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イザヤ書

情け深い神、力ある神

この世界を造られた神が私を愛しておられることは、本当に不思議だと思います。言葉だけですべてを造られた神が私について考えておられることも、不思議だと思います。

この箇所では、そのような神を見ることができます。

イザヤはイスラエル人について話し、神様がどのように彼らを選ばれたかを教えています。イスラエルのエジプトでの経験について、イザヤはこう言いました。

彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。

その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。(イザヤ書63:9)

イザヤはイスラエル人について話しますが、私たちについても話しています。

私たちが苦しむ時、神様も苦しんでおられます。私たちが泣く時、神様も泣いておられます。

だから、私たちが罪に迷った時、神様はイエス様の死によって、私たちを贖い、救ってくださいました。そして、神様は私たちを背負い、抱いて来られました。今でも神様はそうしてくださいます。

それに、神様は力ある神です。イザヤはこう言いました。

私たちが予想もしなかった恐ろしい事をあなたが行なわれるとき、あなたが降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしょう。

神を待ち望む者のために、このようにしてくださる神は、あなた以外にとこしえから聞いたこともなく、耳にしたこともなく、目で見たこともありません。あなたは迎えてくださいます。喜んで正義を行なう者、あなたの道を歩み、あなたを忘れない者を。

ああ、あなたは怒られました。私たちは昔から罪を犯し続けています。それでも私たちは救われるでしょうか。(64:3-5)

神様は問題を解決する力を持っておられます。私たちを助ける力を持っておられます。

エジプトが大国だったのに、神様はイスラエル人をエジプトから救い出されました。神様のしるしと不思議を通して、イスラエルの敵は恐れました。

その同じ神が、私たちの人生の中でも働いておられます。神様に仕え、また神様を待ち望む私たちの中で、神様は働いておられます。

神様は情け深い神です。神様は力ある神です。

しかし、一つのものによって私たちは神様から離れます。そのものは、神様の祝福と助けを妨げます。それは、罪です。

神様がイスラエル人を救って祝福されたのに、彼らは神様に背き、御霊を悲しませました。だから、神様はイスラエル人をその敵の手に渡されました。

そのように、私たちの罪によって、私たちは神様から離れてしまいます。イザヤはこう言いました。

私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。

しかし、あなたの御名を呼ぶ者もなく、奮い立って、あなたにすがる者もいません。あなたは私たちから御顔を隠し、私たちの咎のゆえに、私たちを弱められました。(イザヤ書64:6-7)

私たちが神様を求めないなら、私たちの義でさえ不潔な着物のようになってしまいます。イザヤの文字通りの言葉によれば、私たちの義は不潔な月経布のようだと言っています。

そして、私たちは罪の結果を知っています。自分自身を罪に捧げるなら、結局滅びに至るのです。

赦しへの道は何でしょうか。それは、悔い改めです。罪に背を向け、神様の赦しに頼ることです。私たちの創造者を思い出し、神様を求めることです。そして、イザヤのように祈ることです。

しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。

主よ。どうかひどく怒らないでください。いつまでも、咎を覚えないでください。どうか今、私たちがみな、あなたの民であることに目を留めてください。(イザヤ書64:8-9)

そうすれば、もう一度、神様の情けと力を知ることができます。

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イザヤ書

救いの神、裁きの神

福音は両刃の剣です。福音は始めからそのようなものでした。

イエス様を受け入れるなら、福音は救いの方法となります。しかし、イエス様を拒絶するなら、それは裁きに導きます。この箇所では、救いと裁きの両方を見ることができます。

まず最初に、キリストが国々を裁く姿が描かれています。イエス様の着物は、神様に背く人々の血で赤く染められています。彼はこう言われます。

わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。それで、彼らの血のしたたりが、わたしの衣にふりかかり、わたしの着物を、すっかり汚してしまった。

わたしの心のうちに復讐の日があり、わたしの贖いの年が来たからだ。(イザヤ書63:3-4)

また、

わたしは、怒って国々の民を踏みつけ、憤って彼らを踏みつぶし、彼らの血のしたたりを地に流した。(6)

私たちがイエス様について考える時、だれもその絵を想像したくありません。けれども、パウロはこう言いました。

罪から来る報酬は死です。(ローマ6:23)

とはいえ、この同じ神は、救いの神でもあります。

イザヤは問いかけます。

エドムから来る者、ボツラから深紅の衣を着て来るこの者は、だれか。その着物には威光があり、大いなる力をもって進んで来るこの者は。(イザヤ書63:1)

神様は答えられます。

正義を語り、救うに力強い者、それがわたしだ。。。

わたしの贖いの年が来たからだ。わたしは見回したが、だれも助ける者はなく、いぶかったが、だれもささえる者はいなかった。

そこで、わたしの腕で救いをもたらし、わたしの憤りを、わたしのささえとした。(イザヤ書63:1,4-5)

その言葉は、パウロの言葉に似ています。

私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。

正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ書5:6-8)

誰も私たちを救えない時、また私たちが自分自身を救えない時、神様は人間としてこの世に来て、私たちの罪のために死なれました。

神様は私たちが良い人になるまで待っておられませんでした。なぜなら、私たちは自分自身を変えることができなかったからです。

だからこそ、私たちがまだ弱く罪人であった時、イエス様は私たちのために死んでくださいました。

今、私たちがするべきことはただ一つしかありません。それは、神様からの救いの賜物を受け取ることです。それこそが福音です。

しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ書6:23)

救いか裁き。私たち皆は選ばなければなりません。

あなたはどちらを選びますか?

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イザヤ書

新しい名前

あなたは自分の名前を変えたいと思ったことがありますか。私は子供の頃、そう思ったことがあります。

なぜなら、「Bruce」という名前は、たくさんの言葉と韻を踏むからです。例えば、「goose」「loose」「moose」「juice」などです。そのため、友達はいつも私をからかっていました。

ところで、イスラエル人もさまざまな名前で呼ばれていました。彼らが追放された時、周りの人々はイスラエル人を「見捨てられている人」と呼び、その国を「荒れ果てている国」と呼びました。

けれども、この箇所では、神様はこう言われました。

シオンのために、わたしは黙っていない。エルサレムのために、黙りこまない。その義が朝日のように光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまでは。

そのとき、国々はあなたの義を見、すべての王があなたの栄光を見る。あなたは、主の口が名づける新しい名で呼ばれよう。(イザヤ書62:1-2)

その新しい名前は何でしょうか。

あなたはもう、「見捨てられている」と言われず、あなたの国はもう、「荒れ果てている」とは言われない。

かえって、あなたは「わたしの喜びは、彼女にある」と呼ばれ、あなたの国は夫のある国と呼ばれよう。主の喜びがあなたにあり、あなたの国が夫を得るからである。(4)

神様がこう言われました。「あなたは私に捨てられたと思っているかもしれません。あなたの国が荒れ果てていると思っているかもしれません。しかし、ある日、私はもう一度あなたを喜びます。もう一度、あなたは私の愛する花嫁となるのです。」

そして、神様はこう言われました。

見よ。主は、地の果てまで聞こえるように仰せられた。「シオンの娘に言え。「見よ。あなたの救いが来る。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある」と。

彼らは、聖なる民、主に贖われた者と呼ばれ、あなたは、尋ね求められる者、見捨てられない町と呼ばれる。」(11-12)

つまり、「あなたは神様に捨てられた都市と呼ばれることはありません。むしろ、『神様の聖なる民』、『主に贖われたもの』、そして『尋ね求められるもの』と呼ばれるのです。」

神様は私たちにもそれらの名前を与えてくださいます。けれども、それらの名前は何を意味するのでしょうか。

神様の聖なる民。

聖なるというのは、神様のために聖別されたものという意味です。つまり、私たちは神様の尊い民です。

主に贖われたもの。

贖うというのは、失ったものをもう一度買い戻すという意味です。神様は私たちを造られたので、私たちは本来神様のものでした。しかし、私たちは自分自身を罪の奴隷として売り、サタンの国の囚人となりました。

それでも、神様は私たちを愛し、贖ってくださいました。神様はイエス様の十字架で流された血によって、私たちの罪の代価を支払われたのです。だからこそ、私たちはもう一度神様のものとなりました。

尋ね求められるもの。

私たちが罪に落ちた時、神様は私たちを捨てませんでした。むしろ、羊飼いが迷った羊を探すように、神様は私たちを探してくださいました。イエス様はこう言われました。

もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。(マタイ18:12)

そのように、イエス様は私たちを探してくださいました。イエス様はそのように私たちを愛しておられます。

あなたは神様に捨てられたと思いますか。拒絶されたと感じますか。神様はあなたのために新しい名前を用意されています。

「尋ね求められるもの。」

「贖われたもの。」

「尊い、聖別された者。」

「愛する花嫁。」

「神様の喜び。」

あなたがクリスチャンであるなら、それらはすでにあなたの名前です。神様に属する者として、それらはあなたの名前です。

だから、サタンの嘘を信じないでください。例えば、「神様はあなたを嫌っている」とか、「神様はあなたを見捨てた」などの嘘です。

神様はすでにあなたに新しい名前を与えてくださいました。その名前について深く考え、そして神様の愛に安心してください。

もし、あなたがまだクリスチャンでないなら、神様は今もあなたを尋ね求めておられます。あなたが誰であっても、どのように呼ばれていようとも、神様はあなたのために新しい名前を用意されています。あなたが神様に向かう時、その名前を受け取ることができます。

もしそうしたいと願うなら、この祈りを祈りましょう。

主よ、あなたの御言葉によれば、あなたは私を尋ね求めておられます。また、イエス様は十字架で私を贖ってくださいました。そのことを感謝します。どうか私の罪を赦してください。

私を清めてください。私の人生に来てください。私をあなたの花嫁としてください。私をあなたの喜びとしてくださいますように。毎日、私にあなたのことを教えてください。アーメン。

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良い知らせ

この世では多くの悪いニュースを耳にします。地震が起こり、犯罪が増え、戦争も絶えません。私たちがこうしたニュースを見ると、落ち込んでしまうのは自然なことです。

しかし、イエス様がこの世に来られた時、イザヤ書のこの箇所を引用されました。

神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。

捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年。。。を告げ「知らせるために。」。(イザヤ書61:1-2)

良い知らせ。それは、誰もが必要とするものです。多くの人々の心は傷ついており、罪に捕らわれています。また、多くの人々は暗闇の中で生きており、希望を見出せないでいます。

しかし、イエス様は彼らを解放するために来られました。

イエス様は、苦しむ者を慰めるために来られました。絶望の言葉を取り去り、彼らの口に賛美を満たすために来られました。

彼らの人生の灰の代わりに、頭の飾りを与えるために来られました。

そして、彼らを義の樫の木のように植えるために来られました。だからこそ、人生の嵐が襲っても、彼らは立ち続けることができます。また、彼らは神様の栄光のために生きるのです。(イザヤ書61:2-3)

イエス様は、彼らの人生の廃墟を建て直し、荒れ跡を復興するために来られました。(4節)

イエス様は、彼らを神様の祭司と仕える者にするために来られました。(6節)

イエス様は、彼らの恥を取り去り、彼らに永遠の遺産を与えるために来られました。それは、「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない」遺産です。(第一ペテロ1:4、イザヤ書61:7)

イエス様は、私たちに救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせるために来られました。

イエス様の血によって、私たちは義と認められます。また、聖霊の働きによって、私たちは毎日少しずつ聖くなっていきます。

良い知らせでしょうか。それは、なんと素晴らしい知らせでしょう!だからこそ、その知らせを周りの人々に伝えましょう。

イザヤが言ったように、

良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる」とシオンに言う者の足は。(イザヤ書52:7)

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神様の愛を反映する

イザヤ書60:1ー3が大好きです。

起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。

見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。

しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現われる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。(イザヤ書60:1~3)

「国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。」

「あなたの光」、「あなたの輝き」というのはどういう意味でしょうか。

一節には、「あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いている」と書かれています。

そのため、「あなたの光」とは神様を指しているのでしょうか。つまり、国々は直接主のもとへ来るということなのでしょうか。

それとも、私たちが主を反映する存在であるために、国々は私たちのところに来るのでしょうか。

おそらく、そのどちらも真実なのではないでしょうか。

イエス様の栄光が私たちの上に輝いているため、周りの人々はそれに気づき、私たちに興味を持つようになります。そして、私たちを通して彼らもイエス様を知りたいと思うようになります。

この世には、悪と罪が満ちています。そのため、多くの人々は暗闇に迷い込み、「この世にあって望みもなく、神もない人たちでした」(エペソ2:12)とあるような状態にあります。

けれども、イエス様がこの世に来られた時、その暗闇の中でイエス様は光となりました。イエス様は希望の光でした。

そして今、イエス様はその希望の光を私たちの心に照らしてくださいました。ですから、私たちはそのいただいた光をこの世に反映するように召されています。

私たちの贖いと救いを喜ぶことは、確かに良いことです。しかし、神様は私たちが神様の光をこの世に照らすように召されています。なぜなら、神様はこの全世界の人々が、私たちが与えられた喜びを知ることを望んでおられるからです。

イエス様はこう言われました。

あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。

このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイの福音書5:14-16)

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イザヤ書

神様は遠くにおられるのでしょうか。

時々、人々はこう尋ねます。「神様はどこにおられるのでしょうか。私には神様が見えません。この世にある悪しか目に入りません。」

神様は確かにここにおられます。けれども、私たちの心の中に罪があるため、神様を見るのが難しいことがあります。イザヤはこう語りました。

見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。

あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。(イザヤ書59:1-2)

神様を見たいと思いますか。あなたが悔い改めるなら、神様はあなたの罪を赦し、あなたの心を清めてくださいます。そして、その結果、神様を見ることができるようになります。

イエス様はこう言われました。

心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。(マタイ5:8)

神様は聖なる方であり、罪を見ることができません。そのため、私たちの心の中に悔い改めていない罪があるならば、私たちは神様から遠ざかってしまいます。

しかし、自分の罪に取り組むのではなく、多くの人々は言い訳をしてしまいます。イザヤは次のように語りました。

むなしいことにたより、うそを言い、害毒をはらみ、悪意を産む。(4)

また、

彼らの足は悪に走り、罪のない者の血を流すのに速い。

彼らの思いは不義の思い。破壊と破滅が彼らの大路にある。彼らは平和の道を知らず、その道筋には公義がない。

彼らは自分の通り道を曲げ、そこを歩む者はだれも、平和を知らない。

それゆえ、公義は私たちから遠ざかり、義は私たちに追いつかない。私たちは光を待ち望んだが、見よ、やみ。輝きを待ち望んだが、暗やみの中を歩む。

私たちは盲人のように壁を手さぐりし、目のない者のように手さぐりする。真昼でも、たそがれ時のようにつまずき、やみの中にいる死人のようだ。(7-10)

この世界を見渡すと、私たちはそのような現実にどれほど頻繁に直面していることでしょうか。人々は罪を善と呼び、神様が定めた罪を良いこととして受け入れ、それを喜びます。

けれども、結局のところ、私たちは暗闇に迷い込んで、「どうしてこの世はこんなに混乱してしまったのだろうか」と問いかけます。

その理由は明白なのに、私たちにはその理由が見えていません。それは、私たちが良い神を拒絶し、罪を愛しているからです。その結果、この世はますます悪くなり、崩れていっています。

それでも、私たちが罪人であっても、神様は私たちを見捨てることはありませんでした。

主はこれを見て、公義のないのに心を痛められた。主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。

そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。主は義をよろいのように着、救いのかぶとを頭にかぶり「ました。」(15-17)

約2000年前、イエス様はこの世に来られ、私たちの罪のために十字架で死なれました。そのため、もし私たちが悔い改め、イエス様に立ち返るならば、私たちは赦され、自由にされるのです。それは、まさに良い知らせです。

しかし、悪い知らせもあります。それは、もし私たちが神様に向かわないならば、神様の裁きを受けるということです。

主は彼らのしうちに応じて報い、その仇には憤りを報い、その敵には報復をし「ます」(18)

だから、どうか待たないでください。今日は救いの日です。今、この瞬間に神様に向かいましょう。

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虚しい宗教

神様は虚しい宗教に全く感動されません。ミカ書6章では、神様がそのことについて語られています。そして、この箇所でも、同じテーマが語られています。

この箇所では、イスラエルの民が神様に対して文句を言いました。

なぜ、私たちが断食したのに、あなたはご覧にならなかったのですか。私たちが身を戒めたのに、どうしてそれを認めてくださらないのですか。(イザヤ58:3)

外見だけを見ると、それが正当な文句のように思えるかもしれません。なぜなら、

彼らは日ごとにわたしを求め、わたしの道を知ることを望んでいる。義を行ない、神の定めを捨てたことのない国のように、彼らはわたしの正しいさばきをわたしに求め、神に近づくことを望んでいる。(2)

けれども、神様は私たちの断食や祈り、宗教的な行動だけをご覧になっているわけではありません。神様は私たちの人生のすべてを見ておられます。

それゆえ、神様はイスラエルの民にこう言われました。

見よ。あなたがたは断食の日に自分の好むことをし、あなたがたの労働者をみな、圧迫する。見よ。あなたがたが断食をするのは、争いとけんかをするためであり、不法にこぶしを打ちつけるためだ。

あなたがたは今、断食をしているが、あなたがたの声はいと高き所に届かない。

わたしの好む断食、人が身を戒める日は、このようなものだろうか。葦のように頭を垂れ、荒布と灰を敷き広げることだけだろうか。これを、あなたがたは断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか。

わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。

飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。(3-7)

つまり、「あなたが祈り、断食をするとき、霊的な人々のように見えるかもしれません。しかし、それ以外のときに自分自身のためだけに生きているなら、あなたの断食と祈りは無意味です。

あなたの周りには多くの人々が悩んでいるのに、あなたが彼らを無視しているなら、そのような生き方では、私にとってあなたの断食と祈りは意味をなしません。」

一方で、あなたが周りの人々に手を差し伸べるならば、

。。。暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光が、あなたのしんがりとなられる。

そのとき、あなたが呼ぶと、主は答え、あなたが叫ぶと、「わたしはここにいる」と仰せられる。。。

あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる。

主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。

あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。(8-11)

多くの人々は「日曜日クリスチャン」です。つまり、彼らは日曜日には教会に行くけれど、それ以外の日には自分自身のために生きています。

イスラエルの民も、安息日に神様を礼拝していたかもしれませんが、他の日には自分自身のために生きていました。実際、多くの場合、安息日ですら彼らは自分のために生きていたのです。

そのため、神様は彼らにこう言われました。

もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を「喜びの日」と呼び、主の聖日を「はえある日」と呼び、これを尊んで旅をせず、自分の好むことを求めず、むだ口を慎むなら、そのとき、あなたは主をあなたの喜びとしよう。(13-14)

ですから、日曜日には自分自身のために生きるのではなく、その日を神様を敬うために過ごしましょう。

あなたはどうでしょうか。あなたの信仰は虚しいものでしょうか。それとも、神様と他の人々への愛が、あなたの心に豊かに満ちているでしょうか。

神様は、私たちの宗教的な形式や習慣を望んでおられるわけではありません。神様が望んでおられるのは、私たちの愛です。そして、私たちが周りの人々を愛し、彼らに仕えることを望んでおられます。

あなたはどのような信仰を持っていますか。

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平和へと導く道

神様は、反抗したイスラエルの民を叱った後、へりくだっている人々に憐れみを注がれました。そして、神様はこう言われました。

盛り上げよ。土を盛り上げて、道を整えよ。わたしの民の道から、つまずきを取り除け。(イザヤ書57:14)

この箇所では、神様は追放されたイスラエルの民がバビロンから帰還することを預言しています。それゆえ、神様はこう言われました。

「私の民の帰還のために道を整えよ。つまずきを取り除きなさい。」

そして、神様はクロス王の心を動かし、彼がイスラエルの民を自分の国に帰らせました。

しかし、この預言には二つ目の意味もあるのではないでしょうか。つまり、イスラエルの民が神様のもとに帰る道にもつまずきがありました。そして、神様ご自身がそのつまずきを取り除かれたのです。

神様は、私たちが義人になるのを待たれていたのではありません。それどころか、その前にイエス様をこの世に送り、イエス様が私たちの罪のために十字架で死なれました。

その働きによって、私たちは赦され、神様との関係が回復されたのです。

では、私たちはどうすればよいのでしょうか。へりくだって悔い改めましょう。そうすれば、神様は私たちにこう言われます。

いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。

「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。

わたしはいつまでも争わず、いつも怒ってはいない。わたしから出る霊と、わたしが造ったたましいが衰え果てるから。

彼のむさぼりの罪のために、わたしは、怒って彼を打ち、顔を隠して怒った。しかし、彼はなおそむいて、自分の思う道を行った。

わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。わたしは彼を導き、彼と、その悲しむ者たちとに、慰めを報いよう。

わたしはくちびるの実を創造した者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼をいやそう」と主は仰せられる。(イザヤ書57:15-19)

わたしはいつまでも争わず、いつも怒ってはいない。

私はその言葉が大好きです。多くの人々は神様を恐れ、罪を犯すと神様からの罰を待っています。

しかし、悔い改めるならば、神様はすぐに赦してくださいます。神様は私たちを義の道に導き、慰め、そして私たちの傷を癒してくださいます。その結果は――

平和です。

それでも、多くの人々は自分の道の虚しさに気づきません。そのため、彼らは自分の心を頑なにし、悔い改めることなく、自分の道を歩み続けます。

神様はそのような人々について、こう言われます。

しかし悪者どもは、荒れ狂う海のようだ。静まることができず、水が海草と泥を吐き出すからである。

「悪者どもには平安がない」と私の神は仰せられる。(20-21)

あなたはどうでしょうか。あなたの心には平和がありますか。神様があなたの罪を赦してくださった平和を持っていますか。神様がもうあなたに対して怒っておられないことを、本当に知っていますか。

へりくだった心の平和を経験したことがありますか。悔い改めた心の平和を味わったことがありますか。あなたは自分自身の道を離れ、神様の道を歩んでいますか。それは平和へと導く道です。

あなたは、どの道を選びますか。

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希望のないものをすがる

ある日、私の友人がこう訊きました。「どうしてサタンは戦い続けているのでしょうか。彼はすでに負けたと分かっているはずなのに。なぜ諦めないのでしょうか。」

また、他の人々はこう尋ねます。「どうしてサタンは悔い改めないのでしょうか。彼は悔い改めることができるのでしょうか。」

これは興味深い質問ですが、正直に言えば、私にはその答えが分かりません。

私の考えとしては、サタンは悔い改めることが理論的には可能かもしれませんが、決してそうしないと思います。彼は長い間神様に反抗し続け、その結果、彼の心が固くなりすぎているのだと感じます。

とはいえ、これはサタンだけの問題ではありません。人間もまた、そのような態度を取ることがあります。この箇所では、私たちはそのような態度を見ることができます。

イスラエルの民は神様に背を向けたため、追放されました。(実際にはそれは預言ですが、イザヤはまるでイスラエルの民がすでに追放されたかのように語っています。)

彼らは長い間、偶像を礼拝し続けましたが、その礼拝の虚しさを目の当たりにしても、悔い改めることを拒みました。

イザヤはイスラエルの民について、こう言いました。

あなたは、長い旅に疲れても、「あきらめた」とは言わなかった。あなたは元気を回復し、弱らなかった。

あなたは、だれにおじけ、だれを恐れて、まやかしを言うのか。あなたはわたしを思い出さず、心にも留めなかった。

わたしが久しく、黙っていたので、わたしを恐れないのではないか。(イザヤ書57:10-11)

10節はイザヤ書40:29-31に少し似ています。けれども、イザヤは40章の言葉を少し変えています。

40章では、神様はこう言われました。

主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。(イザヤ書40:31)

この箇所では、残念なことに、イスラエルの民は自分の罪によって疲れ果て、希望のない状況を目の当たりにしても、「諦めた」とは言いませんでした。

それどころか、彼らは自分の罪にしがみつき、それによって元気を回復しようとしました。しかし、最終的に彼らはその罪のために滅びてしまいました。

では、あなたはどうでしょうか。希望がないにもかかわらず、自分の道を歩み続けていますか。

どうか、あなたの心を頑なにせず、自分自身の道を捨てて、神様の道を歩んでください。あなたの道は死へと導きますが、神様の道は命へと導きます。

どの道を選びますか。

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なぜ、義人は滅びるのか

私の父は、2011年に亡くなりました。その最後の週、私の家族は父のベッドの隣で見守っていました。

実は、私の心はその日のために約10年間準備していました。なぜなら、父の心臓は弱かったからです。それに、彼は糖尿病を患っており、他にもいくつか健康上の問題がありました。父がこれほど長く生きてくれたことは、私にとって驚きでもありました。

幸いなことに、父が亡くなったとき私はハワイにいました。私はずっと日本に住んでいるので、いつも心配していたのは、ある日突然、姉から「父が亡くなったよ」と電話で知らせを受けることでした。

けれども、神様のタイミングと御心によって、父が亡くなったとき、私はハワイにいることができました。

それはもちろん辛い出来事でしたが、それでもやはり、私はハワイにいられて本当に良かったと思います。

時々、人々は「どうして私たちは死ななければならないのだろうか」と尋ねます。

この箇所で、神様はその答えを私たちに示してくださいます。

義人が滅びても心に留める者はなく、誠実な人が取り去られても、心を向ける者もいない。

まことに、義人はわざわいから取り去られて、平安に入り、まっすぐに歩む人は、自分の寝床で休むことができる。(イザヤ書57:1-2)

この世界は死にかけています。この世界は罪によって堕落してしまいました。そのため、私たちは地震や他の天災を目にするだけでなく、罪に堕ちた人々の姿も目の当たりにしています。このように、この世の人々は壊れてしまいました。

そのような状態で、あなたはいつまでも生き続けたいと思うでしょうか。私はそう思いません。

私の父は、悪い健康状態に苦しんでいました。そのため、私は父がそのままの状態で長く生き続けることを望みませんでした。しかし、神様が父を御許に迎えてくださったことに、私は感謝しています。

もちろん、私は寂しい気持ちがあります。それでも今、父はもっと良い場所にいます。壊れて死にかけていた父の体は新しくされます。

さらに、父には今、平和があります。父は安らかに休んでいます。そして、父はイエス様の顔を見ているのです。そのことを考えると、私は少しうらやましい気持ちさえ抱きます。

私の言葉を誤解しないでください。すぐにこの世を離れたいと思っているわけではありません。天国に行ったら、私が喜んで手放すものがたくさんあります。苦しみ。痛み。罪。

そして、神様のタイミングが来たら、私は喜んで天国に行きます。

私が亡くなる時、私の墓石にこの言葉を書いてほしいです。

「ブルースのために泣かないでください。ブルースはこのお墓にいないから。」

イエス様の十字架の働きを信じる人々にとっては、死は本当にとげがないです。(第一コリント15:55)

あなたはどうですか。死のために準備しているでしょうか。

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リーダーって?

私たち全員、悪いリーダーに出会ったことがあると思います。そのような人々は、リーダーの役割を担わない方が良いでしょう。残念なことに、イスラエルには多くの悪いリーダーがいました。

この箇所で、神様はそのリーダーたちを厳しく責められます。

野のすべての獣、林の中のすべての獣よ。食べに来い。見張り人はみな目が見えず、知ることがない。

彼らはみな口のきけない犬、ほえることもできない。あえいで、横になり、眠りをむさぼる。この貪欲な犬どもは、足ることを知らない。

彼らは、悟ることも知らない牧者で、みな、自分かってな道に向かい、ひとり残らず自分の利得に向かって行く。

「やって来い。ぶどう酒を持って来るから、強い酒を浴びるほど飲もう。あすもきょうと同じだろう。もっと、すばらしいかもしれない。」(イザヤ書56:9-12)

悪いリーダーとは、どのようなリーダーでしょうか。

彼らは、何が起こっているのかを見えていません。

周りの人々のニーズが見えず、さらには先に待ち受けるトラブルにも気づきません。そのため、トラブルが発生すると、驚き、どう対応すれば良いのか分からなくなります。

彼らには知識や知恵が欠けています。

何をしているのか分からないリーダーを見たことがあるかもしれません。また、知恵を使わずに行動することもあります。たとえ正しいことをしようと試みたとしても、リーダーシップに必要な知識と知恵を求めようとはしません。

その結果、彼らは繰り返し愚かな決断を下してしまいます。

トラブルが起きても、彼らは何も言いません。

トラブルが訪れても、彼らは警報を鳴らさず、その問題を解決するために何もしません。むしろ、彼らはその問題を無視し、「何とかなるだろう」と楽観的に考えます。しかし、結局それは現実離れした希望に過ぎません。

彼らは怠惰であり、自分自身のためだけに生きています。

彼らは周りの人々に仕えることなく、むしろ周りの人々が自分に仕えることを期待します。

他人のニーズには無関心であり、自分自身のニーズばかりを考えています。彼らは自分が満足している一方で、彼らの後輩たちは飢えています。

私たちのリーダーたちを批判するのは容易なことです。けれども、あなた自身はどうでしょうか。

あなたはどのようなリーダーですか?あなたの家族に対しては?あなたの子供に対しては?あなたの教会の人々に対しては?そして、あなたを見上げる人たちに対しては?

あなたは、自分が良いリーダーであると言えるでしょうか。神様は、あなたに何を語っておられるでしょうか。

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差別のない救い

旧約聖書の時代、主の宮での礼拝は非常に排他的でした。そのことは、モーセ五書(創世記から申命記まで)に詳しく記されています。

例えば、祭司だけが宮の聖所に入ることができ、大祭司だけが至聖所に入ることを許されていました。しかも、大祭司が至聖所に入るのは、年に一度だけでした。

さらに、他にも厳しいルールがありました。たとえば、もし祭司たちが睾丸を損傷していたり、身体に欠陥があれば、聖所や至聖所に入ることはできませんでした(レビ記21:16-24)。

また、旧約聖書と新約聖書の時代には、宮の中で女性や外国人が立ち入ることのできない区画も存在しました。

しかし、この箇所では、神様が「ある日、そのような差別は終わる」と約束されています。神様はこう宣言されました。

主に連なる外国人は言ってはならない。「主はきっと、私をその民から切り離される」と。

宦官も言ってはならない。「ああ、私は枯れ木だ」と。

まことに主はこう仰せられる。「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶ事を選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、わたしの家、わたしの城壁のうちで、息子、娘たちにもまさる分け前と名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。

また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった外国人がみな、安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。

彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。(イザヤ書56:3-7)

つまり、どんな人であっても、神様を求めるならば、神様はその人を受け入れてくださいます。

神様の目には、誰も二流市民などではありません。ユダヤ人でも、アメリカ人でも、日本人でも、神様はあなたを愛する子として迎え入れてくださいます。

パウロはこう書きました。

あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。

ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。(ガラテヤ3:26-28)

神様の国で、あなたが二流市民だと感じることがあるでしょうか。

心に留めておきましょう。たとえあなたが誰であっても、過去に何をしていたとしても、神様の目には二流市民など存在しません。

人種や性別、またはこれまでの履歴に関係なく、神様はあなたに恵みを注いでくださいます。ですから、その真理の中で安心しましょう。

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充実した人生

古いロックの歌詞にこんな一節があります。

「私は決して満足していない。」

多くの人々がこの言葉に共感します。彼らは「努力しても、努力しても、」決して満足できません。

それは、彼らが求めているものが虚しいものであり、結果として空虚さを感じてしまうからです。

けれども、この問題は現代に始まったものではありません。古くから人々は充実した人生を求めてきましたが、それを見つけることができませんでした。

イザヤの時代においても、同じ問題がありました。そのため、神様はこう語っておられました。

ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。

さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。

なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのか。

わたしに聞き従い、良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう。

耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。(イザヤ書55:1-3)

多くの人々は、食べ物や飲み物、またさまざまな物を手に入れるためにお金を使います。そのために彼らは夜遅くまで働き、「もしその物を買うことができたら、私は満たされるだろう」と考えます。

しかし、神様はこう言われます。

「あなたはお金を無駄にしているのです。その物を得るために時間とお金を費やしても、それらはあなたを満たすことはありません。一方で、わたしが与えるものを受け取れば、真の満足と真の命を得ることができます。」

では、どこで真の満足を見つけることができるのでしょうか。イザヤはこう語ります。

主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。

悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。

そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。(6-7)

つまり、すべての物よりも、命を与える神を求めなくてはなりません。自分自身の道を捨て、悔い改めてください。そうすれば、赦しと真の命を得ることができます。

多くの人々は自分の道を歩み続けます。その道が幸せに導くと信じているからです。

彼らは神様の道を選ぼうとしません。なぜなら、神様が彼らの喜びを取り去ろうとしていると誤解しているからです。けれども、神様はこう言われました。

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ――

天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。

雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。

そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。

まことに、あなたがたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。(8-12)

神様は何を言われているのでしょうか。

「あなたは自分の思いや道が最善だと思っているかもしれません。しかし、私の思いと道はそれよりもはるかに高いのです。あなたには見えないものが、私には見えています。あなたが理解できないことも、私はすべて理解しています。

そして、雨と雪が天から降り、植物を育て、芽を出させ、種を蒔く者には種を与え、人々を祝福するように、私の言葉もまた、あなたのために私が望むことを必ず成し遂げるのです。

ですから、私を信頼し、私に従いなさい。そうすれば、あなたは祝福され、さらに周りの人々も祝福されるでしょう。」

その結果は何でしょうか。それは、喜びと平和に満たされた人生です。さらに、充実感あふれる人生です。

あなたはどのように生きているでしょうか。虚しいものを追い求めているでしょうか。もしそうであれば、結果として虚しい人生を手にすることになるでしょう。

そうしないでください。あなたには本当の満足を見つける方法があります。

そのためには、自分自身のプランやプライドを捨てる必要があります。

そして、謙虚な心を持って神様の前に出て、「あなたに信頼します。毎日あなたを求めます。あなたの道を学びたいので、私に教えてください」と祈りましょう。

そうすれば、あなたの結婚や仕事、人生において、本当の満足を見つけることができるでしょう。

あなたはどの道を選びますか。

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和解

聖書では、神様はイスラエルを浮気性の妻にたとえることがよくあります。それでも、神様は忠実な夫として、いつもイスラエルを追い求め続けておられました。

それは本当に不思議なことだと思います。もし私の妻が浮気したら、私はどう対応するか自信がありません。もし彼女がいつも他の男性を追い求めていたら、私は何をすれば良いのか分からないでしょう。

それでも、イスラエルの民がいつも他の神々を追い求めたにもかかわらず、神様は彼らを見捨てることなく、追い求め続けておられました。

そして、この箇所で神様は、イスラエルに祝福を与えると約束されています。

つまり、イスラエルの民が追放され、捨てられた妻のような存在であり、さらに子どものいない妻であったにもかかわらず(当時のイスラエル文化では、それは大変な恥とされていました)、神様は彼らと和解されたのです。

神様は彼らにこう語られました。

あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の主。あなたの贖い主は、イスラエルの聖なる方で、全地の神と呼ばれている。

主は、あなたを、夫に捨てられた、心に悲しみのある女と呼んだが、若い時の妻をどうして見捨てられようか」とあなたの神は仰せられる。

「わたしはほんのしばらくの間、あなたを見捨てたが、大きなあわれみをもって、あなたを集める。

怒りがあふれて、ほんのしばらく、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ」とあなたを贖う主は仰せられる。(イザヤ書54:5-8)

そして、神様はこう言われました。

たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」とあなたをあわれむ主は仰せられる。(10)

この世界では、愛はとても揺れやすいものです。愛はすぐに崩れることがあります。

夫が妻を捨てることもあれば、妻が夫を捨てることもあります。

しかし、神様が約束されるのは、神の愛が決して変わることはないということです。たとえ私たちが何をしても、どんなに失敗しても、神様の愛が私たちから離れることはありません。

それだけではなく、私たちが困難に直面しているとき、神様は私たちを守ってくださいます。

17節で、神様はこのように語られています。

あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる。また、さばきの時、あなたを責めたてるどんな舌でも、あなたはそれを罪に定める。

これが、主のしもべたちの受け継ぐ分、わたしから受ける彼らの義である。――主の御告げ――」(17)

神様があなたを捨てたと思いますか。罪や失敗が多すぎるから、神様があなたを諦めたと感じていますか。

いいえ、神様は今もあなたを追い求めています。神様の愛は決して絶えることがありません。永遠に変わらず、あなたを包み込んでいます。

だから、過去のものを忘れましょう。罪の廃墟から歩み出て、新しい道へ進みましょう。

そして、

「あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ。」(2)

つまり、私たちはイエス・キリストを通して、すでに神様と和解しました。そして、神様は私たちのために良いものを備えておられるのです。

そのため、毎日充実した人生を送りましょう。毎日、神様に信頼し、神様の変わることのない愛の中で安心しましょう。

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なぜイエス様は来たのか

不思議なことに、イエス様が生まれる何世紀も前に、この預言は書かれていました。この箇所では、イエス様の命と死についての重要な真理を学ぶことができます。

彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。

彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。(イザヤ書53:2)

もし私が神様だったら、イエス様を王族の家に生まれさせたかもしれません。また、イエス様をとてもハンサムな姿にしたかもしれません。

けれども、イエス様は貧しい大工の息子としてこの世に来られました。

さらに、イザヤによると、イエス様の外見はごく普通であり、特にハンサムというわけではありませんでした。イエス様の容姿で、女性たちを惹きつけることはなかったようです。

それに加えて、イエス様は人々から拒絶されることもありました。

彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。

人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。(イザヤ書53:3)

時々、私たちはこう考えることがあります。「イエス様は本当に私のことを理解してくださるのだろうか。」

なぜなら、私たちは特別にハンサムでも美しくもないし、時には拒絶されることもあるからです。しかし、イエス様には私たちのことがよく理解できます。

それだけではありません。イエス様は私たちを本当に深く愛しておられます。たとえ私たちがイエス様を拒絶したとしても、それでもなお、イエス様の愛は変わりません。それでも、

彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。

彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ書53:5)

私たちがイエス様を求めていなかったにもかかわらず、イエス様は私たちのために命を捨てられました。私たちがイエス様から逃げ続けていたにもかかわらず、イエス様は私たちを深く愛しておられました。

イザヤ53:6には、次のように書かれています。

私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。

しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。(6)

それは本当に不思議なことです。私たちはイエス様を拒絶し、イエス様から背を向けて逃げました。それにもかかわらず、イエス様は私たちの罪のために、言葉で表現しきれないほどの苦しみに耐えられたのです。

彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。。。

多くの者があなたを見て驚いたように、――その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた。(イザヤ書53:7-8、52:14)

そして、十字架で、

彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。。。

彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。(イザヤ書53:8、12)

そのあとで、

彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。(イザヤ書53:9)

しかし、それで話が終わりではありません。

もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。

彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。

わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。(イザヤ書53:10-11)

つまり、死はイエス様の終わりではありませんでした。むしろ、イエス様は苦しみの後に「見ました。」つまり、イエス様はよみがえられ、末永く生き、子孫を見られたのです。

その子孫とは誰でしょうか。それは私たちクリスチャンです。私たちがイエス様を受け入れるならば、神様の子供となります。(ヨハネ1:12)

イエス様はその目的のためにこの世に来られました。私たちはイエス様を拒絶し、イエス様から逃げました。それでも、イエス様は私たちを愛し、救うために来られたのです。

ですから、十字架の御業を通して、私たちは永遠の死から救われ、神様の子供として新しい命をいただきます。

私たちがするべきことはただ一つです。イエス様とその御業を信じることです。それによって、私たちは本当の命を知ることができます。

このことをどうか忘れないでください。イエス様は私たちを理解されており、何よりも私たちを愛し、あがなうために来られたのです。

だからこそ、その素晴らしい知らせを周りの人々に伝えましょう。

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救い

この箇所では、神様がイスラエルの民を追放の地から呼び戻される姿が描かれています。同時に、この箇所には救いの象徴的な絵を見ることもできます。

イザヤはイスラエルの民にこう語りました。

さめよ。さめよ。立ち上がれ。エルサレム。あなたは、主の手から、憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した。。。

あなたの子らは網にかかった大かもしかのように気を失って、すべての町かどに倒れ伏す。彼らには、主の憤りと、あなたの神のとがめとが満ちている。(イザヤ書51:17、20)

この箇所では、イザヤが神様の裁きによって打ちひしがれたユダヤの民を呼び戻しています。彼らは罪を犯したために、持っていたすべてのものを失いました。

それにもかかわらず、神様は彼らにこう語られました。

見よ。わたしはあなたの手から、よろめかす杯を取り上げた。あなたはわたしの憤りの大杯をもう二度と飲むことはない。(イザヤ書51:22)

つまり、彼らの裁きがすぐに終わり、彼らはもう神様の怒りを飲む必要がなくなるのです。

同じように、私たちも罪深く壊れた状態でイエス様の前に来るならば、イエス様は私たちを救ってくださいます。なぜなら、イエス様は十字架の上で私たちの罪のために代価を支払われたからです。

そのため、私たちはもはや神様の怒りを飲む必要はありません。

そして、イザヤは次のように語っています。

さめよ。さめよ。力をまとえ。シオン。あなたの美しい衣を着よ。聖なる都エルサレム。。。

ちりを払い落として立ち上がり、もとの座に着け、エルサレム。あなたの首からかせをふりほどけ、捕囚のシオンの娘よ。(イザヤ書52:1-2)

神様がイスラエルの民の汚れた服を取り去り、新しい服を与えられたように、神様は私たちの罪を取り去り、私たちに義の服を着せてくださいます。

さらに、神様が彼らの鎖を打ち砕かれたように、神様は私たちの罪の鎖をも打ち砕いてくださいます。私たちはもはや囚人ではありません。私たちは神様の愛する子供たちです。

神様はユダヤの民について、こう語られました。

あなたがたは、ただで売られた。だから、金を払わずに買い戻される。(イザヤ書52:3)

そのように、サタンは私たちのために何も代価を払うことはしませんでした。むしろ、私たちは自分の罪によって、自分自身をサタンの奴隷として売り渡してしまったのです。

しかし、神様が私たちをあがなう時には、お金ではなく、イエス様の尊い血によって私たちをあがなってくださいました。

そして今、神様はその救いを全世界に向けて宣言されています。

良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。

平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる」とシオンに言う者の足は。(イザヤ書52:7)

また、

主はすべての国々の目の前に、聖なる御腕を現わした。地の果て果てもみな、私たちの神の救いを見る。(イザヤ書52:10)

それでは、私たちはどのように応答すべきでしょうか。

去れよ。去れよ。そこを出よ。汚れたものに触れてはならない。その中から出て、身をきよめよ。。。

主があなたがたの前に進み、イスラエルの神が、あなたがたのしんがりとなられるからだ。(イザヤ書52:11-12)

神様はユダヤの民にこう語られました。

「あなたの囚人としての生活を捨てなさい。罪の生活を捨てなさい。そして、私はあなたと共にいる。」

神様は同じ言葉を私たちにも語っておられます。

「サタンの国から離れ、神様の国へ来なさい。その道はすでに整えられた。私はあなたの罪のために代価を支払った。救いの服はあなたのためにすでに用意されている。

だから、あなたの古い生活を捨てなさい。罪の生活を捨てなさい。私はあなたと共にいる。」

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私たちの遺産

クリスチャンの中には、旧約聖書を読むのがあまり好きではないという人もいます。彼らは「旧約聖書は本当に読む価値があるのだろうか」と疑問に思うからです。

けれども、この箇所で神様はイスラエルの民にこう語られます。「あなたの先祖から受け継いだ遺産、すなわちアブラハムとサラを通して受け継いだ遺産をよく見なさい」。

(イスラエルの歴史は、アブラハムとその妻サラから始まりました。)

神様はこう言われました。

義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。(イザヤ書51:1)

神様はイスラエルの民に語られましたが、同じように神様は私たちにも語りかけておられます。もしあなたが神様を求めているのなら、この言葉はまさにあなたのためのものです。

あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。

あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラのことを考えてみよ。わたしが彼ひとりを呼び出し、わたしが彼を祝福し、彼の子孫をふやしたことを。(イザヤ書51:1-2)

アブラハムとサラはイスラエルの父と母でしたが、クリスチャンとしての私たちにも彼らとの深い関係があります。彼らは信仰の歩みの模範であり、また信仰による義の象徴でもあります。

もちろん、彼ら以前にも信仰によって歩んだ人々はいましたが、旧約聖書の著者たちは信仰による義について語る際、常にアブラハムを例として挙げています。

パウロがアブラハムについて語ったとき、創世記を引用しました。

それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた。(ローマ4:3)

私たちが旧約聖書を読む理由は何でしょうか。

それは、私たちが切り出された岩を見つめるためです。私たちの信仰による義の遺産がどこから来たのかを知るためです。それだけでなく、彼らが信頼した神様について学び、その神の忠実さを見るためでもあります。

イザヤは、その神について記しています。まず、イザヤはイスラエルの民がエジプトから贖い出された出来事を思い起こします。

海と大いなる淵の水を干上がらせ、海の底に道を設けて、贖われた人々を通らせたのは、あなたではないか。(イザヤ書51:10)

さらに、イザヤは神様がどのようにしてこの世界を造られたのかを思い起こします。

わたしは、あなたの神、主であって、海をかき立て、波をとどろかせる。その名は万軍の主。。。

わたしの手の陰にあなたをかばい、天を引き延べ、地の基を定め、「あなたはわたしの民だ」とシオンに言う。(15-16)

だからこそ、私たちがその神を思い起こし、またアブラハムとサラから受け継がれた信仰の遺産を見つめるとき、神様は私たちに次のように語り、戒めておられます。

義を知る者、心にわたしのおしえを持つ民よ。わたしに聞け。人のそしりを恐れるな。彼らのののしりにくじけるな。

しみが彼らを衣のように食い尽くし、虫が彼らを羊毛のように食い尽くす。しかし、わたしの義はとこしえに続き、わたしの救いは代々にわたるからだ。。。

わたし、このわたしが、あなたがたを慰める。あなたは、何者なのか。死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れるとは。

天を引き延べ、地の基を定め、あなたを造った主を、あなたは忘れ、一日中、絶えず、しいたげる者の憤りを恐れている。まるで滅びに定められているかのようだ。そのしいたげる者の憤りはどこにあるのか。(7-8、12-13)

私たちの信仰を弱めるもの、それは恐れです。将来への恐れ、そして他人の目を気にする恐れです。

「もし私が神様に従ったら、周りの人々はどう思うだろうか」という心配もその一つです。

しかし、アブラハムやサラ、そして信仰の道を歩んだ他の人々を見守られた神様は、私たちも同じように見守ってくださいます。

私たちを造られた神様、また私たちを罪から救い出された神様は、私たちを滅ぼそうとする敵からも救い出すことがおできになります。サタンからも確かに救ってくださいます。

だからこそ、自分たちが受け継いだ信仰の遺産を思い出しましょう。そして、その遺産を与えてくださった神様のことも思い起こし、神様に信頼しましょう。

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神様の光に歩む。自分の光に歩む。

「私が何をしているか自分でよく分かっている。あなたの教えなんて必要ない。」

私たちはよくそのような態度を取りますが、結局行き詰まってしまいます。そしてその時、私たちはしばしば神様を責めます。

「なぜ、あなたは私を見捨てたのですか。」

イスラエルの民も同じようにしました。自分たちの罪の結果として困難に陥ったにもかかわらず、彼らは神様を責めたのです。

あなたがたの母親の離婚状は、どこにあるか。わたしが彼女を追い出したというのなら。あるいは、その債権者はだれなのか。わたしがあなたがたを売ったというのなら。

見よ。あなたがたは、自分の咎のために売られ、あなたがたのそむきの罪のために、あなたがたの母親は追い出されたのだ。

なぜ、わたしが来たとき、だれもおらず、わたしが呼んだのに、だれも答えなかったのか。(イザヤ書50:1-2)

イスラエルの民はこう文句を言いました。「あなたは私たちの母であるエルサレムを離婚し、私たちというその子供たちを見捨てた。」

しかし、神様は答えられました。

「離婚状はどこにあるのでしょうか。私は誰にあなたたちを売ったでしょうか。私は何もしていません。

あなたたちの罪のせいで、あなたたちは自分自身を奴隷として売り渡したのです。

私はあなたたちを見捨ててはいません。私は家に帰って来たが、去ったのはあなたたちです。不実であったのは私ではなく、あなたたちです。」

そして、神様は不実なイスラエルと来るべきメシアを対比されます。天の父はイエス様に「弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教えられた」のです。

さらに、イエス様は毎日天の父の言葉に耳を傾けておられました。イエス様は天の父に決して反抗せず、その御心に従うために苦しみを耐え忍ばれました。

そのため、天の父は常にイエス様を助け、いつもイエス様と共におられました。(4-7)

そして、神様はこう言われました。

あなたがたのうち、だれが主を恐れ、そのしもべの声に聞き従うのか。

暗やみの中を歩き、光を持たない者は、主の御名に信頼し、自分の神に拠り頼め。

見よ。あなたがたはみな、火をともし、燃えさしを身に帯びている。あなたがたは自分たちの火のあかりを持ち、火をつけた燃えさしを持って歩くがよい。

このことはわたしの手によってあなたがたに起こり、あなたがたは、苦しみのうちに伏し倒れる。(10-11)

神様は何を言われているでしょうか。

もし、あなたが暗闇に迷い、つまずいているのなら、神様に信頼を置いてください。そして、神様とその知恵に頼り続けてください。

そうすることで、暗闇を抜け出し、光の中に入ることができます。神様の赦しを知り、そしてイエス様のように、あなたもこう言うでしょう。

私を義とする方が近くにおられる。だれが私と争うのか。さあ、さばきの座に共に立とう。

どんな者が、私を訴えるのか。私のところに出て来い。見よ。神である主が、私を助ける。だれが私を罪に定めるのか。(8-9)

パウロは同じような言葉を書きました。

神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。

罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。(ローマ8:33-34)

しかし、もしあなたが自分自身の「光」に頼り続けて歩むなら、最終的に苦しみを味わうことになるでしょう。

どれほど私たちは自分の知恵に頼って生き、自分の人生を自ら台無しにしているのでしょうか。私たちが神様に耳を傾けないことで、結婚生活や経済が混乱し、破綻してしまいます。

そして、それにもかかわらず、私たちは神様を責めるのです。

もし私たちが神様に従い、その道を歩むなら、私たちの人生はどれほど豊かで平安に満ちたものになるでしょうか。

あなた自身はどうでしょうか。神様の光に導かれて歩んでいますか。それとも、自分自身の光に頼って歩んでいるのでしょうか。

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神様に忘れられた?

