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詩篇

息のあるものはみな。。。

いよいよ最後の詩篇に入りましょう。詩篇150篇は、まことにふさわしい言葉で締めくくられています。

息のあるものはみな、主をほめたたえよ。(詩篇150:6)

どこで、私たちは神様をほめたたえるべきでしょうか。神様の天の聖所と、この地の聖所で賛美するべきです。

神様の聖所は教会の建物だけではないことを覚えておくべきだと思います。むしろ、クリスチャンとして、私たちは神様の聖所です。

神様が私たちの中に住んでおられるので、私たちは神様の聖所なのです。だから、私たちの人生は神様に対する賛美になるべきです。

どうして、私たちは神様をほめたたえるべきなのでしょうか。

一つ目の理由は、神様は偉大な方で、私たちの賛美に相応しい方であることです。

それに、神様は私たちの近くにおられ、私たちを愛しています。だから、神様はイエス様を私たちの罪のために死なせるために送ってくださいました。そして、自分の力によって、神様はイエス様をよみがえらせました。

それに、神様の御業はまだ続いています。今でも、神様は自分自身を表し、人々を救っています。

どのように神様をほめたたえるべきでしょうか。

大喜びをもって、ほめたたえましょう。トランペットや、弦の琴や立琴や、タンバリンや、フルートを演奏して、ほめたたえましょう。私たちの踊りでも、主をほめたたえましょう。

私はダビデのことについて考えます。彼が本当に張り切って、踊ったり歌ったりしたので、彼の奥さんは彼を責めました。

「あなたはバカのように踊った。全然王のようにふるまわなかった。」と言いました。

しかし、ダビデはこう返事しました。

私はその主の前で喜び踊るのだ。私はこれより、もっと卑しめられよう。私の目に卑しく見え【る】。(第二サムエル記6:21-22)

それが私たちの態度となるように。私たちはいつも神様を賛美し、賛美にふさわしい神様に向かって「ハレルヤ」と叫びましょう。

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詩篇

歌うとき、戦うとき

多くの人々にとって、詩篇149篇は気持ち悪く感じられる部分があるでしょう。特に6節以降は少し読みにくいでしょう。

この詩篇の前半では、詩人は人々に神様を賛美するように招きます。なぜなら、神様は私たちの創造主であり、私たちの神だからです。詩人は、楽器で神様を賛美し、また踊りをもって賛美しようと呼びかけます。

私は全然踊れませんが、人々が神様を踊りを通して賛美する様子を見ると、感動し、祝福されます。

また、神様を賛美するために人々が楽器を演奏するとき、私は神様に近づくことができます。私の教会では、プロのヴァイオリニストがよく演奏しており、その賛美の雰囲気は本当に素晴らしいです。

私自身、賛美の時間を楽しみますが、神様はもっと喜んでおられます。たとえ音痴でも、楽器が演奏できなくても、踊れなくても、あなたが賛美するときに、神様は喜ばれます。詩人はこう言います。

主は、ご自分の民を愛し、救いをもって貧しい者を飾られる。(詩篇149:4)

神様は私たちの才能よりも、私たちの心を喜ばれます。私たちが神様を愛し、賛美するとき、神様は喜ばれます。

また、私たちがへりくだって、神様に信頼するとき、神様は私たちを救いで飾ってくださいます。だから私たちは喜ぶべきです。私たちは神様から何も値しないのに、神様は私たちに永遠の命を与えてくださいます。

けれども、この詩篇の後半は、少し気持ち悪く感じるかもしれません。なぜなら、詩人は私たちに神様を賛美するように招き、その後、神様のために戦うように招くからです。つまり、神様に反抗する人々と戦い、神様の裁きを行うことです。

イスラエル人がカナンに着いたとき、そうしなければなりませんでした。

神様はカナン人が悔い改めるために何百年も待っておられましたが、彼らはさらに悪化しました。だから、彼らの罪が満ちたとき(創世記15:16)、神様はイスラエル人を裁きを行うために遣わされました。

もちろん、私たちはそのイスラエル人ではありませんが、この詩篇は私たちにとってどんな意味を持つのでしょうか。

私たちは霊的な戦争に入っていることを覚えておかなければなりません。しかし、私たちの敵は人間ではありません。むしろ、霊的な力が人々を用いています。

だから、私たちは人々と戦わずに、その背後にある霊的な力と戦っています。

そして、私たちの武器は刀ではなく、神様のみ言葉です。そのみ言葉は、

生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。(へブル4:12)

だから私たちは人々と戦わないのです。むしろ、彼らが救われるために私たちは戦います。

私たちのメッセージは裁きのメッセージであり、救いのメッセージです。

信じる人々に対し、私たちはイエス様の名前によって、神様の赦しを宣言する権利があります。

しかし、神様の言葉を拒絶する人々に対しては、私たちは裁きのメッセージを伝える権利があります。(ヨハネ20:23)

だから忘れないでください。もちろん、私たちは神様を賛美するように招かれました。けれども、私たちは戦うようにも招かれています。罪に迷った人々のために戦わなければなりません。

だから、戦いに走りましょう。

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詩篇

礼拝の招き

ワーシップ・リーダーのトミー・ウォーカーは、「All the Saints Join In

(すべての聖徒たちは参加しよう)という歌を歌っています。この歌は、詩篇148篇に基づいています。

詩篇148篇では、詩人がすべての被造物に神様を賛美するように呼びかけています。天使、太陽、月、鳥、地上の被造物、海の生き物、王たち、若者、年老いた人々までもが、神様を礼拝するように招かれているのです。

なぜでしょうか。

主の御名だけがあがめられ、その威光は地と天の上にあるからだ。(13)

つまり、神様はすべての栄光にふさわしい方です。もし神様の被造物に栄光があるのなら、神様にはどれほどの栄光があるでしょうか。だからこそ、神様は私たちの賛美にふさわしい方なのです。

しかも、

主は、その民の角を上げられた。主のすべての聖徒たち、主の近くにいる民、イスラエルの子らの賛美を。(14)

聖書において、角は力の象徴です。ですから、私たちが打ち倒される時にも、神様は私たちのそばにいて、私たちを強め、救い出してくださいます。

ダビデ自身もそのような経験をしました。また、イスラエルの民がバビロンに追放された時にも、彼らは神様の救いを経験しました。

現代においても、神様はイスラエルの民に再び国を与えてくださいました。

最も良い例は、私たちが罪のゆえに地獄に値する者であった時、神様が私たちを愛し、救うためにイエス様を送ってくださったことです。イエス様は、私たちの救いの角なのです。(ルカ1:69)

イエス様はこの世におられた時、神様を現し、十字架の上で私たちの罪のための罰を受けてくださいました。ですから、イエス様の御業によって、私たちは赦され、新しい命をいただいたのです。

神様はまことに、私たちの賛美にふさわしい方です。ですから、すべての被造物と共に、神様を賛美しましょう。

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詩篇

神様を信頼するとき

詩篇146篇では、神様が私たちの信頼にふさわしい方であることが示されています。この詩篇は、神様に信頼することの結果を私たちに教えています。

イスラエルの民は長い間神様に背き、信頼することを怠ってきました。むしろ、自分自身や偽りの神々、周囲の国々に頼っていたのです。その結果、国は崩れてしまいました。

しかし、エズラ、ネヘミヤ、ハガイ、ゼカリヤのリーダーシップのもとで、彼らは再び神様に立ち返り始めました。こうして、癒しのプロセスが始まったのです。

向かい始めました。だから、癒しのプロセスが始まりました。

詩人はこう書きました。

主はエルサレムを建てイスラエルの追い散らされた者を集める。

主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む。(詩篇147:2-3)

そして、詩人はイスラエルの民に、神様の偉大さを思い起こさせました。また、なぜ神様が私たちの賛美にふさわしい方であるのかを思い起こさせます。それは、神様がすべてのものを造り、支えておられるからです。(5–9)

また、詩人はイスラエルの民に、神様が人間や動物の力に心を動かされることはないと教えています。むしろ、

主を恐れる者と御恵みを待ち望む者とを主は好まれる。(11)

だから、詩人はイスラエル人を励まします。

「あなたの人生において、神様をほめたたえましょう。神様が私たちの門を強め、私たちを祝福し、平和を与え、必要を満たしてくださることを心に留めておきましょう。」

そして、詩人は彼らに、神様がほかの国々にはご自身を現さず、イスラエルにだけご自身を現して祝福してくださったことを思い起こさせます。

しかし、ヘブル人への手紙の著者によれば、神様は預言者たちだけを通してご自分を現されませんでした。今はイエス様を通して、神様はご自分を現してくださいます。だから、私たち皆はイエス様を通して、神様に近づくことができます。

また、神様はイエス様にあって人間となられたので、私たちをよく理解でき、私たちに対して情け深いです。

だから、その確信を持って、神様に近づきましょう。私たちは神様を信頼しましょう。そうすれば、癒しと祝福、そして平和を見いだすことができます。

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詩篇

私たちの信頼にふさわしい神

多くの場合、私たちは人々にがっかりさせられます。私たちは彼らの助けと励ましを期待しますが、結局彼らはそうしてくれません。

だから、詩人はこう書きました。

君主たちにたよってはならない。救いのない人間の子に。(詩篇146:3)

イスラエルの歴史の中で、彼らは敵に脅されたとき、神様の助けを求めずに、周りの国々の助けを求めました。

その結果は何でしたか。その国々はイスラエルを裏切りました。または、彼らは最終的にイスラエルを助ける力がありませんでした。

だから、その時代の預言者たちのように、詩人はこう言いました。

幸いなことよ。ヤコブの神を助けとし、その神、主に望みを置く者は。

主は天と地と海とその中のいっさいを造った方。とこしえまでも真実を守り【ます】。(詩篇146:5-6)

しかし、神様は王たちやその王国だけを見守っておられるわけではありません。神様はご自身を愛する、苦しんでいる人々のことも見守っておられます。

神様は、抑圧されている人々、飢えている者、囚人、盲人、在留異国人、やもめ、みなしごと共におられます。彼らが苦しむことがあっても、神様は決して彼らを見捨てることはありません。そして、彼らの必要に備えてくださいます。

以前も述べたように、神様は無限の方であるだけでなく、私たちと共におられ、私たちを愛してくださいます。

ですから、あなたが苦しんでいる時も、そうでない時も、この無限であり、私たちを愛しておられる神様に近づきましょう。

そして、イザヤの言葉を心に留めておきましょう。

[神様]を信じる者は、あわてることがない。(イザヤ28:16)


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詩篇

私たちの無限の神、私たちに近い神

ある日、私はA Praying Lifeという本を読みました。残念ながら英語版しかありませんが、英語ができるなら、ぜひ読んでみてください。私は本当にその本をお勧めします。

とにかく、その本では、著者は神様の本質の二つについて話します。

一つ目は、神様が無限の方であることです。

二つ目は、神様が私たちに近い方であることです。

神様について考えるとき、両方のことを覚えていなければなりません。そうしないと、私たちの祈りは影響を受けます。

もし神様が無限の方であることを忘れたら、私たちの心の中で神様の力を制限してしまいます。もちろん、神様は何でもできるのですが、私たちがそう思わないなら、祈ることができません。

その反面、もし私たちが神様が私たちに近く、私たちを本当に愛していることを忘れたら、私たちは祈りません。なぜなら、「神様はこの小さいことに興味がないだろう」と思い始めるからです。

しかし、神様は私たちの人生の細かいことにも興味を持っておられます。そう思わないなら、もう一度詩篇139篇を読んでください。

詩篇145篇では、ダビデが両方のことを覚えていたことが分かります。最初に、彼は神様の偉大さについて歌います。

主は大いなる方。大いに賛美されるべき方。その偉大さを測り知ることができません。

代は代へと、あなたのみわざをほめ歌い、あなたの大能のわざを告げ知らせるでしょう。

私は栄光輝くあなたの主権と、あなたの奇しいわざに思いを潜めます。(詩篇145:3-5)

けれども、何度も、彼は私たちに対する神様の愛について歌います。

主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵みに富んでおられます。(8)

また9節です。

主はすべてのものにいつくしみ深く、そのあわれみは、造られたすべてのものの上にあります。(9)

そして13-16節で、彼はこう歌います。

あなたの王国は、永遠にわたる王国。あなたの統治は、代々限りなく続きます。

主は倒れる者をみなささえ、かがんでいる者をみな起こされます。

すべての目は、あなたを待ち望んでいます。あなたは時にかなって、彼らに食物を与えられます。

あなたは御手を開き、すべての生けるものの願いを満たされます。(13-16)

また、18-20節で、彼はこう歌います。

主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられる。

また主を恐れる者の願いをかなえ、彼らの叫びを聞いて、救われる。

すべて主を愛する者は主が守られる。(18-20)

ダビデはそのことをすべて信じたので、この詩篇の最初で、彼はこう叫びました。

私の神、王よ。私はあなたをあがめます。あなたの御名を世々限りなく、ほめたたえます。

日ごとにあなたをほめたたえ、あなたの御名を世々限りなく賛美します。(詩篇145:1ー2)

あなたはどうでしょうか。神様が無限の方であることを信じていますか。神様があなたの人生に立ちはだかる山に取り組むことができると信じていますか。また、神様があなたの敵に向き合うことができると信じていますか。

そして、神様があなたを愛しておられるゆえに、あなたを助けてくださるという確信がありますか。

神様の無限のご性質と深い愛を、決して忘れることのないようにしましょう。

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詩篇

勝利を与えてくださる神

多分、戦いの前に、ダビデは詩篇144篇を書いたでしょう。けれども、興味深いことは、ダビデがこの詩篇を賛美の言葉で始めたことです。

大変な状況に直面するとき、私たちは普段最初に、「神様、助けてください」と祈ります。しかし、ダビデはこう歌いました。

ほむべきかな。わが岩である主。主は、戦いのために私の手を、いくさのために私の指を、鍛えられる。(詩篇144:1)

私はこの歌を読むと、ヨシャパテの話を思い出します。彼が戦うとき、兵士たちの前に歌手たちを送りました。そして、彼らはこう歌いました。

主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。(歴代誌第二20:21)

この詩篇にも、ダビデは戦うときに、神様に対する信仰を言い表しました。自分の軍隊や盾に頼らずに、神様に頼りました。彼はこう歌いました。

主は私の恵み、私のとりで。私のやぐら、私を救う方。私の盾、私の身の避け所。私の民を私に服させる方。(詩篇144:2)

そして、8篇のように、ダビデはどうして神様が彼を愛しているのかを思い、驚きました。

彼は神様の愛を確信し、神様が戦いの中で彼を助けてくださることを願いました。また、神様が彼を敵から救い、彼の民に平安と繁栄をもたらしてくださるように祈りました。

そして、彼はこう歌って、この詩篇を終えました。

幸いなことよ。このようになる民は。幸いなことよ。主をおのれの神とするその民は。(15)

あなたはどんな戦いに直面しているでしょうか。職場や学校や家庭でも、戦いがあるかもしれません。

一日の始まりに心配事を考えず、まず神様を賛美しましょう。神様があなたを愛していることを覚え、その知識に安心しましょう。

もし、あなたの周りに争いがあれば、神様の平和があなたを通して流れるように祈りましょう。

そして、その戦いがあなたに対しても、周りの人々に対しても、さらに敵に対しても、祝福となるように祈りましょう。

なぜなら、私たちの敵は本当の敵ではないからです。イエス様は彼らのためにも死んでくださったのです。

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詩篇

どこに向かうか

私たちは困った時に、どこに向かうでしょうか。人々が私たちに反対するとき、私たちは助けを得るためにどこに行くでしょうか。ダビデは何度も自分にその質問をしなくてはなりませんでした。

ダビデも多くの人々のように、自分自身に頼ることができたでしょう。自分の力や知恵に頼ることができたでしょう。

しかし、彼は神様に向かいました。彼はこう祈りました。

主よ。私の祈りを聞き、私の願いに耳を傾けてください。あなたの真実と義によって、私に答えてください。(詩篇143:1)

暗闇の中で、自分の失望から、彼は叫びました。

私に行くべき道を知らせてください。私のたましいはあなたを仰いでいますから。

主よ。私を敵から救い出してください。私はあなたの中に、身を隠します。

あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから。あなたのいつくしみ深い霊が、平らな地に私を導いてくださるように。(詩篇143:8-10)

どれほど私たちは神様に頼らず、自分の力で問題に取り組もうと思うでしょうか。どれほど私たちは神様の言葉を聞かず、自分の知恵に頼るでしょうか。

ダビデはそうしませんでした。むしろ、彼は神様に何をすべきか尋ね、神様の知恵に頼りました。また彼は聖霊様の導きに従いました。

ヤコブはこう言いました。

あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。(ヤコブ1:5)

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詩篇

自分の嘆きを神様の前に注ぎ出す

以前、詩篇57篇と一緒にこの詩篇について話しましたが、今回は詩篇142篇だけについて話したいと思います。

ダビデがこの詩篇を書いたとき、サウルかアブサロムから逃げて洞穴に隠れていました。だから、ダビデは牢に入っているように感じていました。(詩篇142:7)

洞穴から彼は神様に叫びました。

私は御前に自分の嘆きを注ぎ出し、私の苦しみを御前に言い表わします。(詩篇142:2)

彼は本当に苦しんだので、時々彼のトラブルを大げさに言いました。彼はこう言いました。

私の右のほうに目を注いで、見てください。私を顧みる者もなく、私の逃げる所もなくなり、私のたましいに気を配る者もいません。(4)

実は、ダビデの周りには彼の兵隊たちがいました。彼らはダビデを愛し、本当に忠実でした。

また、ダビデがサウルから逃げたとき、親友(また、サウルの息子)ヨナタンはダビデを見つけて、励ましました。

また、ダビデがアブサロムから逃げたとき、他の親友がダビデを助け、アブサロムの計画を無にしました。

時々、私たちが試練に直面するとき、実際よりも状況を悪く考えることがあります。だから、文句を言ったり、自分の問題を大げさに言ったりします。

しかし、私たちがそうしても、神様は私たちをよく理解しておられます。だから、嘆きを注ぐとき、神様は私たちを責めずに、憐れみを注いでくださいます。

ダビデは、神様が彼を受け入れておられることを知っていたので、神様に正直に祈ることができました。

そして、神様が彼と共にいて、素晴らしい計画を持っておられることを知っていたので、ダビデはこう歌いました。

私の霊が私のうちで衰え果てたとき、あなたこそ、私の道を知っておられる方です。(3)

また、

あなたは私の避け所、生ける者の地で、私の分の土地です。(5)

だから、試練に直面するとき、ダビデのように、自分の嘆きを神様の前に注ぎ出しましょう。神様があなたを責めないことを心に留めておきましょう。

また、神様が私たちのために計画を持っておられる確信を捨てないようにしましょう。もし神様が私たちと共におられるなら、私たちは乏しいことがありません。

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私にかかわる計画を成し遂げてくださる神

詩篇137篇は少し憂鬱な詩篇でしたが、138篇は励ましてくれる詩篇です。なぜなら、この詩篇では、詩人(ダビデ)が神様に焦点を当てているからです。

ダビデがこの詩篇を書いた時期ははっきりしませんが、多分王になった後に書いたと思われます。

この詩篇を書きながら、彼は自分の人生や、神様が彼をどのように守り導いてくださったかを振り返っていたかもしれません。

彼はこのように歌い始めました。

私は心を尽くしてあなたに感謝します。天使たちの前であなたをほめ歌います。 (詩篇138:1)

どうしてダビデは神様をほめたたえたのでしょうか。それは、ダビデに対する神様の恵みとまことのためです。

つまり、ダビデが苦しんで神様に叫んだとき、神様は天から手を伸ばして助けてくださいました。

また、ダビデが殺されると思ったとき、神様は彼に勇気を与えてくださいました。

だから、ダビデが振り返ったとき、神様の偉大さと忠実さを見ることができました。神様はダビデに対するすべての約束を守りました。

だから、ダビデはこう歌いました。

主よ。地のすべての王たちは、あなたに感謝しましょう。彼らがあなたの口のみことばを聞いたからです。

彼らは主の道について歌うでしょう。主の栄光が大きいからです。(4-5)

また、神様の忠実さによって、ダビデは確信を持ってこう言いました。

主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます。主よ。あなたの恵みはとこしえにあります。(8)

あなたは疑いと戦っているでしょうか。迷って、神様に捨てられたと思いますか。

あなたの人生を振り返り、神様のあなたに対する忠実さを思い出してください。イエス様が十字架であなたのために何をしてくださったかを思い出してください。

あなたをキリストに導いてくれた人々のことを思い出してください。また、あなたがイエス様に出会った時の状況を思い起こしてください。そして、神様がその時から今日までしてくださったことを思い出してください。

その同じ神様は今でもあなたと共におられます。神様はあなたを見捨てられなかった。私たちがどんなに失敗しても、神様の恵みはとこしえにあります。

そして、「主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます。」

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私たちを試みに会わせないように

詩篇140篇では、主の祈りのように、ダビデは「悪からお救いください」と祈りました。

詩篇141篇も、主の祈りに似ている点があります。この詩篇では、ダビデは祈りました。

私たちを試みに会わせないように。(マタイ6:13)

特に、ダビデはこう祈りました。

主よ。私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守ってください。

私の心を悪いことに向けさせず、不法を行なう者どもとともに、悪い行ないに携わらないようにしてください。私が彼らのうまい物を食べないようにしてください。(詩篇141:3-4)

ダビデは二つのことを気にしました。つまり、彼の言葉と思いを気にしました。

最初に、彼は祈りました。「私の口から悪い言葉が出ないように」

多くのクリスチャンは口の罪と戦います。彼らは文句を言ったり、噂をしたり、人々を傷つけたりします。私もそんな罪と戦います。時々その誘惑に負けてしまうこともあります。

でも、ダビデは自分の思いも気にしました。彼は祈りました。「私の心を悪いことに向けさせないように。私は悪者の生活を見たら、彼らをねたまないように。」

もし私たちが罪について考えて、悪者をねたんだら、罪に落ちるのは簡単なことです。

イエス様は私たちの思いについて注意を促されました。イエス様が言ったのは、もし私たちが心の中で兄弟に対する怒りを抱いたら、心の中で彼らを殺したのと同等であるということです。(マタイ5:21-22)

また、

だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。(マタイ5:28)

神様は私たちの行いだけでなく、私たちの心や思いも気にされます。ダビデはそのことを知っていたので、神様に彼の口と心を守ってくださるように祈りました。

そして、彼は謙遜な態度と柔らかい心のために祈りました。彼はこう祈りました。

正しい者が愛情をもって私を打ち、私を責めますように。それは頭にそそがれる油です。私の頭がそれを拒まないようにしてください。(詩篇141:5)

私たちの多くは、責められるのが嫌いです。でも、ダビデは、それを注がれる癒しの油のように受け入れました。

ダビデがバテ・シェバの夫を殺し、彼女と結婚したとき、預言者ナタンは彼を厳しく責めました。ダビデにとって、その言葉は本当に苦しかったと思います。

しかし、彼はその言葉を受け入れて、悔い改めました。だから神様は彼を赦してくださいました。

これは誘惑と戦うカギの一つです。私たちは神様の懲らしめを受け入れなくてはなりません。神様が私たちを責めるとき、私たちは柔らかい心が必要です。そして、悔い改めなくてはなりません。

この詩篇の終わりで、ダビデはもう一度、神様が彼を敵から救い出すように祈ります。

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。(マタイ6:13)

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悪からお救いください

そろそろ、詩篇の学びを終えると思います。これまで4か月ほどかかり、あと2週間ほどかかると思います。

とにかく、詩篇140篇を読むとき、私は主の祈りを思い出します。

イエス様は私たちにこのように祈るべきだと教えました。

悪からお救いください。(マタイ6:13)

この詩篇では、ダビデはそのように祈りました。実は、141篇から144篇まで、ダビデはそのように祈りました。

おそらく、ダビデがサウルかアブサロムから逃げたときに、この詩篇を書いたと思います。彼はこう祈った。

主よ。私をよこしまな人から助け出し、暴虐の者から、私を守ってください。

彼らは心の中で悪をたくらみ、日ごとに戦いを仕掛けています。

蛇のように、その舌を鋭くし、そのくちびるの下には、まむしの毒があります。セラ

主よ。私を悪者の手から守り、暴虐の者から、私を守ってください。彼らは私の足を押し倒そうとたくらんでいます。

高ぶる者は、私にわなと綱を仕掛け、道ばたに網を広げ、私に落とし穴を設けました。(詩篇140:1-5)

ダビデは本当に大変な状況に陥っていたようです。人々が彼を殺そうとしたので、彼は何度も「私を敵から助け出してください」、「私を守ってください」と祈りました。

けれども、彼のトラブルの中で、私たちは神様に対するダビデの信仰を見ることができます。彼は祈りました。

私は主に申し上げます。「あなたは私の神。」(6)

また、

私の主、神、わが救いの力よ。あなたは私が武器をとる日に、私の頭をおおわれました。 (7)

そして、ダビデは神様が正義によって敵を裁くように祈りました。その後、彼はこう祈りました。

私は知っています。主は悩む者の訴えを支持し、貧しい者に、さばきを行なわれることを。

まことに、正しい者はあなたの御名に感謝し、直ぐな人はあなたの御前に住むでしょう。(12-13)

あなたはダビデのように試練を経験しているかもしれません。周りの人々はなぜかあなたを憎み、あなたを倒そうとしているかもしれません。

しかし、ダビデのように、その問題を神様に任せてください。正義を神様の手に委ねてください。そして、ダビデのように、私たちの敵に憐れみを与えてください。

あなたが今、攻撃されていないかもしれませんが、私たちが霊的な戦いに入っていることを覚えていてください。私たちに対する悪意を持つ霊的な力があり、彼らは私たちを滅ぼしたがっています。

イエス様はそれを知っていたので、私たちに「悪からお救いください」という祈りを教えてくださいました。

だから、私たちはそのように祈るべきです。私たちは壊れた世界に住み、私たちの周りにはたくさんの壊れた人々がいます。サタンはまだこの世にいて、機会があれば私たちを攻撃します。

だから、目を覚まして祈りましょう。

しかし、自分自身を守るだけでなく、サタンの国を攻撃してください。人間は私たちの敵ではありません。サタンは私たちの敵です。だから、神様がこの世の民を救い出すように、福音を宣べ伝えてください。

私たちに与えられた鎧は私たちの背中を守るためではなく、私たちの前を守るためであることを覚えていてください。

だから、神様について行って、前進してください。

古い讃美歌があります。日本語のタイトルは「見よや十字架」のですが、英語はちょっと違います。英語ではこう書いてあります。

クリスチャンの兵隊たちよ。
戦うために行進せよ。
イエス様の十字架は私たちの旗で、
その旗についていく。

キリストは私たちの王、私たちの主。
キリストは敵を戦うのに私たちを導いておられる。

その戦いに行進せよ。
キリストの旗を見て、戦おう。

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私を知っておられる神、私を愛しておられる神

詩篇139篇は本当に有名な詩篇です。多くの人々が23篇と139篇が大好きだと思います。

どうして、この二つの詩篇は親しまれるでしょうか。なぜなら、それらは神様の愛をはっきりと表しているからです。

実は、あなたの視点によって、この詩篇は怖いかもしれません。

アメリカでは、たくさんの人々が「お兄さん」について心配しています。「お兄さん」というのは、政府が、衛星やほかのテクノロジーを通して、私たちを見ていることです。

しかし、神様は私たちの政府よりも有能な方です。私たちが出かけても、リビングにいても、神様は私たちを見てくださいます。

神様は私たちのすべての行動を知っておられます。私たちは暗い所でも隠れることができません。そして、私たちがどこに行っても、神様から逃げられません。

それに、神様は私たちの携帯電話の話も知っておられます。私たちが家にいても、職場にいても、神様は私たちのすべての言葉を知っておられます。

もし、私たちが神様ににらまれたら、それは怖いことでしょう。もし神様が私たちを罰するために待っておられるなら、それは怖いことでしょう。

けれども、神様は愛深く憐み深い目で私たちを見てくださいます。私たちが母のお腹の中にいたとき、神様は私たちを見守っておられました。その子宮の中で、神様は私たちを組み立ててくださいました。

そして、私たちを造っておられる間に、神様は私たちのために夢と計画をお持ちでした。神様は私たちについてずっと考えておられました。ダビデはこう言いました。

神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。その総計は、なんと多いことでしょう。

それを数えようとしても、それは砂よりも数多いのです。(詩篇139:17-18)

それに、神様がこの世界を造る前に、神様は私たちが何をするか、私たちの選択も知っておられたので、そのすべてを神様の計画に織り込みました。

神様は決して驚かれることがありません。神様はプランBの必要がありません。プランAだけがあります。そして、神様の計画は初めから決して変わることがありません。

だから、私たちが何をしても、また、どんなに失敗しても、私たちに対する神様の思いは決して変わりません。神様はご自身の計画に私たちの良い行動も悪い行動も織り込みます。

だから、私たちにとっては一つの質問しかありません。私たちは喜んで神様の計画に参加するでしょうか。それとも、私たちは神様と戦うでしょうか。

もし、神様と戦うなら、神様は私たちの行動を神様の計画に織り込みますが、私たちは苦しむことになります。

ダビデはその選択肢を知っており、神様に従うことを選びました。

彼の言葉は厳しいかもしれませんが、神様が罪を憎んでおられることを知っていたので、ダビデも罪を憎みました。だから、ダビデは罪を犯したがらなかったし、罪人と付き合いたがらなかったのです。

むしろ、彼は神様の前に清い心を保ちたがり、神様を喜ばせたがりました。だから、彼はこう祈りました。

神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。

私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(23-24)

主よ。あなたが私を知って、愛してくださり感謝します。

私が母の胎にいるときに、あなたは私をもう知っていて、計画を持っておられました。

あなたの目的のために私を用いてください。私の人生はあなたのものです。私がどこに行っても、私が何をしても、私を導いてください。

私が変わらなくてはならないところを変えてください。私の罪を取り除き、清めてください。そして、とこしえの道に導いてください。アーメン。

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詩篇

自己憐憫に浸る

これは本当に憂鬱な詩篇です。多分、詩人はバビロンに追放されたときに詩篇137篇を書いたのでしょう。

この詩篇では、詩人はバビロンの川のそばに座り、立琴を持っていたけれど、エルサレムの没落を悩んでいたので、もう弾く気がなくなりました。

むしろ、彼は、その立琴を柳の木々に掛けて、エルサレムの没落を嘆きました。

そして、あるバビロン人が来て、彼をからかいます。「おい。歌えよ。エルサレムの歌を聞いてみたい。」

しかし、詩人は拒絶して答えました。

「一体どうしてそんな歌を歌えるでしょうか。エルサレムは滅びたので、私はエルサレムについて喜びの歌を歌えません。私がそうする前に、私の右手がその巧みさを忘れるように。また私が歌えなくなるように。」

そして、彼はバビロンとエドムを呪います。どうしてでしょうか。

エドム人の先祖エサウがイスラエル人の先祖ヤコブのお兄さんだったのに、エルサレムが没落したとき、エドム人は喜びました。

そしてバビロン人はイスラエル人の子供たちを殺し、さまざまな酷いことを犯しました。

だから、詩人は彼らを呪って、バビロン人とエドム人に対してそのようなことが起こるように願いました。

どれぐらい、私たちはそのように感じるでしょうか。自分の罪のため、私たちは苦しんで落ち込んでいます。時々、私たちの家族でも、私たちをからかい、私たちの敵は笑って、「あなたの神はどこだろう」と聞きます。

どうやって、私たちは反応すべきでしょうか。

私たちには選択肢があります。私たちは自己憐憫に浸り、私たちが失ったものを嘆き、苦々しい思いに負けることができます。けれども、そうすれば、私たちは霊的に、また肉的に枯れます。

それとも、ダニエルとネヘミヤのように、神様に向かって、悔い改めることもできます。そうすれば、神様は私たちの壊れた人生を癒してくださいます。そして、もう一度私たちは神様からの喜びを知ります。

あなたはどうするでしょうか。どの選択肢を選ぶでしょうか。

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詩篇

神様の慈しみと恵みを覚えている

1節の言葉は詩篇136篇の要約です。

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。 (詩篇136:1)

この詩篇はイスラエルに対する神様の慈しみと恵みについてです。しかし、この詩篇を通して、私たちは神様がどんな方であるか分かります。

詩人は詩篇135篇のテーマを続け、神様を神の神と、主の主と呼びます。(2-3)

そして、詩人は神様を創造主として認めます。つまり、神様がご自身の知恵と力によって、天と地とすべてのものを造られたことを認めます。(4-9)

そして、詩人は神様を贖い主として礼拝します。なぜなら、神様はイスラエル人たちをエジプトから救い出し、エジプトの軍隊を打倒し、紅海を二つに分け、イスラエル人たちをその中を通らせたからです。(10-15)

そして、詩人は神様を羊飼いと比べます。イスラエル人たちが砂漠を渡った時に、神様は彼らを導き、彼らのニーズに備えてくださいました。(16-22)

そのあとで、詩人は神様を勇士として礼拝します。なぜなら、神様はイスラエル人たちを約束の地に導いたとき、その敵を倒して、その地を遺産として与えてくださったからです。(17-22)

23-25節では、詩人は神様を恵みと憐みの神として宣言します。

イスラエル人たちが卑しめられたとき、神様は彼らを敵の手から救い出してくださいました。また、神様はイスラエル人たちのニーズだけではなく、すべての人間と動物のニーズに備えてくださいます。

最後に、詩人は神様を天の主として認めます。神様はすべてを治める方です。(26)

以前、私は皮肉の危険について話しました。皮肉に対する武器の一つは感謝の態度です。つまり、私たちは神様がどんな方であるか、また神様が私たちのために何をしてくださったかを覚えるべきです。

時々、私たちはこの世における神様の行いが分からないこともありますが、神様がすべてのことをコントロールしていることを覚えていなくてはなりません。

また、神様がどのように私たちをサタンの国から救い出したかを思い出すべきです。

今でも、神様はこの世で巡礼している私たちを、神様が私たちのために整えた国に導いてくださいます。

また、私たちが霊的な力と戦うときに、神様が私たちの勇士であることを覚えていなくてはなりません。

そして、私たちが転ぶとき、神様が憐れみと恵みを私たちに与えてくださって、私たちを拾い上げてくださることを覚えているべきです。

毎日そのことを思い出しましょう。そのことに焦点を当てましょう。そして希望を持って、詩人のように歌いましょう。

「その恵みはとこしえまで。」

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詩篇

神の神

134篇のように、この詩篇は私たちを神様を礼拝するように招きます。また、詩篇135篇は115篇に似ているところもあります。

この詩篇のテーマは、神様が偉大な方で、ほかの(偽の)神々が神様と比べられないということです。

5節で詩人はこう歌います。

まことに、私は知る。主は大いなる方、私たちの主はすべての神々にまさっておられる。 (詩篇135:5)

そして、彼は神様がどのようにほかの神々よりも勝っているかを説明します。

つまり、神様は全能の主で、すべての被造物を支配しておられます。また、イスラエル人たちを救うために、神様はエジプトとその神々を倒し、さらに二人の王たちを倒してくださいました。

そして、詩人は神様を周りの国々の偶像と比べます。

神様はすべての被造物を造られましたが、偶像は人間の作品です。

偶像は目がありますが見ることができませんし、耳がありますが聞こえませんし、口がありますが息できませんし話せません。だから、詩人はその自分の手で作ったものを礼拝する人々をからかいます。

これを造る者もこれに信頼する者もみな、これと同じです。 (18)

そして、詩人はすべての人々をすべてを治める神様を礼拝するように招きます。

けれども、私が気に入ったところは4節です。

まことに、主はヤコブを選び、ご自分のものとされ、イスラエルを選んで、ご自分の宝とされた。 (4)

神様はヤコブとイスラエルを選び、ご自分のものとされ、またご自分の宝とされました。今でも、多くのイスラエル人たちがイエス様を拒絶しているけれど、神様は彼らを諦めていません。

パウロはイスラエルに関してこう言いました。

神の賜物と召命とは変わることがありません。 (ローマ11:29)

神様はイスラエルを捨てないが、神様はイエス様を信じる方々を見るとき、私たちに関しても、イスラエルに対する同じ言葉を言われます。

つまり、ペテロは私たちについてこう言いました。

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。

それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。 (第一ペテロ2:9)

なぜ神様は私たちを選び、ご自分の民とされたのでしょうか。それは、私たちが周りの人々に神様の素晴らしいみわざを宣べ伝えるためです。

そうすれば、彼らも闇の中から出て、神様の驚くべき光に行くように招かれます。

だから、詩人は私たちにこう言います。

イスラエルの家よ。主をほめたたえよ。アロンの家よ。主をほめたたえよ。

レビの家よ。主をほめたたえよ。主を恐れる者よ。主をほめたたえよ。

ほむべきかな。主。シオンにて。エルサレムに住む方。ハレルヤ。(詩篇135:19ー21)

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詩篇

礼拝する心を保つこと

これは最後の都上りの歌です。もしかしたら、イスラエル人たちはエルサレムへの巡礼が終わって、帰る時にこの歌を歌ったかもしれません。

帰る時、彼らは夕方にまだ宮で働く人々にこう歌ったかもしれません。

さあ、主をほめたたえよ。主のすべてのしもべたち、夜ごとに主の家で仕える者たちよ。

聖所に向かってあなたがたの手を上げ、主をほめたたえよ。(詩篇134:1-2)

彼らは祭司たちとレビ人に、怠けずに注意をし続け、主を礼拝し続け、主に仕え続けるように励ましました。

あるレビ人たちは歌う役割があって、昼となく夜となくその仕事に携わりました。(歴代誌第一9:33)

もしかしたら、イスラエル人たちはそのレビ人たちにその言葉を歌ったかもしれません。

とにかく、私たちが覚えているべきなのは、神様についてよく考えるべきだということです。

時々、私たちの考え方は皮肉っぽくなるので、その考え方が私たちの祈りに影響を与えてしまいます。私たちは神様の愛を忘れます。神様の良さを疑い始めます。

だから、祈る価値があるかどうかを疑います。そして、私たちは神様からもっと離れるように感じます。

けれども、感謝の心を持てば、神様がどんな方であるかを覚えていて、また神様の良さを覚えていたら、皮肉があなたの魂を毒することはありません。

神様の民として、私たちは神様の祭司です。しかし、皮肉っぽい祭司が本当に酷いものであることを覚えていてください。

あなたはどうですか。皮肉な態度はあなたの魂を毒しているでしょうか。皮肉はあなたのこの世に対する態度や、あなたの人生に対する態度を毒しているでしょうか。

もう一度私たちの思いを神様中心にしましょう。神様の良さに焦点を当ててください。神様のあなたに対する愛に焦点を当ててください。神様があなたのためにしてくださったことに焦点を当ててください。

感謝の態度を取りましょう。そうすれば、あなたの皮肉な態度はなくなって、あなたの喜びは戻ります。

巡礼者が帰る時、祭司たちはこう叫びました。

天地を造られた主がシオンからあなたを祝福されるように。(3)

この巡礼で、神様があなたにすべての霊的な祝福を与えてくださるように。神様があなたの皮肉な心を清めて、あなたの心に喜びを満たしてくださるように。

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詩篇

一致

イスラエル人たちはエルサレムに巡礼したとき、彼らは教会に対して大切なことについて歌いました。つまり、一致です。ダビデはこう歌いました。

見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。(詩篇133:1)

キリストの教会で、一致は本当に美しいものです。その反面、闘争や争いは教会の染みです。

人々が初めて教会に行って、キリストの愛によって一致している人々を見ると、彼らは興味が湧いてきて、イエス様とその教会について、もっと知りたいと思うでしょう。

しかし、もし彼らが入る時、文句やゴシップを聞いたり、苦々しい心を持っている人々を見るなら、彼らはすぐに逃げようと思います。彼らはとても悪い印象を受けて、尋ねます。

「教会の人々はこの世界の人々とどう違うだろうか。」

だから、イエス様は弟子たちにこう言われました。

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。

互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。(ヨハネ13:34-35)

そして、イエス様は教会のためにこう祈ってくださいました。

それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。

そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。(ヨハネ17:21)

キリストの教会が一致していれば、周りの人々は私たちの中にキリストを見て、神様とその祝福を知るようになります。それに、教会の人々も神様の祝福を知ります。

ダビデはこう書きました。

それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。(詩篇133:2)

その油は祭司たちのためのものでした。オリーブ油は液体の没薬、かおりの強い肉桂、におい菖蒲、桂枝と混じりました。(出エジプト30:22-24)

ダビデが言ったのは、祭司にとっては(アロンはイスラエルの最初の大祭司でした)、一致はその油で注がれたようです。

現代でも、牧師たちはキリストにあって一致した教会を見ると、喜びます。教会のメンバーたちがキリストが命令したように愛し合ったり、仕え合ったりすると、牧師たちは本当に嬉しいです。

それに、油は聖霊の象徴です。人々は聖霊に導かれたら、一致に導く聖霊の実を結びます。それは愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、そして自制です。(ガラテ書5:22-23)

一致した教会はそのような実を結びます。

そして、ダビデはこう歌います。

それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。(詩篇133:3a)

ヘルモンの山がシオンの山々よりも高かったので、シオンはヘルモンからの露を受けました。その露はシオンをすっきりさせて、清めました。

一致とはそのようなものです。一致によって人々はすっきりした感じがあり、神様の手に触れられて、清められます。

だから、ダビデはこう歌います。

主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。(3b)

キリストにあって一致した教会は神様に祝福されています。そして、その人々は神様からの命を知ります。

あなたはどんな教会に行っているでしょうか。

実を結ぶ一致した教会に行っているでしょうか。もしくは闘争で満ちる教会に行っているでしょうか。

あなたは教会を建てていますか。もしくは、教会を取り壊していますか。

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詩篇

ご自身の約束を守ってくださる神

これは興味深い詩篇です。つまり、この詩篇の前半は神様に対する祈りですが、後半は神様の答えです。他の詩篇にそのパターンがあったのか、私は今思い出せません。

この詩篇も都上りの歌です。そして、イスラエル人たちはエルサレムに巡礼するとき、この歌を歌って、神様がご自身のダビデに対する約束を覚えるように祈ります。要するに、ダビデの子孫がいつも治めるように祈りました。

そして、彼らは神様の宮を建てるダビデの願いを思い出して、エルサレムに上がった時、礼拝する喜びを言い表しました。彼らはこう歌いました。

さあ、主の住まいに行き、主の足台のもとにひれ伏そう。(詩篇132:7)

そして、彼らは神様にこう祈りました。

主よ。立ち上がってください。あなたの安息の場所に、お入りください。あなたと、あなたの御力の箱も。

あなたの祭司たちは、義を身にまとい、あなたの聖徒たちは、喜び歌いますように。(8-9)

つまり、「私たちと共にいてください。あなたの祭司たちは聖くなりますように。また、私たちにあなたの喜びで満たしてください。」

私たちは礼拝するとき、そのような態度を取るべきです。神様が私たちと共にいて、神様の祭司が私たちを清め、私たちを喜びで満たしてくださるように祈るべきです。

イスラエル人たちの祈りを聞いた後、神様はその祈りに応えてくださいました。

神様は、シオンで彼らに会うと約束されました。シオンに関して、神様はこう言われました。

これはとこしえに、わたしの安息の場所、ここにわたしは住もう。わたしがそれを望んだから。

わたしは豊かにシオンの食物を祝福し、その貧しい者をパンで満ち足らせよう。(14-15)

それに、神様は彼らの他の願いに叶ってくださいました。神様はその祭司たちに救いを着せたし、イスラエル人に大喜びを与えてくださいました。(16)

そして、神様はダビデの王座に座る方を送ると約束しました。その王はイスラエルの敵をも治めるし、光り輝く冠を被と約束しました。もちろん、イエス様はこの世に戻る時、その約束が成就します。

この詩篇を読む時、私は希望があります。なぜなら、神様は決して変わらないし、その約束も変わりません。神様は約束したことを必ず行います。

だから、私はイエス様の帰りを待ち望みます。なぜなら、その日に神様のすべての約束が成就するからです。

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詩篇

謙遜

詩篇131篇もかなり短い詩篇ですが、この詩篇を通して、ダビデは私たちが神様に近づくときに、どのような心が必要かを教えています。

私たちはどんな心が必要でしょうか。へりくだる心が必要です。ダビデはこう書きました。

主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。(詩篇131:1)

心の中でプライドを持ったら、神様の前に行くのは無理です。私はヨブについて考えます。

彼が苦しんだ時に、彼は神様の正義を疑い始めました。だから、神様の前に行きたがって、神様の正義に関して議論したがりました。

多くの人々はそうします。彼らは神様と同じ知力を持っていると思い、神様と議論したら勝てると思っています。

多くの無神論者はこう思います。「たとえ神様が存在しても、どうして私が神様を信じなかったかを説明できます。」

けれども、彼らが神様の前に来て話す時、ヨブのように彼らの論法が虚しいと実感することでしょう。

しかし、他の人々はヨブの友達のようです。彼らは誇って、他の人々を見下し、すぐに裁きます。けれども、神様はそんな人々にも反対します。なぜなら、彼らの判断は間違っているからです。

しかし、ダビデは彼らとは違いました。神様に対しても、他の人々に対しても謙遜な態度を持っていました。

だから、彼が理解できないことが起きたり、またどうして神様がいろんな試練を許したか理解できない時、彼は謙遜に言いました。

及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません。(1b)

ヨブは、悔い改めた時、同じようなことを言いました。

まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。(ヨブ記42:3)

私たちも理解できないことを経験します。どうして神様が災いを許されるか分からないので、私たちは神様と議論したいと考えます。

しかし、ダビデのように、その疑いを置いておいて、神様に信頼しましょう。神様が私たちと共におられ、私たちを愛してくださることを信じ続けましょう。

「乳離れした子が母親の前にいるように」、また自分のニーズに供えられた子のように、神様の前に静まり、信頼しましょう。

ダビデのように私たちはこう言いましょう。

今よりとこしえまで主を待て。(詩篇131:3)

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詩篇

赦しの神、憐み深い神

詩篇130篇は短い詩篇ですが、私はこの詩篇が大好きです。苦しむ時、詩人は神様の赦しと愛を省みます。

いつこの詩篇が書かれたのか私は知らないけれど、バビロンへの追放の後に書かれた感じがします。ダニエルのような人がこの詩篇を書いたことが想像できます。

しかし、ダニエルの祈りと違って(ダニエル書9章)、この詩人は自分の罪のために赦しを願いました。彼は叫びました。

主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。

主よ。私の声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください。(詩篇130:1-2)

彼は自分の義に基づいて願いませんでした。むしろ神様の性格に基づいて願いました。彼は言いました。

主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。

しかし、あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます。(3-4)

その個所が大好きです。誰も神様のみ前に立つ資格を持ちません。もし、神様が私たちの罪の記録を持っていたら、私たち皆死んでしまうでしょう。

たとえあなたが一日に三回ぐらい罪を犯したら、あなたは三十代になるともう罪を三万回ぐらい犯したことになります。

私がどれぐらい罪を犯したか考えたくありません。けれども、イエス様の血によって、私の罪は清められました。私の罪の記録に、もう何も書かれていません。

だから、詩人はこう言います。

私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ちます。(5)

彼は何を待ち望んでいるでしょうか。神様の恵みを待ち望んでいます。何に基づいて待っているでしょうか。神様の約束によって待ち望んでいます。

私たちも神様の約束に頼ることができます。つまり、

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

そして、夜明けが確かに来るように、悔い改める人に神様の赦しも確かに来ます。(詩編130:6)

自分の罪を悔い改めたあとで、詩人はイスラエルが悔い改めるように招きます。

イスラエルよ。主を待て。主には恵みがあり、豊かな贖いがある。

主は、すべての不義からイスラエルを贖い出される。(7-8)

私たちが神様の赦しを見つけたので、周りの人々に神様の憐れみについて伝え、彼らが悔い改めるように招きましょう。

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詩篇

私たちが迫害される時

詩篇129篇では、私たちは二つのことを見ることができます。

一つ目は、ユダヤ人の迫害される歴史です。彼らはエジプトで迫害されたし、士師の時代にも、王国の時代にも迫害され、そして最終的に追放されました。

その追放から戻った後にも、迫害は続きました。ギリシャ王国とローマの帝国の時代に彼らは本当に苦しみました。

現代でも、その迫害が続いています。ヒトラーはたくさんのユダヤ人を殺し、イスラエルは何回も周りの国々に攻撃されました。今でも、イスラエルが滅びたら、アラブ世界は喜ぶでしょう。

