは「私は売り渡されて罪の下にあるものです」と言ったのでしょうか。

さらに、パウロはこう言いました。

私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。(18)

もしパウロがクリスチャンとして話しているのなら、聖霊の力によって、彼は自分の「善を行いたい」という願いを実行できるはずではないでしょうか?

それは非常に重要な問いです。私たちはこの疑問に向き合い、答えを見いださなければなりません。

しかし、もしあなたがパウロがノンクリスチャンとして話していると考えるなら、さらに難しい問題が生じます。

最も難解な箇所は17節です。

ですから、今それ(つまり、罪)を行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪なのです。(17)

そして、20節で、パウロは同じようなことを言います。

私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。(20)

ノンクリスチャンは、どうして「もはや私は罪を犯さない」と言えるのでしょうか。彼らは生まれつき罪深い心を持ち、神様に反抗しています。

以前の記事で述べたように、その罪深い心こそがノンクリスチャンを定義します。そして、彼らは罪深い心と「結婚」しているため、最終的に死に至る実しか結ぶことができません。

では、どうして彼らは「罪を犯しているのに、それが私の本当の姿ではない」と言えるのでしょうか。

けれども、クリスチャンはそのことを言うことができます。だから私は、パウロがこの言葉をクリスチャンとして語っているのだと思います。

以前の記事で見たように、クリスチャンになると、神様に反抗する私たちの罪深い心は十字架につけられ、死にました。つまり、私たちの「元夫」は死んだのです。もはや、その罪深い心が私たちに影響を与えることはできません。

それでも、私たちの体や思考、心は、生まれてからクリスチャンになるまでの間、罪深い心の影響を受け続けていました。その傷—つまり、罪深い行動のパターン—は今も私たちの内に残り、私たちはその影響を感じ続けています。

要するに、罪深い心は死にましたが、その影響はまだ生きています。そして、私たちはこの世に生きている限り、その傷が残る中で、罪の影響のもとにある者なのです。

このように考えると、パウロの言葉がより理解しやすくなるのではないでしょうか。

本当の私は、もはや罪を犯したくはありません。神様に反抗する罪深い心はすでに死んだからです。だからこそ、今、心の中では正しいことを行いたい、神様を喜ばせたいと願っています。

それでも、罪の傷はまだ残っています。罪を犯す傾向が根強く残っているのです。罪深い心は死にましたが、その影響はまだ私たちに残っています。そのため、善を行いたいと願いながらも、それを実行できないのです。

私は相手を許したいと思っているのに、どうしてもできません。自分の子供に対して忍耐を持ちたいと願っているのに、うまくいきません。

では、私は何を伝えたいのでしょうか。この世に生きている限り、希望はないのでしょうか。私たちは、生きている限り、罪との戦いに敗北し続けるのでしょうか。

決して、そうではありません。次回の記事で、このことについてさらに深くお話しします。

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私たちの罪深い心が本当に死んでいるだろうか

ローマ書6章と7章を読んだとき、私は自分自身にさまざまな疑問を問いかけました。その中の一つが、「私たちの罪深い心は本当に死んでいるのだろうか?」という問いです。

この問いにどう答えるかによって、ローマ書7章の解釈が変わります。特に、14節から25節の理解に大きな影響を及ぼします。

この箇所でパウロは、律法に出会ったとき、自分が律法に従うことができないと気づいたことを告白しています。

では、彼はノンクリスチャンだった頃の経験について話しているのでしょうか。それとも、クリスチャンとしての葛藤を認め、罪との戦いについて述べているのでしょうか。

だから、この箇所を考察する前に、私たちと罪深い心の関係について整理しておきたいと思います。私たちはまだ罪深い心を持っているのでしょうか。

この点については、聖書学者たちの間でも議論が続いています。

私の意見が正しいかどうかはわかりませんが、ひとまずここで述べておきます。(もしかすると、10年後には意見が変わっているかもしれません。)

私が以前言ったように、「罪深い心」と言うと、私は神様に反抗する生まれつきの態度について話します。

私たちは生まれたときからその態度を持っていて、年を重ねるごとに、その態度は私たちの考えや行動に浸透していきます。そして、最終的にその態度が私たちを定義することになりました。

悪い伝染とゾンビの話を覚えていますか?ゾンビウイルスが人に感染すると、やがてそのウイルスがその人のアイデンティティを支配し、最終的にその人はゾンビになってしまいます。

同じように、私たちが無垢な赤ちゃんのときに罪深い心は私たちに伝染し、やがて本格的な罪人になっていきます。

けれども、私たちが救われたとき、何が起こったのでしょうか?その罪深い心は十字架につけられ、死にました。そして今、私たちはイエス様と「結婚」しています。それでも罪が残した影響を見ることができます。

考えてみてください。ある女性が夫に虐待されました。そのため、彼女は肉体的な傷や精神的な傷を持っています。そして、その夫が亡くなります。彼はもう積極的に彼女を傷つけることはできません。

それにしても、彼の過去の行為は今でも彼女に影響を与えています。彼女の肉体的な傷や精神的な傷がまだ残っているからです。

さまざまな意味で、その夫とその行為はその妻の人生を形作りました。だから、将来別の男性と関係を築こうとする時、彼女は元夫の悪い影響を感じるでしょう。

例えば、虐待する人と関係を持ってしまうかもしれません。

または、誠実な男性に出会ったとしても、彼女はその人を完全には信頼できないかもしれません。その結果、彼の愛に心から応じることができなくなるでしょう。

けれども、時間と癒し主の働きによって、彼女はその悪い影響から解放され、癒されるのです。

同じように、私たちの死んだ罪深い心も私たちに深い影響を残します。

その罪深い心が生きている間、神様に信頼せず、反抗していました。そして、それは私たちにそのような態度を持つように根付かせました。

そのため、私たちの思考や肉体には罪の傾向が刻まれました。その罪深い心が、かつての私たちの本質を定義していたのです。

しかし、私たちがクリスチャンになった時、その罪深い心は消え去りました。それでも、その影響はまだ私たちの中に残っています。私たちは人生を通じて、その残された影響と戦い続けていくのです。

だから、私たちクリスチャンは、自分の罪深い心が死んだと言うことができます。つまり、私たちはもはや意図的に神様に反抗せず、むしろ神様に従いたいと願うようになりました。

それでもなお、罪深い心の残された影響を感じることがあります。それらの影響は今も私たちの中に存在しています。

とはいえ、罪深い心はすでに死んだため、もはや私たちを支配したり、悪い影響を及ぼしたりすることはできません。そして、私たちの偉大な癒し主—イエス様が、私たちを完全に癒してくださいます。

これから数日間にわたって、このことについてさらに深く考えていきましょう。

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罪の悪さ

ローマ人への手紙7:5で、パウロは「私たちが罪深い心と結びついている間、律法によって罪の欲情がかき立てられた」と述べています。

ここで当然生じる疑問は、「では、律法は悪いものなのか。律法は罪なのか」ということです。

「なぜなら、律法によって私たちの罪の欲情がかき立てられるのだから、律法のせいで私は罪を犯してしまうのではないか?」

しかし、パウロはこの問いにこう答えます。

決してそんなことはありません。むしろ、律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。

実際、律法が「隣人のものを欲してはならない」と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょう。(ローマ人への手紙7:7)

要するに、律法は良いものです。律法は罪ではありません。むしろ、律法を通して、私たちは罪を認識することができます。その知識によって、私たちは罪を避けることができるのです。

では、問題は何でしょうか。

しかし、罪は戒めによって機会をとらえ、私のうちにあらゆる欲望を引き起こしました。(8a)

この箇所で、パウロは罪を擬人化しています。このたとえにおいて、罪は律法を見ると、こう言います。「ああ、神様はこんな行為を嫌っておられるのか?」

そして、罪は私たちの罪深い心にささやきます。「神様の律法に違反しよう。」

私たちの罪深い心には、すでに神様に反抗する傾向があるため、喜んで律法に違反します。

次に、パウロはこう言います。

律法がなければ、罪は死んだものです。(8b)

それは非常に重要な真理です。私たちは存在しない律法に違反することはできません。たとえ悪いことをしてしまうとしても、律法がなければ、神様はその違反に対して私たちを裁くことはできません。

律法がなかった時代、神様はただ一つの理由で人を裁かれました。それは、彼らが神様に背を向け、自分の道を歩もうとしたことです。実は、その態度こそが、すべての罪の根源なのです。

けれども、そのあと、神様はモーセを通して、私たちに律法を示してくださいました。

そして、その律法を通して、神様は人々に命への道を示されました。つまり、彼らは神様がどのようなお方なのかを知り、また、神様が人間をどのように造られたのかを理解することができました。

では、神様がイスラエルの民に律法を与えられたとき、彼らはどのように反応したでしょうか。「これは命への道なのか。良かった。それに従おう」と言ったでしょうか。

いいえ、そうではありません。パウロはこう述べています。

私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たとき、罪は生き、私は死にました。

それで、いのちに導くはずの戒めが、死に導くものであると分かりました。(9-10)

なぜでしょうか。

罪は戒めによって機会をとらえ、私を欺き、戒めによって私を殺したのです。(11)

要するに、戒めが与えられると、戒めに違反する可能性が生まれました。そして、罪は生き、私たちを欺いたため、私たちはその戒めに違反しました。だから、私たちは裁かれました。

以前述べたように、この話ではパウロは罪を擬人化しています。とはいえ、罪は実際には人ではありません。

また、パウロが「罪」と言うとき、サタンについて触れているわけではないと思います。(もっとも、もちろんサタンは私たちを誘惑しようとします。)

パウロの要点は、神様が律法を示されたとき、律法に違反する機会も生じたということです。そして、私たち全員が罪深い心を持っているため、その機会を見たとき、罪を犯してしまいました。

その結果は何でしょうか。それは死です。

パウロはこの話を次のようにまとめています。

ですから、律法は聖なるものです。また戒めも聖なるものであり、正しく、また良いものです。(12)

簡単に言えば、「律法が問題なのではありません。律法は良いものです。問題はあなたにあります。あなたは律法に違反したため、死に値するのです。」ということです。

そして、パウロはこう問いかけます。

それでは、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。(13a)

つまり、「パウロ、あなたは律法が良いものだと言うけれど、その律法によって私は裁かれ、死ななければならないのなら、それは本当に良いことなのだろうか?」という疑問です。

パウロはこのように答えます。

決してそんなことはありません。むしろ、罪がそれをもたらしたのです。

罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされました。

罪は戒めによって、限りなく罪深いものとなりました。(13b)

パウロは何を伝えようとしているのでしょうか。彼はこう言っています。

「今になってようやく、あなたは罪がどれほど悪いかを理解するのです。罪は良いものを歪め、悪い結果をもたらします。律法はいのちへの道を示しますが、罪は律法を通して人々を滅ぼしました。」

考えてみれば、罪は常に良いものを歪めます。

例えば、セックスは本来とても良いものです。セックスを通して夫婦は互いに愛を表し合い、子供を授かることができます。

けれども、罪がセックスを歪めたため、私たちの社会には、レイプや姦淫、ポルノが存在するのです。

律法の重要な役割の一つは、私たちに罪の本質的な悪さを理解させることです。それを理解できなければ、人々は自分に救い主が必要であることを決して悟ることができません。

だからこそ、私たちは律法を必要とするのです。

あなたはどうでしょうか。罪の本当の恐ろしさを理解しているでしょうか。

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ローマ人への手紙

イエス様と結びついていること

以前述べたように、パウロは結婚の比喩を用いて、二つのポイントを描写しようとしました。

私たちはすでに最初のポイントを見ました。それは、私たちがイエス様と共に死ぬと、律法は私たちに対する力を失うということです。同様に、死によって、結婚の律法は夫婦に対する効力を失います。

前回の記事で私は、パウロがこのポイントを描写する際、私たちを死んだ夫と比べるのが自然な流れであると述べました。

つまり、夫が亡くなると、律法は彼に対する効力を失います。同じように、私たちはキリストと共に死んだので、律法は私たちに対する効力を失ったのです。

けれども、実際には、パウロは夫の死がどのようにして妻を結婚の律法の支配から解放するかについて、詳しく語っています。

そのため、この比喩は少し分かりにくくなります。パウロは、私たちを死んだ夫とは比較せず、まだ生きている妻と比較しています。

しかし、彼が結婚の比喩をこのように用いることによって、パウロは第二のポイントを説明することができました。そのポイントとは何でしょうか。

それは、私たちがクリスチャンになる前、別の夫と結婚していたということです。けれども今、私たちはイエス様と結びつけられています。

このポイントを描写するために、パウロはイエス様を新しい夫として描き、私たちを妻として描いています。では、この比喩において、私たちはかつて誰と結婚していたのでしょうか。その死んだ夫とは誰でしょうか。

私は以前述べましたが、死んだ夫は律法ではありません。なぜなら、パウロは律法が廃されるとは教えていないからです。今でも、律法は重要な役割を持っています。律法は私たちに、何が善で何が罪かを示します。(ローマ人への手紙7:7)

では、私たちは誰と結びついていたのでしょうか。おそらく、パウロは私たちの罪深い心を指しているのでしょう。

私たちがクリスチャンになる前、私たちの心は神様に反抗し、自分の道を歩みたいと願っていました。生まれたときから、私たちはその心と結びついていました。

そして、その「結びつき」によって、私たちはどのような実を結んでいたでしょうか。私たちは、死に至る実を結んでいたのです。(ローマ人への手紙7:5)

さらに、私たちが罪深い心と結びついている限り、私たちはイエス様と結びつくことができませんでした。

しかし、神様が私たちを救ってくださったとき、神様は私たちの罪深い心を十字架につけ、死に渡されました。

では、罪深い心が死んだことによって、何が起こったのでしょうか。

第一に、律法が私たちに対する力を失ったことです。夫が亡くなると結婚の律法が妻に対する効力を失うように、私たちの罪深い心が死ぬと、神様の律法は私たちに対する力を失います。

第二に、私たちの罪深い心が死んだことによって、私たちはイエス様と結びつくことができるようになったのです。

そして、私たちはイエス様との結びつきによって、もはや死に至る実を結びません。むしろ、永遠の命に至る実を結びます。

だからこそ、救いの道はイエス様だけなのです。

神様に反抗する心と結びついている限り、私たちは永遠の命に至る実を結ぶことができません。罪深い心が私たちに植え付ける種は死へと向かいます。

それに対して、イエス様が私たちに植え付ける種は永遠の命へと至ります。

あなたは誰と結びついているでしょうか。

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恵みの管轄

前回の記事で、私は、この箇所でパウロが結婚の比喩を使っているが、その使い方が少しちぐはぐだと述べました。彼はこの比喩を通して、「死によって律法が人に対する力を失う」という真理を描写しています。

パウロの比喩では、夫の死によって、結婚の律法はその妻に対する効力を失いました。

そして、パウロは「私たちが死んだので、律法は私たちに対する効力を失った」と言います。

しかし、パウロは私たちを比喩に登場する夫ではなく、まだ生きている妻と比べています。

なぜでしょうか。

考えてみてください。夫が死んだとき、律法はその夫婦に対する力を失いました。けれども、どちらの方がより影響を受けたでしょうか。夫でしょうか。違います。妻の方が影響を受けました。

夫が死ぬ前、律法によって彼女は夫と結ばれていました。彼女に対して、律法は権限を持っていました。

けれども、夫が亡くなると、律法は彼女に対する権限を失いました。その法律はもはや彼女には関係がありませんでした。

言い換えると、夫が亡くなったとき、彼女も別の意味で死んだのです。彼女は結婚の律法の権限に対して死にました。だから、彼女は別の人と結婚してもよいのです。

この話から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

私たちがクリスチャンになる前、神様の律法は私たちに対して権限を持っていました。その律法は私たちにこう命じました。

「神様の戒めに従いなさい。そうしないと、あなたは死にます。」

しかし、大きな問題がありました。完全に戒めを守ることができる人は、誰ひとりいませんでした。そのため、私たちは皆、処刑を宣告されていたのです。

けれども、神様はイエス様をこの世に送ってくださいました。そして、イエス様は私たちにはできないことを成し遂げてくださいました。イエス様は神様の律法を完全に守り、十字架の上で私たちの罪の罰を身代わりとして受けてくださいました。

だから今、神様は私たちを受け入れてくださいます。なぜでしょうか。私たちが律法を守るからでしょうか。違います。私たちがイエス様とその十字架の働きを信じるからです。

今や、私たちは律法の管轄下にありません。私たちは恵みの管轄下にあります。私たちは律法には関係がありません。なぜなら、私たちは律法に対して死んだからです。

したがって、私たちは律法に従うことに焦点を当てません。むしろ、イエス様と結びつき、私たちは毎日、聖霊に導かれています。

その結果は何でしょうか。私たちは永遠の命に至る義の実を結びます。律法の下では、私たちはそのような実を結ぶことができませんでした。

私たちはその真理を本当に理解できているでしょうか。

多くのクリスチャンは恵みの管轄下にあるにもかかわらず、まるで律法の管轄下にあるかのように生きています。

彼らは、神様に受け入れられるためには、完全に律法を守らなくてはならないと思っています。律法を守らなければ罰せられると恐れるあまり、彼らはいつも神様を怖れています。

しかし、心に留めておきましょう。私たちはもう律法の管轄下にありません。私たちは、私たちを愛し受け入れてくださるイエス様と結びつけられています。

だから、神様を恐れずに生きましょう。神様の基準を満たせるかどうかを心配するのではなく、むしろ、イエス様の愛を喜び、その愛をイエス様にお返ししましょう。それが恵みによる生活です。

あなたはどうでしょうか。あなたは恵みの管轄下にあるでしょうか。それとも、律法の管轄下にあるかのように生きているでしょうか。

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破れた力

この箇所を初めて読んだとき、私は本当に混乱しました。というのも、パウロは自分のポイントを説明するために、結婚の比喩を用いました。けれども、パウロは結婚の比喩をちぐはぐな形で用いています。

つまり、パウロは私たちと律法との関係や、私たちと神様との関係について語る際に、結婚の比喩を用いたのです。

その比喩では、ある男性が亡くなったことで、結婚の律法は妻に対してもはや効力を持たなくなりました。

つまり、その律法によれば、夫が生きている間、彼女は別の人と結婚することができませんでした。しかし、彼が亡くなると、彼女は別の人と結婚することができたのです。

そこで、私はこう考えました。

「この比喩では、夫は誰なのか。妻は誰なのか。

パウロによれば、私たちは律法に対して死にました。ということは、私たちが夫で律法が妻なのだろうか。

いや、違う。なぜなら、この比喩では、夫が死ぬと妻は別の人(つまりキリスト)と結婚できる。

もしそうなら、律法がキリストと結婚することになるのか?それはナンセンスです。

さらに、パウロが言っているのは、私たちがキリストと結婚するということなのです。

では、律法が夫で、私たちは妻なのでしょうか。いや、違います。パウロは律法が死ぬとは言っていません。むしろ、私たちが死んだと言いました。」

最終的に、私たちはパウロの比喩の使い方にあまり拘りすぎない方がよいでしょう。

パウロはあるポイントを伝えたいと思っていました。たとえその比喩の使い方がちぐはぐであったとしても、私たちはその比喩そのものに拘るのではなく、パウロの伝えたかった要点を理解しようとすべきです。

では、パウロの要点とは何でしょうか。

「死によって、人に対する律法の力が破られます。」

つまり、結婚の場合、夫の死によって、その妻に対する結婚の律法の力は無効になります。

私が以前言ったように、夫が生きている間は、律法によって、彼女は別の人と結婚することができませんでした。けれども、夫が亡くなると、その律法は彼女に適用されなくなり、彼女は別の人と結婚することができるのです。

私たちの場合、私たちは別の律法の下にありました。それは神様の律法です。

その律法は、何が善で何が悪かを示していました。そして、その律法のもとで私たちは罪を犯すと裁かれました。

さらに、私たちの罪によって、神様から離れてしまい、神様との関係を持つことができませんでした。

しかし、キリストにあって、私たちは死にました。ローマ書6章に、私たちはそのことを読みました。

イエス様が十字架で死んだとき、私たちはイエス様と共に死にました。そして、イエス様は私たちを新しい人として復活させてくださいました。(6:3-7)

バプテスマはこの真理を象徴するものです。水はお墓を象徴しています。そして、私たちが水に沈むとき、それは霊的な真理を表します。

私たちの古い人生—つまり、自分のために生きる私たち、また、神様に反抗する私たちは死にました。そして、私たちは新しい人として復活するのです。

私たちは神様に従いたいのです。そして、これから神様のために生きたいのです。

それでもなお、もっと大切なのは、聖霊様を通して神様が私たちのうちに住んでおられることです。神様は私たちに、御自分を喜ばせたいという望みを与え、さらにその望みを実現する力を与えてくださいます。

では、パウロのポイントに戻りましょう。

私たちはイエス様と共に死んだので、神様の律法はもはや私たちに対して力を持ちません。

私たちと神様との関係は、私たちが律法を守ることに基づくものではなく、神様の恵みとイエス様の十字架の働きに基づいています。

律法は、もはや私たちを裁くことができません。なぜなら、イエス様が私たちの罪の罰を、すでに身代わりとして受けてくださったからです。

たとえ私たちが罪を犯しても、律法はもはや私たちを神様から引き離すことはできません。むしろ、イエス様にあって、私たちは神様との関係を持っています。

イエス様と教会の関係が、新郎と新婦の関係として描写されているのは、偶然ではないと思います。

教会の一員として、私たちはイエス様と結びつけられています。そして、私たちはイエス様のために実を結びます。

もちろん、これは文字通りの子どもを生むという意味ではありません。

けれども、私たちが霊的な実を結ぶことによって、つまり、神様の愛と福音を分かち合うことによって、神様の国は広がっていきます。

この真理に思いを巡らし、喜びましょう。

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本当の自由

どうして多くの人々は神様に従わずに、逃げるのでしょうか。もしかしたら、彼らは「自由」を求めているのかもしれません。

しかし、彼らにとって「自由」とはどういう意味でしょうか。おそらく、彼らは好き勝手に生きたいと思っているのでしょう。

彼らはこのように考えます。

「神様に従うと、好き勝手に生きることができない。むしろ、私はいろいろなルールに従わなくてはならないのだろう」

おそらく、パウロの時代でも、多くの人々は同じように考えたでしょう。だからこそ、彼らはこう問いかけました。

「恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか。」

あるいは、「私たちは律法の下ではなく、恵みの下にあるのだから、罪を犯してもよいのではないでしょうか。」

けれども、本当の自由とは、好き勝手に生きることなのでしょうか。それとも、本当の自由には、まったく異なる意味があるのでしょうか。

私は、本当の自由には、まったく異なる意味があると思います。

少し考えてみてください。

日本に住んでいるアメリカ人として、私にとっての課題の一つは、電化製品を購入する際、その説明書が日本語で書かれていることです。なぜなら、私には日本語の読み書きがとても難しいからです。

だから、このブログの記事を掲載する前に、私の妻はいつも編集してくれます。(本当に感謝しています。)

とにかく、4年前、私はブルーレイ・プレイヤーを購入し、テレビやケーブルモデムに接続しようと思いましたが、日本語の説明書がよく理解できませんでした。だから、私は混乱し、正しく接続するのに何時間もかかりました。

けれども、私が説明書を使わなかった言い訳がありました。それは、その説明書の漢字や専門用語が理解しにくかったからです。

その一方、多くの日本人(特に男性たち)は、ブルーレイ・プレイヤーやコンピューターをセットする際、「説明書は要らない。私は何とかできる」と思います。

その結果、私と同じようにフラストレーションを感じることになります。それは本当の自由なのでしょうか。

神様は私たちにこう言われます。「私はこのように人間を創造しました。このように生きるなら、あなたの人生はうまくいくでしょう。私に信頼するならば、あなたは祝福されます。」

しかし、多くの人々はこう答えます。「いや、あなたの言葉は必要ありません。私は自分の方法に従っても、すべて何とかなるでしょう。」

けれども、彼らが自分の道に従うと、結婚や親子関係、その他の人間関係を壊し、自分の健康や人生をめちゃくちゃにしてしまい、最終的にフラストレーションを感じることになります。

彼らが求める幸せを手に入れることはできません。それは本当の自由なのでしょうか。

だから、パウロはこう言いました。

あなたがたは、罪の奴隷であったとき、義については自由にふるまっていました。

ではそのころ、あなたがたはどんな実を得ましたか。今では恥ずかしく思っているものです。それらの行き着くところは死です。(ローマ人への手紙6:20-21)

つまり、神様から離れたとき、好き勝手に生きる自由を持ちましたが、その自由はどこへ導いたでしょうか。それは恥へと至りました。そして、その自由はあなたを滅ぼしてしまいました。

しかし、私たちの人生を神様に委ね、神様の導きに従うならば、どうなるのでしょうか。

(あなたは)罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得ています。その行き着くところは永遠のいのちです。(22)

つまり、私たちの人生は完全なものとなります。永遠の命は天国で始まるのではなく、この地上で始まります。

神様に従うならば、私たちは豊かな人生を歩み始めます。なぜなら、神様は私たちをどのように創造されたかをご存じであり、私たちはその創造の意図に従うからです。

それこそが、本当の自由なのです。

では、自由の鍵は何でしょうか。それは、神様に信頼することです。

私たちは、神様が最も良い生き方をご存じであると信じます。また、神様が私たちの最善を望んでおられることを信じます。

だからこそ、私たちは毎日、自分の人生を神様にささげます。そうすることで、本当の自由を見つけるのです。

あなたはどうでしょうか。本当の自由を見つけたのでしょうか。

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惨めな人生に本当に戻りたいの?

パウロがこの言葉を書いたとき、彼は出エジプトの物語を思い起こしていたことでしょう。

第一コリント10章では、パウロはこの話に言及し、イスラエル人が紅海を渡る出来事をバプテスマになぞらえました。

この箇所でも、さまざまな意味でパウロの言葉は、イスラエル人がエジプトから救い出された経験を反映しています。彼らはエジプトで死の危機に瀕していました。彼らは奴隷として惨めな人生を送っていたのです。

イスラエルの子らは重い労働にうめき、泣き叫んだ。重い労働による彼ら叫びは神に届いた。(出エジプト記2:23)

そして、神様は彼らを救い出してくださいました。けれども、荒野を旅する中で、彼らはいくつもの試練に直面し、不満を言い始めました。

エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、われわれは主の手にかかって死んでいたらよかったのだ。(出エジプト記16:3)

その後、神様が彼らに与えると約束された地に入る直前、彼らの信仰は揺らぎました。そして、「エジプトの方がいいです。新しいリーダーを選んで、エジプトに帰りましょう。」と言ったのです。(民数記14:3-4)

この箇所では、パウロも同じような状況に直面しました。

彼は、「罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました」と言いました。

けれども、パウロの経験では、このようなことを語ると、ある質問が必ず出てきました。だからこそ、彼はこう言ったのです。

それでは、どのように言うべきでしょうか。恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか。(ローマ人への手紙6:1)

彼の答えは?

決してそんなことはありません。(2)

その後、パウロは、クリスチャンたちが律法の下ではなく、恵みの下にあると言いました。だからこそ、もう一度パウロは、よく聞かれる質問を取り上げます。

では、どうなのでしょう。私たちは律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから、罪を犯そう、となるのでしょうか。(15)

もう一度、パウロは答えました。

決してそんなことはありません。(15b)

なぜでしょうか。パウロはこのように説明しました。

罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおも罪のうちに生きていられるでしょうか。

それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。

それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。(2-4)

つまり、私たちは以前は罪の中に生きていました。しかし、クリスチャンになると、そのような生き方に対して死んだのです。

むしろ、今や私たちは新しい人となり、より良い人生を歩んでいます。今や私たちは神様との関係を持っています。(10)

それならば、なぜ古い人生に戻りたいのでしょうか。

それでも、多くのクリスチャンたちはイスラエル人のようです。彼らは紅海を渡ったとき、奴隷の人生に対して死にました。彼らは新しい人となりました。新しい人生を歩む自由を持っていました。勝利のある人生を歩む自由を持っていました。

それにもかかわらず、彼らは「古き良き時代」を懐かしみ始めました。彼らはエジプトのおいしい食べ物を思い出しました。そして、彼らは奴隷としての惨めな人生を忘れ、「エジプトに帰りましょう」と思ったのです。

罪は本当に欺瞞的なものです。私たちはすぐに罪の快楽を思い出しますが、罪がもたらす惨めさを忘れてしまいます。

だから、パウロはこう言いました。

あなたがたは、罪の奴隷であったとき、義については自由にふるまっていました。ではそのころ、あなたがたはどんな実を得ましたか。

今では恥ずかしく思っているものです。それらの行き着くところは死です。(20-21)

つまり、「あなたは罪に支配される人生に戻りたいのですか。そんな人生の惨めさをもう忘れてしまったのでしょうか。そのような人生は恥に至り、さらには死に至りました。本当にそんな人生に戻りたいのですか。」

だから、パウロはこう言いました。

また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。

むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。(13)

なぜ、私たちはそのようにすべきなのでしょうか。

(あなたは)罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得ています。その行き着くところは永遠のいのちです。(22)

私たちの命を神様にささげると、私たちの人生は聖なるものになります。言い換えると、私たちは神様の計画通りに生き始めます。私たちの人生は健全なものとなり、私たちは真の命を得るのです。

けれども、最も素晴らしいことは、この賜物が無償であるということです。その賜物の価値を正しく理解するならば、私たちは決して死に至る人生に戻ることはないでしょう。

罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(23)

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満ち溢れる恵み

この箇所は二つの真理を示しています。

第一の真理は律法の限界、第二の真理は恵みの力です。

パウロはこう言いました。

律法が入って来たのは、違反が増し加わるためでした。(ローマ人への手紙5:20)

それは少し奇妙に聞こえるかもしれません。人の罪を増やすことが神の律法の目的なのでしょうか。

けれども、13節を読むと、パウロの意図がより明確になります。

実に、律法が与えられる以前にも、罪は世にあったのですが、律法がなければ、罪は罪として認めらないのです。(13)

律法が存在する前に、人々は悪いことをしました。しかし、人々が神様の基準を知らないかぎり、その基準によって裁かれることはありません。それでも、神様に背を向けたため、そのことによって彼らは裁かれました。

さらに、自分の良心や律法に反したため、彼らの良心や律法が神様の基準に一致しているかぎり、彼らは裁かれました。(ローマ2:14-15)

けれども、彼らの良心や律法は不完全でした。それらは汚れた鏡のようでした。

だから、神様はご自身の律法を人々に与えてくださいました。その律法によって、人々は何が良いことであり、何が悪いことなのかをはっきりと知るようになりました。

ところが、人々がその律法を知るにつれて、罪は増えました。なぜなら、彼らは意図的に神様の律法に違反し始めたからです。

これこそが律法の限界です。律法は私たちを良い人に変えることはできません。むしろ、私たちは罪を知ることで、責任が増します。

それに、私たちは罪人の心を持ち、神様に逆らうため、その律法を見ると、罪をさらに犯したくなるのです。

その結果は何でしょうか。死です。

けれども、良い知らせがあります。

しかし、罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。

それは、罪が死によって支配したように、恵みもまた義によって支配して、私たちの主イエス・キリストにより永遠のいのちに導くためなのです。(20b-21)

ある人々はこう思うかもしれません。

「どうして神様は律法を与えられたのでしょうか。私たちの責任が増えれば増えるほど、私たちの罰は厳しくなります。

それを知っていても、神様の律法は私たちに与えられました。それは厳しすぎるのではないでしょうか。神様はただ罰したいのでしょうか。」

パウロはそのように考えませんでした。なぜなら、どんなに罪が増えても、イエス様を救い主として受け入れる人に対して、恵みは満ち溢れるからです。神様の恵みが覆うことのできない罪は、何ひとつないのです。

さらに、人がどんなに悪くても、神様の恵みはその人を変えることができます。パウロは、「恵みもまた義によって支配する」と言いました。

もちろん、恵みによって神様が私たちを見てくだされば、「この人は無罪だ」と言われます。

しかし、それだけではなく、神様の恵みによって私たちは新しい心を受けます。その新しい心を受けることで、私たちは自然に良いことを行い始めます。私たちの考え方、行い、言葉は神様を喜ばせます。

言い換えると、私たちは神様の目には義人として認められるだけでなく、実際に義人とされるのです。究極的に、神様が私たちの内に働かれることによる結果は、永遠のいのちです。

だからこそ、恵みは驚くべきものです。どんなに悪い状態でも、神様の恵みはあなたを変えることができます。あなたがすべきことは、ただその恵みを受けることです。

あなたはどうでしょうか。神様の恵みを本当に知っていますか。

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良い伝染

「良い伝染」という表現を作ったと言いたいところですが、実はC.S.ルイスがこの表現を生み出しました。

(もし、ルイスの『キリスト教の精髄』をまだ読んでいないなら、ぜひおすすめします。)

さて、昨日私たちは「悪い伝染」について話しました。つまり、アダムを通して私たち皆に罪が伝染しました。

私たちは自分の罪によって罪人になるのではなく、罪人として生まれたために罪を犯すのです。

けれども、イエス様を通して良い伝染がもたらされます。パウロはこう書きました。

しかし、恵みの賜物は違反の場合と違います。

もし一人の違反によって多くの人が死んだのなら、神の恵みと、一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物は、なおいっそう、多くの人に満ちあふれるのです。

また賜物は、一人の人が罪を犯した結果とは違います。

さばきの場合は、一つの違反から不義に定められましたが、恵みの場合は、多くの違反が義と認められるからです。

もし一人の違反により、一人によって死が支配するようになったのなら、なおさらのこと、恵みと義の賜物をあふれるばかり受けている人たちは、一人の人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するようになるのです。

こういうわけで、ちょうど一人の違反によってすべての人が不義に定められたのと同様に、一人の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられます。

すなわち、ちょうど一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、一人の従順によって多くの人が義人とされるのです。(ローマ人への手紙5:15-19)

要するに、アダムを通して罪が伝染したため、多くの人々が死にました。しかし、イエス様を通して恵みと義が伝染したため、イエス様を受け入れた人々は永遠の命を受けます。

言い換えると、アダムを通して罪が私たちに伝染し、私たちが裁かれたように、イエス様を通して義が私たちに伝染したため、私たちは義と認められました。

さらに、その良い伝染を通して、私たちはまったく別の人になりました。

けれども、幸いなことに私たちはゾンビにはなりません。むしろ、私たちは新しい本性を受けます。つまり、私たちは義人の本性を受けるのです。

だからクリスチャンは、自分の良い行いによって義人になるわけではありません。むしろ、イエス様にあって私たちが義人とされたため、自然に良いことをし始めます。

だから、パウロはこう書きました。

ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。

古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(第二コリント5:17)

要するに、イエス様にあって、私たちは真に生き始めます。

私たちを通して、周りの人々にも神様の義が伝染するように。そうすれば、彼らも真に生き始めます。

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悪い伝染

私はこの箇所の要点はおおよそ理解できますが、パウロの言葉を完全に把握するのは少し難しいです。

最も分かりにくいのは、私たちの罪との関係です。つまり、次の問いかけに向き合うことになります。

「私たちは罪を犯してから罪人となるのでしょうか。それとも、もともと罪人だからこそ罪を犯すのでしょうか。

また、私たちは罪を犯すゆえに裁かれるのでしょうか。それとも、私たちの罪深い本性のゆえに裁かれるのでしょうか。」ということです。

パウロによれば、私たち皆はもともと罪人であるため罪を犯し、また私たちの罪深い本性のゆえに裁きに値します。

パウロはこう言います。

こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がった。。。(ローマ人への手紙5:12)

この箇所の内容は分かりやすいです。パウロによれば、エデンでアダムが罪を犯すと、罪が世界に入りました。そして、その罪によって死がこの世界に入りました。

アダムは死に、エバも死にました。彼らの子孫はすべて死にました。今なお、すべての人々は最終的に死に至ります。

この箇所の最後の部分は少し分かりにくいです。パウロは、「すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がった」と言いました。

それを読むと、多くの人々はこう考えます。「では、人は自分の犯した罪のために死ぬのだろうか。」

その説明はある程度正しいですが、完全ではありません。もちろん、長く生きる人は皆罪を犯し、その罪のゆえに裁かれます。私たち全員が死ぬことに値します。

けれども、赤ちゃんが死んだら、何の罪のために死んだのでしょうか。死産児はどうでしょうか。彼らには良心もなく、善悪の意識もありません。彼らは自分の犯した罪のために死んだのでしょうか。

パウロは、間接的にこのことについて語ります。

実に、律法が与えられる以前にも、罪は世にあったのですが、律法がなければ罪は罪として認められないのです。

けれども死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪と犯さなかった人々さえも、支配しました。アダムは来たるべき方のひな型です。(13-14)

つまり、アダムの時代からモーセの時代までは、神様からの律法は存在しませんでした。神様はアダムに戒めを与えられましたが、その子孫には戒めを与えられませんでした。

そのため、神様は人々に「あなたは私の律法に違反した」と言われることはできませんでした。それでも人々は死にました。なぜでしょうか。

それは、アダムの罪が私たち皆の心の中にあるからです。その罪とは何でしょうか。私たち皆は神様に逆らい、それぞれ自分の道を歩みます。そして、それは生まれつきの性質なのです。

だからこそ、パウロが「すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がった」と言ったとき、彼はアダムが罪を犯した結果、私たち皆が罪人となったことに触れています。私たちにはアダムの罪深い本性が受け継がれています。

少し異なる表現を使うなら、罪は伝染病のようなものです。アダムの罪は私たち皆に伝染しました。

では、どのようにしてアダムの罪が私たちに伝染したのでしょうか。それは分かりません。けれども、人類の歴史を見れば、その真理が明確に示されています。

イエス様以外に、完全に罪のない人は誰もいません。私たち皆は罪を犯します。

私たちは罪を犯してから罪人になったのではなく、罪人だからこそ罪を犯すのです。罪人は自然に罪を犯します。私たち皆は罪人であり、死ぬことに値します。

それは非常に憂鬱な真理ですが、次の記事で良い知らせが語られます。

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神様は私を罰しておられるでしょうか

前回の記事で、私は6-8節について話しましたが、その箇所を文脈に戻した方がよいと思います。そうすることで、私たちはパウロの主張をより明確に理解できるでしょう。

パウロが言ったのは、私たちは苦難さえも喜ぶということです。なぜなら、その苦難は忍耐を生み出し、忍耐は練られた品性を生み出し、その品性は希望を生み出すからです。

しかし、多くのクリスチャンは苦難に直面すると、喜びません。むしろ、苦々しい思いを抱きます。忍耐を持たずにあきらめ、希望を持たずに絶望してしまいます。

なぜでしょうか。

多くの人々は、神様が彼らを罰していると思っているからです。彼らが失敗したために、神様が怒り、彼らを苦しませているのだと考えています。

さらに、時々彼らはそう感じますが、なぜ神様が彼らを罰しておられるのか分かりません。だから、その罰が不公平だと感じるのです。

では、パウロは何と言っているのでしょうか。

「神様があなたを罰しておられるという考え方を捨てなさい。」

パウロはこう説明します。

「少し考えてみてください。あなたがクリスチャンになる前、あなたは神様に背を向け、数多くの罪を犯しました。それでもイエス様はあなたのために死んでくださいました。

イエス様は、あなたの悔い改めを待っておられませんでした。あなたが自分自身を清めるのを待っておられませんでした。

あなたがイエス様を求める前に、イエス様はすでにあなたをお探しになり、手を伸ばしておられました。

ルールにこだわる人のために命を捨てる人はほとんどいないでしょう。優しい人のために命を捨てる人はいるかもしれません。

しかし、あなたが神様のルールに背き、神様や周りの人々を傷つけたにもかかわらず、神様はあなたを愛してくださいました。

神様はあなたのために御子を送り、イエス様があなたのために死なれました。

神様がこれほどのことをしてくださったのに、どうして神様があなたを罰しておられると思うのでしょうか。」

パウロはこう言いました。

ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方(つまり、イエス様)によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。

敵であった私たちが、御子の死によって、神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが御子のいのちによって、救われるのは、なおいっそう確かなことです。(ローマ人への手紙5:10-11)

つまり、神様の目には、私たちはすでに義と認められています。では、どうして「神様は私を罰している」と思うのでしょうか。私たちはすでに神様の怒りから救われています。

そして、私たちが神様の敵であった時に神様が御手を伸ばしてくださったのなら、今私たちが神様の友である時に、なおさら御手を伸ばしてくださらないでしょうか。

だからこそ、苦難に直面しても、私たちは喜ぶことができます。神様は私たちを罰しておられません。神様は私たちの試練を無視しておられません。

むしろ、神様が私たちを罪から救われたように、試練からも救ってくださいます。

だから、パウロはこう言います。

それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。(11)

あなたは苦難に直面しているでしょうか。神様があなたを罰しておられるのか疑問に思っているでしょうか。

心に留めておきましょう。神様はあなたを罰しておられません。

もし神様に信頼するなら、火の中を歩いても、あなたは焼かれることはありません。むしろ、その火を通して、神様はあなたを清め、強めてくださいます。

だから、諦めないでください。絶望しないでください。むしろ、神様に信頼し続けましょう。

神様はこう言われました。

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(5)

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恵みとは

私は高校生のときにこの箇所を暗記しました。それは何年も前のことですが、今でもよく覚えていて、英語で暗唱することができます。(日本語では難しいですが。)

実にキリストは私たちがまだ弱かったころ、定められたときに、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。

正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。(ローマ人への手紙5:6-8)

私が高校生のときも、今も、その言葉は私の心を打ち続けています。

神様は、私たちができることをしてくださったのではありません。

私たちは自分自身を救うことができませんでした。罪の中で溺れていたのです。私たちは救命浮輪を持たず、船もまったくありませんでした。自分を救う力もなく、それでも神様を求めず、誰かの助けさえ求めませんでした。

それにもかかわらず、私たちが神様に背を向けたのに、神様はイエス様をこの世に送られました。十字架でイエス様は私たちの罪のために死なれ、私たちの罰を受けてくださいました。だからこそ、私たちは神様と和解することができるのです。

パリサイ人のような「正しい人」のために命を捨てる人は、ほとんどいません。 なぜなら、彼らはルールを守っていたかもしれませんが、いつも人を責めていたからです。

しかし、優しい人のために命を捨てる人は、いるかもしれません。

けれども、私たちはルールを守らず、それほど優しい者でもありませんでした。 私たちは神様に反抗し、背を向け、自分の道を歩んでいました。

その結果、神様だけでなく、周りの人々や自分自身をも傷つけました。それでも、神様は私たちに背を向けて捨てることはされませんでした。

むしろ、神様は人間となり、私たちの代わりに死んでくださり、三日目によみがえられました。

これこそが恵みです。私たちは、神様から良いものを受けるに値しませんでした。それどころか、私たちは刑に値する者でした。それでも、神様は私たちを愛し、救われました。

神様を信じる私たちは、その恵みを受けました。私たちは有罪であり、その愛に値しない者でした。罪にまみれ、惨めな者でした。それでも、神様は私たちを救われました。それは、本当に驚くべき恵みです。

Amazing grace,
驚くべき恵み。
How sweet the sound,
その響きはなんと美しいことでしょう。
That saved a wretch like me,
この恵みが、惨めな私を救いました。。
I once was lost,
かつて私は迷っていました。
But now I’m found.
しかし今、神様が私を見つけてくださいました。
Was blind but now I see.
盲目であった私が、今は見ることができます。

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火を通過するとき

時々、聖書を読むと、私は少し首をひねることがあります。この箇所もその一例です。

パウロはこう書きました。

それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ人への手紙5:3-5)

この箇所はよく知られた部分で、私も何度も読んだことがあります。けれども、今回改めて読んでみると、ある疑問が浮かびました。

「苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出す」ということは理解できますが、どうして練られた品性が希望を生み出すのでしょうか。その関係は何でしょうか。

実は、新改訳は英訳よりも明確です。英訳では単に「忍耐が品性を生み出す」と書かれています。

しかし、原語では「品性」という言葉には、試された人というニュアンスがあります。彼らは試練に直面し、それを乗り越えたことで、神様に認められています。

彼らの信仰は単なる知識ではなく、実際に神様の忠実さや愛を経験したものです。

だからこそ、彼らの信仰は強まり、品性も強められました。どんなに困難な試練に直面しても、神様の愛と忠実さに対する確信を持つことで、希望を抱くのです。

だからパウロは、「この希望は失望に終わることがありません」と言えたのです。私たちの希望は、自分自身の身分や品性に基づくものではありません。

むしろ、私たちの希望は二つの確固たる事実によるものです。それらは、神様が私たちを愛し、私たちのうちに住んでおられる聖霊を通して私たちと共におられるということです。

旧約聖書のヨブの話を考えてみましょう。彼は大きな試練に直面しました。彼の財産や子供たちは奪われ、さらに友人たちにも責められました。

それでも、彼は忍耐を持ち続けました。そして、火を通過した後、神様の愛と忠実さをより深く理解し、希望を知ったのです。

あなたはどうでしょうか。どんな試練に直面していますか。その試練のゆえに、神様から逃げないようにしましょう。むしろ、神様に近づきましょう。

そうすれば、あなたは神様の愛と忠実さを経験し、希望を知ることができます。

そして、パウロが言ったように、「この希望は失望に終わることがありません。」

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私たちが今立っている恵み

私はこの箇所を何度も読んだことがあるので、素早く読み通してしまうのは簡単です。けれども、今回は少しゆっくりと、この箇所の言葉をじっくりと考え、噛み締めたいと思います。

パウロはこう言いました。

こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

このキリストによって私たちは信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。

そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。(ローマ人への手紙5:1-2)

神との平和。

私は自分の家庭について考えます。時々、妻と喧嘩すると、雰囲気がとても緊張します。けれども、仲直りすると、平和が訪れます。気まずい沈黙はなくなり、むしろ微笑んだり、笑ったり、会話を楽しんだりすることができます。

イエス様によって、私たちは神様と同じような関係を持つことができます。

神様のみ前で緊張する必要はありません。「神様は私のことをどう思っているだろう」と不安に思う必要はないのです。

むしろ、神様が私たちを受け入れ、愛してくださっていることを知り、神様との交わりを楽しむことができます。

恵みに立つ。

かつて、私たちは神様の裁判所に立ち、神様の裁きを受ける立場にありました。天の父が刑を宣告されるはずでしたが、そのときイエス様が介入し、私たちを別の場所へ導いてくださいました。

今、私たちは恵みに立っています。私たちの罪はすべて赦されました。

それだけではなく、天の父は私たちに好意を持って私たちを見ておられます。私たちは神様の恵みに値しませんが、天の父は私たちを見て微笑み、喜んで良い賜物を与えてくださいます。

だからこそ、私たちが失敗するとき、恐れるとき、必要を抱えるとき、私たちの立場を思い出すべきです。それは恵みです。裁きではなく、恵みです。

だからこそ、私たちは喜びます。私たちは望みを持っています。

なぜなら、イエス様が十字架で私たちの罪のために死なれたからです。イエス様は、私たちが立っている恵みにアクセスできる道を開いてくださいました。

そして、それは私たちだけではなく、イエス様を信じるすべての人に与えられています。

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確固とした確信を持っている?