「神様は私を忘れられたのだろうか。私には希望が残されているのだろうか。」

ユダヤの亡命者たちは、きっとそう思ったことでしょう。彼らは心の中で叫び続けていました。

主は私を見捨てた。主は私を忘れた。(イザヤ書49:14)

時々、私たちも同じように感じることがあります。「神様に捨てられた」と思います。また、「私は希望がない」と思います。

女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。

たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。

見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。(イザヤ書49:15-16)

つまり、私たちは、母が自分の乳飲み子を忘れることを想像することはできません。また、母が自分の子を憐れまないことも考えられません。とはいえ、この壊れた世界では、自分の子を捨てる母親もいるのです。

それにもかかわらず、神様はこう言われます。

「そのような親しい母子の関係が壊れたとしても、私は決してそのようなことをしない。私の愛は母の愛よりも深いから。あなたを決して忘れない。あなたを決して捨てない。」

神様はイスラエルの民を彼らの土地に帰らせることを約束されました。そして、たとえ彼らが希望を失ったとしても、神様はもう一度彼らに祝福を注ぐと約束されたのです。その時、

あなたは、わたしが主であることを知る。わたしを待ち望む者は恥を見ることがない。(23)

私が主であることを知る。

私たちは本当にそのことを理解しているのでしょうか。「私は神様を信じている」と言いながらも、私たちの行動はその言葉と一致しているでしょうか。

神様の約束を心から信じているでしょうか。

神様が私たちの将来をその御手の中に持っておられることを信じているでしょうか。

神様がご自身の約束を守られることを、本当に信じることができるでしょうか。

私たちに希望が見いだせない時でさえ、神様に信頼し、従い続けることができるでしょうか。

わたしを待ち望む者は恥を見ることがない。

何によって希望を見出すのでしょうか。私たちには本当に希望があるのでしょうか。

神様が約束されたのは、もし私たちが神様を待ち望み、また神様に従い続けるなら、最終的に神様の祝福を体験するということです。

けれども、時々私たちは神様に失望させられると感じることがあります。そのため、神様に信頼し従うことをためらうこともあるでしょう。

「もし神様に従っても、良い結果が得られなかったら、私はどうしたら良いのだろうか。」

あるいは、こう考えるかもしれません。

「神様に従うことで、私の状況がさらに悪化するのではないか。」

けれども、神様の約束は、最終的に私たちが恥を見ないということです。ある英語の翻訳では、「神様は私たちをがっかりさせない」と書かれています。

しかし、あなたは本当にそう信じているでしょうか。神様が来られるまで、待ち望むことができるでしょうか。

あなた自身はどうでしょうか。「忘れられた」と感じていますか。「捨てられた」と思っていますか。「もう希望がない」と思っていますか。

神様はあなたを決して忘れていません。神様はあなたを決して見捨てません。もしあなたが神様に向かうなら、神様はあなたに希望を与えてくださいます。

神様を信頼してましょう。神様を待ち望みましょう。そして、神様の言葉に従いましょう。そうすれば、たとえ大きな試練に直面しても、最終的にあなたは恥を見ることがないのです。

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メシアの使命、私たちの使命

この箇所では、メシア、つまりイエス様の使命について見ることができます。それは何でしょうか。

一つ目は、神様の栄光を現すことです。(イザヤ書49:3)

つまり、イエス様はイスラエルの民に神様がどのようなお方であるかを教えました。なぜなら、イエス様は神でありながら人間となられたからです。

パウロはイエス様についてこう言いました。

御子は、見えない神のかたちであり。。。神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ「た」。(コロサイ1:15、19)

二つ目は、イエス様が異邦人のために光となることです。つまり、イエス様はイスラエルを救うために来られましたが、それだけではなく、全世界を救うためにも来られたのです。(6節)

三つ目は、イエス様が私たちのために「契約」となられることです。(8節)

イエス様が死ぬ前、自分の弟子たちとともに食事をされました。その時、イエス様は盃を取ってこう言われました。

この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。(ルカ22:20)

また、

罪を赦すために多くの人のために流されるものです。(マタイ26:28)

神様はモーセを通してイスラエルの民と最初の契約を結ばれました。けれども、その契約には重要な条件がありました。それは、イスラエルの民が神様の律法を守るということです。

しかし、新しい契約は異なります。その契約の基礎は私たちの行いではありません。むしろ、その契約の基礎はイエス様の十字架の働きにあります。

もし私たちがイエス様とその働きを信じるなら、私たちの罪は赦されます。

最後に、メシアは

捕らわれ人には「出よ」と言い、やみの中にいる者には「姿を現わせ」と言う。

イエス様はご自身の使命について話された時、こう言われました。

主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし。。。(ルカ4:18)

多くの人々はサタンの国の囚人ですが、神様は彼らを自由にするために来られました。

ただし、一つのことを思い出してください。神様は救いの働きを十字架で始められました。しかし今、その働きを完成させるために、イエス様は御霊を信者たちの心に送られました。

つまり、私たちを通して、イエス様は全世界に福音を述べ伝えたいと願っておられるのです。

御霊は私たちの心の中におられ、私たちを通してこの世界に触れたいと願っておられます。神様は救いのメッセージ、また自由のメッセージを伝えるために、私たちを召されます。

私たちは人々に「牢から出よ」と、また「光のところへおいで」と伝えるべきです。

あなたはそうしているでしょうか。

時々、私たちは失望することがあります。自分の働きが神様のために実を結んでいるのかどうか、疑ってしまうこともあります。それは、時に人々が私たちのメッセージを無視するからです。

イエス様も同じようなことを言われました。

私はむだな骨折りをして、いたずらに、むなしく、私の力を使い果たした。4a)

けれども、イエス様はご自身に、また私たちにこう言われました。

それでも、私の正しい訴えは、主とともにあり、私の報酬は、私の神とともにある。(4b)

神様はきっとあなたの働きのために報いを与えられます。たとえあなたが自分の働きが実を結んでいないと思うことがあったとしても、神様は確かに働いておられます。

パウロはこう言いました。

善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。(ガラテヤ6:9)

あなたが周りの人々に対して、霊的な光となり、塩となりますように。

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平和の道

私たちはしばしば平和を探しますが、見つけることができず、「どうして」と問いかけます。

イスラエルの民も同じでした。けれども、17-18節で神様は彼らに答えられます。

あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。

あなたがわたしの命令に耳を傾けさえすれば、あなたのしあわせは川のように、あなたの正義は海の波のようになるであろうに。(イザヤ書48:17-18)

日本語の翻訳では「しあわせ」と書かれていますが、別の翻訳では「平和」と訳されています。

英語の翻訳では「平和」と表現されています。つまり、神様は平和の青写真を持っておられます。

それは当然のことだと思います。神様は人間を造られました。私たちをデザインされ、私たちの人生がどのように上手くいくかを完全にご存じです。

だからこそ、私たちが神様に従うなら、平和を見出し、私たちの人生は上手くいくのです。

しかし、多くの人々は神様とその言葉に従うと言いながらも、実際にはその言葉を無視して、自分の道を進みます。イスラエルの民もそのような人々でした。

それゆえ、神様はこう言われました。

これを聞け。ヤコブの家よ。あなたはイスラエルの名で呼ばれ、ユダの源から出て、主の御名によって誓い、イスラエルの神を呼び求めるが、誠実をもってせず、また正義をもってしない。

確かに彼らは聖なる都の名を名のり、イスラエルの神――その名は万軍の主――に寄りかかっている。(イザヤ書48:1-2)

イスラエルの民は、神様に従うと言っていました。神様の御名によって誓い、神様を呼び求めました。「あなたは私たちの神です」と告白していました。

けれども、彼らの態度や行動は、彼らの心の本当の姿を明らかにしていました。

だから、神様はこう言われました。

あなたがかたくなであり、首筋は鉄の腱、額は青銅だと知っている。。。

あなたは聞いたこともなく、知っていたこともない。ずっと前から、あなたの耳は開かれていなかった。

わたしは、あなたがきっと裏切ること、母の胎内にいる時からそむく者と呼ばれていることを、知っていたからだ。(4、8)

それは厳しい言葉です。けれども、神様は私たちについてこのように言われるでしょうか。私たちは神様とその御言葉に対して心を堅くしているでしょうか。神様の御言葉を拒絶しているでしょうか。

私たちはしばしば、「どうして私の人生はめちゃくちゃになっているのだろうか」と考えます。

「どうして私の結婚は上手くいかないのだろうか。どうして他の人間関係が上手くいかないのだろうか。どうして私のキャリアは上手くいかないのだろうか。」

しかし、私たちは神様の御言葉を読むと、それを無視します。そして、「従っても、私の問題は解決しない」と言い、「難しすぎる」とも言います。

そのため、私たちは自分の道を行き続けます。

その結果はどうなるでしょうか?

「悪者どもには平安がない」と主は仰せられる。(22)

私たちが神様に従うなら、私たちの人生はどれほど良くなるでしょうか。聖書の青写真に従うなら、私たちの人生はどれだけ豊かになるでしょうか。

あなたはどうでしょうか。平和がないと感じていますか。

自分の知恵に頼るのをやめ、堅い心を柔らかくしてください。神様の道を求めてみてください。そうすれば、あなたの魂には平和の川が流れ始めます。

あなたは、どのように応えるでしょうか。

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自分自身を神とする

昔、サタンがエデンで言った嘘を、今でも私たちに囁きます。それは、「あなたは神のようになる」というものです。

人類の歴史を振り返ると、人々は自分自身を神にしようとしてきました。つまり、自分の道を進み、心の王座を神様に捧げずに、自分自身がその王座に座るのです。

バビロンの支配者たちも同じことをしました。そのため、イザヤは彼らを責めました。

あなたは「いつまでも、私は女王でいよう』と考えて。。。

だから今、これを聞け。楽しみにふけり、安心して住んでいる女。

心の中で、『私だけは特別だ。私はやもめにはならないし、子を失うことも知らなくて済もう」と言う者よ。。。

あなたは自分の悪に拠り頼み、「私を見る者はない」と言う。

あなたの知恵と知識、これがあなたを迷わせた。だから、あなたは心の中で言う。「私だけは特別だ。」(イザヤ書47:7、8、10)

バビロンの人々は、神様がご自身について言われた言葉を取り、それを自分自身に当てはめました。

日本語の翻訳では「私だけは特別だ」と書かれていますが、それは少し簡略化された翻訳です。

実際には、バビロンの人々が「私は特別だ」と言ったとき、それは神様の言葉を模倣していたのです。

つまり、

わたし、主こそ初めであり、また終わりとともにある。わたしがそれだ。(イザヤ書41:4)

また、

わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。(イザヤ書45:5)

また

わたしが神である。ほかにはいない。わたしのような神はいない。(イザヤ書46:9)

しかし、イザヤは彼らに警告されました。

「あなたたちは神ではない。あなたの罪のために裁きが来る。あなたの知恵と力は、神様の怒りからあなたを救うことはできない。」

それでも、どれほど私たちはバビロンの人々のように生きているでしょうか。

私たちは安全だと思い込み、安心してしまいます。自分の道を進み、それで大丈夫だと思い込みます。誰も私たちの罪を見ていないと考え、将来の裁きについて全く思いを巡らせません。

そのような生き方を続けるなら、バビロンの人々のように私たちは倒れるでしょう。私たちは神様の前で裸で恥ずかしい姿のまま立つことになります。

そして、この世の中で、経済問題や結婚生活の問題が生じ、私たちはどうしたら良いか分からなくなるでしょう。

だからこそ、プライドを捨て、心の王座を神様にお捧げしましょう。ただお一人の神様がおられます。そして、その神様は私たちではないのです。

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自分のはかりごとが成就する神

この箇所では、神様はご自身と他の国々の神々を比べ続けておられます。5節で、神様はこう言われました。

わたしをだれになぞらえて比べ、わたしをだれと並べて、なぞらえるのか。(イザヤ書46:5)

なぜ神様はそんなことを言われたのでしょうか。それは、人々がその偶像を造ったとしても、その偶像は自分の力で動くことができないからです。人々は偶像を運ばなければなりません。

そして、一度置かれると、その偶像は自分の位置を全く変えることができません。

そのため、人々が偶像に助けを求めても、偶像は答えることも助けることもできません。もし偶像が自ら動く力を持っていないのなら、どうして人々を助けることができるのでしょうか。(7節)

だから、神様はもう一度言われます。

遠い大昔の事を思い出せ。わたしが神である。ほかにはいない。わたしのような神はいない。(9)

神様は他の『神々』とどのように異なっておられるのでしょうか。

わたしは、終わりの事を初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ、『わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる』と言う。。。

わたしが語ると、すぐそれを行ない、わたしが計ると、すぐそれをする。(10-11)

つまり、神様は将来をその御手の中に持っておられます。神様は何が起こるかをご存じであるだけでなく、ご自身のプランを持っておられ、そのプランを止められる者は誰もいません。

サタンであれ、人間であれ、誰も神様の計画を妨げることはできないのです。

神様は決して驚くことがなく、将来のことを知っておられ、さらに将来を形づくる力を持っておられます。

特に、神様は救いのプランを立て、そのプランについてこう言われました。

わたしに聞け。強情な者、正義から遠ざかっている者たちよ。

わたしは、わたしの勝利を近づける。それは遠くはない。わたしの救いは遅れることがない。

わたしはシオンに救いを与え、イスラエルにわたしの光栄を与える。」(12-13)

神様は、私たちを救うためにご自身の子イエス・キリストをこの世に送られました。

サタンがイエス様と戦い、ユダヤ人たちもイエス様を拒絶しましたが、神様は彼らの行動さえもご自身の計画の中に取り入れられ、イエス様を通して私たちを救われました。

イエス様は十字架で死なれ、私たちの罪の代価を完全に支払われました。その結果、かつて神様の正義から遠ざかっていた私たちも、今は神様に近づく道が開かれました。

神様がそのようなことを成し遂げられるのなら、私たちは神様が私たちの将来もその御手の中に持っておられると確信できます。そして、何者も、その計画を妨げることはできません。

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あなたを背負う方

ずっと預言者たちの言葉を読んでいると、多くの裁きの言葉に目を留めてきました。けれども、最近イザヤの言葉を読む中で、私は本当に励まされました。

この箇所では、イザヤはバビロンに追放される人々に語りかけています。(ただし、思い出してください。これは預言です。イスラエルの民はまだバビロンに追放されてはいませんでした。)

神様はバビロンの神々を裁かれた後、亡命者たちにこう言われました。

わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。

あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。

なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。(イザヤ書46:3-4)

時々、私たちはイスラエルの亡命者たちのように、落ち込むことがあります。神様が私たちを捨てたのではないか、もう愛していないのではないかと思うことがあります。

しかし、神様はこう言われます。

「わたしは、あなたが母の胎にいる時から、あなたを担ってきた。

あなたが母の胎にいる時、わたしはあなたと共におり、あなたを形づくっていた。

あなたは生まれる前から、わたしに運ばれていた者である。

あなたの目が初めて光を見、医者の顔や母や父の目を見る前から、わたしは存在し、あなたを見守っていた。

あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。 あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。

あなたが成長し、中年を迎え、年を重ねても、どんな変化が訪れようとも、わたしは全く変わらない。わたしは永遠の神である。

なお、わたしはあなたがたを運び、背負い、救い出す。」

つまり、神様は私たちを決して捨てることがありません。私たちが神様を必要とする時、神様はすぐに来られます。それほど深く神様は私たちを愛しておられます。

あなたは、自分が一人ぼっちだと感じているでしょうか。神様に捨てられたと思っているでしょうか。誰も信じられなくなり、皆に裏切られたと感じているでしょうか。

神様はあなたを造り、あなたの名前を知っており、決してあなたを捨てることがありません。

どんな試練を経験しても、神様は必ずあなたを助けてくださいます。

有名な詩が語っているように、私たちが人生の道を振り返る時、砂の上に残された足跡を見て、そこに一組の足跡しか見えないことがあります。

そして、私たちは神様にこう問いかけます。「私があなたを必要としていた時、あなたはどこにおられたのですか?」

しかし、神様は私たちにこう言われます。

「あなたは一人ぼっちだと思ったのですか?決して一人ぼっちではありませんでした。一組の足跡しかなかった時、それは私があなたを背負って歩いていたからです。」

あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。

わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。(4)

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神様を知って、救われるように

神様の方法は時に私たちには理解しにくいものです。アッシリア人、バビロン人、ペルシア人たちもイスラエル人と同じように悪かったのに、どうして神様はこれらの国々を用いてイスラエル人を罰されたのでしょうか。

おそらく、イザヤもイスラエル人たちも同じ質問をしていたかもしれません。だからこそ、神様はこう言われました。

ああ。陶器が陶器を作る者に抗議するように自分を造った者に抗議する者。

粘土は、形造る者に、「何を作るのか」とか、「あなたの作った物には、手がついていない」などと言うであろうか。。。

イスラエルの聖なる方、これを形造った方、主はこう仰せられる。

「これから起こる事を、わたしに尋ねようとするのか。わたしの子らについて、わたしの手で造ったものについて、わたしに命じるのか。

このわたしが地を造り、その上に人間を創造した。わたしはわたしの手で天を引き延べ、その万象に命じた。(イザヤ書45:10,11-12)

つまり、「私はすべてのものを造った。天を引き延べ、その天に無数の星と惑星を置いた。では、あなたはどうでしょうか。最近、何を造りましたか。もしあなたがこのようなものを造れるのなら、さあ話しましょう。」と。

私たちは神様の考え方をすべて理解することはできません。しかし、確かなことが一つあります。それは、神様がすべての人々がご自身を知り、救われることを望んでおられるということです。

この真理は、神様がクロス王について語られる時に、はっきりと見ることができます。

神様はクロスにこう言われました(これは私の意訳ですが)。「あなたは私を知らず、私を求めていない。それでも、私はあなたを偉大な人物とする。あなたは数多くの国を打倒するだろう。」

なぜでしょうか。

それは、日の上る方からも、西からも、わたしのほかには、だれもいないことを、人々が知るためだ。わたしが主である。ほかにはいない。。。

彼ら(つまり、倒れた国民)は鎖につながれて、あなたに従って来、あなたにひれ伏して、あなたに祈って言う。

「神はただあなたのところにだけおられ、ほかにはなく、ほかに神々はいない。」(6、14)

神様はペルシアを用いてイスラエルを罰され、そしてイスラエルを再び彼らの土地へと戻されました。

そのことによって、神様の御名は世界の国々の中で有名になりました。なぜなら、最終的にクロス王が神様の働きを認め、すべての国々にその働きを宣言したからです。(歴代誌第二36:23)

そして、神様はこう言われます。

告げよ。証拠を出せ。共に相談せよ。だれが、これを昔から聞かせ、以前からこれを告げたのか。

わたし、主ではなかったか。わたしのほかに神はいない。正義の神、救い主、わたしをおいてほかにはいない。

地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。

わたしは自分にかけて誓った。わたしの口から出ることばは正しく、取り消すことはできない。すべてのひざはわたしに向かってかがみ、すべての舌は誓い。。。」(21-23)

神様のメッセージは何でしょうか。

「私は神です。他に神はいない。他に救い主はいない。あなたの神々は偽物です。だから、その神々に背を向けて、私に向かいなさい。そうすれば、あなたは救われる。」

何千年もの時が経ったとしても、神様のメッセージは変わりません。今でも神様は私たちに語りかけておられます。

「この世の神々に背を向けて、私に向かってください。あなたを救いたいから。」

ある日、すべてのひざは神様に向かってかがみ、すべての舌が誓うでしょう。その誓いの内容とは何でしょうか。

パウロはその答えを示しています。

それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリピ2:10-11)

ある日、すべての人が「イエス・キリストは主である」と告白するでしょう。

ある人々は愛と畏敬の心をもってそう言います。しかし、ある人々は歯を食いしばりながら言わなければなりません。なぜなら、その事実を認めたくないからです。

それでも、最終的には全員がそのことを告白するのです。

あなたはどうしますか。今、神様に向かう機会が与えられています。イエス様にあなたの心を捧げてみませんか。

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あなたの名前を知っておられる神

多くの聖書学者は、イザヤが40-66章を書いたかどうかについて疑問を抱いています。もちろん、その学者の大部分はクリスチャンではありません。

さらに、中には「私はクリスチャンだ」と言いながらも、この部分について疑いを持つ人もいます。

どうしてでしょうか。それは、イザヤが将来の出来事を、あたかも過去に起こった出来事のように書いたからです。また、イザヤの預言が実際に成就しているからでもあります。

イザヤ書を読む時に思い出さなくてはならないのは、イザヤがバビロンやペルシア、そしてイスラエルの追放について記した時、ほとんど何も起こっていなかったという事実です。

当時、バビロンとペルシアはまだ大国ではありませんでした。また、北イスラエル王国はすでに追放されていましたが、ユダ王国はまだ存続していました。

実は、イスラエルにとって最大の敵は、バビロンでもペルシアでもありませんでした。一番の敵はアッシリアでした。

それはさておき、多くの人々がイザヤの預言を読む時、こう言います。

「イザヤの預言はあまりにも完全だ。これは本当の預言であるはずがない。きっとイザヤが亡くなった後、さらにペルシアの王クロスがイスラエル人を自分たちの土地に帰らせた後になって、誰かがこの『預言』を書いたに違いない。」

けれども、それは不信仰な態度です。そのような人々が実際に言っているのは、「神様など存在せず、超自然的な知識はあり得ない。仮に神様が存在したとしても、この世の中にそのように働くはずがないのです」ということです。

ここでは具体的にその疑問に答えませんが、これだけは断言できます。イエス様が生まれる100年以上も前に、旧約聖書のすべてがギリシャ語に翻訳されていました。この点についてはクリスチャンもノンクリスチャンも疑いません。

それでも、旧約聖書にはイエス様についての多くの預言が記されています。例えば、イエス様がどこで、いつ生まれるのか、また、イエス様の死とよみがえりについて、旧約聖書の中で預言されているのです。

だから、私はこのバビロンとペルシアに関する預言を疑いません。

この44章で最も不思議な預言の一つは、クロス王がエルサレムの再建を命じるということです。

なぜそれが不思議なのでしょうか。それは、クロス王がまだ生まれていなかったからです。クロス王が生まれる前に、神様はすでにその名前を知っておられ、クロス王が何をするかをご存じでした。

おそらく、クロス王はその預言を目にしたのでしょう。そして、きっとクロス王はエレミヤの預言も読んだに違いありません。(歴代誌第二36:22-23)

おそらく、その預言によってクロス王は深く感動し、ユダの人々をエルサレムに帰還させる決断をしたのだと思います。

クロス王が学んだ教訓は、私たちにとっても非常に重要です。もちろん、神様は将来を完全に知っておられます。しかし、神様はそれだけではありません。

神様は、私たちが母の胎内にいる時から形造ってくださった方であり、私たちを深く愛し、私たちの名前をご存じです。そして、私たちが神様と協力するならば、神様は私たちのために素晴らしい計画をご用意してくださいます。

パウロはこう言いました。

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。

神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。(エペソ1:4-6)

エペソ1:3-14を読んでください。その言葉を深く心に留めましょう。神様があなたの将来だけでなく、あなたの名前も知っておられることを覚えておきましょう。そして、神様はあなたを深く愛しておられるのです。

それを知り、心に平安を持ちましょう。その希望によって、安心しましょう。

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ほかの神はいない

イザヤ書43-44章では、神様はその民にこの真理を教え込んでおられます。「私だけが神です。他に神はいないのです。」

43章には、次のように書かれています。

あなたがたはわたしの証人、――主の御告げ――わたしが選んだわたしのしもべである。

これは、あなたがたが知って、わたしを信じ、わたしがその者であることを悟るためだ。

わたしより先に造られた神はなく、わたしより後にもない。

わたし、このわたしが、主であって、わたしのほかに救い主はいない。(イザヤ書43:10-11)

そして、44章でも、神様は同じ真理を語られます。

わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。(イザヤ書44:6)

多くの人々は、クリスチャンが偏狭な人々だと思います。それは、私たちが他の神が存在するという考えを受け入れないからです。しかし、もしクリスチャンが正しいなら、それは本当に偏狭な態度と言えるのでしょうか。

例えば、もし私が娘に「2+2=4」と言い張ったとしたら、それは偏狭さを表しているでしょうか。

そうではありません。ただ、真理を語っているだけです。

同じように、この聖書の箇所では、神様は何度も、さまざまな方法で、ご自身の唯一性と独特さをイスラエルの民に教えられています。

まず、神様はこう言われました。

わたしが、もう古くからあなたに聞かせ、告げてきたではないか。

あなたがたはわたしの証人。わたしのほかに神があろうか。ほかに岩はない。わたしは知らない。(イザヤ書44:8)

神様はご自身の預言を指されます。何度も神様はイスラエルの民に将来の出来事を預言し、その言葉の通りにそれが実現しました。

さらに、神様はご自身の知識について語られます。神様はこう言われました。「私はすべてを造りました。この世界も、また宇宙も造りましたが、私は他に神を知りません。」

イザヤ書43章では、神様はこう言われます。「私は他の神を造らなかった。また、私より先に造られた神はない。」

そして、44章12-20節では、神様はイスラエルの民にこう語られます。

「考えてみなさい。あなたたちは木材で偶像を造ります。しかし、その木材の残りを使って、自分自身を温めるために燃やします。また、その木材の残りで料理を作ります。それでも、その同じ木材で作った偶像を拝むのですか。

あなたはその偶像の創造者です。それにも関わらず、その偶像に助けを求めるのですか。創造されたものが創造者よりも偉いでしょうか。」

だから、神様はこう言われます。

ヤコブよ。これらのことを覚えよ。イスラエルよ。あなたはわたしのしもべ。わたしが、あなたを造り上げた。あなたは、わたし自身のしもべだ。

イスラエルよ。あなたはわたしに忘れられることがない。

わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。

わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。(イザヤ書44:21-22)

神様がイスラエルの民に語られたのと同じことを、私たちにも語っておられます。

「私だけが神であることを思い出しなさい。私はあなたの創造者です。私はあなたの贖い主です。私のもとに戻ってきなさい。なぜなら、十字架で、あなたの罪のために私は代価を支払ったからです。」

神様だけが真の神であることを心に刻みましょう。他に神はいないからです。

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私たちが誰のものであるか思い出す

「私の人生。私のお金。私の物。私の体。」

どれほど私たちは、このような言葉を口にしているでしょうか。そして、そのような態度を取ることで、私たちはどれほど自分の人生を混乱させてしまうでしょうか。

自己中心的な態度を取ると、私たちは虚しい人生以外にはたどり着けません。

多くの人々は満足を求めて自己中心的になります。けれども、自己中心の生活は私たちを決して満足させません。むしろ、私たちはますます空虚さを感じるだけです。

この聖書の箇所において、その真理が明らかにされています。

イスラエルの民は、長い間自己中心的な態度を取り続けました。その結果、彼らは追放されることになりました。そして、彼らの魂は乾き、涸れてしまいました。

しかし、そのような中で、神様は彼らにこう語られました。

今、聞け、わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだイスラエルよ。あなたを造り、あなたを母の胎内にいる時から形造って、あなたを助ける主はこう仰せられる。

「恐れるな。わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだエシュルンよ。わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。(イザヤ書44:1-3)

イザヤがこれを書いた時、ヨエルの言葉を思い浮かべていたのかもしれません。ヨエルはこう預言しています。「わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。」(ヨエル書2:28)

この箇所で神様が語っておられるのは、イスラエルの民が神様に背を向けてしまったにもかかわらず、彼らが依然として神様に選ばれた民であるという事実です。

だからこそ、神様は彼らを癒し、助けると約束されました。神様が彼らに聖霊を注がれる時、彼らの乾ききった、涸れた人生に新しい命が吹き込まれます。

その日、彼らの態度は大きく変わります。「私の人生、私の物、私の体だ」とはもう言わなくなるのです。むしろ、

ある者は『私は主のもの』と言い。。。ある者は手に『主のもの』としるし[ます]。(5)

それが、満たされた人生の鍵です。すなわち、聖霊に満たされた人生です。また、聖霊の臨在と力によってよみがえらされた人生です。

そのような人は自信を持ってこう言うでしょう。「私は神様の者です。」

あなたはどうでしょうか。心に空虚さを感じていますか。満たされていないと感じているでしょうか。

自分のためだけに生きていると、決して満足を得ることはできません。持ち物やお金、そしてこの世のものでは、私たちを完全に満たすことはできません。それらは決して人生に真の充実感をもたらしません。

しかし、神様のために生きるならば、また聖霊に満たされるならば、本物の平安と満足を見つけることができます。

あなたは誰の者ですか。そして、誰のために生きていますか。

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過去を忘れて、進んでいく

この箇所を読めば読むほど、ますます好きになります。

先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。

見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。

確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。(イザヤ書43:18-19)

神様がイスラエルの民に語られたことはこうです。

「あなたたちは失敗した。あなたたちは罪を犯した。それゆえに追放された。けれども、そのことをもう考えるな。私はあなたたちの人生に新しいことをする。

目を開きなさい。そうすれば、私は帰る道を造り、あなたの人生の荒野に命の川を備えるだろう。」

私たちも、しばしば失敗に囚われすぎて、過去に焦点を当ててしまうことがあります。その結果、神様が私たちの未来のために何を計画しているのか気づかないことが多いのです。振り返ってばかりいると、当然ながら前を見ることはできません。

しかし、神様は私たちの人生に新しいことをなさりたいと望んでおられます。今この瞬間でも、私たちが心の目を開けば、神様の計画が見えるのです。

ところが、多くの場合、私たちがその計画を見逃してしまう原因があります。それは何でしょうか。

しかしヤコブよ。あなたはわたしを呼び求めなかった。イスラエルよ。あなたはわたしのために労苦しなかった。。。

あなたの罪で、わたしに苦労をさせ、あなたの不義で、わたしを煩わせただけだ。(22、24)

心を尽くして神様を求めるなら、私たちは神様の働きを見ることができ、神様の祝福を受け取ることができます。

けれども、多くの場合、私たちは神様を無視し、求めるとしても心が伴わず、消極的にそうしているのです。

それだけではなく、私たちはしばしば自己中心的になり、高慢になります。自分自身のためだけに生きているがゆえに、私たちの罪が神様を悲しませることもあります。

しかし、もし悔い改めて心から神様を求めるなら、神様は私たちのために素晴らしいことをなさりたいと願っておられます。神様には私たち一人一人のための素晴らしいご計画があります。

だから、神様はこう語られます。

わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。(25)

あなたの人生はめちゃくちゃになっていると感じていますか。経済はどうですか。結婚はどうでしょうか。仕事についてはどうですか。

過去に焦点を当てるのはやめましょう。代わりに、神様があなたの人生においてどのように働いておられるのかを見てください。

神様に祈って尋ねてください。「神様、あなたは私に何をしてほしいと願っておられるのでしょうか。」

そして、あなたの罪や悪い態度によって神様を悲しませることをやめましょう。

悔い改めて、心を尽くして神様を求めましょう。そうすれば、神様の祝福を知ることができるでしょう。

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尊い

多分イザヤ書43:1-13が私の一番好きな聖書の箇所です。

だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。

「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。

あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。

火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。

わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。(イザヤ書43:1-3)

私たちの創造者が語られた言葉を深く心に留めましょう。

「私はあなたを贖ったのだ。」

イスラエルの民がこの言葉を聞いた時、彼らの心はエジプトからの救いへと思いを馳せていたでしょう。かつて、彼らはエジプトで奴隷として苦しんでいましたが、神様は彼らを解放し、約束の地へと導かれました。

しかし、この言葉には、私たちにとってさらに深い意味があります。キリストの十字架を通して、私たちは罪の罰から贖われました。イエス様の流された血によって、私たちは赦されたのです。

わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。

あなたは取るに足りない存在ではありません。神様はあなたの名前をよく知っておられます。神様があなたを見て、こう言われます。「あなたは私のものだ。あなたは私が愛している子だ。」

「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり…」

イエス様が語っておられるのは、こういうことです。

「たとえ人生の海が深く、あなたがパニックに陥る時があっても、私はペテロとともにいたように、あなたと共にいます。私はあなたの手を取り、波の上を導くのです。」

川を渡るときも、あなたは押し流されることはない。火の中を歩いても、あなたは焼かれることはなく、炎があなたを燃えつくすこともない。

つまり、どのような試練を経験しても、神様を信頼するならば、あなたは必ず乗り越えることができるのです。

そして、神様はこう語られました。

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。(4)

これはおそらく預言の一つでしょう。つまり、イスラエルの追放の後に、ペルシアがイスラエルの民を自分たちの土地に帰らせるようにするため、神様がエジプトや他の国々をペルシアに与えるという意味だと思われます。

とはいえ、これが私たちにとってどのような意味を持つのでしょうか。

神様は、私たちが高価で尊い存在だと思われたからこそ、イエス様をこの世に送られました。そして、イエス様は私たちの代わりに十字架で死なれました。神様が私たちを深く愛しておられるゆえに、イエス様は私たちの罪のために命を捧げられたのです。

さらに、神様はイスラエルの民にこのように約束されました。 「あなたがたが国々の民の中に散らされても、私はあなたがたをイスラエルに帰らせる。」

神様は私たちにも同じように語られます。たとえ私たちが神様からどれほど離れてしまったとしても、また私たちの人生がどれほどめちゃくちゃになったとしても、神様に立ち返るならば、神様は私たちをもう一度迎え入れてくださいます。

私たちの霊的な目が長い間神様を見ず、耳が神様の声を聞かなかったとしても、それでも神様は私たちを受け入れてくださるのです。(8)

そして今、神様は私たちを神様の証人として呼び出しておられます。

神様は私たちが救いの中で安住するだけで満足してほしいとは望んでおられません。むしろ、その救いを世界の果てまでも伝える使命を担ってほしいと望んでおられます。

神様はこう語られます。

あなたがたはわたしの証人、――主の御告げ――わたしが選んだわたしのしもべである。これは、あなたがたが知って、わたしを信じ、わたしがその者であることを悟るためだ。(10)

私たちへのメッセージは何でしょうか。

わたしより先に造られた神はなく、わたしより後にもない。

わたし、このわたしが、主であって、わたしのほかに救い主はいない。(10-11)

イエス様は同じようなことを言われました。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ14:6)

ですから、神様の尊い愛されている子供たちとして、この世界が救われるために、そのメッセージを伝えていきましょう。

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イザヤ書

目が見えない人、耳が聞こえない人

私たちが霊的な盲人について考える時、私たちはよくノン・クリスチャンのことを思い浮かべます。もちろん、ノン・クリスチャンたちは霊的な盲人に該当します。

しかし、この箇所には、驚くべきことが書かれています。

耳の聞こえない者たちよ、聞け。目の見えない者たちよ、目をこらして見よ。

わたしのしもべほどの盲目の者が、だれかほかにいようか。わたしの送る使者のような耳の聞こえない者が、ほかにいようか。わたしに買い取られた者のような盲目の者、主のしもべのような盲目の者が、だれかほかにいようか。

あなたは多くのことを見ながら、心に留めず、耳を開きながら、聞こうとしない。(イザヤ書42:18-20)

目の見えない人々とは誰だったでしょうか。彼らは本来、神様に仕えるべき人々でした。では、耳の聞こえない人々とは誰だったでしょうか。彼らは神様の使者でした。

彼らは神様の驚くべきみわざを目にしましたが、それに感動することがありませんでした。また、彼らは神様の御言葉を耳にしましたが、それを注意深く聞こうとはしませんでした。

その結果、どうなったのでしょうか。イスラエル人たちは、

かすめ奪われ、略奪された民のことであって、若い男たちはみな、わなにかかり、獄屋に閉じ込められた。

彼らはかすめ奪われたが、助け出す者もなく、奪い取られても、それを返せと言う者もいない。(22)

けれども、神様がイスラエルの民を懲らしめられても、彼らは悔い改めようとはしませんでした。

それは本当に悲しい状態でした。神様が諸国の民の光として召された人々が、逆にその諸国の民がいる暗闇へと落ちてしまったのです。

周囲の国々の民と同じように、イスラエルの民は耳の聞こえない者、目の見えない者となってしまいました。

このことから、私たちは何を学べるでしょうか。

神様の民である私たちも、耳の聞こえない者や目の見えない者になる可能性があります。

では、どのようにしてそのような状態に陥ってしまうのでしょうか。それは、神様とその御言葉に耳を傾けることをやめ、自分自身の道を選んでしまう時です。

また、私たちの周りで神様が何をしておられるのかに無関心になり、自分の夢や計画だけに心を向ける時にも起こります。

神様は私たちを、この死にかけている世界の光として召されました。しかし、もし私たちがこの世のように目が見えず、耳が聞こえなかったら、どのようにして光となることができるでしょうか。それは不可能です。

だからこそ、私たちはこの世界の人々のようになってはいけません。

イエス様にならって、私たちは天のお父様に心を向け、耳と目を開きましょう。

神様が私たちの周りで何をしておられるのかに目を向け、また神様が私たちの内でどのように働いておられるのかを心から尋ね求めましょう。

私たちの手を天のお父様の手に置き、共に神様の働きを進めていきましょう。

目が見えない者にならず、耳が聞こえない者にならずにいましょう。むしろ、この世に生きる人々に手を差し伸べ、暗闇から神様の光へと導いていきましょう。

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正義と希望を与える方

このイエス様に関する預言がとても大好きです。天のお父様はこう語られます。

見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。。。

まことをもって公義をもたらす。彼は衰えず、くじけない。ついには、地に公義を打ち立てる。島々も、そのおしえを待ち望む。(イザヤ書42:1、3-4)

英語では、このような質問をよく耳にします。「誰がこの世界がフェアだと言うでしょうか。」

その答えは明白です。「だれもそう言わない。この世界はフェアではないからです。」

この世界には、不正義が溢れています。たとえば、裁判官が犯罪者を何度も開放することがあります。

けれども、いつの日か、イエス様は再びこの世に戻られます。その日、イエス様はこの不公平な世界に正義を打ち立てられます。

人々は皆、イエス様の前に立ち、自分の行動について申し開きをしなければなりません。そして、イエス様は全ての人を正しく裁かれます。

しかし、イエス様は正義だけをもたらされるのではありません。砕かれている人々や、苦しんでいる人々には癒しを与えられます。また、希望を持てない人々には希望を与えてくださいます。

私は特に3節が大好きです。

彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく。。。

また、6-7によれば、イエス様は、

国々の光とする。こうして、見えない目を開き、囚人を牢獄から、やみの中に住む者を獄屋から連れ出す。

多くの人々は暗闇の中で生きています。彼らは神様の良さを目にすることができず、罪の囚人として縛られ、そこから逃げ出すこともできません。

けれども、イエス様は私たちの目を開き、暗闇から解放してくださり、神様の素晴らしい光へと導いてくださいます。

16節には、このように書かれています。

わたしは目の見えない者に、彼らの知らない道を歩ませ、彼らの知らない通り道を行かせる。

彼らの前でやみを光に、でこぼこの地を平らにする。これらのことをわたしがして、彼らを見捨てない。

だからこそ、イエス様にあって、私たちは深い喜びを得ることができます。

そして、いつの日か、私たちはこの歌を共に歌うことでしょう。

主に向かって新しい歌を歌え、その栄誉を地の果てから。海に下る者、そこを渡るすべての者、島々とそこに住む者よ。

荒野とその町々、ケダル人の住む村々よ。声をあげよ。セラに住む者は喜び歌え。山々の頂から声高らかに叫べ。主に栄光を帰し、島々にその栄誉を告げ知らせよ。(10-12)

希望と正義――イエス様はこれらをもたらすためにこの世に来られました。

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すべてを治める神

時々、この世界を見渡すと、全てが混乱しているように感じることがあります。犯罪、戦争、そして天災を目の当たりにすると、「神様は本当にこの世を治めておられるのだろうか」と疑問を抱くことさえあります。

けれども、神様はこう答えられます。「はい、私はこの世を治めており、全てを支配しています。」

この箇所では、神様はペルシアの王クロスについて預言されています。クロス王がいろいろな国々を倒すという出来事が預言されているのです。

しかし、神様が本当に伝えたかったのは、「私はすべてを治めており、この出来事は偶然ではなく、私の計画に基づいているのです」ということです。

そして、神様はイスラエルの民にこう問いかけられます。

だれが、これを成し遂げたのか。初めから代々の人々に呼びかけた者ではないか。

わたし、主こそ初めであり、また終わりとともにある。わたしがそれだ。(イザヤ書41:4)

つまり、神様はこう言われているのです。

「私は永遠です。私は人間の歴史を私の手に持っています。時の始まりから私はおり、時の終わりに至るまで私はいます。」

私たちはこの言葉を聞いた時、どのように反応するでしょうか。それには二つの選択肢があります。

一つ目は、周囲の人々と同じように反応することです。

イザヤは国々について、このように語りました。

島々は見て恐れた。地の果ては震えながら近づいて来た。彼らは互いに助け合い、その兄弟に「強くあれ」と言う。

鋳物師は金細工人を力づけ、金槌で打つ者は、鉄床をたたく者に、はんだづけについて「それで良い」と言い、釘で打ちつけて動かないようにする。(5-7)

多くの人々は、神様の力に触れると恐れを抱くようになります。そこで彼らは互いに励まし合いながら、こう考えます。

「この神をコントロールすることはできない。だからこそ、私たちがコントロールできる神々を造りましょう。」

イザヤの時代には、彼らは金や木材を使って偶像を造りました。

現代においては、多くの人々がお金を自分の神としています。彼らはこう考えるのです。「もし多くのお金を手に入れることができれば、神様に頼らずに、自分自身に頼ることができる」と。

しかし、かつて神様が偶像の虚しさを明らかにされたように、神様はお金の虚しさも明らかにされます。

偶像が未来を預言できないのと同じように、私たちもお金によって将来の安全を保証することはできません。なぜなら、株式市場は時折暴落するからです。また、私たちの投資が思い通りにいかないこともあるでしょう。

たとえ一時的にお金をたくさん儲けることができたとしても、それはすぐに消えてしまうかもしれません。

だからこそ、神様はこれら偽物の神々について、こう言われます。

あなたがたは無に等しい。あなたがたのわざはむなしい。あなたがたを選んだことは忌まわしい。(24)

それでは、私たちの他の選択肢とは何でしょうか。それは、神様に信頼することです。そうすれば、神様はこう言われます。

恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。(10)

また、

あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける」と言っているのだから。

恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける。。。

見よ。わたしはあなたを鋭い、新しいもろ刃の打穀機とする。あなたは、山々を踏みつけて粉々に砕く。丘をもみがらのようにする。あなたがそれをあおぐと、風が運び去り、暴風がそれをまき散らす。

あなたは主によって喜び、イスラエルの聖なる者によって誇る。(13ー16)

神様が約束されているのは、私たちを決して捨てないということです。むしろ、神様はこう言われます。

「荒野を水のある沢とし、砂漠の地を水の源とする。」(17-18)

さらに、神様は私たちの荒地にさまざまな木を植えてくださいます。(19)

つまり、神様は私たちの乾ききった人生を、美しく豊かなものにしてくださるのです。なぜでしょうか。

主の手がこのことをし、イスラエルの聖なる者がこれを創造したことを、彼らが見て知り、心に留めて、共に悟るためである。(20)

神様はすべてのことを治めておられます。だから、あなたの人生のコントロールを神様にお譲りしませんか。

人生のコントロールを強く握りしめればしめるほど、私たちの歩みは混乱します。でも、神様にそのコントロールを譲るなら、すべてはもっとスムーズに運び、神様の祝福を知ることができます。

誰があなたの人生を治めているでしょうか。

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希望の力

希望。

未来に直面するとき、私たちに必要なのは希望です。希望がなければ、残るのは絶望だけです。

このイザヤ書の箇所では、イスラエルの民もそう感じていました。彼らは絶望し、人生は混乱し、神様が遠くにおられるように感じていました。だから、彼らは叫んでいたのです。

私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている。(イザヤ書40:27)

つまり、こう問いかけるのです。

「神様、どこにおられるのですか。あなたは本当にここにおられるのですか。私を愛しておられるのですか。それとも、私を愛しておられても、私を助ける力がないのですか。」

しかし、神様は答えられました。

あなたは知らないのか。聞いていないのか。

主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。(28)

神様が言われるのは、こういうことです。

「何を言っているのですか。もちろん、私はあなたを助けることができます。私がすべてのものを造ったことをご存じではないのですか。

あなたとは違って、私は決して疲れることがなく、たゆむこともありません。私の英知は、人間の知恵よりも遥かに優れているのです。」

そして、神様はこの慰めの言葉を言われます。

疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。

若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。

しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。(29-31)

神様はあなたにこう訊かれます。「あなたは疲れているのですか。私は疲れた人に力を与えますよ。あなたにはもう精力がないのですか。私はあなたに活気を与えますよ。」

その力と活気を得る鍵は何でしょうか。

それは神様を待ち望むことです。神様の憐みを思い出しましょう。神様の愛を思い出しましょう。そして、神様があなたのために計画を持っておられることを思い出しましょう。

もしそのことを思い出し、そして神様を待ち望むならば、何が起こっても、それを乗り越える力を受けることができます。それだけではなく、あなたは鷲のように翼を広げて上がることができるのです。

あなたは希望を失いましたか。この箇所を暗記して、その言葉の意味をよく考えてみましょう。

そして、パウロが言ったように、

どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。(ローマ15:13)

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神様の偉大さ

私たちが宣言する神様は誰でしょうか。神様はどのような方でしょうか。この箇所でイザヤは教えてくれます。

イザヤはこう言いました。

「見よ。あなたがたの神を。」見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。(イザヤ書40:9ー10)

イザヤは何を言っているのでしょうか。

神様は全能の主です。12節によれば、神様はすべてを造られた方であり、神様と比べると、この宇宙でさえも神様よりはるかに小さいのです。

時々、私は美しい星空を見上げます。その瞬間、宇宙の広大さを感じると同時に、自分がいかに小さい存在であるかを理解します。

しかし、宇宙は神様の手の中に収まるほどの大きさです。造り主は、自らの被造物よりもはるかに大きいに違いありません。

イザヤは続けてこう言います。

目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。

この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。

この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない。(26)

神様は国々とその支配者たちよりもはるかに大きな存在です。イザヤはこう言いました。

見よ。国々は、手おけの一しずく、はかりの上のごみのようにみなされる。

見よ。主は島々を細かいちりのように取り上げる。レバノンも、たきぎにするには、足りない、その獣も、全焼のいけにえにするには、足りない。

すべての国々も主の前では無いに等しく、主にとってはむなしく形もないものとみなされる。(15ー17)

王たちが王座に座って、自分の国を広げようとするかもしれませんが、

主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。地の住民はいなごのようだ。

主は天を薄絹のように延べ、これを天幕のように広げて住まわれる。

君主たちを無に帰し、地のさばきつかさをむなしいものにされる。(22ー23)

しかし、神様は全能の主であるだけでなく、知恵に富む方でもあります。だからこそ、イザヤはこう書きました。

だれが主の霊を推し量り、主の顧問として教えたのか。

主はだれと相談して悟りを得られたのか。

だれが公正の道筋を主に教えて、知識を授け、英知の道を知らせたのか。(13ー14)

その答えは明らかです。「誰も。」

神様だけがすべての知恵を持っておられます。神様だけがすべてのことをご存じです。

だからこそ、イザヤは尋ねます。

あなたがたは、神をだれになぞらえ、神をどんな似姿に似せようとするのか。

鋳物師は偶像を鋳て造り、金細工人はそれに金をかぶせ、銀の鎖を作る。

貧しい者は、奉納物として、朽ちない木を選び、巧みな細工人を捜して、動かない偶像を据える。(18ー20)

ここでイザヤは皮肉を述べています。

「主は地をおおう天蓋の上に住んでおられます。地の住民はまるでいなごのようです。(22)

それでも、あなたたちはこの小さな金と銀の偶像を造るのでしょうか。ある人々は貧しいため、金や銀すら使いません。木材から造ります。

それでも、あなたはこのようなものを礼拝するのですか。このようなものを生きている神と比べるのですか。」

神様は全ての力と知恵と栄光を持っておられます。神様は本当に偉大な方です。そのことを心に留めていなくてはなりません。

とはいえ、もう一つ心に留めるべき大切なポイントがあります。それは何でしょうか。その偉大な神様は私たちを愛しておられるということです。

イザヤはこう書きました。

主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。(11)

それは本当に最も驚くべきことです。

神様がこれほど偉大であり、私たちがこれほど小さくても、神様はなお私たちを愛しておられます。そして、私たちが神様と和解できるように、神様はご自身の子をこの世に送られました。

どれほどあなたは神様の偉大さについて考えるでしょうか。

どれほどあなたは神様の愛について考えるでしょうか。

そのようにすれば、私たちの問題は小さく見えるようになるでしょう。

たとえどんな問題があったとしても、私たちの神様の方がはるかに大きいです。そして、神様は私たちを愛しておられるので、きっと私たちを助けてくださいます。

ですから、私たちの問題に焦点を当てないようにしましょう。偉大な神様に焦点を当てましょう。私たちを愛しておられる神様に焦点を当てましょう。

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イザヤ書

神様のために私たちの心を準備する

それでは、新約聖書を始めましょう。

もしかすると、今日のタイトルを見て少し混乱したかもしれません。

「イザヤ書は新約聖書ではなく、旧約聖書だよ」と思ったかもしれません。

けれども、ある人々は、イザヤ書が聖書全体の要約であることに気づきました。

聖書には66の書がありますが、イザヤ書にも66の章があります。

そして、聖書は二つの部分に分かれています。旧約聖書(39の書)と新約聖書(27の書)です。

同じように、イザヤ書も二つの部分に分かれています。最初の部分には39章、後半の部分には27章が含まれています。

旧約聖書のように、イザヤ書の最初の部分では、人々の罪と神様からの裁きをよく見ることができます。

しかし、40章からは、メシヤの出現とその救いの働きが描かれています。そして、黙示録のように(聖書の最後の書)、イザヤ書66章では、最後の裁きと新しい地と天を見ることができます。

だから、私が言ったように、「新約聖書」を始めましょう。😊

イザヤ書の第二部の冒頭では、バプテスマのヨハネが引用した言葉を見ることができます。

荒野に呼ばわる者の声がする。

「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。

このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の御口が語られたからだ。(イザヤ書40:3-5)

イザヤの叫び、またバプテスマのヨハネの叫びは、現代においても適切です。

この霊的な砂漠や、神様がいらっしゃらない荒れ地のような私たちの心に、主のための道を整えなくてはなりません。私たちは自分自身の心にも、この世界にも、主のための道を備える必要があります。

では、どのようにその道を整えるでしょうか。それには、二つのことを思い出さなければなりません。

一つ目は、

すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。

主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。(6-7)

つまり、私たちの人生が一時的なものであることを思い出さなくてはなりません。この世界の物のほかに、永遠の何かが存在するのです。また、私たちが得た栄光は、最終的にはすべて消え去ります。

だからこそ、私たちの優先順位を正しく定める必要があります。つまり、私たち自身を一番にするのではなく、神様を一番にしなければなりません。

私たちの計画だけを追い求めるのではなく、まず神様とその御国を第一に求めましょう。

二つ目は、このことを思い出しましょう。

草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。(8)

つまり、神様はいつもご自身の約束を守られます。神様の言葉は決して変わりません。だからこそ、その言葉を私たちの人生の基礎としましょう。

私たちの人生は、常に変化しています。試練は行き来し、良い時もまた、去っては戻ってきます。

しかし、神様は決して変わることがありません。

もし神様の言葉を私たちの基礎とするならば、変わりゆく風が吹いても、私たちの人生は安定します。人生の嵐が押し寄せても、堅く立ち続けることができるのです。

あなたはどうでしょうか。主の帰還に向けて準備をしているでしょうか。

イエス様が帰られるとき、あなたにこう言われるでしょうか。「よくやった。良い忠実なしもべだ。」

イエス様の再臨の日まで、私たちが忠実に生き続けることができますように。

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決して遅すぎない

「私にはもう遅すぎるでしょう。」

ジョージ・ルーカスは『スター・ウォーズ』がダース・ベイダーの贖いについての物語だと語っています。つまり、ベイダーは悪によって腐敗しましたが、息子の愛によって救われたのです。

『ジェダイの帰還』で、ルーク・スカイウォーカーは父ベイダーにこう願いました。

「あなたの憎しみを捨ててください。皇帝を拒絶して、私と一緒に逃げましょう。」

けれども、ベイダーは悲しく答えました。「私にはもう遅すぎるのです。私は主人に従わなければなりません。」

その後、皇帝はルークを殺そうとしました。ルークはベイダーの助けをもう一度求めました。

ベイダーはその光景を見て心を悩ませましたが、最終的に皇帝を攻撃して倒したのです。こうして、彼はルークだけでなく、自分自身も救ったのです。

この箇所の話も似たような内容です。

マナセはヒゼキヤ王の息子でした。ヒゼキヤは本当に良い王でしたが、マナセは別の道を歩みました。

彼は偶像を礼拝し始め、偶像とその祭壇を主の宮に築きました。さらに霊媒や口寄せに相談し、占いも行いました。

それだけではなく、彼は自分の息子を火の中に通しました。列王記によると、

罪のない者の血まで多量に流し、それがエルサレムの隅々に満ちるほどであった。(列王記第二21:16)

何度も預言者たちはマナセに警告しましたが、マナセは全く耳を貸しませんでした。むしろ、彼はその預言者たちを殺してしまいました。

ユダヤ人の伝承によれば、マナセが預言者イザヤを殺害したとされています。へブル人への手紙11章37節にある「[他の人たちは]のこぎりで引かれ[た]」という表現は、イザヤを指している可能性があります。

そのため、神様はこう言われました。

見よ。わたしはエルサレムとユダにわざわいをもたらす。だれでもそれを聞く者は、二つの耳が鳴るであろう。

わたしは、サマリヤに使った測りなわと、アハブの家に使ったおもりとをエルサレムの上に伸ばし、人が皿をぬぐい、それをぬぐって伏せるように、わたしはエルサレムをぬぐい去ろう。

わたしは、わたしのものである民の残りの者を捨て去り、彼らを敵の手に渡す。

彼らはそのすべての敵のえじきとなり、奪い取られる。

それは、彼らの先祖がエジプトを出た日から今日まで、わたしの目の前に悪を行ない、わたしの怒りを引き起こしたからである。(列王記第二21:12-15)

そして、アッシリヤ人たちはマナセを鉤で捕らえ、青銅の足かせにつないでバビロンへ引いて行きました。

列王記ではそれ以上の記録はありませんが、歴代誌の記述はもう少し続きます。

バビロンで、マナセはへりくだり、悔い改め、神様を求め始めました。そこで、神様はマナセを赦してくださいました。

そして、マナセはエルサレムに戻り、再びユダの王として立つことができました。

彼は偶像とその祭壇を取り除き、主の祭壇をもう一度築き、その上で和解のいけにえと感謝のいけにえをささげました。

マナセは数々の悪事を行っていました。ユダの王の中でも、彼は本当に酷い王でした。それでもマナセが悔い改めるのは遅すぎることはありませんでした。

神様はマナセのように人々を裁かれますが、多くの場合、神様は長く待った後で裁かれます。神様はマナセを何度も警告し、ついに裁かれたのです。

しかし、私たちが悔い改めると、神様はすぐに赦してくださいます。

悔い改めるのが遅すぎると思うでしょうか。失敗しすぎたから、神様がもうあなたを赦せないと思うでしょうか。

遅すぎることは決してありません。

悔い改めると、神様はあなたのために待つだけでなく、あなたのもとに走り、喜んで歓迎してくださいます。

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神様の恵みを忘れる

この箇所を読んで私が驚いたのは、神様がいろいろな不思議な方法でヒゼキヤを助けられたにもかかわらず、ヒゼキヤがその恵みを忘れてしまったことです。

歴代誌第二32:35には、このことについてこう記されています。

ところが、ヒゼキヤは、自分に与えられた恵みにしたがって報いようとせず、かえってその心を高ぶらせた。そこで、彼の上に、また、ユダとエルサレムの上に御怒りが下った。

ヒゼキヤはどのように高ぶったのでしょうか。神様がヒゼキヤの病気を癒された後、バビロンから使者がやって来ました。彼らは、神様がヒゼキヤのために何をしてくださったのかを聞いたからです。