それでも、ユダヤ人はこう言えます。

彼らは私の若いころからひどく私を苦しめた。彼らは私に勝てなかった。(詩篇129:2)

つまり(これは二つ目のことなんですが)、試練の中で、神様の手はずっとイスラエル人の上にありました。

私たちもそう言えます。私たちはアブラハムの霊的な相続人です。私たちも迫害されるかもしれません。家族や友達や私たちの政府が私たちを襲うかもしれません。

しかし、神様は私たちが立つように助けてくださいます。また、神様は教会が立つように助けてくださいます。だから、私たちの敵は私たちに最終的に勝てません。

だから、イエス様の言葉を覚えていましょう。

義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。

喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。

あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。(マタイ5:10-12)

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詩篇

神様をまず第一に求めば

私たちの多くは自分の幸せを求めます。そして、私たちは自分の家族や仕事や家計によって、その幸せが見つけられると思います。

けれども、詩篇128篇では、本当の幸せの鍵を見ることができます。詩人はこう記しました。

幸いなことよ。すべて主を恐れ、主の道を歩む者は。

あなたは、自分の手の勤労の実を食べるとき、幸福で、しあわせであろう。

あなたの妻は、あなたの家の奥にいて、豊かに実を結ぶぶどうの木のようだ。あなたの子らは、あなたの食卓を囲んで、オリーブの木を囲む若木のようだ。

見よ。主を恐れる人は、確かに、このように祝福を受ける。(詩篇128:1ー4)

要するに、私たちが神様をすべてよりも敬い、神様の道を選べば、神様は私たちを祝福してくださいます。

多くの人々は、家計の不安から働きすぎてしまい、自分の健康や家族を顧みなくなります。

その結果、仕事の成果を十分に享受することができなくなります。つまり、妻との関係や子どもとの関係が悪化してしまうのです。場合によっては、若くして命を失うことさえあるかもしれません。

けれども、あなたが神様を敬うなら、神様はあなたの家計を祝福し、あなたの家族も祝福してくださいます。

神様が命じられたように、夫たちが自分の妻を愛し、子供たちを育てるなら、その妻と子供たちは実を結びます。

もちろん、妻が自分の夫を敬うなら、また、子供たちが親に従うなら、彼らも神様の祝福を受けます。

しかし、家族に関する多くの命令、もしくはすべての命令は主にお父さんたちや旦那さんたちに対するものです。

つまり、まずお父さんたちと旦那さんたちがその命令に従うべきです。そうすれば、妻や子供たちは喜んで従い始めます。

だから、男性たち、責任を取り、神様とその命令に従いましょう。そうすれば、神様の祝福を知ることができます。

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詩篇

私たちの努力の限界

ソロモンは詩篇127篇を書いたのですが、私はこの詩篇を読むと、ネヘミヤの話を思い浮かべます。

ソロモンはこう書きました。

主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。

主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。(詩篇127:1)

もちろん、ネヘミヤは自分の計画を立てました。ユダヤ人の敵がエルサレムを脅した時、彼は対策を練りました。とはいえ、神様がユダヤ人と共におられなかったら、その計画は虚しかったでしょう。

私たちが自分の役割を果たすことと、神様に信頼して委ねることのバランスがあります。

もし、私たちが座っているだけで何もしないなら、神様の祝福は期待できません。けれども、神様が私たちの計画の中心でなければ、私たちの努力は虚しくなるでしょう。

多くの場合、私たちはこう祈ります。「神様、私たちはこうすることにしました。私たちの計画を祝福してください。」

しかし、私は最初からこう祈るべきです。「神様、あなたの御心を教えてください。私たちはどうすれば良いでしょうか。」

ネヘミヤの話を見ると、彼が何をしても、いつも祈っていたことが分かります。私たちもそうするべきです。

ソロモンはこう書きました。

あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。

主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。(2)

多くの人々の問題は、その人生を仕事中心にすることです。けれども、彼らは自分の健康と家族を放置してしまいます。

もちろん、仕事は大切なのですが、私たちの優先順位が正しいかどうか確認しなくてはなりません。私たちはちゃんと寝るべきだし、ちゃんと食べるべきだし、家族と一緒に時間を過ごすべきです。

ソロモンはそれを理解していました。特に家族の大切さが分かっていました。だから彼はこう書きました。

見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。(3)

もし、あなたの仕事が大変すぎて、ちゃんと寝られず、しっかり食事をとれず、家族と時間を過ごせないなら、新しい仕事のために祈った方が良いと思います。

とにかく、心に留めてください。あなたの人生を神様中心にしてください。そうすれば、あなたの努力は決して虚しくなりません。しかし、そうしないなら、あなたの努力は最終的に虚しくなります。

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詩篇

解放された

多分、詩篇126篇はエズラとネヘミヤの時代に書かれたものでしょう。この詩篇では、ユダヤ人はバビロンの追放からエルサレムへの帰還を振り返っています。

この詩人の喜びをよく見ることができます。

主がシオンの繁栄を元どおりにされたとき、私たちは夢を見ている者のようであった。

そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。そのとき、国々の間で、人々は言った。

「主は彼らのために大いなることをなされた。」

主は私たちのために大いなることをなされ、私たちは喜んだ。(詩篇126:1-3)

この詩篇について考えると、新しいエルサレムはそのようなものだろうと思います。私たちの目が光り輝き、私たちの口は喜びと笑いで満たされるでしょう。

この世の旅を振り返ると、私たちは神様の御業を見ます。つまり、神様は十字架によって、私たちをサタンの国から解放してくださいました。

この世では、私たちはたくさんの涙と共に種を蒔くかもしれませんが、最終的には喜び叫びながら刈り取ります。それに、私たちの苦労のために、神様は報いを与えてくださいます。

だからパウロはこう書きました。

ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。

あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。(第一コリント15:58)

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詩篇

揺るぐことはない

詩篇125篇も私のお気に入りです。実は、私が高校生の時、私の教会はこの詩篇をもとにした歌を歌っていました。

主に信頼する人々はシオンの山のようだ。ゆるぐことなく、とこしえにながらえる。

山々がエルサレムを取り囲むように、主は御民を今よりとこしえまでも囲まれる。(詩篇125:1-2)

詩人は二つの生き生きとした描写を使います。一つ目は、揺るがない山です。

詩人は神様に信頼する人がシオンの山のようだと言います。

どうして、シオンは揺るがなかったのでしょうか。大きな山だからでしょうか。それは違います。

シオンの高さは約730メートルしかありません。富士山の方が断然大きいです(3776メートル)。富士山と比べると、シオンはただの丘です。

しかし、神様がシオンを見守ってくださったので、シオンは揺るがなかったのです。そのように、神様が私たちを見守ってくださるので、私たちは揺るがないのです。

それに、山々がエルサレムを取り囲むように、神様は私たちを囲んでくださいます。主は私たちの砦であり、私たちを滅ぼそうとする悪魔から守ってくださいます。

そして、詩人は神様の正義に関して、確信を言い表します。つまり、悪者は義人を治めないということです。なぜなら、悪者が義人を治めれば、最終的に義人は罪に落ちるかもしれないからです。

残念なことですが、詩人の言葉は神様の約束ではありません。とはいえ、神様は支配者の行動に限界を置いてくださいます。神様はどれくらいその支配者の治世が続くかの限界を置くし、信者に対する迫害の限界も置いてくださいます。

だから、いつか世界の酷い苦難のため、神様は最後の日数を少なくしてくださいます。イエス様はその時についてこう言いました。

もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。(マタイ24:22)

とにかく、詩人は神様が自分の民に慈しみを施してくださるように祈りました。また、悪者がいつか裁かれることを覚えています。(詩篇125:4ー5)

そして、彼は祈ります。

イスラエルの上に平和があるように。(5b)

私たちの人生はいつもスムーズに行きません。けれども、神様に信頼しましょう。神様が私たちを見守り、私たちと共におられることを覚えておきましょう。そうすれば、私たちは決して揺るぐことがありません。

また、私たちの苦難の中で、詩人のように、神様の祝福と恵みのために祈りましょう。そうすれば、イスラエルを見守った神様が、私たちをも守ってくださることを実感するでしょう。

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詩篇

神様の恵みを喜ぶ

ダビデは詩篇124篇を書いたのですが、いつ彼が書いたのかは分かりません。多分大きな勝利の後に書いたのでしょう。

その時、ダビデは神様の恵みを喜びました。彼は叫びました。

「もしも主が私たちの味方でなかったなら、私たちは敵に滅ぼされただろう。しかし、神様がその罠を壊してくださったので、私たちは免れました。」(詩篇124:1ー7)

そして、彼は歌います。

私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある。(8)

幸いなことに、私は敵にそのように攻撃されたことはありません。けれども、神様が私をサタンの罠から救い出してくださったことに感謝します。私が自分自身を救えなかった時、キリストは私の罪のために死んでくださいました。

なぜ、イエス様は私のために死んでくださったのでしょうか。それは、私を愛しているからです。イエス様は私の味方だからです。

なぜ、イエス様が私を愛して、私を助けたがったのか分かりませんが、そのことに感謝します。

さらに、神様はあなたの味方です。

だからこそ、この詩篇を読むとき、この私たちに豊かに注がれた恵みを忘れないでください。

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詩篇

憐れみを求める叫び

詩篇123篇は興味深い比喩を使っています。詩人はこう書きました。

あなたに向かって、私は目を上げます。天の御座に着いておられる方よ。

ご覧ください。奴隷の目が主人の手に向けられ、女奴隷の目が女主人の手に向けられているように、私たちの目は私たちの神、主に向けられています。(詩篇123:1~2)

一見したところ、この詩篇は奴隷がその主人に仕えることを描写しています。その時代、もちろん、奴隷はその主人の言葉に注意しましたが、それ以上に奴隷は主人の合図に注意して、その主人の必要を察していました。

そのように、私たちも神様に目を上げて、仕える心を持つべきです。私たちの人生は自分中心ではありません。私たちが自分だけのために生きるのは良くありません。むしろ、私たちの創造主に仕えるべきです。

けれども、2節の全体を見ると、こう書いてあります。

ご覧ください。奴隷の目が主人の手に向けられ、女奴隷の目が女主人の手に向けられているように、私たちの目は私たちの神、主に向けられています。主が私たちをあわれまれるまで。

要するに、奴隷は仕えるために主人に目を上げたのではありません。むしろ、彼は憐れみを求めていました。彼は叫びます。

私たちをあわれんでください。主よ。私たちをあわれんでください。私たちはさげすみで、もういっぱいです。

私たちのたましいは、安逸をむさぼる者たちのあざけりと、高ぶる者たちのさげすみとで、もういっぱいです。(3-4)

詩篇の背景ははっきりしません。バビロンへの追放の時に書かれたかもしれません。もしかしたら、アンティオコス4世エピファネスの時代に書かれたかもしれません。彼は、主の宮で祭壇の上で豚を殺し、その行動によって、主の宮を汚しました。

とにかく、イスラエル人にはあまり希望がありませんでした。だから、詩人は主に目を上げました。詩人は、イスラエル人の罪のため、彼らが神様からの祝福に値しないことをよく知っていました。

とはいえ、彼は神様の性格も知っていました。つまり、神様が私たちを懲らしめるかもしれませんが、私たちをまだ愛しておられることを知っていました。また、私たちが悔い改めると、神様が赦してくださることを知っていました。

この詩篇を読むと、私はイエス様のたとえ話を思い出します。ある人は神様の前に立って、自分の胸をたたいて言いました。「神さま、こんな罪人の私をあわれんでください。」

イエス様はその人についてこう言われました。

あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。(ルカ18:14)

あなたの罪のために、神様に懲らしめられているかもしれません。あなたは神様に捨てられたと思うかもしれません。

しかし、イエス様に目を上げて、悔い改めましょう。憐れみを願いましょう。そうすれば、イエス様はあなたを赦してくださいます。

あなたが神様の憐れみを知るように。

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詩篇

神様の民と一緒にいる喜び

巡礼者がエルサレムの門にたどり着くと、詩篇122篇を歌い始めたでしょう。この歌は、詩人が神様の宮に入る喜びを言い表しています。

人々が私に、「さあ、主の家に行こう」と言ったとき、私は喜んだ。(詩篇122:1)

私は若い時、あまりそんな喜びはありませんでした。私は7-8歳ぐらいでクリスチャンになったのですが、中学生になったとき、もう教会に行きたくなくなりました。

私の教会は良い場所でしたが、私は他のことをしたかったのです。

けれども、高校生になった時、初めて神様の臨在を感じました。私が賛美をするとき、急に理解したのは、私たちはカラオケをしているのではなく、その歌を通して神様に祈っているということです。

その経験で、私の教会と礼拝に対する考え方が変わりました。

時々、クリスチャンは教会が必要ないと思います。なぜなら、彼らは自分で礼拝できると思うからです。

もちろん、礼拝には個人的な側面もあります。しかし、もし私たちが他のクリスチャンと一緒に礼拝するのが嫌いなら、私たちの態度は間違っています。

時々、私たちにはプライドの問題があります。「私は聖書をもうよく知っている。牧師の説教は必要ない。」

時々、私たちは人々を許せないので、教会に行きたくないと思います。「どの教会に行っても、誰かが私を傷つける。だから、教会はもういいです。」

時々、私たちはいつも人々を裁きます。「全てのメンバーは偽善者だ。彼らと付き合いたくない。」

また、時々私たちは自己中心です。「私にとって、教会に行く益がない。」

けれども、教会に行くのは、ただ私たちの利益のためではありません。教会で、私たちは神様に賛美を捧げます。

また、私たちは周りの人々に仕えるべきです。そして、彼らと一緒にそのコミュニティに仕えるべきです。

この詩篇では、詩人はエルサレムの平和のために祈ることについて話します。また、彼はエルサレムの繁栄を求めます。そのように、私たちは自分の都市のために祈るべきであり、その都市の繁栄を求めるべきです。

一人では、このようなことは私たちはあまりできません。しかし、キリストの体として、教会は私たちのコミュニティに影響を与えることができます。

もしあなたが、ただ礼拝に出て、すぐに帰るなら、あなたは神様の計画が全然見えません。

だから、教会の人々と交わり、一緒に働いてください。神様の体で、あなたには自分の役割があるので、その役割を果たしましょう。

ヘブル人への手紙の著者はこう書きました。

また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。

ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。(へブル書10:24-25)

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詩篇

私たちを見守る神

詩篇121篇は本当に美しい詩篇です。私の父が生前、この詩篇が大好きだったので、彼が亡くなった時、葬式でこの詩篇が読まれました。

この詩篇では、詩人は主に対する信頼を言い表しています。彼は歌います。

私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。

私の助けは、天地を造られた主から来る。(詩篇121:1-2)

120篇のように、これは都上りの歌です。人々はエルサレムに巡礼するときにこの歌を歌いました。

だから、彼らが目を上げてエルサレムを見るとき、心の中で喜びが湧いてきたことが想像できます。なぜなら、神様がソロモン王に約束したように、神様の臨在は主の宮にあったからです。(列王記9:4)

もちろん、主の宮は神様をお入れすることはできませんでした。ソロモンもそのことを認めました。

でも神様は、宮に来てイスラエル人に会うように約束してくださいました。また、彼らが宮に向かい、祈るとき、神様はその祈りに答えるように約束してくださいました。

だから、人々がエルサレムに巡礼したとき、決して眠らない神様が彼らを見守ってくださることを思い出して、慰められました。

暑い日には、神様は彼らの陰でした。また夜には、神様は彼らを守ってくださいました。

それだけでなく、彼らの人生を送る間に、神様が彼らと共におられることを思い出していました。

だから、詩人はこう歌いました。

主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。

主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。(7-8)

私たちもその言葉によって慰められましょう。何が起きても、神様はあなたを「耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。」(第一コリント10:13)

私たちがこの世界に生きる間に、神様は私たちを見守ってくださいます。そして、私たちを栄光に導いてくださるのです。

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詩篇

私たちの周りの悪によって怒られる

どれほどあなたは周りの悪によって怒るでしょうか。

詩人はそれを見て、本当に怒りました。彼は何を見たのでしょうか。偽りの唇。欺きの舌。平和を憎む人。戦いを望む人。

だから、詩人は呻きました。

ああ、哀れな私よ。メシェクに寄留し、ケダルの天幕で暮らすとは。(詩篇120:5)

メシェク人とケダル人たちは放浪の部族で、彼らは周りの人々を攻撃しました。

この詩人が彼らの間に住んだのか、それともそのような人々の間に住んだのかは、私は分かりません。

けれども、興味深いことは、この詩篇が都上りの歌であることです。つまり、人々がエルサレムに巡礼するとき、この歌を歌いました。

なぜ、彼らが神様に心を向け、礼拝するときに、このような歌を歌ったのでしょうか。あなたはそれがちょっと不思議だと思うかもしれません。しかし、私はそんなに不思議だとは思いません。

なぜなら、私たちの人生はいつも楽しいわけではないからです。私たちがこの世界を見るとき、落ち込むのは簡単なことです。

そのとき、私たちは神様がどこにおられるのかと思うかもしれません。また、神様が何かをしておられるのかと思うかもしれません。

けれども、詩人が神様に向かうとき、自分自身に思い出させます。「神様はいつか正義によって治めてくださるから、すべてのことは大丈夫。」

だから、彼はこう書きました。

欺きの舌よ。おまえに何が与えられ、おまえに何が加えられるのか。

勇士の鋭い矢、それに、えにしだの熱い炭火だ。(3-4)

だから、テレビのニュースを見るとき、がっかりしないでください。神様が良い方で、正義の方であることを覚えておきましょう。

そして、この世の悪に焦点を当てずに、全てを解決してくださる神を仰ぎましょう。

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詩篇

悪に負けない

それでは、今日詩篇119を終えます。

以前私は言いましたが、私たちはこの詩の著者を知りません。しかし、もしダビデがこの詩篇を書いたのだとしたら、驚くには及びません。なぜなら、この詩篇の終わりで、私たちは詩人が経験したことを読むからです。

つまり、彼は敵に追いかけられたり、迫害されたりしましたが、彼は復讐を求めませんでした。むしろ、彼は主に叫びました。

私はあなたを呼びました。私をお救いください。私はあなたのさとしを守ります。

私は夜明け前に起きて叫び求めます。私はあなたのことばを待ち望んでいます。(詩篇119:146-147)

それでも、彼の神様の道を行く決心は決して揺るぎませんでした。

彼は寝る前に、どうやって復讐しようか全然考えませんでした。むしろ、彼はこう言いました。

私の目は夜明けの見張りよりも先に目覚め、みことばに思いを潜めます。(148)

彼の敵が神様の言葉を捨てて、彼を殺そうと思ったのに、彼は神様の言葉を捨てずに、自分の命を神様の手に委ねました。

私の悩みを顧み、私を助け出してください。私はあなたのみおしえを忘れません。

私の言い分を取り上げ、私を贖ってください。みことばにしたがって、私を生かしてください。(153-154)

また、

ご覧ください。どんなに私があなたの戒めを愛しているかを。主よ。あなたの恵みによって、私を生かしてください。(159)

また、

君主らは、ゆえもなく私を迫害しています。しかし私の心は、あなたのことばを恐れています。(161)

どうして、彼はそのように生きたのでしょうか。なぜなら、彼は神様の道が最も良いと思ったからです。彼はこう書きました。

あなたのみおしえを愛する者には豊かな平和があり、つまずきがありません。(165)

そして、彼はもう一度、へりくだって、神様の導きを頼み、神様の道を行くことを決心し、自分の命を神様の手に委ね、神様からの救いを待ち望みました。

あなたはどうですか。あなたは傷ついたら、どう反応するでしょうか。攻められる時、あなたは怒って、悪をもって悪に報いるでしょうか。

あなたは「それは許せない。神様の道じゃないかもしれないけど、復讐する」と言うでしょうか。

そう思うなら、詩人の態度を覚えておきましょう。また、十字架にかけられたイエス様の態度を覚えておきましょう。

イエス様は復讐を求めませんでした。むしろ、その敵を赦してくださいました。また、イエス様は私たちをも赦してくださいました。

最後に、パウロの言葉も覚えておきましょう。

愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」

もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。

悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。(ローマ12:19-21)

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詩篇

理解への道

私たちは皆、ますます理解と知恵において成長したいと思います。この箇所では、私たちがどのように成長できるかを見ることができます。

詩人はこう書きました。

あなたの仰せは、私を私の敵よりも賢くします。それはとこしえに、私のものだからです。

私は私のすべての師よりも悟りがあります。それはあなたのさとしが私の思いだからです。

私は老人よりもわきまえがあります。それは、私があなたの戒めを守っているからです。(詩篇119:98-100)

詩人はどのように賢くなったのでしょうか。神様の言葉を知っているだけではなく、その言葉に思いを巡らすだけでなく、彼は神様の言葉に従いました。

たくさんの人々は神様の言葉を知っていますが、知恵を持っていません。彼らは、神様が何を言われたか知っていますが、自分の道を行き続けるので、結局彼らは苦しんでしまいます。

でもこの詩人はそのような人ではありませんでした。彼は神様の言葉を愛したので、その言葉は彼をだんだん変化させました。

神様が憎まれるものを彼は憎み始めました。神様が愛されるものを彼は愛し始めました。(103-104、127-128)

それに、神様の言葉が彼の言動の基準になりました。その言葉は、彼の足のともしびと道の光になりました。(105)

だから彼は悪者とその意見を避けました。(113、115)

それに、彼は神様の前にへりくだって、神様から学び(125、133、135、144)、神様の戒めに従うために神様の力に頼りました。(133-134)

どうして彼はそうしたのでしょうか。彼は大切な真理を発見したからです。つまり、

あなたのみことばは、よく練られていて、あなたのしもべは、それを愛しています。。。

あなたの義は、永遠の義、あなたのみおしえは、まことです。(140,142)

要するに、彼は神様の約束と命令を試したとき、神様が真実で、その言葉は正しいと分かるようになったのです。

あなたはどうですか。あなたには本当の理解があるでしょうか。あなたは神様の命令を実行するでしょうか。あなたは神様が忠実な方であると分かるようになりましたか。

もしそうなら、あなたは本当の知恵を見つけたのです。

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詩篇

私たちは何によって希望があるか

今日私たちは詩篇119篇の中間点を過ぎます。

私は81節が大好きです。

私のたましいは、あなたの救いを慕って絶え入るばかりです。私はあなたのみことばを待ち望んでいます。

時々、私たちは試練を経験します。この詩人もいろんな試練を経験しました。たくさんの人々が、彼を迫害したり、彼を殺そうとしたりしました。(詩篇119:85-87,95)

83節では、彼は「私は煙の中の皮袋のようになった」と言いました。

その時代、人々が砂漠を渡った時、テントの中で火が必要なら、彼らは火の上に皮袋を吊るしました。その皮袋は煙を吸い込みましたが、だんだん縮んで堅くなりました。

そのように、周りの人々の罪によって、詩人は苦しみを吸い込み、縮んでしまいました。だから、彼は叫びました。

いつあなたは私を慰めてくださるのですか。。。

あなたのしもべの日数は、どれだけでしょうか。

あなたはいつ、私を迫害する者どもをさばかれるのでしょうか。(82-84)

それでも、神様の言葉と約束によって彼には希望がありました。最悪な状態になっても、彼はその言葉と約束にしがみつきました。どうしてでしょうか。

主よ。あなたのことばは、とこしえから、天において定まっています。

あなたの真実は代々に至ります。

あなたが地を据えたので、地は堅く立っています。(89-90)

要するに、彼は神様とその約束が決して変わらないと知っていました。人々が不実なのに、神様がいつも忠実であることを知っていました。

だから、何が起きても、彼が信じたのは、神様はいつも彼を助けてくださることです。

あなたはどうでしょうか。人生の暗闇を通る時、あなたは神様の御言葉に従うでしょうか。神様が忠実であることを信じるでしょうか。

試練に直面するとき、「神様の道を行くのは空しいです。自分の道を行った方が良い。」と言うのは簡単です。

だから、私たちの結婚や、私たちの家計はダメになってしまいます。

でも、大変な時が来ても、自分自身に頼らないでください。自分の知恵に頼らないでください。むしろ、神様を待ち望みましょう。

何千年が経っても、神様の言葉は決して変わりませんでした。だから、その言葉を信頼できます。イザヤはこう言いました。

草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。(イザヤ40:8)

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詩篇

柔らかい心

このブログで以前私は、詩篇119篇を書いた詩人が謙遜な心を持っていたと書きました。彼はすべてのことを知らないと認め、神様から学びたいと願っていました。

この箇所でも、その心が見えますし、神様に対する柔らかい心も見えます。

66節で、彼はもう一度「私に教えてください」と祈りましたが、67節で彼はこう言いました。

苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。

そして、71節で、彼はこう言います。

苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。

つまり、神様は彼を懲らしめられました。どのように彼が懲らしめられたか分かりませんが、私たちは彼の反応を知っています。彼は悔い改めたのです。

どうして彼は悔い改めたのでしょうか。なぜなら、彼は神様が良い方であり、神様が彼の最善を望んでおられることを信じたからです。だから、彼はこう歌いました。

なたはいつくしみ深くあられ、いつくしみを施されます。どうか、あなたのおきてを私に教えてください。(詩篇119:68)

悪者に関して、彼はこう歌いました。

彼らの心は脂肪のように鈍感です。(70a)

けれども、自分自身に関して、彼は歌いました。

しかし、私は、あなたのみおしえを喜んでいます。(70b)

そして、彼は祈ります。

どうか、私の心が、あなたのおきてのうちに全きものとなりますように。それは、私が恥を見ることのないためです。(80)

私たちの心は神様とその言葉に対してどれぐらい柔らかいでしょうか。

神様が私たちを懲らしめられる時、私たちは腹が立つでしょうか。もしくは、私たちはへりくだって、悔い改めるでしょうか。

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詩篇

自由と慰めを与える言葉

詩篇119篇を読む時、私は詩人の神様の御言葉に対する姿勢がよく見えます。

多くの人々は神様の御言葉を人を縛るものとして考えます。つまり、彼らは神様の御言葉が人生の楽しみを奪ってしまうと考えます。

「こうしなさい。こうするな。」

けれども、詩人はそのように考えませんでした。どうしてでしょうか。多分、彼には神様について正しい視点があったからです。彼はこう歌います。

主よ。あなたの恵みと、あなたの救いとが、みことばのとおりに、私にもたらされますように。(詩篇119:41)

また、

主よ。地はあなたの恵みに満ちています。(64)

要するに、彼は神様が彼を愛し、彼の最善を望んでおられることを理解していました。また、この壊れた世界において、神様が彼の救いだと分かっていました。

だから、彼が神様の戒めを見る時、神様が彼の楽しみを取り去ろうとしておられるとは思いませんでした。むしろ、神様が彼に本当の命を与えようとしておられるのだと分かりました。

だから、彼はこう書きました。

そうして私は広やかに歩いて行くでしょう。それは私が、あなたの戒めを求めているからです。(45)

この詩人にとっては、神様の戒めは人々を縛らずに、人々を自由にするものです。どうしてでしょうか。

もし神様のデザインの通りに私たちがこの人生を生きたら、精一杯に生きるからです。

多くの人々はスマートフォンを持っています。しかし、彼らは説明書を読まないので、その機能を少ししか使いません。

けれども、その機能が分かれば、彼らの人生はもっと便利になります。彼らが今までできなかったことができるようになります。

そのように、聖書は人生の説明書です。聖書によって、私たちは神様がどのように人間をデザインされたか分かります。

そして、聖書に従うと、私たちは縛られず、むしろ、私たちは自由にされます。また、本当の命を見つけます。

それに、苦しみの時に、神様の御言葉は私たちを慰めてくださいます。なぜなら、聖書によって、私たちは神様を愛する人に対する神様の約束を読むからです。だから、この壊れた世に、私たちは希望を見つけます。

詩人はこう書きました。

どうか、あなたのしもべへのみことばを思い出してください。あなたは私がそれを待ち望むようになさいました。

これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします。(49-50)

私の気にいる箇所はヨハネ14:1-3.イエス様は弟子たちにこう言われました。

あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。

わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。

あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。

わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

弟子たちが迫害と死に直面した時、その言葉によって慰められたと思います。この約束は私たちをも慰めます。

けれども、ちょっと考えてください。神様が良い方だと思いますか。神様があなたの最善を望んでおられると思いますか。

それなら、神様の御言葉はあなたを慰め、自由にします。

そうしないなら、多分あなたは神様の御言葉に対する詩人の熱心が理解できないでしょう。

あなたはどのように神様について考えているでしょうか。

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詩篇

理解の必要

この箇所では、私たちは詩人のへりくだる心が見えます。彼は、「全てのことを知っているわけではありません。だから教えてください」と言います。

私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。

私は地では旅人です。あなたの仰せを私に隠さないでください。(詩篇119:18-19)

要するに、

「私は旅人です。だから、あなたの道と律法がよく分かりません。あなたが私に何を要求されるか分かりません。

けれども、あなたが私の最善を望んでおられることを知っています。だから、私の目を開いてください。あなたの道が理解できるように助けてください。」

彼は祈り続けます。

どうか、あなたのおきてを私に教えてください。

あなたの戒めの道を私に悟らせてください。私が、あなたの奇しいわざに思いを潜めることができるようにしてください。(26-27)

もう一度、私たちは詩人のへりくだる心が見えます。多分、彼は自分の罪のため、「ちりに打ち伏しています」と言いました。(25)

だから、彼はこう言いました。

みことばのとおりに私を堅くささえてください。(28)

また、

私は真実の道を選び取り[ます](30)

また、

私はあなたの仰せの道を走ります。(32)

なぜでしょうか。

あなたが、私の心を広くしてくださるからです。(32b)

そして、彼はもう一度言います。

あなたのおきての道を私に教えてください。(33)

また、

あなたのおきての道を私に教えてください。(34)

また、

私に、あなたの仰せの道を踏み行かせてください。(35)

つまり、「私はあなたの道を知らないので、教えてください。私は本当にあなたの道を理解したいです。」

けれども、多くの場合、私たちは「もう知っている」と言う態度を取ります。私たちの知恵と知識がもう十分だと思います。

しかし、そのような態度は破壊と恥に導きます。私たちはいつもへりくだる心が必要です。私たちは神様の教えに耳を開かなくてはならないのです。

また、私たちは自分の力で神様の道を歩むことができないと認めなくてはならないのです。

だから、詩人は神様の助けのために祈ります。

私の心をあなたのさとしに傾かせ、不正な利得に傾かないようにしてください。

むなしいものを見ないように私の目をそらせ、あなたの道に私を生かしてください。(36-37)

そして、彼は40節で祈ります。「どうか私の義によって、私を生かしてください。」(40)

実は上記の箇所で、一つのミスがあります。あなたは気づいたでしょうか。

ダビデが言ったのは、「どうかあなたの義によって、私を生かしてください。」と言っていました。

神様は私たちを私たち自身の義によって救われません。むしろ、神様の義によって私たちを救ってくださいます。神様の義によって、私たちは神様の目に義と認められます。

あなたはそのことを認めますか。詩人はそう認めました。

だから、プライドを捨てましょう。自分の義や知恵に頼らないようにしましょう。

むしろ、神様の前にへりくだって来て、「教えてください」と言いましょう。

そうすれば、神様は私たちに教えてくださいます。

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詩篇

聖さの望み

詩篇119篇は最も長い詩篇であり、最も長い聖書の章です。だから、少しずつこの詩篇を読み、そのテーマについて話していこうと思います。

この箇所では、私たちは詩人の聖さの望みを見ることができます。だから、この詩人がダビデかもしれないと考える方もいるでしょう。なぜなら、ダビデは神様の心に叶うものと呼ばれたからです。(とはいえ、この詩篇は無名の詩人によって書かれました。)

最初に、詩人は全き道を行く人々の幸せについて話します。そして、彼は心から叫びます。

どうか、私の道を堅くしてください。あなたのおきてを守るように。

そうすれば、私はあなたのすべての仰せを見ても恥じることがないでしょう。(詩篇119:5-6)

つまり、「どうして、聖い人生を生きることができないのだろう。私はよく自分の罪を恥じます。あなたの命令を守ることができたらいいのに。」

そして、もう一度、彼は約束します。

私は、あなたのおきてを守ります。どうか私を、見捨てないでください。(8)

聖さの鍵は何でしょうか。詩人は私たちにその答えを示してくれます。

どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。

私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください。

あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。(9-11)

私たちはどのように聖い人生を生きられるでしょうか。私たちは神様の言葉に従って守るべきです。私たちは神様の言葉を心にたくわえ、その言葉に思いを巡らすべきです。

私たちは聖書を本棚にずっと置かずに、その言葉を読んで、喜ぶべきです。

私たちを清める御言葉を喜ぶでしょうか。また、私たちは神様の聖さを喜ぶでしょうか。

時々私はそうしません。聖いものに思いを巡らさずに、そのものを喜ばずに、私は聖くないものに焦点を当てます。だから、私は罪に落ちます。

だから、パウロのように私は叫びます。

私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(ローマ7:24)

もし自分の力で聖い人生を求めるなら、それは当然の結果です。

それでは、その解決は何でしょうか。パウロはこう言います。

私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。(ローマ7:25)

私たちは自分の力によって聖い人生を生きることはできません。それは無理です。詩人もそのことが分かりました。だから、彼は神様に叫びました。

どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください。(詩篇119:10)

要するに、「私は聖い人生を送れません。助けてください。」

この詩篇を読む時、律法主義の考え方を持つことは簡単です。多くのクリスチャンは「私は自分の力で聖い人生を生きなくてはならない。」と思います。

けれども、私たちが神様の恵みによって救われたことを決して忘れないでください。また、神様が私たちの中で働いてくださらないなら、私たちは決して聖い人生を生きることができません。

しかし、「もしそれは無理なら、どうして努力するだろうか」と思わないでください。

むしろ、私たちは義に飢え渇きましょう。そうすれば、どうして私たちが神様が必要かはっきり分かるようになります。その時、神様の恵みが私たちの心に注がれます。

また、自分の正しさに関するプライドが無くなって、神様の恵みと憐れみを見ますので、私たちはへりくだります。

その結果は何ですか。私たちが自分の力に頼らず、神様の力に頼るので、私たちは神様ともっと親しく歩みます。そして、神様が私たちの心を変えてくださいますので、私たちの人生は変わります。

それが私たちが聖くなるプロセスです。

あなたはどうですか。神様の聖さに飢えるでしょうか。

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詩篇

救いの歌

イエス様がこの世に再臨される日に、クリスチャンたちが詩篇を歌うなら、多分この詩篇を歌うでしょう。なぜならこれは救いの讃美歌だからです。

多分、詩篇118篇の詩人よりも、この詩篇は私たちにとって意味があると思います。

新エルサレムに入る時、多分私たちはこう歌うでしょう。

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。(詩篇118:1)

どうして私たちはそう歌うでしょうか。なぜなら、私たちが苦しんだ時、また私たちが自分の罪によって死にかけていて、神様に叫んだ時、神様は私たちを自由にしてくださったからです。

それに、毎日、神様は私たちを見守ってくださいます。人々は私たちの体を滅ぼすかもしれませんが、私たちの魂を滅ぼすことはできません。だから詩人はこう歌いました。

主は私の味方。私は恐れない。人は、私に何ができよう。(6)

そして詩人はどのように神様の力によって敵を断ち切ったか歌います。そのように、神様は私たちにサタンに対する勝利を与えてくださいます。だから、私たちもこう歌います。

おまえは、私をひどく押して倒そうとしたが、主が私を助けられた。

主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。。。

主の右の手は高く上げられ、主の右の手は力ある働きをする。

私は死ぬことなく、かえって生き、そして主のみわざを語り告げよう。(13-17)

時々、詩人のように、私たちは神様の懲らしめの手を見ることがあります。けれども、神様は私たちを滅ぼすために懲らしめるのではなく、私たちに命を与えるために懲らしめてくださいます。

だから、私たちはエルサレムの門に着くとき、門番にこう言えます。

義の門よ。私のために開け。私はそこから入り、主に感謝しよう。(19)

どうして、私たちにはその門に入られる確信があるでしょうか。それは、私たちが救いの基礎を知っているからです。

家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。

これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。(22-23)

イエス様は私たちの救いの礎の石になりました。ユダヤ人たちはイエス様を拒絶しましたが、十字架で流されたイエス様の血によって、私たちは救いを見つけることができます。

だから、毎日私たちの希望が新しくなり、私たちは歌うことができます。

これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。(24)

そして、イエス様がエルサレムに来られたとき、人々が叫んだように、いつか私たちも歌います。「ホサナ。ああ、主よ。どうぞ救ってください。」(25)

けれども、私たちがそう歌う時には、もう救いが来るのを待っているのではなく、むしろ、私たちの救いを振り返ります。そして、もう一度、私たちは歌います。

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。(29)

アーメン。イエス様、すぐに来てください。

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詩篇

全ての国民は礼拝するとき

これは聖書の中で、一番短い章です。けれども、すぐに一番長い章を読みます。だから、私の英語のブログで、私は、「This is the calm before the storm.」と言いました。

つまり、「これは嵐の前の静けさです。」 🙂

とにかく、詩篇117篇はメシアについての詩篇です。なぜなら、詩人はすべての国民が神様を礼拝する日を楽しみにしているからです。彼はこう歌いました。

すべての国々よ。主をほめたたえよ。すべての民よ。主をほめ歌え。(詩篇117:1)

パウロはこの箇所によって、キリストがユダヤ人のためだけではなく、すべての人々のために来てくださったことを証明します。(ローマ15:11)

なぜ、詩人はすべての国民が神様をほめたたえるように招くのでしょうか。二つの理由があります。

一つ目は、神様の私たちに対する大きな恵みです。神様は、十字架でキリストの死によってその恵みを示してくださいました。

その死によって、私たちの罪が赦され、私たちは神様の家族に入ることができます。

その真理を理解したので、ヨハネはこう叫びました。

私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。(第一ヨハネ3:1)

あなたが日本人でも、アメリカ人でも、ユダヤ人でも、あなたがイエス様を信じたら、神様は自分の子供としてあなたを受け入れてくださいます。

二つ目の理由は、神様の忠実さは永遠に続くことです。私たちがどんなに失敗しても、神様は私たちを決して見捨てません。

日本語の聖書では、こう訳されています。

主のまことはとこしえに。(詩篇117:2)

つまり、神様とそのみことばは決して変わることがありません。

神様が気まぐれな方であると心配する必要はありません。神様が何かを語られるなら、その御心が変わることを恐れる必要はありません。

だから、私たちは恐れずに神様に信頼することができます。

だからこそ、詩人は歌います。

ハレルヤ。(2)

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詩篇

暗い時に希望

私が高校生の時、詩篇116篇にちなんだ歌を聴きました。その時から、この詩篇は私のお気に入りになりました。

そのソングライターはリビング・バイブルの訳を引用しました。

私は主を愛します。なぜなら、主は私の祈りに聞き、答えてくださるから。

主が私に耳を傾けられるので、私は生きる限り祈ります。(詩篇116:1-2)

なぜか、「主が私に耳を傾けられる」と言う言葉は私の心の中に響きます。

神様は私を愛しておられるので、私のすべての言葉を聞くために耳を傾けてくださいます。

そのことについて考える時、私は驚きます。

私には7歳の娘がいます。もちろん私の方が背が高いので、時々、私はちょっと低くして、彼女と話します。なぜなら、私が彼女の言葉を聞くのがもっと簡単になるし、彼女の目がちゃんと見えるからです。

神様は私たちのためにもそうしてくださいます。特に、私たちが暗闇の中にいる時に神様はそうしてくださいます。この詩篇では、詩人は自分のそんな時について歌います。

死の綱が私を取り巻き、よみの恐怖が私を襲い、私は苦しみと悲しみの中にあった。

そのとき、私は主の御名を呼び求めた。「主よ。どうか私のいのちを助け出してください。」(3-4)

そして、神様は憐れみと恵みによって、その詩人に触れられました。だから、詩人は歌います。

私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。主はおまえに、良くしてくださったからだ。(7)

けれども、この詩篇で私たちが学ぶのは、神様に従ったとしても、時々私たちは困難に直面することです。

詩人はこう書きました。

「私は大いに悩んだ」と言ったときも、私は信じた。(10)

パウロは、自分の試練について話した時、この詩篇を引用しました。彼はこう言いました。

私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。

途方にくれていますが、行きづまることはありません。

迫害されていますが、見捨てられることはありません。

倒されますが、滅びません。(第二コリント4:8-9)

そして、彼はこう言いました。「私が福音のために苦しんでいても、イエス様の命は私たちを通して表れました。だから、私の周りの人々はその命を受けました。」(第二コリント4:10-12)

だから、パウロは詩人のように言いました。

「私は信じた。それゆえに語った。」(第二コリント4:13)

要するに、「私が福音を述べ伝えることができるなら、私は喜んで暗い時を通って、苦しみます。」

だから、パウロはこう言います。

ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(第二コリント4:16-18)

詩人も主からの救いを知ったので、永遠の物に照準を合わせ、主をほめたたえ、自分の人生を主に奉げました。彼は歌いました。

主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか。

私は救いの杯をかかげ、主の御名を呼び求めよう。

私は、自分の誓いを主に果たそう。ああ、御民すべてのいる所で。(詩篇116:12-14)

神様は私たちの鎖も打ち砕いてくださいました。だから、心から主をほめたたえ、感謝のいけにえを捧げ、周りの人々に主が私たちのために何をしてくださったか伝えましょう。

そうすれば、彼らも暗闇から自由にされます。

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詩篇

私たちの賛美と信頼にふさわしい方

この詩人の叫びは、私の心に響きます。

私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。(詩篇115:1)

あなたは誰のために生きているでしょうか。何のために生きているでしょうか。お金を儲けるためでしょうか。栄光を得るためでしょうか。

もしくは、全ての栄光に値する方のために生きているでしょうか。神様の恵みとまことのために、主にあなたの人生を捧げるでしょうか。

この詩篇では、詩人は私たちが神様に信頼し、神様を賛美するように励まします。どうしてでしょうか。どうして、神様は私たちの信頼と賛美にふさわしいのでしょうか。

一つの理由は、神様は全能の主です。

詩人はこう言います。

私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行なわれる。(3)

そのことを聞くと、恐れる人がいます。彼らは「神様が自分が望むことをことごとく行われるなら、神様は私をどのように取り扱われるだろうか」と思います。

けれども、神様を知っている人は、神様に畏敬の念を抱きます。なぜなら、この全能の神は私たちを愛しておられるからです。それに、私たちがどんなに不実でも、神様はいつも私たちに忠実です。

それに、神様は、口があっても語れず、目があっても見えず、耳があっても聞こえず、手があっても触れず、足があっても歩けず、のどがあっても声をたてることもできない偶像ではありません。

そのような「神」は自分自身を支えられないし、私たちをも助けられません。

むしろ、神様は私たちを見る時、私たちの叫びを聞き、応えてくださいます。また、神様は私たちを助けてくださいます。

だから、詩人は言います。

主を恐れる者たちよ。主に信頼せよ。この方こそ、彼らの助け、また盾である。(11)

そうすれば、どうなるでしょうか。

主はわれらを御心に留められた。主は祝福してくださる。イスラエルの家を祝福し、アロンの家を祝福し、主を恐れる者を祝福してくださる。小さな者も、大いなる者も。(12-13)

あなたはどのように生きているでしょうか。あなたは自分の人生をコントロールしようとしているでしょうか。あなたがすべてのことをコントロールできないので、思い悩んでいるでしょうか。

神様に信頼してください。神様は全能の主なので、あなたがコントロールできないことを神様は掌握できます。

だから、詩人はこう歌います。

しかし、私たちは、今よりとこしえまで、主をほめたたえよう。ハレルヤ。(18)

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詩篇

聖所となるように救われた、神の国民になるように救われた

詩篇114篇では、詩人はどうやって神様がイスラエル人をエジプトから救い出し、砂漠を通して、約束の地に導いてくださったかを話します。

神様はイスラエル人のためにいろんな奇跡を行って、自分の力を表されました。(詩篇114:3ー8)

けれども、2節は私の心を打ちます。

詩人はこう歌います。

ユダは神の聖所となり、イスラエルはその領地となった。(詩篇114:2)

どうして、神様はイスラエル人のためにたくさんの奇跡を行われたでしょうか。

神様の目的は、神様が彼らの間に住み、イスラエル人が神様の聖い国民になることです。

そのように、神様は、ただ私たちが天国に行くために私たちを救ったのではありませんでした。むしろ、神様は私たちの間に住むように私たを救われました。

また、私たちが神様の宮となり、神様は私たちの中に住まわれます。そして、神様の民として、私たちは神様が設立する国に参加します。

だからペテロはこう書きました。

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。

それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。(第一ペテロ2:9)

その最後の部分に注意してください。どうして、神様は私たちを聖所とされるのでしょうか。どうして、神様は私たちを自分の国民とされるのでしょうか。

私たちが神様の素晴らしい御業を宣べ伝え、私たちの周りの人々を闇の中から神様の驚くべき光の中に導くためです。

主よ。私の中に住んで、私があなたの使節になるようにしてください。あなたが私を闇の中から光の中に招いてくださり、ありがとうございます。

私たちの周りの人々があなたの光に来るように私たちを用いてください。アーメン。

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詩篇

高い御位に座る神、身を低くして覧になる神

多分、神様に関して最も驚いたことは、神様は威光ある方でありながら、私たちを愛しておられることです。

詩人は詩篇113篇の最初から私たちを礼拝するように呼びかけます。

ハレルヤ。主のしもべたちよ。ほめたたえよ。主の御名をほめたたえよ。

今よりとこしえまで、主の御名はほめられよ。

日の上る所から沈む所まで、主の御名がほめたたえられるように。(詩篇113:1-3)

そして、彼は歌います。

主はすべての国々の上に高くいまし、その栄光は天の上にある。

だれが、われらの神、主のようであろうか。主は高い御位に座し。。。(4-5)

要するに、「神様は偉大な方です。神様を他のものと比べられません。神様が私たちの賛美に値する方だから、ほめたたえましょう。」

けれども、6節で、詩人はこう言います。

「神様は」身を低くして天と地をご覧になる。(6)

そして、詩人は、どうやって神様が弱いもの、貧しいもの、子供のいない女性(その時代、それは本当に恥ずかしいことでした)を引き上げ、祝福してくださることについて話します。(7-9)

神様は私たちを見るために身を低くし、私たちに触れられました。

しかし、それだけではなく、神様は人間として、この世に来られ、私たちと共に住まわれました。パウロはこう書きました。

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現われ[た]。(ピリピ2:6-7)

だから、神様は私たちのことを本当に理解しておられます。

さらに、神様は私たちの最大の必要を見て、十字架で私たちの罪のための罰を受けられました。

イエス様は死に値しなかったのに、私たちを愛し、この世に来て、私たちのために死んでくださいました。

だから、詩人が歌ったように、

日の上る所から沈む所まで、主の御名がほめたたえられるように。(3)

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詩篇

神様を恐れる祝福、神様を喜ぶ祝福

恐れと喜び。私たちはふだんその言葉をいっしょに使うことはありません。けれども、詩篇112篇では、詩人はそうします。

彼は神様を恐れる祝福と、神様とその言葉を喜ぶ祝福について話します。

詩人はこう言います。

ハレルヤ。幸いなことよ。主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人は。(詩篇112:1)

神様を恐れることは、どういう意味でしょうか。

一つ目は、神様の偉大さに畏敬の念を抱くことです。

私たちは神様が私たちよりも偉大な方であり、私たちよりも聖い方であることを理解します。その知識によって、私たちは神様を恐れます。なぜなら、私たちは神様の前に立つことに値しないからです。

むしろ、私たちの罪のため、私たちは死に値します。聖書で神様に会う人々はそう感じました。

しかし、同時に彼らは、彼らに対する神様の愛と憐れみを知ったので、神様を喜び、神様を喜ばせたいと思いました。

詩人はそのような人々が祝福を知ることを言います。

そして、彼らは天の父の性格を取るようになります。彼らも、恵み深く、情け深くなり、義の道を歩みます。彼らも気前がよく、自由に人に貸し、義によって行います。(4-5)

その結果は?