私は聖書を何度も読んだことがあるので、新しい発見があると、本当にうれしく感じます。

とくに16-17節は、私の心に深く響きました。

そのようなわけで、すべては信仰によるのです。それは、事が恵みによるようになるためです。

こうして、約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。

アブラハムは、私たちすべての者の父です。「わたしはあなたを多くの国民の父とした」と書いてあるとおりです。

彼は、死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ、その御前で父となったのです。(ローマ人への手紙4:16-17)

「死者を生かし、無いものを有るものとして召される神。」

この言葉を深く考えてみると、救いの本質を表していることが分かります。

神様が私たちを救う前、私たちは霊的に死んでいました。罪のために裁かれたのです。しかし、イエス様が十字架で私たちの罪のために死んでくださったことによって、私たちは永遠の命を与えられました。

「無いものを有るものとして召される神。」

この言葉は創造を示しているようです。つまり、神様の思いによって、この世界のすべてが存在するようになったということです。

けれども、アブラハムの物語を読むと、私たちはこの「無いものを有るものとして召される神」という概念をより深く理解できます。神様はアブラハムにこう約束されました。

「あなたは多くの国民の父となる。」 「地のすべての国民はあなたによって祝福される。」

驚くべきことに、神様がその約束をされたとき、アブラハムはすでに75歳であり、妻サラは65歳でした。

それでも、神様はその約束を守られました。神様のご計画の中には、アブラハムのための素晴らしい未来があり、その計画は実現しました。

そして、アブラハムは決して神様がご自身の約束を守るかどうかを疑いませんでした。

時には、神様の計画の詳細を理解できず、愚かな行動を取ることもありました。(だから、ハガルの問題が起こりました。)

けれども、アブラハムは決して「神様はうそをついた」と考えることはありませんでした。

だから、パウロはこう言いました。

彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。

不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。

だからこそ、「彼には、それが義と認められた」のです。(ローマ人への手紙4:19-22)

そして、パウロはこう言いました。

しかし、「彼には、それが義と認められた」と書かれたのは、ただ彼のためだけでなく、私たちのためでもあります。

すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。(23ー24)

この箇所で、パウロは「義と認められる」ということについて語ります。

私が以前述べたように、この概念を理解するのは少し難しいです。どうして神様は罪人を義人と見なすことができるのでしょうか。彼らが何度も罪を犯すのに、どうして義と認められるのでしょうか。

その答えは17節にあります。神様は「無いものを有るものとして召します。」

新改訳第三版では、このように翻訳されています。「(神様は)無いものを有るもののようにお呼びになります。

これは「義と認められる」という概念を表しています。神様は義のない者を義のある者のようにお呼びになります。

どうしてでしょうか?それは、神様のご計画の中で、私たちはすでに義人とされているからです。神様は現在の私たちだけでなく、将来の私たちの姿を見ておられます。

神様が宇宙を造られたとき、神様の思いにはすでにどんな宇宙になるかが見えており、一言で、すべてが造られました。

神様がアブラハムに約束されたとき、その思いにはイサク、イスラエル、そしてイエス様の姿があり、一言ですべてが成就しました。

神様が私たちを見るとき、その思いには私たちがどのような人になるかが見えています。そして、神様の力によって、私たちはイエス様のかたちに変えられていきます。

毎日、私たちは少しずつ変わりつつあり、天国に行くと、そのプロセスは完成します。だからこそ、神様は私たちを見ると、義人と呼ぶことができるのです。

けれども、アブラハムのように、私たちはしばしば目の前の現実を見ます。つまり、私たちは弱く、罪を犯し続けてしまいます。

だから、アブラハムのように確固たる信仰を持ち、神様の約束を信じましょう。

神様がご自身の約束を実行する力を持っておられることを確信しましょう。神様は私たちを変え、私たちを本当に義人とされます。それは神様の思いの中だけでなく、現実となるのです。(第二コリント 3:18、第一ヨハネ 3:2)

このことを心に留め、信仰を強め、神に栄光を帰しましょう。それは私たちの行いによるものではなく、イエス様の行われたことによるものです。

主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。(25)

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救い:賜物?当然支払われるべきもの?(2)

多くの人々にとって、救いが本当に賜物というコンセプトを受け入れるのは難しいので、もうちょっとそのことについて話したいと思います。

イエス様の時代でも、多くの人々はそのコンセプトが把握することができませんでした。

福音書では、私たちはある若い金持ちについて読みます。彼はイエス様にこう訊きました。

先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。(マタイ19:16)

その人の質問を見ると、私たちはその人の仮定を見ます。それは、救いが神様の義務です。つまり、私たちがこれとこれとこれをするなら、神様は私たちに永遠の命を与えなくてはいけないことです。

最初は、イエス様はその人の仮定に反ばくせずに、「神様の戒めに従いなさい。」と答えました。

その人は答えました。「私はそれらすべてを守ってきました。」

だからイエス様は言いました。「本当ですか。では、あなたの服従を試してみましょう。あなたの財産を売り払って、貧しい者たちに与えなさい。そして私に従って来なさい。」

もし、その人が本当に心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、神を愛していて、また、隣人を彼自身のように愛していたら、(その二つの戒めは律法の土台でした)、彼はすぐにイエス様の戒めに従ったでしょう。

でも、彼は自分のお金に執着しすぎました。彼は神様や隣人よりも、自分のお金に執着しました。

だから、神様の律法はその人を正当化せずに、裁いてしまいました。だから、神様の義務は、ただその人を裁くことです。

嘆かわしいことだけど、その人はイエス様が教えようとすることの半分だけが分かるようになりました。つまり、彼が救いを自分の努力で得ることができなかったことです。

彼は、「私はそれができません。私は神様の戒めに完全に従うことができると思ったけど、それは無理です。どうしたらいいでしょうか。」と言えば、よかったのに。

そう言っていたら、イエス様は微笑んで、こう答えたでしょう。

それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。(マタイ19:26)

でも、イエス様の助けを求めずに、その人は悲しく立ち去ってしまいました。

別の時、イエス様はたとえ話を通して、同じことを教えました。

そのたとえ話では、あるパリサイ人は自分の義を誇りました。彼は神様に基本的にこう言いました。「私は本当にいい人です。だから、あなたは私に永遠の命を与えなくてはなりません。」

でも、ある取税人(その時代、取税人はとても堕落していた人で、イスラエル人に嫌われる職業でした)は神様にこう祈りました。

神様、罪人のわたしをあわれんでください。(ルカ18:13)

イエス様はこう尋ねられました。

「神様の前で義と認められたのは誰でしょうか。パリサイ人ではありません。彼が自分の義を誇っても、神様の義と比べると、その義は不完全なものです。だから彼は裁かれるのです。それは彼自身の努力の『報』なのでした。」

その一方、収税人は神様の前で義と認められました。なぜでしょうか?彼はいろいろな良い行いをしたからですか?

いいえ、違います。彼は恵みによって赦されたのです。彼が神様の憐れみを願い求めたため、神様は賜物として彼に永遠の命を与えてくださいました。

最後に、十字架の出来事について考えてみてください。イエス様の隣で十字架につけられた罪人も、死刑に処されました。

彼は救いに値しませんでした。むしろ、自分の行いのゆえに、彼は死に値しました。けれども、彼がイエス様を信じると、イエス様は彼にこう言われました。

まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。(ルカ23:43)

その罪人は救いのために働いたのではなく、むしろ賜物として救いを受けました。

福音書の中で、私たちはこのテーマを何度も目にします。

私たちの努力によって得るものは何でしょうか。それは裁きです。しかし、救いは賜物です。その真理は決して変わることはありません。

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救い:賜物?当然支払われるべきもの?

この個所では、パウロはとても大切な疑問について話します。

救いや永遠の命は神様からの賜物でしょうか。もしかしたら、それらは、当然支払われるべきものでしょうか。

パウロははっきりと答えます。

働く者にとっては、報酬は恵みによるものではなく、当然支払われるべきものと見なされます。

しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。(ローマ人への手紙4:4-5)

従業員が働くと、給料日に上司は「あなたの給料を振り込みました。私はとても気前がいいですね。」とは決して言わないでしょう。

もし上司がそんなことを言えば、従業員は心の中でこう思うはずです。

「どういうことなんだ?気前がいいだって?私たちには契約があるはずだ。私はきちんと働いたのだから、会社は当然給料を払うべきだろう。」

しかし、私たちは神様に対してこのようなことを言うことはできません。

私たちが赦され、永遠の命を得る理由は、私たちが完全に律法を守ったからではありません。律法を守ることによって神様の子供になったわけでもありません。

むしろ、パウロはこう言います。

実際、律法は御怒りを招くものです。(15)

要するに、どんなに頑張っても、私たちは失敗してしまいます。

私はこう思うかもしれません。「前回は失敗したけれど、これからは努力して律法を完全に守ります。」

しかし、結局私たちは律法に違反し、神様の怒りを招いてしまいます。

旧約聖書の時代、ユダヤ人たちはその真理を深く学びました。そこで、神様は彼らにこう言われました。

「この律法に基づいた契約はうまくいっていない。

もちろん、律法は良いものだが、あなたがたは罪人であり、その律法を完全に守ることはできない。

だから私は新しい契約を与える。その契約はあなたがたの行為によるものではなく、私の行為によるものだ。」

エレミヤ書31:31ー34には、その新しい契約が記されています。

見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。

その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──主のことば──。

これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──主のことば──。

わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、「主を知れ」と言って教えることはない。

彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──主のことば──。

わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」

要するに、「あなたがたはもはや自分自身を変える必要はありません。私があなたがたの心を変えるので、あなたがたは善を行うことができるようになります。

また、私とあなたがたの間に、もはや仲介者としての祭司は必要ありません。あなたがたは私と直接関係を持ち、私はあなたがたの罪をすべて赦します。」ということです。

この新しい契約は何に基づいているのでしょうか。最後の晩餐の時、イエス様は弟子たちにこう言われました。

また、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」

また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。

「みな、この杯から飲みなさい。これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの(新しい)契約の血です。」(マタイ26:26-28;ルカ22:19-20)

だから、私たちの救いと神様との関係は、私たちの行為に基づいているのではありません。むしろ、私たちの行為によって、神様の怒りを受けるに値します。しかし、救いは、イエス様の十字架の働きに基づいた賜物です。

律法が与えられる前に、神様はアブラハムにその賜物を与えてくださいました。そして、神様は同じ賜物を私たちにも与えてくださいます。

アブラハムは信仰によって受け入れられ、その賜物を受けました。同じように、私たちも信仰によって受け入れられ、その賜物を受けるのです。

だから、パウロはこう言われました。

そのようなわけで、すべては信仰によるのです。それは、事が恵みによるようになるためです。

こうして、約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。アブラハムは、私たちすべての者の父です。(ローマ人への手紙4:16)

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信仰による義:新しい概念?

旧約聖書を読むと、「信仰によって義と認められる」という教えは比較的新しい概念のように思えるかもしれません。そのため、多くの人は、パウロや他の使徒たちがこの考えを生み出したと思っています。

けれども、実はパウロの時代、多くのユダヤ人はこの概念に疑問を抱きました。

「信仰によって私たちが神様に義と認められるという教えは、どこから来たのだろうか。聖書の中で見たことがないけれど。」

そこで、パウロは4章において、復活後にイエス様が何を教えられたのかを説明しています。(ルカ 24:27、44-47、ガラテヤ1:11-12)

また、1章ではパウロは預言者ハバククを引用しました。

しかし、正しい人はその信仰によって生きる。(ハバクク書1:4)

そして、4章では、パウロは、モーセが創世記でアブラハムについて何を述べたのかを記しました。(ちなみに、モーセは創世記の著者です。)

ユダヤ人にとって、アブラハムは非常に重要な人物でした。なぜなら、彼はイスラエルの父だからです。さらに、彼らはアブラハムをユダヤ人の模範と見なしていました。

だから、パウロはこう書きました。

それでは、肉による私たちの父祖アブラハムは何を見出した、と言えるのでしょうか。

もしアブラハムが行いによって義と認められたのであれば、彼は誇ることができます。しかし、神の御前ではそうではありません。

聖書は何と言っていますか。「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあります。(ローマ人への手紙4:1-3)

そして、パウロは尋ねます。

どのようにして、その信仰が義と認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。割礼を受けていないときですか。

割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときです。(10)

パウロの結論は何だったのでしょうか?

彼は、割礼を受けていないときに信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。

それは、彼が、割礼を受けないままで信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められるためであり、また、単に割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが割礼を受けていなかったときの信仰の足跡にしたがって歩む者たちにとって、割礼の父となるためでした。(11-12)

また、パウロは詩篇32篇を引用し、ダビデの言葉を参考にしました。

「幸いなことよ、不法を赦され、罪をおおわれた人たち。幸いなことよ、主が罪をお認めにならない人。」(7-8)

どうして神様はダビデの罪を赦してくださったのでしょうか。ダビデは、多くの善行を積んだからでしょうか。いいえ、違います。ダビデはただ神様の憐れみを求め、神様に信頼しました。(詩篇 32:5,10)

こうして、パウロは自分の議論をまとめます。

しかし、「彼には、それが義と認められた」と書かれたのは、ただ彼のためだけでなく、私たちのためでもあります。

すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。(23-24)

これは、すべてのクリスチャンにとって素晴らしい知らせです。私たちは、自分の力で正しい人になろうとする必要はありません。自分の努力で自分自身を清めるのではありません。

むしろ、私たちが神様を信じ、イエス様の十字架の働きを信じるなら、神様は私たちを受け入れてくださいます。

この真理こそが、キリスト教と他の宗教との大きな違いです。この真理によって、私たちは恐れることなく、神様との関係を持つことができます。

あなたはどうでしょうか。そのような関係を持っていますか?もしかすると、心の中で疑いを抱いているかもしれません。「神様は本当に私を受け入れてくださるのだろうか?」

あなたが神様の恵みを深く知ることができますように。

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律法を捨ててしまう?

多くの人が3章を読むと、次のように尋ねるかもしれません。

「もし律法によって私たちが神様に義と認められないのなら、律法を捨ててしまってもよいでしょう。結局、律法には意味がないのだから。」

けれども、パウロはこのように答えました。

それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法を確立することになります。(ローマ人への手紙3:31)

「律法を確立する」とはどういう意味でしょうか。

言い換えれば、私たちが律法には、私たちを救いへと導く役割があることを認めるということです。

ガラテヤ人への手紙で、パウロは律法を私たちの「養育係」と呼びました。

では、律法は私たちに何を教えたのでしょうか。律法は神様の聖さを示しました。さらに、律法は私たちの罪を明らかにしました。

だから、パウロはこう書きました。

なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。(ローマ人への手紙3:20)

そして、律法が私たちの罪を明らかにすることで、私たちは救い主の必要性を理解するようになりました。

もし私たちの罪が明らかにならなかったら、救い主の必要性を感じなかったでしょう。なぜなら、「私たちはすでに十分に善良であり、神様がきっと私たちを受け入れてくださる」と思い込んでしまうからです。

そう考えるなら、私たちは、イエス様がなぜ私たちのために死ななければならなかったのかを理解できないでしょう。

しかし、律法は私たちの罪を明らかにすることはできても、その罪を取り除くことはできません。

少し考えてみてください。

鏡は男性のひげを映し出すことができます。けれども、鏡自体はそのひげを剃ることはできません。ひげを剃ることができるのは、髭剃りだけです。

同様に、律法は私たちの罪を映し出すことができますが、その罪を取り除く力は持っていません。しかし、神様の恵みは髭剃りのように私たちの罪を取り去ることができます。

さらに考えてみてください。確かに、鏡は私たちのひげを剃ることはできません。とはいえ、だからといって鏡が不要になるでしょうか?そうではありません。鏡は、私たちが剃るべき部分を映し出してくれるのです。

同様に、律法は私たちの罪や不完全な部分を明らかにします。そして、私たちがそれを認識すると、聖霊様が私たちを導き始めてくださるのです。

例えば、聖霊様は男性たちにこう語りかけるかもしれません。「『あなたの妻を愛しなさい』と書いてあるでしょう。では、今日どのように奥さんを愛するべきか教えます。」

または、「『許しなさい』と書いてあるでしょう。では、あなたはまだ〇〇さんを許していないでしょう。あなたの傷は深いかもしれません。それでも、私があなたを癒すので、相手を許しなさい。」

覚えておきましょう。律法は私たちに「自分の力だけでこのルールに従いなさい」と求めているわけではありません。

むしろ、神様は律法を通して私たちの目を開いてくださいます。そして、私たちは神様が私たちの人生の中で何をなさりたいのかを理解するようになります。

鏡を見ると、ただ自分の姿が映るだけではなく、私たちの天の父を見ることができます。そして、天の父は愛をもって、その恵みの髭剃りで私たちの罪を取り除き始めてくださいます。

私たちはその髭剃りを見て、少し怖いと感じるかもしれません。けれども、私たちが信仰をもって神様に「はい」と応じるなら、神様は私たちの罪を少しずつ取り去ってくださいます。

あなたはどうでしょうか。鏡を見ると、自分の罪や失敗だけが目に入るでしょうか。

それとも、あなたの天の父を見るでしょうか。天の父はきっとあなたの人生に働き、あなたを癒してくださいます。

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誇りの余地がない

この箇所では、私たちはパウロの最も重要な結論の一つを読むことになります。

それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それは取り除かれました。どのような種類の律法によってでしょうか。行いの律法でしょうか。

いいえ、信仰の律法によってです。人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると、私たちは考えているからです。

それでも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもあるのではないでしょうか。

そうです。異邦人の神でもあります。神が唯一なら、そうです。神は、割礼のある者を信仰によって義と認め、割礼のない者も信仰によって義と認めてくださるのです。(ローマ人への手紙3:27-30)

簡単に言えば、恵みに関しては、人々には誇る余地が全くないということです。

人々が完全に律法を守ることによって、神様は彼らを受け入れるのではありません。(なぜなら、完全に律法を守る人は誰もいないからです。)

また、神様は人種によって人々を受け入れるのではありません。(ユダヤ人はそう思っていましたが。)神様は、私たちがイエス様の十字架の働きを信じたからこそ、私たちを受け入れてくださるのです。

この真理を理解していないクリスチャンが多いため、二つの誤解が生じます。

あるクリスチャンたちは尋ねます。「私が何度失敗しても、どうして神様は私を受け入れてくださるのだろうか。」

なぜ彼らはそのように疑うのでしょうか。それは、彼らが心の中で「神様の受け入れを得るためには、自分が努力しなければならない」と考えているからです。

そして、彼らはいつも自分の努力が足りないと感じ、「私は神様の愛に値しない」と思ってしまうのです。

しかし、それこそがパウロのポイントです。恵みとは、私たちが神様の愛や受け入れに値しないにもかかわらず、神様が私たちを愛し、受け入れてくださることです。

誰も神様の前に立って、「私はあなたの子供で、あなたは幸運ですね。私は善良で、あなたの国に貢献できます。」と言える人はいません。

むしろ、私たちは皆、霊的に貧しい者として、何も持たずに神様の前に来るのです。ある賛美歌には、次のような言葉があります。

Nothing in my hand I bring,
何も持たずに、
Simply to the cross I cling;
ただ私は十字架にすがりつきます。
Naked, come to thee for dress;
私は裸で、衣を得るためにあなたのもとへ行きます。
Helpless, look to thee for grace.
私は心細く、あなたを仰ぎ見て、恵みを願います。

その一方で、あるクリスチャンたちは「私は良いクリスチャンだ」と思い、「それほど良くないクリスチャン」を見下します。彼らはパリサイ人のように人々を裁きますが、自分自身の失敗や罪には気づかないため、恵みの必要性を理解できません。

その結果、人々に恵みを示さず、批判ばかりしてしまいます。

あなたはどうでしょうか。あなたの人生に神様の恵みが見えているでしょうか。もしかすると、神様があなたを受け入れてくださらないと思い、いつも気が沈んでいるかもしれません。

あるいは、人々を見下して、恵みを示すことを拒んでしまっているでしょうか。

「恵み」という言葉を聞いたとき、あなたはどのように感じるでしょうか。その言葉はあなたの心に響くでしょうか。それとも、何も感じないでしょうか。

恵みという言葉があなたの心に深く響きますように。そして、ただ響くだけでなく、恵みがあなたの心を支配し、導くものとなりますように。

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神様の忍耐と義

この箇所でパウロは、イエス様の十字架の働きの前に生きていた人々について、とても興味深いことを語っています。

パウロはこう言いました。

神はこの方(つまり、イエス様)を信仰によって受けるべき、血による宥めのささげものとして公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。

神は、忍耐を持って、これまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです。

すなわち、ご自分が義であり、イエスを信じる者を義と認める方であることを示すため、今この時に、ご自分の義を明らかにされたのです。(ローマ人への手紙3:25-26)

この箇所でパウロは、神様の義について語っています。パウロが伝えているのは、イエス様が十字架で死ぬ前に、神様が人々の罪を見逃すことで、ご自身の義を明らかにされた、ということです。

それはどういう意味でしょうか。イエス様が十字架で死ぬ前に、すべての人々は救われたのでしょうか。

違います。パウロは何度もはっきりと教えています。人々は信仰によって救われるのです。パウロは28節でそう語っています。

人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると、私たちは教えているからです。(28)

そして、4章でパウロはアブラハムを指して、「アブラハムも信仰によって救われた」と語っています。

すなわち、神様を信じない人々は救われず、むしろ裁かれました。

けれども、アブラハム、モーセ、ダビデ、そしてその他の旧約聖書の信者たちには問題がありました。彼らは犠牲を捧げましたが、その犠牲には本当に罪を清める力はありませんでした。むしろ、それらの犠牲は、イエス様の将来の犠牲を象徴していました。

(へブル人への手紙を解説するときに、私はさらに具体的に説明します。)

彼らは神様を信じていましたが、イエス様がまだ彼らの罪のために死んでいなかったため、神様が彼らを罰することは不公平だったでしょう。

彼らは神様がメシア(救い主)を送ることを信じました。そのため、神様はその信仰を受け入れ、彼らを義人と見なし、彼らが受けるべき罰を猶予されました。

そして、イエス様が十字架にかけられたとき、神様はアブラハム、ダビデ、そしてその他の旧約聖書の信者たちの罪をイエス様の上に置かれました。その時、イエス様は彼らの罰を受けました。

その結果、彼らの罪は赦され、イエス様がよみがえられた後、彼らはイエス様と共に天国に行ったのです。

神様は私たちに対しても、忍耐と義を示されています。

私たちは皆、罪を犯しました。神様はすぐに私たちを滅ぼす権利を持っていましたが、むしろ忍耐を示されました。

神様は私たちの心に働きかけ、私たちの心をイエス様のために整えてくださいました。そして、私たちが神様を信じたとき、神様は私たちの罪を清めてくださいました。

とはいえ、神様の赦しを誤解しないでください。神様はただ、「あなたが悪いことをしたけれど、私は優しいからその罪を赦してあげる」と言ったわけではありません。

むしろ、神様はこう言われました。「あなたの罪は深刻なものでした。その罪のために、代価が支払われなければなりませんでした。正義が行われなければなりません。

しかし、イエスがその代価を支払ったので、正義は成し遂げられました。そして、あなたがその十字架の働きを信じたので、その信仰によって、あなたは救われました。」

もし、あなたがまだクリスチャンでないなら、覚えていてください。神様は忍耐強い神です。けれども、神様は義の神でもあります。神様は忍耐を示し、あなたの反応を待っています。それでも、神様は永遠に待つわけではありません。

もし神様の恵みを受け入れないなら、あなたは神様の義の裁きを受けることになります。だから、ためらわないでください。まだ時間がある間に、その恵みを受けてください。

パウロはこう言いました。

見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。(第二コリント6:2)

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神様に受け入れられるのに

感じるときも、感じないときも、私たちの最も大切な必要は、神様に受け入れられることです。

私たちが神様に受け入れられることを理解すると、人生は完全に変わります。私たちは満足、平和、喜びを見つけます。さらに、本当のいのちを見つけます。

では、どのようにすれば私たちは神様に受け入れられるのでしょうか。パウロがはっきりと教えているのは、律法に従うことによって神様に受け入れられる人は誰もいないということです。

全ての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができ(ない)。(ローマ人への手紙3:23)

「罪」という言葉の原語は興味深いものです。それはアーチェリーの専門用語であり、「的を逸れる」という意味を持っています。

しかし、その意味は単に的の中心を逸れるだけではなく、むしろ的にまったく当たらないことを指します。

要するに、私たちは完全な人ではありません。神様と比べれば、私たちは決して聖い存在ではありません。

少し考えてみてください。

仮に一日に三回、悪いことを考えたり、言ったり、行ったりするとします。他の人々と比べれば、それほど悪いとは感じないかもしれません。

けれども、その三つの罪を365倍してみてください。一年間で約1000の罪になります。そして、その1000の罪をあなたの年齢に掛けると、どうなるでしょうか。それは何万という罪になります。

裁きの日に、あなたの罪について話すのに、何時間かかるでしょうか。もし、毎日三回以上罪を犯していれば、さらに多くの時間が必要になるでしょう。

したがって、私たち全員がすでに裁かれているのです。神様の前で、「私は、あなたに受け入れられるのにふさわしい者です。私は完全にあなたの律法に従いました。」と言える人は誰もいません。

けれども、良い知らせがあります。パウロはこう言いました。

しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証さて、神の義が示されました。(21)

どのようにすれば、私たちはその義を得ることができるのでしょうか。パウロは続けてこう言います。

すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。

そこに差別はありません。全ての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、値なしに義と認められるからです。

神は、この方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。(22-25)

パウロは何を言いたいのでしょうか。この箇所には、さまざまなキリスト教の専門用語が出てきます。パウロは「贖い」について語ります。「贖い」とは何を意味するのでしょうか。

「贖い」とは、奴隷の自由を買い取ることです。私たちは皆、罪の奴隷であり、またサタンの国の奴隷でした。しかし、イエス様は私たちの自由を買い取ってくださいました。それが「贖い」の意味です。

では、イエス様はどのようにして私たちの自由を買われたのでしょうか。十字架でイエス様が流された血によって、私たちは自由とされたのです。

パウロは「宥めのささげ物」という言葉を使います。

この言葉の意味は、十字架でイエス様が私たちの罪に対する神様の怒りを受け入れ、その怒りが静められたということです。イエス様の血によって私たちの罪は覆われ、赦されました。

その結果、私たちは神様に近づくことができるのです。

したがって、私たちの良い行いによって神様が私たちを受け入れるのではなく、神様はイエス様の十字架の御業によって私たちを受け入れてくださいます。

言い換えれば、イエス様の死によって、私たちは神様に義と認められるのです。なぜなら、イエス様が私たちの罪の代価を支払われたので、神様は私たちを罪人として見なされないからです。まるで、私たちが罪を犯したことがないかのように見なされます。

今、私たちは恵みによって神様に受け入れられています。

「恵み」とは、私たちが値しないものを受けることを意味します。

本来なら、私たちは神様に背を向けたため、神様の怒りに値していました。けれども、今、神様は私たちを息子たちや娘たちとして受け入れてくださいます。

私たちに求められているのは、ただイエス様とその十字架の働きを信じて受け入れることなのです。

あなたはそれを受け入れましたか。

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でも、ちょっと言い過ぎているでしょう。

多くの人々がパウロの言葉を読むと、このように反応するかもしれません。

「パウロは少し言い過ぎではないでしょうか。『神を求める者は誰もいない?』って。

私の知り合いには、神様を求めている人がたくさんいます。

また、『善を行う者は誰もいない?』って。

毎日、善を行う人を見かけます。」

この二つの異議について少し考えてみましょう。

では、パウロが「神を求める者はいない」と言ったとき、どういう意味なのでしょうか。

ローマ人への手紙1章をもう一度読んでください。その箇所によれば、人々は神様に関する知識を拒絶しました。神様は、ご自身を被造物や人々の良心、神様の律法を通して現してくださいました。

しかし、人々は神様に関する真理を偽りと取り替えました。彼らは「神様を求めている」と言いながらも、神様ではないものを礼拝していました。(1:25)

多くの場合、彼らは偶像を礼拝しました。ほかの人々は聖書の教えを曲げて、違うイエス様や違う福音、違う聖霊に従いました。(第二コリント11:4)

あなたはこう言うかもしれません。「でも、私はクリスチャンです。私はカルトや別の宗教に所属しません。私が神様を求めたので、神様は私を救ってくださいました。」

ある程度、それは正しいかもしれません。とはいえ、その理解は少し不完全です。つまり、あなたがイエス様を選ぶ前に、イエス様はあなたを選んでくださいました。(ヨハネ15:16)

また、あなたが神様を求める前に、神様はあなたを探していました。(ルカ19:10)

神様が先にあなたを愛し、探してくださったので、あなたは神様を求め始めたのです。神様があなたの目隠しを取り除いたので、あなたは神様を必要としていると分かり、神様を求め始めました。

もし神様があなたをそのままにしていたら、あなたは決して神様を求め始めなかったでしょう。

神様が触れる前に、神様を求める人は誰もいません。もし振り返れば、神様がどのようにあなたに触れ、あなたの人生に働きかけたかが分かるでしょう。

そして、パウロが「善を行う人はいない」と言ったとき、どういう意味なのでしょうか。

少し想像してみてください。ケーキを作るとき、あなたは砂糖ではなく、わざと塩を入れます。焼いたら、そのケーキは見た目は美味しそうかもしれません。

けれども、人々はそのケーキを食べられるでしょうか。全く食べられないでしょう。そのケーキは捨てるしかないでしょう。

そのように、私たちが神様に背を向けると、私たちの良い行いは神様にとって受け入れがたいものとなります。

私たちは良い行いをするかもしれませんが、それらの行いには神様への反抗的な態度という味がついてしまいます。だから、神様にとっては、あなたの良い行いは無意味なのです。

たとえ良い行いをしても、神様は反抗的な態度を受け入れません。

預言者イザヤはこう言いました。

私たちはみな、汚れた者のようになり、その義はみな、不潔な衣のようです。(イザヤ64:6)

要するに、自分の良い行動によって救われる人は誰もいません。また、「私の心がそもそも他の人々の心よりも優れたものなので、私は神様に従った」と自慢できる人は誰もいません。

私たちは皆は、神様の恵みだけによって救われることができます。

私たちはローマ人への手紙を読めば、読むほど、私たちはその真理を分かって来るでしょう。

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でも私は、そんなに悪くないでしょう?

多くの人々は次のように疑問を抱きます。

「たとえ善良な人であっても、多くの人がイエス様を信じていない。どうして神様は彼らを拒絶されるのか。

永遠の命を求めるならば、クリスチャンにならなければならないのか。

例えば、ガンジーはとても善良な人だった。殺人や暴行を犯した者が地獄に行くのは理解できるが、なぜガンジーも地獄に行かなければならないのか。」

あるクリスチャンの中にも、このことを疑問に思う人がいるかもしれません。

しかし、この考え方の問題は、私たちの「良い」という概念が歪んでいることにあります。

私たちは自分の都合で「良い」を定義することはできません。

また、「良い」という基準は神様の外にあるものではありません。

神様は「私は『良い』という基準に従わなければならない」と考えられることは決してありません。

神様ご自身が「良い」の基準なのです。

だからこそ、何が本当に良いのかを知りたいと思うならば、私たちは神様を見つめなければなりません。「良い」という定義は、神様の御性格から生じるものだからです。

そして、どのような行いが善であり、悪であるかを知りたいならば、神様が人間をどのように造られたかを見る必要があります。

それこそが神様の律法の目的です。律法を通して、私たちは神様がどのようなお方かを知ることができ、また、私たちがどのように生きるべきかを理解することができるのです。

したがって、私たちの「善」を測る際に、自分自身を周りの人々と比較することは適切ではありません。なぜなら、彼らの人生が「良い」の基準ではないからです。

また、私たちの文化の価値観を基準にすることも適切ではありません。私たちは神様に目を向け、神様の御性格によって自分を測らなければならないのです。

けれども、そのようにすると、「良い」という基準を満たす人は誰もいません。だからこそ、パウロはこう語りました。

私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にあるからです。次のように書いてあるとおりです。

「義人はいない。一人もいない。

悟る者はいない。神を求める者はいない。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。

善を行う者はいない。だれ一人いない。」(ローマ人への手紙3:9-12)

パウロは何を言いたいのでしょうか。

神様の前に、自分の義を誇ることができる人が誰もいないことです。神様は彼らの義を認めません。

なぜでしょうか。彼らは「義」という言葉の意味さえ、正しく理解していないからです。

では、なぜ彼らは「義」ということがわからないのでしょうか。 それは、彼らが神様を求めず、むしろ神様に背を向けているからです。

そして、神様に背を向けることは、一番ひどい罪です。レイプだはなく、殺害ではなく、神様に背を向けるのは一番ひどい罪です。なぜでしょうか。

なぜなら、私が以前言ったように、「良い」という定義は、神様の性格から流れるから。神様は「善」の源です。

人々が善の源に背を向けるとは、「悪」の定義ではないでしょうか。

善の源に背を向けると、どうなるでしょうか。あなたの心から悪が流れて、あなたは悪いことを言ったり、悪いことをしたりします。

あなたは、何回ぐらい嘘をついたでしょうか。あなたは、何回ぐらい人の悪口を言ったでしょうか。何回ぐらい苦い言葉があなたの口から流れたでしょうか。何回ぐらいあなたの言葉で相手を傷つけたでしょうか。

そのような言葉は良い心から流れるでしょうか。

これまでに、自分の誤った決断によって、あなたの人生はどれほど混乱したでしょうか。

これまでに、どれほどあなたは自分の行いによって人々を傷つけたでしょうか。

これまでに、どれほどあなたは「神様のみ言葉を知っていながら、私は自分の道を進む」と言ったでしょうか。

もしあなたが正直であるなら、これまでに挙げたことをすべて自分が行ったと認めるでしょう。

だからこそ、パウロはこう語ったのです。

私たちは知っています。律法が言うことはみな、律法の下にある者たちに対して語られているのです。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。

なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。(19-20)

ガンジーが神様の前に立ち、神様が彼を裁かれると、ガンジーは何も言えなくなるでしょう。なぜなら、神様がガンジーの罪をすべて明らかにされ、ガンジーはその罪を認めるからです。

それだけでなく、ガンジーは「私はその罪を犯した瞬間に、自分が悪かったと知っていました」と認めるでしょう。

ガンジーは一切の言い訳を持ちません。なぜなら、彼が聖書をすべて知らなかったとしても、彼自身の良心が彼を裁いたからです。

しかし、ガンジーは、きっと少しでも聖書を読んだことがあったでしょう。

(どうしてクリスチャンにならないのかと聞かれた際、ガンジーはこう言いました。 「あなたのキリストは好きです。けれども、クリスチャンのことは好きではありません。なぜなら、クリスチャンたちはキリストとは全然違うからです。」)

とにかく、彼が聖書を読んだとき、彼の責任は増しました。なぜなら、聖書は鏡のようにガンジーに自分の罪を映し出したからです。

同じように、もしあなたがイエス様を拒絶するならば、裁きの日には言い訳を持つことはできません。そして、神様に裁かれることになるのです。

だから、自分自身を欺かないでください。「私はそんなに悪くはない」と主張しないでください。

私たち全員が罪人であり、神様の恵みを必要としています。

裁きの日にそれを認めるよりも、今認めた方がよいのです。

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嘘も方便でしょう?

昨日、私たちは、神様の裁きへの間違った態度について話しました。パウロの時代でも現代でも、人々は同じようなことを言います。とはいえ、当然ながらその適用には少し違いがあります。

例えば、パウロの時代には、ある人々がこう言いました。

善をもたらすために悪を行おう。(ローマ人への手紙3:8)

パウロの時代には、次のような考え方がありました。

「もし私たちが悪を行えば、周囲の人々は人間と神様の違いをより明確に理解し、神様の良さが際立つ。それならば、悪いことをすべきだ。」

これは極めて歪んだ考え方であり、パウロはその人々を厳しく叱責しました。

しかし、現代においても似たような思考が見られます。つまり、「嘘も方便」という考え方や、「目的は手段を正当化する」という論理です。

要するに、「私は悪いことをしていると認識しているが、その動機は善である」という思考です。

例えば、「ノンクリスチャンと結婚してはいけないことは理解しているが、結婚すれば、その人がクリスチャンになるかもしれない。」という考え方です。

また、「嘘をついてはいけないことは理解しているが、真実を話せば相手を傷つけてしまう。」

最近、アメリカの大学で大きなスキャンダルが発生しました。子供を大学に入学させるために、33人が賄賂を使い、子供の試験結果を不正に操作しました。

彼らの言い訳は、「私たちは子供を愛しており、彼らの最善を望んでいます。」というものです。

けれども、神様はそのような考え方を裁かれます。神様は結果だけでなく、その過程にも目を向けられます。もし私たちが手段を軽視しようとすれば、その選択はやがて深刻な結果を招くでしょう。

ユダヤ人と他のアラブ人の問題について少し考えてみてください。なぜこのような対立が生じているのでしょうか。何千年も前、アブラハムは「目的は手段を正当化する」と考えました。

神様はアブラハムに約束されました。「私はあなたに子を与えます。その子を通して、全世界は祝福されます。」

しかし、何年経ってもアブラハムにはまだ子供がいませんでした。そこで、彼は神様を助けようと考えました。彼は妻サライの女奴隷と関係を持ち、子供が生まれました。

実は、それはサライの勧めでした。また、その時代の文化において、この行為は特に異例なものではありませんでした。むしろ、多くの人がアブラハムの決断に賛同したことでしょう。

ところが、それは神様の御心ではありませんでした。そして、現在に至るまで、ハガルの子孫(アラブ人)はサライの子孫(ユダヤ人)と争い続けています。

もしアブラハムがこの誤った決断をしなかったならば、何千年にもわたるこの問題は存在しなかったかもしれません。

あなたはどうでしょうか。あなたは信仰によって生きていますか。神様の道を歩み、神様があなたを祝福されることを信じていますか。

それとも、「良い目的」のために悪いことをしても構わないと考え、言い訳をしてしまうでしょうか。

神様の目には、たとえ善意の動機であっても、不正な手段が許されることはありません。

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呪われた考え方

この箇所では、私たちは神様に対する呪われた考え方を目にします。このような考え方を持つならば、人は確実に滅びへと向かうことでしょう。

正直に言えば、そのような考え方を持つ人がいることが信じられません。彼らはこう言いました。

「私が罪を犯すことで、むしろ神様は喜ぶべきではないでしょうか。なぜなら、私の悪によって、神様の善がより明らかになるからです。

神様はご自身の良さを示したいと思っているはずです。もしそうならば、なぜ神様は私を裁かれるのでしょうか。」(ローマ人への手紙3:5-8)

このような考え方はあまりにも愚かであるため、パウロはすぐに反論しました。

「いったい何を言っているのですか。神様は決して罪を喜ばれることはありません。もし神様が罪を喜ばれるのであれば、どうしてこの罪深い世界を裁くことができるでしょうか。」(6)

また、別の人々はこう言いました。

「私が罪を犯すことで、善がもたらされるのではないでしょうか。私の罪によって神様の良さがさらに明らかになり、神様の栄光が現れるのです。ならば、私はもっと罪を犯したほうが良いでしょう。」

パウロの答えは極めて簡潔であり、率直でした。

そのように中傷する者たちが、さばきを受けるのは当然です。(8)

もちろん、そのように考える人は、もはや誰もいないと思います。けれども、今なお似たことを口にする人はいます。今日は一つの議論を取り上げ、明日はもう一つの議論を考察します。

ある人はこう言います。「神が御怒りを下すのは不義ではないでしょうか。」(5)

現代の人々は、パウロの時代の人々とは異なる方法でこの議論を用います。彼らはこう言います。

「もし誰かが福音を聞いたことがないなら、どうして神様はその人を罰するのでしょうか。それは不公平ではないでしょうか。」

しかし、パウロはこの手紙の第一章で、この議論に反論しました。つまり、福音を直接聞いていない人であっても、神様の存在を示す証拠を持っているということです。

その証拠とは、被造物、彼らの内なる律法、そして彼らの良心です。それでも、彼らはそれらの証拠を持っていても、神様を求めようとはしません。

彼らは、自分が知らないことによって裁かれるのではなく、自分が知っていることによって裁かれるのです。したがって、彼らへの裁きは公平なものなのです。

また、多くの人々はこう言います。「神様はご自身を拒む人々を地獄へ行かせることがあるのでしょうか。彼らは本当に永遠に苦しまなければならないのでしょうか。それは不公平ではないでしょうか。」

どのようにその疑問に答えることができるでしょうか。

第一に、人々が地獄へ行く場合、実は神様は彼らの願いを叶えておられるのです。つまり、神様を拒絶する人は、なるべく神様から遠く離れ、自分の思うままに生きたいと願っています。

彼らは神様を信頼せず、神様が良い方であり、彼らを愛しておられることを信じないゆえに、神様を王として受け入れたくないのです。

彼らは自分の道を歩むことで真の幸せを見いだすと思っています。

けれども、真理は、神様こそが愛、喜び、命、そしてすべての良いものの源であるということです。

したがって、神様から完全に離れた存在とは、すべての良いものからも離れた存在となるのです。それが何を意味するでしょうか。それこそが地獄なのです。

二つ目は、人々が地獄へ行く必要がないように、神様がイエス様をこの世に送られたことです。イエス様は十字架で私たちの罪のために死なれました。そして、救いの働きを完全に成し遂げられました。

私たちに求められることは、その働きを信じ、永遠のいのちという賜物を受け取ることだけです。

では、どのようにしてその賜物を受け取ることができるでしょうか。神様にこう祈るなら、その賜物を受けることができます。

天のお父様、今まで私は自分の道を歩み、人生を混乱させてきました。どうか私を赦してください。

イエス様が私の罪のために死に、よみがえられたことを信じます。だからこそ、これから私はあなたに信頼します。どうか私の王となってください。

私の心の中で働いてくださり、毎日私がイエス様のようになれるよう助けてください。

この選択をすれば、私たちは真のいのちを知ることができます。救いの道は決して難しいものではありません。難しいのは自分の道を捨てることなのです。

C.S.ルイスはこう述べています。

最終的に、人は神様に向かって「あなたの御心が行われるように」と言うか、それとも神様が彼らに向かって「あなたの心が行われるように」と言われるかのどちらかである。

あなたはどう選択するでしょうか。

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神様の真実な性格

ユダヤ人たちが2章だけを読むと、パウロはユダヤ人であることや割礼を受けることに価値がないと教えているように思われるかもしれません。

しかし、3章では、パウロはユダヤ人であることや割礼を受けることに価値があるとはっきりと教えています。彼はこう語りました。

それでは、ユダヤ人のすぐれている点は何ですか。割礼に何の益があるのですか。

あらゆる点から見て、それは大いにあります。第一に、彼らは神のことばを委ねられました。(ローマ人への手紙3:1-2)

要するに、ユダヤ人であることの一つの利点は、神様が彼らに直接ご自身を現されたことです。そのため、彼らは神様の御名を知り、神様がどのような方であるかを理解しました。

他の国々の人々も、被造物を通して神様の存在を知ることができました。けれども、それ以上のことは分かりませんでした。

しかし、以前も述べたように、そのような知識を持つことにはマイナス面もあります。つまり、より多くの知識を持っている人は、神様からより厳しい裁きを受けることになるのです。

そして、残念なことに、ユダヤ人たちの歴史を振り返ると、彼らは神様を知っていながらも背を向け、異なる神々に従っていました。

では、神様はユダヤ人たちを見捨てられたのでしょうか。一部の聖書学者たちは、そのように考えています。彼らの主張によれば、クリスチャンこそが「新しいイスラエル」です。

ある意味では、それは正しいとも言えます。後の箇所で見るように、私たちは神様の家族の一員とされたのです。

とはいえ、「神様はユダヤ人たちを完全に見放された」と断言するのは行き過ぎた解釈かもしれません。パウロは、ユダヤ人について次のように語っています。

では、どうですか。彼らのうちに不真実な者がいたなら、その不真実は神の真実を無にするのでしょうか。決してそんなことはありません。

たとえすべての人が偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。

「それゆえ、あなたが告げるとき、あなたは正しくあられ、さばくとき、勝利を得られます」と書いてあるとおりです。(3-4)

あるユダヤ人たちは神様に背を向けたかもしれません。それでも、神様はユダヤ人たちを決して見捨てることはありませんでした。彼らの不真実は、ユダヤ人たちに対する神様の真実を無にすることはなかったのです。

人は自分の約束を破ることがあるかもしれませんが、神様は常にご自身の約束を守られます。だから、神様の裁きが不公平だと言える人は誰もいません。

このような理由から、いつかすべてのユダヤ人がイエス様こそメシアであると信じるようになるでしょう。

しかし、ユダヤ人ではない人も、この箇所から励ましを受けることができるでしょう。なぜなら、私たちもユダヤ人たちと同じように、しばしば不真実であるからです。

私たちは、神様が私たちの最善を望んでおられることを信じず、時には神様が私たちの最善を知らないかのように思うことすらあります。そのため、私たちは神様とその言葉を捨てて、自分の道を歩もうとします。

それでも、神様は決して私たちをあきらめることはありません。神様は私たちを追い求め続けてくださいます。

だから、時に神様は私たちを懲らしめられます。けれども、その懲らしめの中にも、神様の愛と最善を望む御心があるのです。そして、たとえ何度失敗しても、神様が私たちを見放されたのではないかと心配する必要はありません。

パウロは別の手紙の中で、次のように語っています。

私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。(第二テモテ2:13)

だから、私たちが失敗するときも、つまずくときも、神様の真実な御性格を心に留めておきましょう。そして、神様の約束を心に刻み続けましょう。

わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない。(へブル13:5)

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本当の割礼

パウロの時代、ユダヤ人たちは神様に関して大きな誤解を抱えていました。彼らは、神様が人の外見よりも心を重視されることを忘れていたのです。

特に、割礼を受ければ神様に義と認められると考えていましたが、心の中にある罪には目を向けていませんでした。

神様は、旧約聖書の預言者たちを通して、この問題について警告されました。預言者エレミヤを通して、神様はこう語られました。

見よ、その時代が来るーー主のことばーー。

そのとき、わたしはすべて包皮に割礼を受けている者を罰する。エジプト、ユダ、エドム、アンモンの子ら、モアブ、および荒野の住人で、もみ上げを切り上げているすべてのものを罰する。

すべての国々は無割礼で、イスラエルの全家も心に割礼を受けていないからだ。(エレミヤ9:25-26)

つまり、ユダヤ人たちが肉体的な割礼を受けることよりも、神様は彼らの心を求めておられました。もし彼らの心が神様に属していないなら、その割礼は神様にとって無意味なのです。

だから、パウロはこう語りました。

もしあなたが律法を行うなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法の違反者であるなら、あなたの割礼は無割礼になったのです。

ですから、もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、その人の無割礼は割礼と見なされるのではないでしょうか。

からだは無割礼でも律法を守る人が、律法の文字と割礼がありながらも律法に違反するあなたを、さばくことになります。

外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の体の割礼が無割礼ではないからです。

かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。その人への称賛は人からではなく、神から来ます。(ローマ人への手紙2:25-29)

パウロは仮定的な状況について語っているようです。

もし誰かが律法を完全に守ることができたなら、その人は割礼を受けていなくても、神様に受け入れられるでしょう。その一方、誰かが律法に違反するなら、たとえ割礼を受けていても、神様はその人を律法の違反者として裁かれます。

さらに、律法に従う者は、割礼を受けている人を裁くことができるでしょう。

とはいえ、当然のことながら、割礼を受けている人も受けていない人も、律法を完全に守ることができる人は誰もいません。

だからこそ、パウロはユダヤ人たちに語ります。「割礼を受けても、あなたが本当のユダヤ人と呼ばれるとは限りません。割礼を受けても、あなたが神の民とされるとは限りません。割礼とは、単なる肉体的な儀式ではなく、心に関わることです。

御霊による心の割礼を受ける者こそが、神様の民であり、神様に受け入れられるのです。」

では、心の割礼とはどういう意味なのでしょうか。パウロはこう語りました。

キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉の体を脱ぎ捨てて、キリストの割礼を受けたのです。(ローマ人への手紙2:11)

肉の体とは、「罪深い性質」を意味します。

言い換えれば、私たちは罪の鎖に縛られていました。しかし、キリストを信じて歩み始めると、イエス様はその罪の鎖を断ち切ってくださいました。それ以前の私たちは、罪深い性質に引き寄せられ、その欲望に従っていました。

けれども、聖霊がその性質を割礼されたことによって、私たちは神様に属する者となりました。さらに、罪の鎖が断ち切られたことで、神様に従う自由が与えられ、正しい人生を歩む力を授けてくださいました。

ただし、この心の割礼は、私たちの努力によるものではありません。むしろ、私たちは信仰をもってイエス様に心を捧げ、こう祈ります。

イエス様、あなたを必要とします。私は自分自身を救うことができません。どうか私を救ってください。私はあなたを信頼し、あなたの十字架の働きを信じます。だからこそ、私の罪を赦してください。私があなたのものとなるように。

このように祈るなら、あなたは神様の子供とされ、その瞬間、神様に義と認められるのです。

あなたはどうでしょうか。自分の心を神様に捧げていますか。心の割礼を受けた者となっていますか。

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自分自身を見るとき

この箇所で、パウロはユダヤ人たちに語っています。そして、彼のポイントはこうです。

律法によって神様の前で義と認められたいのなら、ただ律法を知っているだけでは不十分です。あなたはその律法に完全に従わなければなりません。

だから、パウロはこう語ります。

あなたが自らユダヤ人と称し、律法を頼みとし、神を誇り、みこころを知り、律法から教えられて、大切なことをわきまえているなら、また、律法のうちに具体的に示された知識と真理を持っているので、目の見えない人の案内人、闇の中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だ、と自負しているなら、どうして、他人を教えながら、自分自身を教えないのですか。

盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿の物をかすめ取るのですか。

律法を誇りとするあなたは、律法に違反することで、神を侮っているのです。(ローマ人への手紙2:17-23)

つまり、あなたたちは律法を知っていて、誇り高く思っています。神様の律法を与えられ、神様の民と呼ばれることを誇っています。

あなたたちは、すべてを理解していると思い、もし誰かが神様とその道を知りたいなら、自分たちのもとに来るべきだと考えています。

しかし、あなたたちは自分が教える律法に本当に従っているでしょうか。もしかすると、神様の言葉を伝えた後で、その言葉に反する行動をしてはいないでしょうか。

そして、パウロは彼らにこう語りました。

「あなたがたのゆえに、神の御名は異邦人の間で汚されている」と書いてあるとおりです。(24)

正直に言えば、聖書を教える者として、この箇所は非常に厳しく感じます。私は、自分の行動のせいで神様の御名が友人や同僚の間で汚されることを望みません。偽善者にはなりたくないのです。

それでも、私はしばしば失敗してしまいます。時には、偽善的な行動をとってしまうこともあります。正しいことを行うのが難しい時もありますし、自分が説いていることに従うのが難しい時もあります。

説教する時や、このブログを書く時、私は多くの場合、自分自身に向かって語っているのです。

結局、私はただ、神様の御座の前にひれ伏し、憐れみを請うことしかできません。

実は、それこそがパウロのポイントです。私たちは皆、神様の恵みを必要としています。もし、律法によって自分が義と認められたいと主張するなら、その律法に完全に従わなければなりません。けれども、それができる人は誰もいません。

あなたはどうでしょうか。あなたはどれほど神様の恵みを必要としているか、理解していますか。

もし、「私はまあまあ良い人だ。ほかの人よりも、私はましだと思う」と考えているなら、自分自身をもっと見つめる必要があるかもしれません。なぜなら、私たちは自分が思うほど良い人ではないからです。

その真理を理解しない限り、私たちはどれほど神様を必要としているのかを正しく知ることはできません。

鏡を眺めると、あなたは何を見るでしょうか。

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福音を聞いたことない人は、どうなるの?

