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伝道者の書

「食うか食われるかの世の中だ」の態度を持つ空しさ

「食うか食われるかの世の中だ。だから、他の人々を踏み台にしても、自分が成功するために何をしても良い。」

多くの人々は、そのような態度を取っています。彼らは人生を競争と捉えています。相手の持ち物を見て、その物を欲しくなり、相手の成功を見て羨ましさを覚えます。

彼らは常に相手と比べ、競争しています。

実際、そのような態度によって、多くの人々が素晴らしい成果を上げました。

しかし、ソロモンはその態度について何と言ったのでしょうか。

私はまた、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねたみにすぎない。これもまた、むなしく、風を追うようなものだ。(伝道者の書4:4)

どうして、その態度が空しいのでしょうか。

それは、その態度によって、神様が私たちのために望んでおられる喜びと満足を見つけることができないからです。

その喜びの一つは、他の人々と共に働くことにあります。けれども、もし常に他者と比べたり、競争したりするならば、その喜びを理解することはできません。

他人の成功を喜ぶどころか、妬みを抱きます。相手の成功を応援する代わりに、押し下げることを選びます。そのような態度は、人間関係を壊し、職場の環境を本当に悪くしてしまいます。

さらに、私たちの仕事は自己中心的になります。神様が何を望まれるかを考えず、ただ自分たちがしたいことに焦点を当てます。その結果、私たちは神様の良い計画と目的から遠ざかってしまいます。

神様はご自身の目的のために私たちを造られました。その目的を理解し、その目的のために生きるならば、本当の喜びを見つけることができます。つまり、神様の国を広げるために働くときに、喜びを得ることができるのです。

では、神様の国の働きとは何でしょうか。それは、人々を愛し、彼らに触れることです。

しかし、他人と競争したり、妬んだりするならば、それは不可能です。そのような態度を持っているならば、神様の愛で彼らに触れることもなく、興味を持つこともありません。むしろ、彼らを押し下げます。私たちは、自分自身の目的を達成するために、他人を踏みつけるのです。

その態度によって、この世で成功することはあるかもしれません。けれども、神様からの喜びを知ることは決してできません。そして最終的には、私たちが達成したことは空しくなるのです。

つまり、ある日神様はこう尋ねられるでしょう。「あなたは与えられた人生で何をしましたか。あなたの周りに多くの人々を置きましたが、彼らのために何をしましたか。」

もし私たちが良い答えを持っていなければ、私たちは裁かれることになります。

では、あなたの答えは何でしょうか。

仕事場でのあなたの態度はどうですか。神様の国をまず第一に求めていますか。周囲の人々を大切にしていますか。それとも、自分のキャリアや立場を第一に考えていますか。

「食うか食われるかの世の中だ」という態度を取るならば、最終的に、あなたの人生は空しくなります。

だからこそ、神様の国をまず第一に求めましょう。そうすれば、あなたの仕事は楽しくなり、充実感を得ることができるでしょう。

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伝道者の書

楽しくない仕事の空しさ

4章全体を見ると、ソロモンがしいたげについて語ったとき、多分奴隷について触れていたのではないかと思われます。彼は、仕事を楽しむためではなく、ただ他の人々の利益のために働かざるを得なかった人々について話していたのかもしれません。

ソロモンが言ったのは、そのような惨めな状態にあるよりも、死のほうがましだということです。

あなたは奴隷ではないかもしれませんが、時々、奴隷のように感じることはありませんか。あなたの仕事が、まるであなたの命を吸い取っているように感じることはありませんか。

信じがたいかもしれませんが、神様の意図は、仕事が楽しく、充実感を与えるものであることです。仕事は罪の結果としてこの世界に現れたのではありません。それどころか、その前に神様はアダムに仕事を与えられました。それは、エデンの園を世話するということでした。

けれども、罪の結果として、仕事は困難なものとなりました。(創世記3:17-19)

とはいえ、ソロモンが言ったように、

すべての労苦の中にしあわせを見いだすこともまた神の賜物である。(伝道者の書3:13)

しかし、神様から離れると、仕事は重苦しくなります。たとえ神様と共に歩んでいても、時には大変な上司や職場、仕事に直面することがあります。そのようなとき、私たちの人生は惨めに感じることがあるでしょう。

もしそうなら、神様があなたのためにもっと良い仕事を準備しておられると思います。それを信じられないかもしれません。自分の状況から抜け出せないと思うかもしれません。

けれども、そのような嘘を信じないでください。祈り、神様の御顔を求めてください。神様にはあなたの状況を変える力があります。そして、その日が来るまで、神様は今のあなたの状況の中であなたを慰め、助けてくださいます。

イエス様はこう言われました。

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。

だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。

また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。

してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。

とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。(マタイ7:7-11)

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自己中心的な仕事の空しさ

私たち皆は、人生の意味を探しています。多くの人々、特に男性たちは、仕事を通して人生の意味を見つけようとします。

それは、彼らの自己価値感が仕事から来ているからです。その仕事を通して、周りの人々に良い影響を与えたいと考えています。また、自分の手柄によって思い出されたいと願っています。そのため、彼らは一生懸命働きます。

ソロモンも同じことをしました。けれども、彼の結論は何だったのでしょうか。

私は生きていることを憎んだ。日の下で行われるわざは、私にとってはわざわいだ。すべてはむなしく、風を追うようなものだから。

私は、日の下で骨折ったいっさいの労苦を憎んだ。後継者のために残さなければならないからである。

後継者が知恵ある者か愚か者か、だれにわかろう。しかも、私が日の下で骨折り、知恵を使ってしたすべての労苦を、その者が支配するようになるのだ。これもまた、むなしい。

私は日の下で骨折ったいっさいの労苦を思い返して絶望した。

どんなに人が知恵と知識と才能をもって労苦しても、何の労苦もしなかった者に、自分の分け前を譲らなければならない。これもまた、むなしく、非常に悪いことだ。

実に、日の下で骨折ったいっさいの労苦と思い煩いは、人に何になろう。

その一生は悲しみであり、その仕事には悩みがあり、その心は夜も休まらない。これもまた、むなしい。(伝道者の書2:17-23)

ソロモンは、仕事によって絶望しました。なぜでしょうか。それは、彼の目的が有名になることだったからです。ソロモンは、自分が亡くなった後も、彼の努力が人々に影響を与えることを望んでいました。

しかし、彼は死後には自分が築いたものをもはやコントロールできないことに気付きました。 一生懸命働いたにもかかわらず、後継者がそのすべてを壊してしまう可能性があると理解したのです。 そして実際に、それは現実となりました。

ソロモンの息子レハブアムの愚かさと頑固な態度によって、イスラエルは二つの国に分裂しました。それに加えて、レハブアムが治めた部分は非常に小さなものでした。

そのため、ソロモンはイスラエルを強い国にしようと懸命に働いたにもかかわらず、彼の死後、その努力は空しくなってしまったのです。

ソロモンは死ぬ前にその可能性を見て取ることができました。だからこそ、彼は「どうしようもない」態度を取って、こう言ったのです。

私は見た。人は、自分の仕事を楽しむよりほかに、何も良いことがないことを。それが人の受ける分であるからだ。だれが、これから後に起こることを人に見せてくれるだろう。(3:22)

つまり、私たち皆は、いつか死にます。死んだ後、私たちが築いたものをもはやコントロールすることはできません。そのため、そのことについて心配する必要はありません。だからこそ、できるだけ自分の仕事を楽しむべきです。

けれども、仕事に関しては、別の考え方もあります。つまり、私たちの仕事には、神様が作っているタペストリーの中での役割があるのです。そして、神様に従うなら、神様は私たちの努力を用いて、この世に影響を与えることができます。

3章には、そのようなテーマを見ることができます。つまり、私たちの人生にはタペストリーがあります。

ソロモンはこう書きました。

天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。

生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。

殺すのに時があり、いやすのに時がある。(3:1-3)

私たちはある事を悪いと思い、ある事を良いと思い、またある事をただ命のサイクルとして受け止めます。

しかし、ソロモンが理解したのは、それらすべてが神様が作っているタペストリーの中で役割を果たしているということです。悪いことであっても、神様はそれを用いて最終的に美しい絵を完成させるのです。

例えば、サタンがずっとイスラエルを破壊しようとしていたと考えられます。その最も酷い例の一つが、ユダヤ人のホロコーストでした。それは本当に悪でした。

けれども、結果としてどうなったでしょうか。イスラエルという国は回復しました。神様は、サタンの悪い行動さえもご自身の計画を成就するために用いられました。神様は、悪いことを良いことへと変えられたのです。

だからこそ、ソロモンはこう言えました。

神のなさることは、すべて時にかなって美しい。(3:11)

私たちが生きている間に、すべてがどうなるか分からなくても、神様がご自身の計画通りに全てを整えられることを確信できます。

また、この世の不正義を目の当たりにしても、結局は神様の裁きによって必ず正義が行われるという確信を持つことができます。(3:16-17)

さて、仕事の話に戻りましょう。ソロモンは、こう書きました。

働く者は労苦して何の益を得よう。

私は神が人の子らに与えて労苦させる仕事を見た。(3:9-10)

もし、私たちの人生と仕事が自己中心であり、私たちが心配するのが自分が何を成し遂げたかということだけなら、ソロモンのように私たちも絶望してしまうでしょう。それは、他の人々が私たちの努力を忘れたり、それを無駄にしてしまうかもしれないからです。

しかし、もし私たちの人生と仕事の焦点が神様に向けられているなら、そして、自分がしたいことではなく、神様が望まれることに焦点を当てているなら、私たちは未来に希望を持つことができます。なぜなら、神様が私たちの努力を神様のご計画のために用いてくださることを知ることができるからです。

ソロモンが書いたように、

私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かを加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。(3:14)

つまり、神様にはご計画があります。そして何者も、そのご計画を妨げることはできません。神様は、すべてをご自身のタペストリーに織り込んでおられます。

私たちは、自分自身に一つの問いを立てるべきです。あなたは神様と協力し、神様に用いられていますか。それとも、神様を無視し、さらには神様と戦いながらも、結果的に神様の目的のために用いられているのでしょうか。

神様と協力するなら、喜びの道を見出すことができます。けれども、そうしなければ、フラストレーションと絶望に直面することになります。

ソロモンが書いたように、

実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができようか。

なぜなら、神は、みこころにかなう人には、知恵と知識と喜びを与え、罪人には、神のみこころにかなう者に渡すために、集め、たくわえる仕事を与えられる。

これもまた、むなしく、風を追うようなものだ。(2:25-26)

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私たちが死んだ後で、何もないなら。。。

伝道者の書を読むと、ソロモンの立場がすぐに分かります。ソロモンが本当にその立場を取ったのか、それとも神様から離れた人の視点を代弁しているのか、私は分かりません。

ただ、彼が言っているのは、この人生しか何もないということです。死んだらそれで終わりだという考えです。彼は、2章、3章、8章、9章で何度もそのようなことを言っています。

時々、彼がそのように言うとき、絶望しているように見えます。

私は心の中で言った。「私も愚かな者と同じ結末に行き着くのなら、それでは私の知恵は私に何の益になろうか。」私は心の中で語った。「これもまたむなしい」と。

事実、知恵ある者も愚かな者も、いつまでも記憶されることはない。日がたつと、いっさいは忘れられてしまう。知恵ある者も愚かな者とともに死んでいなくなる。(伝道者の書2:15-16)

また、

私は心の中で人の子らについて言った。「神は彼らを試み、彼らが獣にすぎないことを、彼らが気づくようにされたのだ。」

人の子の結末と獣の結末とは同じ結末だ。これも死ねば、あれも死ぬ。両方とも同じ息を持っている。人は何も獣にまさっていない。すべてはむなしいからだ。

みな同じ所に行く。すべてのものはちりから出て、すべてのものはちりに帰る。

だれが知っているだろうか。人の子らの霊は上に上り、獣の霊は地の下に降りて行くのを。(3:18-21)

もう一度、

何が起こるかを知っている者はいない。いつ起こるかをだれも告げることはできない。

風を支配し、風を止めることのできる人はいない。死の日も支配することはできない。この戦いから放免される者はいない。悪は悪の所有者を救いえない。。。

悪者に対する報いを正しい人がその身に受け、正しい人の行いに対する報いを悪者がその身に受けることがある。これもまた、むなしい、と私は言いたい。(8:7-8,14)

最後に、

すべての事はすべての人に同じように起こる。同じ結末が、正しい人にも、悪者にも、善人にも、きよい人にも、汚れた人にも、いけにえをささげる人にも、いけにえをささげない人にも来る。

善人にも、罪人にも同様である。誓う者にも、誓うのを恐れる者にも同様である。

同じ結末がすべての人に来るということ、これは日の下で行われるすべての事のうちで最も悪い。

だから、人の子らの心は悪に満ち、生きている間、その心には狂気が満ち、それから後、死人のところに行く。(9:2-3)

この考え方によって、ソロモンは「どうしようもない」態度を取ってしまいました。だから、彼の結論は、「できるだけ、この人生を楽しんでください。」(3:12-13、22;8:15;9:7-10)でした。

もちろん、この人生を楽しむべきです。神様からの快楽を楽しむべきです。嬉しくなるべきです。良いことをするべきです。結婚を楽しむべきです。食べたり、飲んだり、仕事を楽しんだりするべきです。

しかし、この地上の人生がすべてではありません。死は終わりではありません。

だから、この世に悪を見るときも、正義が必ず来ると確信できます。この世に痛みや苦しみを見るときも、癒しが必ず来ると確信できます。

また、私たちの決断によって永遠の報いが来ると確信できます。つまり、この世での私たちの行動に対して、神様は永遠の報いを与えてくださるのです。

パウロが書いたように、

神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。

忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、

党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。(ローマ2:6-8)

ソロモンは、こう言いました。

神はまた、人の心に永遠を与えられた。(伝道者の書3:11)

つまり、人々は死に直面すると、「これが終わりだと信じられない。これが終わりだと信じたくない」と叫びます。

ある人々はそう言いながらも、結局絶望してしまいます。

他の人々は、ソロモンのように「どうしようもない」態度をとり、できるだけ今の人生を楽しもうと思います。

しかし、どうして神様は、人の心に永遠を与えられたのでしょうか。それは、神様が人々に神様を飢え求めることを望んでおられるからです。もし私たちがそうするなら、自分の壊れた人生は癒され、苦しみの中で平和を受け、この世においても永遠においても素晴らしい人生を生きることができるのです。

だから、絶望を感じる必要はありません。「どうしようもない」態度をとる必要もありません。この地上の人生よりも素晴らしいことがあるので、喜ぶことができるのです。

あなたはどうですか。

この人生しか何もないと思って、絶望していませんか。すべてが空しいと思い、「どうしようもない」態度をとっていませんか。

神様を求めましょう。そうすれば、希望を見つけ、あなたの人生の意味を見つけることができます。

イエス様の約束をいつも思い出ましょう。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)

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快楽主義の空しさ

「気持ち良かったら、するべきです。」

1960年代のアメリカでは、多くの人々がそう言いました。その時代、麻薬や性的な自由が流行しました。

その結果はどうだったでしょうか。壊れた結婚、壊れた家族、壊れた人生が残されました。離婚率が上昇し、エイズや他の性病が蔓延し、道徳観念が低下しました。

けれども、快楽を追い求めることは新しいことではありません。ソロモンの時代にも、人々は快楽を求めていました。だからこそ、ソロモン自身も快楽を追い求めようとしました。そして、ソロモンはこう言いました。

さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。(伝道者の書2:1)

だから、ソロモンは自分のために様々なものを集めました。土地を買い、奴隷を買い、羊や山羊を手に入れ、金や銀を蓄えました。

それだけでなく、彼は自分のハーレムも持っていました。以前言った通り、ソロモンには300人の妻と700人のそばめがいました。

その時代、麻薬は存在しませんでしたが、ソロモンは大量のワインを飲みました。

では、その結果はどうだったでしょうか。ソロモンの結論は何だったのでしょうか。

しかし、これもまた、なんとむなしいことか。

笑いか。ばからしいことだ。快楽か。それがいったい何になろう。。。

私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。(伝道者の書2:1,2,11)

私は、快楽が悪いことだと言っているのでしょうか。違います。快楽は良いことです。神様は私たちがこの人生を楽しむことを望んでおられます。

しかし、自分自身を喜ばせることを私たちの目的にしてしまうと、結局のところ、すべてが空しくなります。どうしてでしょうか。それは、私たちが持っているものは決して十分ではないからです。

パウロはこう書きました。

道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行いをむさぼるようになっています。(エペソ4:19)

情欲の問題は、私たちが決して満足することがないという点にあります。私たちは常に、もっと多くを求め、さらに手に入れたいと願ってしまいます。そして、その情欲に屈してしまうと、それを満たすために本当に酷い行動をとってしまうことがあります。

ポルノや麻薬の問題を見れば、そのことがすぐに理解できるでしょう。

ただ一つだけ、私たちを本当に満たすものがあります。それは神様を求めることです。神様を求めるとき、私たちは一時的な喜びを見つけるのではありません。むしろ、永遠の喜びを見つけるのです。

多くの人々は、神様が退屈な存在であり、私たちの喜びを奪うものだと考えています。

けれども、イエス様の人生を見ると、イエス様がまったく退屈な存在ではなかったことが分かります。むしろ、彼に敵対する人々はこう言いました。

あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、「悪い」人の仲間だ。(マタイ11:19)

確かに、それは少し誇張されているように思えるかもしれませんが、イエス様はこの人生を楽しんでおられました。

イエス様は、私たちが良い人生を送り、豊かな人生を持つことを望んでおられます。

一方で、サタンは私たちの喜びを盗もうとします。そのため、一時的に私たちを喜ばせるものを提示しますが、最終的には私たちの人生を空虚なものとし、失望に導きます。

ソロモンも、それを身をもって学びました。

そして、イエス様はこう言われました。

盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。(ヨハネ10:10)

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哲学の限界

すべての人々が問いかける質問があります。それは、人間の知恵では答えられないにもかかわらず、誰もが抱く疑問です。賢い人々も、知識のある人々も、その答えを探し求めてきました。

その質問とは何でしょうか。

「どうして?」

「どうして私は存在しているのでしょうか?どうして人間は苦しむのでしょうか?どうして人間は亡くなるのでしょうか?どうしてこの世に悪があるのでしょうか?」

何世紀にもわたって、人々はそのような問いを抱えてきました。何世紀にもわたって、人間の知恵を用いて、その問いに答えようとしてきました。

けれども、ここに一つの問題があります。それは、私たちの知識と知恵には限界があるということです。そのため、このような問いに対して、私たちは決して完全な答えを出すことができません。

結局、ソロモンはその真理に気付くようになりました。そして彼はこう言いました。

私は、天の下で行われるいっさいの事について、知恵を用いて、一心に尋ね、探り出そうとした。これは、人の子らが労苦するようにと神が与えたつらい仕事だ。

私は、日の下で行われたすべてのわざを見たが、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。

曲がっているものを、まっすぐにはできない。なくなっているものを、数えることはできない。(伝道者の書1:13-15)

つまり、ソロモンは、この世について問い、探求を重ねる中で、苦しみや壊れた者たちを目の当たりにしました。そして、彼が理解したのは、「どうして」という問いの答えを見つけることができなかったということです。

彼の知恵は、この世の歪んだものや壊れたものを修復することができませんでした。彼の知恵は、人生の空しさを埋めることもできませんでした。

そのため、ソロモンはこの結論に至ったのです。

実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す。(18)

神様が存在されなければ、結局、哲学者たちが正直であれば、同じ結論に達するでしょう。

「どうして」という質問に答えられないために、「人生には意味がないし、悪は当たり前です。文句を言っても何も変わりません。だから、頑張ってください。できるだけ、人生を楽しんでください。なぜなら、明日何が起こるか分からないからです。」

しかし、そのような言葉には希望がなく、人々を癒すこともできません。その言葉を信じる人々は、最終的に悲しみに沈み、失望してしまいます。

「どうして」の答えを知っている方はただ一人。それは神様です。神様は、一人一人の人生の糸を見ているだけではなく、タペストリー全体を見ておられます。だからこそ、神様は私たちの人生の意味や苦しみの理由をよくご存じです。

そのため、神様にこそ、私たちは苦しみの中で希望を見出すことができるのです。神様にこそ、未来の希望を見出すことができるのです。

希望を見つけたいと思いますか。それは人間の知恵や哲学の中には見つけられません。なぜなら、人間は「どうして」に答えられないからです。

「どうして」の答えを知っているのは神様だけです。そして、神様においてのみ、私たちは希望を見つけることができるのです。

けれども、結局のところ、一番大切な質問は「どうして」ではありません。

一番大切な質問は、「私は神様を信頼するだろうか?私の大変な状況の中でも神様を信頼するだろうか?この世の悲劇や悪を目の当たりにしても神様を信頼するだろうか?」という問いです。

「イエス」と答えるならば、あなたと、この世の人々が探し求めている希望を見つけることができるのです。

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新しいことがないでしょうか

私の娘が二歳の頃、彼女にとっては、すべてが新鮮でした。私にとっては当たり前の物が、彼女には驚きと感動を与えていたのです。

どうして私たちは、そのような子供のような驚きと感性を失ってしまうのでしょうか。ソロモンも同じように、その感性を失いました。そして、彼はこう書きました。

一つの時代は去り、次の時代が来る。しかし地はいつまでも変わらない。

日は上り、日は沈み、またもとの上る所に帰って行く。

風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡って風は吹く。しかし、その巡る道に風は帰る。

川はみな海に流れ込むが、海は満ちることがない。川は流れ込む所に、また流れる。

すべての事はものうい。人は語ることさえできない。目は見て飽きることもなく、耳は聞いて満ち足りることもない。

昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下に新しいものは一つもない。

「これを見よ。これは新しい」と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか先の時代に、すでにあったものだ。

先にあったことは記憶に残っていない。これから後に起こることも、それから後の時代の人々には記憶されないであろう。(伝道者の書1:4-11)

私たちの希望と夢がだんだん消えていくと、私たちの考え方は簡単に悲観的になってしまいます。私たちが求めていたものは、結局、寂しさと空しさに導くのです。

希望を持って誰かと結婚しても、年が経つにつれて、愛はだんだん薄れていきます。

新しい物を買っても、すぐに興奮は消えてしまいます。

私たちは一生懸命働き、退職の日を楽しみに待ちますが、その日が来るとすぐに退屈を感じてしまいます。

喜びを与えてくれると思ったものが、私たちをほんの少しの間だけ満足させたとしても、結局は空しさを感じさせるのです。

なぜでしょうか。

それは、神様のいない人生だからです。

神様は愛と喜び、そして平和の源です。

他のどんなものも、私たちをほんの少しだけしか満足させることができません。最終的には、それらが空しいものであることに気づくのです。

しかし、もし私たちが神様に焦点を当て、神様のみ心に従うなら、私たちの人生は毎日新鮮で、常に新しいものとなります。

神様のみ心に従い、私たちの妻や夫を敬い、愛するなら、年月が経っても結婚は枯れることなく、さらに美しく咲き誇るでしょう。

また、神様が私たちのために準備してくださった仕事をするなら、ただお金を稼ぐだけでなく、充実感を持つことができます。

そして、神様の御心に従い、自由な時間を賢く使うなら、例えば人々を祝福し、また人々から祝福されることで、私たちの人生は毎日新鮮で、充実したものとなるのです。

あなたはどうでしょうか。あなたの人生にうんざりしていませんか。存在しているけれど、本当には生きていないと感じていませんか。

ここに一つの解決があります。それは、自己中心な態度を捨てることです。自己中心の人生はすぐに枯れます。けれども、神様を中心とした人生は新鮮で、深い喜びに満ちます。

だからこそ、神様を求めてください。神様の御心を求めてください。そうすれば、毎日が新鮮な冒険となり、神様の愛と喜び、そして平和があなたの心を満たしてくれるでしょう。

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人生の意味を探す

ソロモンの人生について、もう読んでしまったから、列王記と歴代誌からちょっと休憩して、ソロモンの「伝道者の書」を読もうと思いました。

伝道の書に、年寄りの人としてソロモンの人生についての反省を見る。

実は、これは、かなり難しい書です。難しいのは、もし、この書がちゃんと理解したいなら、一度に全部読まなくてはならない。そうしないと、この書が理解できないと思います。

だから、この書の教えを一言にまとめたら、私はこう言います。

神様があなたの人生にいないと、あなたの人生は意味がないです。

この書の中で、ソロモンが神様から離れて、人生の意味を探している様子を見ることができます。彼は哲学、快楽主義、仕事などを通して人生の意味を探し求めていました。

けれども、最終的にソロモンは叫びました。

空の空。。。空の空。すべては空。(伝道者の書1:2)

伝道者の書の中では、人生の喜びを少し垣間見ることができます。しかし、最終的にその喜びは神様から来ることが分かります。

もし私たちが神様から離れて人生の意味を探すなら、結局ソロモンと同じ結論に達してしまいます。つまり、「私の人生には意味がない」ということです。

なぜでしょうか。それは、神様が命そのものであり、命の源だからです。私たちが神様から離れれば、命の源からも離れてしまうのです。

あなたは、人生の意味をどこで探しているでしょうか。

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列王記第一 歴代誌第二

神様は私たちを懲らしめられる時

神様は私を罰しておられるでしょうか。

時々、辛い時に、人々はその質問を訊きます。

実は、多くの場合、私たちが自分のせいで辛い時を経験しているのだと思います。つまり、私たちの悪い行動によって大変なことが起こります。それは当然のことと言えるでしょう。

パウロが言ったように、

人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。(ガラテヤ6:7)

時々、私たちが神様に背を向ける時、神様は私たちが困難を経験することをお許しになります。

しかし、その時、神様の目的は、そのつらい経験を通して、私たちの人生に最終的に良いことをもたらすことです。つまり、私たちが罪に背を向け、再び神様に向かうことです。

神様はソロモンを懲らしめるために、国内の敵(ヤロブアム)と外国の敵(ハダデとレゾン)を起こされました。けれども、神様がソロモンの懲らしめについて何を言われたのかをご覧ください。

何年か前、神様はソロモンの父ダビデに言われました。

わたしは「ソロモン」にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。

もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。

しかし、わたしは、あなたの前からサウルを取り除いて、わたしの恵みをサウルから取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。

あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。(第二サムエル記7:14-16)

神様が言われたのは、もしソロモンが悪いことをしたとしても、神様は彼を懲らしめられますが、それでもソロモンを愛することをおやめにならないということです。

そのため、列王記第一11:39で、神様はこう言われました。

このために、わたしはダビデの子孫を苦しめる。しかし、それを永久に続けはしない。

二つのことに気づくべきです。

一つ目は、私たちが罪を犯した時、神様は私たちを懲らしめられるということです。

しかし、もし私たちが悔い改めるなら、神様は決して私たちを責め続けることはなさいません。むしろ、私たちを赦してくださいます。

ダビデはこう書きました。

主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。(詩篇103:9)

二つ目は、私たちが罪を犯したとしても、神様は私たちを愛することをおやめにならないということです。

あなたは悪いことをして、「神様は私を罰している」と思うかもしれません。

確かに神様は、あなたを懲らしめておられるかもしれません。

けれども、心に留めてください。神様は私たちの益のために私たちを懲らしめてくださるのです。

神様は、あなたが罪を犯すのを待っておられるわけではありません。神様にとって、あなたを罰することは決して楽しいことではありません。

むしろ、神様はあなたを愛しておられ、あなたの最善を望んでおられるのです。

ヘブル人への手紙の著者はこう書きました。

そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。

主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」

訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。

もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。

さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。

なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。

すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。(へブル12:5-11)

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列王記第一

霊的な姦淫

二年前、私は英会話の生徒と不倫について話しました。彼とその妻はある夫婦をよく知っていました。

けれども、その旦那さんは既婚者でありながら交際している女性がいました。そのため、その妻は私の生徒の妻に相談をしていました。

けれども、私の生徒は妻に対して友人をかばい、こう言いました。「彼は本当に良い人ですよ。ただ女性が大好きなだけなんです。」

多分、私の生徒の妻は、その「情報」を友人に伝えていないと思います。

その不倫をしている旦那さんは「女性たちが好き」という理由で、すぐに離婚する可能性があるかもしれません。あるいは、すでに離婚しているかもしれません。

ソロモンも同じ問題を抱えていました。彼は「女性たちが大好きでした。」そのため、彼には妻が700人おり、さらにそばめが300人いました。

神様が他の国々から来た女性と結婚してはならないと命じられたのにもかかわらず、ソロモンはそのような女性たちを「愛して、離れなかった」のです。(列王記第一11:2)

ソロモンはどれほど彼女たちを愛していたのでしょうか。一対一で多くの時間を過ごすことは難しかったのではないでしょうか。

多分、そばめたちとは一日、あるいは一週間程度しか時間を過ごせなかったかもしれません。そしてその後、彼女たちは贅沢な生活を送りながらも、孤独な人生を過ごしたのではないかと思います。

妻たちの状態も、あまり良いものではなかったはずです。700人の中で、一年に一日でもソロモンと過ごせたら、それは「ラッキー」と言えるでしょう。

それでも、ソロモンは「皆を愛している」と言っていました。

もちろん、一番大きな問題は、その妻たちの影響によってソロモンが神様に背を向け、彼女たちの神々を礼拝し始めたことです。

聖書にはこのように書かれています。

ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々のほうへ向けたので、彼の心は、父ダビデの心とは違って、彼の神、主と全く一つにはなっていなかった。

ソロモンはシドン人の神アシュタロテと、アモン人のあの忌むべきミルコムに従った。

こうしてソロモンは、主の目の前に悪を行い、父ダビデのようには、主に従い通さなかった。(列王記第一11:4-6)

ソロモンの心はもはや神様に対して一つではありませんでした。むしろ、心の半分だけで神様を求め始めたのです。その結果、彼はついに様々な悪いことをし始めてしまいました。

なぜソロモンは失敗したのでしょうか。それは、彼が信仰の妥協をしたからです。また、神様の声を無視したからです。

エジプト人と結婚することが悪いと、彼は十分に理解していたはずです。

その時、ソロモンはこう言いました。

私の妻はイスラエルの王ダビデの家に住んではならない。主の箱を迎え入れた所は聖なる所だからである。(歴代誌第二8:11)

つまり、神様がその結婚に同意されないと分かっていました。それでも、ソロモンは彼女を「愛していた」のです。

おそらく、彼は自分自身にこう言ったのでしょう。「彼女に影響されることを決して許さない。」

しかし、結局彼は彼女の神々を礼拝し始め、他の妻たちの神々も礼拝するようになりました。それがソロモンの破滅へと繋がったのです。

では、あなたはどうでしょうか。霊的な姦淫を犯しているでしょうか。

持つべきではないものを持っているでしょうか。

何かを神様以上に大切にしているでしょうか。

または、神様の隣に他のものを持ち上げていないでしょうか。

そうしてしまうと、あなたはもはや完全に神様のものではなくなります。そして、ますます妥協し、神様が憎むことをし始めてしまうのです。

この世界のものを愛するのではなく、霊的な姦淫を避けましょう。

そして、私たちの心を奪うものを捨て、すべてよりも神様を大切にしましょう。

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列王記第一 歴代誌第二

周りの人々が私たちをどう思うか

周りの人々は、あなたを見るとどのような印象を持つでしょうか。また、彼らはあなたについてどのようなことを耳にするのでしょうか。

ソロモンは、私たちにとって良い模範となる人物でした。人々がソロモンについて話す時、彼の素晴らしい知恵について語りました。そのため、シェバの女王はソロモンを試すために難問を携えてイスラエルを訪れました。

ソロモンを試した後、彼女は言いました。

私が国であなたの事績とあなたの知恵とについて聞き及んでおりましたことはほんとうでした。

実は、私は、自分で来て、自分の目で見るまでは、そのことを信じなかったのですが、驚いたことに、私にはその半分も知らされていなかったのです。

あなたの知恵と繁栄は、私が聞いていたうわさよりはるかにまさっています。

なんとしあわせなことでしょう。あなたにつく人たちは。なんとしあわせなことでしょう。

いつもあなたの前に立って、あなたの知恵を聞くことのできる家来たちは。

あなたを喜ばれ、イスラエルの王座にあなたを着かせられたあなたの神、主はほむべきかな。

主はイスラエルをとこしえに愛しておられるので、あなたを王とし、公正と正義とを行わせられるのです。(列王記第一10:6-9)

彼女はソロモンの中で何を見たのでしょうか。

もちろん、彼女はソロモンの知恵を見ました。また、神様がソロモンをどのように祝福されたかも目の当たりにしました。

しかし、それ以上に、ソロモンの人生の中に神様を見たのです。

同じように、周りの人々は私たちを見る時、神様を見ているはずです。

すなわち、神様の知恵、神様の祝福、そして神様の臨在を感じているはずです。周りの人々は私たちについてこう言うでしょうか。

あなたについて聞いたけど、人々が言ったよりにも、あなたが知恵があるし、祝福されている。

あなたの家族は、なんと幸せでしょう。あなたの職場の先輩と後輩は、なんと幸せでしょう。あなたがいて、あなたの近所の人たちと教会の人たちはなんと幸せでしょう。

私は、周りの人々が私についてそのような言葉を語るのを聞きたいです。

もちろん、たとえあなたが完全なクリスチャンであったとしても、すべての人があなたを好意的に見るとは限りません。

イエス様でさえ、完全で罪のないお方でありながら、ある人々に憎まれていました。

しかし、もし誰かが神様に対して開かれた心を持っているならば、彼らはあなたを見る時、きっとあなたに惹かれるはずです。

あなたは、そのような存在となっているでしょうか。

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列王記第一

私たちの最高のものを捧げる?