彼は決してゆるがされない。正しい者はとこしえに覚えられる。

その人は悪い知らせを恐れず、主に信頼して、その心はゆるがない。

その心は堅固で、恐れることなく、自分の敵をものともしないまでになる。(6-8)

多くの人々は自分自身だけを信頼するので、将来について心配します。どうしてでしょうか。なぜなら、将来をコントロールできないからです。だから、悪い便りを聞くと、彼らはパニックになります。

しかし、神様に信頼したら、悪い時が来ても、私たちは安心できるし、将来を恐れません。

どうしてでしょうか。

なぜなら、私たちは全てをコントロールできる方の手に任せるからです。そして、人々が私たちを攻めても、神様は私たちに勝利を与えてくださいます。

詩人は悪者についてこう言います。

悪者はそれを見ていらだち、歯ぎしりして溶け去る。悪者の願いは滅びうせる。(10)

その一方、神様に信頼する人は周りの人々を祝福します。それに、神様は私たちに栄光を与えてくださいます。(9)

だから、毎日この聖く、良く、素晴らしい神を恐れ、喜びましょう。

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詩篇

主の御業に思いを巡らす

私たちが悪いことについて考え続けるのは簡単なことです。私たちは自分の問題を思い出して、その問題のことしか考えられなくなります。

そして、私たちにその問題を解決する力がないなら、私たちのストレスは増します。私には何度もそんな経験があります。

でも、詩人は私たちが他のことについて考えるように励まします。

ハレルヤ。私は心を尽くして主に感謝しよう。直ぐな人のつどいと集会において。

主のみわざは偉大で、みわざを喜ぶすべての人々に尋ね求められる。

そのみわざは尊厳と威光。その義は永遠に堅く立つ。(詩篇111:1-3)

この箇所では、詩人は神様がどんな方であるか、また神様が何をしたか考えるように私たちを励まします。

神様はどんな方でしょうか。神様は義の神だし(3)、情け深く、あわれみ深い神です。(4)。また、神様の戒めは確かです。(7)

神様は何をしたでしょうか。イスラエル人を憐れんで、エジプトから彼らを贖い、砂漠で彼らのニーズに備え(5)、彼らに自分の土地を与えて、国として確立しました(6)。

そして、イスラエルの民の罪のゆえに追放された時、神様は彼らをバビロンから贖ってくださいました。(9)

それに、神様は私たちのためにもそうして下さいます。神様は私たちのニーズに備え、私たちを憐れみ、サタンの国から私たちを贖い、私たちを神様の民にし、約束の地に導いてくださいます。

私たちの命は一時的なものです。だから、私たちが天国に行くと、この世の苦しみとトラブルをすぐに忘れます。

それなら、どうして、私たちは心配しているでしょうか。心配すると、私たちはストレスを溜めるだけです。

だから、詩人はこう書きます。

主を恐れることは、知恵の初め。(詩篇111:10)

私たちが神様に畏敬の念を抱くとき、この世の一時的なトラブルは小さく見えるようになります。

私たちが神様がどんな方であるか、また、神様が何をされたか思いを巡らすと、私たちは心配しなくて良いと悟ります。

それこそが知恵ではありませんか。

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詩篇

苦々しい心と許し、憐れみと正義

詩篇109篇は「呪いの詩篇」です。

時々、詩篇の中で、ダビデは自分の敵を呪ったり、その敵に対する神様の裁きを求めて祈ります。

多くの人々は(私も)こんな詩篇を読む時、気持ちがよくありません。なぜなら、イエス様は私たちに自分の敵を赦しなさいと命じられたからです。

以前、このブログでこのことについて説明したことがあるけど、繰り返した方が良いと思います。

王として、ダビデは正義の大切さをよく知っていました。彼は悪が続くことを許しませんでした。だから、ダビデはその悪者が自分が蒔いたものを刈り入れるように祈りました。

ダビデは無実なのに敵に責められたので、ダビデは彼らが裁かれるように祈ったのです。

「どうか、悪者を彼に遣わしてください。なじる者が彼の右に立つようにしてください。」という言葉は少し難しいです。

もしかしたら、ダビデは彼らも不公平に責められる経験を知ることを望んだのかもしれません。

そして、ダビデは祈ります。

その子らはみなしごとなり、彼の妻はやもめとなりますように。

彼の子らは、さまよい歩いて、物ごいをしますように。その荒れ果てた家から離れて、物ごいをしますように。(詩篇109:9-10)

それは酷い祈りです。とはいえ、その悪者は他の家族をそのように苦しませたのです。

最近、私はニュースを見て、ある殺人者が刑務所で自殺したことを聞きました。彼は婚約者と娘を残しました。

私たちの罪は自分自身に影響を与えるだけでなく、私たちが愛する者にも影響を与えてしまいます。

そして、私たちが悔い改めないなら、神様の赦しを決して知ることがありません。

けれども、このことを覚えていてください。私たちは正義を望むかもしれないけど、苦々しい心を持ってはいけません。なぜなら、苦々しい心は相手を傷つけるよりも、自分自身を傷つけるからです。

興味深いのは、ペテロがこの詩篇をユダに当てはめたことです。ユダは理由もなくイエス様を裏切り、善にかえて悪を与え、愛にかえて憎しみを返しました。

そして、彼が決して悔い改めなかったため、神様は彼を赦されませんでした。その結果、彼の人生は短く終わり、彼の務めと立場は他の人に引き継がれました。

しかし、イエス様はユダに対して苦々しい心を持っておられませんでした。むしろ、最後の晩餐ではユダの足を洗い、彼にパンを与えられました。

そして、ユダが裏切るためにゲツセマネの園に来た時も、イエス様は苦々しさを示されませんでした。むしろ、イエス様はユダに対して情け深く接しておられました。

イエス様は騙されやすい方ではありませんでした。イエス様はユダの性格と動機をよく知っておられました。

それでも、イエス様はユダに憐れみと愛を示されました。その愛と憐れみによって、イエス様は彼の頭に燃える炭火を積まれたので(箴言25:21-22)、結局ユダは自分の罪悪感を感じて、自殺しました。

けれども、イエス様は苦々しさに汚れませんでした。

ダビデも苦々しさに汚れませんでした。一回だけ、ダビデは苦々しい心を持って、誰かを殺したいと思いました。

けれども、彼は本当の正義を思い出して、その苦々しい心を手放し、その人に憐れみを与えました。そして、彼が神様の正義を見たとき、この詩篇のように、彼は喜びました。

私は、この口をもって、大いに主に感謝します。私は多くの人々の真ん中で、賛美します。

主は貧しい者の右に立ち、死刑を宣告する者たちから、彼を救われるからです。(30-31)

だから、苦々しい心を手放しましょう。むしろ、憐れみ、赦し、そして正義を大事にしましょう。

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詩篇

私たちの王と祭司

これは、本当に有名なメシアについての詩篇です。イエス様はその詩篇を引用して、パリサイ人が答えられない謎をかけられました。(マタイ22:41-45)

詩篇110篇では、主(つまり、天の父)は、ダビデの主(つまり、メシヤ)にこう言います。

わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。(詩篇110:1)

昔は、戦勝した王は敗戦した王の首を踏みました。

この箇所では、天の父がイエス様に敵を打ち勝たせることを約束しておられます。また、イエス様がご自身に逆らう者さえも支配されることを約束しておられます。

しかし第4節によれば、イエス様はただの王ではありません。イエス様は私たちの祭司でもあります。

ただし、イエス様はアロンの系統に属する祭司ではありません。むしろ、天の父はこう言われました。

主は誓い、そしてみこころを変えない。「あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司である。」(4)

アブラハムの時代、メルキゼデクは祭司であり、王でした。

ダビデとその息子ソロモンは王でしたが、時に祭司のように、いけにえをささげたり、主の名によって人々を祝福したりしました。それでも、彼らは祭司ではありませんでした。

しかし、イエス様は私たちの王であり、祭司でもあります。

ただし、アロンの系統に属する祭司の職と、イエス様の祭司の職には大きな違いがあります。アロンとその子孫は、一時的に祭司として神様に仕えました。

その一方、イエス様は永遠の祭司です。なぜなら、イエス様は永遠の方だからです。(へブル人への手紙7:24)

そして、6節によれば、最後の日にイエス様はすべての国々を裁かれます。その日、すべての人々はイエス様の王座の前に立って、裁かれます。

良い知らせは、イエス様は私たちの大祭司なので、天の父の前で私たちのためにとりなしてくださることです。だから、私たちは神様を恐れる必要はありません。

むしろ、へブル人への手紙の著者はこう言います。

ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(へブル4:16)

イエス様、あなたは私の王と神と裁判官です。けれども、一番感謝しているのは、あなたは私の大祭司であることです。

あなたは私のためにとりなし、私の罪をあなたの血によって取り去ってくださり、感謝します。

けれども、それよりも、あなたが本当に素晴らしい神であることを感謝します。あなたの名前によって祈ります。アーメン。

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詩篇

私たちの話を伝える

私はずっとクリスチャンだったけど、最近まで、詩篇107篇の美しさに気づいていませんでした。特に1-2節は私の心を打ちました。

「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」

主に贖われた者はこのように言え。(詩篇107:1-2)

ちょっとパラフレースだけど、ある英語の聖書は「主に贖われた者はこのように言え」を「主に贖われた者は自分の贖いの話を伝え」と訳しています。

この詩篇はそのような話です。人々は自分の贖い話をシェアして、神様を賛美します。

この詩篇は、賛美の言葉で始まります。イスラエルの詩篇では、この言葉がよく見られます。

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。(1)

この詩篇は、どうやって神様が私たちを贖って、自分の慈しみを表されたかを宣言します。

イスラエル人は、砂漠でさ迷って、飢え、渇き、自分の家がありませんでした。けれども、彼らが神様に叫んだら、神様は彼らの声を聞き、安全な所に導き、食べ物と水を備えてくださいました。

そのように、私たちは罪にさ迷って、霊的に飢えたり渇いたりし、平安を見つけませんでした。しかし、私たちが神様に叫んだら、神様は私たちを喜びと平和深い所に導いてくださいました。だから、私たちは満足します。

そして、詩人は囚人について歌います。彼らは神様に逆らったので、暗闇に住んでいました。けれども、彼らが神様に叫んだので、神様は彼らの鎖を打ち砕き、救い出してくださいました。マナセ王はそれを経験しました。

そのように、私たちも、神様を知っていましたが、神様に背を向けました。私たちは自由を求めて、この世の物を追い求めました。

しかし、私たちが追い求めたもの、つまり、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、かえって私たちを奴隷にしました。

それでも、私たちが神様にもう一度向かった時、神様はその鎖を砕いて、私たちを本当の自由に導いてくださいました。

ある人々は、自分の罪によって、病を経験しました。けれども、彼らが神様に叫んだら、神様は彼らを赦し、癒してくださいました。ダビデも、その経験があったかもしれません。(詩篇30,32,38-39)。

そのように、神様は私たちも注目を得るために倒されました。しかし、私たちが悔い改めたら、神様はすぐに赦してくださいました。

時々、私たちは人生の嵐に巻き込まれます。時々、それは私たちのせいですが、時々他の人のせいで苦しみます。それでも、私たちが神様に叫んだら、神様は私たちを救い出してくださいました。

他の人々は砂漠を渡った時に神様の備えを見たけれど、神様が約束の土地に着くと、彼らはすぐにそのことを忘れたので、自分の罪によってすべてを失ってしまいました。イスラエルの歴史はその通りでした。

けれども、彼らが神様に向かったら、神様は彼らをその土地に戻らせ、もう一度彼らを祝福してくださいました。

あなたもそのような経験があるかもしれません。砂漠で神様の祝福を見たのに、あなたの人生が上手くいき始めたら、神様を忘れたので、すべてを失ってしまいます。それでも、私たちが悔い改めたら、神様は私たちを赦し、癒してくださいました。

だから、私たちはどう反応するべきでしょうか。

彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。(15,21,31)

また、私たちの話を次の世代に伝えましょう。そうすれば、彼れらはこれらのことに心を留め、主の恵みを悟ります。(43)

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詩篇 歴代誌第一

不従順の歴史、憐れみの歴史

詩篇106篇では、ダビデはイスラエルの歴史を伝えます。けれども、その歴史はいつもポジティブではありません。

何回も、ダビデは、どうやってイスラエル人が神様に背を向けたかを話します。その話は私たちの人生も反映します。

1. イスラエル人は神様に逆らいました。(詩篇106:6-7)

これはこの詩篇の主要なテーマの一つです。彼らは逆らうことを選びました。

一つの理由は、彼らが神様の御業をすぐに忘れたからです。何回も彼らの目の前で神様は素晴らしい奇跡を行われました。けれども、トラブルが来るとき、彼らはその御業を覚えていませんでした。

だから、何回も、彼らは罪を犯したのです。

どれくらい私たちもそうするでしょうか。神様が私たちのために何をしてくださったか忘れるので、困る時に、私たちは文句を言い、神様を責め、自分の道を行きます。

2. 彼らは自分の欲望に負けました。(14)

イスラエル人は肉を貪りました。神様が肉を与えてくださいましたが、そのあと、疫病が発生したので、たくさんの人々が亡くなりました。

そのように、私たちの欲望に従えば、結局私たちは滅びます。例えば、性病や、心臓麻痺や、ガンにかかります。

あなたは貪ったものを得るかもしれませんが、結局その代価を払うことになります。

3.彼らは本当の神の代わりに、他の神々を礼拝し始めました。(19-20,28)

そのように、私たちもよく神様に背を向け、違うものを追い求めます。私たちはセックスやお金や、この世の物を追い求めます。それらのものが私たちの「神」になります。

だから、私たちは心のすべてを神様に捧げなくなります。また、それらの物は私たちを神様から奪います。

4. 神様の約束を信じず、神様の良い計画を侮りました。(24-27)

だから、彼らは文句を言って、神様が約束したものを受け取れませんでした。

どれくらい、私たちもそうするでしょうか。私たちは聖書を読んで、神様の良い計画を見ますが、神様がその約束を守ることを信じません。

だから、神様の言葉に従わないので、神様が約束したものを受け取れません。

5. 彼らは周りの国民のようになりました。彼らはその国民の価値観と道徳を受け入れました。(34-39)

多くのクリスチャンもそうします。神様のために、この世に影響を与えずに、かえってこの世の民のようになるので、神様が憎むことをし始めます。

この詩篇では、イスラエル人の失敗がよく見えます。しかし、神様の憐みも見えます。

何回も、自分の罪によって苦しんだ時に、イスラエル人が神様に叫んだので、神様は彼らを救い出してくださいました。

そのように、私たちが罪に落ちるとき、本当に悔い改めると、神様は赦してくださいます。

だから、ダビデは歌います。

私たちの神、主よ。私たちをお救いください。国々から私たちを集めてください。あなたの聖なる御名に感謝し、あなたの誉れを勝ち誇るために。

ほむべきかな。イスラエルの神、主。とこしえから、とこしえまで。すべての民が、「アーメン」と言え。ハレルヤ。(47ー48)

主よ。私は何度も罪を犯しました。何度も私はあなたが私のために何をしてくださったか忘れるので、感謝することも忘れてしまいます。

何度も私はあなたの約束を信じることをせず、自分の道を行き、あなたに背きます。

私はよくこの世の神を追い求めます。また、何度も私はこの世の民のようになります。

赦してください。私を変えてください。

あなたの私に対する憐れみを感謝します。

毎日、私がもっとあなたのようになりますように助けてください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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詩篇 歴代誌第一

ご自身の約束を覚えておられる神

詩篇105篇のテーマは、神様がご自身の約束を覚えておられる方であるということです。

特に、詩人はアブラハム、イサク、ヤコブに対する神様の約束について語ります。

神様は彼らにカナンの地を与え、その子孫から大きな国が起こると約束されました。そして、彼らとその子孫がどのような試練に直面しても、神様はその上に御手を置いて守ってくださいました。

だから、アブラハムとイサクとヤコブが寄留の他国人としてカナンにいたとき、神様は彼らを守ってくださいました。(詩篇105:12-15)

ヨセフが奴隷としてエジプトに住んでいたとき、神様は彼に対する約束を守って、彼を支配者にされました。(17-22)

そして、エジプト人がイスラエル人を迫害したとき、神様はパロとその民を裁かれました。(23-38)

イスラエル人が水と食べ物を必要としたとき、神様は彼らのニーズに備えられました。(40-41)

そして、最終的に神様がアブラハムとイサクとヤコブに対する約束を守られたので、ダビデはこの歌を書いて神様をほめたたえました。

だから、覚えておきましょう。神様はいつもご自身の約束を守られます。何が起こっても、どんな試練に直面しても、神様が忠実な方なので、私たちは神様に信頼できます。

だから、パウロはこう書きました。

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。。。

そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

私たちは、この望みによって救われているのです。

目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。

もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。(ローマ8:18,23-25)

ある日、神様がイスラエル人に安息を与えてくださったように、私たちにも安息を与えてくださいます。その日まで、ダビデは私たちに言います。

1.主が何をしてくださったか思い出して、感謝せよ。(1、5)

時々、私たちは自分の問題に巻き込まれて、主からの祝福を感謝することを忘れます。

そのとき、私たちの問題に圧倒されます。しかし、神様からの祝福を思い出し、感謝するとき、希望と喜びは戻ります。

2.主に歌え。私たちの問題に圧倒されるとき、主の聖なる名を誇りとせよ。喜ばせよ。(2-3)

そうすれば、私たちはどれくらい神様が大きいか、またどれくらい私たちの問題が小さいか分かるようになります。そして、私たちの問題に焦点を当てずに、私たちの助け主に照準を合わせます。

3.主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。(4)

あなたの人生が辛すぎるとき、また希望がないとき、主を慕い求めてください。その力を尋ね求めてください。そうすれば、神様はあなたを助けてくださいます。

パウロはこう書きました。

御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。

私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ書8:26-28)

神様は私たちへの約束を覚えてくださり、守ってくださいます。だから、主を思い出し、慕い求め、賛美しましょう。

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詩篇

創造者とその被造物

ダビデがこの詩篇を書いたかどうか分かりませんが、詩篇103篇のように、詩人はこう歌い始めます。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。(詩篇104:1)

けれども、103篇と違って、主の愛と憐れみのためではなく、神様の被造物のために詩人は神様に感謝します。彼は被造物を見る時、神様の素晴らしさを驚き、歌います。

わが神、主よ。あなたはまことに偉大な方。あなたは尊厳と威光を身にまとっておられます。

あなたは光を衣のように着[る](詩篇104:1-2)

それを読むとき、私はヨハネの言葉を思い浮かべます。

神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。(第一ヨハネ1:5)

要するに、神様は聖なる方です。だから、光を見ると、私たちは神様の栄光と聖さを垣間見ることができます。

そして、詩人は星空に感心します。神様は、天を幕のように広げておられます。そして、雲は神様の車です。

詩人がこの詩篇を書いたとき、彼は風と稲妻を神様の使いと召使いと呼びました。それらは神様の栄光を宣言し、神様の目的を果たします。

しかし、ヘブル人への手紙の著者はこの箇所を天使に当てはめました。彼が言ったのは、イエス様が神様のひとり子ですが、稲妻と風のように天使はただの召使いということです。

そして、詩人は創世記1章について話します。つまり、神様は土地を造り、植物や動物を造られました。また、神様は日や月や季節を造られました。また、神様は動物にエサを与えられます。そして、神様はすべての物に命を与えてくださいます。

だから、詩人はその被造物のために神様をほめたたえました。

主よ。あなたのみわざはなんと多いことでしょう。あなたは、それらをみな、知恵をもって造っておられます。地はあなたの造られたもので満ちています。

そこには大きく、広く広がる海があり、その中で、はうものは数知れず、大小の生き物もいます。(詩篇104:24-25)

主の栄光が、とこしえにありますように。主がそのみわざを喜ばれますように。

主が地に目を注がれると、地は震え、山々に触れられると、山々は煙を上げます。(31-32)

そして、詩人はこの歌をまとめて歌います。

私は生きているかぎり、主に歌い、いのちのあるかぎり、私の神にほめ歌を歌いましょう。

私の心の思いが神のみこころにかないますように。私自身は、主を喜びましょう。(33-34)

それは最も大切な教訓です。神様が私たちの創造者なので、神様は私たちの賛美に値する方です。だから、私たちは毎日、私たちの言葉や思い、行動で神様を礼拝しましょう。

なぜなら、神様を私たちの創造主として認めない人は裁かれて滅びるからです。(35a)

だから詩人は歌います。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。ハレルヤ。(35b)

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詩篇

神様の愛とあわれみ

詩篇103篇では、ダビデは神様の愛と憐れみについて歌います。

いつダビデがこの詩篇を書いたかは分かりませんが、多分バテ・シェバとの罪の後かもしれません。

もしかしたら、ダビデはイスラエル人の人数を数えた罪の後に、この詩篇を書いたかもしれません。

とにかく、彼の罪が赦された後に、彼は歌います。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。(詩篇103:1)

私はこの箇所を読むと、イエス様の言葉が思い浮かびます。つまり、多くの罪が赦された人は神様をより多く愛します。(ルカ7:47)

ダビデは、多く赦されたので、彼の神様に対する愛はより大きかったのです。

彼は酷い罪を犯しても赦され、彼の健康が回復され、死から救われました。それに、彼が何回失敗しても、神様は彼に恵みとあわれみとの冠をかぶせてくださいました。(2-4)

そして、ダビデは神様がモーセに何を言われたかを思い出しました。神様はご自身についてこう言われました。

主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。(8)

ダビデはその言葉に加えました。

主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。

私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。

天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。

東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。(9-12)

その言葉が大好きです。

「絶えず争ってはおられない。」

あなたのお父さんやお母さんが、何度もあなたを責めたことがあるかもしれません。彼らがあなたを決してほめず、いつも批判していたかもしれません。だから、あなたは神様もそのような方だと思ってしまうかもしれません。

しかし、神様は絶えず争う方ではありません。

そして、私たちが悔い改めると、神様はご自身の怒りを心の中に持ち続けることはありません。

時々、人々は「あなたを許してあげる」と言いますが、私たちがもう一度失敗したら、彼らは私たちの以前の失敗も思い出させます。

神様はそうなさいません。神様は私たちを赦す時、私たちの罪をもう思い出されません。

それに、神様は私たちの弱さを知っておられるので、私たちをあわれんでくださいます。

神様は人間になられたので、私たちの弱さをよく知っておられます。私たちのようにイエス様は誘惑されましたが、決して罪を犯されませんでした。しかし、その経験によって、私たちの誘惑が分かるようになりました。

だから、私たちは悔い改め、神様を敬うと、神様の恵みは永遠から永遠まで私たちの上にあります。(13-17)

だから、ダビデは天の者と全地の者が神様をほめたたえるように招きます。ダビデも賛美してこう歌いました。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。(22)

主よ、あなたの愛とあわれみを感謝します。私が弱くて、罪を犯しても、あなたが私をまだ愛してくださることを感謝します。あなたは私を争わずに、恵み深い目で見てくださいます。

どうか、その恵みとあわれみを周りの人々にシェアするように助けてください。アーメン。

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詩篇

決して変わらない神

私は詩篇102篇の最後の部分が大好きです。

あなたははるか以前に地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。

これらのものは滅びるでしょう。しかし、あなたはながらえられます。すべてのものは衣のようにすり切れます。あなたが着物のように取り替えられると、それらは変わってしまいます。

しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。(詩篇102:25-27)

要するに、いつかこの世が滅びるので、神様はこの世を新しくしなくてはなりません。けれども、神様は決して変わりません。

どうしてその真理は大切なのでしょうか。それは、私たちがどんなに失敗しても、私たちに対する神様のあわれみが決して絶えないからです。

おそらく、ユダヤ人がバビロンに追放された時期に、詩人はこの詩篇を記したのでしょう。だからこそ、彼はイスラエルの民の苦しみを目にした時、涙を流しました。

神様がご自身の怒りを彼らに注がれたため、敵はあざ笑い、イスラエルの民は絶望の中にありました。

けれども、詩人は叫びます。

しかし、主よ。あなたはとこしえに御座に着き、あなたの御名は代々に及びます。

あなたは立ち上がり、シオンをあわれんでくださいます。今やいつくしみの時です。定めの時が来たからです。(詩篇102:12-13)

エレミヤの預言によれば、イスラエル人の追放は70年続きます。だから、おそらくその追放の終わりが迫るとき、詩人は祈りました。

「私たちがエルサレムに帰る時間がもうすぐ来ます。だから、立ち上がって、私たちをあわれんでください。」

そして、彼は将来について考えました。そのとき、神様がエルサレムを建て直されるので、周りの国々は驚きます。

詩人はこう歌いました。

こうして、国々は主の御名を恐れ、地のすべての王はあなたの栄光を恐れましょう。

なぜなら、主はシオンを建て、その栄光のうちに現われ「ます。」(詩篇102:15-16)

その日を楽しみにして、詩人は主のあわれみを喜び、歌います。

窮した者の祈りを顧み、彼らの祈りをないがしろにされなかったからです。(詩篇102:17)

また、

主はその聖なるいと高き所から見おろし、天から地の上に目を注がれました。

捕らわれ人のうめきを聞き、死に定められた者を解き放つために。(詩篇102:19-20)

この箇所が大好きです。私たちが罪で縛れて、死に値したのに、神様は私たちの叫びを聞いて下さって、私たちを解放してくださいました。

いつかの日に、私たちは私たちを贖った神の前に集まり、礼拝します。それに、私たち永遠まで神様の御前に住みます。(詩篇102:22,28) 私はそれを楽しみにしています。

主よ、あなたは永遠からの神です。人々は変わるかもしれませんが、あなたは決して変わりません。私たちが罪を犯しても、あなたのあわれみは決して変わりません。だから、あなたを賛美します。

あなたがもう一度来るまで、私に対するあなたのあわれみが毎日新しくなるように。あなたの忠実さを感謝します。アーメン。

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詩篇

神様のようになる事

詩篇101篇では、私たちはなぜ神様がダビデを神様の心にかなう人だと呼んだのか分かります。

ダビデは歌います。

私は、恵みとさばきを歌いましょう。主よ。あなたに、ほめ歌を歌いましょう。(詩篇101:1)

神様のダビデに対する愛のため、また、ダビデの神様に対する愛のため、ダビデはもっと神様のようになりたいと願っていました。つまり、ダビデは正義を愛し、清い人になりたかったのです。だから、彼は言いました。

私は、全き道に心を留めます。(2)

そして、彼はどのように神様のようになりたがったかをリストアップします。

彼は自分の家庭生活によって神様を喜ばせたかった。だから、家でも、卑しいことを見ませんでした。(2-3)

私たちが教会や仕事に行く時、敬虔な人生を生きるふりをするのは簡単です。けれども、正直な人は、家でも、外でも同じように振る舞います。

そして、ダビデは人の罪を憎み、その罪に参加しないと言いました。だから、誰かが隣人を謗った時、ダビデはその人を黙らせました。また、彼らが高ぶって、人を見下したり、神様を侮ったりしたら、ダビデは彼らのことを我慢できませんでした。

しかし、どれぐらい私たちは悪を耐えるでしょうか。私たちの友達が噂話をする時、どれぐらい私たちも参加するでしょうか。どれぐらい、私たちは高ぶって、相手を見下すでしょうか。

ダビデは神様を愛していたので、そんな態度を憎み、その罪に参加しませんでした。

それに、ダビデは友達を選ぶ時、気を付けました。また、誰のアドバイスに従ったかを気を付けました。だから、彼はこう言いました。

私の目は、国の中の真実な人たちに注がれます。彼らが私とともに住むために。全き道を歩む者は、私に仕えます。(6)

最後に、自分の家族のリーダーとして、また、国のリーダーとして、真理と正義によって治めることを決心しました。(7-8)

私たちは本当に神様を愛するなら、そんな態度は私たちの心を治めるべきです。なぜなら、神様の心にかなう人はそのような人だから。

私たちがダビデのように、私たちを愛する神、また私たちが愛する神のようになるように。

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詩篇

本当の礼拝

詩篇100篇は礼拝のための歌です。

だから、この詩篇の始めに、詩人は私たちを神様を礼拝するように招きます。

全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。

喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。(詩篇100:1-2)

そして、詩人は私たちの礼拝の理由を教えます。つまり、詩人は神様がだれであるか、私たちがだれであるか、また私たちの神様との関係は何であるかを反省します。

神様は誰でしょうか。神様は「主」です。

この話を進める前に、少し説明した方が良いと思います。

新改訳では、時々「主」は太字で書かれます。時々、「主」は普通のフォントで書かれます。どうしてでしょうか。

「主」が太字で書かれたとき、それは「ヤハウェ」という言葉です。「ヤハウェ」は神様の名前です。

実は、私たちはその名前の子音しか知りません。なぜなら、ユダヤ人は神様の名前を尊重したので、聖書を読むとき、決して「ヤハウェ」と言わなかったからです。その代わりに「主」と言いました。

そして、ヤハウェの名前を書くとき、子音しか書きませんでした。だから、今では誰もヤハウェの本当の発音をよく知りません。誰もヤハウェの母音を知らないからです。

そういうわけで、日本語の聖書と英語の聖書のほとんどは神様の名前のために「主」を使います。

とにかく、太字の「主」を見るなら、その代わりに「ヤハウェ」と入れ替えてみてください。

多分「ヤハウェ」という名前は、出エジプト記3章14節から来ます。そのとき、モーセは神様に尋ねました。「あなたの名前は何ですか。」

神様は「わたしは、『わたしはある』という者です。」と答えられました。

ヘブライ語では、「ヤハウェ」という名前は「ある」という動詞から来ています。

その名前によって、神様が私たちに言われるのは、「私は永遠の方です。私は永遠から存在し、永遠まで存在します。私は決して変わりません。」ということです。

そして、神様は私たちの創造主です。

それでは、私たちは誰でしょうか。そして、私たちの神様との関係は何でしょうか。私たちは神様のものです。私たちは神様に属するものです。なぜでしょうか。

それは神様が私たちを造られたからです。私たちは自分自身を造りませんでした。神様は私たちの創造主ですから、私たちは正当に神様に属します。だから詩人は言います。

私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。(3)

神様の羊として私たちはどうすればいいでしょうか。

感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、入れ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。(4)

以前のブログでは、私はジム・エリオットという人について話しました。「Shadow of the Almighty」という本の一節は本当に私の心を打ちました。エリオットは詩篇100篇4節についてこう書きました。

どうして、羊はその門に入っているのでしょうか。どうして、主の大庭に入っているのでしょうか。歌を歌って、羊の交わりを楽しむためでしょうか。それだけでしょうか。違います。

彼らは祭壇に行っていました。彼らが牧場で食べた目的は、彼らを試し、いけにえの準備をさせられるためです。

だから、神様に感謝しましょう。なぜなら、あなたはその祭壇に値するものとして認められたからです。

賛美しながら、神様の仕事をしなさい。。。

天のお父様、あなたの御心でしたら、私の命、私の血を取って、あなたの火で焼き尽くしてください。

私の人生を救おうとは思いません。なぜなら、この人生は私の物ではないからです。

私の人生のすべてを取って、用いてください。

この世のために私の血を供え物として注いでください。なぜなら、私の血は、あなたの祭壇の前に流れる時だけに価値があるからです。

あなたはその言葉が極端だと思うかもしれませんが、多分エリオットはパウロの言葉をよく理解していました。

そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。

あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(ローマ12:1)

実は、エリオットはアウカ族の救いのために自分の血を注ぎました。

だから、覚えておきましょう。礼拝はただ賛美の歌を歌うことではありません。

礼拝は生きた供え物になることです。

礼拝は、自分の目的のためでなく、神様の目的のために生きることです。

礼拝は主を喜ばせることです。

それらが本当の礼拝です。

時々、礼拝の代価は高いです。しかし、主にすべてを捧げると、あなたは喜びを知ります。どうして私はそう思うでしょうか。

主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。(5)

その言葉を信じないなら、主に人生を捧げるのは難しくなります。

けれども、神様が良い方であることを信じたら、また、神様が忠実で、私たちを愛して、私たちの最善を望んでおられることを信じたら、神様にすべてを捧げることは当然なことになります。

あなたはどうですか。そのことを信じるでしょうか。神様を本当に礼拝しているでしょうか。

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詩篇

聖なる神

私たちが神様の性格について考えるとき、たいてい「愛」という言葉がすぐに浮かぶでしょう。

もちろん、神様は愛です。 しかし、この箇所では、もう一つの面を見ることができます。 つまり、神様は聖なる方であるということです。

だから、詩篇97篇と99篇の最初の言葉は少し異なります。

詩篇97篇では、詩人は歌います。

主は、王だ。地は、こおどりし、多くの島々は喜べ。(97:1)

けれども、99篇では、詩人はこう歌います。

主は王である。国々の民は恐れおののけ。

主は、ケルビムの上の御座に着いておられる。地よ、震えよ。(99:1)

どうして神様の前に私たちは恐れおののくのでしょうか。どうして、地は震えるのでしょうか。なぜなら、神様は聖なる方だけど、私たちはそうではないからです。

この詩篇では、詩人は何度も神様の聖さについて歌います。

国々の民よ。大いなる、おそれおおい御名をほめたたえよ。主は聖である。(3)

また、

われらの神、主をあがめよ。その足台のもとにひれ伏せ。主は聖である。(5)

また、

われらの神、主をあがめよ。その聖なる山に向かって、ひれ伏せ。われらの神、主は聖である。(9)

神様の聖さを見ると、何度も人々は神様を恐れ、平伏しました。モーセ(出エジプト記3:5-6)、イザヤ(イザヤ書6:5)、ヨハネ(黙示録1:17)はそうしました。

彼らは神様を見る資格がないことをよく知っていました。むしろ、彼らは自分の罪のために死に値することをよく知っていたのです。

けれども、何度も神様は彼らとイスラエル人にあわれみを与えてくださいました。

だから、詩人はそのあわれみについて歌います。

あなたは、彼らにとって赦しの神であられた。しかし、彼らのしわざに対してはそれに報いる方であった。(8)

イスラエル人は神様に信頼しそびれたのに、神様は彼らを決して捨てませんでした。彼らが罪を犯した時、神様は彼らを懲らしめられましたが、彼らを捨てずに、あわれんでくださいました。

それに、モーセや、アロンや、サムエルが不完全な人間なのに、彼らが神様に祈った時、神様は応えてくださいました。

ここでの良い知らせは、神様が私たちにもそのように扱ってくださることです。

神様は聖なる方で、私たちがそうではないのに、私たちを決して捨てません。私たちが何度も失敗しても、神様は私たちを赦し、私たちの祈りに答えてくださいます。

だから、神様の聖さとあわれみを覚えていて、毎日神様をほめたたえましょう。

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詩篇

私たちの救いを喜ぶ

私たちはこの詩篇の著者を知らないため、いつ書かれたのかは分かりません。

もしかすると、イスラエル人がエジプトから救い出された後に書かれたのかもしれません。あるいは、ダビデが王になった時に書かれたのかもしれません。または、イスラエルが国として確立された後に書かれた可能性もあります。

そんなわけで、私にはいつ書かれたのか分かりませんが、詩篇98篇を読むと、その詩人の喜びがはっきり見えます。

詩人は歌います。

新しい歌を主に歌え。(詩篇98:1)

時々私はギターを弾いて、昔の賛美の歌を歌います。その歌は今も好きですが、教会で新しい歌を歌うのも好きです。

昔の歌は素敵ですが、歌いすぎるとすぐに飽きてしまいます。なぜなら、その歌の意味を考えずに歌い始めてしまうからです。祈りを歌うというより、カラオケになってしまいます。

その一方、新しい歌を歌うとき、何を歌っているのか考えなくてはなりません。だから、もう一度私たちは神様が私たちのために何をしてくださったかを思い出します。

だから、詩人はこの新しい歌を書きました。彼は歌いました。

奇しいわざをなさった。その右の御手と、その聖なる御腕とが、主に勝利をもたらしたのだ。

主は御救いを知らしめ、その義を国々の前に現わされた。

主はイスラエルの家への恵みと真実を覚えておられる。地の果て果てまでもが、みな、われらの神の救いを見ている。(1-3)

その箇所を読むと、イザヤ書59章を思い出します。イザヤはこう書きました。

主はこれを見て、公義のないのに心を痛められた。主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。

そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。(イザヤ59:15-16)

神様は世の悪を見る時、その悪に取り組む人を見ませんでした。だから、神様自身が何かをされました。

私たちが自分の罪のせいで神様が見えなかった時、また私たちが救いを求めなかった時、神様は救いのわざを行われました。パウロはこう書きました。

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ5:8)

だから今、神様を信じる人はその救いを受けることができます。

詩人はその真理が分かったので、こう書きました。

地の果て果てまでもが、みな、われらの神の救いを見ている。(3)

そして、彼は叫びます。

全地よ。主に喜び叫べ。大声で叫び、喜び歌い、ほめ歌を歌え。

立琴に合わせて、主にほめ歌を歌え。立琴と歌の調べに合わせて。

ラッパと角笛の音に合わせて、主である王の御前で喜び叫べ。(4-6)

そして、詩人は全創造物を呼んで、「神様をこの救いのためにほめたたえよう」と言います。(7-8)

私たちの救いを喜ぶことは良いことです。それに、そうするべきです。しかし、詩人の最後の言葉を思い出しましょう。

確かに、主は地をさばくために来られる。主は義をもって世界をさばき、公正をもって国々の民を、さばかれる。(9)

イエス様を救い主として受け入れた人は、もはや罪に定められることがないため、将来の裁きを喜びをもって迎えることができます。

けれども、私たちが愛している人々も、その裁きに備えることができているでしょうか。

もちろん私たちの救いを喜びましょう。しかし、私たちの喜びと希望を周りの人々とシェアしましょう。

そうすれば、彼らもその希望と喜びを知るのです。

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詩篇

私たちの王を喜ぶ

詩篇97篇も、私たちの王の偉大さを喜びます。

詩人は叫びます。

主は、王だ。地は、こおどりし、多くの島々は喜べ。(詩篇97:1)

「地は、小躍りせよ。」

完全な世では、すべての国民は神様を私たちの王として喜ぶでしょう。

完全な世では、彼らは義と裁きが神様の王座の基であることを喜ぶでしょう。(2)

また、彼らは神様の力を喜ぶでしょう。(3-5)

また、神様の栄光を喜ぶでしょう。(6)

しかし今は、この世の人々はそうしません。むしろ、彼らの偶像にしがみついて、お金や、セックスや力を追い求めます。だから、ある日、彼らは恥を見ます。(7)

それでは、私たちは何を喜ぶでしょうか。私たちの王の偉大さを喜ぶでしょうか。それとも恥を与えるものを喜ぶでしょうか。

もし、神様を喜ぶなら、詩人は私たちに言います。

主を愛する者たちよ。悪を憎め。(10)

あなたは神様を愛しながら、悪を抱くことができません。だから、神様を愛するなら、あなたは神様が憎むものを知って、その物を捨てなくてはなりません。

そのような人に関して、詩人は言います。

主は聖徒たちのいのちを守り、悪者どもの手から、彼らを救い出される。

光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。喜びは、心の直ぐな人のために。(10-11)

そして、詩人はこの詩篇をまとめます。

正しい者たち。主にあって喜べ。その聖なる御名に感謝せよ。(12)

あなたは何を喜ぶでしょうか。

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詩篇 歴代誌第一

神様の名前を国々に宣言する

ダビデは神様の契約の箱をエルサレムに持ってきたとき、感謝の詩篇を書きました。

もしかしたら、その詩篇は詩篇96篇、105篇、106篇からのメドレーかもしれません。

もしくは、元々ダビデは一つの詩篇を書いたけど、後でその詩篇を三つの詩篇に分けて、歌詞を少し加えたかもしれません。

とにかく、私はそれぞれの詩篇について書こうと思いました。歴代誌に出た詩篇はその三つの詩篇と少し違うけど、96篇、105篇、106篇だけについて解説します。

今日は96篇について話します。

この詩篇では、私たちが学ぶのは、神様には私たちのための目的があるということです。その目的は何でしょうか。

ダビデはこう歌いました。

新しい歌を主に歌え。全地よ。主に歌え。

主に歌え。御名をほめたたえよ。日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ。

主の栄光を国々の中で語り告げよ。その奇しいわざを、すべての国々の民の中で。

まことに主は大いなる方、大いに賛美されるべき方。すべての神々にまさって恐れられる方だ。

まことに、国々の民の神々はみな、むなしい。しかし主は天をお造りになった。

尊厳と威光は御前にあり、力と光栄は主の聖所にある。(詩篇96:1-6)

私たちの目的は何でしょう。それは、国々に神様の名前を宣言することです。私たちは持っている喜びを周りの人々とシェアするべきです。

ダビデは、「主に歌え」と言います。どうしてでしょうか。神様をほめたたえるためでしょうか。もちろんそうですが、それだけではありません。

ダビデは歌い続けます。

日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ。

主の栄光を国々の中で語り告げよ。その奇しいわざを、すべての国々の民の中で。(2-3)

どうしてそうしなくてはならないのでしょうか。それは、多くの人々がそのことを知らないからです。

まことに、国々の民の神々はみな、むなしい。しかし主は天をお造りになった。(5)

多くの人々は神様を知っていると思っていますが、実は、その神々はただの虚しい偶像です。

だから、私たちは神様の偉大さを宣言するべきだし、裁きの日が来ることも宣言するべきです。だから、ダビデはこう書きました。

国々の民の諸族よ。主にささげよ。栄光と力を主にささげよ。

御名の栄光を主にささげよ。(7-8)

ある日、神様は自分の王座に座り、この世の民は神様を王として認めます。その日について、ダビデはこう言いました。

確かに、主は来られる。確かに、地をさばくために来られる。主は、義をもって世界をさばき、その真実をもって国々の民をさばかれる。(13)

多くの人々は不正義について文句を言います。けれども、彼らが知らないのは、正義が来ると、彼らも裁かれるということです。

もし彼らの罪がイエス様の血によってまだ赦されていないなら、彼らは自分の罪のために裁かれます。

だから、神様はその人々に警告するように私たちを招いておられます。

あなたはどうですか。あなたは周りの人々に神様について話しますか。

彼らは神様の偉大さを知っていますか。また彼らは神様の愛について知っていますか。また、将来の裁きについて知っていますか。

彼らにそのことを宣言するのが私たちの目的です。だから、ただあなたのもらった救いに安心しきってはいけません。むしろ、周りの人々に神様の名前を宣言しましょう。

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詩篇

私たちの賛美と信頼に値する神

私にとって、この詩篇は興味深いものです。なぜなら、この詩篇は賛美と大喜びで始まりますが、深刻な警告で終わるからです。

詩人の言葉を読むと、その詩人の喜びが聞こえます。彼は歌います。

さあ、主に向かって、喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。

感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。(詩篇95:1-2)

どうして、私たちは神様を賛美するでしょうか。

1.神様は大いなる方ですから。(3)

2.神様は王の王だし、すべての神々にまさるから。(3)

3.神様は私たちの創造者ですから。(4-5)

4.それなのに、神様は私たちを本当に愛しておられます。(実は、多分「神様はそのような方だから私たちを本当に愛する」と言った方が良いです。)(7)

だから、詩人は私たちを招待します。

来たれ。私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。私たちを造られた方、主の御前に、ひざまずこう。(6)

けれども、最後に、彼は私たちに警告します。

主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。きょう、もし御声を聞くなら、

メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。

あのとき、あなたがたの先祖たちはすでにわたしのわざを見ておりながら、わたしを試み、わたしをためした。

わたしは四十年の間、その世代の者たちを忌みきらい、そして言った。「彼らは、心の迷っている民だ。彼らは、わたしの道を知ってはいない」と。

それゆえ、わたしは怒って誓った。「確かに彼らは、わたしの安息に、入れない」と。(7-11)

イスラエル人が砂漠を渡った時、水が見つけられなかった時が二回ありました。その時、彼らは神様を信頼せずに、文句を言いました。神様がそこまで彼らのニーズに備えられたのに、彼らは神様を信じませんでした。

その時だけではなく、何回も彼らは文句を言って、神様を信頼しませんでした。彼らは神様が彼らに与えると約束した土地に入ることを拒絶し、エジプトに帰りたがりました。(申命記13-14章)

だから、神様は彼らに言われました。「確かに彼らは、わたしの安息に、入れない。」

だから、詩人は私たちに警告します。「彼らのようにならないでください。あなたの心を堅くしないでください。神様の前にへりくだってください。なぜなら、神様は私たちの賛美と信頼に値する方ですから。」

あなたはどうですか。神様に信頼しますか。神様の道を行っているでしょうか。もしかしたら、自分の道を行っているでしょうか。

もし神様に信頼すると、あなたは神様からの喜びと安息と平和を知ります。しかし、自分自身に信頼すると、それらを失います。

あなたは誰に信頼しているでしょうか。

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詩篇

人々を裁く神、私たちを懲らしめてくださる神

裁きか懲らしめか。私たちの人生に悪いことが起きる時、神様がそのどちらかをしているのではないかと、私たちは混乱することがあります。

だから、私たちが「神様が私を裁いて、罰している」と考えるのは簡単なことです。

けれども、神様はそのように考えておられるでしょうか。

詩篇94篇では、裁きと懲らしめの違いを見ることができます。裁きは神様を拒絶する人のためですが、懲らしめは神様の民のためです。

この詩篇の最初の部分では、詩人は神様が悪者を裁くように祈ります。

地をさばく方よ。立ち上がってください。高ぶる者に報復してください。

主よ。悪者どもはいつまで、いつまで、悪者どもは、勝ち誇るのでしょう。(詩篇94:2-3)

そして、詩人は悪者の行動について話します。その人は「神様は私の罪を見ない」と思っています。

だから、詩人は彼らを責めます。

気づけ。民のうちのまぬけ者ども。愚か者ども。おまえらは、いつになったら、わかるのか。

耳を植えつけられた方が、お聞きにならないだろうか。目を造られた方が、ご覧にならないだろうか。

国々を戒める方が、お責めにならないだろうか。人に知識を教えるその方が。

主は、人の思い計ることがいかにむなしいかを、知っておられる。(8-11)

そして、彼らについて詩人はこう言います。

主は彼らの不義をその身に返し、彼らの悪のゆえに、彼らを滅ぼされます。われらの神、主が、彼らを滅ぼされます。(23)

けれども、神様の子供が罪を犯したら、神様はどうされるでしょうか。神様はどのようにその罪を扱われるでしょうか。

主よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに、戒められ、あなたのみおしえを教えられる、その人は。

わざわいの日に、あなたがその人に平安を賜わるからです。その間に、悪者のためには穴が掘られます。

まことに、主は、ご自分の民を見放さず、ご自分のものである民を、お見捨てになりません。(12-14)

この詩篇によって、私たちは神様の懲らしめについて二つのことを学びます。

一つ目は、神様は私たちの益のために懲らしめてくださるということです。神様は私たちを苦しませるために懲らしめるのではなく、私たちを苦しみから守るために懲らしめてくださいます。

二つ目は、私たちがどんなに失敗しても、神様は私たちを決して見捨てないことです。

それに、神様は私たちを擁護してくださいます。詩人はこう歌いました。

だれが、私のために、悪を行なう者に向かって立ち上がるのでしょうか。だれが、私のために、不法を行なう者に向かって堅く立つのでしょうか。

もしも主が私の助けでなかったなら、私のたましいはただちに沈黙のうちに住んだことでしょう。

もしも私が、「私の足はよろけています」と言ったとすれば、主よ、あなたの恵みが私をささえてくださいますように。

私のうちで、思い煩いが増すときに、あなたの慰めが、私のたましいを喜ばしてくださいますように。(16-19)

つまり、悪者が私たちを攻める時、神様は私たちを擁護してくださいます。サタンが私たちを責める時、神様は私たちを擁護してくださいます。

だから、詩人はこう書きます。

彼らは、正しい者のいのちを求めて共に集まり、罪に定めて、罪を犯さない人の血を流します。

しかし主は、わがとりでとなり、わが神は、わが避け所の岩となられました。(21-22)

だから、神様の子供として、神様の裁きと神様の懲らしめを取り違えないようにしましょう。

私たちが罪を犯すと、神様は私たちを懲らしめてくださいます。しかし、それは私たちに損害を与えるためではなく、私たちの益のためです。

神様は私たちを滅ぼそうとは思っておられません。私たちを救いたいと望んでおられます。だから、覚えておきましょう。あなたがどんなに失敗しても、神様は私たちを決して見捨てません。

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詩篇

全てを治めておられる神

これはとても短い詩篇です。この詩篇を読む時、ジャック・ヘイフォードの歌「Majesty」(「威光」)という歌を思い出します。

詩篇93篇は私たちに神様の威光を思い出させます。また、神様がこの世のすべてを治めておられることを思い出させます。詩人は宣言します。

主は、王であられ、みいつをまとっておられます。主はまとっておられます。力を身に帯びておられます。まことに、世界は堅く建てられ、揺らぐことはありません。

あなたの御座は、いにしえから堅く立ち、あなたは、とこしえからおられます。(詩篇93:1-2)