多くの人々は、キリスト教のメッセージを聞いたときに、こう尋ねます。「もし、ある人々が聖書のことを聞いたことがないなら、どうして神様は彼らを裁かれるのでしょうか。それは不公平ではないでしょうか。」

この箇所で、パウロはその疑問に答えます。パウロはこう言います。

「悪を行うすべての人が裁かれます。ユダヤ人たちは先に裁かれますが、その後、異邦人(つまりユダヤ人ではない人々)も裁かれます。

その反面、善を行うすべての人は報いを受けます。ユダヤ人たちは先に報いを受けますが、その後、異邦人たちも報いを受けます。」

では、なぜその順番が決まっているのでしょうか。それは、ユダヤ人たちが神様から直接律法を授かったからです。したがって、彼らの責任はより重いのです。

イエス様はこのことを次のように説明されました。

主人の思いを知りながら用意もせず、その思いどおりに働きもしなかったしもべは、むちでひどく打たれます。

しかし、主人の思いを知らずにいて、むち打たれるに値することをしたしもべは、少ししか打たれません。

多く与えられた者はみな、多くを求められ、多く任された者は、さらに多くを要求されます。(ルカ12:47-48)

パウロは、その概念をより具体的に説明しています。

律法なしに罪を犯した者はみな、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はみな、律法によってさばかれます。(ローマ2:12)

簡単に言えば、人々は自分が持っている知識に基づいて裁かれます。しかし、持っていない知識によって裁かれることはありません。

もし、ユダヤ人が神様から与えられた律法を知っているなら、その律法によって裁かれます。けれども、その律法を知らない人々は、異なる基準で裁かれることになります。

では、彼らはどのような基準で裁かれるのでしょうか。

自分の律法が神様の律法に適合する限り、彼らはその律法によって裁かれます。パウロはこのことを説明しています。

律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じることを行う場合は、律法を持たなくても、彼ら自身が自分に対する律法なのです。

彼らは、律法の命じる行いが自分の心に記されていることを示しています。彼らの良心も証ししていて、彼らの心の思いは互いに責め合ったり、また弁明し合ったりさえするのです。(ローマ人への手紙2:14-15)

つまり、どの国でも、どんな文化でも、すべての国民の律法には、神様の律法と一致する部分があります。

もちろん、それらの律法が神様の律法に完全に一致するわけではありません。しかし、律法が神様の律法と一致する限り、人々はその律法によって裁かれます。

例えば、文化によって盗難の定義は異なるかもしれません。けれども、もしある人がその国の盗難に関する律法を破れば、その人は神様に裁かれます。

さらに、神様はもう一つの基準で人々を裁かれます。それは良心です。

例えば、自分の文化では、結婚前に恋人と肉体的な関係を持つことは許されているかもしれません。それでも、もし誰かが自分の良心に反してその行為をするなら、その人は神様に裁かれます。

なぜでしょうか。それは、罪悪感が心の中で「その行為は悪い」と認識させているからです。

もちろん、私たちの良心は神様の律法を完全に反映するわけではありません。とはいえ、良心が神様の律法と一致する限り、人々は裁かれます。

そして、パウロはさらにこう語ります。

なぜなら、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が義と認められるからです。(13)

パウロのポイントは、律法を完全に守れる人がいるわけではない、ということです。また、パウロは、律法によって義と認められる人が存在すると言っているわけではありません。

パウロのポイントは、律法を知っているだけでは十分ではない、ということです。もし律法によって義と認められたいなら、あなたは完全にその律法に従わなければなりません。

けれども、問題があります。律法を完全に守れる人は、一人もいません。この厳しい現実については、別の記事で詳しく話します。

それでも、今日の要点は、神様は公平な方だということです。神様は、あなたが持っていない知識によって、あなたを裁くことはありません。むしろ、あなたが持っている知識によって、神様はあなたを裁かれます。

だから、自分自身に問いかけてください。「自分が持っている知識のもとで、私はどのように生きているだろうか。」

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プライドを持ち、恵みを軽んじる?

神様の恵みは、何にも代えがたいほど素晴らしいものです。しかし、私たちは恵みに対して、決して取るべきではない二つの態度があります。この箇所で、その二つの態度が示されています。

一つ目の態度は、プライドです。つまり、人々はこう思います。「私は神様の恵みなんて必要ない。私はすでに良い人だから。その一方、私の周りの人たちは…」

パウロは、このような態度について、こう語っています。

ですから、すべて他人をさばく者よ、あなたに弁解の余地はありません。あなたは他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが同じことを行っているからです。

そのようなことを行う者たちの上に、真理に基づいて神のさばきが下ることを、私たちは知っています。

そのようなことを行う者たちをさばきながら、同じことを行っている者よ、あなたは神のさばきを免れるとでも思っているのですか。(ローマ人への手紙2:1-3)

ある人々は、いつも周りの人々を裁き、相手を悪い人と決めつけます。しかし同時に、自分自身の罪や欠点には目を向けようとしません。

彼らはプライドを持ち、「あいつは絶対にダメな人だけど、私は大丈夫だ」と思います。

けれども、パウロは彼らにこう言います。「あなたも同じことをしている。どうしてあなたは相手を裁くのですか。」

例えば、私たちは相手のことを頑固だと思います。しかし、実際に彼らと話すと、私たち自身も頑固になっていることに気づくかもしれません。

また、ニュース番組で私たちは殺人犯を見て、恐ろしいと思います。だから、彼らが厳しく罰されることを願います。

しかし、もし友達や知り合いが私たちを傷つけたらどうでしょうか。私たちは縁を切り、心の中で彼らを「殺してしまう」のです。(マタイ5:21-22)

だから、パウロは私たちにこう言います。

「あなたは相手を裁く権利を持っていません。あなたも同じことをしているのだから。あなたも神様の恵みを必要としています。その恵みを受けなければ、あなたは裁かれることになるのです。」

けれども、パウロはもう一つの問題についても語ります。ある人々は、神様の恵みを軽んじます。つまり、彼らはこう考えます。

「神様は私を赦してくれるのだから、私は好き勝手にして、あとで神様に謝ればいい。」

パウロはそのような人々にこう言います。

それとも、神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。(ローマ人への手紙2:4)

つまり、神様の恵みの目的は、私たちが罪にふけることではありません。その目的は、私たちが罪を悔い改め、その罪を捨てることです。

けれども、多くの人々は恵みを軽んじ、自分の罪にふけり、結果として神様や周りの人々を傷つけてしまいます。

だから、パウロはプライドを持つ人や、恵みを軽んじる人にこう語ります。

あなたは、頑なで悔い改める心がないために、神の正しいさばきが現れる御怒りの日の怒りを、自分のために蓄えています。神は、一人ひとり、その人の行いに応じて報いられます。

忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと朽ちないものを求める者には、永遠のいのちを与え、利己的な思いから真理に従わず、不義に従う者には、怒りと憤りを下されます。

悪を行うすべての者の上には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、苦難と苦悩が下り、善を行うすべての者には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。神にはえこひいきがないからです。(5-11)

つまり、そのような態度を持てば、あなたも必ず裁かれることになります。

もし、プライドを持ち、「神様の恵みなんて必要ない」と思い、周りの人々を裁くなら、私たちの罪は暴かれ、私たち自身が裁かれてしまいます。

また、神様の恵みを軽んじ、罪にふけるなら、私たちは裁きを受けることになります。

あなたはどうでしょうか。

神様の恵みは必要ないと思いますか。

それとも、神様の恵みを軽んじていますか。

そのような態度は裁きにつながります。だからこそ、謙遜を持ち、私たちが恵みを必要としていることを認め、神様の愛と恵みに目を向け、驚きましょう。

神の国には、プライドや恵みを軽んじる余地はありません。

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罪という問題

クリスチャンとして、私たちは救いについてよく語ります。けれども、私たちは何から救われたのでしょうか。なぜ、私たちには救いが必要なのでしょうか。

この箇所では、その答えが示されています。この箇所は、聖書の中でも特に暗い部分の一つです。それは、私たちの状況がどれほど切迫しているかを理解するからです。

パウロは、こう語り始めます。

というのは、不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。(ローマ人への手紙1:18)

「神様の怒り。」

この言葉を考えると、恐れを感じるかもしれません。私たちは皆、神様の愛について語るのが好きです。しかし、神様の怒りについて話したがる人はほとんどいません。

では、なぜ神様の怒りは人々に注がれているのでしょうか。

理由は二つあります。それは、不敬虔と不義です。「不敬虔」と「不義」とは、どういう意味でしょうか。

「不敬虔」とは、神様に背を向けることを意味します。

この箇所で、パウロは、神様がご自身をすべての人々に示されたと語っています。神様は、ご自身をユダヤ人や限られた特別な人々だけに示されたわけではありません。神様はすべての人々にご自身を示されました。

では、どのようにして神様はご自身を現されたのでしょうか。神様は被造物を通して、ご自身を示してくださいました。創造された世界のすべてが、知的な創造者がおられることを証ししています。

その真理を拒絶する人でさえ、「この世界を見ると、知的な創造者がおられるという考え方は理解できる」と認めます。(もちろん、それを認めた後、すぐに自分の議論や理論によってその真理を覆い隠してしまいますが。)

とにかく、パウロのポイントは、被造物は創造者を指し示しているということです。

被造物を通して、私たちは神様の力や神性を見ることができます。被造物を通して、神様の偉大さが分かります。また、私たちは神様のみ心を見ることができます。

神様の想像力を見ることができます。神様の美しさや善さを見ることができます。神様は被造物を通して、それらすべてを示してくださっています。

それでも、人々はどう反応するでしょうか。自分の不義によって、その真理を抑え込んでしまいます。

神様の存在を否定する人々の動機を見ると、多くの場合、彼らは神様に裁かれることを認めたくないのだと分かります。

つまり、もし神様が本当におられるなら、彼らは自分の思うままに生きることができなくなります。なぜなら、いつか彼らは自分の行いについて神様の前で申し開きをしなければならないからです。

では、人々が神様に背を向けたとき、その結果はどうなるのでしょうか。

(彼らの)思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり(ます)。(21-22)

偶像礼拝をする人々を見ると、このことがよく分かります。彼らは自分の手で偶像を造ります。つまり、彼らはその偶像の創造者です。しかし、彼らは自ら造った偶像の前で拝み始めるのです。

とはいえ、人々はさまざまな「偶像」を持っています。彼らは自分の知恵や、お金、情欲に従います。けれども、それらの偶像に目がくらみ、支配されてしまいます。

特に、彼らは何が善で何が悪か分からなくなります。また、自分が崇拝する偶像が、実は自分を滅ぼしていることに気づくことができません。

そして、最も恐ろしいのは、彼らが神様に背を向けると、神様も彼らに背を向けられるということです。神様は彼らに言われます。

「あなたは私の心に従わないのですか。では、あなたの心のままにさせましょう。」

その結果は何でしょうか。ローマ1章24〜31節を読んでください。

その結果は、単に人間の不敬虔さだけではなく、私たちの不義も露わになることです。人々は互いに傷つけ合います。

私は24〜31節にある罪のリストを詳しく説明する必要はないでしょう。この世界を見れば、人々が神様に背を向けたときに何が起こるのか、すぐに分かるはずです。

そして、ローマ1:32もまた、私たちの世界の現実を正確に描写しています。

彼らは、そのような行いをする者たちが死に値するという神の定めを知りながら、自らそれを行っているだけでなく、それを行う者たちに同意もしているのです。(32)

人々の心の中では、彼らは自分の罪のために罰されるに値することを理解しています。それでも、彼らはその罪を続け、さらに他の人々が同じ罪を犯すと、その人々を応援します。

アメリカのメディアを見れば、そのことがよく分かります。人々が堂々と神様の律法に背くと、メディアはそれを祝います。神様の言葉に反する法案が可決されると、メディアはそれを歓迎します。

彼らは、「聖書は時代遅れだ。私たちは聖書の著者たちよりもよく知っている」と主張します。

だから、彼らはすでに裁かれています。

それが罪の問題です。だからこそ、私たち全員が救いを必要としているのです。

あなたはどうでしょうか。この世界が救いを必要としていることを理解していますか。

しかし、もっと大切なのは、あなた自身が救いを必要としていることを理解しているかどうかです。

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ローマ人への手紙

福音

この箇所で、パウロは、これまで福音を述べ伝えてきたように、ローマでも同じように宣べ伝えたいという願いを表しています。

もちろん、ローマのクリスチャンたちはすでに福音を知っていました。しかし、私たちは皆、何度も福音を思い起こさせられる必要があります。

さらに、私たちは福音により深く根ざし、その意味が心に深く刻まれる必要があります。

それこそが、この手紙の目的です。私たちが福音により深く根ざすようになることです。

ローマ1:14-15節の言葉は、私の心を打ちました。パウロはこう言いました。

私は、ギリシア人にも未開の人にも、知識のある人にも知識のない人にも、負い目のあるものです。ですから私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。(ローマ人への手紙1:14-15)

もちろん、キリストに呼ばれた使徒として、パウロは福音を述べ伝える義務を持っていました。とはいえ、パウロにとって、その召しは単なる義務ではありませんでした。彼は惜しみなく福音を宣べ伝えました。

私たちも同じ姿勢を持つべきです。私たちは喜びをもって福音を伝えるべきです。なぜでしょうか。私たちはどのような態度を持つべきでしょうか。

私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。(ローマ人への手紙1:16)

「福音は、信じるすべての人に救いをもたらす神様の力です。」

私たちは、その言葉の意味を本当に理解しているでしょうか。福音は人を救う神様の力です。

しかし、神様の望みは、ただ人々が天国へ行くことだけではありません。

救いとは、神様がこの世で人々を癒すことです。罪によって彼らの人生は壊れてしまいましたが、神様の力によって彼らは完全な者となることができます。

壊れた心が癒されます。壊れた結婚や人間関係も癒されます。しかし、最も重要なのは、壊れた神様との関係が癒されることです。

それこそが救いです。福音はその救いをもたらす神様の力です。

そして、この素晴らしい知らせはすべての人のためのものです。

神様はユダヤ人たちを特別な民として選ばれたため、福音はまず彼らに伝えられました。とはいえ、イエス様が十字架で死に、復活された後、すべての人が神様に近づくことができるようになりました。

イエス様を信じるすべての人は、神様の子供として受け入れられるのです。

なぜ、神様は私たちを受け入れてくださるのでしょうか。

福音には、神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてある通りです。(17)

「義」という言葉は、聖書の中でさまざまなニュアンスを持っています。しかし、この箇所での「義」とは、神様との和解を意味します。

私たちの罪によって、神様との関係は壊れていましたが、信仰によって、私たちは神様と和解しました。

少し考えてみると、この概念は理解しやすいものです。

どのようにして私たちの神様との関係が壊れたのでしょうか。私たちは神様に信頼しませんでした。神様が私たちの最善を願っておられることを信じませんでした。神様の意図を疑いました。

そのため、私たちは神様に背を向け、自分の道を歩み始めました。

では、その関係はどのようにして回復されるのでしょうか。私たちは神様に向かい、「これから、私はあなたに信頼します」と言うのです。

まず、私たちはイエス様の十字架での働きを信じなくてはなりません。それを信じなければ、私たちは神様に受け入れられません。そのため、私たちは次のように祈ります。

「イエス様、あなたが十字架で死なれたとき、私の罪のための罰を受けてくださったことを信じます。これから、私の主になってください。」

そうすると、神様は私たちを赦し、新しい心を与えてくださいます。その新しい心によって、私たちは救いのことだけではなく、人生のすべてのことについて、神様を信じるようになります。

そして、私たちが神様を信じれば信じるほど、神様の声に従うようになります。さらに、神様はご自身の声に従う力を私たちに与えてくださいます。そのため、私たちの行動は変わり始め、ますますイエス様のようになっていきます。

その結果は?私たちは変えられ、完全な者となります。それこそが救いです。

あなたはその救いを本当に知っているでしょうか。また、周りの人々にその救いを伝えたいと思うほど、その救いを深く感じているでしょうか。

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ローマ人への手紙

神様に愛され、呼ばれている

それでは、今日から、私たちは新約聖書の中で最も大切な書のひとつを読み始めます。

なぜ、ローマ人への手紙がそれほど重要なのでしょうか。それは、この手紙の中で、パウロが福音を明確に説明しているからです。

パウロがこの手紙を書いたとき、彼はまだローマに行ったことがありませんでした。だから、ほかのパウロの手紙と違い、ローマの教会の具体的な問題については触れませんでした。

むしろ、パウロは福音を詳しく説明しました。なぜなら、神様が彼を福音を述べ伝える者として召したからです。それこそが、パウロの使命でした。

この手紙の冒頭で、パウロは、神様が彼を使徒として召したことについて説明しています。特に、彼の使命は、異邦人に福音を述べ伝えることでした。

パウロがプライドを持って、「神様は私を選ばれた」と誇ることは容易だったでしょう。

しかし、パウロはこう言いました。

「あなたがたも召されてイエス・キリストのものとなりました。あなたがたは神に愛され、召された聖徒たちです。」(ローマ人への手紙1:6-7)

「あなたがたも。」

私は、この言葉が大好きです。

「あなたがたも。」

パウロはローマのクリスチャンたちに語りました。「あなたがたも召されてイエス・キリストのものとなりました。私たちユダヤ人だけではありません。私たち『特別な人』だけではありません。

あなたがたも特別な人たちなのです。あなたがたも神様に愛されているのです。あなたがたも、召された聖徒たちなのです。」

時々、私たちは「どうして神様は私を愛してくださるのだろうか」と疑問に思うことがあります。

私たちは時々こう思います。「私は全然特別じゃない。いったいどうして、神様は私のことを考えてくださるのだろうか。」

けれども、時間が始まる前から、神様は私たちを知っていて、「あなたを愛している。あなたを選ぶ。」と言われました。

神様は私たちの過ちや罪、弱さをすべて見たうえで、それでも「あなたを私のために選ぶ」と言われました。

それが「聖徒」の意味です。「聖徒」とは、「神様に選ばれた人、そして神様のために選ばれた人」という意味なのです。

私たちの多くは「聖徒」という言葉を見ると、「え?私は聖徒なの?そんなはずがない。」と言います。

なぜなら、「聖徒」という言葉を聞くと、私たちは「完全な人」というイメージを抱くからです。

しかし、あなたが「聖徒」と呼ばれるのは、あなたが他の人よりも聖いからではありません。むしろ、神様があなたを愛し、選ばれたからこそ、あなたは「聖徒」と呼ばれるのです。

それは恵みです。私たちがその愛にふさわしくないのに、私たちが他の人よりも優れているわけではないのに、神様はその愛を私たちの上に注いでくださいます。

そして、私たちは恵みによって愛を受けたからこそ、神様との平和を持っています。

神様が私たちを本当に受け入れてくださるかどうかを疑う必要はありません。もし、私たちが神様の受け入れを得るために努力しなければならないのだとしたら、不安を抱くことでしょう。

けれども、神様は恵みによって私たちを受け入れてくださいます。

この世界が造られる前から、神様はすでにあなたを選び、受け入れてくださっていました。もし私たちがそのことを悟るなら、私たちの人生はどのように変わるのでしょうか。

もはや神様の愛と受け入れを得ようと必死になる必要はなく、ただその中で安らぐことができるのです。

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続いていく物語

今日、私たちは「使徒の働き」の最後の話を読みます。それだけでなく、これは聖書の最後の歴史書でもあります。残っているのは、使徒たちからの手紙と黙示録です。

この書には少し不思議な終わり方があります。実は、この書には明確なエンディングがありません。

今日の箇所では、パウロはついにローマに到着し、そこにいるユダヤ人たちに福音を述べ伝え始めました。いつものように、福音を信じる人もいれば、信じない人もいました。

そして、あるユダヤ人たちがパウロのメッセージを拒絶すると、パウロは異邦人のもとへ行き、彼らに福音を述べ伝え始めました。

ルカは、この話をまとめると、こう言いました。

パウロは、まる二年間、自費で借りた家に住み、訪ねてくる人たちをみな迎えて、少しもはばかることなく、また妨げられることもなく、神の国を述べ伝え、

主イエス・キリストのことを教えた。(使徒の働き28:30-31)

あなたは、パウロがカエサルの前に立ったとき、何を言ったのか知りたいと思わないでしょうか。また、パウロの最後の日について聞きたいと思わないでしょうか。

私は聞きたいです。

けれども、ルカはそれらのことについて何も語りません。

むしろ、最後の場面では、パウロは人々に福音を述べ伝えています。

おしまい。

なぜ、ルカはこの書をそのように終えたのでしょうか。私には分かりません。

もしかすると、ルカはこう言いたかったのかもしれません。

「この話はまだ終わっていません。今なお、福音はこの世に広がり続けているのです。」

ある人々は、パウロの時代のユダヤ人たちのように、自らの目を閉じ、耳を塞ぎ、福音を拒絶します。

しかし、迫害があっても、外からの教会への攻撃があっても、内側からの教会への攻撃があっても、神様は教会を守り、福音は今なおこの世に広がり続けています。

そして、今、私たちはその物語の一部となっています。私たちは福音を聞き、信じるようになりました。

それだけでなく、パウロのように、私たちも自らの教会から遣わされ、聖霊様に満たされて、すべての国民に福音を述べ伝えるように呼ばれています。

あなたはどうでしょうか。

あなたは聖霊様に満たされているでしょうか。

聖霊様に満たされなければ、私たちは神様が命じたように福音を述べ伝える力を持つことはできません。

日本語では、この書は「使徒の働き」と呼ばれています。

けれども、この書の最初から最後まで、実際には聖霊様の働きについて描かれています。聖霊様はご自身の民を通して働いておられました。

だから、もう一度イエス様の言葉を読みましょう。

しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。

そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全地、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。(使徒の働き1:8)

私たちは聖霊様に満たされ、この世へ出て、2000年前に始まった物語を受け継ぎましょう。

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使徒の働き

御霊に満たされるなら

私が子供のころ、あるアクションドラマには「一人の人でも、この世を変えられる」というテーマがありました。

この箇所では、その真理を見ることができます。けれども、そのモットーを少し変えたほうがいいかもしれません。それは、「御霊に満たされれば、一人の人でもこの世を変えることができる」ということです。

パウロたちはマルタという島に到着し、寒さをしのぐために火を焚きました。けれども、パウロが枯れ枝を集めたとき、まむしが彼の手に噛みつきました。しかも、そのまむしはパウロの手にぶら下がっていました。

島の人々はそれを見て、こう言いました。

この人はきっと人殺しだ。海からは救われたが、正義の女神はこの人を生かしておかないのだ。(使徒の働き28:4)

しかし、パウロがそれでも生きていたため、彼らは「この人は神だ」と思い始めました。

もちろん、パウロは彼らの誤った考えを正し、真の神について教え始めました。

その後、パウロは島の長官プブリウスの家を訪問し、プブリウスの病気の父のために祈りました。その父が癒されたので、多くの人々がパウロのもとへ訪れました。そして、パウロは彼らの病気を癒しました。

その結果は?

マルタはキリスト教を信じる国となり、今なお、キリスト教はマルタの主要な宗教です。

私のポイントは?

聖霊が私たちのうちに働くなら、私たちはこの世を変えることができます。

私たちはまむしを手から振り落とすことはないかもしれませんし、人を癒すことはできないかもしれません。けれども、聖霊が私たちのうちで働くなら、周囲の人々はそれに気づき、聖霊の働きによって変えられます。

だから、毎日、御霊に満たされましょう。(エペソ人5章18節)

そうすれば、周囲の人々は私たちを通して神を知るようになります。

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嵐の中の光

イエス様は、「あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい」と命じました。(マタイ5:16)

この箇所では、私たちはパウロが自らの光を輝かせる姿を見ることができます。

激しい嵐の中、船に乗っていた人々は絶望していました。けれども、パウロは彼らに希望を与えました。彼はこう言いました。

しかし今、あなたがたに進めます。元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う人は一人もありません。失われるのは船だけです。

昨夜、私の主で、私が仕えている神の御使いが私のそばに立って、こう言ったのです。

「恐れることはありません。パウロよ。あなたは必ずカエサルの前に立ちます。見なさい。神は同船している人たちを、皆あなたに与えておられます。」

ですから、皆さん、元気を出しなさい。私は神を信じています。私に語られたことは、そのとおりになるのです。(使徒の働き27:22-25)

その後、空はまだ暗く、皆が失望していたとき、パウロは彼らにこう言いました。

今日で十四日、あなたがたはひたすら待ち続け、何も口に入れず、食べることなく過ごしてきました。

ですから、食事をするよう勧めます。これで、あなたがたは助かります。頭から髪の毛一本失われることはありません。(33-34)

そして、パウロはパンを取り、皆の前で神様に感謝の祈りをささげ、食べ始めました。それを見て、他の人々の希望が戻り、彼らも食べ始めました。

これは、自らの光を輝かせることのひとつの意味です。私たちは希望のない人に希望を与えるのです。

この世界では、多くの人々が自らの境遇のために希望を失っています。しかし、イエス様は私たちの希望の源です。そして、イエス様が私たちを通して光を輝かせると、周囲の人々は希望を見つけます。

さらに、パウロはもうひとつの方法で光を輝かせました。彼は自らの言葉と行動によって、周囲の人々が正しいことをするように励ましました。

ある船員たちは、船からこっそり逃げ、囚人たちを見捨て、彼らを死なせようとしました。

パウロはそれを見て、警告しました。

あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたは助かりません。(31)

そこで彼らは小舟の綱を切り、そのまま流れさせました。

そして、船が座礁したとき、兵士たちは囚人たちを殺そうとしました。なぜなら、囚人たちが逃げた場合、兵士たちは罰せられるからです。けれども、百人隊長はパウロの光を見ていたため、兵士たちを制止しました。その結果、誰も命を落としませんでした。

このように、私たちは自らの言葉や行動を通して光を輝かせるべきです。私たちは他の人々にどのように生きるべきかを示し、私たちの模範を見ることで、彼らもそのように生きるよう励まされます。

あなたはどうでしょうか。あなたは周囲の人々にとっての光でしょうか。

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大多数の意見に従う?

大多数の意見に従うのは、とても簡単なことです。特に、私たちがその意見に賛同しているなら、それに従うのはなおさら簡単です。

とはいえ、大多数の意見に従うことが常に正しいとは限りません。この箇所では、パウロと他の囚人たちを管理していた百人隊長が、そのことを学びました。

悪天候のため、彼らのローマへの旅は予想以上に遅れました。けれども、パウロはさらに悪化することを知っていました。そこで彼は、百人隊長に警告しました。

皆さん。私の見るところでは、この航海は積み荷や、船体だけでなく、私たちのいのちにも危害と大きな損失をもたらすでしょう。(使徒の働き27:10)

神様がパウロにそう告げたのか、それともパウロ自身の経験からそう判断したのか、私は分かりません。いずえにせよ、とにかく、百人隊長は待ちたくなかったようです。そこで彼は船長や船主と相談し、彼らは航海を続け、別の港で冬を過ごそうと決めました。

なぜ彼らはパウロの助言を聞かなかったのでしょうか。ひとつの理由は、パウロが船員ではなかったからかもしれません。そのため、彼らは自分自身の判断に頼りました。

もうひとつの理由は、彼らがもう待ちたくなかったことです。彼らは旅の遅れを取り戻したいと考えていました。

しかし、大多数の意見に従った結果、彼らは命を失いかねない状況に陥ってしまいました。

あなたはどうでしょうか。あなたは神様の言葉に従いますか。それとも、大多数の意見に従いますか。

周囲の人々が悪いことをするとき、あなたもそれに加わるでしょうか。

また、日本の文化が神の国の文化と対立するとき、あなたはどちらに従いますか。日本の文化でしょうか、それとも神の国の文化でしょうか。

いつも大多数の意見に従っていると、神様の言葉に背いてしまうこともあります。そして、それによって困難な状況に陥ることがあるかもしれませんし、神様を悲しませることにもなります。

パウロはこう言いました。

神の御霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。(エペソ人への手紙4:30)

あなたは誰に従っているでしょうか。

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捉えられた?

この箇所では、3つの福音に対する反応を見ることができます。

1つ目は、迫害です。ユダヤ人たちは福音のゆえにパウロを迫害しました。

2つ目は、人々が私たちを狂気じみていると思うことです。フェストゥスはパウロの話を聞いたとき、そう考えました。

3つ目は、人々が私たちや福音を軽んじることです。アグリッパはパウロの話を聞いたとき、パウロを素朴な人間だと思ったようです。

それでも、パウロは福音を宣言し続けました。なぜでしょうか。

第二コリント5章で、パウロはその理由を説明しました。

私たちが正気でないとすれば(フェストゥスはそう思った)、それは神のためであり、正気であるとすれば(パウロはそう主張した)、それはあなたがたのためです。

というのは、キリストの愛が私たちを捕えているからです。

私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。(第二コリント5:13-14)

どうしてパウロは福音を述べ伝え続けたのでしょうか。なぜなら、パウロは、キリストが私たちを愛し、私たちの罪のために十字架で死んでくださったことを固く信じていたからです。

キリストの愛は彼の心を捉え、人々が彼を狂気じみていると思っても、パウロは福音を伝えなければならないと確信していました。

私たちも同じ態度を持つべきです。イエス様が私たちのために死んでくださったことを信じ、本当にキリストの愛に触れられるなら、私たちは福音を周囲の人々に伝えるべきです。

私たちを迫害する人もいます。私たちを狂気じみていると思う人もいます。私たちを素朴な者だと思う人もいます。しかし、イエス様を信じ、救われる人もいます。

あなたはどうでしょうか。イエス様の愛に捉えられているなら、福音を周囲の人々に伝えるでしょうか。

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神様からの召しに従う

この箇所では、パウロはフェストゥスとアグリッパ王の前に立ちました。このアグリッパ王は、ヤコブを殺し、ペテロを殺そうとしたヘロデの息子でした。

ユダヤ人たちは再び、フェストゥスに対してパウロをエルサレムへ送るよう願いました。フェストゥスはそこでパウロに裁判を受けさせようと考えましたが、実はユダヤ人たちはパウロがエルサレムへ向かう途中で彼を暗殺しようと企んでいました。

パウロはその陰謀を十分に理解していたため、フェストゥスがエルサレム行きを説得しようとしたとき、パウロは「カエサルに上訴します」と宣言しました。

フェストゥスはその願いを受け入れましたが、ここで問題が生じました。パウロの「罪」とされていたものはユダヤ教の法律に関する問題でした。したがって、フェストゥスはどのようにこの「罪」をカエサルへ説明すべきか分かりませんでした。

つまり、フェストゥスはユダヤ教の問題を十分に理解しておらず、おそらくカエサルもユダヤ教について詳しく知らなかったということです。

そのため、アグリッパ王が到着すると、フェストゥスは彼と相談しました。するとアグリッパ王は、「パウロの弁明を聞こう」と述べました。

こうして、パウロはもう一度自らの証しを語りました。パウロはこれまで何度も証しを語っており、そのたびに私たちは新しい詳細を知ることができます。

アグリッパと話した際、パウロはイエスから与えられた使命について説明しました。

イエス様は、パウロにこう語られました

わたしは、あなたを。。。[ユダヤ人たちや異邦人たち]のところに遣わす。

それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なる者とされた人々と共に相続にあずかるためである。(使徒の働き26:17-18)

イエス様は私たちに同じ使命を与えてくださいます。

私たちは周囲の人々に福音を伝えるべきです。その目的は何でしょうか。それは、彼らが自分の罪の鎖や心の暗闇に気づくことです。

そして、彼らがサタンの支配から解放され、神様の国に入ること、さらに罪が赦されること、そしてイエス様を信じる信仰によって神様の子供となることです。

その召しについて、パウロはアグリッパ王とフェストゥスにこう語りました。

私は天からの幻に背か(なかった。)(19)

あなたはどうでしょうか。あなたはその使命を果たしているでしょうか。あなたは周囲の人々に福音を伝えているでしょうか。

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高潔な人

フェリクスは神様の裁きについて聞くと恐れましたが、それでも何度もパウロを呼び、話しました。なぜでしょうか。

フェリクスにはパウロから金をもらいたい下心があったので、何度もパウロを呼べ出して語り合った。(使徒の働き24:26)

フェリクスはパウロに何と言ったでしょうか。

「ずっと牢にいるのは大変だろう。あなたは自分の宗教に夢中だが、牢から出たくはないのか?福音を伝えたいだろう?あなたの神もきっとそう望んでおられるはずだ。」

または、

「教会の人々はあなたのことを心配しているだろう。ところで、多くのクリスチャンがいるのか?財源はどのようになっているのか?確かに、彼らはあなたを助けたいと思っているはずだ。」

パウロは賢い人物でした。彼はフェリクスの意図をよく理解していたでしょう。しかし、パウロはどうしても自分の良心に反することはできませんでした。

フェリクスは約二年間にわたりパウロと話しましたが、最終的に総督の座はフェストゥスという人物に引き継がれました。

パウロが賄賂を使い、牢から出ることは簡単だったでしょう。さまざまな「正当な理由」を挙げることもできたでしょう。それでも、パウロは決してそうしませんでした。なぜでしょうか。

第一の理由は、パウロが神様を愛していたことです。彼は神様のタイミングで釈放されることを信じていました。

たとえ釈放されなくても、神様の計画が最善であると信じていたのです。そして、パウロはイエス様を悲しませたくありませんでした。

第二の理由は、賄賂を使うことがパウロ自身の証しを損なうことになるからです。考えてみてください。パウロはフェリクスに正義・節制・来るべき裁きについて語っていました。もし彼が賄賂を使っていたら、フェリクスはどう思ったでしょうか。

「やはり、パウロはその教えを本気で信じていないのだろう。もし彼が神様の裁きを恐れているなら、この賄賂を受け取るはずがない。」

しかし、パウロは決して賄賂を使いませんでした。その結果、彼の証しは揺るぎないものとなりました。

あなたはどうでしょうか。不便な状況でも、あなたは良心に従うことができるでしょうか?

決して自分の良心に反してはいけません。もっと大切なのは、神様の言葉に反しないことです。神様を信頼し続けてください。

神様が「この場合、悪いことをしても構わない」とは決して言わないのです。

だからこそ、神様の道を歩むことを決断してください。

もしそうしなければ、あなたは神様を悲しませることになり、あなた自身の証しを損ねてしまうでしょう。

あなたはどうでしょうか。あなたは高潔な人ですか?

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神様のご計画のすべてを伝えている?

パウロはエペソの人々にこう語りました。

ですから、今日この日、あなたがたに宣言します。

私は、だれの血に対しても責任がありません。私は神のご計画のすべてを、余すところなくあなたがたに知らせたからです。(使徒の働き20:26-27)

「神のご計画のすべて」とは、一体どういうことでしょうか。

この箇所では、パウロの言葉の意味を知ることができます。パウロはローマの総督フェリクスの前に立ち、ユダヤ人たちの言いがかりを否定しました。

その日、フェリクスは何も決断しませんでした。けれども、その後、彼は何度もパウロと話しました。その時、パウロは自らの信仰について語りました。

もちろん、パウロは神様の愛やイエス様の十字架の働き、そして信仰による救いについて話したことでしょう。しかし、パウロはもう一つの重要なことについても語りました。

パウロが正義と節制と来るべきさばきについて論じた。。。(使徒の働き24:25a)

つまり、パウロはこう語りました。「神様の目にあなたは罪人です。悔い改めなければ、あなたは必ず裁かれます。」

フェリクスはどのように反応したでしょうか。

フェリクスは恐ろしくなり、「今は帰ってよい。折を見て、また呼ぶことにする。」と言った。(25b)

福音とは、ただ「神様はあなたを愛している」というメッセージではありません。

福音は次のようにも語ります。

「深刻な問題があります。真の王はこの世に来て、この世界を裁き、すべてを癒してくださいます。けれども、あなたはその備えができていないのです。あなたは正当な王に罪を犯し、その正しい裁きに直面することになります。」

もし私たちがこのことを伝えないなら、神様の計画のすべてを知らせていないことになります。そして、彼らが地獄へ行ってしまったなら、その血に対する責任は私たちにあるのです。

もちろん、私たちの目的はただ彼らを怖がらせることではありません。

福音は「良い知らせ」です。つまり、王は良いお方で、私たちの罪にもかかわらず、私たちを深く愛してくださいます。

そして、イエス様の十字架の働きによって、私たちはただ地獄から救い出されるだけではなく、イエス様は私たちに豊かな人生を与えてくださり、神様の喜びと平和を知ることができます。

地獄と神様の裁きへの恐れよりも、私たちはこの素晴らしい恵みに目を向けるべきだと思います。

とはいえ、私たちは彼らに警告すべきです。「もし王であるイエス様を拒絶するなら、あなたは必ず裁かれます。」

フェリクスのように、それを聞いて恐れてしまう人もいるでしょう。彼らは「今はそのことについて話したくない」と言うかもしれません。しかし、彼らの反応は私たちの責任ではありません。

私たちができることは、忠実に神様のメッセージを伝えることだけです。

あなたはどうでしょうか。あなたは神様の計画のすべてを人々に伝えていますか。

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神の妨げられない計画

前の記事で書きましたが、神様はご自身の計画を私たちの人生において成し遂げてくださいます。そして、どんな力もその計画を妨げることはできません。

この箇所では、その真理の一つの例を見ることができます。あるユダヤ人たちは、パウロを殺すまでは食べたり飲んだりしないと呪いをかけて誓いました。そこで、彼らは祭司長たちの協力を求めました。

彼らは誰に誓ったのでしょうか。それは神様への誓いだったのでしょうか。それは、なんとも皮肉な誓いです。

「神様。私たちは人を殺してはならないという戒めを破り、パウロを殺害することを誓います。」

確かに彼らは別の言葉を使ったかもしれませんが、本質的には、それが彼らの誓いでした。さらに、祭司長たちはその誓いが正しいと考え、ユダヤ人たちと協力しました。

けれども、彼らは神様の計画を妨げることはできませんでした。

神様の導きによって、パウロの甥はユダヤ人たちの計画を知ることができました。そして、神様が千人隊長の心の中で働かれ、その千人隊長がパウロを守ったため、パウロは無事に裁判に進むことができました。

その結果、ユダヤ人たちの陰謀は無駄になりました。

私はこの話を読むと励まされます。私たちが神様の御心に従おうとするとき、この世が私たちに反対することがあります。事実、私たちが神様に従うと、この世が反対することもあります。

しかし最終的には、誰も、またどんな力も神様の計画を妨げることはできません。

だから、紅海でのモーセの言葉を心に刻みましょう

恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。(出エジプト記14:13)

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私たちのそばに立ってくださる神

時々、聖書を読むと、私たちは使徒たちやほかの聖書の登場人物をスーパーヒーローのように見なします。例えば、彼らは勇気を持ち、恐れることなく死に直面します。

もちろん、そのような話もあります。シャデラク、メシャク、そしてアベデ・ネゴは、まさにそのような勇気を持っていたようです。(ダニエル書3章)

とはいえ、神様を信じた人々が常にそんな勇気を持っていたのかどうかは、私にはわかりません。結局、彼らもただの人間だからです。

そのため、今日の箇所を読むと、パウロの心の中に何があったのか、私は考えずにはいられません。

最高法院の人々の論争が激しくなり、千人隊長はパウロが彼らに引き裂かれてしまうのではないかと恐れました。そこで、兵士たちはパウロを最高法院の人々の中から救い出し、兵営へと連れて行きました。

その夜、パウロは眠りにつくとき、何を考えていたでしょうか。彼は恐れていたでしょうか。彼は、神様からの使命を全うできるのか疑っていたでしょうか。

パウロが何を考えていたか、私にはわかりません。しかし、イエス様はパウロを励まされました。

その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」と言われた。
(使徒の働き23:11)

二つのことが、私の心を打ちました。

一つ目は、イエス様がパウロのそばに立たれたことです。

私たちが最も暗い時、試練の中にいる時、恐れや疑いにさいなまれる時、イエス様はいつも私たちのそばに立ってくださいます。

二つ目は、イエス様がパウロに「勇気を出しなさい。」と言われたことです。

もしパウロがすでに勇気を持っていたなら、なぜイエス様は 「勇気を出しなさい」と言われたのでしょうか。

もしかすると、パウロの境遇のために、彼の心は少し揺れていたのかもしれませんが、イエス様は彼を安心させ、「勇気を出しなさい」と励まされました。

時々、私たちの信仰も揺らぐことがあります。神様の道を歩んでいるとき、本当に正しい道を進んでいるのかどうかを疑うことがあります。

けれども、イエス様はパウロに言われたように、私たちにも語られます。「勇気を出しなさい。」

では、どうすれば私たちは勇気を持つことができるのでしょうか。それは、神様が私たちの人生においてご自身の計画を成し遂げられるからです。そして、サタンやこの世のどんな力も神様の計画を妨げることはできません。

イエス様はパウロにこう言われました。

あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。(11)

要するに、「あなたの敵について心配するな。あなたは私の目的を果たす。だから、しっかりして、私に信頼しなさい。」

あなたはどうですか。あなたの境遇のため、信仰をだんだん失いかけているでしょうか。相手があなたに反対しているので、恐れているでしょうか。

勇気を出しましょう。イエス様があなたのそばに立ってくださっていることを覚えておきましょう。そして、イエス様に信頼し続け、従い続けましょう。イエス様がご自身の計画を成し遂げられることを確信しましょう。

そして、パウロの言葉を心に刻みましょう。

主は近いのです。何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ人への手紙4:5-7)

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蛇のように賢い?

イエス様は弟子たちに「蛇のように賢く生きなさい」と命じられました(マタイ10:16)。この箇所では、パウロはまさにそのように行動しました。

パウロが「狼」に取り囲まれたとき、彼の賢い言葉によって、最高法院は二つに割れました。パウロは何と言ったのでしょうか。

兄弟たち、私はパリサイ人です。パリサイ人の子です。私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです。(使徒の働き23:6)

パウロは本当のことを言いました。パウロはイエス様の復活を信じていたため、裁きを受けていました。

もちろん、パウロはイエス様の名前を直接口にしませんでした。しかし、その言葉によって、復活を信じる人々(つまり、パリサイ人たち)と復活を信じない人々(サドカイ人たち)の間で対立が生じました。

結果として、パリサイ人たちはパウロをかばい始めました。

もしかすると、その言葉をきっかけにイエス様を信じるようになったパリサイ人もいたかもしれません。それが本当に起こったかどうかはわかりませんが、あるパリサイ人たちはこう叫び始めました。

この人には何の悪い点も見られない。もしかしたら、霊か御使いが彼に語りかけたのかもしれない。(使徒の働き23:9)

では、私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

誰と話しているかをよく理解するべきです。

あなたは、福音に強く反対する人に出会うかもしれません。けれども、その人をよく知り、特に彼らの考え方を理解しているなら、神様はあなたにどのように彼らを説得できるかを教えてくださるかもしれません。

そして、あなたの賢い言葉によって、福音の種が彼らの心に蒔かれるかもしれません。

だから、イエス様の言葉を心に刻みましょう。

わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。

ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。(マタイ10:16)

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偏見にとらわれている?

この箇所では、パウロは偏見にとらわれていた二つのグループに直面しました。

ユダヤ人たちは、自分たちを神の民と見なしていたため、神様が異邦人の罪人を救いたいと望まれていることに気づけませんでした。

彼らは、異邦人が救われるためにはユダヤ人のようにならなければならないと考えていました。たとえ神様が異邦人を受け入れられたとしても、異邦人はユダヤ人より劣っていると見なしていたのです。

そのため、パウロが「神様は私を異邦人のもとへ遣わされた」と語ったとき、ユダヤ人たちはその考えをまったく受け入れませんでした。

一方、ローマ人たちはユダヤ人を見下していました。彼らは、ユダヤ人がローマ市民になることなどあり得ないと考えていました。

そのため、本来は裁判の前にローマ市民をむちで打つことが違法であったにもかかわらず、パウロに鞭打ちの刑を科そうとしました。

パウロが千人隊長に「私はローマ市民です」と伝えたとき、千人隊長は最初は信じませんでした。

けれども、自分の誤りに気づくと、深い恐れを感じました。なぜなら、ローマ市民をむち打つことは違法であり、それを行えば千人隊長自身が罰せられるからです。

では、私のポイントは何でしょうか。偏見にとらわれてしまうと、私たちはさまざまな問題に直面します。

もちろん、周りの人々を怒らせることもあるでしょう。しかし、それだけではなく、神様はそのような態度をもつ私たちを裁かれます。

神様はすべての人々を愛しておられます。そのため、イエス様は特定の民族のためではなく、すべての民族のために命を捧げられました。

そして、私たちがクリスチャンになると、神様は私たちを等しくご自身の子供として愛してくださいます。

パウロはこう言いました。

ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。

あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。(ガラテヤ3:28)

だからこそ、私たちは偏見を捨て、人々をありのままに受け入れましょう。彼らは神様のかたちに創造され、神様に愛され、救い主を必要としているのです。

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誤解された

この話の興味深い点は、パウロがユダヤ人のクリスチャンたちとの誤解を解こうとしたものの、ノン・クリスチャンのユダヤ人たちとの間に新たな誤解を生んでしまったことです。

クリスチャンのユダヤ人とノン・クリスチャンのユダヤ人の両方が、パウロの教えを誤解しました。彼らは、パウロがユダヤ人のクリスチャンたちに対して、モーセの律法を完全に捨てるように教えていると思ったのです。

そのため、ヤコブと他の長老たちは、パウロにモーセの律法に従って、四人のユダヤ人クリスチャンたちとともに清めの儀式に参加するよう説得しました。

さらに、神様への誓願を守るために、その四人の費用をパウロが負担しました。(彼らはナジルの誓願を立てていたかもしれません。)

パウロはその考えに同意しました。しかし、ある聖書学者たちは、彼が誤った判断をしたと考えています。つまり、パウロは その儀式に参加すべきではなかったということです。

私の考えでは、パウロの選択は正しかったと思います。彼はユダヤ人を救うために、ユダヤ人にはユダヤ人のようになったのです。(第一コリント9:19-23)

それでも、ユダヤ人のクリスチャンたちとの誤解は解けたものの、ノン・クリスチャンのユダヤ人たちは依然としてパウロがモーセの律法に反対していると思っていました。

さらに、彼らは パウロが異邦人を神殿に連れ込んだと誤解しました。(ユダヤ人の律法では、それは禁止されており、神殿を汚す行為とされていました。)

では、私のポイントは何でしょうか。イエス様に従い、その言葉に忠実であっても周りの人々に誤解される可能性があるということです。

教会の人々だけでなく、この世の人々もあなたを誤解するかもしれません。誤解を解こうと努力しても、あなたのことを理解できない人もいるでしょう。

では、私たちはどうすればいいのでしょうか。イエス様に従い続けるしかありません。神様が私たちに語られたことに従わなくてはなりません。それが唯一の道です。人々の反応を神様に委ねるべきです。

もちろん、私たちは自分の行動を振り返る必要があります。彼らの批判が完全に誤っていることもあります。ところが、時には彼らの指摘が部分的に正しいこともあるかもしれません。

だからこそ、自分の行動と動機を慎重に見極めてください。そして、神様の御心がわかる限り、神様に従いましょう。パウロのような態度を取ることが大切です。

しかし私にとって、あなたがたにさばかれたり、あるいは人間の法廷でさばかれたりすることは、非常に小さなことです。

それどころか、私は自分で自分をさばくことさえしません。私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。

ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。

主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのときに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。(第一コリント4:3-5)

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代価がどんなに高くても

この箇所の解釈は少し難しいかもしれません。

なぜ神様はその預言をパウロに示されたのでしょうか。神様は、パウロがエルサレムに行かないように警告されたかったのでしょうか。それとも、パウロが試練に備えることを望まれたのでしょうか。

私の考えですが、おそらく神様はパウロが試練に備えるために、あらかじめ警告されたのだと思います。

イエス様が初めてパウロに現れたときから、すでにパウロがユダヤ人や異邦人に福音を述べ伝える中で苦しむことを警告されていました。(使徒の働き9:15-16)

だからこそ、他のクリスチャンたちがパウロに「エルサレムへ行かないでほしい」と願ったとき、パウロはこう答えたのではないでしょうか。

あなたがたは、泣いたり私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことも覚悟しています。(使徒の働き21:13)

つまり、どれほど代価が高くても、パウロはイエス様に従おうと努めました。だからこそ、周囲の人々が何を言っても、彼の決意は揺るぎませんでした。

あなたはどうでしょうか。

神様は決して、私たちが順調な人生を送ることを約束されたわけではありません。また、神様に従うことですべての人々が私たちを愛してくれるとも約束されませんでした。

むしろ、神様はその正反対のことを約束されました。(ヨハネ16:33;第二テモテ3:12)

あなたはすでにそのことを知っているかもしれません。しかし、試練に直面したとき、あなたはどうするでしょうか。

その試練が訪れるとき、神様が恵みと勇気を与えてくださるように願います。

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走るべき道のりを走り尽くす

エペソの指導者たちに対するパウロの最後の言葉には、いくつかの点で私の心を打つものがありました。

聖霊様はパウロに、多くの試練に直面することを警告されました。それでも、パウロはこう言いました。

けれども、私が自分の走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分のいのちは少しも惜しいとは思いません。(使徒の働き20:24)

パウロにとって、福音を述べ伝えることは最も重要な使命でした。彼は忠実にそれを果たしたので、こう言うことができました。

ですから、今日この日、あなたがたに宣言します。

私は、だれの血に対しても責任がありません。私は神のご計画のすべてを、余すところなくあなたがたに知らせたからです。(26-27)

しかし、パウロはエペソの指導者たちにも、自らの走るべき道のりを走り尽くすように励ましました。つまり、神様が彼らに託された教会の世話をすることです。パウロは彼らにこう言いました。

あなたがたは自分自身と群れの全体に気を配りなさい。神がご自分の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、聖霊はあなたがたを群れの監督にお立てになったのです。

私は知っています。私が去った後、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、容赦なく群れを荒らし回ります。

また、あなたがた自身の中からも、いろいろと曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こってくるでしょう。

ですから、私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがた一人ひとりを訓戒し続けてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。(28-31)

パウロがはっきりと語ったのは、サタンが私たちが走るべき道のりを走り尽くさないように攻撃するということです。

その一つの方法は外からの攻撃、つまり迫害です。

けれども、もう一つの方法があります。それは教会内部からの攻撃 です。つまり、真理をねじ曲げる者が教会に入ってくるということです。

彼らはクリスチャンのように見えますが、実際にはサタンの偽りを教えます。もし彼らに従ってしまえば、私たちは誤った道に進むことになります。

だからこそ、パウロはエペソの人々に言いました。「注意しなさい。迫害も、偽のクリスチャン・リーダーも、必ずやってきます。」

私たちも注意しなければなりません。私たちの信仰のために、親しい家族や友人の間でも私たちを迫害する者がいるかもしれません。

また、もし神様の言葉を十分に知らなければ、ネット、本、さらには私たちの教会の中でも、サタンの偽りに触れ、騙されてしまうことがあります。

それを聞いて不安を感じたり、「どうすればいいのか?」と迷ったりするかもしれません。しかし、パウロはこう言いました。

今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。

みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。(32)

つまり、最終的に、神様とその恵みだけが私たちを最後まで守ってくださいます。神様の恵みは私たちを救い、守ってくださいます。

子どもたち。あなたがたは神から出た者であり、彼らに勝ちました。

あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも偉大だからです。(第一ヨハネ4:4)

だから、神様が与えてくださった恵みによって走りましょう。

私たちは一人で走る必要も、自分の力で走る必要もありません。神様の恵みによって、私たちは走るべき道のりを走り尽くすことができます。

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手で造った神々に仕える?