ソロモンは賢く、本当に鋭いビジネスマンでした。とはいえ、彼は時として鋭すぎる一面を見せることがありました。

特に、ツロの王ヒラムとの取引では、そのような側面が表れました。ヒラムはソロモンの父ダビデの友人であり、ソロモンとも良好な関係を築いていました。

そのため、ソロモンが宮殿と主の宮を建てた際には、ヒラムは多くの材料を送り助けました。

ソロモンはその材料の対価として20の町を与えましたが、それらの町にはあまり価値がありませんでした。

そのため、ヒラムはその町について不満を言いました。

兄弟よ。あなたが私に下さったこの町々は、いったい何ですか。(列王記第一9:13)

そして、ヒラムはその町をカブルと名付けました。カブルというのは、価値がないという意味です。

ソロモンは具体的に「価値のある町を挙げる」と約束していなかったかもしれませんが、ヒラムが本当に友人だったら、そのような約束が必要だったでしょうか。

ソロモンに非があったと考えます。

しかし、どれほど私たちが神様に対して同じようなことをするでしょうか。どれほど私たちが、お金や時間や努力をわずかしか捧げないでしょうか。

つまり、どれほど私たちが神様に最高のものを捧げないでしょうか。

もしヒラムがその賜物に不満だったのであれば、王の王がそのような賜物に満足されると思いますか。

神様が私たちの捧げものをご覧になると、「それは価値がない」と言われるでしょうか。

神様は私たちがどれほど捧げるかには関心をお持ちではありません。

ある貧しいやもめが神様に硬貨二つしか捧げませんでしたが、イエス様はお喜びになりました。そして、イエス様は言われました。

わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。

みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。(ルカ21:3-4)

神様が求めておられるのは、私たちの心です。神様は、私たちの心を持っておられるでしょうか。

もしかしたら、私たちは時間やお金や力の残り物を捧げているのかもしれません。

私たちは必要のないものを捧げているのでしょうか。それとも、私たちは最初で最高のものを神様に捧げているのでしょうか。

王の王は私たちの最高のものにふさわしいと思いませんか。

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列王記第一 歴代誌第二

どのようにすべてを失ってしまうか

ソロモンはすべてを持っていました。お金、力、知恵、そして誰もが手に入れたいと思うものをソロモンは全て持っていました。

そして、神様がソロモンに約束されたのは、もしソロモンとその子孫が心を尽くして神様に従うなら、神様はソロモンの王国の王座を永遠に確立すると言われたことです。

また、神様の心と目がソロモンの建てた宮に注がれると約束されたのです。

しかし、神様は同時にソロモンに警告も与えられました。

もし、あなたがたとあなたがたの子孫が、わたしにそむいて従わず、あなたがたに授けたわたしの命令とわたしのおきてとを守らず、行ってほかの神々に仕え、これを拝むなら、わたしが彼らに与えた地の面から、イスラエルを断ち、わたしがわたしの名のために聖別した宮を、わたしの前から投げ捨てよう。

こうして、イスラエルはすべての国々の民の間で、物笑いとなり、なぶりものとなろう。

この宮も廃墟となり、そのそばを通り過ぎる者はみな、驚いて、ささやき、『なぜ、はこの地とこの宮とに、このような仕打ちをされたのだろう』と言うであろう。

すると人々は、『あの人たちは、エジプトの地から自分たちの先祖を連れ出した彼らの神、を捨てて、ほかの神々にたより、これを拝み、これに仕えた。そのために、はこのすべてのわざわいをこの人たちに下されたのだ』と言うようになる。(列王記第一9:6-9)

残念ながら、ソロモンとその子孫は神様に忠実ではありませんでした。結果として、彼らの王座は取り上げられ、その美しい宮は破壊されてしまいました。

同じように、私たちは時折、尊敬されていたクリスチャンリーダーが失敗してしまう様子を見ることがあります。

最近、アメリカの大きな教会が、その有名な牧師のプライドによって解散するという出来事がありました。

あるミニストリーが多くの人々に影響を与えていたとしても、リーダーがもはや神様に心を尽くして仕えず、自分自身に仕え始めるならば、そのミニストリーも衰退してしまうことがあります。

彼らが神様を求めず、この世のもの、つまりお金やセックスや権力を求め始めるからです。

正直に言うと、そのような人々を見ることは私に恐れを抱かせます。なぜなら、自分自身を振り返った時、同じような弱さが見えるからです。そして、もし私が注意を怠れば、私も倒れてしまうかもしれないという思いに駆られるのです。

あなたはどうでしょうか。心を尽くして神様に従っていますか。それとも、罪に陥り始めているでしょうか。小さなことに妥協していますか。

もし私たちが小さなことに妥協すれば、すぐに大きなことにも妥協し始めます。そして、私たちが築いてきたものはすべて崩れてしまいます。

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列王記第一 歴代誌第二

神様の宮のための祈り

ソロモンの宮の奉献の祈りを読むと、私たちには神様の宮として何を祈らなければならないのかがわかるのです。

まず、ソロモンはその宮が正義のある場所となるように祈りました。つまり、もし二人の人々が争ったとき、神様がその宮で正義を与えてくださるように祈ったのです。

同じように、人々が私たちの判断を信頼できるよう、私たちの人生は敬虔であるべきです。そして、争っている人々が私たちに相談したとき、私たちは正義を与えるために、神様の知恵を求めて祈らなければなりません。

また、ソロモンはもう一つ祈りました。それは、もし人々が罪を犯して苦しんだときに、悔い改めれば、神様が彼らを赦し、癒してくださるようにという祈りです。

同じように、私たちは神様の宮でありながら、ときどき罪を犯します。

ソロモンが言ったように、

罪を犯さない人間はひとりもいない。(列王記第一8:46)

だから、私たちは罪を認識したとき、すぐに謙遜な心で神様の前に来て、悔い改め、赦しを求めて祈らなければなりません。そうするなら、神様は私たちを赦してくださいます。

次に、ソロモンはイスラエルの民が試練を経験したとき、神様がその民の祈りを聞いてくださるように祈りました。

もちろん、時にはイスラエルの民が罪を犯したために苦しみを受けました。

しかし、自分たちに責任がない状況でも、彼らは飢饉や地震、その他の天災によって苦しみました。そこで、ソロモンが祈ったのは、神様がその民の祈りを聞き、助けてくださるようにということでした。

私たちも試練に直面することがあります。時にはそれが私たちの過ちによるものですが、そうでない場合もあります。私たちは壊れた世界に生きているからです。それゆえ、そのような時でも神様の癒しを求めて祈るべきです。

また、ソロモンは祈りました。それは、外国人が神様のことを聞き、宮に来て祈ったとき、神様がその祈りを聞いてくださるようにという祈りです。

そして、彼らが神様を誉めて、自分の国に帰り、その国で神様についての知識を広げることを願いました。(列王記第一8:41-43)

同じように、キリストを知らない人が私たちに「私のために祈ってください」と頼むことがあるかもしれません。

その時、彼らが神様の存在を知り、神様を誉め、愛するようになることを願いながら、私たちは「神様、この祈りを聞いてください」と祈るべきなのです。

そして、彼らが神様との関係を持ち、その良い知らせを周りの人々に伝えることができますようにと祈るべきなのです。

さらに、ソロモンは戦争の時に神様の助けを求めて祈りました。(列王記第一8:44-45)

私たちにも戦いがあります。しかし、その戦いは血肉に対するものではありません。むしろ、その戦いは、

主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6:12)

だから、私たちは神様の助けを求めて祈るべきです。誘惑と戦う時や、福音をサタンの国に持っていく時に、勝利のために祈るべきです。

最後に、私たちは神様の宮として、このように祈るべきです。

この[宮]に、夜も昼も御目を開いてくださって、あなたのしもべ[の]祈りを聞いてください。(列王記第一8:29)

主よ、あなたの宮として、ソロモンのように祈ります。知恵を必要とする人々が私のところに来て、あなたの知恵を求めるように、どうか私の人生を光としてください。

また、人々が祈りを求めて私のところに来る時、その祈りを聞いてください。そして、その答えを通して彼らがあなたに近づき、周りの人々にあなたの愛を広げることができますように。

主よ、私が罪を犯す時、どうか赦してください。私はしばしば罪に陥ります。この宮を汚す罪から清めてください。

さらに、霊的な戦争を戦う時に、どうか私の剣と盾となってください。あなたの国のために、この世界に影響を与えたいです。

夜も昼もあなたの目を私に向けてください。私の祈りを聞いてください。

私の神よ、新しい契約の力、すなわちキリストの血の力によって私を清め、私があなたの憩いの場となりますように。

どうか私に住んでください。あなたの復活の力が私の中に宿りますように。

あなたの祭司として、私たちを救いで覆い、またあなたの聖徒たちにいつくしみを喜びとさせてください。

あなたは私たちを地上の民から区別し、ご自身のものとしてくださいました。また、あなたは私たちを暗闇の圧制から救い出し、あなたの驚くべき光の中へと導かれました。

どうか聖霊を注がれた私たちを見捨てないでください。あなたの愛を永遠に思い起こしてください。アーメン。

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列王記第一 歴代誌第二

宮となるのには

ソロモンは本当に美しい宮を建てました。その時代までのイスラエルの歴史において、これほど美しい建物は存在しなかったかもしれません。

しかし、その宮がどれほど美しくても、それはただの建物に過ぎませんでした。

そして、神様がその宮に臨まれました。

列王記第一8:10-11には、こう書かれています

祭司たちが聖所から出て来たとき、雲が主の宮に満ちた。

祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。

宮とはいったい何でしょうか。宮は神様が住まわれる場所です。そして、神様の栄光が輝く場所でもあります。

しかし、もし神様がおられなければ、それはただ空の建物に過ぎないのです。

では、どうして私たちが神様の宮と呼ばれているのでしょうか。

それは私たちの外見の美しさのためではありません。つまり、私たちが細くても太っていても、背が高くても低くても、賢くても賢くなくても、美しくてもそうでなくても、才能があってもなくても、それらは全く問題ではないのです。

では、何によって私たちは神様の宮と呼ばれているのでしょうか。

それは、神様の臨在と栄光が私たちの中にあることによるのです。

つまり、私たちがクリスチャンになると、神様は私たちの心の中に住んでくださり、その栄光が私たちを通して輝きます。そのことによって、私たちは神様の宮と呼ばれているのです。

あなたが自分自身を見たとき、何を思うでしょうか。神様の宮として自分を見るでしょうか。それとも、ただの普通の建物として見るでしょうか。

神様はあなたをご自身の宮としてご覧になります。あなたは神様の住まいであり、神様はあなたを通してご自身の栄光を表したいと望んでおられます。そして、周りの人々はそれを見て、神様に近づくのです。

どうかそのことを忘れないでください。この真理を心に留めながら、イスラエルの民のように神様の前に跪き、宣言しましょう。

主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。(歴代誌第二7:2)

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列王記第一 歴代誌第二

私たちの中に住んでおられる神様

ソロモンが建てた宮について読んで考えると、その美しさには本当に驚かされます。実際に見てみたかったです。

とはいえ、どれほど宮が壮麗であっても、ソロモンはこう言いました。

天も、天の天も主をお入れできないのに、いったいだれが主のために宮を建てる力を持っているというのでしょうか。(歴代誌第二2:6)

多くの人々は、教会や宮が神様の家だと考えています。しかし、実際には、神様はそのような建物には住んでおられません。

ソロモンが言ったように、「天の天でさえ主をお入れすることはできない」のです。

それにもかかわらず、そのお入れできない神様が人間の心に住んでおられます。その真理は、ソロモンの宮の美しさ以上に不思議で驚くべきことだと思います。

少し想像してみてください。

もしあなたがクリスチャンであれば、宇宙を造られた神様があなたの中に住んでおられるのです。

イエス様はこう言われました。

だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。

そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。(ヨハネ14:23)

パウロも同じようなことを書いています。つまり、聖霊様は私たちの中に住んでおられます。そして、私たちは神様の宮なのです。(第一コリント6:19)

あなたは自分のことを取るに足りない人だと思うかもしれません。また、自分にはあまり価値がないと感じるかもしれません。

しかし、心に留めておいてください。神様の目には、あなたはとても大きな価値を持つ存在なのです。

天の天も神様をお入れすることはできませんが、それでも神様はあなたと共に、そしてあなたの内に住んでおられるのです。

神様にとって、ソロモンの宮よりもあなたこそが美しい宮なのです。

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列王記第一

私たちの賜物は誰のためでしょうか

私たち皆は神様から賜物をいただきました。しかし、時々、その賜物が誰のために使うべきかを忘れてしまうのは簡単です。

その賜物は私たち自身のためのものではなく、私たちの栄光のためでもありません。むしろ、神様の国のために人々に仕えるために使うべきものです。

この箇所によれば、ソロモンはそれを実践しました。二人の女性たちが喧嘩をしたとき、ソロモンは神様から授かった知恵によって正義を行いました。

さらに、ソロモンの治世によってイスラエルの民は栄えました。列王記4:20には、このように書かれています。

ユダとイスラエルの人口は、海辺の砂のように多くなり、彼らは飲み食いして楽しんでいた。

もう一つのことが私の印象に残っています。それは、ソロモンが自分の賜物を使い、その賜物を活かすために懸命に働いたことです。33節には、こう書いてあります。

彼はレバノンの杉の木から、石垣に生えるヒソプに至るまでの草木について語り、獣や鳥やはうものや魚についても語った。

神様がその情報をソロモンの脳に直接入れたわけではないと思います。むしろ、ソロモンは物事をよく観察することを通して、神様から洞察力を授けられたのです。

しかし、一番大切なことは、ソロモンが学んだことを他の人々に教えたことです。

彼は三千の箴言を書き、自分の知恵と知識をイスラエル人だけに教えるのではなく、世界中の人々にも教え広めました。そのことを通して、神様は栄光を受けられました。

あなたはどうでしょうか。どのような賜物を持っていますか。その賜物をよく使っていますか。他の人々のために、そして神様の国のために、その賜物を使っているでしょうか。

そうすることによって、あなたも神様に栄光を帰することができます。

神様から与えられた賜物を通して、私たちがこの世の光となりますように。

イエス様が言われたように、

このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイ5:16)

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列王記第一 歴代誌第二

神様の価値観を反映する

夢のようですね。神様が私に「何が欲しいか」と尋ねて、その願いを叶えてくださったら、私はとても嬉しくなるでしょう。

あなたがソロモンだったら、何をお願いしたでしょうか。

私はさまざまなことを考えることができます。たとえば、私の家のローンがすべて払い終わること、私の日本語がペラペラになること、または私の糖尿病が癒されることなど。欲しいものはいろいろとあります。

ソロモンも何にでも願うことができました。たとえば、富を得ることや、権力を増すこと。それでも、彼はこう願ったのです。

わが神、主よ。今、あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし、私は小さい子どもで、出入するすべを知りません。

そのうえ、しもべは、あなたの選んだあなたの民の中におります。しかも、彼らはあまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど、おびただしい民です。

善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。

さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるのでしょうか。(列王記第一3:7-9)

神様がその願いを聞いて、二つのことについて喜ばれたと思います。

一つ目はソロモンの謙遜な態度です。ソロモンは自分がすべてを知っているわけではないことを認めました。そして、イスラエルを治めるために神様の知恵が必要であると理解していました。

二つ目は、その願いが自分のためではなく、神様の民のためであったということです。

ソロモンは、自分のプライドのために知恵を願ったのではありませんでした。むしろ、彼は神様の民を正しく治めるため、また神様から与えられた役割を忠実に果たすために知恵を願ったのです。

それは、あなたの優先順位にも当てはまるでしょうか。つまり、神様の国と神様の民を大切にしていますか。

私にとって、それは家族から始まります。良い夫であり、父であるために、私は神様の知恵を求めます。

私の妻はクリスチャンですが、彼女が成長し続け、神様の目的を果たすようにと祈っています。

そして、私の娘は5歳で、まだクリスチャンではありません。彼女が主を愛し、求めるようにと祈っています。それと同時に、彼女を正しく育てるために、私は知恵が必要です。

でも、家族だけではなく、私の同僚、近所の人たち、そして教会の人たちにも神様の愛を示したいと思います。

しかし、神様の国のために人々に触れるよりも、私はしばしば他のことに焦点を当ててしまいます。

それは、多くの場合、私が自己中心的であり、自分の必要や願いにばかり焦点を当ててしまうからです。

けれども、イエス様は、この世の物に焦点を当てるのではなく、神様の国に焦点を当てなさいと言われました。そうすれば、私たちの必要はすべて満たされると約束されています(マタイ6:33)。

あなたはどうでしょうか。神様から何を求めているでしょうか。神様が望んでおられることを、あなたも望んでいるでしょうか。

神様の国が広がることを願っていますか。

それとも、この世の物に焦点を当てすぎてはいませんか。

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歴代誌第一

神様を忘れる?

これはルベン族、ガド族、そしてマナセの半部族の話です。彼らは他のイスラエル人から離れて、ヨルダン川の向こう側に住んでいました。

ご存じかもしれませんが、彼らはその土地を見て「良い土地だ」と思ったため、モーセにその土地で住む許可を求めました。

モーセが語ったのは、もし彼らが他のイスラエル人と共にカナン人と戦うなら、その土地に住むことを許される、ということでした。

そのため、他のイスラエル人たちがそれぞれ自分の土地を受け取った後、この三つの部族はヨルダン川の向こう側へ帰り、そこに住み始めました。

最初、彼らの生活は順調でした。彼らが攻撃された時、彼らは神様に向かって叫びました。そして、

彼らが神に拠り頼んだので、神は彼らの願いを聞き入れられた。

ところが、ヨルダンの向こう側に住むイスラエル人のように、彼らもすぐに神様を忘れてしまいました。また、神様がどのように彼らを助けてくださったかを忘れてしまいました。

彼らは他の神々に頼り始め、自分自身の力を信頼し始めたのです。

その結果は?彼らは自分の土地から追放されざるをえなくなりました。

私たちはここから何を学べるでしょうか。時には問題があるため、私たちは神様に向かって助けを求めて叫びます。そして、神様の憐れみによって私たちは救われ、私たちの人生がうまくいき始めます。

しかしその後、私たちが神様を忘れ、他のものを求め始めるのは簡単です。例えば、キャリアやお金、持ち物や愛を求め始めることです。

そのようなもの自体は悪いものではありませんが、もしそれらを神様よりも大切にするなら、私たちは神様を忘れてしまうのです。

そして、私たちは悪い決断をし始め、結局私たちの状態が救われる前よりも悪くなるのです。

あなたはどうでしょうか。あなたは楽な人生を生きていますか。他のものを神様よりも大切にし始めていますか。

すべてにおいて、神様をあなたの人生の中心にしてください。神様に信頼し、自分の知恵と理解、そして力に頼らないでください。

そうすれば、あなたは祝福を受け、イスラエル人が陥った罠を避けることができるのです。

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過去の傷から解放される

ソロモンの話を始める前に、歴代誌第一の「プロローグ」からもう二つの話について触れたいと思います。

この箇所には、ヤベツの物語が記されています。

私たちはヤベツについてほとんど何も知りません。彼の職業も、誰と結婚したのかも、子どもがいたのかどうかも、どれほど生きたのかも分かりません。

私たちが知っているのは二つのことです。

一つ目は、ヤベツが重んじられた人であったということです。

二つ目は、ヤベツが恥ずかしい名前を持っていたということです。彼の母親はヤベツを出産したとき、本当に痛みを感じたようです。そこで、その赤ちゃんに「ヤベツ」という名前をつけました。

「ヤベツ」という名前は、ヘブル語の「痛み」という言葉に似ています。

そのような名前を持っていたヤベツが育ったとき、どのような人生を送ったのか想像できるでしょうか。

周りの男の子たちは「やあ、痛いくん!出ていけ!」と言ったかもしれません。

また、彼は自分の母の愛を疑ったかもしれません。

「お母さんは私を本当に愛しているのだろうか。もしかしたら、お母さんにとって、私は苦しみの原因なのだろうか。」

おそらく、母親や周りの人々から拒絶されたことによる苦しみの中で、ヤベツは神様に向かって叫んだのでしょう。

私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。

そこで、神様は彼の願ったことをかなえられました。(歴代誌第一4:10)

あなたはどうですか。過去の傷からまだ苦しんでいるでしょうか。

お父さんやお母さんに拒絶されたと感じているかもしれません。または、学校で友達が全くいなかったかもしれません。

あなたの過去の傷を持ち続ける必要はありません。その傷があなたの現在と未来に影響を与える必要もありません。

あなたの傷を神様に委ねてください。

そして、あなたの人生を神様にささげて、神様の臨在と祝福のために祈ってください。

そうすれば、あなたが成長の過程で受け取れなかった愛と受け入れを、今、神様から受け取ることができるのです。

しかし、その愛と受け入れを受け取っただけで満足してはいけません。

むしろ、神様から受けた愛と受け入れを、傷ついている周りの人々と分かち合ってください。

パウロが言ったように、

私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。

神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。

それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。(第二コリント1:3-5)

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列王記第一

裁きの時間

正直に言うと、私はこの箇所を読むと、ダビデの戒めに同意できません。特に、シムイとヨアブに関する戒めには同意できません。

もちろん、ヨアブは罰に値しました。ヨアブは将軍として自分の地位を守るために二度も人を殺しました(アブネルとアマサ)。

私が賛成できないのは、ダビデ自身がヨアブを罰しなかったことです。むしろ、息子ソロモンにそれを任せました。だから、結局ヨアブの罰は正義でしたが、それはあまりに遅すぎました。どうしてダビデが待っていたのか、納得のいく理由はありません。

ヨアブに関しては、ダビデの行動に問題があったと思いますが、シムイに関してはダビデがもっと悪かったと感じます。

以前、ダビデはシムイを殺さないことを約束しました(第二サムエル記19:23)。

それにもかかわらず、この箇所ではダビデはソロモンにシムイを罰するように命じたのです。

今は、「シムイ」を罪のない者としてはならない。

あなたは知恵のある人だから、彼にどうすれば彼のしらが頭を血に染めてよみに下らせるかを知るようになろう。(列王記第一2:9)

もちろん、神様の律法によって、シムイが王様を呪ったことは罪に当たります。神様の律法では、王様を呪うことは神様を呪うことに等しいとされています(出エジプト記22:28;列王記21:13)。

ですから、神様の律法によれば、その人は死に値します。

とはいえ、ダビデがシムイを許したことを考えると、ソロモンに対するダビデの戒めは適切ではなかったと感じます。

それでも、もしシムイがソロモンの命令に従っていれば、殺されることはなかったでしょう。シムイはソロモンの戒めを理解し、従うと約束しました。

そのため、私はダビデの戒めが良くなかったと思う一方で、シムイの死は彼自身の責任だったとも思います。

そして、ソロモンの兄アドニヤについて。

アドニヤは最後まで王になる野心を諦めませんでした。そのため、彼はダビデのそばめであったアビシャグと結婚したいと願いました。

その当時の文化では、以前の王のそばめと結婚することは、王位への野心を公然と宣言する行為に等しいとみなされていました。

結果として、ソロモンはアドニヤの過去の罪を許していたのに、次の罪によってアドニヤを処刑しました。

この箇所によって、私たちは何を学べるでしょうか。

ダビデの命令に同意できないため、このアナロジーは完璧ではありませんが、一つのことを学ぶことができると思います。

つまり、裁きの日が来るということです。

ダビデのように、時には神様が忍耐を持って罰の日を延期されることがあります。けれども、もし私たちが悔い改めないならば、裁きは必ずやって来ます。

時には、ヨアブのように私たちは考えることがあります。「神様は私をまだ罰していないから大丈夫だろう。だから、自分が好きにし続けよう。」

しかし、そのような考え方は間違っています。神様は忍耐強い方ですが、最終的には裁きが訪れます。結局ヨアブはそれを学びました。

アドニヤとシムイのように、私たちは神様を私たちの王として拒絶することがあるかもしれません。そして、神様の戒めや警告を知っていても、それらを無視し、自分自身の道を歩き続けることがあります。

しかし、アドニヤとシムイのように、神様の忍耐にも限界があります。そして、裁きが訪れるのです。

これは決して楽しいメッセージではありません。だれも神様の裁きについて聞きたいとは思わないでしょう。けれども、それが現実なのです。

だからこそ、私たちが自問すべきは「私は準備できていますか」ということです。

準備をするためには、あなたの心をイエス様にささげなくてはなりません。イエス様が十字架であなたの罪のために死んだことを信じ、イエス様をあなたの主として受け入れなければなりません。

そうすれば、あなたの罪は永遠に赦されます。

あなたはどうでしょうか。イエス様はあなたの王でしょうか。

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列王記第一 歴代誌第一

私たちの目的を達成する

これはダビデについての最後の脚注です。すこし驚くべきことですが、パウロはこの脚注を私たちに与えました。

その時、ピシデヤのアンテオケで、パウロはユダヤ人たちにイエス様の死と復活について話していました。そのメッセージの中で、パウロはダビデについて語っていたのです。

ダビデは、その生きていた時代において神のみこころに仕えて後、死ん「だ」。(使途の働き13:36)

もし私が亡くなったら、皆にそのようなことを私について言ってほしい。

ブルースはその生きていた時代において神のみこころに仕えて後、死んだ。

私たちはダビデの人生について読み、ダビデの良い時も、悪い時も、ダビデの成功も、失敗も見てきました。また、ダビデの神様に対する深い愛や、ダビデの酷い罪をも目にしてきました。

けれども、結局のところ、パウロはダビデについてこう語りました。

ダビデは神様のみこころに仕えた。

私はもう。。。歳です。もし神様の御心なら、私にはまだたくさんの年が残されているでしょう。

私は良い時もあれば、悪い時もありました。成功した時も、失敗した時もありました。神様を心を尽くして愛した時も、罪に陥った時もありました。

それらの経験は、私が死ぬまで続くはずです。

しかし、天国で神様にやっとお会いできたとき、何よりも欲しいものが一つあります。それは、神様が私にこう言われることです。

「よくやったよ。あなたは忠実なしもべでしたよ。私が頼んだことのすべてをあなたはしてくれました。」

神様が私たち皆にそう言ってくださることを願っています。

私はこの世を去るとき、
私の人生について、
私の周りの人々は結局何を思い出すでしょうか。

彼らは私が家族を愛したと言うでしょうか。
私が忠実な友達だったと言うでしょうか。
私が神様の御子について伝えるために生きたと言うでしょうか。
私の人生が終わる時。

彼らは私がイエス様の帰りを待ち望んだと言うでしょうか。 私が救い主の顔とその微笑みを見て、
「よくやった」と聞きたかったと言うでしょうか。
私の人生が終わる時。

ーージェフ·ムーア

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列王記第一

男らしくなるには

「男らしくありなさい。」

日本では、若い男性がその言葉をどのように受け取っているのか私にははっきり分かりませんが、アメリカではそのような言葉を頻繁に聞くことがあります。

この箇所では、ダビデも死を迎える前に、息子ソロモンに同じことを語りました。(列王記第一2:2)

それは何を意味しているのでしょうか?

多くの人々にとって、「男らしい」というのは強い人を指すようです。

ダビデも確かにそのような内容を語りました。彼はソロモンにこう言ったのです。

強く、男らしくありなさい(2節)

つまり、この世界があなたに反対しても、強くありなさい。プレッシャーに負けないでください。

けれども、男らしくなることはただ強い人になることだけを意味しているのではありません。ダビデはソロモンにこう言いました。

あなたの神、主の戒めを守り、モーセの律法に書かれているとおりに、主のおきてと、命令と、定めと、さとしとを守って主の道を歩まなければならない。

あなたが何をしても、どこへ行っても、栄えるためである。(3節)

多くの若い男性は、男らしくなりたいなら、自分がしたいことをするべきだし、完全に独立しなくてはならないと思っています。

しかし、ダビデにとって、男らしくなることは、神様に心を尽くして従うことでした。神様の声に耳を傾け、それに従うことです。また、主の権威に従わなければなりません。

そのような人こそ、男らしい人なのです。

あなたはどうでしょうか?若い男性でも、少し年を重ねた男性でも、あなたは男らしいと言えるでしょうか?

あなたは神様に従い、神様の心に従っていますか。それとも、自分自身の心に従っているのでしょうか?

もしあなたが独身の女性なら、どのような男性を求めていますか?神様はあなたのためにどのような男性を望んでおられるでしょうか?

本当に男らしい男性とは、神様の権威に従う人であることを心に留めておいてください。

どのような男性と共に歩みたいですか?どのような男性を求めていますか?

男性でも女性でも、私たち皆が心を尽くして神様に従いましょう。

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歴代誌第一

友達からの傷を受け入れること

このブログを書く前にちょっとお知らせがあります。歴代誌第一1-9章について、私はあまり書きません。

その箇所から少しずつ主題を選び取って書いていきます。

(例えば、前のブログで、門衛の役割について話しました。)

とにかく、この箇所には興味深いことがあります。

時々リストを読むのはつまらないかもしれませんが、注意深く読むと興味深いことが見つかります。

この箇所もそのような場所です。

ダビデとバテ・シェバには四人の息子がいました。その中の一人の名前はナタンでした。

それを読んだとき、私はびっくりしました。ナタンはダビデのバテ・シェバとの罪についてダビデを責めました。彼は神様の裁きを宣言しました。

それにもかかわらず、数年後にダビデとバテ・シェバは自分の息子にナタンと名付けたのです。

そのことから、私たちはダビデの性格を知ることができます。

ナタンがダビデを責めたとき、ダビデはそれを受け入れて、悔い改めました。

それだけではなく、ナタンを友人として受け入れ続けました。そして、自分の息子をナタンと名付けたのです。

この箇所から、ナタンの性格も知ることができると思います。

もし私がナタンであれば、友人がそのような酷い罪を犯した場合、多分その友人を避けるかもしれません。

特にダビデの場合、バテ・シェバはまだ結婚していたので、その二人を見て彼らを責め続けるのは簡単なことだと思います。

でも、ナタンはダビデの悔い改めの心を見ました。また、ナタンはダビデとバテ・シェバに対する神様の恵みと憐れみを理解しました。

だから、ナタンはその同じ恵みと憐れみを彼らに示したのです。

この箇所から、二つのことを学ぶことができると思います。

一つ目は、あるクリスチャンが自分の罪を悔い改めるとき、神様のように私たちはその人に恵みと憐れみを与えるべきではないか、ということです。

その場合、その人を裁き続けるのは簡単です。特にその罪がとても酷い場合は、彼らを責め続けるのは簡単です。

私は友だちがいました。彼はクリスチャンでしたが、不倫によって妻と離婚しました。その後、彼は悔い改めて再婚しました。 (しかし、最終的には別の人と結婚することになりました。)

それにもかかわらず、まだ私たちの間には少し距離が残っています。

今は彼に会う機会が全くありません。でも、その機会が訪れるとき、私は彼を許して恵みと憐れみを示さなければならないと思います。神様がそうしてくださったからです。

二つ目のことは、私たちが間違ったとき、友だちが私たちを責めるなら、その言葉を受け入れるかどうかということです。

つまり、私たちはその言葉を受け入れて変わるのでしょうか。

それとも、その言葉を拒み、その友だちをも拒むのでしょうか。

ソロモンは記しました。

あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。

憎む者が口づけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である。(箴言27:5-6)

愛とは、相手が聞きたいことを語ることではありません。

愛とは、相手が聞く必要のあることを語ることです。

時には、それが相手を傷つけることもあります。

また、相手が私たちを責めることで、私たち自身も傷つけられることがあります。

しかし、もしその言葉を受け入れるなら、その言葉を通して神様は私たちを変えてくださいます。そして、私たちはさらに神様に似る者とされていくのです。

あなたはどうでしょうか。友だちからの傷を受け入れることができるでしょうか。

また、友だちが間違ったとき、率直に責めるでしょうか。それとも、「彼らを愛している」から何も言わずにいるのでしょうか。

私たちは周りの人々に対して、忠実な友だちとなることができますように。

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歴代誌第一

すべての物はどこから来たか

ある日、私はスポーツのドキュメンタリーを見ました。アメリカン・フットボールの選手ランダル・カニングハムについてでした。彼はクリスチャンですが、本当にその信仰が試されました。

彼は引退した後、牧師になりました。そして、自分の家の裏庭にはプールとスパがありました。カニングハムのスパの中で、多くの人々が洗礼を受けました。

けれども、ある日、カニングハムとその妻が出かけている間、彼らの友達がカニングハムの二歳の息子と留守番をしていました。

カニングハムが帰宅すると、その息子がスパで溺れて亡くなっていたことを知りました。

ドキュメンタリーの中で、カニングハムは興味深いことを語りました。

彼はこう言いました。

「私の息子の人生は神様からの賜物でした。神様は一時的に私たちに与えましたが、神様の目的と理由で彼を取り戻されました。」

この箇所を読むと、そのドキュメンタリーとカニングハムの言葉を思い出しました。

ダビデの言葉は、カニングハムの言葉に似ていました。

ダビデとイスラエル人は神様の宮を建てるために、自分たちの物を捧げました。その物について、ダビデはこう言いました。

まことに、私は何者なのでしょう。私の民は何者なのでしょう。このようにみずから進んでささげる力を保っていたとしても。

すべてはあなたから出たのであり、私たちは、御手から出たものをあなたにささげたにすぎません。。。

私たちの神、主よ。あなたの聖なる御名のために家をお建てしようと私たちが用意をしたこれらすべてのおびただしいものは、あなたの御手から出たものであり、すべてはあなたのものです。(歴代誌第一29:14,16)

ダビデとカニングハムは同じことを認めました。私たちの持ち物のすべては神様から来るものです。私たちが受け取ったすべての良いものは神様から来たのです。

だからこそ、ダビデは喜んでそれらを神様に返しました。なぜなら、それらのものはもともと神様のものであったからです。

彼にとって、お金や宝物は一時的なものでした。

それに加えて、彼は自分の人生さえも一時的なものであると認めました。

15節で、ダビデはこう言いました。

 私たちは、すべての父祖たちのように、あなたの前では異国人であり、居留している者です。地上での私たちの日々は影のようなもので、「ずっとこの世界に住む」望みもありません。

時々、人々は「どうして献金を捧げるべきでしょうか。神様はそれを必要としていないでしょう?」と訊きます。

もちろん、神様は私たちのお金を必要としておられるわけではありません。

神様が私たちのお金そのものを欲しておられるのではないのです。神様が望んでおられるのは私たちの心です。

神様は私たちの優先順位を知りたいのです。

私たちにとって、お金が一番大切なものなのでしょうか。

それとも、神様こそが私たちにとって一番なのでしょうか。

ダビデはこのように祈りました。

私の神。あなたは心をためされる方で、直ぐなことを愛されるのを私は知っています。

私は直ぐな心で、これらすべてをみずから進んでささげました。

今、ここにいるあなたの民が、みずから進んであなたにささげるのを、私は喜びのうちに見ました。(17)

神様は私たちが与えることを求めるとき、私たちの心を試しておられます。

私たちが与えても与えなくても、神様は私たちの動機を試されます。

私たちは喜んで与えるでしょうか。私たちの持つものが神様から来たものであることを理解するでしょうか。

もし与えないとすれば、それはなぜでしょうか。あるいは、この世の物を愛しすぎているからなのでしょうか。

カニングハムの信仰は本当に素晴らしいと思います。

今でも、その同じスパで人々が洗礼を受けています。

ドキュメンタリーで、ナレーターはこう語りました。

「彼の息子が亡くなったスパで、人々は生まれ変わっています。」

カニングハムの信仰は試されました。

お金を持つことは彼にとって試練ではありませんでした。

むしろ、自分の息子を持つことこそが、彼にとっての試練だったのです。

多くの人々はその状況で「なぜ」と問いかけ、苦々しい思いを抱きます。 けれども、カニングハムはそうはしませんでした。

むしろ、この人生は神様からの賜物であると認めました。それは儚く、一時的な賜物なのです。

だからこそ、苦々しい思いをせずに感謝の心をもって、神様にその息子を返したのです。

あなたはどうですか。自分の物がどこから来たか理解していますか。

そして、あなたの人生における神様の主権を認めるでしょうか。

ダビデは歌いました。

主よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。

天にあるもの地にあるものはみなそうです。

主よ。王国もあなたのものです。

あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき方です。

富と誉れは御前から出ます。

あなたはすべてのものの支配者であられ、御手には勢いと力があり、あなたの御手によって、すべてが偉大にされ、力づけられるのです。(歴代誌第一29:11-12)

そして、彼はこう歌いました。

今、私たちの神、私たちはあなたに感謝し、あなたの栄えに満ちた御名をほめたたえます。(13)

そのような忠実で感謝の心を持つことができますように。

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歴代誌第一

自分の模範によってリードする

「私の手本に従わずに、私の言葉に従いなさい。」

私の両親がそのようなことを一度も言わなかったことに感謝しています。なぜなら、それは本当に偽善的な表現だからです。

リーダーたちは、そのようなことを言ってはいけません。

一方、ダビデは自らの模範によって民を導いていました。

この箇所では、惜しみない態度をもってイスラエル人を導いたのです。彼は神様のために宮を建てることに情熱を注ぎ、自らの金や銀、そして宝石を捧げました。

そして、彼はイスラエルの指導者たちに挑戦したのです。

きょう、だれか、みずから進んでその手にあふれるほど、主にささげる者はないだろうか。(歴代誌第一29:5)

つまり、「私は主に捧げたから、あなたもどうですか。」

それを聞いたリーダーたちは、宮を建てるために喜んで自分たちの物を捧げました。

その結果は?