しかし、ヒゼキヤは神様を誉めることなく、自分の富、つまり金や銀、武器、そして宝物のすべてを見せびらかしました。

そのため、イザヤはヒゼキヤにこう言いました。

万軍の主のことばを聞きなさい。見よ。あなたの家にある物、あなたの先祖たちが今日まで、たくわえてきた物がすべて、バビロンへ運び去られる日が来ている。何一つ残されまい、と主は仰せられます。

また、あなたの生む、あなた自身の息子たちのうち、捕らえられてバビロンの王の宮殿で宦官となる者があろう。(イザヤ39:5-7)

多分、その日バビロン人はヒゼキヤの富を目にしたことで、後にその富を得るためにユダを攻めようと考え始めたのでしょう。

それだけではなく、ヒゼキヤはバビロン人に神様の恵みについて伝える絶好のチャンスを逃してしまいました。もし彼が神様の恵みを語っていたなら、彼らは悔い改めて神様に従い始めた可能性もあったのです。

私たちも、神様の恵みを忘れると同じようなことが起こるかもしれません。自分の持ち物や、自分が成し遂げたことを誇ってしまい、それらの祝福がどこから来たのかを見失ってしまうのです。

そして、他の人々が私たちの祝福を見るとき、私たちは時に神様が与えてくださった恵みを忘れてしまい、自分自身がどのようにそれらを得たのかを誇ることがあります。

その結果、彼らは私たちが仕える神様を誉めるのではなく、私たち自身を誉めてしまうのです。

あなたはどうでしょうか。他の人々があなたを見るとき、その人たちはあなたの成功に感動し、あなたを誉めるのでしょうか。

それとも、彼らはあなたを通して神様を知り、神様を求め始めるのでしょうか。

どうか、神様の恵みを忘れないでください。むしろ、謙遜な心を持ち、いつも神様に感謝を捧げ、神様からいただいた恵みを周りの人々と分かち合いましょう。

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イザヤ書 列王記第二 歴代誌第二

私たちの問題を神様に委ねる

ヒゼキヤはついに悔い改め、神様に向き直りました。それでも、彼の問題はまだ解決していませんでした。アッシリヤは依然としてエルサレムを占領しようと狙っていました。

それでも、ヒゼキヤは再び神様に信頼を置き、神様の約束(イザヤ書38:6)を心に刻んでいたため、希望を持つことができました。そこで、ヒゼキヤは民に向かってこう言いました。

強くあれ。雄々しくあれ。アッシリヤの王に、彼とともにいるすべての大軍に、恐れをなしてはならない。おびえてはならない。

彼とともにいる者よりも大いなる方が私たちとともにおられるからである。

彼とともにいる者は肉の腕であり、私たちとともにおられる方は、私たちの神、主、私たちを助け、私たちの戦いを戦ってくださる方である。(歴代誌第二32:7-8)

ユダ人たちはその言葉を聞いて励まされました。

けれども、アッシリヤの王は自分の家来たちをエルサレムに送りました。

そして、その家来たちは、サタンのように、ユダ人を恐れさせるために嘘と真実を混ぜて語りました。

彼らはこう言いました。

「エジプトはあなたたちを助けることができない。他の国々は私たちの前に立つことができなかった。その国々の神々は彼らを救うことができなかった。」

それらの言葉は、すべて事実でした。しかし、彼らは続けてこうも言いました。

「あなたたちの神も、あなたたちを助けることができない。たとえできたとしても、あなたたちの神は私たちの味方です。実は、あなたたちを滅ぼすために私たちを遣わしたのです。」

それは本当に興味深い言葉です。もちろん、一部は嘘でした。それは、神様がユダを救うことができないということです。

とはいえ、アッシリヤ人たちは神様の預言者たちの言葉を耳にしたことがあったのかもしれません。つまり、預言者たちはアッシリヤがユダを攻撃することを警告していました。

だから、多分アッシリヤ人たちはこう言いたかったのです。

「ほら、あなたたちの預言者たちは、私たちが来ることを警告したでしょう。そして今、私たちは来たのです。あなたたちを倒すために。」

けれども、アッシリヤ人たちは二つのことを言いませんでした。

一つ目は、神様がアッシリヤの没落をも預言していたということです。

二つ目は、神様が警告された理由は、ユダ人たちが悔い改めて救われるためだったということです。

とにかく、ヒゼキヤはその言葉を聞くと、すぐに主の宮に行き祈りました。そして、イザヤはもう一度ヒゼキヤを励ましました。

その後すぐに、クシュの王とその軍隊がアッシリヤ人たちを攻撃したため、アッシリヤ人たちは退却せざるを得ませんでした。

しかし、去る前に、彼らはヒゼキヤに手紙を送り、こう言いました。「また戻ってきます。」

さらに、その家来たちはもう一度アッシリヤが成し遂げたことを自慢しました。

では、ヒゼキヤはどうしたのでしょうか。彼はその手紙を主の前に広げ、祈りました。

ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、万軍の主よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。

主よ。御耳を傾けて聞いてください。主よ。御目を開いてご覧ください。生ける神をそしるために言ってよこしたセナケリブのことばをみな聞いてください。

主よ。アッシリヤの王たちが、すべての国々と、その国土とを廃墟としたのは事実です。彼らはその神々を火に投げ込みました。それらは神ではなく、人の手の細工、木や石にすぎなかったので、滅ぼすことができたのです。

私たちの神、主よ。今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、あなただけが主であることを知りましょう。(イザヤ書37:16-20)

その祈りから、私たちはいくつかの大切なことを学ぶことができると思います。

1.困難なときに、主がどのような方であるかを思い出しましょう。

神様は天におられる神であり、この世を治めるお方です。また、創造者として私たちを助ける力を持っておられます。

2.私たちの問題を神様に委ねましょう。

自分の必要や疑いについて、正直に神様に語りましょう。

3.へりくだって、神様の助けを求めて祈りましょう。

神様の力に頼るとき、私たちは真の希望を見つけることができます。

ヒゼキヤはこのように行動しました。その結果、神様は彼の祈りを聞き入れ、彼を救われました。神様はアッシリヤの軍隊を打ち滅ぼし、その王も最終的に自分の息子たちによって命を落としました。

あなたが直面している問題は何ですか。 神様があなたの問題よりも偉大なお方であることを思い出してください。

あなたの問題を神様に委ねましょう。そして、救いを求めて祈り、神様に信頼し、その御言葉に従いましょう。

そうすれば、ヒゼキヤのように神様からの救いを経験することができます。

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イザヤ書 列王記第二 歴代誌第二

低くされた

以前も言ったように、この出来事が起こった正確なタイミングは分かっていません。残念ながら、聖書は特定の箇所で具体的な説明をしていないため、私は推測するしかありません。

列王記第二17章から18章では、アッシリヤの王セナケリブが北イスラエル王国を攻撃して滅ぼしたことが記されています。

そして彼はユダを攻撃しました。その理由は、ユダがアッシリヤへの貢物の支払いをやめたからです。しかし、セナケリブ王が攻撃しようとした際、ヒゼキヤは自分のお金と主の宮から金銀を取り除いてセナケリブに支払いました。

ところが、セナケリブ王が再び攻撃してきた際、ヒゼキヤは別の準備を進めていました。ヒゼキヤとユダの民は武器を集め、都市の壁を修理し、さらにアッシリヤ人に水が流れないようにするため、エルサレムの外にある泉の水を塞ぎました。

これは私自身の考えですが、そのような状況でも、多分ヒゼキヤはまだ自分自身に頼り続けていたのだと思います。エジプトとの同盟が失敗したにもかかわらず、依然として神様に向かうことはありませんでした。

そこで、神様はヒゼキヤを病気で打たれました。ずっとイザヤの警告を無視してきたヒゼキヤでしたが、ついに主を訪ねるためにイザヤを呼びました。

そして、イザヤが来てこう言ったのです。

主はこう仰せられます。「あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。」(列王記20:1)

ヒゼキヤはその状況をどう感じたでしょうか。エルサレムは包囲され、彼自身は病に倒れて死にかけていました。そして、その時点ではまだ息子がいませんでした。(息子のマナセは3年後に誕生しました。)

彼は神様を責めたかもしれません。「どうしてこんなことが起こるのでしょうか。どうして私を打たれるのでしょうか。」

その怒りは自己憐憫へと変わった可能性もあります。

けれども、最終的に彼は神様の前にへりくだるようになりました。

ヒゼキヤは自分のプライドと罪を悔い改め、神様に祈いました。彼の祈りは、神様がヒゼキヤの過去の良い行い、つまり心から主を求めたことを思い出してくださるよう願うものでした。

そして彼は主の前で涙を流しました。

イザヤはその場を立ち去り始めていましたが、神様が彼を止め、ヒゼキヤへの特別なメッセージを与えてくださいました。

わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたの寿命にもう十五年を加えよう。

わたしはアッシリヤの王の手から、あなたとこの町を救い出し、この町を守る。(イザヤ書38:5-6)

そして、主はしるしを与えてくださいました。それは日時計に下った時計の影を十度後に戻すというものでした。

神様がどのようにそのことをされたのかは分かりません。神様がこの世界を逆方向に回されたのか、光の錯覚を起こされたのかは分かりません。いずれにせよ、神様は約束されたとおりに、ヒゼキヤを癒してくださいました。

私たちはこの出来事から何を学ぶことができるでしょうか。

時に神様は、私たちが神様に目を向けるようにするために私たちを低くされます。もし私たちが神様の言葉に耳を傾けないとしても、神様は私たちを愛しておられるので、私たちを無視することはありません。

神様は私たちの悔い改めのために働いてくださるのです。

ヒゼキヤは次のように書き残しました。

何を私は語れましょう。主が私に語り、主みずから行なわれたのに。私は私のすべての年月、私のたましいの苦しみのために、静かに歩みます。。。

ああ、私の苦しんだ苦しみは平安のためでした。あなたは、滅びの穴から、私のたましいを引き戻されました。あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました。(イザヤ書38:15,17)

あなたは自分の罪によって苦しんでいるでしょうか。神様はあなたを滅ぼすことを望んでおられません。

神様の望みは、あなたがへりくだって生きることです。神様の望みは、あなたが神様に信頼し、あなたの人生が豊かになることです。また、あなたが他の人々にも神様に信頼することを教えることです。

ヒゼキヤは次のように歌いました。

父は子らにあなたのまことについて知らせます。主は、私を救ってくださる。私たちの生きている日々の間、主の宮で琴をかなでよう。(イザヤ書38:19-20)

私たちは自分自身に信頼するのではなく、毎日へりくだって神様に信頼することを選びましょう。そして、その生き方を他の人々に教え、神様への信頼を広めましょう。

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裁きと贖い

裁きと贖い。聖書では、この二つのコンセプトを頻繁に目にします。この箇所でも、その二つのコンセプトを見ることができます。

34章では、神様がイスラエルを攻撃した国々を裁き、滅ぼします。

35章では、イスラエルの贖いが描かれています。その贖いはどのように来るのでしょうか。

それは、イエス・キリストを通してやって来ます。

イザヤはイスラエル人を励まします。

弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。心騒ぐ者たちに言え。

「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」(イザヤ書35:3-4)

「あなたの神は来られる。」

短期的には、神様はアッシリヤ人やバビロン人を裁きに来られました。しかし、神様は救いのためにも来られました。

5-6節で、イザヤはこう言っています。

そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。

そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。(35:5-6a)

バプテスマのヨハネは牢にいた時、自分の弟子たちをイエス様のもとに送り、こう質問しました。「あなたは本当にメシアでしょうか。」

それに対して、イエス様は答えられました。

あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。

目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。(マタイ11:4-5)

多分、イエス様はこのイザヤの箇所を考えておられたのでしょう。イエス様はこう言われました。

「イザヤの言葉を覚えていますか。つまり、神様が来ると、目の見えない者の目が開かれ、耳の聞こえない者の耳が開き、足の不自由な者は鹿のように跳びはねるということです。覚えていますか。

今、それは起こっています。

だから、ヨハネに伝えてください。「あなたの弱い手を強め、あなたのよろめく膝をしっかりせよ。強くあれ。恐れるな。私は来たから。あなたの希望を捨てないでください。」」

ヨハネのように、私たちは時々神様を疑うことがあるかもしれません。私たちの信仰が枯れて、神様が本当に存在するのかを疑い、神様の愛を疑い、神様からの救いが本当に来るのかどうかを迷うことがあります。

しかし、イエス様がヨハネに言われたように、疑いに負けないでください。イエス様にすがってください。イエス様は来られたのです。

そして、イエス様はあなたのところに来てくださいます。イエス様が来られると、

荒野に水がわき出し、荒地に川が流れる。。。

焼けた地は沢となり潤いのない地は水のわく所となり[ます]。。。(イザヤ書35:6b-7a)

そして、ある日、あなたは、

喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。

楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る。(イザヤ書35:10)

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命の鍵

この箇所の5-6節が私は大好きです。

主はいと高き方で、高い所に住み、シオンを公正と正義で満たされる。あなたの時代は堅く立つ。

知恵と知識とが、救いの富である。主を恐れることが、その財宝である。(イザヤ書33:5-6)

この時、イスラエル人は本当に困難な状況にありました。彼らがエジプトや他の国々と結んだ同盟は失敗に終わり、アッシリヤは攻撃のために迫っていました。

それでも、神様はこう言われました。

「私はすべてに勝る力を持っています。この世の力よりも私は力強いのです。私はあなたの基礎であり、あなたの時代を堅く立たせます。私の知恵と知識は、あなたの救いの富です。」

しかし、その財宝の鍵は何でしょうか。それは、主を恐れることです。

つまり、他のどんなものよりも、神様を敬うことです。

また、神様と比べると、私たちがどれほど小さな存在であるかを思い起こすことです。

さらに、一言で言えば、神様が私たちを滅ぼすことのできる方であることを思い起こすことです。

それでも、私たちが主の御前で謙遜にへりくだる時、神様が私たちに愛と憐れみを注いでくださることを思い起こすことです。

だから、神様はこう言われます。

「遠くの者よ。わたしのしたことを聞け。近くの者よ。わたしの力を知れ。」(13)

多くの人々にとって、神様に面と向かうことは恐ろしいものです。だから、14節にはこう書いてあります。

罪人たちはシオンでわななき、神を敬わない者は恐怖に取りつかれる。(13a)

だから、彼らはこう叫びます。

私たちのうち、だれが焼き尽くす火に耐えられよう。

私たちのうち、だれがとこしえに燃える炉に耐えられよう。(13b)

しかし、神様はこう答えられます。「誰にでもできるよ。」

正義を行なう者、まっすぐに語る者、強奪による利得を退ける者、手を振ってわいろを取らない者、耳を閉じて血なまぐさいことを聞かない者、目を閉じて悪いことを見ない者。。。(15)

そのような人々に神様はこう言われます。

このような人は、高い所に住み、そのとりでは岩の上の要害である。

彼のパンは与えられ、その水は確保される。あなたの目は、麗しい王を見、遠く広がった国を見る。(16-17)

そして、私たちが振り返ると、かつて恐れていたもののすべてが一掃されることが分かります。

その結果、私たちの人生は安らかな住まいとなり、取り払われることのない天幕となります。(20)

また、

そこに住む民の罪は赦される。(24)

私たちは何を恐れるでしょうか。人々は実に多くのことを恐れます。

最近、熊本で大きな地震がありました。そのため、皆は地震などの災害が起こることを心配しています。

多くの人々は日本の経済についても不安を感じています。

さらに、自分の将来を恐れている人も少なくありません。

しかし、私たちが神様を恐れるならば、他のものを恐れる必要はありません。

そして、イザヤはこう言いました。

しかも、そこには威厳のある主が私たちとともにおられる。。。

まことに、主は私たちをさばく方、主は私たちの立法者、主は私たちの王、この方が私たちを救われる。(21-22)

だから、神様が与えてくださった鍵を持って、神様を恐れましょう。そうすれば、私たちは生き残るだけでなく、繁栄することができます。

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イザヤ書

今日の祈り

この祈りが大好きです。

主よ。私たちをあわれんでください。私たちはあなたを待ち望みます。

朝ごとに、私たちの腕となり、苦難の時の私たちの救いとなってください。(イザヤ書33:2)

この箇所は私の心の中に深く響いています。

主よ、私たちをあわれんでください。

主よ、私たちは毎日あなたの憐れみを必要としています。私は毎日失敗したり、罪を犯したりして、あなたを悲しませてしまいます。どうか赦してください。憐れんでください。

そして、この憐れみを受けた私が、周りの人々にその受けた憐れみを与えることができるように助けてください。

私たちはあなたを待ち望みます。

主よ、私の魂はあなたを慕いあえぎます。私の人生にもっともっとあなたを求めています。どうか私の心があなたを求め続けるようにしてください。そして、私の心を一つにしてください。

朝ごとに、私たちの腕となってください。(腕は力のシンボルです。)

主よ、毎朝私が目覚めるとき、私の力となってください。

試練に直面するとき、私の力となってください。難しい人と向き合うとき、私の力となってください。大変な状況に立ち向かうとき、私の力となってください。そして、今日、私とともに歩んでください。

苦難のとき、私たちの救いとなってください。

主よ、私が心配の重荷を抱えているときに助けてください。敵が迫ってくるとき、私の救い主となってください。

主よ、私は弱い者です。自分の力では敵と戦うことができません。どうか悪から私をお救いください。そして、私がその悪を乗り越えることができるように助けてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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安心。。。じゃない

安心。

多くの人々は安心を求めています。彼らは心から安心したいと願っています。特に自分の将来において、安定を求めています。

そのため、多くの人々がお金を求めています。お金さえあれば安心できると思うからです。

1980年代、日本の経済は本当に順調でした。その結果、多くの日本人が経済的に繁栄していました。

けれども、結局バブルは崩壊し、その安心も消えてしまいました。1991年から2003年の間に、日本の自殺率は約70%も上昇しました。現在でも、日本の自殺率は依然としてかなり高いままです。

イザヤの時代、イスラエル人は1980年代の日本人のようでした。彼らは繁栄し、安心していました。ところが、日本人と同じように、その繁栄と安心は突然失われました。

そんな中、イザヤは彼らに次のように言いました。

のんきな女たちよ。立ち上がって、わたしの声を聞け。うぬぼれている娘たちよ。わたしの言うことに耳を傾けよ。うぬぼれている女たちよ。

一年と少しの日がたつと、あなたがたはわななく。ぶどうの収穫がなくなり、その取り入れもできなくなるからだ。

のんきな女たちよ。おののけ。うぬぼれている女たちよ。わななけ。着物を脱ぎ、裸になり、腰に荒布をまとえ。(イザヤ書32:9-11)

あなたは何に安心を感じますか。お金でしょうか。

お金は安心を買うことはできません。

むしろ、多くの人々はお金によってさまざまなトラブルを抱えてしまいます。

例えば、働きすぎることで結婚生活が弱くなり、最終的に離婚に至ることがあります。そして、離婚によって子供との関係も壊れてしまうのです。

また、他の人々は働きすぎて、自分が貯めたお金を楽しむことすらできません。現在でも、日本政府の報告によれば、過労死により毎年約200人が亡くなっています。

他の人々はお金を愛し、自分の経済のことを絶えず心配しています。どうやってそのお金を持ち続けるか、常に不安に感じています。

しかし、神様だけにあって、本当の安全を見つけることができます。

イザヤがイスラエル人に言ったのは、「あなたが信頼しているものは、あなたから取り除かれる」ということです。

けれども、そのあとで、イザヤは次のように言いました。

しかし、ついには、上から霊が私たちに注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる。(15)

私たちが聖霊によって満たされるなら、私たちは霊の実を結ぶことができます。例えば、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、そして自制を結びます。(ガラテヤ5:22-23)

これらの実を結ぶことで、私たちは真の安心を見出すことができるのです。

そして、イザヤは次のように書きました。

義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす。(17)

あなたは安心を求めているでしょうか。お金やこの世のものによって安心を見つけることはできません。一時的な安心を見つけることができても、それはすぐに消えてしまいます。

むしろ、神様に信頼しましょう。聖霊があなたの人生を満たしてくださるように祈りましょう。そうすれば、

人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ4:7)

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イザヤ書

「本当の男」って?

男とは何でしょうか。

30年前、私は興味深いアメリカの記事を読んだことがあります。その記事によれば、アメリカには「本当の男」がほとんどいなかったそうです。つまり、多くの男性が弱虫だとされていました。

ある女性はこう言いました。「アメリカには、他の国よりも弱虫が多いと思います。多くの若い男性たちは弱虫です。私が知っている男性たちの大部分は弱虫です。」

それは本当に辛い言葉です。では、今はどうでしょうか。「本当の男」はいるのでしょうか。

「本当の男」とはどんな男性を指すのでしょうか。相手をいじめる人でしょうか。威力を振るう人でしょうか。それとも、相手に自分の意志を押し付ける人でしょうか。

この箇所では、その答えを見つけることができると思います。イザヤは正義によって治める王について語っています。

ヒゼキヤについて述べているのかもしれませんが、将来の王、つまりイエス様についても語っていると思います。

そして、その王(と首長)についての記述を通して、本当の王とは何か、また本当の男とはどういう人かが分かると思います。

彼らはみな、風を避ける避け所、あらしを避ける隠れ場のようになり、砂漠にある水の流れ、かわききった地にある大きな岩の陰のようになる。(イザヤ書32:2)

つまり、「本当の男」とは、神様が彼に委ねられた人々を守る者です。嵐が訪れても、彼はその民を守ります。彼は水の流れのように人々を潤し、リフレッシュさせます。

気短な者の心も知識を悟り、どもりの舌も、はっきりと早口で語ることができる。

もはや、しれ者が高貴な人と呼ばれることがなく、ならず者が上流の人と言われることもない。(3-4)

この箇所によれば、本当の男とは教師です。彼の言葉を通して、相手の耳と目が開かれ、彼らは真理を理解できるようになります。その結果、彼らの人生は変えられます。

そして最後に、イザヤは次のように言いました。

しかし、高貴な人は高貴なことを計画し、高貴なことを、いつもする。(8)

つまり、「本当の男」とは、神様の目にかなう計画を立て、神様の目にかなうことを行う人です。

けれども、6~7節では、イザヤは違う種類の男性について述べています。

その男性は、恥ずべき言葉を語り、悪事を企むだけでなく、それを実行します。さらに、神様とその心について誤った教えを広めます。

また、相手を潤すこともなく、必要なものを与えず、人々を励ますどころか、自らの言葉と行動によって相手を滅ぼしてしまいます。

父として、夫として、私が自問しなければならないのは、「私はどんな男なのか」ということです。

私は、しばしば自分の失敗に気づかされます。神様は私を男として生きるように召してくださいましたが、私はなお、男として成長し続けなければなりません。

しかし、イエス様こそが本当の男でした。私がこれまで成し得なかったことを、すべて成し遂げられた方です。

イエス様は私の弱さをよく知っておられ、私の誘惑も深く理解しておられます。

ヘブル人への手紙の著者は次のように書いています。

さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(へブル4:14-16)

イエス様の再臨まで、私はその恵みの御座に近づきます。

男性の皆さん。あなたはどのような男でしょうか。イエス様のような男でしょうか。

女性の皆さん、特にシングルの女性たち。どのようなボーイフレンドと付き合っていますか。また、どのような伴侶を探していますか。イエス様のような人を求めていますか。

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イザヤ書 列王記第二

私たちの力と救いがどこから来るか

歴史の出来事と預言を結びつけるのは確かに少し難しいですが、この二つの箇所のタイミングは一致している可能性があります。

アッシリヤの王セナケリブとその軍隊は再びユダに侵攻し、攻撃しようとしました。理由は、ヒゼキヤ王がアッシリヤへの貢物を納めるのをやめたからです。

セナケリブはユダの城壁のある町々を攻撃し、侵略しました。そのため、ヒゼキヤは恐れ、謝罪して再びセナケリブに貢物を納めました。

けれども、その貢物を納めるために、ヒゼキヤは主の宮の金と銀を取り除かなければなりませんでした。

なぜそうなったのでしょうか。イザヤ書30-31章では、イザヤがヒゼキヤ王に対して「エジプトと同盟を結んではならない」と警告しました。

それにもかかわらず、ヒゼキヤはその警告を無視して、エジプトとの同盟を結びました。それだけでなく、ヒゼキヤとユダの民はイザヤにこう言いました。

「そのようなことを言わないでください。私たちは聞きたくありません。もし何か言いたいなら、私たちが聞きたいことだけを言ってください。例えば、エジプトが私たちを助けてくれるということなど。」(イザヤ書30:10-11)

その結果、神様は「あなたの背きのゆえに裁きが来る」と警告しました。

けれども、その後、神様はこう言われました。

「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」しかし、あなたがたは、これを望まなかった。。。

それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。

幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。(イザヤ30:15、18)

つまり、神様はこう言われました。

「もう諦めなさい。自分自身を救おうとするのを止めなさい。自分の力や知恵に頼るのではなく、悔い改めて、落ち着いて私に信頼しなさい。」

さらに、神様は彼らにこう言われました。

「あなたたちにはエジプトの助けは必要ありません。私は神です。エジプトは神ではありません。私はアッシリヤを打倒することのできる神なのです。」

けれども、以前言ったように、ヒゼキヤは神様の言葉に従いませんでした。それどころか、エジプトと同盟を結び、彼らに多額のお金を送ったのです。

そして、神様の言葉どおり、アッシリヤの手によってエジプトは倒されました。

しかし、その後、イスラエルはすでに多くの金と銀をエジプトに支払っていたため、アッシリヤへの貢物を納めるために、主の宮からその金と銀を取り除かなくてはなりませんでした。

それでもアッシリヤはユダを攻撃しました。そのとき、ついにヒゼキヤは悔い改め、神様に立ち返りました。そして、神様が約束されたとおりにエルサレムを救われたのです。

私たちはこの出来事から何を学ぶことができるでしょうか。

私たちは皆、試練に直面します。そして、自分自身に頼ろうとするのは簡単なことです。

しかし、神様は私たちを助けたいと望んでおられます。神様は私たちの人生に働き、私たちを祝福したいと望んでおられるのです。ですから、神様がヒゼキヤとユダの民に語られたように、私たちにもこう言われます。

ああ、シオンの民、エルサレムに住む者。もうあなたは泣くことはない。あなたの叫び声に応じて、主は必ずあなたに恵み、それを聞かれるとすぐ、あなたに答えてくださる。

たとい主があなたがたに、乏しいパンとわずかな水とを賜わっても、あなたの教師はもう隠れることなく、あなたの目はあなたの教師を見続けよう。

あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く。(イザヤ書30:19-21)

神様は知恵の言葉と慰めの言葉を私たちにささやいておられます。

けれども、私たちはその声に耳を傾けているでしょうか。

私たちは本当に神様に頼っているでしょうか。

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盲人、無知な人

「どうして神様ははっきりとご自身を現されないのでしょうか。そうしてくだされば、私は神様が存在するかどうかを推測する必要がなくなるのです。」

時々、信者も信じない人も、そのようなことを言います。

けれども、その質問をするのであれば、まず、私からあなたに質問があります。

もし神様がそのようにはっきりと現れたら、あなたは本当に神様についていくでしょうか。それとも、単に神様についていかないための言い訳をしているだけではないでしょうか。

実際、聖書の時代には神様はご自身をもっとはっきりと現されました。それでも、多くの人々は神様についていこうとはしませんでした。

例えば、神様は驚くべきしるしと奇跡を通して、イスラエル人をエジプトから救い出してくださいました。何度も砂漠で、神様は彼らに食べ物と水を備えてくださいました。また、雲の柱と火の柱はイスラエル人の宿営にあり、それらは神様の臨在のしるしでした。

それにもかかわらず、イスラエル人は何度も神様を信頼せず、神様に背きました。

そして、新約聖書の時代、神様は人間としてこの世に来られ、イスラエル人にご自身を現されました。イスラエル人はずっと救い主の到来を祈り求めており、ついにイエス様が来られました。

イエス様は奇跡を行い、知恵によって人々を教えられました。他の人々はイエス様と議論しようとしましたが、最終的に彼らは黙らざるを得ませんでした。

それなら当然、イスラエル人全員がイエス様についていったと思うかもしれませんね。

ところが、そうではありません。彼らはイエス様を十字架に掛けました。

このイザヤの箇所では、私たちはそのような態度を見ることができます。アリエル(つまりエルサレム)はまさにそのような態度を持っていたため、イザヤは彼らを責めました。

「アリエル」という言葉の意味は、「神様のライオン」ですが、イザヤはその名前を皮肉として用いています。

彼らは「私たちは神様のライオンだ」と言っていながら、自分たちの道を歩んでいました。

イザヤは次のように言いました。

そこで主は仰せられた。

「この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない。(イザヤ書29:13)

だから、神様は裁きについて警告されました。まず、神様はエルサレムを裁くと告げましたが、彼らのプライドが打ち砕かれた後には、エルサレムの敵も裁くと警告されました。

しかし、イスラエル人はその警告を聞いても、危険を認識することができませんでした。なぜでしょうか。

イザヤは次のように言いました。

主が、あなたがたの上に深い眠りの霊を注ぎ、あなたがたの目、預言者たちを閉じ、あなたがたの頭、先見者たちをおおわれたから。(10)

あなたはこう言うかもしれません。「ちょっと待って、それは公平ではない。神様が彼らの目を閉じたのなら、彼らが見ないことで罰するのは不公平ではないですか。」

けれども、実際のところ、イスラエル人は何も見たくありませんでした。知りたいとも思いませんでした。

イザヤは次のように言いました。

のろくなれ。驚け。目を堅くつぶって見えなくなれ。(9)

つまり、「あなたは見たくないのですか。真実に目を閉じたいのですか。いいでしょう。では、あなたはその真理を見ることはできないでしょう。」

イザヤは別の比喩を使いました。神様の言葉は、イスラエル人にとって封じられた書物のようになる、と。

そのため、イスラエル人はこう言います。「神様の言葉は封じられた書物だから、読むことができない。」

または、こう言います。「この預言は難しすぎる。理解できない。」

さらに、「私は読むことができないから、しょうがない。」とも言います。

しかし、それは単なる言い訳でした。彼らは心の中で、本当に理解したくなかったのです。もし本当に理解したかったのなら、間違いなくイザヤや他の預言者に尋ねていたでしょう。

けれども、彼らは、ただ「ごめんなさい。分かりません。」と言って立ち去っただけでした。

イエス様の時代、多くのイスラエル人もまた、このような人々でした。

イエス様は多くのたとえ話を使いました。彼らはその話を気に入りましたが、その意味を理解することはありませんでした。それでも、説明を求めることもせず、彼らはただ帰っていきました。

その一方、イエス様の弟子たちはその意味を知りたかったので、イエス様に質問をしました。すると、イエス様がそのたとえ話を説明され、彼らは理解することができました。

現代でも、多くの人々はこう言います。「聖書は難しすぎて、分かりません。」

しかし、本当に理解したいという心があれば、理解することは可能です。

それでも、彼らは助けを求めることなく、すぐに立ち去ってしまいます。

それは、自分の目を閉じることを意味します。つまり、真理を知りたくないという態度です。

そのような態度を取れば、神様はこう言われます。「それはあなたの選択です。けれども、裁きの日は確実に来ています。あなたは必ず裁かれるでしょう。」

あなたはどうでしょうか。神様の心に対して、自分の目を閉じますか。神様の言葉を知りたくないと考えていますか。

もし、あなたが自分の目を閉じて真理を知りたくないなら、神様はあなたに無理やりご自身を認めさせることはされません。

しかし、もし見たいと望み、心から神様を求めるなら、神様はご自身をあなたに現されるのです。

神様は、イスラエル人にこのような日が来ることを語られました。

その日、耳の聞こえない者が書物のことばを聞き、目の見えない者の目が暗黒とやみから物を見る。(18)

また、

心の迷っている者は悟りを得、つぶやく者もおしえを学ぶ。(24)

私たちが盲人にならないように、無知な人にならないようにしましょう。むしろ、心から神様を求めましょう。そうすることで、私たちは本当に生きはじめるのです。

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知恵はどこから来るのか

「神様は物理学を理解できるだろうか。生物学はどうだろうか。テクノロジーはどうだろうか。神様は本当にそんなことを理解できるだろうか。」

多くの人々はそのように考えます。

イザヤの時代でも、人々は神様の知恵を疑いました。そのため、彼らは何度も神様に信頼しませんでした。

この箇所では、神様はイスラエル人に、彼らの農業の知識がどこから来たのかを尋ねます。

これまで私は考えていませんでしたが、神様がアダムとエバを造り、エデンに置いたとき、多分神様は彼らに基本的な農業技術を教えたのかもしれません。

そして、時間が経つにつれて、神様はアダムとエバの子孫に、さらに高度な技術を授けられました。

直接教えなくても、神様が彼らに知恵を与えてくださったので、最終的に彼らは自分たちでその技術を学び取ることができました。

こうして、神様はご自身の問いに答えておられるのです。

農夫を指図する神は、彼に正しく教えておられる。(26)

また、

これもまた、万軍の主のもとから出ることで、そのはかりごとは奇しく、そのおもんぱかりはすばらしい。(イザヤ書28:29)

神様のポイントは何でしょうか?

私たちの知識は、もともと神様から来たものです。

世紀にもわたって、私たちはさまざまなことを学んできましたが、神様は最初から全てを知っておられました。私たちが学んだことの中で、神様が知らないことは一つもありません。

神様は、科学、政治学、経済学、心理学、人間関係など、全てを理解されています。私たちが良い人生を送るために何が必要なのか、神様はよくご存じです。

それなのに、なぜ私たちは神様に信頼しないのでしょうか。

多くの場合、私たちは神様の御言葉を読んで、こう言います。

「神様、あなたは分かっておられない。私たちの社会が分かっておられない。私の必要が分かっておられない。もし分かっているなら、あなたの御言葉にこんなことが書いてあるはずがない。」

でも、私たちがそのように考えると、私たちの心は神様を小さくします。

神様は偶然に私たちを造られたのではありません。神様は指を鳴らして、急に全てを造り、そのあとで、「どうやって全てを造ったのだろうか」と悩むような方ではありません。

神様は全てをご存じです。全てを理解されています。神様にあって、私たちが必要とする知恵が備えられています。

だから、神様をあなたの心の中で小さくしないでください。神様をありのままに認めましょう。

パウロが言ったように、

ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。

なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。

というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。

どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(ローマ11:33-36)

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おぼつかない礎、堅く据えられた礎

預言書の中でよく扱われるテーマの一つは、信頼です。私たちは誰に信頼を置いているでしょうか。私たちの人生の基盤は何でしょうか。

イスラエルは自分自身を守るために、神様ではなく、自分たちの知恵と努力に信頼しました。そして、神様の預言者たちを拒絶し、その真理をわけのわからない言葉として見なしました。

そのため、イザヤは彼らを厳しく批判します。ユダ人たちは、自分たちをアッシリヤから守るために、エジプトと同盟を結びました。けれども、イザヤはその同盟を「死との契約」と比べています。

イザヤは次のように言いました。

あなたがたは、こう言ったからだ。「私たちは死と契約を結び、よみと同盟を結んでいる。

たとい、にわか水があふれ、越えて来ても、それは私たちには届かない。私たちは、まやかしを避け所とし、偽りに身を隠してきたのだから。」(イザヤ書28:15)

イザヤは、皮肉をよく使います。彼はこう言いました。

「あなたがこの同盟を結んだとしても、実際には、あなたは死と契約を結んだのです。

あなたは倒れ、相手の国も倒れるでしょう。だから、自分自身に嘘をついてはいけません。この同盟は、あなたを守ることなどできないのです。」

そして、イザヤは彼らに警告しました。

わたしは公正を、測りなわとし、正義を、おもりとする。

雹は、まやかしの避け所を一掃し、水は隠れ家を押し流す。

あなたがたの死との契約は解消され、よみとの同盟は成り立たない。

にわか水があふれ、越えて来ると、あなたがたはそれに踏みにじられる。それは押し寄せるたびに、あなたがたを捕らえる。それは朝ごとに押し寄せる。昼も夜も。

この啓示を悟らせることは全く恐ろしい。」(17-19)

けれども、こうした警告の中で、イザヤは次のようにも言いました。

だから、神である主は、こう仰せられる。

「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。」(16)

新約聖書の著者たちは、この箇所を使ってイエス様について語ります。つまり、イエス様は私たちの堅く据えられた礎です。

もし私たちがイエス様に信頼するなら、私たちは堅く立つことができ、決して慌てることはありません。

しかし、もし私たちが自分の嘘を信じ、自分の知恵と努力に頼り、神様の言葉をからかうなら、裁きが来て、私たちは滅ぼされるのです。

だから、イザヤは次のように言いました。

だから今、あなたがたはあざけり続けるな。あなたがたを縛るかせが、きつくされるといけないから。

私は万軍の神、主から、全世界に下る決定的な全滅について聞いているのだ。(22)

あなたはどうでしょうか。あなたの礎は何でしょうか。あなたの知恵でしょうか。あなたの努力でしょうか。それとも、イエス様でしょうか。

他の礎では不安定です。もしあなたがその礎に人生を築いたなら、その人生はきっと倒れるでしょう。

しかし、キリストにあって、私たちは堅く据えられた礎を持っています。そして、イエス様に信頼する者は、決して失望させられることがありません。

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聞こうとしない、学ぼうとしない

英語の教師として、いらいらさせられるのは、学ぶ意欲のない生徒たちです。

ある授業では、生徒たちは全く努力をしません。もし、私が彼らに英語のアクティビティを与えたら、彼らはショックを受けたように見えます。

とはいえ、それよりも、もう一つの態度の方が嫌いです。それは、「既に全て知っている」という態度です。

「もう知っていますよ。教えていただく必要はありません。全て知っていますから。」

それでも、彼らに質問をすると、自分たちが思っているほど理解していないことが、はっきりと分かるものです。

イスラエル人は、そのような人々でした。特に、その「祭司たち」と「預言者たち」は、そのような人々でした。

実は、その祭司たちと預言者たちは偽物の祭司たちと預言者たちでした。彼らは、本当の信仰と偶像礼拝を混ぜたからです。

イザヤは、この人々を酔っ払い、混乱している人々として描写しています。彼らは、イスラエル人を神様を礼拝するように導くはずでしたが、お酒によって「幻」を見て、イスラエル人を神様から遠ざけました。

イザヤや他の本当の預言者たちは彼らに教えようと思いましたが、彼らはイザヤたちをからかって答えました。

「彼はだれに知識を教えようとしているのか。だれに啓示を悟らせようとしているのか。乳離れした子にか。乳房を離された子にか。

彼は言っている。『戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し』と。」(イザヤ書28:9-10)

つまり、「私たちはもう知っていますよ。子供ではありませんよ。イザヤの言葉はちんぷんかんぷんです。」

(ヘブル語では、「戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し」という言葉は、意味のない言葉のように響きます。)

アテネ人はパウロについて、そのようなことを言いました。「このおしゃべりは、何を言おうとしているのか。」(使徒の働き 17:18)

しかし、イザヤは彼らに警告しました。

「もし私の言葉がちんぷんかんぷんだと思うなら、待ってください。すぐに、他の国の軍隊が来て、イスラエルを攻撃し、イスラエルは倒れるでしょう。その日、外国人からずっとちんぷんかんぷんに聞こえる言葉を聞くことになります。」

神様の望みは、イスラエル人が神様を愛し、神様に信頼することでした。そうすれば、彼らは神様にあって休息することができたことでしょう。(12)

けれども、彼らが神様に背を向けたため、イザヤの言葉は彼らにとってつまずきとなるものになりました。

現代でも、同じ問題があります。多くの人々は、簡単な福音を聞きますが、ちんぷんかんぷんに聞こえる言葉として、それを拒絶します。

「これは子供の話です。私はもう大人だから、いりません」と言います。

しかし、私たちの救い主イエス様を拒絶することによって、彼らは罪に陥り、いつか裁かれることになります。

クリスチャンでさえも、「もう知っている」という罠にはまることがあります。

彼らは教会に行き、メッセージを聞く時、「もう知っている」と思ったり、または「このメッセージを聞きたくない」と思ったりするため、聞くことをやめて、他のことについて考え始めます。

その結果、神様の警告も祝福も受けることができません。

あなたはどうでしょうか。神の御言葉を、わけのわからないものとして拒絶するでしょうか。それとも、神の御言葉を心に受け入れるでしょうか。その御言葉は、あなたの人生を変える力を持っています。

私たちはよく考えます。「どうしてこんなにたくさん問題があるのでしょうか。どうして、神様の祝福を受けることができないのでしょうか。」

多くの場合、それは私たちが神様の言葉を聞かないからです。

あなたの心はどうでしょうか。神様の御言葉に対して、柔らかい心を持っているでしょうか。

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神様が愛する民

「神様は私を本当に愛してくださるだろうか。」

時々、私たちは自分の状況を見て、そう思います。特に、苦しい時に私たちは神様の愛を疑います。

また、私たちは自分の人生をめちゃくちゃにして、「神様は私をもう諦めてしまわれたのだろうか」と思います。

イスラエルはそう思ったかもしれません。けれども、神様は彼らにこう言われました。

その日、麗しいぶどう畑、これについて歌え。

わたし、主は、それを見守る者。絶えずこれに水を注ぎ、だれも、それをそこなわないように、夜も昼もこれを見守っている。

わたしはもう怒らない。もしも、いばらとおどろが、わたしと戦えば、わたしはそれを踏みつぶし、それをみな焼き払う。

しかし、もし、わたしのとりでにたよりたければ、わたしと和を結ぶがよい。和をわたしと結ぶがよい。

時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面に実を満たす。(イザヤ書27:2-6)

この箇所では、神様はイスラエルを神様が世話するぶどう畑と比べられました。その言葉はイスラエルのためですが、神様は私たちクリスチャンたちにも話されます。

「私はあなたを見守ります。」

私の目はいつもあなたに留まっています。あなたの人生に何が起こっているかよく知っています。私が気づかないことはありません。全ての微笑み、すべての涙を見守ります。

「あなたに水を注ぎます。」

あなたが枯れている時に、私はあなたを潤します。のどが乾いたら、あなたの渇きを癒します。

「私はあなたを守ります。」

あなたの敵が来ると、私はあなたの盾になります。あなたが恐れたら、私はあなたの砦となります。

「私はあなたのために戦います。」

敵の力によってあなたが圧倒されると、私はあなたのために戦い、あなたは勝利を得ます。

「私の力によって、あなたは実を結びます。」

あなたの人生は咲いて、あなたの人生によって、この世界は祝福されます。

あなたは神様の言葉を聞くと、こう尋ねるかもしれません。「でも、私が罪を犯すと?神様は私を拒絶されるでしょうか。」

それでも、神様はあなたを捨てられません。

イザヤはこう記しました。

主は、イスラエルを打った者を打つように、イスラエルを打たれただろうか。あるいは、イスラエルを殺した者を殺すように、イスラエルを殺されただろうか。

あなたは彼らを追い立て、追い出し、彼らと争い、東風の日、激しい風で彼らを追放された。(7-8)

あなたが罪を犯して、神様に背くと、神様はあなたを懲らしめられます。

しかし、神様はイスラエル人を捨てられませんでしたし、あなたをも捨てられません。あなたが悔い改めると、神様はあなたを赦し、癒してくださいます。

神様はイスラエルにこう言われました。

その日、主はユーフラテス川からエジプト川までの穀物の穂を打ち落とされる。

イスラエルの子らよ。あなたがたは、ひとりひとり拾い上げられる。

その日、大きな角笛が鳴り渡り、アッシリヤの地に失われていた者や、エジプトの地に散らされていた者たちが来て、エルサレムの聖なる山で、主を礼拝する。(12-13)

私たちに対する神様の怒りはいつまでも続きません。イエス様にあなたの救いのために信頼すると、私たちの罪のために滅びることはありません。(ヨハネ3:16)

神様は私たちが神様に戻ることを待っておられます。私たちが悔い改めたら、神様は私たちを癒して、もう一度実を結ぶぶどう畑にしてくださいます。

ダビデが書いたように、

まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。

夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。(詩編30:5)

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神様に信頼すると

時々、神様に信頼することは難しいです。

多くの場合、私たちが祈る時、私たちは神様の御心を求めずに、神様を私たちの意志に従わせようとします。

「あなたに信頼します。あなたの御心が行われるように」と祈らずに、神様に何かをさせようとします。

だから、私たちが望んだように、神様がその祈りに答えてくださらないと、私たちは怒ります。

また、「神様は私を本当に愛してくださっているだろうか」と訊きます。

でもイザヤはこう言いました。

志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。

いつまでも主に信頼せよ。ヤハ、主は、とこしえの岩だから。(イザヤ書26:3-4)

「志の堅固な者。」

それはどういう意味でしょうか。

と言うのは、変化の風が吹くと、また試練が行ったり来たりすると、私たちの信仰は決して揺れません。私たちは神様に信頼し続けます。私たちは神様に頼り続けます。神様は私たちが自分の人生を立てる岩です。

そうすると、私たちは全き平安のうちに守られます。

ヘブル語では、「平安」、「平安」のうちに守られます、と書いてあります。

なぜ「平安」という言葉を繰り返すでしょうか。その平安は浅くないからです。弱くないからです。試練が来ても、その平安はすぐに吹き飛ばされないからです。

むしろ、その平安は私たちの心に根強くあるものです。何が起こっても、その平安は私たちの心を満たします。

イザヤは続きます

義人の道は平らです。あなたは義人の道筋をならして平らにされます。(7)

つまり、私たちが神様に信頼すると、神様は私たちを導いて守ってくださいます。

箴言3:6でこう書いてあります。

あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

でもプライドによって、自分の道を行く人に対して、イザヤはこう言います。

主は高い所、そびえ立つ都に住む者を引き倒し、これを下して地に倒し、これを投げつけて、ちりにされる。(5)

イスラエルはずっとそのように生きました。

神様は彼らに恵みを与えられたのに、彼らは罪の道を生き続けました。そして、神様は彼らを苦しめられたので、彼らは神様に叫びました。彼らが悔い改めたら、神様は彼らを赦されました。

でも、もし私たちが最初から神様に信頼して従うと、どれくらい私たちの人生がうまくいくでしょうか。

だから、今神様に従いましょう。全てよりも神様を求めましょう。イザヤが言ったように、私たちも言いましょう。

主よ。まことにあなたのさばきの道で、私たちはあなたを待ち望み、私たちのたましいは、あなたの御名、あなたの呼び名を慕います。

私のたましいは、夜あなたを慕います。まことに、私の内なる霊はあなたを切に求めます。(8-9)

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死が滅ぼされる時

2011年に、私の父は入院して、健康状態が非常に悪いと聞きました。私の母と姉はどれぐらい父が生き続けるか分かりませんでした。

それを聞いて、私の家族は父を見舞うためにハワイに帰省しました。私たちがハワイにいる間に、私の父は亡くなりました。

多くの人々にとって、死は苦しいことです。

父の最後の週に、私は毎晩父の部屋にいて、待ちました。彼はずっと寝て、全然起きなくて話しませんでした。それでも、私は父とよく話しました。

父は私の言うことが聞こえていたかどうか分かりません。本当に辛かったです。

ある日、私は午前12時に兄の家に戻り、姉が私の代わりに父の部屋で待ってくれました。5時間後、父は最後の息を引き取りました。

死は本当に苦しいことです。

でもある日、死も無くなります。

この箇所ではイザヤはイエス様の再臨について話します。イザヤはその事についてこう言いました。

この山の上で、万民の上をおおっている顔おおいと、万国の上にかぶさっているおおいを取り除き、永久に死を滅ぼされる。

神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。主が語られたのだ。(イザヤ書25:7-8)

その日、皆は神様にこの賛美を歌います。

見よ。この方こそ、私たちが救いを待ち望んだ私たちの神。この方こそ、私たちが待ち望んだ主。その御救いを楽しみ喜ぼう。(9)

父が亡くなった時は、糖尿病や肺炎を患っていたし、もう目が見えなかったし、足に全然治らない傷がありました。

でも、今その健康の問題は全部無くなりました。父の苦しみと痛みのすべては勝利に飲まれました。(第一コリント15:54)

だから、父は大きな声で天国の皆と一緒に救いの歌を歌っています。毎日、父は主の食卓で食べています。

もう一度私の父に会うことを楽しみにしています。

私はある歌が大好きです。その歌を聞くと、父のことを思い出します。そして、私たちの希望についても思い巡らします。

There are burdens that I carry every day
毎日私は重荷を背負っています。
Sometimes it makes me want to cry
時々私は泣きたくなります。
Hopeless feelings harbored deep inside my heart
私の心の中に絶望の思いがあります。
And I find it hard to hold my head up high.
だから、私の頭を上げることは難しいです。

In the middle of the darkness in my life
その人生の暗闇の中に
I find the strength to carry on.
私は生き続ける力を見つけます。
I am holding to a promise Jesus made
イエス様の約束を握っているからです。
And I know it won’t be long ‘til we’ll be gone.
そろそろ私たちはこの世から去ると知っています。

In a while, we’ll be gone.
もうすぐ私たちはこの世から去ります。
And we won’t have to cry anymore.
その時、私たちはもう泣く必要がないのです。
All our sorrows left behind.
私達の悲しみはこの世に残ります。

That’s the day that I am waiting for.
私はその日を待っています。

That’s the day I’m longing for.
その日を願っています。

That’s the day that I am looking for.
その日を待ち望んでいます。

ーー エイミー・グラント

あなたがキリストにある希望を見いだすことができますように。

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裁きの理由

SFの映画で、人気のテーマは地球の破壊です。例えばマトリックスとターミネーターはそんな感じの映画です。

この箇所を読むと、まるで地球の終わりのように感じられます。ある日、神様の裁きが訪れると預言されている箇所です。

イザヤはその日についてこう言いました。

見 よ。主は地を荒れすたらせ、その面をくつがえして、その住民を散らされる。。。

地は嘆き悲しみ、衰える。世界はしおれ、衰える。天も地とともにしおれる。。。

地は裂けに裂け、地はゆるぎにゆるぎ、地はよろめきによろめく。地は酔いどれのように、ふらふら、ふらつき、仮小屋のように揺り動かされる。

その そむきの罪が地の上に重くのしかかり、地は倒れて、再び起き上がれない。(イザヤ書24:1、4、19-20)

どうしてそのような裁きは来なくてはならないのでしょうか。イザヤはそれに答えます。

地はその住民によって汚された。彼らが「神様の」律法を犯し、定めを変え、とこしえの契約を破ったからである。(5)

イザヤは続けてこう言います。

それゆえ、のろいは地を食い尽くし、その地の住民は罪ある者とされる。

それゆえ、地の住民は減り、わずかな者が残される。(6-7)

神様は完璧な世界を造られました。神様が人間を造られた時、私たちは完璧でした。

でも、私たちは神様に背を向けて、自分の道を行って、この完璧な世界を汚しました。だから、この世界はもはや、神様が造られた美しい場所ではありません。私たちの罪によって汚されてしまいました。

そのため、神様はすべてを取り壊し、すべてを新しくしなければなりません。そして、すべてを取り壊しておられる間に、神様は人間の罪を扱わなければなりません。そうしなければ、その新しい世界も再び汚されてしまうからです。

だから、神様は罪人を罰しなければなりません。神様に背を向けた人々は、永遠に神様の臨在から離されるのです。

でも、神様に属する人々は守られて、救われます。イザヤはその人々についてこう言いました。

彼らは、声を張り上げて喜び歌い、海の向こうから主の威光をたたえて叫ぶ。。。私たちは、「正しい者に誉れあれ」という地の果てからのほめ歌を聞く。(14、16)