この箇所では、手で造られた神々への礼拝、つまり偶像礼拝のために暴動が起こりました。とはいえ、実際には、銀細工人であるデメテリオにとって本当の神は偶像ではなく、お金でした。

彼がパウロに反対した理由を説明したとき、最初に述べたのは、エペソ人がクリスチャンになると自分や同業者の評判が悪くなり、売り上げが下がるということでした。これが彼の最大の懸念でした。

そしてその後、彼は「ところで、偉大な女神アルテミスは自分の威光を失います。」と付け加えました。

結局、彼はこの二つの”神”を礼拝するがゆえに群衆を扇動しました。幸いにも、町の書記官が人々を落ち着かせました。

もしそうしていなかったら、パウロは殺され、多くの人が負傷し、エペソ人たちはローマ帝国によって厳しく罰せられたでしょう。

今でも、人々の人生は手で造られた神々によってめちゃくちゃになっています。

お金に対する愛のせいで、結婚や人間関係が壊れ、教会や政府で多くのスキャンダルが発生しています。さらに、お金への執着が麻薬取引を大問題にし、毎年多くの人々が命を落としています。

さらに、お金、偶像、そして偽の神々への愛が、人々を神様から遠ざけ、死に至る道へと導いています。もし彼らが悔い改めなければ、命の源から引き離され、永遠に地獄で苦しむことになります。

あなたはどうでしょうか。あなたは手で造られた神々に仕えて いますか、それとも本当の唯一の神に従っていますか?

偶像を礼拝するならば、あなたは永遠に滅びてしまいます。

唯一の神だけが命を与えることができるのです。

あなたは誰に仕えているでしょうか?

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罪を捨てる

私たちがクリスチャンになると、神様は新しいスタートを与えてくださいます。それは本当に素晴らしい知らせですね。

この箇所では、神様はエペソの人々にも新しいスタートを与えられました。多くの人々はクリスチャンになったことで、罪の道から離れ始めました。

例えば、魔術を行っていた人々は、その書物を焼き捨てました。その書物は非常に高価なものでしたが、彼らはちゅうちょせずに焼き捨てました。

さらに、彼らが皆の前でそうしたことで、周りの人々は彼らの決断を目の当たりにしました。

この箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

もし私たちの心が本当に変えられたならば、私たちの行動も変わるはずです。私たちが本当にイエス様を信じるなら、たとえ痛みを伴うとしても、罪を捨てるべきです。

例えば、あなたの会社の業績が良かったとしても、もし悪徳商法を行っているならば、神様は私たちのやり方が変わることを望まれます。

あるいは、あなたが恋人と肉体関係を持っているかもしれません。相手があなたと絶交する可能性があったとしても、私たちは純潔を守るべきです。

とはいえ、そのような選択をする際には、自分の動機を明確に伝える必要があります。単に心を入れ替えたいからではなく、神様への感謝を持って、私たちは違う道を歩んでいるのだと示すべきです。

つまり、イエス様の十字架の働きによって私たちは赦され、新しいスタートを与えられました。そして、私たちの人生は、神様の愛、喜び、平和で満たされています。

私たちが神様の道を歩むと、私たちに怒りを向ける人もいるかもしれません。あざ笑う人もいるかもしれません。けれども、私たちを通してキリストの愛に触れ、イエス様を見つける人もいるのです。

エペソにもそのような人々がいました。エペソにいるクリスチャンを通して、神様は多くの人の心に働かれました。だから、

主のことばは力強く広がり、勢いを得て行った。(20)

あなたはどうでしょうか。神様はあなたに、どの罪を捨てるように命じられているでしょうか。

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本当の関係を持っている?

イエス様は十字架にかけられる前に、弟子たちにこのように語られました。

わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。(ヨハネ14:12)

この箇所では、そのようなことを見ることができます。ルカはこのように書きました。

(パウロ)が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを、持って行って病人たちに当てると、病気が去り、悪霊も出ていくほどであった。(使徒の働き19:12)

ある祭司長の息子たちはそれを見て、イエス様の名前によって人から悪霊を追い出そうとしました。ところが、悪霊は答えました。

イエスのことは知っているし、パウロのこともよく知っている。しかし、おまえたちは何者だ。(15)

すると、その悪霊につかれていた人が彼らに飛びかかり、押さえつけ、打ち負かしました。

この話から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

私たちには、神様との個人的な関係が必要です。

たとえあなたのご両親、兄弟、親友がクリスチャンであっても、それがあなた自身がクリスチャンであることを意味するわけではありません。あなたは自分自身の神様との関係を持たなくてはなりません。

その関係を持たなければ、サタンはあなたを神の子供として認めません。しかし、もっと重要なのは、神様があなたをご自身の子供として認めてくださらないということです。

もしかしたら、裁きの日に、あなたは神様にこう言うかもしれません。

「え?私を知らないのですか?毎週日曜日に私は教会に行っていましたよ。私の父も母もあなたを知っていますし、私の友人たちもあなたを知っています。」

ところが、神様はこう言われます。「おまえの父も母も知っているし、おまえの友人もよく知っている。しかし、おまえは何者だ?」

そして、あなたは神様から永遠に離れてしまいます。

あなたはどうでしょうか。神様との関係を本当に持っていますか?神様を本当に知っていますか?

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いつ人を神様に委ねるべきか

愛する人々が福音を拒絶するのを見るのは、非常につらいことです。けれども、私たちが諦め、その人を神様に委ねるべき日が来るかもしれません。では、いつそうすべきなのでしょうか。

今日の箇所では、その答えを見つけることができます。

エペソにいたとき、パウロはいつも通りユダヤ人の会堂に行き、イエス様について教えました。パウロは約三か月間そうしましたが、最終的にユダヤ人たちは心を頑なにし、聞き入れず、「道のこと」(つまり福音)を悪く言いました。(使徒の働き19:9)

パウロの反応はどうだったでしょうか。

パウロは彼らから離れ、別の場所へ行き、福音を受け入れる人々に伝えました。

福音を伝えるとき、相手がもっと聞きたいという気持ちを持っていると感じることがあります。そのような心を持っている人には、福音を伝え続けるべきです。

しかし、相手が心を固くし、敵対的な態度を取るならば、私たちは彼らを神様の手に委ね、別の人々に福音を伝え始めるべきです。

頑なな心を持つ人に福音を伝え続けることは無駄であり、むしろ相手の心をさらに固くしてしまうかもしれません。

私たちは誰かを信じさせることはできません。人の心を変えられるのは聖霊様だけです。

パウロが言ったように、私たちは福音の種を植え、水を注ぐことができます。しかし、成長させるのは神様だけです。(第一コリント3:6-7)

だからこそ、もし相手が私たちの言葉を拒絶するならば、私たちは身を引き、彼らの心を変えられる方に委ねましょう。

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使徒の働き

悔い改めることだけではく

この箇所では、私たちはバプテスマのヨハネの弟子たちに出会います。ある意味では彼らはアポロに似ていましたが、ある意味ではアポロとは異なっていました。

アポロのように、彼らはバプテスマのヨハネに従いました。しかし、アポロと違い、ヨハネが誰を指していたのかを理解していませんでした。

ヨハネは彼らにバプテスマを授けましたが、もしかしたらヨハネがイエス様をメシアとして宣言する前に、彼らは別の場所へ移ったのかもしれません。つまり、彼らは罪を悔い改めましたが、イエス様に従ってはいませんでした。

そこで、パウロは彼らにイエス様について教えました。その後、彼らはイエス様を信じ、イエス様の名前によって洗礼を受け、聖霊を受けました。

今日の要点は何でしょうか。罪を悔い改めるだけでは、十分ではありません。

「神様に従いたい」と言っても、それだけでは足りません。

あなたはイエス様を信じなければなりません。

イエス様は、神様への道のひとつではありません。唯一の道なのです。イエス様との関係を持たなければ、どれほど多くのものを持っていても、それは無意味です。

あなたはどうでしょうか。イエス様を信じていますか。すでにイエス様を受け入れましたか。

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素直な心

私たちが「もう知っている」という態度を取るのは、簡単なことです。

例えば、日曜日に牧師のメッセージを聞くとき、「もう知っている」と思ってしまうことがあります。

長い間、教会に通っている人にとって、そのような態度を取るのは特に簡単です。

正直に言うと、私自身もそのような態度を取ったことがあります。今でも、そのような姿勢に注意しなければなりません。

たとえ神様や聖書について多くのことを正しく理解していても、私たちはまだまだ学ぶべきことがたくさんあります。

この箇所では、アポロという人物がイエス様について深い知識を持っており、その理解はある程度正しかったものの、不完全でした。

そこで、プリスキラとアキラというクリスチャン夫婦は、アポロに「神の道をもっと正確に説明しました」(使徒の働き18:26)。

最も重要なのは、アポロが素直な心を持っていたということです。彼は「私はもう知っている」と言って彼らの教えを拒んだわけではありません。

むしろ、常に学ぶ姿勢を保っていたため、彼のミニストリーはさらに力強くなりました。その態度によって、彼は神の国のためにさらに豊かな実を結びました。

あなたはどうでしょうか。あなたは成熟したクリスチャンで、聖書について深く知っているかもしれません。しかし、今でも素直な心を持ち、学ぶ姿勢を取っていますか。

謙遜な態度を持ち、まだ知らないことが多くあると認められるでしょうか。

そのような心を持ち続けることによってこそ、私たちはクリスチャンとして成長し、神様のために豊かな実を結び続けることができるのです。

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私たの責任を果たす

パウロが常に行ったことは、福音を述べ伝えることでした。どこへ行っても、パウロはイエス様がキリストであることを伝えました。

(覚えておいてください。「キリスト」とは名前ではなく、肩書です。ユダヤ人にとって、「キリスト」とは「救い主」や「王」を意味します。)

なぜ、パウロは福音を述べ伝えたのでしょうか。その理由の一つは、イエス様がパウロにそう命じられたことです。そして、イエス様は一度だけ命じたのではありません。パウロが救われたとき、イエス様は彼に使命を与えられました。(使徒の働き9:15)

そして、この箇所でも、イエス様はもう一度パウロにこう言われました。

恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。(使徒の働き18:9)

しかし、パウロには、福音を伝える理由がもう一つありました。彼は、預言者エゼキエルに対する神様の言葉を覚えていました。

わたしが、悪いものに「あなたは必ず死ぬ」と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪い者に悪の道から離れて生きるように警告しないなら、その悪い者は自分の不義のゆえに死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。

もしあなたが悪い者に警告を与えても、彼がその悪と悪の道から立ち返ることがないなら、彼は自分の不義のゆえに死ななければならない。しかし、あなたは自分のいのちを救うことになる。(エゼキエル書3:18-19)

そのため、コリントでユダヤ人たちがパウロのメッセージを拒絶したとき、パウロはこう言いました。

あなたがたの血は、あなたがたの頭上に降りかかれ。私には責任がない。(使徒の働き18:6)

その後、パウロはエペソの長老たちに、似たことを語りました。(使徒の働き20:26-27)

私のポイントは?

私たちは、知っている人に福音を述べ伝える責任を持っています。

彼らの反応は私たちの責任ではありませんが、私たちは彼らに真理を伝える使命があります。そうしないと、神様は彼らの血の責任を私たちに問われます。

イエス様は、かつてパウロに語られたように、私たちにも語られます。

恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。(使徒の働き18:9)

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もう一つのクリスマス

2000年前、人々は最初のクリスマスを祝いました。

けれども、私たちクリスチャンは、もう一つのクリスマスを待っています。

最初のクリスマスの日、イエス様は赤ちゃんとしてこの世に来られました。そして、イエス様の目的は、十字架で私たちの罪のために死ぬことでした。イエス様が私たちの罰を受けてくださったので、今は天の父が私たちを赦してくださいます。

しかし、パウロによれば、イエス様はもう一度来られます。今度は、この世を裁くために来られます。

パウロはこう言いました。

なぜなら、神は日を定めて、お立てになった一人の方により、義を持ってこの世界をさばこうとしておられるからです。

神はこの方(イエス)を死者の中からよみがえらせて、その確証をすべての人にお与えになったのです。(使徒の働き17:31)

イエス様を拒絶したすべての人々は、永遠に罰を受けます。

しかし、イエス様を受け入れたすべての人々は、この砕かれた世界から救い出され、新しくされます。

へブル人への手紙の著者はこう言いました。

そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。(へブル人への手紙9:27-28)

あなたは、イエス様の再臨に向けて準備ができていますか。どのように備えるべきでしょうか。

パウロはアテネの人々に語りかけ、私たちにもこう言います。

。。。今はどこででも、すべての人に悔い改めを命じておられます。(30)

「悔い改め」とは、これまで歩んできた方向から正反対の道へと進むことを意味します。つまり、自分の道ではなく、神様の道を歩み始めることです。自分自身を頼るのではなく、イエス様に信頼し始めることです。

そうすれば、「次のクリスマス」が来たとき、あなたは準備万端です。

あなたは、すでに準備ができていますか。

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遠く離れない神

私の一番好きな歌は、このように始まります。

As little children, we would dream of Christmas morn,
私たちが幼い頃、クリスマスの朝を夢見ていました。
Of all the gifts and toys we knew we’d find.
つまり、きっと見つけることのできるプレゼントやおもちゃのことを思い描いていました。
But we never realized a baby born one blessed night,
しかし、私たちは気づいていませんでした。ある祝福された夜に生まれた赤ちゃんが、
Gave us the greatest gift of our lives.
私たちの人生にとって最も素晴らしい贈り物であることを。

その夜、目に見えない神が、目に見える存在となりました。また、知られていない神が現れ、私たちに近づかれました。

パウロは、その真理をアテネの人々に伝えようとしました。彼らは「知られていない神」のために祭壇を設けていました。

そこで、パウロは彼らにこう言いました。「その神は、今や知られるようになりました。神ご自身が私たちにご自身を現してくださいました。その神はすべての神々の中の一つではなく、唯一の神です。

そして、その神は、この世界とその中にあるすべてのものを創造されました。

神は天地の主であり、命を与えるお方です。

また、神はご自身の計画に従って、すべてを成し遂げられました。その目的は何でしょうか。

それは、神を求めさせるためです。もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう。(使徒の働き17:27a)

そして、神様を求める人々にとって、良い知らせがあります。

確かに、神は私たちに一人ひとりから遠く離れてはおられません。(27b)

イエス様のもう一つの名前は「インマヌエル」です。

クリスマスの良い知らせとは、神様が私たちに近づいてくださり、神様を知ることができるようになったことです。

イエス様を通して、私たちは神様と親しい関係を持つことができます。

神様は私たちに近づいてくださいました。だからこそ、私たちも毎日神様に近づいていきましょう。

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悪を見て見ぬふりをする?

私たちはこの世の悪を目にすると、次第に気にならなくなってしまうことがあります。最初はそれを見て心を痛めたかもしれません。けれども、時間が経つにつれて、その悪に慣れ、やがて気づかなくなってしまうのです。

パウロはそうではありませんでした。彼がアテネに行ったとき、数多くの偶像を目にしました。そのとき、彼はどう反応したでしょうか。

パウロは。。。町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを覚えた。(使徒の働き17:16)

「憤り」という言葉の原語は、新約聖書の中で、もう一つの箇所にしか現れません。皮肉なことに、そのほかの箇所では、パウロは「愛は苛立たず」と語っています。

しかし、今日の箇所では、パウロは憤りを覚えました。なぜでしょうか。それは、この偶像のせいで多くの人々が地獄へ向かっていたからです。サタンは彼らを欺き、苦しめていました。

そのため、パウロは彼らが救われるように、大胆に福音を述べ伝えました。

あなたはどうでしょうか。

周囲の悪を目にすると、あなたは憤りを覚えるでしょうか。

不正を見たとき、憤りを覚えるでしょうか。

人々が悪を「良いこと」と呼ぶとき、あなたは怒りを感じるでしょうか。

サタンが人々の命を滅ぼしているとき、あなたは正義の怒りを覚えるでしょうか。

もし何も感じないなら、あなたの心の中で何かが正しくありません。御霊があなたの心に住んでおられるなら、悪を目にしても無関心ではいられないはずです。

私たちは御霊に導かれ、この世に塩と光として生きるべきです。

イエス様はこう言われました。

あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。

もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。

あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。

また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。(マタイ5:13-15)

あなたはこの世の悪に慣れすぎて、塩気を失った塩になってしまっていないでしょうか。悪に対する無関心な態度のせいで、隠された光になっていないでしょうか。

私たちはそのような者にならないように気をつけましょう。むしろ、周りの人々に触れるほど、悪に対する憤りを覚える者となりましょう。

沈黙するのではなく、悪を見て見ぬふりせず、神様の光としてこの世に出て、人々に影響を与えましょう。

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使徒の働き

私たちが聞くことを吟味する?

現代では、私たちはさまざまな情報を簡単に得ることができます。特に、インターネットを通じて、多様なニュースや意見に触れることができます。

信仰に関しても同じです。牧師だけでなく、一般のクリスチャンも神様や聖書について語り、多くの人が彼らの教えに従っています。

けれども、私たちはどれほど彼らの言葉を吟味しているでしょうか。もし吟味しなければ、信頼に値しない人の意見に流されてしまいます。

テサロニケ人やベレア人の多くは、まさにそのような人々でした。福音の敵は簡単に彼らを扇動し、パウロとシラスに対する大騒ぎを引き起こしました。

なぜでしょうか。それは、彼らがパウロの敵の言葉を吟味せず、すぐにその嘘を信じてしまったからです。

しかし、パウロの言葉を信じた人々の中にも、聞いたことを十分に吟味しない者がいました。ルカはテサロニケ人とベレア人を比較して、こう記しました。

ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。(使徒の働き17:11)

よく考えてみてください。パウロは偉大な使徒でした。けれども、御霊はルカを通してベレア人を称賛しました。

なぜでしょうか。それは、彼らが簡単にパウロの言葉を受け入れたのではなく、むしろ聖書に照らして吟味したからです。

もしベレア人がパウロの言葉を吟味したことが良いことであるなら、私たちも牧師の言葉を吟味すべきではないでしょうか。有名な牧師やクリスチャン作家の言葉も、慎重に検証すべきではないでしょうか。

しかし、多くの人々は聞くことを吟味しません。もし話の内容が正しく聞こえたり、心を動かされたりすると、すぐに受け入れてしまいます。

その結果どうなるでしょうか。神様の道から離れ、偽りの教えの風に吹き回されるのです。(エペソ4:14)

そうならないようにしましょう。私たちが聞くことを吟味しなければ、神様の道を見逃してしまいます。

むしろ、パウロの言葉を心に留め、それに従いましょう。

ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。あらゆる形の悪から離れなさい。(第一テサロニケ5:21-22)

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解放された

この箇所のテーマの一つは、「解放」です。

ルデヤとその家族は罪から救われました。もしかすると、彼女たちはユダヤ人の律法の要求からも自由にされたのかもしれません。

ある女性は、悪霊の力から解放されました。

看守は、(もしかすると他の囚人も)自分の罪から救われました。

そして、パウロとシラスは牢の鎖から解放されました。

さまざまな意味において、パウロとシラスの経験はこのテーマを象徴していると言えるでしょう。

彼らは牢に座り、鞭による傷の痛みに苦しんでいたはずです。それにもかかわらず、彼らは祈り、賛美の歌を歌いました。

おそらく、最初は他の囚人たちはパウロとシラスを不思議な人物だと思ったでしょう。けれども、彼らの祈りと賛美を聞くうちに、囚人たちはパウロとシラスの信仰の真実さを理解し始めました。

もしかすると、彼らは神様の臨在を感じ、パウロとシラスに神様について尋ねたかもしれません。

看守はその様子を見て、皆がおかしいと思い、自室に戻って眠りにつきました。ところが、突然地震が起こりました。そして、

たちまち扉が全部開いてすべての囚人の鎖が外れてしまった。(使徒の働き16:26)

その言葉は私の心を打ちました。なぜなら、私たちが自分自身を神様にささげると、霊的な牢の扉が開き、囚人の鎖が外れるからです。

もちろん、そのようなことは私たちの人生にも起こりますが、私たちが触れる人々の人生にも起こるのです。

パウロが囚人たちに「逃げないでください」と願ったとき、神様の愛が彼らの心にすでに触れていたので、誰一人として逃げる者はいませんでした。

その様子を見た看守は、叫びました。

先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか。(30)

それ以前、サタンは看守とその家族を長い間縛っていました。しかし、パウロから流れた愛と憐れみによって、彼らはサタンの鎖から解放されました。だから彼らは喜びに満ちました。

神様は、あなたの周りの人々を自由にしたいと望んでおられます。そのために、2000年前、天の父はイエス様を送ってくださいました。

だからこそ、神様の愛を彼らに示しましょう。また、パウロが伝えた福音のメッセージを語りましょう。

主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。(使徒の働き16:31)

その言葉を信じるなら、あなたの周りの人々も救われるでしょう。

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神の御名のもとに自分の計画成し遂げようとする?

この箇所はとても興味深いです。パウロと他の宣教師は各地へ行こうとしましたが、御霊に「行ってはならない」と言われました。

そのため、おそらく数日間、あるいは数週間の間、パウロたちは少しフラストレーションを感じていたでしょう。しかし、ある日、パウロは幻を見ました。その幻の中で、一人のマケドニア人がこう言いました。

マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください。(使徒の働き16:9)

だから、パウロたちはすぐにマケドニアへ向かいました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

私たちは神様の御心に従っているつもりで、あちこちへ行くことが簡単にできます。しかし、何度も障害にぶつかり、フラストレーションを感じてしまうことがあります。

私たちの問題は何でしょうか。多くの場合、私たちは実際には神様の御心に従っていないのです。むしろ、私たちは神様の名のもとに、自分の計画を成し遂げようとしているのです。

ですから、ミニストリーをしていてフラストレーションを感じるときは、少し静まりましょう。そして、神様を求めましょう。

「神様、私の計画を祝福してください」と祈るのではなく、「神様、あなたが何をなさっているのか教えてください。私がどのようにあなたの働きに加わることができるのか教えてください」と祈りましょう。

そうすれば、神様は御心をあなたに示してくださいます。

あなたはどうでしょうか。あなたは本当に神様の御心に従っているでしょうか。それとも、もしかすると、自分の計画に神様の名前を付けているだけでしょうか。

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すべての人に、すべてのものとなる

この箇所では、私たちは少し不思議な出来事を目にします。パウロは各地を巡り、クリスチャンたちに異邦人に関する教会の決定を伝えました。つまり、異邦人は割礼を受ける必要がないということです。

それにもかかわらず、パウロはテモテに割礼を受けさせました。なぜでしょうか。

おそらく、テモテが純血のギリシャ人であれば、パウロは彼に割礼を受けさせなかったでしょう。

実際、テトスという人物は純血のギリシャ人であり、パウロは彼に割礼を受けさせませんでした(ガラテヤ2:3)。さらに、テトスの働きの対象は主に異邦人でした。

けれども、テモテの場合、彼の母がユダヤ人であり、彼自身もユダヤ人たちに福音を伝えたいと願っていました。そして、もしテモテが割礼を受けていなかったならば、ユダヤ人たちは彼の言葉に決して耳を傾けることはなかったでしょう。

そのため、テモテがユダヤ人に仕えたいと願うのであれば、割礼を受ける必要がありました。

パウロはその真理を次のように説明しました。

ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を獲得するためです。

律法の下にある人たちにはーー私自身は律法の下にはいませんがーー律法の下にあるもののようになりました。律法の下にある人たちを獲得するためです。。。

すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。(第一コリント9:20,22)

では、パウロの模範から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

できる限り、あなたが仕える人々に共感するべきです。そうしなければ、彼らはあなたの言葉に耳を傾けてくれないでしょう。

日本の宣教師として、私は日本人の言語や文化、考え方を学ぶべきです。

とはいえ、あなたが自分の国に住んでいる場合でも、周りの人々の考え方や生活、楽しんでいることを知るべきです。そして、できる限り相手のことを理解し、共感するよう努めるべきです。

例えば、あなたは社交的な人かもしれませんが、相手は内気な人かもしれません。

その場合、最初から大きな教会に彼らを紹介するのではなく、一対一で時間を過ごす方がよいかもしれません。また、もう一人か二人のクリスチャンの友人を紹介するのもよいでしょう。

もしかしたら、あなたはスポーツがあまり好きではないかもしれません。それでも、相手から誘われたなら、一緒に行く方がよいでしょう。

簡単に言うと、できる限り相手のことを理解し、共感しましょう。テモテもパウロもそうしました。

あなたはどうでしょうか。神様はあなたの人生にどのような人を置かれたでしょうか。彼らが救われるために、どのように彼らをもっと知り、共感できるでしょうか。

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もう一つのチャンスを与える?

この箇所では、私たちはパウロとバルナバが別れる場面を目にします。

その理由は、マルコという若い男性です。マルコはバルナバのいとこであり、パウロとバルナバが最初の宣教旅行に出発する際、彼も同行しました。けれども、なぜか途中で帰ってしまいました。

私たちはその理由を知りません。もしかしたら、彼はホームシックだったのかもしれません。あるいは、福音の敵と対峙したときに恐れを感じたのかもしれません。

いずれにせよ、どうやらパウロはマルコの決断を受け入れられなかったようです。

そのため、パウロとバルナバが再び宣教旅行に行こうとしたとき、バルナバがマルコを同行させようと提案すると、パウロは強く反対しました。

バルナバはそのことで怒り、マルコとともにキプロスへ渡り、宣教の働きを続けました。一方、パウロはシラスという人物とともに別の地へ赴きました。

私はパウロの気持ちがよく分かります。信頼できない人と働くのは、とても難しいことです。とはいえ、この場面では、パウロは自分が説いていた教えを忘れてしまいました。それは「恵み」です。

その後、パウロはそのことを理解するようになりました。マルコはもう一度チャンスを与えられ、バルナバとともに忠実に仕えました。その後、彼はペテロとともに忠実に仕えました。

そして最終的には、彼はパウロとともに忠実に仕えました。パウロはマルコについて、テモテにこう言いました。

マルコを伴って、一緒に来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。(第二テモテ4:11)

実は、パウロとマルコは互いに恵みを与え合わなければなりませんでした。

パウロはマルコの過去の失敗を許さなければなりませんでした。けれども、マルコもまた、パウロの以前の態度を許さなければなりませんでした。互いに許し合ったことで、二人は祝福されました。

あなたはどうでしょうか。あなたをがっかりさせた人がいるでしょうか。あなたを傷つけた人がいるでしょうか。

神様は何度も私たちにチャンスを与えてくださるので、私たちも周りの人々にそのようなチャンスを与えるべきです。

もちろん、すぐに相手を完全に信頼しなければならないわけではありません。それでも、信頼を得る機会を与えるべきです。

そして、彼らが私たちの信頼に値することを示せば示すほど、もう一度彼らを信頼しましょう。

天のお父様は、もう一度チャンスを与える方です。神様の子どもとして、私たちもそうすべきです。

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恵みだけ

この箇所では、私たちは使徒の時代における最も重要な議論の一つを目にします。

パウロとバルナバは異邦人たちに福音を述べ伝えました。けれども、あるクリスチャンたちはパウロとバルナバの教えに反対しました。

つまり、パウロとバルナバはこう教えました。

ですから、兄弟たち、あなたがたに知っていただきたい。このイエスを通して罪の赦しが宣べ伝えられているのです。

また、モーセの律法を通しては義と認められることができなかったすべてのことについてこの方によって、信じる者はみな義と認められるのです。(使徒の働き13:38-39)

ところが、あるユダヤ人の信者たち、特にパリサイ派に所属している信者たちは、それを受け入れませんでした。

もちろん、彼らはイエス様への信仰によって人々が赦されることを信じていました。しかし、それに加えてもう一つの要求をしました。

つまり、異邦人たちは割礼を受けなければならず、さらにモーセの律法を守らなければならない、ということです。

だから、

パウロやバルナバと彼らの間に激しい対立と論争が生じた。。。(使徒の働き15:2)

だから、彼らは皆、エルサレムに行き、使徒たちと長老たちとその問題について話し合いました。

まず、パウロとバルナバは、異邦人の間での神様の働きについて語りました。けれども、そのあと、パリサイ派の人々が立ち上がり、こう言いました。

「それはいいけれど、彼らはまだ割礼を受け、モーセの律法を守らなければならない。」

こうして、激しい議論が始まりました。

私はペテロの思いを想像できます。

ペテロは幼い頃からユダヤ人として育ち、ずっとモーセの律法に従ってきました。彼にとって、異邦人に対する神様の恵みの言葉を受け入れることは、まだ少し難しかったかもしれません。

そのため、彼はパリサイ派の人々の意見に共感を覚えたかもしれません。

それでも、コルネリウスの家に行ったとき、ペテロ自身がそのメッセージを異邦人に伝えました。

そのため、この議論を聞きながら、ペテロは神様からの幻をもう一度思い出していたことでしょう。(使徒の働き10:11-16)

そして、彼は再びその幻の教訓について思い悩んだかもしれません。

けれども、最終的にペテロは、神様がユダヤ人と異邦人を区別しないことを悟り、皆にこう言いました。

。。。人の心をご存じである神は、私たちに与えられたのと同じように、異邦人にも聖霊を与えて、彼らのために証をされました。

私たちと彼らの間に何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。

そうであるなら、なぜ今あなたがたは、私たちの先祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首にかけて、神を試みるのですか。(8-10)

それを聞いて、皆は静かになりました。バルナバやパウロの異邦人との経験よりも、ペテロの言葉が彼らの心を打ったようです。

そして、ヤコブは聖書によってペテロの言葉を確認したため、すべての異議がなくなりました。

では、この話から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

恵みだけによって、私たちは救われるのです。

私たちはキリストの御業に、自分の努力を足すことはありません。

私たちが頑張ったからといって、神様がその報いとして私たちに恵みを与えてくださるわけではありません。

私たちの努力を神様の恵みに足して救われるのではなく、私たちはキリストの十字架の御業だけによって救われました。

けれども、ペテロのように、私たちの多くにとってこの真理を受け入れることは容易ではありません。そのため、「私はやっぱりだめだ」と思い、神様が本当に私たちを受け入れてくださるのか疑問に思うことがあります。

あるいは、周りの人々を裁いて、「あの人はだめだ」と考えてしまうこともあるかもしれません。

しかし、事実として、救いに値する人は誰もいません。だからこそ、私たちには恵みが必要なのです。

私たちは救いに値しませんが、イエス様が十字架で血を流されたことによって、私たちは義と認められました。神様はすでに私たちを受け入れています。だから、神様が私たちを受け入れてくださるかどうか、悩む必要はないのです。

それを本当に信じていますか?

パウロの言葉を心に留めておきましょう。

この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。

行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ人への手紙2:8-9)

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苦難があっても

控えめに言っても、パウロとバルナバの宣教旅行は決して退屈なものではありませんでした。

彼らは数々の成功を経験しましたが、同時に多くの試練にも直面しました。あるとき、パウロは石打ちの刑に遭い、死の危機に瀕しました。そのため、彼らが失望し、諦めてしまうことは容易だったでしょう。

けれども、彼らはそうしませんでした。むしろ、迫害された場所にまで戻ったのです。なぜでしょうか。それは、そこにいる信者たちを励まし、信仰に堅く立つように勧めるためでした。

彼らは何を語ったのでしょうか。

私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない。(使徒の働き14:22)

もし私たちがそのクリスチャンたちの立場だったなら、きっと試練ではなく、神様の祝福について聞きたかったことでしょう。

しかし、パウロは、新しいクリスチャンたちが試練に直面することを理解していました。もし、パウロとバルナバが訪れた都市の人々が彼らを迫害するなら、新しいクリスチャンたちも同じように迫害される可能性が高いのです。

だからこそ、パウロはその試練の現実を隠そうとはしませんでした。彼は、「あなたがたは確かに苦しみを経ることになる」と語ったのです。

それでも、良い知らせもありました。それは、彼らがその苦しみに一人で直面する必要はなかったことです。神様がパウロとバルナバとともにおられたように、神様は新しいクリスチャンたちともともにおられるのです。

さらに、アンティオキアのクリスチャンたちが、パウロとバルナバを神様の恵みに委ねて送り出したように、パウロとバルナバも新しいクリスチャンたちを主に委ねました(23,26)。

パウロとバルナバが確信していたのは、新しいクリスチャンたちが試練に直面しても、神様の恵みが彼らを支えるということです。

同じように、あなたがどんな試練や苦難に直面しても、神様はいつもあなたとともにおられ、その恵みによって、あなたはその試練を乗り越えることができます。

パウロとバルナバとともにおられた神は、今もあなたとともにおられます。だから、どんな苦難があっても、あきらめないようにしましょう。絶望しないようにしましょう。

Through many dangers, toils and snares
I have already come;
さまざまな危険や苦難、罠を乗り越え、私はすでにここまでたどり着きました。

‘Tis Grace that brought me safe thus far
恵みは私を安全に導き、ここまで守ってくださいました。

and Grace will lead me home.
さらに、恵みは私を主の家へと導いてくださいます。

ーージョン・ニュートン

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ただの人間

この箇所を読むと、罪に陥った多くの有名な牧師の名前が思い浮かびます。かつて多くの人々が彼らを尊敬していましたが、やがてその尊敬を失ってしまいました。

そのとき、クリスチャンたちは、彼らがただの人間であることを改めて思い知らされたのです。

それでも、私たちが牧師を特別な存在として見なすのは容易なことです。おそらく、神様の姿を直接見ることができないため、牧師を模範とし、彼らに目を向け、従おうとしてしまうのでしょう。

けれども、最終的に彼らもただの人間なのです。

あなたがリーダーであっても、ただの教会のメンバーであっても、私たち皆はこのことを常に心に留めておかなければなりません。

パウロはそのことを深く認識していました。

パウロとバルナバがリステラを訪れたとき、彼らはイエス様のみ名によってある人を癒しました。リステラの群衆はその奇跡を目にすると、パウロとバルナバを神々として礼拝しようとしました。

なぜでしょうか。

それは、彼らの神話によれば、かつてゼウスとヘルメスが人間の姿で人々の間に現れたものの、多くの者が彼らを歓迎せず、その結果、神々の怒りによって罰せられたからです。しかし、一組の夫婦が彼らを受け入れ、その善意によって祝福されたという伝承がありました。

リステラの人々はこの話を覚えており、パウロとバルナバにいけにえを捧げたいと思いました。けれども、それを見たパウロとバルナバは、叫びました。

皆さん、どうしてこんなことをするのですか。私たちもあなたがたと同じ人間です。

そして、あなたがたがこのような空しいことから離れて、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造られた生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えているのです。(使徒の働き14:15)

それでも、パウロとバルナバは、群衆が自分たちにいけにえを献げるのを、かろうじてやめさせました。

パウロはコリントの教会でも、似た問題に直面しました。そこでは、コリントのクリスチャンたちが、どのリーダーが最も偉大なのかを議論していました。しかし、パウロは彼らにこう問いかけました。

パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によってバプテスマを受けたのですか。(第一コリント1:13)

また、

アポロとは何なのでしょう。パウロとは何なのでしょう。あなたがたが信じるために用いられた奉仕者であって、主がそれぞれに与えられたとおりのことをしたのです。

私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。

ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。(第一コリント3:5-7)

たとえ最も敬虔な人であっても、祭り上げることは危険です。なぜなら、彼らもまた、ただの人間だからです。

人間は失敗することがあります。

人間は私たちを落胆させることがあります。

もし私たちの信仰の基盤が神様ではなく、一人の人間に置かれているなら、その人が私たちを失望させたとき、私たちの信仰はどうなるでしょうか。

パウロはその危険を私たちに警告しています。

しかし、どのように建てるかは、それぞれが注意しなければなりません。だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。(第一コリント3:10-11)

あなたの信仰の基盤は何でしょうか。あなたの牧師でしょうか。有名な著者や牧師でしょうか。それとも、イエス様でしょうか。

イエス様だけが、私たちが真に信頼できる揺るぎない基盤です。イエス様に信頼するなら、あなたは決して失望することがありません。(イザヤ書28:16;第一ペテロ1:6)

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使徒の働き

対立

この箇所を読むと、「対立」という言葉が思い浮かびます。

パウロとバルナバが福音を述べ伝えたとき、エリマという人物やユダヤ人たちは彼らに反対しました。

エリマは霊的な理由から彼らに対立しました。

ユダヤ人たちが反発した理由は、嫉妬と罪から生じました。(とはいえ、結局のところ、福音に反対する人々すべてには霊的な理由があります。)

では、パウロとバルナバはどのように反応したのでしょうか。

サタンがエリマを通して直接攻撃したとき、彼らは御霊の力によって戦いました。霊的な戦いにおいて、私たちは自分の力だけでは戦えません。なぜなら、サタンと悪霊は私たちよりも強力だからです。

しかし、ヨハネはこう書きました。

あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも偉大だからです。(第一ヨハネ4:4)

だから、聖霊様の力によって、パウロとバルナバはエリマに勝利し、セルギウス・パウルスとその家族が救われました。

プライドを持つ嫉妬深い人々と対立したとき、パウロとバルナバは大胆に福音を述べ伝え続けました。

そして、ユダヤ人たちの心が固くなると、パウロとバルナバはその都市の異邦人たちに福音を伝え始めました。その後、彼らは別の場所へ行き、そこでの人々にも福音を述べ伝え続けました。

このように、自分勝手な理由で私たちと対立する人もいます。

また、私たちが何を言っても、イエス様をどうしても信じようとしない人もいます。そのため、最終的に私たちは彼らを神様にゆだねるしかありません。神様が彼らを裁かれるのです。

私たちは強制的に相手にイエス様を信じさせることはできません。ただ福音を伝えることしかできません。その結果は、相手と神様の責任です。

だから、人々が福音を拒絶しても、落胆しないでください。大胆に福音を伝え続けましょう。

私たちは皆、対立と向き合うことになります。しかし、そのときこそ、パウロの言葉を覚えていましょう。

失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。(ガラテヤ人への手紙6:9)

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使徒の働き

神様の働きのために聖別される

私は、宣教師になることについて初めて考えたときのことをよく覚えています。

友達と話していると、なぜか宣教の働きについての話題になりました。そのとき、私はこう言いました。 「神様は私を宣教師として召されていないと思う。」

すると、友達は答えました。 「どうしてそんなに確信があるの?神様にもう尋ねたの?」

「えっと。。。」

その夜(もしかしたら翌晩)、祈っているときにこの会話を思い出しました。

だから、私は神様にこう言いました。

「トニーさんに、あなたに宣教師になるよう導かれているかどうか尋ねるべきだと言われました。」

それを口にした瞬間、ある考えが心に浮かびました。きっと私自身の考えではないでしょう。なぜなら、宣教師になる意図がまったくなかったからです。

すると、神様がこう言われました。 「そうです。私に尋ねなさい。」

私の反応は?

「私は尋ねたくない。あなたが『はい』と答えるなら、本当に困ります。」

そして、いろいろと言い訳をしましたが、神様は何も答えず、結局すべてが無駄だと気付きました。

だから、私は尋ねました。 「では、私に宣教師になってほしいのですか?」

その晩、神様は答えませんでした。それでも、その日がターニングポイントとなりました。心が少し柔らかくなったからです。

それから2~3年後、進路について祈りました。そして、友人たちはこう言いました。 「神様の導きを求めているなら、すべてを神様に捧げなくてはならない。」

帰る途中、神様は再び私の心に語りかけました。 「ブルース、あなたの心には『絶対に日本へ行かない』という思いがあるよ。」

その言葉を聞いて、神様の意味が分かりました。

前年、短い宣教旅行で日本に訪れていました。けれども、その後、こう思いました。 「やっぱり私は日本向きじゃないだろう。」

意識的に「日本には絶対戻らない」と口にしたわけではありませんが、心の中ではそう決めていました。

だから、その夜、もう一度心のすべてを神様に捧げました。

日本で宣教師になったのは、それから24年前のことです。

なぜ、私はこの話をしているのでしょうか。

それは、私の経験がサウロとバルナバの経験に似ているからです。

クリスチャンたちが神様の御心を求めていたとき、神様は彼らに言われました。 「行きなさい。私の目的のために、あなたたちを聖別しています。」

この箇所では、御霊の人格を見ることができます。なぜなら、御霊ご自身が彼らに語られたからです。

さあ、わたしのためにバルナバとサウロ聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい。(使徒の働き13:2)

だから、クリスチャンたちがさらに祈り、断食した後、サウロとバルナバは御霊の導きに従いました。

今でも、神様がなぜ私を呼ばれたのかを考えています。多くの良いことをしてきたと思いますが、これからどのように導かれるのかは分かりません。だから、私の祈りはこうです。 「次の段階は何でしょうか。」

しかし、神様は宣教師や牧師だけを呼ばれるのではありません。あなたも呼ばれています。神様はご自身の目的のために、あなたを聖別されました。

あなたは、その目的をご存知ですか? 神様が望まれることをしていますか?

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使徒の働き

破滅に至る高慢

ソロモンはこの言葉を書きました。

高慢は破滅に先立ち、高ぶった霊は挫折に先立つ。(箴言16:18)

ヘロデ・アグリッパの人生で、私たちはその真理を見ることができます。

ちょっとややこしいですけど、聖書の中にはたくさんのヘロデがいます。

バプテスマのヨハネを殺して、イエス様の裁判に参加するヘロデはヘロデ・アグリッパとは違う人でした。それは、ヘロデ・アンティパスという人でした。アンティパスはヘロデ大王の息子でした。

そして、ヘロデ・アグリッパはヘロデ大王の孫で、アンティパスの甥でした。イエス様が小さい子どものころに、ヘロデ大王はイエス様を殺したいと思いました。

ヘロデ大王のように、ヘロデ・アグリッパは暴力的な人でした。彼はヤコブを殺したし、ペテロをも殺そうとしました。神様がペテロを救い出した後、アグリッパはペテロの番兵たちを殺しました。

ヘロデは権力者で、高慢な人でした。だから、ヘロデがツロとシドンの人たちに怒ったとき、彼らは謙遜にヘロデのところに行って、和解を願いました。

ヘロデの演説を聞いた時、彼らは叫んだ。

神の声だ。人間の声ではない。(使徒の働き12:22)

ヘロデは神様を認めず、その言葉を受け入れなかったため、天使によって打たれ、命を落としました。

神様が最も嫌われるものの一つはプライドです。なぜなら、プライドは神様との間に壁を築き、私たちを神様から遠ざけるからです。そのプライドによって、私たちは神様を必要としないと考え、神様抜きで生きようとします。

プライドは、他の人々との関係にも壁を作ります。プライドのせいで、どれほど友人関係、家族、結婚、そしてその他の人間関係が壊されてきたでしょうか。

さらに、ヘロデのように、悔い改めないなら、プライドは私たちを破滅へと導きます。もしプライドを持ち続け、「神様、あなたを必要としない」と言い続けるなら、神様は最終的に私たちの願いを叶えます。

つまり、永遠に神様から離れたまま生きることになります。しかし、神様から離れるなら、私たちは命、愛、喜び、平和からも遠ざかります。なぜなら、それらの源は神様だからです。

ヘロデは、最後にこの真理を思い知らされました。

あなたはどうでしょうか。あなたのプライドは、友人、妻、夫、同僚、そして教会の人々との間に壁を作っていませんか。あなたのプライドは、神様との間に壁を作っていませんか。

ペテロはこう書きました。

「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」のです。

ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。(第一ペテロ5:5-6)

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使徒の働き

神様の応答、私たちの信仰

この話は多くの意味で非常に面白い場面です。

特に面白いのは、天使がペテロを牢から救い出し、ペテロがマリアの家に行ってノックをしたとき、召使いのロデがあまりにも興奮しすぎて、ペテロを外に立たせたまま、他のクリスチャンたちに良い知らせを伝えた場面です。

けれども、この話を読んで、私はこう思いました。

「どうして神様はペテロを助けたのに、ヤコブを救ってくださらなかったのだろうか。」

その答えを私たちは知りません。

クリスチャンたちはヤコブのためにも祈っていたはずです。そして、ペテロのために祈ったとき、彼らの信仰がより強かったから神様が答えてくださったわけではありません。

なぜなら、ロデがペテロが外にいると伝えたとき、彼らはロデの言葉を信じませんでした。もし彼らに強い信仰があったなら、すぐに扉を開けていたでしょう。それでも彼らはそうせず、ロデが正気かどうかを疑い続けました。

私たちはクリスチャンたちの不信仰を批判できないと思います。なぜなら、彼らはヤコブのために祈ったのに、ヤコブは殺されてしまったからです。

彼らがヤコブのために祈ったとき、おそらく彼らの信仰は非常に強かったはずです。なぜなら、それ以前に神様は使徒たちを敵から救い出してくださったからです。(使徒の働き5章)

それでも、神様はヤコブを救い出さずに、ペテロを救い出してくださいました。

この話から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

1.私たちがどれほど強い信仰を持っていたとしても、神様は私たちの祈りに応えてくださらないことがあります。

時に、私たちの願いは神様の御心と一致していないため、神様は私たちの願いを退け、ご自身の計画を成し遂げられます。

その時、私たちはどう反応するでしょうか。

失望しても、なお神様に信頼し続けるでしょうか。

神様の方法が最善であることを信じ続けるでしょうか。

また、失望の中でも祈り続けるでしょうか。

この話のクリスチャンたちはそうしました。彼らは失望しても、信仰をあきらめませんでした。神様に対して苦々しい思いを抱くこともありませんでした。

むしろ、次の試練が訪れたとき、彼らはすぐに祈り始めました。そして、彼らの信仰が弱かったにもかかわらず、神様の恵みによってペテロは救われました。

これが私の次のポイントです。

2.私たちの信仰や不信仰は神様を制限しません。

もちろん、神様は私たちの信仰を望まれます。けれども、私たちの信仰が弱いときでも、神様はその不信仰によって制限されることはありません。神様は恵みに満ちた方であり、私たちに値しないものさえも与えてくださいます。

だから、私たちは神様のもとへ行き続け、神様が良い方であることを信じ続け、また、神様が最善を知り、それを行われることを信じ続けなければなりません。

神様はいつも私たちの願いを叶えられるわけではありません。しかし、神様はそのような信仰をいつも祝福されます。なぜなら、その信仰こそが神様を喜ばせるからです。

へブル人への手紙の著者はこう書きました。

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。(へブル11:6)

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使徒の働き

聖霊と信仰に満ちている人

バルナバはとても素晴らしい人でした。使徒の働き4章では、彼は自分の土地を売り、その代金を教会に捧げて貧しい人々を助けました。

そして、9章では、使徒たちや他のクリスチャンたちがサウロを疑い、恐れていたとき、バルナバは彼を支持しました。

さらに、この箇所では、バルナバは異邦人たちに働きかけ始めました。クリスチャンたちが異邦人の間で実を結び始めると、使徒たちはバルナバを彼らのもとへ遣わしました。

そして、23節にはこう書かれています。

バルナバはそこに到着し、神の恵みを見て喜んだ。そして、心を堅く保っていつも主にとどまっているようにと、皆を励ました。(使徒の働き11:23)

その後、バルナバはサウロを呼び、アンティオキアの信者たちに仕えました。(その場所で、信者たちは初めて「クリスチャン」と呼ばれました。)

そして、大飢饉が起こるという預言を聞くと、バルナバとサウロはアンティオキアで救援物資を募り、それをエルサレムへ持ち帰り、そこで苦しんでいるクリスチャンたちを助けました。

しかし、24節の言葉は私の心に深く響きます。

(バルナバ)は立派な人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。(24)

私もそんな人になりたいと思います。立派な人になりたいです。

前にも言いましたが、「バルナバ」とは彼のニックネームでした。本名はヨセフでした。けれども、彼は皆に愛され、「バルナバ」、つまり「慰めの子」と呼ばれるようになりました。

なぜバルナバはそのような生き方をしたのでしょうか。それは、彼が聖霊と信仰に満ちていた人だったからです。

彼は聖霊に満たされ、豊かな実を結びました。彼の心から愛が溢れました。

他の人々がある人を信じなくても、バルナバはその人を信じました。彼は惜しみなく自分の財産や時間を人々に与えました。さらに、彼の言葉によって、多くの人々が励まされました。

バルナバの信仰は、ただイエス様を信じるだけではありませんでした。その信仰は彼の人生のすべてに浸透し、周りの人々にも影響を与えました。

その結果は?

こうして、大勢の人たちが主に導かれた。(24b)

私はそのことを強く望みます。人々が私の人生を見て、イエス様に魅了されるほどに、私は聖霊と信仰に満ちた人になりたいと思います。

「私の信仰は個人的なものだから、あまり話さない」と言う人もいます。

ある人は、聖霊に満ちることをただ自分の益のためだと考えています。彼らは祝福を受けたいと思っているのです。

しかし、もし私たちが本当に聖霊と信仰に満ちているなら、私たちの人生は完全に変わります。

私たちの考え方が変わります。

私たちの生き方が変わります。

神様の愛が私たちを通して流れ、人々に触れることで、彼らは神様に魅了されます。

あなたはどうでしょうか。あなたは聖霊と信仰に満ちているでしょうか。

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使徒の働き

神様の働きを妨げる?

ペテロがコルネリウスの家から帰ると、教会の大騒ぎに直面しました。なぜなら、彼は教会のリーダーでありながら、異邦人をもてなし、異邦人の家を訪れたからです。さらに、その異邦人はローマの百人隊長でした。

そこで、ペテロが家に入ると、人々は彼を囲み、責め始めました。

あなたは、割礼を受けなていない者たちのところに行って、彼らと一緒に食事をした。(使徒の働き11:3)

そのユダヤ人たちにとって、ペテロの行為は許しがたいものでした。なぜなら、彼はわざわざ異邦人と関わり、自らを汚したからです。

けれども、ペテロは何が起こったのかを説明しました。彼は神様からの幻や、コルネリウスへの天使の命令、そして御霊がどのように異邦人たちを満たしたかを語りました。

そして、ペテロは彼らにこう言いました。

ですから、神が、私たちが主イエス・キリストを信じた時に、私たちにくださったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが、神がなさることを妨げることができるでしょうか。(17)

「どうして私などが、神がなさることを妨げることができるでしょうか。」

私たちはどれほど神様の働きを妨げているでしょうか。

もしかすると、私たちの偏見のせいで神様の働きを阻んでしまうかもしれません。

また、神様が新しい方法で働かれても、私たちはその新しい方法に慣れていないために、その働きを妨げてしまうことがあります。

さらに、神様の働きが私たちの伝統に反するかもしれません。

あるいは、私たちのプライドや固くなった心のせいで、その働きを妨げてしまうかもしれません。

「私の考え方が間違っている」と認めることは、とても難しいものです。

また、「神様はあの人を用いることができる」と認めることが難しい時もあります。

しかし、もし私たちが謙遜な態度を持たないなら、神様の働きを妨げてしまうことになるかもしれません。

最終的に、私たちはパウロの戒めに従うべきです。

ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。あらゆる形の悪から離れなさい。(テサロニケ人への手紙第一5:21-22)

もちろん、新しいものが神様から来るかどうかを吟味しなくてはなりません。けれども、私たちは自分の心も試すべきです。私たちの考え方も試すべきです。私たちのプライドも試すべきです。

エルサレムにいたユダヤ人のクリスチャンたちも、そうしなければなりませんでした。

そして、彼らが出した結論は?