こうして、民は自分たちみずから進んでささげた物について喜んだ。

彼らは全き心を持ち、みずから進んで主にささげたからである。(9)

イスラエル人はそのリーダーたちの行動を見て、きっとリーダーたちをもっと信じるようになったでしょう。

なぜでしょうか。リーダーたちは、ただ何をするべきか言うだけではありませんでした。リーダーたちは、ただ「神様に仕えなさい」と言うだけではありませんでした。

むしろ、リーダーたちは自分が言ったことを実行していたのです。

私もそのような人々に従いたいと願い、またそのようなリーダーとなりたいと願います。

あなたはどうですか。自分の手本でリードできるでしょうか。

子供たちに「私の手本に従ってください」と言えるでしょうか。

自分の教会や会社の後輩に「私の手本に従ってください」と言えるでしょうか。

それとも、そのように言うと恥ずかしく感じるでしょうか。

言葉だけではなく、私たちの手本によってリードしましょう。

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歴代誌第一

神様の宮となる

この箇所では、ダビデがソロモンとイスラエルの指導者たちに語った場面が描かれています。

ダビデの言葉を見るとき、神様が私たちに何を語っておられるかについて思いを巡らせます。つまり、私たちが神様の宮となることに関して、神様が何を語っておられるかを考えるのです。

まず、神様は、私たちが宮となるために選んでくださったと語っておられます。

ダビデは、神様がどのようにダビデをイスラエルの王として選んでくださったかを語りました。

具体的には、イスラエルの部族の中からユダの部族を選び、ユダ部族の中からダビデの家族を選び、最後にダビデの兄弟たちの中から神様がダビデを選んでくださったのです。

そして、6節で、ダビデは神様の言葉を思い出しました。

あなたの子ソロモンが、わたしの家とわたしの庭を建てる。わたしが彼をわたしの子として選び、わたしが彼の父となるからだ。(歴代誌第一28:6)

そのように、時間が始まる前に、神様は私たちを神様の子供となるために選んでくださいました。

それだけではなく、神様の宮を建てるために私たちを選んでくださったのです。つまり、神様は私たちの人生が神様の宮となるように選んでくださいました。

パウロはこのように記しています。

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。

神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。(エペソ人1:4-6)

この歴代誌の箇所を読むと、もう一つのことに気づきます。それは、神様が宮のために具体的な計画を持っておられたということです。

ダビデは言いました。

これらすべては、私に与えられた主の手による書き物にある。彼は、この仕様書のすべての仕事を賢く行う。(歴代誌第一28:19)

そのように、神様は私たちのために計画を持っておられます。ダビデはこう書いています。

あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。

私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。(詩編139:6)

ダビデが与えられた宮の計画とは異なり、私たちには自分の人生のための具体的な計画が与えられていません。

例えば、誰と結婚するのか、どこに住むのか、私たちには分からないのです。

しかし、聖書を通して、私たちのための神様の御心を一般的に知ることはできます。

そして、私たちが神様を求め、その言葉に従うなら、神様はさらに具体的に私たちを導いてくださいます。

そのため、ダビデはソロモンにこう言いました。

今あなたはあなたの父の神を知りなさい。全き心と喜ばしい心持ちをもって神に仕えなさい。

主はすべての心を探り、すべての思いの向かうところを読み取られるからである。

もし、あなたが神を求めるなら、神はあなたにご自分を現される。(歴代誌第一28:9)

そして、ダビデがソロモンに言ったように、神様も私たちに語っておられます。

強く、雄々しく、事を成し遂げなさい。恐れてはならない。おののいてはならない。神である主、私の神が、あなたとともにおられるのだから―。

主は、宮の奉仕のすべての仕事を完成させてくださる。(20)

パウロは、このように言いました。

そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。

神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。(ピリピ2:12-13)

私が以前言ったように、神様の宮を建てるのは、私たち自身の力で行うべきではありません。

私たちが神様の宮となるために、神様は私たちに必要なすべてのものを与えてくださいました。

つまり、神様は私たちに聖霊を送ってくださいました。聖霊は私たちを導いてくださいます。また、聖霊は私たちを変える力を与え、私たちが神様のようになるように、私たちの内で働いておられるのです。

ですから、強く、雄々しく生きましょう。

失敗してしまった時も、がっかりしないでください。

神様はあなたの心を探っておられます。そして、あなたが神様の宮となりたいと願っていることを知っておられます。

神様は必ずあなたを助けてくださいます。

だからこそ、神様を求め続けましょう。

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キリストにあって、私たちの役割

歴代誌の著者は名前のリストを書くことがとても好きなようです。この箇所では、私たちは多くのリストを見ることができます。

この箇所は、神様の宮を建てる人々の役割について述べています。けれども、これを読むと、私たちが学べることがあると感じます。

23章では、レビ人の役割が変わりました。

砂漠を越えた時、彼らの役割は幕屋とその中の物を運ぶことでした。しかし、その必要がなくなったため、彼らは祭司たちを助け始めました。

おそらく砂漠の時代にも祭司たちを助けていたでしょうが、この箇所では彼らの責任がより具体的に記されています。

時にはその責任が小さなものに見えたかもしれませんが、彼らは忠実にそれを果たしました。

同じように、私たち全員には神様の国の中で役割があります。

私たち全員が牧師ではありませんし、全員が賛美のリーダーでもありません。それでも、それぞれに神様から与えられた才能と賜物があります。

神様の器として、また神様の宮として、私たちはその才能と賜物を使わなければなりません。

時に私たちの役割は変わることがありますし、私たちの責任が小さいと感じることもあるかもしれません。それでも忠実に主に仕えましょう。

24章は祭司たちについて述べています。彼らは宮で主と民に仕えるべき存在でした。

同じように、私たちも祭司たちです。(第一ペテロ2:5;黙示録1:6)

私たちは神様の祭司として、神様と周りの人々に仕えるべきです。

25章はミュージシャンと歌手について述べています。

主に仕える一つの方法は礼拝です。

私たちは礼拝する時に、神様を祝福します。

古い英語の聖歌に「私たちの心が礼拝を始めると、私たちは祝福される」と記されています。

これはまことに真実ですが、私はよくその歌詞を変えて歌います。

「私たちの心が礼拝を始めると、あなたが祝福されるのです。」

なぜなら、それが賛美の本来の目的だからです。私たちが祝福されるためではなく、むしろ神様を祝福するためです。

さらに、私たちの礼拝を通して、他の人々を祝福することもできます。

3節で、エドトンという人は賛美しながら預言しました。

同じように、私たちが歌う時、その言葉は周りの人々に影響を与えることができます。また、その曲によって、周りの人々は神様の臨在を感じることができるのです。

26章は門衛について述べています。

歴代誌第一9:17-33によると、彼らにはさまざまな責任がありました。

一つの責任は門を守ることでした。つまり、「汚れたもの」が入らないようにチェックすることでした。

同じように、私たちも、汚れたものが入らないように、自分の心を守らなければなりません。

それに、門衛たちは宝物倉を泥棒から守らなければなりませんでした。

同じように、サタンは私たちのイエス様にある喜びと祝福を盗もうとします。だからこそ、私たちは自分の心を守らなければなりません。

27章は、宮のあるエルサレムを守る軍隊について述べています。

この箇所を読むと、私たちが霊的な戦いのただ中にいることを思い起こすべきです。

そのため、誰かが神様の国に対して戦いを挑むなら、私たちはその国を守らなければならず、また、サタンの国を攻撃しなければなりません。

つまり、私たちは福音を伝えなければならないのです。それによって、サタンの囚人を解放することができるのです。

しもべ、祭司、歌手とミュージシャン、門衛、そして兵士。

それだけではなく、私たちは神様の宮でもあります。

キリストにあって、私たちはこれらすべてを担っているのです。

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歴代誌第一

神様のために宮を建てる

ダビデは自分のために宮殿を建てた後、神様がまだ幕屋に住んでおられることを思い浮かべました。

(もちろん、神様が本当に幕屋に住んでおられたわけではありませんが、幕屋は神様の臨在を象徴していました。)

そこで、ダビデは神様のために宮を建てる計画を立て始めました。しかし、神様はダビデを止めて言われました。

「あなたの息子がその宮を建てます。」

数年後、ダビデは亡くなる前にその準備を始めました。彼自身が宮を建てることはありませんでしたが、その宮を建てるために必要な材料をすべて集めようとしました。

この箇所から、私たちが覚えるべきことがあります。それは、神様の宮はもはや建物ではないということです。私たちこそ神様の宮であり、神様は私たちの内に住んでおられるのです。第一コリント6:19に、こう書いてあります。

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

私たちはそのことを思いながら、神様の宮を建てること、つまり、生ける宮となることについて、覚えておかなくてはならないことがあります。

まず初めに、ダビデはソロモンに語りました。

主のために建てる宮は、全地の名となり栄えるように大いなるものとしなければならない。(歴代誌第一22:5)

そのように、神様は私たちが素晴らしい存在となることを望んでおられます。なぜなら、周りの人々が私たちを見ると、心を動かされ、「きっと、神様はその人の内に本当に住んでおられる。その人は他の人とは本当に違う」と言うようになるからです。

そして、私たちを通して、人々は神様の栄光と素晴らしさを見ることができ、神様に近づきたいと考えるようになるのです。

二つ目に覚えておくべきことは、宮を建てたいなら、心を尽くして神様に従わなければならないということです。

ダビデはソロモンにこう語りました。

ただ、主があなたに思慮と分別を与えて、あなたをイスラエルの上に任命し、あなたの神、主の律法を守らせてくださるように。

主がイスラエルについてモーセに命じれらたおきてと定めをあなたが守り行うなら、あなたは栄える。

強くあれ、雄々しくあれ、恐れてはならない。おののいてはならない。(歴代誌第一22:12-13)

三つ目に覚えておくべきことは、時として私たちが罪と戦う中で、落胆してしまうことがあるということです。

または、サタンが私たちを攻撃し、それによって私たちは失望してしまうことがあります。

そして、「もう神様の宮になることは無理だ」と思い、諦めようとするかもしれません。

しかし、ダビデはソロモンに言いました。

強くあれ、雄々しくあれ、恐れてはならない。おののいてはならない。(13b)

どうすれば強くなり、雄々しくなることができるでしょうか。そして、どうすれば恐れや失望と戦うことができるでしょうか。

二つのことを覚えておく必要があります。

一つ目は、私たちが神様の宮となるために、神様が必要なものを私たちに与えてくださるということです。

ダビデが困難の中で主の宮のために材料を集めたように、イエス様もご自身の困難を通して、私たちが神様の宮となるために必要なものを与えてくださいました。つまり、イエス様は十字架で、私たちの罰を代わりに受けてくださいました。

そのため、ペテロはこう言いました。

というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。

その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。

それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。(第二ペテロ1:3-4)

つまり、私たち自身の力で神様の宮を建てるべきではありません。むしろ、神様が私たちの内で働いてくださり、聖なる人生を生きるための力を与えてくださいます。

二つ目に覚えておくべきことは、神様が私たちを助けるために人々を与えてくださったということです。彼らはその宮を建てることを助けます。

ダビデがイスラエルのリーダーたちにソロモンを助けるように命じたように、神様は私たちにも互いに助け合うように命じられました。

ヘブル人への手紙の著者はこう書いています。

また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。

ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。(へブル10:24-25)

私たちは神様の宮です。私たちが国々に神様の栄光を示す存在となるように。

特に、私たちが周りの人々に神様の栄光を映し出し、現すことができるように。

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列王記第一

王位を奪おうとする

もう一度、私たちはダビデの家族の問題を見ることができます。今回、アドニヤはダビデがソロモンに約束した王位を奪おうとしました。

この問題は、再び父親としてのダビデの失敗によって起こりました。6節には、このように書かれています:

彼の父は存命中、「あなたはどうしてこんなことをしたのか」と言って、彼のことで心を痛めたことがなかった。(列王記第一1:6)

だから、ある日、アドニヤはこう決心しました。「私は王になる。」

そして、彼は支持を得るために、将軍ヨアブと祭司たちを呼び、彼らと相談しました。

けれども、預言者ナタンはその計画を知り、ダビデとバテ・シェバに警告しました。結果として、アドニヤの計画は失敗し、ソロモンが王となりました。

多くの人々はアドニヤのようです。彼らは心の中でこう言います。「私は王になる。」

もちろん、彼らは国の王になろうとしているわけではありません。しかし、彼らは自分の心の王位を神様から奪おうとします。

彼らは神様の支配を拒んで、自分自身の人生を支配しようとするのです。その結果として、彼らの人生は失敗に終わってしまうのです。

多くの日本人は、罪というものを犯罪を犯すことだと考えています。けれども、基本的に、罪とは私たちの人生における神様の支配を拒絶することです。

それはサタンの罪でした。それはアダムとエバの罪でもあり、そして、それは世界中すべての人々の罪でもあります。

何度も、私たちは神様の支配を拒絶し、自分自身で人生を支配しようとします。

その結果、私たちは神様を傷つけ、他の人々を傷つけ、さらには自分自身をも傷つけてしまうのです。

そして、もし私たちが悔い改めないなら、やがて神様の王位が回復される時、神様は私たちを裁かれるのです。

なぜなら、私たちは神様の物を奪ったからなのです。

あなたはどうでしょうか。あなたの心の王位を神様にささげましたか。

神様はあなたを造られました。だからこそ、あなたは神様の者なのです。

それにもかかわらず、あなたの心の王位を奪い、自分自身で支配しようとしていませんか。

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詩篇

告白の必要 

いつダビデが詩篇32篇を書いたか分かりませんが、詩篇51篇と同じテーマなので、今この詩篇について書きます。

ダビデは罪を隠したことがあり、なかなか眠れませんでした。おそらく、ダビデの良心はささやきました。「あなたは悪かった。あなたは罪を犯した。」

私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。

それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。(詩篇32:3-4)

もし、ダビデがバテ・シェバの事件について書いていたら、この詩篇はダビデのナタンに対する反応を説明しています。

寝づらくて、良心によって心が苦しんでいたため、ナタンが来ると、ダビデはすぐに、砕かれた霊で告白しました。「私は罪を犯しました。」(第二サムエル記12:13)

詩篇32篇を読むと、私たちは神様がダビデを罰しておられたと思うかもしれません。しかし、私はそれを読むと、その箇所が神様の愛を示していると思います。

神様はその苦しみを通して、ダビデに言われました。

「私はあなたの罪をよく知っている。私はあなたを愛しているから、その罪に安住することを許せない。その罪によってあなたは滅びるから。だから、あなたの罪を認めて、告白しなさい。」

ダビデは、その罪を告白すると、神様の赦しと憐れみと恵みを見つけました。彼は書きました。

私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。(5)

そして、振り返ると、ダビデは言えました。

幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。

幸いなことよ。が、咎をお認めにならない人、その霊に欺きのない人は。(1-2)

あなたはどうですか。あなたの心の中で罪を隠しているでしょうか。ダビデのように、あなたの良心によって苦しんでいるでしょうか。

それを無視しないでください。無視すれば、結局、あなたの良心の叫びにもう気づかなくなるかもしれません。その結果、あなたの状況はもっと酷くなります。

ダビデはこう記しました。

あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。それらは、くつわや手綱の馬具で押さえなければ、あなたに近づかない。

悪者には心の痛みが多い。しかし、に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。(9-10)

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詩篇

悔い改めの祈り

聖書で、ダビデは二回悔い改めなくてはならなかった。一つ目はバテ・シェバの事件でした。二つ目はダビデがイスラエル人を数えた時です。

その後で、ダビデは二つの詩篇を書きました。詩篇51篇はバテ・シェバの事件に関する詩篇でした。

とはいえ、悔い改めとは何でしょうか。クリスチャンたちはその言葉をよく使いますが、どういう意味でしょうか。

1.悔い改めは自分の罪を認めることです。

ダビデはこう書きました。

まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。(詩篇51:3)

ダビデは、ずっと自分の罪を隠そうとしました。自分の心の中で、「私の行動はあまり悪くなかった。」と思っていました。

けれども、もうその罪を隠すことができなくなり、正直に「私は罪を犯しました」と認めなくてはなりませんでした。

2.悔い改めは私たちが神様に対して罪を犯したことを認めることです。

もちろん、ダビデはウリヤに対して罪を犯しました。しかし、それよりも、ダビデは神様に対して罪を犯しました。

時々、私たちは言います。「私の罪は他の人を傷つけなかった。私だけが影響を受けた。」

けれども、私たちは罪を犯すと神様を悲しませます。ダビデは、そのことが分かったから、これを書きました。

私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました。(4)

3.悔い改めはあなたが神様の道と裁きが正しいと認めることです。

「この場合は例外ですよ」と言う余地はありません。

「あなたは厳しすぎる」と文句を言う余地もありません。

むしろ、悔い改める時に、私たちは言います。「あなたは正しいです。私は悪かった。」

ダビデはこう書きました。

それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。(4b)

4.悔い改めはあなたが神様の憐れみに頼ることです。

あなたが有罪で、死に値し、あなたの救いが神様の憐れみに頼ることを認めることです。

だから、ダビデは祈りました。

神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。。。

私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。。。

神よ。私の救いの神よ。血の罪から私を救い出してください。(1,11,14節)

5.悔い改めは赦しのために願うことです。

ダビデは願いました。

どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。。。

ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。

私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。。。

御顔を私の罪から隠し、私の咎をことごとく、ぬぐい去ってください。。。

神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。(2,7,9-10節)

6.悔い改めは神様が心の変化を望んでおられることを認めることです。言葉と犠牲だけでは足りないことを認めることです。

多くの場合、人々は悔い改めの祈りをしますが、心から祈らないことがあります。

彼らは自分の罪を告白しますが、変わるつもりがありません。彼らにとって、神様の恵みは汚れた足を拭くマットでしかありません。けれども、拭きながら、彼らは次の罪を考えています。

または、彼らは少し「犠牲」をささげます。教会で献金をささげたり、チャリティのために良いことをしたり、誰かのために良いことをしたりします。彼らは自分の悪い行いを良い行いによって帳消しにできると思っています。

しかし、ダビデはこう書きました。

たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを望まれません。

神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。(16ー17)

砕かれた霊は罪に関して軽く考えません。悔いた心は次の罪について考えません。むしろ、ダビデのように、その人は祈ります。

あなたに喜んで従う霊を与えてください。(12節、英訳)

あなたはどうですか。あなたの悔い改めの祈りは言葉だけでしょうか。もしくは、あなたの罪を本当に認めるでしょうか。

あなたの罪が神様を悲しませることが分かりますか。あなたの惨めさが分かって、神様の憐れみを求めるでしょうか。

また、罪を憎んで、罪と戦うでしょうか。そして、神様の助けのために願うでしょうか。

それが悔い改めです。

あなたの心はどうですか。

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サムエル記第二 歴代誌第一

罪の結果

この箇所は少し難解です。

第二サムエル記24章と歴代誌第一21章を比較すると、違いが見られます。

歴代誌第一21章には、こう書かれています:

サタンがイスラエルに逆らって立ち、ダビデを誘い込んで、イスラエルの人口を数えさせた。(歴代誌第一21:1)

けれども、第二サムエル記24章によると、

さて、再び主の怒りが、イスラエルに向かって燃え上がった。

主は「さあ、イスラエルとユダの人口を数えよ」と言って、ダビデを動かして彼らに向かわせた。(サムエル記第二24:1)

どのようにしてその二つの箇所を説明できるでしょうか。確かに矛盾しているように見えます。私自身も完全には理解していません。

とはいえ、列王記第一22章19-22を読むことで、何らかのヒントが得られるかもしれません。

その箇所には、イスラエルの歴史の中で最も悪い王の一人が登場します。その王はアハブという人物でした。

そして、神様の御心はアハブが死ぬことでした。そのため、神様はこう問いかけられました。

だれか、アハブを惑わして、攻め上らせ、ラモテ・ギルアデで倒れさせる者はいないのか。(列王記第一22:20)

そして、ある霊(たぶん悪霊)はこう答えました。

私が出て行き、彼のすべての預言者の口で偽りを言う霊となります。(列王記第一22:22)

だから、神様はその霊に許可を与えたため、結果的にアハブは死にました。

もしかすると、このダビデの話でも、同じようなことが起こったのかもしれません。

イスラエル人が罪を犯したために、神様は彼らを罰したいと望まれました。そのため、神様はサタンにダビデを誘惑する許可を与えました。

そして、ダビデは自分のプライドに負けて、イスラエルの人口を数えるという罪を犯しました。

この罪、そしてほかのイスラエル人たちの罪を通して、神様は彼らを罰されました。

これは本当に理解が難しい箇所です。

一見すると、神様が不公平であるように感じられます。なぜなら、神様がダビデに罪を犯させたかのように見えるからです。

けれども、その考え方は誤りです。

神様はダビデに罪を犯させたのではありません。神様はサタンにダビデを誘惑する許可を与えましたが、ダビデ自身が罪を犯すかどうかを選択する責任がありました。

そして、ダビデは罪を犯す道を選びました。

ヤコブはこう書きました。

だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。

神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。

人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。

欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。(ヤコブ1:13-15)

つまり、私たちは自分の心の中にある悪によって誘惑されます。

私たちが善良な存在だったのに神様が私たちに悪を植え付けたというわけではありません。

私たちの心には悪があり、それが誘惑によって引き出されるのです。

しかし、忘れてはならないのは、悪が現れるのは私たち自身の選択によるということです。

サタンがダビデを誘惑する前から、ダビデの心の中にはプライドが存在していました。サタンはただそのプライドを引き出したに過ぎません。

そのプライドは罪を生み、そして罪が熟すと死を生みました。罪の結果は死だからです。

悲しいことですが、死と破壊は罪の避けられない結果なのです。

神様にとって罪は本当に深刻なものです。神様は罪を必ず罰しなければなりません。

しかし、素晴らしい知らせがあります。それは、神様がその代価をすでに払ってくださったことです。

ダビデは、自分の罪のためにいけにえをささげる際、必要なもの(土地と牛)を所有者から購入しようとしました。

けれども、その所有者はこう言いました。「すべてを王に差し上げます。」

(おそらく、剣を持つ天使を見て恐怖を感じ、それを言ったのかもしれません。)(歴代誌第一21:20、27)

それに対して、ダビデはこう答えました。

いいえ、私はどうしても、代金を払って、あなたから買いたいのです。費用もかけずに、私の神、、主に、全焼のいけにえをささげたくありません。(第二サムエル記24:24)

神様は同じようなことを語られました。「私は費用をかけずにいけにえを捧げない。代価が必要です。」

そのため、神様は人間としてこの世に来られ、私たちの罪のために命を捧げてくださいました。その死によって、神様は罪の結果に対する代価を永遠に払ってくださいました。

そして、死の剣がさやに納められ、神様はすべての人に永遠の命を提供してくださいます。

ローマ6:23には、このように書かれています。

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

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サムエル記第二

いいリーダーの特徴

これは、ダビデの「最後の言葉」です。(実際には、ダビデの言葉はさらに多くあります。)

それにしても、ダビデの言葉は非常に興味深いものです。

おそらく、ダビデが王になった時に、神様がこの言葉をダビデにお与えになったのではないでしょうか。

すべてのリーダーがこの言葉を思い起こし、それに従って生きたならば、より良い結果を生み出したかもしれません。

義をもって人を治める者、神を恐れて治める者は、

太陽の上る朝の光、雲一つない朝の光のようだ。雨の後に、地の若草を照らすようだ。(サムエル記第二23:3-4)

どれほど、リーダーたちは義を持たずに人々を治めるでしょうか。そして、どれほど彼らは神様を恐れずに治めるのでしょうか。

多くのリーダーたちは、自分の利益を追い求めます。そのため、ほとんどの国において、政治家は悪い評判を得ています。

私たちはどれほどリーダーについて、次のように言うことができるでしょうか。

「太陽の昇る朝の光、雲一つない朝の光のようだ。雨の後に、地の若草を照らすようだ。」

このように語れるリーダーがどれほどいるでしょうか。

そして、ダビデはこう言いました。

まことにわが家は、このように神とともにある。とこしえの契約が私に立てられているからだ。このすべては備えられ、また守られる。

まことに神は、私の救いと願いとを、すべて、育て上げてくださる。(5)

実際、ダビデは家庭において失敗してしまったのです。

つまり、彼の家族は混乱状態に陥っていたのです。

これを書いた時点では、彼の家族の状況が少し良くなったかもしれません。

しかし、ダビデが亡くなる前には再び問題が生じました。具体的には、ダビデの息子たちであるアドニヤとソロモンが王位をめぐって争いました。

良いリーダーは、まず自分の家族をきちんと治める必要があります。それができなければ、その人が良いリーダーだと言えるでしょうか。

もし自分の家族を治めることができないのであれば、どうやって他の人々を治めることができるでしょうか。

だからこそ、私たちは自分の家庭内でどのようなリーダーであるかを深く考える必要があると思います。

神様は私たちの家族を見て喜んでくださるでしょうか。あなたの家族は互いに愛し合い、尊敬し合っているでしょうか。私たちの子供たちは私たちを尊敬してくれるでしょうか。

それとも、家庭内が全体的に混乱している状態でしょうか。

そして、家庭の外では、あなたはどのようなリーダーしょうか。

あなたは人々を大切にし、世話をしているでしょうか。そして、神様はあなたのリードする方法を見て喜んでくださるでしょうか。

あなたは人々を育て、彼らに喜びを与えているでしょうか。

それとも、あなたは彼らを傷つけているでしょうか。または、あなたの行動によって彼らが苦々しい思いを抱えているでしょうか。

リーダーとして、あなたの特徴はどのようなものなのでしょうか。

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サムエル記第二

私たちの祈りを聞き、助けと力を与えてくださる神

「神様はどこでしょうか。」

時々、試練の中で、私たちはこのように問いかけます。

「神様は私を見ていてくださるでしょうか。私の声を聞いてくださるでしょうか。」

ダビデもそのように感じることがあったのではないでしょうか。

けれども、自分の人生を振り返った時、ダビデはこの詩篇を書きました。

その時、ダビデは神様が自分をどれほど守り、祝福してくださったかを悟りました。そして、彼はこう書きました。

死の波は私を取り巻き、滅びの川は、私を恐れさせた。

よみの綱は私を取り囲み、死のわなは私に立ち向かった。(第二サムエル記22:5-6)

ダビデは、サウルやアブシャロムのことについて考えていたかもしれません。

また、ある戦いの記憶が頭をよぎっていたのかもしれません。その戦いの日、イシュビ・ベノブというペリシテ人が、疲れ果てたダビデに向かって「今、あなたを殺す」と宣言しました。

ダビデは、命の危険を感じて本当に恐れていたに違いありません。けれども、アビシャイがダビデを助け、そのペリシテ人を打ち倒しました。

それが、ダビデにとって最後の戦いとなりました(第二サムエル記21:16–17)。

そのことを思い起こしながら、ダビデは歌いました。

私は苦しみの中にを呼び求め、わが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、私の叫びは、御耳に届いた。。。

主は、いと高き所から御手を伸べて私を捕らえ、私を大水から引き上げられた。

主は、私の強い敵と、私を憎む者とから私を救いだされた。彼らは私より強かったから。

彼らは私のわざわいの日に私に立ち向かった。だが、は私のささえであった。

主は、私を広い所に連れ出し、私を助け出された。主が私を喜びとされたから。(第二サムエル記22:7,17-20)

この言葉を見るたびに、神様が私たちを罪からどのように救ってくださったかを思い起こします。

私たちの罪によって、私たちは死に値していました。しかし、私たちが神様に向かって叫んだ時、神様は私たちの声を聞き、大水から引き上げてくださいました。

自分自身では救われることができない時、神様は私たちを救い、広いところへ導き出してくださいました。

さらに、私たちが神様の助けが必要だと気付く前に、神様は人間としてこの世界に来られ、私たちの罪のために死んでくださいました。

だからこそ、ダビデのように私たちもこう言うことができます。

主はわが巌、わがとりで、わが救い主、

わが身を避けるわが岩なる神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。私を暴虐から救う私の救い主、私の逃げ場。(第二サムエル記22:2-3)

神様は私たちを救うだけではなく、私たちが戦う時には力を与えてくださいます。ダビデはこう書きました。

この神こそ、私の力強いとりで。私の道を完全に探り出される。

彼は私の足を雌鹿のようにし、私を高い所に立たせてくださる。(第二サムエル記22:33-34)

神様は私たちを救われた後、「では、自分自身の力で生きなさい」とは決して言われません。

むしろ、私たちがこの人生を歩んでいる間、神様は常に私たちと共に歩み、助けてくださいます。

鍵となるのは、私たちが神様に目を留め、謙遜に従うことです。

そして、ダビデはこう言いました。

あなたは、恵み深い者には、恵み深く、全き者には、全くあられ、

きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方。

あなたは、悩む民を救われますが、高ぶる者に目を向けて、これを低くされます。(第二サムエル記22:26-28)

ペテロもこう書きました。

ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(第一ペテロ5:6-7)

あなたは悲しんでおり、神様が本当におられるのか、また神様があなたを愛してくださっているのか問いかけているかもしれません。

そのような時は、ダビデの歌を思い出してください。そして、その歌を心の中で歌い続けましょう。

ダビデを助けてくださった神様は、きっとあなたも助けてくださいます。

だからこそ、謙遜な心で神様に従い続けましょう。

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サムエル記第二

情熱はあるけど、間違っている

情熱があることは良いことです。特に、神様とその民のために何かをする時に情熱を持つことは、本当に素晴らしいことです。

私たちが神様への愛に動かされて何かをする時、神様はそれを大いに喜んでくださいます。ただし…

ただし?