時々、私たちはこの世を見て、戦争があったり、暴力があったり、いろんな悪があったりするので、本当に神様がこの世を治めておられるのだろうか、と疑います。

けれども、詩人は私たちに思い出させます。

「神様はまだ治めておられます。神様はまだこの世を治めておられます。神様はこの世界を造られ、そのずっと前に、ご自分の王座を確立されました。

だからパニックに陥らないで。思い悩まないでください。むしろ、永遠の方に信頼してください。」

そして、詩人は私たちに尋ねます。「海の力が見えますか。波の音が聞こえますか。どのようにその波が海岸に激しく打ち寄せるか見えますか。神様は海よりも力強い方です。」

そして、詩人は歌います。

あなたのあかしは、まことに確かです。聖なることがあなたの家にはふさわしいのです。主よ、いつまでも。(5)

神様は威光である方だけではなく、聖なる方です。私はそれを聞いて慰められます。なぜなら、神様が力強くてすべてを治めておられるけれど、神様が悪を愛する方なら、私たちは本当に困るからです。

しかし、神様は聖なる方であり、良い方であり、正義の方です。

だから、神様の民として、私たちは聖なる民にならなければなりません。へブル人への手紙の著者はこう書いています。

聖くなければ、だれも主を見ることができません。(へブル12:14)

だから、神様の威光と聖なるさを覚えて、聖さを求めましょう。

そしてある日、私たちは自分の目で、すべてを治めておられる神様を見ることになります。

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詩篇

神様の御名にほめ歌を歌う

詩篇92篇は安息日のために書かれました。神様はイスラエル人が神様を礼拝するために安息日を聖別されました。だから、この詩篇では、詩人は神様を賛美します。

私は1-2節が好きです。

主に感謝するのは、良いことです。いと高き方よ。あなたの御名にほめ歌を歌うことは。

朝に、あなたの恵みを、夜ごとに、あなたの真実を言い表わすことは。(詩篇92:1-2)

朝にあなたの恵みを言い表す。

どうして、私たちがそうするのは大切なのでしょうか。それは、今日も私たちが希望があることを思い出すからです。

私たちはどんな試練に直面しても、神様が私たちと共におられ、神様の手が私たちの上にあることを思い出します。

夜ごとにあなたの真実を言い表す。

日の終わりに、振り返って、神様が何をしてくださったか思い出すのは良いことです。

振り返れば、私たちが問題に直面しても、神様が私たちを捨てなかったことを悟ります。むしろ、神様が愛によって私たちを救い出してくださったことを悟ります。

だから、詩人は歌います。

主よ。あなたは、あなたのなさったことで、私を喜ばせてくださいましたから、私は、あなたの御手のわざを、喜び歌います。

主よ。あなたのみわざはなんと大きいことでしょう。あなたの御計らいは、いとも深いのです。(4-5)

そして、詩篇1篇のように、詩人は悪者を正しい者と比べます。最初に、彼は歌います。

悪者どもが青草のようにもえいでようと、不法を行なう者どもがみな栄えようと、それは彼らが永遠に滅ぼされるためです。

しかし主よ。あなたはとこしえに、いと高き所におられます。

おお、主よ。今、あなたの敵が、今、あなたの敵が滅びます。不法を行なう者どもがみな、散らされるのです。(7-9)

けれども、正しい者に関して、詩人はこう歌います。

正しい者は、なつめやしの木のように栄え、レバノンの杉のように育ちます。

彼らは、主の家に植えられ、私たちの神の大庭で栄えます。

彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。

こうして彼らは、主の正しいことを告げましょう。主は、わが岩。主には不正がありません。(12-15)

私はその最後の部分が大好きです。私たちは年を取っても、実を結び、みずみずしく、茂ります。

年を取るとき、私は枯れたものになりたくない。私はみずみずしく、茂っているものになって、周りの人々に神様の愛で触れたいです。

しかし、私たちがいつも神様にほめ歌を歌わないなら、枯れるものになるかもしれません。神様の愛や忠実さや慈しみを忘れ、苦々しく貪欲のある心を持ったら、私たちは枯れた木のようになります。

だから、毎日時間を取って、神様をほめたたえましょう。

朝でもほめたたえましょう。夜でもほめたたえましょう。一日中、機会があれば、主をほめたたえましょう。

そして私たちの一日だけではなく、私たちの心も神様のために聖別しましょう。

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詩篇

全能の神の陰に宿ること

私が好きな本の一冊は「Shadow of the Almighty」(つまり、全能の神の陰)という本です。この本はジム・エリオットという宣教師について書かれています。彼は南米のアウカ族に対する宣教師でした。

この本の中には、彼の手紙や日記の書き入れがあります。残念ながら、日本語の翻訳はないのですが、もしあなたが英語ができるなら、私はその本を本当に勧めます。

皮肉なことに、その本のタイトルはこの詩篇から取られていますが、エリオットの人生のうわべを見ると、彼が本当に神様の陰に宿っていたかどうか疑うかもしれません。

詩篇91篇は神様の陰に宿る人の祝福について話します。詩人はその人についてこう言います。

あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。

また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。

千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。(詩篇91:5-7)

そして、彼はこの詩篇をこの素晴らしい言葉で終えます。

それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。

わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近づかない。

まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。

彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。

あなたは、獅子とコブラとを踏みつけ、若獅子と蛇とを踏みにじろう。

彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。

彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。

わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう。(9-16)

それでは、エリオットはどのように死んだのでしょうか。実は、彼が福音を述べ伝えた人々が彼を殺してしまったのです。

それは神様の人々に対して、異常なことではありません。多くの人々は神様に従ったのに、暴力的な死を経験しました。

イザヤやエレミヤやペテロやヤコブやパウロは神様に従ったけれど、神様の敵に殺されました。

では、私のポイントは何でしょうか。神様の言葉が間違っているということでしょうか。とんでもない。

しかし、もしこの詩篇によって、私たちがこの壊れた世界で決して苦しまないと思うなら、その詩人の意味を誤解しているのです。

なぜなら、その詩人が(モーセかもしれませんが、私は分かりません)きっと神様の陰に宿る人々が苦しむのも見たことがあったと思うからです。

それでは、この詩人は何を言っているのでしょうか。

もし、私たちが神様の陰に宿るなら、私たちがどんな試練に直面しても、神様が私たちを決して見捨てないことを確信できます。神様は私たちを守るために天使を送ってくださり、神様ご自身が私たちと共におられます。

そして、死の陰の谷を歩いても、その谷の反対側にきっと辿り着くことができます。

そのとき、私たちが振り返るなら、神様が最後まで私たちとともにおられたことを見るでしょう。

私たちは神様が私たちの絶望の叫びを聞いてくださったことを悟り、私たちをいろんな災いから守ってくださったことも理解します。また、私たちは神様からの救いを見ます。

ジム・エリオットが天国に着いた時、そのように見えたと思います。彼の救い主は微笑んで、こう言われたでしょう。

「よくやったよ。あなたの死による実を見てごらん。あなたの妻と友達がもう一度アウカ族のところに行って、福音を述べ伝えたので、アウカ族はクリスチャンになった。

それに、あなたを殺した人々もクリスチャンになったよ。あなたはよくやったよ。」

だから、どんな試練に直面しても、神様の陰に宿りましょう。

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詩篇

正しい視点を保つ

モーセの人生について書いた時、私は詩篇90篇について書きましたが、そのブログを読んだ後で、もう少し書きたいと思いました。

この詩篇では、モーセは人間の短い寿命を神様の永遠さと比べます。

主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです。(詩篇90:1)

1節では、神様の永遠さを見ることができます。世代が行ったり来たりするけれど、神様は決して変わりません。神様は最初からおられたし、いつまでもおられます。

それに、昔は神様がイスラエル人の住まいだったように、今でも神様は私たちの住まいです。

アブラハムとイサクとヤコブを見守った神様は、私たちも見守ってくださいます。ペテロとヤコブとヨハネと一緒に歩んだ神様は、私たちとともに歩んでくださいます。

神様はその人たちが生まれる前からおられ、時間が始まる前にもおられました。だから、モーセはこう言いました。

山々が生まれる前から、あなたが地と世界とを生み出す前から、まことに、とこしえからとこしえまであなたは神です。(2)

しかし、私たちの寿命は息のようです。モーセはこう書きました。

あなたは人をちりに帰らせて言われます。「人の子らよ、帰れ。」

まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです。

あなたが人を押し流すと、彼らは、眠りにおちます。朝、彼らは移ろう草のようです。

朝は、花を咲かせているが、また移ろい、夕べには、しおれて枯れます。(3-6)

私はそのことが想像できません。もし80歳まで生きるなら、私の人生はもう半分以上終わりました。

今まで、私はいろんなことを経験しました。たくさんの喜びを経験したし、いろんな苦しみを経験したし、たくさんの勝利を経験したし、多くの失敗を経験しました。

けれども、私の人生は海の水玉のようです。実は、私の人生はそこまでさえも大きくないのです。

しかし、いつか私たちは神様の前で、どうやってこの人生を生きたかの申し開きをしなければならない。私たちの人生は短いけど、神様からのたまものです。だから私たちはどうやって生きているのでしょうか。

多くの人々はこの世の快楽のために生きるので、罪深い人生を生きます。けれども、モーセはこう記しました。

なたは私たちの不義を御前に、私たちの秘めごとを御顔の光の中に置かれます。(8)

つまり、神様は私たちの罪を見るので、その罪のために私たちを裁きます。私たちは誰も知らないと思うかもしれませんが、結局その罪は暴露され、裁かれます。

だから、モーセはこう記しました。

だれが御怒りの力を知っているでしょう。だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。その恐れにふさわしく。(11)

私たちはいつも神様の愛について話しますが、神様を恐れることも覚えていなければなりません。神様は罪を憎むので、罪人を罰します。

神様はいきなり私たちをその罪のために殺さないかもしれませんが、神様が私たちの罪を気にしないと思わないでください。

神様は愛ですけど、神様は聖なる方です。だから、神様は私たちが聖なる人になることを望んでおられます。

だから、モーセはこう祈りました。

それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。(12)

また、本当の喜びがどこから来るか思い出して、モーセのように歌いましょう。

どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください。(14)

そして、毎日、さらに毎秒を神様に捧げて、こう祈りましょう。

私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。

どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください。(17)

アーメン。

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詩篇

私たちの信頼できる神

詩篇88篇は本当に暗い歌だったけど、詩篇89篇はもっと明るく始まります。それでも、この詩篇は、苦しんだ時に書かれました。 詩人は歌います。

私は、主の恵みを、とこしえに歌います。あなたの真実を代々限りなく私の口で知らせます。

私はこう言います。「御恵みは、とこしえに建てられ、あなたは、その真実を天に堅く立てられる」と。(詩篇89:1-2)

そして詩人は神様の偉大さを思い出します。

主よ。天は、あなたの奇しいわざをほめたたえます。また、聖徒たちの集まりで、あなたの真実をも。

まことに、雲の上ではだれが主と並びえましょう。力ある者の子らの中でだれが主に似ているでしょう。

主は、聖徒たちのつどいで大いに恐れられている神。主の回りのすべての者にまさって恐れられている方です。

万軍の神、主。だれが、あなたのように力がありましょう。主よ。あなたの真実はあなたを取り囲んでいます。(5-8)

そして、彼は神様に従う人の喜びについて歌い(15-17)、神様のダビデに対する約束を思い出します。つまり、ダビデの子孫はいつまでもイスラエルを王として治めます。(3-4,19-37)

けれども、急にこの詩篇の感情は変わります。なぜなら、その約束はもうだめになったようだからです。

ダビデの子孫の罪のせいで、神様は彼らを拒絶され、彼らに背を向けられました。だから詩人は叫びます。

いつまでですか。主よ。あなたがどこまでも身を隠し、あなたの憤りが火のように燃えるのは。。。

主よ。あなたのさきの恵みはどこにあるのでしょうか。それはあなたが真実をもってダビデに誓われたものです。(46,49)

けれども、イスラエルの状態は暗かったのに、神様は変わりませんでした。神様はイスラエル人を自分の土地に一回だけではなく、二回戻されました。

そして、いつかダビデの子孫イエス様はこの世に戻って、神様が約束通りにこの世を永遠に治めてくださいます。

私たちは時々見えないけれど、神様の愛と忠実さは決して変わらないものです。神様が約束されると、いつもその約束を守ってくださいます。

神様はイスラエル人への約束を守ってくださったし、私たちへの約束も守ってくださいます。だから、詩人のように神様に信頼し続けて、歌いましょう。

ほむべきかな。主。とこしえまでも。アーメン。アーメン。(52)

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詩篇

神様の沈黙

ヨブが詩篇88篇を書いたわけではありませんが、この詩篇を読むとき、私はヨブの話を思い浮かべます。なぜなら、この詩人は自分の苦しみの中にある神様の沈黙について話すからです。

けれども、実生活と同じように、この詩篇にはハッピーエンドがありません。

詩人は叫びます。「神様。私の声を聞いてください。あなたはここにおられるでしょうか。私はトラブルで圧倒されています。私は病気で、死にかけています。もう私の力はなくなってしまいました。」(詩篇88:1-5)

そして、詩人は、どうして神様がそのトラブルを送ったのか尋ねて、文句を言います。詩人は何度もこう言います。

「あなたは私を最も深い穴に置いておられます。」(6)

「あなたの激しい憤りが私の上にとどまります。」(7)

「あなたは私の親友を私から遠ざけ、私を彼らの忌み嫌う者とされました。」(8)

そして、彼は叫びます。「私はあなたを呼んでいる。どうして、あなたは隠れておられるでしょうか。どうしてあなたは私を拒絶しておられるのでしょうか?私の生涯、ずっと苦しんでいます。私は独りぼっちです。」(13-18)

それは、この詩篇の終わりです。

希望の言葉も、慰めの言葉もありません。

時々私たちもそう感じることがあるでしょう。もし、あなたがそう感じたら、覚えておきましょう。たくさんの人々もそう感じたことがあります。あなただけではありません。

もちろん、この詩人はそう感じました。多分、すべてのクリスチャンはそう感じたことがあると思います。

ある人は諦めて、その穴を決して出ませんでした。そのような人にならないでください。

覚えておきましょう。あなたの信仰はあなたの感情に基づいてはいけません。むしろ、神様の性格とみ言葉に基づいていなければなりません。

あなたの感情は時々揺るぐかもしれません。それは不安定なものです。だから、感情は信頼できる土台ではありません。

サタンはそのことをよく知っています。だから神様が沈黙されるとき、サタンはあなたを絶望させようとします。あなたの信仰を奪おうとします。

私たちの感情はいつも変わります。しかし、神様とその言葉は決して変わりません。あなたは神様の約束を信頼できます。

だから、落ち込んでいる時や失望している時、自分の感情に頼らずに、神様とその約束に頼りましょう。

そうすれば、どんなに暗いトンネルを通っても、あなたは最終的には抜け出すことができるのです。

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詩篇

神様の民

詩篇87篇はエルサレムについてですが、この詩篇を読むとき、私は神様のご自身の民に対する愛がわかりますし、どのように神様が私たちのことを喜んでくださるかを見ることができます。

詩人はエルサレムについて歌います。

主は聖なる山に基を置かれる。

主は、ヤコブのすべての住まいにまさって、シオンのもろもろの門を愛される。

神の都よ。あなたについては、すばらしいことが語られている。セラ (詩篇87:1-3)

どうして神様はエルサレムを愛されたのでしょうか。神様はエルサレムの城壁や建物を愛されたのではなく、エルサレムに住んでいた人々を愛されました。神様は彼らをご自身の民として選んで呼ばれました。

その愛によって神様がエルサレムを確立されたので、周りの国民はそれを見て、感心しました。

そして、エルサレムの敵、ラハブ(つまり、エジプト)や、バビロンや、ペリシテも、いつかエルサレムの栄光を見て、神様を認めます。

その時、彼らは「その人はシオンで生まれた。その人もシオンで生まれた」と誇ります。(4)

それに、神様は彼らの名前を登録して、「この民はここで生まれた」と認められます。

この詩篇を読むとき、私が考えるのは、これが教会のための神様の意図であるということです。

教会は建物ではなく、神様の民です。そして、神様がエルサレムの人々に愛を注いだように、私たちにも愛を注いでくださいます。

神様の希望は、私たちが周りの人々に影響を与えることです。また、私たちを憎む人々でも、私たちを通して神様を知ることです。

そして、私たち皆が新しいエルサレムに着いたら、神様は命の書を指して、「私が確立した教会で、その人は生まれました。その人も。その人も」と言われるでしょう。

多分、誇りを持って、神様はそう言われるでしょう。

そして、神様が命の書の名前のすべてを呼ばれた後で、私たち皆は歌います。

私の泉はことごとく、あなたにある。(7)

言い換えれば、「主よ。あなたは私の命と愛と喜びの源です。」

私たちは神様の民です。神様は私たちを愛して、喜んでくださいます。しかし、できるだけ、多くの人々を天国に連れて行きましょう。私たちは隠れることができない山の上にある町になりましょう。

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詩篇

苦難の中にいる時、心を守る

ソロモン王はこう書きました。

力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。(箴言4:23)

もちろん私たちはいつもそうするべきですが、私たちが苦難の中にいる時は、特にそうするべきです。ソロモンの父ダビデは、それをよく知っていました。なぜなら、彼はいろんな試練を経験したからです。

詩篇86篇の最初で、彼は神様の助けを願います。

ダビデの人生を見る時、私たちが分かっているのは、苦難の中にいる時に彼が自分の力と知恵に頼らずに、神様を信頼したということです。だから、4節で、彼は言います。

主よ。私のたましいはあなたを仰いでいますから。(詩篇86:4)

そして、彼は神様の性格について考え始めます。彼は祈りました。

主よ。まことにあなたはいつくしみ深く、赦しに富み、あなたを呼び求めるすべての者に、恵み豊かであられます。

主よ。私の祈りを耳に入れ、私の願いの声を心に留めてください。

私は苦難の日にあなたを呼び求めます。あなたが答えてくださるからです。(5-7)

つまり、「私はいろんな問題があるけれど、あなたが私を愛してくださることを信じます。あなたが良い方であることを信じます。また、私が呼ぶとき、あなたがきっと答えてくださることを信じます。」

クリスチャンはそのことを信じるはずですが、試練に直面するとき、疑いが私たちの心に入るのは簡単なことです。しかし、ダビデは全然疑いませんでした。

むしろ、彼は神様の偉大さに焦点を当てました。つまり、ダビデは神様にとってダビデの問題が大きすぎることはないと思い出しました。だから、彼は歌いました。

主よ。神々のうちで、あなたに並ぶ者はなく、あなたのみわざに比ぶべきものはありません。

主よ。あなたが造られたすべての国々はあなたの御前に来て、伏し拝み、あなたの御名をあがめましょう。

まことに、あなたは大いなる方、奇しいわざを行なわれる方です。あなただけが神です。(8-10)

そして、ダビデは自分の心について考えて、主に祈りました。

主よ。あなたの道を私に教えてください。私はあなたの真理のうちを歩みます。私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。(11)

ある英語の翻訳には、こう書いてあります。

あなたの道を私に教えてください。そうすれば、私はあなたの忠実さを信じます。

試練に直面するとき、この箇所は本当に大切だと思います。なぜなら、大変な問題に直面するとき、時々私たちの信仰は揺るぎ始めるからです。

けれども、試練の中で、ダビデは祈ります。「主よ、あなたの道を教えてください。私の心を一つにしてください。私があなたの真理の道を歩むように、私があなたを信頼できるように。」

私たちもそんな態度が必要です。私たちはいつも神様を見つめ、私たちの信仰を持ち続けるべきです。

だから、苦難の中にいる時、ダビデのように歌いましょう。

わが神、主よ。私は心を尽くしてあなたに感謝し、とこしえまでも、あなたの御名をあがめましょう。

それは、あなたの恵みが私に対して大きく、あなたが私のたましいを、よみの深みから救い出してくださったからです。(12-13)

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詩篇

悔い改めとあわれみ

詩篇85篇がいつ書かれたか誰も知りませんが、多分イスラエル人がバビロンへの追放の後に書かれたものだと思われます。

詩人はこう書きました。

主よ。あなたは御国に恵みを施し、ヤコブの繁栄を元どおりにされました。

あなたは、御民の咎を赦し、彼らのすべての罪を、おおわれました。セラ

あなたは、激しい怒りをことごとく取り去り、燃える御怒りを、押しとどめられました。(詩篇85:1-3)

イスラエル人がバビロンに70年いた後で、神様は彼らをエルサレムに帰らせました。多分、詩人はこの箇所でそのことについて歌ったのでしょう。

それでも、イスラエル人はまだトラブルを抱えていました。だから、詩人は願います。

われらの救いの神よ。どうか、私たちを生き返らせ、私たちに対する御怒りをやめてください。

あなたは、いつまでも、私たちに対して怒っておられるのですか。代々に至るまで、あなたの御怒りを引き延ばされるのですか。

あなたは、私たちを再び生かされないのですか。あなたの民があなたによって喜ぶために。

主よ。私たちに、あなたの恵みを示し、あなたの救いを私たちに与えてください。(詩篇85:4-7)

なぜ、詩人はそう祈ったのでしょうか。ネヘミヤ記によれば、ユダヤ人がエルサレムに帰ったけれど、城壁はまだ崩れていたので、彼らの敵はいつも攻撃しました。だからユダヤ人の人生は本当に大変でした。

だから、詩人は神様のあわれみを願います。そして、詩人は本当に大切なことを言います。

私は、主であられる神の仰せを聞きたい。主は、御民と聖徒たちとに平和を告げ、彼らを再び愚かさには戻されない。

まことに御救いは主を恐れる者たちに近い。それは、栄光が私たちの国にとどまるためです。(詩篇85:8-9)

私たちはよく神様のあわれみのために祈りますが、平和は悔い改める人のためであることを覚えておきましょう。

もし、私たちが神様に背を向け、私たちを滅ぼした罪に戻るなら、神様のあわれみを期待できません。

もちろん、神様が私たちが完全な人になるまであわれんでくださらないわけではありません。とはいえ、神様は私たちの心を望まれます。神様は、私たちが古い道を行かずに、神様の道を歩み始めることを見たいと望まれます。

たまに私が転ぶかもしれませんが、神様の道を行き続けるなら、神様は私たちを拾って、私たちを導き続けてくださいます。そして、私たちは神様の祝福を知ることができます。

だから、詩人はこう書きました。

まことに、主は、良いものを下さるので、私たちの国は、その産物を生じます。

義は、主の御前に先立って行き、主の足跡を道とします。(詩篇85:12-13)

あなたはどうですか。悔い改めの道を歩んでいますか。

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詩篇

永遠の物に照準を合わせる

詩篇84篇は本当に美しい歌だと思います。私が大好きな詩篇の一つです。この詩篇で、私たちはこの世の物に照準を合わせずに、永遠の物に照準を合わせるように励まされます。

この詩篇はエルサレムに巡礼する喜びを言い表していますが、私たちの新しいエルサレムへの巡礼とも関連があります。

詩人は歌います。

万軍の主。あなたのお住まいはなんと、慕わしいことでしょう。

私のたましいは、主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。(詩篇84:1-2)

私たちはそのような態度を持って、神様と歩みたいです。神様を恋い慕う心が欲しいです。けれども時々、私の魂は乾きます。

だから、その時、今でも、私は祈ります。「主よ。あなたを慕います。あなたの臨在をもっと知りたいです。あなたのみ前にいたいです。」

この詩人はそのように祈りました。

私は3節も好きです。

雀さえも、住みかを見つけました。つばめも、ひなを入れる巣、あなたの祭壇を見つけました。万軍の主。私の王、私の神よ。(3)

この箇所を読むとき、イエス様の言葉を思い出します。

二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。

また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。

だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。(マタイ10:29-31)

もし、神様が雀を主の家に歓迎したら、神様は私たちも歓迎してくださるのではないでしょうか。

そして、詩人は礼拝の喜びを言い表します。

なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らは、いつも、あなたをほめたたえています。(4)

そして、詩人は神様の家への巡礼について考え始めます。彼は歌います。

なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。

二つのことが私の心を打ちます。

一つ目は、彼らは現在どこにいるかに焦点を当てずに、どこに行くかに照準を合わせたということです。

クリスチャンとして、私たちもそうするべきです。この世は私たちの住まいではありません。だから、私たちは永遠の住まいに照準を合わせるべきです。

二つ目は、新しいエルサレムに巡礼するとき、自分の力ではなく、神様の力によって行くべきだということです。私たちは自分の力ではできません。神様の力が必要です。

6節で、詩人は歌います。

彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。(6)

この世では、私たちは時々涙の谷を過ぎます。私たちは痛みや愛する人の死を経験します。けれども、神様はその場所を泉の湧く所とされます。恵みの雨がその痛みと苦しみを覆って癒します。

だから、

彼らは、力から力へと進み、シオンにおいて、神の御前に現われます。(7)

イザヤはこう書きました。

しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。(イザヤ40:31)

だから、詩人は神様に叫びます。

万軍の神、主よ。私の祈りを聞いてください。ヤコブの神よ。耳を傾けてください。セラ

神よ。われらの盾をご覧ください。あなたに油そそがれた者の顔に目を注いでください。(8-9)

この箇所では、詩人は王のために祈りました。その王はイスラエルの盾でした。

しかし、私たちクリスチャンにとって、その王はイエス様です。この世で、イエス様は私たちの盾です。

最後に、詩人は礼拝者の祝福と喜びについて歌います。

まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりはむしろ神の宮の門口に立ちたいのです。

まことに、神なる主は太陽です。盾です。主は恵みと栄光を授け、正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません。

万軍の主よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに信頼するその人は。(10-12)

私たちはただ旅人です。この世の物は将来の栄光の影だけです。

だから、一時的なものに照準を合わせずに、神様に照準を合わせましょう。

あなたはどこに照準を合わせていますか。

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詩篇

悪からお救いください

詩篇83篇を読むとき、私は主の祈りについて考えます。つまり、「悪からお救いください」という願いです。(マタイ6:13)

この詩篇では、イスラエルは周りの国々に脅かされました。だから、詩人は叫びます。

神よ。沈黙を続けないでください。黙っていないでください。神よ。じっとしていないでください。

今、あなたの敵どもが立ち騒ぎ、あなたを憎む者どもが頭をもたげています。

彼らは、あなたの民に対して悪賢いはかりごとを巡らし、あなたのかくまわれる者たちに悪だくみをしています。

彼らは言っています。「さあ、彼らの国を消し去って、イスラエルの名がもはや覚えられないようにしよう。」(詩篇83:1-4)

そして、詩人はイスラエルを襲う国々の名前をリストアップします。けれども、その後で、彼は神様が以前イスラエルをどのように救い出してくださったかを思い出します。

その敵からの救いを願った後、彼は祈ります。

こうして彼らが知りますように。その名、主であるあなただけが、全地の上にいますいと高き方であることを。(18)

周りの国々はあなたを襲わないかもしれませんが、あなたを憎む人がいるかもしれません。

また、エペソ人への手紙で、パウロは私たちを襲う霊的な力があると警告します。時々悪霊は人を通して、私たちを物理的に、感情的に、また霊的に襲います。

しかし、覚えておきましょう。神様は全地の上におられるいと高き方です。神様はすべてをコントロールしておられます。だから、攻撃されるなら、神様に向かいましょう。

今攻撃されていなくても、神様の守りを祈った方が良いです。なぜなら、神様に従うなら、結局サタンはそれに気づいて、あなたを攻撃し始めるからです。

もし、イエス様が「悪からお救いください」と祈りなさいと言われたら、そうするべきでしょう。

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詩篇

裁判官が裁かれるとき

裁判所で不正義を見るとき、私たちはみなフラストレーションを感じるでしょう。有罪の人は解放され、彼らが傷つけた人はその決断によってさらに傷つけられます。

そんな問題は現代だけのものではありません。聖書の時代にも、同じような問題がありました。だから、詩篇82篇では、神様は裁判官を裁きます。

私が続ける前に、1節を少し説明した方が良いと思います。1節では、こう書いてあります。

神は神の会衆の中に立つ。神は神々の真ん中で、さばきを下す。(詩篇82:1)

詩人は「神の会衆」と「神々」と言いますが、皮肉っぽく話しています。彼は本当の神々について話しているわけではありません。本当の神は一人しかいないのです。

この「神々」はイスラエルの士師たちのことです。この士師たちが神様の代表であり、人々を裁く力を持っていたので、詩人は彼らを「神」と呼びました。

もし、あなたがモルモン宣教師と話したら、彼らはこの詩篇を指摘して、「ほら、たくさんの神々が存在します。そして、あなたも神になることができます。」と言うでしょう。

けれども、この詩人はそのようなことを教えているのではありません。6節で、詩人は「おまえたちは神々になる」ではなく、「おまえたちは神々だ。」と言っています。モルモンの人でも、今彼らが神であるとは言いません。

さらに、7節で、神様はこの「神々」にこう言います。「にもかかわらず、おまえたちは、人のように死に[ます]」。

この士師たちはただの人間であり、また、堕落している人間なので、彼らは結局死にました。その一方、本当の神は決して死にません。

さて、なぜ神様はこの士師たちを裁くのでしょうか。

2-4節で、その答えを見つけることができます。

いつまでおまえたちは、不正なさばきを行ない、悪者どもの顔を立てるのか。セラ

弱い者とみなしごとのためにさばき、悩む者と乏しい者の権利を認めよ。

弱い者と貧しい者とを助け出し、悪者どもの手から救い出せ。(2-4)

神様はこの士師に関してこう言われます。

彼らは、知らない。また、悟らない。彼らは、暗やみの中を歩き回る。(5)

そして、詩人は本当の神に歌います。

神よ。立ち上がって、地をさばいてください。まことに、すべての国々はあなたが、ご自分のものとしておられます。(8)

だから、この世の不正義を見るとき失望しないでください。ある日、神様は悪人と彼らを解放した裁判官を裁かれます。

裁判官は正しい人ではないかもしれませんが、神様は公正な方です。だから、最後の日には必ず正義が訪れます。

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詩篇

神様に聞き従いさえすれば

詩篇81篇の最初で、詩人は私たちを神様を礼拝するために招いています。

われらの力であられる神に喜び歌え。ヤコブの神に喜び叫べ。

声高らかにほめ歌を歌え。タンバリンを打ち鳴らせ。六弦の琴に合わせて、良い音の立琴をかき鳴らせ。(詩篇81:1-2)

多分、この詩篇は祭りのために書かれたのだと思います。

神様の律法で、神様はイスラエル人がさまざまな祭りを祝うように命じられました。過ぎ越しの祭りと仮庵の祭りは特に大切な祭りでした。

過ぎ越しの祭りは、神様がどのようにイスラエル人をエジプトから救い出してくださったかを記念してお祝いしました。

仮庵の祭りは、神様がイスラエル人を砂漠を通って導いてくださったことを記念してお祝いしました。

どうして神様はその祭りを祝うように命じられたのでしょうか。それは、イスラエル人が神様が彼らのために何をしてくださったかを忘れないためです。

この詩篇では、詩人はそのことを思い出して歌います。

私は、まだ知らなかったことばを聞いた。

「わたしは、彼の肩から重荷を取り除き、彼の手を荷かごから離してやった。

あなたは苦しみのときに、呼び求め、わたしは、あなたを助け出した。わたしは、雷の隠れ場から、あなたに答え、メリバの水のほとりで、あなたをためした。(5-7)

しかし、私たちは神様の心の叫びも聞きます。

聞け。わが民よ。わたしは、あなたをたしなめよう。イスラエルよ。よくわたしの言うことを聞け。

あなたのうちに、ほかの神があってはならない。あなたは、外国の神を拝んではならない。

わたしが、あなたの神、主である。わたしはあなたをエジプトの地から連れ上った。あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。(8-10)

また、

ああ、ただ、わが民がわたしに聞き従い、イスラエルが、わたしの道を歩いたのだったら。

わたしはただちに、彼らの敵を征服し、彼らの仇に、わたしの手を向けたのに。」。。。

わたしは岩の上にできる蜜で、あなたを満ち足らせよう。(13-14,16)

つまり、「もしあなたが私に聞き従いさえすれば、私はあなたを祝福し、あなたのニーズに備え、あなたのために戦います。」

ところが、神様は言い続けられます。

しかしわが民は、わたしの声を聞かず、イスラエルは、わたしに従わなかった。

それでわたしは、彼らをかたくなな心のままに任せ、自分たちのおもんぱかりのままに歩かせた。(11-12)

神様は私たちを祝福したいと望んでおられます。私たちの人生に素晴らしいことをしてくださろうとしています。けれども、もし私たちが自分の道を行きたいなら、神様は私たちに行かせます。

しかし、そうすれば、私たちの人生は悲しくなるし、神様も悲しまれます。

あなたはどうするでしょうか。あなたの耳を開き、神様に聞き従うでしょうか。そうすれば、あなたは祝福されます。けれども、頑固な心を持ち続けたら、破壊に導かれます。

それはあなたの選択です。あなたはどうしますか。

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詩篇

罪の結果

詩篇79篇と80篇は関係があるので、一緒にまとめます。多分、バビロンがエルサレムを滅ぼした後に、これらの詩篇が書かれたので、少し哀歌に似ています。

79篇はこう始まります。

神よ。国々は、ご自身のものである地に侵入し、あなたの聖なる宮をけがし、エルサレムを廃墟としました。

彼らは、あなたのしもべたちのしかばねを空の鳥のえじきとし、あなたの聖徒たちの肉を野の獣に与え、

聖徒たちの血を、エルサレムの回りに、水のように注ぎ出しました。彼らを葬る者もいません。(詩篇79:1-3)

そして、詩人は5節でこう叫びます。

主よ。いつまででしょうか。あなたは、いつまでもお怒りなのでしょうか。いつまで、あなたのねたみは火のように燃えるのでしょうか。(79:5)

80篇でも、同じような叫びがあります。

万軍の神、主よ。いつまで、あなたの民の祈りに怒りを燃やしておられるのでしょう。

あなたは彼らに涙のパンを食べさせ、あふれる涙を飲ませられました。(80:4-5)

ふたつの詩篇で、詩人はイスラエル人に対する神様のあわれみを願います。

先祖たちの咎を、私たちのものとして、思い出さないでください。あなたのあわれみが、すみやかに、私たちを迎えますように。私たちは、ひどくおとしめられていますから。

私たちの救いの神よ。御名の栄光のために、私たちを助けてください。御名のために、私たちを救い出し、私たちの罪をお赦しください。(79:8-9)

また、

万軍の神、主よ。私たちをもとに返し、御顔を照り輝かせてください。そうすれば、私たちは救われます。(80:19)

ふたつの詩篇で、詩人はイスラエル人のために誓います。

そうすれば、あなたの民、あなたの牧場の羊である私たちは、とこしえまでも、あなたに感謝し、代々限りなくあなたの誉れを語り告げましょう。(79:13)

80篇で、詩人は祈ります。

あなたの右の手の人の上に、御手が、ご自分のため強くされた人の子の上に、御手がありますように。

そうすれば、私たちはあなたを裏切りません。私たちを生かしてください。私たちは御名を呼び求めます。(80:17-18)

けれども、イスラエル人が神様に忠実に仕えていたら、どれほど彼らの人生がより良くなっていたでしょうか。どうして彼らは苦しむまで待ったのでしょうか。

もちろん神様はあわれみ深い神様です。私たちが悔い改めると、神様は赦してくださいます。それでも、多くの場合、この世で私たちはその罪の結果を受けてしまいます。

だから、苦しいことが起こるまで待たないでください。むしろ、今神様に向かい、求めましょう。そうすれば、罪から生み出される痛みや苦しみを避けることができます。

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詩篇

次の世代を教える

私の娘の4歳の誕生日のために、私は子供の聖書を買ってあげました。その聖書がバイリンガルだったので、私は英語の部分を読んであげましたが、私の妻は日本語の部分を読んであげました。

私の娘はもうすぐ8歳になるので、その聖書をもう読みませんが、私たちはどのように彼女に聖書を教えればいいかと考えています。

私たちの子供を神様について教えることは、本当に大切なことです。けれども、私は娘が神様について知識を得るだけでなく、本当に神様を知ることを望んでいます。

詩人にもその希望があったため、詩篇78篇を書きました。彼は次の世代に神様について教えたかったのです。そのため、彼は歌いました。

私の民よ。私の教えを耳に入れ、私の口のことばに耳を傾けよ。

私は、口を開いて、たとえ話を語り、昔からのなぞを物語ろう。

それは、私たちが聞いて、知っていること、私たちの先祖が語ってくれたこと。

それを私たちは彼らの子孫に隠さず、後の時代に語り告げよう。主への賛美と御力と、主の行なわれた奇しいわざとを。(詩篇78:1ー4)

そして、彼はイスラエル人に、神様が私たちが自分の子供に教えることを命じられることを思い出させます。その命令の理由は何でしょうか。

後の世代の者、生まれてくる子らが、これを知り、彼らが興り、これをその子らにまた語り告げるため、

彼らが神に信頼し、神のみわざを忘れず、その仰せを守るためである。(6-7)

そして詩人アサフは、神様の御業について歌い始めます。つまり、アサフはどうやって神様がイスラエル人をエジプトから救い出してくださり、砂漠で彼らの必要を満たしてくださったのか歌います。パンや肉や水がない時、神様はそれらを備えてくださいました。

そして、彼はどうやって神様がイスラエル人の敵を追い出し、その土地をイスラエル人に与えてくださったのかを歌います。

しかし、次に、彼はイスラエル人の失敗について歌います。つまり、彼らは神様を信頼しませんでした。

彼らは砂漠で、いつも不平を言いましたし、新しい土地に住み始めた時、彼らはすぐに偶像を礼拝し始めました。だから、彼らは裁かれました。

それでも、彼らが失敗しても、神様は彼らに憐れみと恵みを与えてくださいました。だから、アサフは歌います。

しかし、あわれみ深い神は、彼らの咎を赦して、滅ぼさず、幾度も怒りを押さえ、憤りのすべてをかき立てられはしなかった。

神は、彼らが肉にすぎず、吹き去れば、返って来ない風であることを心に留めてくださった。(38-39)

そして、アサフはイスラエルに神様の恵みを思い出させます。つまり、神様はイスラエルの敵を破って、ダビデを正義の王として確立してくださいました。

私たちも、そのようなことを次の世代に教えるべきです。つまり、

  • どうやって神様が私たちを罪から救い出してくださったか、また、神様が私たちのために何をしてくださったかということ。
  • 私たちの失敗とその結果について。それはなぜでしょうか。それは、彼らが私たちの失敗を繰り返さないようにするためです。
  • 神様の恵みと憐れみについて。つまり、私たちが失敗しても、神様は私たちのことを諦めずに、私たちを赦し、救い出してくださったのです。
  • 神様は彼らのために計画をもっておられます。ダビデが羊飼いであったにもかかわらず、神様は彼をイスラエルの王として選ばれました。そのように、神様は私たちの人生を素晴らしいものに変えることができるのです。

私たちの子供たちに、そのことを教えましょう。そうすれば、彼らも神様を知るでしょう。

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詩篇

捨てられた?

私は詩篇を読み通した時、同じテーマがよく繰り返されることに気づきました。つまり、時々詩人には、目に見えない神様との関係が本当に難しいものであったのです。私にもそう考える時があるので、少し慰められます。

詩篇77篇はそのような詩篇です。詩人は叫びます。

私は神に向かい声をあげて、叫ぶ。私が神に向かって声をあげると、神は聞かれる。

苦難の日に、私は主を尋ね求め、夜には、たゆむことなく手を差し伸ばしたが、私のたましいは慰めを拒んだ。(詩篇77:1-2)

どれぐらい私たちにはそんな経験があるでしょうか。私たちは神様に叫びますが、何も聞こえません。そして、悩んでいる心のせいで、私たちは眠れません。

だから、詩人のように、私たちは問い始めます。

「主は、いつまでも拒まれるのだろうか。もう決して愛してくださらないのだろうか。

主の恵みは、永久に絶たれたのだろうか。約束は、代々に至るまで、果たされないのだろうか。

神は、いつくしみを忘れたのだろうか。もしや、怒ってあわれみを閉じてしまわれたのだろうか。」セラ (7-9)

言い替えれば、「あなたは私を捨ててしまったのでしょうか。私を諦めたのでしょうか。私がもうだめだと思われるのでしょうか。」

しかし、失望の中で、彼は叫びます。

「私の弱いのはいと高き方の右の手が変わったことによる。」

私は、主のみわざを思い起こそう。まことに、昔からのあなたの奇しいわざを思い起こそう。

私は、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたのみわざを、静かに考えよう。

神よ。あなたの道は聖です。神のように大いなる神が、ほかにありましょうか。

あなたは奇しいわざを行なわれる神、国々の民の中に御力を現わされる方です。

あなたは御腕をもって、ご自分の民、ヤコブとヨセフの子らを贖われました。セラ

。。。あなたは、ご自分の民を、モーセとアロンの手によって、羊の群れのように導かれました。(10-15、20)

急に詩人は神様が彼を捨ててしまった考えを捨てます。彼は言います。

「あなたが私を捨てるのが信じられません。なぜなら、あなたは私のために多くのことをしてくださったからです。

あなたは私を愛してくださったので、私とあなたの民を贖ってくださり、羊のように私たちをこの良い土地に導いてくださいました。

その愛によって、私はあなたが私を捨てたという考え方を拒絶します。」

それが信仰です。私たちは神様が見えなくても、信じ続けます。その瞬間に私たちは神様の臨在を感じなくても、神様が私たちを捨てずに、私たちと共におられることを信じ続けます。

とはいえ、それは盲信ではありません。なぜなら、振り返る時、私たちの人生に神様の力と愛の事例が見えるからです。

だから、捨てられたと思う時、詩人のように、神様の慈しみを思い出し、以前、私たちと共におられた神様が、まだ私たちと共におられることを思い出しましょう。

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詩篇

誉れに値する神

ある聖書の学者たちは、この詩篇がヒゼキヤの時代に書かれたと考えています。すなわち、アッシリヤの王セナケリブの事件の後に書かれた可能性があります。その学者たちが正しいかどうかは分かりませんが、この詩篇はその話に関係があるようです。

詩篇76篇では、神様がイスラエルを敵から救い出してくださるために、詩人は賛美します。彼は歌います。

神はユダにおいて知られ、御名はイスラエルにおいて大きい。

神の仮庵はシャレムにあり、その住まいはシオンにある。

その所で神は弓につがえる火矢、盾と剣、また戦いを打ち砕かれた。セラ (詩篇76:1-3)

そして詩人は、どのように神様がエルサレムを攻撃しようとした人々を滅ぼしてくださったかを歌います。10節は本当に興味深いです。

まことに、人の憤りまでもが、あなたをほめたたえ[る]。

どうすれば、人の憤りが神様をほめたたえるのでしょうか。

多分その意味は、人々が神様に対する怒りを抱き、神様と戦っても、最終的に神様が勝つので、神様の名前がほめたたえられるということです。

だから、セナケリブは神様の名前をからかい、エルサレムを攻撃しましたが、神様がその軍隊を滅ぼされたので、イスラエル人は神様をほめたたえました。

また、パロは「主とはいったい何者か。私がその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないというのは。私は主を知らない」と言い、イスラエル人を迫害しましたが、神様がパロを低くされ、イスラエル人を自由にされたので、周りの国々は神様の名前を恐れました。

だから、この詩篇を読む時、慰めと警告の両方があります。私たちが神様の手の中で休めば、神様は私たちを守り、助けてくださいます。しかし、神様に背くと、私たちは裁かれます。

とはいえ、私たちがどう選択しても、神様の名前はほめたたえられます。だから、パウロはこう書きました。

それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリピ2:10-11)

だから、私たちは自分自身にこう訊かなくてはなりません。感謝と愛を持って、そのことを告白するのでしょうか。それとも、憤りを持って、苦々しい心からそう告白するのでしょうか。

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詩篇

正義がやっと来ると

子供の時、私はいつも教会で、この詩篇からの歌を歌いました。つまり、1節を歌いました。

私たちは、あなたに感謝します。神よ。私たちは感謝します。御名は、近くにあり、人々は、あなたの奇しいわざを語り告げます。(詩篇75:1)

けれども、その歌を歌った時、何に感謝するか分かりませんでした。どの奇しいわざを悟り告げるか分かりませんでした。

しかし、この詩篇の全体を読むと、その答えがすぐに分かります。この詩篇は裁きの日についてです。その日、神様はすべての人々を自分の行動のために裁かれます。

この詩篇で、神様はこう言われます。

わたしが、定めの時を決め、わたしみずから公正にさばく。地とこれに住むすべての者が揺らぐとき、わたしは地の柱を堅く立てる。セラ

わたしは、誇る者には、「誇るな」と言い、悪者には、「角を上げるな。おまえたちの角を、高く上げるな。横柄な態度で語るな」と言う。(2-5)

そしてこの詩篇の最後の部分によれば、神様は悪者を低くされ、義人を高く上げてくださいます。だから、詩人は神様をほめたたえます。

しかし私は、とこしえまでも告げよう。ヤコブの神を、ほめ歌おう。

悪者どもの角を、ことごとく切り捨てよう。しかし、正しい者の角は、高く上げられる。(9-10)

私は以前にも言ったことがありますが、私たちはこの世の悪を見る時、「神様はどこだろうか。どうして神様は何もしないのだろう」とよく思います。けれども、この詩篇によれば、正義は必ず来ます。

だから、私たちは待っている間、神様をほめたたえましょう。なぜなら、神様は忍耐強く、人々が悔い改めるのを待っておられますが、必ずや神様の正義は訪れます。(第二ペテロ3:9)

その憐れみによって、私たちも救われたので、神様を信頼し、感謝し続けましょう。

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詩篇

憐れみのための願い

私には、いつこの詩篇が書かれたか分かりません。「アサフのマスキール(歌)」と書かれていますが、多分、アサフの子孫の歌という意味です。

なぜなら詩篇74篇では、主の宮の破壊について話していますが、アサフが生きている間はその宮はまだ建っていたからです。(アサフはダビデ王や、ソロモン王、レハブアム王の時代に生きていました。)

多分、この詩篇はネブカデネザルがエルサレムを攻撃して、ユダヤ人がバビロンに追放された後に書かれました。

詩人は、「もう私たちのしるしは見られません。もはや預言者もいません。」と書いていますが、多分エルサレムには預言者がいないという意味です。

ダニエルとエゼキエルはバビロンにいましたし、エレミヤはしばらくエルサレムに住み続けましたが、結局彼はエジプトに連れていかれました。

とにかく、この詩篇は憐れみを求める願いです。詩人は嘆きます。

神よ。なぜ、いつまでも拒み、あなたの牧場の羊に御怒りを燃やされるのですか。

どうか思い起こしてください。昔あなたが買い取られた、あなたの会衆、あなたがご自分のものである部族として贖われた民を。また、あなたがお住まいになったシオンの山を。

永遠の廃墟に、あなたの足を向けてください。敵は聖所であらゆる害を加えています。(詩篇74:1-3)

そして、詩人は宮の破壊を嘆き、神様がいらっしゃらないことを嘆きます。

しかし、12節で、彼は歌います。

確かに、神は、昔から私の王、地上のただ中で、救いのわざを行なわれる方です。

そして、13〜17節で、彼は神様の力を思い出します。つまり、神様がどうやってこの世を造られたか、またどうやってイスラエル人をエジプトから救い出してくださったかを思い出します。

そして、彼はもう一度神様の憐れみを願います。

この詩篇では、興味深いポイントがあると思います。特に、神様の憐れみについて学ぶことができると思います。

最も大切なポイントは、私たちが神様の憐れみに値しないことです。詩人は「私たちが良い人だから、憐れんでください」とは全く言いませんでした。

むしろ、神様の名前の誉のために、神様の憐れみを願います。詩人は尋ねます。

神よ。いつまで、仇はそしるのでしょうか。敵は、永久に御名を侮るのでしょうか。(10)

要するに、「イスラエルの敵があなたの宮を破壊したので、あなたの名前は汚されました。周りの国民はもうあなたのみ名を誉めません。」

だから、詩人は祈ります。

神よ。立ち上がり、あなたの言い分を立ててください。愚か者が一日中あなたをそしっていることを心に留めてください。

あなたに敵対する者どもの声や、あなたに立ち向かう者どもの絶えずあげる叫びを、お忘れにならないでください。(22-23)

それに、詩人は神様の約束ゆえに、憐れみを願いました。この詩篇の最初に、彼は祈りました。

どうか思い起こしてください。昔あなたが買い取られた、あなたの会衆、あなたがご自分のものである部族として贖われた民を。また、あなたがお住まいになったシオンの山を。(2)

要するに、「あなたは私たちを買い取られ、私たちがあなたのものとすると約束しました。あなたが私たちの間に住むことも約束されました。だから、その約束を思い出し、私たちを救ってください。」