人々はこれを聞いて沈黙した。そして、「それでは神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」と言って、神をほめたたえた。(使徒の働き11:18)

そして、彼は神様の働きを妨げることなく、その務めに加わり始めました。(19-26)

あなたはどうでしょうか。神様の働きを妨げているでしょうか。それとも、神様の働きを目にし、喜んでその務めに加わるのでしょうか。

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使徒の働き

隔ての壁を打ち壊す

ユダヤ人が異邦人に福音を伝えるために、神様は大きな壁を打ち壊さなければなりませんでした。

皮肉なことですが、その壁の一つは神様の律法から来ていました。それは、清いものと汚れたものに関する律法でした。

レビ記を読むと、こうした原則が何度も出てきます。

「このものに触れてはならない。それに触れると、不潔になる。しかし、この儀式を行えば、清められる。」

また、

「この動物を食べてはならない。あなたにとって、それは汚れたものである。しかし、あの動物は清いので食べてもよい。」

この律法の目的は何だったのでしょうか。その目的は、ユダヤ人に重要なことを教えるためでした。それは、神様が聖なる方であるということです。そのため、もし神様との関係を求めるなら、あなた自身も清くなければなりません。

けれども、ユダヤ人のクリスチャンたちは、大切なことを理解していませんでした。それは、汚れたものや清いものに関する律法(また、すべての儀式的な律法)が、彼らの神様との関係を象徴するものであることです。

さらに、イエス様がすでに来られたので、彼らはその象徴を必要としなくなりました。なぜなら、イエス様にあって、本体が来たからです。

とにかく、教会が誕生した後、クリスチャンたちの間ではこの議論がありました。ユダヤ人の儀式的な規則に従うべきだと主張する人もいれば、その規則に従う必要はないと主張する人もいました。

コルネリウスに出会う前、ペテロと他のユダヤ人たちは、まだその規則に従うべきだと考えていました。

けれども、神様はその壁を強く打ち壊しました。神様はペテロに幻を示されました。その幻の中で、ペテロはいろいろな汚れた動物を見ました。そして、神様はペテロにこう言われました。

「立ち上がり、屠って食べなさい。」

ペテロは驚きました。もしかすると、神様が彼の忠実さを試していると思ったのかもしれません。そこで、ペテロはこう答えました。

主よ、そんなことはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。(使徒の働き10:14)

ところが、神様はペテロを厳しく叱責されました。

神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。(15)

ペテロがその重要なポイントを正しく理解するために、神様はその幻を三回繰り返されました。

その後、コルネリウスのしもべたちがやって来て、神様はペテロにこう言われました。

見なさい。三人の人があなたがを訪ねて来ています。さあ、下に降りていき、ためらわずに彼らと一緒に行きなさい。わたしが彼らを遣わしたのです。(19-20)

もしペテロがその幻を見ていなかったら、彼はコルネリウスのしもべたちと同行することを拒んでいたでしょう。なぜなら、異邦人の家に入って共に食事をすると、彼は汚れた者になってしまうと考えていたからです。

けれども、ペテロはその幻を覚えていたので、彼らと一緒に行きました。

ペテロがコルネリウスの話を聞き、さらに御霊がコルネリウスとその家族を満たすのを見たとき、教会は大きく変わりました。それは教会の転換点となる出来事でした。

では、この話から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

コルネリウスに対するペテロの言葉を覚えていてください。

神は私に、どんな人のことも、きよくない者であるとか、汚れた者であることが言ってはならないことを、示してくださいました。(28)

もちろん、現代では、私たちはユダヤ人の儀式に従うべきかどうかを議論しません。

しかし、私たちはどれほど他の人を見下しているでしょうか。

どれほど私たちは、「その人は救いに値しない」と考えてしまうでしょうか。

さらに、彼らの人種や身分によって、どれほど私たちは人を軽蔑しているでしょうか。

また、過去の傷のために、どれほど私たちは「彼らは神様の赦しに値しない」と思ってしまうでしょうか。

けれども、イエス様は彼らのためにも死んでくださいました。だから、私たちには「あの人は汚れたものだ」と言う権利はありません。

もちろん、コルネリウスのように、その人は罪によって汚れています。しかし、イエス様はどんな人でも清めることができます。

私たちがその人に福音を伝えると、ペテロのように驚くかもしれません。なぜなら、御霊はその人をも満たすかもしれないからです。

あなたはどんな偏見を持っているでしょうか。どんな人に対して苦々しい思いを抱いているでしょうか。

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イエス様を知らない人はどうなる?

クリスチャンが「天国への道はただ一つしかありません。それはイエス様です。」と言うと、多くの人々はこう尋ねます。

「では、イエス様のことを聞いたことがない人はどうなるのですか?彼らは地獄に行くのでしょうか?」

そのため、多くのクリスチャンは、別の道があるのではないかと疑問に思います。しかし、聖書によれば、救いへの道は他にありません。この話にも、その真理が示されています。

エチオピアの高官(使徒の働き8章)のように、コルネリウスという百人隊長は神様を畏れていました。

コルネリウスは貧しい人々を助け、本当の神に祈っていました。おそらく、彼はイエス様のことを聞いたことがあったでしょう。それでも、イエス様が唯一の救いの道であることはまだ知らなかったようです。

だから、神様はコルネリウスに天使を遣わしました。当然、コルネリウスは恐れました。「なぜこの天使が来たのだろう?私の罪のために、私を裁くのだろうか?」と思ったかもしれません。

ところが、天使はこう言いました。

「あなたの祈りと施しは神の御前に上がり、覚えられています。さあ、あなたはもう救われました。神様との平和を持っています。だから安心してください。」

天使は本当にこのように言ったのでしょうか。福音を聞いていない人が、もし他の方法で救われるのなら、天使はそのように語ったはずです。

けれども、天使はそう言いませんでした。むしろ、コルネリウスの祈りと施しについて語った後、天使はこう言いました。

さあ今、ヤッファに人を遣わして、ペテロと呼ばれているシモンという人を招きなさい。その人は、シモンという皮なめし職人のところに泊まっています。その家は海辺にあります。(使徒の働き10:5-6)

なぜ天使はコルネリウスにそのことを命じたのでしょうか。それは、コルネリウスが福音を聞いて、救われるためです。

そこで、コルネリウスはその命令に従い、使者を遣わしてペテロを招きました。

ペテロが来て、コルネリウスの話を聞くと、こう言いました。

これで私は、はっきり分かりました。神はえこひいきをする方ではなく、どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。(34-35)

そして、ペテロはコルネリウスを祝福して帰ったのでしょうか。

本当にそうしたのでしょうか。

違います。ペテロは福音を宣べ伝えました。そして、コルネリウスとその家族は福音を信じ、御霊に満たされました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

天国への道はただ一つしかありません。それは福音を聞き、信じることです。神様はこの話を通して、そのことを明らかにされています。

しかし、福音を聞いたことがない人はどうなるのでしょうか。

彼らが神様に示されたことに応じるなら、神様は彼らに答えてくださいます。

コルネリウスはユダヤ人から神様について聞き、その真理に応じました。エチオピアの高官も同じように応じました。

だから、もし福音が届いていない国で、ある人が神様の創造を見て、創造者が存在することを認め、「創造者よ、自分自身を私に現してください」と願うなら、神様はその願いに応えてくださいます。

神様は正義の方だから。そして、神様は忠実な方だからです。

神様はどのようにしてご自身をその人に現されるのでしょうか。神様は天使を遣わすかもしれません。あるいは、人を送るかもしれません。この話では、神様はその両方を行われました。

私は宣教師のニュースレターで、このような話を読みました。ある人は「いと高き神」を信じていましたが、その神について何も知りませんでした。そこで彼は二十年間、毎日祈りました。

「神様、あなたのことを知る人を私に遣わしてください。」

そして、宣教師が来ると、彼はすぐに信じました。

神様は正義の方です。誰かが本当に神様を求めるなら、神様は必ずその人に福音を聞く機会を与えてくださいます。

だからこそ、「別の方法がある」という考え方を捨てましょう。他の道はありません。だから、主の命令に従い、福音を地の果てまで届けましょう。

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人を癒し、人を復活させる神

この箇所では、私たちは二つの素晴らしい話を読みます。アイネアとタビタに対するペテロの言葉は特に印象的です。

アイネアは八年間床についていました。彼は回復する希望を完全に失っていたかもしれません。ところが、ペテロは彼にこう言いました。

アイネア、イエス・キリストがあなたを癒してくださいます。立ち上がりなさい。そして自分で床を整えなさい。(使徒の働き9:34)

彼は瞬く間に癒され、立ち上がりました。

タビタはすでに亡くなっていましたが、ペテロは彼女にこう言いました。

タビタ、起きなさい。(40)

彼女は目を覚まし、復活しました。

ペテロの言葉はとてもシンプルでした。しかし、現代においても、人々はその言葉を聞く必要があります。

イエス・キリストがあなたを癒してくださいます。

もちろん、イエス様は身体の問題を癒すことができます。けれども、多くの人々は感情的な問題や霊的な問題を抱えています。彼らの心には過去の傷もあり、現在の傷もあります。

だから、彼らは「イエス・キリストがあなたを癒してくださいます」という言葉を聞く必要があるのです。

アイネアを癒してくださったイエス様は、彼らをも癒すことができます。

起きなさい。復活しなさい。

多くの人々は、自分の人生を振り返ると、失われた希望しか見えません。

彼らは離婚を考えています。彼らの未来には光がないように思えます。だから、彼らはイエス様が死んだものを復活させることができると知る必要があります。

彼らは、イエス様が彼らの結婚、未来、希望を回復させることができると知る必要があります。だからこそ、私たちは彼らに伝えなくてはなりません。

「起きなさい。神様に向かうなら、神様はあなたを新しくしてくださいます。」

人々はこの二つのメッセージを聞く必要があります。この世で希望を失いかけている人々に、このメッセージを届けましょう。

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人々を信じる?

前回のように、この話を読んだとき、私はサウロがクリスチャンになった後、エルサレムのクリスチャンたちが彼にどう反応したかを想像しました。彼らはサウロに会ったとき、どう感じたでしょうか。

というのも、彼らが前回サウロを見たとき、彼はユダヤ人たちがステパノを殺すことに賛成し、自らも多くのクリスチャンを迫害していたのです。

サウロはエルサレムに戻ったとき、まずひそかにクリスチャンたちと話そうとしたのでしょうか。あるいは、神殿に行き、使徒たちに会って「こんにちは。私はクリスチャンになったよ」と言ったのでしょうか。

何年か前、私はアメリカの有名な牧師、ラウル・リースさんの証を聞きました。

クリスチャンになる前、彼は非常に暴力的な人でした。彼は奥さんをたびたび虐待し、ついに彼女は離婚を決意しました。その日、彼は普段より早く帰宅し、奥さんが荷物をまとめているのを見ました。

彼女はクリスチャンで、その時は教会にいましたが、帰宅後すぐに家を離れるつもりでした。

荷物を見たリースさんは、奥さんと子供たちを殺そうと考えました。そして、その後自ら命を絶とうとも思っていました。けれども、待っている間にテレビをつけると、ある牧師が神様の愛について語っていました。

その話を聞いた彼は、涙を流しながらイエス様を主として受け入れました。喜びに満たされ、すぐに家を出て、奥さんを探しに行きました。

しかし、彼は奥さんを見つけられなかったため、家へ戻りました。すると、奥さんが泣いている声が聞こえました。

(そのクリスチャンの番組を見る前、リースさんはいろいろな物や家具をあちこちに投げてしまっていました。)

ドアの鍵がかかっていたため、リースさんはノックしました。ドアチェーンをつけたまま、奥さんはドアを少し開けて「何が欲しいの」と尋ねました。

彼は答えました。「私はクリスチャンになったよ。」

彼女の反応は?

彼女はそのドアを勢いよく閉めました。

けれども、最終的に、彼女はリースさんを家へ入れることを許しました。1〜2年ほどかかりましたが、彼女はずっと彼を見ていて、次第にリースさんが本当に変わったことを信じるようになりました。

これは、サウロに対する使徒たちの反応と同じでした。サウロが「私はクリスチャンになったよ」と言ったとき、彼らは彼を信じようとしませんでした。むしろ、彼らはドアを勢いよく閉めたのです。

しかし、リースさんの奥さんがドアを開けたように、バルナバもそのドアを開きました。

もしかすると、それ以前にバルナバはダマスコでサウロに会っていたかもしれません。あるいは、バルナバにはダマスコに友人がいて、その友人がサウロの話を確認した可能性もあります。

そこで、バルナバはサウロを擁護し、使徒たちに「私はサウロの話を信じる。彼は本当に変わった」と言いました。

おそらく、使徒たちがサウロを本当に受け入れるには時間がかかったでしょう。けれども、彼らは彼を見続ける中で、神様がサウロの人生に働かれていることを理解し始めました。最終的に、彼らもサウロのことを信じるようになりました。

私の要点は何でしょうか。どんなに罪深い人でも、キリストに出会うと変わることができます。だからこそ、私たちは彼らに自分の変化を証明する機会を与えなければなりません。

あなたを傷つけた人がいるかもしれません。彼らはクリスチャンになり、「私は新しい人になった」と言うかもしれません。

それでも、あなたは相手を信じず、距離を取り続けるでしょう。その気持ちはよく理解できます。

けれども、バルナバのように私たちも彼らにチャンスを与えなくてはなりません。

最初から相手を完全に信じる必要はありません。自分の心を守りながら、時間をかけて彼らを見守ることが大切です。そして、神様が彼らの人生に働かれるのを見ながら、少しずつ心を開いていってください。

なぜなら、神様は恵みによって、あなたに何度もチャンスを与えてくださったからです。神様の子どもとして、私たちも周りの人々にそのチャンスを与えるべきなのです。

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使徒の働き

イエス様があなたの人生を変えてくださると

この箇所を読んだとき、私はダマスコの人々がサウロにどう反応したかを想像しました。

サウロがクリスチャンになった後、諸会堂に行き、説教するように頼まれました。

おそらく、諸会堂の指導者たちは、彼がクリスチャンを非難するメッセージを語ると思っていたでしょう。なぜなら、サウロがダマスコに来た目的はクリスチャンたちを捕らえることだったからです。

ところが、彼がイエス様は神の子であり、メシアであると教え始めたとき、諸会堂の指導者たちはどれほど驚いたことでしょう。

彼らは何を考えたでしょうか。最初は戸惑い、サウロがそんなことを教えるとは信じられなかったかもしれません。

もしかすると、「サウロはクリスチャンになったふりをして、彼らを欺こうとしているのではないか。本当に自分が言っていることを信じているのだろうか」と疑っていたかもしれません。

そこで、彼らはサウロと少し議論し始めました。もしかすると、彼らはサウロが弱い議論しかできないと思っていたかもしれません。

けれども、逆に、サウロは彼らを論破してしまいました。そして最終的に、彼らは「サウロは本当にイエス様のことを信じるようになった」と理解するようになりました。

彼らの反応はどうだったでしょうか。彼らはサウロを殺そうとしました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

私たちがイエス様に従い始めると、私たちの家族や親しい人の中には喜ばない人もいます。彼らは私たちの変化した人生を見ると、最初は驚き、何も言わないかもしれません。「ただ一時的なものだ」と言うかもしれません。

しかし、私たちがイエス様に従い続けると、彼らは私たちに反対し始めるかもしれません。

そんなことが必ず起こるとは言えませんが、その可能性はあります。それでも、家族や友人があなたの信仰に反対するなら、それは本当に苦しいことです。

だからこそ、イエス様は私たちに警告されました。

世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。

もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。

しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。

しもべは主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。

人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。彼らがわたしのことばを守ったのであれば、あなたがたのことばも守ります。

しかし彼らは、これらのことをすべて、わたしの名のゆえにあなたがたに対してに対して行います。わたしを遣わされた方を知らないからです。(ヨハネ15:18-21)

イエス様は、私たちがイエス様に従ったとき、すべての人々が私たちを愛するとは決して約束されませんでした。イエス様が約束されたのは、いつも私たちを愛し、私たちと共におられることです。(ヨハネ14:21,23)

さらに、もし家族や友人が私たちを拒絶したとしても、イエス様は私たちがイエス様にある新しい兄弟姉妹を見つけることを約束されました。

だから、失望しないでください。むしろ、この言葉を心に留めてください。

信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。

この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。

あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。(へブル人への手紙12:2-3)

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使徒の働き

福音を伝えるように選ばれました

昨日、私は「使徒の働き」の三つの話を通して、神様の選び、人間の選択、そして私たちが行って福音を伝える責任が、どのようにともに働くのかを説明しました。

この話は、その二つ目の例です。

あるパリサイ人、サウロは、キリストに対して頑なな心を持ち、キリスト教を根絶しようとしていました。

もし神様がサウロをそのまま放置されていたなら、彼は滅びに至っていたでしょう。しかし、神様はサウロの人生に介入されました。

なぜでしょうか?それは、神様がサウロを救うことを選ばれたからです。神様がアナニアに語られたとき、私たちは神様の選びをはっきりと見ることができます。

神様がアナニアに「サウロのもとへ行き、助けなさい」と命じられたとき、アナニアは驚いて答えました。

「え?本当に?あの男はクリスチャンたちを迫害しようとしているのに。」

神様の答えは?

行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。(使徒の働き9:15)

神様の答えは、すでに救いのために人々を選ばれているなら、私たちは福音を伝えなくてもよいという考えを否定するものです。(昨日の記事でも、同じ点に言及しました)。

アナニアがそのようなことを神様に言うところを、想像できますか。

「では、あなたがすでにサウロを選ばれたのなら、私は彼のもとへ行く必要はないでしょう?」

もしアナニアがそんな愚かなことを言っていたら、神様はどのように答えられたでしょうか。きっと、神様はアナニアに対して非常に厳しく怒られたでしょう。なぜでしょうか。神様はアナニアに「行きなさい」と命じられたからです。

同じように、神様は私たちに「行きなさい」と命じられます。

もちろん、神様は私たちの助けを必要とされません。それでも、多くの場合、神様は私たちを通して人々を救うことを選ばれます。

神様は私たちに御国の鍵を渡されました。もし私たちが行かず、福音を伝えないなら、天国の門は人々に対して閉ざされたままとなるでしょう。

この話ともう一つの話を読む際に、一つ注意してください。イエス様はサウロに直接語られ、天使は百人隊長コルネリウスに直接現れました。それでも、神様はご自身の民を遣わし、その二人に語らせました。

そのように、神様は私たちが行き、福音を伝えることを求めておられます。

ピリポは、神様によってエチオピア人のもとへ遣わされました。

アナニアは、神様によってサウロのもとへ遣わされました。

そしてサウロは、ユダヤ人や異邦人のもとへ行き、福音を伝えるように選ばれました。

あなたも、この世の民のもとへ行き、福音を伝えるように選ばれています。

ある人がかつてこう問いかけました。

「God」という言葉の最初の二文字は何でしょうか。「Go」。

「Satan」という名前の最初の三文字は何でしょうか。「Sat」。

私たちはただ座っているのではなく、この世の民のもとへ行き、福音を伝えましょう。

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使徒の働き

私たちが行かないと

使徒の働きの三つの話では、神様が人を救うことを選ばれること、その人自身の選択、そして私たちが神様の証人として福音を伝える責任が、互いに働き合う様子を見ます。

多くの人々は、神様の選びと人間の選択がどのように関係しているのか疑問に思います。つまり、もし人々が神様の選びによってのみ救われるのであれば、神様が選ばれなかった人が裁かれるのはなぜでしょうか。

また、もし神様がすでにある人を選ばれているのなら、なぜ私たちはその人に福音を伝える必要があるのでしょうか。

私はすべての疑問に答えることはできません。しかし、この三つのことが真実であることは確かです。

この話の登場人物のひとりに、エチオピアの高官がいました。彼はイスラエルの神について聞き及び、神様を礼拝するためにエルサレムを訪れていました。

注意すべき点があります。ルカによれば、その人物は神様を信じて礼拝していました。けれども、神様は「彼はイエスのことを知らないが、それでも問題ない。私のことを知り、一生懸命に礼拝しているのだから、それで十分だ」とは言われませんでした。

むしろ、神様はピリポに天使を遣わされました。その天使はピリポに行くべき場所を示しました。そして、ピリポがそのエチオピア人を見たとき、聖霊様は「彼のもとへ行きなさい」と命じられました。

すると、ピリポはそのエチオピア人がイザヤ書53章を読んでいるのを耳にしました。特に、彼はイエス様についての預言を読んでいました。そこで、ピリポは彼に尋ねました。

「あなたは、読んでいることを理解していますか。」(使徒の働き8:30)

そのエチオピア人の答えは、私の心を深く打ちました。

導いてくれる人がいなければ、どうして分かるでしょうか。(使徒の働き8:31)

それを読んだとき、私はパウロの言葉を思い起こしました。

しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。

聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。

宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。(ローマ書10:14)

その答えはどうでしょうか?人々は聞くことも、信じることも、呼び求めることもできないのです。もちろん、そのエチオピア人にもできませんでした。そこで、彼はピリポを馬車に招きました。そして、旅の途中でピリポは福音を説明しました。

福音を聞いたそのエチオピア人は、イエス様を信じて洗礼を受けました。そして、彼は福音のメッセージをエチオピアへ持ち帰りました。

実際、現代のエチオピアのクリスチャンたちの起源は、このひとりのエチオピアの高官にまで遡ります。

ここで、三つの重要なポイントがあります。

1.救われるためには、人々は福音を聞き、信じる必要があります。もし神様を畏れる人が福音を聞く必要がないのであれば、神様はわざわざピリポをそのエチオピア人に遣わさなかったでしょう。

パウロも、この問いを投げかけました。

遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。(ローマ10:15)

答えは前と同じです。彼らは宣べ伝えることができません。しかし、神様がピリポを遣わされたように、神様は私たちをも周りの人々のもとへ遣わしてくださいます。

2.神様は確かにそのエチオピア人を救うことを選ばれました。

ピリポが来るまで、彼は福音を聞く機会がなかったため、滅びの道を歩んでいました。けれども、神様は働かれ、福音を聞く機会を与えてくださいました。

もし神様がそうされなかったなら、彼は滅びていたでしょう。

3.その人は福音を信じることを選ばなくてはなりませんでした。彼が信じたからこそ、救われたのです。

では、この三つのことはどのようにともに働くのでしょうか。どのようにしてこの三つのことのバランスを取るのでしょうか。私には分かりません。しかし、神様はすべてをよくご存じです。だから私は、それを神様に委ねます。

では、私の要点は何でしょうか。

行きなさい。

そのエチオピア人と同じように、多くの人々は滅びの道を歩んでいます。そのエチオピア人と同じように、多くの人々はイエス様について聞く必要があります。そして、神様がピリポを遣わされたように、神様は私たちも遣わされます。

だから、イエス様の言葉を心に留めましょう。

ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。

父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。

見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:19-20)

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使徒の働き

賜物

多くの人々がキリスト教について理解していないことのひとつは、私たちが持っているすべてのものが神様からの賜物であるということです。私たちの持ち物だけでなく、命さえも神様からの賜物です。

しかし、私たちにとって最も素晴らしい賜物は、救いです。神様は私たちを罪の刑罰とその力から救い、聖霊様を通して私たちのうちに住んでおられます。

私たちがこの受けた恵みを実感すると、人生は完全に変わります。どんな状況に置かれていても、神様の愛を知り、自分がどれほど祝福されているかを理解することができます。

残念なことに、今日の話に登場するシモンという人物は、その教訓を決して学びませんでした。

ピリポが来る前、シモンは権力と名声を持っていました。彼は奇跡のような業を行っていましたが、その力は神様からのものではありませんでした。それでも、彼はその力を持っていたために、自分を偉大な人物だと誇り、サマリアの人々も彼をそう信じていました。

ところが、ある日ピリポがやって来ました。彼は一般の人でしたが、聖霊様に満たされていました。そして、シモンの業と比べると、ピリポの奇跡のほうがはるかに偉大なものでした。

そのため、サマリアの人々はシモンから離れ、ピリポの言葉に耳を傾け、最終的に主を信じるようになりました。

シモン自身もイエス様を信じるようになりました。とはいえ、彼が本当にクリスチャンになったのかどうかは分かりません。もしかすると、彼は本当にクリスチャンになったのかもしれませんが、彼の態度と行動を見ると、そうとは言い切れません。

控えめに言っても、彼は恵みについてまったく理解していませんでした。つまり、私たちは神様の恵みを得るために何かをすることはできません。ただ感謝をもって、その恵みを受け取ることができるだけなのです。

そのため、シモンはペテロとヨハネが手を置くことで御霊が人々に与えられるのを見たとき、自分もその力を求め、ペテロとヨハネに対してその力を買いたいと申し出ました。

しかし、ペテロは彼にこう答えました。

おまえの金は、おまえとともに滅びるがよい。おまえが金で神の賜物を手に入れようと思っているからだ。おまえは、このことに何の関係もないし、あずかることもできない。おまえの心が神の前に正しくないからだ。

だから、この悪事を悔い改めて、主に祈れ。もしかしたら、心に抱いた思いが赦されるかもしれない。おまえが苦い悪意と、不義の束縛の中にいることが、私には見えるのだ。(使徒の働き8:20-23)

私たちが神様の恵みを正しく理解できなければ、どうなるでしょうか。

1.私たちは傲慢になります。神様から受けたものは自分にふさわしいと考え始めます。そして、他のクリスチャンが自分にないものを持っていると、私たちは羨ましく思い、苦々しい気持ちを抱くようになります。

シモンはまさにそのような人物でした。ピリポが来る前、彼は有名人でした。けれども、ピリポやペテロ、ヨハネと比べると、彼は決して特別な存在ではありませんでした。

彼は再び名声を得たいと願い、名声を失ったことで苦々しい思いを抱き、ペテロ、ヨハネ、ピリポを妬むようになりました。そこで彼は、神様の賜物を買おうとしました。それは神様の栄光のためではなく、自分の栄光のためでした。

一部のクリスチャンも、シモンと同じ問題を抱えています。その一方、別のクリスチャンたちは正反対の問題を抱えています。

2.私たちは、自分に価値がないと思ってしまいます。自分の罪が深すぎるために、神様でさえ私たちを救うことができないと考えてしまうのです。また、神様の賜物を受けるに値しないと感じてしまいます。

もしシモンが本当にクリスチャンだったなら、ペテロに叱責された後、正反対の問題に陥っていたかもしれません。

ペテロの厳しい叱責を受けたことで、彼は直接神様のもとへ行き、赦しを願うことができないと感じたかもしれません。そのため、彼はペテロに「私のために祈ってください」と頼みました。

しかし、へブル人への手紙の著者はこう言いました。

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。

ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(へブル4:15-16)

神様の恵みに値する人は、誰もいません。だから、神様から受けた賜物によって誇ることなく、周りの人の賜物を妬まないようにしましょう。

けれども、同時に、私たちは神様の賜物を受けるに値しないにもかかわらず、神様は喜んで良い賜物を自分の子どもたちに与えてくださることを覚えておきましょう。

これから、恵みの意味を深く学んでいきましょう。

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使徒の働き

喜びを分かち合う?

この箇所では、クリスチャンたちはエルサレムを離れ、キリストによる喜びを広げ始めました。とはいえ、彼らはエルサレムから押し出される必要がありました。

ステパノが殺された後、サウロというパリサイ人がクリスチャンたちを迫害し始めました。

皮肉なことに、サウロはキリスト教を根絶しようとしましたが、その迫害によってキリスト教はかえって広まり、多くの新しい教会が生まれました。

その後、クリスチャンになったサウロは宣教者として教会を訪れて強め、さらに多くの新しい教会を設立しました。その結果、キリスト教はローマ帝国全体に広がっていきました。

けれども、もし使徒たちが初めから使命を忠実に果たしていたなら、神様はこの迫害を許されたでしょうか。イエス様は彼らに命じられました。

あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。(ルカ24:49)

そして、イエス様は天に帰られる直前に、弟子たちにこう言われました。

しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。(使徒の働き1:8)

それでも、御霊が彼らの上に臨んだ後も、使徒たちはエルサレムにとどまり続けました。

もしイエス様の命令通りに彼らがエルサレムを離れていたなら、教会は迫害を受けたでしょうか。また、使徒たちは隠れなければならなかったでしょうか。

そうかもしれません。けれども、もしかすると彼らはその困難を避けることができたかもしれません。

迫害が始まっても、使徒たちはなおエルサレムにとどまり続けました。なぜだったのでしょうか。それははっきりとは分かりません。

彼らは教会の人々に自らの勇気を示したいと思ったのかもしれません。しかし、主の命令への不従順は続いていました。

一方、ほかのクリスチャンたちはエルサレムを離れました。

執事のひとりであるピリポは、サマリアへ行きました。イエス様はかつてサマリアを訪れましたが、多くのユダヤ人はサマリアを避けていました。彼らはサマリア人を軽蔑していたからです。

けれども、ピリポはイエス様の模範に従い、サマリアで福音を述べ伝え、奇跡を行いました。その結果はどうだったでしょうか。

その町には、大きな喜びがあった。(使徒の働き8:8)

自己中心になるのは簡単なことです。自分のことだけを考えるのは、誰にとっても容易なことです。しかし、イエス様が望まれるのは、私たちが受けた喜びを周りの人々と分かち合うことです。

多くの人々が苦しんでおり、イエス様を必要としています。だからこそ、私たちは毎日御霊に満ち溢れるべきです。そうするならば、私たちが周りの人々に触れるとき、彼らは御霊に触れられ、変えられるのです。

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使徒の働き

神様を拒絶するパターン

この箇所では、私たちは教会の最初の殉教者を見ることができます。それはステパノでした。

6章では、使徒たちがやもめの世話をするために7人の執事を任命しました。ステパノはその執事の一人でした。

しかし、彼がイエス様の言葉を述べ伝えたとき、宗教的指導者たちは彼と対立しました。ステパノは逮捕され、最高法院の前に立たなくてはなりませんでした。そこで、多くの証人が彼に偽りの告発をしました。

ステパノが自ら弁解するとき、彼はイスラエルの歴史を詳しく語りました。その中心的なポイントは、ユダヤ人たちが何度も、彼らを救うために神様が遣わした人々を拒絶してきたことです。

ヨセフの兄弟たちはヨセフを奴隷として売りましたが、何年か後、飢饉の際にヨセフは彼らを救いました。

イスラエルの民もまたモーセを拒絶しました。彼が王子であったとき、彼らはモーセを受け入れず、エジプトを脱出した後も彼に反抗しました。

彼らが神様の約束の地に入った後も、そのパターンは続きました。彼らは預言者たちの言葉を拒絶し、偶像を礼拝しました。

そして、彼らはイエス様を拒絶し、殺しました。

それでも、彼らはなお「私たちは神様の民だ」と言い張りました。なぜなら、彼らは神殿で神を礼拝していたからです。

ところが、ステパノは彼らにこう言いました。

しかし、いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。預言者が語っているとおりです。

「天はわたしの王座、地はわたしの足台。あなたがたは、わたしのためにどのような家を建てようとするのか。 ーー主の言葉ーー 私の安息の場は、いったいどこにあるのか。わたしの手が造ったものではないか。」(使徒の働き7:48-50)

要するに、「もしあなたが、あなたを救うために神様が遣わした方を拒絶するなら、あなたが神殿で礼拝しても、それは無意味です。」ということです。

最高法院の人々の反応はどうだったでしょうか。彼らは先祖のパターンに従いました。彼らはステパノを殺しました。

あなたはどうでしょうか。あなたの人生のパターンは何でしょうか。あなたは宗教的な人かもしれません。毎週教会に行き、良い行いをしているかもしれません。

それでも、もしあなたがイエス様を主と神として拒絶し、福音を伝える人々を拒絶するなら、あなたの良い行いは神様の目には無意

味です。むしろ、かつて神様とそのメッセンジャーを拒絶した者たちと同じように、あなたは裁かれることになります。

救いへの道はただ一つ、それはイエス様です。今日、あなたはイエス様を受け入れませんか。

天のお父様、私は罪を犯しました。私は自分の道を歩み、あなたが遣わされたイエス様を拒絶してきました。どうか赦してください。

イエス様、あなたが私の罪のために死んでくださったことを感謝します。私はあなたを主と救い主として受け入れます。

あなたの御霊で私を満たしてください。毎日どのように生きるべきかを教えてください。あなたの名前によって祈ります。アーメン。

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使徒の働き

牧師たちやリーダーたちができないこと

最初の教会は、成長の過程で多くの困難に直面しました。この箇所では、その一例を見ることができます。

教会の重要な役割の一つは、貧しいメンバーのニーズに応えることでした。けれども、教会が次第に大きくなるにつれて、その働きの責任も大幅に増えていきました。

初めのころ、使徒たちは寄付を集め、食糧を配給していました。そのため、バルナバとアナニアは自分の畑を売り、その代金を使徒たちに渡しました。

しかし、クリスチャンの数が急増し、使徒たちはこの働きを適切に管理できなくなっていきました。

さらに、ヘブル語を話すユダヤ人のやもめたちは食糧を受け取れていましたが、ギリシア語を話すユダヤ人のやもめたちは十分な配給を受けていませんでした。

なぜでしょうか。使徒たちが意図的にギリシア語を話すやもめを差別したとは考えにくいですが、おそらく彼らは忙しすぎて、その働きを十分に行うことができなかったのでしょう。

では、彼らが取った解決策とは何だったのでしょうか。

私たちが神のことばを後回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。

そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たちを七人選びなさい。

その人たちにこの務めを任せることにして、私たちは祈りと、みことばの奉仕に専門します。(使徒の働き6:2-4)

彼らがそのように行動したことで、神様の言葉はさらに広まり、教会は急速に成長し続けました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。一つの重要な教訓があります。

牧師やリーダーだけでは、教会のすべての役割を果たすことはできません。

多くの場合、私たちはミニストリーの働きをすべて専門の人々に任せてしまいます。けれども、私たちは皆キリストの体です。私たち一人ひとりが自分の役割を果たすべきです。

その役割を果たすために、私たちは聖霊に満たされなくてはなりません。

教会の働きが十分に機能していないと、多くの人が不満を抱き、リーダーを批判することがあります。しかし、私たちが日々聖霊に満たされ、自分の役割を忠実に果たすなら、リーダーの負担を軽減することができます。

その結果、彼らは神様から与えられた使命に集中し、より良くその働きを進めることができるのです。

私たち自身は、自分に与えられた役割を果たしているでしょうか。

もう一つ大切なポイントがあります。牧師たちは自分自身に問いかけるべきです。「神様は、私に何を求めておられるのだろうか?」と。

そして、その使命を果たすために、どの役割を手放さなくてはならないかを考えなくてはなりません。

さらに、彼らは聖霊に満たされた人々を育てる必要があります。そうすれば、そのメンバーたちは、牧師やリーダーが果たしきれない役割を担うことができるのです。

牧師やリーダーだけでは、すべてのミニストリーの役割を担うことはできません。

私たち一人ひとりが(牧師であれ、一番新しいクリスチャンであれ)そのことを学ぶなら、神様の教会は成長していきます。ところが、それを学ばなければ、神の国の広がりは止まってしまいます。

あなたはどうでしょうか。自分に与えられた役割を果たしていますか。

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使徒の働き

止められない

この箇所を読むとき、「止められない」という言葉が思い浮かびます。使徒の働きではなく、聖霊様の働きは決して止められません。

使徒たちはさまざまな奇跡を行い、福音を述べ伝えました。その結果、神の国に入る人々はますます増えました。

祭司長たちはそれを見て、使徒たちに妬みを抱きました。もしかすると、彼らはこう思っていたかもしれません。

「私たちは祭司長であり、神様の代表者なのに、どうして神様は私たちではなく、イエス様の弟子たちを通して働いておられるのだろうか。」

しかし、おそらく彼らは心の中で、その答えをすでに知っていたでしょう。使徒たちを責めたとき、彼らはこう言いました。

おまえたちはエルサレム中に自分たちの教えを広めてしまった。そして、あの人(つまり、イエス様)の血の責任をわれわれに負わせようとしている。(使徒の働き5:28)

彼らはイエス様の死の責任を逃れたいと思いました。なぜでしょうか。

おそらく、復活の後、彼らは「私たちは間違っていたのだろうか?まさかイエス様が本当にメシアだったのだろうか。」と思ったことでしょう。

もちろん、多くの祭司長たちやパリサイ人たちの考えは変わりませんでした。それでも、7節によれば、イエス様がメシアであることを信じるようになった祭司たちもいたのです。

とにかく、最高法院の人々はもう一度使徒たちを逮捕し、彼らを責めました。使徒たちは、すでにイエス様の名によって教えないように命じられていたにもかかわらず、教え続けたからです。

ペテロの答えは驚くべきものでした。

人に従うより、神に従うべきです。

私たちの父祖の神は、あなたがたが木にかけて殺したイエスを、よみがえらせました。神は、イスラエルを悔い改めさせ、罪の赦しを与えるために、このイエスを導き手、また救い主として、ご自分の右に上げられました。

私たちはこれらのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊も証人です。(29-32)

21世紀のクリスチャンにとって、その言葉は特に不思議なものではありません。

けれども、その言葉に祭司たちとサドカイ人たちは面食らったことでしょう。彼らは宗教的な指導者でありながら、復活を信じていませんでした。

さらに、ペテロは、復活したイエス様を通して、神様がイスラエルに悔い改めを促し、罪の赦しを与えると語りました。

そして彼らは、聖霊様の働きこそが、自分たちの言葉の真実を証明するものだと述べました。

バプテスマのヨハネが現れるまでの400年間、誰も聖霊様の働きを目にすることはありませんでした。しかし、使徒たちによれば、聖霊様は預言者や祭司だけではなく、イエス様を信じるすべての人の上に注がれています。

さらに、使徒たちは、聖霊様に満たされているはずの祭司たちにそのことを告げました。

そのため、祭司たちや最高法院の人々は、その言葉を受け入れることができませんでした。彼らは使徒たちを殺そうと考えましたが、ガマリエルというパリサイ人が立ち上がり、こう言いました。

この者たちから手を引き、放っておきなさい。もしその計画や行動が人間から出たものなら、自滅するでしょう。

しかし、もしそれが神から出たものなら、彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすると、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。(38-39)

私は前にも言いましたが、祭司長たちは自分が間違っていたのかどうか疑い始めていたでしょう。ガマリエルの言葉に対する彼らの反応は、その疑いを示しています。

もし彼らがイエス様を偽のメシアだと確信していたなら、使徒の働きが神様から出た可能性を認めることはできなかったでしょう。

けれども、彼らにはその疑いがあったため、使徒たちを釈放しました。そして使徒たちは、イエス様がメシアであることを教え続けました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。神様の民が聖霊様に満たされるなら、その働きは決して止められません。

社会の状況を見れば、絶望するかもしれません。迫害を受ければ、私たちは大きな苦しみを味わうかもしれません。しかし、たとえ敵が私たちを苦しめても、私たちが聖霊様に満たされるなら、神様は私たちを用い、神様の国を広げてくださいます。

だからこそ、失望しないでください。むしろ、聖霊様の力によって、大胆に神様からの使命を果たしましょう。

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使徒の働き

罪の深刻さ

使徒の働きの中でも、これは最も衝撃的な出来事かもしれません。けれども、この話は罪の深刻さを明らかにしています。

バルナバという人物は、自分の畑を売り、その代金を使徒たちに渡しました。そのお金は貧しいクリスチャンたちを助けるためのものでした。

おそらく、使徒たちや他のクリスチャンたちはその姿を見て、バルナバを称賛したことでしょう。

(実は、バルナバの本名はヨセフでした。ヨセフがその代金を捧げた後、クリスチャンたちは彼をバルナバ、つまり「慰めの子」と呼び始めたのかもしれません。)

アナニアとサッピラというクリスチャンたちは、皆の反応を見て、自分たちも土地を売り、その代金の一部を使徒たちに渡しました。ところが、そこには問題がありました。彼らは気前の良い人に見えましたが、その動機は不純だったのです。

問題は、彼らが代金の一部だけを捧げたことではありませんでした。ペテロによれば、それは彼らの自由な選択だったのです。

もし50%を捧げても、それは問題ではなかったでしょう。もし10%しか捧げなくても、それでも問題はなかったでしょう。

後に、パウロは献金についてこう書きました。

一人ひとり、いやいやながちでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。(第二コリント9:7)

簡単に言えば、神様は私たちがどれほどの額を献げるかを気にされるのではなく、私たちの心がどれほど神様に属しているかを見ておられます。

アナニアとサッピラの心がどれほど神様に属していたかは分かりませんが、確かに100%ではありませんでした。彼らはお金に執着し、また、人々の称賛を求めました。

そのため、彼らは嘘をつきました。ただペテロに対して嘘をついたのではありません。教会の人々だけを欺いたのでもありません。彼らは神様に対して嘘をついたのです。

もしかすると、それは単なる嘘ではなかったかもしれません。彼らはモーセの律法に従い、誓いを立ててその代金を捧げた可能性があります。(レビ記27:28)

その場合、もし彼らがその代金の一部を自分のために取っておいたなら、彼らはその誓いを破ることになります。神様はその罪を深刻に捉え、アナニアとサッピラを打ち滅ぼされました。

この刑罰は厳しいものだと思われるかもしれません。確かに、それは厳しい刑罰でした。

とはいえ、心に留めておきましょう。私たちはある罪を小さいと思うかもしれませんが、神様にとっては、その罪は非常に深刻なものです。

もしかすると、アナニアとサッピラは、「これはほんの小さな嘘だ。誰も傷つかない」と思っていたかもしれません。

けれども、小さな罪は私たちの心の状態を表します。アナニアとサッピラの罪は、彼らの偽善、貪欲、嫉妬、そしてプライドを明らかにしました。

さらに、私たちにとっては、小さな嘘をつくのは些細なことのように思えるかもしれません。しかし、イエス様がその罪のために死ななければならなかったほど、それは深刻なものだったのです。

あなたは「些細な」罪を犯しているでしょうか。

神様の目には、その罪は決して些細なものではありません。だからこそ、自分の心を探ってください。

その罪は、あなたの心の状態について何を示しているでしょうか。

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使徒の働き

一致、力、と恵み

教会はどのような存在であるべきでしょうか。この箇所では、私たちは良い模範を見ることができます。

一致

さて、信じた大勢の人々は心と思いを一つにして、だれ一人自分が所有しているものを自分のものと言わず、すべてを共有していた。(使徒の働き4:32)

現代の教会は同じことを言えるでしょうか。2000年前のクリスチャンたちは、心と思いを一つにしました。彼らは、自分が所有しているものを自分のものだとは考えませんでした。むしろ、それらは主のものであると見なしました。

だから、兄弟姉妹に必要があれば、彼らはそのニーズに応えました。その結果、クリスチャンの間には、飢える人がいませんでした。

しかし、今は多くのクリスチャンがそのように考えていません。十一献金についてのメッセージを聞くと、「でも、それは私のお金だ」と言います。「十一献金は旧約聖書の時代のものだった。それは私には関係ない。」

正直に言えば、十一献金は確かに旧約聖書の時代の制度でした。

それでも、「あなたのお金」は、実際にはあなた自身のものではありません。神様があなたに才能や健康な身体を与えてくださったから、あなたはお金を稼ぐことができるのです。つまり、そのお金は神様のものです。

使徒の働きの時代、クリスチャンたちはその真理を認め、神様からいただいたものを惜しみなく分かち合いました。その結果は。。。

恵み

大きな恵みが彼ら全員の上にあった。(33b)

もちろん、神様は直接私たちに恵みを与えてくださいます。神様は私たちを赦し、多くの祝福を与えてくださいます。しかし、神様は私たちがその恵みのパイプラインとなることを望んでおられます。

私たちは、自分が受けた恵みを周りの人々と分かち合うべきです。けれども、もし私たちが自己中心的になり、その恵みを分かち合うことを拒むなら、そのパイプラインは詰まり、流れが滞るようになります。

一方で、私たちが自分自身から目を離し、周りの人々を愛するなら、教会の中で恵みは豊かに溢れます。

使徒たちは、主イエスの復活を大きな力をもって証しし(ました)。(33a)

その力によって、彼らはいろいろな奇跡を行い、彼らの証しが世界を大きく変えました。

同じ御霊は、現代においてもその働きをなすことができます。だからこそ、私たちはそのために祈るべきです。癒しの奇跡だけではなく、変えられた人生という奇跡のためにも祈るべきです。

つまり、聖書を伝える人が話すとき、私たちは、聖霊様が彼らを通して力強く働くように祈るべきです。

聖霊様の力が伴わなければ、牧師のメッセージは意味を失ってしまいます。そのため、私たちは聖霊様が私たちの牧師たちを満たし、彼らを通して語られるように祈りましょう。

それだけではなく、聖霊様が私たち自身を満たし、私たちを通して働かれるように祈りましょう。なぜなら、私たちも神様の祭司だからです。

一致、恵み、そして力。

2000年前の教会のように、現代の教会もこの三つのことで満たされますように。

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御霊に満たされ続く

この箇所を読むと、二つのことに気づきました。

第一に、御霊に満たされることは一度きりの経験ではありません。むしろ、神様の民は何度も御霊に満たされました。この箇所でそのことが分かりますし、使徒の働きの中でも何度も確認できます。

第二に、御霊に満たされることには特別な目的があります。この箇所では、その目的が二つ示されています。つまり、大胆さと力です。

ルカは最高法院の人々について、こう記しています。

彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、また二人が無学な普通の人であるのを知って驚いた。また、二人がイエスとともにいたのだということも分かってきた。(使徒の働き4:13)

少し考えてみてください。ペテロとヨハネは逮捕され、一晩中拘束されました。 そのため、彼らが最高法院の前に引き出されたとき、宗教的な指導者たちは彼らが恐れるだろうと予想しました。

ところが、ペテロとヨハネは大胆にイエス様のことを伝え、聖書を引用しました。さらに、彼らは驚くべき言葉を語ったのです。

この方(イエス様)以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。(12)

彼らは世間一般の漁師でした。特別な宗教的な教育を受けたわけではありませんでした。それでも、彼らは力と大胆さをもって、そのことを語りました。

さらに、宗教的な指導者たちがどれほど彼らを迫害しても、ペテロとヨハネを黙らせることはできませんでした。

また、宗教的な指導者たちは、イエス様の空っぽのお墓を説明できず、癒された足の不自由な人の奇跡を否定することもできなかったため、ペテロとヨハネの言葉に反論することができませんでした。

そこで彼らは協議を重ねた後、ペテロとヨハネを再び脅し、イエス様の名によって語ることも教えることも禁止しました。

しかし、ペテロとヨハネは再び大胆に答えました。

神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断してください。

私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません。(19-20)

宗教的な指導者たちはそれを聞くと、さらに二人を脅しましたが、結局は彼らを釈放しました。

ペテロとヨハネは、仲間のクリスチャンたちと再会すると、共に祈りました。特に、すべての人々がイエス様こそメシアであることを知るために、神様がクリスチャンたちに大胆さと力を与えてくださるように祈りました。

そのあと、

集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した。(31)

この話から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

第一に、イエス様のためにこの世に影響を与えたいと思うなら、私たちの中に聖霊の臨在が必要です。

私たちはただの一般人かもしれませんが、聖霊を通して大胆さと力を持つことができ、神様は私たちを通して素晴らしい働きをされます。

しかし、私たちはどれほどその大胆さと力を欠いているでしょうか。私はその感覚がよく分かります。自分の欠点と弱さを知って、自信を持てないことも多くあります。

だからこそ、私たちは皆、聖霊に満たされ続けなければなりません。

私たちは御霊の器ですが、そこには多くのひびが入っています。私たちは疲れることもあります。世のものに心を奪われてしまうこともあります。絶望することもあります。

だから毎日、さらに毎秒、神様の働きをするために聖霊様に満たされなければなりません。

聖霊様、私はあなたを必要とします。どうか毎日私を満たしてください。この世の民はあなたを本当に必要としています。だから、あなたの働きをするために、私を力と大胆さで満たしてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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祝福を受けることができる前

多くの人々は、神様からの祝福を願います。

実際、神様は、自分の子どもに贈り物を与える愛に満ちた父です。神様の子どもとして、私たちは祝福を期待することができます。

けれども、その祝福を受ける前に、私たちがすべきことがあります。ペテロはユダヤ人たちにこう言いました。

ですから、悔い改めて神に立ち返りなさい。そうすれば、あなたがたの罪はぬぐい去られます。

そうして、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにあらかじめキリストとして定められていたイエスを、主は遣わしてくださいます。。。

モーセはこう言いました。

「あなたがたの神、主は、あなたがたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたがたのために起こされる。

彼があなたがたに告げることすべてに聞き従わなければならない。その預言者に聞き従わない者は誰でも、自分の民から断ち切られる」。。。

神はまず、そのしもべを立てて、あなたがたに遣わされました。その方が、あなた方一人ひとりを悪から立ち返らせて、祝福にあずからせてくださるのです。(使徒の働き3:19-20、22-23、26)

つまり、ペテロはこう語っていたのです。

「モーセ自身が、『モーセのような一人の預言者が来る』と言いました。そして、モーセは『あなたがたはその預言者に聞き従わなければならない。そうしなければ、あなたがたは自分の民から断ち切られる』とも語りました。

その預言者はすでに来られました。イエス様こそ、その預言者です。だから、イエス様の言葉を聞いて悔い改めなさい。

あなたを祝福するために、神様はイエス様を遣わしてくださいました。しかし、まずあなたがたが悔い改めなければなりません。そうすれば、イエス様があなたがたの罪をぬぐい去り、回復の時、そして祝福の時が訪れます。」

ペテロはこの言葉をユダヤ人たちに語りましたが、この言葉は私たちにも当てはまります。

神様はまずイエス様をユダヤ人たちのために遣わしましたが、同時に、神様は私たちのためにもイエス様を遣わしてくださいました。そして、イエス様がユダヤ人たちを祝福されたように、私たちも祝福してくださいます。

けれども、その前に、私たちは悔い改めなければなりません。自分の道を歩み続けることはできません。私たちはイエス様に聞き従わなければならないのです。

そうしなければ、決して神様からの祝福を知ることはできません。それどころか、神様の民から断ち切られ、神様の国に入ることもできません。

多くの人々は神様からの祝福を望みますが、自分の道を歩み続けたいと思います。自分勝手な条件でその祝福を望みます。しかし、本当に祝福を望むなら、自分勝手な条件ではなく、神様の条件に従う必要があります。

もちろん、救いも同じです。自分勝手な条件では、救いを得ることはできません。つまり、良い行いによって救いを得ることはできないのです。むしろ、イエス様とその十字架の働きを信じることが必要です。

ただイエス様への信仰によって、あなたは神様に義と認められます。

そして、救いを得た後も、私たちは同じ原則に従って生き続けます。もし、自分の道を歩むなら、神様からの祝福を期待することはできません。私たちは神様の道を歩まなければならないのです。

では、私たちは何とかしてその祝福を得るために努力しなければならないのでしょうか。違います。私たちは決してそんなことはできません。

とはいえ、神様は私たちの信仰を求めておられます。私たちは神様に従うほどに、神様を信じるでしょうか。それなら、私たちはその祝福を知ることができます。

ノアが箱舟を作ったとき、その教訓を学びました。

アブラハムがカナンに行ったとき、その教訓を学びました。

ダニエルが王の食べ物を拒絶したとき、その教訓を学びました。

聖書の時代でも、現代でも、多くの人々がその教訓を学びました。

あなたは神様からの祝福を求めていますか。

あなたはどれほど神様を信じていますか。自分の道をやめて、神様の道を歩むほどに、神様を信じていますか。

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私たちじゃない

ペテロとヨハネに癒された乞食が歩き始め、跳びはね、大きな声で神様を賛美すると、周りの人々は驚きました。なぜなら、その人は約40年間、歩くことができなかったからです。ところがすぐに、人々はペテロとヨハネをぽかんと見つめ始めました。

すると、ペテロは彼らにこう言いました。

イスラエルの皆さん、どうしてこのことに驚いているのですか。どうして、私たちが自分の力や、敬虔さによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。。。

このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。

イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです。(使徒の働き3:12,16)

ペテロの言葉の中に、私たちは本当に大切なことを見いだします。

私たち自身は、自分の人生の中心ではありません。大切なのは私たちではなく、私たちができることでもありません。

大切なのは、イエス様です。大切なのは、イエス様が十字架で成し遂げられた御業です。そして、大切なのは、今イエス様が行っておられることです。

ペテロが高慢な態度で、「私たちを見てみなさい。すごいでしょう?神様は私たちに素晴らしい力を与えてくださった。私たちは本当に恵まれているでしょう?」と自慢するのは、簡単だったでしょう。

しかし、ペテロはそうせず、イエス様を示しました。ペテロとヨハネではなく、イエス様がその人を癒されたと指摘しました。

また、ペテロが強調したのは、その奇跡を見た人々がペテロとヨハネを信じて褒めるのではなく、イエス様を信じ、イエス様を褒めたたえるべきだということです。なぜなら、イエス様は彼らのために死なれたからです。

さらに、モーセと他の預言者たちは、イエス様を指して「イエス様に聞きなさい」と語りました。

けれども、多くのクリスチャンはイエス様に焦点を当てず、自分自身に目を向けてしまいます。自分の霊的な賜物に注目し、自分ができることに意識を向け、自分が得た誉れに心を奪われてしまうのです。

その結果、自分のいのちの目的を見失ってしまいます。

それは、イエス様を知り、周りの人々にイエス様を指し示すことです。

もし自分自身にばかり焦点を当てるなら、私たちは神様が私たちに与えようとしているいのちや喜びを理解することができません。

あなたはどうでしょうか。何に焦点を当てていますか。何のために生きていますか。誰のために生きていますか。

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神様の働きに加わる?