その通りです。例外があります。つまり、神様は私たちの情熱そのものには関心をお持ちではありません。

神様は、私たちが正しいことを行うことを望んでおられます。そして、もし情熱が原因で私たちが悪いことをするならば、それは神様を喜ばせるものではありません。

これが、この話のポイントです。2節にこう書かれています。

ギブオンの人たちはイスラエル人ではなく、エモリ人の生き残りであって、イスラエル人は、彼らと盟約を結んでいたのであるが、サウルが、イスラエルとユダの人々への熱心のあまり、彼らを打ち殺してしまおうとしたのであった。(サムエル記第二21:2)

ヨシュアの時代に、ギブオン人たちはイスラエル人を欺き、平和条約を結びました。(ヨシュア記9章)

騙されても、イスラエル人はその条約を守る必要がありました。

ところが、サウルはイスラエル(と神様?)への熱心さのあまり、ギブオン人を殺そうとしました。1節によると、サウルの家族も多くのギブオン人を殺害したようです。

そのため、イスラエルには三年間の飢饉が起こりました。しかし、ダビデがサウルとその家族の罪を解決した後、その飢饉は終わりました。

同様の問題は、クリスチャンの歴史の中にも見られます。例えば、十字軍やスペイン異端審問所は、クリスチャンの汚名として記憶されています。

多くの人々は神様への熱心さを持っていましたが、その結果、酷いことをしてしまったのです。

今でも、そのような問題を見ることができます。それは暴力的な行動に限りません。

多くのカルトの信者は神様への熱心さを持っています。例えば、モルモン教やエホバの証人です。彼らは宣教旅行に出かけ、多くの人々と神様について話します。

とはいえ、彼らの教えは誤っています。そのため、神様は彼らの活動を喜んでおられません。

毎年、多くの人々が「イエス様は今年戻られる」と信じ、自分の持ち物を売り、仕事を辞めて主を待ち望むことがあります。

彼らもまた、熱心さはありますが、誤った方向に向かっています。

では、問題は何でしょうか。パウロがその答えを示しています。

 私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。(ローマ書10:2)

この箇所で、パウロはイスラエル人について語っています。彼らは律法によって神様の前に義と認められるよう努力していました。

彼らも熱心さを持っていましたが、それは間違った方向に向かっていました。

しかし、パウロの言葉には一般的な真理が示されています。知識に基づかない熱心さでは、神様を喜ばせることはできません。むしろ、神様はそれを全く喜ばれません。

では、知識はどこから来るのでしょうか。それは神様の御言葉から来ます。

だからこそ、自分に問いかけるべき質問は次のとおりです。

「私はどれほど神様の御言葉を知っているでしょうか。神様の御心を知らずに、情熱だけがあるのではないでしょうか。」

このように問わなければならないのは、ある日あなたが神様の前に立つ時、本来なら神様に誉められるべきところで、神様から叱責を受ける可能性があるからなのです。

あなたの熱心さは知識に基づいたものでしょうか。

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サムエル記第二

破壊するプライド

プライド。

私たちのプライドがどれほど問題を引き起こし、関係を壊し、悪い行動を促すでしょうか。

プライドは新しい問題ではありません。聖書の初めにさかのぼっても、アダムとエバの話でその例を見ることができます。

彼らは自分のプライドによって、善悪の知識の木の実を食べました。

サタンが「あなたたちは神のようになる」と言ったことで、彼らはそれを信じて食べてしまったのです。

同じ問題はこの箇所でも見ることができます。

イスラエルの部族の中から10部族がダビデに願いました。「もう一度私たちの王になってください。」

けれども、ユダの人々は何かためらいがありました。それでも、ダビデが彼らに手を差し伸べたことで、彼らはダビデに従うことを決めました。そして、彼らはダビデと共にヨルダンを渡りました。

このことが他の部族の怒りを引き起こし、彼らは文句を言い始めました。

われわれは、王に十の分け前を持っている。だからダビデにも、あなたがたよりも多くを持っているはずだ。

それなのに、なぜ、われわれをないがしろにするのか。われわれの王を連れ戻そうと最初に言いだしたのは、われわれではないか。(サムエル記第二19:43)

それは、本当に些細なことでした。しかし、彼らはそのことを大きくしてしまいました。

ユダの人々の返事はその状況をさらに悪化させました。そのため、その状況はますます大変なものになりました。

なぜでしょうか。それは、プライドが原因でした。

どれほど、私たちの間でそのようなことが起こるのでしょうか。

どれほど、私たちは侮辱されたと感じた時に、喧嘩を始めるのでしょうか。そして、相手が謝罪せず、強い言葉で言い返すとどうなるでしょうか。

一方は侮辱されてプライドが傷つき、許すことができない。

もう一方は相手の感情を認めず、恵みを与えず、謝らないプライドを抱いている。

もしあなたか相手がそのプライドを手放さない場合、その関係は壊れてしまうでしょう。また、さらに悪い事態が起こる可能性もあります。

自分のプライドが傷ついたシェバという人は、ダビデに反抗を始めました。その結果、シェバは死にました。

ヨアブもまたプライドが傷つき、ダビデがアマサをヨアブの代わりにイスラエルの将軍に任命すると聞き、アマサを殺しました。その結果、ヨアブも最終的には命を落としました(列王記第一2:5ー6;28ー34)。

あなたが尋ねるべき質問は次のとおりです。

「私は自分のプライドを持っているでしょうか。それとも、私のプライドが私を支配しているでしょうか。」

自分のプライドを持っているとは、あなたの価値が神様から来ることを理解することです。つまり、神様があなたを造られ、あなたが神様の作品であることを認識することです。

そのため、他人と自分自身を比べる必要はありません。

そして、侮辱された時でも、それを無視することができます。なぜなら、あなたの価値はその人ではなく神様から与えられているからです。

あなたのプライドは神様のご意見によるものであり、人々の言葉に左右されることなく、ただ神様を喜ばせたいと願うからです。

一方、プライドがあなたを支配している場合とは、あなたのプライドがあなたの行動を支配し、自分や他人を傷つける状態を指します。

たとえば、他人と常に比較や競争をし、自分のプライドのために他人を踏み台にするような行動を取ります。

さらに、傷ついた際には相手を許さず、復讐しようとします。その結果、関係を壊してしまうことになります。

あなたはどうでしょうか。あなたは自分のプライドを持っているでしょうか。

それとも、プライドがあなたを支配しているのでしょうか。

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サムエル記第二

王が帰る時

ダビデはイエス様の先祖ですが、多くの点でダビデはイエス様の予表とされています。

ダビデは愛する人々に裏切られ、王位を奪われましたが、やがてその王位に返されました。

同じように、イエス様は私たちを愛してくださいましたが、私たちはイエス様に反抗し、サタンがこの世界の支配者となりました。

しかし、やがてイエス様はこの世界に戻り、その王位に返されるでしょう。

さらに、ダビデと同様に、キリストが帰られる時には三つのことが起こります。それは、あわれみ、裁き、そして報いです。

あわれみ:

シムイは罰に値していました。王を呪ったため、死に値するものでした。そのため、アビシャイはシムイを殺したかったのです。けれども、ダビデは彼にあわれみを与えました。

同じように、キリストが帰られる時、私たちも本来なら死に値するものです。

それでも、もしあなたがクリスチャンであるなら、すなわち、イエス様を信じ、キリストの十字架の働きを信じているならば、罰を受けることなく、あわれみを受けることができます。

とはいえ、私たちが受けるあわれみとシムイが受けたあわれみには、大きな違いがあります。

シムイのあわれみには代価がなく、その後、彼の行動によってダビデの息子ソロモンに裁かれ、命を落としました。

一方、私たちが受けたあわれみはイエス様の血によって払われました。そして、イエス様のいけにえのおかげで、私たちのあわれみは決して取り消されることはありません。

裁き:

イエス様が帰られる時、私たちは皆、自分の善行や悪行について裁きを受けます。クリスチャンも裁きに向き合います。

パウロはこのように記しました。

主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。

そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。(第一コリント4:5)

クリスチャンであれば、罪のために地獄に行くことはありません。それでも、神様は私たちの人生を照らし、行いと動機の両方を評価して、私たちを誉めたり、叱ったりされます。

ダビデはメフィボシャテを裁きました。つまり、ダビデがアブシャロムから逃げていた時に、メフィボシャテはダビデを支えることなく、喜んでいたと言われています。

けれども、私の考えでは、多分メフィボシェテのしもべであるツィバの方に問題があったと思われます。

ツィバはダビデから報いを得るために、メフィボシェテについて悪口を言った可能性があるのです。

ダビデはどちらが嘘をついているかを見分けることができなかったため、メフィボシャテとツィバにサウルの土地を分け与えるよう命じました。

しかし、ダビデと異なり、神様には何も隠されていません。

神様は私たちの心と動機を完全にご存じであり、正しい裁きをされます。

報い:

ダビデとその民が逃げていた時、金持ちのバルジライは彼らを助けました。そのため、ダビデは帰還後にバルジライに報いを与えたいと思いました。

同様に、イエス様が帰られる時には、忠実なクリスチャンに報いを与えられるのです。

イエス様はこのように語られました。

そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。

あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べ物を与え、わたしが渇いていたときに、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったときに、わたしに宿を貸し、

わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。。。

まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。 (マタイ25:34-36,40)

キリストはいつの日か王位に戻られるのです。

その日に、イエス様はあなたに何を語られるでしょうか。

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サムエル記第二

苦手な人から良いことを取捨選択する

多分、ダビデはすでにヨアブにうんざりしていたのでしょう。

まず、ダビデがイスラエルを統一しようとしていた時に、ヨアブはアブネルを殺しました。

さらに、ダビデが「私の息子アブシャロムを殺してはならない」と命じたにもかかわらず、ヨアブはアブシャロムを殺しました。

ダビデがそのことを知っていたかどうかは聖書に記されていません。とはいえ、ダビデの兵士の言葉によれば、「王には、何も隠すことはできません。」(第二サムエル記18:13)

また、ダビデはアブシャロムの将軍を自分の将軍にしようとしていたのです。

そして、ヨアブの弟アビシャイがシムイを殺そうとした時、ダビデはこう言いました。

ツェルヤの子らよ(ツェルヤはアビシャイとヨアブの父だった)。あれは私のことで、あなたがたには、かかわりのないことだ。

あなたがたは、きょう、私に敵対しようとでもするのか。(第二サムエル記19:22)

確かに、ダビデはヨアブにうんざりしていたことでしょう。

ヨアブは自己中心的で残酷な人でした。それでも、この箇所では、ヨアブはダビデに重要な助言を与えました。

ダビデはアブシャロムのために泣きすぎており、自分の涙が民に与える影響を理解していませんでした。

民はダビデのために戦い、ある者はダビデのために命を落としました。けれども、ダビデがアブシャロムのために涙を流していることを聞くと、彼らは恥ずかしさを感じ、町にこっそり戻ったのです。

そのため、ヨアブはダビデにこう告げました。

あなたは、あなたを憎む者を愛し、あなたを愛する者を憎まれるからです。

あなたは、きょう、隊長たちも家来たちも、あなたにとって取るに足りないことを明らかにされました。

今、私は知りました。もしアブシャロムが生き、われわれがみな、きょう死んだのなら、あなたの目にかなったでしょう。

それで今、立って外に行き、あなたの家来たちに、ねんごろに語ってください。

私は主によって誓います。あなたが外においでにならなければ、今夜、だれひとりあなたのそばに、とどまらないでしょう。

そうなれば、そのわざわいは、あなたの幼いころから今に至るまでにあなたに降りかかった、どんなわざわいよりもひどいでしょう。(サムエル記第二19:6-7)

ダビデはその言葉を聞いた時、きっとその助言を拒否するのは簡単だったでしょう。また、ヨアブへの怒りによって耳を閉ざすことも簡単だったはずです。

その言葉はダビデにとって苦しく響きました。さらに、ヨアブがアブシャロムを殺していたため、ダビデの心は複雑であったことでしょう。

けれども、ダビデはヨアブからの助言でさえも取捨選択することができました。彼は民のもとへ行き、感謝を述べ、彼らを励ましたのです。

時には、私たちもそのような態度を取る必要があります。

あなたには苦手な人がいるかもしれません。

親族かもしれないし、同僚や上司、あるいは教会の人かもしれません。過去に、その人から傷つけられたことがあるかもしれません。

しかし、そのような人が私たちの最善のために有益なことを言う場合があります。

その時には、ダビデのように、自分にとって好ましくない人の言葉を選別し、受け入れる姿勢が求められます。

それには謙遜が必要です。そして、聞く耳を持つことが求められます。

神様の言葉は、時に予想外の場所から与えられることがあります。

自分の感情によって、その大切な言葉を聞き逃すことのないようにしましょう。

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詩篇

砂漠の恋歌

ダビデはよく砂漠にいました。サウルから逃げた時も、アブシャロムから逃げた時も、砂漠に行っていました。おそらく、ダビデはアブシャロムから逃げた時に、詩篇63篇を書きました。

砂漠の中で、ダビデが疲れて、おなかが空いて、喉が渇いた時に、ダビデは書きました。

神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。(詩篇63:1)

つまり、「神様、私はおなかが空いて、喉が渇いているけれど、それよりも、あなたに渇き、あなたを慕います。」

ダビデの宮殿があるエルサレムでは、ダビデは幕屋で神様を礼拝することができましたが、砂漠では幕屋がありませんでした。だから、それを慕って、ダビデは書きました。

私は、あなたの力と栄光を見るために、こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ています。(2)

けれども、砂漠にいても、アブシャロムから逃げても、また幕屋から遠くても、ダビデは歌いました。

あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、私のくちびるは、あなたを賛美します。

それゆえ私は生きているかりぎ、あなたをほめたたえ、あなたの御名により、両手を上げて祈ります。(3ー4)

私たちが恋人についていつも考えるように、ダビデは神様について書きました。

ああ、私は床の上であなたを思い出し、夜ふけて私はあなたを思い出します。(6)

それに、ダビデは神様と親しい関係があったので、試練の中でも神様の愛によって慰められました。

あなたは私の助けでした。御翼の陰で、私は喜び歌います。

私のたましいは、あなたにすがり、あなたの右の手は、私をささえてくださいます。(7ー8)

あなたはどうですか。神様のための熱い心があるでしょうか。あなたの魂は神様を慕っているでしょうか。神様を愛して、寝る時にも、自然に神様について考え始めますか。

「Everything」という曲が大好きです。神様についての曲かどうか分かりませんが、あるクリスチャンがこの曲を書きました。そして、その歌詞はこの詩篇に似ています。

Find me here
ここにいる私を見つけて
And speak to me
そして話しかけて
I want to feel you
あなたを感じたい
I need to hear you
あなたの声を聞きたい
You are the light
あなたは光で
That’s leading me to the place
私を導いている
Where I find peace… Again
もう一度安らぎを見出せる場所へ

You are the strength that keeps me walking
あなたは私を歩き続けさせる力
You are the hope that keeps me trusting
あなたは私を信じさせ続ける希望
You are the light to my soul
あなたは私の魂にとっての光
You are my purpose
あなたは私の目的で
You’re everything
あなたは私のすべて

And how can I stand here with you
こうしてあなたと一緒に立っていると
And not be moved by you
感動せざるにいられない
Would you tell me how could it be any better than this?
これより素晴らしいものなんか他にあるだろうか

You calm the storms and you give me rest
あなたは嵐を静め、私に安息を与えてくれる
You hold me in your hands
その両手で私を包んで
You won’t let me fall
決して落ち込ませない
You steal my heart and you take my breath away
あなたは私の心を奪い、息もつけぬほど
Would you take me in, take me deeper now
私を受け入れてくれる?もっと深くまで?

And how can I stand here with you
こうしてあなたと一緒に立っていると
And not be moved by you
感動せざるにいられない

Cause you’re all I want,
なぜなら、私はあなただけを求めているから
You’re all I need
私が必要なのはあなただけです。
You’re everything, everything
あなたは私のすべてなんです。

ーーLifehouse

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詩篇

平和

平和。

私たち皆は平和を求めます。けれども、時々平和を見つけるのは難しいです。私たちはいろいろなことについて心配します。例えば、私はよく家計について心配します。

しかし、ダビデはもっと大きな問題がありました。詩篇3篇を書いた時に、アブシャロムがダビデを殺そうとしていたし、ダビデの状態は本当に大変でした。だから、ダビデは書きました。

主よ。なんと私の敵がふえてきたことでしょう。私に立ち向かう者が多くいます。

多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼に神の救いはない」と。(詩篇3:1ー2)

ダビデがパニックになるのは当然だと思います。心配するのも当然だと思います。

けれども、むしろダビデは祈りました。

しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。(3)

他のどんなことよりも、ダビデは神様に信頼しました。ダビデの盾は自分の兵士ではありませんでした。ダビデの栄光は自分の冠から来たものではありませんでした。むしろ、神様がダビデの盾であり、栄光でした。

そして、ダビデは祈れば、神様が聞いてくださると知っていました。

私は声をあげて、主に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えてくださる。(4)

ダビデは、この信仰によって平和を得ました。だから、彼は書きました。

私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから。

私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。(5ー6)

あなたはどうですか。同じことが言えるでしょうか。恐れずに、心配せずに安心することができますか。

ダビデのように神様を信じましょう。神様だけによって、平和を見い出すことができます。

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サムエル記第二

人々が滅びるときに、神様はどう感じるでしょうか

悪い人々が亡くなる時、多くの人々は喜ぶことがあります。

例えば、麻原彰晃が死刑執行された際、多くの人々が喜びを感じたかもしれません。その感情を私は理解できます。

しかし、そのような人々が亡くなる時、神様はどのように感じるでしょうか。

神様の心にかなう存在であったダビデの姿を見ると、神様の感情を少し理解できるのではないかと思います。

ダビデの息子アブシャロムが亡くなった時、ダビデはどのように反応したのでしょうか。アブシャロムはダビデを憎み、ダビデの王位を奪おうとしました。

それでもなお、ダビデはその息子の死を聞いた時、泣きながらこう言いました。

わが子アブシャロム。わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。

アブシャロム。わが子よ。わが子よ。(サムエル記第二18:33)

人々が滅びる時、神様も同じように感じられます。

たとえ私たちが神様を憎み、神様の王位を奪おうとしても、私たちが亡くなる時には、神様の心が苦しみ、涙を流されます。

だからこそ、約二千年前、神様はこの世界に来て、私たちの罪のために死んでくださいました。

私たちは死に値しましたが、神様が私たちの罰を受けてくださったのです。その生け贄によって、私たちは永遠の命を受けることができます。

パウロはこのように書きました。

正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ5:7ー8)

もし、神様が良い人々のために死なれたのなら、それは私たちにとって理解しやすいでしょう。けれども、事実はこうです。私たちは皆、罪人であり、地獄に値します。

それでも、神様は私たちを愛してくださったので、私たちが地獄に行くのを避けるために、ご自身の命を捧げてくださいました。

悪い人々が亡くなる時、あなたはどう感じますか。また、あなたを傷つけた人が苦しんだ時、あなたはどう感じるでしょうか。

神様が私たちに与えてくださった恵みを覚え続けましょう。そして、その恵みを私たちを傷つける人々にも分かち与えましょう。

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サムエル記第二

復讐の感情に負ける危険

聖書で、アヒトフェルはあまり知られていない人物です。この話を読み返すまで、私もアヒトフェルのことをあまり覚えていませんでした。

いずれにせよ、以前言ったように、彼はダビデの議官であり、バテ・シェバのお祖父さんでした。つまり、ダビデはアヒトフェルの孫と姦淫を犯し、バテ・シェバの夫を殺しました。

もし、なぜアヒトフェルがダビデを裏切ったのか知りたいなら、それが彼の動機であった可能性が高いと思われます。

ダビデの行動は、アヒトフェルの家名を汚したのです。

そのため、アブシャロムがアヒトフェルを味方に勧誘した時、アヒトフェルは全くためらわなかったのではないかと思います。

アヒトフェルの最初の助言は何だったのでしょうか。

それはイスラエルの人々の前で、アブシャロムがダビデのそばめたちと関係を持つことでした。

おそらくアヒトフェルは、それがこの場合の正義だと考えたのかもしれません。

けれども、それだけではなく、アヒトフェルのアブシャロムに対する戦略の助言を見ると、彼の感情がより鮮明に見えてきます。

私に一万二千人を選ばせてください。私は今夜、ダビデのあとを追って出発し、

彼を襲います。ダビデは疲れて気力を失っているでしょう。私が、彼を恐れさせれば、彼といっしょにいるすべての民は逃げましょう。私は王だけを打ち殺します。

私はすべての民をあなたのもとに連れ戻します。すべての者が帰って来るとき、あなたが求めているのはただひとりだけですから、民はみな、穏やかになるでしょう。(サムエル記第二17:1-3)

彼の言葉をよく見てください。

に一万二千人を選ばせてください。は今夜、ダビデの後を追って出発し、彼を襲います…は王を打ち殺します。」

アヒトフェルは復讐を求め、自分自身がその戦いを指揮し、ダビデを自らの手で殺すことを望んでいました。

しかし、それは実現しませんでした。

フシャイはアブシャロムに「私はあなたに仕えたい」と言いましたが、実際にはダビデの友人であり、ダビデのためにスパイとして活動していました。

フシャイはアブシャロムに別の助言を与え、アブシャロムはアヒトフェルの助言を捨てて、フシャイの助言に従いました。そしてフシャイは、その情報をダビデに送ったのです。

アヒトフェルはその状況を目にして、アブシャロムの計画が失敗することを悟り、自分の首をくくって命を絶ちました。

私たちは復讐の感情に負けると、どのような結果を招くでしょうか。

1.私たちは神様が与えてくださった恵みを忘れてしまいます。そして、神様が他者に恵みを与えることを恨むようになります。

アヒトフェルの怒りは理解できます。ダビデは確かにひどい罪を犯しました。

しかし、アヒトフェルが忘れていたのは、彼自身も神様の恵みを必要としていたということです。彼自身も罪を犯していたのです。

このことを理解できなかったために、彼はダビデを許すことができなかったのです。

2.私たちは愚かな選択をすることがあります。

アヒトフェルが実際にその戦いをリードするつもりだったのか、私は分かりません。彼は当時、60代から70代だった可能性が高いと思います。

彼がその戦いを指揮した場合、生き延びることができると本当に思ったでしょうか。けれども、彼は復讐を求めたため、そのリスクを取ろうとしたのです。

3.結局、復讐心は私たち自身を滅ぼします。

たとえ死に至らなくても、その感情は私たちから平和と喜びを奪います。

私たちはその痛みに焦点を当てるようになり、人生の良いことを見ることができなくなります。

そして、神様が私たちのために用意してくださっている良い計画を見ることもできなくなります。

あなたはどうですか。傷つけられたことがあるでしょうか。

その傷を手放しましょう。苦々しい思いを手放しましょう。復讐心を手放しましょう。

そうしなければ、最終的に滅びるのはあなた自身です。

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サムエル記第二

忍耐

英語では、「忍耐」というのは「Patience」と言います。

けれども、英語には他にもさまざまな表現があります。その一つが「Longsuffering」です。つまり、「長く苦しむこと」です。

ダビデは本当に長く苦しんでいました。

ダビデの息子はダビデの王位を奪い、ダビデの議官は彼を裏切り、さらにダビデの友人の息子も彼を裏切ろうとしていました。

そして、このサウル王の親戚はダビデを呪い始めました。

ダビデと同じ状況に置かれたら、多くの人々が罪に陥るのではないかと思います。

ダビデの甥アビシャイはこう言いました。

この死に犬めが、王さまをのろってよいものですか。

行って、あの首をはねさせてください。(サムエル記第二16:9)

しかし、愛している親しい人々からさまざまな傷を受けても、また知らない人から侮辱を受けても、ダビデは怒りによって行動することはありませんでした。

むしろ、ダビデはこう言いました。

見よ。私の身から出た私の子さえ、私のいのちをねらっている。今、このベニヤミン人としては、なおさらのことだ。

ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから。

たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう。(11-12)

人々があなたを傷つけたとき、あなたはどう反応しますか。相手に仕返しをしようとするでしょうか。

それとも、その痛みを手放し、神様の手に委ねるでしょうか。

それは簡単なことではありません。

私は、そういうときにただ黙るべきだとは言いません。できる限り、その人と和解しようと努力することが大切です。

とはいえ、それが無理な場合もあります。

ダビデの場合、和解はできませんでした。なぜなら、和解には相手も和解を求める姿勢が必要だからです。

でも、パウロが言ったように、

あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。(ローマ12:18)

和解できないのであれば、あなたの傷を神様に委ねましょう。そして、相手を許せるように祈り、また知恵を求めて祈りましょう。

つまり、相手に関してどうすれば良いかを神様に尋ねましょう。

そして、イエス様のようになりましょう。

ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。(第一ペテロ2:23)

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サムエル記第二

愛によって従う

この箇所では、裏切りと尽きることのない忠実さのテーマを見ることができます。

ダビデの息子アブシャロムや議官アヒトフェルからは、裏切りを見ることができます。

その一方、ダビデの友人であるイタイ、フシャイ、そして祭司たちからは、忠実さを見ることができるのです。

中でも、イタイは最も素晴らしい人物だと思います。

彼は外国人であり、亡命者でした。ダビデはイタイを受け入れて世話をしましたが、突然、ダビデ自身も亡命者となりました。

それにもかかわらず、イタイはダビデと共に行くことを望みました。

ダビデはイタイがエルサレムに残ることを説得しようとしてこう言いました。

どうして、あなたもわれわれといっしょに行くのか。

戻って、あの王のところにとどまりなさい。あなたは外国人で、それに、あなたは、自分の国からの亡命者なのだから。

あなたは、きのう来たばかりなのに、きょう、あなたをわれわれといっしょにさまよわせるに忍びない。私はこれから、あてどもなく旅を続けるのだから。

あなたはあなたの同胞を連れて戻りなさい。恵みとまことが、あなたとともにあるように。(サムエル記第二15:19-20)

でも、イタイはこう答えました。

主の前に誓います。王さまの前にも誓います。

王さまがおられるところに、生きるためでも、死ぬためでも、しもべも必ず、そこにいます。(21)

ダビデはイタイに親切を示したので、大変な状態になっても、イタイはダビデに従うことを決心していました。

イエス様も私たちにそのような愛と決心を望んでおられます。

弟子になりたい人に対してイエス様が語られた言葉は、ダビデがイタイに語った言葉に似ているのです。

狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。(マタイ 8:20)

つまり、イエス様に従うことは時々難しいです。いつも楽なことばかりではありません。

だから、私たちが自分自身に問いかけるべきことは、次のことです。

「私はどれほどイエス様を愛しているでしょうか。イエス様はサタンの国から私たちを救い出し、私たちの罪を赦してくださいました。そして、今、私たちは神様の子供となりました。だから、大変な時が来ても、私はイエス様に従い続けるでしょうか。」

マタイはイエス様の弟子になりたい人の選択について記しませんでした。

彼らは弟子になったのでしょうか。

それとも、難しすぎると思い、イエス様のもとを去ってしまったのでしょうか。

あなたはどうでしょうか。何を選びますか。

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サムエル記第二

正義とあわれみ

ダビデは難しい問題に直面しました。息子アブシャロムを愛していました。

けれども、アブシャロムは兄アムノンを殺しました。なぜなら、アムノンは妹タマルに関係を強いたからです。

アムノンが悪かったことは明らかですが、アブシャロムも罪を犯したため、イスラエルから追放されました。

とはいえ、第二サムエル記13章39節にはこう書かれています。

ダビデ王はアブシャロムに会いに出ることはやめた。

アムノンが死んだので、アムノンのために悔やんでいたからである。

どうやって正義とあわれみのバランスを取るべきでしょうか。残念ながら、ダビデはそのことをよく理解していませんでした。

ヨアブの助言によって、ダビデはアブシャロムの追放を終わらせました。それでも、アブシャロムがダビデに会うことを許しませんでした。

その結果、アブシャロムの怒りはさらに大きくなり、その心には恨みが渦巻いていきました。

アブシャロムはこう言いました。

なぜ、私をゲシュルから帰って来させたのですか。あそこにとどまっていたほうが、まだ、ましでしたのに。(サムエル記第二14:32)

結局、ダビデはアブシャロムと和解することができました。しかし、悪いことに正義が無視されました。

神様もそのような問題に直面されました。私たちを愛しておられましたが、アブシャロムのように、私たちは自分の罪によって神様の臨在から追放されました。

どうやって神様の愛と聖なる性格のバランスが取られるのでしょうか。

どうやって正義とあわれみのバランスが取られるのでしょうか。

神様は私たちを愛しておられ、方法を見つけてくださいました。

ヨアブがダビデに遣わした女の人の言葉が私は大好きです。

私たちは、必ず死ぬ者です。私たちは地面にこぼれて、もう集めることができない水のようなものです。

しかし、神はいのちを取り去らず、追放されている者が追放されたままにならないように、ご計画を立ててくださいます。(サムエル記第二14:14、新改訳2017)

神様の計画は何でしたか。それはイエス・キリストの十字架です。

約2000年前に、イエス様はこの世に来て、私たちの罪のために十字架で死なれました。

つまり、イエス様は私たちの罰を受けてくださったのです。その働きによって、神様は私たちと和解してくださいました。

ペトロはこのように書きました。

キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。

それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。(第一ペテロ3:18)

イエス様の死によって正義が行われました。そして、今、だれでもあわれみを受けることができます。

ヨハネはこのように書きました。

しかし、「イエス」を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。(ヨハネ1:12)

あなたはどうでしょうか。神様の赦しとあわれみを受け取ったでしょうか。

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サムエル記第二

父として失敗する

罪を犯すと、多くの場合、私たちが計画していない結果が起こります。

この箇所で、私たちはその真実を見ることができます。

ダビデはバテ・シェバと関係を持ち、姦淫を犯しました。そして、その主人を殺しました。

もし、その前にダビデが、自分の家族がどういう結末を迎えるのか知っていたら、まだその罪を犯したでしょうか。

英語では、諺があります。「この親にして、この子あり」。つまり、子供は親の例に従います。

ダビデの息子アムノンもそうしました。

お父さんのように、アムノンは女性を見て、自分の情欲を制することができませんでした。

だから、酷い罪を犯しました。つまり、異母姉妹タマルと関係を強いたのです。

ダビデはアムノンにとって悪い例でした。彼にどうやって自分の情欲を制するかを全然教えませんでした。

さらに、もう一つのことで失敗しました。ダビデはアムノンの罪について聞きましたが、全然何もしませんでした。

21節に書いてあるのは、ダビデが怒ったことです。けれども、それだけが書いてあります。ダビデは何もしませんでした。

結果は何だったでしょうか。タマルのお兄さんアブシャロムの心の中に、アムノンとダビデに対する怒りと恨みの種が蒔かれました。

そのため、アブシャロムはアムノンを殺し、最終的にはダビデの王位を取ろうとしました。

どうしてダビデは何もしなかったのでしょうか。私には分かりません。アムノンが長男だったからかもしれません。

しかし、もう一つの理由があったかもしれません。

ダビデはこう思ったかもしれません。「私も失敗した。バテ・シェバと関係を持ち、その主人を殺した。どうやってアムノンを罰することができるだろうか。」

とはいえ、アムノンを罰しなかったことで、ダビデは本当に失敗しました。

親として、私たちは神様から責任を委ねられています。つまり、子供を育てることです。

正直に言うと、私はその資格を持っていると感じません。私はよく、どうやって娘を育てるべきか悩んでいます。

それでも、良い例になる責任があるし、正しいことを教える責任があるし、時には彼女を躾ける責任もあります。

だからこそ、私は神様の助けを求めて祈ります。

あなたはどうですか。あなたはどのような親でしょうか。

あなたは子供にとって良い例でしょうか。彼らを躾けていますか。正しいことを教えていますか。

そうしないなら、私たちは子育てに失敗するだけでなく、神様から委ねられた責任を果たすこともできないのです。

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サムエル記第二

私たちが罪を犯す時

ダビデの罪が明るみに出ました。

預言者ナタンは、ダビデに面と向かって、素晴らしい知恵を持って、ダビデの罪について話しました。

その際、ナタンは羊の話を用いました。なぜなら、ダビデが若い時に羊飼いだったからです。

その話を聞いて、ダビデの心は本当に刺されました。

ナタンはこのように話しました。ある貧しい人は一匹の羊しか持っていませんでした。それゆえ、その羊が大好きでした。けれども、金持ちの人はその羊を奪い、焼いて、その羊肉を友達に与えました。

ダビデはそれを聞いて、本当に怒りました。ダビデはこう言いました。

主は生きておられる。そんなことをした男は死刑だ。(サムエル記第二12:5)

ナタンは答えました。

あなたがその男です。(7)

それを聞いたダビデは、自分の罪が明るみに出たことを悟りました。

ナタンの言葉は、ダビデの心を深く刺しました。

あなたはヘテ人ウリヤを剣で打ち、その妻を自分の妻にした。あなたが彼をアモン人の剣で切り殺したのだ。(9)

つまり、ダビデは自分の手でウリヤを殺したわけではありませんでした。それでも、ダビデの計画によってウリヤが殺されたため、その責任はダビデにありました。

ナタンは続けてこう言いました。

どうしてあなたは主のことばをさげすみ、わたしの目の前で悪を行ったのか。。。

あなたがわたしをさげすみ、ヘテ人ウリヤの妻を取り、自分の妻にしたからである。(9-10)

私たちは罪を犯したとき、そのことについてどの程度深く考えるでしょうか。つまり、私たちが悪いことをするということは、神様とその言葉をさげすむ行為なのです。

「私はあなたの言葉を気にしません。あなたは私に愛とあわれみを与えてくださいますが、私はそれを気にしません。あなたを傷つけても気にしません。自分がしたいことをします。」

意図的に罪を犯すとき、私たちはそのような態度を取っているのです。

さらに、私たちが罪を犯すと、周囲の人々が神様をさげすむきっかけを与えてしまいます。

ナタンはダビデにこう言いました。

あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせた。(14)

どれほど私たちの行動が原因で、人々がこう言っているでしょうか。

「この人はクリスチャンですか。神様はそのような方でしょうか。そうだとしたら、私はクリスチャンになりたくありません。」

さらに、私たちの罪は常に悪い結果をもたらします。

たとえダビデが悔い改め、祈ったとしても、彼とバテ・シェバの赤ちゃんは亡くなりました。

神様はダビデを赦してくださいました。そしてナタンはこう言いました。

主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。(13)

ダビデの罪の永遠の結果は取り去られました。

しかし、この世での結果は依然として残り、それはダビデとその家族に長い間影響を与え続けました。

パウロはこのように書きました。

思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。

自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。(ガラテヤ6:7-8)

罪は本当に深刻な問題です。

私たちの罪が大したものではないと考え、自分自身を欺かないようにしてください。

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サムエル記第二

あなたの罪を隠すことができない

私はミステリーの本が大好きです。特に、アガサ・クリスティの本が大好きです。コロンボの番組も好きです。

アガサ・クリスティが好きな理由は、私が殺人者を見つけたいからです。

コロンボが好きな理由は、コロンボがどのようにして殺人者を見つけるかを見たいからです。

とにかく、神様はイスラエル人にこのように言われました。

あなたがたの罪の罰があることを思い知りなさい。(民数記32:23)

ダビデはそう学びました。

彼は、自分の罪が完全犯罪だと思っていました。つまり、誰も自分の罪を知らないと考えていたのです。ダビデはウリヤの妻と関係を持ち、彼女が妊娠すると、その夫であるウリヤを殺しました。

けれども、第二サムエル記11:27には次のように書かれています。

しかし、ダビデの行ったことは主のみこころをそこなった。

つまり、神様はダビデの行動を完全に知っておられました。ダビデがその罪を隠そうとしても、神様はすべてをご存じでした。

さらに、もしダビデが「誰も知らない」と思っていたなら、それは自分自身を欺いていたことになります。

ヨアブはきっと知っていたでしょう。そして、ヨアブがそのことを他の人々に話した可能性もあります。

ウリヤの死についてのメッセージを運んだ人々も、きっと何かを感じ取っていたでしょう。

「なぜウリヤの死がそれほど重要なのか」と疑問に思ったかもしれません。

けれども、バテ・シェバの妊娠とダビデがすぐに彼女と結婚したことを見れば、そのメッセージを運んだ人々は、その理由を理解した可能性があります。そして、おそらくその噂を広めたのでしょう。

ダビデの軍隊はどうでしょうか。その馬鹿げた作戦に疑問を抱いた者がいたかもしれません。

ウリヤはダビデの30人の勇士の一人でした。誰かが、「この作戦は馬鹿げています。なぜこのようなことをするのですか。これでは誰かが命を落としてしまいます」と考えた可能性があります。

多分、ヨアブはただ「黙れ。私の命令に従いなさい」としか言えなかったのでしょう。

ダビデが妊娠しているバテ・シェバと結婚した時、どのような噂が広まったのか考えてみてください。

そして、ダビデの議官アヒトフェルについても考えてみましょう。彼はバテ・シェバの祖父でした。また、彼の息子もダビデの30人の勇士の一人でした。

その息子は、ウリヤが戦死した時の状況について、いったい何を話したのでしょうか。

そして、ダビデが彼の孫であるバテ・シェバと結婚した時に、どのような疑惑が生じたのでしょうか。

私には分かりません。けれども、そのような背景があったために、アブサロムがダビデの王位を奪おうとした時、アヒトフェルはダビデに背を向け、アブサロムを助けたのでしょうか。

アヒトフェルがアブサロムに与えた助言は、本当に皮肉に満ちていたと思います。

それは、次のようなものでした。

父上が王宮の留守番に残したそばめたちのところにお入りください。

全イスラエルが、あなたの父上に憎まれるようなことをされたと聞くなら、あなたに、くみする者はみな、勇気を出すでしょう。(第二サムエル記16:21)