最後に、神様の情けによって、詩人は憐れみを願いました。彼は歌いました。

しいたげられる者が卑しめられて帰ることがなく、悩む者、貧しい者が御名をほめたたえますように。(21)

神様の憐れみに値する人は一人もいません。それでも、神様は憐れみ深い方です。だから、神様が私たちを捨てられたと思う時、失望しないでください。むしろ、神様に向かい、憐れみを願いましょう。

そうすれば、神様はユダヤ人を救われたように、私たちを救ってくださいます。

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詩篇

悪を見て、がっかりする時

この世の悪を見る時、私たちは簡単に失望します。悪人が神様を恐れないのに栄えるからです。彼らは自分のことだけ考えるので、他の人々を傷つけても、気にしません。

だから、彼らが栄える時、時々私たちは「どうして私は頑張って正しいことをし続けているのだろうか。正しいことをする価値が本当にあるのだろうか。」と思います。

アサフも、そんな疑いと戦いました。

けれども、彼は詩篇73篇を彼の結論から始めます。

まことに神は、イスラエルに、心のきよい人たちに、いつくしみ深い。(詩篇73:1)

言い替えれば、いつか振り返る時、あなたは神様が良い方だと分かるということです。あなたが聖い心を持ち、神様に従うと、神様の慈しみを見ます。

とはいえ、アサフは自分の疑いとの戦いについて語ります。

しかし、私自身は、この足がたわみそうで、私の歩みは、すべるばかりだった。

それは、私が誇り高ぶる者をねたみ、悪者の栄えるのを見たからである。(2-3)

そして、4ー10節で、彼は言います。「彼らは他の人々と違って、元気だし、問題がないし、重荷がありません。だから、彼らは誇って、暴虐の着物を着ます。」

それに、その悪人は神様に逆らって叫びます。

どうして神が知ろうか。いと高き方に知識があろうか。(11)

だからアサフは叫びます。

確かに私は、むなしく心をきよめ、手を洗って、きよくしたのだ。

私は一日中打たれどおしで、朝ごとに責められた。(13-14)

けれども、アサフが神様の前に来たとき、悪人の最後の運命が分かったので、その疑いは消えてしまいました。

まことに、あなたは彼らをすべりやすい所に置き、彼らを滅びに突き落とされます。

まことに、彼らは、またたくまに滅ぼされ、突然の恐怖で滅ぼし尽くされましょう。

目ざめの夢のように、主よ、あなたは、奮い立つとき、彼らの姿をさげすまれましょう。(18-20)

要するに、彼らは裁かれます。彼らの繁栄は一時的なものですが、彼らの罰は永遠のものです。裁きの日、彼らはそのことが分かるでしょう。

その真理が分かった時、アサフは神様を疑ったことを恥ずかしいと思いました。「私は馬鹿だった」と言いました。

それでも、彼はこう言いました。

しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。

あなたは、私をさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう。(23-24)

神様の忍耐について考える時、私は「良かった」と思います。なぜなら、私たちが神様とその慈しみを疑っても、神様は私たちのことを見捨てないからです。神様は私たちと共におられ、私たちが天国に着くまで導いてくださいます。

その日、私たちは神様の御顔を見て喜びます。

アサフはその真理が分かったとき、歌いました。

天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。

この身とこの心とは尽き果てましょう。しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。

それゆえ、見よ。あなたから遠く離れている者は滅びます。あなたはあなたに不誠実な者をみな滅ぼされます。

しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。(25-28)

主よ。天では、あなたのほかに、誰を持つことができましょう。罪を犯す人をねたむのが簡単なことです。なぜなら、彼らの人生が楽だと見えるからです。

けれども、あなたの近くにいることは良いことです。私が悪人の人生をねたまないように助けてください。むしろ、あなたが私の求めるものになるように。あなたがとこしえに私の心の岩、私の分の土地になるように。アーメン。

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詩篇

キリストがこの世を治める時

ソロモン王は詩篇72篇を書きました。しかし、彼も王の王の治世、つまりイエス様の治世を待ち望んでいました。

私たちは大統領や総理大臣を見ると、しばしばがっかりします。なぜなら、彼らが私たちの福祉のために働くはずなのに、多くの場合、彼らは自分自身の福祉のために働くからです。

もし、自分にとって利益があれば、その時だけ彼らは私たちの福祉のためにも働きます。

けれども、この箇所では、本当の義にあってキリストがこの世を治めることが見えます。キリストは悩んでいる人や貧しい人を愛しているので、彼らを助けてくださいます。(1ー4、12ー14)

さらに、キリストがこの世を治める時、義人は栄え、祝福されます。私は6節が好きです。

彼は牧草地に降る雨のように、地を潤す夕立のように下って来る。(詩篇72:6)

けれども、特に大好きな箇所は17節です。

彼の名はとこしえに続き、その名は日の照るかぎり、いや増し、人々は彼によって祝福され、すべての国々は彼をほめたたえますように。

多分、ソロモンは神様がアブラハムにされた約束について考えていたでしょう。

そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し。。。

地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。(創世記12:2-3)

キリストにあって、その約束は完全に成就されます。だから、ソロモンはこの詩篇をこのようにまとめて、祈ります。

ほむべきかな。神、主、イスラエルの神。ただ、主ひとり、奇しいわざを行なう。

とこしえに、ほむべきかな。その栄光の御名。その栄光は地に満ちわたれ。アーメン。アーメン。(18-19)

アーメン。イエス様、すぐに来てください。

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詩篇

私たちの希望と確信

詩篇71篇はあまり有名な詩篇ではないかもしれませんが、私はこの詩篇を読めば読むほど好きになります。なぜなら、最も暗い時に、詩人は神様を知っていたので、希望と確信があったからです。

だから、彼はこう書きました。

主よ。私はあなたに身を避けています。私が決して恥を見ないようにしてください。

あなたの義によって、私を救い出し、私を助け出してください。あなたの耳を私に傾け、私をお救いください。(詩篇71:1-2)

私は5節も大好きです。

神なる主よ。あなたは、私の若いころからの私の望み、私の信頼の的です。(5)

そして、自分の敵からの救いのために祈る時、彼は歌います。

しかし、私自身は絶えずあなたを待ち望み、いよいよ切に、あなたを賛美しましょう。(14)

この世には、多くの人々が自分の辛い状況のため、希望を失います。だから、詩人の言葉は私の心に響きます。「私自身は絶えずあなたを待ち望みます。」

どうして彼にはそんな希望があったのでしょうか。

あなたは私を多くの苦しみと悩みとに、会わせなさいましたが、私を再び生き返らせ、地の深みから、再び私を引き上げてくださいます。(20)

多くの人々は自分の試練のため、神様に怒ります。しかし、詩人は神様の慈しみを確信を持って宣言します。つまり、彼が試練を通っていても、神様はもう一度彼を引き上げてくださるということです。

だから、この詩篇の中で、私たちは神様に対する彼の賛美する心を見ることができます。彼は歌います。

神よ。あなたの義は天にまで届きます。あなたは大いなることをなさいました。神よ。だれが、あなたと比べられましょうか。(19)

また、

私があなたにほめ歌を歌うとき、私のくちびるは、高らかに歌います。また、あなたが贖い出された私のたましいも。(23)

あなたはどうですか。あなたの試練のため、希望を失いましたか。それとも、神様があなたを救い出してくださるという確信を持ち、まだ希望を持っていますか。

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詩篇

神様!急いでください!

詩篇70篇が詩篇40篇の最後に似ているので、この詩篇について書くかどうかちょっと迷いましたが、40篇の最後の部分についてあまり書かなかったので、やっぱりこの詩篇について書こうと思いました。

私の心を打ったのは、ダビデの必死な祈りです。

神よ。私を救い出してください。主よ。急いで私を助けてください。(詩篇70:1)

また、

私は、悩む者、貧しい者です。神よ。私のところに急いでください。あなたは私の助け、私を救う方。主よ。遅れないでください。(5)

ダビデが私のように祈っていたのを知って、私は少し励まされます。「神様、急いでください。私のニーズを知らないのですか。今あなたの助けが必要なのです。」

ダビデはいつも自分の敵から逃げていたので、彼の気持ちがよく理解できます。

もう一つ励まされることは、時々ダビデが望んでいたほど救いが早く来なかったけれど、その救いは結局来ました。

このように、私たちが望むほど、神様は私たちの祈りに早く答えてくださらないかもしれませんが、最終的には私たちを救い出してくださいます。

あなたは祈りの答えを待っていますか。神様が少し遅いと思っていますか。

祈る時、神様と正直に話しても良いのです。「急いでください」と言っても良いのです。

しかし、覚えておきましょう。神様のタイミングは私たちのものと違うかもしれませんが、神様はいつも忠実な方です。結局、神様は私たちを救い出してくださいます。だから、神様の答えを待ち望みましょう。

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詩篇

キリストの叫び

詩篇69篇はダビデの経験について書かれていますが、この詩篇の大部分はキリストのことも表しています。新約聖書において、この詩篇はキリストによく当てはめられました。

つまり、ここではイエス様の十字架の苦しみが見えます。その時、イエス様は死の泥沼に沈まれました。イエス様は天の父に叫ばれたけれども、返事は来ませんでした。イエス様はのどが渇かれ、衰え果てられました。(詩篇69:1-3)

ゆえなくイエス様を憎む者は多く(4)、イエス様の兄弟たちもイエス様をからかい、拒絶しました(8)。

イエス様が主の宮を清められた時、その父の家に対する熱心さが見えます。(9)

周りの人々はイエス様をそしり、侮辱しました。(19)

そして、イエス様が飲み物を頼まれたとき、彼らはイエス様に酢を飲ませました。(21)

それに、使徒の働き1章で、ペテロは詩篇69:25節をユダに当てはめました。

だから、この詩篇では、私たちは十字架でイエス様の叫びを見ることができます。けれども、それだけではなく、私たちの救いも見えます。なぜなら、イエス様の十字架の働きを通して、私たちのすべての罪が支払われたからです。

十字架でイエス様が苦しまれ叫ばれましたが、今、私たちはイエス様が歌われた賛美を歌うことができます。

私は神の御名を歌をもってほめたたえ、神を感謝をもってあがめます。

それは雄牛、角と割れたひづめのある若い雄牛にまさって主に喜ばれるでしょう。

心の貧しい人たちは、見て、喜べ。神を尋ね求める者たちよ。あなたがたの心を生かせ。(30-32)

そして、詩人は歌います。

まことに神がシオンを救い、ユダの町々を建てられる。こうして彼らはそこに住み、そこを自分たちの所有とする。

主のしもべの子孫はその地を受け継ぎ、御名を愛する者たちはそこに住みつこう。(35-36)

新しいエルサレムが来ます。それはユダヤ人だけのためではなく、イエス様の十字架の働きを信じ、その御名を愛する人のために来ます。その新しいエルサレムで、私たちの救いは成就されます。

主よ、あなたが私の救いのために多大な代価を払ってくださったことに感謝いたします。あなたは罪を犯されることなく、私のために死んでくださいました。

私が決してそのいけにえを軽んじることのないように、私の人生があなたに対する賛美となるようにお導きください。私の人生と言葉で周りの人々にあなたの御業を宣言するように助けてください。アーメン。

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詩篇

神様の力とあわれみ

詩篇68篇を読むとき、二つのことが私の心を打ちます。

一つ目は、神様の力です。

この詩篇の初めに、私たちは敵を滅ぼしてくださる神様の力が見えます。

神よ。立ち上がってください。神の敵は、散りうせよ。神を憎む者どもは御前から逃げ去れ。

煙が追い払われるように彼らを追い払ってください。悪者どもは火の前で溶け去るろうのように、神の御前から滅びうせよ。(詩篇68:1-2)

そして、詩人は、どうやって神様がイスラエル人をエジプトから救い出してくださって、約束の地に導いてくださったか思い出します。

神よ。あなたが御民に先立って出て行かれ、荒れ地を進み行かれたとき、セラ

地は揺れ動き、天もまた神の御前に雨を降らせ、シナイもイスラエルの神であられる神の御前で震えました。(7-8)

そして、詩人は歌います。

神よ。御力を奮い起こしてください。私たちのために、事を行なわれた神よ。御力を示してください。(28)

また、

神の力を認めよ。みいつはイスラエルの上に、御力は雲の上にある。

神よ。あなたはご自身の聖なる所におられ、恐れられる方です。イスラエルの神こそ力と勢いとを御民にお与えになる方です。ほむべきかな。神。(34-35)

神様の力を見ていると、私は畏敬の念を抱きます。

しかし、この詩篇にはもう一つのことが見られます。それは神様のあわれみです。

みなしごの父、やもめのさばき人は聖なる住まいにおられる神。

神は孤独な者を家に住まわせ、捕らわれ人を導き出して栄えさせられる。(5-6)

詩人は、神様がどうやってイスラエル人を約束の地に導いてくださったかについて話すとき、こう言います。

神よ。あなたは豊かな雨を注ぎ、疲れきったあなたのゆずりの地をしっかりと立てられました。

あなたの群れはその地に住みました。神よ。あなたは、いつくしみによって悩む者のために備えをされました。(9-10)

けれども、私が一番好きな箇所は19節です。

ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神。セラ

以前言ったように、神様の力について考えるとき、私は畏敬の念を抱きます。なぜなら、神様はすべてのことをコントロールしておられるし、何でもできます。

しかし、私たちに対する神様のあわれみと恵みはもっと素晴らしいものです。毎日、神様は私たちを愛し、見守ってくださいます。

それに、神様は私たちの重荷を背負ってくださいます。

また、私たちのニーズを見るとき、神様はそのニーズに備えてくださいます。

私たちが寂しいとき、神様は私たちとともにおられます。

私たちが囚人だったとき、神様は私たちを解放してくださいました。

主よ。あなたが力ある神であることを感謝します。けれども、あなたが私たちを愛していることをもっと感謝します。私があなたの臨在をもっと感じるように。私の人生にあなたの力をもっと知るように。

以前のように、あなたの力を示してください。しかし、あなたのあわれみも私がもっと知るように。そして、私がそのあわれみを周りの人々に与えるように助けてください。私を通して、彼らがあなたのあわれみと力を見えるように。アーメン。

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詩篇

すべての人々が神様を知るように祝福された

この詩篇は、申命記6:24-26の祭司の祝福に似ています。

どうか、神が私たちをあわれみ、祝福し、御顔を私たちの上に照り輝かしてくださるように。(詩篇67:1)

私が興味深いと思うのは、その詩人の動機です。

それは、あなたの道が地の上に、あなたの御救いがすべての国々の間に知られるためです。(2)

多くのクリスチャンは自己中心的な理由のために「主よ。私を祝福してください」と祈ります。

しかし、詩人はこのように祈ります。

「主よ、私たちをあわれんでください。祝福してください。なぜなら、周りの人々があなたの恵みと慈しみを見るなら、あなたとの関係を求めるから。そして、私たちだけではなく、彼らもあなたの救いを知ります。」

詩人はその日を楽しみにして、歌います。

神よ。国々の民があなたをほめたたえ、国々の民がこぞってあなたをほめたたえますように。

国民が喜び、また、喜び歌いますように。それはあなたが公正をもって国々の民をさばかれ、地の国民を導かれるからです。セラ

神よ。国々の民があなたをほめたたえ、国々の民がこぞってあなたをほめたたえますように。(3-5)

詩人は、すべての国民が自分の心を神様に向けることを見るし、もう一つのことを見ます。それは、神様を恐れる人に対する神様の祝福です。

地はその産物を出しました。神、私たちの神が、私たちを祝福してくださいますように。

神が私たちを祝福してくださって、地の果て果てが、ことごとく神を恐れますように。(6-7)

神様、あなたの恵みを与えてください。主よ、私を引き寄せ、あなたの御顔を私の上に照り輝かせてくださるように。そして、私の周りの人々が私を見る時、彼らはあなたを見て、あなたに近づくように。

あなたの光が私を通して輝くように。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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詩篇

逃げられない

私は刑事コロンボという番組が大好きです。その番組にはいつも同じパターンがあります。つまり、犯罪者は完全犯罪を犯しますが、コロンボは少しずつ彼らの犯罪を解明します。

詩篇64篇を読むとき、コロンボの話について考えます。ダビデはこう書きました。

彼らは、その舌を剣のように、とぎすまし、苦いことばの矢を放っています。

全き人に向けて、隠れた所から射掛け、不意に射て恐れません。

彼らは悪事に凝っています。語り合ってひそかにわなをかけ、「だれに、見破ることができよう」と言っています。

彼らは不正をたくらみ、「たくらんだ策略がうまくいった」と言っています。人の内側のものと心とは、深いものです。(詩篇64:3ー6)

けれども、コロンボのように、神様は彼らの計画を暴露して、彼らを罰されます。

しかし神は、矢を彼らに射掛けられるので、彼らは、不意に傷つきましょう。

彼らは、おのれの舌を、みずからのつまずきとしたのです。彼らを見る者はみな、頭を振ってあざけります。

こうして、すべての人は恐れ、神のみわざを告げ知らせ、そのなさったことを悟ります。(7ー9)

エステル記で、ハマンはそう学びました。ユダヤ人を滅ぼすために完璧な計画を立てましたが、その計画はハマンの目の前で崩れました。

しかし、時々私たちは正義が遅れて来ると感じます。有罪な人が解放されて、私たちは「神様はどこにおられるのか。どうして神様は何もしないのか。」と思うことがあります。

けれども、いつか神様が彼らを裁かれることを忘れないでください。裁きの日には、神様がすべての罪を裁かれます。

だから、不正義を見るときに思い悩まないでください。人間の正義は失敗するかもしれませんが、神様の正義は決して失敗しません。だからダビデはこう言われました。

正しい者は主にあって喜び、主に身を避けます。心の直ぐな人はみな、誇ることができましょう。(10)

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詩篇

試練から私たちを救い出してくださる神

試練が好きだと言う人はいません。私も全然好きではありません。けれども、この詩篇では、私たちは試練から救い出してくださった神様の民が喜ぶのを見ます。

詩篇66篇では、詩人はこう歌います。

全地よ。神に向かって喜び叫べ。

御名の栄光をほめ歌い、神への賛美を栄光に輝かせよ。

神に申し上げよ。「あなたのみわざは、なんと恐ろしいことでしょう。偉大な御力のために、あなたの敵は、御前にへつらい服します。

全地はあなたを伏し拝み、あなたにほめ歌を歌います。あなたの御名をほめ歌います。」 (詩篇66:1-4)

そして、詩人は喜びの理由を教えます。

さあ、神のみわざを見よ。神の人の子らになさることは恐ろしい。

神は海を変えて、かわいた地とされた。人々は川の中を歩いて渡る。さあ、私たちは、神にあって喜ぼう。(5-6)

もちろん、詩人は神様がイスラエル人をエジプトからどのように救い出してくださったかについて話しています。つまり、神様は紅海に乾いた道を整えてくださいました。その時、神様はその力をイスラエルと周りの国々に現わされました。

だから、詩人は警告します。

神はその権力をもってとこしえに統べ治め、その目は国々を監視される。頑迷な者を、高ぶらせないでください。(7)

そして詩人は振り返って、イスラエル人のエジプトの苦しみも砂漠の苦しみも思い出します。けれども、その苦しみの中で、詩人は神様の御手を見ました。

国々の民よ。私たちの神をほめたたえよ。神への賛美の声を聞こえさせよ。

神は、私たちを、いのちのうちに保ち、私たちの足をよろけさせない。

神よ。まことに、あなたは私たちを調べ、銀を精錬するように、私たちを練られました。

あなたは私たちを網に引き入れ、私たちの腰に重荷をつけられました。

あなたは人々に、私たちの頭の上を乗り越えさせられました。私たちは、火の中を通り、水の中を通りました。しかし、あなたは豊かな所へ私たちを連れ出されました。(8-12)

11-12節は興味深い箇所です。神様はイスラエル人を網に引き入れ、外国の王を彼らを治めるために送りました。

神様は私たちの人生に直接悪を送らないけど、この壊れた世に悪は来ます。もちろん神様はその悪を止めることができますが、時々その悪が私たちの人生に来ることを許されます。

どうしてでしょうか。神様は私たちを憎むからでしょうか。違います。

その試練を通して、神様は銀を精錬するように、私たちを練られます。

その試練を通して、私たちのプライドや罪を清め、私たちは神様が望んでおられる聖いものになります。

しかし、私たちが火を通るとき、神様は私たちを手放しません。むしろ、神様は私たちを守り、私たちの足をよろけさせません。そして、私たちはその試練を乗り越え、勝利を得ます。

だから、火を通ってから、詩人は感謝のいけにえを捧げ、自分の経験を周りの人々に伝えました。彼はこう歌います。

さあ、神を恐れる者は、みな聞け。神が私のたましいになさったことを語ろう。

私は、この口で神に呼ばわり、この舌であがめた。

もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。

しかし、確かに、神は聞き入れ、私の祈りの声を心に留められた。

ほむべきかな。神。神は、私の祈りを退けず、御恵みを私から取り去られなかった。(16-20)

あなたはどうですか。どんな試練を通っているでしょうか。どんな試練を通っても、神様はあなたを決して離れません。

だから失望しないでください。神様に叫びましょう。あなたの心を主の前に注ぎ出しましょう。そうすれば、神様の救いを知ります。その時、周りの人々に、神様が何をしてくださったか教えましょう。

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詩篇

私たちを救い、 満たしてくださる神

私はこの詩篇がいつ書かれたのか分かりません。もしかすると、神様の裁きによってイスラエルには飢饉があったのかもしれません。けれども、その後イスラエル人が悔い改めたので、もう一度神様の祝福を受けたのでしょう。

だから、詩人は神様のあわれみに感謝します。

神よ。あなたの御前には静けさがあり、シオンには賛美があります。あなたに誓いが果たされますように。

祈りを聞かれる方よ。みもとにすべての肉なる者が参ります。

咎が私を圧倒しています。しかし、あなたは、私たちのそむきの罪を赦してくださいます。

幸いなことよ。あなたが選び、近寄せられた人、あなたの大庭に住むその人は。私たちは、あなたの家、あなたの聖なる宮の良いもので満ち足りるでしょう。(詩篇65:1-4)

この個所で、詩人はイスラエルの罪と神様の裁きを思い出します。私は3節が大好きです。

咎が私を圧倒しています。しかし、あなたは、私たちのそむきの罪を赦してくださいます。

私たちは自分の罪に圧倒されました。私たちは神様の裁きから逃げられなかった。けれども、パウロが言ったように、「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった。」(ローマ5:8)

だから今、神様は私たちを近づけて、祝福を注いでくださいます。私たちはもう神様を恐れる必要がありません。むしろ、神様のあわれみと恵みを受けたので、愛で満たされた心で私たちは神様を仰ぎます。

そして、ある日、天国で私たち皆は神様のあわれみを賛美します。(1)

5節でダビデはこう言います。

私たちの救いの神よ。あなたは、恐ろしい事柄をもって、義のうちに私たちに答えられます。あなたは、地のすべての果て果て、遠い大海の、信頼の的です。

この詩篇の後半で、ダビデは神様の創造の力を思い出し、どうやって神様が雨を降らして、この世を支え、祝福することについて歌います。

けれども、この詩篇を読むとき、私はもう一つのことを見ます。それは私たちの救い主の業です。つまり、イエス様は私たちの罪のために死んでくださったので、この死にかけている世においても、私たちには希望があります。

神様がこの世を祝福するために天から雨を降らすように、神様は生ける水、つまり聖霊を私たちに注ぎ、毎日私たちを満たしてくださいます。

また御霊によって、神様は私たちと私たちが触れる人に恵みを注いでくださるので、私たちは豊かな実を結びます。

主よ、あなたが私に注いでくださった恵みを感謝します。その恵みによって私は救われました。私が自分自身を救う力がないとき、あなたは私を救ってくださいました。

今、あなたの聖霊で私を満たしてください。あなたの聖霊が私の人生にあふれ、私が実を結び、周りの人々に触れるように。

あなたが私の人生に注いでくださる喜びを感謝します。主イエスキリストのみ名によって祈ります。アーメン。

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詩篇

何を信頼するか

これはもう一つの私が好きな詩篇です。いつものように、ダビデは困っていましたが、こう歌いました。

私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。

神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。(詩篇62:1-2)

「ただ神を待ち望む」という言葉は私の心を打ちます。

ダビデはいろんな試練を経験したので、人々がいつも忠実なわけではないと分かるようになりました。また、お金や富にも頼ることができないと分かるようになりました。

ダビデはこう書きました。

まことに、身分の低い人々は、むなしく、高い人々は、偽りだ。はかりにかけると、彼らは上に上がる。彼らを合わせても、息より軽い。

圧制にたよるな。略奪にむなしい望みをかけるな。富がふえても、それに心を留めるな。(9ー10)

つまり、人が偉くても、そうではなくても、私たちは彼らをいつも信頼することができないということです。

時々彼らはあなたを裏切るからです。

彼らが忠実でも、いつまでも生きるわけではありません。ある日、彼らは亡くなってしまうので、あなたは彼らにもう頼ることができません。

自分の富に頼る人もいます。しかし、そのお金を盗んでも、そのお金のためにちゃんと働いても、一時的な幸せだけを買うことができます。結局、あなたはお金と持ち物の虚しさを分かるようになります。

だからダビデは、「これらのものに頼りません」と言います。むしろ、彼はこう言いました。

私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。(5)

そして、ダビデは私たちに言います。

民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。(8)

あなたは何に頼るでしょうか。人に頼るでしょうか。富に頼るでしょうか。自分自身に頼るでしょうか。

それらのものは偽りの避け所です。結局、それらのものによって私たちはがっかりします。神様だけが私たちの信頼に値します。だから、ダビデはこの詩篇をこの言葉でまとめます。

神は、一度告げられた。二度、私はそれを聞いた。力は、神のものであることを。

主よ。恵みも、あなたのものです。あなたは、そのしわざに応じて、人に報いられます。(11ー12)

私たちを決してがっかりさせない神に信頼しましょう。

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詩篇

私たちと共におられる神

詩篇61篇で、ダビデはもう一度敵から逃げています。この詩篇を書いた時、ダビデはすでにイスラエルの王でした。

多分、この詩篇の背景にはアブサロムのクーデターがあるでしょう。アブサロムはダビデの王座を奪い、ダビデを追放しました。

だからダビデは叫びました。

神よ。私の叫びを聞き、私の祈りを心に留めてください。

私の心が衰え果てるとき、私は地の果てから、あなたに呼ばわります。(詩篇61:1-2)

「私は地の果てから、あなたに呼ばわります」という言葉は私の心を打ちます。ダビデは自分の家から遠く離れていて、ダビデが愛した神様の幕屋からも遠かったのです。

けれども、ダビデがどこにいても、神様が彼の声を聞いてくださることを知っていました。だから、ダビデは自分の苦しみの中で神様に叫びました。

どうか、私の及びがたいほど高い岩の上に、私を導いてください。

まことに、あなたは私の避け所、敵に対して強いやぐらです。

私は、あなたの幕屋に、いつまでも住み、御翼の陰に、身を避けたいのです。(2b-4)

言い換えれば、「あなたにあって、私は安心します。あなたを慕い求めるけど、あなたは遠く離れるようです。私をあなたのところに導いてください」ということです。

私たちはどれほどダビデのように感じるでしょうか。私たちは、神様に捨てられたと思うことがあります。神様にあって休みたいけど、神様は遠く離れているように感じます。

時々、私たちはダビデのように誓いをします。「私を助けてくだされば、私はこうします。」

その誓いをすれば、守らなくてはなりません。しかし、そんな誓いは要りません。神様からの私たちの遺産は恵みによって受けるのです。その遺産は、神様を愛し恐れる人のものです。

それは、困難の中の平和と希望の遺産です。

それは、神様が私たちを自分の子供と呼ぶ遺産です。

それは、神様が私たちの叫びに応える遺産です。

それは、いつか私たちがキリストとともに治める遺産です。(第二テモテ2:12)

だから困るとき、また神様が遠く離れると思うとき、その遺産を思い出しましょう。

私たちが想像するよりも、神様は近いです。

神様は聖霊によって、私たちを及びがたいほど高い岩の上に導いてくださいます。その高いところから、私たちのトラブルは小さく見えます。

その時、ダビデのように私たちは神様の御名をとこしえまでもほめ歌います。(8)

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詩篇

勝利を思い出す

ちょっと詩篇108篇に飛びます。なぜなら、詩篇108篇には詩篇57篇と詩篇60篇の部分が含まれているからです。

具体的には、詩篇108:1-5は詩篇57篇の最後の部分から来ており、詩篇108:6-13は詩篇60篇の最後の部分から来ています。

詩篇108篇がその二つの詩篇のメドレーかどうかは分かりません。もしかしたら、ダビデはその二つの詩篇から新しい詩篇を書いたのかもしれません。でも、どうしてダビデはその二つの詩篇を組み合わせたのでしょうか。

私は二つの推測をしています。

一つ目は、ダビデが詩篇60篇を書いたときに、同時に詩篇108篇も書いたということです。

詩篇60篇の背景には、イスラエルが敵に敗れたことで苦しんでいた時期があります。だから、ダビデは神様が洞穴でどのように彼をサウルから救い出してくださったかを思い出したのでしょう。

多分彼は自分にこう言ったのです。「この敗戦には失望してはならない。神様が過去に何をしてくださったかを思い出そう。もし、過去に神様が私を救い出したなら、将来も神様は私を救い出してくださるだろう。」

二つ目は、詩篇108篇はその二つの事件の後に書かれたものであるということです。つまり、ダビデは振り返り、神様が何をしてくださったかを思い出して、神様を賛美したのです。

そのように、私たちも過去の勝利を思い出したほうが良いです。特に、苦難の時に、過去の勝利を思い出したほうが良いです。

そして、神様が私たちを救い出してくださった後、私たちは神様に感謝するべきです。

どうしてそうするべきでしょうか。

希望のためです。

苦しい時、勝利を思い出すことは私たちに希望を与えます。希望がないなら、試練に直面することは難しいです。

でも希望を持てば、どんな試練に直面しても、私たちは乗り越えられます。なぜなら、神様が私たちの味方で、私たちを助けてくださることを知っているからです。

あなたはどんな勝利を経験したでしょうか。その勝利について書きましょう。神様があなたの祈りに応えてくださるとき、そのことについて書きましょう。それだけではなく、神様をほめたたえましょう。

そうすれば、試練が来るとき、あなたは立つことができます。

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詩篇

私たちが敗れる時

詩篇60篇はちょっと不思議です。なぜなら、そのタイトルを見ると、この詩篇は勝利の時に書かれたもののように思えます。けれども、この詩篇によれば、イスラエル人は戦いに敗れたらしいです。

だから、彼らは叫びます。

神よ。あなたは私たちを拒み、私たちを破り、怒って、私たちから顔をそむけられました。

あなたは地をゆるがせ、それを引き裂かれました。その裂け目を、いやしてください。地がぐらついているのです。(詩篇60:1-2)

どうしてイスラエル人は敗れたのでしょうか。私たちにはわかりません。聖書ではその理由が書かれていないからです。列王記にも歴代誌にも、その敗北に関しては何も書かれていません。

言えることは、霊的な力と戦うとき、時々私たちは敗れるということです。しかしその時、二つのことを思い出しましょう。

一つ目は、神様が私たちを見捨てておられないということです。時々、私たちはそう感じるかもしれませんが、神様は私たちを拒絶しておられません。

二つ目は、時々私たちは戦いに負けることがありますが、結局私たちは戦闘に勝つということです。

神様はイスラエル人の叫びを聞いて、こう答えられました。

「わたしは、喜び勇んで、シェケムを分割し、スコテの谷を配分しよう。

ギルアデはわたしのもの。マナセもわたしのもの。エフライムもまた、わたしの頭のかぶと。ユダはわたしの杖。

モアブはわたしの足を洗うたらい。エドムの上に、わたしのはきものを投げつけよう。ペリシテよ。わたしのゆえに大声で叫べ。」(6-8)

つまり、「勝利は私の手にあります。私はあなたを私のものとして選んだので、あなたの敵をあなたの手に渡します。」ということです。

だから、イスラエル人は拒絶されたと感じたのに、彼らはもう一度神様に叫びました。

どうか、敵から私たちを助けてください。まことに、人の救いはむなしいものです。

神によって、私たちは力ある働きをします。神こそ、私たちの敵を踏みつけられる方です。(11-12)

そして、信仰によって、彼らは自分の力ではなく、神様の力によって出て戦いました。その時、神様は彼らに勝利を与えてくださいました。

最近、あなたは何かに敗れたでしょうか。失望しないでください。立ち上がりましょう。自分の力ではなく、神様の力によって立ち上がりましょう。神様の助けを願いましょう。そうすれば、勝利を得ます。

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詩篇

不義を見る時

裁判官が有罪の人を自由にさせるのを見ると、私たちは皆フラストレーションを感じると思います。

もしかしたら、警察や検事のミスによって、その被告は解放されたのかもしれません。または、堕落した裁判官や陪審員のため、その被告が解放されたのかもしれません。

だから私たちは怒って叫びます。

しかし、こんな問題は新しいものではありません。詩篇58篇では、ダビデは同じ問題について嘆いています。

力ある者よ。ほんとうに、おまえたちは義を語り、人の子らを公正にさばくのか。

いや、心では不正を働き、地上では、おまえたちの手の暴虐を、はびこらせている。(詩篇58:1-2)

どうしてこの世にそんな問題があるのでしょうか。

理由の一つとして、私たち皆が生まれた時から罪人であることが挙げられるでしょう。生まれた時から、私たちは自分の欲望に引っ張られています。(3)

それに、神様が正しい道を教えるのに、私たちは自分の耳を閉じます。(4-5)

だから、ダビデは神様が悪人を裁いてくださるように叫びます。けれども、ダビデのように、私たちは裁きの日が来ることを確信できるので、慰められます。神様がこの世に来るとき、すべての悪人は一掃されます。その日、

人々は言おう。「まことに、正しい者には報いがある。まことに、さばく神が、地におられる。」(11)

その日を待つのは難しいでしょうか。不義を見るとき、フラストレーションを感じるでしょうか。もちろんです。

けれども、失望しないでください。他の詩篇で、ダビデはこう書きました。

悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。

彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。(37:1-2)

だからこそ、毎日、私たちは神様を信頼し続け、良いことを行い、主をおのれの喜びとし、私たちの道を主にゆだねましょう。(37:3-5)

そうすれば、この悪の時代にも、私たちはこの世に神様の働きと、私たちの人生に神様の働きを見ることができます。

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詩篇

友達があなたを裏切る時

いつ詩篇55篇が書かれたか分かりませんが、ダビデに対するアブサロムの反抗の時に書かれたものかもしれません。

その時、ダビデの議官アヒトフェルはダビデに背を向けて、アブサロムを助け始めました。どうしてアヒトフェルがダビデを裏切ったのかについてはこちらのブログで書きました。

ダビデは追放され、絶望して、叫びました。

神よ。私の祈りを耳に入れ、私の切なる願いから、身を隠さないでください。

私に御心を留め、私に答えてください。私は苦しんで、心にうめき、泣きわめいています。

それは敵の叫びと、悪者の迫害のためです。彼らは私にわざわいを投げかけ、激しい怒りをもって私に恨みをいだいています。

私の心は、うちにもだえ、死の恐怖が、私を襲っています。(詩篇55:1~4)

そして、ダビデは嘆きます。

まことに、私をそしる者が敵ではありません。それなら私は忍べたでしょう。私に向かって高ぶる者が私を憎む者ではありません。それなら私は、彼から身を隠したでしょう。

そうではなくて、おまえが。私の同輩、私の友、私の親友のおまえが。

私たちは、いっしょに仲良く語り合い、神の家に群れといっしょに歩いて行ったのに。(12-14)

また、

彼は、自分の親しい者にまで手を伸ばし、自分の誓約を破った。

彼の口は、バタよりもなめらかだが、その心には、戦いがある。彼のことばは、油よりも柔らかいが、それは抜き身の剣である。(20-21)

友達に裏切られるのは苦しいことです。あなたが彼らを愛していたのに、彼らはあなたに背を向けて、わざとあなたを傷つけようとするからです。彼らはあなたの友達のふりをしますが、あなたが見ていない時、ナイフをあなたの背中に刺します。

友達に裏切られるのも苦しいですが、夫や妻に裏切られるなら、本当に苦しいです。そして、その裏切りによって、あなたは人を信頼することが難しくなるかもしれません。もしくは、神様を信頼することが難しくなるかもしれません。

でも、イエス様も裏切りの苦しみを知っていることを覚えていてください。ユダがイエス様を裏切ったので、イエス様はあなたの感情がよく分かります。

それに、イエス様はあなたを決して裏切りません。むしろ、イエス様はいつもあなたに対して誠実です。

ダビデはそのことを知っていたので、こう歌いました。

私が、神に呼ばわると、主は私を救ってくださる。

夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いてくださる。

主は、私のたましいを、敵の挑戦から、平和のうちに贖い出してくださる。私と争う者が多いから。(16-18)

言い換えれば、他の人々は私たちに背を向けるかもしれませんが、神様は決してそうしないということです。だから、ダビデは私たちに言います。

あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。(22)

そして、ダビデは、信仰によって叫びます。

けれども、私は、あなたに拠り頼みます。(23)

あなたは裏切られましたか。あなたが人を信頼することは難しくなりましたか。あなたの苦しみに駆られることがないようにしましょう。

むしろ、あなたに忠実である神に信頼しましょう。あなたの重荷と痛みを主に委ねましょう。そうすれば、あなたは癒されます。

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詩篇

お金で買えない物

英語では、「Money makes the world go round」ということわざがあります。つまり、「金は天下の回りもの。」ということです。

お金がないと、私たちの社会は動きません。

しかし、詩篇49篇では、詩人はもっと大切な真理を教えます。「お金で買えない物もあります。」

詩人はこう書きました。

人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。

自分の身代金を神に払うことはできない。――たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない――人はとこしえまでも生きながらえるであろうか。墓を見ないであろうか。(詩篇49:7-9)

言い換えれば、お金で永遠の命を買うことはできません。私たち皆は、お金持ちでも貧乏な人でも、賢い人でも愚か者でも、強い人でも弱い人でも、いつか死にます。そして、死ぬと、貯まったお金を天国に(または地獄に)持って行けません。

だから、私たちのお金では天国に入ることはできません。「天国への切符」を買うことはできません。

なぜなら、私たちの罪によって、神様に対する負債があるからです。けれども、この世界のお金のすべてを持って行っても、私たちの負債を支払うことはできません。

神様だけが、その代価を支払うことができます。だから、神様自身が人間としてこの世に来て、私たちの負債を支払ってくださいました。しかし、お金を使わずに、十字架で自分の血を流されました。

びっくりするのは、この詩人がイエス様について全然知らなかったのに、彼がその真理を知っていたということです。彼はこう書きました。

しかし神は私のたましいをよみの手から買い戻される。神が私を受け入れてくださるからだ。(15)

イエス様が生まれる何百年も前に、神様が私たちを贖なうので、私たちが永遠に神様と共にいる確信が詩人にはありました。だから、彼はこう書いた。

恐れるな。人が富を得ても、その人の家の栄誉が増し加わっても。

人は、死ぬとき、何一つ持って行くことができず、その栄誉も彼に従って下っては行かないのだ。

彼が生きている間、自分を祝福できても、また、あなたが幸いな暮らしをしているために、人々があなたをほめたたえても。

あなたは、自分の先祖の世代に行き、彼らは決して光を見ないであろう。(16-19)

あなたはどうですか。金持ちをねたんでいるでしょうか。あなたは富を求めているでしょうか。もしくは、あなたにはお金がたくさんあるけど、まだ満足していないでしょうか。もっともっとお金を儲けたいでしょうか。

詩人の言葉を覚えておきましょう。

人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい。(20)

お金や富を持つことは悪いことではありません。この世では、また神様の国のために、私たちはお金でたくさんの良いことができます。

けれども、お金は一番大切なものではありません。もっと大切なものがあります。

だから覚えておきましょう。きっと、お金で買えない物があります。

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詩篇

神様が私たちの中に住んでおられると

多分、エルサレムが攻撃された後に、詩篇48篇は書かれたと思われます。そして詩人は、神様がエルサレムを守ってくださるために、神様の偉大さをほめたたえます。

その詩人は歌います。

主は大いなる方。大いにほめたたえられるべき方。その聖なる山、われらの神の都において。(詩篇48:1)

エルサレムにある山シオンの美しさを讃えた後、詩人は歌います。

神は、その宮殿で、ご自身をやぐらとして示された。

見よ。王たちは相つどい、ともどもにそこを通り過ぎた。

彼らは、見るとたちまち驚き、おじ惑って急いで逃げた。(3-5)

そして、詩人は歌います。

私たちは、聞いたとおりを、そのまま見た。万軍の主の都、われらの神の都で。神は都を、とこしえに堅く建てられる。(8)

この詩篇から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

神様がご自身の住まいを見守ってくださったように、私たちを見守ってくださいます。

神様はもうある都市の宮におられるわけではありません。(実は、エルサレムの宮は本当は神様の家ではなかったのですが、その時、神様はご自身の臨在をその宮で示されました。)(列王記第一8:27;9:3)

今、神様はご自身の民の心の中におられます。

だから、私たちの敵、つまりサタンが私たちを攻撃するとき、私たちが神様に信頼するなら、神様は私たちを堅く建ててくださいます。

だから困る時に、恐れずに神様の恵みを思い巡らしましょう。(9)

神様の目には、私たちは神様の美しい宮であり、神様の喜びであり、神様の貴い子供たちです。だから、神様はいつも私たちを見守ってくださいます。

そして、神様からの救いを見ると、神様の慈しみに感謝しましょう。また、それを覚えておきましょう。

この方こそまさしく神。世々限りなくわれらの神であられる。神は私たちをとこしえに導かれる。(14)

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詩篇

歌って、叫ぼう

3年ほど前、茨木市に電車で通勤した時、私はワーシップの歌を聞き、歌いました。もちろん声を出さなかったけれど、聞きながら私の口は動いていました。その時、隣の人から変な顔をされました。

(日本人はそういうことはあまりしないのでしょうか。)

とにかく、気にせずに私は歌い続けました。

その前の日曜日、私の牧師は大胆に叫ぶや歌うことについて話しました。

彼は尋ねました。「もしあなたが、阪神タイガースの試合を見る時、『ファイト、ファイト』と囁くでしょうか。違いますよね?あなたは『ファイト!ファイト!』と叫ぶでしょう。」

とにかく、詩篇47篇を読んだ時、そのことについて考えました。この詩篇は囁くことができないと思います。こんな詩篇は叫び、大きな声で歌わなければならないと思います。

すべての国々の民よ。手をたたけ。喜びの声をあげて神に叫べ。(詩篇47:1)

また、

神にほめ歌を歌え。ほめ歌を歌え。われらの王にほめ歌を歌え。ほめ歌を歌え。(6)

詩人の熱心さがよく見えます。一節で、彼は「神様にほめ歌を歌え」と4回も言っています。

どうして彼はそんなに盛り上がっているのでしょうか。どうしてそんなに喜んでいるのでしょうか。それは、神様が大いなる神だからです。

まことに、いと高き方主は、恐れられる方。全地の大いなる王。(2)

また、神様は素晴らしいことをしてくださったからです。

国々の民を私たちのもとに、国民を私たちの足もとに従わせる。

主は、私たちのためにお選びになる。私たちの受け継ぐ地を。主の愛するヤコブの誉れを。(3-4)

この詩篇では、詩人は神様がイスラエル人を約束の地に導いてくださったことについて話しています。

しかし、神様は私たちクリスチャンにも勝利を与えてくださいました。サタンに対する勝利を与えてくださいました。罪に対する勝利を与えてくださいました。また、死に対する勝利を与えてくださいます。

神様の愛によって、私たちには天国にある遺産があります。それに、この世でも、あなたの人生が生きがいのあるものになります。

だから、パウロはこう書きました。

まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。(第一コリント2:9-10)

だから、叫び、大きな声で歌うのは、当たり前のことですよね。

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詩篇

神様についての二つの誤解

詩篇50篇の内容は、預言書の内容に似ています。そして、この箇所で、私たちは神様についての二つの誤解を見ます。

最初の部分では、神様は裁判所に入って、被告を喚問されます。その被告は誰でしょうか。モーセの律法の下にあるイスラエル人です。

けれども、ある日、私たちもキリストのさばきの座に行かなくてはなりません。この詩篇の警告に注意するべきです。

最初の神様についての誤解は、神様は宗教的な儀式だけを望まれることです。つまり、神様は供え物やいけにえだけを望まれます。しかし、神様はイスラエル人にこう言われました。

わたしは、あなたの家から、若い雄牛を取り上げはしない。あなたの囲いから、雄やぎをも。

森のすべての獣は、わたしのもの、千の丘の家畜らも。

わたしは、山の鳥も残らず知っている。野に群がるものもわたしのものだ。

わたしはたとい飢えても、あなたに告げない。世界とそれに満ちるものはわたしのものだから。

わたしが雄牛の肉を食べ、雄やぎの血を飲むだろうか。(詩篇50:9-13)

言い換えれば、神様はこう言っておられます。

「あなたは供え物やいけにえを捧げているが、その目的を理解していない。

私は飢えているわけでも、貧しいわけでもない。私は何も必要としていない。すべてのものはすでに私のものだから。もし食べ物が欲しければ、自分で取りに行くだろう。けれども、実際には、私は決して食べ物を必要としない。

私の空腹を満たすために、供え物やいけにえを求めているのではない。」

そして、神様はイスラエルに何を望んでおられるかを語られます。

感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き方に果たせ。

苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。(14-15)

つまり、こういうことです。「感謝の心を持ちなさい。あなたの神として、あなたの必要を備える方として、そしてあなたの救い主として、私を認めなさい。自分自身のために生きるのをやめなさい。自分の力と知恵に頼って生きるのをやめなさい。」

そして、神様は彼らを厳しく責められました。なぜなら、周りの人たちが見ると、表面的には彼らが敬虔に見えたからですが、実は心の中で彼らは神様を侮っていたからです。神様は彼らにこう言われました。

しかし、悪者に対して神は言われる。「何事か。おまえがわたしのおきてを語り、わたしの契約を口にのせるとは。

おまえは戒めを憎み、わたしのことばを自分のうしろに投げ捨てた。

おまえは盗人に会うと、これとくみし、姦通する者と親しくする。

おまえの口は悪を放ち、おまえの舌は欺きを仕組んでいる。

おまえは座して、おのれの兄弟の悪口を言い、おのれの母の子をそしる。(16-20)

言い換えれば、こういうことです。「あなたは正しいことを語り、私を敬う言葉を口にします。けれども、そのあとで、自分の道を歩んでいくのです。」

多くのクリスチャンはその通りです。日曜日に、彼らは教会に行き、祈ったり、賛美したりしますが、月曜日から土曜日まで自分が好きなように生きます。

神様はあなたの宗教的な外見に感動しません。どんなに教会に通っても、それだけでは感動しません。たくさん献金を捧げても、感動しません。たくさん聖書の箇所を暗記しても、心を動かされることはありません。

神様はあなたの心を望まれます。神様があなたの心を持たないなら、あなたは神様を喜ばせることはできません。

そして、神様は二つ目の誤解について話されます。

こういうことをおまえはしてきたが、わたしは黙っていた。わたしがおまえと等しい者だとおまえは、思っていたのだ。わたしはおまえを責める。おまえの目の前でこれを並べ立てる。

神を忘れる者よ。さあ、このことをよくわきまえよ。さもないと、わたしはおまえを引き裂き、救い出す者もいなくなろう。(21-22)

つまり、神様はこう言っておられます。「あなたが悪を行っていた時、私は何も言いませんでした。だから、あなたは私がその行動を認めていると思ったのでしょう。しかし、実は私は忍耐して、あなたが悔い改めるのを待っていたのです。

けれども、もし悔い改めなければ、あなたには裁きが下ります。その時には、もう悔い改める機会は失われてしまうのです。」

そして、神様は最初の言葉に戻られます。

感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。(23)

この箇所から、私たちは何を学ぶことができますか。救いを得るための最初のステップは、神様を神様として認めることです。私たちが神様から独立して生きることを止めなくてはなりません。

むしろ、感謝の心を持って、へりくだって神様の前に生きるべきです。そうすれば、キリストにあっての救いのために私たちの心が整えられます。

裁きの日が来ます。だからヤコブはこう言いました。

主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。(ヤコブ4:10)

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詩篇

私たちの周りにカオスがある時

カオス。

子供が叫んだり、夫が病気だったり、締め切りがあったり、八方からプレッシャーがかけられたりします。

そんな経験をしたことがあるでしょうか。

誰しも人生の混乱を経験します。時々、全世界が私たちの上に落ちてくるように感じます。

また、ニュースを見ると、戦争の話や天災の話をよく聞きます。

だから、神様がだんだん見えなくなって、パニックになってしまいます。そして嵐にいたペテロのように、私たちは溺れ始めます。

詩人の言う解決策は何でしょうか。

やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。(詩篇46:10)

つまり、ちょっと止まってください。あなたの状況を見るのを止めて、少し神様を仰いでください。あなたの問題の大きさについて考えずに、神様の大きさについて考えてください。

そうすれば、何が分かるようになるでしょうか。

神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。

それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。

たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。(詩篇46:1-3)

私たちが見回ったら、

国々は立ち騒ぎ、諸方の王国は揺らいだ。(6)

しかし、

万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。(7,11)

私たちが自分の問題に焦点を当てると、神様がすべてのことをコントロールしていることを忘れてしまいがちです。神様の力はすべての問題を乗り越えます。

神様が声をかければ、この世は解けるでしょう。神様が「終わり」と言われれば、すべての戦争が終わり、すべての人々が裁かれます。

だから、主の前に静まりましょう。恐れを静め、疑問を止めましょう。そして、神様の大きさを見てください。

神様は私たちの中におられ、私たちは倒れることがありません。神様が私たちを助けてくださることを信じましょう。

神様の御霊は川のように私たちの中で流れ、私たちの人生の中で働いて、私たちを通して周りの人々に触れてくださいます。

だから、あなたはどんな問題に直面しても、神様の喜びと平和を知ることができます。

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詩篇

イエス様と結婚する

詩篇45篇のタイトルは、「愛の歌」と書かれています。おそらく、この歌は王の結婚式で歌われました。

この歌は人間の王の結婚式のためのものでしたが、この歌から、王の王であるイエス様の結婚式も見ることができます。

私たちはキリストの花嫁と呼ばれます。この詩篇で、私たちの花婿であるイエス様を見ることができ、花嫁として私たちがイエス様にどう反応するべきかを知ることができます。

この詩篇の最初の部分は王について語ります。その言葉によって、イエス様のいろんな描写が見られます。例えば、イエス様は恵み深い方です。

あなたは人の子らにまさって麗しい。あなたのくちびるからは優しさが流れ出る。神がとこしえにあなたを祝福しておられるからだ。(詩篇45:2)

また、イエス様は勇士です。

雄々しい方よ。あなたの剣を腰に帯びよ。あなたの尊厳と威光を。

あなたの威光は、真理と柔和と義のために、勝利のうちに乗り進め。あなたの右の手は、恐ろしいことをあなたに教えよ。

あなたの矢は鋭い。国々の民はあなたのもとに倒れ、王の敵は気を失う。(3-5)

また、イエス様は私たちの王です。

神よ。あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は公正の杖。

あなたは義を愛し、悪を憎んだ。それゆえ、神よ。あなたの神は喜びの油をあなたのともがらにまして、あなたにそそがれた。(6-7)

へブル人への手紙の著者は、イエス様について語る際に、詩篇45篇の6-7節を引用しました。(へブル1:8-9)

そして、詩人はキリストの花嫁である私たちに語りかけます。

娘よ。聞け。心して、耳を傾けよ。あなたの民と、あなたの父の家を忘れよ。(10)

その言葉は創世記から来ます。神様は結婚についてこう言われました。

それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。(創世記2:24)

創世記の箇所は特に男性について話していますが、この詩篇によれば、女性もそうするべきです。

そのため、私たちはイエス様と結ばれるとき、キリストとの結びを邪魔するものを捨てなければなりません。

私はクリスチャンホームで育ちましたが、ある人はクリスチャンになると、その親たちと喧嘩します。また、ある人は、友達から離れなければならない。なぜなら、その友達が、その人を神様から引き離そうとするからです。

もちろん、それは極端な状態です。理想を言えば、私たちにはそのような必要はないと言いたいところです。私たちの証しによって彼らがキリストを求めるようになれば、それも理想的です。

けれども時々、私たちは「すみません。私はあなたが行く道を行くことができません。私はイエス様に従うからです。」と言わなければなりません。

そして、詩篇の著者は花嫁にこう言いました。

そうすれば王は、あなたの美を慕おう。彼はあなたの夫であるから、彼の前にひれ伏せ。(11)

それはどんな美しさでしょうか。体の美しさでしょうか。違います。ペテロはクリスチャンの妻たちにこう言いました。

むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。(第一ペテロ3:4)

私たち皆、そんな美しさが必要です。

また、イエス様が私たちの主なので、生涯イエス様を敬わなくてはなりません。

そして、詩人は歌います。

王の娘は奥にいて栄華を窮め、その衣には黄金が織り合わされている。

彼女は綾織物を着て、王の前に導かれ、彼女に付き添うおとめらもあなたのもとに連れて来られよう。

喜びと楽しみをもって彼らは導かれ、王の宮殿に入って行く。(13-15)

どうして、花嫁には栄華があるでしょうか。それは、その王が彼女を選び、きれいな着物を着せ、美しくしたからです。

イエス様は私たちのために同じことをしてくださいました。イエス様は、

教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた。。。

みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。(エペソ5:25-27)

私たちがそのような花嫁になるように。

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詩篇

どうして私にこんなことが起こっているのだろう?