正直に言うと、神様は私に人に触れる機会を何度も与えてくださるのに、私はその機会を何度も逃してしまいます。なぜでしょうか。それは、私が自分の予定に集中しすぎてしまうからです。

例えば、私は買い物に行って誰かに出会っても、挨拶だけしてすぐに買い物に戻ってしまいます。時には本当に時間がないかもしれません。

とはいえ、なぜ私はその人と約束をしなかったのでしょうか。むしろ、多くの場合、私は心の中で言い訳をし、すぐに立ち去ってしまいます。

今日の箇所では、乞食の前を通り過ぎるとき、ペテロとヨハネが同じように言い訳をするのは簡単だったでしょう。なぜなら、彼らはちょうど神殿へ向かっている途中でした。彼らには神様を礼拝する予定がありました。だから、乞食と話す時間がなかったはずです。さらに、彼らにはお金が全くありませんでした。

そのため、乞食を無視するのは本当に簡単なことだったでしょう。

また、「ごめん、お金がない」と言って、そのまま立ち去ることも簡単だったでしょう。

けれども、彼らはそうしませんでした。彼らは立ち止まり、その人を見つめました。

そして、自分たちができないこと(つまり、お金を渡すこと)を気にせず、聖霊様ができることを示しました。

ペテロはこう言いました。

金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、立ち上がり、歩きなさい。(使徒の働き3:6)

そして、ペテロはその乞食の手を取って立たせました。すると、その乞食は突然歩き始め、跳びはね、神様を賛美し始めたので、皆は驚きました。

あなたはどうでしょうか。自分の予定に集中しすぎて、聖霊様が何をしたいのかを見逃してはいないでしょうか。

自分の限界に意識を向けすぎて、聖霊様が何をすることができるのかを見落としてはいないでしょうか。

毎日、聖霊様の導きに従って歩みましょう。聖霊様がどのように働かれるのかを見て、その導きに従い、その働きに加わりましょう。

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ひとつになって、ひとつにする

今日、私はこの箇所を締めくくろうと思いますが、44節と46節の「一つになって」と「心を一つにして」という言葉は、私の心を打ちました。

この言葉は、42節と関係があると思います。つまり、クリスチャンたちは交わりに専念していました。

彼らは他のクリスチャンとの関係を大切にしていたので、積極的に共に時間を過ごそうと努めました。けれども、ただ宮に集まっただけではなく、彼らは自分の家にも集まりました。そして、週に一度ではなく、毎日集まりました。

さらに、彼らは本当に互いに愛し合いました。だから、貧しい兄弟姉妹を常に助けました。

そして、彼らは心を一つにしました。

では、彼らは決して喧嘩しなかったのでしょうか。それは違うと思います。

彼らはいつも意見が一致していたのでしょうか。おそらく、そうではなかったでしょう。

けれども、最終的に彼らは、相手の違いを受け入れ、兄弟姉妹として見なすことができました。彼らは互いに必要であると認め、さらにその関係に専念しました。

クリスチャンが新しい夫婦にアドバイスを与えるとき、しばしばこう言います。

「困難な時にも、この関係を守ろうと努めなさい。相手に対するコミットメントはとても大切です。だから、喧嘩するときも、傷つけられるときも、努力してその関係を守りなさい。」

もちろん、その通りです。

しかし、どれほど多くのクリスチャンが他のクリスチャンと喧嘩し、その関係を捨ててしまうでしょうか。

神様は私たちにこう言われます。

「兄弟姉妹との関係を守りなさい。私はあなたにそのようなコミットメントを望んでいます。」

それにもかかわらず、私たちはこのことをほとんど考えようとしません。辛いときも、喧嘩するときも、傷ついたときも、神様は私たちに忠実なコミットメントを求めておられます。

結婚と同じように、クリスチャンの交わりにはコミットメントが必要です。そして、苦労も伴います。けれども、そのコミットメントを持てば、素晴らしい報いがあります。

そのようなコミットメントがあれば、私たちは祝福されます。さらに、この世の人々は、私たちの互いの愛を見て、イエス様に惹かれるでしょう。使徒の時代にも、そのようなことが起こりました。

神様の民の愛と一致、そして彼らの間で働かれる神様の力によって、教会は成長しました。ルカはこう記しています。

主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。(使徒の働き2:47)

確かに、教会の中にはさまざまな問題があります。教会が人間によって成り立っている限り、問題があるのは当然です。

なぜなら、イエス様は完全な人々のために来られたのではなく、霊的に病んでいる人々のために、また、傷ついた人々のために来られたからです。

牧師や他のリーダーたちが失敗することもあります。教会では、人が人を傷つけることもあるでしょう。

それでも、その関係にコミットメントを持ち続けますか。あなたのプライドを脇へ置き、困難の中でも人間関係の問題に向き合うでしょうか。イエス様のためにそうしませんか。

主の言葉を心に留めておきましょう。

私はあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネ13:34-35)

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共に祈ることに専念する?

正直に言うと、最近の記事を振り返ったとき、私は教会をやめた人に対して厳しすぎたのではないかと思いました。私には、はっきりと分かりません。

誰かに傷つけられて教会をやめた人がいることは、よく知っています。だから、ある程度まで、私は彼らに共感できます。

とはいえ、教会をやめることは、良い解決策ではありません。

相手を許すことは、大変であり、とても難しいことです。しかし、もし私たちが本当にイエス様を愛し、従いたいと思うなら、その教訓を学ばなければなりません。なぜでしょうか。

一つ目の理由は、苦々しい思いや怒りを抱いて相手を許さないことが、聖霊様を本当に悲しませるからです。(エペソ4:29-32)

もちろん、もしあなたが聖霊様を悲しませるなら、天の父とイエス様も悲しまれるでしょう。

二つ目の理由は、私たちが許さないなら、この世の人々にどんなメッセージを伝えているでしょうか。結局、私たちは彼らと全く変わりません。

とにかく、傷ついた人には多少共感できますが、私は神様のみ言葉に対して頑なな心を持つ人に全く同意できません。

また、キリストのからだ(つまり、教会)が不要だと思う人にも、私は全く同意できません。

パウロの言葉を借りるなら、彼らは手や足に向かって「私はあなたを必要としない」と言っているのです。(第一コリント12章21節)

けれども、パウロでさえ、そのようなことを主張することはありませんでした。

少し考えてみてください。

パウロはローマ帝国内で神様のために働き、福音を述べ伝えました。だから、パウロは毎週同じ教会に行くことができませんでした。彼は一つの教会について「これは私の教会だ」と言うことはできませんでした。

それでも、パウロはクリスチャンとの交わりを大切にしていました。彼は常に他のクリスチャンたちと時間を過ごしたいと願っていました。(ローマ1:10-12;第二コリント1:15-16;ピリピ1:8)

なぜでしょうか。パウロは彼らを祝福したいと願ったからです。(ローマ1:11;第二コリント1:15)

パウロは、彼らが自分を必要としたと認めました。

さらに、パウロ自身が彼らを必要としたと認めました。

特に、パウロは彼らの祈りが必要でした(エペソ6:19-20;コロサイ4:3;第一テサロニケ5:21;第二テサロニケ3:1-2)。

また、パウロは彼らの励ましが必要でした。(ローマ1:12)

「私は、教会を必要としない」と言う人は、とてもわがままだし、高ぶっています。

どうして私は彼らを「高ぶる」と呼ぶでしょうか。私たちはお互いを必要としますから。

どうして私は彼らを「わがまま」と呼ぶでしょうか。仮に、彼らが私たちを必要としないと思っても、私たちは彼らを必要としますから。私たち皆は、キリストの体に役割を持ちます。

とにかく、使徒の働きの箇所に戻りましょう。この箇所によれば、そのクリスチャンたちは祈りに専念しました。

でも、この箇所によれば、彼らは自分の部屋で、一人で祈っていたわけではありません。もちろん彼らはそうしましたけど、ルカのポイントは、彼らが一緒に祈っていたことです。

(ところで、ルカは使徒の働きを書いたでしょう。(ルカの福音書1:1-4;使徒の働き1:1-2))

なぜ、他のクリスチャンと共に祈ることが大切なのでしょうか。

一番の理由は、そうすることで、私たちは自分の心を神様の御心に調和させるだけでなく、相手の心にも調和させることができるからです。イエス様は、私たちが一つになるように祈られました。(ヨハネ17:20-21)

共に祈ることで、私たちは一つになります。

教会の初期から、共に祈ることはクリスチャンの習慣でした。(使徒の働き1:14)

クリスチャンが一致すると、神様の国のために素晴らしい働きができます。

けれども、もし私たちが喧嘩し、「あなたを必要としない」と言ってしまえば、私たちは弱くなり、何もできなくなります。サタンはそれを見て、きっと喜ぶでしょう。

だから、そのような考え方を捨てましょう。キリストの教会として、一致を求めましょう。

全てのことに同意する必要はありません。

私たちのミニストリーの方法が異なるかもしれません。それでも構いません。

しかし、私たちの愛を伝えましょう。そして、「あなたを必要としている」と伝えましょう。

そうすれば、サタンの国は崩れ、私たちの人生においてイエス様がほめられます。また、天の父もほめたたえられます。

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主の体を軽んじる?

教会をやめた人について考えると(前回の記事を読んでください)、私はもう一つのことを思い出しました。それは聖餐式のことです。

残念なことですが、多くのクリスチャンは聖餐式が何を意味するのか、何を象徴するのかについて深く考えません。

使徒の働き2:42では、ルカは使徒の時代のクリスチャンについて次のように書きました。

彼らはいつも。。。パンを裂き「ました」。

もしかすると、ルカは、彼らがただ一緒に食事をしたことを意味していたのかもしれません。しかし、第一コリント11章によれば、教会では、しばしば聖餐式がその食事の時間の一部でした。

聖餐式とは何でしょうか。それは十字架のことを思い出すことです。その前の晩、弟子たちと食事をしたとき、イエス様はパンを裂いて、こう言いました。

これはあなたあたのための、わたしのからだです。私を覚えて、これを行いなさい。(第一コリント11:24)

そして、イエス様は杯を取って、こう言われました。

この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。(第一コリント11:25)

一つのことに注意してください。聖餐式は、クリスチャンが共に行うものです。私たちはパンを裂き、分け合います。なぜでしょうか。

理由の一つは、私たち全員がキリストの体に属しているからです。イエス様を信じるすべての人のために、イエス様は十字架で死なれました。イエス様は、あなたが好きなクリスチャンだけのために死なれたわけではありません。

少し考えてみてください。最初の聖餐式のその瞬間、弟子たちは本当に互いに愛し合っていたでしょうか。

その直前、彼らは「誰が一番偉いか」について議論していました。弟子たちの間で、誰も皆の足を洗おうとしなかったため、イエス様は自らその役目を担われました。

さらに、彼らの人格について考えてみてください。

例えば、「熱心党員」と呼ばれていたシモンとマタイのことを思い出してください。イエス様に出会う前、シモンはローマ帝国に反抗しようとしていました。けれども、同じくイエス様に出会う前、マタイはローマ帝国のために働いていました。

彼らは本当に親友だったでしょうか。

そんな難しい関係があったので、イエス様は彼らに命じなければならなかったでしょう。「互いに愛し合いなさい。」

もし彼ら全員がとても親しい関係を持っていたら、イエス様はそのことを言う必要がなかったでしょう。

しかし、聖餐式を共にするとき、彼らは思い出しました。「私たち全員はイエス様に属しています。私たち全員は、イエス様にあって、一つです。」

だから、パウロはコリントの人々に怒りました。彼らはいつも喧嘩し、どのリーダーが一番偉いかを議論していました。

それに、彼ら全員はキリストの体に属していたのに、金持ちは貧しい人々を見下しました。ところが、彼らを見下すことで、実は金持ちはイエス様の教会を軽んじていました。(第一コリント11:22)

だから、パウロはこう言いました。

したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。(第一コリント11:27)

主のからだと血に対して罪を犯すとは、どういう意味でしょうか。その人々は、イエス様が捧げられた血とからだを軽んじ、罪を犯しました。

彼らは基本的にこう言いました。「イエス様、あなたがその人のために死んでくださったことは知っています。でも私は、それを気にしません。私自身は、その人とは全く関係がありません。」

そのような態度を持つなら、あなたは主のからだ、つまり主の教会に罪を犯すことになります。なぜなら、そのクリスチャンが好きでも嫌いでも、その人はイエス様のからだに属しているからです。

だから、相手に怒るとき、相手が嫌いなとき、相手と争うとき、聖餐式に参加するなら、あなたの相手に対する態度を改めなければなりません。

だから、パウロはこう言いました。

だれでも、自分自身を吟味して、その上でパンを食べ、杯を飲みなさい。(第一コリント11:28)

この箇所の文脈に従えば、それは、あなたが兄弟姉妹との関係を吟味しなければならない、という意味です。

残念なことですが、教会をやめる人々はそうしません。もし彼らがまだ聖餐式に参加するなら、彼らは好きな人とだけ一緒に行います。

彼らは悪い人間関係を全く吟味せず、相手と和解を求めません。むしろ、彼らはその人を避けます。しかし、そうするなら、彼らはキリストのからだと血を軽んじてしまいます。

もしあなたが「私はまだクリスチャンだけれど、教会をやめた」と言うなら、自分自身にこの質問をしてみてください。

「一対一で、私がやめた教会の人々と聖餐式を行う機会があれば、私はその機会を活かすだろうか。そのとき、私たちはこう言えるでしょうか。

『イエス様と天の父が一つであるように、私たちは一つです。私たちの一致によって、この世は、天の父がイエス様を遣わしたことを理解するでしょう。』」(ヨハネ17:21-23)

あなたがまだ教会に行っているとして、どのように聖餐式を行っているでしょうか。兄弟姉妹との関係は良好でしょうか。もしくは、あなたはイエス様のからだと血を軽んじているでしょうか。

心に留めておきましょう。イエス様はあなただけのためではなく、あなたが軽蔑しているクリスチャンのためにも死なれました。だから、その関係を吟味し、その人に対するあなたの態度を改めるべきです。

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クリスチャンの交わりに専念する?

この記事は前回の記事の続きです。前回の記事では、私は教会をやめる人について話しました。

彼らの一つの不満は、教会で訓戒されることに飽きたということです。また、彼らは「もう知っている」という態度を持っていました。

今日は、さらに重要な問題について話したいと思います。おそらく、多くの人々が教会をやめる理由は、説教ではなく人間関係にあるでしょう。つまり、リーダーやほかの教会のメンバーたちと気が合わないということです。

私の友人が掲載した記事を読んだとき、私は少し混乱しました。その記事でインタビューされたクリスチャンの一人はこう言いました。

「人間関係の問題のせいで、私は教会をやめるわけではありません。私はかっとして急にやめたわけではありませんでした。私は、教会をやめる決断をじっくり考えました。」

けれども、その記事には、その人が教会をやめた理由が書かれていません。

その人は、人間関係の問題を控えめに語っています。しかし、記事(とコメント欄)を読むと、多くの場合、人間関係の問題こそが教会をやめる根本的な理由であることが明らかになります。

ある人々は、教会の方向性について、リーダーたちに賛成できませんでした。

ある人々は、リーダーたちの行動を批判しました。

ある人々は、教会に愛が欠けていると不満を述べました。

そのため、彼らは教会をやめてしまいました。

けれども、使徒の時代のクリスチャンたちは、そのようにはしませんでした。

新改訳では、翻訳者たちは「守り」(別訳:「専念」)という言葉を使徒たちの教えだけに結び付けています。

しかし、ほとんどの英訳では、「専念」という言葉を「使徒たちの教え」だけではなく、交わり、パンを裂くこと、祈りにも結び付けています。

したがって、この箇所を次のように翻訳できます。「彼らはいつも。。。(クリスチャンの)交わりに専念していました。」

つまり、彼らはクリスチャンの交わりに熱心でした。

私の友人の一人は、その記事を読んでこう言いました。

「まあ、私はもう教会に行かないけれど、クリスチャンの友人がいて、私たちは霊的な成長や個人的な成長のために、互いに励まし合っていますよ。」

彼らが本当にそうしているのなら、それは素晴らしいことだと思います。とはいえ、具体的に彼らは何を意味しているのでしょうか。一週間に一度くらい電話をするのでしょうか。一か月に一度?一年に一度?

彼らはその友人と時間を過ごし、互いに話し合い、励まし合い、もし必要があれば訓戒し合っているでしょうか。彼らにとって、それをすることは優先度が高いのでしょうか。

彼らは一緒に祈ることに専念しているでしょうか。

彼らは一緒にパンを裂いているでしょうか。

もしかすると、彼らはまず仕事や家族、学校を優先し、時間があればほかのクリスチャンとの時間を割いているのでしょうか。

しかし、使徒の時代のクリスチャンたちは交わりを優先していました。

信者となった人々はみな一つになって、一切のものを共有し、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。

そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし(ました)。。。(使徒の働き2:44-46)

彼らは交わりに熱心だったので、毎日宮に集まりました。彼らは家々で時間を過ごしました。そして、他のクリスチャンたちのニーズを満たしました。

その結果は?

主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。(47)

教会はなぜ成長したのでしょうか。イエス様はその理由を私たちに説明されました。イエス様は弟子たちにこう言いました。

互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネの福音書13:35)

少し注意してください。イエス様は「あなたがたがすべての人々に対する愛があるなら、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります」とは言いませんでした。

イエス様は「互いの間に愛があるなら…」と言われました。

もちろん、私たちは教会の外の人々を愛するべきです。また、私たちは教会の人々だけを愛することに焦点を当てるべきではありません。私たちは教会の外にいる人々と関わるべきです。

とはいえ、この世の人々が私たちを見るとき、私たちが喧嘩し、怒り合い、許し合わず、苦々しい思いを持っているのを見たなら、彼らはどう思うでしょうか。

次のような会話を想像してみてください。あなたが友人にイエス様のことをずっと伝えていたとします。そして、彼らが「じゃあ、あなたの教会に行きたいと思うけど」と言います。

けれども、あなたは「実は、私はもう教会に行っていない」と答えます。

彼らが「どうして?」と訊いたら、あなたはどう答えるでしょうか。

「まあ、人間関係の問題があって。。。」

「少しリーダーたちと教会の方向性について言い争いをしてしまったので。。。」

相手はそれを聞いて、どう反応するでしょうか。イエス様が教会を愛し、その教会のために死なれたのに、あなたがその教会の悪口を言ったら、彼らはクリスチャンになりたいと思うでしょうか。

第一ヨハネ4:20を少し言い直すと、あなたの心に強く響くかもしれません。

「神を愛すると言いながら兄弟との交わりを拒むなら、その人は偽り者です。見える兄弟との関係を断つ者に、目に見えない神を愛することはできません。」

もし、教会の兄弟姉妹との交わりを拒むなら、あなたは神様を愛していると主張できるでしょうか。もしその関係を断つなら、あなたは本当に神様を愛していると言えるでしょうか。

友人を愛することは簡単です。

兄弟姉妹に欠点があっても、あなたは彼らを愛するでしょうか。

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使徒の働き

み言葉に専念する?

数年前、私の友人はFacebookで記事を掲載しました。そのタイトルは「教会をやめた人」でした。

その記事には、ある敬虔なクリスチャン—つまり、聖書をよく学び、惜しげもなく献金をささげ、熱心に人々を導いていたクリスチャンが、教会をやめてしまったという話が書かれていました。

その人は信仰を捨てたわけではなかったようです。それでも、教会を去りました。その人は「教会の中で、私は最も積極的な人の一人だったし、最も忠実な人の一人だった」と言っていたにもかかわらず、教会をやめました。

その人はいくつかの理由を挙げていたので、私は今後数日にわたり、そのことについて話したいと思います。

正直に言えば、私の愛する人々がその著者の意見に同意すると聞くと、本当に悲しくなります。

その著者の最初の理由は、「私は牧師のメッセージを何百回も聞いたので、もうわかっているし、訓戒されるのはもう嫌だ」ということでした。

けれども、この箇所では、教会の模範、またクリスチャンの生活の模範が示されています。

今日は、一つのことに焦点を当てたいと思います。

彼らはいつも、使徒たちの教えを守り[ました]。(使徒の働き2:42)

新改訳では、「使徒たちの教えを守る」と書かれていますが、「守る」と訳された言葉にはさまざまな意味があります。

そのため、翻訳者は使徒の働き1:14で、その言葉を「専念する」と訳しました(これは第3版です)。

また、使徒の働き6:4では、その言葉を「励む」(第3版)、または「専念する」(第4版)と訳しています。

要するに、この箇所を次のように訳すことができます。「彼らはいつも使徒たちの教えに専念しました。」

多くの英語の聖書では、42節はこのように翻訳されています。

とにかく、初期のクリスチャンたちは神様の言葉に熱心でした。彼らはその言葉を知りたいと願いました。彼らはその言葉に従いたいと思いました。

だから、「訓戒されるのはもう嫌だ」と言う人に、私はこう訊きたいと思います。

「あなたはみ言葉にどれだけ専念しているでしょうか。聖書が本当に神様のみ言葉であると信じていますか?使徒の働きの時代のクリスチャンのように、あなたはみ言葉に対する強い熱心を持っていますか?

それとも、聖書の教えはもう古臭いと感じていますか?その教えはあなたの人生に関係ないと思いますか?」

もちろん、説教する際に人を見下す牧師もいます。彼らは「すでに到達した」という態度を示すかもしれません。その場合、私は教会をやめた人の言い分を理解できます。

とはいえ、それは本当の問題でしょうか。

少し自分自身に、次の質問をしてみてください。

「私が聖書を読んで、聞きたくないことを目にしたとき、私は訓戒されていると感じるだろうか。」

残念ながら、多くのクリスチャンは聖書を読むとき、好きな箇所だけを選び、聞きたくない言葉が含まれる箇所を避けてしまいます。

その結果、教会に行くと「私は訓戒されている」と感じてしまうのです。

しかし、私たちがクリスチャンなら、み言葉に専念しなければなりません。励ましや慰めの言葉であれ、挑戦や訓戒の言葉であれ、私たちはそのすべてに専念すべきです。

「何百ものメッセージを聞いたし、もうわかっている」という言い分に関して、私たちは自分自身に同じような質問をするべきだと思います。

聖書を読むとき、私はもう何も学ぶことがないのでしょうか。すでにすべてを読んだから、すべてを知っているのでしょうか。それとも、神様は今もなお、その言葉を通して私に語り続けておられるのでしょうか。

正直に言うと、「もう全部読んだことがあるし、メッセージの内容を聞いたことがある」という感覚はよくわかります。それでも、二つのことを伝えたいと思います。

一つ目は、私が40年来のクリスチャンですが、今でも学び続けているということです。聖書を読むときや、日曜日のメッセージを聞くとき、神様が私に新しいことを示してくださることもあります。その時、私は本当に興奮します。

二つ目は、あなたは同じことを何回も聞いたことがあるかもしれません。けれども、その言葉に従っていますか?その言葉は、あなたの頭から心へと移動したでしょうか。

例えば、あなたは許しのメッセージを何回も聞いたことがあるでしょう。でも、あなたを傷つけた人をすでに許してあげましたか?

また、怒りや苦々しい思いを手放すことの大切さについて聞いたことがあるでしょう。その怒りと苦々しい思いを、もう手放しましたか?

要するに、あなたの人生の中で、神様の言葉は生きていて、力を持ち、両刃の剣よりも鋭く、魂と霊、関節と骨髄を分けるほどに刺し貫き、あなたの心の思いや計画を見分けていますか。(へブル4:12)

それとも、その言葉はあなたの左の耳に入り、右の耳から抜けていくのでしょうか。

もちろん、私はあなたの経験をよく知りませんし、教会をやめた人の経験も知りません。

もし、あなたの牧師がいつも皆さんを見下しながら説教しているのなら、別の教会に行った方がいいかもしれません。

しかし、それが本当の問題でしょうか。

あるいは、問題は神様のみ言葉に対するあなたの態度にあるのでしょうか。

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使徒の働き

福音のメッセージ

この箇所では、私たちは最初の本格的な福音の説教を読むことになります。

それ以前、すべての説教はイエス様の死と復活の前に伝えられました。したがって、それらの説教はまだ不完全でした。

しかし、ペテロがこの説教をしたとき、イエス様はすでに旧約聖書にある救いに関する預言をすべて成就されていました。だから、ペテロは群衆に宣言しました。

神が今や主ともキリスト(つまり、神様が選ばれた王)ともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。(使徒の働き2:36)

それを聞いて、心を刺され、群衆は答えました。

「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか。」(37)

ペテロは彼らに言いました。

それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。

この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして、遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。(38-39)

簡単に言えば、それは福音のメッセージです。

まず、私たちは罪を悔い改めなければなりません。もう自分の道を歩むのではなく、神様の道を歩み始めなければなりません。

私たちは自分の道を歩んできたために、神様を悲しませ、周りの人々、そして自分自身をも傷つけてしまいました。そのことを認めなければなりません。

そして、私たちはイエス様に信頼を寄せ、その良い支配のもとに従います。

「主よ、私の王となってください。私は自分の道を歩むことで、神様を悲しませ、周りの人々も、私自身も傷つけてしまいました。けれども、あなたは私を愛してくださり、十字架で私の罰を受けてくださいました。だから、これから私はあなたに従いたいと思います。私はあなたを信頼し、従います。」

バプテスマは、その決断のしるしです。バプテスマを通して、あなたはこう言います。

「私の古い生活に対して死にます。「私の道」に対して死にます。そして、私は新しい人としてよみがえります。イエス様の血によって、私の罪は清められ、聖霊の力によって、私はこの新しい人生を歩みます。」

御霊という約束は、最も素晴らしい賜物です。なぜなら、聖霊様は神であり、私たちのうちに住んでおられるからです。私たちはもはや神様から離れていません。今や、神様と親しい関係の中に生きています。

そして、私たちが神様と共に歩めば歩むほど、聖霊様は私たちの傷を癒し、私たちを新しくしてくださいます。神様は、私たちのために計画された人生を示してくださいます。実は、神様は私たちを造られる前から、そのプランをすでに考えておられました。

永遠の命は、天国では始まりません。永遠の命は今から始まります。

それは福音のメッセージです。そのメッセージを信じ、受け入れましたか。もし、上記の祈りを初めて祈ったなら、ぜひコメント欄で教えてください。

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この同じ御霊

私にとって、聖霊様が来て、教会を力で満たされた日のことを想像するのは少し難しいです。激しい風のような響きが聞こえ、炎のような舌が一人ひとりの上に留まる光景は、非常に不思議で神秘的なものでした。

そして、御霊に満たされ、彼らはエルサレムの道に出て、学んだことのない言語で神様を賛美しました。

周りの国々から来たユダヤ教の改宗者たちは、その賛美を自分の言語で聞き、とても驚きました。私が彼らの立場なら、私も驚いたことでしょう。「不思議だな。これは何なのだろう?」

しかし、ペテロはこう言いました。

これは、預言者ヨエルによって語られたことです。

「神は言われる。終わりの日に、わたしは、すべての人にわたしの霊を注ぐ。

あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。

その日わたしは、私のしもべにも、はしためにも、私の霊を注ぐ。すると彼らは預言する。。。」(使徒:16-18)

そしてペテロが福音を伝え、その日に3000人の人々が救われました。

そんな話を読んで、多くのクリスチャンは問いかけます。「どうして現代ではそんなことが起こらないのだろうか。どうして現代に聖霊様はそのように働かないのだろうか。」

しかし、聖霊様は現代でもそのように働くと私は思います。ペテロはこう言いました。

それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。

この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。(38-39)

ペテロによれば、聖霊という賜物はペテロの世代だけのためではありません。ペテロは、彼らの子孫にも聖霊様が与えられると言いました。

それだけではなく、聖霊様はすべての国民に与えられるとも言いました。つまり、主が召してくださったすべての人々は聖霊様を受けます。

例えば、14年前、私の牧師の人生が混乱していたとき、神様は彼に夢を見させました。その夢によって、私たちの教会は始まりました。

振り返ると、神様は何度も私の周りの人々を通して私に語りかけてくださいました。

私が人生のために神様の御心を求めていたとき、ある日、私の祈りを知らない私の友人が突然こう言いました。

「ブルース、なぜか私はあなたが事務職をすることが想像できません。あなたはミニストリー向きだと思います。」

さらに、神様が私に直接語りかけたり、私の人生にさまざまなことをなさったので、私は快適なハワイの生活を捨てて、日本に引っ越しました。

私は確信をもって、聖霊様のおかげで日本に来たと言えます。

実は、私は聖霊様の導きをもっともっと必要としています。

正直に言えば、私はよく自分の力と知恵によってミニストリーを行っています。けれども、そのように生きることはもう望んでいません。2000年前にクリスチャンたちが聖霊様に満たされたように、私も聖霊様に満たされたいのです。

あなたはどうですか。

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使徒の働き

私たちの心を知っておられる神

この箇所では、マッティアが使徒として選ばれ、ユダの務めを引き継ぎました。

ある人々は、ペテロや他の弟子たちが勝手にマッティアを任命したと考えています。つまり、神様はマッティアではなくパウロを選びたかったのだ、と主張するのです。

その人々によれば、イエス様がパウロに現れて彼を使者として任命したとき、実はパウロがユダの務めを引き継いだのだそうです。

私もかつてはそう考えていましたが、今はそう思いません。なぜなら、第一コリント15:5で、パウロはマッティアを12人の使徒の一人として認めていたからです。

イエス様が復活された後、ユダに現れることはなかったため、この文脈ではパウロがマッティアについて言及していたのでしょう。

それに、パウロが使徒として任命されたにもかかわらず、彼はこう言いました。「私は使徒の中で最も小さい者です。私は使徒と呼ばれるに値しない者です。」(第一コリント15:9)

もう一つ注意すべき点があります。それはユダの死です。マタイの福音書27章によれば、祭司長はユダが返した銀貨を受け取り、畑を購入しました。そしてユダは出て行って首を吊りました。

しかし、使徒の働きによれば、ユダ自身が地所を購入し、真っ逆さまに落ちて、体が真っ二つに裂けたと記されています。どうやって、その2つの話を調和できるでしょうか。

アケルダマ(その畑の名前)はベン・ヒノムの谷にあります。たぶん、ユダは崖の上で首を吊ったでしょう。そして、ユダの死体が腐敗し始めている間に、その綱は切れたかもしれません。だから、その死体は谷に落ちて、その畑に着地しました。

それを聞いて、祭司長たちはユダの代わりに、その畑を買ったでしょう。なぜなら、彼らは「そのお金は血の代価だから、神殿の金庫に入れることは許されない」と言ったからです。(マタイ27:6)

でも、それは今日の要点ではありません。

興味深いのは、使徒たちがユダに彼らと同じ務めを割り当てられていたと認めたことです。つまり、ユダは他の弟子たちと共に二度の宣教旅行に行き、福音を述べ伝えたり、悪霊を追い出したり、病人を癒したりしました。(ルカ9-10章)

とはいえ、イエス様はユダの心をよくご存じでした。ユダがさまざまな素晴らしい働きをしても、彼の心は真にイエス様のものではありませんでした。そのため、彼は最終的に暴露され、追い出されました。

その後、神様に属する心を持つ者がユダの務めを受け継ぎました。

私は何を言いたいのでしょうか。

私たちがミニストリーに携わっているなら、毎日自分の心を探らなければなりません。私たちの動機を吟味しなければなりません。私たちの心が本当に神様のものかどうか、試さなければなりません。

私たちはイエス様の御名によってさまざまな良いことを行うことができます。私たちのミニストリーを通して人々が救われるかもしれません。

しかし、神様は私たちの心を見抜かれます。もし私たちの心が神様の目にかなわないなら、最終的に神様は私たちの務めを取り去り、別の人に与えます。

そして、もっと恐ろしい可能性もあります。

もしかしたら、私たちはイエス様にこう言うことになるかもしれません。

主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡をおこなったではありませんか。(マタイ7:22)

ところが、イエス様は私たちにこのように答えられます。

わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。(マタイ7:23)

あなたの心はどうですか。あなたは本当に自分の心をイエス様に捧げたでしょうか。

もしかしたら、良いクリスチャンのふりをしているかもしれません。もしそうなら、結局あなたの務めは取り去られ、ほかの人に与えられるでしょう。

あなたの心は、誰のものでしょうか。

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使徒の働き

イエス様の再臨を待つ

イエス様が天に上っていくのを目にするのは、本当に驚くべき光景だったでしょう。だから私は、弟子たちが口をぽかんと開けて、イエス様が見えなくなるまで空を見つめていたことがよく理解できます。もし私がその場にいたなら、同じことをしていたでしょう。

しかし、そのとき二人の天使が現れて、彼らにこう言いました。

ガラリヤの人たち、どうして天を見上げて、立っているのですか。

あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。(使徒の働き1:11)

その言葉から、私たちは二つのことを学ぶことができます。

一つ目は、私たちの希望の理由です。この世は混乱し、ますます悪化しているように見えますが、イエス様は必ずこの世に戻られます。その日、イエス様はすべてを新しくされます。

二つ目は、イエス様が戻られるまで、私たちには果たすべき重要な使命があるということです。

おそらく、天使たちが伝えたかったのは、「ここにただ立ち尽くしているのではなく、イエス様の言葉に従いなさい」ということだったのでしょう。

弟子たちはまずエルサレムに行き、御霊を待つ必要がありました。もし私たちがミニストリーを志すなら、まず同じように、御霊を待つことから始めるべきです。

前回の記事で述べたように、私たち自身の力には限界があります。しかし、聖霊に満たされた人は、この世を変えることができます。

だから、この世を見渡すとき、ただ不平不満を言うだけではなく、ただ天を仰ぎながらイエス様の再臨を待つだけでもなく、むしろ、聖霊に満たされて、神様の言葉に従いましょう。

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ルカの福音書 ルカ24章 使徒の働き

世界を変える力

それでは、福音書に関する最後の記事です。そして今日から、使徒の働きについてお話しします。

以前気づいていたかどうかわかりませんが、おそらく使徒の働き1:4で、ルカはルカの福音書24:49を参照しているでしょう。その箇所では、イエス様は弟子たちに「聖霊様が来るまで、エルサレムで待ちなさい」と命じられました。

その後、およそ40日が経ち、イエス様は弟子たちをベタニヤ、つまりオリーブ山へ連れて行かれました。

オリーブ山に立っていた時、弟子たちはゼカリヤの預言を覚えていたかもしれません。ゼカリヤの預言によれば、国々がイスラエルを征服した後、主はオリーブ山に降り立ち、その国々と戦って、世の王となられます。(ゼカリヤ書14章)

もしかすると、彼らはその預言を思い出し、それを確かめるためにイエス様に尋ねたのかもしれません。

主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。(使徒の働き1:6)

しかし、イエス様はこのように答えられました。

いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威を持って、定めておられることです。

しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。(使徒の働き1:7-8)

多くの人々はイエス様がいつ戻られるのかを気にします。もちろん、イエス様の再臨のしるしに注意を払うことは重要ですが、それ以上に、イエス様が戻られるまでの間に私たちはイエス様から受けた使命に目を向けなければなりません。

それは何でしょうか。それは、福音を宣べ伝えることです。私たちはイエス様の証人となるべきです。

では、イエス様の証人になるとはどういうことでしょうか。

基本的に、それは私たちが見たこと、聞いたこと、そして知っていることを伝えることです。

イエス様があなたの人生にどのように働かれたかを伝えるべきです。あなたが教会で学んだことや、聖書から得た教えを周りの人々に分かち合うべきです。そうすれば、私たちはこの世を変えることができます。

とはいえ、私たち自身の中には世を変える力はありません。私たちの言葉だけでは、人の心を変えることはできません。

むしろ、私たちの内に住んでおられる聖霊様こそが、ご自身の力によってこの世を変えることができます。私たちの力では何も成し遂げることはできません。

だからこそ、イエス様は弟子たちに「あなたたちはすべてのことを知っているから、行きなさい。この世を変えなさい」とは言われませんでした。

むしろ、イエス様は彼らにこう言われました。「聖霊様が来るのを待ちなさい。聖霊によるバプテスマを受ける時、あなたがたは力を受けます。その後、行きなさい。」

私たちはしばしば、自分の力と知恵によってミニストリーをしようとします。そうすると、多くのことを成し遂げるかもしれません。

けれども、本当にこの世界を変えたいと願うなら、聖霊によるバプテスマが必要です。私たちは聖霊様の力に満たされるべきです。なぜなら、人間の力や知恵には限界があるからです。

一方で、神様には限界がありません。

聖霊様、どうか私を満たしてください。 私はしばしば、自分の知恵と力によってミニストリーをしようとしてしまいます。けれども、あなたから離れては私は何もすることができません。

私はもう、自分の力や知恵に頼ることに疲れました。だから、聖霊様、私を満たしてください。あなたのためにこの世に影響を与えるために、力を与えてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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マタイの福音書 マタイ28章

私たちと共におられる方

私たちはもうすぐ福音書を読み終えます。予想以上に時間がかかりましたが、それでも楽しむことができました。

さて、イエス様は弟子たちに指示を与えた後、こう言われました。

見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(マタイの福音書28:20)

イエス様はすぐに天に戻られる計画を立てておられました。そして、イエス様が天に戻られた後、弟子たちは大きな使命を担わなければなりませんでした。それは神の国を広げることです。

もちろん、その使命には喜びが伴いました。しかし、イエス様が弟子たちに教えられたのは、彼らが迫害や苦しみを必ず経験するということでした。最終的に、弟子たちの多くは自分の信仰のために命を捧げました。

それでも、イエス様は彼らにこう約束されました。

「あなたがたは私を見なくなります。それでも、私はいつもあなたがたと共にいます。あなたたちを捨てて孤児にすることはありません。

むしろ、私はあなたたちに聖霊様を与えます。そして、聖霊様はあなたたちと共に住み、あなたたちのうちにおられます。」(ヨハネ14:16-20)

イエス様は私たちにも同じ約束を与えてくださいました。私たちがどこへ行っても、何をしていても、どんな喜びや苦しみを経験していても、イエス様は私たちを決して見捨てることがありません。

イエス様は今も私たちと共におられ、永遠に私たちと共にいてくださいます。

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マタイの福音書 マタイ28章

弟子作り

数年前まで私は、マタイ28:16-20の出来事と使徒の働き1章の出来事が全く異なる時に起こったことだと気づいていませんでした。

マタイの出来事はガリラヤで起こり、使徒の働きの出来事はオリーブ山で起こったのです。

もしかすると、ガリラヤでイエス様は11人の弟子たちだけではなく、500人の弟子たちにも現れたのかもしれません。(第一コリント15:6)

そのため、ガリラヤに来た時、「疑う者たちもいた」。(17)

つまり、11人の弟子たちはすでによみがえられたイエス様を見ていましたが、その500人はまだイエス様を見ていなかった可能性があります。

けれども、イエス様に会うと、彼らの疑いは消え去り、イエス様は彼らにこう言われました。

わたしには天においても地においてもすべての権威が与えられています。

ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。

父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。

見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(マタイの福音書28:18-20)

イエス様が単に「福音を述べ伝えなさい」と言わなかったことには重要な意義があると思います。(もちろん彼らには福音を述べ伝える役割もありました。)

イエス様は彼らに「弟子を作りなさい」と言われました。その弟子たちは自分の弟子を作るのではなく、イエス様の弟子を作るべきでした。では、弟子を作る方法は何だったのでしょうか。

彼らは新しい信者にバプテスマを授けました。バプテスマは、彼らがイエス様に従う決意を示すしるしでした。

私たちがバプテスマを受けるとき、私たちはキリストに属することを表現しています。バプテスマの水は墓を象徴しています。その水に入るとき、私たちはこう宣言しているのです。

「イエス様が死んでよみがえられたように、私は自分の古い生活に対して死に、新しい人としてよみがえります。そして、私の体が死んでも、私はよみがえってイエス様と共に永遠にいます。」

時折、日本ではノンクリスチャンの親が、クリスチャンである息子や娘にこう言うことがあります。「教会に行ってもいいけれど、バプテスマを受けてはだめです。」

そのため、その息子や娘は本当に困ります。「私の家族を怒らせても、洗礼を受けるべきなのだろうか。」

実は、使徒の時代にも、多くのユダヤ人たちが同じようなプレッシャーに直面していたかもしれません。しかし、イエス様の弟子になりたいのであれば、私たちはイエス様を何よりも優先しなくてはなりません。

洗礼を受けるとき、私たちは皆の前でその決断を明確に宣言します。

イエス様は弟子作りについて、もう一つの重要なことを教えられました。それは、新しい弟子たちにイエス様の戒めを教えることです。そして、新しい弟子たちがその戒めを守るように教えることも含まれていました。

多くのクリスチャンたちはこれを聞いて、違和感を覚えるかもしれません。

「だって、それは律法主義でしょう?私たちは恵みによって救われたのではないですか?」

もちろん、私たちは恵みによって救われました。そして、キリスト教を単なる規則の体系として教えるべきではありません。

それでも、私たちが弟子たちに教えなくてはならないのは、神様が彼らを深く愛しておられるということです。そして神様は、私たちの最善を望まれます。

だからこそ、私たちが救いのために神様を信じるならば、神様の道が一番良いと信じ、従うのは当然のことです。私たちはその道を選んで進むべきです。

さらに、もし私たちが神様を本当に愛しているのであれば、神様を喜ばせることを選び取るべきです。

簡単に言えば、私たちは人々が神様に近づく方法を教えるべきです。そして、彼らが日々神様をさらに愛し、信頼するよう導くべきです。

残念ながら、多くの教会ではそのことが十分に教えられていません。そのため、教会の中には「赤ちゃんクリスチャン」と呼ばれる人々が多くいます。彼らは決して霊的に成長しません。

口では「神様を愛している」と言うかもしれませんが、神様に信頼することを学んでいないのです。その結果、彼らの人生は混乱してしまうことがあります。

ですから、私たちはただ福音を述べ伝えるだけではなく、弟子を作りましょう。イエス様を愛し、信頼し、従うクリスチャンを育てましょう。

そうすれば、彼らはイエス様の恵みと知識において成長するでしょう。

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ヨハネの福音書 ヨハネ21章

イエス様に目を向けていますか?

自分の死について聞くことほど、恐ろしいことはないでしょう。

だからこそ、イエス様がペテロの死を預言された後、二人はしばらく沈黙のまま歩き続けたのかもしれません。

それは、気まずい沈黙だったでしょう。けれども、ふとペテロは、ヨハネが彼らの後をついてきていることに気づきました。

そこでペテロは、イエス様に問いかけました。

主よ。この人はどうなのですか。(ヨハネの福音書21:21)

つまり、「彼もあなたのために死ななくてはならないでしょうか。」ということです。

しかし、イエス様は答えられました。

わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。(22)

主に仕えるとき、私たちはしばしば自分自身を周りの人々と比べてしまいます。

時には、彼らの才能や霊的な賜物をうらやましく思うことがあります。

また、時には自分の才能や賜物を誇り、周りの人々を見下してしまうこともあります。

さらに、神様が私たちを召されるときもあります。けれども、ペテロのように私たちは問いかけてしまいます。

「どうして私なのでしょうか?あの人を遣わしたらどうですか?」

しかし、イエス様は私たちに同じ答えを与えられます。

「彼らのことを気にしないで。あなたにかかわることではない。 あなたは、私に従いなさい。

周りの人々に目を向けるのではなく、私に目を向けなさい。 自分自身を彼らと比べるな。

私から目を離さず、ただ私に従いなさい。」

正直に言うと、それは難しいことです。 私たちの目はすぐに周りの人々へと向かい、私たちの心はすぐに自分自身を周りの人々と比べてしまうからです。

そして今も、私自身そうしてしまいます。

けれども、もし神様のために実を結びたいと願うなら、私たちは周りの人々ではなく、イエス様に目を向けるべきです。

あなたはどうでしょうか?何を見つめていますか?

