私たちの父祖の神は、あなたがたが木にかけて殺したイエスを、よみがえらせました。
神は、イスラエルを悔い改めさせ、罪の赦しを与えるために、このイエスを導き手(別訳:支配者)、また救い主として、ご自分の右に上げられました。(使徒の働き5:30~31)
そして毎日、宮や家々でイエスがキリスト(すなわち、神様の油で注がれた王)であると教え、宣べ伝えることをやめなかった。(使徒の働き5:42)
昨日の記事では、私は「イエスは主」であることが福音の核心だと述べました。
最高法院の前での使徒たちの弁明や、イスラエルの民に対する日々の説教の中でも、そのテーマは一貫して続いています。
しかし、私はふと考えさせられました。私自身、どれほど簡単に、別のものに従い、そのものが心を支配することを許してしまうのか、と。
祭司たちやサドカイ派の者たちとは違い、私は嫉妬とあまり戦うことはありません。 けれども、プライドが私の心を治めてしまうときがあります。特に、自分が悪いと分かっていても、それを認めるのが遅くなることがあります。
また、アナニアとサッピラのように、周囲の人々の誉れを求めてしまうこともあれば、お金を愛する誘惑と戦うときもあります。
けれども、私はそれらが私の心を治めることを望んでいません。
私は心を王にささげ、その王が私を支配してくださることを願っています。
さらに、周囲の人々にも、主の良い支配のもとで歩む喜びを伝えたいのです(使徒の働き5:20)。
あなたはどうでしょうか。
主よ、私の心を治めてください。