「どうして、私にこんなことが起こるのだろう?」

そう考えたことがあるでしょうか。詩篇44篇の詩人も同じように感じました。

この詩篇の背景はよくわかりませんが、おそらくその時代、イスラエル人は神様に仕えようとしていたけれど、敵に敗れました。

だから、彼らは言いました。

「私たちの先祖が、カナンに初めて来た時の話を聞きました。その時、あなたは私たちと共におられました。あなたが私たちを愛したので、私たちは自分の力ではなく、あなたの力によってたくさんの国々を追い出しました。

あなたは私たちの王です。私たちの先祖のように、私たちは勝利のために自分自身の力に頼らずに、あなたに信頼しました。私たちはあなたを誇ります。あなたをほめたたえます。」

それでは、どうして、あなたは私たちと共におられないのでしょうか。私たちが戦う時、倒れてしまいます。周りの国々は私たちをからかうので、私たちは恥ずかしくなりました。

もし、私たちがあなたに背を向け、偶像礼拝をしていたなら、今の苦しみも理解できます。けれども、そうしていないのです。どうして、あなたは私たちを捨てたのでしょうか。

どうして、あなたの顔をお隠しになっているのでしょうか。助けてください。」

言い換えれば、「神様、どうしてこんなことが私に起こっているのでしょうか。あなたに従おうとしているのに、どうして私の人生はめちゃくちゃになっているのでしょうか。」

この詩篇では、その答えは見つかりません。

しかし、ローマ書には希望があります。パウロはこの詩篇の22節を引用しています。

だが、あなたのために、私たちは一日中、殺されています。私たちは、ほふられる羊とみなされています。(詩篇44:22)

けれども、パウロは言います。

しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ書8:37-39)

神様は、私たちには決してトラブルが起こらないとは約束されていません。私たちが決して苦しまないとも約束されていません。むしろ、私たちがきっと苦しむことになると宣言されました。(ヨハネ16:33、第二テモテ3:12)

しかし、何が起こっても、神様は私たちがその苦しみを乗り越えられるように助けてくださることを約束されます。そして、何も私たちを神様の愛から引き離すことはできません。

それが私たちの希望です。だから、苦しむ時は詩人のように神様に叫びましょう。そして、神様が近いと感じても感じなくても、神様があなたの叫びを聞いておられると思っても思わなくても、神様の約束に縋りつきましょう。

私たちの感情はよく変わります。神様が近いと感じる時も感じない時もあります。けれども、神様とその約束は決して変わりません。

だから、パウロの言葉を覚えておきましょう。

ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。(第一コリント15:58)

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詩篇

あなたが落ち込んでいる時

私たち皆は、鬱状態になることがあります。時々、私たちは落ち込んで、希望がないと思います。

この二つの詩篇の詩人も同じように感じました。彼は本当に心を打つ描写を使います。

鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。

私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。(詩篇42:1-2)

アダム・クラークという聖書学者は、この箇所について興味深いことを言いました。

鹿は追いかけられて、本当に疲れて、のどが渇いた時、川に飛び込んで隠れます。その鼻だけが出ています。

私たちも時々そう感じます。八方から攻撃され、疲れ果ててしまいます。だから、私たちは疲れと恐れを抱えて、神様を慕いあえぎ、神様の腕の中に飛び込みます。

けれども、時々、どこを見ても神様を見つけられません。だから詩人のように私たちは叫びます。

いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。(2)

また、詩人のように、私たちは食事を楽しめなくなり、涙が私たちの食べ物になります。

そして、私たちは良い時を思い出します。

その時、教会に行って、友達と一緒に喜びました。また、私たちが祈った時、神様が近くにいて、神様に触れられるように感じました。

しかし今、嵐の中で私たちは溺れているように感じます。何度も大波が私たちの上を越えて行き、希望が失われます。

時々、私たちは自分自身を励まそうと思って、詩人のようにこう言います。

わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れているのか。

神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。私の神よ。(42:5-6)

けれども、すぐに落ち込んで、私たちは神様に尋ねます。

なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか。(9)

この箇所から、私たちは何を学ぶことができますか。

一つ目は、あなたが普通の人間であることです。その感情を経験する人は、あなただけではありません。

サタンのよく言う嘘は、「あなただけです。」ということです。

「そんな経験をするのはあなただけだ。あなただけが心の中で苦しむのだ。」

だから、私たちは恥ずかしくなります。他の人には自分の感情など分からない、と思います。

しかし、この詩人は分かっていました。だから、神様はこの詩人にこの詩篇を書かせたのです。

この詩篇によって、私たちは思い出します。「私だけじゃない。他の人も私の戦い、私の苦しみを分かってくれる。」

だから、私たちはどうすれば良いでしょうか。

まず一つ目は、神様が良い方であることを信じ続けることを選択することです。41-42篇で、詩人は3回言います。

わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れているのか。

神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。私の神よ。

神様があなたの神であることを思い出しましょう。神様があなたを愛して、御子イエス様を私たちを救うために送ってくださったことを思い出しましょう。

昼には、主が恵みを施し、夜には、その歌が私とともにあります。(42:8)

つまり、あなたが良い時の光の中にいても、悪い時の暗闇の中にいても、神様はあなたを決して捨てておられません。あなたが神様の臨在を感じなくても、神様はあなたのそばにおられます。

だから、詩人のように祈りましょう。

どうか、あなたの光とまことを送り、私を導いてください。あなたの聖なる山、あなたのお住まいに向かってそれらが、私を連れて行きますように。(43:3)

詩人はこう言っています。

「主よ、あなたが見えず、私をどこに導いておられるのか分かりません。どうか、あなたの光を私の上に照らしてください。私が進むべき道を教えてください。

あなたが私を捨てたという嘘を信じないように、どうか私をあなたのもとへ導いてください。」

もう一つ、言いたいことがあります。

あなたが落ち込んでいる時、クリスチャンの友達に話しましょう。彼らは不完全な人ですが、この世にあるキリストの体として、彼らがキリストの手、足、口、耳であることを覚えておきましょう。

そうすれば、あなたが一人ぼっちではないと分かります。

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詩篇

人をあわれむ

詩篇41篇は、詩篇の第一巻の最後の歌です。(詩篇には、全部で5巻あります。)

ダビデは1節でこう書いています。

幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。主はわざわいの日にその人を助け出される。(詩篇41:1)

イエス様はその言葉をこのように言い換えられました。

あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。(マタイ5:7)

あわれみというのは、何でしょうか。二つのニュアンスがあります。

一つ目は、弱い人や、病気の人や、貧しい人に情けをかけることです。

二つ目は、罰に値する人を罰しないことです。

この詩篇では、私たちは両方の意味を見ることができます。

1-3節で、ダビデは、もしあなたが弱い人を憐れむなら、あなたが弱い時、神様があなたを憐れむと言います。

けれども、4節で、ダビデは叫びます。

主よ、あわれんでください。私のたましいをいやしてください。私はあなたに罪を犯したからです。

ダビデのように、私たちはよく神様のあわれみを求めて祈ります。しかし、私たちは周りの人々をどれほどあわれんでいるでしょうか。

ダビデの敵のように、私たちは自分を傷つけた人々の悪口をどれほど言っているでしょうか。

彼らが苦しむ時、「それは当然です。その苦しみに値するから」と言ってしまうことはないでしょうか。

私たちはどれほど、彼らについて噂をし、彼らの過ちを大げさに言っているでしょうか。(5–9節)

また、友達が苦しんでいる時、ヨブの友達のように慰めることなく、責めてしまうことはないでしょうか。

「あなたは罪を犯したから、苦しんでいるのでしょう」と言ってしまうことはないでしょうか。

さらに、「もっと信仰を持てば、きっと癒されるでしょう」と言ってしまうことはないでしょうか。

ダビデにとっても、人をあわれむことは難しいことでした。詩篇の中で、ダビデは何回も自分の敵を責め、呪います。

皮肉なことに、この詩篇でも、ダビデはこう言います。

しかし、主よ。あなたは私をあわれんでください。私を立ち上がらせてください。そうすれば私は、彼らに仕返しができます。(10)

私たちはダビデの言葉を正当化する必要はありません。詩篇は感情の正直な表現です。けれども、覚えておきましょう。ダビデは自分の怒りとフラストレーションを詩篇で表しましたが、正義に基づいて行動しました。

私たちも怒りやフラストレーションを感じることがあるかもしれません。しかし、神様が私たちをあわれんでくださったように、私たちも人々をあわれまなくてはなりません。

そして、神様が私たちが弱い時に助けてくださったように、私たちも弱い人を助けなければなりません。(ローマ5:6-8)

あなたは周りの人々にどれくらいあわれみを示すでしょうか。

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詩篇

救い主の歌

このダビデの詩篇では、私たちはダビデの苦しみと救いを見ることができますが、イエス様の十字架の苦しみと復活も見ることができます。

最初に、ダビデは自分の救いについて神様を賛美します。

私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は私のほうに身を傾け、私の叫びを聞き、

私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。

主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。(詩篇40:1~3)

そのように、イエス様は十字架とその苦しみを振り返ります。天の父はイエス様の忍耐に報いて、イエス様をよみがえらせました。だから、イエス様はもう死にません。

それに、イエス様の十字架の働きによって、「多くの者は見、そして恐れ、主に信頼します」(3節)

ダビデの預言は成就しました。2000年もの間、人々はイエス様の十字架の働きを見て、救われてきました。

そして、ダビデは歌いました。

幸いなことよ。主に信頼し、高ぶる者や、偽りに陥る者たちのほうに向かなかった、その人は。(4節)

アダムとエバが罪に落ちてから、人々は救いのために偽物の神々を求めました。もしくは、自分自身を救おうと思いました。けれども、ダビデが言ったのは、偶像はあなたを救うことができないし、あなたが自分自身を救うことができない、ということです。

むしろ、救い主を仰いで信頼する人は救われます。

それは、初めから神様の計画でした。この世を造る前に、神様はその計画を立てられました。

そして、6~8節でダビデは歌います。

あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。あなたは、全焼のいけにえも、罪のためのいけにえも、お求めになりませんでした。

そのとき私は申しました。「今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。

わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」(6~8)

ヘブル人への手紙の著者は、この箇所を引用して、説明します。「神様の律法によれば、そのいけにえや捧げものは要求されました。しかし、それらはイエス様の十字架の働きのただの陰でした。」(ヘブル10章)

ちょっと説明しなければならないことがあります。詩篇では、「あなたは私の耳を開いてくださいました。」と書かれています。

けれども、ヘブル人への手紙では、「わたしのために、からだを造ってくださいました。」と書かれています。

その理由は、ヘブル人への手紙の著者がギリシャ語の翻訳から引用したということです。しかし、なぜヘブル語とギリシャ語がそれほど異なっているのでしょうか。

いろんな意見がありますが、まず一つの意見を紹介します。

神様の律法によって、もし奴隷が自由になる時間が来ても、その奴隷が主人を愛していて、ずっとその主人に仕えたいなら、彼の耳をきりで刺し通しました。それは、生涯のしもべのしるしでした。(申命記15:16-17)

もしかしたら、ギリシャの翻訳者はその詩篇の箇所をパラフレーズしたのかもしれません。つまり、ダビデは自発的に神様に供えられた体で、神様に永遠に仕えようと思いました。なぜなら、ダビデは神様を愛して、喜ばせたかったからです。

そのように、イエス様が天の父を愛して、喜ばせたかったので、天の父はイエス様に人間の体を備えられました。

そして、イエス様は私たちの罪のために十字架で死んでくださいました。しかし、イエス様はよみがえられて、永遠に天の父に仕えられます。(ローマ6:10;第一コリント15:24-27)

だから今、イエス様は神様の義、救い、真理、愛を全ての人々に述べ伝えます。(9-10)

この詩篇の最後の箇所では、十字架とイエス様の苦しみの話に戻ります。ダビデは自分の罪のために苦しんでいましたが、イエス様は十字架で私たちの罪を背負って、私たちのために苦しまれました。

そして、ダビデのように、イエス様は神様に願われます。「私を忘れないでください。私を憎む人々を裁いてください。また、あなたを愛する人によって、あなたの名前がほめたたえられるように。」(13-17)

天の父はイエス様の祈りに応えられたので、イエス様の働きによって、私たちはその救いを喜んで、「主をあがめよう」と叫ぶことができます。

アーメン。主をあがめよう。

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詩篇

本当の悔い改め

ダビデがこの二つの詩篇を同時に書いたかどうか分からないけど、どちらも神様の懲らしめに対するダビデの反応を表しています。

その詩篇がいつ書かれたか分からないけど、ダビデが自分のプライドによってイスラエルの人口を数えた後に書いたものかもしれません。

詩篇29篇のように、この詩篇では、ダビデは罪を犯したので、神様の懲らしめによって、苦しんでいました。だから、彼は祈りました。

主よ。あなたの大きな怒りで私を責めないでください。あなたの激しい憤りで私を懲らしめないでください。

あなたの矢が私の中に突き刺さり、あなたの手が私の上に激しく下って来ました。

あなたの憤りのため、私の肉には完全なところがなく、私の罪のため私の骨には健全なところがありません。

私の咎が、私の頭を越え、重荷のように、私には重すぎるからです。

私の傷は、悪臭を放ち、ただれました。それは私の愚かしさのためです。

私はかがみ、深くうなだれ、一日中、嘆いて歩いています。

私の腰はやけどでおおい尽くされ、私の肉には完全なところがありません。

私はしびれ、砕き尽くされ、心の乱れのためにうめいています。(詩篇38:1-8)

詩篇38篇18節は私の心を打ちます。

私は自分の咎を言い表わし、私の罪で私は不安になっています。(詩篇38:18)

時々、人々は自分の罪を軽んじます。彼らは悔い改めの祈りを唱えるかもしれませんが、心の中ではあまり悲しんでいません。むしろ彼らは、「あ、私の足はちょっと汚れているから、拭いておこう。」という態度を取ります。

けれども、ダビデが罪を犯した時、彼は本当に不安になりました。そして、パウロのように、彼は心から叫びました、「私は、ほんとうにみじめな人間です。」(ローマ書7:24)

ダビデは自分の悪さを見て本当に悲しんでいたので、悔い改めました。それが本当の悔い改めです。

詩篇39篇で、私たちはダビデの反応をもっと見ます。その時、彼は苦しんでいましたが、最初は何も言いませんでした。なぜなら、悪者が彼を見ていて、ダビデの言葉によって神様に汚名を着せるかもしれないからです。(詩篇39:1-2)

つまり、もし悪者がダビデの罪の告白を聞いたら、神様の名前を汚すようなことを言うかもしれません。「この人は神様を愛していると言うのに、なぜこんな悪いことをするの?どんな神に従っているのだろうか。」と言うかもしれません。

また、もしダビデが神様の懲らしめについて文句を言ったら、その悪者は神様について間違ったイメージを持つかもしれません。

しかし、結局ダビデは叫びました。

主よ。お知らせください。私の終わり、私の齢が、どれだけなのか。私が、どんなに、はかないかを知ることができるように。

ご覧ください。あなたは私の日を手幅ほどにされました。私の一生は、あなたの前では、ないのも同然です。まことに、人はみな、盛んなときでも、全くむなしいものです。セラ

まことに、人は幻のように歩き回り、まことに、彼らはむなしく立ち騒ぎます。人は、積みたくわえるが、だれがそれを集めるのかを知りません。(詩篇39:4-6)

この祈りでは、ダビデは自分の間違っている視点を告白しました。その視点によって彼は罪を犯しました。

もし、人口を数えた罪の後にこの詩篇を書いたなら、多分、ダビデが言っているのは「私の軍隊を強める努力はむなしかった。私の実績のためのプライドはむなしかった。」という事です。

ダビデは、それらが一時的なもので、すぐになくなることが分かるようになりました。

だから、ダビデは祈りました。

「私が正しい視点をもう忘れないように。私の命はむなしいものです。だから、私がもう一時的なものに焦点を当てないように助けてください。私がそんな罪をもう犯さないように。」

そして、彼は祈りました。

主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。(詩篇39:7)

言い換えれば、「私の希望は一時的なものから来ません。私の満足は一時的なものから来ません。これから、私の希望はあなたです。」

そして、ダビデは泣いて、神様の赦しを頼みました。だから、神様はダビデを赦してくださいました。ヨハネが言ったように、

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

あなたはどうですか。あなたの罪のせいであなたの心は不安でしょうか。神様の懲らしめによって、あなたは一時的なものに背を向けて、永遠の物を求めるでしょうか。

ダビデのように、私たちは罪を捨てて、永遠の物、また、本当の命を与えるものを求めましょう。

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詩篇

悪を見て、フラストレーションを感じること

「神様に従い、正しいことをするなら、本当に利益があるだろうか。私は苦しんでいますが、周りの人々は自分の道を行き、栄えています。」

多くの場合、私たちはそう感じます。私たちの人生を周りの人々の人生と比べる時、私たちは苦しんでいますが、彼らは自分の人生を楽しんでいるように見えます。だから、私たちは、「神様に従う価値があるだろうか」と思います。

けれども、ダビデは自分の人生を振り返り、私たちを励ましてくれます。彼はこう書きました。

悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。(詩篇37:1)

どうしてですか。

彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。(2)

だから、ダビデは私たちを戒めます。

主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。

怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。

悪を行なう者は断ち切られる。しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。(7-9)

つまり、悪い人が栄える時、怒らないでください。あなたのフラストレーションを捨ててください。そうしないと、あなたの心が苦々しくなって、自分の信仰を捨てて、自分の道を行くことに誘惑されてしまいます。

しかし、神様を待ち望み続けると、悪人が断ち切られますが、あなたは祝福されます。

だから、ダビデはこう言います。

主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。(3)

言い換えれば、悪人が栄える時、あなたの信仰を捨てないでください。良いことをし続け、神様があなたに報いを与えてくださることを信じましょう。

そして、ダビデは言います。

主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。(4)

ダビデが言うのは、「神様をあなたの主な願いにしなさい。神様をすべてよりも慕い求めなさい。そうすれば、神様はあなたの心の願いをかなえてくださる」ということです。

神様を慕い求めると、あなたはスポーツカーをもらうわけではありません。けれども、神様をあなたの喜びとすると、あなたが大切だと思ったものは、もうそんなに大切に見えなくなります。

また神様は、本当に貴いものであなたを祝福してくださいます。この世のものと違って、神様の賜物はあなたを満足させます。神様があなたの主な願いなら、あなたは本当の満足を見つけられます。

だから、ダビデはこう言います。

あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。

主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。(5-6)

今、あなたが報いをもらっていないと思うかもしれません。しかし、あなたの道を主に委ねるなら、神様は決して忘れません。

そして、ある日、皆があなたの行動を見て、神様を賛美します。

だから、悪人の繁栄をねたむ時、思い出しましょう。

ひとりの正しい者の持つわずかなものは、多くの悪者の豊かさにまさる。

なぜなら、悪者の腕は折られるが、主は正しい者をささえられるからだ。(16-17)

そして、ダビデは私たちを励ます。

人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。

その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。

私が若かったときも、また年老いた今も、正しい者が見捨てられたり、その子孫が食べ物を請うのを見たことがない。

その人はいつも情け深く人に貸す。その子孫は祝福を得る。

悪を離れて善を行ない、いつまでも住みつくようにせよ。

まことに、主は公義を愛し、ご自身の聖徒を見捨てられない。彼らは永遠に保たれるが、悪者どもの子孫は断ち切られる。(23-28)

あなたはどうですか。悪を見る時、フラストレーションを感じるでしょうか。この言葉を思い出しましょう。

主を待ち望め。その道を守れ。そうすれば、主はあなたを高く上げて、地を受け継がせてくださる。あなたは悪者が断ち切られるのを見よう。

私は悪者の横暴を見た。彼は、おい茂る野生の木のようにはびこっていた。

だが、彼は過ぎ去った。見よ。彼はもういない。私は彼を捜し求めたが見つからなかった。

全き人に目を留め、直ぐな人を見よ。平和の人には子孫ができる。

しかし、そむく者は、相ともに滅ぼされる。悪者どもの子孫は断ち切られる。(34-38)

その最後の部分が大好きです。「神様に従う人は子孫ができる。」

日本語の翻訳は「子孫」と書かれているけど、ヘブル語で、その言葉には別の意味もあります。それは、「将来」です。つまり、「神に従う人には、将来がある」ということです。そして、その将来は良い将来です。

一方で、悪人には、良い将来がありません。希望がありません。

だから、悪を見ると、憤りを捨てましょう。むしろ、毎日主の前に静まり、待ち望み、主をあなたの喜びとし、主に信頼しましょう。そうすれば、生きがいのある人生を見つけられます。

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詩篇

神様の良さ

詩篇36篇の前半で、私たちは人間の悪を見ました。この後半では、神様の良さを見ます。

私は、どうやってダビデが神様の性格を説明するか大好きです。

主よ。あなたの恵みは天にあり、あなたの真実は雲にまで及びます。

あなたの義は高くそびえる山のようで、あなたのさばきは深い海のようです。(詩篇36:5-6)

この世では、多くの人の愛は浅いです。彼らは私たちの信頼に値しません。彼らにとって利益があれば良いことをしますが、そうでない時は必ずしもそうしません。

しかし、神様はそうではありません。神様の愛と恵みは天にまで及びます。神様の真実は雲にまで及びます。どんな状況でも、神様の義は堅く立ち、神様の正義は悪人を滅ぼします。

けれども、神様の正義の中には憐れみと恵みがあります。

あなたは人や獣を栄えさせてくださいます。主よ。

神よ。あなたの恵みは、なんと尊いことでしょう。人の子らは御翼の陰に身を避けます。

彼らはあなたの家の豊かさを心ゆくまで飲むでしょう。あなたの楽しみの流れを、あなたは彼らに飲ませなさいます。

いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。(6-9)

大洪水の後、神様は水によってこの世をもう滅ぼさないと約束されました。

だから、私たちが罪を犯しても、神様は私たちをあわれんで、私たちの悔い改めのために待っておられます。

また、神様の恵みによって、神様は私たちの悔い改めのために待つだけでなく、私たちに手を伸ばし、救いの道を備えるためにイエス様を送ってくださいました。

だから、すべての人々は、金持ちでも、貧しくても、強くても、弱くても、主にあって避け所と救いを見つけることができます。

さらに、神様は私たちのニーズに備えてくださり、神様にあって、私たちには喜びと命と光があります。

主よ、あなたの慈しみを感謝します。私が死にかけている時、あなたは命の泉でした。私の暗闇に、あなたの光を照らしてくださいました。

私の罪を示してください。私の罪を赦してください。あなたの憐れみと恵みと慈しみを与えてください。私が本当の命と喜びを知るように。

そして、私がもらったものを周りの人々にシェアするように助けてください。私はあなたの器になるように。アーメン。

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詩篇

人間の悪

時々、ニュースを見る時、あまりにも人が凶悪になるのが信じられないことがあります。どうして、人々は殺人を計画し、その計画を実行するのでしょうか。どうして、人々はレイプしたり、暴力の犯罪を犯したりするのでしょうか。

そんな話を見すぎて、もうニュース番組を見たくないとすら思います。

けれども、それは何も現代に限ったことではありません。何千年も前に、ダビデはこう書いています。

罪は悪者の心の中に語りかける。彼の目の前には、神に対する恐れがない。

彼はおのれの目で自分にへつらっている。おのれの咎を見つけ出し、それを憎むことで。

彼の口のことばは、不法と欺きだ。彼は知恵を得ることも、善を行なうこともやめてしまっている。

彼は寝床で、不法を図り、よくない道に堅く立っていて、悪を捨てようとしない。(詩篇36:1-4)

どうして人々はそんなに悪くなるのでしょうか。

なぜなら、私たちが神様を恐れないなら、悪はすぐに出てくるからです。私たちが神様とその権威を認めないと、大抵何をしても良いと思ってしまいます。私たちの悪を抑えるのは、恥の恐れや、罰の恐れや、私たちの良心です。

しかし、私たちが神様から離れると、私たちの良心は曲がってしまいます。ある人の良心は他の人の良心よりも曲がっているかもしれませんが、人は多かれ少なかれ、誰でも良心が曲がっています。だから、私たちは何が良いか、何が悪いか混乱します。

ダビデはそのことがよく分かっていたので、こう言いました。

彼はおのれの目で自分にへつらっている。おのれの咎を見つけ出し、それを憎むことで。(3)

つまり、人々は悪いことを愛しているので、誰かがその罪を見ても、彼らは気にしません。それに、彼らは自分の罪を自慢します。

その3節のヘブライ語はちょっと翻訳しにくくて、他の意味があるかもしれません。だから、ある英語の翻訳では、他の読み方があります。

彼は己の目で自分にへつらいすぎるので、自分の罪を見つけ出さないし、その罪を憎まない。

つまり、時々私たちは自分の罪が見えないので、自分たちが良い人だと思いますが、実はそうではありません。悪いことをしても、私たちは自分の行動を正当化します。だから、私たちは自分の罪を見つけ出さないし、その罪を憎むことがありません。

そして、私たちの罪によって、私たちは、「知恵を得ることも、善を行なうこともやめてしまっている。」(3)

ニュースを見た時、酷い犯罪について聞きました。あるプロのアメリカン・フットボールの選手が怒って、誰かを殺しました。彼は金持ちだったし、いい組織で働いていました。だから、彼には本当に良い人生があったし、良い将来もありました。

けれども、彼は恨みを忘れず、相手を許せませんでした。そして、彼にとってその恨みは、他のどんなことよりも重大な問題だったので、その人を殺してしまいました。

だから今、婚約者から離れなくてはならないし、彼の7か月の娘は父親を知らないまま成長することになってしまいました。

それは罪の結果です。私たちが悪を拒絶しないと、自分自身を滅ぼし、愛している人も傷つけてしまいます。

あなたはどうですか。多分、あなたは誰も殺したことはないでしょう。しかし、あなたの心の中で誰かを憎んでいるでしょうか。誰かを赦せないでしょうか。

もしそうなら、イエス様は、あなたが自分の心でその人を殺したも同じだと言われました。(マタイ5:21-22)

あなたには、他の破壊的な習慣があるでしょうか。

あなたは神様を恐れずに、「神様がきっと私を赦してくださるので、私はこの罪を犯してもいい」と言いますか。

あなたの悪い行動を正当化しようとしているでしょうか。あなたは悪い道を行くことを決めているでしょうか。

私たちが賢明になるようにしましょう。神様を恐れて、正しいことをしましょう。この世を移っている罪に負けないように。

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詩篇

人々が私たちを憎む時

子供の時、私には友達がいて、いつも一緒に遊びました。けれども、中学生になる頃、私たちはもう一緒に遊びませんでした。それに、彼は私を憎むようになりました。どうしてか、私は分かりません。

私たちはどのようにそんな人々を扱った方が良いでしょうか。

ダビデにもそんな経験がありました。ダビデが悪いことをしていなかったのに、サウル王は彼を憎むようになりました。おそらくダビデはサウルから逃げた時、詩篇35篇を書いたかもしれません。

ダビデは祈りました。

主よ。私と争う者と争い、私と戦う者と戦ってください。

盾と大盾とを手に取って、私を助けに、立ち上がってください。

槍を抜き、私に追い迫る者を封じてください。(詩篇35:1-3)

ダビデを憎む人を扱う時、彼はいつもその戦いを神様の手に委ねました。彼は言いました。「私のために戦ってください。私の助けになってください。」

それでも、自分で復讐しないことは難しかったかもしれません。だから、彼は祈りました。

私のたましいに言ってください。「わたしがあなたの救いだ」と。(3b)

つまり、「あなたが私の味方であることを思い出させてください。私が自分の手で復讐しないために、あなたが私を救ってくださることを思い出させてください。」

けれども、ダビデを憎む人に対する彼の態度は本当に驚くべきものです。

しかし、私は――、彼らの病のとき、私の着物は荒布だった。私は断食してたましいを悩ませ、私の祈りは私の胸を行き来していた。

私の友、私の兄弟にするように、私は歩き回り、母の喪に服するように、私はうなだれて泣き悲しんだ。(13-14)

それはただの言葉ではありませんでした。ダビデがサウルの死について聞いた時の態度は、まさにそのようなものでした。彼は友人ヨナタンのために泣いただけでなく、サウルのためにも泣きました。

イエス様も、その態度を取りました。実は、この詩篇で、私はイエス様のことがよく見えます。

ダビデのように、偽りの証人はイエス様を責めました。(11)

また、ダビデのように、人々はイエス様をからかったし、中傷しました。(15-16)

それでも、十字架に掛けられても、イエス様は彼らのために祈ってくださいました。

私たちもそうするべきです。ペテロはこう書きました。

あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。(第一ペテロ2:21)

特に、ペテロは義のために苦しむことについて話しています。イエス様は私たちを救うために苦しんでくださったので、私たちも義のために苦しむ覚悟を持つべきです。

この箇所には、もう一つのことを見ます。相手の憎しみに対して、どうやってイエス様が反応したか見ます。そして、私たちはイエス様の足跡に従うべきです。イエス様はどのように反応したでしょうか。

キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。

ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。(第一ペテロ2:22-23)

あなたはどうですか。人々があなたを憎んで傷つける時、イエス様の足跡に従おうとしますか。

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詩篇

私たちの賛美と信頼にふさわしい神

以前も書きましたが、もし、私が詩篇32篇をスキップしてしまったと思うなら、ずっと前にその詩篇について書いています。私はダビデの人生について書いた時、時々、関係のある詩篇についても書きました。

だから、詩篇32篇について読みたいなら、ここをクリックしてください。

詩人がこの歌をどのように始めるか大好きです。彼は歌います。

正しい者たち。主にあって、喜び歌え。賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい。(詩篇33:1)

「賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい」という言葉は特に好きです。

もし、あなたが主を愛するなら、また、キリストの血によってあなたが神様の目に義と認められるなら、あなたが主を賛美するのはふさわしいことです。

立琴や十弦の琴やギターやピアノを弾いても大丈夫です。アカペラで歌ってもいいです。あなたが音痴なら、喜びの叫びでもいいです。また、あなたが音痴でも、心から歌うなら、神様はその歌を受け入れてくださいます。

どうして、神様を礼拝するのはふさわしい事なのでしょうか。

なぜなら、神様は良い方ですから。神様の言葉のすべては正しいです。また、神様はいつも仰せの通りにされます。神様は嘘つきや、偽善者ではありません。(4)

それに、神様は私たちの創造者です。神様の力によって、全ての物を造られました。(6-8)

そして、私たちは神様の知恵のために賛美します。神様は決して驚かれません。だから、神様の計画と目的は決して変わりません。(10-11)

その最後の事によって、神様は私たちの賛美に値するだけではなく、私たちの信頼に値します。

優柔不断な人に信頼することは難しいです。困る時にすぐにパニックになる人に信頼することは難しいです。また、どうするかよく分からないので、いつも気が変わる人に信頼するのは難しいです。

しかし、神様がすべてを見てくださり、すべてを知っておられ、全てをコントロールしておられるので、神様は私たちが立てられる岩です。

だから、神様が選ばれた人、また神様に属する人は祝福されています。詩人はこう書きました。

幸いなことよ。主をおのれの神とする、その国は。神が、ご自身のものとしてお選びになった、その民は。(12)

神様は私たちの名前を知っておられます。神様は天から私たちを見てくださり、私たちの行動について考えてくださいます。

けれども、神様は私たちのミスを待って、私たちを滅ぼそうと思っておられません。むしろ、神様は私たちを愛しておられるので、私たちが神様を仰ぐのを待っておられます。

しかし、多くの場合、私たちはそうしません。むしろ、私たちは他のものに信頼します。けれども、そのものによって、私たちはよくがっかりします。だから、詩人は私たちに思い出させます。

王は軍勢の多いことによっては救われない。勇者は力の強いことによっては救い出されない。軍馬も勝利の頼みにはならない。その大きな力も救いにならない。(16-17)

しかし、詩人は言います。

見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に。彼らのたましいを死から救い出し、ききんのときにも彼らを生きながらえさせるために。(18-19)

その言葉は、私たちが決して苦しまないという約束ではありません。とはいえ、私たちが苦しむ時、神様は私たちのことを忘れておられるわけではありません。神様の目は私たちに注がれているし、神様は私たちを救い出してくださいます。

この世には、トラブルからの救いが来なくても、天国で、私たちはその救いを見つけます。だからパウロはこう書きました。

死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。(第一コリント15:55)

だから、詩人はこの詩篇の終わりに、こう言います。

私たちのたましいは主を待ち望む。主は、われらの助け、われらの盾。

まことに私たちの心は主を喜ぶ。私たちは、聖なる御名に信頼している。

主よ。あなたの恵みが私たちの上にありますように。

私たちがあなたを待ち望んだときに。(20-22)

アーメン。主イエスよ。すぐに来てください。

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詩篇

自分自身を神様の御手に委ねる

いつダビデが詩篇31篇を書いたか分かりませんが、サウルから逃げた時に書いたかもしれません。

私は21節を見ると、ダビデがケイラという町から逃げた時に(第一サムエル記23章)、この詩篇を書いたのかもしれないと思います。とは言え、それはただ私の意見に過ぎません。

私の心を打つのは、ダビデが神様の助けを請いながら、何回も神様に対する信頼を宣言するということです。

彼はこう言いました。

私の霊を御手にゆだねます。真実の神、主よ。

あなたは私を贖い出してくださいました。(詩篇31:5)

また、

しかし、主よ。私は、あなたに信頼しています。私は告白します。「あなたこそ私の神です。」

私の時は、御手の中にあります。(14-15)

私たち皆、何かしら苦しむ時を経験します。その時、自分自身だけに信頼することは簡単なことです。私たちは自分の状況をコントロールしようとします。

しかし、生きようが死のうが、ダビデは自分の命を神様に委ねました。

彼はこう言いました。

「私の命はあなたの手にあります。周りの人々は私を殺そうとしていますが、あなたが私を生かし続けたいのであれば、彼らは成功しません。だからたとえ私が死ぬことになっても、自分の状況をコントロールしません。」

第一サムエルによれば、ダビデには自分の状況をコントロールする機会が二つありました。ダビデはサウルを殺す機会が二つありましたが、殺すことを拒絶しました。

イエス様は十字架で、その態度を示されました。つまり、イエス様は自分の命を天の父の手に委ねられました。

この詩篇はメシアについての詩篇ではありませんが、ダビデの言葉でイエス様の経験もよく見えます。

ダビデのように、イエス様は悲しみをよく知っておられました。苦しみもよく知っておられました。(10)

ダビデのように、イエス様は非難されました。(11)

ダビデのように、イエス様は友達に捨てられました。(11-12)

ダビデのように、人々はイエス様を謗って、殺そうと思いました。(13)

ダビデのように、イエス様は天の父に叫ばれました。「どうして、あなたは私をお見捨てになったのですか?」(22)

けれども、ダビデのように、イエス様は自分の状況をコントロールしようと思われませんでした。むしろ、自分の命を天の父の手に委ね、死ぬ前に言われました。「私の霊を御手にゆだねます。」(5)

イエス様が天の父に従われたので、今私たちには希望があります。その希望は、もし私たちが神様に信頼するなら、結局私たちは恥を見ない、ということです。(17)

また、神様が私たちに慈しみを与えてくださる希望があります。(19)

また、私たちの救いの希望があります。(22-23)

だから、ダビデのように叫びましょう。

雄々しくあれ。心を強くせよ。すべて主を待ち望む者よ。(24)

神様に心から信頼しましょう。

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詩篇

神様が私たちを懲らしめると

この詩篇のタイトルによれば、この詩篇は「主の家を捧げる歌」でした。

多分、自分のプライドによってダビデがイスラエルの人口を数えた罪を犯した後、彼はこの詩篇を書きました。(歴代誌第一21章;歴代誌第二3章1節)

神様はその罪のために、ダビデとイスラエルを懲らしめられました。つまり、イスラエルに疫病を下されました。聖書には書かれていませんが、その時、多分ダビデも病気になったと思います。

詩篇30篇では、私たちは神様からの懲らしめに対するダビデの反応を見ます。

ダビデは癒された後、神様を賛美しました。

主よ。私はあなたをあがめます。あなたが私を引き上げ、私の敵を喜ばせることはされなかったからです。

私の神、主よ。私があなたに叫び求めると、あなたは私を、いやされました。

主よ。あなたは私のたましいをよみから引き上げ、私が穴に下って行かないように、私を生かしておかれました。(詩篇30:1-3)

そして、ダビデは、なぜ神様が彼を打たれたのか説明します。

私が栄えたときに、私はこう言った。「私は決してゆるがされない。」(6)

その時、ダビデの安心は神様から来ませんでした。むしろダビデは、自分の力と自分の軍隊を信頼しました。だから、彼はその兵隊を数えました。

けれども、ダビデが懲らしめられた後、ダビデは本当の安全がどこから来るか分かるようになりました。

主よ。あなたはご恩寵のうちに、私の山を強く立たせてくださいました。あなたが御顔を隠され、私はおじ惑っていましたが。(7)

だから、ダビデは主の前にへりくだりました。彼は振り返る時、こう言いました。

主よ。私はあなたを呼び求めます。私の主にあわれみを請います。

私が墓に下っても、私の血に何の益があるのでしょうか。ちりが、あなたを、ほめたたえるでしょうか。あなたのまことを、告げるでしょうか。

聞いてください。主よ。私をあわれんでください。主よ。私の助けとなってください。(8-10)

神様はダビデの悔い改めを見られ、ダビデを憐れんで、赦してくださいました。だから、ダビデは神様を賛美しました。

あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました。

私のたましいがあなたをほめ歌い、黙っていることがないために。私の神、主よ。私はとこしえまでも、あなたに感謝します。(11-12)

私たちは何を学ぶことができますか。

まず、何かをはっきりと言いたいです。

もしあなたが病気なら、神様はあなたの罪のために懲らしめておられるかもしれませんが、そうではない時もあります。

例えば、ヨブは本当に苦しんでいましたが、その時、神様は彼を罰しておられませんでした。他の理由のために彼は苦しんでいました。

とはいえ、時々、私たちが悪い道を行き始めると、神様は病気を通して私たちを止めてくださいます。

だから、あなたが病気の時、またあなたにトラブルがある時、「神様、私の心の中には罪があるでしょうか」と祈った方が良いです。

そして、神様があなたの罪を表されたら、ダビデのようにへりくだって悔い改めなければなりません。けれども、神様が何も表さないなら、多分その病気やトラブルには他の原因があります。

なぜ私はそう考えるのでしょうか。なぜなら、神様は私たちが苦しむことを喜ばれないからです。もし、私たちが悔い改めるために苦しみを送られたなら、私たちが悔い改めると、神様はすぐに赦してくださいます。

神様は「もし、自分の罪が分からないなら、私はあなたに伝えない」と全然言われません。

また、神様は「あなたがこの経験から学んで、もうその罪を犯さないためにあなたをもっと苦しませよう」と言われません。

むしろ、ダビデはこう書きました。

まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。

夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。(5)

思い出しましょう。神様は私たちを憎むので懲らしめるわけではなく、私たちを愛しておられるので、懲らしめられます。

だから、懲らしめられる時、へりくだって悔い改めましょう。

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詩篇

大いなる神、あなたを愛する神

多くの人々は私がちょっとおかしいと思うかもしれませんが、私は雷雨が大好きです。稲妻が光るのと雷が鳴るのがかっこいいと思うからです。(もちろん、その時、家にいたいですが。)😊

とにかく、英語の聖書を読むと、興味深いことが書かれていました。この詩篇は、「雷雨の歌」と呼ばれます。雷雨の時、この歌が歌われ、詩人はノアと洪水の話を思い出しました。

詩篇29篇では、神様の偉大さが見えると思います。

最初にダビデは、私たち皆が主を礼拝するように呼びかけます。

力ある者の子らよ。主に帰せよ。栄光と力とを主に帰せよ。

御名の栄光を、主に帰せよ。聖なる飾り物を着けて主にひれ伏せ。(詩篇29:1-2)

つまり、「神様の栄光と力を認めなさい。神様が値する栄光を認めなさい。主をほめたたえなさい。」ということです。

日本語では、「聖なる飾り物を着けて主にひれ伏せ」と翻訳されています。ある英語の聖書も、この箇所はそのように翻訳されています。

しかし、この箇所を翻訳する方法がもう一つあります。それは、「神様の聖なるさの美しさのために、主をほめたたえなさい」ということです。

どれほど、私たちは神様の聖なるさの美しさについて考えているでしょうか。けれども、神様の聖さを見るなら、多分、私たちは「美しい」としか言えないでしょう。

実は、私たちは神様の形として造られました。残念なことですが、今、私たちの罪によって、その形は歪んでいます。それでも、周りの人々を見るなら、時々、その美しさがちらりと見えます。

しかし、神様を見る時、そこには罪の染みがないので、神様は本当に美しい方です。

そして、ダビデは自然を見る時、雷雨の中で神様を見ます。神様の荒れ狂う御声を聞き、その声の力と尊厳を見ます。つまり、稲妻が光り、雷が鳴って、地が揺れ、大きな木が引き裂かれ、その木が裸にされ、その葉と枝が風の中で踊っているのを見ます。

ダビデはその「声」を聞くと、他の声を聞くことを想像します。つまり、天使の声が天の宮で響いて、「栄光」と呼んで、神様を礼拝します。

けれども、私の心を打つのは、ダビデの最後の言葉です。

主は、ご自身の民に力をお与えになる。主は、平安をもって、ご自身の民を祝福される。(11)

どうして、その個所は私の心を打つのでしょうか。なぜなら、この大いなる神、この聖なる神、この全能の神は、私を愛しておられるからです。

神様は私を愛しておられるので、私が弱い時に、力を与えてくださいます。私が心配する時、私が恐れる時、神様は私に平和を与えてくださいます。

私が弱い時、神様は強いです。

ある英語の翻訳では、このように書かれています。

主は、ご自身の民に強硬な力、また、決して壊れない力をお与えになる。

主よ。あなたは大いなる神です。あなたは全能の神です。あなたは聖なる神です。けれども、あなたは私を愛しておられます。そのことを感謝します。

私が小さく、取るに足りない人間なのに、あなたにとっては、私は大事な存在です。だから、あなたは、この世に来て、私の罪のために死んでくださいました。

私が弱い時、あなたが私の力でいてくださいますように。私が嵐の中にいて恐れる時、あなたの平安を与えてください。

あなたを愛しています。主イエス・キリストの皆によって祈ります。アーメン。

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詩篇

苦しむ時、神様に叫ぶ

時々、私たちは祈る時、神様の応えが遅いと思うことがあります。もしくは、神様が私たちを無視しておられると感じることもあります。

詩篇28篇で、ダビデはそう感じました。彼は叫びました。

主よ。私はあなたに呼ばわります。私の岩よ。どうか私に耳を閉じないでください。私に口をつぐまれて、私が、穴に下る者と同じにされないように。

私の願いの声を聞いてください。私があなたに助けを叫び求めるとき。私の手をあなたの聖所の奥に向けて上げるとき。(詩篇28:1-2)

私はダビデのトラブルが何だったか知らないけど、どれほど私たちはダビデのように祈るでしょうか。

「神様、私の言うことを聞いておられるでしょうか。どうして、あなたは沈黙しておられるのでしょうか。私の声を聞いてください。私があなたを呼ぶのを見ておられないのでしょうか。」