だからこの箇所では、警告も希望もあります。

裁きが訪れる警告があります。

でも、神様の民が守られて、もう一度神様の賛美を歌う希望があります。

神様の警告に注意しましょう。そうすれば、神様の希望を知ることができます。

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あなたの栄光はどこから来るのか

あなたの栄光はどこから来るのでしょうか。あなたの賞賛はどこから来るのでしょうか。何について自慢するのでしょうか。

ツロ人は自分の商売について自慢しました。

ツロは港町で、彼らの商売はうまく行っていました。彼らは金持ちでしたし、何をしても成功しました。

でも、彼らは不敬虔な人でした。彼らはいろんな神々を礼拝しました。私たちの社会のように、彼らはお金の「神」も礼拝しました。

彼らはプライドがあって、自分の栄光を自慢しました。でも神様は彼らに警告されました。

「裁きが来ます。ある日、ツロは倒されます。また、あなたの評判と富は取り去られます。」

イザヤはこう言いました。

海辺の住民よ。タルシシュへ渡り、泣きわめけ。

これが、あなたがたのおごった町なのか。その起こりは古く、その足を遠くに運んで移住したものを。

だれが、王冠をいただくツロに対してこれを計ったのか。その商人は君主たち、そのあきゅうどは世界で最も尊ばれていたのに。

万軍の主がそれを計り、すべての麗しい誇りを汚し、すべて世界で最も尊ばれている者を卑しめられた。(イザヤ書23:6-9)

神様はツロが後で復活すると言われましたが、これも言われました。

その儲け、遊女の報酬は、主にささげられ、それはたくわえられず、積み立てられない。その儲けは、主の前に住む者たちが、飽きるほど食べ、上等の着物を着るためのものとなるからだ。(18)

つまり、ツロのプライドと栄光は自分のためではなくて、主とその民のためです。

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。持続的な栄光は一つの所から来ます。

その栄光はお金や、評判や、他の世のものから来ません。なぜなら、 それらのものはただ一時的なものです。持続的な栄光はただ神様から来ます。

そして、その栄光は私たちが自分のイメージを好きなように形成することから来るものではありません。

むしろ、私たちが神様に近づくと、私たちは主の栄光を反映します。

パウロはこう書きました。

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。

これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(第二コリント3:18)

「栄光から栄光へと。」

その言葉が好きです。私たちが神様に近づけば近づくほど、私たちは神様の栄光を反映します。

つまり、私たちの罪深い性格は神様の性格のように変えられます。そして、いつか、私たちの不完全な体はイエス様の素晴らしい体のように変えられます。

だから、私たちは何を自慢するでしょうか。エレミヤはその答えを私たちに与えます。

主はこう仰せられる。「知恵ある者は自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。

誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。

わたしは主であって、地に恵みと公義と正義を行なう者であり、わたしがこれらのことを喜ぶからだ。――主の御告げ―― (エレミヤ書9:23ー24)

あなたはどうですか。あなたの栄光はどこから来るのでしょうか。あなたは何について自慢するのでしょうか。

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ミカ書

神様の怒りと憐れみ

ある人々は「旧約聖書の神」を批判します。(「旧約聖書の神」と「新約聖書の神」は実際には同じ方であるにもかかわらず。)

彼らはこう言います。「旧約聖書の神は憐れみの神ではなく、怒りの神です。」

けれども、そのような主張をする人々は旧約聖書を慎重に読んでいないように感じます。彼らは神様の怒りの例を頻繁に見る一方で、なぜか神様の憐れみの例には目を向けようとしないのです。

(皮肉なことに、その人々が新約聖書を読む際には、神様の憐れみの例をよく見るものの、神様の怒りの例はほとんど見ていないようです。)

このミカ書の箇所では、神様の怒りの例と憐れみの例の両方を見ることができます。9節にはこのように記されています。

私(つまり、イスラエル)は主の激しい怒りを身に受けている。私が主に罪を犯したからだ。(ミカ書7:9)

ある人々はこの箇所を読み、こう言います。「ほら、これが神様の怒りだよ。私が罪を犯すと、神様はすぐに私を罰すると書いてあるじゃないか。」

とはいえ、その箇所の最後の部分にも目を向けてください。

しかし、それは、主が私の訴えを取り上げ、私を正しくさばいてくださるまでだ。主は私を光に連れ出し、私はその義を見ることができる。

この箇所を読むとき、私はパウロの言葉を思い起こします。

神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。

罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。(ローマ書8:33-34)

このミカ書の箇所とローマ書の箇所に基づくと、神様は私たちの裁判官であるだけでなく、私たちの弁護士でもあるのです。もし私たちがイエス様に属しているなら、イエス様は私たちの隣に立ち、とりなしをしてくださいます。

その時、イエス様はこのように言われることでしょう。

「父よ、私はこの人の罪のためにすでに支払いました。私の血によって、彼の債務は完全に支払われました。」

そして、神様はこう言われます。

「そうだ。それは真実だ。正義は成し遂げられた。あなたの罪は赦され、あなたは自由だ。」

このミカ書の最後の部分は本当に素晴らしいと思います。

あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは、咎を赦し、ご自分のものである残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです。

もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください。(18-19)

この箇所で描かれる神様の姿が本当に素晴らしいと思います。

神様は私たちの罪のゆえに私たちを踏みつけることはされません。むしろ、神様は私たちの罪そのものを踏みつけてくださるのです。

神様は私たちを鎖で縛り、船から海の深みに投げ入れることはされません。むしろ、神様は私たちの罪を包み、海の深みに投げ入れてくださるのです。

この方こそ私たちの神です。怒りの神であるだけでなく、憐れみの神でもあるのです。

ミカはこう言いました。

昔、私たちの先祖に誓われたように、真実をヤコブに、いつくしみをアブラハムに与えてください。(20)

神様がヤコブとアブラハムに真実と憐れみを与えられたように、神様は私たちにも真実と慈しみを与えてくださいます。神様はそのように誓われました。(ヘブル6:13-20)

だから、ヨハネはこう書きました。

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

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ミカ書

私たちが人々に頼ることができない時に

信頼関係が破れると、その修復は非常に難しいものとなります。浮気によって心に傷を負った人々は、その事実を深く理解していることでしょう。

時として、信頼関係が破れると、他の人々を信頼することさえ困難になります。「この世で一体誰を信頼できるのだろうか」と思うこともあるかもしれません。

ミカもそのように感じた可能性があります。彼の国は暴力と不正義に満ちあふれていました。ミカにとって、誰を信頼すべきかわからない状況だったのです。

リーダーたちや士師たちさえも信頼に値しませんでした。なぜなら、彼らには正義への関心が全くなく、むしろ常に賄賂を要求していたからです。

このような堕落はすべての人々に悪影響を及ぼしました。ミカは次のように言いました。

敬虔な者はこの地から消えうせ、人の間に、正しい者はひとりもいない。みな血を流そうと待ち伏せし、互いに網をかけ合って捕らえようとする。。。

彼らのうちの善人もいばらのようだ。正しい者もいばらの生け垣のようだ。(ミカ書7:2,4)

そして、ミカはこう言いました。

友を信用するな。親しい友をも信頼するな。あなたのふところに寝る者にも、あなたの口の戸を守れ。息子は父親を侮り、娘は母親に、嫁はしゅうとめに逆らい、それぞれ自分の家の者を敵としている。(5-6)

それは確かに暗い言葉ですが、その国の中でミカは深刻な堕落を目の当たりにしていたため、そう感じたのです。

私たちも時として同じように感じることがあります。「この世で一体誰を信頼できるのだろうか」と思うことがあるでしょう。

けれども、間違いなく信頼できるお方がおられます。

ミカはこう書きました。

しかし、私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の願いを聞いてくださる。(7)

たとえ皆が私たちをがっかりさせても、神様は決してそうなさいません。

たとえ皆が私たちに背を向けても、神様は私たちを決してお見捨てになりません。

たとえ皆が私たちを裏切っても、神様は常に私たちに忠実でいてくださいます。

神様はいつも私たちを見守ってくださっています。

神様は私たちの声に耳を傾け、私たちの祈りを聞き入れてくださいます。

神様は私たちが置かれている状況をすべてご存じです。

だからこそ、私たちは主を仰ぎ見て、主を待ち望みましょう。

主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」(へブル13:5-6)

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ミカ書

空しい宗教

この箇所では、イスラエルの民は神様の裁判所に立たされていました。そして、神様は彼らを被告として召喚し、問い詰められました。

わたしの民よ。わたしはあなたに何をしたか。どのようにしてあなたを煩わせたか。わたしに答えよ。(ミカ書6:3)

そして、神様はご自身の証言をされました。「私はあなたたちをエジプトから救い出しました。また、私はあなたたちを荒野で守り、私が約束した土地に導きました。」(4-5)

ところが、イスラエルの民はその言葉を聞いて苛立ちました。

彼らは答えました。

「しつこいですね。それでは、私たちに何を望んでおられるのですか。子牛や雄羊のいけにえですか。それとも、私たちの子供をいけにえとして捧げることでしょうか。一体何を求めておられるのですか。」

現代でも、多くの人々は同じような態度で神様に向き合います。彼らは、神様が宗教的な儀式を求めておられると誤解しています。例えば、神様が彼らに教会に行くことや献金を捧げることを望んでいると考えています。

多くの人々はイースターの六週間前からタバコや砂糖、肉を控えます。(これを四旬節と言います。)

けれども、その年の残りの期間は、まったく神様のことを考えず、自分自身のために生きるのです。

イスラエルの民も同じでした。彼らは神様の怒りを収めるためにいけにえを捧げることには同意しましたが、その後は自分自身のために生き続けたいと考えていました。

しかし、ミカはこう答えました。

主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。

それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。(8)

神様は空しい宗教に興味を持っておられません。空しい宗教とは、神様を愛さずに宗教的な行為だけを行うことです。つまり、ある日は宗教的なことを行うけれど、その残りの日々は自分自身のために生きることです。

イスラエルの民の場合、彼らは日々の商売でお客さんを騙し、暴力や不正に満ちた生活をしていました。

それゆえ、神様は怒られました。イスラエルの民は宗教的な儀式を行ったにもかかわらず、神様が本当に望んでおられることは全く行いませんでした。すなわち、正しいことを行い、誠実を愛し、へり下って神様と共に歩むことです。

神様はそれを日々求めておられたのです。一週間に一度だけそのような態度を取ることを望んでおられたのではありません。

あなたはどうでしょうか。神様を喜ばせることは何だと思いますか。

それはお金だけではありません。それは教会に行くことだけではありません。それは宗教的な儀式を行うことだけでもありません。

イエス様が最も重要な戒めについて語られたとき、犠牲や献金、儀式については全く言及されませんでした。

むしろ、イエス様はこう言われました。

「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」

次にはこれです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」この二つより大事な命令は、ほかにありません。」 (マルコ12:30-31)

あなたは神様を喜ばせたいと願っていますか。

空しい宗教的な行動だけでは、神様を喜ばせることはできません。

もし神様を喜ばせたいと願うなら、毎日神様を愛し、周りの人々を愛するべきです。

それが神様の望まれることなのです。

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ミカ書

私たちの敵が攻める時に

イスラエルの歴史を振り返ると、その周囲には多くの敵が存在していました。この箇所では、アッシリヤがイスラエルを攻める敵の典型として描かれています。しかし、ミカはイスラエルの勝利を預言しました。

アッシリヤが私たちの国に来て、私たちの宮殿を踏みにじるとき、私たちはこれに対して七人の牧者と八人の指導者を立てる。

彼らはアッシリヤの地を剣で、ニムロデの地を抜き身の剣で飼いならす。アッシリヤが私たちの国に来、私たちの領土に踏み込んで来たとき、彼は、私たちをアッシリヤから救う。(ミカ書5:5-6)

つまり、ある日、神様に逆らう者たちがイスラエルを打倒するために攻めてきます。しかし、神様はリーダーを立ててイスラエルを救われます。ただし、イスラエルの力は軍隊から来るのではなく、神様から与えられるのです。

ミカは7節で、イスラエルの残りの者を「主から降りる露、青草に降り注ぐ夕立のようだ」と描写しています。つまり、この救いと勝利は人間の働きではなく、主の働きです。

だから、イスラエルの残りの者は敵が止めることのできないライオンのようになるのです。(8節)

その日、以前イスラエル人が信頼していたもの、つまり、軍隊や呪術師、占い師、偶像を捨てて、永遠に敵を打倒する神様に信頼するのです。

私たちはこの箇所から何を学ぶことができるでしょうか。

私たちの魂の敵が攻めてきたとき、どのように反応するでしょうか。私たちの人生、仕事、人間関係、経済、ミニストリーなどが攻められたときに何が起こるでしょうか。

私たちの勝利が自分の力と知恵から来るのではないことを思い出しましょう。

攻められたとき、私たちはよくパニックに陥り、自分の知恵と力でその問題を解決しようとしてしまいます。けれども、私たちは助けることのできる神様を忘れがちです。

もし本当の勝利を望むなら、神様に信頼しなければなりません。そして、神様がどうするかを教えてくださったら、私たちは従わなければなりません。そうすれば、私たちは勝利を得ることができるのです。

もう一つ覚えておかなければならないのは、イエス様はすでに最後の勝利を得られたことです。イエス様の十字架の働きによって、私たちは赦され、救われました。

だから、この世では、私たちの敵が私たちを攻めても、彼らは天国の報いに触れることはできません。

ですから、頑張り続けましょう。がっかりせず、むしろ神様に信頼しましょう。神様を待ち望みましょう。なぜなら、私たちはすでに勝利を得たのです。

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ミカ書

平和を与える方

平和。

あなたは平和を得るために、どれほどの代価を払うつもりですか。ミカの時代、多くのイスラエル人がそのように考えていたかもしれません。

現代でも、多くのユダヤ人が同じように考えているかもしれません。

この箇所では、ミカはエルサレムの崩壊について預言しました。その日、ユダの王が打たれ、倒れます。

とはいえ、ミカが伝えたのは、それがイスラエルの終わりではないということです。むしろ、ミカはこう言いました。

ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。(ミカ書5:2)

もちろん、これはイエス様についての預言です。ヘロデ王がメシアがどこから来るのかを尋ねたとき、祭司たちと律法学者たちはこの箇所を引用しました。(マタイ2:6)

ミカはイエス様についてこう預言しました。

彼は立って、主の力と、彼の神、主の御名の威光によって群れを飼い、彼らは安らかに住まう。今や、彼の威力が地の果てまで及ぶからだ。(5:4)

5節では、英語の翻訳と新改訳は少し異なります。実は、この箇所では、日本語のリビングバイブルと英語の翻訳が一致しています。このように書かれています。

その方は私 たちの平和となる。(5)

ミカ時代のイスラエル人は、この言葉を聞いて慰めを受けたかもしれません。なぜなら、彼らは長い間トラブルを経験してきましたが、平和を与える方が来るという希望があったからです。

皮肉なことに、イエス様は来られました。しかし、イスラエル人は平和を与える方を受け入れず、十字架につけてしまいました。

今でも、人々はあまり変わっていません。

どれほど私たちは、恐れと痛みと戦っているでしょうか。どれほど私たちは、平和を望んでいるでしょうか。それにもかかわらず、私たちは平和を与える方を拒絶します。私たちは、自分の心の王座をイエス様に捧げることを拒否するのです。

ある日、イエス様は再びこの世に戻られます。その日、イエス様はこの世を治め、すべての人々が平安のうちに住むようになります。

しかし、もし私たちが今、自分の心の王座をイエス様に捧げるなら、どんなトラブルがあったとしても平和を得ることができます。たとえ周りに多くの苦しみがあったとしても、私たちの魂は平安を保つのです。

2000年前、イエス様がエルサレムのために泣かれたように、イエス様は私たちのために涙を流されます。イエス様はこう言われました。

ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。(ルカ13:34)

それで、エルサレムはどうなりましたか。

見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。(ルカ13:35)

今でも、その結果は変わりません。もしイエス様に背を向けるなら、私たちの人生は荒れ果てたままとなり、希望や平和を全く知らないままとなってしまいます。

あなたはどうでしょうか。希望がないと感じていますか。人生に意味がないと感じていますか。平和がないと感じていますか。その解決は、2000年が経っても変わることはありません。それはイエス様です。

イエス様はあなたを抱きしめ、あなたに平和と希望、そして人生の本当の意味を与えたいと願っておられます。

あなたの人生をイエス様に捧げてみませんか。

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ミカ書

神様の計画

神様について考えると、いつも「不思議だなあ」と感じます。

一つ興味深い点は、神様が決して驚かれることがないということです。この世界で何が起こっても、神様は驚かれません。

一方で、私たちはよく驚き、パニックになります。そのため、時々私たちは神様もそのような方だと思いがちです。

例えば、私たちはこう考えるかもしれません。「アダムとエバが罪を犯したとき、神様は驚かれたためにパニックになり、急いで新しい計画を立てなければならなかった。」

または、「イスラエル人を自分の民として選ばれたが、彼らが神様に背を向けたとき、神様はショックを受け、急いで新しい計画を立てなければならなかった。」

けれども、最初から神様はアダムとエバの選択を知っておられました。イスラエル人の選択も知っておられました。ですから、その知識に基づいて神様はご自身の計画を立てられたのです。

この箇所でそのことが示されていると思います。この箇所では、神様がイスラエル人を彼らの罪のために懲らしめられました。

なぜ、あなたは今、大声で泣き叫ぶのか。あなたのうちに王がいないのか。あなたの議官は滅びうせたのか。子を産む女のような苦痛があなたを捕らえたのか。

シオンの娘よ。子を産む女のように、身もだえし、もがき回れ。今、あなたは町を出て、野に宿り、バビロンまで行く。(ミカ書4:9-10)

つまり、私はあなたたちの王であるべきでした。私はあなたたちの議官であるべきでした。けれども、あなたたちは私に背を向け、頼りにしていた人々はいなくなりました。だから、あなたたちはバビロンに追放される、と神様は言われています。

それでも、神様はイスラエル人のために計画を持っておられました。神様はこう言われました。

そこであなたは救われる。そこで主はあなたを敵の手から贖われる。(10b)

神様はパニックになって、計画を変えられたわけではありません。むしろ、神様は予めイスラエル人が何をするか、そしてイスラエル人の反応をすべてご存じでした。

だから、神様にはすでにご用意された計画がありました。それは、イスラエル人をその罪のために罰することですが、その後で憐れみと恵みによって彼らを贖われることです。

では、神様の計画がどうしても成就されるから、私たちの選択は何を選んでも構わないのでしょうか。

いいえ、そうではありません。私たちにとって、私たちの選択は非常に重要なのです。なぜなら、私たちが神様の計画に従うなら、神様の祝福を受けるからです。しかし、従わなければ、必ず苦しみが訪れるのです。

イスラエル人は追放されたとき、そのことを学びました。

イスラエルを打倒した国々も同じことを学びました。神様はその国々に関してこう言われました。

今、多くの異邦の民があなたを攻めに集まり、そして言う。「シオンが犯されるのをこの目で見よう」と。

しかし彼らは主の御計らいを知らず、そのはかりごとを悟らない。(11-12)

その国々は神様の計画を知らず、神様に逆らったため、結局イスラエル人のように砕かれました。けれども、悔い改めて救われたイスラエルの残りの者とは違い、その国々には救いがありませんでした。

あなたはどうでしょうか。神様の心を求めていますか。神様の計画に従っていますか。それを行うなら、本当の命を見つけることができます。けれども、そうしなければ、パロやバビロン、そして神様に逆らった他の国々のように、あなたも砕かれてしまうのです。

だから、モーセの言葉に耳を傾けましょう。

あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。確かに主はあなたのいのちであり[ます。] (申命記30:19-20)

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ミカ書

永遠までじゃない

多分、世界で一番戦争を嫌う国は日本ではないでしょうか。もし日本人にインタビューをしたら、彼らが他の先進国の民よりも戦争に対して嫌悪感を持っていると感じるでしょう。なぜなら、自分たちの目で戦争がどれほど恐ろしいものかを見たことがあるからです。

残念なことに、多くの国々はそのようには感じていません。

長い間、私たちは冷戦を経験しました。その時代、人々は核戦争が起こることを恐れていました。

今では少し状況が改善されていますが、人間が国々を治め続ける限り、戦争は決してなくならないでしょう。なぜなら、人々は常に持っていないものを求めたり、さらなる力を欲しがったりするため、本当に酷いことをし続けるからです。

とはいえ、この状態が永遠に続くわけではありません。ある日、神様が神様に背く人々からその力を取り去り、全世界の王となられるのです。そして、サタンとその民は裁かれ、その日から、この世には正義と平和が訪れます。

ミカはこのように書きました。

終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、国々の民はそこに流れて来る。。。

主は多くの国々の民の間をさばき、遠く離れた強い国々に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。

彼らはみな、おのおの自分のぶどうの木の下や、いちじくの木の下にすわり、彼らを脅かす者はいない。まことに、万軍の主の御口が告げられる。(ミカ書4:3-4)

その日が来る前に、私たちは自分自身にとって非常に重要な質問をしなければなりません。「私たちは誰の味方なのだろうか。」

もし私たちが神様の味方であるならば、その日が来たとき、ついに平和を知ることができます。しかし、もし神様の味方でないならば、あなたにとっては裁きしか残されていません。

ですから、今こそ神様を求めましょう。裁きの日を待つのではなく、今、この瞬間に応えましょう。

さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。(2)

また、

まことに、すべての国々の民は、おのおの自分の神の名によって歩む。しかし、私たちは、世々限りなく、私たちの神、主の御名によって歩もう。(5)

あなたは誰の味方でしょうか。

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歴代誌第二

リーダーの資質

私はヒゼキヤが何を行ったかを読んだとき、深く感動します。なぜなら、ヒゼキヤの姿を通して、神様がリーダーに求めておられる資質が明確になるからです。

それは何でしょうか。

ヒゼキヤは自分の民のために祈りました。(歴代誌第二30:18)

この箇所では、多くの人々が過越の祭りを祝いましたが、モーセの律法によれば彼らは儀式的に聖くありませんでした。

(例えば、ある人の父が亡くなり、その遺体に触れた場合は儀式的に聖さを失います。)

そのため、彼らは病気になってしまいました。

しかし、その人々には本当に神様に従いたいという心があったため、ヒゼキヤは彼らのために祈りました。

そして、神様は彼らを癒してくださいました。

ヒゼキヤはその民を励ましました。(歴代誌第二30:22)

レビ人たちが熱心に働く姿を見ても、それを当たり前だとは思いませんでした。むしろ、ヒゼキヤは彼らを励まし、その努力に対して感謝を表しました。

ヒゼキヤはその民に仕事を与えました。(歴代誌第二31:2)

ヒゼキヤは自分ですべての仕事をしようとはせず、むしろ、神様が命じられた通りに祭司たちとレビ人たちに仕事を与えました。

ヒゼキヤは主の働きのために自分の物を捧げました。(歴代誌第二31:3)

ヒゼキヤはただ人々に命令するだけではありませんでした。むしろ、主の働きのために(この場合、いけにえのために)自分の物を捧げました。

ヒゼキヤは主を求めました。(歴代誌第二31:20-21)

これは最も大切な資質でした。

ヒゼキヤは時々失敗しましたが、普段は自分の知恵に頼らず、本当に神様を喜ばせたいと願っていました。

だからこそ、彼は神様との関係を何よりも大事にし、主の目の前で良いこと、正しいこと、誠実なことを行い、心を尽くして働いたのです。

神様はこのようなリーダーを望んでおられます。あなたが教会を導く場合でも、家族を導く場合でも、神様はこのようなリーダーを求めておられます。

つまり、あなたが自分の民のために祈り、彼らを励まし、仕事を与えることを望んでおられます。

また、良い模範となり、自分の物を主の働きのために捧げることを期待しておられます。

しかし、神様が最も大切だと考えておられるのは、あなたが神様を求めることです。

あなたはどのようなリーダーでしょうか。

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歴代誌第二

悔い改めの招き

この箇所の興味深いポイントは、この時代、イスラエル王国とユダ王国がまだ仲が良くなかったということです。

イスラエル王国はすでに崩壊し、多くのイスラエル人が追放されていました。それでも、ヒゼキヤは残ったイスラエル人たちに手を差し伸べました。

ヒゼキヤはこう言いました。

「私たちもあなたがたのように神様に背を向けたため、罰を受けました。でも、今私たちは神様のもとに戻ります。あなたがたも神様に立ち返りませんか。」

この箇所を通して、私たちは人々を悔い改めに招く方法を学ぶことができます。

一つ目は、たとえ相手が私たちを傷つけたとしても、私たちには憐み深い心が必要だということです。私たちは彼らを赦さなくてはなりません。

ヒゼキヤの父アハズの時代には、イスラエル人がアラム人と協力して、ユダ人たちを苦しめていました。(イザヤ書7章)

けれども、アッシリヤがイスラエルを倒したとき、ヒゼキヤは情け深い心を持ち、彼らを神様に立ち返るように招きました。

私たちもそのような心を持つ必要があります。たとえ相手が私たちを傷つけても、私たちは彼らの悔い改めと救いのために祈るべきです。

残念なことですが、多くの場合、私たちは相手の苦しみを見て、手を差し伸べることなく喜んでしまいます。そうしないようにしましょう。

二つ目は私たちのメッセージについてです。救いのメッセージとは何でしょうか。

「神様に戻ってください。あなたがたは神様に背を向けたため、あなたがたの人生はめちゃくちゃになってしまいました。

それでも、神様はあなたがたをまだ愛しておられます。そして、神様のもとに戻るなら、神様はあなたがたを赦し、癒してくださいます。

ですから、悔い改めませんか。」

これが私たちのメッセージです。悔い改めと希望のメッセージです。

最後に覚えておいてください。私たちは人々の反応をコントロールすることはできません。

多くのイスラエル人はヒゼキヤのメッセージを聞いて、彼とその使者たちをからかいました。

しかし、あるイスラエル人たちは遜った心を持ってエルサレムに行き、ユダ人と共に過越の祭りを祝いました。

そして、その祭りの後で、彼らはユダ人たちと共にユダの偶像礼拝の場所を打ち壊しました。

その後、彼らは自分の国に戻り、自分たちの偶像礼拝の場所も打ち壊しました。

ある人々は福音のメッセージを拒絶します。それでも、がっかりしないでください。私たちは彼らの反応をコントロールすることはできません。

他の人々はそのメッセージを聞いて、神様に立ち返ります。ですから、どうか頑張ってください。そのメッセージを伝え続けてください。

神様はイザヤにこう言われました。

雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。

そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。

必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。(イザヤ書55:10-11)

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列王記第二 歴代誌第二

神様に立ち返る

少し久しぶりに歴史書に戻りましょう。

この箇所では、私たちはユダの素晴らしい王の一人に出会います。彼の名前はヒゼキヤです。

列王記の著者はヒゼキヤについて次のように書いています。

彼はイスラエルの神、主に信頼していた。彼のあとにも彼の先にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。(列王記第二18:18:1-5)

実は、ヒゼキヤの父アハズは酷い模範でした。

しかし、多分ヒゼキヤはイスラエル王国の崩壊を目の当たりにし、預言者ミカやイザヤの警告を聞いたことで、すぐに悔い改め、ユダを再び神様に向ける決意をしたのだと思います。

ヒゼキヤの人生を見ると、私たちがどのように神様に立ち返るべきかが分かると思います。

まず、ヒゼキヤはユダの民が礼拝していた偶像を取り除きました。

その中にはモーセが作った青銅の蛇も含まれていました。この青銅の蛇は、イスラエル人が荒野をさまよった際に、神様が蛇の毒からの癒しの手段として用いられました。

ところが、ユダの民はこの青銅の蛇を偶像として礼拝し始めたため、ヒゼキヤはこの蛇を打ち砕いたのです。

同じように、私たちが神様に戻りたいと願うなら、私たちも自分の偶像を捨てなければなりません。

もちろん、仏教の偶像や仏壇を捨てるべきですが、それだけでなく他の「神々」も捨てる必要があります。例えば、「お金の神」や「持ち物の神」です。

もし何かを神様よりも大切にしているなら、それはあなたの偶像です。

もちろん、文字通りにお金や持ち物を捨てるわけではありません。けれども、すべてに優先して神様を第一にし、大切にしなくてはなりません。

青銅の蛇のように、かつてはあなたの偶像が良いものだったかもしれません。例えば、あなたの趣味です。

ところが、その趣味によって神様との関係が疎かになり、神様のための働きを怠っているのであれば、その趣味をしばらく置いておく必要があるでしょう。

偶像を取り除いた後、ヒゼキヤは神様の宮を掃除し、清めました。

私たちクリスチャンはキリストの宮です。キリストが私たちの内に住んでおられるのですから、その宮を清める必要があります。つまり、偶像を捨てる必要があります。

それと共に、私たちは神様に罪を告白し、悔い改める必要があります。

ヒゼキヤの時代では、罪のためにいけにえを捧げなければなりませんでした。(歴代誌第二29:23-24)

しかし、私たちにとってイエス様こそが最後のいけにえです。イエス様は十字架で死んで、私たちの罰を代わりに受けてくださいました。

そして、イエス様の血が私たちをすべての罪から清めてくださいます。(第一ヨハネ1:7)

ただし、清い心を保つためには、私たちは常に罪を告白し、悔い改める必要があります。

ヨハネは次のように書いています。

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

最後に、ヒゼキヤとユダの民は、もう一度自分たち自身を神様に捧げました。彼らは神様にこう言ったのです。

「私たちはあなたのものです。私たちの人生をもう一度あなたに捧げます。」

私たちも同じようにするべきです。

罪に背を向けるだけでは不十分です。神様に向き直らなくてはなりません。

偶像を捨てるだけでは十分ではありません。心を尽くして神様に従わなくてはならないのです。

あなたはクリスチャンであっても、神様から離れてしまったかもしれません。

かつては神様と共に歩んでいたとしても、今は神様から遠ざかっているかもしれません。

それでも、今も神様はあなたを愛しておられ、あなたのために待っておられるのです。

だから、もし神様に戻りたいと願うなら、次のように祈ってください。

イエス様、私はあなたから離れてしまい、自分の道を歩んでいました。どうか赦してください。

あなたの言葉にはこうあります。「もし私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(第一ヨハネ1:9)

今、私はあなたに立ち返ります。私の偶像を捨てる助けを与えてください。そして、私の心の王座にもう一度座ってください。

あなたの恵みと憐れみに感謝します。私を決して諦めないことに感謝します。

あなたのみ名によって祈ります。アーメン。

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自己中心

あなたは誰のために生きているでしょうか。

多くの人々は「私自身のために生きる」と答えます。

宮廷をつかさどる執事シェブナもそのような人でした。

彼は高ぶって、自分のために岩に墓を掘りました。

どうしてそれはそんなに悪いことだったのでしょうか。その時代では、そのような派手な墓は王の家族のためでした。でもシェブナは王の家族のメンバーではありませんでした。

そして、その時、アッシリヤはエルサレムを囲む準備をしていました。だから、エルサレムの中で苦しんでいる人々はたくさんいました。それなのに、シェブナはその派手な墓を掘りました。

だから主はシェブナを責められました。

あなたは自分のために、ここに墓を掘ったが、ここはあなたに何のかかわりがあるのか。ここはあなたのだれにかかわりがあるのか。高い所に自分の墓を掘り、岩に自分の住まいを刻んで。

ああ、ますらおよ。主はあなたを遠くに投げやる。

主はあなたをわしづかみにし、あなたをまりのように、くるくる丸めて、広い広い地に投げ捨てる。あなたはそこで死ぬ。あなたの誇った車もそこで。

主人の家の恥さらしよ。わたしはあなたをその職から追放し、あなたの地位から引き降ろす。(イザヤ書22:16-19)

そして、神様はエルヤキムという人にシェブナの立場を与えられました。神様はエルヤキムについてこう言われました。

彼はエルサレムの住民とユダの家の父となる。。。

わたしは、彼を一つの釘として、確かな場所に打ち込む。彼はその父の家にとって栄光の座となる。彼の上に、父の家のすべての栄光がかけられる。(22-24)

ある日、私はハワイの牧師の話を聞きました。彼は罪に落ちて、その教会を失いました。でも神様の恵みによって、彼のミニストリーと家族はだんだん回復しています。

どうして彼は罪に落ちたのでしょうか。彼はこう言いました。「私のミニストリーの中心は私になりました。私の人生の中心は私になりました。」

そして、彼はそのミニストリー、また彼の人生が神様からの賜物であることを忘れていました。

牧師が失敗すると非難されやすいです。もちろん、神様は彼らをもっと厳しくさばかれます。なぜなら、「多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます」からです。(ルカ12:48)

でも、誰でも倒れてしまう可能性があります。そして、あなたの人生の中心が自分自身になったら、全てを無くす危険があります。私たちの結婚や家族やミニストリーを失うかもしれません。

だから、倒れた人々を責めるよりも、私たちは自分自身を見つめて問いかけるべきです。

「私の人生の中心は誰でしょうか。私でしょうか。神様でしょうか。私は自分のために生きているのでしょうか。それとも神様と私に与えられた人々に仕えているのでしょうか。」

皮肉なことですが、もし謙って主と他の人々に仕えると、エルヤキムのように私たちは栄光をいただきます。

あなたは誰のために生きているのでしょうか。

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イザヤ書

穴を塞ごうとする

時々私たちは「私の人生はめちゃくちゃになった」と思って、落ち込みます。

時々私たちの結婚がダメになったり、他の人間関係がめちゃくちゃになったり、私たちの経済が大変になったりします。

だから、私たちはできるだけその穴を塞ごうとします。でも、その穴を塞いでも、すぐに別の穴が現れます。そして、その穴を塞いでも、また別の穴が出てきます。

結局、どうしても私たちの船は沈んでしまうのです。

ユダ人はその状況に入っていました。この箇所では、アッシリヤの軍隊はエルサレムを囲むために来ていたので、ユダ人たちは頑張って準備していました。

彼らは武器を集めていたり、都市の壁を修理していたり、アッシリヤ人が水がないようにエルサレムの外にある泉の水を塞いだりしていました。

でも一番大きな問題を解決しませんでした。それは彼らの罪です。

イザヤはこう書きました。

その日、万軍の神、主は、「泣け。悲しめ。頭を丸めて、荒布をまとえ」と呼びかけられた.(イザヤ書22:12)

つまり、アッシリヤの攻撃は神様の働きでした。なぜなら、神様はユダ人がもう一度神様に向かうように望んでおられたからです。ユダ人が悔い改めて、もう一度神様を礼拝するように望んでおられました。

でも、彼らはその罪を犯し続けてこう言いました。

飲めよ。食らえよ。どうせ、あすは死ぬのだから。(13)

彼らがイザヤの警告を信じず、イザヤをからかっていたか、彼らが諦めて、「どうしても死ぬ」と思ったか、私は分かりません。

でも結局彼らは神様に立ち返らなかったので、神様は彼らに言われました。

この罪は、おまえたちが死ぬまでは決して赦されない。(14)

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。問題を見る時に解決しようと思うのは良いことです。

でも、私たちの一番大きな問題は神様に背く態度です。その態度を悔い改めないと、私たちの船に穴が出続けます。そして結局私たちは沈みます。

だから、自分の努力と知恵によってその穴を塞ぐことをやめましょう。むしろ、神様に向かいましょう。

罪を悔い改めて、神様の道を歩みましょう。そうすれば、あなたの船はもう沈まずに、新しくなり、どんな嵐に遭っても、あなたは無事に港に着きます。

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ミカ書

船を揺さぶるな

英語には、「Don’t rock the boat」という興味深い表現があります。

その直訳は、「船を揺さぶるな。」

つまり、「余計なもめ事を起こすな。」

また、「人を怒らせることを言うな。」

普通は、それは良いアドバイスです。

とはいえ、クリスチャンとして、いつもその言葉に従うことはできません。時には、相手が聞きたくないことを言わなくてはならないのです。

けれども、多くのクリスチャンはそうしたくありません。残念なことに、多くの教会もそうしたくありません。

その結果はどうなるでしょうか?神様の言葉、特に福音を正しく伝えないことです。つまり、神様の愛と恵みについてはよく話されますが、罪と裁きについてはほとんど話されません。

しかし、ミカは船を揺さぶることを恐れませんでした。ユダのリーダーたちはその民に正義を与えなかったため、ミカは彼らを責めました。

さらに、ユダの「預言者」たちは人々が聞きたいことだけを語っていたため、ミカは彼らにこう言いました。

預言者たちについて、主はこう仰せられる。彼らはわたしの民を惑わせ、歯でかむ物があれば、「平和があるように」と叫ぶが、彼らの口に何も与えない者には、聖戦を宣言する。

それゆえ、夜になっても、あなたがたには幻がなく、暗やみになっても、あなたがたには占いがない。

太陽も預言者たちの上に沈み、昼も彼らの上で暗くなる。先見者たちは恥を見、占い師たちははずかしめを受ける。彼らはみな、口ひげをおおう。神の答えがないからだ。(ミカ書3:5-7)

そしてミカはこう言いました。

しかし、私は、力と、主の霊と、公義と、勇気とに満ち、ヤコブにはそのそむきの罪を、イスラエルにはその罪を告げよう。(8)

私たちはそのようなクリスチャンにならなければなりません。愛する人々が罪の道を歩んでいるなら、私たちは彼らに警告しなければなりません。

たとえ彼らが怒っても、それは仕方がありません。クリスチャンとしての私たちの責任は、彼らに警告することなのです。

もちろん、「あなたは地獄に行くよ!」と叫ぶ必要はありません。

私が以前述べたように、ある人たちはそのようなメッセージを伝えることが大好きなように見えます。彼らは、まるで人々が地獄で苦しむことを喜んでいるかのようです。

しかし、神様はそのようなことを喜ばれません。神様は涙を流されます。私たちも泣くべきです。

けれども、泣くだけでは足りません。人々に警告しなければなりません。しかしそうすることで、時には船を揺さぶることになるでしょう。

ミカは船を揺さぶりました。幸いなことに、ヒゼキヤ王はこの警告を聞いて悔い改めました(エレミヤ書26:17ー19)。

イザヤもまた、真実を語ることをためらいませんでした。だからこそ、ミカとイザヤ、そして他の預言者たちの働きによって、その社会に影響を与えることができたのです。

あなたはどうでしょうか?船を揺さぶることを恐れていますか?他の人々の反応を恐れて、神様の言葉のすべてを伝えないままでいるのでしょうか?

その言葉とは何でしょうか。それは、イエス・キリストにあって、罪の赦しがあるということです。しかし、その賜物を拒むなら、裁きしかありません。

イエス様のみ名によって船を揺さぶることを恐れないでください。

もちろん、ただ人を怒らせるために船を揺さぶるのではありません。

そうではなく、イエス様の愛をもって、人々が悔い改めて救われるために船を揺さぶりましょう。

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ミカ書

聞きたくない

「それは聞きたくない。」

聖書を読むとき、私たちはどれほどそのような態度を取るでしょうか。つまり、困難に直面しているとき、聖書から何をすべきかが示されているのに、その言葉が好きではないために、すぐに拒絶してしまうのです。

ある友人は、いつも口から悪い言葉を出していました。彼は自分の罪をよく知っていたため、口についての聖書の箇所をいつも避けていました。例えば、箴言やヤコブの手紙を決して読みませんでした。

けれども、ある日、彼が聖書を読んだとき、これまで一度も読んだことのなかった箇所によって、神様がその口の悪さの罪について彼の心を打たれました。幸いなことに、彼は結局悔い改めることができました。

それでも、私たちはしばしば聖書の言葉を避け、その言葉を無視してしまいます。なぜなら、その言葉を聞くことが耳に痛いからです。

イスラエルの民も同じでした。彼らはミカにこう言いました。

たわごとを言うな。(ミカ書2:6)

でもミカは答えました。

そんなたわごとを言ってはならない。恥を避けることはできない。ヤコブの家がそんなことを言われてよいものか。主がこれをがまんされるだろうか。(6b-7a)

つまり、神様の言葉を拒絶してはいけません。「たわごとを言うな」という言葉に神様は我慢できません。そのような態度を取れば、恥を避けることはできないのです。

そしてミカは訊きました。

「これは主のみわざだろうか。」(7b)

3-5節では、神様はいろんな裁きについてイスラエル人に警告しました。そしてイスラエル人たちは訊きました。「その裁きは本当に神様のみわざだろうか。神様は本当に私たちの態度と罪のために私たちを裁くだろうか。」

ミカはその質問に答えませんが、その答えは明白です。「はい。神様は本当にあなたを裁きます。」

もし私たちが罪を犯すと、悪い結果が起こります。悔い改めないと、必ず裁きが来ます。この世では、私たちの罪によって結婚生活が壊れるかもしれません。経済的にも困窮するかもしれません。

とはいえ、この世で何も起こらなくても、私たちが死ぬと神様は私たちを必ず裁きます。その裁きから逃げられません。

しかし、良いニュースもあります。神様は訊かれました。

私のことばは、正しく歩む者に益とならないだろうか。(7c)

もう一度、神様はその質問に答えませんが、その答えも明白です。「もちろんその通りです。」

つまり、神様の言葉は私たちの人生を惨めにするためのものではありません。

むしろ、神様の言葉は私たちに命を与えるものです。神様の言葉は、私たちの人生がうまくいくために必要なものです。つまり、私たちの結婚生活が良いものになり、良い仕事があり、食べ物があり、寝る場所もしっかり確保できるために、神様の言葉が必要です。

とはいえ、たとえそのようなものがなくても、神様に従うと、満足のいく人生を送ることができます。なぜならば、神様との関係があれば、一番大切なものを持つことになるからです。

時には神様の言葉が痛みを伴うこともあります。しかし最終的に、その言葉は私たちを癒すものなのです。

もしその罪の傷を神様の言葉で治療しないと、あなたの傷はもっと悪くなり、その傷によって私たちは滅びてしまいます。

あなたはどうですか?あなたは神様の言葉から逃げているでしょうか?あなたの耳を閉じているでしょうか?

どうかあなたの心を開いてください。あなたの心を柔らかくしてください。神様の言葉は痛みを伴うかもしれませんが、あなたを癒せるのです。

あなたの人生に癒しが始まりますように。

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ミカ書

私ができるから

この箇所では、神様が人々を傲慢の罪のために責めておられます。

時として、人々は意図せずに罪を犯すことがあります。例えば、私たちは急に怒り、その怒りを悪い方法で表現してしまうことがあります。

けれども、この箇所では、その人々は自分たちの罪を計画し、その計画を実行しました。罪を犯していることをよく知っていながら気にしなかったのです。彼らがその計画を実行できる力を持っていたからです。

ですから、神様はこう言われました。

ああ。悪巧みを計り、寝床の上で悪を行なう者。朝の光とともに、彼らはこれを実行する。自分たちの手に力があるからだ。(ミカ書2:1)

そして、神様はこう警告されました。「裁きが訪れます。そして、その裁きから逃れることはできません。」

見よ。わたしは、こういうやからに、わざわいを下そうと考えている。あなたがたは首をもたげることも、いばって歩くこともできなくなる。それはわざわいの時だからだ。(3)

どれほど私たちはあえて罪を犯すのでしょうか。つまり、罪を犯す機会があり、誰にも知られず、誰も私たちを止められないから、私たちは罪を犯してしまうのです。

例えば、昔はポルノを見たい場合、店で購入しなければなりませんでした。そうすると他の人々にその罪が知られる可能性があったため、クリスチャンにとっては恥ずかしいことでした。

けれども、今では誰にも知られずにインターネットを通じてポルノを見ることができるため、多くのクリスチャンがその罪に陥っています。

さらに、多くの人々は不倫をします。それは罪を犯す機会があり、誰にも知られないと思うからです。

しかし、神様はすべてをご存じです。そして、結局その罪は必ず現れるのです。この世で現れないかもしれませんが、死後、その罪が現れ、神様が必ず裁きをされるのです。

ですから、罪を犯す機会が来たとしても、そこから逃れましょう。罪を犯す選択肢があっても、それをしてはなりません。

パウロが言ったように、

また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。

というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。(ローマ6:13-14)

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ミカ書

他の人々の罪についていく

イザヤ書を読むのをしばらく休みます。二つの理由があります。

一つ目は、イザヤがもうすぐエルサレムに対して預言するからです。この箇所では、ミカも同じことをします。

二つ目は、聖書の経緯をキャッチアップしなければならないからです。

ミカとイザヤは同じ時代に預言しましたが、ミカはイザヤの少し後に預言を始めました。イザヤはウジヤ王の時代に始めましたが、ミカはウジヤの息子ヨタム王の時代に預言を始めました。

この箇所では、北イスラエル王国はまだ立っていますが、ミカが預言したように、すぐに倒れます。彼らが偶像礼拝を行ったので、ミカは警告しました。「裁きが差し迫ります。もうすぐ、あなたの都市はすべて倒れ、あなたが信頼する偶像は砕かれます。」

そして、ミカはユダに対して話し始めました。二つの箇所が私に印象に残りました。

一つ目は9節です。

まことに、「イスラエル」の打ち傷はいやしがたく、それはユダにまで及び、わたしの民の門、エルサレムにまで達する。(ミカ書1:9)

そして13節です。

ラキシュに住む者よ。。。それはシオンの娘にとって罪の初めであった。イスラエルの犯したそむきの罪が、あなたのうちに見つけられたからだ。

つまり、イスラエル人は偶像礼拝を始めて罪を犯しましたが、その罪はユダにも及びました。

ここに少し皮肉なことがあります。ラキシュはユダの要塞都市の一つでした。そのため、ラキシュはユダを守るべき存在だったのです。けれども、ラキシュに霊的な隙が生じ、それが物理的な隙へと繋がりました。

ミカが預言した通り、アッシリアがユダを打ち砕きました。そしてアッシリアはエルサレムを包囲しました。その時、やっとユダの民が悔い改め、神様が彼らを救い出してくださったのです。しかし、それはまた別の話です。

罪がユダにこっそり入り込み、その人々を汚したように、私たちも気をつけなければ、この世の罪が私たちの心にこっそり入り込み、私たちを汚してしまいます。

どれだけのクリスチャンが罪に陥るのを見たことがあるでしょうか。多くのクリスチャンが姦淫を犯したり、お金に執着するようになったりします。

この世を見ると、時々罪が魅力的に見えることがあります。私たちはその罪が良いものだと思い、欲してしまいます。

しかし、イスラエル人とユダ人のように、その罪は私たちを荒廃へと導きます。それは私たちの家族を荒廃させ、信仰を荒廃させ、人生をも荒廃させます。

ですから、罪に対して注意を払いましょう。そして、神様の目に聖い者となり、神様を喜ばせる者となりましょう。

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イザヤ書

一時的な安心、永遠の希望

この預言はドマ(つまりエドム)とアラビヤに対するものです。そして、その預言によって、神様はこの二つの国に将来の裁きについて警告されました。

11節でエドム人は叫びました。「今は夜の何時か。」

つまり、

「私たちは苦しんでいる。いつまでアッシリヤ人の手によって私たちは苦しむのだろうか。」

イザヤの答えは暗いです。「朝が来、また夜も来る。」(イザヤ書21:12)

つまり、アッシリヤから救い出されますが、あなたは少しだけ安心します。アッシリヤは倒れますが、あなたが彼らを倒すわけではありません。そして、アッシリヤ人を倒す人々(つまりバビロン人)によって、あなたの人生はもっと惨めになります。

それは紀元前612-605年に起こりました。

そしてイザヤはアラビヤも、この預言の一年以内に倒れると警告しました。

本当に暗いメッセージです。

とはいえ、この箇所によって私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

私たち皆は時々辛い時を経験します。私たち皆は時々苦しみます。

この辛い時は来たり、行ったりします。誰でも良い時も悪い時も経験します。

けれども、神様と関係のない人にとっては、結局エドム人とアラビヤ人のように希望がまったくなくなります。彼らは死ぬと、地獄に行って永遠に苦しみます。

しかし、キリストと関係があると、私たちは結局光がある事を知ることができます。パウロはこう記しました。

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。。。

私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。。。

そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。(ローマ8:18、22-23)

パウロは私たちの苦しみは辛いけれど、それは一時的なものだと分かりました。だから、彼の人生には苦しんでもいつも希望がありました。私たちにもその希望があります。

私たちの苦しみは永遠に続きません。

だから、苦しむときには、神様に向かいましょう。神様を仰ぎましょう。

今もなお、聖霊様があなたのために祈ってくださっていることを思い起こしてください。聖霊様が私たちのために祈ってくださっているからこそ、パウロはこのように語ることができたのです。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ書8:28)

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イザヤ書

砕かれた人々のための希望

この箇所はちょっと難しいです。多くの聖書の学者によれば、この箇所はペルシア人とメディヤ人がバビロンを攻撃することを預言しているものです。とはいえ、ほかの可能性もあります。

その攻撃の150年以上前に、バビロンはメディヤ人とエラム人と同盟を結んでアッシリヤを攻撃しました(紀元前700年ごろ)。

そしてユダはそれを見て、その同盟を応援しました。なぜなら、アッシリヤはユダも虐げたからです。

イザヤもそれを見て、希望を持ったかもしれません。けれども、イザヤはこの主からの幻を見て、泣きました。なぜなら、その攻撃は失敗して、バビロンが倒れたからです。(イザヤ書21:3-4)

最初にその攻撃について聞いた時、ユダ人たちは大宴会を催しましたが、バビロンが倒れたニュースを聞いたら、希望がなくなって、その大宴会は急に終わりました。

しかし、イザヤは彼らに言いました。

踏みにじられた私の民、打ち場の私の子らよ。私はイスラエルの神、万軍の主から聞いた事を、あなたがたに告げたのだ。(イザヤ書21:10)

この言葉は脱穀された穀物の絵です。最初に穀物の穂は踏まれます。そして、その穀物の種が出て、農夫はその穀物を空気中に投げます。そうすると、風によってその要らない殻が吹き飛ばされて、穀物は落ちて保存されます。

そのように、神様はユダ人たちがアッシリヤ人に踏まれたとしても、神様が主を愛して仕える残りの者を保護すると約束されました。しかし、以前ユダ人が信頼したバビロン人たちは殻のように吹き飛ばされるのです。

時々私たちは困難な時に、ユダ人のように助けを探しますが、神様に向かいません。けれども、結局その助けが無駄になって、私たちは砕かれるように感じます。

しかし、もう一度神様に向かって信頼すると、神様がまだ私たちのために計画を持っておられるので、私たちには希望があることが分かるようになります。

あなたは砕かれたと思うでしょうか。あなたは助けを探しているけど、神様があなたの人生に何をされるのか無視しているでしょうか。

神様はあなたを癒すことができます。まだ希望があります。

もしへりくだって神様に立ち返り、悔い改めるなら、神様はあなたを癒してくださいます。神様に信頼するなら、神様の力によってあなたの人生は回復するのです。

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イザヤ書

頑固

私が子供たちに聖書を教えるトレーニングを受けた時に、私の先生はこう言いました。「もし子供たちにあなたの話すポイントを覚えさせたいなら、三回繰り返さなくてはなりません。」

なぜなら、一回だけだと、彼らが聞いていないかもしれないし、二回繰り返せば彼らが思い出すかもしれませんが、三回繰り返すと彼らの記憶に残るだろうからです。

(とはいえ、ある子供にとっては三回でも覚えてくれないかもしれません。)😊

とにかく、ユダ人にとっては三回でも不十分でした。アハズ王の息子ヒゼキヤはアッシリヤを恐れたため、何回も「エジプトと同盟を結ぼう」と思いました。

実は、ヒゼキヤはその在位の間、ほぼ良い王でした。しかし、時々彼の信仰が弱くなり、失敗したこともあります。つまり、神様に信頼せずに、軍事同盟に頼りました。

何回もイザヤはヒゼキヤにそのような同盟について警告しました。

20章では、イザヤは裸でユダを歩き回りました。(本当にすっ裸かどうか分かりません。下着を履いていたかもしれませんが。)

なぜでしょうか。それは神様からのしるしだったのです。つまり、いつかヒゼキヤが信頼していたエジプト人とクシュ人が、アッシリヤの捕虜として裸で歩かされることになるからです。

そして、エジプトとクシュに信頼していた人々も、恥を受けることになるのです。

さらに、イザヤは三十章で、もう一度ヒゼキヤとユダの民に警告を与えました。

ああ。反逆の子ら。――主の御告げ――彼らははかりごとをめぐらすが、わたしによらず、同盟を結ぶが、わたしの霊によらず、罪に罪を増し加えるばかりだ。

彼らはエジプトに下って行こうとするが、わたしの指示をあおごうとしない。パロの保護のもとに身を避け、エジプトの陰に隠れようとする。(イザヤ書30:1-2)

そして、31章でイザヤは彼らに警告しました。

「エジプトはきっと倒れます。もしあなたたちがこの同盟を求め続けるなら、ユダも倒れてしまうでしょう。」

ヒゼキヤはその警告も無視しました。しかし、結局エジプトが「いたんだ葦の杖」のようになった時、ヒゼキヤは必死になって、やっと神様に向かって信頼しました。

そして、神様はユダを救われました。

どうして、ヒゼキヤはそんなに頑固だったのでしょうか。

どうして、私たちはそんなに頑固になるのでしょうか。

私はよくわかりません。プライドかもしれません。神様が要らなくて、自分の問題を解決できると思うかもしれません。もしくは神様に信頼したら、がっかりしてしまうと思うかもしれません。