アヒトフェルは、「ダビデはウリヤとバテ・シェバに酷いことをしたから、彼はこの恥に値する」と考えていたのでしょうか。

私のポイントは、私たちは自分の罪を隠すことができないということです。人々はその罪を知っているかもしれません。

私たちは、彼らを騙していると思うかもしれませんが、私たちが思う以上に彼らは知っている可能性があります。

たとえ他の人々を騙すことができても、神様を騙すことはできません。そして、ダビデを懲らしめられたように、神様は私たちを懲らしめてくださいます。

あなたはどうでしょうか。罪を隠していることはありませんか。周りの人々を騙していると思っていませんか。

他の人々を騙すことができても、神様を騙すことはできません。

だから、自分自身を騙さないでください。

罪を犯したなら、すぐに悔い改めましょう。

隠さないでください。その罪を告白しましょう。

いつか、その真実は明るみに出ます。

それがこの世界で明らかになるかもしれませんし、裁きの日に明らかになるかもしれません。

それゆえ、今すぐその罪を告白し、悔い改めるほうが良いでしょう。

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サムエル記第二 歴代誌第一

私たちが心を頑なにすると

今日は、ダビデの最も低い状態について考えます。

アメリカでは、ノン・クリスチャンがダビデを思い浮かべるとき、二つの出来事を連想します。ゴリアテとの戦い、そしてバテ・シェバとの不倫です。

一つはダビデの最大の勝利であり、もう一つはダビデの最大の失敗です。

いったいどうして、神様の心にかなうと言われたこの人物が、そんな最悪の事態に陥ってしまったのでしょうか。それは、彼が自分の心を頑なにしてしまったからです。

以前言ったように、この罪の種は、その前に蒔かれていました。

神様がイスラエルの王たちに与えられた命令は、「多くの女性を妻にしてはならない」というものでした。

けれども、ダビデはその戒めを無視して、複数の女性を妻にしたのです。

その態度が原因となり、この箇所の問題が生じました。

少し想像してみてください。もしダビデが若い時から神様の戒めに従っていたらどうなっていたでしょうか。

罪を犯すこと自体はあり得たかもしれません。しかし、若い時に誘惑と戦い続けていたなら、つまりずっと情欲と戦っていたなら、バテ・シェバを見た時に誘惑から逃れられた可能性があるのではないでしょうか。

けれども、ダビデには他にも失敗がありました。

第二サムエル記と歴代誌第一によると、王たちが出陣するころ、ダビデはエルサレムに留まっていました。ダビデの軍隊とその将軍が出陣したのに対し、彼自身は自分の家にとどまっていたのです。

つまり、ダビデは自分の国を守ることもせず、また神様が「取りなさい」と命じられた土地を取ることもしないまま、自宅で寛いでいたのです。

英語のことわざに、「怠け者の頭は悪魔の仕事場」というものがありますが、ダビデの場合、このことわざがまさに当てはまりました。

私たちも、するべきことを放棄してずっと寛ぐならば、誘惑に対して脆弱になってしまいます。

特にインターネット上のポルノに関して、多くの男性はこの真理を理解できるのではないでしょうか。

私たちは退屈を感じ、何気なくインターネットを始めた結果、罪に陥ってしまうことがあるのです。

ダビデはさらに大きな過ちを犯しました。

彼は屋上からバテ・シェバが体を洗っているのを目にしましたが、すぐに自分の部屋に戻ることはせず、その場に立ち続けて彼女を見続けました。

その後、バテ・シェバについて尋ねました。

ダビデがすぐに知ったのは、彼女がダビデの30人の勇士の一人の娘であり、さらにダビデの議官アヒトフェルの孫であるということでした(第二サムエル記23:34)。

そして、彼女は30人の勇士の一人、ウリヤの妻でもあったのです。

それでも、ダビデは自分の心を頑なにし、バテ・シェバを呼び寄せて彼女と関係を持ってしまったのです。

その結果、バテ・シェバが妊娠すると、ダビデは自分の罪を認めることをせず、それを隠そうとしました。

彼はウリヤを呼び戻し、戦争がうまくいっているかどうか尋ねました。その後、ダビデはこう言いました。

「では、どうぞ家に帰ってください。疲れているでしょう?リラックスしてください。」

もちろん、ダビデの真の意図は、ウリヤがバテ・シェバと寝ることで、自分の罪を隠そうとすることでした。

ところが、ウリヤは家には帰りませんでした。

ダビデが「どうして帰らないのか」と尋ねると、ウリヤは答えました。

神の箱も、イスラエルも、ユダも仮庵に住み、私の主人ヨアブも、私の主人の家来たちも戦場で野営しています。

それなのに、私だけが家に帰り、飲み食いして、妻と寝ることができましょうか。

あなたの前に、あなたのたましいの前に誓います。私は決してそのようなことをいたしません。(第二サムエル記11:11)

ダビデはそれを聞いたとき、その心が刺されたかもしれません。

ウリヤがダビデに本当に忠実であったにもかかわらず、ダビデはウリヤの妻と関係を持ち、そのことについて彼を欺こうとしたのです。

その後、ダビデはウリヤを欺くことができなかったため、ウリヤを殺し、バテ・シェバと結婚しました。

将軍ヨアブがダビデにウリヤの死を伝える場面を見ると、私たちはダビデの心の状態をよく理解することができます。ダビデはこう言いました。

このことで心配するな。剣はこちらの者も、あちらの者も滅ぼすものだ。(第二サムエル気11:25)

ダビデの心は本当に冷たかったです。

どうやって神様の民は罪に落ちるのでしょうか。

それは、私たちが心を頑なにするときです。心が硬くなれば硬くなるほど、心は冷たくなります。

そして、心が冷たくなればなるほど、罪はますます深く、悪くなっていくのです。

あなたの心はどうですか。心を罪に対して頑なにしていますか。

そのようにすれば、ダビデのように罪に落ちます。

ダビデはおそらく、そのような罪を決して犯さないと思ったかもしれません。あなたもそのように思うかもしれません。

しかし、私たちが心を硬くするなら、私たちもダビデのようになるかもしれません。本当に酷い罪を犯すかもしれません。

どれくらい、クリスチャンのリーダーが罪に落ちたという話を聞いたことがあるでしょうか。

もし彼らが失敗するなら、私たちも失敗する可能性があります。

ですから、心を守り、神様に対して柔らかくあり続けるようにしましょう。

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サムエル記第二 歴代誌第一

私たちが弱い時

この箇所では、興味深く学ぶべき点がたくさんあります。

一つ目は、誰に助言を求めるか注意した方が良いということです。

アモン人の王が亡くなった際、その息子ハヌンは悪いアドバイスを受けました。具体的には、ダビデがその父を悔やむために家来を派遣した際、ハヌンのアドバイザーがこう言ったのです。

ダビデがあなたのもとに悔やみの使者をよこしたからといって、彼が父君を敬っているとでもお考えですか。

この町を調べ、探り、くつがえすために、ダビデはあなたのところに家来をよこしたのではありませんか。(サムエル記第二10:3)

そこで、ハヌンはダビデの家来に恥をかかせて追い出しました。その侮辱が原因で戦争が始まりました。

二つ目の学びとして、アラム人はアモン人と一緒にイスラエル人と戦った際、一度打ち負かされても再び団結し、戦い続けたということです。

同じように、私たちがサタンと戦う時、サタンが一度敗北しても決して諦めることはありません。むしろ、後になって再び攻撃してくるので、私たちは常に警戒しなければなりません。

けれども、一番印象に残るポイントは、ヨアブとその弟の軍隊が敵に囲まれる状況を理解した際、彼らが二つのグループに分かれ、ヨアブがこう言ったことです。

もし、アラムが私より強ければ、おまえが私を救ってくれ。もし、アモン人がおまえより強かったら、私がおまえを救いに行こう。(第二サムエル記10:11)

時々、私たちは霊的な攻撃に直面します。それはサタンからの誘惑かもしれませんし、試練かもしれません。そして、その時、私たちは自分が弱く、倒れそうだと感じることがあります。

もちろん、私たちは神様に頼るべきです。しかし、神様の御心は、私たちが力を得るために互いに助け合うことでもあります。

パウロはこう言いました。

互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい(ガラテヤ6:2)

あなたは弱さを感じていますか。倒れてしまいそうだと思っていますか。

そんな時は、互いに重荷を負い合い、一緒に祈り合い、支え合いましょう。

そうすることで、ヨアブとダビデが得たような勝利を私たちも得ることができるのです。

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サムエル記第二

神様の恵み

聖書を通読したことがあり、この箇所を何度も読んだことがありますが、今日、初めて気づいたことがあります。

第3節で、ダビデはこう言いました。

サウルの家の者で、まだ、だれかいないのか。私はその者に神の恵みを施したい。(サムエル記第二9:3)

印象深い言葉は「神様の恵み」ということです。ダビデはただ「その者に恵みを施したい」と言ったのではありません。彼は「神様の恵み」を与えたいと思っていました。

おそらく、ダビデは自分の人生の中で神様の恵みを覚えていたのでしょう。彼は末っ子で、貧しい羊飼いであり、決して重要な人ではありませんでした。

それでも、神様はダビデを選び、祝福されたのです。だからこそ、ダビデはヨナタンのためにサウルの家に属する者を祝福したいと思ったのです。

メフィボシェテという人は、ヨナタンの息子でした。けれども、サウルの子孫であることから、ダビデの王位に対する脅威となる可能性がありました。

そのため、メフィボシェテはおそらく「私は殺されるかもしれない」と思ったでしょう。

実際、彼は非常に困難な人生を歩んできました。ヨナタンが殺された日に事故があり、その結果、メフィボシェテの足は不自由になってしまったのです。

けれども、ダビデはメフィボシェテを殺すのではなく、神様の恵みを与えました。彼はサウルの土地をメフィボシェテに返し、さらにメフィボシェテが生涯にわたってダビデと共に食卓を囲むことを許しました。

神様の恵みとは何でしょうか。

それは、私たちが本来値しないのに、なお与えられるものです。

私たちは救いに値せず、神様の賜物にも値しません。しかし、神様はそれを私たちに与えてくださいました。それこそが恵みです。

一方で、私たちは罪のために罰に値し、死に値します。それでも、神様は私たちを赦し、私たちが本来値するものを与えませんでした。それが憐みです。そして、それは神様の親切さそのものです。

一方で、私たちは罪のゆえに罰に値し、死に値します。それでも、神様は私たちを赦し、本来私たちが受けるべきものを与えられませんでした。

それが憐れみです。そして、それこそが神様の親切さそのものなのです。

あなたは、この神様の親切さを周囲の人々に分け与えていますか。神様から恵みと憐みを受けたように、あなたは家族や友人、同僚、そして隣人にその親切さを示しているでしょうか。

私たちもダビデのように、この世界に神様の親切さを与えましょう。その愛と恵みによって、この世界に良い影響を広げていきましょう。

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サムエル記第二 歴代誌第一

勝利を得るため

この箇所を見ると、ダビデの勝利によって、初めてカナンに入ったイスラエル人が「勝利できない」と言ったのは、ただの言い訳であったことが分かります。

士師記には繰り返しこのような話が登場します。つまり、イスラエル人の敵が鉄の馬車などを持っていたため、イスラエル人はカナン人を追い払うことができなかったというものです。

けれども、ダビデの敵はさらに優れた武器を持っていたにもかかわらず、ダビデは勝利を収めました。なぜでしょうか。それはダビデが神様に信頼したからです。一方、その時代のイスラエル人はそうしませんでした。

神様は私たちに勝利を与えたいと望んでおられます。それにもかかわらず、私たちはしばしば自分自身を説得して「勝利できない」と思い込んでしまいます。

例えば、良い仕事を探す時、良い妻や夫を見つけようとする時、また罪と戦う時に、よくこう思うのです。「私は勝てない。」

「この仕事には絶対に就けないから、面接に挑戦するのはやめておこう。」

「その人とデートをしても、どうせ最後には捨てられるだろう。」

「この罪と何度も戦ってきたけれど、いつも負けている。もう戦い続ける意味があるのだろうか。」

しかし、私たちが自分自身に問いかけるべき質問があります。

「神様は本当に私と共にいてくださるでしょうか。神様は本当に私の味方でいてくださるでしょうか。神様は私のために良いことを望んでおられるでしょうか。」

もしそう信じなければ、私たちは信仰によって踏み出すことができません。むしろ、恐れによって立ち止まったままになります。

あなたはどうでしょうか。今、勝利を得ていると感じていますか。

私は正直に言います。多くの場合、恐れが私の前進を妨げています。「やっぱり、私はできない」と思ってしまうのです。

私はもっと神様に信頼し、信仰によって歩む必要があります。

だから、これを書きながら、自分自身に語りかけているのです。

主よ、私の人生において、勝利が欲しいです。けれども、「私はダメだ」と思ってしまうことが多いのです。また、過去の失敗を思い出して「無理だ」と感じてしまいます。

どうか、私が初期のイスラエル人のようにはならないようにしてください。むしろ、ダビデのように信仰によって踏み出し、勝利を得られるよう助けてください。 主イエス・キリストのみ名によって祈ります。 アーメン。

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サムエル記第二 歴代誌第一

神様は私のことを考えておられる

きれいな夜に星空を見上げたことがありますか。日本に来てから、私はそれをあまり見ません。時々、星が見えることもありますが、ほんの少しだけです。

けれども、ハワイの山にいた時、その星空は本当に素晴らしいものでした。その時、私は自分の小ささを感じました。そして、こう思いました。

「この宇宙がこんなに大きいのに、神様は私を愛しておられるのでしょうか。私の名前を知っておられるのでしょうか。私のために計画を持っておられるのでしょうか。信じられない。それは本当に素晴らしいことです。」

ダビデも、同じように感じたのです。新しい宮殿で王座に座りながら、彼はこう思いました。「私はこの素晴らしいところに住んでいるのに、神様は天幕にしかおられないのですか。」

そこで、ダビデは神様のために素晴らしい宮を建てる計画を立て始めました。

ところが、神様はダビデの計画を止められました。なぜでしょうか。第一の理由は、神様には宮が必要なかったからです。なぜなら、神様は霊であり、物理的な場所を必要とされなかったからです。

第二の理由は、ダビデが戦争で多くの人々を殺してきたことです。そのため、神様はそのような人が宮を建てることを望まれなかったのです。

おそらくダビデにとって、神様の言葉は少し辛いものであったかもしれません。けれども、神様はすぐにダビデを励まされました。神様はこう言われました。

「あなたは私のために家を建てたいと思いましたが、実際には私はあなたのために家を建てます。そして、あなたの王国と家を永遠に堅く立てます。」(第二サムエル記7:11-16)

イエス様は神の子でありながら、人間としてはダビデの子孫です。そのため、イエス様がこの世界に戻られる時、その預言を成就して、この世界を永遠に支配されます。

では、ダビデの反応はどのようなものだったのでしょうか。

神、主よ。私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので、あなたはここまで私を導いてくださったのですか。

神、主よ。この私はあなたの御目には取るに足らない者でしたのに、あなたは、このしもべの家にも、はるか先のことまで告げてくださいました。

神、主よ。これが人の定めでしょうか。(第二サムエル記7:18-19)

「私はいったい何者でしょうか。」

ダビデが理解したのは、自分が決して重要な人ではなかったということです。けれども、神様はダビデを粗末な場所からこの素晴らしいところまで導かれました。それはダビデ自身の栄光のためではなく、神様の栄光のためでした。

私たちは埃のように取るに足らない存在です。宇宙の中では小さな一点に過ぎません。しかし、神様は私たちに目を留め、私たちを愛しておられます。

それだけではありません。神様の手は私たちの上にあり、私たちを支え続けてくださいます。

ダビデはそれを理解し、こう記しました。

そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。(詩編139:6)

あなたは、自分が愛されていないと感じることがありますか。必要とされていないと思うことがありますか。自分は取るに足らない存在だと思ってしまうことがありますか。

そんなときは、このことを思い出してください。

「神様は私のことをいつも心に留めておられます。

この広大な宇宙の中で、また、この世界で数え切れないほどの出来事が起きている中で、神様は私のことを考えておられるのです。神様は私を知っておられます。

そして、神様は私のために計画を持っておられます。」

私は一体何者なのでしょうか。
世界でただ一人の主が、
私の名前を覚えていてくださるとは。
私が悩んでいるときに、
神様が同情してくださるとは。

私は一体何者なのでしょうか。
明るく輝く明けの明星が、
迷い続ける心のために、
道を照らしてくださるとは。

私だからという理由ではなく、
あなたの行いによって、
私が何かをしたからではなく、
あなたの性格が素晴らしいからです。

私はすぐにしぼんでしまう花、
今日はあっても明日には消える存在、
海に打ちつけられる波、
風の中に漂う霧のようです。

それでもあなたは、
私が呼ぶときに耳を傾け、
倒れそうなときに助けてくださいます。
そして、あなたは私に、
「あなたは私のものだ」と教えてくださいました。

私は誰を恐れるでしょうか。
なぜなら、私はあなたのものだからです。

ーージョン・マーク・ホール

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サムエル記第二 歴代誌第一

苦々しい心は私たちを食い尽くす時

喜びの日であるはずだったのに、その最後はそうではありませんでした。

ダビデは自分の過ちに気づき、神様がオベデ・エドムという人をどのように祝福されたかを見て、その箱をエルサレムに運ぶことを決意しました。

ダビデは祭司たち、レビ人、ミュージシャン、歌手、イスラエルの長老、そして軍隊を集め、一緒にその箱を運びました。

その間、ダビデは飛び跳ねながら喜び踊っていました。

けれども、ある人がダビデを見ていました。それは妻のミカルでした。そして、それを見たとき、ミカルは心の中でダビデをさげすんだのです。

ダビデが家に帰ったとき、ミカルはこう言いました。

イスラエルの王は、きょう、ほんとうに威厳がございましたね。

ごろつきが恥ずかしげもなく裸になるように、きょう、あなたは自分の家来のはしための目の前に裸におなりになって。(第二サムエル記6:20)

この箇所を読むと、私はこう思います。「ミカルは本当にダビデの行動に反対していたのでしょうか。それとも、ミカルの心の中にはもっと深い問題があったのでしょうか。」

少し考えてみましょう。その前に、ミカルの父親と兄弟たちは戦争で命を落としていました。また、ミカルは愛していた夫から引き離されていました。(第二サムエル記3:13-16)

さらに、今のミカルはダビデの愛を巡り、6人の妻と競わなければならない状況にありました。

彼女が苦々しい思いを抱く権利があったとしても不思議ではありません。おそらく、ミカルの言葉はその苦々しい心から来たのだと思います。

私がダビデの行動を正当化しているわけではありません。ダビデは6人の妻と結婚し、神様の戒めを守りませんでした。(申命記17:17)

その時代の文化においてはダビデの行動は受け入れられていたかもしれませんが、神様は「多くの妻を持つことは禁じられています」と言われました。

さらに、私が以前言ったように、ダビデはミカルに「私に戻りたいですか」と尋ねるべきでした。

けれども、ダビデはミカルにその選択肢を与えませんでした。

それにしても、ミカルは自分の苦々しい心が自分自身を食い尽くすことを許したため、大変な状態は本当にみじめな状態へと変わりました。

第二サムエル記6:23の意味は少し微妙です。どうしてミカルは子供ができなかったのでしょうか。

神様が彼女の胎を閉じられたのでしょうか。

それとも、ダビデがミカルを避けたのでしょうか。

または、ミカルがダビデを避けたのでしょうか。それは明確には示されていません。

はっきりしていることは、その苦々しい心がミカルの死ぬまで続き、彼女自身をみじめにさせたということです。

あなたの心にはどうでしょうか。苦い根があるでしょうか。あなたは苦々しい思いを抱く権利があると思っているかもしれません。それは事実かもしれません。

しかし、重要なのは、あなたにその権利があるかどうかということではありません。むしろ、あなたがその苦い心があなたを滅ぼすことを許してしまうかどうかということです。

もしあなたが自分の苦々しい思いが自分を食い尽くすことを許してしまったら、次第にあなたの喜びは失われてしまいます。

私たち全員が辛い状況を経験します。私たちには皆、苦々しい思いを抱く理由があるかもしれません。

それでも、心に留めておいてください。私たちは常に状況をコントロールすることはできませんが、自分の反応をコントロールすることはできるのです。

あなたは苦々しい思いを抱き続けますか。それとも、自分の痛みを神様に委ね、神様の癒しを受け入れますか。

神様が私たちの問題を取り去られないこともあるかもしれません。しかし、苦難の中でも、神様はあなたに平和と喜びを与えてくださいます。

そして、神様はあなたの人生を意味あるものへと変えてくださるのです。

あなたはどちらを選びますか。

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サムエル記第二 歴代誌第一

情熱はあるけど、服従がない

神様は情熱のある人々を好まれます。とはいえ、情熱だけでは十分ではありません。神様は服従も求められます。

この箇所で、ダビデはそのことを学びました。

ダビデは神の箱をエルサレムに持ち帰ることができて、本当に嬉しかったのです。

サウルの時代にはその箱が無視されていましたが(歴代誌第一13:3)、ダビデはサウルの過ちを繰り返したくありませんでした。神様がダビデの王国の中心におられることを望んだからです。

その箱をエルサレムに運んでいる間、ダビデとその民は力の限り踊り、歌い、楽器を演奏していました。

しかし、一つの問題がありました。昔、神様はその箱の運び方について具体的な指示を与えられていました。つまり、レビ人だけがその箱を運ばなくてはならなかったのです。

それにもかかわらず、ダビデはそれを守りませんでした。なぜでしょうか。おそらく、それを知らなかったからでしょう。または彼がこう思ったのかもしれません。

「一番運びやすい方法はカートだろう。では、新しいカートを作って使おう。」

そして、神の箱をその新しいカートの上に置き、牛に引かせる形にしました。

けれども、箱を運んでいる間に、牛がそれをひっくり返しそうになったため、ウザという人がその箱を押さえました。けれども、箱に触れることは禁じられていたのです。その結果、神様が彼を打たれたので、彼は死んでしまいました。

ダビデはそれを見たとき、非常に神様に怒りを覚えました。

しかし、後に彼は自分の罪に気づきました。ダビデは神様に対して情熱を持っていたものの、服従が欠けていたのです。

そのため、後にダビデはこう言いました。

最初の時には、あなたがたがいなかったため、私たちの神、主が、私たちに怒りを発せられたのです。

私たちがこの方を定められたとおりに求めなかったからです。(歴代誌第一15:13)

その日、ダビデは本当に大切なことを学びました。情熱があることは素晴らしいことです。けれども、服従も必要です。情熱だけでは十分ではありません。私たちは神様の戒めを守るべきです。

時々、人々はこう考えます。

「どうして、天国に行きたいなら、イエス様しか行く方法がないのでしょうか。たくさんの誠実な人々が正しいことをしようとしていて、彼らは熱心に神様を求めていますが、クリスチャンではありません。どうして、彼らは天国に行くことができないのでしょうか。」

その理由は、真実さと情熱だけでは十分ではないからです。完全な情熱と完全な真実があったとしても、もし神様の戒めを守らなければ、それには意味がありません。

では、神様の命令とは何でしょうか。

神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。

神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。(第一ヨハネ3:23-24)

一番大切な命令はイエス様のみ名を信じることです。つまり、私たちの救いのためにイエス様を信じることを意味します。そうしないなら、私たちの真実さと情熱には意味がありません。

情熱のない服従は良くありません。なぜなら、神様は私たちの心を求めておられるからです。

とはいえ、服従のない情熱も良くありません。不従順は私たちが神様に信頼していないことを示します。

もう一度言います。神様は私たちの心を求めておられます。

そして、服従はその信頼の証しとなるのです。

あなたはどうでしょうか。従順さのない情熱を持っているでしょうか。

それとも、情熱のない服従をしているでしょうか。

あるいは、その両方があるでしょうか。

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サムエル記第二 歴代誌第一

欠点のある人々、力をもつ人々

たくさんの箇所をスキップしましたが、心配しないでください。明日、戻ります。けれども、年代順に話を進めたいので、この話はここで触れる方が良いと思います。

この箇所は、非常に興味深い人々についてです。ダビデがサウルから逃げていた時、この人々はダビデの元に集まってきました。そして、サウルが亡くなった後、この人々はダビデが王になることを助けました。

しかし、彼らはどのような人々だったのでしょうか。

第一サムエル記22:2には、このように書かれています。

また、困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、ダビデは彼らの長となった。

そのような人々はダビデの軍隊となりました。つまり、欠点のある人々がダビデの民となったのです。

ヨアブ、アビシャイ、そしてアサエルを見ると、それがよく分かります。この三人は本当に殺伐な人々でした。彼らは相手を殺すのも早く、復讐するのも早かったのです。

ダビデの民のすべては、欠点のある人々でした。けれども、彼らには共通点がありました。彼らはダビデを愛し、ダビデに忠実だったのです。

ある日、ダビデがのどの渇きを覚えた時、彼の民はペリシテ人の陣営を突き抜けて、水を取って戻ってきました(第二サムエル記23:15–17)。

その後、ベニヤミンの人々(つまり、サウルの部族の人々)はダビデの元に行き、こう言いました。

ダビデよ。私たちはあなたの味方。エッサイの子よ。私たちはあなたとともにいる。

平安があるように。あなたに平安があるように。あなたを助ける者に平安があるように。まことにあなたの神はあなたを助ける。(歴代誌第一12:18)

そのダビデに対する愛と忠実さによって、彼らは素晴らしいことを成し遂げることができました。

私たちの神様との関係も同じです。私たち全員は欠点のある人々です。私たちは罪を犯し、弱さを抱えています。時には、その欠点に気づけないこともあります。

それでも、もし私たちが神様を愛し、心を尽くして神様に従うなら、神様は私たちを素晴らしいことを成すために用いてくださいます。

神様はどんな人でも、男性でも女性でも、用いることができます。しかし、神様はあなたの心を必要としておられます。神様はあなたの心を持っておられるでしょうか。

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サムエル記第二 歴代誌第一

敵に追われている。神様を求めている。

ペリシテ人はすぐに、ダビデがイスラエルの王になったことを知りました。

ペリシテ人の王アキシュはどう感じたのでしょうか。驚いたでしょうか。裏切られたと思ったでしょうか。

とにかく、ペリシテ人はすぐに反応しました。彼らは皆、ダビデを狙って攻め上がってきたのです。もちろん、彼らはダビデを殺したかったのだと思います。

ペリシテ人がダビデを狙い、倒そうとしたように、サタンも私たちを狙って倒そうとします。

私たちがクリスチャンになる前は、サタンは私たちをあまり気にしませんでした。しかし、私たちが神様の国に入ると、サタンはすぐに私たちに注意を払うようになります。

それは、私たちがサタンの国から逃れ、その国にとって脅威となるからです。つまり、私たちは他の人々をサタンの国から救い出し、神様の国へと導く存在となるからです。

だからこそ、サタンは私たちにすぐ攻撃を仕掛けてくるのです。

それは、家族や友達、または同僚からの迫害であるかもしれません。あるいは、もっと微妙な方法を使ってくるかもしれません。例えば、サタンはいろいろな誘惑を通して私たちを倒そうとします。

私たちはどうすれば良いでしょうか。ダビデのように、私たちは神様を求めるべきです。

ダビデが神様を求めた時、神様は敵の攻撃からどう守るかを教えてくださいました。そしてダビデは勝利を収めました。

私たちも同じです。サタンがあなたを狙っているでしょうか。周りの人々から攻撃を受けていますか。それとも誘惑に直面していますか。

神様を求めてください。そして、神様の助けを求めてください。

そうすれば、神様はどうすれば良いかを教えてくださり、勝利を収めるための力を与えてくださいます。

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サムエル記第二 歴代誌第一

神様の栄光と国と民のため

長い間逃亡者として生きていた後、ダビデはついに全イスラエルの王となりました。その印の一つとして、ダビデのために宮殿が建てられました。そして、その王座に座ったとき、ダビデは悟りました。

主が彼をイスラエルの王として堅く立て、ご自分の民イスラエルのために、彼の王国を盛んにされた。(第二サムエル記5:12)

ダビデが理解したのは、神様がダビデ自身の目的のために彼を王にされたのではないということです。むしろ、神様の目的のためにダビデを王にされました。

そして、その民がダビデに仕えるためではなく、むしろダビデがその民に仕えるために、神様は彼を王にされたのです。

私たちはこのことを理解しているでしょうか。つまり、神様はあなたをご自身の子供として選ばれ、ご自身の国においてあなたにポジションを与えられました。

しかし、それはあなたの栄光のためではなく、神様の栄光のためなのです。

あなたが自分の国を築くためではなく、むしろ神様の国を築くためなのです。

また、あなたの立場は、他の人々があなたに仕えるためではなく、むしろあなたが他の人々に仕えるために与えられたのです。

この真実を理解していないと、神様が私たちのために用意してくださっている目的を見失ってしまいます。

多くのクリスチャンが自己中心的で、自分のことや自分の立場、自分の栄光ばかりを考えます。

私もそのように考えてしまうことがあります。

しかし、私たちの人生は自己中心的であってはなりません。むしろ、神様中心であり、神様の目的を中心としたものであるべきです。

あなたは誰に仕えていますか。誰の栄光を求めていますか。誰のために生きていますか。

私はある曲の歌詞が大好きです。

あなたの栄光のために、
御国のために、
あなたの御名のために、
私はここにおります。

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サムエル記第二 歴代誌第一

神様が私たちの味方であれば

「私はこの罪を乗り越えることができない。勝利をおさめることができない。」

そう思ったことはありませんか?私も罪と戦う中で、時々がっかりすることがあります。そのような時、サタンは私を見て、さらに責め立てます。

「あなたは本当にクリスチャンなのですか?あなたなんて絶対だめです。他のクリスチャンは罪に勝つけれど、あなたはいつも負けるのです。この罪はあまりにも強大で、あなたは決して乗り越えることなどできない。」

ダビデとその民がエルサレムの城壁の外にいた時、敵は同じようなことを言いました。彼らはダビデを侮辱し、こう言い放ちました。

あなたはここに来ることはできない。目の見えない者、足のなえた者でさえ、あなたを追い出せる。(第二サムエル記5:6)

その時、彼らはこう思いました。「ダビデがここに来ることはできない。」

同じように、サタンは「私は勝った。このクリスチャンはその罪を決して捨てることができない。」と思うとき、私たちを侮辱し始めます。

けれども、ダビデはどうしたでしょうか。彼は作戦を立てました。そして、彼はその民にこう言いました。

だれでもエブス人を打とうとする者は、水汲みの地下道を抜けて、ダビデが憎む、目の見えない者、足のなえた者を打て(第二サムエル記5:8)

そして、ヨアブの助けによって、その敵を征服することができました。

しかし、良い作戦とヨアブの助けだけではなく、神様の力によって征服することができました。第二サムエル記5:10にはこう書かれています。

ダビデはますます大いなる者となり、万軍の神、主が彼とともにおられた。

つまり、神様がダビデとともにおられたからこそ、勝利を収めることができたのです。

もちろん作戦は必要でした。もちろん、他の人々の助けも必要でした。

けれども、結局のところ、ダビデが勝利できたのは神様の力によるものでした。

同じように、私たちが罪と戦う時も作戦が必要です。もし欲情と戦うなら、ある場所を避けた方が良いでしょう。例えば、ビデオレンタル店を避けるべきかもしれません。

また、他の人々の助けが必要な場合もあります。私たちのために祈り、アドバイスを与え、「今週はどうですか」と尋ねることで私たちを助けてくれるでしょう。

しかし、結局のところ、私たちが勝利するのは神様が私たちの味方であるからです。それは私たちの力や努力だけによるものではありません。

パウロはこう言いました。

 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。(ピリピ2:13)

あなたは罪と戦っていますか。落ち込んでいますか。

神様があなたの味方であることを心に留めておきましょう。作戦を立てましょう。他の人々の助けを求めめましょう。

けれそも、最終的には、私たちが勝利できるのは、神様の恵みと助けによるものだということを覚えておきましょう。

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サムエル記第二 歴代誌第一

神様を待ち望む

私は待つのが本当に大嫌いです。店でレジの列に並ぶのも嫌いだし、交差点で信号を待つのも嫌いです。病院で待つことも大嫌いです。

だから、ダビデの態度がよく理解できません。想像すらできません。

ユダヤ人の歴史家ヨセフスによれば、ダビデは10歳の時にサムエルから油を注がれました。その際、サムエルは「あなたは次のイスラエルの王になる。神様があなたを選ばれた」と告げました。

もし10歳だったとすると、ダビデはユダの王になるまで20年間も待ち、さらに全イスラエルの王になるまで27年間待ったことになります。

ダビデは忍耐強く待ち続けました。それだけでなく、待つ間にさまざまな試練を経験しました。

最初はイスラエルのヒーローとして称えられたのに、その後すぐに逃亡者となり、何度も命を狙われる状況に直面しました。

それでもなお、良い時でも悪い時でも、たとえ疑いが生じたとしても、ダビデは神様を待ち望むことを決して諦めませんでした。

ダビデは二度、神様を待ち望まずに王になるために行動する機会がありました。つまり、サウルを殺すことができる状況が二度あったのです。

しかし、それをしないでダビデは神様を待ち望み続け、神様のタイミングを信じて待ちました。

どうしてそれができたのでしょうか。私にとって、赤信号で待つだけでも非常に辛いです。

その鍵は、ダビデが神様が約束を必ず守る方であると信じていたことにあります。

ダビデは自分の手でコントロールしようとせず、神様の手に全てを委ねました。また、神様の戒めを忠実に守り続けました。

その結果、神様はダビデを良いところへと導いてくださいました。

私たちもダビデの例に従うなら、神様は私たちに対しても同じようにしてくださるでしょう。

一方、サウルはそれができませんでした。ペリシテ人がイスラエルを攻撃した時、サウルはサムエルや神様の救いを待たずに、自分でいけにえを捧げて罪を犯しました。

さらに、彼は神様の祝福を待たずに、自ら祝福を得ようとしました。

例えば、イスラエル人がアマレク人との戦いの前に、神様はこう言われました。「彼らを征服したら、彼らの物をすべて私に捧げなさい。」

それなのに、サウルは自分のために一番良いものを持ち帰りました。

この二つの事件によって、神様はサウルをイスラエルの王として退けました。

あなたはどうでしょうか。 あなたは何のために待っていますか。仕事ですか。妻ですか。夫ですか。

神様があなたの必要を備えると約束しておられることを心に留めておきましょう。

また、神様が良い未来を与えると約束しておられることを心に留めておきましょう。

ですから、神様の言葉に背いて、「私は自分の力で何かをしなければならない」と考えないでください。

神様を待ち望み続けましょう。神様に信頼し続けましょう。神様の言葉を守り続けましょう。

そうすれば、神様は必ず約束を守ってくださいます。

ダビデはこう書きました。

 見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。
その恵みを待ち望む者に。。。

私たちのたましいは主を待ち望む。
主は、われらの助け、われらの盾。

まことに私たちの心は主を喜ぶ。
私たちは、聖なる御名に信頼している。(詩篇33:18、20-22)

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サムエル記第二

リーダーがしっかりとリードしないと

イシュ・ボシェテの王位はあまり長く続きませんでした。彼の民はイシュ・ボシェテを殺し、その首をダビデに持参しました。

当然、ダビデは怒り、その人々を殺しました。(けれども、これを読むと、私はこう思います。「ダビデは、この人々を殺人の罪で即座に殺したのに、なぜヨアブを同じ罪で罰しなかったのだろうか。」)

とにかく、この箇所を読むと、一節が特に印象に残ります。

サウルの子イシュ・ボシェテは、アブネルがヘブロンで死んだことを聞いて、気力を失った。イスラエル人もみな、うろたえた。(サムエル記第二4:1)