自分自身でしょうか。

周りの人々でしょうか。

もしかしたら、イエス様でしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ21章

私たちを信じてくれる神

これは、聖書の中で私が特に好きな話の一つです。主人公はペテロ――自信満々なペテロ。大胆なペテロ。

それでも、ペテロはイエス様を知っていることを三度否定しました。その瞬間、彼の自信も、大胆さも失われました。もしかすると、彼は自分自身すら信じられなくなったかもしれません。

復活後、ペテロとイエス様の最初の会話を読んでみたいと思います。残念ながら福音書にはその詳細な会話は記されていません。

ペテロはイエス様の墓へ行ったとき、イエス様の遺体が見つからず、激しく困惑したことでしょう。「ヨハネは、イエス様がよみがえられたと信じている。でも、本当にそれが事実なのだろうか?」

もしかすると、ペテロはこう思ったかもしれません。

「正直、ある意味では、それが本当じゃないほうがいいかもしれない。だって、もし本当なら、私はどうやってイエス様と向き合えばいいのだろうか。」

けれども、突然イエス様はペテロの前に現れました。

ペテロはどう反応したでしょうか。驚きでしょうか。喜びでしょうか。それもあるかもしれません。

もしかすると、ペテロはイエス様のもとにひれ伏し、涙を流しながら何度もこう叫んだのではないでしょうか。

「ごめんなさい……どうか赦してください。」

多分、イエス様はペテロにこう言われたことでしょう。

「大丈夫だ。赦してあげよう。私はあなたのような人々のために十字架で死んだのだから。私は今も変わらず、あなたを愛している。」

それを聞いて、ペテロは慰められたかもしれません。けれども、すぐに疑いが心に浮かんだのではないでしょうか。

「まさか、本当にイエス様は私を赦してくださったのか?たとえ赦されたとしても、イエス様は私を弟子としてもう受け入れられないのではないか?私の失敗はあまりにも大きすぎる。。。」

そして、数日が経ちましたが、ペテロはイエス様と再び会うことがありませんでした。そのため、彼の心は再び沈んだことでしょう。

「やはりダメなのか。。。イエス様は『赦してあげよう』と言ってくださった。でも私はもう、イエス様の弟子として歩み続けることはできないのではないか。元の生活に戻るしかないのだろうか…。」

そこで、ペテロは他の弟子たちにこう言いました。

「私は漁に行く。」

他の弟子たちも、おそらく少し退屈していたので、ペテロと共に漁に出ました。ところが、夜通し漁をしても、何も捕れませんでした。

もしかすると、ペテロの気持ちはさらに沈んだのではないでしょうか。

「私はもう、何をやってもダメだ。。。魚を捕ることすらできない。」

そして、彼らは岸辺から声を聞きました。

「おい!食べる魚がないみたいだね。船の右側に網を打ってみなさい。」

弟子たちがその言葉通りにすると、突然、彼らの網は魚でいっぱいになりました。それを見たヨハネは叫びました。

「あれは主だ!」

ペテロはヨハネの言葉を聞くと、すぐに湖へ飛び込み、イエス様のもとへ泳いでいきました。ペテロが岸に着くと、イエス様は微笑みながら言われたことでしょう。

「ペテロ、何をしているのだ。他の弟子たちを助けなさい。」

ペテロは船に戻り、弟子たちと共に魚を岸辺まで持ってきました。彼らが到着すると、イエス様はすでに魚を焼いて、彼らのために食事を用意されていました。

彼らが食べながら、きっと笑ったり、様々なことを語り合ったりしたでしょう。けれども、食事が終わると、イエス様はペテロに言われました。

「ペテロ、少し話がある。こちらへ。」

その言葉を聞いて、ペテロは内心ひやひやしていたかもしれません。

「やはり。。。イエス様は私を責め、私を捨てるのだろう。弟子としての私の歩みは、もう終わりなのだろうか。。。」

不安を抱えながら、おどおどとペテロはイエス様と共に歩き始めました。もしかすると、無言のまま何分も散歩したかもしれません。そしてついに、イエス様はペテロに問いかけました。

ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、私を愛していますか。(ヨハネの福音書15:15)

新改訳では、「この人たちが愛する以上に」と書かれています。しかし、実際にイエス様の言葉は、それほど明確ではありませんでした。

イエス様が語られたのは、こういうことです。

「これらよりも、私を愛していますか。」

多くの聖書学者によれば、おそらくイエス様は他の弟子たちについて話していたのだろうと考えられています。そのため、新改訳では「この人たちが愛する以上に」と訳されています。

けれども、ペテロの答えを考えると、その解釈には納得できない部分があります。

ペテロはこう答えました。

「はい。私があなたを愛していることは、あなたがご存知です。」

ペテロは、自分がイエス様を三度否定したことを痛烈に覚えていたはずです。それにもかかわらず、どうして「はい」と答えることができたのでしょうか。

だから、私は異なる視点を持っています。

もしかすると、彼らが歩いているとき、ペテロの船や網、魚が視界に入ったかもしれません。

もしそうなら、イエス様の問いかけの意味は、こうだったのではないでしょうか。

「ペテロ。このものよりも、私を愛していますか?私はほんの少しの間、あなたのもとを離れた。それなのに、その間にあなたはすぐに元の生活へ戻ってしまった。本当に、これらよりも私を愛しているのか?」

この問いかけに対して、ペテロは迷いなく答えたはずです。

「はい。あなたを愛しています。」

すると、イエス様は答えられました。

わたしの子羊を飼いなさい。(15)

彼らはしばらく歩き続けると、イエス様は再び問いかけられました。

「私を本当に愛しているのか?」

ペテロはもう一度「はい」と答えました。

すると、イエス様は言われました。

わたしの羊を牧しなさい。(16)

彼らはしばらく歩き続けると、イエス様はもう一度問いかけられました。

「ペテロ、私を愛しているのか?」

この問いを聞いて、ペテロの心は痛みました。

そこで、ペテロは答えました。

主よ。あなたはすべてをご存知です。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。(17a)

イエス様は答えられました。

わたしの羊を飼いなさい。(17b)

そしてイエス様は続けてこう言われました。

まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若い時には、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。

しかし、年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。(18)

イエス様はペテロの死を預言されました。そして何年か後、ペテロはイエス様への信仰ゆえに、十字架で死ぬことになります。

どうしてイエス様は、そのことをペテロに伝えられたのでしょうか。おそらく、イエス様はこう言いたかったのではないでしょうか。

「ペテロ。私は、あなたが犯した大きな失敗をよく知っている。それでも私は変わらず、あなたを信じているのだ。

実は、あなたは将来、同じような試練に直面することになる。そのとき、あなたは再び選択を迫られる。私を否定するのか。あるいは、私のために命を捧げるのか。

しかし、今度はあなたは、私のために死ぬことを選ぶのだ。」

そして、イエス様はペテロに言われました。

私に従いなさい。(19)

ペテロのように、私たちも皆、失敗することがあります。そのたびに、ペテロと同じように思うかもしれません。

「私は大失敗した。神様は私なんて受け入れてくださるのだろうか。」

しかし、安心してください。

神様はあなたを受け入れ、今もあなたを用いられます。なぜなら、神様はあなたの現在の姿だけを見ているのではなく、あなたが将来どのようになるかをよくご存じだからです。

神様はあなたを信じておられます。

だから、自分の力に頼らないようにしましょう。

また、自分の知恵に頼らないようにしましょう。

神様があなたを受け入れ、あなたを信じておられることを覚え、心を安らかに過ごしましょう。

そして、歩みましょう。イエス様に従いましょう。

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ヨハネの福音書 ヨハネ20章

イエス様を見たことがないのに

「百聞は一見にしかず。」

私たちはこのことわざを口にしますが、時として、何を見ても信じない人がいるものです。

パリサイ人たちと祭司長たちは、イエス様の奇跡を実際に目の当たりにしました。それでもなお、イエス様がメシアであることを信じませんでした。

たとえば、ラザロが復活したとき、彼らはラザロを殺そうとさえしました。なぜなら、人々がその奇跡を目撃し、イエス様を信じるようになったからです。

彼らの問題は何だったのでしょうか。それは、彼らが信じたくなかったということです。もし何かを信じたくないなら、人はいつでも信じられない理由を作り出すものです。

しかし、トマスは本当にイエス様の復活を信じたかったのです。それでも、なぜか自分自身を納得させることができませんでした。だから、彼はほかの弟子たちにこう言いました。

私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れて見なければ、決して信じません。(ヨハネの福音書20:25)

だから、イエス様が鍵がかけられた部屋に奇跡的に入って、トマスのぽかんと顔を見た時、多分イエス様は微笑みながら、こう言いました。

あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。(27)

トマスの反応は?

私の主。私の神よ。(28)

イエス様は答えました。

あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。(29)

つまり、「あなたは見たから信じているのです。けれども、真の祝福は、見ずに信じることで見いだされるのです」ということです。

アブラハムもその祝福を知りました。アブラハムは神様が彼をどこに導いているかよくわからなかったけど、アブラハムは自分の地元を去って、神様に従いました。なぜなら、アブラハムは神様の約束を信じたからです。

ノアもその祝福を知りました。神様が洪水が発生すると言ったから、ノアは大きい箱舟を作りました。

ダビデもその祝福を知りました。神様がダビデが王になると約束したから、サウロ王が何回もダビデを殺そうとしても、ダビデは仕返しを求めませんでした。そして、神様のタイミングで、ダビデは王になりました。

マリアもその祝福を知りました。彼女は天使のメッセージを信じて、イエス様の母になりました。

聖書の時代から現代まで、たくさんの人々は神様を信じて、祝福されました。

でも、それは盲信ではありません。

イエス様が生まれる何百年前に、いろんな預言者はたくさんのことをイエス様に関して預言しました。

また、イエス様に出会った人は自分の経験を書きました。ヨハネはこう書きました。

イエス様は弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。

これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。(30-31)

それに、私たちは教会の偉人たちの歩みを見ることができます。たとえば、アウグスティヌス、マルティン・ルター、ジャン・カルヴァンは、神の御国のために偉大な働きを成し遂げました。

今なお、教会には多くのクリスチャンがいます。神様は彼らの人生の中で働き、福音によって彼らを変えてくださいました。

また、私たち自身もイエス様に出会い、神様の御業をこの目で見ることができます。

しかし、私たちは一つの選択をしなければなりません。

「主よ。私はあなたを見たことがありません。それでも、私はあなたを信じます。」

そして、イエス様を信じて従うとき、イエス様はますますご自身を私たちに現してくださいました。そして、私たちも祝福を知るのです。

ペテロはこう言いました。

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども、愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。

あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。(第一ペテロ1:8-9)

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ヨハネの福音書 ヨハネ20章 ルカの福音書 ルカ24章

満たされて、遣わされた

イエス様が復活された日曜日、11人の弟子たちの間では混乱や不信が広がっていたようです。

彼らが集まったとき、マリアやほかの女性たち、エマオへ行ってきた弟子たち、そしてペテロが「主を見た」と強く主張しました。それでも、ほかの弟子たちはその話を信じませんでした。

すると、イエス様が突然彼らの前に現れました。当然、弟子たちは驚き、最初は幽霊を見たのだと思いました。

けれども、イエス様は「平安があなたがたにあるように」と言われました。

この言葉を聞いて、「弟子たちが怖がっていたので、イエス様は彼らを慰めようとされたのだ」と思うかもしれません。

しかし、実は当時の文化において、この言葉は「こんにちは」のようなごく普通の挨拶でした。

もしかすると、イエス様は最初、カジュアルな態度で通常の挨拶としてこの言葉をかけられたのかもしれません。けれども、弟子たちが恐れていたため、イエス様はより真剣な口調で「安心しなさい。わたしだよ」と言い、彼らを励まされました。

そして、イエス様はご自身の手と足を示し、魚を食べられました。おそらく、弟子たちはイエス様の傷跡に触れたことで確信を得たのでしょう。その後、彼らは納得し、喜びに満たされました。

さらに、イエス様は彼らに、預言者たちがイエス様の死と復活について語っていたことを教えられました。また、イエス様ご自身が以前言われたことを彼らに思い出させました。

その後、イエス様は彼らにこう言われました。

父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。(ヨハネ20:21)

また、

あなたがたは、これらのことの証人となります。見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。

あなたがたは、いと高きところから力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。ルカ24:48-49)

そして、イエス様は彼らに息を吹きかけ、こう言われました。

聖霊を受けなさい。あなたがたが誰かの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。(ヨハネ20:22-23)

それを読むと、私は別の聖書の場面を思い出します。エデンで神様がアダムに息を吹きかけ、アダムは物質的な命を受けました。

一方、この箇所では、弟子たちは霊的な命を受けたのです。

聖霊様は、救いのしるしとして彼らに入りました。そして、イエス様が以前約束されたように、聖霊様は彼らにさまざまなことを教え、彼らがどこへ行っても、聖霊様は共におられました。

さらに、聖霊様は、彼らがイエス様から受けた使命を果たすために力を与えてくださいました。だからその後、彼らはあらゆる場所へ福音を広げていきました。

同じように、私たちがイエス様を救い主、そして主として受け入れる時、イエス様は私たちに息を吹きかけ、霊的な命を与えてくださいます。

聖霊様も、私たちの内に入り、私たちを導いてくださいます。さらに、聖霊様は私たちに力を与えてくださるので、イエス様から与えられた使命を果たすことができます。

だから、私たちは決して独りぼっちではありません。私たちは自分の力や努力によって神様を喜ばせたり、神様の目的を果たしたりするわけではありません。

むしろ、神様ご自身が私たちに住んでおられる聖霊様を通して、私たちを満たし、命と敬虔をもたらすすべてのものを与えてくださいます。(第二ペテロ1:3)

私たちの主な務めは、福音を広げることです。私たちは、悔い改めてイエス様を受け入れる人に、「あなたの罪は赦された」と宣言することができます。しかし、神様の救いを受け入れない人には、私たちは将来の裁きについて警告します。

神様は御国の鍵を私たちに与えてくださいました。私たちが福音を伝えることで、御国の門が開かれ、周りの人々はそこへ入る機会を得るのです。

だから、聖霊に満たされて進みましょう。死にかけている世に、御国の門を開きましょう。

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ルカの福音書 ルカ24章

鈍い心

いつイエス様がペテロにご自身を現されたのかによりますが、この話では、私たちはイエス様の復活後の三度目か四度目の現れを見ることになります。

この話では、二人の弟子たち(十二人の弟子には含まれていない)が、エマオという村へ向かっていました。もしかすると、エマオは彼らの故郷だったのかもしれません。

彼らは歩きながら、女性たちの証言や、ペテロとヨハネの報告について語り合っていました。けれども、彼らはまだイエス様の復活を信じていなかったようです。

すると、イエス様が突然現れました。しかし、彼らはイエス様を認識することができませんでした。聖書によれば、彼らの目は遮られていたのです(16節)。

つまり、彼らはイエス様を見ることができたものの、イエス様は彼らがご自身を認識することを許されませんでした。

もしかすると、イエス様は墓の外でマリアに現れた際も、同じことをされたのかもしれません。

その後、イエス様は彼らに尋ねられました。

歩きながら語り合っているその話は何のことですか。(ルカの福音書24:17)

おそらく、その二人はとても驚いたでしょう。「知らないのですか?あなたはエルサレムにいたのではないのですか?何が起こったか、ご存じでしょう?」

けれども、イエス様は何も知らないふりをして答えられました。

「どんなことですか?」(19節)

すると、その二人は自分たちの混乱と悲しみを打ち明けました。つまり、彼らはイエス様がメシアであり、ユダヤ人をローマ帝国から解放してくださると信じていました。

しかし、イエス様は十字架で死なれました。それに、彼らはイエス様がよみがえられたという話を聞いたものの、それが本当に信じられるかどうかわかりませんでした。

それを聞いて、イエス様は彼らを叱責されました。

ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。

キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。(25-26)

そして、イエス様は、苦しむメシアが私たちの罪のために死なれ、よみがえられたという、最初の説教を語られました。

彼らがエマオに着くと、イエス様はさらに先へ行かれる様子でした。けれども、彼らの心は揺さぶられ、イエス様に熱心にお願いしました。

一緒にお泊りください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています。(29)

そして、イエス様が彼らと食卓に着かれると、パンを取り、神様をほめたたえ、それを裂いて渡されました。(30)

もしかすると、その光景を見たとき、彼らはイエス様が5000人にパンと魚を与えられた出来事を思い出したのかもしれません。そして、彼らの目が開かれ、イエス様を認識しました。

ところが、その瞬間、イエス様の姿は見えなくなりました。

すると、彼らは話し合いました。

道々お話しくださる間、私たちに聖書を解き明かしてくださる間、私たちの心はうちで燃えていたではないか。(32)

そして、彼らは11人の弟子たちのもとへ行き、イエス様が復活されたことを伝え、女性たちとペテロの証言を確かめました。

では、この話から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

私たちはどれほど神様の言葉に対して鈍い心を持っているでしょうか。

私たちは、イエス様が私たちの罪のために死なれ、よみがえられたことを信じているかもしれません。しかし、イエス様のほかの言葉を本当に信じているでしょうか。

なぜ私たちの心は鈍くなってしまうのでしょうか。

もしかすると、あの二人の弟子のように、過去の経験を振り返ることで失望するのかもしれません。あるいは、私たちの人生が思い描いた通りに進んでいないのかもしれません。

そうすると、私たちは神様に問いかけます。 「あなたの言葉は真実なのでしょうか。あなたは本当に私とともにおられるのでしょうか。私の必要を本当に満たしてくださるのでしょうか。あなたは私を本当に愛しているのでしょうか。」

私もそうした疑いを抱いたことがあります。

もしかすると、私たちは神様の道を疑い、自分の道を選びたいと思うのかもしれません。神様の道は意味がないと思ってしまうからです。

私はノンクリスチャンと結婚するクリスチャンを何人も知っています。彼らの理由は、良いクリスチャンの伴侶を見つけられなかったことでした。けれども、多くの場合、後になってその決断を後悔しました。

私たちがイエス様の言葉を信じないなら、あの二人の弟子たちのように、失望と悲しみに満ちた人生を歩むことになります。

しかし、良い知らせがあります。イエス様は決して私たちを見捨てません。イエス様は今も私たちとともに歩んでおられます。

もし、私たちが心を開き、すべてを打ち明けるなら、イエス様はご自身の言葉を私たちの心に注ぎ、私たちを癒し、新しい希望を与えてくださいます。

だから、鈍くなった心を捨てましょう。心を開き、イエス様を信じましょう。

聖書はこう言っています。「この方(イエス様)に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」(ローマ10:11)

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マタイの福音書 マタイ28章 マルコの福音書 マルコ16章 ヨハネの福音書 ヨハネ20章 ルカの福音書 ルカ24章

いつも私たちと共におられる方

イエス様の復活について、二つの注意事項をお伝えしたいと思います。

一つ目は、マルコ16:9-20を省略することです。なぜなら、多くの聖書学者によれば、マルコはこの部分を書いていなかったと考えられているからです。

では、なぜマルコは具体的にイエス様の復活について語らなかったのでしょうか。私は三つの説を聞いたことがあります。

1つ目は、マルコが福音書を完成させる前に亡くなったという説です。

2つ目は、元々の結末が何らかの理由で失われたという説です。

3つ目は、使徒の時代には、教会で牧師がマルコの福音書を朗読した後に、イエス様の復活を目撃した人々が自分の証を語っていた可能性があるという説です。

いずれにせよ、マルコが亡くなった後、現在の結末が加えられたと考えられています。

二つ目の注意事項は、福音書間でイエス様の復活の記録を統合するのが非常に難しいということです。できる限り、復活の出来事の順番を整理しようと思いますが、これはあくまで私の考えです。

とはいえ、どの福音書を読んでも、基本的な事実は一致しています。

女性たちがイエス様の墓に着いたとき、その墓はすでに空っぽでした。そして、天使たちが現れ、イエス様の復活を彼女たちに知らせました。

その後、イエス様はマリアやほかの女性たちにご自身を現され、彼女たちは弟子たちにイエス様の復活を伝えました。

現代の弁護士によれば、法廷では証人の証言に多少の違いがあったとしても、これらの四つの事実は十分に認められるでしょう。

では、簡単にですが、復活の出来事の順番を説明します。

1.女性たちはイエス様の墓に行ったが、イエス様の遺体はありませんでした。

2.マリアが墓に入り、イエス様の遺体がないと分かると、すぐに弟子たちに知らせるために戻りました。

3.ほかの女性たちはその場に残り、おそらく何が起こったのか疑問に思ったでしょう。そして、二人の天使が現れ、そのうちの一人がイエス様の復活の良い知らせを伝えました。

4.そこで、女性たちは弟子たちに伝えるために急いで戻りました。彼女たちは急いでいたため、誰とも話しませんでした。(マタイ28:5-8;マルコ16:1-8;ルカ24:1-10)

5.その間に、マリアは弟子たちにイエス様の遺体がなくなったことを伝えました。(ヨハネ20:2)そこで、ペテロと(おそらく)ヨハネは墓を調べに行きました。マリアは彼らと共に墓に戻りました。

彼らが家を出た後、ほかの女性たちは家に来て、残っていた弟子たちに天使のメッセージを伝えました。(ルカ24:9-11)

6.ペテロとヨハネは墓に着き、マリアの話を確認しました。ヨハネはイエス様が復活されたと信じたようですが、ペテロはまだ疑っていたようです。おそらく、彼らは戻る途中でそのことを話し合ったでしょう。(ルカ24:12;ヨハネ20:3-9)

7.ペテロとヨハネが墓へ向かう際、走ったため、もしかするとマリアは遅れて着いたかもしれません。そのため、マリアがようやく墓に着いたとき、ペテロとヨハネがまだそこにいたかどうかは分かりません。

そして、イエス様はマリアの前に現れ、彼女を慰められました。その後、彼女はすぐに弟子たちのもとへ戻りました。(ヨハネ20:12-18)

8.マリアが戻っている間に、イエス様はほかの女性たちの前に現れました。彼女たちは道中だったのかもしれません。また、弟子たちが彼女たちの言葉を信じなかったため、多少の失望を感じていたかもしれません。

けれども、イエス様が彼女たちを励まされたので、彼女たちはもう一度弟子たちのもとへ向かいました。

その頃、マリアも戻ってきたため、弟子たちはマリアと女性たちの話を聞きました。(マタイ28:9-10)

その順番が正しいかどうかは分かりませんが、これが私の推測です。

さて、マリアのことを少し考えてみましょう。私がこの場面を想像すると、イエス様の墓の外で、マリアが深い悲しみに沈み、絶望している姿が浮かびます。

もし私の考えが正しければ、彼女はまだほかの女性たちの天使の経験を聞いていません。マリアが知っているのは、ただイエス様の遺体がなくなったという事実だけです。

そして、マリアが墓に入ると、二人の天使がいました。ところが、ほかの女性たちの話をまだ聞いていなかったため、マリアは彼らが天使であることを認識しませんでした。

すると、天使たちは「なぜあなたは泣いているのですか」と尋ねました。

マリアはただこう答えました。「誰かが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」

もしかすると、天使たちがイエス様の復活を伝えようとしたその瞬間、イエス様が現れたのかもしれません。

最初、マリアはイエス様を認識しませんでした。しかし、イエス様が彼女の名前を呼ばれました。

「マリア。」

その瞬間、マリアの悲しみの涙は、一気に大きな喜びへと変わりました。

私たちはどれほどマリアのようでしょうか。苦しみに沈み、神様が遠く感じることがあります。

祈っても、まるでその祈りが天井にぶつかり、神様に届かないかのように感じることもあります。

神様を求めても、見つけられないことがあります。まるで神様が沈黙し、いなくなったかのように思えることもあります。

けれども、実際には神様は私たちとともにおられます。マリアのように、私たちは神様を見ていないだけかもしれません。しかし、神様は確かにそこにおられます。そして、最もふさわしい時に、ご自身を現してくださいます。

だから、諦めないでください。誰もが悲しみの時を経験します。誰もが、神様が遠く感じる時を通ることがあります。けれども、神様はインマヌエルです。すなわち、「神様は私たちとともにおられる」ということです。

そして、イエス様を復活させたのと同じ力で、神様は私たちの悲しみを喜びへと変えてくださいます。

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マタイの福音書 マタイ28章

信じようとしない人?

私は祭司長たちとパリサイ人たちの頑なな心に驚きを禁じ得ません。

彼らはイエス様のお墓を警備するために対策を練りましたが、そのお墓は空っぽになりました。結局、彼らはその事実を認めざるを得ませんでした。

彼らは番兵たちの話を通して、地震と天使の存在を知りました。

さらに、彼らはおそらく、ほかの復活した人々についても聞いたことでしょう。(マタイ27:52-53)

それでもなお、その証拠を目の当たりにしながらも、彼らはイエス様がキリストであることを信じませんでした。

そのため、弟子たちがイエス様の遺体を盗んだという噂を広めるために、彼らは番兵たちにお金を渡しました。律法を厳格に守ることで自分を誇る人々であったにもかかわらず、彼らはこのような嘘を広めたのです。

この行為を通じて、彼らはイエス様の言葉の真実性を証明することになりました。ラザロのたとえ話で、イエス様はこう言われました。

モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、誰が死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。(ルカ16:31)

イエス様とほかのユダヤ人たちがよみがえられたにもかかわらず、パリサイ人たちや祭司長たちはどうしても信じようとしませんでした。

今でも同じような人々がいます。あなたが神様の存在を示し、聖書やイエス様について彼らの疑問に答えたとしても、彼らは信じないかもしれません。

さらに、彼らは自分では説明できない事実を目撃することがあるでしょう。例えば、彼らがクリスチャンの知り合いのがんが癒される様子を目にするかもしれません。それでもなお、彼らはどうしても信じようとしません。

最終的に、イエス様を信じない人々がいます。彼らは信じることができないわけではありません。ただ、信じたくないのです。そして、神様が彼らに恵みを与えてくださらなければ、彼らは決して信じないでしょう。

では、私が言いたいことは何でしょうか。

祈り続けましょう。神様だけが彼らの目を開けることができるのです。パウロはこう語りました。

それでもなお私たちの福音に覆いがかかっているとしたら、それは、滅び行く人々に対して覆いがかかっていると言うことです。

彼らの場合は、この世の神が(つまり、サタン)、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を、輝かせないようにしているのです。(第二コリント4:3-4)

それでは、私たちは何を祈るべきでしょうか。それは、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、神様が彼らの心を照らしてくださるように祈るべきです。(第二コリント4:6)

実際、パウロ自身もそのようにして救われました。彼は霊的に盲目で、真理を拒んでいましたが、神様は文字通りにも、また比喩的にも、光をパウロに照らしてくださいました。その光によって、パウロの人生は完全に変えられました。

愛する人々の頑なな心を見て、失望を感じていませんか。あなたがどれほど何かを言ったり、行ったりしても、彼らの心を変えることはできません。けれども、神様にはその力があります。

だから、どうか諦めないでください。祈り続けましょう。熱心に祈りましょう。そして、神様の恵みによって、彼らが救われる可能性を信じましょう。

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マタイの福音書 マタイ27章 マタイ28章

だれも妨害できない神様の計画

ちょっと考えてみると、これは非常に面白い聖書の話です。

パリサイ人たちや祭司長たちは、弟子たちがイエス様の遺体を盗み、イエス様がよみがえられたと宣言することを懸念しました。そのため、彼らはピラトにイエス様の墓を警備するよう頼みました。

ピラトはその依頼を受け入れ、番兵を派遣しました。

ところが、三日目に地震が起こり、天使がイエス様の墓を覆っていた石を転がし、その石の上に座りました。番兵たちはその光景を目撃し、恐怖のあまり気を失いました。

パリサイ人たちや祭司長たちが混乱し、苛立っている様子を想像してみてください。おそらく、彼らは互いにこう問い合ったでしょう。

「どうして私たちは番兵を頼んだのだろう?空っぽの墓をどう説明すればいいのだろう?番兵たちが眠ったという話を信じる人はいないし、弟子たちが番兵を倒したという話も信じられるはずがない。一体どうしたらいいのだろう?」

この話から、私たちは重要な教訓を学ぶことができると思います。

人々は、神様の計画を妨害したり、自分の目的を果たそうとしたりして、さまざまな計画を立てることができます。

しかし、最終的には神様の計画を妨害することはできません。神様の目的は確固として立ち続けます。

多くの人々は人間の自由意志と神様の主権に関して疑問を抱くことがあります。私はそのすべての答えを持っているわけではありませんが、この箇所を通して、私たちはその答えの一端を見ることができると思います。

パリサイ人たちと祭司長たちは、自分たちの自由意志によって番兵を頼みました。神様はその選択を阻止することはありませんでした。

けれども、彼らが選択をした後、神様はご自身の選択をされました。

神様はイエス様を復活させ、石を転がし、番兵たちに恐怖を与えました。

このように、神様は私たちの選択を許してくださいます。しかし、その後、神様はご自身の選択をされます。だからこそ、私たちは神様の計画を妨害することはできません。

パリサイ人たちと祭司長たちはイエス様のお墓で神様の計画を阻止することができませんでした。そして、これからも神様の計画を妨害できる人は誰もいないでしょう。

だからこそ、確信を持って神様を賛美しましょう。神様はすべてを支配しておられ、その計画は必ず成し遂げられるからです。

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聖書が成就するため

この箇所を読むと明らかなのは、イエス様の死が偶然ではなかったということです。また、イエス様の死は神様の間違いでもありませんでした。むしろ、神様はこの時が始まる前から、私たちの救いを計画しておられたのです。

皮肉なことに、祭司長たちがイエス様がメシアであるしるしを求めたとき、イエス様は確かにそのしるしを与えられました。けれども、彼らはそのしるしを認識することができませんでした。

彼らはイエス様に十字架から降りるように挑戦しましたが、イエス様は預言の成就を示されました。

そして、イエス様は叫ばれたのです。

わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。(マタイ27:46)

祭司長たちは、イエス様がエリヤという預言者を呼ばれているのだと思いました。しかし、実際にはイエス様は彼らに詩篇22篇を指しておられたのです。なぜでしょうか。それは十字架の上でイエス様がダビデによって書かれた言葉を成就されたからです。

十字架の上で、イエス様は侮辱され、軽蔑されました。驚くべきことに、祭司長たちは知らず知らずのうちにダビデの詩篇を引用していたのです。詩篇22篇において、ダビデの敵はこう語りました。

主に身を任せよ。助け出してもらえばよい。主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから。(詩篇22:8)

祭司長たちはイエス様について、こう言いました。

彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。「わたしは神の子だ」と言っているのだから。(マタイ27:43)

ダビデの時代には、十字架という刑罰はまだ存在していませんでした。それにもかかわらず、ダビデは十字架による死を生々しく描写しました。ダビデはこう語りました。

水のように 私は注ぎ出され、
骨はみな外れました。(詩篇22:14a)

実際には、十字架にかけられた人々の骨の関節がしばしば外れたとされています。

そして、ダビデはこう語りました。

心はろうのように
私のうちで溶けました。(詩篇22:14b)

ヨハネによれば、兵士がイエス様の脇腹を槍で突き刺したとき、血と水が流れ出ました。現代の医師によれば、その血と水が流れる現象は、心不全の兆候である可能性があるとされています。

さらに、ダビデはイエス様が喉が渇くことについても預言していました。

舌は上あごに貼り付いています。(詩篇22:15)

さらに、ダビデはイエス様の手と足が刺されることについても預言しました。(ダビデは釘ではなく、犬の歯や、場合によってはライオンの歯のような描写を使用しています。詳細については詩篇22篇の13節をご覧ください。)

犬どもが私を取り囲み
悪者どもの群れが私を取り巻いて
私の手足にかみついたからです。(詩篇22:16)

さらに、十字架にかけられた人々は、自分の胸郭を見ることができたとされています。

ダビデはそのような状況についても詩篇の中で描写しました。

私は自分の骨をみな数えることができます。(紙片22:17)

さらに、ダビデは兵士たちがイエス様の服をめぐって賭けをすることについても預言されました。

彼らは私の衣服を分け合い
私の衣をくじ引きにします。(詩篇22:18)

それらの預言はイエス様を指していました。祭司長たちは聖書をよく知っていましたが、それを認識することができませんでした。

ヨハネは他の聖書の箇所も参考にしています。詩篇34篇と69篇、またゼカリヤ書12章もイエス様のことを指しています。

さらに、イザヤ書53章は特に具体的にイエス様のことを指しています。

イエス様は私たちの背きのために刺されました。また、イエス様は私たちの罪のために砕かれました。(5節)

証人たちがイエス様に言いがかりをつけたにもかかわらず、イエス様は何も言われませんでした。(7節)

イエス様は自分の敵のためにとりなしをされました。(12節)

イエス様は悪者たちと一緒に葬られるはずでしたが、最終的にお金持ちの人のお墓に葬られました。(9節)

そして、イエス様はよみがえられました。(10-11節)

だから、私はもう一度言います。イエス様の死は偶然ではありませんでした。時間が始まる前に、天の父はイエス様の死、そして私たちの救いを計画しておられたのです。

ですから、イエス様の十字架の御業を当たり前のものだと決して思わないでください。むしろ、感謝を持って、私たちの救いのため、またイエス様が支払われた代価のために、天の父をほめたたえましょう。

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全額が支払われた

私が大嫌いなことの一つは、税金を払うことです。毎年、私は税務署に行き、確定申告を提出します。その後、一か月ほどして税務署が少しお金を返してくれます。しかし、その直後には市民税や県民税を支払わなくてはなりません。

私はいつも一括払いで税金を支払います。もちろん分割払いも選択できますが、一括払いの方が自分には合っていると思います。そうすれば、次の年まで税金のことを考えなくても済むからです。

十字架の上で、イエス様の最後の言葉は、まるでその税金を支払うイメージを描写しているようでした。

12時になると、暗闇が全地を覆いました。そして15時ごろまで、その暗闇は続きました。おそらくその間に、神様は私たちの罪をすべてイエス様に負わせたのではないでしょうか。

その暗闇は罪の象徴だったのでしょう。罪によって霊的な暗闇がこの世にもたらされましたが、天の父はその罪をイエス様に負わせられました。

そして、15時ごろ、イエス様は叫ばれました。

わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。(マタイ27:46)

その瞬間、おそらく天の父は、私たちの罪をイエス様に負わせ、イエス様に背を向けられたのではないでしょうか。それにより、天の父とイエス様との関係は初めて壊れてしまったのでしょう。

そしてイエス様は私たちが本来受けるべき罰を経験されました。つまり、イエス様は天の父から離れられたのです。

イエス様は完全な愛の源、喜びの源、そして命の源から離れられました。

そのような状態はまさに地獄そのものです。イエス様は実際に地獄に行かれたわけではありませんが、ある意味で地獄を経験されたのです。イエス様は私たちの罰を受けてくださいました。

そして、死を迎える直前、イエス様は天を仰ぎ、祈られました。

完了した。父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。(ルカ23:46;ヨハネ19:30)

「完了した。」

イエス様の時代、ユダヤ人たちが税金を支払うと、ローマ人はその言葉を請求書に捺印しました。その意味は、「全額が支払われた」ということです。

イエス様の死によって、私たちの罪のためのすべての負債が支払われました。

その結果はどうでしょうか。私たちは神様との新しい関係を持つことができるようになりました。神様は至聖所と聖所の間にかかっていた神殿の幕を、上から下まで真っ二つに裂かれました。(マルコ15:38)

その理由は何でしょうか。

その行為を通して、神様は私たちにこう語られたのです。「私たちの間にあった障害は破られた。イエス様を通して、あなたは私に近づくことができる。」

イスラエル人が経験したように(出エジプト記20:18-21)、私たちはもはや神様から遠くに立つ必要はありません。

むしろ、私たちは神様に近づくことが許されています。

だから、神様に近づきましょう。

へブル人への手紙の著者はこう述べています。

こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。

また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。(へブル10:19-22)

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ヨハネの福音書 ヨハネ19章

自分の苦しみを脇へ置くことができる?

私たちがどれほど自己中心的であるかを知りたいなら、悲しんでいるときの自分の反応を見るべきです。試練に直面し、苦しんでいるとき、私たちは何に焦点を当てるでしょうか。自分自身でしょうか。

自己憐憫に浸るのは、ごく自然な反応かもしれません。

「どうして私はこんな試練に向き合わなければならないのか。いつまで苦しみ続けるのか。」——そう考えるのは普通のことです。

けれども、私たちが十字架を見るとき、イエス様は自分自身よりも、周りの人々に焦点を当てておられたことに気づきます。イエス様は一人の犯罪人を憐れみ、敵のために祈り、そしてこの場面では、母マリアへの深い愛を示されました。

マリアは十字架のもとで涙を流していました。彼女の長男は、ひどい罰を受け、死のふちに立たされていました。しかし、マリアの他の子どもたちは十字架の近くにはいなかったようです。

もしかすると、彼らはイエス様が狂っている(マルコ3:21)と思い、彼が家族に恥をかかせたと感じたのかもしれません。

だからこそ、他の息子や娘の姿はなく、マリアは十字架のもとで一人涙を流していました。家族からの慰めはありませんでした。

そのとき、イエス様は愛する弟子(おそらくヨハネ)を見て、マリアにこう言われました。

女の方、御覧なさい。あなたの息子です。(ヨハネの福音書19:26)

(当時、「女の方」という表現は、非常に丁寧で敬意を込めた言葉でした。)

そして、イエス様はヨハネにこう言われました。

御覧なさい。あなたの母です。(27)

その後、ヨハネはマリアを自分のもとへ引き取りました。

イエス様は、ご自身の苦しみだけを考える権利があったでしょう。彼は無実でした。この苦しみを受ける理由は何もありませんでした。

それでもイエス様は、自らの苦しみを脇へ置き、周りの人々を見て、愛を示されました。

あなたはどうでしょうか。

かつて、私の牧師の奥様は本当に素晴らしい方でした。私が知り合った人の中でも、彼女は最も愛を示す人の一人でした。彼女は亡くなるその日まで、変わることなく愛を示し続けました。

彼女はがんにかかり、少しずつ健康を失っていきました。最終的には、自分のベッドにずっといる状態となり、周りの人々が彼女を介護する必要がありました。それでも、彼女は自己憐憫に浸ることはありませんでした。

最後まで、彼女は介護してくれる人々にイエス様の愛で触れようとしていました。

もちろん、彼女は完全な人ではありませんでした。きっと、気が沈むこともあったでしょう。それでも、イエス様のように、彼女は自分の苦しみを脇へ置き、周りの人々に愛を示しました。

あなたはどんな苦しみを経験しているでしょうか。どんな試練に直面しているでしょうか。

あなたは何に焦点を当てるでしょうか。自分自身でしょうか。それとも、あなたは自分の苦しみを脇へ置き、周りの人々のニーズを見ることができるでしょうか。

苦しみの中で自分自身に焦点を当てる心は、その苦しみに留まり続けます。しかし、自分の苦しみを脇へ置き、周りの人々のニーズを見る心は、苦しみを越えて、もう一度喜びを見いだすのです。

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マタイの福音書 マタイ27章 マルコの福音書 マルコ15章 ヨハネの福音書 ヨハネ19章 ルカの福音書 ルカ23章

神様をののしること。神様の前にへりくだること。

これは、十字架にまつわる有名な話の一つです。イエス様の隣には、二人の犯罪人も十字架につけられました。そして、ルカはその二人についてこう記しています。

十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え、」と言った。(ルカ23:39)

「ののしり」という言葉が私の心に強く響きました。それを思い、こう考えました。「どれほどの人々が自分の罪による苦しみの中で、神様をののしるだろうか。」

この犯罪人は悪事を働いたために罰を受けていましたが、悔い改めることなく、その罰について不満を述べていました。

もしかすると、彼は自分の行為が正しいと思い込み、イエス様にこう叫んだのかもしれません。「あなたは本当にキリストなのですか。私はこの罰に値しない。私を救いなさい。」

他の福音書によれば、最初はもう一人の犯罪人もイエス様をののしっていました。しかし、おそらくイエス様は答えることなく、情け深く彼らを見つめられたのでしょう。

だからこそ、二人目の犯罪人は次第に静まっていったのかもしれません。彼が悟ったのは、ローマ人がイエス様の尊厳を奪おうとしていたにもかかわらず、イエス様がその尊厳を保ち続けておられたということでした。

さらに、彼はイエス様が敵に対して情けと愛と赦しの心を持っておられるのを目にしました。

もしかすると、その犯罪人は以前にイエス様の奇跡を目の当たりにしたことがあり、イエス様の教えを聞いたことがあったのかもしれません。

そして、彼は自分自身を見つめ直し、初めてこう認めたのでしょう。「やはり私は悪かったのだ。いろいろと言い訳をしたが、それはただの言い訳にすぎなかった。私は確かにこの罰に値する。」

だからこそ、もう一人の犯罪人がイエス様をののしり続けると、彼はこう言いました。

おまえは神を恐れないのか。お前も同じ刑罰を受けているではないか。

おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。(40-41)

そして、彼はイエス様に向き直り、こう願いました。

イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。(42)

私のただの想像にすぎませんが、たぶんイエス様は十字架の上で初めて微笑まれたのかもしれません。そしてイエス様はこう答えられました。

まことに、あなたに言います。あなたは今日、私とともにパラダイスにいます。(43)

その瞬間、その犯罪人は救われました。彼は死にかけていながらも、命を見いだしたのです。

私は前にも述べましたが、多くの人々は一人目の犯罪人のような態度を取ります。彼らは悪事を行いますが、罰を受けて苦しむと、自分の悪さを認めることなく神様をののしるのです。

多くの人々が、なぜ神様が地獄で人々を永遠に罰するのか疑問を持ちます。

その理由の一つとして、地獄では誰も悔い改めないからかもしれません。むしろ、彼らは永遠に神様をののしり続けます。

彼らは自分の行為が正しかったと主張し続けます。彼らの心では、自分の悪さを理解していながらも、自分の罰について不平を言い続けるのです。

地獄では、人々は自分の罪深さを認識し、その罰に値することも理解していますが、それを決して認めることはありません。

しかし、自分の罪を認め、へりくだって悔い改める人は、二人目の犯罪人のように赦され、命を見いだすのです。

そのための時間は「今」しかありません。死んでからでは、すでに手遅れなのです。だからこそ、パウロはこう書きました。

見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。(第二コリント6:2)

あなたはどうでしょうか。イエス様の前にへりくだって来ることができるでしょうか。そして、イエス様からの救いを受け入れるでしょうか。

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ルカの福音書 ルカ23章

彼らをお赦しください

多くの人々にとって、相手を許すことは非常に難しいことです。それは、私たちの心に深い傷があるからです。そして、その傷が深ければ深いほど、癒しにはより長い時間がかかります。

もし指を針で刺されたなら、癒しは早いでしょう。けれども、誰かが意図的にあなたの背中をナイフで刺したなら、その傷が癒えるには非常に長い時間を要するでしょう。

だからこそ、敵に対するイエス様の反応は本当に驚くべきものです。十字架の上で、イエス様はこう言われました。

父よ。彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。(ルカの福音書23:34)

イエス様の言葉について、少し考えてみてください。

もし相手が自分が何をしているのか分かっていなかったなら、その人を許すことは比較的簡単なことでしょう。多くの場合、彼らが自分の行為に気づくとすぐに謝罪し、それを許しやすく感じることが多いからです。

しかし、もし相手が意図的にあなたを傷つけたのであれば、それを許すのは非常に難しいことです。

では、パリサイ人たちや祭司長たちの場合はどうでしょうか。彼らはイエス様にこう言ったでしょうか。

「あれ?イエス様、私たちの行為によって、あなたが十字架につけられているのですか。ごめんなさい。今すぐあなたを助けます。」

そうではありません。彼らは最初から意図的にイエス様を殺そうと計画していました。

彼らは代価を支払ってユダにイエス様を裏切らせました。最高法院での裁判のために偽りの証人を集め、さらにピラトやヘロデのもとでイエス様について数々の嘘をつきました。

彼らの影響力によって、ユダヤ人たちは「十字架につけろ!」と叫びました。それだけではなく、イエス様が十字架にかかっている間も、彼らはイエス様を侮辱し、からかいました。

では、イエス様は本当に「彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」と言うことができたのでしょうか。彼らはすべてを理解していたように見えます。

それでも、彼らは実際には知りませんでした。彼らは自分の嫉妬によって目が曇らされていました。彼らのプライドや罪がその視野を曇らせていたのです。さらに、サタン自身が彼らの思いを暗くしたのです。

実は、私たち全員が、かつて霊的に盲目でした。

たとえ人々が意図的にあなたを傷つけたとしても、その理由は彼ら自身も霊的に盲目であるからかもしれません。

もしかすると、彼らはあなたにどれほどのダメージを与えたか気づいていないかもしれません。 もしくは、彼らは神様の目にはあなたが価値ある存在であることを知らないのかもしれません。

あるいは、彼ら自身が深い傷を抱えているため、思わずあなたを傷つけてしまうことがあるかもしれません。そして、自分の行為について自覚していない場合もあるでしょう。

例えば、ある男性は長年、家族を虐待していた父親を許せませんでした。けれども、神様はその男性に、その父親自身も子供の頃に虐待を受けていたことを明らかにされました。癒されていない傷が原因で、その父親は大人になってから自分の家族を傷つけてしまったのです。

その息子が父親の傷を理解したとき、父親に対する共感が生まれ、許すことができるようになりました。

私たちが相手を許せないときには、次のことのために祈るべきです。つまり、私たちが自分の傷から目をそらし、私たちを傷つけた人の心を理解できるように祈るのです。

イエス様は十字架の上でまさにそれをなさいました。イエス様はご自身の傷ではなく、イエス様を憎む人々のニーズに目を向けられました。その人々は決して悔い改めることはありませんでしたが、それでもイエス様は彼らを赦してくださいました。

神様の助けによって、あなたも相手の傷を理解することができるようになります。それでも、相手は悔い改めないかもしれません。

けれども、あなたが相手のことを理解することができたなら、あなた自身が変わります。あなたは自分の傷ではなく、相手の傷に焦点を当てるようになります。

そして、神様があなたの心にその人への愛と憐れみを注いでくださり、彼らを赦すことができるようになるのです。

許せない人がいるでしょうか。その人を理解できるように祈ってください。その人の傷を知ることができるように祈りましょう。そして、イエス様のように祈りましょう。

父よ。彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。

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マタイの福音書 マタイ27章 マルコの福音書 マルコ15章 ヨハネの福音書 ヨハネ19章 ルカの福音書 ルカ23章

神様が書かれたこと

ピラトと祭司長たちのやり取りは非常に興味深いものです。ピラトは十字架の上にイエス様の罪状書きを掲げました。その「犯罪」とは?