もし、最初から神様に信頼したら、私たちの人生はどれほど楽になるでしょうか。

最初に神様の声を聞いて従ったら、どれほど私たちの人生は楽になるでしょうか。

頑固にならないようにしましょう。ヒゼキヤとユダ人は頑固で、ずっと自分の計画を握りしめて、罪を犯しました。そのような態度を避けましょう。

むしろ、最初から、神様の警告と戒めに従いましょう。

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イザヤ書

祝福を得るために打たれた。人々を祝福するために打たれた。

子供の時に、私はよくしつけられました。もちろん、それは楽しい思い出ではありません。けれども、振り返ると、私は父に感謝しています。なぜなら、そのしつけによって私は人として成長したからです。

そのように神様は私たちをしつけられます。しかし、多くの人々のイメージと違って、神様は怒りの神ではありません。むしろ、神様は私たちを祝福したいと思っておられます。

この箇所の最初の部分では、モーセの時代のように、神様はエジプトを厳しく裁いておられました。けれども、急に神様のトーンが変わります。

その日、エジプトの国には。。。万軍の主に誓いを立てる五つの町が起こり。。。彼らがしいたげられて主に叫ぶとき、主は、彼らのために戦って彼らを救い出す救い主を送られる。

そのようにして主はエジプト人にご自身を示し、その日、エジプト人は主を知り。。。主はエジプト人を打ち、打って彼らをいやされる。

彼らが主に立ち返れば、彼らの願いを聞き入れ、彼らをいやされる。(イザヤ書19:18,20-22)

それだけではなく、神様はエジプトの敵アッシリヤ人の心の中に働くと約束されました。そしてエジプト人とアッシリヤ人に関して、神様はこう言われました。

その日、エジプトからアッシリヤへの大路ができ、アッシリヤ人はエジプトに、エジプト人はアッシリヤに行き、エジプト人はアッシリヤ人とともに主に仕える。

その日、イスラエルはエジプトとアッシリヤと並んで、第三のものとなり、大地の真ん中で祝福を受ける。(23-24)

この箇所を読んだ時、ちょっと驚きました。なぜなら、普通は神様はイスラエルだけに関してそのような言葉を言われるからです。けれども、この箇所によると、神様に戻る人々全てを神様は受け入れてくださいます。

もちろん、私たちが罪を犯すと神様は私たちを打たれます。とはいえ、神様の望みは、私たちが悔い改めることです。そうすれば、神様は私たちを癒してくださいます。

それだけではなく、神様は私たちを祝福したいと思っておられます。そして、神様は私たちが周りの人々に対して祝福になることを望んでおられます。

神様は今あなたを懲らしめておられるでしょうか。あなたの罪によって、あなたの状況は辛いでしょうか。

神様に向かって悔い改めましょう。神様は私たちを打ちたくはありません。むしろ、私たちを祝福したいと思っておられます。

私たちが周りの人々に対して呪いになることを望んでおられません。むしろ、私たちが周りの人々に対して祝福になることを望んでおられます。

だから、へブル人への手紙の著者の言葉を覚えておきましょう。

主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。

主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。(へブル12:5-6)

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イザヤ書

神様が沈黙するとき

時々私たちはこの世の悪を見て、「神様はどこにおられるのだろうか」と思います。

「どうして神様は何もされないのだろうか。何かしておられるのだろうか。神様は悪を見て、気になさらないのだろうか。」

この箇所で、神様はそのような方のようです。「あちこちで恐れられている民」また「力の強い、踏みにじる国」を見ると、神様は言われました。

「静まって、わたしの所からながめよう。」(イザヤ書18:4)

しかし、神様はいつまでもそうされません。むしろ、ある日、

「神様」はその枝をかまで切り、そのつるを取り去り、切り除くからだ。

それらはいっしょにして、山々の猛禽や野獣のために投げ捨てられ、猛禽はその上で夏を過ごし、野獣はみな、その上で冬を過ごす。(5-6)

日本語の翻訳では、「人はその枝をかまで切り。。。」と書いてありますけど、ヘブル語では「彼はその枝をかまで切り。。。」と書いてあります。その「彼」とは神様です。

つまり、今神様が何もしておられないと思うかもしれませんが、結局神様がこの世界を裁かれます。その悪い民を裁かれ、神様とその民に反対する人々を裁かれます。

とはいえ、興味深いところもあります。神様はその敵が悔い改めるように働いておられます。

7節によると、神様とその民に反対して恐れられた人々は、神様を王として従い、贈り物をささげます。

だから、ペテロの言葉を思い出すことが大切だと思います。ペテロはこう書きました。

主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。

かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。(第二ペテロ3:9-10)

神様の御心はすべての人々が滅びることではなく、むしろ救われることです。ある日、悔い改めない人々は裁かれます。

しかし、神様は彼らの悔い改めのために待っておられ、その日を伸ばしておられます。

神様の民として、私たちはどのように反応するべきでしょうか。

周りの人々の救いのために祈りましょう。彼らが私たちを憎んでも、彼らが私たちが見つけたキリストにあって命を見つけるように祈りましょう。

神様の子供としてそうするべきではないでしょうか。

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イザヤ書

神様を忘れる

英語では、私たちはよく言います。「Out of sight, out of mind.」

つまり、しばらく相手を見ないとすぐに忘れてしまうのです。

残念なことですが、多くの人々は神様についてそのように考えます。神様を見ることができないため、もし活発に求めないと神様をすぐに忘れてしまうのです。

多くのクリスチャンも神様をすぐに忘れてしまいます。けれども、困った時には、私たちは神様をすぐに思い出して、叫びます。「神様!助けて!」

イスラエル人もその通りでした。彼らは偽物の神々と霊的な同盟を結び、シリアと政治的および軍事的同盟を結んだのです。

だから、神様は彼らを責められました。

あなたが救いの神を忘れてあなたの力の岩を覚えていなかったからだ。(イザヤ書17:10)

私たちはどれぐらいそのようなことをするでしょうか。私たちは他の神々を礼拝しないかもしれません。しかし、神様に頼れずに、私たちはお金に頼ります。神様ではなく、お金は私たちの岩になります。

あるいは、私たちの持ち物を何よりも大事にします。もしくは、私たちの仕事が上手くいくために妥協して、不敬虔な人々と働きます。

一時的にすべては上手くいくかもしれませんが、結局すべてを失います。イスラエル人とシリア人はそのことを学びました。

そして神様は言われました。

その日(つまり、全てを無くす日)、人は自分を造られた方に目を向け、その目はイスラエルの聖なる方を見、自分の手で造った祭壇に目を向けず、自分の指で造ったもの、アシェラ像や香の台を見もしない。(7-8)

その日が来る前に、今こそ神様を思い起こすべきではないでしょうか。

つまり、お金ではなく、神様こそを私たちの岩とすべきではないでしょうか。 なぜなら、人々が作った物ではなく、神様こそが強い砦だからです。

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兄弟のための思いやり

兄弟の憎しみは他の憎しみよりも大変なことです。なぜなら、私たちは自分の兄弟からもっと期待するものだからです。

モアブ人はイスラエル人ともっと親しい関係があるべきでしたが、全然親しくありませんでした。

彼らの先祖はアブラハムとロトでした。アブラハムはロトのおじでした。そして、アブラハムの子孫たちはイスラエル人で、ロトの子孫はモアブ人でした。

それでも、その二つの国の関係は大部分において悪いものでした。

そして、この箇所で神様はモアブを裁かれました。しかし、イザヤのモアブへの裁きに対する反応は、他の国々の裁きに対する反応と違いました。

イザヤは言いました。

わたしの心はモアブのために叫ぶ。。。

それゆえ、わたしのはらわたはモアブのために、わたしの内臓はキル・ヘレスのために立琴のようにわななく。(イザヤ書15:5;16:11)

どうしてイザヤは、イスラエルとユダの敵のために泣いていたのでしょうか。多分彼らは兄弟のはずだったからです。だからモアブはユダやイスラエルと仲良くないのに、イザヤはまだその人々を愛していました。

イザヤはモアブ人に、「保護のためにユダに行ってください」と言いました。

そして、ユダ人にイザヤは言いました。「モアブ人を受け入れて、保護してください。」

また、イザヤはモアブ人を慰めようとしました。彼は言いました。

「しいたげる者(アッシリヤ人)は死にます。もしあなたがユダに行ったら、あなたは安全と正義を見つけることになるでしょう。」(イザヤ書16:1ー4)

そしてイザヤは言いました。

一つの王座が恵みによって堅く立てられ、さばきをなし、公正を求め、正義をすみやかに行なう者が、ダビデの天幕で、真実をもって、そこにすわる。(イザヤ書16:5)

つまり、彼らには一つの希望しかありませんでした。それは、将来のエルサレムを治められる救い主です。

残念なことに、モアブ人はイザヤの言葉を無視しました。だからイザヤは彼らに言いました。

雇い人の年期のように、三年のうちに、モアブの栄光は、そのおびただしい群衆とともに軽んじられ、残りの者もしばらくすれば、力がなくなる。(イザヤ書16:14)

この箇所を読むと、私たちを憎む人々に対する思いやりの必要を思い出します。

時々親友は私たちを裏切ります。しかし、彼らが苦しむ時、私たちは喜ぶべきではありません。むしろ私たちは彼らのために祈るべきです。

そしてイザヤのように、私たちは彼らに「イエス様に向かってください」と願うべきです。また、彼らのただ一つの希望はイエス様にあることを伝えるべきです。

あなたはどうですか。あなたを憎む人々が苦しむ時に、あなたは喜ぶでしょうか。それとも泣くでしょうか。

「彼らが苦しんで良かった」と言いますか。それとも彼らの癒しのために祈るでしょうか。

イエス様は私たちに教えられました。

自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:44)

イエス様にとっては、それは言葉だけではありませんでした。イエス様はその言葉に従われました。十字架で死にかけているときにも、イエス様はご自身の敵のために祈られました。

その愛によって、イエス様を信じる私たちは救われました。

私たちも、その受けた憐れみを、私たちを傷つけた人々に与えるように。

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イザヤ書

もっと大変なこと

この箇所によって、私たちはイスラエルのタイムラインのどこにいるかを見ることができます。つまり、イザヤがこの箇所を書いた時に、ユダの王アハズは亡くなったところでした。

とはいえ、29節では、イザヤはアハズの死ではなく、アッシリヤの王の死については書いていませんでした。

多分、ペリシテ人はアッシリヤの王の死について喜んでいました。なぜなら、その王はペリシテ人を苦しめた存在だったからです。

しかし、イザヤはペリシテ人に警告しました。

「この王は死にましたが、あなたの苦しみは終わっていません。むしろ、あなたの苦しみはもっと酷くなります。

そのアッシリヤの王の息子はあなたたちを治め続けますし、飢饉もあなたたちの土地を打ちます。

だから、あなたたちはこの世界から消えて、全く将来の希望はありません。けれども、あなたたちが苦しめたイスラエル人は再びシオンに戻り、安全を知るようになります。」(イザヤ書14:30-32)

私たちはここから何を学ぶことができるでしょうか。

私たちが悔い改めるために、時々神様は私たちを懲らしめられます。

どうして神様は、アッシリヤを通してペリシテ人とイスラエル人を苦しませられたでしょうか。なぜなら、神様はその苦しみを通して彼らが罪を捨てて、神様に向かうことを望まれたからです。

しかし、アッシリヤ人は悔い改めなかったので、滅びました。

実は、イスラエル人も滅びるはずでした。けれども、神様の恵みによって滅びていませんでした。

以前、神様がアブラハムに約束されました。

わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。。。

あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。(創世記22:17-18)

つまり、神様はアブラハムの子孫をずっと祝福し、アブラハムの家系を通して、救い主イエス様が来られると約束されました。

イザヤがペリシテ人に対して、もっと大変な裁きについて警告したように、イエス様はある人にもっと大変な裁きについて警告されました。

その人は38年間歩けなかったのですが、イエス様は彼を癒されました。後にイエス様はその人に会って、こう言われました。

見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。(ヨハネ5:14)

つまり、「あなたのけがが悪かったと思ったでしょうか。今癒されて喜んでいるでしょうか。

あなたにはもっと悪い問題があります。それは、あなたの罪です。もし悔い改めなければ、もっと悪いことが起こります。あなたのけがは一時的なものでした。しかし、地獄は永遠に続きます。」

あなたは神様の警告を聞いて、どうするでしょうか。無視するでしょうか。それとも、悔い改めるでしょうか。

神様の警告に注意しましょう。そうすれば、永遠の罰を受けずに、永遠の命を知るようになります。

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自分の目的を果たされる神

時々、私たちは自分の状況を見て、神様が本当に私たちのために御計画を持っておられるのか疑ってしまうことがあります。

あるいは、神様はもともと御計画を持っておられたけれど、私たちの罪や過ちによって、その御計画が失われてしまったのではないかと思うこともあります。

または神様が予想できなかった状況によって、その御計画がダメになったと思うことがあります。なぜなら、私たちの経験では、私たちの立てた計画は予想できない事によってダメになってしまうことが多いからです。

でも、神様の御計画は決してダメになりません。神様は言われました。

「万軍の主が立てられたことを、だれが破りえよう。

御手が伸ばされた。だれがそれを戻しえよう。」(イザヤ書14:24,27)

この箇所では、神様はアッシリヤの将来の裁きについて話しておられます。アッシリヤには強い軍隊があり、ユダとイスラエルを困らせていましたが、神様がアッシリヤを打ち破り、そのくびきは主の民の上から除かれると約束しておられます。

だから、イスラエルとユダの罪によって、彼らはアッシリヤの手によって苦しんでいたのに、また希望が無くなったようだったのに、神様はまだイスラエルの民のために御計画を持っておられました。アッシリヤや他のものは、その計画の成就を止めることができませんでした。

そのように、神様はまだあなたのために御計画を持っておられます。イスラエル人のように、あなたは罪を犯したから苦しんでいるかもしれません。

または、サタンがあなたを攻めていて、あなたはそれから逃げられないと思っているかもしれません。私たちのための神様の御計画は、きっと成就できないと思うかもしれません。

でも神様が言われているのは、「私の御計画はまだ有効だ」ということです。

神様は状況によって決して驚かれません。また、いつも何をするか知っておられます。何も、また誰も神様の御計画の成就を止めることはできません。

私たちもできません。サタンもできません。神様の御計画は永遠に立ちます。

だから、がっかりしないでください。希望を失わないでください。むしろ、主から目を離さないでいましょう。そして、神様に心を開いて、従いましょう。

ダビデが言ったように、

主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます。

主よ。あなたの恵みはとこしえにあります。(詩篇138:8)

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サタンの敗北

この箇所は13章の続きで、バビロンの裁きについてです。

多くの人々はこの箇所がサタンに関するものだと思います。特に12−14節はサタンに関すると思います。

私はそこまで言わないけれども、バビロンの王とサタンは共通点がたくさんありました。

その二人は高い立場を望み、力も持ちたがっていました。その二人は神様のようになろうとしていました。そのために彼らは人々を抑え、囚人として捕えました。

しかし、神様はその二人を打ち倒されました。そして、バビロンの王の治世が終わったように、サタンの治世も終わります。

イザヤは、バビロンの王が倒れたら人々がこう言うと預言しました。

しいたげる者はどのようにして果てたのか。横暴はどのようにして終わったのか。

主が悪者の杖と、支配者の笏とを折られたのだ。

彼は憤って、国々の民を打ち、絶え間なく打ち、怒って、国々を容赦なくしいたげて支配したのだが。全地は安らかにいこい、喜びの歌声をあげている。。。

下界のよみは、あなたの来るのを迎えようとざわめき、死者の霊たち、地のすべての指導者たちを揺り起こし、国々のすべての王を、その王座から立ち上がらせる。彼らはみな、あなたに告げて言う。

「あなたもまた、私たちのように弱くされ、私たちに似た者になってしまった。」(イザヤ書14:4-7、9-10)

そのように、イエス様がこの世にもう一度来られると、サタンは永遠に打ち倒されます。その日、皆は喜び、やっと平和が訪れます。

また、サタンは地獄に落ち、その力はすべて失われます。そして、他の悪人のようにサタンは自分の罪とプライドによって火の池に投げ込まれます。

多くの人々はサタンと地獄について誤解があります。彼らはサタンが地獄の王だと思っています。

しかし、サタンは今地獄にいないし、全く行きたくありません。なぜなら、サタンが地獄に行く時、王として行くのではないからです。サタンは監獄の長としてさえも行きません。むしろ、地獄の囚人として行きます。

バビロンの王が落ちた時に、皆は驚いて言いました。

この者が、地を震わせ、王国を震え上がらせ、世界を荒野のようにし、町々を絶滅し、捕虜たちを家に帰さなかった者なのか。(16-17)

そのように、サタンが落ちると、皆は驚いて同じようなことを言います。

この箇所によって私たちは何を学ぶことができるでしょうか。サタンと悪霊があなたを攻めるかもしれませんが、彼らの時間は短いです。彼らもそのことを知っています。

ある日、彼らが裁かれ、その日この世の悪は消え、あなたの苦しみも終わります。だから、私たちは希望があります。

あなたは永遠に苦しむことはありません。サタンが永遠にあなたを責め続けることもありません。

イエス様の十字架の働きによって、神様はすでに救いの御業を始めておられます。そして、神様はあなたを罪の力と罪の罰からすでに解き放ってくださいました。

とはいえ、私たちは罪の臨在からまだ救われていません。だから、私たちはまだ苦しんでいます。しかし、その日も来ます。

その日、

彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。(黙示録21:4)

だからこそ、試練が来ても失望しないでください。むしろ喜びましょう。なぜなら、イエス様を通して、私たちはもう勝利を得たからです。

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裁きの日

13章から、神様はいくつかの国に対して裁きを宣言し始められました。

最初に、神様はバビロンを裁かれました。そして、バビロンの裁きを通して、将来の世界の裁きの絵を見ることができます。

イザヤはこう書きました。

見よ。主の日が来る。残酷な日だ。憤りと燃える怒りをもって、地を荒れすたらせ、罪人たちをそこから根絶やしにする。

天の星、天のオリオン座は光を放たず、太陽は日の出から暗く、月も光を放たない。

わたしは、その悪のために世を罰し、その罪のために悪者を罰する。不遜な者の誇りをやめさせ、横暴な者の高ぶりを低くする。

わたしは、人間を純金よりもまれにし、人をオフィルの金よりも少なくする。

それゆえ、わたしは天を震わせる。万軍の主の憤りによって、その燃える怒りの日に、大地はその基から揺れ動く。

追い立てられたかもしかのように、集める者のいない羊の群れのようになって、彼らはおのおの自分の民に向かい、おのおの自分の国に逃げ去る。(イザヤ書13:9-13)

「10節を読んだことがあるかなぁ」と思うなら、多分そうです。最後の日について話された時に、イエス様はこの箇所を引用されました。(マタイ24:29)

そして、イザヤははっきりと言いました。「神様の忍耐は永遠に続かない。」

今、私たちは恵みの時代に生きています。ペテロはこう記しました。

主は。。。あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(第二ペテロ3:9)

しかしペテロはこれも言いました。

主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。(第二ペテロ3:10)

イザヤの言葉も私の心を打ちます。つまり、「残酷な日」、「憤り」、「燃える怒り」、「荒れすたらせる」、「根絶やしにする」と「罰する」。

私たちはよく神様が愛であると思います。それはその通りです。とはいえ、神様は正義の神でもあります。そして、正義の神は結局罪を裁かなくてはなりません。

時々、私たちは神様がその裁きに関して遅いと思います。しかし、神様ははっきりと言われます。「裁きの日が来る。」

神様は、バビロンとその王にその警告を宣言されました。また、神様は私たちにも警告されます。

あなたは裁きの日のために準備しているでしょうか。神様があなたの罪を無視されると思わないでください。また、神様があなたの罪に気づかないと思わないでください。

神様は、すべての人々の罪を裁かれます。あなたの悪い行動、あなたの悪い言葉、あなたの悪い態度、あなたの悪い思いを全部裁かれます。

その日は必ず来ます。そして、あなたはその日から逃れることはできません。

私たちの希望は一つしかありません。まだ時間があるうちに、神様の赦しとあわれみを求めることです。その時間は今です。

パウロはこう記しました。

確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。(第二コリント6:2)

今、そうしませんか。

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イザヤ書

救いの喜び

ある日曜日、ヨハネ3章についてのメッセージを聞きました。その日、私の牧師は16節を読みました。多分ヨハネ3:16は一番有名な聖書の箇所です。

そして、私の牧師は私たちに訊きました。「この箇所はあなたの心にまだ触れるでしょうか。それとも、その言葉を聞いても何も感じなくなったでしょうか。」

時々、私たちは救いを当然のことだと思います。つまり、救いについて考えても、特に感謝の心を持ちません。

どれぐらいあなたは救いの意味について本当に考えるでしょうか。前回はいつだったでしょうか。

この箇所を読むと、私は救いの意味を思い出します。

「主よ。感謝します。あなたは、私を怒られたのに、あなたの怒りは去り、私を慰めてくださいました。」

見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。

ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。

あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。(イザヤ書12:1-3)

子供の時に、私はいつも父の怒りを恐れていました。特に私が悪いことをした時に父の怒りを恐れました。

多くの人々は神様についてそのように考えます。神様が彼らを罰すると思うから、神様から隠れます。

しかし、この箇所によると、神様を恐れる必要はありません。神様の恵みとあわれみによって、神様の怒りは私たちから去られました。イエス様を通して私たちは罪の罰から救われました。

だから、神様を恐れて隠れる必要はありません。むしろ、神様は私たちの喜びと歌になられました。

それだけではなくて、神様は毎日私たちと共におられます。私たちがどこに行っても、何をしても、神様の手は私たちの上にあります。祝福してくださるために。導いてくださるために。また守ってくださるために。

私はそのことについてもっと考えるべきです。イエス様にあって、どのような祝福を持っているか覚えているべきです。

感謝するべきものがたくさんあります。そして、この世界は私たちを自由にさせられたメッセージを聞くべきです。

イザヤが書いたように、

主に感謝せよ。その御名を呼び求めよ。そのみわざを、国々の民の中に知らせよ。御名があがめられていることを語り告げよ。

主をほめ歌え。主はすばらしいことをされた。これを、全世界に知らせよ。シオンに住む者。

大声をあげて、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は、あなたの中におられる、大いなる方。(4-6)

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イザヤ書

この同じ御霊

もちろんこの箇所はイエス様についてです。つまり、イエス様はこの世に来られ、そして御霊がイエス様の上にとどまって、イエス様を知恵と悟りと力に満たされました。

そして、イザヤは将来の国について話しました。その時、狼は子羊とともに宿り、子供はコブラの隣に遊び、イエス様はイスラエルを回復し、この世界を義によって治められます。

けれども、この箇所を読んだ時、私はこう思いました。イエス様の上にとどまった御霊は私たちに与えられました。この同じ知恵と悟りとはかりごとと能力の御霊は私たちにも与えられました。

イエス様が約束されたのは「私は天国に帰ると聖霊をあなたに送る。その御霊によってあなたは私よりも素晴らしい業を行う」という事です。(ヨハネ14:12−17)

また、イエス様は、御霊が私たちにすべてのことを教えると約束されました。(ヨハネ14:26)

また、イエス様は、私たちがこの世に影響を与えるために、御霊が私たちに知恵を与えると約束されました(ヨハネ16:13−15)。

今日まで、私は気づいていませんでしたが、多分パウロはエペソ人への手紙を書いた時に、この箇所について考えていたかもしれません。パウロの言葉はイザヤ書のパラフレーズのようです。

パウロはこう記しました。

どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。

また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせ[た」。(エペソ1:17-20)

「私たちが神様を知るための知恵と啓示の御霊。」

心の目がはっきり見えるようになったので、私たちは与えられた望みが分かります。全能の力ある御霊は私たちの中で働いています。その力によって神様はキリストをよみがえらせました。

時々、私たちは「どうして神様はこの世の中にもっと働かないの?」と訊きます。

一つの理由は御霊に満たされたクリスチャンがあまりいないからです。知恵と悟りと力に満たされたクリスチャンは少ないです。また神様を恐れるクリスチャンもあまりいません。

むしろ、私たちはこの世の物で私たちの人生を満たそうとします。私たちは仕事や趣味に集中しすぎます。私たちは御霊の力に満たされずに、空っぽで生きます。だからこそ、この世界は死にかけているのです。

しかし、イエス様の上にとどまっていた同じ御霊を、私たちも受けることができます。

御霊を求めているでしょうか。御霊に満たされることを望んでいるでしょうか。そうすれば、私たちの人生だけでなく、この世界も変わります。けれども、そうでなければ何も変わりません。

あなたはどうですか。あなたは空っぽでしょうか。あなたは御霊に飢えているでしょうか。

私たちが求めると、きっと満たされます。

イエス様は言われました。

してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。

とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。(ルカ11:13)

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主に信頼する人々に

私はこの箇所が大好きです。神様はアッシリヤを裁かれた後、イスラエル人にこう言われました。

その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家ののがれた者は、もう再び、自分を打つ者(つまり、アッシリヤ人)にたよらず、イスラエルの聖なる方、主に、まことをもって、たよる。。。

それゆえ、万軍の神、主は、こう仰せられる。「シオンに住むわたしの民よ。アッシリヤを恐れるな。彼がむちであなたを打ち、エジプトがしたように杖をあなたに振り上げても。

もうしばらくすれば、憤りは終わり、わたしの怒りが彼らを滅ぼしてしまうから。。。

その日になると、彼の重荷はあなたの肩から、彼のくびきはあなたの首から除かれる。くびきはあなたの肩からもぎ取られる。」(イザヤ書10:20、24ー25、27)

これを読むと、私たちの人生について考えます。

以前、私たちは私たちを打った者に頼っていました。つまり、サタンは私たちに幸せと満足を与えると約束しましたが、結局私たちのすべてを盗みました。サタンは私たちを打ったので、私たちは自分の罪と情欲の奴隷になりました。

しかし、もし私たちがサタンの嘘を信じずに、むしろ主に頼ると、私たちの罪と罪悪感と恥の重荷は取り除かれ、私たちは自由にされます。

そして、ある日、神様がアッシリヤ人を裁かれたように、神様はサタンも裁かれます。サタンはそれを知っています。だから、サタンは私たちに向かって拳を振り上げます。(32)

けれども、神様はサタンを木のように切り落として、サタンは低くされます。

だから、サタンの嘘を拒絶して信頼しないでください。

サタンはいろいろな約束をしますが、その約束は虚しいものです。サタンは私たちを脅すかもしれませんが、私たちが神様に信頼すると、サタンは私たちに対して力がありません。

むしろ、主に頼りましょう。なぜなら、主は私たちを愛し、癒やし、新しい人生を与えたいと願っておられるからです。

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誰が主人でしょうか。誰が道具でしょうか。

聖書が私たちによく警告することはプライドです。そして、この箇所で、神様はアッシリヤ人をプライドのために責められました。

アッシリヤは強い国になって、周りの国々を征服し始めました。しかし、彼らが知らなかったことは、神様が彼らを通してその国々を裁いておられたことです。つまり、アッシリヤ人たちはただ神様の道具にすぎませんでした。

神様はこう言われました。

わたしはこれを神を敬わない国に送り、わたしの激しい怒りの民を襲えと、これに命じ、物を分捕らせ、獲物を奪わせ、ちまたの泥のように、これを踏みにじらせる。(イザヤ書10:6)

けれども、自分のプライドによって、アッシリヤ人たちは自慢しました。

私は自分の手の力でやった。私の知恵でやった。私は賢いからだ。

私が、国々の民の境を除き、彼らのたくわえを奪い、全能者のように、住民をおとしめた。(13)

だから神様は答えられました。

斧は、それを使って切る人に向かって高ぶることができようか。のこぎりは、それをひく人に向かっておごることができようか。(15a)

そして、神様は皮肉っぽく言われました。

それは棒が、それを振り上げる人を動かし、杖が、木でない人を持ち上げるようなものではないか。(15b)

だから、神様は彼らを裁いてこう宣言されました。

それゆえ、万軍の主、主は、その最もがんじょうな者たちのうちにやつれを送り、その栄光のもとで、火が燃えるように、それを燃やしてしまう。(16)

ヒゼキヤ王の治世のとき、その預言は成就されました。(イザヤ37:36ー37)

ここから、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

私たちはよく自分ができること、また自分ができたことを自慢します。社会でも、教会でも私たちはそうします。

しかし、覚えていなくてはならないことは、私たちが主人ではないことです。私たちはただの道具です。

私たちが持っている物の全ては神様から来ます。そうであれば、私たちは何を自慢できるでしょうか。

パウロはこう言いました。

いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。

あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。

もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。(第一コリント4:7)

だから、教会でも、この世界でも、私たちが素晴らしいことをする時、すべてがどこから来るか思い出しましょう。

私たちの賜物と才能がどこから来るか思い出しましょう。私たちの祝福がどこから来るか思い出しましょう。

そして自分自身のために生きずに、謙遜な態度を持って、神様に感謝して仕えましょう。

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悪の本質

いつイザヤがこの預言を書いたか私は分かりませんが、多分イスラエルの王ペカの治世の時に(列王記第二15:29)、もしくはホセア王の治世の時に書きました。(列王記第二17:3-5)

ペカの治世の時、アッシリアはイスラエルを攻めていました。ホセアの治世の時、アッシリヤはもう一度来てサマリヤを攻めていました。

とにかく、イスラエルは困っていたのに、神様に向かうことを拒絶しました。むしろ、自分のプライドと力によって、砕かれた物を回復しようとしました。

だから、神様は言われました。「あなたがたのプライドと罪のためにあなたがたは追放される。」

その警告の中で、鮮やかなイメージを通してイザヤはイスラエルの悪について話しました。そのイメージを通して私たちが悪の本質を学べると思います。

イザヤはこう記しました。

悪は火のように燃えさかり、いばらとおどろをなめ尽くし、林の茂みに燃えついて、煙となって巻き上がる。

万軍の主の激しい怒りによって地は焼かれ、民は火のえじきのようになり、だれも互いにいたわり合わない。(イザヤ9:18-19)

私は森林火災を見たことがありません。けれども、森林火災が始まると、すぐに広がって木や植木はその火災の燃料になります。結局、灰しか残りません。

悪はそのようなものです。放置されると、悪が広がって、人々は逃げられずにその悪の燃料になります。そして、悪はさらに悪を生みます。結局、皆が滅びてしまいます。

20-21節にこう書いてあります。

右にかぶりついても、飢え、左に食いついても、満ち足りず、おのおの自分の腕の肉を食べる。

マナセはエフライムとともに、エフライムはマナセとともに、彼らはいっしょにユダを襲う。それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。(イザヤ書9:20-21)

つまり、悪によって、結局誰も満足することはありません。

時々私たちの望んだことが叶ったら、嬉しくなると思うから罪を犯します。だから私たちの夢を得るために周りの人々を踏みつけます。

またはポルノや姦淫を犯して、私たちの結婚を捨ててしまいます。

また私たちのお金や持ち物の愛によって、周りの人々を傷つけます。

しかし、結局私たちはまだ不満です。それでも、私たちは悪に背を向けずにその道を行き続けます。その結果、周りの人々を傷つけ、私たち自身も滅びてしまいます。

イスラエルとユダはその通りになりました。そして、神様は裁きの日が来ると警告されています。

私たちのために裁きの日が来ます。私たちの行動のために私たちは裁かれます。

だからこそ、堅い心と私たちを滅びる罪を捨ててましょう。むしろ、私たちは悔い改めましょう。そうすれば、私たちが癒されるのです。

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その日が来ると

3年間前に英語のブログでこの箇所について書きました。その時、私はちょっと落ち込んでいました。なぜなら、家計がちょっときつくて心配していたからです。毎日そのことについて考えていました。

けれども、その時、この箇所を読んで希望が戻りました。

しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。

先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。

やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。

あなたはその国民をふやし、その喜びを増し加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。

あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。(イザヤ書9:1ー4)

この箇所はイエス様についてです。パリサイ人と律法学者はそれを理解せず、言いました。

あなたもガリラヤの出身なのか。調べてみなさい。ガリラヤから預言者は起こらない。(ヨハネ7:52)

けれども、この箇所は確かに救い主についてです。イザヤは続けてこう言いました。

ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。

主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。

万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。(6ー7)

クリスマスの時にいつもメッセージと歌の中でその言葉を聞きます。

しかし、この世界は一年中このメッセージを聞かなくてはなりません。多くの人々は闇の中に歩んでいます。彼らは経済的な問題や人間関係の問題や健康の問題があります。

世界の先進国の中で、日本は二番目に高い自殺率です。

けれども、イエス様が希望のないイスラエル人に光と希望を与えられたように、イエス様は今でも人々に希望を与えてくださいます。

また失望する人に喜びを与えてくださいます。そして、疲れた人のくびき、また重荷を負っている人のくびきを破ってくださいます。

イエス様は不思議な助言者です。この壊れた世界で、イエス様はどうやって生きた方が良いか教えてくださいます。また私たちの壊れた人生をどうやって治すか教えてくださいます。

イエス様は力ある神です。私たちの苦しみの中で、イエス様は私たちを助ける力を持っておられます。

イエス様は永遠の父です。時間が始まる前に、イエス様は私たちを知って愛しておられました。

イエス様は平和の君です。イエス様は恐れで結ばれた人々に、安心と平和を与えてくださいます。

そして、2000年前に来られたように、いつかもう一度イエス様はこの世界に戻られます。

その日、イエス様は世界の悪を打ち破られます。不正義はなくなりますし、死と苦しみと悩みもなくなります。

しかし、その日が来るまで、イエス様は聖霊様を私たちに与えてくださいました。聖霊様は私たちの心の中に住んで、私たちを慰めて、導いてくださいます。

イエス様は私たちを捨てて孤児にはされませんでした。毎日、私たちと共におられます。そして、私たちが心配して苦しむ時、イエス様は私たちの光となられます。

だからこそ、イエス様に向かいましょう。

イエス様は今でも私たちに言われます。

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。

そうすればたましいに安らぎが来ます。(マタイ11:28ー29)

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列王記第二

ふたりの主人に仕える?

この箇所は北イスラエル王国の物語の跋文です。

イスラエル人がアッシリヤに追放された後、アッシリヤの王は征服した他の国々の民をイスラエル人の代わりにサマリヤの町々に住まわせました。(サマリヤは北イスラエル王国の首都でした。)

ところが、間もなく、その人々はライオンによって殺されました。そして、アッシリヤの王はこの報告を聞きました。

あなたがサマリヤの町々に移した諸国の民は、この国の神に関するならわしを知りません。

それで、神が彼らのうちに獅子を送りました。今、獅子が彼らを殺しています。彼らがこの国の神に関するならわしを知らないからです。(列王記第二17:26)

この箇所を初めて読んだとき、「本当に主がそのライオンを送られたのだろうか」と思いました。

列王記の著者はそう考えていたのでしょうが、この話を読むと、その考えを受け入れるのは難しいと感じました。

なぜなら、アッシリヤの王が捕らえ移したイスラエルの祭司の一人をイスラエルに送り返し、その祭司がその人々にどのように主を礼拝するかを教えたからです。

そして、それ以降、ライオンが人々を襲うことはなくなったようです。

もちろん、神様は時々人々を裁かれます。また、旧約聖書の時代には、神様が動物を通して人々を裁かれた例も時々ありました。

とはいえ、問題は、サマリヤに送り返された祭司たちが堕落した祭司だったという点です。彼らは本当の祭司ではありませんでした。

ヤロブアム王一世が王位に就いたとき、本物の祭司たちは皆ユダ王国に移ったため、ヤロブアムは自分の意にかなう祭司を任命したのです。

そして、彼らは真の神様の礼拝を教えませんでした。むしろ、金の子牛がイスラエルの神であると教えたのです。

だから、もし神様がそのライオンを送られたのだとしたら、なぜ堕落した礼拝のためにライオンを送るのを止められたのでしょうか。

けれども、さらに考えてみると、一つの可能性として考えられるのは、神様が彼らを罰したものの、彼らの無知によって神様はご自身の怒りを収められたのではないかということです。

イエス様は次のように言われました。

主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。

しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。

すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。(ルカ12:47-48)

とにかく、その人々は神様について教えられたにもかかわらず、彼らは自分の神々を礼拝し続けました。

だから、私たちはこの矛盾した状況について読むことになります。

彼らは主を礼拝し[た]。(列王記第二17:32)

そして、

彼らは主を恐れているのでもなく、主が、その名をイスラエルと名づけたヤコブの子らに命じたおきてや、定めや、律法や、命令のとおりに行なっているのでもない。(列王記第二17:34)

どのようにしてこの二つの文が同時に正しいと言えるのでしょうか?

この箇所によって、神様はこう言っておられるのだと思います。「二人の主人を礼拝することは、真の礼拝ではありません。」

十戒の最初の命令で、神様は「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」(出エジプト記20:3)と仰いました。

したがって、列王記の著者は、この命令によってその人々を非難したのです。(列王記第二17:34-40)

では、あなた自身はどうでしょうか。主だけに仕えているでしょうか。それとも、二人の主人に仕えようとしているでしょうか。

ある人々にとって、お金が彼らの主人となっています。そのために、イエス様はパリサイ人を非難されました。

しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。

あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。(ルカ16:13)

ある人にとっては、自分の持ち物が彼らの主人となっています。また、ある人にとっては、趣味が彼らの主人となっています。

あなたにとって一番大事なもの――それこそが、あなたの神です。

もし神様よりも他のものを優先して仕えるなら、神様はあなたの礼拝を受け入れられません。

そのような礼拝はサマリヤ人の礼拝と同じであり、神様の目には無意味なものになってしまいます。

あなたの主人は誰でしょうか。

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列王記第二

でも私はそんなに悪くないのに

この箇所は北イスラエル王国の終焉について記しています。イスラエルにはずっと悪い王が治めており、ホセアはイスラエルの最後の王でした。(このホセアは預言者ホセアとは異なる人物です)。

私にとって興味深いのは、ホセアが最も悪い王ではなかったことです。

もし私が神様なら、アハブ王やヤロブアムの治世のときにすでにイスラエルを追放していたことでしょう。

もちろん、ホセアも悪い王でしたが、2節には次のように書かれています。

彼は主の目の前に悪を行なったが、彼以前のイスラエルの王たちのようではなかった。(列王記第二17:2)

つまり、ホセアは悪い王でしたが、以前のイスラエルの王たちよりもましでした。しかし、神様の裁きはホセアの治世の時に下りました。

時々、私たちは周りの人々を見て、こう言います。

「私はそんなに悪くない。誰も殺していないし、人々に親切にしようとしています。もちろん時々悪いことをするかもしれないけれど、この人やあの人よりも、私は良い人です。」

そして、自分が周りの人々よりも良い人だと思うがゆえに、神様が自分を受け入れてくださると思います。

けれども、それは誤った考えです。

イスラエル人は時々公然と罪を犯しましたが、時には人々の目に見えないところで悪を行いました。

9節には次のように書かれています。

イスラエルの人々は、彼らの神、主に対して、正しくないことをひそかに行ない[ました。]

しかし、誰の前で罪を犯したとしても、またはひそかに罪を犯したとしても、神様はすべてをご覧になります。

14-17節では、イスラエルの最も深刻な問題を見ることができます。それは、神様の言葉を聞かず、頑なになり、神様に信頼することを拒絶したことです。

その結果、空しい偶像を礼拝し、彼ら自身も空しい存在になってしまったのです。

彼らが周囲の国々の民を真似るにつれて、罪の程度はさらに深刻になりました。

私たちはイスラエル人のようになってしまう可能性があります。

もし私たちが神様の言葉に従うことを拒み、神様に信頼せず、周りの人々の罪を真似して、お金やセックスの「神々」に従うなら、私たちも空しい存在になってしまうのです。

そして、最終的には裁きが訪れます。他の人々よりも罪が少ないとしても、それは関係ありません。

もちろん彼らも裁かれますが、あなたも裁かれるのです。

だからこそ、自分自身を欺いてはいけません。他の人々のほうが悪いかもしれませんが、神様の目の前では私たちも罪人なのです。

だからこそ、悔い改めましょう。神様を信頼し、神様の声を聞いて従いましょう。

そうすれば、神様の祝福、臨在、そして恵みを知ることができるのです。

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イザヤ書 列王記第二 歴代誌第二

私たちが立てられる岩、つまずきの岩

妥協――私たちの信仰を妥協するのは、時として本当に簡単なことです。

私たちが神様のために決断を迫られるとき、私たちはどうするでしょうか。神様に従うでしょうか。それとも、人々からのプレッシャーに屈するでしょうか。

二人の預言者、イザヤとオデデは神様に従いました。けれども、ある祭司ウリヤはそのプレッシャーに屈してしまいました。

ユダの罪のゆえに、神様はアハズの軍隊をイスラエル軍の手に渡されました。けれども、イスラエル人たちはユダ人の物だけを奪うことにとどまらず、ユダ人をイスラエルまで連れて行き、奴隷にしようとしていました。

しかし、サマリヤに入る前に、オデデはイスラエル人たちの前に立ち、こう言いました。

見よ。あなたがたの父祖の神、主がユダに対して憤られたため、主はあなたがたの手に彼らを渡された。ところが、あなたがたは天に達するほどの激しい怒りをもって彼らを殺した。

今、あなたがたはユダとエルサレムの人々を従えて自分たちの男女の奴隷にしようとしている。

しかし、実はあなたがた自身にも、あなたがたの神、主に対して罪過があるのではないか。

今、私に聞きなさい。あなたがたが自分の同胞をとりこにしたそのとりこを帰しなさい。主の燃える怒りがあなたがたに臨むからです。(歴代誌第二28:9-11)

オデデにとって、そのメッセージを伝えることは非常に困難だったと思います。ユダ人たちが多くの悪事を行った一方で、イスラエル人たちはそれ以上に酷い人々でした。

それでも、この一人の預言者は軍隊の前に立ち、「あなたたちは間違っている」と言わなくてはなりませんでした。

もし私がオデデだったなら、こう考えたかもしれません。

「彼らは私の言葉に決して従わないだろう。なぜこんなメッセージを伝えなくてはならないのか。きっと私は殺されるだろう。」

それでも、オデデは彼らの前に立ち、神様のメッセージを伝えました。そして、彼らはオデデの言葉に従い、ユダ人たちに衣服と薬と食べ物を与え、彼らを解放しました。

一方で、ウリヤは全く勇気を持たず、神様の言葉をアハズ王に伝えることができませんでした。

それは驚くべきことです。なぜなら、かつて神様は「ウリヤはわたしの確かな証人」と言われたからです。(イザヤ8:2)

けれども、列王記第二によれば、アハズはウリヤにアッシリヤの神々のために祭壇を造り、全焼のいけにえを捧げるよう圧力をかけました。

そして、モーセの兄アロンがしたように(出エジプト記32章)、ウリヤはそのプレッシャーに屈しました。アハズのためにその祭壇を造り、その偶像を礼拝し始めたのです。

神様はイザヤを通して、そのような妥協について警告されました。(イザヤ書8:11-21)

例えば、神様はイザヤにこう言われました

この民が謀反と呼ぶことをみな、謀反と呼ぶな。(イザヤ書8:12)

ヘブル語で「謀反」にはもう一つの意味があります。それは「同盟」です。

したがって、この箇所を「この民が同盟と呼ぶことをみな、同盟と呼ぶな」と翻訳することができます。

この翻訳が正しいとするならば、多くのユダ人がアッシリヤとの同盟を望んでいたことを意味するでしょう。なぜなら、イスラエルとアラムは同盟を結び、ユダを攻撃していたからです。

しかし、神様はこう言われました。

「妥協してはいけません。不敬虔な国と同盟を結んではいけません。このイスラエルとアラムの同盟を恐れてはなりません。周りの人々を恐れるのではなく、むしろ私を恐れなさい。そうすれば、私はあなたの聖所となるでしょう。」(イザヤ書8:12-14)

また、神様はこう言われました。

「霊媒に尋ねてはなりません。あなたは私に尋ねなければなりません。どうして光を持たない人々に助言を求めるのでしょうか。そのようなことをすると、あなたは苦悩と暗闇だけを見つけるでしょう。」(19-22)

神様はイザヤに次のように言われました。

[主は]イスラエルの二つの家には妨げの石とつまずきの岩、エルサレムの住民にはわなとなり、落とし穴となる。多くの者がそれにつまずき、倒れて砕かれ、わなにかけられて捕らえられる。(14-15)

新約聖書の著者がその箇所を引用すると、彼らはその「岩」をイエス様と結びつけました。つまり、イエス様はイスラエルの民にとって「つまずきの石」となるという意味です。

ペテロは次のように記しています。

彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。(第一ペテロ2:8)

その「御言葉」とは、「悔い改めてください。あなたの罪が赦されるためにイエス・キリストを信じてください。」というメッセージです。

しかし、私たちが神様に背くならば、神様は私たちにとってつまずきの岩となられます。そして、ユダ人とイスラエル人が砕かれたように、私たちも背きによって倒れ、砕かれるのです。

したがって、私たちには選択肢があります。神様に背いて倒れるか、それとも神様を私たちの基礎とし、人生の礎石とするかです。

その選択をした場合、どうなるでしょうか。ペテロは次のように記しています。

彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。(第一ペテロ2:6)

イザヤとオデデのようになりましょう。プレッシャーが来ても、妥協してはいけません。むしろ、私たちの岩であるイエス・キリストの上にしっかりと立ちましょう。

イザヤのようにこう言いましょう。

私は主を待つ。。。私はこの方に、望みをかける。(イザヤ8:17)

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イザヤ書 列王記第二 歴代誌第二

誰を恐れるでしょうか

以前言ったように、ヨタムの息子アハズはユダの王になると、イスラエルをさらに深く偶像礼拝へ導きました。

列王記と歴代誌によれば、アハズは偶像を造り、バアルを礼拝しました。

けれども、最も悪かったのは、アハズが自分の息子を全焼のいけにえとして神々に捧げたことです。その理由は、ユダがアラムとイスラエルと戦っており、その神々の助けを望んだからです。

ある日、アラムの王とイスラエルの王が同盟を結び、エルサレムを攻撃するために来ました。ユダの人々がその知らせを聞くと、

王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した。(イザヤ書7:2)

そこで、アハズはアッシリヤと同盟を結ぼうと考えました。その時、イザヤがアハズのもとを訪れ、こう言いました。

気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。

あなたは、これら二つの木切れの煙る燃えさし、レツィンすなわちアラムとレマルヤの子との燃える怒りに、心を弱らせてはなりません。

アラムはエフライムすなわちレマルヤの子とともに、あなたに対して悪事を企ててこう言っています。。。

[しかし]そのことは起こらないし、ありえない。(イザヤ書7:4-5,7)

そこで、イザヤはアハズにこう言いました。「あなたの神、主から、しるしを求めなさい。」(イザヤ7:11)

けれども、アハズはそれを拒み、「私は求めません。主を試みることはしません。」と答えました。(イザヤ7:12)

その言葉は敬虔に聞こえますが、実際にはアハズはイザヤの言葉の真偽を確かめたくありませんでした。なぜなら、彼はすでにアッシリヤと同盟を結ぶことを決意していたからです。

アハズは主を信頼せず、アッシリヤに頼る道を選んだのです。

そのため、イザヤは怒り、こう言いました。

あなたがたは、人々を煩わすのは小さなこととし、私の神までも煩わすのか。それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。

見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を「インマヌエル」と名づける。。。

まだその子が、悪を退け、善を選ぶことも知らないうちに、あなたが恐れているふたりの王の土地は、捨てられるからだ。(イザヤ書7:13-16)

もちろん、マタイはこの箇所を引用してイエス様について語っていますが、イザヤはおそらく別の出産について考えていたようです。

多くの学者が指摘するのは、イザヤが自身の将来の子について言及している可能性です。(イザヤ8:3-4)

ところで、なぜマタイはイエス様を指すためにこの箇所を引用したのでしょうか。それはおそらく、イザヤの息子の出産がイエス様の出産を象徴しているからです。つまり、イザヤの息子の出産がユダの救いのしるしだったように、イエス様の出産は世界の救いのしるしでした。

また、イザヤの息子は神様がユダとともにおられるというしるしでしたが、イエス様は本物の神様であり、私たちの間に住んでくださいました。(ヨハネ1:14)

さて、イザヤはアハズに「アッシリヤに頼らないでください」と警告しました。

神様はアッシリヤを用いてアラムとイスラエルを打ち砕かれますが、アハズがアッシリヤに頼るなら、アッシリヤがユダも打ち砕くことになると警告しました。(イザヤ書7:17-8:10)

そして、それは現実となりました。

歴代誌によれば、アラムとイスラエルがユダを攻撃した際、アハズはアッシリヤの助けを求めました。アッシリヤの王が来たものの、

彼[つまり、アハズ]を攻め、彼を悩ました。彼の力にはならなかった。(歴代誌第二28:20)

それから、ユダの状態はさらに悪化しました。アハズはアラムの神々を礼拝し始め、ついには神様に背を向けて、

主の宮の戸を閉じ、エルサレムの町かどの至る所に祭壇を造った。(歴代誌第二28:24)

この話から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

誰を恐れるのか、注意してください。また、誰に信頼するのかにも気を付けてください。

アハズは主を恐れなかったため、状況が悪化すると敵を恐れるようになりました。神様に信頼しなかったため、信頼できない人々に依存し、無力な偶像を頼り始めました。

その結果、すべてが崩れてしまいました。

あなた自身はどうでしょうか。誰を恐れているでしょうか。人々を恐れているでしょうか。他人があなたについてどう思うかを心配しているでしょうか。

経済的な問題を恐れているでしょうか。この世が恐れるものを恐れていますか。

それとも神様を恐れているでしょうか。

何に頼っているでしょうか。お金でしょうか。自分の知恵や能力でしょうか。

それらはあなたを救うことはできません。それらに頼るなら、あなたもアハズのように倒れてしまうでしょう。

イザヤがアハズに言ったように、

もし、あなたがたが[神様を]信じなければ、長く立つことはできない。(イザヤ7:9)

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列王記第二 歴代誌第二

ほとんど完璧だけど

この箇所では、ユダの王ヨタムについての短い記録を読みます。彼はほぼ正しい王でした。

歴代誌第二によると、

彼はすべて、主の目にかなうことを行なった。父ウジヤが行なったとおりである。ただし、彼は、主の神殿に入るようなことはしなかった。(歴代誌第二27:2)

ウジヤ王の話を覚えていますか。彼は香を焚くために主の神殿に入ってしまいました。そのため、神様は彼を裁かれました。

(祭司たちだけがその仕事をするべきとされていました。)(歴代誌第二26:18-19)

ウジヤの治世は悪い形で終わりましたが、その息子であるヨタムの治世は非常に成功しました。

例えば、ヨタムはアモン人と戦って打ち勝ったのです。では、どうして彼が成功を収めたのでしょうか。

彼が、彼の神、主の前に、自分の道を確かなものとしたからである。(歴代誌第二27:6)

それでも、ヨタムは完璧な王ではありませんでした。どうしてでしょうか。

それは2節にこう記されています。

民はなお滅びに向かっていた。(歴代誌第二27:2)

「滅びに向かっていた」とは、どのような意味なのでしょうか。

列王記第二によると、

ただし、高き所は取り除かなかった。民はなおも高き所でいけにえをささげたり、香をたいたりしていた。(列王記第二15:35)

ヨタムは主の前で自分の道を確かなものとしましたが、その民はそうしませんでした。このような行動のために、ホセアやイザヤはユダの民を責めました。

さらに悪かったのは、ヨタムが息子アハズに主の礼拝を教えなかったように見えることです。

そのため、アハズが王になると、彼はユダの民をますます偶像礼拝へと導きました。

私たちはここから何を学ぶことができるでしょうか。

私たちが神様とともに歩み、神様の心に従っているとしても、私たちには自分が影響を及ぼす範囲があるのです。それは私たちの伴侶、子供、隣人、そして同僚です。

私たち自身が神様を仕えることだけでは十分ではありません。神様が私たちに与えてくださった人々に良い影響を与えるべきなのです。

そうしないと、神様は私たちをそのために裁かれるのです。

もちろん、私たちは他の人々に良い決断を強制することはできません。また、他の人々が主に仕えることを強制することもできません。

しかし、私たちに権威が与えられている場合、特に子供に対しては、できる限り神様について教え、彼らが神様に従うように導くべきです。

あなたの影響の範囲はどこでしょうか。神様は誰をあなたに託されたのでしょうか。

あなた自身が主に仕えるだけで満足しているでしょうか。

それとも、他の人々を主の道に導いているでしょうか。

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列王記第二

不従順、殺人、敗北

イザヤ書から少し休憩して、列王記第二に戻りましょう。

イザヤが書いた時、何が起こっていたのでしょうか。

一言で言うと、北イスラエル王国は滅亡寸前の状態にありました。

ヤロブアム二世王が亡くなると、イスラエルの繁栄はすぐに終わりました。

その後の32~33年間に、イスラエルには5人の王がいました。

一人は6か月治め、次は1か月治め、次は10年治め、さらに次は2年間治め、最後の王は20年間治めました。

つまり、イスラエルは非常に不安定な王国だったのです。

その時代にイスラエルでは三つの重要な出来事が目立ちました。

一つ目は不従順です。

列王記の著者は4人の王のことをほぼ同じ言葉で説明しています。その5人目の王についてはほとんど何も書かれていませんが、おそらく1か月しか治めなかったためでしょう。

けれども、4人の王については、「彼らは主の目の前に悪を行ない、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪を離れなかった」と記されています。

つまり、イスラエル人は自分が好きなように神々を礼拝し、神様の律法を拒絶し、自分の目に正しいと見えることを行っていたのです。

その結果、二つ目の出来事が起こります。それは殺人です。

この5人の王のうち4人が暗殺されました。

その中で息子が王となったのはたった一人でしたが、彼も2年間しか治められませんでした。そのため、その「王朝」はわずか12年間しか続きませんでした。

そういう状態だったため、誰も王を尊敬せず、その結果、無政府状態に陥りました。

三つ目の出来事は敗北です。

アッシリヤという国がイスラエルを攻め始めました。

最初に、イスラエルはアッシリヤに貢物を納めなければなりませんでした。しかし、すぐにアッシリヤはイスラエルの町を占領し、その住民をアッシリヤに捕らえ移しました。

私たちは何を学ぶことができるのでしょうか。

私たちが神様に背を向け、自分の道を行けば、それは混乱と敗北に導くのです。

アメリカはその例の一つです。離婚率や貧困率、犯罪率が高く、暴力や児童虐待の話をよく耳にします。

けれども、日本でもさまざまな問題が見られます。

他国と比べても日本の自殺率は非常に高いです。昨年、日本では2万5千人が自殺しました。また、十代の子供の死因の主な原因も自殺でした。

日本の離婚率はアメリカの半分ほどですが、それでも27%にのぼります。

今年の児童虐待の事例は、昨年より32%も増加しました。

私たちが神様に背を向け、自分の目に正しいと思うことを行っているため、最終的に私たちの社会は深刻な状態に陥っているのです。

その結果、多くの人々は敗北し、打ち砕かれます。彼らの人生は罪によって壊され、闇の国の囚人となってしまうのです。

神様はイザヤにそのようなことについて警告されました。つまり、イスラエル人は神様に対して自分の目と耳を閉じたため、最終的に彼らの人生は滅びることになるのです。(イザヤ6:11-12)

あなたはどうでしょう。あなたも神様に背いて、人生が壊れていると感じてはいないでしょうか。

希望があります。もし神様に向かって悔い改めるなら、神様はあなたを赦し、癒してくださいます。

神様が望むのは、人々が滅びることではなく、命を見つけることです。それは一歩から始まります。

神様、私は自分の道を歩むことをやめます。どうか私の罪を赦してください。私はあなたの道を歩み始めたいのです。私の主となってください。

パウロはこう書いています。

もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。(ローマ10:9)

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イザヤ書

自分の目をつぶる

これはよく引用される旧約聖書の箇所です。とはいえ、これは本当に理解しにくい箇所です。

神様はイザヤにイスラエル人のためにこのメッセージを与えられました。

行って、この民に言え。「聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。」

この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返っていやされることのないように。(イザヤ書6:9ー10)

本当につらいメッセージですね。そして、イザヤは神様に尋ねました。「いつまでですか。」(11)

神様は答えられました。

町々は荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果て、主が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所がふえるまで。

そこにはなお、十分の一が残るが、それもまた、焼き払われる。(11-13)

これはどういう意味でしょうか。少し不公平ではないでしょうか。なぜなら、神様が彼らの目を閉ざし、彼らの耳も遠くされたからです。神様は本当にそのようなことをされるでしょうか。

イエス様がこの世に生まれる前に、この箇所はギリシャ語に翻訳されました。そして、パウロはその翻訳を引用しました。その翻訳によって、神様の意味がもっとはっきり分かるかもしれません。

パウロは言いました。

この民のところに行って、告げよ。あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。

この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、その目はつぶっているからである。。。(使徒28:26ー27)

つまり、その問題は神様のせいではありません。その問題はイスラエル人のせいでした。

神様は彼らに語り、罪の結果について警告されましたが、彼らは耳と目を閉ざし、神様の言葉を聞くことを拒絶しました。

そして、神様が語られれば語られるほど、彼らの心はますます堅くなっていきました。さらに、心が堅くなればなるほど、神様の言葉を受け入れることがいっそう難しくなっていきました。

神様は彼らの反応が分かっておられましたが、警告し続けられました。その意味で、神様は彼らの心を堅くされました。けれども、神様には他の選択肢があったでしょうか。

ある歌によると「蝋を溶かす太陽は粘土を固める。」

神様の言葉が心に与える影響は同じです。

ある人々にとっては、神様の言葉が心を柔らかくするので、彼らは神様の声を喜んで聞きます。

しかし、ある人々にとっては、その同じ言葉が彼らの心を堅くするので、彼らは神様に背を向けます。

だから、神様には選択肢があります。

一つ目は、神様が何も言わずにすべての人々が滅びることです。

二つ目は、神様が彼らを警告して、ある人々が救われることです。

だから、神様はイスラエル人とユダ人を警告し続けられました。

もちろん、多くの人々は神様の言葉を聞いて、その心が堅くなりました。しかし、ある人々はその同じ言葉を聞いて、その心が柔らかくなりました。

イザヤと他の預言者たちはそのような人々でした。時々、ユダの王も神様の言葉を聞いて神様に従い始めました。

神様は私たちを愛されているので、私たちをそのままにして滅びることを望んでおられません。ただ、どう反応するかは私たちの選択です。

私たちは心を神様に開くでしょうか。それとも、その心を閉ざしてしまうでしょうか。

耳と目を閉じるでしょうか。それとも、耳と目を開いて神様の語りかけに応えるでしょうか。

あなたはどうしますか?