多分、イシュ・ボシェテの民が彼を殺した理由は、彼が弱いリーダーだったからです。彼はアブネルにあまりにも依存していたため、アブネルが死んだ後、イシュ・ボシェテは希望を失いました。

問題は、リーダーがしっかりとリードしないと、彼の民に悪影響を与えてしまうことです。イシュ・ボシェテの恐れが彼の民の恐れとなったのです。

あなたはどのようなリーダーでしょうか。

「私はリーダーじゃない」と思うかもしれません。

けれども、もしあなたに子供がいるなら、あなたは子供のリーダーです。先生や日曜学校の先生なら、生徒のリーダーです。もし誰かのロールモデルであるなら、あなたはその人のリーダーです。

そして、困難な時、彼らはあなたの指示を求めます。

その時、あなたはどうしますか。あなたは他の人々に頼るでしょうか。他の人々の力に頼るでしょうか。

もちろん、そのような人々がいることは良いことです。しかし、もし彼らがいなかったら、あなたはパニックに陥るでしょうか。

それとも神様を仰ぎ、知恵と助けを求めて祈るでしょうか。

私たちは、神様に頼るリーダーにならなければなりません。そうでなければ、イシュ・ボシェテのようにパニックに陥り、私たちに従う人々も同じ状況に陥ってしまいます。

そして結局、私たち自身にも、また私たちに従う人々にも、すべてが悪い結果となるでしょう。

あなたは、どのようなリーダーでしょうか。

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サムエル記第二

自分の動機を問う

この箇所には多くの政治的な陰謀があります。そして、この箇所を読むと、私は自分の動機を問うことの大切さについて考えさせられます。

アブネルは正しいことをしました。つまり、ダビデを支持したのです。とはいえ、それは悪い理由によるものでした。

サウルの息子イシュ・ボシェテは、アブネルにこう言いました。

あなたはなぜ、私の父のそばめと通じたのか。(サムエル記第二3:7)

アブネルがその罪を本当に犯したかどうかは分かりません。けれども、もしイシュ・ボシェテの告発が本当だったとすれば、その文化においては、アブネルが王位を狙っていたという意味になります。そのため、イシュ・ボシェテは怒りました。

アブネルはその言葉を聞いて怒りました。もしその告発が間違っていれば、それは当然のことです。もしその告発が本当だったとすれば、おそらくアブネルは自分の罪について聞きたくなかったのでしょう。

とにかく、アブネルはこう言いました。

主がダビデに誓われたとおりのことを、もし私が彼に果たせなかったなら、神がこのアブネルを幾重にも罰せられますように。(9)

つまり、アブネルはダビデが神様に選ばれたことを知っていました。

それにもかかわらず、最初アブネルはダビデに従わず、イシュ・ボシェテに従い続けました。

しかし、アブネルがイシュ・ボシェテに怒りを覚えたとき、ダビデに従い始めました。

ヨアブはさらに悪い行動を取りました。悪い理由で悪いことをしたのです。

彼は復讐のためにアブネルを殺しました。なぜなら、アブネルが戦争の中でヨアブの弟を殺したからです。ヨアブは戦争中にアブネルを殺さず、一対一の戦いでも殺しませんでした。むしろ、アブネルが何も予期していないときにヨアブは彼を殺しました。

ヨアブにはもう一つの動機があったかもしれません。つまり、ダビデがヨアブを捨ててアブネルを将軍にするのではないかと恐れていたのかもしれません。

ダビデの行動も少し疑わしいところがあります。ダビデはイシュ・ボシェテにこう言いました。

私がペリシテ人の陽の皮百をもってめとった私の妻ミカルを返していただきたい。(14)

通常の場合、その願いは珍しいものではありません。

けれども、ダビデがサウルから逃げている間、サウルはミカルを別の男性に与え、彼らは結婚しました。そして、その男性はミカルを本当に愛していました。

ミカルがどう感じていたかは分かりませんが、彼女の後の行動を見ると、おそらく彼女もその人を愛していたのではないかと思います。ダビデはミカルが何を望んでいるのかを尋ねるべきでした。

なぜ、ダビデはそのような行動を取ったのでしょうか。ダビデはまだミカルを愛していたかもしれませんが、彼には他の妻たちもいました。彼が彼女を本当に愛していたのでしょうか。

もしかすると、彼は「もしサウルの娘と結婚すれば、イスラエル人は私を王として受け入れるだろう」と考えたのかもしれません。

ダビデの動機は分かりませんが、彼の行動が正しいかどうか疑問に思います。

最後の質問は、なぜダビデがヨアブの裏切りを罰しなかったのかということです。

神様の律法によれば、ヨアブは殺されるべきでした。それでも、ダビデはそれをしませんでした。それはなぜでしょうか。

ダビデはこう言いました。

この私は油そそがれた王であるが、今はまだ力が足りない。ツェルヤの子らであるこれらの人々(つまり、ヨアブとその兄弟たち)は、私にとっては手ごわすぎる。(39)

多分、ダビデが考えたのは、もしヨアブを殺せば、彼の軍隊が崩れてしまうということだったのでしょう。なぜなら、ヨアブは本当に優れた将軍だったからです。

さらに、ダビデは自分の甥を殺したくなかったのかもしれません。(ヨアブはダビデの甥でした。)

後に、ダビデはソロモンにヨアブを罰するよう願いましたが、ダビデが生きている間に何もしませんでした。それは悪い決断だったと思います。

私たちの人生には、何をするのか、そしてその動機は何なのかという問いがあります。

最終的に、私たちは神様からその問いを受けるのです。

私たちは良い答えを差し出すことができるでしょうか。それとも、恥ずかしさを覚えることになるのでしょうか。

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サムエル記第二

自制心がない

ダビデの性格で最大の問題は、女性に関して自制心がなかったことです。彼はいつも美しい女性を集めていたようで、自分自身を抑えることができませんでした。

神様が結婚を設計された時、神様の意図は、一人の男性が一人の女性と結婚することでした。神様はアダムとエバ、そしてサラやマリアを同時に造られたのではなく、アダムとエバだけを造られました。

けれども、ダビデはその計画を無視しました。息子のソロモンほどではありませんでしたが、ダビデも多くの女性と結婚しました。

ただ、ダビデだけが多くの女性と結婚したわけではありません。アダムとエバの罪の後、人々はすぐに結婚の理想から遠ざかりました。そして、ダビデの時代には、多くの王が多くの女性と結婚しました。

ダビデの弱さは、バト・シェバの事件において顕著に見られます。けれども、その問題の根源はここから始まりました。この箇所で息子たちの名前を見るだけでも、その悪い結果がはっきりと現れています。

長男アムノンは異母姉妹のタマルをレイプしました。

タマルの兄アブサロムはアムノンを殺し、ダビデの王位を奪おうとしました。

そして、ダビデがバト・シェバの息子ソロモンを次の王として選ばれたにもかかわらず、ダビデの第五の妻の息子アドニヤはソロモンから王位を奪おうとしました。

つまり、ダビデの家族は本当にめちゃくちゃになりました。なぜなら、女性に関してダビデは全く自制心がなかったからです。

もし私たちが、自分自身の弱さに負けて、神様が私たちのために計画された道から外れるなら、私たちの人生もめちゃくちゃになるでしょう。

ある人々には、女性や男性に関しての弱さがあります。他の人々には、ギャンブルやポルノ、アルコールに関する弱さがあります。

また、ある人々は、いつも食べ過ぎてしまう問題を抱えています。さらに、家族を傷つけてでも、自分の趣味に没頭しすぎる人々もいます。

何事も極端に行えば、あなた自身、家族、そして周りの人々を傷つけます。そして、あなたの人生はめちゃくちゃになってしまいます。

あなたの場合はどうですか。何があなたを支配しているのでしょうか。あなたの人生を傷つけても、それを止めることができないのでしょうか。

今、その問題を解決するべきです。そうしなければ、もっと大きな問題へと発展してしまうでしょう。

神様の前に行き、その問題について祈ってください。また、信頼できるクリスチャンの友人と話し、「私を助けてください。私のために祈ってください」と頼むのが良いかもしれません。

しかし、何もせずにその行動を続けるなら、あなたの人生は深刻な状況に陥り、あなたが大切にしているものを壊してしまうことになるのです。

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サムエル記第二

いつ戦いをやめるべきかを知る

彼はサウルの息子イシュ・ボシェテの将軍アブネルをずっと追い続け、諦めませんでした。多分、彼はアブネルを殺せばヒーローになれると思ったのでしょう。なぜなら、アブネルを殺せばダビデがすぐに王になるからです。

アブネルはアサエルを見たとき、二回「もう諦めなさい」と言いましたが、アサエルは諦めませんでした。だから、結局、アブネルは立ち止まり、アサエルと戦い、彼を殺してしまいました。

その後、アブネルは彼の民を集めて、アサエルの兄ヨアブに叫びかけました。(ヨアブはアサエルの兄だけでなく、ダビデの将軍でもありました。)

いつまでも剣が人を滅ぼしてよいものか。その果ては、ひどいことになるのを知らないのか。

いつになったら、兵士たちに、自分の兄弟を追うのをやめて帰れ、と命じるつもりか。(サムエル記第二2:26)

アサエルとは異なり、ヨアブはいつ戦うのを止めるべきかを理解していたため、彼は答えました。

神は生きておられる。もし、おまえが言いださなかったなら、確かに兵士たちは、あしたの朝まで、自分の兄弟たちを追うのをやめなかっただろう。(27)

そして、ヨアブは角笛を吹いて、その民は立ち止まり、帰りました。

時々、私たちが喧嘩をしていると、「この喧嘩を続けても、私たちはますます怒り、互いに傷つけ合っているだけだ」と気づくことがあります。

その時、私たちはどうするべきでしょうか。喧嘩を続けるべきでしょうか、それともその喧嘩から立ち去るべきでしょうか。

もちろん、妥協せずにその人と話し続けるべき時もあります。

しかし、時々「私たちは同意できないので、この会話をここで終わらせましょう」と言う方が良い場合もあります。

また、時には、同意できなくても相手の意見に譲る方が良い場合もあります。

いつ話し続けるべきでしょうか。いつその喧嘩を止めるべきでしょうか。

自分自身に問いかけなければならないのは、「結局、どちらの方がより悪い結果を招くだろうか」ということです。

ただあなたのプライドが傷つくだけでしょうか。その場合、おそらく止めた方が良いでしょう。

もし、相手の意見に譲ることで、相手または自分自身を傷つけることになるでしょうか。その場合、譲ってはいけません。

どの喧嘩でも、多くの場合、同意できず、ますます怒りが増しているときは、とりあえずその喧嘩を止めて、落ち着いた後にもう一度話し合った方が良いです。

そうすれば、より論理的に考えることができ、その会話がよりスムーズに進むでしょう。

いつ喧嘩を止めるべきか、あなたは知っているでしょうか。

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サムエル記第二

あなたを憎む人を愛する

ダビデの哀歌を読むと、ダビデがヨナタンのために泣いたことは当然だと思います。なぜなら、彼は友人だったからです。

けれども、ダビデがサウルのためにも泣いたことには驚きました。そして、私は彼の恵み深い言葉を完全には理解できません。

サウルもヨナタンも、愛される、りっぱな人だった。生きているときにも、死ぬときにも離れることなく、鷲よりも早く、雄獅子よりも強かった。

イスラエルの娘らよ。サウルのために泣け。サウルは紅の薄絹をおまえたちにまとわせ、おまえたちの装いに金の飾りをつけてくれた。(サムエル記第二1:23-24)

サウルがダビデを憎んだにもかかわらず、ダビデは恵み深い態度を示しました。

だからこそ、神様はダビデについて「彼は私の心にかなう人だ」と言われました。

イエス様は、このように言われました。

「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」と言われたのを、あなたがたは聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。(マタイ5:43-45)

多くの人々にとって、その言葉は無理だと思います。良い言葉ですが、理想的な言葉にすぎません。全く実用的な言葉ではありません。しかし、ダビデにとっては、その言葉は理想だけではありませんでした。

いったいどのようにして、私たちは私たちを憎む人を愛することができるでしょうか。

鍵は、神様がその人々を見られるように、見ることです。つまり、ただ彼らの態度や性格、言葉、行動を見るだけではなく、神様が彼らを造られたときにどのような計画を持っておられたのかを考えることです。

そうすれば、苦々しい思いや怒りを抱くことなく、彼らのために悲しむようになります。なぜなら、サタンが彼らから神様の良い計画を盗んでしまったからです。

そして、私たちは彼らも壊れた人々であることに気づきます。罪によって、彼らは壊れました。

このように考えると、神様が人々をご覧になるように見始めることができます。

それでも、それは難しいですね。

神様、あなたの目を私に与えてください。ある人々は私を傷つけました。また、私を憎む人々がいます。あなたの憐れみ深い心を私に与えてください。

サタンが、あなたが彼らに与えたい喜びを盗んでしまったので、彼らはそのように行動しています。彼らにあなたの憐れみを与えてください。そして、彼らの痛みを癒してください。

もし、彼らの癒しのために私をお用いになることができるのであれば、どうぞ私を用いてください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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サムエル記第二

誰も傷つけないでしょう?

この嘘によってだれも傷つけないだろう。

アマレク人がダビデにサウルの死について伝えたとき、彼はそう考えたのかもしれません。そのため、彼は真実を言わず、少し嘘をつきました。

もしかすると、彼はサウルが武器持ちに自分を殺すように頼むことに耳をしていたかもしれません。

おまえの剣を抜いて、それで私を刺し殺してくれ。(第一サムエル記31:4)

多分、そのアマレク人はこう思ったのかもしれません。

「もし私がダビデの敵であるサウルを殺したと言えば、報いを受けるかもしれません。

サウルはもう死んでいるでしょう。私の嘘によって誰も傷つけないでしょう。そして、もし私が利益を得ることができたなら、それで良いのではないでしょうか。」

ところが、ダビデの反応はアマレク人の予想通りではありませんでした。報いを得るどころか、そのアマレク人は殺されてしまいました。

ダビデはこう言いました。

おまえの血は、おまえの頭にふりかかれ。おまえ自身の口で、「私はに油そそがれた方を殺した」と言って証言したからである。(サムエル記第二1:16)

アマレク人の行動は誰を傷つけたでしょうか。結局、自分自身を傷つけました。

罪とはそのようなものです。罪は私たちを滅ぼします。小さい罪であっても、私たちを滅ぼしてしまいます。

アダムとエバも、アマレク人と同じように思ったかもしれません。「この果物を食べたら、誰を傷つけるでしょうか。」

しかし、結局彼らは、その罪によって死にました。

聖書にはこのように書かれています。

罪から来る報酬は死です。(ローマ 6:23)

罪が大きくても、小さくても、関係ありません。その結果は同じです。すべての罪の結果は死です。

ですから、自分自身を欺かないでください。「小さい罪だから、誰も傷つけないでしょう?」と言ってはいけません。神様は罪を深刻に考えておられるので、私たちもそのように考えるべきです。

ペテロはこのように書きました。

従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。

それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。(第一ペテロ1:14-16)

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サムエル記第一 歴代誌第一

人々の良い点を思い出すのを選ぶ

今日は第一サムエル記のブログを締めくくります。その前に、少しブログに関するお知らせがあります。

このブログでは、基本的に年代順に聖書の出来事をお話ししたいと考えています。そのため、最近は時折、第一サムエル記について書きながら、詩篇についても取り上げてきました。

これからは、時々特定の箇所をまとめて扱う予定です。例えば、第一サムエル記31章と歴代誌第一10章は同じ出来事について書かれているため、今日はその二つの箇所を一緒にまとめます。

さて、今日はサウルの話が終わります。それは、本当に悲惨な話です。戦争の中で、もうすぐ殺されると悟ったサウルは、自ら命を絶ちました。

ペリシテ人はサウルの首を切り、その頭をある宮にさらし、別の宮には彼の武具をさらしました。また、彼の遺体をペリシテ人の一つの都市の城壁にさらし、さらにはサウルの息子たちの遺体もその城壁にさらしました。

どうして、このようなことが起こったのでしょうか。歴代誌の著者はその答えを示しています。

このように、サウルは主に逆らったみずからの不信の罪のために死んだ。主のことばを守らず、そのうえ、霊媒によって伺いを立て、

主に尋ねなかった。それで、主は彼を殺し、王位をエッサイの子ダビデに回された。(歴代誌第一10:13-14)

確かにサウルは悪い王でした。とはいえ、ある人々は、サウルの良い点を忘れずに覚えていました。それは、ヤベシュ・ギルアデの人々です。

何年か前、サウルはサムエルにイスラエルの王として油を注がれたものの、それでもなお自分の農場で働き続けていました。

けれども、ヤベシュ・ギルアデが攻撃されたと聞くや否や、サウルはイスラエル人を集め、その人々を助けに向かったのです。

そのため、ヤベシュ・ギルアデの人々は、その出来事を決して忘れることはありませんでした。そして、彼らがサウルとその息子たちの遺体について聞いた時、彼らは勇気を持ってその遺体を引き取り、葬りました。

ヤベシュ・ギルアデの人々は、サウルが悪い王であったことを知っていたはずです。サウルは正当な理由がないにもかかわらず、ダビデを殺したいと思い、ダビデを追いかける間、時折イスラエルを適切に守ることを怠りました。

また、ノブの祭司たちがダビデを助けたため、サウルは彼らを殺害しました。ヤベシュ・ギルアデの人々は、それらすべての出来事を知っていたに違いありません。

それでも、彼らはサウルの悪い行いを思い出すことを選ばず、むしろサウルの良い行いを思い出すことを選びました。その結果、彼らは生命を危険にさらし、サウルとその息子たちの遺体を取り戻して葬ったのです。

その話を読むと、私はこう考えます。

「私は周囲の人々についてどのように考えるだろうか。彼らの悪い点ばかりに心を留め続けるだろうか。それとも、彼らの良い点を忘れずに心に留め続けるだろうか。」

普通は良い点について考え続けますが、時々悪い点についても考えてしまうことがあります。それは、まだ私の心の中に苦々しい根が残っているからです。そのため、今でも私の彼らに対する態度に影響を与えています。

おそらく、ヤベシュ・ギルアデの人々は、サウルに対して全く苦々しい思いを抱いていなかったのでしょう。彼らはサウルの悪い行いについては耳にしていたはずですが、サウルが彼らに害を及ぼすことはありませんでした。

しかし、ある人々は私を傷つけました。私はある程度まで彼らを許しましたが、それでも心の中には苦々しい根が残っており、彼らのことを考えると、悪いことを思い出してしまいます。

とはいえ、よく考えてみると、彼らにも良い点がありました。時には、彼らは他の人々や私自身を助けてくれたこともありました。

そのため、この箇所を読むと、私はこう思います。「このようなことを思い出さなくてはならない。悪いことではなく、良いことについて考えるべきだ。」

それでもなお、時にはそれが難しいと感じます。

良いことを思い出すことは、悪いことをすべて忘れるという意味ではありません。また、それが彼らに再び私を傷つけることを許すということでもありません。

ダビデはその良い例です。サウルが亡くなった時、ダビデは泣きました。そして、サウルを讃える歌も書きました。

しかし、サウルが生きている間、ダビデはサウルから逃げ続けました。なぜなら、サウルは危険な人だったからです。

ダビデは、サウルの良い点に目を向け続けることを選びました。そして、サウルの罪を赦すことを決断されました。けれども、それと同時に、ご自身を守ることも忘れませんでした。私たちも、このようなバランスを持つ必要があります。

あなたを傷つける人がいるでしょうか。それはお父さんでしょうか。それともお母さんでしょうか。同僚でしょうか。それとも教会の人々でしょうか。

彼らについて、あなたはどのように考えられるでしょうか。悪いことにばかり焦点を当てるでしょうか。それとも、彼らの良い点に目を向けるでしょうか。

神様は、私たちをどのようにご覧になるでしょうか。私たちの悪い点に目を向けることもできますが、そうはされません。

イエス様が私たちの罪のために命を捨て、その血が私たちの罪を覆ってくださるからです。その結果、神様は私たちの良い点を思い起こしてくださいます。

私たちを傷つけた人々について考える時、そのようなあわれみを示しましょう。

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サムエル記第一

辛い時に、私たちの反応は?

私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。

ヤコブ2章1節でそのように書かれています。

とはいえ、その言葉を口にすることよりも、従うことの方が難しいのです。辛い時を楽しむ人を、私はまったく知りません。それでも、辛い時にどのように反応すべきでしょうか。

ダビデとその民は、決断を迫られる状況に直面しました。ペリシテ人の軍隊と一緒に戦うことを許されなかったため、自分たちの町に戻りました。

けれども、戻ってみると、彼らの町は焼き払われ、所有物は奪われ、子供たちと妻たちは虜にされていました。ダビデとその民はそれを目にし、泣き疲れるまで泣きました。

ダビデの民はどのように反応したでしょうか。彼らは苦々しい思いを抱き、怒りを感じました。その結果、ダビデを責め、彼を殺そうとさえしました。

では、ダビデはどのように反応したでしょうか。

ダビデは彼の神、によって奮い立った。(サムエル記第一30:6)

もしダビデが沈んでいたなら、それは普通の反応だと言えるでしょう。もし彼が怒り、苦々しい思いを抱いていたとしても、私たちにはその気持ちが理解できると思います。

しかし、ダビデはそうしませんでした。むしろ、彼は神様によって奮い立ちました。辛い時に、ダビデは神様に背を向けることはせず、神様とその知恵を求めました。

そして、神様の導きに従い、その攻撃者を見つけ出し、戦い、最終的には彼らを征服しました。そしてすべてを取り戻したのです。

辛い時、あなたはどのように反応するでしょうか。苦々しい思いを抱くでしょうか。神様や他の人々に怒りを向けるでしょうか。相手を責めるでしょうか。それとも、神様によって奮い立つでしょうか。

神様とその知恵を求め、神様の導きに従うでしょうか。それとも、自己憐憫に陥るでしょうか。

ダビデのように、私たちは怒りや苦々しい思い、失望に負けてはいけません。

むしろ、知恵と導きを得るために神様に向かい、その導きに従って行動しましょう。そうするなら、私たちの試練はこの上もない喜びとなるでしょう。

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サムエル記第一

私たちが背くときに

サウルの没落は、非常に早く進行しました。この箇所では、サウルが最も低い地点に達したことを見ることができます。

サウルは、預言者や祭司、また夢を通して神様の御声を聞くことができなかったため、霊媒を通して助けを求めました。その霊媒を通じて、サムエルの霊と話したいと願ったのです。

けれども、聖書学者たちの間では、その霊が本当にサムエルだったのか、それとも悪霊だったのかについて議論が分かれます。

私個人の意見ですが、この時、神様は霊媒の働きを止め、ご自身の許可によってサムエルの霊を送られたのだと思います。

つまり、霊媒の力でサムエルが現れたのではなく、神様の御心によるものだったのです。

しかし、その時、神様はサウルを祝福されませんでした。むしろ、神様はサウルを裁かれたのです。神様は霊媒や占いを全く認められないからです。

この箇所を読むと、意図的な背きの結果について思い起こさせられます。

一つ目は、神様が私たちにもう話されなくなることです。

なぜでしょうか。それは私たち自身が自分の耳を閉じてしまうからです。その結果、神様は私たちにもう語られません。

サウルは何度も神様の声と命令を無視しました。だから、最終的に神様はこう言われたのです。「もういい。私に聞きたくないのであれば、私はもう語らない。」

二つ目は、私たちが恐れ始めることです。

どうしてでしょうか。私たちが神様の知恵に頼らずに、自分の知恵に頼り始めるからです。けれども、すぐに私たちの知恵が足りないことに気付きます。特に、私たちの状況がコントロールできなくなる時です。

サウルもそのような状態でした。神様の命令を無視した後、サウルは自分ではコントロールできない問題に直面しました。神様の助言が必要でしたが、神様から何も聞くことができませんでした。

三つ目は、罪が罪を生み出すことです。

サウルの場合、必死になりながらも、占いが悪であることを知っていたにもかかわらず、霊媒に相談しました。

しかし、神様から何も言われなかったため、占いを神様が裁かれることを知っていても、その人に助けを求めました。

最後の点は、背きは死に導くということです。

ローマ6:23で次のように書かれています。

罪から来る報酬は死です。

だから、その次の日、サウルは命を落としました。

サウルのようになることを避けるにはどうしたら良いでしょうか。

神様に対して柔らかい心を保つことです。神様が私たちに最善を望んでおられることを信じましょう。そして、神様の言葉に従いましょう。

さらに、もし罪を犯してしまったなら、すぐに悔い改めましょう。自分の罪を告白し、神様の言葉に従う助けを求めて祈りましょう。

ヨハネは次のように書いています。

もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

不思議なことですが、ダビデの罪(つまり、姦淫と殺人)とサウルの罪を比較すると、サウルの罪の方がそれほど悪いようには見えません。

その違いは何でしょうか。それはサウルが決して悔い改めなかったため、死に至ったことです。その一方、ダビデは悔い改めたことで、神様に赦されました。

あなた自身はどうでしょうか。罪を犯した時、どのように対応しますか。

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サムエル記第一

でも、良い目的のためですよ

サウルがずっとダビデを追いかけていたため、ダビデは疲れてしまい、ペリシテに戻り、その王アキシュに自分を受け入れるよう願いました。

多分、アキシュはダビデとサウルのトラブルについて聞いており、ダビデを信頼するようになったのかもしれません。そこで、彼はダビデとその民に住む土地を与えました。

その間に、ダビデとその民はイスラエルの他の敵を攻撃し始めました。けれども、アキシュがその戦いについてダビデに尋ねると、ダビデは嘘をつきました。「私はイスラエルを攻撃しました。」と言ったのです。

どうしてダビデは嘘をついたのでしょうか。多分、アキシュの信頼と好意を得るためだったと思います。

また、ダビデはこう考えたのかもしれません。「これは良い目的のためです。イスラエルの敵を攻撃して、イスラエル人を助けるのだから。」

確かにイスラエルを助けていたかもしれませんが、ダビデは嘘をつきました。そして結局、その嘘が原因で、ダビデは困難に陥りました。アキシュはダビデの嘘を信じたために、彼に頼み事をしました。

あなたと、あなたの部下は、私といっしょに出陣することになっているのを、よく承知していてもらいたい。(サムエル記第一28:1)

ダビデは、それを聞いて、本当に困りました。何を言うことができたでしょうか。

以前、嘘をついてしまったため、「イスラエル人を攻撃したくありません。彼らは私の民だからです。」と全く言えませんでした。

そこで、ダビデはこう言いました。

よろしゅうございます。このしもべが、どうするか、おわかりになるでしょう。(2節)

しかし、神様の恵みと御業によって、結局ダビデはイスラエルを攻撃する必要がありませんでした。ペリシテ人の首長たちは文句を言い、ダビデが彼らと一緒に戦うことを許しませんでした。

どれほど私たちは、「良い目的」のために罪を犯してしまうでしょうか。どれほど、そのような言い訳をしてしまうでしょうか。

神様の目には、罪はいつも悪であり、避けるべきものであることを心に留めておきましょう。そうしないと、ダビデのように、さまざまな問題が生じることになります。

あなたの人生において、罪を正当化するような言い訳をしていないでしょうか。

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サムエル記第一

それにしても、あなたの人生に悪がないように

「だって、彼は先に私を殴ったよ。」

どれほど多くの子供たちが喧嘩の後で、このように言うでしょうか。

けれども、許さない態度や復讐については、大人もまた同じような言葉を口にします。

「どうして私が許さなければならないのですか。彼はまだ謝っていないのに。」

また、

「もちろん、私は苦々しい思いをしています。彼の行動のせいで、私にはその感情を持つ権利があります。」

さらには、

「私はこの喧嘩を始めていませんが、この喧嘩を終わらせるのは私です。彼に復讐をすれば、きっと自分の行動を後悔させるでしょう。」

しかし、アビガイルの言葉を通して、私たちは違う考え方を学ぶことができます。

アビガイルがダビデに、夫を赦すことを願った時に、こう言いました。

どうか、このはしためのそむきの罪をお赦しください。は必ずご主人さまのために、長く続く家をお建てになるでしょう。

ご主人さまはの戦いを戦っておられるのですから、一生の間、わざわいはあなたに起こりません。

たとい、人があなたを追って、あなたのいのちをねらおうとしても、ご主人さまのいのちは、あなたの神、によって、いのちの袋にしまわれており、主はあなたの敵のいのちを石投げのくぼみに入れて投げつけられるでしょう。(サムエル記第一25:28-29)

英語の翻訳は少し異なります。28節の最後の部分に、次のように書いてあります。

一生の間、あなたの中に悪(つまり、罪)がないように。(NIVの英訳)

もし29節を読めば、ダビデの状況が本当につらいものであったことが分かります。なぜなら、サウルがダビデを追いかけ、命を奪おうとしていたからです。

それにしても、ナバルのダビデに対する態度においても、アビガイルはこう言いました。「一生の間、あなたの中に悪がないように。」

それを読んで、私は考えました。「どのような状況でも、どれほど誰かがあなたを悪く扱ったとしても、神様はあなたの中に悪がないことを望んでおられる。」

ダビデの場合、この言葉は「ナバルがあなたを悪く扱ったとしても、また、サウルがあなたを殺そうとしたとしても、それにしても、一生の間、あなたの人生に悪がないように」という意味でした。

では、私たちの場合はどうでしょうか。

誰かがあなたを傷つけたとしても、あなたの人生に悪がないように。

誰かがあなたを悪く扱ったとしても、あなたの心に苦い根が育たないように。

誰かが悪いことに値したとしても、復讐の思いがあなたの心に浮かばないように。

むしろ、パウロが言ったように、

無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。

お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。(エペソ4:31-32)

多分、神様がダビデにそのことを思い出させるために、アビガイルを送られたのだと思います。そして、もう一度ダビデがサウルを殺す機会が訪れた時に、その言葉はダビデの心に響いたことでしょう。

ダビデにとって、怒りに任せてこう考えるのは簡単なことでした。

「以前、あなたを殺さなかったのに、まだあなたは私を追いかけているのですか。もう許せません。私があなたの敵だと思い続けているのですか。ならば、私はあなたの敵になります。あなたを殺します。」

けれども、ダビデはむしろアビガイルの言葉を思い出しました。「誰かがあなたを殺したくても、あなたの人生に悪がないように。」

そして、ダビデは再びサウルを許して彼を離しました。

あなたはどうでしょうか。

心の中に苦しみや苦さを抱える言い訳をしていないでしょうか。復讐の思いがある言い訳をしていないでしょうか。相手を許さない理由を探していないでしょうか。

アビガイルの言葉を思い出してください。

「それにしても、あなたの人生に悪がないように。」

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サムエル記第一

賢明な人と愚か者の違い

この箇所から、たくさんのことを学べると思います。

例えば、大きな罪だけでなく、小さな罪も許すべきであることです。(少し驚くかもしれませんが、どうしてダビデはサウルに命を狙われながらも彼を許したのに、ただ侮辱された人を許せなかったのでしょうか。)

また、相手の怒りをどのように扱うかということです。(つまり、アビガイルの柔らかな言葉と如才ない態度。ところで、アビガイルがダビデに願った際に、石投げの比喩を使ったことに気づきましたか。)

けれども、一番印象に残るのは、ダビデとナバルの違いです。

ダビデとその民は長い間ナバルの民を守り、祝いの日のために食べ物などを願いました。しかし、ナバルはその願いを聞き入れず、拒絶しました。

ナバルのしもべたちは彼の気を変えようとしましたが、ナバルはそのアドバイスを無視しました。

そこで、しもべたちはアビガイルのところに行き、こう言いました。

わざわいが私たちの主人と、その一家に及ぶことは、もう、はっきりしています。ご主人はよこしまな者ですから、だれも話したがらないのです。(サムエル記第一25:17)

アビガイルはそれを聞くと、すぐにダビデとその民のために、さまざまな食べ物やワインを準備するように命じました。そして、彼女自身でダビデに会いに行きました。

アビガイルがダビデに許しを願うと、ダビデはその言葉に耳を傾け、怒りを収めてこう言いました。

安心して、あなたの家へ上って行きなさい。ご覧なさい。私はあなたの言うことを聞き、あなたの願いを受け入れた。(35節)

もちろん、賢明な人と愚か者にはさまざまな違いがありますが、その中の一つは、賢明な人は相手の話に耳を傾けるのに対し、愚か者はそれを聞きません。

特に、賢明な人は叱責を素直に受け入れる一方で、愚か者は全く聞こうとしないため、最終的には苦しむことになります。

ダビデは、叱責を常に受け入れていたので、神様に祝福されました。一方、ナバルはそれを拒絶したため、苦しみを味わいました。

あなたはどのような人でしょうか。

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詩篇

礼拝するのを選ぶこと

詩篇57篇を読むと、試練の中でダビデの態度が素晴らしいと思います。サウルから逃げたり、恐れたりしても、ダビデは礼拝することを選びました。

ダビデは歌いました。

神よ。私の心はゆるぎません。私の心はゆるぎません。私は歌い、ほめ歌を歌いましょう。

私のたましいよ。目をさませ。十弦の琴よ。立琴よ。目をさませ。私は暁を呼びさましたい。

主よ。私は国々の民の中にあって、あなたに感謝し、国民の中にあって、あなたにほめ歌を歌いましょう。

あなたの恵みは大きく、天にまで及び、あなたのまことは雲にまで及ぶからです。

神よ。あなたが、天であがめられ、あなたの栄光が、全世界であがめられますように。(詩篇57:7ー11)

この言葉を読むと、なんだか、私の心の中で響きます。

私は歌います!ほめ歌を歌いましょう

私の魂、目を覚ませ

十弦の琴よ。立琴よ。目をさませ

あなたに感謝します

国民の中にあって、あなたにほめ歌を歌います

あなたの恵み、あなたの愛は大きくて素晴らしい

あなたがあがめられるように!