そして、ダビデは神様の正義が来るように祈ります。

どうか、悪者どもや不法を行なう者どもといっしょに、私をかたづけないでください。彼らは隣人と平和を語りながら、その心には悪があるのです。

彼らのすることと、彼らの行なう悪にしたがって、彼らに報いてください。その手のしわざにしたがって彼らに報い、その仕打ちに報復してください。(3-4)

多くの詩篇で、ダビデは神様が敵を罰するように祈ります。多くの人々はそれを読む時、「でも、私たちは敵を愛するべきではないでしょうか?どうして、ダビデはそのように祈ったのだろう」と思います。

しかし、私たちは二つのことを覚えておかなければなりません。

一つ目は、ダビデはいつも正義を神様の手に委ねたということです。自分の手で復讐しませんでした。むしろ、彼はいつも自分の敵を憐れみました。特に、サウルとアブサロムに対して、ダビデは憐れみの心を持っていました。

二つ目は、神様は私たちの敵に対する怒りの叫びを理解してくださいますが、私たちがその敵のために祈る時、神様の心に触れるということです。

ダビデが祈った後、再び喜びがダビデの心に注がれました。どうしてでしょうか。なぜなら、ダビデは神様がその祈りを聞いて、応えてくださる確信があったからです。

ほむべきかな。主。まことに主は私の願いの声を聞かれた。

主は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。それゆえ私の心はこおどりして喜び、私は歌をもって、主に感謝しよう。

主は、彼らの力。主は、その油そそがれた者の、救いのとりで。(6-8)

そして、ダビデは自分自身のために祈るだけではなく、彼が愛する人々のためにも祈りました。つまり、自分の民のために祈りました。

どうか、御民を救ってください。あなたのものである民を祝福してください。どうか彼らの羊飼いとなって、いつまでも、彼らを携えて行ってください。(9)

私たちは苦しんでいるかもしれませんが、私たちの周りの多くの人々も苦しんでいることを思い出すべきです。だから、自分自身のために祈るだけではなく、周りの人々のために祈りましょう。

そして、神様があわれみの手で私たちに触れてくださったように、私たちも周りの人々に、あわれみの手で触れましょう。

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詩篇

神様を待ち望む

私たちは神様を恐れるなら、他の物を恐れる必要はありません。詩篇27篇で、その真理を見ることができます。

ダビデはこう歌いました。

主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。

悪を行なう者が私の肉を食らおうと、私に襲いかかったとき、私の仇、私の敵、彼らはつまずき、倒れた。

たとい、私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない。(詩篇27:1-3)

困った時、ダビデの最初の思いは、「神様!助けて!」ではありませんでした。むしろ、彼の最初の思いは、神様を求めることでした。また、救い主との交わりを慕いました。だから、彼はこう祈りました。

私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。(4)

多くの場合、私たちは困った時に、「助けてください」と祈ります。けれども、ダビデが祈ったのは、「あなたを知りたいです。あなたを仰ぎます。あなたとの関係が欲しいです。」ということです。

どうして、彼はそう祈ったのでしょうか。なぜなら、自分自身を神様の手に委ねたら、神様が彼を守ってくださることを知っていたからです。ダビデはこう歌いました。

それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私を上げてくださるからだ。

今、私のかしらは、私を取り囲む敵の上に高く上げられる。私は、その幕屋で、喜びのいけにえをささげ、歌うたい、主に、ほめ歌を歌おう。(5-6)

私は8節が大好きです。

あなたに代わって、私の心は申します。「わたしの顔を、慕い求めよ」と。主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。

神様は私たちを呼びます。「私の顔を慕い求めなさい。」

どれほど、私たちがそうしないことで心の中に平和がないでしょうか。むしろ、私たちは自分の問題に焦点を当てるので、圧倒されます。

もし、私たちがその問題に焦点を当てずに、神様に焦点を当てたら、どれほど私たちの人生は良くなるでしょうか。

他の人々は私たちを裏切ったり、がっかりさせたりするかもしれませんが、神様は決してそうされません。だから、ダビデは歌いました。

私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる。(10)

そして、神様の導きと神様からの救いのために祈った後、ダビデはこれを宣言しました。

ああ、私に、生ける者の地で主のいつくしみを見ることが信じられなかったなら――(13)

良い時に、「神様は良い方」と言うのは簡単なことです。けれども、悪い時に、どれほど私たちは神様が良い方であることを宣言するでしょうか。

ダビデは神様を見つめたので、辛い時でも、「神様は良い方」と言うことができました。

だから、ダビデは苦しんでいる人にこう言います。

待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。(14)

主よ。苦しむ時に、私があなたを待ち望むことを助けてください。私があなたが良い方であることを信じ続けることを助けてください。あなたが見えなくても、あなたの臨在を感じなくても、私があなたが私と一緒におられることを思い出すように。

私の一つの願いはあなたを知ることです。だから、あなたが呼ぶ時、私があなたの声を聞くことができるように。そして、私にあなたを求める心を与えてください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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詩篇

恵みによって、神様の御前に聖いもの

もう一度、ダビデがいつこの詩篇を書いたか知りたいです。

サウルから逃げた時に詩篇26篇を書いたのでしょうか。もしくは、アブサロムから逃げた時にこの詩篇を書いたのでしょうか。それとも、他の時にこの詩篇を書いたのでしょうか。

ダビデの言葉を見ると、多くの人々は彼がサウルから逃げた時にこの詩篇を書いたと思うでしょう。なぜなら、彼はこう書いたからです。

私を弁護してください。主よ。私が誠実に歩み、よろめくことなく、主に信頼したことを。

主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。

あなたの恵みが私の目の前にあり、私はあなたの真理のうちを歩み続けました。(詩篇26:1-3)

ウリヤとバテ・シェバの事件の後、ダビデはその言葉を書くことができたでしょうか。その事件の前、つまり、サウルから逃げた時、その言葉はもっと言いやすかっただろうと思います。

てはいえ、ダビデはバテ・シェバとの罪の後で、この詩篇を書いたかもしれません。

けれども、その罪の後で、どうしてダビデはそんな言葉が言えたのでしょうか。彼は本当に酷い罪を犯しました。

なぜなら、彼は神様の赦しの深さをよく理解していたからです。つまり、神様の赦しとあわれみによって、ダビデは雪よりも白くなりました。神様は彼の罪を本当に除いて清めてくださいました。(詩篇51)

だから、彼が「私は誠実に歩む」と言う時、その意味は彼が決して罪を犯していないという事ではありません。むしろ、神様が彼の罪を除いて清めてくださったことによって、ダビデはその言葉を言うことができました。(エレミヤ書31:34)

神様のあわれみによって、ダビデは正しい道に戻りました。また、彼は神様が計画された通りにもう一度生きはじめました。だから、ダビデは神様をほめたたえました。

主よ。私は手を洗ってきよくし、あなたの祭壇の回りを歩きましょう。

感謝の声を聞こえさせ、あなたの奇しいみわざを余すことなく、語り告げましょう。(6-7)

また確信を持って、彼は言いました。

私の足は平らな所に立っています。(12)

時々、私たちは振り返って自分の失敗を思い出します。私たちの罪を思い出します。そして、サタンは私たちを責めます。「ほら、あなたは絶対だめです。あなたの人生は本当にめちゃくちゃになった。」

けれども、その時、私たちは恥ずかしがらずにサタンにこう言えるのです。

「それはそうです。しかし、神様が私の罪を赦してくださり、神様はもうその罪を思い出されません。神様が私を責められないので、あなたには私を責める権利がありません。

だから黙って、出ていきなさい。私は神様の子です。私はもう赦されました。また、神様の目には私は聖い者です。」

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詩篇

神様に叫ぶ

私は、よくダビデの詩篇の背景を知りたいです。時々、ある詩篇のタイトルで、その背景が書かれています。けれども、この詩篇では、その背景が書かれていません。

詩篇25篇で、ダビデはトラブルの中で神様に叫びました。彼はこう歌いました。

主よ。私のたましいは、あなたを仰いでいます。

わが神。私は、あなたに信頼いたします。(詩篇25:1-2)

つまり、「私のすべてをあなたに捧げます。私のすべてはあなたのものです。あなたを信頼するから。」

その言葉を言うことは簡単です。とはいえ、その言葉を生きるのは難しいことです。私はよく神様に捧げたものを取り戻します。多くの場合、私は信仰を持たないので、神様を信頼しません。

けれども、私は失敗しても、ダビデのようにその言葉を叫びます。

そして、ダビデはこう祈りました。

主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください。

あなたの真理のうちに私を導き、私を教えてください。あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望んでいるのです。(4-5)

この箇所では、私たちはダビデの謙遜な態度を見ることができます。私たちはしばしば、すべてのことを知っているかのような態度を持ち、神様に相談する必要がないと思いがちです。

しかし、ダビデはへりくだって、神様に言いました。「私はすべてのことを知りません。最も良い道を知りません。だから教えてください。導いてください。」

どうしてダビデは神様の道を求めたのでしょうか。それは、ダビデが神様を愛し、神様を喜ばせたかったからです。だから彼は「あなたは救いの神です。私はあなたを待ち望みます。」と言いました。

そして、ダビデは請いました。

主よ。あなたのあわれみと恵みを覚えていてください。それらはとこしえからあったのですから。

私の若い時の罪やそむきを覚えていないでください。あなたの恵みによって、私を覚えていてください。主よ。あなたのいつくしみのゆえに。。。

主よ。御名のために、私の咎をお赦しください。大きな咎を。(6-7,11)

ダビデはアブサロムから逃げた時、この言葉を書いたのでしょうか。もしそうなら、多分、バテ・シェバとの罪について考えたかもしれません。神様はダビデを赦されましたが、その罪は結局ダビデを追放に導きました。だから、ダビデは祈りました。

「私の咎は大きいけれども、どうか赦してください。
私はあなたの赦しに値しません。しかし、あなたの恵みとあわれみによって、どうか赦してください。」

多くの場合、私たちが振り返る時、私たちの罪は神様に赦されましたが、その罪が結局私たちのトラブルを起こしたことが分かります。その時、私たちは、「神様は本当に私を赦されたのだろうか。」と思います。

けれども、私たちが心から悔い改めたら、神様は私たちをきっと赦してくださいます。そして、私たちが赦しに値しないのに、裁きの日に、神様は私たちにあわれみを与えてくださいます。

それでも、神様は、この世における罪の結果を取り去らないかもしれません。しかし、ダビデの時と同じように、神様は私たちと共にいて、支えてくださいます。

だからダビデは歌いました。

主は、いつくしみ深く、正しくあられる。それゆえ、罪人に道を教えられる。

主は貧しい者を公義に導き、貧しい者にご自身の道を教えられる。

主の小道はみな恵みと、まことである。その契約とそのさとしを守る者には。(8-10)

つまり、私たちが罪を犯しても、神様を求め続けたら、神様は私たちを決して諦めません。神様は私たちを導き続け、教え続けてくださいます。

もちろん、私たちはダビデと大きな違いがあります。それは、私たちがモーセの律法の下に生きていないことです。だから、私たちが罪を犯しても、神様の私たちに対する愛と忠実さは決して変わりません。

パウロはこう書きました。

私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。(第二テモテ2:13)

そして、ダビデは神様の守りのために祈りました。

私のたましいを守り、私を救い出してください。私が恥を見ないようにしてください。私はあなたに身を避けています。

誠実と正しさが私を保ちますように。私はあなたを待ち望んでいます。(20-21)

だから、ダビデはこの詩篇を始めたように、この詩篇を終えます。彼は自分の魂を神様の御手に委ね、神様を待ち望みました。

試練の中で、私たちもそのようにしましょう。

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詩篇

王様のために心を整える

詩篇23篇で、私たちは神様を羊飼いとして見ました。詩篇24篇では、神様を王として見ます。

神様はどのような理由で私たちの王であると主張しておられますか?神様は私たちの創造主だからです。ダビデはこう歌いました。

地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。

まことに主は、海に地の基を据え、また、もろもろの川の上に、それを築き上げられた。(詩篇24:1-2)

大体すべての人々は、もし誰かが何かを自分の手で、また自分の原料で作ったら、その物がその人に属することを認めます。

そのように、神様はこの世の全てを造られたから、すべては主の物です。神様は私たち皆をも造られたので、私たちも神様に属します。そして、いつか私たちの王の前に私たち皆は、自分のことを申し開きすることになります。

その日、誰が神様の前に立てるでしょうか。

手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。

その人は主から祝福を受け、その救いの神から義を受ける。

これこそ、神を求める者の一族、あなたの御顔を慕い求める人々、ヤコブである。(4-6)

この箇所によれば、「良い人生」を生きることは不十分です。

神様をあなたの王として認めなくてはなりません。あなたの神として認めなくてはなりません。また、あなたの救い主として認めなくてはなりません。それに、あなたは神様を求める心が必要です。

神様にとって、それらは大切なことです。神様は、毎日私たちが神様に信頼することを望んでおられます。その態度によって、アブラハムは救われました。

アブラハムは何回も罪を犯しましたが、心の中で神様に信頼していたので、彼は神様の目には義人と認められました。

その信仰によって、旧約聖書の人々も、新約聖書の人々も、私たちも救われました。

神様はそのような人を祝福し、裁きの日に「無罪」と宣言されます。

あなたはどうですか。神様をあなたの王として認めていますか。あなたの心を王のために整えていますか。ダビデはこう書きました。

門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。

栄光の王とは、だれか。強く、力ある主。戦いに力ある主。

門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。

その栄光の王とはだれか。万軍の主。これぞ、栄光の王。(7-10)

私たちの心の門を開いて、私たちの王を歓迎しましょう。そして、その王に従いましょう。

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詩篇

私たちの羊飼い

多分、詩篇23篇は一番有名な詩篇です。なぜなら、この詩篇は、私たちの神様との親しい関係を表すからです。

他の詩篇では、私たちは神様を王や、裁判官や、正義の味方や、勇士として見ます。けれども、この詩篇では、私たちは神様を羊飼いとして見ます。

実は、私たちが羊と呼ばれることは、賛辞ではありません。世界中で、多分羊は一番馬鹿な動物です。羊飼いがいないと、羊は全く迷ってしまいますから。

私たちもその通りです。私たちの多くは、自分自身が他の人よりも賢いと思いたいです。また、私たちは神様を必要としないと思います。

しかし、神様がおられないと、私たちの人生はめちゃくちゃになります。神様がおられないと、私たちは全く迷ってしまいます。

ダビデは、「主は私の羊飼い」と書きました。「私たちの羊飼い」と書かなかったのです。つまり、多くの羊がいるかもしれませんが、神様はそれぞれの羊を愛しておられます。

迷っている羊のたとえ話のように、一匹の羊が羊飼いから離れると、羊飼いはその羊を探して救います(ルカ15:3-7)。

神様が私たちを愛しておられるので、ダビデは私たちが乏しいことがないと言います。イエス様も同じことを教えました。天の父は鳥に餌をやり、花を美しく着せるように、天の父は私たちを世話してくださいます(マタイ6:25-30)。

それに、神様は私たちに平和と安らぎを与えてくださいます。羊が不安で恐れているとき、全然眠れません。しかし良い羊飼いが羊を慰めると、羊は平安を持ってすぐに眠れます。

そして、私たちが重荷を持って疲れているとき、主が私たちのたましいを生き返らせてくださいます。

私たちが新しい日に向かうとき、神様は「彼は疲れているけど、私が彼に力をこれぐらい与えると、彼は何となく今日のチャレンジを乗り越えるだろう」とは言われません。

むしろ、神様は私たちを本当に生き返らせてくださいます。

私たちの羊飼いとして、神様は私たちを正しい道に導いてくださいます。その道がいつも楽しいわけではありません。ダビデが言ったように、時々その道は死の陰の谷を通ります。その時が暗くて、私たちが希望がないと思うこともあります。

しかし、ダビデは言います。「その暗い所を通る時、死に向かっても、私は決して恐れません。」

どうしてでしょうか。

「あなたが私とともにおられますから。」

また、ダビデは歌いました。

あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。(詩篇23:4)

羊飼いは、羊をライオンや狼から守るため、むちを使いました。また、羊を導くため、杖を使いました。

だから、ダビデの意味は「暗い時でも、あなたの守りと導きが見える」ということです。

神様は私たちの全ての逆境を取り去らないかもしれませんが、ダビデは私たちの必要とそれ以上を与えてくださると言います。だから5節に、彼はこう歌いました。

私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。(5)

そして、信仰と喜びによってダビデは歌いました。

まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。(6)

あなたはどうですか。神様はあなたの羊飼いでしょうか。神様だけにあって、あなたは私たち皆が求める平安と喜びと満足が見つけることができます。

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詩篇

苦しみを理解しておられる神

苦しみについてのメッセージで、私の牧師はこう言いました。

「神様は私たちの苦しみを取り除いてくださらないかもしれないけど、それは神様がおられない理由ではありません。時々、神様は私たちの望み通りに祈りに応えられないかもしれないけど、それは神様が私たちを愛しておられないわけではないのです。」

詩篇22篇では、その真理を見ることができます。ダビデは叫びました。

わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。

わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。(詩篇22:1-2)

神様が遠く離れたようで沈黙しておられた時でも、ダビデはこう言います。

けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。

私たちの先祖は、あなたに信頼しました。彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。

彼らはあなたに叫び、彼らは助け出されました。

彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした。(3-5)

つまり、「あなたがまだ存在しておられるのを信じます。あなたは私の先祖が信頼した神で、彼らはあなたに信頼すると、結局恥を見ませんでした。だから、私はあなたが見えなくても、あなたが何をされているか見えなくても、私はあなたに信頼し続けます。」

それでも、ダビデは自分のトラブルについて神様に伝え続けました。

しかし、この詩篇で、私たちはもう一つのことを見ます。この詩篇はイエス様の苦しみも預言しています。

この詩篇は、十字架でイエス様の状態を預言しています。(14-17)

また、イエス様がからかわれることを預言しています。(7-8)

また、人々がイエス様の着物をくじ引きにすることを預言しています。(17-18)

そして、イエス様の犠牲からの勝利や、救いや、祝福を預言します。(22-31)

だから、イエス様は十字架にかけられた時、こう叫ばれました。「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46)

その時、イエス様はこの詩篇を自分の状況に当てはめられました。

私たちは、この箇所から何を学ぶことができるでしょうか。

私たちが苦しむ時、神様が遠く離れたように感じ、また神様が私たちを愛しておられないと思うかもしれませんが、それはただ私たちの感情です。そして、その感情は現実とは異なります。

現実は、神様がまだ私たちと共におられることです。また、神様は私たちをまだ愛しておられます。

だから、ダビデは歌います。

まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。(24)

あなたは苦しむ時、この箇所を思い出しましょう。神様は私たちの悩みを軽く見ておられません。神様は私たちから隠れません。むしろ、神様は私たちの叫びを聞いてくださいます。また、神様は私たちの苦しみをよく理解しておられます。

どうして、私はそんなことが言えるのでしょうか。なぜなら、イエス様は苦しまれたからです。イエス様にも神様に捨てられた感じもありました。イエス様も苦しみをよく経験されました。

しかし、私たちが神様に信頼し続けると、神様はイエス様の苦しみを神様の栄光のために利用されたように、私たちの苦しみも神様の栄光のために利用されます。

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詩篇

勝利と祝福がどこから来るか思い出す

何かがうまく行かない時や思い通りにならない時、私たちはすぐに神様について考えます。

けれども、勝利の時、また、祝福の時はどうでしょうか。その時、私たちはすぐに神様をほめたたえるでしょうか。もしくは、私たちは誇って、自分の偉さについて考えるでしょうか。

ダビデにも、その罠で倒れる時もありました。(第二サムエル記11-12章;24章)

しかし、詩篇21篇で、ダビデは勝利と祝福がどこから来るかを思い出しました。だから、彼はこう歌いました。

主よ。王はあなたの御力を、喜びましょう。あなたの御救いをどんなに楽しむことでしょう。

あなたは彼の心の願いをかなえ、彼のくちびるの願いを、退けられません。セラ

あなたは彼を迎えてすばらしい祝福を与え、彼のかしらに純金の冠を置かれます。

彼はあなたに、いのちを請い求めました。あなたは彼に、とこしえまでの長い日々を与えられました。

御救いによって彼の栄光は、大きい。あなたは、尊厳と威光を彼の上に置かれます。

あなたは、とこしえに彼を祝福し、御前の喜びで彼を楽しませてくださいます。(詩篇21:1-6)

それに、ダビデは、どうして神様が彼を祝福してくださったか思い出しました。

まことに、王は主に信頼し、いと高き方の恵みによってゆるがないでしょう。(7)

勝利の時、あなたの考えはどこに向くでしょうか。

自分の力と知恵について自慢するでしょうか。もしくは、神様をその御業のために賛美するでしょうか。

あなたは、おもに自分の力と能力に頼るでしょうか。もしくは、おもに神様とその力に頼るでしょうか。

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詩篇

勝利の鍵

多分、戦争の前にダビデはこの詩篇を書いたでしょう。だから、イスラエル人は神様がダビデとその軍隊を祝福してくださるように祈りました。

苦難の日に主があなたにお答えになりますように。ヤコブの神の名が、あなたを高く上げますように。

主が聖所から、あなたに助けを送り、シオンから、あなたをささえられますように。

あなたの穀物のささげ物をすべて心に留め、あなたの全焼のいけにえを受け入れてくださいますように。セラ

主があなたの願いどおりにしてくださいますように。あなたのすべてのはかりごとを遂げさせてくださいますように。

私たちは、あなたの勝利を喜び歌いましょう。私たちの神の御名により旗を高く掲げましょう。主があなたの願いのすべてを遂げさせてくださいますように。(詩篇20:1-5)

それは素晴らしい祈りです。けれども、そのあと、ダビデは彼らに勝利の鍵を思い出させます。

ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。

彼らは、ひざをつき、そして倒れた。しかし、私たちは、立ち上がり、まっすぐに立った。(7-8)

多くの場合、私たちは神様に相談せずに計画を立てて、「神様、私たちの計画を祝福してください」と祈ります。そして、私たちの計画がうまくいかないと、「どうしてでしょうか?」と尋ねます。

けれども、ダビデは自分の民に、そして私たちに思い出させます。成功の鍵は自分の力や知恵ではありません。むしろ、成功の鍵は神様に信頼することです。

自分の力と知恵に頼ると、結局あなたは倒れます。しかし、神様に信頼すると、結局あなたは立ち上がり、まっすぐに立つのです。

あなたはどうでしょうか。自分の力と知恵に頼りながら、神様の祝福のために祈っているでしょうか。それとも神様に頼り、信頼しているでしょうか。

戦う時だけではなく、計画を立てる時にも神様を求めているでしょうか。

私たちの知恵と力ではなく、神様とその言葉が私たちの基礎となりますように。

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詩篇

神様はどのようにご自身を示されるのか

私は、詩篇19篇が大好きです。この詩篇で、神様がどのようにご自身を現されるかを教えてくださいます。

最初に、神様は被造物を通してご自身を現しておられます。ダビデはこう歌いました。

天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。

昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。

話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。

しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。(詩篇19:1-3)

多分、パウロはこの詩篇について考えたとき、この言葉を書いたでしょう。

それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。

神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。(ローマ1:19-20)

時々、人々はこう訊きます。「神様について聞いたことがない人はどうなるでしょうか。彼らはキリストの名前について聞いたことがないのに、裁かれるのでしょうか。」

その答えは、「はい、裁かれます。」

けれども、その理由は、彼らがキリストの名前を聞いたことがないから裁かれるわけではありません。彼らが知っていることによって裁かれます。

つまり、彼らは被造物を見た時、心の中で、この世が偶然の産物ではないと悟ることができます。

また、彼らの偶像がこの世を造ることができなかったと分かったと思います。なぜなら、彼らは自分の手でその偶像を造ったからです。それでも、彼らはその知識を拒絶しました。

人々が神様が与えてくださった知識を拒絶するなら、神様がもっと情報を与える義務はありません。もし、神様がもっと情報を与えるのであれば、それはただ恵みによって与えてくださるのです。私たちはその情報を持つ権利がありません。

実は、神様についての情報のすべては賜物なのです。

しかし、もし福音が届かない国の人が、空を仰いで、「私はこの世を造らなかった。私が知っている人々もこの世を造らなかった。私が作った偶像もこの世を造らなかった。だから、この世を造った方、自分自身を私に現してください。」と言うなら、神様はきっとその人の祈りに応えるでしょう。

どうして私はそう信じるのでしょうか。それは、パウロがこう書いたからです。

神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。(第一テモテ2:4)

そのことを疑うなら、コルネリオの話を読んでください(使徒の働き10章)。

彼はイエス様を救い主として受け入れなくてはならないことを知りませんでした。けれども、彼は神様について聞いたことを信じたので、神様はもっと情報を与えました。

つまり、神様はペテロを送って、ペテロがコルネリオとその家族にイエス様のことを伝えたので、彼らは信じて救われました。

神様は被造物を通してご自身を現されますが、御言葉を通しても現されます。そして、被造物の知識のように、人々はその御言葉を信じるかどうか選ばなくてはなりません。

私たちは、その言葉が完全で確かなものであることを信じるかどうか選ばなくてはならないのです。(7)

神様の御言葉が正しいものであることを信じるかどうか選ばなくてはならない。(8)

神様の言葉が私たちに喜びと光を与えるものであることを信じるかどうか選ばなくてはならない。(8)

ダビデは信じることを選びました。けれども、多くの人はその選択をしません。

しかし、私たちが神様の御言葉をどのように考えるかは、私たちが神様をどのように考えるかに影響を与えます。もし神様の言葉を拒絶すると、私たちの神様についての考え方は間違ってしまいます。

けれども、私たちが神様をありのままに見ると、私たちは神様を愛し、喜ばせたいと望むようになります。ダビデもそうしました。だから、彼はこう祈りました。

だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。

あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。

私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。(詩篇19:12-14)

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詩篇

神様のようになる

ダビデが困った時、つまり、人々が彼を殺そうとしたとき、彼は詩篇17篇を書きました。

何度も、人々はダビデを殺そうとしましたが、ダビデは決して彼らのレベルに降りませんでした。つまり、ダビデは彼らのようになることを拒絶しました。彼はこう書きました。

あなたは私の心を調べ、夜、私を問いただされました。あなたは私をためされましたが、何も見つけ出されません。

私は、口のあやまちをしまいと心がけました。人としての行ないについては、あなたのくちびるのことばによりました。

私は無法な者の道を避けました。私の歩みは、あなたの道を堅く守り、私の足はよろけませんでした。(詩篇17:3-5)

私たちは、よく、「私には選択肢などない。私を憎む人を扱うなら、ルールをちょっと曲げなくてはならない。そうしないと、彼は私をずっとひどく扱うことになるだろう。」と思います。

しかし、ダビデは神様の言葉に従い続け、復讐を神様の手に委ねました。彼は叫びました。

神よ。私はあなたを呼び求めました。あなたは私に答えてくださるからです。

耳を傾けて、私の申し上げることを聞いてください。あなたの奇しい恵みをお示しください。

立ち向かう者から身を避けて右の手に来る者を救う方。私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。

私を襲う悪者から。私を取り巻く貪欲な敵から。(6ー9)

そして私たちは、ダビデの最も深い望みを見ます。彼は言いました。

「主よ。私の敵はこの世の物を求めているので、その物をどうぞ与えてください。けれども、私が求めるのは、あなたの顔を見ることです。また、私は目覚める時、私があなたのようになるなら、満足します。」(14-15)

だから、神様はダビデについてこう言われました。「彼はわたしの心にかなった者です。」

私は若い時、この歌を聞いて、本当に気に入りました。

私が大きくなると、あなたのようになりたいです。
あなたが愛するように、私も愛することを学びたいです。

周りの人々が微笑んで、私についてこう言ってほしいです。
「その人はきっと天の父の子です。」

私は大きくなったら、あなたのようになりたいです。

神様は私たちのために同じことを望んでおられます。

パウロはこう書きました。

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。

これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(第二コリント3:18)

私たちの目的がこの世の物を得ることではなく、また、私たちを憎む人のようにならないようにしましょう。

むしろ、私たちは私たちを愛している天の父のようになることを目指しましょう。そうすれば、周りの人々が私たちを見ると、天の父を見ることができるでしょう。

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詩篇

命の道

人は皆、生きがいのある人生を求めるものです。

ダビデには多くのトラブルがあったけれども、彼はそのような人生を送りました。詩篇16篇で、ダビデは命の道について語っています。

しかし、命の道とは生き方のことではありません。命の道とは神様のことです。だから、ダビデはこう言いました。

私は、主に申し上げました。

「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」(詩篇16:2)

その言葉に、ダビデの喜びが見えます。「あなたこそ、私の主。」

自分の人生を支配することが本当の喜びだと思う人もいます。しかし、本当の喜びは、神様を私たちの王とし、神様に従うことです。

なぜでしょうか。なぜなら、神様のほかに本当の幸いはないからです。神様はすべての良い物の源だからです。

ヤコブもその真理を理解しました。

すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。(ヤコブ1:17)

だから、喜びの源から離れると、本当の喜びを見つけることはできません。

けれども、多くの人々は神様から離れて喜びを見つけようとします。だから、彼らはこの世の神々、つまりお金や持ち物やセックスから喜びを求めます。

それら自体は悪いものではありませんが、もしあなたが神様から離れたら、結局それらのものが虚しいことに気づくでしょう。

だから、ダビデはそのような人についてこう言います。「彼らのことは感心しない。今、彼らは成功しているかもしれないけど、結局彼らは苦しむことになるでしょう。だから、私はあなたに従う人生を喜びます。」(3-4)

そして、ダビデは神様に仰ぎ、歌います。

「主よ。他のすべてのものよりも、私はあなたを求めます。あなたは私の遺産です。私が一番大事にするのはあなたとの関係です。その関係によって、私の人生は生きがいがあるものになります。」

時々、人々は神様の命令が重荷だと思います。けれども、ダビデはそのようには考えませんでした。むしろ、ダビデは歌いました。

測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。(6)

ダビデには、神様と良い関係があったので、神様の命令に従うのは喜びでした。彼が分かっていたのは、その命令が喜びを取り去るためではなく、喜びを与えるためだということです。

また、その命令によって、神様の計画を知り、どのように生きるべきかが分かりました。

だから、ダビデは神様の言葉を喜んで聞いていました。神様の助言を聞き、神様が彼のそばにいらっしゃったので、彼は大変な状態の中でも、決して揺るぐことがありませんでした。(7-8)

それに、死んでも、彼には希望がありました。

まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。(10)

イエス様の復活によって、その言葉は成就されました。イエス様はこう約束されました。

わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。(ヨハネ14:19)

ダビデは彼の考えを要約して歌います。

あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。(11)

あなたは命の道を知りたいでしょうか。命の道は宗教的なルールを守ることではありません。また、宗教的な習慣を実践することでもありません。

むしろ、イエス様にあって、命の道を見つけます。イエス様が私たちの主なら、生きがいのある人生を見つけます。

だから、イエス様はこう言われました。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。(ヨハネ14:6)

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詩篇

聖い人生

ある牧師が言いました。「聖さは完全という意味です。」

つまり、私たちが聖い人生を生きるなら、私たちの人生は壊れずに、癒されて完全になります。なぜなら、私たちは神様が計画した通りに生きるからです。

昨日、私が言ったのは、人々が神様を拒絶すると、彼らの道徳観念は堕落するということです。しかし、この詩篇で、私たちは完全な人生がどんな人生であるかを学びます。どうして聖い人になることは大切なのでしょうか。

ダビデはその理由を与えます。

主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。(詩篇15:1)

つまり、すべての人々は神様の前に来ることができません。

へブル人への手紙の著者も、そのことをはっきりと言いました。

聖くなければ、だれも主を見ることができません。(12-14)

聖さとは、何でしょうか。

それは、正しく歩むことです。つまり、周りの人々は公正に罪のせいであなたを責めることができません。

もちろん、あなたを責めようとする人もいます。イエス様が罪のない方なのに、その敵はいつもイエス様を責めました。とはいえ、彼らは公正に責めることができなかった。

あなたはどうですか。周りの人々はあなたを罪のために公正に責めることができますか。

また、聖さは義を行なうことです。聖さは、悪いことを犯さないことだけではなく、良いことをすることです。ヤコブはこう書きました。

こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。(ヤコブ4:17)

そして、聖さは、心の中の真実を語ることです。あなたは真実を愛しているでしょうか。それとも、嘘がすぐにあなたの口から出るでしょうか。

「罪のない嘘」はどうでしょうか。相手の感情を考えずに真実を言うべきというわけではありません。しかし、愛を持って真実を語るべきです。(エペソ4:15)

また、聖さは人をそしらないことです。あなたは、どれくらい人の悪口を言うでしょうか。例えば、どれくらいあなたの妻や夫、お客さんや同僚について文句を言うでしょうか。聖い人はそんなことをしません。

また、聖さは悪を犯す人を感心せずに、善を行なう人を感心することです。

あなたのロールモデルは誰でしょうか。神様を愛する人、また神様に仕える人のようになりたいでしょうか。それとも、神様を拒絶する人のようになりたいですか。

誰の価値観を受け入れるでしょうか。

そして、たとえ損になっても、聖い人は立てた誓いを変えません。自分にとって不利な条件でも、あなたは自分の約束を守るでしょうか。

さらに、聖い人は気前がよく、苦しんでいる人を喜んで助けます。彼らが困難な時に、その不運につけ込むでしょうか。それとも、神様の愛で彼らを包むでしょうか。

最後に、聖さは正直に生き、正義を愛することです。相手の立場を考えずに、神様の愛で彼らを扱うでしょうか。あなたには利益がないのに、彼らを正直に扱うでしょうか。

ダビデは、そのような人が完全になると言いました。またその人は決して揺るがない人となります。

あなたはどうですか。あなたは聖い人でしょうか。

良い知らせは、あなたがイエス様に属するなら、イエス様の血によってあなたが清められて、神様の目で見ると、あなたはもう完全だということです。あなたはもう聖い人です。

だから、裁きの日に、神様が私たちをご覧になる時、「無罪」と言われます。

それだけではなく、ペテロはこう記しました。

というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。(第二べテロ1:3)

つまり、私たちは自分の力で自分自身を変える必要がないのです。むしろ、私たちが聖い人生を生きるために神様は力を与えてくださいます。

だから、毎日聖い人生を生きようと努めましょう。ペテロはこうも書いています。

こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。

これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。(第二ペテロ5:1-8)

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詩篇

神様を拒絶すると

詩篇14篇と53篇は大体同じだから、今日それらについて話しましょう。

この詩篇では、人々が神様を拒絶した結果を見ます。

ある人は「神はいない」と言います。

聖書によれば、そのような人は愚か者です。愚か者というのは、「知能のない」という意味ではなく、「堕落している人」という意味です。

なぜなら、私たちが神様を拒絶すると、私たちは堕落に陥れてしまうからです。ダビデはこう書きました。

彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。善を行なう者はいない。(詩篇14:1)

あなたは、「ちょっと待ってください。神様を信じない良い人も知っています。それに、彼らはあるクリスチャンよりも良い人です。」と言うかもしれません。

それはそうかもしれません。しかし、人を人と比べるのは、人を神様と比べることとは全然違うことです。つまり、神様と比べると、私たちの罪の染みは明らかになります。

例えば、私たちを傷つけた人を心から許せないことがあります。

また、妻や夫に親切にできない時もあります。

さらに、私たちは短気になって、すぐに怒りを爆発させてしまうことがあります。

家や職場では、自己中心な態度を取ってしまうこともあります。

「でも、それは当然なことですよ。私たちは人間だから、誰も完璧じゃないです。」

けれども、もしそのことが当然だと思うなら、それは堕落した考え方です。

神様が人間を初めて造った時、そのことは全然当たり前のことではありませんでした。しかし、人間が神様を拒絶すると、そのことは「当然」になりました。

私たちが罪を当然だと思えば、それは堕落です。

私たちはいろんな言い訳を考えるかもしれませんが、神様の目に私たちは堕落しており、私たちの行動は忌まわしいものです。

私たちが神様から離れている間、私たちの道徳観念は堕落します。もし、私たちが善の源から離れたら、善を知っているとは言えません。

多くの人は神様から離れて、自分の道徳を造ろうと思いますが、神様の目で見ると、その道徳はいつも堕落します。

その結果は?

死です。また、裁きです。いつか、神様はこの世に戻って、この世を裁きます。

その日、神様に属する人は喜びます。けれども、神様を拒絶した人は恐れます。なぜなら、彼らは神様の聖さを見て、自分がどれほど堕落しているかを見ます。そして、彼らの言い訳が虚しいことを理解します。

だから、愚か者にならないでください。神様を認めて、私たちの王として受け入れましょう。ソロモンが言ったように、

主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。(箴言9:10)

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詩篇

神様、あなたはどこ?

時々、私たちは、「神様、あなたはどこ?」と思うことがあります。

詩篇13篇で、ダビデはそのように祈りました。

主よ。いつまでですか。

あなたは私を永久にお忘れになるのですか。いつまで御顔を私からお隠しになるのですか。いつまで私は自分のたましいのうちで思い計らなければならないのでしょう。

私の心には、一日中、悲しみがあります。

いつまで敵が私の上に、勝ちおごるのでしょう。(詩篇13:1-2)

時々、私たちは聖書の登場人物をスーパーヒーローのように考えます。私たちはダビデについて読む時、彼がいつも神様と親しい関係があったと思います。また、彼に問題があっても、神様の臨在を良く感じて、すぐに慰められたと思います。

けれども、私たち皆には霊的な砂漠の経験があります。その時、私たちは「神様はどこだろうか」と思います。また、私たちの祈りが天井に当たってすぐに落ちると感じることがあります。そして、どこを見ても、神様を見つけることができません。

だから、ダビデのように私たちは叫びます。

「神様、あなたはどこ?どうしてあなたは隠れているのですか?私の状態を見ていないのですか?私をもう愛していないのですか?

毎日、私の恐れと戦い、絶望と戦います。どれぐらいこれは続くのですか?助けてください。あなたがいらっしゃらないと、耐えられません。」

神様が遠いと感じる時、私たちはどうしたら良いでしょうか。

あなたの信仰にしがみつき続けてください。何も感じなくても、神様がまだあなたを愛していることを信じ続けてください。また、その気持ちがなくても、神様にあって喜んでください。

あなたは、「その気持ちがなくても、どのように喜ぶことができるでしょうか」と訊くかもしれません。

それは簡単なことではありません。けれども、ダビデの言葉を見ると、ヒントを見つけることができると思います。彼は歌いました。

私はあなたの恵みに拠り頼みました。私の心はあなたの救いを喜びます。私は主に歌を歌います。主が私を豊かにあしらわれたゆえ。(5-6)

ダビデは、神様が過去に何をしてくださったかを思い出し、神様の慈しみに感謝しました。そうすると、彼は「過去に私を救い出した同じ神様は、きっと今も私を救い出します。」と分かりました。

そのように、私たちは神様が遠いと感じる時、神様が過去に何をしてくださったかを思い出すべきです。

特に、イエス様が十字架で何をしてくださったかを思い出すべきです。つまり、イエス様が私たちを愛して、この世に来て、私たちの罪のために死んでくださったことを思い出すのです。

イエス様がそのように私たちを愛されたなら、どうして私たちはその愛を疑うでしょうか。きっと今も私たちを助けてくださいます。

もう一つ覚えておいてください。私たちに気持ちがなくても神様を賛美することを選択することを、神様が近いと感じるから賛美することよりも、神様は喜ばれます。

また、神様の慈しみが見えなくても、その慈しみを信じ続けることを選べば、私たちの信仰は本当に成長します。

そして、結局神様は、もう一度自分自身を私たちに表してくださいます。

あるスティーブン・カーティス・チャップマンの歌も、そのことを教えています。

この場所で、私は神様を見いだせると思いました。
聖書を読み、跪いて祈りました。
私は待ち望み、天を仰ぎました。
けれども、太陽は全く照らしてはくれませんでした。

しかし、時にはイエス様は曇っている時に来られます。
時には、私たちはイエス様の御顔が見えません。
時には、空が暗いのです。

けれども、私たちが見えない時こそ、
神様から学ぶことがあります。
また、私たちが見えない時こそ、
私たちの信仰が成長する時でもあります。

だから、時には神様は雨の時にも来られます。
その時、私たちは苦しみ、「どうして?」と問いかけます。
「どうして神様はこんなに遠いのだろうか」と思います。

しかし、後で私たちが分かるのは、
「その時でも、神様は私と共におられた」ということです。

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詩篇

あなたの舌の主は誰?

詩篇12篇では、ダビデは忠実な人、また、敬虔な人がいないことを嘆きます。特に、ダビデは周りの人々の舌を嘆きます。彼はこう言いました。

人は互いにうそを話し、へつらいのくちびると、二心で話します。

主が、へつらいのくちびると傲慢の舌とを、ことごとく断ち切ってくださいますように。

彼らはこう言うのです。「われらはこの舌で勝つことができる。われらのくちびるはわれらのものだ。だれが、われらの支配者なのか。(詩篇12:2-4)

しかし、ダビデは主の御言葉についてこう言います。

主のみことばは混じりけのないことば。土の炉で七回もためされて、純化された銀。(6)

私たちがイエス様を主と呼ぶなら、イエス様は私たちの舌の主であるべきです。

イエス様はあなたの舌の主ですか。イエス様の言葉のように、私たちの言葉も土の炉で七回試され、純化された銀のようですか。私たちの言葉は清いですか。

それとも、嘘、傲慢、欺き、中傷が私たちの口から出ますか。または、ゴシップ、文句、汚い言葉が私たちの口から出ますか。

パウロはこう書きました。

悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。(エペソ4:29)

今日、あなたの口から、何が出ているでしょうか。

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詩篇

恐れに屈しない

詩篇11篇を読むと、私はネヘミヤの話について考えます。ユダヤ人がエルサレムの城壁の修理を止めるために、その敵がある祭司を買収して、ネヘミヤにこう言いました。

「あなたを殺すために敵が来ているので、主の宮に隠れなくてはなりません。」

けれども、ネヘミヤは答えました。

私のような者が逃げてよいものか。私のような者で、だれが本堂に入って生きながらえようか。私は入って行かない。(ネヘミヤ記6:11)

ネヘミヤのように、ダビデはこう書きました。

主に私は身を避ける。どうして、あなたたちは私のたましいに言うのか。

「鳥のように、おまえたちの山に飛んで行け。それ、見よ。悪者どもが弓を張り、弦に矢をつがえ、暗やみで心の直ぐな人を射ぬこうとしている。拠り所がこわされたら正しい者に何ができようか。」(詩篇11:1-3)

ダビデとネヘミヤの状況は違いましたが、彼らには共通点がありました。彼らは恐れに屈することを拒絶しました。むしろ、彼らは神様に信頼することを選びました。

周りの人々は慌てて、「大変だ。どうしよう!」と言いましたが、ダビデとネヘミヤは堅く立って、動じませんでした。どうして彼らは怖がらなかったのでしょうか。

ダビデはこう書きました。

主は、その聖座が宮にあり、主は、その王座が天にある。その目は見通し、そのまぶたは、人の子らを調べる。

主は正しい者と悪者を調べる。そのみこころは、暴虐を好む者を憎む。(4-5)

つまり、「神様はここにおられます。神様は何が起こっているか知っておられます。神様はすべてをコントロールしておられます。また、神様は私を見守って、私を攻める人を扱ってくださいます。」

そして、ダビデはこう言いました。

主は正しく、正義を愛される。直ぐな人は、御顔を仰ぎ見る。(7)

あなたはどうですか。ダビデのように、あなたは主に信頼していますか。あなたの世界が崩壊していると思う時、パニックに屈するでしょうか。

それとも、主があなたの砦ですか。主の手が見えなくても、その手があなたを覆うことを信じますか。主に100%信頼していますか。

イザヤはこう書きました。

立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。(イザヤ書30:15)

イスラエル人と違って、恐れに屈しないでください。むしろ、ダビデとネヘミヤのように、忠実な神様に信頼しましょう。

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詩篇

主に身を委ねる

詩篇10篇で、ダビデは祈りながら、ヨブの疑問を繰り返し問いかけます。彼は叫びます。

主よ。なぜ、あなたは遠く離れてお立ちなのですか。苦しみのときに、なぜ、身を隠されるのですか。(詩篇10:1)

そして、ダビデは、なぜ悪人が高ぶり、神様を拒み、周りの人々を苦しめているにもかかわらず、栄えているのかを尋ねます。(2〜11節)

だから12節で、ダビデは主に請います

主よ。立ち上がってください。神よ。御手を上げてください。どうか、貧しい者を、忘れないでください。

そのあと、ダビデは興味深いことを言います。

あなたは、見ておられました。害毒と苦痛を。彼らを御手の中に収めるためにじっと見つめておられました。

不幸な人は、あなたに身をゆだねます。あなたはみなしごを助ける方でした。(14節)

「不幸な人は、あなたに身をゆだねます」という表現は、私の心を打ちます。

普通、「委ねる」という言葉は、聖書では「捨てる」と訳されることがあります(例えば、ヨシュア記1:5)。

つまり、ある人がとても苦しんで、もうどうしても何もできないとき、お金への信頼を捨てたり、自分の力への信頼を捨てたりして、自分の人生のすべてを神様に捧げます。そして、神様にすべてを委ねます。

ダビデは、そのような人についてこう言います。

主よ。あなたは貧しい者の願いを聞いてくださいました。あなたは彼らの心を強くしてくださいます。耳を傾けて、みなしごと、しいたげられた者をかばってくださいます。(17-18節)

日本語では、「心を強くしてくださいます」と訳されます。けれども、「強くする」という表現は、ヘブル語ではもっと深い意味があります。「彼らの心を強くし、整え、導く」という意味です。

私たちが身を神様に委ねると、神様は私たちを励まし、神様の計画のために私たちの心を整え、導いてくださいます。

とはいえ、私たちの身を神様に委ねるというのは、どういう意味でしょうか。

一つ目は、私たちの疑いを捨て、神様に信頼することです。つまり、私たちはこう祈ります。「どうして、こんな大変なことが起こったか分かりません。どうして、あなたが遠く離れているようなのか分かりません。それでも、私はあなたに信頼します。」

ヨブはその態度を学びました。

二つ目は、私たちの力と知恵で自分の問題を解決することを諦めることです。例えば、誰かが私たちを傷つける時、「論理的な解決」は復讐です。しかし、神様に身を委ねることは、復讐の権利を捨て、神様の手に正義を委ねることです。

伝道師オズワルド・チェンバーズはこう書きました。

「捨てる」と「委ねる」の証拠は、「神様がこう言ったことを知っているけど、この場合はどうですか」と訊かないことです。

自分の考えや想像に気を付けてください。「この場合はどうですか」と考え始めたら、それはあなたが神様に身を委ねていないことを表しています。

しかし、あなたが神様にすべてを委ねたら、もう神様が何をするかを考えなくなります。

「委ねる」というのは、質問を訊く権利を捨てることです。

そうすれば、あなたはこの世でもっとも驚かされる人、また、もっとも喜んでいる人になります。なぜなら、神様があなたのすべてを持っておられるなら、神様は本当の命をあなたに与えてくださるからです。

イエス様はこう言われました。

いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。(マタイ16:25)

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詩篇

正義の神

詩篇9篇の主なテーマは神様の正義です。

ダビデは神様についてこう言いました。

あなたが私の正しい訴えを支持し、義の審判者として王座に着かれるからです。(詩篇9:4)

また、

主は義によって世界をさばき、公正をもって国民にさばきを行なわれる。(8節)

また、

主はご自身を知らせ、さばきを行なわれた。(16節)

この世では、私たちは悪を見ないわけではありません。もちろん、私たちは悪をよく目にします。しかし、ダビデは神様についてこう言いました。

主はしいたげられた者のとりで、苦しみのときのとりで。御名を知る者はあなたに拠り頼みます。

主よ。あなたはあなたを尋ね求める者をお見捨てになりませんでした。

主にほめ歌を歌え、シオンに住まうその方に。国々の民にみわざを告げ知らせよ。

血に報いる方は、彼らを心に留め、貧しい者の叫びをお忘れにならない。。。

貧しい者は決して忘れられない。悩む者の望みは、いつまでもなくならない。(9-12、18節)

つまり、私たちは正義が遅いと思うかもしれませんが、結局正義は必ず来ます。また、困難な時でも、神様がまだ私たちのそばにおられ、決して私たちを捨てません。

困難な時、神様があなたから遠く離れておられると思うかもしれませんが、神様は私たちを無視せず、私たちのすべての叫びを聞いてくださいます。神様は私たちを忘れておられず、助けるために立ち上がられます。