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イザヤ書

神様に呼ばれた

この箇所では、私たちは天国をちょっと見ることができます。今までヨブ記以外に旧約聖書の中で天国のシーンを描いているところはありませんでした。

けれども、ここで、イザヤは天国についての幻を見ました。イザヤは記しました。

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。

そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。

「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。(イザヤ書6:1-4)

興味深いことに、イザヤは「主を見た」と言いますが、ヨハネがこの箇所について話した時には、イザヤがイエス様を見たと言っています(ヨハネ12:39-41)。

だから、エホバの証人などが「イエス様は神様ではない」と言う時には、この二つの箇所を指摘すると良いでしょう。

とにかく、イザヤは栄光のキリストを見た時に本当に圧倒されました。多分彼は跪いて、叫んだでしょう。

ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。

しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。(イザヤ書6:5)

多くの人々はこう思います。「もし、私が神様の前に立って私の人生のために申し開きをしなくてはならないなら、私は雄弁に自分を弁護できるから、神様は私の弁解を受け入れてくださるだろう。」

しかし事実は、私たちが神様の前に立って神様の聖さを見て、私たちは無言になります。なぜなら、私たちは神様の聖さと私たちの汚れを見るからです。その時、私たちが言おうと思った言葉が空しいとわかります。

もし何か言えば、私たちはイザヤのように言うはずです。「私はもうだめです。私は汚れた者です。」

とはいえ、イザヤが恐れで震えていると、神様は天使を送ってくださり、イザヤの口を燃えさかる炭で触れて言われました。

見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。(イザヤ書6:7)

つまり、こういうことです。「あなたは汚れた者であり、罪深い者だった。しかし、わたしはあなたを汚れのない者とした。あなたは自分の行いによって清くなったのではない。わたしの行いによって、あなたは清くされたのだ。」

そして、イザヤはもう一度神様の声を聞きました。

だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。(イザヤ書6:8)

イザヤはそれを聞くと、また恐れで震えたかもしれませんが、彼は驚きによっても震えたと思います。彼は返事しました。

ここに、私がおります。私を遣わしてください。(イザヤ書6:8)

どうしてイザヤは恐れたでしょうか。なぜなら、彼は汚れた者として聖なる神様の前に立ったからです。

どうしてイザヤは驚いたでしょうか。なぜなら、神様はイザヤの罪を赦して清めてくださったからです。また、彼がよく失敗しても、たくさんの罪を犯しても、神様は彼を用いようとされたからです。

そして、神様はイザヤを呼ばれたように、あなたのことも呼んでおられます。

私たちは罪深い汚れた者として、また裁きに値する者として神様の前に立ちます。けれども、イエス様の血によって神様は私たちを清めてくださいます。

そして、神様は言われます。「日本人のために誰を遣わそうか。アメリカ人のために誰を遣わそうか。この世界の人々のために誰を遣わそうか。あなたの家族に触れたいです。あなたの隣人と友達に触れたいです。誰が、われわれのために行くだろう。」

私たちはイザヤのように「ここに、私がおります。私を遣わしてください」と答えるでしょうか。

イザヤのように、あなたがふさわしくないと思うかもしれない。しかし、イエス様があなたに触れるとあなたはその働きにふさわしい者となります。あなたの罪はすべて赦される。

神様はあなたを用いたいと願っておられます。そして、あなたを用いることがおできになります。ただ一つ、神様は私たちに求めておられることがあります。それは、私たちが神様に「はい」と応答することです。

あなたはどうしますか?

主よ。イザヤのように私はふさわしくないと思います。あなたは私の罪をよく知っています。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。私はふさわしくない。

けれども、十字架によって、あなたが私を清めたことを信じる。あなたの行動によっては私がふさわしくなった。

だから、イザヤのように私は言います。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

あなたの栄光のために、私をお用いください。周りの人々にあなたのメッセージを伝えるために、また彼らの心に触れるために、私をお用いください。

私の命が永遠にわたってあなたのものとなるように。

どうか私をお用いください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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イザヤ書

神様が憎まれる行動

「神様は愛です。」

多くの人はその言葉を好みます。それは慰めを与える言葉だからです。しかし、神様には憎まれることがあります。この箇所では、そのことについて神様ご自身が語っておられます。

イザヤはこう記しました。

ああ。家に家を連ね、畑に畑を寄せている者たち。あなたがたは余地も残さず、自分たちだけが国の中に住もうとしている。(イザヤ書5:8)

つまり、ある人々が貪欲によって、特に正当な目的もなく物を集め過ぎたために、他の人々は貧しくなってしまいました。しかし、神様はそのような態度を憎まれます。

あなたはどうですか。要らない物を集めすぎて他の人々のニーズを気にしないでしょうか。

そして、イザヤはこう記しました。

ああ。朝早くから強い酒を追い求め、夜をふかして、ぶどう酒をあおっている者たち。。。

ああ。酒を飲むことでの勇士、強い酒を混ぜ合わせることにかけての豪の者。(11,22)

時々お酒を飲むことは罪ではありませんが、神様は酔っぱらうことを裁かれます。お酒があなたをコントロールすることは良くないのです。

私たちは神様の宮です。お酒ではなく聖霊が私たちをコントロールする方が良いです。(エペソ5:18)

神様の宮で酔っぱらうことは不適切です。

ああ。うそを綱として咎を引き寄せ、車の手綱でするように、罪を引き寄せている者たち。(18)

この箇所では、イザヤは罪の道を歩む人々を責めています。どこに行っても、彼らは自分の罪を持っていきます。

私たち皆は罪を犯します。私たち皆は失敗します。けれども、私たちの罪が私たちを定義するべきではありません。

むしろ、人々は私たちの正義を見るはずです。神様は聖であられるから、私たちも聖でなければならないのです。(第一ペテロ1:16)

彼らは言う。「彼「神様」のすることを早くせよ。急がせよ。それを見たいものだ。イスラエルの聖なる方のはかりごとが、近づけばよい。それを知りたいものだ」と。(19)

一見すると、この人々は神様を求めているようです。けれども、実は、この人々は全然本気ではありませんでした。

彼らの言葉はこうでした。「神様、もしあなたが本当に存在しておられるなら、ご自身を現してください。そうすれば、信じます。」

けれども、彼らは神様の言葉を無視し、神様が彼らの人生にしておられることにも目を向けませんでした。それでも、神様は侮られるような方ではありません。本気で神様を求めなければ、神様はご自身を現されないのです。

ああ。悪を善、善を悪と言っている者たち。彼らはやみを光、光をやみとし、苦みを甘み、甘みを苦みとしている。

ああ。おのれを知恵ある者とみなし、おのれを、悟りがある者と見せかける者たち。(20-21)

私たちの時代においても、イザヤのメッセージは適切なものです。多くの人々は神様の戒めを捨てて、自分の善悪の標準を作ります。

彼らは、神様が善とされることを悪と言い、神様が悪とされることを善と言います。しかし、神様はそのような「知恵」を憎まれます。

彼らはわいろのために、悪者を正しいと宣言し、義人からその義を取り去っている。(23)

神様の知恵と義を捨てると、不正がきっと起こります。今でも、イザヤが見たことを私たちは見ることができます。賄賂のために悪者が正しいと宣言され、義人から義が取り去られています。

イザヤの時代から、私たちの時代はあまり変わっていません。変わらないことが確か一つあります。それは、神様が憎まれる行動です。

神様がイスラエルをその行動のために裁かれたように、その行動を犯す人々を裁かれます。神様は愛ですが、罪の道を歩む人をきっと裁かれます。

だからこそ、パウロが語ったように、私たちは神様が憎まれる行動を捨て、善に親しむ者となりましょう。(ローマ12:9)

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イザヤ書

私たちの防御が無くなると

私は雨が降っても全然傘を使いたくない人々が分かりません。ずぶ濡れになっても彼らは気にしません。彼らにとっては濡れることは傘を持つことよりも楽です。

時々、日本人の友だちが私にこう尋ねます。「どうして外国人は傘を使わないのですか?」

私にはさっぱり分かりません。

とにかく、イスラエル人はそのような人々でした。

彼らは神様の国民でした。神様は彼らをエジプトから解放して、新しい所に連れて行き、その土地を与えられました。神様は彼らに言われました。

「もしあなたがたがこの契約を守ると、私はあなたがたを守り、祝福します。けれども、そうしないと、もし私が与えた防御から離れると、あなたの人生はダメになってしまいます。」

しかし、結局イスラエル人はそうしました。彼らは神様に背を向けて、偽物の神々を礼拝し始めました。

この箇所はその問題を説明します。

神様はイスラエルとユダをぶどう畑と比べられます。神様は、

そこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。(イザヤ書5:2)

しかし結局、実ったのは酸いぶどうだけでした。

だから、神様はイスラエル人に尋ねられました。

わがぶどう畑になすべきことで、なお、何かわたしがしなかったことがあるのか。

なぜ、甘いぶどうのなるのを待ち望んだのに、酸いぶどうができたのか。

イスラエル人はその話が理解できていなかったので、神様ははっきり説明されました。

まことに、万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植えつけたもの。

主は公正を待ち望まれたのに、見よ、流血。正義を待ち望まれたのに、見よ、泣き叫び。(7)

イスラエルが酸いぶどうを結んだから、神様は警告されました。

さあ、今度はわたしが、あなたがたに知らせよう。

わたしがわがぶどう畑に対してすることを。その垣を除いて、荒れすたれるに任せ、その石垣をくずして、踏みつけるままにする。

わたしは、これを滅びるままにしておく。枝はおろされず、草は刈られず、いばらとおどろが生い茂る。わたしは雲に命じて、この上に雨を降らせない。(5-6)

つまり、こういうことです。「これまで、わたしは敵からあなたを守り、損害からも守ってきた。けれども、これからはあなたを守らない。あなたを囲んでいた垣と石垣を取り除く。あなたは荒れ果てた地のようになり、茨とおどろだけが生い茂る。」

私たちが人生を罪にささげたら、神様はそのようにされます。神様が私たちの防御を取り除いて、私たちは罪の結果を刈り取ります。

パウロはコリントの教会に悔い改めない人に関してこう書きました。

このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主{イエス}の日に救われるためです。。。

その悪い人をあなたがたの中から除きなさい。(第一コリント5:5,12)

つまり、「その人の防御を取り除きなさい。今まであなたの教会が彼を守りましたが、もう守るな。彼を追い出して、サタンに引き渡しなさい。」

どうして、パウロはそのようなことを言ったのでしょうか。その人を滅ぼすためでしょうか。違います。パウロの希望はその人が悔い改めて救われることです。

神様は私たちを滅ぼすために私たちの防御を取り除かれません。むしろ、神様の希望は、私たちが神様から離れる人生が惨めなことが分かって悔い改めることです。

あなたはどうですか。あなたは神様が与えた防御を軽蔑するでしょうか。神様が気にしないと思って罪をわざと犯すでしょうか。

そうすると、あなたの防御がなくなります。その結果は喜びではなく、惨めな人生です。

そのような人生を選ばないでください。本当のぶどうの木であるイエス様に繋がり、良い実を結びましょう。そうすれば、真の喜びと、神様が備えてくださる素晴らしい人生を見いだすことができます。

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イザヤ書

私たちの屈辱を取り去る方

屈辱。恥。それらは私たちに引っ付きます。そして多くの場合、私たちの決断と行動によって、屈辱と恥が起こります。

そして、私たちは「どうやってこの状態から免れるだろうか」と思います。

また「もう希望がない」と思います。

この箇所の一節によれば、イスラエル人の女性たちはそう感じていました。

以前、彼女たちは金持ちで、上級階級に属していました。でも彼女たちもその夫たちのように罪深い存在でした。

だから、裁きが来ると、その夫たちが亡くなって彼女たちは未亡人になりました。そして、その未亡人たちは必死に新しい夫を探し、彼女たちはこう言いました。

「あなたの名前だけが欲しいです。他の物は要りません。私は自分自身のために食べ物やお金を得ます。でも私の屈辱を取り去ってください。愛されていない女性の屈辱を取り去ってください。家族のない女性の恥を取り去ってください。」

でも神様はその未亡人たちにさらに良いことを提供されていました。

この箇所で、初めて私たちは「若枝」という表現を見ます。「若枝」というのはイエス様です。

イザヤはこう記しました。

その日、主の若枝は、麗しく、栄光に輝き、地の実は、イスラエルののがれた者の威光と飾りになる。

シオンに残された者、エルサレムに残った者は、聖と呼ばれるようになる。みなエルサレムでいのちの書にしるされた者である。(イザヤ書4:2-3)

つまり、イエス様は来て、自分のために花嫁としてイスラエル人を聖別してくださるということです。そして、4節で、イザヤはこう記しました。

主が、さばきの霊と焼き尽くす霊によって、シオンの娘たちの汚れを洗い、エルサレムの血をその中からすすぎ清める。。。(4)

つまり、イエス様は彼らに彼らの罪を認めさせます。そして、彼らの心の汚れを清めてくださいます。

パウロもまた、そのように語りました。イエス様は、その花嫁――つまり教会――を「愛し、教会のためにご自身をささげられた」のです。

またイエス様は「みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせ(ました)。」(エペソ5:25-27)

イザヤはこれも言いました。

主は、シオンの山のすべての場所とその会合の上に、昼は雲、夜は煙と燃える火の輝きを創造される。

それはすべての栄光の上に、おおいとなり、仮庵となり、昼は暑さを避ける陰となり、あらしと雨を防ぐ避け所と隠れ家になるからだ。(5-6)

イスラエルの未亡人たちが求めている男性たちとは異なり、神様はご自身の臨在と保護と必要な物を与えることを約束されました。

約束された土地へ向かうために、イスラエル人が荒野を越えていたとき、神様は確かにそのようにしてくださいました。だからこそ、神様はこう言われました。

「覚えていますか。その時のように、もう一度私の臨在と保護と必要な物を与えます。それらは私の栄光を表して、その上の覆いとなります。」

「おおい」というのは結婚式に使われる覆いです。だから、神様の絵は分かりやすいです。

神様はご自身の民を清めて、彼らの罪を洗い、自分のために聖別し、もう一度彼らの夫となられます。神様は彼らの屈辱を取り去り、彼らのニーズを備えて、人生の嵐の中で彼らを守る避け所と隠れ家となられるのです。

あなたはどうですか。屈辱はあなたに引っ付いて、あなたは自分の人生を恥ずかしいものだと思っているでしょうか。

神様はあなたの心の汚れを清めることができます。それに、神様はあなたを赦し、神様の愛する者となります。

イエス様の前にあなたは、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなります。

神様にあなたの人生を捧げませんか。

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イザヤ書

私たちの罪を表す

イザヤ書3:9を読んで、私はこの箇所が本当に印象に残っています。

彼らの顔つきが、そのことを表わしている。彼らは罪を、ソドムのように現わして、隠そうともしなかった。

ああ、彼らにわざわいあれ。彼らは悪の報いを受けるからだ。

日本の社会については分からないけど、アメリカの社会では、そのような人々は増えています。彼らは罪を犯しますが、もう恥ずかしいと思うことはありません。むしろ、彼らは誇っています。彼らは自分の罪について自慢します。

もし、誰かが彼らの振る舞いが罪だと言うと、彼らはこう返事します。「あなたは偏狭だ。」

ソロモンはこう書きました。「日の下には新しいものは一つもない。」(伝道者の書1:9)

それは本当です。ソドムの罪は決して消えていませんでした。それに、ソドムの罪は悪かったですが、私たちの罪もそんなに違いはありません。

しかし、罪を犯すと、恥が来ます。

この箇所で、イザヤは貧しい人々を虐げた金持ちたちを責めました。またその妻たちを責めました。多分彼らは二つの方法で自分の罪を表しました。

一つ目は、夫たちが貧しい者を虐げることによって金持ちになったのに、その妻たちが貧しい者の前に自分の富を見せびらかしたことです。

二つ目は、性的な罪を犯したかもしれないことです。

イザヤはこう記しました。

シオンの娘たちは高ぶり、首を伸ばし、色目を使って歩き、足に鈴を鳴らしながら小またで歩いている。(3:16)

けれども、イザヤは彼らに警告しました。ある日、彼らの富はすべて取られます。戦争が起こり、彼らは追放されます。その日、彼らの富が取られて、彼らの恥しか残らないのです。

こうして、良いかおりは腐ったにおいとなり、帯は荒なわ、結い上げた髪ははげ頭、晴れ着は荒布の腰巻きとなる。

その美しさは焼け傷となる。あなたの男たちは剣に倒れ、あなたの勇士たちは戦いに倒れ、その門はみな、悲しみ嘆き、シオンはさびれ果てて地に座す。

その日、七人の女がひとりの男にすがりついて言う。

「私たちは自分たちのパンを食べ、自分たちの着物を着ます。私たちをあなたの名で呼ばれるようにし、私たちへのそしりを除いてください。」(3:24-4:1)

第4章1節は少し分かりにくいかもしれませんが、当時の文化では夫と子供がいない女性は恥ずかしい存在とされていました。

しかし、戦争で彼女たちの夫たちは亡くなってしまうので、男性はほとんど残りません。それでも、彼女たちは必死に夫になる男性を探します。その男性が彼女たちをうまく世話できないにもかかわらず、その人と結婚したいと思うのです。

この箇所のポイントは、罪を犯すと恥が来るということです。

あなたの罪を誇示するかもしれません。あなたの罪について自慢するかもしれません。けれども結局、あなたには恥しか残らないのです。

だから、この世の人々とは異なり、罪を愛さないようにしましょう。むしろ罪から逃げて、私たちの恥を取り去り、私たちに栄光と誉を与える神様を求めましょう。

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イザヤ書

解決方法を知らない

選挙の時に、多くの政治家はたくさんの約束をします。彼らは社会の問題について話し、「私に投票すれば、すべては変わる」と約束します。

しかし、多くの場合、何も変わりません。

もし、ある政治家が「私は解決方法を全然知りません。私に投票しないでください。他の政治家にも投票しないでください。なぜなら、誰も解決方法を知らないからです。」と言ったら、人々はどう反応するでしょうか。

多分、人々はその人に投票しないでしょう。一方では、彼が他の政治家よりも正直だと思います。けれども、自分の無能を認める人に投票するのは難しいものです。

さて、神様はユダとイスラエルにそのような状況を起こされました。列王記では、イスラエルが国としてどれほど速く崩れたかを、後で私たちは見ることになります。一方、この箇所では、神様はユダに語っておられます。

ユダ人が神様に背を向けたので、神様は彼らに警告されました。

「私はあなたの食糧と給水を取り除きます。それだけではなく、あなたのリーダーたちと助言者たちを取り除きます。その人々の代わりに私は解決法をよく知らない若者をあなたに与えます。」

そのとき、人が父の家で、自分の兄弟をとらえて言う。「あなたは着る物を持っている。私たちの首領になってくれ。この乱れた世を、あなたの手で治めてくれ。」

その日、彼は声を張り上げて言う。「私は医者にはなれない。私の家にはパンもなく、着る物もない。私を民の首領にはしてくれるな。」(イザヤ書3:6-7)

つまり、ユダ人は必死で、だれかが他の人々よりもちょっとお金があったら、その人をリーダーにしようとします。

しかし、その人はこう答えます。「私は解決法をよく知りません。私はうまく家族を世話することができません。なのに、どうして私はこの国をリードできるでしょうか。」

この社会の問題の解決法を見つけるために、私たちはどこを捜しているでしょうか。政治家を求めるでしょうか。

彼らは解決法を知りません。歴史を見れば、それが分かります。なぜなら、多くの政治家は神様とその道をよく知らないからです。

イスラエル人はそのような人々でした。彼らが神様から逃げたので、すぐに彼らの希望はなくなりました。そして、彼らが神様から離れたので、だれも彼らの問題の解決法を知りませんでした。

もし、社会の問題の解決法を見つけたいなら、希望を与えてくださる神様を求めなくてはなりません。神様とその道に従わなくてはなりません。

そうしないと解決法を見つけられません。なぜなら、神様から離れたら解決法がないからです。

有名なクリスチャン、チャールズ・コルソンはこう言いました。

希望はどこにあるのでしょうか。私は、社会の腐敗に心を痛め、落ち込んでいる人々に何度も出会ってきました。

私たちの希望は、政治家にあるのではありません。新しい法律から得られるものでもありません。この国の実績に根ざすものでもありません。

私たちの希望は、人々の心の中に働いておられる神様の力です。 それこそが、この国の希望であり、私たちの人生の希望でもあります。

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イザヤ書

私たちは何について自慢するでしょうか

子供の時に、私はある男の子についての話を読みました。その子は家の地下に行って、たくさんの古新聞を見つけました。そして、彼はたくさんの紙の飛行機と船を作って、得意そうに親たちにあげました。

けれども、その地下が湿っている所だったので、その古い新聞は臭くなりました。だから、その親たちはすぐにその「プレゼント」を捨てたので、その子はがっかりしてしまいました、という話です。

この箇所では、イスラエル人は高慢になりました。彼らはペリシテ人の占いに従い、その「霊的な知識」を持って自慢しました。

また彼らの繁栄について自慢しました。彼らはたくさんの銀と金があり、その軍隊はたくさんの馬と戦車がありました。

しかし、イザヤは彼らが自慢したものがなくなる日が来ると警告しました。そして、もう高慢にならず、彼らはその行動によって大いに恥じ入るし低い者とされると預言しました。

イザヤはこう記しました。

岩の間に入り、ちりの中に身を隠せ。主の恐るべき御顔を避け、そのご威光の輝きを避けて。

その日には、高ぶる者の目も低くされ、高慢な者もかがめられ、主おひとりだけが高められる。

まことに、万軍の主の日は、すべておごり高ぶる者、すべて誇る者に襲いかかり、これを低くする。

高くそびえるレバノンのすべての杉の木と、バシャンのすべての樫の木、すべての高い山々と、すべてのそびえる峰々、すべてのそそり立つやぐらと、堅固な城壁、タルシシュのすべての船、すべての慕わしい船に襲いかかる。

その日には、高ぶる者はかがめられ、高慢な者は低くされ、主おひとりだけが高められる。偽りの神々は消えうせる。(イザヤ書2:10-18)

つまり、私が読んだ話に出てくる子どものように、たくさんの人々は神様の前に来て自分の行動を自慢します。しかし、彼らの実績は不潔な着物として表されるので、彼らの自慢は恥となります。

そして彼らは、それらの物を捨て、恥じて神様から逃げようとします。また、主の裁きを恐れるようになります。(19−21)

だから、イザヤは言いました。

鼻で息をする人間をたよりにするな。そんな者に、何の値うちがあろうか。(22)

イザヤは何を語っているのでしょうか。もう自分自身を信頼してはなりません。自分の知恵や実績に頼るのもやめましょう。それらには何の価値もなく、やがてすべて消え去るからです。

むしろ、あなたの目と心を神様に向けましょう。神様に信頼しましょう。私たちが自慢すべきものは私たち自分自身のことではなくて、神様です。

何を誇りとするでしょうか。何に信頼を置くでしょうか。イエス様を誇りとし、イエス様に信頼を置きましょう。

イザヤを引用したパウロがこう語ったように──

「イエス様」に信頼する者は、失望させられることがない。(ローマ10:11)

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イザヤ書

聖書の最後まで読む

あなたはニュースを読むのが好きかもしれませんが、私はあまり好きではありません。なぜなら、世界中にたくさんの悪いニュースがあるからです。戦争や犯罪、不正義があります。

イザヤもユダを見るとそう感じていたかもしれません。

しかし、神様はイザヤに将来の日を見せてくださいます。イザヤはその日について言いました。

終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。

多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」

それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。

主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。

彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。(イザヤ書2:2-4)

時々この世を見ると希望を持つことは難しいです。なぜなら、いろんな悪いことがあるからです。

しかし、私たちの希望がなくなりそうな時には、イザヤの言葉を思い出しましょう。この時代はいつまでも続かないからです。

ある日、神様はあがめられ、すべての国々の民は主を求め始めます。

その日、正義が来ます。その日、すべての戦争は終わります。

あなたはがっかりしていますか。この世界を見ると希望を失ってしまうことはありませんか。

ある歌が言ったように、聖書の最後まで読む時です。なぜなら、以前言ったように、この時代はいつまでも続かないからです。

だから毎日希望を持って歩きましょう。周りの悪に焦点を当てずに、すべてを癒してくださる主に焦点を当てましょう。

イザヤがこう語ったように、

来たれ。ヤコブの家よ。私たちも主の光に歩もう。(5)

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イザヤ書

濁り

濁っている。

この箇所を読むと、その言葉は私の心に響きます。

イスラエル人が捧げものといけにえを捧げましたが、神様の目にはそれは本来そうあるべきいけにえからは程遠いものでした。

なぜなら、イスラエル人にとっては、その捧げものといけにえは宗教的な儀式、また迷信的な儀式だけになっていたからです。だから、神様が言われました。

「あなたがたの多くのいけにえは、わたしに何になろう」と、主は仰せられる。

「わたしは、雄羊の全焼のいけにえや、肥えた家畜の脂肪に飽きた。雄牛、子羊、雄やぎの血も喜ばない。

あなたがたは、わたしに会いに出て来るが、だれが、わたしの庭を踏みつけよ、とあなたがたに求めたのか。

もう、むなしいささげ物を携えて来るな。香の煙――それもわたしの忌みきらうもの。

新月の祭りと安息日――会合の召集、不義と、きよめの集会、これにわたしは耐えられない。あなたがたの新月の祭りや例祭を、わたしの心は憎む。それはわたしの重荷となり、わたしは負うのに疲れ果てた。

あなたがたが手を差し伸べて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを増し加えても、聞くことはない。」(イザヤ書1:11-15)

濁っている。

イスラエル人の罪によって、また、彼らが神様に背を向けることによって、彼らは濁った者になりました。つまり、以前彼らは神様の花嫁でした。けれども、彼らは自分自身を偽物の神々に捧げて、霊的な売春婦になりました。

濁っている。

神様は彼らについてこう言われました。

おまえの銀は、かなかすになった。おまえの良い酒も、水で割ってある。(22)

以前、彼らは神様の目に清い銀のようなものでした。けれども、今彼らは罪によって価値のない鉄くず(かなかす)になりました。彼らの義は悪で割ってありました。彼らの神様に対する礼拝は偶像礼拝で「割って」ありました。

そして、神様がさらに言われました。

あなたがたは葉のしぼんだ樫の木のように、水のない園のようになるからだ。

つわものは麻くずに、そのわざは火花になり、その二つとも燃え立って、これを消す者がいない。(30-31)

かつて誇り高く、また強く栄えた国々は衰退しました。古びて、死にかけた国々になりました。彼らの実績は無駄になりました。

私たちが神様に背を向けて自分の道を行き、罪を犯すと、イスラエル人のように、濁った者になります。神様は私たちのかなかすを溶かして、浮きかすをすべて取り除きたいと願っておられます。

しかし、私たちは神様と協力するでしょうか。それとも、神様と戦うでしょうか。

神様と戦えば、その清めのプロセスは本当に痛みを伴います。けれども協力すれば、そのプロセスは辛いかもしれませんが、痛みは軽減されます。

神様はイスラエル人のかなかすと浮きかすを取り除くために彼らを砕かねばなりませんでした。あなたはどうしますか。

私たちは濁った者にならないようにしましょう。むしろ、神様が計画された通りに生きましょう。

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イザヤ書

罪は何でしょうか。罪の結果は何でしょうか。

それでは、イザヤ書を始めましょう。イザヤは大預言書の最初の預言者です。いつも通りにできるだけ、イザヤ書の話を歴代誌と列王記の話と統合します。全部を時系列順にすることは約束できませんが、頑張ります。

多くの日本人は「罪」と言うと犯罪を考えます。例えば、殺人やレイプ、盗難などです。

だから、多くの日本人は「すべての人々は罪人です」と聞くと、こう思います。「私は罪人ではありません。殺人やレイプを犯したことがないからです。」

西洋諸国でも、多くの人々は「私はそんなに悪くない」と思います。

けれども、神様によれば、罪とは何でしょうか。この箇所では、神様が私たちに教えてくださいます。

子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。

牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。」

ああ。罪を犯す国、咎重き民、悪を行なう者どもの子孫、堕落した子ら。

彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去った。(イザヤ書1:2-4)

1.罪は神様に逆らうことです。

神様がおられることを知っているし、神様が私たちの正当な王であることを知っているのに、私たちは自分の心の王座に座ります。つまり、私たちが神様とその道を拒絶することです。それは罪です。

2.罪は悪いことをすることです。

西洋諸国には、多くの人々は罪をそう定義します。けれども、悪い行動は本当の問題の症状に過ぎません。

本当の問題は神様に逆らう心です。人々が神様に逆らうので、悪いことをするようになります。

3.罪は神様を捨てたり、侮ったり、神様に背を向けて離れ去ったりすることです。

つまり、私たちがこう言うことです。「神様、私にはあなたは要りません。」

あなたは殺人やレイプや盗難などを犯さないかもしれませんが、神様に背を向けて、「あなたは要りません」と言ったら、あなたは罪人です。

その態度は霊的な姦淫のようです。神様は私たちの霊的な夫ですが、私たちは他のものを探し求めます。実際、神様はユダとイスラエルをその罪のために責められました。(21)

罪の結果は何でしょうか。私たちは霊的に病気になり、人生はめちゃくちゃになります。

神様が言われました。

あなたがたは、なおもどこを打たれようというのか。反逆に反逆を重ねて。頭は残すところなく病にかかり、心臓もすっかり弱り果てている。

足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。(5-6)

ある牧師は、「聖い」というのを「完全」と定義しました。その定義が多くの意味で正しいと思います。

私たちの人生が聖いなら、また、神様の命令に従うなら、私たちの人生は完全になります。私たちの結婚や他の人間関係がうまくいき、私たちの経済もうまくいき、私たちの人生もうまくいきます。

しかし、自分の道を頑固に進み続けたら、全てはめちゃくちゃになります。私たちの人生は「病気」になります。

そして、治療法を探しても、神様に背を向け続けると、その治療を見つけることができません。

だから、神様が私たちに言われます。

さあ、来たれ。論じ合おう。。。

たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。(18)

あなたはどうですか。あなたの結婚と人間関係と人生に傷と打ち傷と打たれた生傷が見えるでしょうか。自分の道を進み続けたら、治りません。

だから、主に向かいましょう。神様に信頼しましょう。神様があなたを洗って変えるように祈りましょう。そうすれば、あなたの人生は完全になります。

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アモス書

神様に戻る事が無理になる時

見よ。わたしは重りなわを、わたしの民イスラエルの真ん中に垂れ下げよう。わたしはもう二度と彼らを見過ごさない。(アモス書7:8)

「重りなわ」というのは、大工道具の一種で、レベルのようなものです。この道具を使うと、壁がまっすぐかどうか確認できます。

つまり、神様はイスラエルを計りましたが、彼らが曲がっていたため、取り壊さなくてはならなかったのです。

8章では、神様はイスラエルを夏の果物(つまり熟した果物)と呼びました。つまり、イスラエルは裁きのために熟していた状態でした。

どうしてイスラエル人はそのように曲がってしまったのでしょうか。それは、以前述べたように、彼らが神様に聞くことをやめてしまったからです。

預言者たちが良いことを言うと、イスラエル人は喜んで聞きましたが、預言者たちが彼らを責めると、イスラエル人は「黙れ」と言って聞くのを拒みました。

7章では、そのような例を見ることができます。アモスがヤロブアム王の没落を預言したため、ある祭司がアモスを反逆者だと責め立てたのです。その祭司はこう言いました。

先見者よ。ユダの地へ逃げて行け。その地でパンを食べ、その地で預言せよ。ベテルでは二度と預言するな。ここは王の聖所、王宮のある所だから。(7:12-13)

神様のレベル、つまり神様の御言葉を捨てると、何がまっすぐで、何が曲がっているのか、また何が正しいことで、何が悪いことなのか分からなくなります。

この世には、そのような人々が見られます。多くの人々は正しいことを悪いと言い、悪いことを正しいと言います。

そして、もし私たちがずっと神様の御言葉を無視し続けるなら、最終的に神様は私たちにもう語らなくなるでしょう。8章では、神様はイスラエル人にこう言われました。

見よ。その日が来る。――神である主の御告げ――

その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。

彼らは海から海へとさまよい歩き、北から東へと、主のことばを捜し求めて、行き巡る。しかしこれを見いだせない。(アモス書8:11-12)

実は、マラキからバプテスマのヨハネが現れるまでの400年間、神様は沈黙されていました。だから、ヨハネがついに来たとき、彼の言葉を聞くために多くの人々が集まってきました。

しかし、多くの預言書と同じように、神様はご自分の忠実さを示し、イスラエルに希望を与えられました。つまり、神様はイスラエルを罰するとともに、最終的には彼らを癒すと約束されたのです。また、神様はイスラエルの廃墟を復興するとも約束されました。

では、どうして神様はイスラエルにその憐れみを与えるのでしょうか。それは彼らの義によるのでしょうか。それとも、彼らの行動によるのでしょうか。いいえ、そうではありません。それは神様の愛と慈しみによるのです。

パウロがこのように書いています。

神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。(テトス書3:5)

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アモス書

自己中心、プライド、自己満足

私はこの箇所を読むと、イエス様のたとえ話の一つを思い出します。

その話では、ある金持ちの畑が豊作でした。そして彼は、その作物を蓄えておく場所がないことに気づきました。

彼はどうしたでしょうか。貧しい人々を助けたでしょうか。その祝福が神様から来たことを理解し、感謝の心を持って周りの人々を助けようと思ったでしょうか。

いいえ、違います。むしろ、彼は自分自身のことだけを考えました。そして、彼はこう言いました。

こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。

そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。(ルカ12:18-19)

しかし、神様は彼にこう言われました。

愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。(ルカ12:20)

そして、イエス様はこう言われました。

自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。(ルカ12:21)

アモスの時代、イスラエル人はそのような愚か者でした。彼らは自己満足に陥り、金持ちで安心しきっており、たくさんの物を持ち、高慢になっていました。

そのため、彼らは貧しい者のことや、自分たちの罪のことをまったく気に留めませんでした。だからこそ、神様は彼らにこう言われました。

それゆえ、今、彼らは、最初の捕らわれ人として引いて行かれる。身を伸ばしている者どもの宴会は取り除かれる。(アモス書6:7)

あなたはどうでしょうか。自分の力でいろいろなことができると思い、高慢になってはいませんか。たくさんの物を持って自慢したり、自己満足に陥ってはいませんか。

そのイスラエル人たちや金持ちのたとえ話のようにならないように気を付けてください。

自分自身だけに焦点を当てるのではなく、神様と周りの人々に焦点を当ててください。

もし神様があなたを祝福されたなら、その祝福には理由があります。その理由は自分自身を喜ばせるためではありません。

その理由は、あなたが周りの人々に対して祝福となることです。そして、あなたが周りの人々に良い影響を与えることなのです。

あなたが金持ちであろうと貧しくても、影響力があってもなくても、神様は自己中心な態度やプライド、自己満足な態度を嫌われます。

神様は私たちに、自分自身に焦点を当てるのではなく、周りの人々に焦点を向けるよう招いています。また、神様は私たちが周りの人々に対して、神様の目、口、手、そして足となるように招いているのです。

神様、自己中心になるのは簡単です。どうか赦してください。

私に与えられている物は私のものではありません。それらは本当にあなたのものです。

どうかその真理をいつも心に留められるよう私を助けてください。自分自身に焦点を当てず、あなたに、そして周りの人々に焦点を向けられるよう助けてください。

私が自分自身のためではなく、あなたの御国のために生きることができるよう導いてください。アーメン。

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アモス書

あなたは準備ができているでしょうか

時々、人々はこの世を見て、犯罪や暴力、そして天災について考えるとき、神様がすぐに来て、すべてを治してくださることを望みます。けれども、彼らは本当に何のためにそう望んでいるのか理解しているでしょうか。

神様はイスラエル人にこう言われました。

すべての広場に嘆きが起こり、すべての通りで、人々は『ああ、ああ』と言い、農夫を呼んで来て泣かせ、泣き方を知っている者たちを呼んで来て、嘆かせる。すべてのぶどう畑に嘆きが起こる。(アモス書5:16ー17)

それはなぜでしょうか。

それは、わたしがあなたがたの中を通り過ぎるからだ。(17)

つまり、神様が来られると、すべてを治してくださいますが、犯罪や天災だけを止めるのではありません。神様は人々の心の中にある罪も扱われます。そして、神様はあなたの罪も扱われます。「扱う」とはどういう意味でしょうか。

神様はこう言われました。

ああ。主の日を待ち望む者。主の日はあなたがたにとっていったい何になる。それはやみであって、光ではない。

人が獅子の前を逃げても、熊が彼に会い、家に入って手を壁につけると、蛇が彼にかみつくようなものである。

ああ、まことに、主の日はやみであって、光ではない。暗やみであって、輝きではない。(18-20)

神様は何を言われているのでしょうか。

人々は神様が来ると、地震や犯罪、暴力、その他の災いが終わると思います。それはその通りです。しかし、あなたの心の中に悪いことがあるなら、神様はあなたも裁かれます。

イスラエル人は「主の日」を待ち望んでいましたが、その真理を理解していませんでした。彼らは自分たちが正しい人々だと思っていましたが、神様の目には全く正しくありませんでした。

彼らは宗教的な祭りを祝ったり、いけにえやさまざまな捧げものを捧げたりしていたため、自分たちの神様との関係は問題ないと思っていました。

けれども、それ以外では、彼らは自分自身のために生きていました。そのため、神様にとっては、彼らの祭りやいけにえ、捧げものには何の意味もありませんでした。

彼らは、神様が来ればすべてが良くなると思っていましたが、事実は、神様が来ると彼らの状態はさらに悪化するということでした。

彼らの問題は、神様が何度もさまざまな災いを通して警告されたにもかかわらず、その警告を無視し続けたことです。したがって、神様が来るのは、イスラエルが望んだ救いのためではなく、彼らの裁きのためなのです。

そのため、神様はこう警告されました。「あなたたちはライオン(この世の災い)から逃れることはできるが、熊(自分の罪のための裁き)に会う。」(19)

つまり、神様が来られたとき、イスラエル人は準備ができていなかったのです。あなたはどうですか。神様に会うための準備はできていますか。

宗教的な行動だけでは不十分です。教会に行ったり、十一献金を捧げたり、日曜日に良い行いをしたりするだけでは足りません。

むしろ、あなたはあなたの人生全体を神様に捧げる必要があります。あなたの心を神様に捧げなくてはなりません。

最も重要なのは、あなたの救いのために自分自身の努力に頼るのではなく、イエス様とその十字架の働きに信頼することです。

そうすれば、「主の日」は喜びの日となるでしょう。しかしそうしなければ、その日は裁きの日となります。

あなたは準備ができていますか。

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アモス書

あなたがもっと知っていると。。。

「無知であることは幸せだ。」

時々、人々はそのように考えることがありますが、神様によると、その考えは間違っています。

1章と2章では、神様が多くの国々を裁くと警告されました。なぜでしょうか。神様はその理由を語られています。

彼らは正しいことを行なうことを知らない。(アモス書3:10)

けれども、「神様の律法を知らない」というのは言い訳にはなりません。なぜでしょうか。それは、彼らが自分の心の中で、自分が悪いと分かっていたからです。パウロはこのように説明しています。

律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをする場合は、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。

彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。

彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。(ローマ書2:14ー15)

しかし、たとえ他の国々が無知を言い訳にできたとしても、イスラエルとユダはそのような言い訳をすることはできませんでした。

神様は彼らを他の国々から選び、彼らに直接ご自身を現されたからです。そのため、彼らには周りの国々よりも大きな責任がありました。

神様は彼らにこう言われました。

わたしは地上のすべての部族の中から、あなたがただけを選び出した。それゆえ、わたしはあなたがたのすべての咎をあなたがたに報いる。(3:2)

つまり、「あなたたちは言い訳をする余地はありません。あなたたちは周りの国々よりも多くを知っているはずです。モーセを通して、私はあなたたちに律法を与えました。何度も預言者を通してあなたたちに警告しました。

それにもかかわらず、裁きの日が来ると警告されていたのに、あなたたちは罪を犯し続けています。(3:7-8)

あなたたちは私の律法を知っているはずです。だからこそ、あなたたちはいけにえをささげたり、十一献金をささげたり、感謝の捧げものをささげたりしました。

けれども、私はこれらの捧げものが不十分であることを何度も警告しました。それでも、あなたたちは私の警告を無視し続けました。(4:4-11)

だから、あなたの神に会う備えをしなさい。あなたは私の前に立ち、あなたの行動について申し開きをしなければならないのです。」(4:12)

私たちはこの警告を通して何を学ぶことができるでしょうか。イエス様はこう言われました。

主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。

しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。

すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。(ルカ12:47-48)

あなたが神様の御心を知っていても、知らなくても、それは言い訳にはなりません。

もし悪いことをすれば、裁きが来ます。あなたが神様の御心を知っているなら、その罰はさらに厳しいでしょう。

けれども、知らないとしても、裁きは免れません。

だからこそ、無知であることは幸せではないのです。私たちは神様の御心を求めなくてはなりません。

しかし、神様の御心を知ることだけでは不十分です。その御心に従わなくてはならないのです。

あなたはどうでしょうか。神様の言葉を知っていますか。もし知らないのなら、ぜひ読んでください。神様はこう言われました。

「わたしを求めて生きよ。偽物の神と偽りを求めるな。」(5:4-5)

「主を求めて生きよ。そうしなければ裁きが来る。」(5:6)

もし、あなたが神様の言葉を知っているなら、その言葉に従いましょう。神様はこう言われました。

善を求めよ。悪を求めるな。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたが言うように、万軍の神、主が、あなたがたとともにおられよう。悪を憎み、善を愛し「なさい」。(アモス書5:14-15)

イエス様が言われたように、

聞く耳のある者は聞きなさい。(ルカ8:8)

そして、神のみ言葉に従いましょう。

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アモス書

裁きの時間

アモス1:1によると、アモスはホセア、ヨナ、イザヤの時代に生きていました。また、イスラエルの王ヤロブアム2世とユダの王ウジヤの時代に預言しました。

以前述べたように、その二つの国は物質的には繁栄していましたが、霊的には貧しい状態でした。特にイスラエルがそのような状態にありました。

そこで、神様は羊飼いであったアモスをイスラエルとユダに対する預言者として召されました。けれども、アモスは主にイスラエルに対する預言者でした。

この箇所では、アモスは非常に厳しいことを語りました。ある牧師がいつも地獄と裁きについて説教するように、アモスもそのような説教をしていたのです。彼はこう言いました。

主はシオンから叫び、エルサレムから声を出される。羊飼いの牧場はかわき、カルメルの頂は枯れる。(アモス書1:2)

アモス1:1によると、アモスはイスラエルの隣国に対して神様の裁きについて伝えました。そして、ユダとイスラエルに対する裁きについても語りました。

最初の裁きはダマスコに対するものでした。アラム人がイスラエルを攻撃したため、アモスは神様がその王を取り除き、その民を捕らえて移されると預言しました。(列王記第二16:9でその預言が成就しました。)

次に、アモスはペリシテ人に対して預言しました。彼らが奴隷売買を行っていたためです。歴代誌第二26:6では、ウジヤ王がペリシテ人と戦い、その預言の一部が成就しました。

次はツロに対する裁きでした。彼らはイスラエルとの同盟を破り、イスラエル人を捕囚の民としてエドムに引き渡したためです。

次に、神様はエドムに裁きを下されました。

エドム人はイスラエルの兄弟のような存在でした。エドムの先祖がエサウであり、エサウはイスラエルの先祖ヤコブの兄弟だったからです。

それでも、エサウが一度ヤコブを殺そうとしたように、エドム人も怒りに駆られてイスラエル人を殺そうとしました。

さらに、神様はアモン人を裁かれました。彼らは自分の領土を広げるために残酷な行為を行っていたためです。

また、神様はモアブ人を裁かれました。彼らはエドムの王を殺し、その骨を焼いたためです。

次に、アモスはユダに対して預言しました。ユダが神様の律法を無視し、偽物の神々を礼拝していたためです。ユダの王ウジヤが神様に従ったにもかかわらず、その民はウジヤの模範に従わなかったようです。(列王記第二15:4)

最後に、アモスはイスラエル人に向かって神様の裁きを伝えました。イスラエル人は偶像を礼拝し、弱い人々を踏みにじり、貧しい人々に正義を与えず、神様のために聖別されたナジル人の誓いを破らせ、預言者たちを黙らせたのです。

だから、アモスは神様の裁きが来ると警告しました。

この箇所を読むと、少ししんどいと感じるかもしれません。

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。二つのことです。

一つ目は、神様の目から何も隠れることはないということです。神様はすべてを見ることがおできになります。

二つ目は、罪のために裁きの日が来るということです。

神様が私たちの罪に気づかない、あるいはそれを気にしていないと思うかもしれません。けれども、神様は私たちの罪に気づいており、それを重要視しています。それゆえ、神様は私たちに警告を与えるのです。

これがアモスの目的でした。アモスは人々に対する裁きを喜んでいたわけではありません。むしろ、彼は彼らが悔い改めることを望んでいました。

だから、私たち自身に問いかけるべき質問は、「神様の警告を聞いて、私は何をするだろうか」ということです。

私たちが悔い改めるなら、神様は私たちを赦してくださいます。しかし、イスラエル人のようにその警告を無視するなら、裁きが来るのです。

「神様が愛だから、私たちの罪を裁かない」と思わないでください。そうすれば、あなたは自分自身を騙すことになります。神様は正義の神であり、罪を裁く必要があるのです。

だからこそ、神様の警告を聞いて悔い改めましょう。そうすることで、神様の赦しを知り、祝福を受けることができるのです。

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ホセア書

悔い改め

悔い改め。

教会ではその言葉をよく耳にするかもしれませんが、教会の外ではほとんど使われることがありません。しかし、悔い改めとは何を意味するのでしょうか。この箇所でホセアはその意味を教えています。彼はイスラエル人にこう言いました。

イスラエルよ。あなたの神、主に立ち返れ。あなたの不義がつまずきのもとであったからだ。

あなたがたはことばを用意して、主に立ち返り、そして言え。「すべての不義を赦して、良いものを受け入れてください。私たちはくちびるの果実をささげます。アッシリヤは私たちを救えません。

私たちはもう、馬にも乗らず、自分たちの手で造った物に『私たちの神』とは言いません。みなしごが愛されるのはあなたによってだけです。」(ホセア書14:1-3)

悔い改めというのはどういう意味でしょうか。悔い改めとは、神様に立ち返ることです。自分の歩んでいた道を離れ、もう一度神様に従うことを選ぶことです。

また、自分の罪を告白し、神様の赦しを求めることでもあります。さらに、自分が追い求めていたものを捨て、神様こそが必要な存在であると認めることです。そして、悔い改めは、神様の憐れみを切に求めることでもあります。

そのように悔い改めると、神様はどのように反応されるのでしょうか。

わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからだ。わたしはイスラエルには露のようになる。彼はゆりのように花咲き、ポプラのように根を張る。