私はこの言葉を読んで、ダビデが熱心に歌ったと想像します。彼の大変な状況にもかかわらず、ダビデは神様を礼拝することを意図的に選びました。意図的に、神様の慈しみを思い出すことを努力しているようです。

でも、私たちはよく、「今、礼拝する気がない。今、その気持ちがない」と思います。

でも、ダビデが自分自身に神様を礼拝することを励ましたように、私たちもそうするべきです。礼拝する気があってもなくても、礼拝するべきです。どうしてでしょうか。

最近の詩篇はこのように答えます。

あなたの栄光と光を見て、
あなたと比べると、
この世界のもの、
また、この世界のトラブルが見劣りする。

また、他の作詞家が歌っているように、

あなたの光で、周りの物はただ影になる。

つまり、この世界の中には私たちががっかりさせられることがたくさんありますが、光であるイエス様と比べると、その事はただ影にすぎません。そして、私たちがイエス様に焦点を当てると、私たちのトラブルは見劣りするのです。

なぜでしょうか。イエス様に焦点を当てると、イエス様が私たちの問題よりも大きいことが分かり、私たちの人生についての考え方が正しくなります。

だから、あなたの人生が辛い時にも、礼拝することを選んでください。そして、イエス様に焦点を当てると、失われそうな平和と喜びが戻ります。

その時、ダビデのように、あなたも言えるでしょう。

私の心はゆるぎません。私の心はゆるぎません。(7節)

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詩篇

あなたのために計画がある神様

ダビデがサウルから逃げるために、洞穴でよく隠れたので、第一サムエル24章の状況の時にこの詩篇を書いたかどうかは分かりませんが、今この二つの詩篇について書くのが適当だと思います。

この二つの詩篇を読むと、二つの箇所が印象に残ります。

一つ目は詩篇142:3です。

 私の霊が私のうちで衰え果てたとき、あなたこそ、私の道を知っておられる方です。

二つ目は詩篇57:2です。

私はいと高き方、神に呼ばわります。私のために、すべてを成し遂げてくださる神に。

時々、私たちの人生は大変です。ダビデにとっては特に大変でした。なぜなら、何も悪いことをしていなかったのに、サウルから逃げなくてはならなかったからです。

その時、「神様はおられるでしょうか。神様は本当に私を愛してくださるでしょうか」と思うのは簡単です。

でも、ダビデにとってその答えははっきりしていました。彼は言いました。

「私の霊が衰え果てたとき、あなたは私の道をよく知っておられます。あなたは、私のために準備した道をよく知っておられます。そして、すべてを成し遂げてくださいます。つまり、あなたは私のための目的を成し遂げてくださいます。」

ダビデがそう信じていたから、サウルを殺さなかったのだと思います。神様がダビデのために計画を持ち、それをすべて成し遂げてくださるので、ダビデは自分の手でそれをしなくても良いと分かっていました。

ダビデはサムエルに王として油を注がれました。また、ダビデがサウルから逃げてサムエルの元に来た時、サムエルはダビデを励ましました。

ヨナタンも、神様の計画を確認しました。「私じゃなくて、あなたは王になるよ。」と言いました。

ダビデはそのことをいつも思い出して信じ続けました。つまり、神様の約束を持ち続けました。神様がダビデのために計画を持ち、それを成し遂げてくださる約束を信じ続けました。

あなたはどうですか。どのような問題を経験しているでしょうか。今は辛くて、神様の道を離れ、自分の道を行く誘惑があるでしょうか。

神様があなたのために良い計画を持っていることを思い出してください。もし神様に信頼したら、必ずその計画を成し遂げてくださいます。

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サムエル記第一

神様は本当にそう言われただろうか

私たちは、神様の声を聞くことが難しいと感じることがよくあります。けれども、神様はさまざまな方法で私たちに語り、導いてくださいます。

時には、人々のアドバイスを通して私たちに語られることもあります。

時には、私たちの状況を通して神様は語りかけてくださり、良い機会を与えてくださることもあります。

例えば、ある日偶然、私は友達の会話を耳にしました。

彼が仕事を辞めてオーストラリアに引っ越す予定だと聞いた時、神様が「良い機会だよ。彼のポジションは空いているので、応募してみたらどうですか。」と言われました。

その結果、私は新しい仕事に就くことができました。

また、時にはポッドキャストや本を通して、神様が私たちに語られることもあります。

そして、時には神様がご自身の思いを私たちの心に与えてくださることもあります。

とはいえ、主に神様は聖書を通して私たちに語られるのです。

だから、もしあなたが神様が別の方法であなたに語られていると思うなら、必ずそのメッセージを聖書によって確認するべきです。神様のメッセージは聖書の言葉と矛盾することがないからです。

もし、あなたが聞いたメッセージが神のみ言葉と矛盾しているなら、そのメッセージは神様からのものではありません。

この箇所で、ダビデはそのような状況に直面しました。

ダビデとその民は洞穴に隠れ、恐れていました。そして、彼らはサウルとその民が洞穴の外にいるのを見て、おそらく「やばい。もうだめだ。私たちは死ぬ。どうしよう?」と思ったことでしょう。

けれども、サウルだけがその洞穴に近づいてきました。そして、サウルが用を足した時、ダビデとその民は驚いて、少し笑ったのではないかと思います。

その場面を見ながら、ダビデの民はこう言いました。

今こそ、があなたに、「見よ。わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたのよいと思うようにせよ」と言われた、その時です。(サムエル記第一24:4)

ダビデの民はいったい何を言っていたのでしょうか。神様は本当にダビデにそのようなことを言われたのでしょうか。聖書にはそのような言葉は記されていません。

ダビデの民は、サムエルによるダビデが王になる予言を聞いていたため、ダビデがサウルを殺しても良いと考えていたのかもしれません。

また、ダビデの民が言いたかったのは、「この状況を通して、神様は『サウルをあなたの良いと思うようにしなさい』と言っている」ということかもしれません。

つまり、「これは神様からの機会です。殺したらどうですか。」という提案だった可能性があります。

その瞬間、ダビデは一体何を考えていたのでしょうか。

「そうですね。これはきっと神様からの機会です。サウルが何も知らずに私に近づいた。この大変な状況を終わらせる。」とダビデは思ったかもしれません。

そこで、ダビデは静かにサウルに近づきました。しかし、その途中で、ダビデの良心が痛み始めました。そこで、サウルを殺さずに、ダビデはサウルの上着の裾をこっそり切り取ったのです。

それでもなお、ダビデの良心は痛みました。

その後、ダビデは民のもとに戻り、こう言いました。

私が、主に逆らって、に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、の前に絶対にできないことだ。彼はに油そそがれた方だから。(6節)

だから、ダビデはサウルを殺しませんでした。

ダビデの民は、神様が状況を通してサウルを殺すようにダビデを導いておられるように感じました。彼らは「これは神様からの機会ですよ」と言ったのです。

けれども、ダビデはそれを拒絶しました。なぜでしょうか。その行動が神様の命令に反していたからです。実は二つの命令に反していました。

一つ目は、「殺してはならない」という神様の戒めです。

二つ目は、サウルが主に注がれた王であるため、ダビデが彼を尊敬すべきであるということです。

私たちはどれほど、自分の考えと神様の御心を間違えることがあるでしょうか。

また、私たちは自分の状況を見て、神様が私たちにある行動を望んでおられると思うことがありますが、それが間違っていることもあるのです。

どうして私たちは、そのようなミスをするのでしょうか。それは、私たちが聖書に記された神様の既に語られた御言葉を知らないからです。

神様の御心を知りたいと思いますか。神様があなたを導いておられると感じることがありますか。

その導きが本当に神様からのものかどうかを確かめるために、必ず聖書にある神様の御言葉と比べなくてはなりません。もし一致しているなら、その導きに従ってください。

しかし、もし一致していないなら、それは神様の導きではありません。

それは、むしろ、あなた自身の感情、また誰かの意見、あるいは偶然に過ぎない状況である可能性があります。

また、神様は、あなたが神様の御言葉に従うかどうかを見ておられるのかもしれません。

だからこそ、私たちはダビデのようにこう問いかけるべきです。「神様は本当にそう言われたのだろうか。」

また、パウロが言ったように、

すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。(第一テサロニケ5:21)

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サムエル記第一 詩篇

この世界があなたに反対していると思う時

「すべての人々は私に反対している。」

それが多分本当ではありませんが、時々、私たちはそのように感じます。ダビデも、そのように感じたかもしれません。

ダビデがジフ人たちに何も悪いことをしていなくても、彼らはサウルに言いました。

「ダビデは私たちのところに隠れているではありませんか。エシモンの南、ハキラの丘のホレシュにある要害に。

王さま。今、あなたが下って行こうとお思いでしたら、下って来てください。私たちは彼を王の手に渡します。(サムエル記第一23:19-20)

だからダビデはかなり厳しい状況にいました。ダビデは山の一方の側を進みながら、サウルは他の側を進みました。

そして、サウルがダビデを捕えようとしたその時、サウルの使者が来て、「急いで来てください。ペリシテ人がイスラエルに突入してきました。私たちを守ってください。」と言いました。

だから、サウルは、たぶんダビデが視界にいたにもかかわらず、諦めて、ペリシテ人と戦うために向かいました。

その後で、ダビデはこの詩篇を書きました。彼は歌いました。

神よ。御名によって、私をお救いください。あなたの権威によって、私を弁護してください。

神よ。私の祈りを聞いてください。私の口のことばに、耳を傾けてください。

見知らぬ者たちが、私に立ち向かい、横暴な者たちが私のいのちを求めます。彼らは自分の前に神を置いていないからです。セラ。(詩篇54:1-3)

つまり、「神様!助けてください。すべての人々は私に反対している。見知らぬ人でさえ私を殺そうとしているかのようです。」

しかし、ダビデはこれも書きました。

まことに、神は私を助ける方、主は私のいのちをささえる方です。(4節)

多分、ダビデは、どれぐらいサウルが近かったか考えながら、その言葉を書いたかもしれません。

だから、彼が分かりました。「たとえこの世界が私に反対しているように見えても、神様は私に反対しておられません。神様は私の味方であり、私を決して捨てておられません。」

そして、ダビデは歌いました。

私は、進んでささげるささげ物をもって、あなたにいけにえをささげます。よ。いつくしみ深いあなたの御名に感謝します。

神は、すべての苦難から私を救い出し、私の目が私の敵をながめるようになったからです。(6-7節)

この世界があなたに反対していると思うでしょうか。パニックにならないでください。心配しないでください。むしろ、主に仰ぎましょう。主は、あなたの命を支えてくださる方です。

そして、主があなたを救われたら(必ず救われますよ)、ダビデのように主の名を賛美することを覚えておきましょう。

また、神様があなたのためにしてくださったことを覚えておきましょう。なぜなら、以前あなたを助けてくださった神様が、もう一度あなたを助けてくださるからです。

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サムエル記第一

必要な時に、励ます言葉を与える

本当の友達は神様からのギフトです。この箇所で、ダビデはそのことを本当に理解するようになったと思います。

もう一度、サウル王がダビデを追っていると聞いて、おそらくダビデは非常に疲れていたと思います。ダビデは砂漠を越えたり、洞穴に隠れたりしましたが、サウルは諦めませんでした。

ダビデは、「神様は、本当に私と共におられるでしょうか。サムエルは私がイスラエルの王になると言われたけど、どうだろう。もし、私が死んだら、それは無理だろう?」と思ったかもしれません。

しかし、この時にヨナタンはダビデを探しに行きました。

どうやって見つけたのでしょうか。ヨナタンはサウルとその軍隊と一緒にいながら、静かに出てダビデを見つけたのかもしれません。

もしくは、サウルがヨナタンがダビデを愛していることを知っていたので、ヨナタンを宮殿に残したのかもしれません。

私には分かりませんが、サウルができなかったことをヨナタンができました。つまり、ダビデを見つけたのです。

ヨナタンがダビデを見つけた時、ダビデが疲れ、落胆し、恐れていることが分かりました。だから、

ヨナタンは。。。神の御名によってダビデを力づけた。(サムエル記第一23:15)

ヨナタンはダビデにこう言いました。

恐れることはありません。私の父サウルの手があなたの身に及ぶことはないからです。

あなたこそ、イスラエルの王となり、私はあなたの次に立つ者となるでしょう。私の父サウルもまた、そうなることを確かに知っているのです。(17節)

ヨナタンがダビデのためにしたことと同じように、私たちにも友達にしてほしいと神様はのぞんでおられます。エペソ4:29には、このように書いてあります。

悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。

「人の徳を養うのに役立つ言葉を話しなさい。」

私たちの言葉は人々の徳を養うでしょうか。それとも、私たちの言葉は人々を崩すでしょうか。

私たちはよく友だちをからかいますが、大抵は相手が傷つきません。それでも時々、その言葉が人の心を深く刺すことがあります。だからこそ、私たちが励ます言葉を使うべきだと思いませんか。

「必要な時に。」

その時、ダビデは本当にヨナタンの言葉が必要でした。私たちもヨナタンのように、他の人々を助けるべきです。

相手のニーズを見極め、神様に「この人には何を聞くことが必要でしょうか。あなたはこの人に何を言いたいと望んでおられるでしょうか」と祈るべきです。

「聞く人に恵みを与えなさい。」

あなたの言葉は人々に恵みを与えているでしょうか。あなたの言葉は、彼らを神様に近づけるギフトでしょうか。あなたの言葉によって、彼らは神様の恵みと働きを見ることができるでしょうか。

ヨナタンの言葉は、まさにそのようにダビデを励ましました。

人の徳を養うのに役立つ言葉。必要な時に。聞く人に恵みを与える言葉。あなたの口からは、どのような言葉が出るでしょうか。

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サムエル記第一

裏切り

聖書で裏切りの話を考えるとき、多くの人はこの話を思い出さないでしょう。つまり、ケイラという町の人々がダビデを裏切ったことです。なぜなら、最終的にダビデは逃げ延びて助かったからです。

けれども、もし逃げていなかったら、ダビデはサウルに殺されていたかもしれません。

それでも、おそらくダビデとその民は傷ついたでしょう。

ペリシテ人からケイラ人を救うために命を危険にさらしたにもかかわらず、ケイラ人はダビデを助けませんでした。それどころか、サウルと戦うことを避け、ダビデをサウルに引き渡そうと決めたのです。

ダビデはこのことを知ると、すぐに彼とその民はケイラを離れました。その結果、サウルは諦めました。

裏切りに直面したとき、ダビデの例から何を学べるでしょうか。

一つ目は許しと理解です。理解によって私たちは許すことができます。

ダビデにはケイラ人に怒る権利がありました。彼とその民が命を危険にさらしてケイラ人を助けたにもかかわらず、ケイラ人はダビデとその民を助けませんでした。

それでも、ダビデは自分の怒りによってケイラ人に対して行動することはありませんでした。ダビデはケイラ人を責めず、むしろ彼らの状況を理解し、許しました。

ダビデは彼らがどうしてそのように反応したかを理解していました。つまり、ケイラ人は自分自身を守る力がありませんでした。

だから、ペリシテ人が攻めたときにはダビデの助けが必要でしたし、サウルとその軍隊が来たときには恐れ、結果としてダビデを裏切る決断をしたのです。

ある話を聞いたことがあります。ある人は子供の頃、父から虐待を受けていました。そのため、ずっと父を許すことができませんでした。

けれども、その人にとっての転機は、父もまた虐待を受けていたことを知ったときでした。父の傷を理解するようになったとき、その人は父を許すことができるようになったのです。

もしあなたが裏切られ、許すことができないのであれば、大切なことは「理解」を得られるよう祈ることです。

なぜなら、イエス様が祈られたように、私たちを傷つけた多くの人々は、実際に何をしたのか、また、どうしてそれをしたのかを知らないからです。

でも、二つ目に重要なことは、相手を理解し許すべきではあるけれど、危険な環境にとどまる必要はないということです。つまり、相手があなたを傷つけ続けるならば、距離を置くことも許されるということです。

ダビデはケイラ人の弱さを理解しました。そして彼らを許しました。それでも、彼らの裏切りを知ったとき、ダビデはすぐに逃げました。

時として、人々は許しについて誤解を抱きます。許しとは、相手が自分を傷つけることを許可することだと考える人もいます。

しかし、それは間違いです。許すべきですが、相手が悔い改めない場合や、さらに危険が伴う場合には、逃げることも選択肢に含まれます。

だからこそ、ダビデはケイラから、またサウルから逃げたのです。

あなたは裏切られたことがありますか。

神様は私たちに相手を理解しなさいと言われます。そして、相手を許しなさいとも言われます。

しかし、神様は相手の手による苦しみに耐え続けることを求められるわけではありません。

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サムエル記第一

周りの苦しんでいる人々に影響を与える

ダビデは窮地に陥っていても、彼はまだ周りの人々に影響を与えました。1サムエル記22章2節にはこう書かれています。

また、困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、ダビデは彼らの長となった。

これはダビデの最初の軍隊でした。悩んでいる人々、困っている人々、そして魂が不満な人々です。

どうして、このような人々がダビデのもとに集まったのでしょうか。ダビデも彼らと同じように悩んでいたからでしょうか。それとも、他に理由があったのでしょうか。

おそらく、彼らが見たのは、ダビデが自分たちが持っていないものを持っていたということです。

確かにダビデも悩んでいました。確かにダビデも恐れていました。けれども、ダビデは生きている神様との関係を持っていました。

彼らが目にしたのは、ダビデが何をするにも神様の導きを求めていたことです。そして、どんなに困難な時でも、ダビデは自己中心的にならず、自分のことだけを考えることはありませんでした。

そのため、ペリシテ人がイスラエルの町ケイラを攻めた時、ダビデはペリシテ人と戦いました。しかし、ダビデの民は恐れを抱き、こう言いました。

ご覧のとおり、私たちは、ここユダにいてさえ、恐れているのに、ケイラのペリシテ人の陣地に向かって行けるでしょうか。(サムエル記第一23:3)

けれども、神様がダビデを励まし、「私はあなたと共にいる」と言われたとき、人々はダビデの勇気と決意を見ました。

そして、ダビデが神様の戒めに従い、神様が大勝利を与えられたことも目撃しました。

私たちも皆、辛い時を経験します。そのような時に、私たちは周りの人々に本当に大きな影響を与えることができます。

すべてが順調な時に信仰を持つことは簡単です。しかし、困難な時に、私たちはどのように反応するのでしょうか。

周りの人々はあなたを見ています。特に困難な時に、彼らはあなたの反応に注目しています。

あなたはダビデのように反応するでしょうか。あなたの問題にもかかわらず、周りの人々に影響を与えるでしょうか。

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詩篇

救いの歌

私は小学生の頃、学期の最終日に、夏休みがとても楽しみだったのを覚えています。

その時、私は昔の詩を暗唱したことを覚えています。

鉛筆は、もうない、
教科書は、もうない、
先生の怒っている顔は、もうない。

私はあまりにも嬉しくて、自分の歌詞を加えました。そして、階段を下りながら、その詩を暗唱しました。

多分、ダビデも、そのように感じたかもしれません。(もちろん、彼の喜びは私のよりも大きかったけれど。)

ペリシテ人が彼を捕まえて、ダビデは「私は死ぬ」と思ったかもしれません。けれども、彼は、狂っている人のように行動したので、その王はダビデがそんなに危険人物ではないと思い、解放しました。

詩篇34篇で、ダビデの大喜びがよくわかります。

私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。

私のたましいは主を誇る。貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。

私とともに主をほめよ。共に、御名をあがめよう。(詩篇34:1-3)

多分、ダビデは何回もこの歌を歌ったと思います。他の試練に直面した時に、神様の慈しみを思い出すために、この歌を歌ったかもしれません。

サウルから逃げ続けていた時にも、この歌を歌ったかもしれません。息子アブサロムがダビデの王国を取ろうとして、ダビデが逃げた時にも、この歌を歌ったかもしれません。

どれぐらい、ダビデはこの歌を歌ったでしょうか。どれぐらい、「神様は良い方です。神様は私を養ってくださる」と思い出すために歌ったでしょうか。

特に、私はこの言葉が大好きです。

主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。

主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。(詩篇34:7-8)

また、

主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる。

正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。(詩篇34:18-19)

実は、この詩篇の全体が大好きです。歌った時に、ダビデはこう思い出しました。

1.神様は私たちの叫びを聞いてくださる。(4-6、15、17節)

2.私たちの試練の中に、神様はいつも私たちと共におられる。私たちは決して一人ぼっちではありません。(7、18節)

3.神様は良い方です。(8節)

4.神様は私たちのニーズを全て備えてくださいます。(9-10節)

5.大変な時でも、神様に背を向けない方が良いです。正しいことをし続けた方が良いです。(12-14節)

6.神様に信頼すれば、全ては良くなるでしょう。(5、19-22節)

試練の中にいる時、私たちは、この詩篇を思い出しましょう。何回も、この歌はダビデを助けたと思います。もし、ダビデのように神様を信じると、この歌は私たちも助けてくださるでしょう。

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サムエル記第一 詩篇

神様に信頼する

アメリカでは、ドル札と硬貨の上に、こう書いてあります。「神様に信頼する。」

ちょっと皮肉だけど、今、多くのアメリカ人は神様よりもお金に信頼しています。もし、お金を儲けるよりも、その言葉を見て従ったら、彼らの優先順位がもっと良くなるでしょう。

ダビデは時々失敗しましたが、大体彼は神様に信頼しました。サウルから逃げて、ダビデはイスラエル人の敵ペリシテ人の所に行きました。

けれども、ペリシテ人はダビデのことを忘れていませんでした。つまり、ダビデがペリシテ人の戦士ゴリアテを殺したことをよく覚えていたのです。

それに、彼がイスラエルの将軍として何回もペリシテ人の軍隊と戦ったこともよく覚えていました。

だから、彼らはダビデを見つけた時に、彼を捕まえて王の前に連れてきました。ダビデは牢に入った時に、この詩篇を書いたかもしれません。

すぐに死ぬかどうかわからない時に、彼は書きました。

恐れのある日に、私は、あなたに信頼します。

神にあって、私はみことばを、ほめたたえます。私は神に信頼し、何も恐れません。肉なる者が、私に何をなしえましょう。(詩篇56:3-4)

どうして、ダビデは、それが言えたのでしょうか。多分、いろんな理由があったのでしょう。

最初の理由は、怖がって、彼には神様に信頼する選択しかありませんでした。

しかし、振り返った時に、彼は神様が彼を救ってくださったことを思い出しました。つまり、クマとライオンとゴリアテと戦った時に、神様は彼を助けてくださいました。

ダビデがもう一つ思い出したのは、自分の人生が神様の御手にあったことです。

サムエルを通して、神様がダビデのために良い計画を持っておられることを知っていました。だから、もし、彼が神様に信頼し続けたら、神様が彼を守ってくださることを知っていました。

それに、ダビデが死んでも、つまり、ペリシテ人かサウルが彼を殺しても、彼らがダビデの魂を滅ぼすことはできないことを知っていました。

だから、試練の中で、彼は歌いました「神様に信頼する。」

あなたはどのような試練の中にいるでしょうか。どのような苦しみや悲しみを感じるでしょうか。希望を失わないでください。勇気を持ちましょう。

神様が過去にあなたのために何をしてくださったか思い出しましょう。神様の慈しみを思い出しましょう。神様があなたのために良い計画を持っておられることを思い出しましょう。

そして、何が起こっても、生きても、死んでも、あなたの人生が神様の御手にあることを思い出しましょう。

I will trust you, Lord, when I don’t know why.
たとえ、なぜ自分がこのような状態にあるのか分からなくても、私はあなたを信じます。
I will trust you Lord, ‘til the day I die.
私は死ぬまで、あなたを信頼します。
I wil trust you Lord, when ‘m blind with pain.
本当に苦しんで、私の心が見えなくても、あなたを信頼する。
You were God before and you’ll never change.
あなたは過去に神様だったし、あなたは全然変わらない。
I will trust you.
あなたを信頼する。
I wil trust you.
あなたを信頼する。
I will trust you, Lord.
主よ。あなたを信頼する。

ーートワイラ・パリス

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詩篇

私たちの言葉の裏に何がある

「どうして、私はそれを言ったのだろうか。」

どれぐらい、私は振り返って、そう言うでしょうか。

ヤコブが言ったように、私たちの舌は小さいけれど、力強いです。命を与える力があります。つまり、励ますことができるし、人の徳を養うことができます。けれども、私たちの舌は人を滅ぼすこともできます。

サウルの牧者たちの中の強者ドエグは自分の舌で、人々を滅ぼしました。

多分、サウルから報いを得るために、彼はサウルにノブの祭司たちがダビデを助けることを伝えました。それに、サウルの民がその祭司を殺すことを拒絶すると、ドエグはその祭司たちを殺しました。

その事件の後で、ダビデは、この詩篇を書きました。その詩篇で、ダビデは、どれぐらい舌が悪くなるか書きました。

私たちの舌は自分の悪を誇ります。(詩篇52:1)

私たちの舌は破滅を図るし、人々を欺きます。(2節)

真理を言わずに、嘘をつきます。(3節)

人々をごまかします。(4節)

しかし、舌の裏に心があります。ドエグの心はお金を信頼して、いつも、もっと欲しがっていました。だから、彼の言葉が誰かを滅ぼしても、気にしませんでした。(7)

あなたはどうですか。あなたの心の中には何が入っているでしょうか。イエス様は言われました。

心に満ちていることを口が話すのです。

良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。

わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。(マタイ12:34-36)

ダビデにとって、一番大切なのは、神様との関係ということです。それはダビデの心の中にありました。彼はお金などに信頼しませんでした。むしろ、彼はこう言いました。

私は、世々限りなく、神の恵みに拠り頼む。(詩篇52:8)

だから、ダビデの口からは、人々を滅ぼす言葉ではなく、人々を励ます言葉と神様への賛美が出ました。彼は歌いました。

私は、とこしえまでも、あなたに感謝します。あなたが、こうしてくださったのですから。私はあなたの聖徒たちの前で、いつくしみ深いあなたの御名を待ち望みます。(9節)

あなたの心から、どのような言葉が出るでしょうか。

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サムエル記第一

私は嘘が嫌いです。

英語では「白い嘘」という表現があります。これは「悪意がない嘘」という意味です。例えば、友達が「このドレスを買ったのよ、素敵でしょ?」と言ったとします。

実はそのドレスが嫌いだけど、こう答えるかもしれません。「そうですね、素敵なドレスですね。」

これがいわゆる「悪意がない嘘」です。

けれども、私は悪意のない嘘も嫌いです。基本的に、私は嘘を避けます。

もちろん、真実が相手を傷つけると分かっている場合には気を付けます。

例えば、「本当に酷いドレスね。なぜそのドレスを買ったの?」とは絶対に言いません。

むしろ、「ああ、新しいドレスを買ったの?良かったねえ。」と答えるかもしれません。

それが少しあいまいな返事です。私にとって、その意味は「そのドレスは素敵です」ということではなく、「あなたが新しいドレスを買って嬉しいことは良かったです」ということです。

私はできるだけ嘘を避けるようにしています。

なぜ、嘘をつくことがそんなに悪いのでしょうか。このダビデとサウル、そしてノブの祭司の話から、二つの理由を学ぶことができます。

一つは、嘘をつく時、相手を傷つける意図がなくても、結果的に私たちはそうしてしまうことがあるということです。

おそらく、ダビデはサウルがノブの祭司たちを殺すとは思いませんでした。ダビデはこう考えたのかもしれません。

「彼らは祭司たちだ。サウルが私を助けたことを知っても、彼らが『ダビデがあなたから逃げているとは知らなかった』と説明すれば、必ず信じるだろう。」

けれども、サウルは彼らを信じなかったので、彼らを殺しました。そして、ダビデには85人の祭司の死の責任がありました。

私たちは自分の嘘が悪い結果をもたらさないと思うかもしれませんが、意図しない結果が出ることもあります。

何年か前、私はある会社で働いていました。しかし、その会社は経済的な問題を抱えていて、最終的に倒産しました。

ある月、私の給料は遅れて支払われました。本来なら金曜日に振り込まれるはずでしたが、月曜日になってから支払われたのです。私は金曜日に銀行に行かなかったため、月曜日までそのことを知りませんでした。

その日、学校で説明する文書を読んで給料遅延を知りました。

とにかく、家に帰ったとき、妻が「仕事はどうだった?」と尋ねました。そのとき私はこう考えました。「この給料のことを伝えるべきだろうか。結局、給料は来たし、妻を心配させたくない。」

けれども、結局私はこう思いました。「伝えた方がいい。」

伝えた後、妻はこう答えました。「そうそう!昨日、教会で、だれだれさんがそう言っていたわ。」

私の教会の友達もその会社で働いていたので、「ブルースは大丈夫でしょうか。金曜日に会社が払ってくれなかった」と言っていたそうです。

妻がそう言った時、私はこう思いました。「真理を言って良かった!」

その日、私が学んだことは、相手が真理を知らないと思っていても、実際には知っている可能性があるということです。そして、もし私が真理を言わない場合、それが私たちの関係を傷つけることにつながる可能性もあるということです。

もし、私が真理を言わなかったら、妻は何を思ったでしょうか。そして、真理が後に明らかになった時、どう感じたでしょうか。

二つ目の理由は、時々、私たちは自分自身の嘘を信じ始めてしまうということです。

サウルはまさにその典型でした。サウルには、ダビデが自分に反対したり、自分を殺そうとしたりすることを信じる理由はありませんでした。

しかし、サウルは何度も他の人々にそう言い続けた結果、最終的に彼自身もそれを信じるようになってしまったのです。

そして、ヨナタンやノブの祭司たちが真理を伝えたとき、サウルはその真理を認めることができませんでした。そのため、サウルはノブの祭司たちを殺し、さらにはヨナタンさえも殺そうとしました。

あなたは真理を語りますか。それとも、嫌な状況や困難な状態を避けるために嘘をつくでしょうか。自分の行動を正当化するために、自分自身や他の人々に嘘をつくでしょうか。

たとえ小さな嘘でも、結果的にあなたや他の人々を傷つけることにつながるかもしれません。

パウロはこう書きました。

互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、

新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。(コロサイ3:9-10)

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サムエル記第一

無償の愛

聖書の中で、ヨナタンがダビデに示した愛は、おそらく最も素晴らしい例の一つです。

第一コリント13章には、「愛は妬みません」、また「愛は自分の利益を求めません」と記されています。

ヨナタンはまさにそのようにダビデを愛しました。

ヨナタンはサウル王の息子であり、本来ならイスラエルの次の王となるはずでした。けれども、ヨナタンは神様がダビデを次の王として選ばれたことを知っていました。

それが分かっても、ヨナタンはそれを気にすることなく、ダビデの成功を妬むこともありませんでした。ダビデのための神様のプランを知っても、ヨナタンはダビデを恐れませんでした。

むしろ、

ヨナタンは自分を愛するほどに、ダビデを愛していた(サムエル記第一20:17)

ヨナタンは、自分自身の代価を気にすることなく、ダビデの最善を望みました。だから、ダビデが生きながら王になることができないと分かっていても、ヨナタンはダビデをサウルから守りました。

ヨナタンはサウルとダビデについて言い争いをしました。けれども、その父を説得できなかったため、ヨナタンはダビデに「逃げなさい」と警告しました。

あなたはどうでしょうか。

自分自身よりも他の人々を愛することができるでしょうか。周りの人々のための神様の計画を喜ぶことができるでしょうか。周りの人々が成功する時に、喜ぶことができるでしょうか。

それとも、神様が他の人々をあなたよりも祝福する時に怒るでしょうか。私たちが自分自身を他の人々と比べて妬むのは簡単です。他の人々の祝福を望みながら憤慨するのも簡単です。

しかし、本当の愛は無償です。他の人々が喜ぶ時に、その愛は共に喜びます。他の人々が悲しむ時には、その愛は共に悲しみます。

あなたはどのような愛を持っているでしょうか。

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サムエル記第一 詩篇

神様の慈しみを思い起こす

「どうして、こんなことが起こっているの?神様、私を愛していないの?あなたはどこ?」

悪いことが起こったら、私たちはよくそのように反応します。もし、誰かがそのようなことを言う権利があれば、その人はダビデでした。彼は何も悪いことをしていなかったのに、サウルは彼を殺そうとしていました。

その状態の中で、ダビデはこの詩篇を書きました。

サウルが槍でダビデを殺そうとしたあとで、ダビデは逃げましたが、サウルはダビデの家にダビデを見張らせ殺すために、使者を遣わしました。けれども、ダビデの妻ミカルはダビデに警告して、彼が逃げることを助けました。

逃げながら、ダビデは詩篇59篇を書きました。

わが神。私を敵から救い出してください。私に立ち向かう者が届かぬほど、私を高く上げてください。

不法を行う者どもから、私を救い出してください。血を流す者どもから、私を救ってください。

今や、彼らは私のいのちを取ろうと、待ち伏せています。力ある者どもが、私に襲いかかろうとしています。主よ。それは私のそむきの罪のためでもなく、私の罪のためでもありません。

私には、咎がないのに、彼らは走り回り、身を構えているのです。どうか目をさまして、私を助けてください。どうか、見てください。(詩篇59:1-4)

つまり、「助けてください!」

けれども、ダビデは、これも書きました。

私の力、あなたは私を、見守ります。神は私のとりでです。

私の恵みの神は、私を迎えに来てくださる。神は、私の敵の敗北を見せてくださる。(詩篇59:9-10)

また、

しかし、この私は、あなたの力を歌います。まことに、朝明けには、あなたの恵みを喜び歌います。それは、私の苦しみの日に、あなたは私のとりで、また、私の逃げ場であられたからです。

私の力、あなたに、私はほめ歌を歌います。神は私のとりで、私の恵みの神であられます。(詩篇59:16-17)

私にとって、印象に残っている言葉は、「私の恵みの神」ということです。英語では、「My loving God」、つまり、「私を愛している神」。

ダビデは大変な状態の中で、神様の愛と恵みを全然疑っていませんでした。むしろ、皆がダビデに反対する時に、ダビデは神様の愛に隠れて、安心しました。

問題に焦点を当てずに、ダビデは神様に焦点を当てていました。自分の状況について文句を言わずに、神様を礼拝しました。

そして、ヨナタンとミカルとサムエルを通して、神様はダビデを救い出してくださいました。

あなたはどうですか。全てが悪い時に、あなたはどうするでしょうか。神様の愛を疑いますか。神様の慈しみを疑うでしょうか。

もしくは、ダビデのように、神様のために待ち望むでしょうか。神様の愛に隠れて、礼拝するでしょうか。

神様が恵みの神であることと、神様があなたの先に行って導くことと、神様があなたを救ってくださることを心に留めておきましょう。

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サムエル記第一

私たちが愛してる人々が間違っているとき

「私は人に面と向かうのは苦手です。」

それは、映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のジョージ・マクフライのセリフです。マーティがジョージに「どうしてビフがあなたをいじめるのを許すのか」と聞くと、ジョージはそう答えました。

私たちはそのセリフを笑うかもしれませんが、多くの人々(私も含めて)がその気持ちを理解できるかもしれません。

相手が間違っているときに、その人と話すのは非常に難しいものです。特に、その人のことを私たちが愛している場合は、さらに難しくなります。

ヨナタンも、そのような問題に直面しました。サウルはヨナタンに「ダビデを殺せ」と命じましたが、ダビデはヨナタンの親しい友人だったのです。

私たちが愛している人が間違っていたら、どうすれば良いでしょうか。時々、私たちは何もせずに、彼らがいつか自然に変わることを期待してしまいます。

また、時々私たちは彼らを無視したり、避けたりします。そしてこう考えます。「彼らは好きにすればいい。私は彼らに対処したくない。」

さらに時々、私たちは何も言わないまま怒りをため込み、最終的に感情が爆発してしまうことがあります。

けれども、そのような反応は適切ではありません。では、ヨナタンはどうしたのでしょうか。彼は父サウルと真正面から向き合ったのです。聖書にはこう書いてあります。

王よ。あなたのしもべダビデについて罪を犯さないでください。彼はあなたに対して罪を犯してはいません。かえって、彼のしたことは、あなたにとって非常な益となっています。