だからこそ、神様が私たちを助けてくださる時、ダビデのように神様をほめたたえましょう。彼は歌いました。

私は心を尽くして主に感謝します。あなたの奇しいわざを余すことなく語り告げます。私は、あなたを喜び、誇ります。いと高き方よ。あなたの御名をほめ歌います。(1-2節)

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詩篇

私は誰だろう

ハワイに帰る時、私はいつも星を見るのが大好きです。今、西宮市に住んでいるので、星があまり見えません。ここではほんの2、3個しか星を見ることができません。

けれども、星空を見ると、ダビデのように私は驚きます。

私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。あなたのご威光は天でたたえられています。(詩篇8:1)

そして、ダビデのように、私は神様がどれほど大きいか、また、私がどれほど小さいかを考えます。そして、私は思います。「どうして、この素晴らしい宇宙を造られた神様が、私を愛してくださるのだろうか。」

あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。

人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。

あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。(3-5)

私は、この詩篇に基づく現代の歌が大好きです。

私は誰なのでしょうか。
どうして、あなたは私についていつも考えておられるのでしょうか。

私は誰なのでしょうか。
どうして、私が呼ぶ時、あなたの耳を私に傾けてくださるのでしょうか。

あなたは本当に私について考えてくださっているのでしょうか。
あなたが私をそんなに愛してくださるので、私は驚きます。

主よ。あなたが私を心に留めてくださることを感謝します。私が祈る時、あなたの耳を私に傾けてくださることを感謝します。

あなたよりも、天使よりも私は劣る者です。それでも、あなたは私に栄光と誉の冠を被らせてくださいます。

私は、あなたにも、天使にも劣る者です。それでも、あなたは私に栄光と誉れの冠を被らせてくださいます。

私はそれらに値するものは何ひとつありません。それでも、あなたは私を愛してくださり、そのように祝福してくださいます。

主よ、私が決してあなたの愛を当然のことと考えないように。むしろ、私があなたの愛でいつも驚くことができますように。アーメン。

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詩篇

裁判官の役割を神様に委ねる

ダビデの人生を見ると、彼が神様に裁判官の役割を委ねたことが分かります。彼はめったに復讐しようとはしませんでした。

(唯一の例外はナバルの話です。その時、ナバルの妻アビガイルがダビデにナバルを殺さないように願わなければなりませんでした。ダビデはその願いを聞いて、復讐しないことに決めました。)

詩篇7篇では、彼のそのような態度を見ることができます。ある人々がダビデを殺そうと思いましたが、ダビデは自分自身とその敵を神様の手に委ねました。また、裁く役割を神様の手に委ねました。ダビデはこう書きました。

主よ。御怒りをもって立ち上がってください。私の敵の激しい怒りに向かって立ち、私のために目をさましてください。あなたはさばきを定められました。

国民のつどいをあなたの回りに集め、その上の高いみくらにお帰りください。主は諸国の民をさばかれる。

主よ。私の義と、私にある誠実とにしたがって、私を弁護してください。(詩篇7:6-8)

どうしてダビデはその裁きを神様の手に委ねることができたのでしょうか。なぜなら、彼は心と思いを調べられる神様が正しく裁いて、悪者を罰されると確信していたからです。(9)

そして、ダビデは賛美でこの詩篇を終えました。

その義にふさわしく、主を、私はほめたたえよう。いと高き方、主の御名をほめ歌おう。(17)

ダビデのように、私たちは心と思いを調べられる神様に信頼し、その神様に裁きを委ねましょう。

復讐の思いは私たちを食い尽くし、私たちの喜びを奪います。しかし、正しく裁かれる神に裁きを委ねると、苦しみの中でも、私たちは喜びと平和を見つけることができます。

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詩篇

あなたの苦しみは長く続くと思う時

ダビデは詩篇第6篇を書きましたが、ヨブもまた、同じような思いを神様にぶつけました。

ヨブと同じように、ダビデも病に苦しみ、その苦しみが永遠に続くかのように感じていました。

さらに、神様はダビデを懲らしめるように思われましたが、ヨブと同じようにダビデもその理由を知りませんでした。(この詩篇で、ダビデは全く罪を告白していません。)

それだけでなく、ダビデの敵はその病気を見て、彼を攻撃する機会と捉えました。

それにもかかわらず、ヨブとは異なり、ダビデは神様の正義を決して疑いませんでした。

彼は、自分が神様から何ももらう価値がないことを理解していました。実際には、彼は神様の怒りに値していました。

だからこそ、自分の義によるのではなく、神様の憐れみと絶え間ない愛によって癒しを求めました。

彼は叫びました。

主よ。私をあわれんでください。私は衰えております。

主よ。私をいやしてください。私の骨は恐れおののいています。私のたましいはただ、恐れおののいています。

主よ。いつまでですか。あなたは。

帰って来てください。主よ。私のたましいを助け出してください。あなたの恵みのゆえに、私をお救いください。(詩篇6:2-4)

しかし、ダビデが祈った時、神様の慰めを受けました。

不法を行なう者ども。みな私から離れて行け。

主は私の泣く声を聞かれたのだ。主は私の切なる願いを聞かれた。主は私の祈りを受け入れられる。

私の敵は、みな恥を見、ただ、恐れおののきますように。彼らは退き、恥を見ますように。またたくまに。(8-10)

クリスチャンのコメディアン、マーク・ローリーはこう言いました。「私の大好きな聖書の箇所は『And it came to pass…』という箇所です。」

それはちょっとした冗談です。

「It came to pass」という表現は、少し古い英語で、「そのころ」や「ある時期になって」という意味です。

けれども、文字通りに解釈すると、「その時期はすぐに過ぎた」という意味になります。

ローリーのポイントは、「私たちの苦しみは永遠に続きません。いつか、その苦しみの時間は過ぎ去ります」ということです。

そして、彼は自分の詩篇を歌いました。

私の心には、私が一人で泣いた涙がいっぱい隠されています。

それでも、神様が近くにおられることを知っています。
神様が私の声を聞いてくださることを知っています。
この涙がいつまでも続かないことを知っています。

今日の苦しみは一掃されるのです。
なぜなら、この時期も過ぎます。

夜が朝になると、 私たちはその真実を見ます。
皆がトラブルを経験しますが、
そのトラブルは結局消えます。

この時期も過ぎます。
この時期も過ぎます。

雨垂れのように落ちる涙は結局乾きます。

この時期も過ぎます。

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詩篇

王に願う

私は詩篇5篇が大好きです。子供の時から今でも、その詩篇からの歌を歌い続けています。

私の言うことを耳に入れてください。
主よ。私のうめきを聞き取ってください。
私の叫びの声を心に留めてください。
私の王、私の神。

私はあなたに祈っています。
主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。
朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします。(詩篇5:1ー3)

この詩篇を読む時、私は正義と助けを願う人が宮廷に入ることを想像します。その人は王の前に跪いて、叫びます。

「私の王。私の神。私を憐れんでください。あなたの助けが必要です。私の願いを聞いてください。」

この箇所では、その人の謙遜な態度が見えるし、その人が王を愛し、信頼することも見えます。

「主よ。朝に私が起きる時、私の最初の思いはあなたについてです。あなたの前に、私は来て、私の願いを捧げて、待ち望みます。なぜなら、あなたが私を愛し、私の祈りに応えてくださることを信じるからです。」

その時、ダビデがどの問題に直面していたのか、私たちは知りません。けれども、いつもトラブルや恐れや心配がある時、彼は王に向かいました。私たちもそうするべきです。

どうして、私たちは神様の前に来られるのでしょうか。私たちは私たちを傷つける人よりも正しい人だからでしょうか。違います。神様の憐れみによって、私たちは神様に近づくことができます。

人は私たちを傷つけたり、裏切ることがあるかもしれません。しかし、神様はそのようなことは決してなさいません。

神様は良い王であり、私たちが叫び求めると、神様は正義を与えてくださいます。また、神様はその翼で私たちを覆ってくださり、守ってくださいます。ダビデはこう祈りました。

あなたが彼らをかばってくださり、御名を愛する者たちがあなたを誇りますように。主よ。まことに、あなたは正しい者を祝福し、大盾で囲むように愛で彼を囲まれます。(11-12)

それを読む時、一つのイエス様のたとえ話を思い出します。その話では、ある女性が不正な裁判官に正義を求めました。彼はしばらく何もしませんでしたが、彼女が諦めずに頼み続けたので、最終的には彼女に正義を与えました。

イエス様はその裁判官を、私たちを愛している天の父に対比されました。

まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。

あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。

しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。(ルカ18:7-8)

時々、神様がダビデを救い出すために、ダビデは何日間も、何年も待たなければなりませんでした。それでも、彼は自分の信仰を決して失いませんでした。

毎朝、ダビデは神様の前に来て、自分の願いを捧げました。そして、神様は愛をもってその祈りを聞き、最終的にダビデを救い出されました。

私たちも苦しむ時、ダビデの信仰を持ちましょう。なぜなら、神様は私たちの声を聞き、私たちを愛し、私たちの祈りに応えてくださるからです。

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詩篇

平和

この混迷の世にあっては、平和を見つけるのが難しい時もあります。特に、皆があなたに反対している時には、平和を見つけるのは一層難しくなります。

サウルやアブサロムがダビデを攻めた時、ダビデもそのように感じたと思います。

だからこそ、ダビデは神様に向かって叫びました。

私が呼ぶとき、答えてください。私の義なる神。あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました。私をあわれみ、私の祈りを聞いてください。

人の子たちよ。いつまでわたしの栄光をはずかしめ、むなしいものを愛し、まやかしものを慕い求めるのか。(詩篇4:1-2)

ダビデの苦しみの中で、周りの人々はダビデの信仰をからかっていたかもしれません。「神様はあなたを救えない。神様は本当に存在しているのだろうか。」

現代でも、人々は同じようなことを言います。彼らは偽りの神々を礼拝し、お金の「神」や、セックスの「神」や、力の「神」を追い求めます。

だからこそ、私たちが問題に直面する時、彼らは私たちが神様に従うことをからかいます。

けれども、ダビデはその敵にこう言いました。

知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき、主は聞いてくださる。(3)

つまり、「あなたは私の信仰をからかうかもしれないけど、私は神様のものです。結局、あなたはそのことを知ります。神様は私の祈りに応えてくださるから。」

そして、自分自身に、また苦しんでいる私たちにこう言います。

恐れおののけ。そして罪を犯すな。床の上で自分の心に語り、静まれ。(4)

私たちが怒ることは悪いことではありません。イエス様も怒ったことがあります。

しかし、怒るときには、罪を犯さないようにする必要があります。

そのため、神様の前に静まり、自分の心を探り、自分の態度を見直すべきです。そして、神様が私たちの心を汚すものを清めてくださるように祈るべきです。

特に、苦々しい思いに気を付けなければなりません。私たちが苦々しい思いを持ち続けると、その苦々しい思いは、がんのように私たちの人生に広がるからです。

だからこそ、神様がその苦々しい思いを取り去ってくださるように祈るべきです。

そしてダビデはこう言いました。

義のいけにえをささげ、主に拠り頼め。(5)

イエス様によれば、義のいけにえを捧げたいなら、健康な人間関係を保つべきです。イエス様はこう言われました。

だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。

それから、来て、その供え物をささげなさい。(マタイ5:23-24)

時々、人々が私たちを傷つけ、私たちが仲直りしようとしても、彼らが傷つけ続けることがあります。その場合、私たちは神様がふさわしい時にその人を扱ってくださると信頼すべきです。私たちは復讐してはいけません。

それでも、できるだけ、その人から距離を保つ方が良いです。

サウルがダビデを殺そうと思った時、ダビデはサウルから逃げました。けれども、ダビデのように、その人に対して苦々しい思いを持たないようにしましょう。むしろ、神様に信頼し、その状況とその人を神様の手に委ねるべきです。

そして、苦しむ時、神様の愛と慈しみを疑わないでください。むしろ、ダビデのように、こう祈りましょう。

どうか、あなたの御顔の光を、私たちの上に照らしてください。(6)

言い換えるなら、「主よ。私に向かってください。あなたが私とともにおられることを現してください。また、私たちに対するあなたの愛を現してください。なぜなら、あなたの光が私を照らす時、私の周りのものは、ただ陰になるから。」

その態度を取れば、神様の喜びはあなたを満たし、あなたはダビデのように言うでしょう。

平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。(8)

あなたはどうですか。神様の平和を知っているでしょうか。

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詩篇

私たちの正当な王に明け渡す

明け渡すこと。私たちの多くはそのコンセプトがあまり好きではありません。特に、私たちは自分の権利を持ち続けたいものです。「私の体。私の人生。私の道。」

そして、誰かが私たちを明け渡させようとすれば、私たちは戦います。なぜなら、そうしなければ、幸せな人生を送れないと思うからです。

しかし、本当に幸せな人生を望むなら、私たちは神様に明け渡さなければなりません。神様の祝福を知りたいなら、神様に明け渡さなければならないのです。

けれども、この箇所では、人々は神様に明け渡さずに、神様と戦います。

詩人はこう書きました。

なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者とに逆らう。

「さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう。」(詩篇2:1-3)

多くの人々はそのように思います。「神様は鎖で私たちを縛っておられます。神様は私たちの人生を惨めなものにしておられます。だから、その鎖を壊して捨ててしまいましょう。」

何世紀前も、人々はそのように思いました。アダムとエバの時代でも、イエス様の時代でもそのように思ったし、現代でも、人々はそう思います。

ところが、

天の御座に着いている方は笑い、主はその者どもをあざけられる。ここに主は、怒りをもって彼らに告げ、燃える怒りで彼らを恐れおののかせる。

「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに。」(4-6)

つまり、私たちは主と戦おうとしても、私たちの努力や戦いは虚しいものだということです。神様はキリストの王位を確立し、こう言われます。

あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。(7-8)

いつか、この世の民、皆はイエス様に従わされる日が来ます。その日、愛と畏敬を持って明け渡す人もいれば、こぶしを握り、歯を食いしばって明け渡す人もいます。けれども、すべての人々がイエス様に従います。

それでは、私たちはどう反応すべきでしょうか。

それゆえ、今、王たちよ、悟れ。地のさばきづかさたちよ、慎め。恐れつつ主に仕えよ。おののきつつ喜べ。

御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている。(10-12a)

つまり、私たちはイエス様が勝利されることを知っているので、今イエス様に明け渡した方が良いです。イエス様が値する畏敬で、イエス様を誇り、仕えるべきです。

なぜなら、イエス様は私たちの正当な王だからです。イエス様が私たちを造られたので、私たちはイエス様のものです。私たちの持ち物、私たちの命さえも、イエス様からの賜物です。だから、イエス様に明け渡すのは当たり前のことでしょう。

全ての人々は、いつかイエス様の前に跪きます。しかし、正当な王に反抗し続ける人々は滅びます。

詩人はこう書きました。

幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。(12b)

イエス様に明け渡すと、私たちは平和や喜び、命を見つけます。イエス様に明け渡すと、何も失わないのです。むしろ、私たちはすべてを得るのです。

あなたはどうでしょうか。正当な王に明け渡しますか。

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詩篇

幸いな道

それでは、詩篇を始めます。実は、すでにいくつかの詩篇について書きました。つまり、ダビデの人生に関係がある詩篇についてすでに書きました。

だから、もし詩篇がスキップされたと思うなら、そのことを思い出してください。そして、詩篇のためにメニューを作ったので、どうぞ使ってください。

詩篇1篇で、詩人は幸いな道について話します。どのように神様の祝福を見つけられるでしょうか。

私たちはどこを歩くか、どこに座るか、どこに立つか気を付けなくてはなりません。

詩人はこう書きました。

幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。(詩篇1:1)

つまり、あなたはだれと付き合うでしょうか。誰の模範に従っているでしょうか。どの道に立っているでしょうか。

もちろん、私たちはすべてのノンクリスチャンを避けることはできません。それは無理ですし、彼らを避けると、彼らにイエス様について話せなくなってしまいます。

けれども、私たちは自分自身にこの質問をするべきです。

「彼らは私たちに影響を与えているだろうか。もしくは、私は彼らに影響を与えているだろうか。

私たちは彼らの態度を取っているだろうか。もしくは、彼らは私たちの態度を取っているだろうか。

私たちは彼らの道を行き始めているだろうか。もしくは、彼らは私たちの道を歩き始めているだろうか。」

この詩人のポイントは、私たちが不敬虔な人に影響されるべきではない、ということです。むしろ、私たちは神様の御言葉に影響されるべきです。詩人はこう書きました。

まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。(2)

毎日、私たちは神様の言葉に浸るべきです。できれば、私たちは神様の言葉を読むべきです。

散歩するとき、電車に乗る時、運転するとき、家事をするとき、私たちは神様が教えていることを思い出し、そのことをもっと深く考えるべきです。

また、聖書を読むとき、私たちは「神様、あなたは私に何を言っておられますか」と訊くべきです。

そうすれば、私たちは、

水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。(3)

その木が水をもらうために、わざとその水路の近くに植えられました。その木は水路の近くにあるので、時が来ると実がなり、栄えます。

とはいえ、私たちは決して問題がないわけではありません。ヨブは、この詩篇の人のように生きましたが、彼はかなり苦しんでいました。

しかし、6節には、こう書いてあります。

まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。(6)

時々、ヨブは神様が彼を捨てたと思いましたが、神様は決して彼を捨てませんでした。神様はまだヨブを見守っておられました。サタンはもっと酷いことをしたかったのです。サタンはヨブを殺したかったけど、神様はそれを許しませんでした。

結局、ヨブはその水路のそばにいたので、回復されて、もう一度実を結びました。

だから、私たちはどこに立つか、どこに座るか、どこを歩くか、気を付けましょう。そして、私たちに本当の命を与える神様の霊で満たされましょう。

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マラキ書

私たちが神様に聞かないと

神様はイスラエル人を責められた後で、彼らに警告されました。

つまり、裁きの日が来ることを警告されます。もし彼らが罪を犯し続けるなら、彼らは裁かれ、救いの希望はなくなります。根も枝も残らない木のように、彼らは滅び尽くされます。

けれども、主を恐れる人には、この世で受けた傷のすべてが癒されます。悪はすべて消え、決して戻りません。だから、彼らの喜びは決して取り去られることはありません。

だから、神様は彼らにこう言われました。

あなたがたは、わたしのしもべモーセの律法を記憶せよ。それは、ホレブで、イスラエル全体のために、わたしが彼に命じたおきてと定めである。(マラキ書4:4)

つまり、「裁きの日が来るので、私が言ったことを覚えていなさい。私の命令に従いなさい。」

もちろん、私たちはもうモーセの律法の下にはおりません。しかし、神様は私たちに命令を与えてくださいました。それは何でしょうか。ヨハネが私たちに教えてくれます。

神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。(第一ヨハネ3:23)

そして、マラキはエリヤの到来を預言します。以前言ったように、バプテスマのヨハネはその預言を成就しました。彼はイエス様の道を整えました。そして、神様はヨハネの到来に関して、こう警告されました。

彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。(6)

2章で、私たちはイスラエル人の結婚の決裂を見ました。イスラエルの主人たちは妻を離婚し、この箇所によれば、父子の関係も決裂していました。私たちの社会のように、その二つの問題は関係があると思います。

マラキ書2章で、神様が言われたように、結婚の一つの目的は神様の子孫が生まれることです。つまり、その子どもは神様に従うのです。

けれども、結婚と家族が壊れたので、父子の関係も壊れ、その子どもの神様との関係も壊れました。

だから、その世代では、親も子どもも神様に聞かず、神様に従わないので、神様の呪いが来ていました。

そのように、この社会が悔い改めないと、結局神様の呪いがこの地を打ち滅ぼします。

あなたはどうですか。どんな心を持っているでしょうか。神様の御言葉に向かっている心を持っているでしょうか。それとも、神様の御言葉を無視しているでしょうか。

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マラキ書

虚しい?

神様に従う私たちの信仰の旅路において、失望を感じる時もあります。そのような時に注意しなければ、私たちは苦々しくなり、皮肉な態度を取ってしまうかもしれません。

イスラエルの民も同じようになりました。彼らは次のように言いました。

神に仕えるのはむなしいことだ。神の戒めを守っても、万軍の主の前で悲しんで歩いても、何の益になろう。

今、私たちは、高ぶる者をしあわせ者と言おう。悪を行なっても栄え、神を試みても罰を免れる。(マラキ書3:14-15)

彼らは、神様が求められたことを行っていたと思ったかもしれません。彼らは安息日に主の宮に行き、いけにえを捧げ、モーセの律法によって定められた祭りを祝いました。

けれども、彼らは神様の祝福を見ることができませんでした。むしろ、神様に従わない人々が繁栄するのを目の当たりにしました。

だから、彼らはこう言いました。「神様に従うことに何の利益があるだろうか。神様に仕えることは虚しい。」

しかし、彼らの問題の一部は、さまざまな宗教的な行いをしても、それらを心から行っていなかったということです。以前、私たちが読んだように、彼らは足のなえたものや病気の動物をいけにえとして捧げました。

それに、神様のすべての命令に従うのではなく、どの命令に従うかを選んでいました。だから、十一献金をきちんと捧げませんでしたし、多くの指導者たちは偶像礼拝する外国人と結婚してしまいました。

それにもかかわらず、彼らは図々しくこう言いました。「あなたが命じた通りに私たちはしたのに、なぜあなたは私たちを祝福してくださらないのですか。」

私たちも同じようなことをするでしょうか。正しいことをしているつもりでも、それを心からしていない。「神様に従っている」と言いながら、実際にはどの命令に従うかを自分で選んでいます。

それでも、「なぜ神様が私を祝福してくださらないのでしょうか」と不満を口にします。

とはいえ、時には、私たちが本当に心から神様に従っているのに、まだ神様の祝福を感じられないこともあります。だから、私たちは「どうして?」と尋ねます。その時、神様は私たちに何と言われるでしょうか。

そのとき、主を恐れる者たちが、互いに語り合った。主は耳を傾けて、これを聞かれた。主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で、記憶の書がしるされた。

「彼らは、わたしのものとなる。――万軍の主は仰せられる――

わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。

あなたがたは再び、正しい人と悪者、神に仕える者と仕えない者との違いを見るようになる。(16-18)

つまり、「私はあなたを見て思い出します。私に忠実に仕える者は、私の宝となります。裁きの日には、彼らは恥じることなく私の前に立つことができます。その一方、不実な者は裁かれるでしょう。」

私たちががっかりしてしまう時には、どうすれば良いでしょうか。苦々しく皮肉な者にならないためには、何をすべきでしょうか。

おそらく、最も重要なことは、クリスチャンとの交わりを大切にすることです。あなたの感情を兄弟姉妹と分かち合いましょう。フラストレーションをシェアし、彼らの意見に耳を傾けてみてください。

彼らは、あなたの不実な部分を指摘するかもしれません。また、彼らはあなたを励ますかもしれません。そして、神様の忠実さや将来の報いを思い出させてくれるかもしれません。

けれども、私たちの苦々しく皮肉な思いが、私たちを神様から引き離すことのないようにしましょう。むしろ、イエスに目を留め、最後まで従い続けましょう。

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マラキ書

十一献金

このブログを見た時、「どうして十一献金について書いているのだろう。それは旧約聖書の律法であり、新約聖書にはクリスチャンが十一献金を捧げるべきだとは書かれていない」と考える人もいるかもしれません。

それは確かにその通りです。マラキがイスラエルの民に語った際、彼が話していたのはモーセの律法の下にいる人々でした。

時折、人々はアブラハムがメルキゼデクに十一献金を捧げた出来事を指摘します。

彼らの主張は、ヘブル人への手紙によれば、メルキゼデクがイエス様の象徴であり、さらにアブラハムがモーセの律法以前に十一献金を捧げたことから、クリスチャンも十一献金を捧げるべきだということです。

もしヘブル人への手紙の著者が、クリスチャンが十一献金を捧げるべきだという主張をしているのなら、私はその考えを受け入れるでしょう。

しかし、著者の主張は実際には、イエス様の祭司職がアロンの祭司職よりも優れているという点にあります。

したがって、この箇所を根拠にして「クリスチャンは十一献金を捧げるべきだ」と言うのは少し行き過ぎた解釈だと思います。

それでも、この箇所から献金についての原則を学ぶことができます。この原則はクリスチャンにも適用されます。

第一に、神様はクリスチャンに教会を献金で支えるように命じています。特に私たちの牧師を献金で支えることが求められています。

前述したように、ネヘミヤの時代、イスラエルの民がレビ人を支えなかったため、レビ人は主の宮での務めを諦めざるを得ませんでした。自分の家族を養うために、彼らは田畑に戻り働かなければならなかったのです。

もし私たちの牧師が家族を支えるためにアルバイトをしなければならない状況に置かれるなら、どうなるでしょうか。牧師は疲れ果て、その家族も疲弊するでしょう。

そして牧師が教会の務めに集中できない結果として、私たちも影響を受けることになります。

だからこそ、パウロはこう言いました。

よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。

聖書に「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない」、また「働き手が報酬を受けることは当然である」と言われているからです。(第一テモテ5:17-18)

それは新約聖書の教えです。

さらに、第一コリント9:7-12によれば、パウロとバルナバは自分たちのミニストリーのために報酬を受け取ることをしませんでした。むしろ、彼らは別の仕事をして自分自身を支えました。

それでも、パウロが主張したのは、「私たちはミニストリーの働きのために給料を受け取る権利を持っている」ということです。

それゆえ、マラキ書では神様がイスラエルの民に次のように言われました。

十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。(マラキ書3:10)

その食べ物は神様のためではありません。神様は食べ物を必要とされないからです。それは、宮で働いていた祭司たちとレビ人たちのためのものでした。

もう一つ重要なポイントがあります。時々、クリスチャンはこう言います。「これは私のお金です。だから、もし十一献金が神様の命令でないなら、私は教会に何も与えません。」

しかし、心に留めてください。クリスチャンであるあなたの人生は神様のものです。あなたは、イエス様が代価を払って買い取られた者です。その代価は十字架で流されたイエス様の尊い血です。

だから、あなたの持ち物は、実のところキリストのものです。あなたはイエス様から託された管理人です。

つまり、あなたのお金はあなた自身のものではありません。それは神様のものです。

タレントのたとえ話(マタイ25:14-30)から、その真理を学ぶことができます。

多くのクリスチャンがこの話を読むとき、霊的な賜物について考えます。けれども、神様は私たちにお金を儲ける能力も与えてくださっています。だから、私たちがそのお金をどのように使うのかを神様は問われます。

イスラエルの民がその真理を思い出すために、神様は彼らに悪い作物を与えられました。そして、神様は彼らにこう言われました。

「あなたたちは私のものを取り、それをただ自分自身のために使っています。だから、あなたたちは苦しんでいる。

しかし、もしあなたたちがそのものが本当に私に属することを覚えていたなら、私はあふれるばかりの祝福をあなたたちに注いでいたことでしょう。」

あなたはどうですか。あなたは自分のお金があなた自身に属すると考えていますか。ただ自分の目的のために使っていますか。

あなたが誰に属しているかを思い出しましょう。そして、あなたのお金が神様に属していることを心に留めましょう。

10%が神様のものなのではありません。100%が神様のものです。

そのお金を神様の目的のために使っていますか。

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マラキ書

正義はどこだろうか

多くの人々は、「もし神様が良いお方なら、どうしてこの世に悪があふれているのだろう。もし神様が正義の神なら、この世の正義はどこにあるのだろう」と問いかけます。

その疑問は決して新しいものではありません。マラキの時代にも、イスラエルの民は同じ質問を神様に投げかけました。そして、神様はこう言われました。

あなたがたは、あなたがたのことばで主を煩わした。しかし、あなたがたは言う。「どのようにして、私たちは煩わしたのか。」

「悪を行なう者もみな主の心にかなっている。主は彼らを喜ばれる。さばきの神はどこにいるのか」とあなたがたは言っているのだ。(マラキ書2:17)

神様は彼らの文句に、どのように答えられたのでしょうか。

「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。

あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、来ている」と万軍の主は仰せられる。(3:1)

つまり、「あなたたちは、私がどこにいるのかを訊いています。あなたたちは、なぜ私がこの世の不正義を扱わないのかを問うています。けれども、私はすぐに来ます。あなたの宮に、私は現れます。」

イエス様がこの世に来られたとき、その預言が成就しました。また、イエス様の道を整えた使者はバプテスマのヨハネでした。

しかし、神様は心に刺さるような質問をされます。

だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現われるとき立っていられよう。まことに、この方は、精錬する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ。(3:2)

つまり、「あなたは私が来て正義を行うことを待っています。あなたは私が遅いと文句を言っています。けれども、私が来る準備ができているでしょうか。

私が来るとき、銀と金を清める火のように来ます。また、私はすべての罪を清める灰汁のように現れます。

私が来る時、あなたはその前に立つことができるでしょうか。」

そして、神様はご自身に属する祭司たちにこう言われました。(クリスチャンとして、あなたが神様の祭司であることを思い出してください。)

「私はあなたを清め、製錬します。」

けれども、神様はこう言われました。

「わたしは、さばきのため、あなたがたのところに近づく。

わたしは、ためらうことなく証人となり、呪術者、姦淫を行なう者、偽って誓う者、不正な賃金で雇い人をしいたげ、やもめやみなしごを苦しめる者、在留異国人を押しのけて、わたしを恐れない者たちに、向かう。――万軍の主は仰せられる――」(3:5)

つまり、「裁きの日が来ます。罪を犯す者はすべて裁かれます。だから、もう一度私は尋ねます。あなたはその日のために準備ができているでしょうか。」

だから、人が神様の正義を疑う時、こう伝えてください。

「まず、あなたが何を言っているかをよく考えてみてください。あなたは神様がすべての悪を取り除くことを望んでいますか。

もし、あなたの中に小さな悪があったとしても、それも取り除かれるべきです。

あなたは完全な人間ですか。過去に悪いことをしたことがありませんか。あなたは自分自身が裁かれることを本当に望むのでしょうか。」

では、なぜ神様はまだこの世を裁いていないのでしょうか。それは、神様が可能な限り多くの人々が悔い改めることを待っておられるからです。

だから、神様はこう言われます。

主であるわたしは変わることがない。ヤコブの子らよ。あなたがたは、滅ぼし尽くされない。

あなたがたの先祖の時代から、あなたがたは、わたしのおきてを離れ、それを守らなかった。(3:6-7)

つまり、「あなたたちは、長い間ずっと私の命令を破り続けてきました。そのため、本来ならあなたたちはすでに裁かれ、滅びていたはずです。

しかし、私は忍耐強く、憐れみ深い神であるがゆえに、あなたたちはまだ滅びていないのです。

ただし、私の忍耐を不正義と混同してはなりません。裁きの日は必ずやって来るのです。」

あなたはその日のための準備ができていますか。

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マラキ書

妻を裏切る

多くの人々にとって、離婚は本当に辛いトピックです。

アメリカでは、離婚率は約50%と言われています。クリスチャンの結婚でも、離婚率はほぼ同じくらいです。

一方、日本では離婚率は比較的低いものの、徐々に上昇傾向にあります。

この箇所では、神様は二つの重要なことについて語られます。まず最初に、神様はこう言われました。

私たちはみな、ただひとりの父を持っているではないか。ただひとりの神が、私たちを創造したではないか。なぜ私たちは、互いに裏切り合い、私たちの先祖の契約を汚すのか。

ユダは裏切り、イスラエルとエルサレムの中では忌まわしいことが行なわれている。まことにユダは、主の愛された主の聖所を汚し、外国の神の娘をめとった。(マラキ書2:10-11)

エズラ記とネヘミヤ記によると、祭司たちと他の指導者たちまでもが外国人と結婚し始めました。

では、なぜそれが大きな問題だったのでしょうか。それは、その外国人が再びイスラエル人を偶像礼拝へと導いていたからです。

偶像礼拝の結果、以前イスラエル人はバビロンに追放されるという辛い歴史を経験しました。

ネヘミヤはその状況を目の当たりにして、激しい怒りを覚えました。そして、イスラエル人を厳しく叱責しました。

イスラエルの王ソロモンは、このことによって罪を犯したではないか。多くの国々のうちで彼のような王はいなかった。

彼は神に愛され、神は彼をイスラエル全土を治める王としたのに、外国の女たちが彼に罪を犯させてしまった。(ネヘミヤ記13:26)

ネヘミヤのポイントは何だったのでしょうか。

それは、神様に従わない人々の影響によって、たとえ強い信仰を持つ者であっても神様に不実になる可能性があるということでした。

だからこそ、クリスチャンがノンクリスチャンと結婚することは非常に危険なのです。そのため、神様はイスラエルの民に偶像礼拝をしている人々と結婚することを禁じられました。

しかし、その結婚に関してはさらに深刻な問題がありました。そのことについて、マラキはこう言いました。

あなたがたはもう一つのことをしている。あなたがたは、涙と、悲鳴と、嘆きで主の祭壇をおおっている。主がもうささげ物を顧みず、あなたがたの手から、それを喜んで受け取らないからだ。

「なぜなのか」とあなたがたは言う。

それは主が、あなたとあなたの若い時の妻との証人であり、あなたがその妻を裏切ったからだ。彼女はあなたの伴侶であり、あなたの契約の妻であるのに。(マラキ書2:13-14)

イスラエル人は、「どうして神様は私たちに反対するのだろうか。どうして神様は私たちの捧げ物を喜んで受け取らないのだろうか」と疑問に思いました。

神様はその理由をはっきりと説明されました。

それは、彼らが偶像礼拝をする人々と結婚しただけでなく、そのために、自分の妻を裏切り離婚してしまったからです。

しかし、妻との誓いを破る時、彼らは神様も裏切ることになったのです。なぜなら、彼らは神様の前でその誓いを立てたからです。そのため、神様は「私はあなたとあなたの妻との証人だ」と言われました。

また、神様はこう言われました。「私が結婚を作りました。あなたが結婚した時、私はあなたとあなたの妻を一体に造りました。だから、夫と妻は互いに属し合い、そして神様にも属します。」

ヘブル語での15節の意味は少し複雑です。英語の翻訳をいくつか比較すると、さまざまな解釈が見られます。

おそらく日本訳での理解は次のようになるでしょう。神様はアダムとエバを造られた時、結婚によって彼らを一体にされました。(創世記2:24)

その一体の中に神様の霊が宿っていました。そして、彼らが望んでいたのは、また神様が望んでいたのは、「神の子孫」でした。

アダムとエバの希望は、彼らの子孫を通して救い主が来ることでした。(創世記3:15)だから、彼らは神様に従う子供たちを望んでいました。

さらに、神様の計画によれば、親たちを通して子供たちは神様がどのような方であるかを知り、どうやって神様と強い関係を築くことができるかを学ぶのです。

しかし、離婚は子供にとても悪い影響を与えます。離婚は子供の結婚観や神様に対する考え方を歪めてしまいます。

神様はご自身を私たちの天の父として示されます。けれども、離婚の場合、多くの子供たちはそれを正しく理解することができません。なぜなら、彼らは自分の父親とほとんど会うことができないからです。

そのため、「神様は私たちの天の父だ」と聞いた時、悪いイメージを抱いてしまいます。彼らは「神様は約束を守らない。私が神様を必要とする時、神様は決してそこにいない」と感じるのです。

そして、神様は離婚についてご自身の感情を明確に語られます。

「わたしは、離婚を憎む」とイスラエルの神、主は仰せられる。(16)

新改訳聖書において、次の言葉はこのように訳されています

「わたしは、暴力でその[夫の?]着物をおおう」と万軍の主は仰せられる。(16b)

その翻訳は、少しわかりにくいかもしれません。けれども、おそらく、その意図するところは、神様がその夫を裁くことだということでしょう。

一方、口語訳は英語の翻訳により近いものとなっています。

(わたしは、)しえたげ(つまり、虐げ/暴力)をもってその衣をおおう人を憎むと、万軍の主は言われる。(16b)

どの翻訳においても、神様の要点は非常に明確であると言えます。神様は離婚を憎まれます。姦淫を憎まれます。妻への虐待を憎まれます。そして、妻を裏切ることをも憎まれます。

興味深い点として、神様は妻ではなく夫を責められることがあります。おそらく、その理由の一つは、その時代において夫だけが離婚を行う権利を持っていたからでしょう。

けれども、もう一つ別の理由として考えられるのは、神様が結婚を守る主な責任を夫に託しておられるということです。聖書を通じて、この原則を見いだすことができます。ペテロは次のように書きました。

同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。

それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。(第一ペテロ2:16)

マラキの時代、夫たちは妻を離婚したり、妻を虐待したりしていた可能性があります。そのため、神様は彼らを厳しく叱責されました。

あなた自身はいかがでしょうか。あなたは妻を裏切るような行為をしていませんか。また、あなたは夫を裏切るような行動を取っていませんか。

私たちの伴侶に忠実でいましょう。そして、私たちを結び合わせてくださる神様に誠実に歩み続けましょう。

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マラキ書

祭司としてのあなたの役割

あなたはこのタイトルを見て、「私は祭司じゃない。この箇所は私には無関係だ」と思うかもしれません。

けれども、もしあなたがクリスチャンであるならば、あなたは神様の祭司です。ペテロは私たちについて次のように語りました。

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。

それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。(第一ペテロ2:9)

だから、クリスチャンとして、マラキ書2章は私たちにも深く関連があります。

この箇所で、神様は祭司たちを責められました。なぜなら、彼らは神様から与えられた務めを忠実に果たしていなかったからです。

しかし、他のユダヤ人と同様に、彼らの最大の問題は、自分の人生で神様を敬わなかったことにありました。

それにもかかわらず、彼らは祭司であったため、神様は特に厳しく彼らを責められました。祭司として、彼らには他のユダヤ人よりも大きな責任があったのです。

その中で、神様は祭司たちと結んだ契約について語られました。その契約は「いのちと平和である」契約でした。(申命記25:12-13)

そして、神様は彼らにこう言われました。

わたしの彼との契約は、いのちと平和であって、わたしは、それらを彼に与えた。それは恐れであったので、彼は、わたしを恐れ、わたしの名の前におののいた。

彼の口には真理の教えがあり、彼のくちびるには不正がなかった。平和と公正のうちに、彼はわたしとともに歩み、多くの者を罪から立ち返らせた。

祭司のくちびるは知識を守り、人々は彼の口から教えを求める。彼は万軍の主の使いであるからだ。(マラキ書2:5-7)

神様の祭司として、神様は私たちに何を求めておられるのでしょうか。神様は私たちにその答えをはっきりと教えてくださいます。

まず第一に、私たちは神様を恐れ、神様の名前におののくべきだということです。つまり、私たちは神様を深く敬うべきなのです。

確かに、神様は私たちを友と呼んでくださいますが、神様は私たちの友達だけではありません。昨日のブログで述べたように、神様は私たちの王であり主でもあります。

クリスチャンの牧師ゴードン・マクドナルドはこう語りました。「私が少しでも神様を恐れることをやめた時、最悪の罪を犯してしまいました。」

神様の祭司として、私たちはそのようになってはいけません。

第二に、私たちは平和と公正のうちに神様と共に歩むべきだということです。このことは、第一のポイントから自然に導かれます。もし私たちが神様を深く敬うならば、平和と公正のうちに神様と共に歩むことができるでしょう。

残念ながら、マラキの時代の祭司たちはそうしませんでした。彼らは神様を恐れることをやめてしまったため、自分たちの要らなくなった足の不自由なものや病気のものをいけにえとして捧げました。

では、神様の祭司として、私たちの役割は何でしょうか。

それは、周りの人々に神様の道を教えることです。私たち自身がその道を歩むことで、周りの人々が私たちの生き方を通して神様を見ることができるようになるはずです。また、彼らが私たちを通じて神様の御教えを求めるようになるでしょう。

けれども、私たちが神様を深く敬わなければ、彼らはそのようにはしないでしょう。

さらに、私たちの唇は神様の言葉を守るべきです。

ただし、私たちが神様の言葉を知らなければ、そうすることはできません。だからこそ、私たちは神様の言葉を学び続ける必要があります。その結果、私たちは知っていることを周りの人々と分かち合うことができます。

この役割は牧師だけのものではありません。あなたも神様の祭司ですから、それはあなた自身の役割でもあります。

そして、私たちは周りの人々を罪から立ち返らせるべきです。彼らが罪に陥り、悪い道を進んでいる時、私たちはそれを見て見ぬふりをしてはなりません。私たちは彼らに警告を与えるべきです。

彼らがその警告を受け入れるかどうかは分かりません。場合によっては無視されるかもしれません。それでも、神様は私たちが彼らに警告を与えることを命じておられます。(エゼキエル記33:7-9)

マラキの時代の祭司たちは大いに失敗しました。彼らはユダヤ人を罪から立ち返らせず、神様の道を教えませんでした。むしろ、彼らの教えによってユダヤ人はつまずいてしまいました。

さて、あなた自身はどうでしょうか。あなたはどのような祭司でしょうか。

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神様が値するもの

この箇所で、私たちはユダヤ人の主な問題を目にします。その問題はユダヤ人のすべての行動に影響を与えました。

では、その問題は何だったのでしょうか。それは、彼らが神様を敬わなかったことです。神様に対する畏れを全く持っていませんでした。神様は大いなる方であり、大いなる王であるにもかかわらず、ユダヤ人はそのようには考えていなかったのです。

そのため、神様は彼らにこう問いかけられました。

子は父を敬い、しもべはその主人を敬う。もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしへの尊敬があるのか。もし、わたしが主人であるなら、どこに、わたしへの恐れがあるのか。(マラキ書1:6)

驚くべきことに、祭司たちはこう尋ねました。「一体何を言っているのでしょうか。どのように私たちはあなたを敬わなかったのでしょうか。どのように私たちはあなたの名前を軽んじたのでしょうか。」

おそらく、彼らはこう考えたのでしょう。「私たちはきちんと仕事をしている。いけにえも捧げている。やるべきことはやっている。この上、神様は一体何を求めておられるのだろう。」

けれども、神様はこう答えられました。

あなたがたは、盲目の獣をいけにえにささげるが、それは悪いことではないか。足のなえたものや病気のものをささげるのは、悪いことではないか。

さあ、あなたの総督のところにそれを差し出してみよ。彼はあなたをよみし、あなたを受け入れるだろうか。――万軍の主は仰せられる――(8)

神様は律法をモーセとイスラエルの民に与えた際、いけにえには傷のない健康な動物を求められました。

ところが、ユダヤ人は神様を敬わず、自分たちが要らない足の不自由なものや病気のものをいけにえとして捧げました。

そのため、神様はこう言われました。

「あなた方は、総督を私以上に敬っている。私はあなたの王であるにもかかわらず。あなたの総督は最も良い物しか受け入れないのに、どうして私がこのような劣った物を受け入れると思うのだろうか。」

それに対し、ユダヤ人はこう言いました。

主の食卓は汚れている。その果実も食物もさげすまれている。。。見よ。なんとうるさいことか。(12-13)

彼らは愛を持って捧げ物をすることはありませんでした。むしろ、捧げ物をすることは彼らにとって面倒な義務となっていました。その結果、彼らは神様を敬わず、その行動によって神様を軽んじました。

しかし、神様は彼らにこう言われました。

わたしが大いなる王であり、わたしの名が諸国の民の間で、恐れられているからだ。(14)

あなた自身はどうでしょうか。神様についてどのように考えているでしょうか。私たちは、神様との関係の中でバランスを取ることが必要です。

イエス様は、「わたしはあなたがたを友と呼びました」と語られました。(ヨハネ15:15)

多くのクリスチャンにとって、その真実は心を打つものです。王の友となることは素晴らしい特権です。

けれども、私たちはイエス様が大いなる王であることを忘れてはなりません。イエス様は私たちの王として、私たちの敬いを受けるにふさわしい方です。

ですから、私たちは最も良いものをイエス様に捧げるべきです。それは、私たちのお金だけではなく、私たちの時間や人生も含まれます。

あなたは、神様に何を捧げているでしょうか。神様がふさわしいとされる敬いを捧げているでしょうか。

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マラキ書

神様の愛を疑う

マラキ書は旧約聖書におけるイスラエルの歴史の締めくくりとなる書です。

以前述べたように、マラキ書が正確にいつ書かれたのかは明確ではありません。けれども、主の宮が建て直された後に書かれたものと考えられます。したがって、おそらくマラキ書はエズラとネヘミヤの時代に記されたものでしょう。

エズラ記とネヘミヤ記を通して、私たちはイスラエルの民が直面していた多くの問題を読みました。特に、ネヘミヤ記13章では彼らの抱えていたさまざまな問題が詳しく描かれています。

マラキも、これらの問題についてイスラエルの民を責めました。

その冒頭で、神様は非常に印象的な言葉を語られます。

わたしはあなたがたを愛している。(マラキ書1:2)

私たちの多くは愛を求めています。残念なことに、多くの人々はその愛を決して見つけることができません。

しかし、もし神様を求めるならば、それはただの愛ではなく、永遠に続く絶えることのない愛を見つけることができるでしょう。

わたしはあなたがたを愛している。

あなたがどんな苦しみを抱えていても、どんな罪を犯していても、どんな失敗をしていても、神様の愛は決して変わることはありません。

神様は過去においてもあなたを愛していました。

現在も、神様はあなたを愛しています。

そして、これからも永遠に、神様はあなたを愛し続けられるのです。

けれども、イスラエルの民はそのことを理解していませんでした。そのため、彼らは皮肉っぽく答えたのです。

どのように、あなたが私たちを愛されたのですか。(2)

どうして、彼らはその質問をしたのでしょうか。それは、神様が彼らをご自身の国に導いたにもかかわらず、彼らの人生はまだ上手くいっていなかったからです。

ペルシャ帝国が依然としてイスラエルを支配しており、イスラエルの地はあまり繁栄していませんでした。彼らの作物の収穫は乏しく、日々の生活は余裕のない厳しいものでした。

私たちもどれほど神様の愛を疑うでしょうか。

「もしあなたが私を愛しておられるなら、なぜ私はこんなにも苦しまなければならないのでしょう。もしあなたが私を愛しておられるなら、なぜ私の人生はこんなにみじめなのでしょう。」

しかし、神様はご自身の愛を証明するために、イスラエルの民、そして私たちにこう言われます。

エサウはヤコブの兄ではなかったか。――主の御告げ――わたしはヤコブを愛した。わたしはエサウを憎み、彼の山を荒れ果てた地とし、彼の継いだ地を荒野のジャッカルのものとした。(2-3)

「エサウを憎み」というのはどういう意味でしょうか。神様が本当にエサウを憎んだのでしょうか。そうではありません。実際、神様はエサウを祝福されました。(創世記33:9)

とはいえ、神様がイエス様をこの世に送る計画を考えると、神様がエサウの家系ではなく、ヤコブの家系を選び、エサウの家系を断絶したことがわかります。

では、なぜでしょうか。ヤコブがエサウよりも良い人だったからでしょうか。

違います。実は、ヤコブは若い頃、詐欺師のような生き方をしていました。彼は神様の道を歩まず、自分勝手な道を選びました。(創世記25:27)

そして、その結果として悪い決断を重ね、自分の家を追われることになりました。

その時、神様はご自身をヤコブに現されました。それにもかかわらず、ヤコブは神様に自分の人生を捧げることをせず、神様と交渉しようとしたのです。(創世記28:20-22)

ヤコブは長い間、そのような生き方を続けました。それでも神様はヤコブを選び、愛し、彼の人生に働きかけ続けられました。

同じように、神様はイスラエルの民を愛されました。たとえ彼らが神様に不実であり、自分勝手な道を歩んでも、神様は彼らを愛し続けられました。

当然ながら、神様は彼らを懲らしめられました。そのため、彼らはバビロンに追放されました。けれども、彼らが破滅に値していたにもかかわらず、神様は彼らを憐れまれました。

一方、エサウの子孫も罪を犯し、破滅に値していました。しかし、エサウの子孫の場合、神様は彼らに彼らが値するものを与えました。すなわち、荒れ果てた地を与えられました。

神様が言われたのは次のようなことです。

「あなたに対する私の愛の証明を見たいのか。私はエサウの子孫には彼らが値したものを与えた。その一方、あなたには値するものを与えなかった。むしろ、あなたが値しない恵みを与えたのだ。」

私たちが神様の愛を疑う時、神様は同じことを言われます。私たちは神様の愛に値せず、また赦しにも値しません。しかし、神様は私たちが値しないにもかかわらず、イエス様を送り、私たちの罪のために死んでくださいました。

だから今、神様は私たちにこう語られます。「私はあなたを選んだ。私はあなたを救った。私は決してあなたを見捨てない。」

これが恵みです。これこそが神様の愛です。

パウロはこう言いました。

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。

神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。この恵みを、神は私たちの上にあふれさせ[た]。(エペソ1:4-8)