その若枝は伸び、その美しさはオリーブの木のように、そのかおりはレバノンのようになる。

彼らは帰って来て、その陰に住み、穀物のように生き返り、ぶどうの木のように芽をふき、その名声はレバノンのぶどう酒のようになる。エフライムよ。

もう、わたしは偶像と何のかかわりもない。わたしが答え、わたしが世話をする。わたしは緑のもみの木のようだ。あなたはわたしから実を得るのだ。(4-8)

つまり、神様が私たちを赦されると、私たちは神様の愛をもう一度深く知るようになります。罪によって涸れた私たちの人生の部分が再び活力を得て、私たちは祝福されるだけでなく、私たちの周りの人々もその祝福にあずかります。

それでは、なぜ私たちはそもそも神様から逃げるのでしょうか。

神様も同じ質問を私たちに投げかけられるかもしれません。そのため、神様はこう言われました。

知恵ある者はだれか。その人はこれらのことを悟るがよい。

悟りある者はだれか。その人はそれらを知るがよい。

主の道は平らだ。正しい者はこれを歩み、そむく者はこれにつまずく。(9)

私たちが知恵を持って自分の罪を悔い改めることができますように。しかし、それ以上に、私たちが知恵を持って、決して神様の隠れ場から離れることがありませんように。

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ホセア書

不実

この世では、多くの人々は夫が妻に不実になり、妻も夫に不実になることが当たり前だと考えています。

けれども、そのように考えると、不倫が結婚にどれほど破壊的な影響を与えるかが分からなくなります。また、あなたの伴侶をどれほど深く傷つけるかが見えなくなります。

私たちの神様との関係も同じです。神様は私たちとの関係を結婚に例えられます。

クリスチャンである私たちはキリストの花嫁です。そのため、私たちが神様に不実であれば、神様を深く傷つけ、その関係に大きな打撃を与えることになります。

この箇所で神様はそれを指摘されます。何度も、神様はイスラエルに対するご自身の愛と忠実さを語られました。

例えば、イスラエル人の祖先であるヤコブが詐欺師であり、神様と戦ったにもかかわらず、神様はヤコブに愛と憐れみを注がれました。また、神様はイスラエル人をエジプトから導き出し、彼らが砂漠を越える時にモーセを通して彼らを養い、世話されたのです。

しかし、イスラエル人は自分たちの土地に定着して力を持つようになると、高慢になりました。彼らは神様に不実になり、自ら作った偶像を礼拝し始めました。

時間が経つにつれて、彼らの堕落はますます深刻になり、最もひどいのは、自分の子供たちをいけにえとして捧げたことです。

さらに、敵が彼らを攻撃すると、彼らは神様に立ち返らず、他の国々と同盟を結びました。

神様がイスラエルを責められる言葉を読むと、その深い痛みが伝わってきます。神様は裏切られた夫のように悲しまれました。

わたしは、エフライムの偽りと、イスラエルの家の欺きで、取り囲まれている。(ホセア書11:12)

ヤコブが妻を得るためにそのお父さんに代価を支払ったように、神様もイスラエルのために代価を支払われました。また、神様はずっとイスラエル人を世話されました。

しかし、それにもかかわらず、イスラエルは主の怒りを引き起こしました。(12:12-14)

そのため、神様は将来の裁きについて警告されました。

神様は、「その裁きが来るとき、救いは来ない」と警告されたのです。

彼らの王は彼らを救うことができず、神様も彼らを救われません。なぜなら、彼らは自分の「夫」であり救い主である神様から離れたからです。

だから、神様は言われました

わたしはよみの力から、彼らを解き放ち、彼らを死から贖おう。(13:14a)

この箇所はヘブル語から翻訳するのが少し難しいです。そのため、英語の聖書には二つの翻訳があります。

一つは、この日本語の翻訳と同じ意味を持っています。けれども、もう一つの翻訳はより優れており、それは以下のようなものです。

わたしはよみの力から、彼らを解き放ちましょうか。彼らを死から贖いましょうか。

そして、神様の答えは、「違います。そのようにはしない。」でした。

そのため、神様はこう言われました。

死よ。おまえのとげはどこにあるのか。よみよ。おまえの針はどこにあるのか。あわれみはわたしの目から隠されている。(13:14b)

パウロは第一コリント15章でこの箇所を引用し、神様がキリストの死に対する勝利によって、いつか死のとげと墓の針を取り除かれることを教えました。

ところが、この箇所ではホセアは全く異なるメッセージを伝えています。

すなわち、神様は「死よ、お前のとげはどこにあるのか。よみよ(すなわち墓)、お前の針はどこにあるのか」と言い、死のとげと墓の針をイスラエル人の上に落とすように呼びかけました。

なぜでしょうか。それは、彼らが神に不実だったからです。

神様は彼らをまだ愛しておられたでしょうか。もちろんです。最終的に彼らを回復されたでしょうか。それもその通りです。なぜなら、私たちが不実であっても、神様は忠実な方だからです。

不実があっても結婚が続く場合があります。しかし、一人が不実であれば、相手は深く傷つき、苦しみます。それだけでなく、不実な人自身も最終的に苦しむことになるのです。

私たちの神様との関係も同じです。イスラエルはこの重要な教訓を学びました。

私たちは、自分が不実であるとき、どれほど神様を傷つけるかを考えるべきです。私たちはこの世の物をどれほど愛し求め、神様の愛と忠実さをどれほど踏みにじっているのでしょうか。

私たちが不実で夫や妻を傷つけるのと同じように、神様に対して不実であれば、神様も深く傷つかれるのです。

そのような行動を避けましょう。そして、いつも忠実な神様に対して、私たちも忠実であり続けましょう。

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ホセア書

神様の忠実な愛

「神様は私を本当に愛しているだろうか。」

多くの人々の心にこの質問は響いています。けれども、もう一つの質問が、さらに深く傷ついている人々の心に響いています。

「神様は私をまだ愛しているだろうか。」

時々、人々が私たちの弱さや欠点を見たときに、彼らの愛がすぐに冷めてしまうことを経験します。そのため、私たちはこう思うことがあります。「もし人間の愛がすぐになくなるのなら、神様も私を見捨てるのではないか。」

この箇所には、その答えがあります。

ここでは、神様がどのようにイスラエル人を愛しておられたかを思い起こさせます。つまり、神様は愛によってイスラエルをエジプトの奴隷生活から救い出し、砂漠で彼らを導き、彼らのすべての必要を満たされました。

しかし、彼らは神様に背を向けて、バアルを礼拝し始めました。神様に従うことなく、神様から逃げる道を選んだのです。

そのため、神様は彼らに将来の裁きについて警告されました。けれども、その警告の中で、神様は自分の心を表されたのです。

エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができようか。イスラエルよ。。。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。

わたしは燃える怒りで罰しない。わたしは再びエフライムを滅ぼさない。わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者であるからだ。(ホセア書11:8-9)

つまり、私たちがどんなに神様から離れても、神様は私たちのことを諦めることはありません。私たちを懲らしめることがあっても、私たちを捨てることはありません。

神様の愛は人間の愛とは全く違います。神様の愛は変わることがなく、なくなることもありません。神様の愛は忠実で永遠です。神様はいつも私たちに手を差し伸べ、私たちが戻るのを待っておられます。

神様の愛を疑っていますか。神様がもうあなたを愛することができないと思っていますか。

エレミヤの言葉を思い起こしましょう。

私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。」(哀歌3:22-23)

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ホセア書

神様を私たちの王として拒絶すると

アメリカでは、4年ごとに人々は新しい大統領のために投票します。次は来年です。

皆はアメリカを繁栄に導く人物を選ぼうとします。そして、新しい大統領がその職務を始めると、人々に希望が湧きます。けれども、国の繁栄の鍵は、大統領や政治家ではありません。

この箇所では、ホセアはイスラエル人にそのことを教えました。

ホセアは、神様がイスラエル人の罪のために罰を与えると警告しました。

ヤロブアムがイスラエルの王で、すべてが順調に見えたとしても、その繁栄は永遠に続かないと警告しました。なぜなら、ヤロブアムは悪い王であり、イスラエル人は様々な罪を犯していたからです。

そして、ホセアは、神様がヤロブアムとその子孫から王座を取り上げると預言しました。そうなった時、イスラエル人はこう言うでしょう。

私たちには王がない。私たちが主を恐れなかったからだ。だが、王は私たちに何ができよう. (ホセア書10:3)

つまり、イスラエルの状態が酷くなるので、彼らはそのリーダーたちをもう信じなくなります。

なぜでしょうか。それは、人々が神様のために生きず、自分自身のために生きると、そのような国には希望がないからです。人々が神様を自分の王として認めない限り、希望はありません。

私たちの文化についても、ホセアの言葉が当てはまると思います。

多くの人々は政治体制をもう信じていません。新しい総理大臣が就任しても、多くの日本人はその人を信じようとしません。なぜなら、何も変わらないと思うからです。

多くの場合、彼らは正しいです。何も変わりません。

また、ホセアはイスラエル人についてこう言いました。「皆は堕落しました。契約を結んでも守りません。だから、訴訟がたくさんあります。」(4)

それはまるでアメリカのようです。

そして、ホセアはこう言いました。「あなたたちが建てた神が倒れると、あなたたちは悲しみます。」

今でも、経済危機の際にそのような反応が見られます。

多くの人々はお金を自分の神としますが、結局すべてを失ってしまいます。だから、彼らは苦しみ、「どうしよう」と思うのです。

その時、彼らは山々に向かって、「私たちをおおえ」と言い、丘に向かって、「私たちの上に落ちかかれ」と言います。(8)

この箇所を聞いたことがありますか。

イエス様が十字架に向かう際、女性たちにこの箇所を引用しました。イスラエル人がイエス様を王として拒絶したため、40年後にエルサレムは崩壊したのです。

だからこそ、ホセアはイスラエル人を戒めました。

あなたがたは正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れよ。あなたがたは耕地を開拓せよ。

今が、主を求める時だ。ついに、主は来て、正義をあなたがたに注がれる。(12)

神様は私たちに同じことを語っておられます。今こそ主を求める時です。政治家を通して救いを見つけることはできません。この世の神々を通しても救いを見つけることはできません。ただ神様だけによって救いが来るのです。

だから、私たちの堅くなった心を耕しましょう。神様からの種を受け入れましょう。正義の種を撒けば、誠実の実を刈り入れることができます。そして、本当の喜びと繁栄を知るようになるでしょう。

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神様に聞かないと

この箇所を読むと、7-8節は私の心に強い印象を与えます。

ホセアはこう書きました。

刑罰の日が来た。報復の日が来た。イスラエルは知るがよい。

預言者は愚か者、霊の人は狂った者だ。これはあなたのひどい不義のため、ひどい憎しみのためである。

エフライムの見張り人は、私の神とともにある。しかし、預言者は、すべての道にしかけるわなだ。彼の神の家には憎しみがある。(ホセア書9:7-8)

ホセアの時代には、悪が多く、人々は預言者と聖人を愚か者とみなしていました。だから、イスラエル人は預言者の警告や注意をほとんど無視しました。それだけでなく、預言者たちを黙らせるために、イスラエル人は彼らを迫害しました。

その結果、刑罰の日が訪れ、報復の日がやってきました。

ホセアは、その時代をギブアの時代と比べました。ギブアの話はイスラエルの歴史の中でも本当に酷い出来事でした。彼らの堕落はソドムとゴモラの堕落に似ていたのです。

だから、ホセアはこう言いました。「もし、あなたがたが神様の言葉を無視し続けると、ギブアのようになる。ソドムとゴモラのようになる。」

残念ながら、イスラエル人はホセアの言うことを聞かず、結局裁きが訪れました。

神様は私たちの世界を見て、何を思っておられるのでしょうか。ホセアの言葉は、私たちの文化にも適しているからです。

神様の言葉を忠実に述べ伝える人は、愚か者としてからかわれます。ある国々ではクリスチャンが殺され、アメリカでもクリスチャンたちは頑迷だと呼ばれ、汚名を着せられることがあります。

そして、だんだんこの世界の道徳は悪化し、ソドムとゴモラのようになっています。

神様はそのような状況を永遠に我慢されることはできません。もし、私たちが悔い改めないなら、ギブアやソドムとゴモラ、そしてイスラエルのように裁きが訪れるでしょう。それは神様に聞き従わないなら、当然のことです。

さらに、以前言ったように、もし神様の祭司である私たちが神様に聞き従わないなら、この世界には希望があるでしょうか。私は希望はないと思います。

だから、神様の祭司として、神様の言葉を無視せず、従いましょう。この世界の価値観を受け入れないでください。むしろ、神様に従い、神様の力によって、この価値観を変えていきましょう。

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言葉が足りない時

私の娘、結実は三歳になると、だんだん正しいことと悪いことが分かるようになりました。そして、彼女は私と妻を試し始めました。

例えば、彼女がリビングテーブルに上ると、私たちは「だめ」と言い、結実はすぐに降りました。けれども、すぐにもう一度テーブルに上りました。

私たちが2ー3回注意した後、結実を自分の部屋に行かせました。彼女が謝ると、出ることを許しましたが、時々、彼女は本気で謝りませんでした。むしろ、彼女は可愛い顔をして、「ごめんなさい」と言いました。

多分、結実は「もし、可愛い顔をすれば許してくれるかな」と思ったのでしょう。

しかし、彼女が正しいことと悪いことを区別できるようになったので、私たちは許しませんでした。彼女はちゃんと謝らなくてはならなかったのです。

神様とイスラエル人の関係も同様でした。時々、彼らは主を求めるふりをしましたが、実際には姦淫の霊が彼らのうちにありました。だから、神様はこう言われました。

彼らは羊の群れ、牛の群れを連れて行き、主を尋ね求めるが、見つけることはない。主は彼らを離れ去ったのだ。(ホセア書5:6)

彼らは神様に対して不忠だったので、神様は彼らを懲らしめられました。そして、彼らはもう一度神様に向かいましたが、彼らの態度は私の娘の態度に似ていました。

彼らは、「ごめんなさい」と言いましたが、本気で言っていなかったのです。

例えば、6章で、イスラエル人はこう言いました。

「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。

私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」(6:1-3)

それは素晴らしい言葉ですが、主の反応を見てください。

エフライムよ。わたしはあなたに何をしようか。ユダよ。わたしはあなたに何をしようか。あなたがたの誠実は朝もやのようだ。朝早く消え去る露のようだ。(6:4)

つまり、「そんな美しい言葉を言ったり、私を求め始めたりするけれど、あなたの状態が良くなると、あなたはすぐに私を捨てる。」

そして、神様は言われました。

ユダよ。わたしが、わたしの民の繁栄を元どおりにするとき、あなたのためにも刈り入れが定まっている。わたしがイスラエルをいやすとき、エフライムの不義と、サマリヤの悪とは、あらわにされる。(6:11-7:1)

また、

彼らはわたしに向かって心から叫ばず、ただ、床の上で泣きわめく。(7:14)

また、

彼らは、わたしに向かって、「私の神よ。私たちイスラエルは、あなたを知っている」と叫ぶが、イスラエルは善を拒んだ。。。

彼らは王を立てた。だが、わたしによってではない。彼らは首長を立てた。だが、わたしは知らなかった。彼らは銀と金で自分たちのために偶像を造った。(8:2-4)

また、

エフライムは罪のために多くの祭壇を造ったが、これがかえって罪を犯すための祭壇となった。。。

彼らがわたしにいけにえをささげ、肉を食べても、主はこれを喜ばない。今、主は彼らの不義を覚え、その罪を罰せられる。。。(8:11-13)

多くの人々は敬虔な行動によって神様を感動させようとします。しかし、日常生活で彼らが自分自身のために生きると、神様はその敬虔な行動を受け入れられません。

だから、神様はイスラエル人にこう言われました。

わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。(6:6)

また、

サマリヤよ。わたしはあなたの子牛をはねつける。わたしはこれに向かって怒りを燃やす。彼らはいつになれば、罪のない者となれるのか。(8:5)

あなたはどうですか。毎日神様を求めていますか。それとも、ただ神様を求めるふりをしているだけではありませんか。神様を欺くことはできません。神様はあなたの心をご覧になるからです。

だから、心から神様に向かいましょう。そうすれば、主は私たちを癒し、私たちの傷を包み、私たちを生き返らせ、私たちを立ち上がらせてくださいます。

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ホセア書

祭司たちは祭司として振る舞わないと

「どうしてこの世界のモラルはだんだん悪くなっているのでしょうか。どこに行っても、誠実さがなく、愛がなく、誰も神様を認めません。殺人や姦淫や嘘が蔓延しています。全てのモラルの境界線は超えられてしまいました。」

このような言葉を聞いたことがありますか。ホセアは約2700年前に同じことを語っていました。時が経っても、何も変わらないのですね。

神様は全てのイスラエル人を裁かれましたが、特に祭司たちを責められました。彼らは神様を礼拝すると言っていましたが、実際にはヤロブアム1世の金の子牛を通して神様を「礼拝」していたのです。おそらく彼らはバアルも礼拝し始めていたのでしょう。

だから、7節にこう書いてあります。

彼ら(つまり祭司たち)はふえるにしたがって、ますます、わたしに罪を犯した。わたしは彼らの栄光を恥に変える。(ホセア書4:7)

だから、神様についての知識は失われ、または、その知識が歪められてしまいました。そこで、神様は祭司たちにこう言われました。

わたしの民は知識がないので滅ぼされる。あなたが知識を退けたので、わたしはあなたを退けて、わたしの祭司としない。(6節)

そして、神様はこう言われました。

だから、民も祭司も同じようになる。わたしはその行ないに報い、そのわざの仕返しをする。(9節)

神様は今でも、このようなことを言われるかもしれません。しかし、私は悪い牧師や祭司について話しているのではありません。クリスチャンについて話しています。私たち全員が神様の祭司なのです。(第一ペテロ2:9)

もし私たちが霊的な不貞を犯すとしたら、つまり、自分自身のために生きたり、この世のものが私たちの神になったりしたら、どのような祭司になるでしょうか。私たちはこの世界に良い影響を全く与えられません。

私たちがこの世界に神様についての本当の知識を与えず、神様の教えを妥協したとしたら、この世の悲惨な状態を見ても驚くことができるでしょうか。

この世の人々は地獄に行くかもしれませんが、もし私たちが祭司として不忠であったならば、神様は「これはあなたのせいです。どうしてあなたが私の祭司でありながら不忠だったのでしょうか」と尋ねられるでしょう。

あなたはどのような祭司でしょうか。

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ホセア書

私たちを追いかける神

聖書の中には、本当に不思議な話があります。

神様は預言者ホセアに「姦淫の女」と結婚するよう命じられました。彼女が売春婦であったかどうかは分かりませんが、ホセアはその女性と結婚する際、彼女が将来不倫をすることを知っていました。

この話が起こった時、ヤロブアム二世はまだイスラエルの王であり、ウジヤ(アザルヤという名前も持っていました)はユダの王でした。

ホセアは主にイスラエルに神様のメッセージを伝えていましたが、時折ユダにも伝えていました。

以前言ったように、その時イスラエルは繁栄していましたが、霊的な問題を抱えていました。イスラエル人はバアルを礼拝し、神様に対して不誠実でした。

そこで、ホセアの結婚を通して神様はイスラエルにメッセージを伝えようとされたのです。

ホセアはゴメルという女性と結婚しました。そして、彼女が息子を生んだ時、神様はその子をイズレエルと名づけるよう命じられました。

なぜなら、エフー王が神様の言葉に従ってイズレエルという場所でアハブ王の家族を殺したものの、最終的にエフーはやりすぎたからです。そのため、神様はエフーの家族とイスラエルを裁くと仰せられたのです。(ホセア書1:4)

その後、ゴメルは二度赤ちゃんを産みましたが、聖書ではその二人がホセアの子供であるとは書かれていません。(おそらく、イズレエルは本当にホセアの子だったのでしょう。)

つまり、ゴメルは不倫をし、他の男性の子供を産んだのです。

一人を「ロ・ルハマ」と名付けました。その意味は「愛されていない」です。

次の赤ちゃんを「ロ・アミ」と名付けました。その意味は「私の民ではない」です。

その状況は非常に明確な象徴でした。ホセアにとって、その二人を愛するのは非常に難しかったと思います。また、当然「この二人の赤ちゃんは私の子供だ」とは言えなかったでしょう。

同じように、イスラエルが神様に対して不忠であったため、神様はイスラエル人について「私の愛する民」とは言えず、「私の子供たち」とも言えなかったのです。

むしろ、神様は彼らを拒絶し、イスラエルが国として倒れると警告されました。

それでも、その罰は永遠に続かないと約束されました。むしろ、いつか神様は彼らを回復させ、もう一度「私の民、私の子」と呼ぶと約束されたのです。(1:10-11)

しかし、2章では神様がイスラエル人の不忠な心を責められました。彼らは、受けた祝福が拝んでいた偽りの神々から来たのではなく、真の神様から来たことに気づかなかったのです。

だから、神様は彼らの祝福を止め、すべての良いものを取り去ると言われました。彼らは喜びと幸せを求めても見つけられず、むしろ恥だけを見つけるようになるのです。その時、彼らの状態は本当に厳しくなり、神様に戻る以外の選択がなくなるのです。

それでも驚くべきことに、彼らが不忠であっても、神様は彼らを追い続けられるのです。神様はこう言われました。

それゆえ、見よ、わたしは彼女をくどいて荒野に連れて行き、優しく彼女に語ろう。わたしはその所を彼女のためにぶどう畑にし、アコルの谷を望みの門としよう。

彼女が若かった日のように、彼女がエジプトの国から上って来たときのように、彼女はその所で答えよう。

その日、――主の御告げ――あなたはわたしを『私の夫』と呼び、もう、わたしを『私のバアル』とは呼ぶまい。。。

わたしはあなたと永遠に契りを結ぶ。正義と公義と、恵みとあわれみをもって、契りを結ぶ。わたしは真実をもってあなたと契りを結ぶ。このとき、あなたは主を知ろう。。。

「愛されない者」を愛し、「わたしの民でない者」を、「あなたはわたしの民」と言う。彼は「あなたは私の神」と言おう。(ホセア書2:14-16、19-20,23)

イスラエル人がその言葉を理解し思い出すために、神様はホセアにこう命じられました。

「あなたの妻をもう一度愛しなさい。ゴメルは他の人の奴隷になりましたが、その人から彼女を買い戻しなさい。そして、もう一度ゴメルをあなたの妻として受け入れなさい。」

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

私たちが神様からどんなに遠く離れても、神様は私たちをなお愛し、追い続けてくださいます。

神様は私たちを懲らしめることもあります。私たちの罪のために、神様が私たちの人生に困難な状況を許されることもあります。けれども、神様の目的は私たちを回復することなのです。神様のすべての行動は愛と忠実から来ています。

だから、ホセアがゴメルに伝えたように、私たちはもうこの世を愛さず、霊的な不貞を犯さないようにしましょう。

神様に立ち返り、忠実であり続けましょう。なぜなら、神様は私たちに忠実であり、キリストの十字架の働きによって私たちを贖われたからです。

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列王記第二 歴代誌第二

プライドは私たちをどこに導くか

「父が父なら子も子」――それはアマツヤとその子アザルヤの話です。

彼らは良いスタートを切りましたが、最終的にはプライドによって倒れてしまいました。

アザルヤの場合、ゼカリヤ(預言者ザカリヤとは別人)がアザルヤに主を恐れることを教えていました。

そのため、アザルヤは若いころから主を求め、神様は彼を栄えさせてくださいました。(歴代誌第二 26:5節)

彼は多くの敵と戦い、彼らを打ち破りました。アザルヤは非常に強力な軍隊を持ち、強い王となりました。

けれでも、歴代誌第二 26:16にはこう書かれています。

しかし、彼が強くなると、彼の心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。

列王記によれば、アザルヤはツァラアト(皮膚病で、ハンセン病に似たもの)にかかりました。けれども、歴代誌はその理由を明らかにしています。

神様の律法によれば、祭司だけが香の壇の上で香をたくことを許されていました。ところが、プライドに支配されたアザルヤは、自ら香をたこうとしたのです。

おそらく彼はこう思ったのでしょう。

「私は良い王だし、神様を愛している。なぜ私が香をたいてはいけないのだろうか。」

祭司たちはアザルヤに注意を促しましたが、彼はそれを全く聞き入れませんでした。それどころか、彼は激しく怒りました。

ところが、その時突然、彼の額にツァラアトが現れたのです。アザルヤはそれを見て急いで神殿を出て、自宅に戻りました。

その結果、彼は死ぬまでその病気に苦しむことになりました。

さらに、彼は王位を息子ヨタムに譲ることを余儀なくされました。

そしてその病気のために、アザルヤは決して神殿に入ることができず、家族から離れ、別の家で孤独な生活を送らざるを得ませんでした。

ソロモンはこう書いています。

高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。(箴言16:18)

アザルヤはそれを学びましたが、彼の人生は完全に行き詰まってしまいました。

あなたはどうでしょう。ご自身のプライドが、あなたを支配してはいないでしょうか。

その場合、あなたのプライドは、あなたが築き上げたものを崩してしまうでしょう。それは、あなたの人間関係や評判を壊してしまうのです。

しかし、私たちがへりくだり、神様に従うならば、神様によって祝福されます。

ヤコブはこう書いています。

神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。(ヤコブ4-6)

私たちのプライドが私たちの人生を崩してしまう前に、そのプライドを打ち砕きましょう。

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ヨナ書

憐みを喜ぶ神

ヨナはニネベに神様からのメッセージを伝えた時、どのような態度だったでしょうか。

時折、アメリカでゲイのパレードや集会の際に、クリスチャンが「あなたは地獄に行く」と書かれた看板を持つ光景を見ることがあります。

ヨナもそのような態度を持っていたのでしょうか。彼が「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる」と伝えた時、心の中で「地獄に行け」と思っていたのかもしれません。

興味深い点として、ある学者はヨナのメッセージに「悔い改めなさい」という言葉が含まれていないことに注目しています。本当にヨナがその言葉を言わなかったのかは分かりませんが、4章を読むとその可能性を考えることができるでしょう。

また、ヨナの父の名前はアミタイで、「真実」を意味します。ヨナは「真実」の子であったかもしれませんが、「憐れみ」の子ではなかったのです。

そのため、ニネベの人々が悔い改めると、ヨナは深く失望しました。彼は「その悔い改めは遅すぎたのではないか。神様はまだ彼らを罰するかもしれない」とさえ思ったかもしれません。

それでヨナはニネベを出て、座り込みながら、神様がソドムとゴモラを滅ぼしたようにニネベを滅ぼすのを待ち望みました。

けれども、時が経つにつれ、ヨナの心には苦々しい思いが増していきました。彼は次第に理解したのです。「神様はニネベの人々に憐れみを与えてくださる。」

神様はユニークな方法でヨナに憐れみについて教えられました。

神様はヨナのために一本のとうごまを備えられました。それは奇跡的に早く成長し、ヨナはその陰で大いに喜びました。

ところが、一匹の虫が現れ、そのとうごまを噛んだため、とうごまはすぐに枯れてしまいました。

その後、非常に暑い天候が続いたことで、ヨナは神様に叫びました。

私は生きているより死んだほうがましだ。(ヨナ書4:8)

神様はヨナに訊かれました。

このとうごまのために、あなたは当然のことのように怒るのか。(9a)

ヨナはこう答えました。

私が死ぬほど怒るのは当然のことです。(9b)

神様はそれを聞いて答えられました。

「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。

まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」(10-11)

つまり、「あなたはそのとうごまを造るために何もしていないにもかかわらず、それをそんなに大切に思っていますね。

一方、ニネベには十二万以上の人々がいて、彼らは私や私の心について何も知らず、彼らの罪のために滅びなければならないと考えていました。

しかし、私はこのニネベの人々を造りました。彼らは私の大切な被造物ですから、私は彼らを深く愛しています。どうしてあなたは私の思いを理解できないのでしょうか。」

ヨナはヨナ書の著者であるため、神様の御心を最終的に理解したのかもしれません。

けれども、私たちはどうでしょうか。

ヨナのように、ある人々が地獄に行くことを喜ぶでしょうか。それとも、神様のように、彼らのために涙を流し、彼らの救いのために尽力するでしょうか。

彼らが悔い改めたとき、私たちは怒るでしょうか。それとも喜ぶでしょうか。

中には、ヨナのように真実だけを喜ぶ人もいます。その結果、彼らは「あなたは地獄に行く」と叫びながら喜びます。

しかし、神様はそのような方ではありません。神様は憐れみを喜ばれるのです。だから、私たちも憐れみを喜ぶ者であるべきです。

あなたはそのようにできるでしょうか。

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ヨナ書

自分への恵みを捨てる

この箇所を読むと、この話がいかに劇的かを改めて感じます。嵐の中で、ヨナは海に投げ込まれ、波にのまれて、どんどん深く沈み、命の危機に瀕していました。しかし、土壇場になり、ヨナは心の底から叫びました。「神様!助けてください!」

その時、大きな魚が現れ、ヨナを飲み込んでしまいました。

こうして、ヨナは「初めての潜水艦」に乗ることになります。その中で、ヨナはこう思いました。

むなしい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます。(ヨナ書2:8)

ヨナは何について考えていたでしょうか。自分の民についてだったでしょうか。それとも、ニネベの民について考えていたでしょうか。おそらくその両方だったかもしれません。

けれども、ヨナの心には空しい偶像がありました。もちろん、ヨナはバアルやヤロブアムが立てた金の子牛を拝んでいたわけではありませんが、別の偶像を心の中に建てていました。それは、「私」という偶像です。

そのため、神様が「ニネベに行きなさい」と命じられたとき、ヨナは「私」という神に従ったのです。

その結果、ヨナは神様からの祝福を自ら捨ててしまうことになりました。

神様はヨナを通して素晴らしい働きを成し遂げたかったのです。もしヨナが進んでニネベでの務めを果たしていたなら、神様は彼を豊かに祝福されたことでしょう。

しかし、ヨナはニネベの民にも、神様にも心を頑なにしてしまいました。

ようやくニネベに行ったときも、ヨナはしぶしぶと神様のメッセージを伝えました。そのため、彼は再び神様からの祝福を逃してしまいました。

あなたはどうでしょうか。「私」という偶像に従っているでしょうか。あなた自身とあなたの欲望があなたの人生の中心にあるでしょうか。ヨナの生涯から学び、彼の言葉を心に留めておきましょう。

むなしい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます。(8)

「私」という偶像を手放しましょう。神様に私たちの人生の王座を捧げましょう。そうすることで、神様からの祝福を心から受け取ることができるのです。

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ヨナ書

私たちの選択

前回の箇所(列王記第二14:25)にヨナの名前が登場したことを受けて、今日はヨナの話について見ていきましょう。

これは非常に有名な聖書の話です。特に興味深いのは、この物語が起こった時期です。この出来事はヤロブアムがイスラエルの王だった頃で、イスラエルの民はほとんど神様を求めていませんでした。

それにもかかわらず、神様はヨナをイスラエルの民のために送りませんでした。むしろ、神様はイスラエルの敵であるニネベに悔い改めのメッセージを伝えるためにヨナを送りました。

おそらくヨナは、イスラエルの民に「神様はあなた方を敵の手から救い出す」と伝えることに喜びを感じていたことでしょう。

たとえ神様がヤロブアムを用いて働かれる理由が彼に理解できなかったとしても、それが良い知らせである以上、ヨナは困ることはありませんでした。

しかし、神様がイスラエルの敵を愛し、彼らに悔い改めの機会を与えようとされたため、ヨナは大いに困惑しました。彼はこう考えたかもしれません。

「なぜ神様はイスラエルの敵に悔い改めのメッセージを伝えたいのだろうか?彼らを滅ぼしたほうが良いのではないか?」

その結果、ヨナはニネベに行くことを拒み、反対の方向へ逃げる道を選びました。

皮肉なことに、神様はヨナが人々に影響を与えることを望まれました。ヨナは確かに影響を与えましたが、それは悪い方法での影響でした。

神様はヨナの注意を引くために嵐を送られました。けれども、その船にはヨナだけでなく、他の乗客も乗っており、皆が困難に直面しました。

ここでお伝えしたいのは、私たちの選択が他の人々に影響を与えるということです。それは良い影響かもしれませんし、悪い影響かもしれません。

神様に従うなら、私たちはこの世のために多くの良いことをすることができます。

しかし、神様に背くなら、否定的な影響を周りの人々に与えてしまうでしょう。私たちの家族や友人、愛する人々に悪い影響を与える可能性があります。

そして、私たちの悪い行動によって、彼らは神様に近づくどころか、神様に背を向けてしまうかもしれません。

幸いなことに、ヨナの罪にもかかわらず、神様はご自身の栄光のためにヨナの行動を用いられました。船乗りたちがヨナを抱え、海に投げ込むと、海はその激しい怒りを静めました。それを見た船乗りたちは神様を恐れ、神様を求め始めたのです。

では、あなたはどうでしょうか。周りの人々にどのような影響を与えていますか。悪い影響でしょうか、それとも良い影響を与えていますか。

毎日、神様に従うことを選びましょう。そうすれば、神様は私たちを通してこの世を変えてくださいます。

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列王記第二

不実な私たち、忠実な神

この箇所では、もう一人の北イスラエル王国の悪い王について取り上げます。彼の名前はヤロブアム二世です。

けれども、彼は他のイスラエルの王とは少し違った点がありました。それは、彼が悪い王であったにもかかわらず、神様が彼を助けてくださったのです。

ヤロブアムの人生を見ると、彼はまったく神様を求めていなかったようです。

しかし、この世の基準に照らし合わせると、彼は非常に成功した王でした。彼はイスラエルを41年間治め、北イスラエル王国の歴史において最も長い治世を持ちました。

そして彼はイスラエルの領土を回復しました。

ところが、聖書によれば、ヤロブアムは神様に忠実ではない王でした。それにもかかわらず、神様は彼を助けてくださったのです。

なぜ神様は彼を助けてくださったのでしょうか。

主がイスラエルの悩みが非常に激しいのを見られたからである。そこには、奴隷も自由の者もいなくなり、イスラエルを助ける者もいなかった。

主はイスラエルの名を天の下から消し去ろうとは言っておられなかった。それで、ヨアシュの子ヤロブアムによって彼らを救われたのである。(列王記第二14:26-27)

つまり、私たちが不実であっても、神様はいつもご自身の約束を守ってくださいます。

しかし、私たちが心に留めておかなければならないことがあります。 それは、私たちの人生がうまくいっていても、必ずしも神様が私たちを喜んでおられるとは限らないということです。

神様はヤロブアムを喜んでおられませんでしたが、彼を祝福してくださいました。けれども、ヤロブアムが死んだ後、神様はその悪い行いのゆえに必ず彼を裁かれたことでしょう。

だから、私たちが祝福されているときでも、この問いを自分に向ける必要があります。

「どうして私は祝福されているのだろうか。神様に従っているからだろうか。それとも、私の人生が罪深いのに、それでも神様は私を祝福してくださっているのだろうか。」

もう一つ覚えておくべきことがあります。

それは、時として私たちの罪のせいで私たちは落ち込み、神様が私たちを赦してくださらない、また用いてくださらないと思い込んでしまうことです。

そのような時こそ、神様が忠実であられるお方であることを心に留めてください。

私たちが悔い改めるならば、神様は確実に私たちを赦し、回復してくださいます。

私たちが不実であっても、神様は忠実な方です。(第一ヨハネ1:9)

パウロが言ったように、

私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。(第二テモテ2:13)

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列王記第二 歴代誌第二

私たちはどのように神様の言葉に応答するか

プライドによって、ユダの次の二人の王、アマツヤとアザルヤは没落しました。アマツヤの場合、彼の人生はこの一言で要約されます。

彼は主の目にかなうことを行なったが、全き心をもってではなかった。(歴代誌第二25:2)

例えば、アマツヤがエドムという国と戦う準備をしていたとき、北イスラエル王国から勇士を雇いました。けれども、ある預言者がアマツヤにこう言いました。

王よ。イスラエルの軍勢をあなたとともに行かせてはなりません。主は、イスラエル、すなわち、すべてのエフライム族とは、共におられないからです。

それでも、あなたが行くと言われるのなら、そうしなさい。雄々しく戦いなさい。神は敵の前にあなたをつまずかせられます。

神には、助ける力があり、つまずかせる力もあるからです。(歴代誌第二25:7-8)

アマツヤはそれを聞いて非常に怒りました。なぜなら、彼はすでにその勇士たちに多額のお金を支払っていたからです。

しかし、最終的には彼らを引き離し、それぞれの場所に帰しました。

ところが、次に預言者が来たとき、アマツヤの態度はまったく問題がありました。

ユダがエドム人を打ち破った後、アマツヤはエドム人の偶像を取って礼拝し始めたのです。

預言者が来てアマツヤを戒め始めると、アマツヤはこう答えました。

私たちはあなたを王の議官に任じたのか。

身のためを思ってやめなさい。なぜ、打ち殺されるようなことをするのか。(歴代誌第二25:16)

預言者はそれを聞いて話すのを止めましたが、彼はこう言いました。

私は神があなたを滅ぼそうと計画しておられるのを知りました。あなたがこれを行ない、私の勧めを聞かなかったからです。(歴代誌第二25:16b)

その預言はただちに成就しました。

アマツヤは愚かにも北イスラエル王国を攻撃しようとしましたが、ヨアシュ王は彼にプライドについて警告を与えました。

あなたは、どうだ、自分はエドムを打ち破ったと言った。あなたの心は高ぶり、誇っている。

今は、自分の家にとどまっていなさい。なぜ、争いをしかけてわざわいを求め、あなたもユダも共に倒れようとするのか。(歴代誌第二25:19)

アマツヤはヨアシュの言葉を無視し、北イスラエル王国を攻撃しました。その愚かな決断によって、彼は命を落としました。

あなたはどうでしょうか。あなたは神様の言葉にどのように応答するでしょうか。

しぶしぶ従いますか。

それとも、無視しますか。

もしくは心から従いますか。

多くの場合、私たちは自分の知恵に頼り、神様の言葉を拒絶します。私たちは高ぶって、自分の知恵で成功できると思い込むことがあります。

しかし、そのプライドは私たちを没落へと導きます。

ソロモンはこう書いています。

人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。(箴言16:25)

自分の知恵に頼るのではなく、命へと導く道を歩みましょう。

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列王記第二

命を与えてくださる神

この話は非常に短いですが、大変興味深いものです。

エリシャが死んで葬られた後も、イスラエル人にはまだ多くの敵やさまざまな問題がありました。例えば、モアブの略奪隊がイスラエルに侵入していました。

ある日、イスラエル人たちが友人を葬ろうとしていたその時、略奪隊を見かけました。彼らは慌てて、一番便利な場所にその死体を置いて立ち去りました。

偶然、その場所はエリシャの墓でした。その死体がエリシャの骨に触れると、死者がよみがえったのです。

恐らく、その出来事を通して、神様はヨアシュ王とイスラエル人にメッセージを伝えようとされたのです。

それは、「私は生ける神である。私のしもべエリシャが死んでも、私はなお生きて働いている。そして、私は死者に命を与えることのできる神である。」というメッセージでした。

つまり、自分の罪によってイスラエル人が死にかけても、モアブ人やアラム人がイスラエル人を攻撃していても、神様にはイスラエル人に命を与える力を持っておられます。

イスラエル人がしなければならなかったのはただ一つ、それは神様に向かって悔い改めることです。

しかし残念なことに、彼らはそうしませんでした。その結果、彼らの状況は徐々に悪化していきました。

あなたはどうでしょうか。あなたの罪によって、大変な状況に陥っているのではないでしょうか。

もしあなたが悔い改めるなら、神様にはあなたに命を与える力を持っておられます。

ですから、悔い改めてください。イスラエルの王たちのように頑固にならないでください。

むしろ、へりくだって祈り、神様を求め、罪から離れてください。

そうすれば、神様はあなたを癒してくださいます。

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列王記第二

尊敬だけでしょうか。または心からの愛でしょうか。

イスラエルの王ヨアシュ(ユダのヨアシュではなく)と預言者エリシャにはどのような関係があったのでしょうか。

ヨアシュは父エホアハズやほかのイスラエルの王たちと同じように悪いことを行い、偶像礼拝をしました。

わが父。わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち(列王記第二13:14)

神様がエリヤを天に取られたとき、エリシャは同じ言葉を言いました。(列王記第二2:12)

けれども、もしヨアシュがエリシャを本当に愛していたなら、エリシャの言葉に従ったはずです。しかし、ヨアシュはそれをしませんでした。

この話で、エリシャはヨアシュに最後の命令を与えました。そして、エリシャはこう言いました。

弓と矢を取りなさい。。。弓に手をかけなさい。。。東側の窓をあけなさい。。。矢を射なさい。(列王記第二13:15-17)

ヨアシュはそうしました。そして、エリシャは言った。

主の勝利の矢。アラムに対する勝利の矢。あなたはアフェクでアラムを打ち、これを絶ち滅ぼす。(17)

そして、エリシャはさらにこう言いました。

矢を取りなさい。。。それで地面を打ちなさい。(18)

ヨアシュはそれを聞いて、どう思っていたのでしょうか。

おそらく、エリシャがそのように命じた理由が分からなかったため、ためらいながら三回打ったのでしょう。

エリシャはそれを見て怒り、こう言いました。

あなたは、五回、六回、打つべきだった。

そうすれば、あなたはアラムを打って、絶ち滅ぼしたことだろう。

しかし、今は三度だけアラムを打つことになろう。(19)

エリシャの言葉は成就しました。神様の助けによって、ヨアシュはアラム人を三回打ち破り、父エホアハズから奪われた町々を取り返しました。

しかし、ヨアシュのエリシャに対する態度は、神様に対する態度によく似ていました。

彼はエリシャや神様を尊敬していたかもしれませんし、少し愛していたかもしれません。

それでも、ヨアシュは心のすべてを神様に捧げることはありませんでした。

心を尽くして神様の言葉に従うこともありませんでした。彼が捧げたのは、せいぜい心の半分、あるいはそれ以下だったかもしれません。

そのため、神様がヨアシュに多くの良いことを望んでおられたにもかかわらず、ヨアシュはその良いことをほとんど経験できませんでした。

もしヨアシュが心を尽くして神様に従っていたなら、もっと多くを成し遂げることができたかもしれません。

あなたはどうでしょうか。

心のすべてを神様に捧げていますか。

心を尽くして神様に従うことを決心していますか。

それとも、ヨアシュのように、神様を少し尊敬しているだけでしょうか。

「神様の言葉は良いかもしれないけど、ちょっと遠慮します」と言っていないでしょうか。

半端な心で神様を求めるのではなく、すべてを神様に捧げましょう。

心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、神様に従いましょう。

ある讃美歌の歌詞には、こう書かれています。

素晴らしい神様からの愛は、
私の魂、命、そして私のすべてを要求する。

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列王記第二

決して遅すぎない

北イスラエル王国の歴史では、すべての王が悪い王でした。エホアハズ王も例外ではありませんでした。

彼は父エフーと同じように主に仕えることなく、金の子牛を礼拝しました。

そのため、神様はイスラエルをアラム人の手に渡されました。イスラエル人がアラム人と戦ったとき、エホアハズには騎兵五十、戦車十台、歩兵一万だけの軍隊しか残されていませんでした。

しかし、他のイスラエルの王たちとは異なり、エホアハズは悔い改め、神様を求め始めました。だから、

主はこれを聞き入れられた。アラムの王のしいたげによって、イスラエルがしいたげられているのを見られたからである。

主がイスラエル人にひとりの救い手を与えられたとき、イスラエルの人々はアラムの支配を脱し、以前のように、自分たちの天幕に住むようになった。(列王記第二13:4-5)

この話から私たちは、神様に悔い改めるのは決して遅すぎない、ということを学ぶことができます。

どんなに罪深い過去であっても、もし神様を求めるなら、神様は私たちを受け入れ、癒してくださいます。

私たちの行動によって神様が怒られることがあっても、私たちが悔い改めるなら、神様はすぐに憐れみを与えてくださいます。

あなたも、もう希望がないと思っていますか。もう神様があなたを受け入れてくださらないと思っていますか。

神様が赦すことのできない人は一人も存在しません。

また、神様が癒すことのできない人も一人も存在しません。

ヤコブが言ったように、

主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。 (ヤコブ4:10)

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列王記第二 歴代誌第二

全然成長しなかった少年

成長しなかった少年。その話を聞くと、私はピーター・パンを思い浮かべます。彼は決して成長したくありませんでした。

残念なことに、ヨアシュ王もそのような人物でした。

祭司エホヤダがヨアシュを育て、教えたことで、ヨアシュは人生の前半、主に仕えることができました。

また、エホヤダや他の祭司たちが主の宮を修理しないとき、ヨアシュは彼らを叱責しました。

しかし、ある日エホヤダが亡くなりました。

ヨアシュを育てた人、そして彼を教えていた人がいなくなったのです。

エホヤダがヨアシュを訓練したおかげで、ヨアシュには学んだことを活かしてユダを賢く治める機会が与えられていました。

それでも、ヨアシュはその機会を活かしませんでした。

むしろ、エホヤダが死んだ後、ユダのつかさたちがヨアシュの心を神様から離れるように導きました。そして、ヨアシュは修理したばかりの宮を捨て、他の神々を礼拝し始めたのです。

それだけでも悪いことでしたが、ヨアシュはさらに悪いことをしました。

神様はエホヤダの息子ゼカリヤをヨアシュに送られました。そして、ゼカリヤはヨアシュにこう言いました。

神はこう仰せられる。「あなたがたは、なぜ、主の命令を犯して、繁栄を取り逃がすのか。」

あなたがたが主を捨てたので、主もあなたがたを捨てられた。(歴代誌第二24:20)

ヨアシュはそれを聞いても、その父エホヤダの親切さに全く感謝せず、ゼカリヤを殺しました。

そのため、神様はユダを裁かれました。

ユダの軍隊がアラムの軍隊よりも規模が大きかったにもかかわらず、神様はユダをアラムの手に渡されました。

その際、ヨアシュは重傷を負い、すぐに彼の家来たちによって暗殺されました。

皮肉なことに、エホヤダは王たちと一緒に葬られましたが、ヨアシュは王たちと一緒に葬られませんでした。

なぜでしょうか。それは、ヨアシュが本当に成長することがなかったからです。

彼は心を尽くして神様に信頼することを決して学びませんでした。むしろ、彼は人間に頼ることを選びました。

エホヤダのような善良な人に頼れば良いことを行いましたが、悪い人々に頼ると悪いことを行いました。

そして結局、それが彼の没落を招いたのです。

あなたはどうでしょうか。あなたのメンターは誰ですか。誰に信頼し、誰に頼っていますか。

いずれ私たちは成長しなくてはならない時を迎えます。敬虔な人々は永遠に私たちと共にいるわけではありません。

彼らが私たちの元を去った時、私たちは霊的な大人として成長し、人々に頼るのではなく、神様だけに頼ることを学ばなければなりません。

私たちはそのことを学び、私たちの人生を神様の御手に委ねましょう。

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列王記第二 歴代誌第二

私たちの宮を清める

ヨアシュ王は、祭司エホヤダの訓練と影響を受けて、王として順調なスタートを切りました。

王となると、ヨアシュはすぐに宮の修復をしたいと考えました。

アハズヤがユダの王であった時、その母アタルヤの影響を受けていたのか、アハズヤとその兄弟たちは宮を打ち壊し、宮の聖なる品々をすべてバアルの礼拝に使用しました。(歴代誌第二24章7節)

その結果、宮は次第に荒廃していきました。そこで、ヨアシュは祭司たちに命じて、人々から資金を集め、宮の修理を行うように指示しました。

なぜ、あなたはレビ人に要求して、主のしもべモーセとイスラエルの集団の、あかしの天幕のための税金を、ユダとエルサレムから持って来させないのですか。(歴代誌第二24:6)

こうして、彼らはようやく修理に取りかかりました。

彼らは宮を修理しただけでなく、アハズヤが盗んだ物の代わりに新しい器具も作りました。

この箇所を見ると、私はこう考えます。「私たちは主の宮を十分に注意しているだろうか。」

もちろん、ここで私が話しているのは建物のことではありません。私たち自身の体について話しています。

なぜなら、パウロがこう言ったからです。

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。(第一コリント6:19)

罪によって私たちの宮はどのような霊的な損害を受けているのでしょうか。

私たちはその罪をそのまま残しているのでしょうか。

それとも、聖なる器となるために、その罪を清めているのでしょうか。

時々、この話の祭司たちのように、私たちは神様に仕えることに忙しくなってしまいます。

しかし、私たちが忘れてはならないのは、神様が最も関心を持っておられるのは、私たち自身のことだということです。

私たちが神様のために何かを成すこと以上に、神様は私たち自身を気にかけておられます。

神様は、宮が清められ、修復され、聖なるものとなることを望んでおられます。

私は「神様に仕えるには、完全に清められなければならない」と言っているのではありません。

けれども、「神の仕事」をしているからといって、自分自身の宮を顧みる時間がない、という態度をとってはいけません。

神様の最初の仕事はあなた自身です。

神様がまずあなたの中で働き、その後で、神様がどのようにしてあなたを用いるかを考え始められるのです。

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ヨエル書

決断の谷、裁きの谷

さばきの谷には、群集また群集。主の日がさばきの谷に近づくからだ。(ヨエル書3:14)

この日本語の翻訳と英語の翻訳には少し違いがあります。日本語では「裁きの谷」と訳されていますが、英語では「決断の谷」と訳されています。

おそらく、英語の翻訳のほうが文字通りの表現ですが、日本語の翻訳を読むと、ヨエルの意図がよりよく理解できると思います。

なぜなら、主の日が来ると、主に従うかどうか決断する時間はもう残されていないからです。

この箇所では、人々はすでに決断しています。つまり、国々は神様に反抗し、神様とその民に戦いを挑むためにその谷に来ました。彼らは神様と戦うために来たと思っていますが、実際には神様の裁きの場に来ているのです。

そして、神様はこう言われます。

わたしが、そこで、回りのすべての国々をさばくために、さばきの座に着くからだ。(12)

だから、「決断」というのは人々の決断ではなく、神様の決断です。つまり、神様はこの反抗的な人々を裁かれるのです。 その日、彼らはイエス様に背を向け、イエス様を踏みつけたため、永遠の罰を受けることになります。へブル人への手紙の著者が言ったように、

私たちは、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする」、また、「主がその民をさばかれる」と言われる方を知っています。生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。(へブル10:30-31)

それは恐ろしいことですが、真理です。

しかし、もしあなたが神様に向かい、イエス様をあなたの主として認めるならば、神様はあなたの罪を赦してくださいます。神様はこう言われました。

わたしは彼らの血の復讐をし、罰しないではおかない。主はシオンに住む。(ヨエル3:21)

だから、私たちは裁きの谷に来る前に決断しなければなりません。それは、イエス様を主として認めるか、それとも神様に背を向け続けるかということです。

神様に向かうならば、神様はあなたに赦しと祝福を注がれるのです。けれども、そうしなければ、裁きが訪れるのです。

あなたはどのように決断しますか。

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ヨエル書

聖霊が来ると

旧約聖書の時代と新約聖書の時代の一つの大きな違いは、御霊の働きです。

旧約聖書の時代においては、時々御霊が特別な働きのために人を満たされました。多くの場合、それは一時的なものでした。その働きが終わると、御霊はすぐにその人から去ってしまわれたのです。

二つの例は、サムソン(士師記14:1;16:20)とサウル王(第一サムエル11:6;16:14)です。

ダビデはバテ・シェバと罪を犯したとき、こう祈りました。

あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。(詩編51:11)

でも、このヨエルの箇所で、神様は約束されました。ある日、御霊は少数の人々に注がれるのではなく、神様のすべての民に注がれるということです。

つまり、神様は男性にも、女性にも、若者にも、年を取った人にも、御霊を注がれます。それは、終わりの日のしるしです。

使徒の働き2章によれば、御霊が来て、この予言を成就しました。

その日に、エルサレムで御霊はすべての信者たちを満たされました。周りの人々が驚いたので、ペテロはこのヨエルの箇所を引用して、何が起こったかを説明しました。

「終わりの日」は、その日から始まりました。私たちも、この終わりの日に生きています。ですから、この終わりの日は2000年以上続いています。

では、どうして神様は私たちに御霊を注がれるのでしょうか。それは、神様の働きをするためです。

その働きとは何でしょうか。裁きの日まで、福音を述べ伝えることです。

何度も何度も、旧約聖書の預言者たちは主の日について警告しました。

実際には、たくさんの「主の日」があります。

神様がある国を裁く時、それが「主の日」です。しかし最終的には、主の大いなる恐るべき日が来ます。(ヨエル書2:31)

その日に、すべての人々は神様の王座の前に来て、裁かれます。けれども、主が呼ばれた者だけが救われます。(32)

だから、御霊の働きは本当に大切です。

イエス様が言われたのは、私たちに力を与えるために御霊を送られたということです。何のための力でしょうか。

それは、イエス様の証人になる力です。つまり、イエス様の福音をこの世に述べ伝える力です。(使徒の働き1:8)