「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」。

祭司長たちはすぐにピラトのもとへ行き、抗議しました。彼らはこう言いました。「『ユダヤ人の王』と書かずに、『この者はユダヤ人の王と自称した』と書いてください。」

けれども、ピラトは答えました。「私が書いたものは、そのままにしておけ。」(ヨハネ19:21-22)

今もなお、多くの人々はユダヤ人たちのような態度を取っています。彼らはイエス様を王として認めようとしません。彼らはイエス様が神の子であると認めたくありません。また、イエス様だけが神様への道であると認めたくありません。

そのため、彼らはクリスチャンたちに不平を言います。

「イエス様がご自身を王や神の子や神様への道だと自称したかもしれませんが、私はそうは信じません。」

しかし、私たちはピラトとは違い、私たち自身よりも遥かに優れた権威を持つ方を指すことができます。私たちは彼らにこう言うことができます。

「神様が書かれたものは定められています。あなたはその言葉を変えることはできません。あなたは神様の御心を変えることもできません。神様の言葉は永遠に立ちます。あなたの不信が、神様の言葉を変えることはありません。」

人々はこのような言葉を聞きたくないでしょう。祭司長たちもピラトの言葉を聞いて激怒したはずです。けれども、相手がその言葉を好むかどうかは問題ではありません。なぜなら、神様の言葉は正しいのです。

だからこそ、人々は選択を迫られます。

彼らは自分の心をその真理に合わせるでしょうか。それとも、彼らが信じたいと思うものに真理を曲げようとするでしょうか。

しかし、もし彼らが真理を曲げようとするならば、最終的に彼らの人生は砕かれてしまいます。

イエス様はご自身について、こう言われました。

あなたがたは、聖書に次のようにあるのを読んだことがないのですか。

「家を建てる者たち(つまり、祭司長たちや、ほかの宗教的なリーダーたち)が捨てた石(つまり、イエス様)、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。」。。。

また、この石の上に落ちる人は粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を押しつぶします。(マタイ21:42,44)

祭司長たちがイエス様を拒絶した結果、彼らの世界は崩壊しました。エルサレムは滅び、神殿は破壊されました。そして、裁きの日には彼らは自分の罪によって裁きを受けることになるのです。

イエス様を拒絶するすべての人々にも同じことが起こります。なぜなら、神様が書かれたことは定められているからです。

その言葉を聞いて、あなたはどう応えるでしょうか。

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ルカの福音書 ルカ23章

イエス様の心

イエス様の心を見て、私はいつも驚かされます。

この箇所では、私たちはイエス様を十字架へと導いた、憐れみ深い御心を見ることができます。

イエス様が丘を登られたとき、泣いている女性たちをご覧になり、こう言われました。

エルサレムの娘たち、わたしのために泣いてはいけません。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい。

なぜなら人々が、「不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は幸いだ」と言う日が来るのですから。

そのとき、人々は山々に向かって「私たちの上に崩れ落ちよ」と言い、丘に向かって「私たちをおおえ」と言い始めます。

生木にこのようなことが行われるなら、枯れ木には、いったい何が起こるでしょうか。(ルカの福音書23:28-31)

イエス様はご自身の境遇を顧みることなく、ユダヤ人たちがイエス様を拒絶した結果について預言されました。

つまり、「私が神様のいのちで満ち溢れているのに、ローマ人たちが私にこのようなことをするなら、彼らは霊的に枯れた人々に対してどうするでしょうか。

ローマ人たちはあなたたちを迫害し、あなたたちは死を望むようになります。その時、子供のいない人々をねたむほど絶望するでしょう。」

35~40年後に、イエス様の言葉は成就しました。ローマの軍隊はエルサレムを破壊したのです。

しかし、私の心に響いたのは、イエス様がそのことを決して望んでおられなかったことです。ユダヤ人たちがイエス様を憎んだにもかかわらず、イエス様は彼らの破壊を望まれることはありませんでした。むしろ、イエス様は彼らの救いを望まれました。

そして、イエス様は私たちの救いも望んでおられるのです。

そのため、イエス様は十字架へと向かわれました。イエス様はご自身だけでなく、私たちと私たちの必要を見てくださったのです。

このことを思い巡らしていると、一つの讃美歌が心に浮かびます。

And can it be that I should gain an interest in the Savior’s blood?
どうして、救い主の血によって、私が益を得ることができたのでしょうか。
Died He for me, who caused His pain—
私がイエス様の苦しみを引き起こしたのに、イエス様は私のために死んでくださいました。
For me, who Him to death pursued?
私がイエス様を死に追いやったのに、イエス様は私を愛しておられました。

Amazing love! How can it be,
なんという驚くべき愛でしょうか。そんなことが本当にあり得るでしょうか。
That Thou, my God, shouldst die for me?
私の神であるあなたが、どうして私のために死んでくださったのでしょうか。

ーーチャールズ・ウェズリー

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マタイの福音書 マタイ27章 マルコの福音書 マルコ15章 ヨハネの福音書 ヨハネ19章 ルカの福音書 ルカ23章

もし私たちがイエス様の十字架を背負わなければならなかったら

クレネのシモンについて、私たちはほとんど知りません。マルコによれば、彼はルフォスという人の父でした。

ローマ書16:13では、パウロがルフォスという人に挨拶していることから、ある聖書学者たちはマルコの福音書のルフォスが同一人物だと考えています。

シモンは、おそらく北アフリカ出身のユダヤ人で、過ぎ越しの祭りを祝うために初めてエルサレムを訪れた巡礼者だったのでしょう。

ところが、エルサレムに到着した彼は、自分が思い描いていた以上の出来事を目撃することになりました。シモンは、まことの過ぎ越しの子羊が自分の罪のために犠牲となる瞬間を目の当たりにしたのです。(第一コリント5:7)

しかしその前に、シモンはイエス様の十字架を背負わなくてはなりませんでした。

最初はイエス様がご自身の十字架を背負われました。けれども、肉体的な苦しみ(イエス様はむち打たれ、大量の血を流され、兵士たちの拳で殴られました)や精神的な苦しみ(イエス様が愛された者たちに裏切られ、捨てられました)のため、その十字架の重さに耐えきれず、倒れてしまわれたのです。

イエス様はその十字架を背負い続けることができなくなられました。そこでシモンが代わりにその十字架を背負うこととなりました。

その出来事を読んで私はこう考えました。

もしイエス様がゴルゴタで「もういいです。私はもうこの苦しみに耐えられません。あなたがこの十字架を背負いなさい。あなたがこの十字架で死になさい。あなたはこの十字架に値するでしょう?私は罪を犯したことがありません。罪を犯したのはあなたです。」と言われたら、私たちはどうなっていたでしょうか。

ある意味で、シモンはそれを少し経験しました。イエス様が十字架を背負うことができなくなられたため、シモンは自分の十字架を背負わなければなりませんでした。

ですが、実際にはそれは本当はイエス様の十字架ではありませんでした。それはシモン自身の十字架だったのです。なぜなら、イエス様は罪を犯しておられませんでしたが、シモンは多くの罪を犯していたからです。

後になって、シモンはその真実を理解したのでしょうか。

「私は実際にはイエス様を助けていませんでした。本当にその十字架に値していたのは私自身でした。

実は、その十字架を背負ったとき、イエス様は私を助けようとしてくださっていました。私はその十字架で死ぬことに値していたのですが、イエス様が私の代わりに十字架で死んでくださったおかげで、私は罪から救われたのです。

でも、もしイエス様が十字架をもう耐えられなくなっていたら、私はどうなっていたでしょうか。私は今どこにいただろうか。」

その答えは?地獄です。なぜなら、私たち皆が地獄に値するからです。

しかし、イエス様は十字架を背負ってくださいました。イエス様は、私たちが値する罰を十字架の上で受けてくださるほど、私たちを愛してくださいました。

だからこそ、私たちの罪は赦され、真の命を得ることができるのです。それは、私たちを深く愛しておられる神様との関係を持つ人生です。

ですから、十字架を当たり前のものだと考えてはいけません。むしろ感謝の心を持って、私たちのために十字架で死んでくださったイエス様を仰ぎ見ましょう。

Jesus Christ,
イエス・キリスト
Praise your name,
あなたの御なをほめたたえます。
Lord I sing without shame.
主よ、私は恥じることなく歌います。

You bore the cross.
あなたは十字架を背負ってくださいました。
So much love.
こんなにも大きな愛で。
All my life, all I need is you.
私の一生、私が必要とするのは、あなたただ一人です。

ーージェームズ・ガブリエル

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マタイの福音書 マタイ27章

イエス様の血が私たちの上に

全ての福音書を読むと、ユダヤ人たちの「十字架につけろ」という叫びは、私の心を深く揺さぶります。

イエス様はその言葉を聞いて、心から悲しまれたことでしょう。なぜなら、イエス様はその人々を本当に愛していたにもかかわらず、彼らはそのようなひどい言葉を叫んだからです。

ピラトはその言葉を聞き、無力を感じながら、群衆の前で手を洗い、こう言いました。

この人の血について私には責任がない。おまえたちで始末するがよい。(マタイの福音書27:24)

その群衆はそれを聞き、こう答えました。

その人の血は私たちや私たちの子供らの上に。

最終的にユダヤ人たちはその行為のゆえに苦しむことになりました。

彼らが自分のメシアを拒絶したため、西暦70年にローマの将軍タイタスがエルサレムを破壊し、多くのユダヤ人とその子供たちが殺されました。もちろんタイタスがその剣を振るいましたが、それはユダヤ人に対する神様の裁きでした。

けれども、ピラトと群衆の言葉について考えると、二つのことが私の心に強く響きます。

一つ目は、私たち全員がイエス様の死の責任を負っているということです。イエス様は私たちのために死なれたからです。

もし私たちが神様を拒絶しておらず、罪を犯していなかったならば、イエス様が死ぬ必要はなかったでしょう。したがって、イエス様の血はその時代のユダヤ人だけではなく、私たち全員の上にあるのです。

パウロはこのように書いています。

全ての人は罪を犯し「ました」。(ローマ3:23)

だから、ピラトとは違って「私には責任がない」と言える人は誰もいません。私たち全員がその責任を負っているのです。

とはいえ、「イエス様の血は私たちの上に」という言葉には、もう一つの重要な意味を見いだせると思います。(これが私の二番目のポイントです。)

もちろん、群衆が意味したのは「イエス様の死は私たちの責任だ」ということでした。

けれども、皮肉なことに、イエス様の血は私たちを覆い、私たちの罪を清めてくださるのです。私たちがイエス様を信じるなら、その血は私たちの罪を覆い、神様の目において私たちは義と認めてくださいます。

へブル人への手紙の著者は次のようにイエス様について書いています。

また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。

雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかけると、それが聖なるものとする働きをして、体をきよいものにするのなら、まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。(へブル9:12-14)

だから、私たちの救い主に叫びましょう。

「あなたの血が私たちの上にあります。私たちは罪を犯したので、あなたの死の責任を負っています。

けれども、どうかあなたの血が私たちを覆ってください。あなたの恵みと憐れみによって、私たちを清め、赦し、完全にしてください。」

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ヨハネの福音書 ヨハネ19章

あなたの王は誰でしょうか

ピラトと祭司長たちの会話を見てみると、聖書の物語の中でも最も皮肉な場面の一つが描かれています。

ピラトは神様をまったく知らなかったにもかかわらず、祭司長たちや他のユダヤ人に向かって叫びました。「見よ。お前たちの王だ。」

ピラトの言葉は、まさに真実でした。イエス様はユダヤ人の王だったのです。

しかし、神をよく知っているはずの祭司長たちはこう主張しました。「カエサルのほかには、私たちに王はありません。」

本来、「カエサルのほかには、私たちに王はない」と言うべき立場だったピラト。ところが、彼が「イエス様は王だ」と宣言したのです。

その反面、「イエス様は王」と言うべきだったユダヤ人たちは、むしろ「カエサルは王だ」と言い張りました。

祭司長がそう信じていなかったとしても、彼らは「神こそ王だ」と宣言すべきでした。しかし、怒りに駆られた彼らは、何も考えずに「カエサルは王だ」と叫んでしまったのです。

では、あなたはどうでしょうか。あなたの王は誰ですか。

祭司長とは違い、「イエス様は王だ」と言うかもしれません。けれども、あなたの行動はその言葉と一致しているでしょうか。

もしかすると、周りの人々はあなたの行動を見て、「あなたの王は会社だ」と言うかもしれません。なぜなら、仕事が最も大切だからです。

あるいは、「あなたの王は家族だ」と言われるでしょうか。

もしくは、「あなたの王は趣味だ」と言われるでしょうか。

日本では、最も大きな「神」として君臨しているのは、文化という存在かもしれません。

多くのクリスチャンにとっても、文化は王のように支配しています。

日本の文化に従うプレッシャーは非常に強く、だからこそ、人々は家族の平和を守るために、自分の信仰を妥協してしまうことがあります。

また、自分のキャリアを守るために、教会へ行くことをやめてしまう人もいます。

もし誰かがあなたの人生を見て、「これがあなたの神だ」と言ったら、それは何を指すでしょうか。

それはあなたの仕事でしょうか。

それとも、文化でしょうか。

あるいは、あなた自身でしょうか。

もしかすると、神を指すでしょうか。

もっと重要なのは、あなたの答えです。もしあなた自身の人生を振り返ったとき、あなたは正直に「神こそが私の神だ」と言えるでしょうか。

もしかすると、別のものを指すべきなのかもしれません。

あなたの王は誰でしょうか。

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ルカの福音書 ルカ23章

イエス様が答えてくださらない人

この箇所では、私たちはイエス様に対するヘロデの反応を見ることができます。

しかし、より正確に言えば、私たちはヘロデに対するイエス様の反応を見ることができるのです。

このヘロデは、バプテスマのヨハネを殺害しました。そして、彼がイエス様のことを初めて聞いた時、イエス様が実はよみがえったヨハネではないかと疑問に思いました。(マタイ14:12; ルカ9:7-9)

そのため、ヘロデはイエス様に会いたいと思いました。一方で、パリサイ人によれば、ヘロデはイエス様を捕まえたいとも考えていました。(ルカ13:31-33)

しかし、この物語では、ついにヘロデはイエス様に会うことができました。彼はイエス様に奇跡を行うよう頼んだり、さまざまな質問を投げかけたりしましたが、イエス様は何もお答えになりませんでした。

なぜでしょうか。おそらく、イエス様はヘロデが何を聞いても、イエス様を信じず、従わないことを知っていたからでしょう。

ヘロデは、かつて何度もバプテスマのヨハネの言葉を聞き、「非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けていた」にもかかわらず、悔い改めることはありませんでした。(マルコ6:20)

ヘロデはイエス様に対しても同じ態度を取りました。ヘロデにとって、イエス様は興味深い存在であったかもしれません。もしかしたら、イエス様が何か奇跡を披露してくれると期待していたのかもしれません。

けれども、ヘロデはイエス様を重んじることはなく、イエス様に従う意思も全くありませんでした。そのため、イエス様は何もお答えになりませんでした。

この物語は私たちへの警告です。もし私たちがイエス様に対して頑なな心を持っているならば、イエス様は私たちに語りかけることをおやめになるかもしれません。

イエス様は、私たちの願望を叶えるためだけの存在ではありません。私たちは、イエス様を軽んじてはなりません。

イエス様は私たちの神です。

イエス様は私たちの王です。

イエス様は私たちの主です。

あなたはどうでしょうか。あなたはイエス様をどのように考えますか。

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私たちには、基礎がないと

前にも言いましたが、この福音の箇所を統合するのは少し難しいです。 以下は私の個人的な意見ですが、どうぞ福音書を読んで、自分なりの結論を導いてください。

  • 祭司長たちや最高法院の代表たちは、イエス様をピラトの前に連れて行き、最初の告発をしました。(ルカ 23:1-2; ヨハネ 18:29-31)
  • ピラトは初めてイエス様と対話しました。(ヨハネ 18:33-38では、その話の詳しい内容が記されていますが、ほかの福音書では簡潔に要約されています。)
  • ピラトはイエス様が無実であると宣告しましたが、ユダヤ人のリーダーたちがその判断に抗議したため、ピラトはイエス様をヘロデのもとに送りました。(マルコ 15:3-5; ルカ 23:4-12)
  • ヘロデがイエス様をピラトに送り返し、ピラトはもう一度イエス様が無実であると宣告しました。(ルカ 23:13-17)
  • その後、ピラトはユダヤ人たちに「私はイエス様かバラバ(犯罪者)を釈放しようと思っているが、どちらを釈放すべきだと思うか」と尋ねました。けれども、ユダヤ人たちはバラバの釈放を望みました。(これはすべての福音書に記されています。)
  • ピラトはバラバを釈放しましたが、イエス様を殺すのではなく、むち打つように命じました。(マルコ 15:16-20; ルカ 23:21; ヨハネ 19:1-7)
  • ピラトはもう一度ユダヤ人たちを説得しようとしましたが、最終的にイエス様が十字架にかけられるよう命令しました。(ヨハネ 19:7-14)

その背景を踏まえて、今後数日にわたって、私はすべての主人公について話そうと思います。

今日はピラトについてお話したいと思います。

歴史書にはピラトに関する記述がありますが、私は聖書の物語だけを参考にしたいと思います。

この話を読むと、私はピラトに関してこう感じます。

「難しい決断をしなければならない時や、自分の人生の在り方を考える時、ピラトには強い基盤がなかった。」

ピラトが初めてイエス様を尋問した時、彼はまずイエス様が本当に反逆者かどうかを見極めたいと思いました。そのため彼は直接こう尋ねました。「お前は王なのか。」

イエス様はご自身が王であると主張されましたが、「私の国はこの世のものではありません」と語られたため、ピラトはイエス様がローマ帝国に対する脅威ではないと判断しました。ピラトにとって、それが最も重要なことでした。

しかし、イエス様は続けてピラトの世界観に異議を唱えられました。イエス様はこう言われました。

わたしは、真理について証しするために生まれ、そのために世に来ました。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。(ヨハネ18:37b)

要するに、「ピラト、あなたは真理の味方でしょうか。 あなたは真理を愛しているでしょうか。 真理はあなたの基礎でしょうか。

もしそうであるならば、あなたは私の言葉を聞き、従わなくてはなりません。」

私たち皆もイエス様の質問と向き合わなければなりません。 私たちの人生の基礎は何でしょうか。その基礎は真理でしょうか。 イエス様が真理であることを信じるでしょうか。

ピラトもその疑問と向き合いました。彼の反応はどうだったでしょうか?

真理とは何なのか。(ヨハネ18:38)

私はピラトの声を本当に聞いてみたいです。

彼は怒ってこう言ったのかもしれません。 「あなたは自分が誰だと思うのか?すべての人々よりも、あなたは真理をよく知っていると思うのか。」

あるいは、皮肉っぽい声でこう言いたかったのかもしれません。 「真理?本当の真理なんてない。真理とは、力を持つ者が語るものだ。」

または、絶望を感じながらこう言ったのかもしれません。 「真理が本当に存在するのだろうか。たとえ真理が存在するとしても、私はそれを見つけられるだろうか。」

ピラトが本当に意味したものは私には分かりませんが、結局彼は真理の存在を拒絶しました。そしてイエス様を真理の源として拒絶しました。その結果はどうだったでしょうか?

彼が決断を下したとき、確固とした基盤を持っていませんでした。むしろ、彼は周囲の人々の言葉やプレッシャーに影響を受けました。

彼は暴動の脅威に直面しました。(マタイ27:24)

また、ユダヤ人の指導者たちはピラトの行為をカエサルに伝えると脅しました。(ヨハネ19:12)

そのプレッシャーを感じたピラトは、自分の恐れに負けて悪い決断をしました。彼自身がその決断が間違いであると十分に分かっていたにもかかわらず、それを選びました。

私たちにも同じようなことが起こるかもしれません。もし私たちが真理を基盤としなければ、もし私たちがイエス様を基盤としなければ、私たちは周囲の人々の意見や自分自身の恐れに左右されて決断します。そして、悪い決断をしてしまうのです。

あなたはどうでしょうか?決断を下すとき、あなたの基盤は何ですか?あなたの人生の基盤は何ですか?神様の知恵を求めていますか?神様の言葉が真理であることを信じていますか?

ヤコブはこう語っています。

あなたがたのうちに、知恵にかけている人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます。

ただし、少しも疑わずに、信じて求めなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。

その人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういう人は二心を抱くもので、歩む道全てにおいて心が定まっていないからです。(ヤコブ1:5-8)

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マタイの福音書 マタイ27章

死をもたらす悲しみ

この話では、私たちはイスカリオテのユダの死について知ることができます。

イエス様が死刑を宣告されたのを見て、ユダは深く後悔し、祭司長たちと民の長老たちの元へ行き、こう言いました。

私は無実の人の血を打って罪を犯しました。(マタイの福音書27:4)

そして、ユダは受け取ったお金を返そうとしましたが、祭司長たちや長老たちはそのお金を受け取ることを拒みました。そのため、ユダはそのお金を神殿に投げ込んで立ち去り、その後、首を吊りました。

コリント人への手紙第二7章で、パウロは二種類の悲しみについて語っています。パウロはこう書きました。

神様のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせます。。。(7:10a)

ペテロも同じような悲しみを経験しました。彼はイエス様を知ることを三度否定し、深い悲しみに包まれました。それでも、彼は悔い改め、赦されて、イエス様の弟子としての役割に戻ることができました。

それに対して、ユダは決して悔い改めることはありませんでした。もちろん、彼は自分の行為の結果を後悔しました。しかし、神様からの赦しを求める代わりに、ユダは自ら命を絶ちました。

パウロはこのような悲しみを「死をもたらす悲しみ」と呼びました。(第二コリント7:10b)

残念ながら、多くの人々はユダのような悲しみを経験しています。

彼らは自分の行為によって生じた悪い結果を目の当たりにし、赦される希望を持てないと感じています。その行為があまりにも重大であるため、神様が自分を赦すことなどできないと思い込んでいるのです。

私たちはそのような人々のために何をしているのでしょうか。

祭司長たちはユダに、神様からの赦しを知る手助けをするべきでした。ところが、彼らはそうしませんでした。むしろ、ユダの悲しみを見て、「で?もしあなたが悪いことをしたなら、それは自分の責任だ。私たちには関係ない。」と言い放ちました。

もちろん、祭司長たちは罪深い心を持っていたため、ユダを助けることができませんでした。ユダを助けるためには、彼ら自身の罪を認める必要があったでしょう。しかし、彼らは自分の罪を認めたくありませんでした。

皮肉なことに、そのお金が「血の代価」であるため、彼らはそのお金を神殿の金庫に入れることはできないと思いました。実際には、彼らは自分たちの罪を自覚していたのでしょう。

それでもなお、神様の祭司として、私たちは罪に苦しんでいる人々を助けるべきです。私たちはその役割を果たしているでしょうか。私たちは、彼らが悔い改めれば、神様が赦してくださることを伝えているでしょうか。

あるいは、彼らの苦しみに対して、私たちはむしろ喜んでいるでしょうか。「それはあなたの責任だ。身から出た錆だ。私に助けを求めるな。」と冷たく言い放っているでしょうか。

イエス様はペテロに厳しく責める権利を持っておられました。それどころか、ペテロだけでなく、すべての弟子たちに対しても、同じように責めることができたはずです。

けれども、イエス様はその代わりに、彼らに恵みを与えられました。神様からの赦しを示されたのです。その結果、彼らは悔い改め、人生が根本から変えられました。

イエス様は、私たちが周囲の人々に対しても、同じように恵みをもって接することを望んでおられます。あなたは、そのように行動しているでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ26章 マルコの福音書 マルコ14章 ルカの福音書 ルカ22章

最も大切な質問

イエス様の裁判はいろいろな意味で本当にひどいものでした。

その最大の理由は、祭司たちと最高法院がイエス様が無実であることを十分に理解していたことです。 それにもかかわらず、彼らはイエス様を妬み、憎んでいたため、必死にイエス様を殺す理由を探し続けました。

神様の律法によれば、人を告発するには、二人の証人の証言が一致しなければなりませんでした。 けれども、彼らは証人たちを何人も尋問しましたが、証言が一致する二人の証人を見つけることができませんでした。

ようやく彼らは証言が一致していると思われる二人の証人を見つけたかのように思いました。その証人たちによれば、イエス様は「神殿を壊し、新しい神殿を建てる」と宣言されたというのです。

しかし、実際にイエス様が意味していたのは、「あなた方がこの神殿を壊しても、私はそれをよみがえらせる」ということでした。そして、イエス様がお話しされた神殿はヘロデの神殿ではなく、ご自身の死と復活に関するものでした。(ヨハネ2:19-21)

それにもかかわらず、大祭司がその証人たちを詳しく尋問すると、彼らの証言の中に矛盾があることが明らかになり、その証言は無効となりました。

フラストレーションを感じた大祭司は、イエス様を直接尋問することにしました。けれども、イエス様が沈黙を守り続けられたため、大祭司は叫びました。

私は生ける神によっておまえに命じる。おまえは神の子キリストなのか、答えよ。(マタイ26:63)

それは最も重要な質問です。 イエス様とは誰でしょうか。 イエス様は本当に神の子でしょうか。 イエス様は本当にキリストでしょうか。

ちなみに、「キリスト」というのは名前ではなく肩書です。簡単に説明すると、「キリスト」とは、「神様が約束された王」を意味します。

だからこそ、もしイエス様がキリストであるなら、私たちは自分の人生をイエス様に捧げるべきです。さらに、いつかイエス様は私たちを裁かれるお方です。だからこそ、イエス様は彼らに警告を与えられたのです。

あなたが言ったとおりです。しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。(マタイ26:64)

イエス様はダニエル書7章を参照されました。ダニエルによれば、すべての力と権威と栄光がメシアに与えられ、メシアに立ち向かう者たちは裁きを受けるということです。

祭司たちと最高法院はそれを聞いた時、どのように反応したでしょうか。 彼らはイエス様とその言葉を拒絶しました。イエス様が彼らのメシアであり、神の子であることを信じることを拒みました。

その代わりに、彼らはイエス様を神への冒涜で告発し、死刑を宣告しました。

多くの人々は同じように反応します。彼らは福音を聞き、イエス様の主張を理解します。 それにもかかわらず、イエス様を拒絶します。

むしろ、彼らは十字架で自分のために死んでくださった方を踏みつけます。 そのため、へブル人への手紙の著者によれば、彼らはいつか裁かれるのです。(へブル 10:28-30)

しかし、イエス様を信じて受け入れる人は、神の子どもとなる特権を与えられます。(ヨハネ 1:12)

あなたはどうしますか。 イエス様を拒絶しますか。それともイエス様を受け入れますか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ18章

私たちに真実を言う人を打つ?

この箇所では、私たちはイエス様の最初の裁判を目にします。アンナスという人物は裁判官でした。

カヤパが大祭司となる前、アンナスは大祭司でしたが、ローマ帝国が彼を退け、その代わりにカヤパを大祭司に任命しました。

それでも、ユダヤ人の指導者たちはなおアンナスを敬い、カヤパが大祭司であるにもかかわらず、アンナスの影響力は依然として非常に強かったと考えられます。

いずれにせよ、アンナスはイエス様に対し、弟子たちや教えについて尋問しました。けれども、イエス様は直接答えるのではなく、こう言われました。

わたしは世に対して公然と話しました。いつでも、ユダヤ人がみな集まる会堂や宮で教えました。何も隠れて話してはいません。

なぜ、わたしに尋ねるのですか。わたしが人々に何を話したかは、それを聞いた人たちに尋ねなさい。その人たちなら、わたしが話したことを知っています。(ヨハネの福音書18:20-21)

要するに、「あなた方は律法を尊重すると主張しているでしょう。では、その律法に従いなさい。律法によれば、あなたがたが私を告発したいと思うなら、証人が必要です。証人たちはどこにいるのですか。」ということです。

けれども、イエス様がそう言われたとき、下役の一人がイエス様を打ち、「大祭司にそのような答え方をするのか」と言いました。

それに対して、イエス様は答えられました。

わたしの言ったことが悪いのなら、悪いという証拠を示しなさい。正しいのなら、なぜ、わたしを打つのですか。(23)

アンナスはそれを聞いて、返す言葉がありませんでした。なぜなら、イエス様の言葉は正しかったからです。そこで彼は、イエス様を正式な裁判のためにカヤパのもとへ送りました。

しかし、イエス様の問いは私に深く考えさせます。人々が私に真理を伝えるとき、私はどのように反応するでしょうか。特に、その真理が私の罪を指摘するとき、私はどう反応するでしょうか。

アンナスのように高慢になり、自分の過ちを認めないでしょうか。あるいは、アンナスの下役のように、その人を攻撃するでしょうか。

もしかすると、私はその真理を受け入れるでしょうか。

真理を聞くのがつらいときもあります。正直に言うと、私は頑固なので、神様が私に「ブルース、その人の言葉を聞きなさい」と語られることもあります。

それでも、時々私はその真理と戦います。自分の過ちを認めたくないからです。私はなお、自分の道を歩み続けたいと思うことがあります。

しかし、キリストの弟子として、私たちはそのように生きてはいけません。私たちは真理を愛するべきです。たとえ耳に痛くても、その真理を愛するべきです。

だから、ヤコブの言葉に従いましょう。

ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。

みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。(ヤコブ1:21-22)

人々があなたに真理を伝えたとき、あなたはどのように反応するでしょうか。

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自分の心を見極める

イエス様の裁判を見る前に、少しペテロの話を振り返りたいと思います。

この話については、福音書を統合するのが少し難しいです。 けれども、この話をよく理解すると、ペテロは実際にイエス様を知ることを4回否定したものの、証人たちの前では3回否定したようです。

ペテロの最初の否定は、大祭司の家の中庭で起こりました。

もう一人の弟子(もしかするとヨハネか、あるいは12弟子の外から来た弟子かもしれません)が大祭司をよく知っていたため、中庭に入りました。

そしてその弟子がペテロのことを保証したため、ペテロも中庭に入ることができました。(ヨハネ 18:15-16)

この話に、一人のしつこい女性が登場します。彼女は門番として働いていたので、ペテロが中庭に入った際にこう尋ねました。

あなたも、あの人の弟子ではないでしょうね。(ヨハネ18:17)

ペテロは「違う」と答えました。

そして、彼女から逃れたものの、ペテロが火に当たっていると、彼女は彼を追い、じっと見つめながら言いました。

あなたも、ナザレ人イエスと一緒にいましたね。(マルコ14:67)

そして、大声で、彼女はその場の全員に向かって叫びました。

この人も、イエスと一緒にいました。(ルカ22:56)

それを聞いて、彼らはペテロに訊きました。

あなたもあの人の弟子ではないだろうね。(ヨハネ18:25)

ペテロはこのように答えました。

弟子ではない。何を言っているのか分からない。理解できない。(ヨハネ18:25b;マルコ14:68)

そして、ペテロはすぐに前庭の方に向かいました。 けれども、間もなく、その同じ女性がほかのしもべと共にペテロと対峙しました。

もしかすると、その友人は以前にペテロとイエス様を見たことがあったのかもしれません。 その時、門番はペテロを指して言いました。

「この人はあの人たちの仲間です。」(マルコ 14:69)

さらに、その友人も皆の前でこう言いました。

この人はあの人たちの仲間です。(マタイ26:71)

その中庭にいた一人がそれを聞き、ペテロをじっと見ました。 彼もペテロを認識し、大声で叫びました。

あなたも彼らの仲間だ。(ルカ22:58)

ペテロはそれを聞いて、誓いました。 「いや、違う。そんな人は知らない。」(マタイ 26:72;ルカ 22:58b)

その言葉を聞いて、たぶん皆は一瞬静まったかもしれません。 けれども、1時間後、別の大祭司のしもべが通りかかり、ペテロを見ました。

そのうえ、彼はペテロに耳を切り落とされた人の親類でした。 それで彼はこう言いました。

あなたが園であの人と一緒にいるのを見たと思うが。(ヨハネ18:26)

ペテロがそれを否定しようとした時、別の人が大声で叫びました。

確かに、あなたはあの人たちの仲間だ。ガリラヤ人だから。ことばのなまりで分かる。(マタイ26:73;マルコ14:70)

それを聞いて、ペテロはパニックになり、もし自分が嘘をついているなら呪われてもよいと誓い始めました。そして叫びました。「そんな人は知らない。」(マタイ 26:74)

すると、鶏が鳴きました。

その瞬間、ペテロは大騒ぎの音を聞き、イエス様がピラトの元へ連れて行かれるところを見ました。そしてイエス様は振り向いてペテロをじっと見つめられました。ペテロは自分が何をしたのかを悟り、外に出て激しく泣きました。

これが私が福音書を統合して描いた話です。(もしかすると少し間違いが含まれているかもしれません。)

とにかく、私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

ペテロを批判するのは簡単です。彼の臆病さや偽善を非難することもできるでしょう。しかし、そうする前に、私たちは自分自身の心をまず振り返るべきではないでしょうか。

実は、もし私がペテロだったなら、もっと勇気を持てたかどうか自信がありません。

私自身、十代の時に似たような経験をしました。友人に「君はクリスチャンか?」と尋ねられた時、その質問を避けようとしました。「はい」と正直に答えることができなかったのです。

今でもそのことを思い返すたびに恥ずかしい気持ちになります。

さらに、私は他のクリスチャンが様々な罪に陥るのを見たことがあります。特に性的な誘惑に負けることが多いです。

私自身もそのような誘惑に頻繁に直面します。そして、気をつけなければ私もその罪に陥るかもしれません。私は弱い存在です。神様の恵みによってのみ、私は立つことができています。

私たちが他の人が罪に陥るのを目撃する時、忘れてはならないことがあります。それは、私たち全員が弱いものであるということです。そして誰もが罪に陥る可能性があるのです。

ですから、他人を裁く前にその人を憐れみ、その人の回復のために祈りましょう。

パウロの言葉を心に留めておきましょう。

兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。

また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。(ガラテヤ人への手紙6:1)

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マタイの福音書 マタイ26章 マルコの福音書 マルコ14章 ヨハネの福音書 ヨハネ18章 ルカの福音書 ルカ22章

力と権威、憐れみと恵み

この箇所では、イエス様の中に三つのことを見ることができます。

1.イエス様の力と権威。 イエス様は敵に取り囲まれていましたが、それでも状況を支配しておられました。

イエス様が立ち上がり、敵と向き合われた時、「誰を捜しているのか」と問いかけられました。 彼らが「ナザレ人イエスを」と答えると、イエス様は「わたしがそれだ」と言われました。(ヨハネ 18:4-5)

日本語では分かりづらいですが、実はイエス様はこの時、神様の御名を使われました。(出エジプト 3:13-14;ヨハネ 8:58)

すると、イエス様の敵はその言葉を聞いた瞬間、地に倒れました。どれほどの恐怖を感じたことでしょうか。

そこで、イエス様は再び問いかけられました。「誰を捜しているのか。」(ヨハネ 18:6-7)

彼らはすっかり自信を失い、おどおどしながら答えました。「ナザレ人イエスを。。。」

彼らがイエス様の返事を待つ間、再び地に倒れる覚悟をしたかもしれません。けれども、イエス様は静かに答えられました。

わたしがそれだ、と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人たちは去らせなさい。(ヨハネ18:8)

イエス様を捕らえに来たとしても、彼らは誰が本当の力を持っているのかを思い知らされました。 それは彼ら自身ではなく、イエス様でした。

2.イエス様の憐れみ。 敵はまだおどおどしていたため、弟子たちはその恐れにつけ込んで攻撃しようと思ったかもしれません。 すると、弟子の一人が叫びました。

主よ、剣で切りつけましょうか。(ルカ22:49)

イエス様の答えを待たずに、ペテロは敵の一人を攻撃し、右の耳を切り落としました。 (もしかしたら、ペテロはその人の頭を斬ろうとしたものの、誤って耳だけを切り落としてしまったのかもしれません。)

けれども、イエス様は彼を叱責されました。

それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。(マタイ26:53)

昔の讃美歌には、こんな歌詞があります。

イエス様は、ご自身を解放するため、またこの世界を滅ぼすために、一万人の天使を呼ぶことができたでしょう。

実は、その作詞家は誤解していました。12軍団とは、約4万8千人から7万2千人ほどの規模を指します。

とにかく、イエス様はその敵だけでなく、世界のすべての人々を滅ぼすこともできました。 しかし、イエス様は彼らを憐れんでくださいました。イエス様は彼らを殺さず、むしろ彼らの命の代わりに、ご自身の命を捧げられました。

3.イエス様の恵み。 憐れみとは、相手が受けるべき罰を与えないことです。 恵みとは、相手が受ける資格のないものを与えることです。

この出来事では、イエス様は大祭司のしもべに恵みを示されました。 イエス様は彼の耳を癒してくださいました。(ルカ 22:51)

それはイエス様の最後の癒しの御業でした。 より正確に言うと、それはイエス様の最後の肉体的な癒しの御業でした。

十字架の御業を通して、イエス様は私たちに霊的な癒しをもたらしてくださいました。 イエス様の恵みによって、私たちの罪は赦され、私たちは永遠の命を得ることができます。

私たちがしなければならないことはただ一つだけです。それは、イエス様を信じることです。

力と権威。憐れみと恵み。私たちの主を描写するより優れた言葉があるでしょうか。

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私の心と神様の心が違うとき

時に、私たちは試練と苦しみに直面します。例えば、重い病気にかかったり、信仰のために家族の問題が生じたり、ミニストリーで困難があったりする時、私たちは神様の助けを願います。

時に、神様は私たちの祈りに応えてくださり、素晴らしい方法で状況を変えてくださいます。

しかし、神様が私たちの祈りに応えないこともあります。この箇所では、そのような答えを見ます。

イエス様は同じことを三度祈られました。最初にイエス様はこう祈られました。

わが父よ、できることなら、この「十字架の苦しみの」杯をわたしから過ぎ去らせてください。

しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。(マタイ26:39)

イエス様はこの祈りを静かに言われたのではありませんでした。イエス様は地面にひれ伏し、切に祈られました。(マルコ 14:35)

さらに、イエス様は大きな苦しみを感じ、汗が血のしずくのように地に落ちました。(ルカ 22:44)

私たちがイエス様を思い描く時、穏やかなイエス様を想像することが多いでしょう。けれども、この時のイエス様はまったく落ち着いていませんでした。

天の父はイエス様の深い感情をよくご存じでした。天の父はイエス様を心から愛しておられました。それでもイエス様の祈りに応えられませんでした。

イエス様はそれを悟られ、こう祈られました。

わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように。(マタイ26:42)

それでも、イエス様は別の方法を求め続けたかもしれません。しかし、天の父はその祈りに応えられませんでした。

私たちはこの出来事から何を学ぶことができるでしょうか。

あるクリスチャンたちはこう言います。「もしあなたが十分な信仰を持っていれば、神様はあなたの祈りを必ず叶えなくてはならない。」

けれども、それが真実ならば、私たちはイエス様の信仰が足りなかったと言わなければなりません。私たちは神の子を責めるでしょうか。

実は、私たちの心が神様の心と異なることもあります。神様は魔人ではありません。私たちは自分の願いに神様の心を無理に合わせることはできません。むしろ、私たちが自分の心を神様の心に合わせなければならないのです。

イエス様はその模範を示されました。イエス様は天の父が願いを叶えるよう強く主張されることはありませんでした。むしろ、イエス様は自分の心を天の父の心に合わせられました。私たちもそのようにすべきです。

そして、もし天の父が私たちの祈りに応えられない時、イエス様のように、私たちは立ち上がり、天の父の御心に従うべきです。

とはいえ、自分の力だけで神様の御心に従う必要はありません。あなたは、一人で試練に直面する必要はないのです。

イエス様も一人で試練に向かわれたわけではありません。イエス様の苦しみと痛みの中で、天の父はイエス様を励まし強めるために天使を送られました。天の父はあなたのためにも同じことをしてくださいます。

それだけではなく、御霊を通して、神様は直接私たちを慰めてくださいます。御霊は私たちの助け主であり、苦しむ時に私たちを支えてくださいます。(ヨハネ 14:16)

だから、パウロはこう言いました。

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。

人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ8:26-28)

では、もし神様が私たちの祈りに応えられない時、私たちはどうすべきでしょうか。

私たちは神様を信頼すべきです。神様の方法が私たちの方法よりもはるかに優れていることを信じるべきです。

私たちが試練に直面している間も、神様が私たちを助けてくださることを信じるべきです。

そして、立ち上がり、神様の御心に従い続けるべきです。

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弱い

サタンが優しい存在だと言う人は誰もいません。サタンは私たちの肉体的な弱さや精神的な弱さを見つけると、すぐに攻撃してきます。

この箇所では、それがはっきりと分かります。イエス様と弟子たちがゲツセマネに着いたとき、イエス様は彼らに警告されました。

誘惑に陥らないように祈っていなさい。(ルカ22:40)

その時、弟子たちはすでに精神的に疲れ果てていました。彼らはまだイエス様の言葉を理解しようとしていました。つまり、イエス様が裏切られること、そしてイエス様が彼らのもとを去っていくことを、受け入れられなかったのです。

そのため、彼らは肉体的に、精神的に、そして霊的に弱くなりました。(ルカ 22:45)

だからこそ、イエス様が「わたしと一緒に目を覚ましていなさい」と言われたのに、彼らは眠ってしまいました。イエス様は何度も彼らに警告し、願われましたが、彼らは1度だけではなく、3度も眠ってしまいました。

その結果どうなったのでしょうか?イスカリオテのユダとユダヤ人の指導者たちがやって来ると、彼らは逃げ去ってしまいました。

しかし、イエス様はさらに過酷な試練に直面されました。イエス様は十字架を背負い、すべての人々の罪を担われました。その時、天の父はイエス様に背を向けられました。

この箇所では、イエス様の祈りをほんのわずかしか見ることができません。けれども、イエス様の最初の祈りは約1時間続き、その後さらに2度祈られました。

イエス様が祈るとき、その苦しみはあまりにも深く、汗が血のしずくのように地に落ちました。(ルカ 22:44)

さらに、その時、弟子たちは眠っていたため、イエス様には精神的な支えがありませんでした。

けれども、イエス様が弱さの中におられた時、天の父はイエス様を力づけてくださいました。

そして、天の父はイエス様を支えるために天使を遣わされたのです。(ルカ22章43節)

だから、捕らえられた時、イエス様は冷静に、最後の試練に直面する覚悟を決められました。

では、なぜ弟子たちは目を覚まして祈ることができなかったのに、イエス様はできたのでしょうか。

おそらく、イエス様は生前、毎朝目を覚まして祈ることを習慣としていたからです。 それは朝だけでなく、夜にも行われました。(マルコ 1:35、マタイ 14:23)

そのため、イエス様は最も弱い時に、日々の訓練によって培われたように自然に反応されたのです。

けれども、弟子たちはその訓練を積んでいなかったため、弱さの中で失敗してしまいました。

あるアメリカの有名なアメリカンフットボールの監督は、自分の選手たちと試合のビデオを見る際、相手チームの選手について語りました。 そのチームのある選手は、何度も同じミスを繰り返していました。そこで、その監督はこう言いました。

「その選手は練習の時、自分の技術について、きちんと気をつけなかったのだろう。 たぶん、彼はこう思ったのかもしれない。「正しいやり方はもうよく知っている。だから、今は気をつけなくても、試合の時にはちゃんとできるだろう」”

けれども、疲れ果てた時、人はただ反応するだけだ。 そして、その反応は、自分が普段どのように訓練してきたかによって決まるのだ。」

霊的な世界においても、これは同じです。

もし、あなたが 「私は困った時、何をすべきかよく知っている。だから、その時が来たらちゃんと祈るだろう」 と思っていたとしても、 毎日その訓練をしていなければ、肉体的に、そして精神的に疲れた時に、 あなたは本当に祈ることができるでしょうか。

そして、試練が訪れた時、弟子たちのようにあなたも自分の弱さに負けてしまうかもしれません。

しかし、もしイエス様のように、毎日神様を求め、目を覚まして神様と語るならば、 試練に直面した時、あなたは迷うことなく、すべきことを行い、固く立つことができるのです。

あなたはどうでしょうか? あなたは、毎日目を覚まして神様と語っていますか?

誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。(マルコ14:38)

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ヨハネの福音書 ヨハネ17章

私たちに対するイエス様の望み

クリスチャンたちは本当に、イエス様が私たちに対して抱かれる望みを理解しているでしょうか。

以前の記事では、イエス様が私たちとの親しい関係を望まれていることを見ました。永遠の命とは、イエス様に近づき、イエス様を知り、イエス様に知られることです。

けれども、イエス様はそれだけではなく、他にも望まれることがあります。イエス様は、私たちが兄弟姉妹と共に一つとなることを望んでおられます。

イエス様はこのように祈られました。

わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。

父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。

またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。

わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。(ヨハネの福音書17:20-23)

イエス様は、私たちがイエス様と天の父のような関係を持つことを望まれます。イエス様と天の父が一つであるように、私たちも一つとなるべきです。

とはいえ、それはどういう意味なのでしょうか。

一つの意味は、目的の一致です。私たちが同じ目的を持ち、共に働くことです。その目的とは、福音を伝えることにほかなりません。

もう一つの意味は、互いに相手を自分より優れた者と考えることです。私たちは自分のことだけでなく、他の人のことも顧みます。(ピリピ2:3-4)

しかし、多くの場合、私たちはそのように生きていません。

そのため、ノンクリスチャンが私たちの教会に足を踏み入れると、そこには争いがあり、苦々しい心が見られることがあります。彼らはそのようなものを教会の外でも目にすることができるため、落胆し、すぐに教会を離れてしまいます。

それでも、当の教会の人々は自分のことで精いっぱいで、何が起こったのか気づいていないかもしれません。

イエス様は、それをご覧になると、深く悲しまれるのです。

周りの人々に対するあなたの行動や態度によって、どれほどイエス様を悲しませているでしょうか。あなたの苦々しい思いや、恨み、陰口を持つ心によって、イエス様はどれほど嘆かれるでしょうか。

その結果、イエス様だけでなく、私たち自身も苦しむことになります。

さらに、ノンクリスチャンは暗闇の中でつまずき続けます。なぜなら、彼らは教会の中に光がないと感じるからです。

あなたはどうでしょうか。あなたと他の教会のメンバーは、本当に一つとなっているでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ17章

聖別された。聖別されている途中。

「聖別」。

日本ではこの言葉がどれほど一般的に使われているかはわかりませんが、英語の “Sanctification” は「Christianese」、つまり「教会の中だけで使われる言葉」と見なされることがあります。

聖書の中で「聖別」という言葉を目にすることもあれば、教会の説教で耳にすることもあるでしょう。では、その言葉はどのような意味を持つのでしょうか。

基本的に、二つの意味があります。

一つ目は、神様の目的のために、他のものから選り別けられることです。

二つ目は、清められることです。

イエス様が弟子たちのために祈られたとき、その二つの意味を見ることができます。

わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。

真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。

あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。

わたしは彼らのため、わたし自身を聖別します。彼ら自身も真理によって聖別されるためです。(ヨハネの福音書17:16-19)

まずは、19節を見てみましょう。イエス様が言われたのは、弟子たちが(また私たちが)聖別されるために、イエス様がご自身を聖別されたということです。

要するに、天の父の目的のためにイエス様がご自身を選り別けてこの世に来られ、十字架で死なれたということです。その働きによって、イエス様は私たちを聖別されました。つまり、イエス様は私たちの罪を清め、私たちを天の父のものとされました。

だから、私たちはこの世にいるにもかかわらず、もはやこの世のものではありません。私たちの考え方や生き方は、この世の民の考え方や生き方とはまったく異なります。だからこそ、彼らは私たちのことを理解できず、憎む人もいます。

それでも、私たちが聖別される過程は、今もなお続いています。

神様の言葉と働きを通して、私たちは罪とは何かを理解し、次第にその罪を憎むようになります。

そして、罪を犯したとき、神様の言葉が私たちの心を打ち、悲しみと悔い改めへと導かれます。そのようにして、神様は私たちを絶えず清め続けてくださいます。

また、神様の言葉を通して、私たちは神様の御心を知るようになります。神様は私たちに、どのように生きるべきかを教え、またどのように神様の国の目的を果たすかを示してくださいます。

その言葉を聞き、従うと、私たちは日々、さらに神様の目的のために聖別され、主に用いられる者となります。

だから、ある意味では、私たちはすでに聖別されました。なぜなら、十字架で流されたイエス様の血によって、私たちの罪は清められたからです。

しかし、別の意味では、私たちは今もなお聖別の途上にあります。

イエス様が私たちの聖別のために祈っておられるので、私たちもまたそう祈りましょう。

イエス様、毎日私をさらに聖別してください。 私がよりあなたの姿に似るように。 私が罪を憎み、天の父の御業に参加できるように。

私が失敗したときには、どうか私を赦し、引き上げてください。 日々、私を清め、あなたのものとしてくださいますように。

あなたのみ名によって祈ります。アーメン。

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ヨハネの福音書 ヨハネ17章

私たちが敵対的な世にいるのに。。。

この箇所では、イエス様が私たちへの深い愛をもって、私たちのために祈られる姿を見ることができます。

この真理を心に留めておきましょう。イエス様は私たちのために祈ってくださいます。

私たちはしばしば周りの人々のために祈ります。しかし、私たちの大祭司であるイエス様は、私たちのために祈ってくださいます。特に、イエス様は天の父が私たちを守ってくださるように祈られます。

もちろん、この箇所でイエス様は弟子たちのために祈られました。

けれども、イエス様が私たちのためにも祈っておられると信じます。なぜなら、イエス様が弟子たちを敵対する世へ遣わされたように、私たちもまた敵対する世へ遣わされているからです。そして、弟子たちが霊的な戦いに直面したように、私たちも霊的な戦いに直面しています。

だから、イエス様はこのように祈られました。(今もなお、イエス様は私たちのためにこのように祈っておられることでしょう。)

聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。。。

わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではないからです。

わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。(ヨハネの福音書17:11,14-15)

福音のゆえに、あなたを憎む人もいるかもしれません。

迫害の時が訪れることもあります。

それでも、イエス様が私たちのために祈ってくださるので、天の父はサタンの攻撃に限界を定めてくださいます。そして、神様の力に頼るなら、私たちは耐えられない試練を経験することはありません。

だからこそ、どんなにつらい試練に直面しても、揺るがず堅く立ちましょう。神様は常に私たちとともにおられるのです。

そして、あなたは必ずその試練を乗り越え、勝利を得ることを忘れないでください。なぜなら、イエス様はあなたのために祈っておられるのです。

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ヨハネの福音書 ヨハネ17章

永遠のいのちとは

「永遠のいのち」と聞くと、多くの人々は天国での永遠の幸せを思い浮かべます。もちろん、それは間違いではありません。けれども、不思議なことに、多くの人々は神様抜きの存在を想像してしまいます。

彼らは神様が天国におられることを理解しているかもしれません。とはいえ、天国では私たちは神様を真に知り、また神様に知られる存在であることについては、あまり考えようとしません。だから、この世にいる間も、まるで神様が存在しないかのように生きています。

これはノンクリスチャンだけの話ではありません。クリスチャンでさえ、そのように生きることがあります。

彼らは日曜日に教会へ行き、讃美歌を歌い、メッセージを聞きます。もしかしたら、平日でも時折聖書を読み、祈るかもしれません。けれども、それ以外の時間、彼らはまるで神様がおられないかのように日常を過ごしてしまいます。

仕事や家族、趣味は良いものですが、私たちはそれらに没頭しすぎて、神様との関係に十分な時間を投資しないことがあります。しかし、私たちの命、特に永遠の命は、神様との関係そのものなのです。

イエス様はこのように祈られました。

永遠のいのちとは、唯一の誠の神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。(ヨハネの福音書17:3)

もちろん、私たちは永遠に生きます。とはいえ、イエス様は「永遠のいのち」とは単に永遠に生きることではないと語られました。

確かに、天国では私たちは幸せになるでしょう。とはいえ、イエス様は「永遠のいのち」とは単に幸せな人生を送ることではないとも語られました。

むしろ、「永遠のいのち」とは、神様を知ることです。また、イエス様を知ることです。

「永遠のいのち」とは、単に天の父とイエス様について知識を得ることではありません。

「永遠のいのち」とは、天の父とイエス様を親しく知ることです。

イエス様はこのように祈られました。

彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。。。わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。。。

父よ。わたしに下さったものについてお願いします。わたしがいるところに、彼らもわたしとともにいるようにしてください。わたしの栄光を、彼らが見るためです。世界の基が据えられる前からわたしを愛されたゆえに、あなたがわたしに下さった栄光を。。。

わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。あなたがわたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり、わたしも彼らのうちにいるようにするためです。(21,23,24,26)

だから、私たちの人生の目的は神様を知ることです。

私たちの人生の目的は、神様に近づき、親しく知り、また神様に親しく知られることです。

つまり、永遠の命はただの未来の話ではありません。永遠の命は、今この瞬間から始まるのです。イエス様によれば、今もなおイエス様は天の父を現し、これからも現し続けてくださいます。

だから、私たちが天国に行くと、新しいことを始めるわけではありません。むしろ、天国は私たちがこの世で始めたことの続きなのです。

もしあなたが天国に着いたとき、まだ神様とただの知り合い程度の関係しかないなら、それはとても残念なことではありませんか。もし天国に着いたとき、あなたが神様をほとんど知らないなら、それは何とも惜しいことではありませんか。

この世で神様と親しい関係を築くなら、天国に着いたとき、どれほどの喜びを感じるでしょうか。

もしこの世で、毎日神様と話し、神様の声を聞き、人生の中で神様の働きを見て、さらに神様があなたを通して周りの人々に触れられることを目の当たりにするなら、やがて神様の御顔を仰ぐとき、どれほどの幸せに満たされるでしょうか。

私はそのような喜びを心から知りたいのです。毎日そのように生きているわけではないかもしれませんが、それでもそのように生きていきたいと願っています。

あなたはどうなのですか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ16章

平和と喜びを見つけるために

この箇所を読むと、弟子たちがイエス様の言葉に困惑していることが分かります。なぜなら、イエス様は去って行くと話されたからです。彼らはその言葉に囚われ、イエス様のほかの言葉がかすんでしまいました。

聖霊様の約束や、将来の祝福についてのイエス様の言葉に耳を傾けることなく、彼らは繰り返しこう思いました。「イエス様は去って行かれる。私たちはどうすればいいのか。」

だから、イエス様は彼らを励ますと同時に、警告を与えられました。

まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜びます。あなたがたは悲しみます。しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。

女は子を産むとき、苦しみます。自分の時が来たからです。しかし、子を産んでしまうと、一人の人が世に生まれた喜びのために、その激しい痛みをもう覚えていません。

あなたがたも今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたがたに会います。

そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。(ヨハネの福音書16:20-22)

イエス様の死と復活によって、その言葉は成就しました。

イエス様が十字架につけられたとき、敵は喜びましたが、弟子たちは絶望しました。けれども、よみがえられたイエス様を見たとき、彼らの悲しみは喜びに変わりました。

だから、彼らが迫害やさまざまな苦しみに直面しても、その喜びを奪うことができる者は誰もいませんでした。そして、その喜びを持って、彼らはこの世を変えたのです。

しかし、イエス様の言葉は私たちにも当てはまります。イエス様が再びこの世に来られるまで、私たちは多くの試練に直面します。今は、私たちの悲しみの時です。

パウロはこう書きました。

私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。

それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。(ローマ人への手紙8:22-23)

けれども、イエス様がこの世に戻られるとき、私たちは御顔を直接見て喜ぶでしょう。そして、私たちの喜びを奪うことのできる者は誰もいません。

とはいえ、イエス様が戻られるまで、十字架の御業によって、私たちは神様に近づくことができます。

だから、イエス様のみ名によって、私たちは天の父に何でも求めることができ、神様はそれを与えてくださいます。そして、私たちの喜びは満ち溢れるようになります。(ヨハネ 15:23-24; 26-27)

時々、私たちはイエス様の言葉の例外ばかりを強調しすぎてしまうことがあります。

もちろん、私たちの祈りは神様の御心に沿うものでなければなりません。

確かに、もし私たちが誤って蛇を求めてしまったなら、神様はそれを断る権利を持っておられます。

けれども、その例外に囚われすぎると、私たちは神様に何も願わなくなってしまいます。

しかし、天の父は、私たちにためらわずに願ってほしいのです。

どれほど私たちは祈らないために、神様の祝福を逃しているでしょうか。

どれほど私たちは心の願いを神様に求めないために、喜びを不完全なものにしているでしょうか。

だから、願い求めましょう。

パウロの言葉を心に留めてください。

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。

人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。(ローマ人への手紙8:26-27)

時々、私たちは弱さのゆえに、何のために祈るべきか分からないことがあります。時には、誤ったことのために祈ってしまうことさえあります。けれども、そのようなとき、聖霊様が私たちのためにとりなし、私たちの益となるように祈ってくださいます。

だから、パウロはこう書きました。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ人への手紙8:28)

だから、この三つのことを覚えて、安心しましょう。

1.私たちの事情がどんなに悪くても、イエス様はこの世に戻り、すべてを癒してくださいます。

2.神様が私たちを愛しているので、私たちは何でも願い求めることができます。そして、聖霊様が私たちのためにとりなし、私たちに良いものだけを与えてくださいます。

3.神様はご自身の計画に従い、すべてのことを私たちの益となるように働かせてくださいます。

この三つの約束を心に留めるなら、イエス様の言葉はあなたの心により深く響くでしょう。

これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。

しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。(33)