神様は、私たちが自分の霊的な賜物について自慢するために御霊を送ったわけではありません。周りの人々があなたにない賜物を持っていないからといって、彼らを見下すために御霊を送ったわけでもありません。

むしろ、裁きの日が来るまで、死にかけている世界に福音を述べ伝えるために御霊を送られました。なぜなら、その日が来たら、もう悔い改める時間がないからです。すべての人々は裁かれます。

神様は、あなたがこの世に影響を与えるために御霊を注がれました。あなたは周りの人々に影響を与えていますか。

それとも、自分自身や、神様から何をもらえるかに焦点を当てているでしょうか。

私たちが神様の御霊に満たされ、周りの人々に触れることができるように。彼らが裁きの日の前に神様を知ることができるように。

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ヨエル書

本当の悔い改め

時々、人々が「ごめんなさい」と言っても、それが心からの言葉ではないことが分かる場合があります。彼らが本当に謝りたくないために、その謝罪の言葉を彼らの口から引き出さなければならないことがあります。

時には、人は自分が悪いことをしたからといって悲しむのではありません。むしろ、他の人々がその人の悪い行いを知ることに苦しむのです。

この箇所では、神様はそのような問題について語っておられます。2章の最初で、神様は「このいなごの問題はたまたま起こったことではありません。あなたの罪の結果としてこの災害が訪れたのです」と言われました。

そして、神様は続けてこう言われました。

しかし、今、ーー主の御告げーー

心を尽くし、断食と、涙と、嘆きとを持って、わたしに立ち返れ。あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。

あなたがたの神、主に立ち返れ。主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるからだ。(ヨエル書2:13-14)

「あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂きなさい。」

旧約聖書の時代、人々は自分の謙遜さや悲しみを表すために、自分の着物を引き裂きました。

しかし、神様はこう言われました。「そのような上辺だけの悔い改めを望んでいません。私が欲しいのはあなたの心です。私はあなたが心から悔い改めることを望んでいます。」

ダビデはこう書きました。

たとい私がささげても、まことにあなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。

神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。(詩篇51:16-17)

神様はイスラエル人に言われました。「もし、あなたがたが悔い改めるならば、私はあなたがたを癒します。いなごによって受けた被害を回復させます。」

今、わたしは穀物と新しいぶどう酒と油とをあなたがたに送る。あなたがたは、それで満足する。わたしは、二度とあなたがたを、諸国の民の聞いて、そしりとしない。(ヨエル書2:19)

神様は私たちに同じことを語られます。悔い改めるのに決して遅すぎることはありません。私たちが神様に向かうならば、憐み深い神様は、すぐに私たちの罪による傷を癒してくださいます。

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ヨエル書

悪を見るとどう反応するでしょうか

どうして、この世に悪があるのでしょうか。どうして、たくさんの悲劇があるのでしょうか。昔から、人々はこのような質問をしてきました。ヨエル書を見ると、その質問が浮かんできます。いなごの群れがユダに来て、すべての収穫を食べ尽くしてしまいました。

いつヨエルがこの予言を書いたか分かりませんが、多くの学者の意見によれば、ヨアシュが赤ちゃんの時や、若い子どもの時(つまり、すでに王になった時に)ヨエルはこれを書いたかもしれません。

ヨアシュが王になる前にユダには三つの不敬虔な支配者がいました。つまり、ヨラム王、アハズヤ王、アタルヤ女王でした。この三人はユダの民を偶像礼拝に導いたのです。

そして、この悲劇が起こりました。その時、ヨエルはユダの民に神様の言葉を伝えました。ヨエルのメッセージは何だったのでしょうか。

「神様に向かいなさい。霊的な眠りから目を覚まして、悔い改めなさい。」

ヨエルはこう言いました。

酔っぱらいよ。目を覚まして、泣け。すべてぶどう酒を飲む者よ。泣きわめけ。甘いぶどう酒があなたがたの口から断たれたからだ。(ヨエル書1:5)

そして、ヨエルは祭司たちに戒めました。「悔い改めはあなたたちから始まらなければなりません。あなたたちは皆を主に導いてください。」

彼はこう言いました。

祭司たちよ。荒布をまとっていたみ悲しめ。祭壇に仕える者たちよ。泣きわめけ。神に仕える者たちよ。宮に行き、荒布をまとって夜を過ごせ。。。

断食の布告をし、きよめの集会のふれを出せ。長老たちとこの国に住むすべての者を、あなたがたの神、主の宮に集め、主に向かって叫べ。(13-14)

なぜヨエルはそのように言ったのでしょうか。

主の日は近い。全能者からの破壊のように、その日が来る。(15)

どうして、この世に悪があるのでしょうか。どうして、地震や津波、台風などがあるのでしょうか。一つの理由は、人々が霊的な眠りから目を覚ますためです。これはノンクリスチャンだけでなく、クリスチャンにとっても重要なことです。

もし、この世に悪がなかったら、すべての人々は楽に生き、彼らの罪のための将来の裁きについて全く考えないでしょう。多くの人々は全く神様について考えないでしょう。

しかし、その裁きは地震よりも、台風よりも、津波よりも、はるかに酷いものです。裁きが来ると、その結果は永遠に続きます。その裁きから逃れることはできません。

これがヨエルのメッセージでした。「目を覚ましなさい。この悲劇は大変だと思いますか。神様からの裁きと比べると、この悲劇は些細なことです。悔い改めなさい。神様にもう一度向かってください。そうしなければ、もっと酷いことが起こります。」

イエス様は同じようなことを癒やされた人に言われました。

「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪いことがあなたの身に起こるから。」(ヨハネ5:14)

つまり、「あなたはずっと苦しんでいました。けれども、悔い改めなければ、もっと大変な苦しみが訪れるでしょう。足が不自由であることよりも、地獄に行くことのほうがはるかに大変です。しかし、悔い改めるならば、足だけでなく、あなたの魂と霊が癒されます。」

あなたは悲劇を見るとどのように反応しますか。悲劇を目の当たりにしたら、神様の前に跪きましょう。ヨアシュの時代に、神様は祭司たちを呼ばれました。

同様に、神様の祭司として、私たちも召されています。ですから、悔い改めましょう。そして、周りの人々のために祈りましょう。彼らを闇の中から神様の驚くべき光の中に招いてください。

神様の光の中で眠らないでください。目を覚まし、周りの人々も起こしましょう。裁きが訪れる前に神様に向かいましょう。

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列王記第二 歴代誌第二

正当な王

もしヨシャパテが未来を見ることができたなら、彼は違う選択をしたでしょうか。

彼はアハブ王と同盟を結び、その結果、ヨシャパテの息子ヨラムはアハブの娘アタルヤと結婚しました。

アタルヤはヨラムを神様から離れるように導き、彼女の助言によってヨラムは兄弟たちを殺害しました。

その後、ヨラムとその息子アハズヤが死んだとき、アタルヤはユダの女王となるために王族を皆殺しにしようとしました。

もしヨシャパテがこれらの出来事を知っていたなら、彼は何を考え、どう行動したでしょうか。

アタルヤはほとんどの王族を殺してしまいました。

幸いにも、アハズヤの姉妹がアハズヤの息子ヨアシュを救い出しました。

ヨアシュは主の宮に隠され、6歳になると、祭司エホヤダによってユダの民の前に出され、油を注がれ、王冠を被せられました。そしてアタルヤはすぐに殺されました。

私たちはアタルヤの行動を見て侮るかもしれません。

けれども、どれほど私たち自身が、そのようにして神様から私たちの心の王座を奪っているでしょうか。

聖書によると、神様は正当な王です。しかし、私たちはしばしば神様をその王座から押し出し、その王座を奪おうとします。

神様のために生きるのではなく、自分自身のために生き、神様に従うのではなく、自分の欲望に従ってしまいます。

そして、神様がその王座を再び取ろうとされると、私たちはアタルヤのように叫びます。「それは私の王座です。」

多くの人々は、自分がその王座に座れば幸せな人生を送れると思います。

けれども、その王座に座ると、結局私たちの人生は混乱に陥ります。結婚は破れ、家族は崩れ、私たちが築こうとするものはすべて倒れてしまいます。

では、神様がその王座に座られるとどうなるでしょうか。

本当の喜びが訪れます。そして、私たち自身の悪い決断によって破壊してしまったものを神様が癒してくださるのです。

ユダの民は約6年間、アタルヤの治世によって苦しんでいました。

しかし、正当な王がその王座に座ったとき、希望が戻り、人々は喜びに満ちました。

あなたも、自分自身の誤った決断によって苦しんでいるかもしれません。

けれども、もし神様に心の王座をささげるなら、希望は再び戻ります。そして、その希望によって、あなたの心は喜びで満たされることでしょう。

あなたは神様からその王座を奪ってはいませんか。

その王座を神様にお返ししましょう。

神様を私たちの真の王として迎え入れましょう。

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列王記第二

自分の動機を見極める

エフーはイスラエルの王としての評判はやや複雑でした。

彼は神様の命令に従い、アハブの家族を皆殺しました。そのため、神様は彼を誉め、約束を与えられました。

あなたはわたしの見る目にかなったことをよくやり遂げ、アハブの家に対して、私が心に定めたことをことごとく行なったので、あなたの子孫は四代目まで、イスラエルの王座に着こう。(列王記第二10:30)

けれども、ダビデやソロモンに対する約束とは異なり、神様はエフーに永遠の王国を約束されませんでした。

なぜでしょうか。おそらく、神様はエフーの心を見ておられたからでしょう。

9章を読むと、エフーが預言者にイスラエルの王として油を注がれたにもかかわらず、彼はそのことを真剣に受け止めていなかったように見えます。

しかし、人々が彼を王として認めると、突然、彼は預言者の言葉を信じるようになったようです。

それにもかかわらず、エフーの行動を見ると、彼は神様を恐れることなく、自分の力のために振る舞っていたことが分かります。

また、預言者が彼に油を注いだ出来事とその言葉を利用して、自分の行動を正当化したのです。

9章から10章にかけて、エフーはアハブの家族を殺害した後、ユダの王アハズヤとアハズヤの親族の数人を殺しました。

それだけでなく、エフーはアハブの身分の高い者や親しい者も殺害しました。けれども、神様はそのようなことを命令されたわけではありませんでした。

その行動のためか、預言者ホセアを通して、神様はエフーを裁かれました(ホセア書1:4)。

また、彼は他の罪も犯しました。

彼はイスラエルでバアルの礼拝を止めたものの、ヤロブアム王の二つの子牛の偶像を礼拝し続けました。

もしエフーが本当に神様を愛していたなら、そのようなことを決してしなかったでしょう。

あなたはどうでしょうか。あなたの動機は何でしょうか。

あなたは神様を愛しているために神様に仕えているのでしょうか。

それとも、自己中心的な動機のために生きているのでしょうか。

あなたは正しい行動をしているかもしれません。周りの人々はあなたを誉めているかもしれません。

しかし、神様はあなたの心をご覧になります。

もしあなたの動機が悪かったならば、神様からの報いは来ないでしょう。

自己中心的な態度で神様に仕えないようにしましょう。むしろ、神様をあなたの王として迎えましょう。

そして、神様の栄光のために生きましょう。

パウロが言ったように、

あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。(コロサイ3:17)

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列王記第二 歴代誌第二

誰に注意した方が良いでしょうか

私は高校生の頃、この歌をよく聴きました。

誰に注意を払うべきか、
また誰に注意を払わないべきかを知る必要があります。

多くの場所から意見が寄せられるため、
誰に注意を払うべきか、
また誰に注意を払わないべきかを決める必要があります。

ーーエイミー・グラント

それは真理です。

あなたは誰の意見を受け取っているでしょうか。

それは非常に重要な質問です。なぜなら、その意見があなたの人生を形成するからです。

良い意見を受け取れば、あなたの人生は良い方向に進みます。

けれども、悪い意見を受け取れば、悪い方向に進んでしまいます。

ユダのアハズヤはそのことを学びました。

以前言ったように、列王記と歴代誌を読む際には名前に注意を払わなければなりません。

このアハズヤはイスラエルの王アハズヤではありません。(列王記第二1章)

これは、ユダの王ヨラムの息子アハズヤです。

その父と同じように、アハズヤは悪い意見を受け入れました。

母アタルヤから悪い意見を受けた上、アタルヤはアハブの娘だったため、アハズヤはアタルヤの兄弟であるイスラエルの王ヨラムからも悪い意見を受け入れました。

その結果、アハズヤはその父と同じようにバアルを礼拝しました。

(もし名前に関して混乱している場合は、心配しないでください。この説明をもう一度読んでみてください。)

歴代誌第二22章3-4節にはこう書かれています。

「アハズヤ」もまた、アハブの家の道に歩んだ。彼の母が彼の助言者で、悪を行なわせたからである。

彼はアハブの家にならって主の目の前に悪を行なった。

その父の死後、彼らが助言者となって、彼を滅びに至らせたのである。

つまり、アハズヤは悪い意見を受け入れたため、彼の人生は破滅へと向かってしまいました。

彼はイスラエルの王ヨラムと共にアラムの王と戦いました。そして、その戦いでヨラムが傷を負ったため、後でアハズヤは彼を見舞いに訪れました。

しかしその時、エフーという人がヨラムを殺すために現れました。そして、アハズヤがヨラムと付き合いがあり、ヨラムのように偽物の神々を礼拝していたため、エフーはアハズヤも殺しました。

悪いタイミングだったため、アハズヤは殺されました。けれども、それだけではなく、彼は悪い意見に従っていたために殺されたのです。

あなたはどうでしょうか。誰の意見に従っていますか。

敬虔な人々の意見に従っていますか。

それとも、不敬虔な人々の意見に従っていますか。

もちろんノンクリスチャンでも時には良い意見を与えることがあるかもしれません。また、クリスチャンでも時には悪い意見を与えることがあるかもしれません。

そのため、最も重要なのは、その意見を神様の言葉と照らし合わせることです。神様だけが完全な意見を与えるからです。

ダビデはこう書きました。

幸いなことよ。悪者のはかりことに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。

まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。(詩篇1:1-2)

私たちは神様の御言葉に従いましょう。そうすれば、

その人は、水路のそばに植わった木のようだ。
時が来ると、実がなり、その葉枯れない。

その人は、何をしても栄える。(詩篇1:3)

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列王記第二 歴代誌第二

聖書は矛盾があるでしょうか

聖書を信じることができるでしょうか。時には、ミスがないのだろうかと疑問を抱くことがあります。

多くの人々がそのような疑いを持っています。そして、今日の箇所を読むと、多くの人々がそう考えるかもしれません。

列王記と歴代誌を合わせて読むことは非常に興味深いです。

なぜなら、時には両書に同じ話が記録されているものの、列王記には歴代誌に書かれていない情報があり、また歴代誌には列王記に書かれていない情報があるからです。

そのため、列王記と歴代誌を合わせて読むことで、その話の全体像を知ることができます。

とはいえ、列王記と歴代誌を合わせて読むことで、少し分かりにくい点が出てくることもあります。つまり、列王記と歴代誌の記録には、若干矛盾があるように見える場合もあるのです。

その一例が、ユダの王アハズヤの死に関する記述です。

アハズヤはどのようにして死んだのでしょうか。

このブログでは、できる限り難しい箇所から逃げずに向き合いました。

けれども、この話について私の意見を述べる前に、このような難しい箇所について私がどのように考えるかを説明したいと思います。

二人の人が同じ出来事について語る場合、彼らがまったく同じ言葉を使うことはありません。

なぜなら、彼らの記憶は異なり、また何を重要と見るかについても意見が違うため、同じ出来事を語っていても焦点を当てる点が異なるからです。

裁判において、複数の証人が同じ出来事について語ると、異なる証言が現れるものです。

しかし、話が少し異なっていても、その事件が実際に起こらなかったわけではありません。また、それが矛盾しているわけでもありません。

裁判官はそれらの証言を聞き、どのようにして異なる点を統合するかを考えます。

私たちが聖書を読むときも、同じことをするのです。

もし列王記と歴代誌の間に異なる記述があった場合、それらをどのように統合すればよいか考えます。

また、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書の間で矛盾があるように見える場合も、同じことを行います。

その結果、常に良い説明が存在すると信じています。

とにかく、アハズヤはどのようにして死んだのでしょうか。

列王記によると、アハズヤは傷を負い、ミギドという都市に逃げました。そして、彼はそこで死に、彼の家来たちは彼をエルサレムに葬りました。(列王記第二9:27-28)

列王記だけを読むと、アハズヤが傷によって死んだのだと思うかもしれません。

けれども、歴代誌によると、アハズヤは捕まり、サマリヤでエフーによって殺されました。

では、この二つの話をどのように統合することができるでしょうか。

ここで、この話をもう少し詳しく見てみましょう。

列王記によると、アハズヤはイスラエルの王ヨラムを見舞いに訪れました。

エフーが現れ、ヨラムを殺した後、アハズヤを見て追いかけ、殺そうとしました。アハズヤは傷を負ったものの、メギドに逃げました。

一方、歴代誌にはさらに多くの情報が書かれています。

エフーがアハズヤを探し続けていたところ、エフーの民がサマリヤでアハズヤを見つけました。

では、なぜアハズヤはサマリヤにいたのでしょうか。

ある可能性として、アハズヤが傷を負ったとき、最初にミギドに逃げたと考えられます。

エフーはその知らせを聞いてミギドに向かいましたが、アハズヤがエフーの接近を知ると、サマリヤへ逃げたのかもしれません。

エフーがミギドに到着したときには、アハズヤはすでに逃げてしまっていたため、エフーはアハズヤを探すために人々を送り出しました。

その後、彼らがアハズヤを見つけ、彼をミギドに連れ戻し、そこでエフーが彼を殺したと考えられます。

歴代誌によると、アハズヤがサマリヤで見つかったと記されていますが、サマリヤで殺されたとは書かれていません。

むしろ、「人々は彼をエフーのもとに引いてきて殺した」と記されています。

とはいえ、その時点でエフーがどこにいたのかは明記されていません。

一方、列王記には、アハズヤが傷を負った後にミギドで死んだと記されていますが、どのようにして死んだのかについての詳細は書かれていません。

ただ「ミギドで死んだ」とだけ記されています。

そして、エフーが彼を埋葬した後、アハズヤの家来たちがその遺体をエルサレムに運び、葬ったのだと考えられます。

この説明は正しいのでしょうか。私は分かりません。

他の説明が存在する可能性もあります。けれども、私が確信しているのは、聖書には矛盾がないということです。

聖書の中には時折、難しい箇所があります。

列王記と歴代誌の中にも、福音書の中にも、統合が難しい箇所があります。

しかし、それらの箇所を詳しく調べたり、深く考えたりすると、聖書に矛盾がないことが分かるのです。

ですから、私たちは聖書を信じ、従いましょう。

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神様の警告を無視する

イスラエル人が子供に名前を付けるとき、もっと独特な名前を使えばよかったと思います。なぜなら、列王記と歴代誌を読むと、少し混乱するからです。

例えば、イスラエルでアハブ王が亡くなると、その息子アハズヤが王になりました。そして、アハズヤが亡くなると、その兄弟ヨラムがイスラエルの王になりました。

一方、ユダでは、別のヨラムがユダの王になり、彼が亡くなると、その息子アハズヤが王になりました。

つまり、同じ時期に、二つの国で二人のヨラム王と二人のアハズヤ王がいました。

とにかく、この箇所に登場するヨラム王はイスラエルの王ではありません。

イスラエルの王ヨラムはエリシャをよく知っていましたが、この箇所のヨラム王はユダの王ヨラムで、彼はエリシャをあまり知りませんでした。

ユダの王ヨラムはヨシャパテ王の息子でした。

けれども、ヨシャパテとは異なり、ヨラムは心を尽くして神様に従いませんでした。

なぜでしょうか。おそらく、彼がアハブの娘アタルヤと結婚したことが理由かもしれません。

以前私が言ったように、もしあなた自身が不敬虔な人と結びついたら、大変な状態に陥ることがあります。

この箇所にはその結果を見ることができます。

ヨシャパテが亡くなった後に、ヨラムは兄弟たちを殺そうと決めました。

私の考えですが、多分アタルヤの影響によってヨラムはそのようにしました。なぜなら、ヨラムの息子アハズヤが亡くなった後に、アタルヤも同じようなことをしたからです。

また、アタルヤはヨラムを偶像礼拝へと導きました。(歴代誌第二 21:6;列王記第二 8:18)

神様はダビデのためにその家系を守りたいと思われたため、ヨラムを悔い改めさせるために懲らしめられました。

ヨラムが神様を捨て去ったため、エドムとリブナという国はイスラエルに反逆しました。(歴代誌第二 21:10)

ある時、ヨラムはエドム人に囲まれて、逃げなくてはならない状況に陥りました。それでも、彼は悔い改めることはありませんでした。

そのため、神様は最後の警告を送りました。それはエリヤからの手紙でした。

列王記第一と第二には、エリヤとエリシャの話がたくさん登場します。しかし、歴代誌にはエリシャの名前が全く記載されておらず、エリヤの名前も1回しか出てきません。

この1回は非常に混乱させられる箇所です。なぜなら、列王記第二によれば、エリヤはすでに天国に召されていたからです。

では、ヨラムはどのようにしてこの手紙を受け取ったのでしょうか。

それは誰にも分かりません。とはいえ、いろいろな意見があります。

一つ目の意見によれば、神様はエリヤを天に連れて行かれたのではなく、「静かな場所」に導かれ、そこで死ぬまで住んでいたというのです。

そして、その場所からエリヤが手紙を送ったという説です。

興味深い意見ではありますが、私はそうは考えません。

二つ目の意見は、この話が年代順ではないというものです。つまり、この出来事の後にエリヤは天国に行ったという考え方です。

三つ目の意見は、エリヤが天国に行く前に、神様がヨラムについてのメッセージを与えたため、エリヤがその手紙を書きました。そしてその手紙をある弟子に渡し、適切な時にその弟子がヨラムに手紙を届けたというものです。

それは正しいかもしれません。

なぜなら、エリシャはハザエルの未来をよく知っていたからです。

また、クロス王(イサヤ44:28-45:1)とヨシヤ王(列王記第一13:2)が生まれる前に、神様は彼らの名前と行動をよく知っておられました。

もし預言を信じるなら、エリヤの手紙はそれほど珍しいことではありません。

とにかく、ヨラムは死んだ人からの手紙を受け取りました。

多くの人々は、その手紙を読めば悔い改めるはずです。しかし、ヨラムは悔い改めませんでした。

そのため、結局、神様は彼を裁かれました。ヨラムは重病の床で死にました。

歴代誌第二の著者は、その死について、こう記しました。

彼は人々に愛されることなく世を去った。(歴代誌第二21:20)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

私たちが神様に背を向けるとき、神様はご自身の約束を守られるゆえに、忍耐とあわれみを示され続けるかもしれません。

神様は私たちに警告を与え、私たちの状況を通して懲らしめられることもあるでしょう。

しかし、私たちがそれを無視し続けるならば、裁きが訪れます。

私はあなたが救いを失うと言っているのではありません。けれども、もし罪を犯し続けるならば、裁きが必ず来るのです。

そして、神様の裁きは本当に苦しいものです。

神様からの警告と懲らしめを無視しないようにしましょう。むしろ、

私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。。。

霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さあずからせようとして、懲らしめるのです。(へブル書12:9-10)

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列王記第二

神様の前で隠れている物はない

鶏が先だったでしょうか。もしくは卵が先だったでしょうか。英語では、それはよく聞かれる疑問です。もちろん、クリスチャンにとって、答えは鶏です。

とにかく、この話を読むと、同じような質問を考えます。

エリシャがハザエルが王になる預言を言った後に、ハザエルはアラムの王を殺そうと決めたのでしょうか。

もしくは、ハザエルがすでに王を殺そうと決めていたので、エリシャはその預言を言ったのでしょうか。

私には分かりません。以前私が思ったのは、ハザエルがエリシャの預言を聞いたので、すぐに王を殺そうと決めたことです。

けれども、もしくは、ハザエルはその王の病気を見て、「これはチャンスだから、王を殺そう」と考え始めたのかもしれません。

そして、エリシャはその預言を通して、ハザエルの心を表しました。

どちらが正しいか分かりませんが、とにかく、神様の前で隠れているものは何もありません。

未来のことも隠れていませんし、人々の心の中のことも隠れていません。神様はすべてのことをご覧になることができます。

その真理によって、私たちは警告されています。しかし、その真理によって、私たちは慰められています。

警告されているのは、私たちの罪を神様から隠すことはできないことです。また、私たちの心の中の罪も隠すことはできません。

ですから、私たちの生き方には注意を払わなくてはなりません。なぜなら、いつか私たち全員がキリストの裁きの座に現れなくてはならないからです。

へブル人への手紙の著者はこう言いました。

造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。(へブル書4:13)

それでも、その真理によって、私たちは希望を持っています。なぜなら、私たちの未来は神様の御手の中にあるからです。

ダビデはこう書きました。

あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。

私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。(詩編139:16)

以前のブログで、私は「神様のタイミングは完璧である」と書きました。

もし私たちが神様が未来を知り、コントロールされることを覚えていたなら、神様のタイミングを待つことがもっと簡単になるかもしれません。

私は子供の時にこの歌を聞いて、今でもそれが大好きです。

あなたはずっと休むことができません。
あなたは心配しすぎて、
はっきりと考えることができません。

あなたがどれだけ頑張っても、
問題の解決を見つけることができません。

もし神様に頼れば、神様はあなたを導いてくださいます。
しかし、神様の知恵を信頼しなくてはなりません。
また、神様の御言葉を信じなくてはなりません。

あなたが見ることができないことを、
神様はご覧になることができます。
神様はあなたにとって最善を知り、望まれます。
ですから、この真理を学びましょう。

つまり、未来は神様の御手の中にあります。
神様は計画を持っておられます。
ですから、心配する必要はありません。
すべては神様の御手の中にあるからです。

ですから、もしどうすれば良いか混乱したときには、思い出してください。
神様は御手の中にあなたの未来を持っておられます。

ーーデヴィッド・ミース

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列王記第二

神様の完璧なタイミング

二つの理由で、この話は興味深いです。

一つ目はゲハジのことです。

前回ゲハジの名前を見ると、ゲハジがナアマンに嘘をついたために、神様はゲハジをらい病で打たれました。(列王記第二5章)

けれども、この箇所では、ゲハジがヨラム王にエリシャについて話しているのです。

この話は年代順ではない可能性もあります。つまり、ゲハジがらい病になる前に今回の話が起こったのかもしれません。

あるいは、神様があわれみを与えられ、ゲハジを癒されたのかもしれません。

あるユダヤ人の学者が興味深い考えを述べています。それは、7章のらい病のある4人の人々が、ゲハジとその息子たちであるということです。そして、彼らの行動によって、神様が彼らを癒されたというものです。

いずれにせよ、二つ目は神様の完璧なタイミングについてです。

4章で、私たちはシュネムの女の人について読みました。

イスラエルに飢饉があったために、エリシャはその家族に別の国に住んだ方が良いと言いました。

しかし、その間に、その主人は亡くなりました。そのため、彼女とその息子はイスラエルに帰り、すぐに王のもとに行き、自分の家と畑が返されるように頼みました。

彼らが王の前に来たちょうどその時、ゲハジは王にエリシャがどのようにその女の人の息子を復活させたかについて話しているところでした。

ゲハジが彼女を見て本当に驚いたと思います。そして彼は言いました。

王さま。これがその女です。これが、エリシャが生き返らせたその子供です。(列王記第二8:5)

ヨラムは彼女にその事件について尋ね、感動したため、彼女の畑と家をすぐに返しました。

神様のタイミングは本当に完璧です。振り返ると、さまざまな例を思い出します。

例えば、神様が私の妻を私の人生に導いてくださったことは、本当に素晴らしいと思います。(ですが、その話は別のブログに置いておきましょう。)

それでも試練の時には、待つことが大変になるかもしれません。時には、神様のタイミングを待たずに、自分の力で何かをしようとしてしまいます。

日本では、多くのシングルの人々が、待つことに飽きてノンクリスチャンと結婚してしまいます。けれども後になって、一つの問題の代わりにさらに大きな問題を抱えることに気付くことがあります。

神様のタイミングが完璧であることを心に留めておきましょう。ダビデが書いたように、

ああ、私に、生ける者の地で主のいつくしみを見ることが信じられなかったならーー

待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。(詩篇27:13-14)

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列王記第二

忍耐がなくなり、信仰もなくなっている

イスラエル人はアラム人にあわれみを与えたので、しばらく平和が続きました。

ところが、結局、アラムの王は再び全軍を召集して、サマリヤを包囲しました。

その結果、イスラエル人は食べ物がなく、生き残るために酷いことをしてしまいました。

ある女性がイスラエルの王ヨラムの前に行き、言いました。

この女が私に[あなたの子どもをよこしなさい。私たちはきょう、それを食べて、あすは私の子どもを食べましょう]と言ったのです。

それで、私たちは、私の子どもを煮て、食べました。その翌日、私は彼女に「さあ、あなたの子どもをよこしなさい。私たちはそれを食べましょう」と言ったのですが、彼女は自分の子どもを隠してしまったのです。(列王記第二6:28-29)

ヨラムはどのように反応したでしょうか。彼は神様と預言者エリシャを責めました。

きょう、シャファテの子エリシャの首が彼の上についていれば、神がこの私を幾重にも罰せられますように。(列王記第二6:31)

そして、エリシャを殺すために、ヨラムはエリシャを探していた。見つけると、ヨラムは言った。

見よ。これは、主からのわざわいだ。これ以上、何を私は主に期待しなければならないのか。(列王記第二6:33)

つまり、「私は忍耐がもうなく、信仰も失っています。この悪い状態の中で、なぜ私は神様に信頼し続けなければならないのでしょうか。」

では、その前に、ヨラムは何をしていたのでしょうか。エリシャのアドバイスを求めていたのでしょうか。主の御言葉を求めていたのでしょうか。

多分、そうしなかったのでしょう。

むしろ、自分の知恵と力によってその問題を解決しようとしました。

そして、解決できないと分かっても、なお神様を求めてはいませんでした。むしろ、ヨラムは自分自身の悪い決断のために神様を責めました。(列王記第二3章でも、ヨラムは同じようなことをしていました。)

とにかく、エリシャはヨラムに神様からの救いを予言しました。ヨラムはエリシャを信じたようですが、ヨラムの侍従は信仰を失い、その疑いを口にしました。

そこで、エリシャは言いました。「あなたは神様からの救いを見るが、それを楽しむことはありません。」(列王記第二7:2)

神様はイスラエル人を救い出されました。包囲が終わり、イスラエル人は食べ物を集めるために門から暴れて出ました。

その侍従は門の管理をしていましたが、イスラエル人が彼を踏みつけたため、彼は死んでしまいました。

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

大変な時に、私たちの信仰はどれほどあるでしょうか。諦めるでしょうか。解決を探すことを諦めるだけでなく、私たちの信仰も諦めるのでしょうか。

それとも、神様に信頼し続けるのでしょうか。

すべてがうまくいく時に、神様に信頼するのは簡単です。

しかし、うまくいかなくても、あなたは信頼し続けるのでしょうか。

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列王記第二

悪に善を報いる

「もし私が彼を捕らえたら……」

「いつ、どこで、どうなるか分かりませんが、いつかきっと復讐してみせます……」

あなたは、そのようなことを言ったことがありますか。

私たちが傷つくと、そのような思いは珍しくありません。しかし、神様は私たちがそのように生きることを望まれていません。

この話では、アラム人の軍隊がエリシャが泊まっていた都市を包囲しましたが、神様は彼らを打って盲目にされました。

彼らが全く見ることができなかったかどうかは分かりません。そうではないかもしれません。

可能性の一つとしては、彼らの目が見えていたけれど、何を見たのか分からなかったのかもしれません。

例えば、イエス様がよみがえられた後、マグダラのマリアと二人の弟子たちはイエス様を見ましたが、すぐにはイエス様だと分かりませんでした。

もしその軍隊が全く見ることができなかったのであれば、サマリヤまで歩くのは非常に困難だったことでしょう。

とにかく、結局イスラエルの王ヨラムはエリシャの助けによって、その軍隊を捕らえました。そして、ヨラムはエリシャに尋ねました。

私が打ちましょうか。私が打ちましょうか。わが父よ。(列王記第二6:21)

多分、ヨラム王はこのように考えました。「これはチャンスです。敵を打てば大きい勝利になります。」

また、「私たちは何もしていないのに、彼らは私たちを攻撃しました。彼らは死に値するのではないでしょうか。」と考えたのかもしれません。

しかし、エリシャはこう答えました。

打ってはなりません。あなたは自分の剣と弓でとりこにした者を打ち殺しますか。

彼らにパンと水をあてがい、飲み食いさせて、彼らの主君のもとに行かせなさい。(22)

ヨラム王はエリシャの言葉に従いましたので、アラム人は恥ずかしくなり、しばらくイスラエルを攻撃するのを止めました。

人々があなたを傷つける場合、あなたはどのように反応されるでしょうか。

神様は私たちがこの世の人々が反応するように望まれていません。むしろ、私たちがイエス様の模範に従うことを望まれます。

イエス様は、からかわれ、打たれ、十字架につけられながらも、敵を赦されました。

さらに、彼らの罪のために死んでくださいました。

つまり、イエス様は彼らの悪に善をもって報いられたのです。

パウロの言葉を思い出しましょう。

だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。

あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。

愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」

もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。

悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。(ローマ12:17-21)

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列王記第二

霊的な世界が見える目

この話はあまり読まれることがありませんし、日曜日のメッセージでこの話について聞くこともほとんどないでしょう。

しかし、この話が大好きです。なぜなら、この話を通して霊的な世界を垣間見ることができるからです。

エリシャとそのしもべは敵に包囲されました。しもべはパニックになりましたが、エリシャはまったく慌てることはありませんでした。なぜでしょうか。

それは、エリシャがしもべには見えないものを見ていたからです。

しもべが見たのは敵だけでしたが、エリシャはもっと大きな軍隊を見ていたのです。そして、その軍隊はエリシャの敵を包囲していました。

そこで、エリシャは祈りました。

どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。(列王記第二6:17)

エリシャが祈った後、すぐにそのしもべは火の馬と戦車がエリシャを取り巻いているのを見ることができました。その火の馬と火の戦車が山を満たしていました。

認めなければならないのは、私がいろいろなことについて心配してしまうということです。自分の問題を見て、時には心配しすぎてしまいます。

私はエリシャのような目を持ちたいのです。自分の状況だけに目を向けるのではなく、私の問題をはるかに超えておられる神様を仰ぎ見る目を持ちたいのです。

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列王記第二

細かいことも見逃さない神

神様が私たちの人生の細やかなことにまで心を留めてくださることは、私にとって驚くべきことです。

神様にとって、細かすぎることなど一つもありません。

この話では、ある預言者たちは住む場所を作ろうと木を切り始めました。けれども、その作業中に誰かが斧の頭をヨルダン川に落としてしまいました。そのうえ、その斧は借りたものでした。

エリシャはその問題について聞いたとき、それを無視しませんでした。また、「このような問題には関心がない」とは言いませんでした。

むしろ、彼はその預言者を助けました。エリシャは一本の枝を切ってヨルダン川に投げ込み、奇跡的に斧の頭を浮かばせました。

その結果、その預言者は斧の頭を取り上げることができました。

私たちは、神様の私たちへの愛をどれほど理解できるでしょうか。神様が私たちの大きな問題だけでなく、小さなことにも心を配ってくださることを理解できるでしょうか。

神様の注意に値しないことだと思うがために、私たちはどれほど祈ることを控えているでしょうか。

しかし、神様にとって、私たちは常に注意を払うに値する存在です。もし私たちが気にしているのなら、神様もまたそれを気にしてくださいます。

だから、私たちが心配することがあれば、すぐに天のお父様の前にその問題を持っていきましょう。神様は決して「これは馬鹿な話だ」などと思われることはありません。

雀の一羽でも地に落ちるのをご存じである神様は、あなたの細かいことも気づいておられます。あなたの頭の毛さえも、みな数えられている神様です。

だからこそ、神様の愛の中で安らぎましょう。

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列王記第二

神様からの救い

この箇所を読むとき、私は神様からの救いについて考えます。

まず、救いを受けるためには、誰かがその救いの方法を述べ伝えなければならないということです。

この話では、少女が本当に素晴らしいと思います。彼女の名前は記されていません。

それでも、彼女は自分の国から捕えられて奴隷となったにもかかわらず、新しい主人に憐れみを示しました。

そして、彼女は女主人にこう言いました。

もし、ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっと、あの方がご主人さまのツァラアトを直してくださるでしょうに。(列王記第二5:3)

もし彼女が何も言わなかったら、その主人はきっと亡くなっていたことでしょう。

同じように、私たちの周りには多くの人々が罪の中で死にかけています。もし私たちが何も言わなければ、彼らはその罪の中で死んでしまいます。

だから、パウロはこう記しました。

しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。

聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。

宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。

遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。

次のように書かれているとおりです。

「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」(ローマ10:14-15)

この話から、神様からの救いについて、もう一つのことを学ぶことができます。それは、救いを得るためには、自分の方法ではなく、神様の方法に従わなければならないということです。

エリシャがナアマンにヨルダン川で身を洗いなさいと言ったとき、ナアマンは怒りました。彼はこう言いました。

 何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このツァラアトに冒された者を直してくれると思っていたのに。

ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。

これらの川で、洗って、私がきよくなれないのだろうか。(列王記第二5:11-12)

しかし、ナアマンは、自分の方法では癒されないことを認めなければなりませんでした。彼は謙遜になり、自分自身を助けることができないことを認めなければなりませんでした。

また、信仰を持ち、神様の言葉を信じて従わなければなりませんでした。

同じように、もし人々が神様からの救いを望むなら、謙遜な態度と信仰が必要です。

つまり、私たちは罪人であり、自分自身を変えることはできません。そして、罪の赦しのために、イエス様の十字架の働きを信じなければなりません。

最後に、救いは購入できる賜物ではないということです。

そのため、エリシャはナアマンの支払いを拒絶しました。神様はナアマンに、救いが無償の賜物であることを教えようとされました。

ところが、エリシャのしもべゲハジは嘘をつき、自分のためにナアマンから支払いを受け取りました。

そのため、神様は彼を罰されました。彼は、神様の無償の賜物を、対価を払わなければならないものにしてしまったからです。

救いは無償の賜物です。私たちはその賜物を得るために働くことも、支払うこともできません。ただ謙遜な心で受け取ることができるだけです。

エペソ2:8−9には、こう書いてあります。

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。

行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

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列王記第二

私たちを守ってくださる神、私たちのニーズを備えてくださる神

この二つの話を通して、私たちは神様の愛を見ることができます。

一つ目の話では、飢饉がありましたが、エリシャはしもべに言いました。

大きなかまを火にかけ、預言者のともがらのために、煮物を作りなさい。(列王記第二4:38)

ところが、その煮物を食べている間に、皆はそのしもべが偶然毒のある材料を使ったことに気付きました。

そのため、彼らはエリシャに向かって叫びました。

神の人よ。かまの中に毒が入っています。(40)

けれども、神様は彼らの命を守られました。すなわち、その毒のある食べ物を命を支えるものに変えられたのです。

二つ目の話はイエス様の奇跡に似ています。

誰かがエリシャにパンを持ってきましたが、周りの人々もおなかが空いていたため、エリシャはそのパンを分けたいと思いました。

けれども、100人のためにパンが20個しかありませんでした。それにもかかわらず、エリシャはしもべにこう言いました。

この人たちに与えて食べさせなさい。主はこう仰せられる。「彼らは食べて残すだろう。」(43)

そして、神様はすべての人々のためにパンを備えてくださいました。

3年前に、私は家計について少し心配していました。そのため、私の妻はアルバイトを探していました。

彼女はその仕事に関していろいろな条件を望んでいたので、良い仕事を見つけるのは少し大変でした。

しかし最終的に、神様はちょうど良い仕事を備えてくださいました。

そして、去年、神様は私にもっと良い仕事を備えてくださいました。私たちは本当に祝福されています。

だから、これから私たちは神様にさらに信頼することを学びたいと思っています。

あなたはどうでしょうか。あなたは神様に信頼しているでしょうか。

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列王記第二

命を与えてくださるる方、希望を回復してくださる方

エリシャの奇跡はエリヤの奇跡に似ています。

なぜでしょうか。それは、エリシャの奇跡が彼がエリヤの霊の二つ分け前を受け継いだことの証拠だったからです。

そして、エリヤがある女性の息子を復活させたように、エリシャは別の女性の息子を復活させました。

この女性とその夫には子供がいませんでしたが、苦々しい思いを持つことはありませんでした。むしろ、彼らは神様を深く愛していました。

それにもかかわらず、その女性の言葉を見ると、彼女の心には何か虚しい部分があったのではないかと思います。(列王記第二4:16)

それでも、彼女は神様を愛し、エリシャを助けたいと思いました。そこで、彼女はその夫に頼んだのです。

屋上に壁のある小さな部屋を作り、「エリシャ」のために寝台と机といすと燭台とを置きましょう。「エリシャ」が私たちのところにおいでになるたびに、そこをお使いになれますから。(列王記第二4:10)

そこで、エリシャは彼女のために何をすべきか考えました。そして、彼は彼女に尋ねました。

ほんとうに、あなたはこのように、私たちのことでいっしょうけんめいほねおってくれたが、あなたのために何をしたらよいか。(13)

おそらく、彼女は息子が欲しかっただけですが、それが無理だと思っていたため、何も頼みませんでした。

けれども、エリシャはしもべゲハジから彼らに息子がいないことを聞きました。そこで、エリシャはこう言いました。

来年の今ごろ、あなたは男の子を抱くようになろう。(16)

一年後、その女性に赤ちゃんが生まれました。

ところが、数年後、その子供が父親と一緒に畑にいたとき、急に「頭が、頭が」と叫びました。その後すぐに、その子供は母親の腕の中で亡くなってしまいました。

もちろん、彼女は深い悲しみに陥りました。

そのため、彼女はエリシャのもとに行き、涙を流しながら訴えました。エリシャは彼女と一緒に戻り、神様の恵みによって、その息子は復活しました。

この箇所では、私たちは二つのことを学ぶことができると思います。

一つ目は、神様が命を与えられる方であるということです。

この話の中で、神様は二度命を与えられました。まず、その女性に赤ちゃんが授けられました。そして、その息子が亡くなったとき、再び命の息を吹き込まれました。

同じように、神様は私たちにも命の息を吹き込まれます。

私たちが生まれるとき、神様は命の息を吹き込んでくださいます。そして、私たちがクリスチャンになるときには、霊的な命の息を吹き込んでくださいます。

出産も霊的な新生も、神様からの贈り物です。その命を得るために、私たち自身で働くことはできません。

パウロもこのことを書きました。

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。

それは、自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。

行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ2:8-9)

二つ目は、神様が希望を回復される方であるということです。

その息子の誕生によって、その家系が続く希望を回復されました。(長い間子供ができず、その希望が失われていたのでしょう)。

そして、その息子が亡くなったとき、神様は彼を復活させ、もう一度希望を回復されました。

神様は私たちにも同じことをしてくださいます。私たちの希望が失われたとき、神様はその希望を回復してくださるのです。

私の教会では、この歌を歌うのが大好きです。ローマ15:13とローマ8:26に基づいた歌です。

どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和で満たし、聖霊の力によって望みにあふれるようにしてくださいますように。

主よ、あなたはすべてのことを働かせて益としてくださいます。 希望の神、あなたこそ私の希望です。

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列王記第二

払うことができない負債

負債が嫌いです。クレジットカードはあまり使いませんが、使った場合は、必ず一括で全額を支払います。

家のローン以外には他の負債がありません。もうお金を借りるつもりはありません。

なぜローンが嫌われるのでしょうか。もちろん返済しなければならないからです。そして、もし返済できなければ、非常に厳しい状況に追い込まれてしまいます。

この箇所では、ある女性がその問題に直面していました。その夫は亡くなりましたが、まだ負債が残っていました。さらに、その女性はその負債を返済することができませんでした。

多分、それは夫の医療費だったのかもしれません。いずれにせよ、その女性は本当に困っていました。

その時代では、もし負債を返済できなければ、牢に入るか、負債を返済するまで奴隷として働かなければなりませんでした。

この場合、貸主はその女性の二人の子供を奴隷にしようとしていました。しかし、そうなると、その女性が年を取ったとき、彼女の息子たちは彼女の必要に応えることができなくなります。

そのため、彼女はエリシャに助けを求めました。

そして、エリヤがツァレファテのやもめの持っていた粉と油を増やしたように(列王記第一17章)、エリシャはその女性の持っていた油を増やしました。

彼女は少しの油しか持っていませんでしたが、エリシャはこう言いました。

外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません。

家に入ったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。

そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。(列王記第二4:3-4)

彼女はエリシャの言葉に従い、その油が奇跡的に増えました。すべての器がいっぱいになりました。そのため、彼女は負債を返済することができ、さらにその残りで生活をすることができました。

その女性のように、私たちも返済できない負債を抱えていました。それは、罪の負債です。

ローマ書3:23には、このように書かれています。

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができ「ない」

だから、私たちの罪のためには代価を支払わなければなりません。

けれども、どうやってその代価を支払うことができるのでしょうか。実際のところ、私たちにはその力がありません。

そのため、私たちは神様から永遠に離れることに値するのです。

しかし、神様は私たちを愛しておられ、御子イエス様を送りました。そして、イエス様は私たちの罪のために十字架で死なれました。その十字架で、イエス様は私たちの罪の負債をすべて支払われたのです。

イエス様は死ぬ前に、「完了した」と言われました。

この「完了した」という言葉は、ローマ時代に税金の支払いでよく使われました。誰かが税金を支払うと、その書類に「完了した」とスタンプが押されました。これは、「すべて支払いました」という意味を持っていました。

したがって、イエス様の意味するところは、「私の死によって、あなたの罪の負債をすべて支払った」ということです。

そして、神様があの女性の器に油を注がれたように、神様は私たちの心に聖霊を注いでくださいます。(油は聖霊の象徴です。)

パウロによれば、「聖霊は、私たちが御国を受け継ぐことの保証です。」(エペソ1:14)

それだけではなく、神様はあなたの人生を生きがいのあるものにし、あなたの必要をすべて備えてくださいます。

だから、パウロの言葉を心に留めておきましょう。

私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。(ローマ8:32)

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神様の御心に従うか自分の心に従うか

イスラエルの王ヨラムは、モアブの反逆に直面しました。モアブは、ヨラムの父アハブに貢物を送り続ける義務がありました。

けれども、アハブが死ぬと、モアブの王はその貢物を送るのをやめました。そのため、ヨラムはエドムの王とユダの王と同盟を結び、モアブを攻めるために行動しました。

再び、ユダの王ヨシャパテは悪い決断を下しました。それは、良くない同盟を結んだことです。

なぜそのような決断をしたのでしょうか。

おそらく、ヨシャパテの息子がアハブの娘と結婚していたためでしょう。

また、ユダとモアブの関係が悪かったことも理由として挙げられます。いずれにせよ、その決断はまた新たなトラブルを生み出しました。

3人の王とその軍隊が一緒に砂漠を越えたとき、水が尽きてしまいました。そのとき、現代でも多くの人がするように、ヨラムは神様を責めました。彼はこう言いました。

ああ、主が、この三人を召されたのは、モアブの手に渡すためだったのだ。(列王記第二3:10)

ヨシャパテがエリシャの助言を求めましたが、エリシャが来ると、彼はヨラムにこう言いました。

私とあなたとの間に何のかかわりがありましょうか。

あなたの父上の預言者たちと、あなたの母上の預言者たちのところにおいでください。(13a)

けれども、ヨラムは再び自分の問題の責任を神様に押し付けました。

いや、主がこの三人の王を召されたのは、モアブの手に渡すためだから。(13b)

それでも神様は恵み深く、水を備え、彼らに勝利を与えられました。

私たちが自分自身に問いかけるべきなのは、「私は本当に神様の御心に従っているのだろうか。それとも、神様の名前を使って自分自身の心に従っているのだろうか」ということです。

その違いは何でしょうか。

私たちが自分の計画を立てて、「神様、この計画を祝福してください」と祈ることは、神様の御心に従うことではありません。

それは自分自身の心に従っているにすぎません。ただ、神様の御名を自分の計画に付け加えているだけなのです。

多くの場合、その結果として、私たちは困難に陥ります。そして、「なぜ?」と問いながら、神様を責め始めます。

しかし、それは良い生き方でも良い考え方でもありません。

むしろ、私たちが祈るべきことは、「神様、あなたの御心は何でしょうか。そして、あなたの御心が私の人生に成し遂げられますように」ということです。

もし私たちが最初から神様を求めるなら、神様は私たちを導いてくださいます。そして、私たちが神様に従うなら、私たちの「することで繁栄し、また栄えることができる。」(ヨシュア記1:8)

あなたはどうでしょうか。

あなたは神様の御心に従っているでしょうか。

それとも、神様の御名を口にしながら、自分自身の心に従っているのでしょうか。

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列王記第二

神様の言葉に背くと

この箇所を通して、私たちは神様の言葉に背くことの結果を思い出させられます。

ここに書かれているのは、神様の言葉を知らないことの結果ではなく、神様の言葉に背くことについてです。

この箇所で、エリシャはベテルという町に行きました。そのとき、ある男性たちがエリシャのもとに近づいてきました。

少し説明する必要があります。

新改訳聖書には「小さい子供たち」と書かれていますが、そのヘブル語の表現は別の方法でも翻訳できます。つまり、「若い男性たち」と訳すこともできるのです。

列王記第一14-17節において、この同じヘブル語の表現は「若い者」と訳されています。その箇所では、若い者たちが戦争で戦ったと記されています。

したがって、この「小さい子供たち」は、10代あるいは20代の若者たちであった可能性があります。

また、彼らは町から出てきて、エリシャのもとへ向かいました。それは偶然ではありませんでした。彼らは意図的にエリシャのもとへ行ったのです。

そして、彼らはこう言いました。

上って来い、はげ頭。上って来い、はげ頭。(列王記第二2:23)

それはどういう意味なのでしょうか。

おそらく、彼らはエリヤが天国に行ったことについて聞いていたのかもしれません。そして、彼らが言ったのは、「もう出て行け!あなたの主人のもとに行きなさい。」という意味だったのでしょう。

ある聖書の学者によれば、彼らはその言葉でエリシャを脅した可能性があります。

それが事実かどうかは分かりませんが、彼らが神様の言葉に背き、神様の預言者を尊敬しなかったことは確かです。

そのため、エリシャは彼らを呪いました。そして神様は熊を送り、その40人の若い者たちを殺しました。

彼らを殺す必要が本当にあったのでしょうか。神様はそう判断されたのです。

思い出してください。エリシャではなく、神様がその熊を送られたのです。

そして、その40人の若者たちがエリシャを脅したとき、エリシャを守るために神様は彼らを滅ぼさざるを得ませんでした。

とはいえ、たとえ彼らがエリシャを脅さなかったとしても、神様はその若者たちとその町の人々に重要なことを教えられました。

それは、もしあなたが神様の言葉に背くなら、また神様に反抗するなら、最終的に裁きが来るということです。

それはすぐに来るかもしれませんし、遅れて来るかもしれません。しかし、確実に裁きが来るのです。

では、私たちはどうでしょうか。私たちは神様の言葉にどのように反応するのでしょうか。

時々、私たちは神様の言葉を聞いて気分が悪くなることがあります。それは、神様が私たちの罪を明らかにされるからです。

また、時には、その言葉を聞きたくないために怒ることもあります。

けれども、私たちはどのように感じても、正しく応答すべきです。

その言葉を無視することはできません。

そして、もしその言葉に背くなら、私たちは裁きを受けることになるのです。

神様は忍耐強いお方です。しかし、神様の忍耐は永遠には続きません。

歴代誌第二36章では、ユダへの裁きについて記されています。それは、ユダがイスラエルのように罪と堕落に陥ったためです。このように記されています。

 彼らの父祖の神、主は、彼らのもとに、使者たちを遣わし、早くからしきりに使いを遣わされた。

それは、ご自分の民と、ご自分の御住まいをあわれまれたからである。

ところが、彼らは神の使者たちを笑いものにし、そのみことばを侮り、その預言者たちをばかにしたので、ついに、主の激しい憤りが、その民に対して積み重ねられ、もはや、いやされることがないまでになった。(歴代誌第二36:15-16)

あなたはどうでしょうか。神様の言葉を聞いたとき、どのように反応するのでしょうか。

特に、神様があなたの罪を示されたとき、あなたは怒るでしょうか。

それとも、その言葉を無視するでしょうか。

それとも、その言葉に背くでしょうか。

そのようにすると、イスラエル人のように、あなたの心は固くなってしまいます。

そして、長く続けば、最終的に癒されることがない状態に至ります。裁きが来るのです。

しかし、もしあなたが自分の心を柔らかくして、罪を告白し、神様の言葉を受け入れるなら、あなたの人生は変えられます。そして、赦しと癒しが与えられるのです。

あなたはどの道を選ぶのでしょうか。