彼が自分のいのちをかけて、ペリシテ人を打ったので、主は大勝利をイスラエル全体にもたらしてくださったのです。あなたはそれを見て、喜ばれました。

なぜ何の理由もなくダビデを殺し、罪のない者の血を流して、罪を犯そうとされるのですか。(サムエル記第一19:4-5)

ヨナタンがサウルと話したとき、彼は謙遜な態度を持ち、優しい言葉を使いました。私たちもそのようにするべきです。両親や子供、友人、同僚、上司と話す際には、ヨナタンの例に従うのが良いでしょう。

もちろん、親が子供を扱うときには、時に厳しい態度を取らなければならないこともあります。それでも、怒りではなく、愛を持った態度を取るべきです。

パウロは言いました。「真理を語りなさい。」

その責任から逃れることはできません。

とはいえ、「愛を持って、真理を語るべきです」(エペソ人への手紙4:15)。

ヨナタンは、そのように行動しました。

それでも、真理を伝えた後、人を無理やりその真理に従わせることはできません。

親としてはある程度それが可能かもしれませんが、他の場合にはそれは不可能です。最終的に、人々は自分自身で決断を下さなければならないのです。

最初、サウルはヨナタンの言葉に従いましたが、結局もう一度ダビデを殺そうとしました。そのため、ダビデは逃げざるを得ませんでした。

そのような場合、私たちにできることは祈ることだけです。神様だけがその人の心を変えることができるのです。

そして、もし彼らの行動があなたを傷つけるのであれば、自分自身を守らなければなりませんし、脅かされている人々も守る責任があります。

ヨナタンもそのようにしました。彼はダビデに警告し、父の手から守ったのです。

しかし、沈黙してはいけません。真理を語らなければなりません。愛を持ち、また謙遜な態度であっても、真理を語ることを避けてはならないのです。

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サムエル記第一

神様の懲らしめに反応する

懲らしめは決して楽しいものではありません。

私が若い頃、父は私の嘘を見抜き、こう言いました。「お前は、もう信頼できない。もし私に信頼してほしいなら、時間がかかるし、お前が本当のことを言わなくてはならない。」

それは辛い言葉でした。今でもその言葉をはっきりと覚えています。けれども、その言葉のおかげで私は変わり、最終的に父が私を信頼できるようになりました。

残念なことですが、サウルの神様の懲らしめに対する反応は良くありませんでした。

この箇所を読んだとき、私は祭司エリについても考えました。

神様は以前、エリも懲らしめました。それは、彼の息子たちが様々な悪事を行っていたにもかかわらず、エリが何もしなかったからです。

祭司として、そして父として、エリは自分の息子たちを懲らしめるべきでしたが、何もしませんでした。

そのため、神様は裁いてこう言われました。「あなたの息子たちは死ぬし、あなたの子孫が私の前で祭司として仕えない日が来る。」

エリは、それを聞いたとき怒りませんでした。神様に「あなたは不公平だ」と叫ぶこともありませんでした。むしろ、彼はこう言いました。

「その方は主だ。主がみこころにかなうことをなさいますように。(第一サムエル3:18)

それに、エリは子育てに失敗しましたが、サムエルをしっかりと教え育てました。

サムエルが神様から聞いたことを見たとき、エリは妬むことはありませんでした。神様がサムエルを祝福されたことを見ても、エリはサムエルを迫害することはありませんでした。むしろ、エリはサムエルにどうやって神様に応答するかを教えました。

そして、サムエルに責任をもって神様の言葉をしっかりと伝えることを教えました。神様の言葉が辛くても、サムエルに正直であり、また忠実にその言葉を伝えることを教えたのです。

サムエルはその教えを学び、立派な預言者となりました。

それでも、神様はエリを懲らしめました。そして、神様が言われた通り、ソロモンがエリの子孫を主の祭司の職から罷免しました。(列王記第二2:27)

それでも、エリは神様の懲らしめを受け入れ、出来る限り神様に仕え続けました。

サウルの反応は全く違いました。サウルは、神様の霊が自分を去り、ダビデと共にいることを見ました。そして、イスラエル人がサウルよりもダビデをほめたことや、ダビデが次の王になることを知ったのです。

その結果、サウルは恐れてダビデを殺そうとしました。自分の手、さらにはペリシテ人の手を使ってダビデを殺そうとしたのです。

けれども、結局殺すことができなかったため、サウルはさらに恐れるようになりました。

サウルは神様の懲らしめを受け入れなかったため、彼の人生は惨めなものとなりました。

サウルは悔い改めることもなく、できる限り神様に仕え続けることもしませんでした。むしろ、サウルは神様の決断に反抗し、持っているものを手放すことなく守り続けようとしました。

しかし、もしサウルがダビデを受け入れていたら、どうなっていたでしょうか。もしサウルが神様の決断に反抗せず、ダビデにこう言ったとしたら。

「私は失敗しました。だから、神様はあなたを選ばれたのです。私のミスから学んでください。」

そうしていたら、サウルの人生はどう変わっていたでしょうか。

おそらく、神様はもう一度サウルにサムエルを送られたでしょう。そして、サムエルは再びサウルと共に働いたかもしれません。神様が再びサウルと話し、働き続けられたかもしれません。

しかし、サウルは神様の懲らしめに反抗し続けたため、神様からさらに遠く離れてしまいました。

たとえ神様の懲らしめを受け入れたとしても、神様の決断が変わることはなかったかもしれません。けれども、神様ともっと親しい関係が築けていた可能性があります。

残念ながら、サウルはそれを選ばなかったため、惨めな人生を送ることとなったのです。

あなたはどうでしょうか。神様の懲らしめに対して、どのように反応するでしょうか。その懲らしめに反抗しますか。それとも、それを受け入れて、神様があなたを変えてくださることを許しますか。

神様が私たちを嫌いだから懲らしめられるのではないことを覚えていてください。むしろ、神様は私たちを愛し、私たちのベストを望んでおられるからこそ懲らしめてくださるのです。

ヘブル人への手紙の著者はこう書きました。

そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。

主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」

訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。

もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。

さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。

なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。

すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。

ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。

また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作りなさい。なえた足が関節をはずさないため、いやむしろ、いやされるためです。(ヘブル12:5-13)

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サムエル記第一

信仰のある人、恐れている人々

聖書の中で、これは最も有名な話の一つです。私はおそらく100回以上読んだことがあります。けれども、今回印象に残ったことは、信仰のある人と恐れる人の違いです。

再び、ペリシテ人はイスラエル人と戦う準備をしていました。

そして、一人のペリシテ人であるゴリアテが、イスラエルの軍隊に一対一の戦いを挑みました。

もしイスラエル人の一人がゴリアテと戦って彼を殺せば、ペリシテ人全員がイスラエルの奴隷になる。

けれども、ゴリアテがイスラエル人の代表を殺した場合、イスラエル人全員がペリシテ人の奴隷になるというものでした。

この条件を聞いたとき、サウルとその民は恐れました。

しかし、そこに信仰のある人が現れました。それはダビデです。

恐れる人々が信仰のある人を見たとき、彼らがどのように反応したかは興味深いです。

1.怒り。

ダビデはゴリアテのチャレンジを聞くと、こう言いました。

このペリシテ人を打って、イスラエルのそしりをすすぐ者には、どうされるのですか。

この割礼を受けていないペリシテ人は何者ですか。生ける神の陣をなぶるとは。(サムエル記第一17:26)

ダビデの兄エリアブは、その言葉を聞くと、こう答えました。

いったいおまえはなぜやって来たのか。荒野にいるあのわずかな羊を、だれに預けて来たのか。

私には、おまえのうぬぼれと悪い心がわかっている。戦いを見にやって来たのだろう。(28節)

どうしてエリアブはそんなに怒ったのでしょうか。多分、ダビデの言葉がエリアブの恐れを表したからです。

エリアブは、「私は戦った方がいい」と思ったかもしれませんが、彼の恐れによって行動に移しませんでした。だから、彼の弟が来たときに、エリアブはその信仰深い言葉を聞いて恥を感じたのでしょう。

私たちもどれほど、そのように反応するでしょうか。困難な状況に直面して信仰を持たずに恐れます。そして、信仰のある人を見たときに怒り、その人を攻撃してしまうのです。

2.失望。

サウルは、誰かがゴリアテと戦いたいと言ったと聞いたとき、おそらく喜んだでしょう。

おそらく、イスラエル人全員がサウルがゴリアテと戦うことを期待していたでしょう。なぜなら、イスラエル人の中でサウルは最も背が高かったからです。

ところが、サウル自身も恐れていました。そのため、その知らせを聞いたとき、彼はすぐにダビデを呼びました。

けれども、サウルがダビデを見たとき、おそらくとてもがっかりしたことでしょう。「この若者が……この若者がゴリアテと戦えるのだろうか。」

サウルは失望し、ダビデをがっかりさせようと思ったのです。そして、彼はこう言いました。

あなたは、あのペリシテ人のところへ行って、あれと戦うことはできない。あなたはまだ若いし、あれは若い時から戦士だったのだから。(33節)

どれほど私たちはサウルのように反応するでしょうか。あなたは自分の恐れによってがっかりし、他の人々が信仰によって歩むのをやめるように説得しようとするでしょうか。

しかし、ダビデはどのように反応したのでしょうか。兄の怒りとサウルの恐れがダビデに影響を与えることを許しませんでした。むしろ、彼は神様に100%信頼しました。

どうして彼は神様に信頼することができたのでしょうか。それは、神様が過去に何をしてくださったかを思い出したからです。熊と獅子がダビデの羊を攻撃したとき、神様がダビデを助けてくださったことを思い出したのです。

それゆえ、ダビデはこう言いました。

獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。(37節)

ダビデは状況をあまり気にしませんでした。なぜなら、神様がその状況よりも大きいと知っていたからです。そして、神様の助けによって、ダビデはゴリアテを殺し、イスラエルに勝利を与えました。

残念なことに、サウルはそれを決して学びませんでした。それは13章でも見られます。サウルの民の恐れがサウルに影響を与え、彼はパニックに陥り、罪を犯してしまったのです。

あなたはどうでしょうか。あなたは信仰のある人ですか、それとも恐れる人ですか。

困難な時に直面したとき、どのように反応しますか。信仰によって反応しますか、それとも恐れによって反応しますか。

ただ問題に焦点を当て、恐れに支配されるサウルやエリアブのようにならないようにしましょう。

むしろ、ダビデのように、私たちは神様に焦点を当てましょう。神様は私たちの問題よりも大きいからです。

神様が過去に私たちを救ってくださったことを思い出し、将来も私たちを助け続けてくださることを知って、神様に信頼しましょう。

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サムエル記第一

一時的な解決

サウルが神様に背を向けた後、神様もサウルに背を向けられました。14節には、神様がサウルをおびえさせるために災いの霊を送られたことが書かれています。

これは少し理解しにくい箇所です。どうして良い神様がそのようなことをされるのでしょうか。

けれども、私たちが理解しなくてはならないことがあります。それは、神様の望みが、私たち皆にご自身を求めてほしいということです。

しかし、私たちがあまりにも頑固であるとき、神様は私たちの注意を引くために、ご自身の手を私たちの人生から離され、サタンが私たちを攻撃することを許されることがあります。

第一コリント5章には、そのようなことが書かれています。パウロは悔い改めたくないクリスチャンについて、次のように言いました。

このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。(第一コリント5:5)

その希望は、その人が惨めになり、主をもう一度求めて、罪から救われることです。そのコリント人の人は、そうしたようです。(第二コリント2:5-10)。

けれども、サウルの場合、彼は全く悔い改めませんでした。むしろ、彼は一時的な解決を求めました。そして、サウルの家来が彼に勧めました。

わが君。どうか御前にはべるこの家来どもに命じて、じょうずに立琴をひく者を捜させてください。

わざわいをもたらす、神の霊があなたに臨むとき、その者が琴をひけば、あなたは良くなられるでしょう。(サムエル記第一16:16)

だから、ダビデはサウルを慰めるために、立琴を弾き始めました。サウルがダビデを気に入ったので、ダビデはサウルの道具持ちになりました。

そして、災いの霊が来てサウルを苦しめたときに、ダビデが来て立琴を弾いてあげました。そうすると、サウルは再び元気になりました。

しかし、その平安はすぐになくなりました。なぜでしょうか。それは、サウルが問題の根本を全く扱わなかったからです。つまり、彼は神様に従わない心を持っていたのです。

現在でも、多くの人々が神様に背を向けるので、神様はトラブルを送られます。そして、その希望は、彼らがもう一度神様を求めることにあります。けれども、彼らはそうせず、一時的な解決を求めます。

ある人にとっては音楽です。ある人にとっては麻薬やアルコールです。ある人にとっては教会に行くことです。彼らは教会に行き、愛情深い人々から励まされます。そして、音楽とメッセージによって励まされるのです。

しかし、教会を楽しんでも、彼らは問題の根本を扱いません。つまり、月曜日から土曜日まで、彼らは神様に従わないのです。だから、すぐにまた惨めになってしまいます。

あなたはどうでしょうか。あなたの罪によってトラブルが来るとき、どのように反応しますか。

神様に向かうでしょうか。それとも、一時的な解決を求めるでしょうか。

その一時的な解決を求めることはしないでください。むしろ、本当の平和と満足を与えてくださる神様に向かいましょう。

ダビデはこう書きました。

幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。

幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、その霊に欺きのない人は。

私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。

それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。セラ

私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。

私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。(詩篇32:1-5)

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サムエル記第一

神様が何をご覧になる?

時々、神様が人々を判断される方法と、私たちが人々を判断する方法は全く異なります。

イスラエルの新しい王を探すために、神様はサムエルをエッサイという人の元に送られました。エッサイの長男を見たとき、サムエルは感動しました。けれども、神様はこう言われました。

彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。

人はうわべを見るが、主は心を見る。(サムエル記第一16:7)

エッサイはすでに六人の息子たちをサムエルに紹介しましたが、神様は彼らを拒絶されました。

エッサイは末っ子のダビデを取るに足りない人物だと思い、彼を紹介しようとは全く考えませんでした。

おそらく、エッサイはこう考えたのでしょう。「ダビデは末っ子ですし、とても若い。ただの羊飼いにすぎない。」

けれども、サムエルは尋ねました。「もう一人、いないでしょうか。」

エッサイは答えました。「はい、いますよ。末っ子のダビデがいます。でも、別に特別な子ではありません。ただの羊飼いです。本当にお会いになりたいのですか?」

そして、ダビデがそこに来たとき、神様はこう言われました。

さあ、この者に油をそそげ。この者がそれだ。(12節)

人間として、私たちは人々の外見によって判断します。どんなにハンサムか、どんなに美しいかによって判断します。また、どんなに賢いか、どんなに金持ちか、そしてどれほど才能があるかによっても判断します。

しかし、神様はそのような基準では判断されません。神様は私たちの心をご覧になります。私が以前言ったように、すべての他のものよりも、神様は私たちの心を求めておられます。

あなたの外見、賢さ、またはお金が周りの人々を感動させるかもしれません。

でも、神様はそれらに心を留められることはありません。むしろ、神様はあなたをご覧になり、こう尋ねられるでしょう。「私はあなたの心を持っているでしょうか。」

もし神様があなたの心を持っておられるなら、あなたの外見や才能、あるいはお金は問題にはなりません。

神様はご自身の王国のためにあなたを用いることができ、あなたを通して素晴らしい業を行ってくださいます。

ダビデの家族は彼をずっと見落としていましたが、神様は素晴らしいことを行うために彼を用いられました。ただの羊飼いであったにもかかわらずです。同じように、神様はあなたをも用いることができます。

神様があなたをご覧になるとき、何をご覧になるでしょうか。神様に属する心をご覧になるのでしょうか。

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サムエル記第一

口だけで神様に仕える?

サウルの没落はさらに続いています。

サムエルを通して、神様はサウルにアマレク人を全滅させるよう命じられました。モーセの時代、イスラエル人が砂漠を旅している間に、アマレク人は彼らを攻撃しました。

そして、サムエルの時代でもアマレク人は依然として存在し、イスラエル人や他の民を攻撃し続けていました。

そのため、神様は「彼らをすべて滅ぼしなさい」と命じられました。誰にも容赦してはならず、動物でさえもすべて殺すべきだったのです。

これは厳しすぎると思うかもしれませんが、アマレク人には悔い改めのための時間が与えられていました。それでも、彼らはその恵みを拒み、さらに悪い行いに走り続けました。そのため、神様は彼らを裁かれました。

同じように、いつの日か、神様はすべての人々を裁かれます。ある人々は永遠の命を受け取り、他の人々は滅びるのです。

いずれにせよ、サウルは神様の命令に従いませんでした。彼はアマレクの王を容赦し、最も良い羊や家畜を殺さずに残しました。おそらく「もったいない」と思ったのかもしれません。

そのため、神様はサムエルに次のように言われました。

わたしはサウルを王に任じたことを悔いる。彼はわたしに背を向け、わたしのことばを守らなかったからだ。(サムエル記第一15:11)

サムエルはサウルの所に行きましたが、最初、サウルは自分の罪を認めませんでした。むしろ、サウルはこう言いました。

主の祝福がありますように。私は主のことばを守りました。(13)

サウルは、サムエルが羊や家畜、その他の動物について知らないと思っていたのかもしれません。けれども、サムエルがそのことについて質問した時、彼は答えました。

「ああ、そうそう。それはね。いけにえを捧げたかった。だから、私の民はその動物を殺したくなかった。」

しかし、サムエルはこう答えました。

主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。

見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。

まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。

あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。(22-23節)

そして、サウルはようやく自分の罪を認めましたが、自分の民を責めました。

私は民を恐れて、彼らの声に従ったのです。(24節)

サウルの問題は、今でも多くの人々に見られるものです。口では神様に仕えると言いながら、心の中では自分自身に仕えていたのです。

その前に、サムエルがサウルを探していた時、サウルは自分を祝うために山に登り、記念碑を立てていました。サウルは「いけにえを捧げたかった」と言いましたが、それは本当だったのでしょうか。

また、私が以前に言ったように、彼の謝罪はあまり誠実ではなかったように思われます。自分の行動に責任を取るのではなく、他の人々を責める態度を見せました。

さらに、彼の礼拝も心から捧げられたものではなく、うわべだけのものでした。サムエルが去ろうとした時、サウルは願いました。

どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私の面目を立ててください。どうか私といっしょに帰って、あなたの神、主を礼拝させてください。(35節)

神様の前でも民の前でも、サウルは自分の評判を気にしていました。

そのため、神様はサウルをイスラエルの王として拒絶されました。

あなたはどうでしょうか。口先だけで神様に仕えているでしょうか。他の人々を感動させるためだけに、宗教的なことを言ったり行動したりしているでしょうか。

それとも、神様はあなたの心を持っておられるでしょうか。

神様はあなたの言葉や行動よりも、あなたの心そのものに興味を持っておられます。もし、あなたの心が神様に捧げられていなければ、神様にとって、あなたの行動や言葉は無駄なものとなってしまいます。

サウルは神様に自分の心を捧げませんでしたが、次の王であるダビデは、自分の心を神様に捧げました。

神様はあなたの心を持っておられるでしょうか。それとも、あなたの言葉だけを持っておられるのでしょうか。

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サムエル記第一

悪いリーダーシップ

私たちはサムエルの生き方を通して、良いリーダーの姿をはっきりと知ることができました。

残念なことに、サウルについては同じことが言えません。悪いリーダーがどのようなものかを知りたいなら、サウルの行動を見ればよく分かります。

では、どうしてサウルは悪いリーダーだったのでしょうか。

1.神様の知恵に頼らず、自分の知恵に頼りました。

ペリシテ人が少し混乱している時、サウルは祭司を通して神様の言葉を求めました。

けれども、ペリシテ人たちがさらに混乱して本当にパニック状態になると、サウルは祭司に「もういい」と言い、主を求めるのをやめ、ペリシテ人を攻撃しました。

結果として、サウルは自分の知恵に頼ったことで、すぐに大きな失敗をしてしまいました。

2.サウルは無謀な決断をしました。

最初の戦いの間に、彼はこう言いました。

夕方、私が敵に復讐するまで、食物を食べる者はのろわれる (サムエル記第一14:24)

その結果、イスラエル人たちはすぐに疲れ果ててしまいました。確かに大勝利ではありましたが、もしサウルがそのような誓いをしていなければ、さらに大きな勝利を収められたことでしょう。

さらに、イスラエル人は空腹に耐えきれず、血の入っている肉を食べ始めてしまいました。しかし、それは罪でした。なぜなら、神様が「血の入っている肉を食べてはならない」と明確に命じておられたからです。

このようにして、サウルの行動が原因で、イスラエル人は罪を犯すことになりました。

その後、サウルはもう一度ペリシテ人と戦おうとしましたが、神様に相談するのを忘れていました。そのため、祭司がサウルに「神様を求めたほうがいいですよ」と思い出させました。(サウルは再び自分の知恵に頼ろうとしていたのです)。

そして、ようやく神様に相談したところ、神様は沈黙されていました。その時、サウルはこう言いました。

民のかしらたちはみな、ここに寄って来なさい。きょう、どうしてこのような罪が起こったかを確かめてみなさい。

まことに、イスラエルを救う主は生きておられる。たとい、それが私の子ヨナタンであっても、彼は必ず死ななければならない。(38-39節)

結局、サウルはヨナタンの行動が原因で神様が沈黙されたことに気づきました。(なぜなら、ヨナタンはサウルの不合理な誓いを守らなかったからです。)

その結果、サウルはヨナタンを殺そうとしましたが、他のイスラエル人たちがそれを止めました。

3.サウルは神様と他の人々よりも、自分自身に仕えました。

サウルがその不合理な誓いを立てた理由は、彼の自己中心的な態度によるものでした。彼は民の利益よりも自分の復讐心だけを優先しました。

そのため、すべてが混乱し、台無しになってしまったのです。

4.サウルの最大の問題はプライドでした。

最初、サウルは謙遜な人であり、国を治める自信すらありませんでした。もし彼がその謙遜な態度を保ち続け、神様の知恵を求め続けていたならば、彼の王国はもっと長く続いていたかもしれません。

ところが、彼は自分の知恵に頼り、自分自身をイスラエルの民よりも優先し、間違いを犯しても頑固にその道を貫きました。その結果として、彼の王国は失われてしまいました。

あなたはどうでしょうか。あなたは自分のプライドに支配されているリーダーでしょうか。それとも、神様の知恵に支配されているリーダーでしょうか。

ヤコブは次のように書いています。

しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」

ですから、神に従いなさい。。。

主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。(ヤコブ4:6-7;10)

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サムエル記第一

共に信仰によって立つ

サウルの信仰は弱かったですが、その息子ヨナタンの信仰は非常に強かったです。ペリシテ人との戦いの際、ヨナタンはその信仰を行動で示しました。

サウルには何も伝えずに、ヨナタンはペリシテ人の前線の陣地へと向かいました。おそらく出発した時点では、ペリシテ人と戦う計画はなかったでしょう。けれども、到着すると戦う決意を固めたのです。

普通であれば、それは非常に無謀な考えに思えるかもしれませんが、ヨナタンの考え方には納得できるところがあります。

彼はこう言いました。

大人数によるのであっても、少人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。(サムエル記第一14:6)

ヨナタンに対する忠誠心なのか、自分自身の信仰なのか、またはその両方の組み合わせなのかは分かりませんが、その武器持ちの若者はこう答えました。

何でも、あなたのお心のままにしてください。さあ、お進みください。私もいっしょにまいります。お心のままに。(7節)

けれども、行く前に計画を立てました。主が彼らと共におられるならば、勝利を収めることができると信じていました。そのため、神様が彼らを助けてくださるかどうか確認したかったのです。

そこで、ヨナタンはこう言いました。

もしも彼らが、『おれたちがおまえらのところに行くまで、じっとしていろ』と言ったら、われわれはその場に立ちとどまり、彼らのところに上って行くまい。

もし彼らが、『おれたちのところに上って来い』と言えば、われわれは上って行こう。主が彼らをわれわれの手に渡されたのだから。これがわれわれへのしるしである。」(9-10節)

ペリシテ人たちは彼らを見つけた時、こう言いました。

おれたちのところに上って来い。思い知らせてやる。(12)

だから、信仰をたっぷりと持って、ヨナタンとその武器持ちの若者は崖を上り、素晴らしい勝利を収めました。

この話から、二つのことを学ぶことができると思います。

一つ目は、勝利が不可能に思える状況でも、信仰によって立つならば、神様はあなたを通して素晴らしいことを成し遂げてくださるということです。

二つ目は、もしあなたが他の人々と一緒に信仰を持って立つならば、さらに大きな素晴らしいことを成し遂げることができるということです。

クリスチャンが一人で立つことは、神様の理想ではありません。神様は私たちが共に立つことを望んでおられます。

ある人はこう思うかもしれません。「私には教会は必要ない。私は一人で十分です。」

確かに、それは一理あるかもしれません。しかし、一人で働くことでは、他の人々と共に働くほど、神様の国のために多くのことを成し遂げることはできません。

だからこそ、問いかけるべき疑問は「私は一人で十分でしょうか」ではなく、「他の人々と共に信仰によって立つことで、神様の国のためにどれほどのことを成し遂げることができるのだろうか」ということです。

どうか決して忘れないでください。

信仰によって立つと、神様はあなたを通して素晴らしいことを成し遂げてくださいます。そして、他の人々と共に信仰によって立つならば、さらに大きな素晴らしいことを成し遂げることができるのです。

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サムエル記第一

神様を待ち望む心

私はサウルの気持ちがよく分かります。彼の軍隊は3000人の兵士から600人の兵士に減ってしまい、その敵が迫っており、さらにサムエルが遅れていました。

サウルとイスラエルのための祈りが必要でしたが、サムエルはまだ来ておらず、いつ来るのかサウルには分かりませんでした。

その厳しい状況の中で、サウルはパニックに陥り、全焼のいけにえを捧げてしまいました。けれども、一つ問題がありました。神様の命令により、サウルはその行為をしてはいけないとされていました。

どうしてサウルがそのようにしたのかは理解できます。正直なところ、私がその状況に置かれたらどうするかわかりません。もしかしたら、サウルのようにしてしまうかもしれません。

しかし、この話を通じて、サウルの根本的な問題が明らかになります。彼は心を尽くして神様を信頼することができませんでした。

そのため、困難な時に神様を待たず、神様の助けを求めず、サウルは自分の力と知恵に頼って行動しました。その結果、神様の命令に従わず、罪を犯してしまいました。

次のイスラエルの王であるダビデと比較すると、まったく違いました。ダビデは本当に神様の心にかなう人物でした。

ダビデは次のように書きました。

たとい、私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない。 (詩篇27章3)

また、

ああ、私に、生ける者の地で主のいつくしみを見ることが信じられなかったなら―

待ち望め、主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め、主を。(詩篇27:13-14)

ダビデにとって、それはただの良い言葉ではありませんでした。彼はその言葉を本当に信じ、そのように生きたのです。ダビデは完全な人ではありませんでした。ダビデは大きな失敗をしたことがありました。

とはいえ、サウルが彼を殺そうとした時にも、またダビデの息子アブサロムがダビデを殺そうとした時にも、ダビデはサウルの過ちを繰り返しませんでした。

ダビデはパニックに陥ることなく、自分の知恵や力に頼らず、忠実に正しいことを行い続けたのです。

では、なぜダビデはそのようにできたのでしょうか。それは、彼が神様を信頼したからです。神様が彼を救ってくださることを本当に信じていました。

だからこそ、神様は何度もダビデを救い出してくださったのです。

あなたはどうでしょうか。困難な時、あなたはどのように反応するでしょうか。パニックに陥るでしょうか。それとも、自分の力に頼って行動するでしょうか。

あるいは、ダビデのように、神様の道を歩み続けるでしょうか。神様に信頼し続け、神様の救いを待ち望むでしょうか。

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サムエル記第一

良いリーダーとは

サムエルは完全な人ではありませんでした。それでも、彼は良いリーダーでした。この箇所から、それがよくわかります。サムエルはどのようなリーダーだったのでしょうか。

1.彼は正直でした。

彼はイスラエルの民にこう言いました。

さあ、今、主の前、油そそがれた者の前で、私を訴えなさい。

私はだれかの牛を取っただろうか。だれかのろばを取っただろうか。だれかを苦しめ、だれかを迫害しただろうか。だれかの手からわいろを取って自分の目をくらましただろうか。

もしそうなら、私はあなたがたにお返しする。 (サムエル記第一12:3)

けれども、イスラエルの民はサムエルの正直さを認めました。

すべてのアメリカ人が「正直な政治家」と聞けば、思わず笑ってしまうかもしれません。なぜなら、多くの人が政治家を信じておらず、すべての政治家は嘘をつくと思っているからです。

しかし、サムエルは本当に正直な士師でした。

2.人々が罪を犯すと、サムエルはすぐにそのことについて話しました。彼は恐れず、彼らに面と向かいました。

イスラエルの民が周りの国々のようになりたいと思い、王を求めました。けれども、実際には神様が彼らの王であるため、人間の王を求めることは、神様を王として拒絶することを意味しました。

サムエルはそのことをイスラエルの民に説明しました。サムエルは、「まあ、まあ、大丈夫です」とは言わず、正直に「あなたたちは悪かった。罪を犯しました」と言いました。

3.サムエルはイスラエルの民に神様に従うことを励まし、また戒めました。

サムエルは次のように言いました。

恐れてはならない。あなたがたは、このすべての悪を行った。しかし主に従い、わきにそれず、心を尽くして主に仕えなさい。(20節)

つまり、「あなたたちは失敗しました。あなたたちは罪を犯しました。それでも、がっかりしないでください。神様はあなたを諦めておられません。神様はあなたをまだ愛しておられます。

ですから、神様に従い続けてください。神様に仕え続けてください。」

クリスチャン・リーダーも、このように行動するべきです。誰かが罪を犯したなら、その人に正直に向き合うべきです。

しかし、悔い改めたならば、彼らがクリスチャンとして歩み続けるよう励ましを与えるべきです。また、過去を振り返るのをやめて、未来に焦点を当てるように励ますべきです。

4.良いリーダーは従う人々のために祈ります。

サムエルは次のように言いました。

私もまた、あなたがたのために祈るのをやめて主に罪を犯すことなど、とてもできない。(23a)

サムエルは興味深いことを言いました。もし彼がイスラエルの民のために祈らなければ、神様の目にはそれが罪となります。

私たちが罪について考えるとき、多くの場合、ただ悪い行動について考えます。けれども、しなければならないことをしない場合、それもまた罪なのです。良いリーダーは従う人々のために祈ります。

5.良いリーダーは人々に神様の言葉を教えます。

サムエルは次のように言いました。

私はあなたがたに、よい正しい道を教えよう。(23b)

良いリーダーは神様の言葉をよく知り、従う人々にその言葉を教えることができる人です。

では、あなたはどうでしょうか。あなたは誰を導いているでしょうか。教会の人々でしょうか。家族でしょうか。あなたの妻でしょうか。あなたの子供でしょうか。それとも、あなたの同僚でしょうか。

神様は、この五つのことをあなたに求めておられます。

あなたは良いリーダーでしょうか。

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サムエル記第一

私たちがしなければならないこと

サウルは最終的には失敗してしまいましたが、彼は良いスタートを切っていました。あるイスラエルの都市が攻撃された時、その知らせを聞いた人々はただ泣いていました。

サウルはその人々を見た時、彼は尋ねました。「なぜあなたたちは泣いているのですか。」

その理由を聞くと、彼は非常に怒りを覚えました。なぜでしょうか。おそらく、二つの理由がありました。

一つ目は、彼が愛していた人々が攻撃されたことです。

二つ目は、誰も何の行動も起こさなかったことです。

そこでサウルは責任を引き受け、人々を集め、その敵と戦い、神様の助けによって大きな勝利を収めました。

二年前、教会のリーダーズ・ミーティングに参加しました。その時、私たちは重大な問題について話しました。それは、何年経っても日本のクリスチャンの数がほとんど変わっていないという事実です。ずっと1%ほどのままです。

日本では、多くの人々がこの状況に涙を流しています。

しかし、泣くだけでは十分ではありません。私たちは何かをしなければなりません。

イスラエル人は、多くの兄弟たちが殺されたことについて涙を流しましたが、何かをしようとはしませんでした。

私たちはどれほど迷っている人々のために涙を流しているのでしょうか。それでも、何も行動を起こさないことがあるのではないでしょうか。

なぜ、周りの人々が死んで地獄に向かっているにもかかわらず、私たちは何もしないのでしょうか。

サウルのように、私たちは共に働き、この世界を変えましょう。この死にゆく世界を救うために、私たちがしなければならない事を果たしましょう。

私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」(イザヤ書6:8)

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サムエル記第一

私たちの力はどこから来るか。

では、サウルの話を始めましょう。彼の背景を考えると、驚くべき話です。彼の部族は罪のためにほとんど一掃されてしまいました(士師記20-21章)。

その結果、その部族はイスラエルの中で最も小さい部族となりました。

サウルは自分自身を取るに足りない者だと考えていました。そのため、サムエルが神様のサウルのための計画を伝えたとき、サウルはこう答えました。

私はイスラエルの部族のうちの最も小さいベニヤミン人ではありませんか。私の家族は、ベニヤミンの部族のどの家族よりも、つまらないものではありませんか。

どうしてあなたはこのようなことを私に言われるのですか。(サムエル記第一9:21)

しかし、神様は、人々が取るに足りない者やつまらない存在だと考えることを全く気にされません。だからこそ、サムエルはこう言いました。

主の霊があなたの上に激しく下ると、あなたも彼らといっしょに預言して、あなたは新しい人に変えられます。

このしるしがあなたに起こったら、手当たりしだいに何でもしなさい。神があなたとともにおられるからです。(10:6-7)

あなたはどうですか。自分をつまらない存在だと思っていますか。あるいは、取るに足りない者だと思っていますか。神様があなたを用いることはできないと考えていますか。

もしあなたがクリスチャンであるならば、サウルのように、神様の霊があなたの上に激しく下ってくださるでしょう。そして、今、神様はあなたの中で力強く働いておられ、あなたを変え続けてくださっています。

あなたがしなければならないことは、神様と協力し、神様が示してくださった事を行うことです。そうすれば、神様はあなたと共にいてくださり、あなたを通して素晴らしいことを行ってくださるでしょう。

イエス様は弟子たちに次のように言われました。

しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。

そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。(使徒の働き1:8)

神様がご自身の働きを行われるためにサウルに力を与えてくださったように、また、イエス様の弟子たちに力を与えてくださったように、神様はあなたにも力を与えてくださいます。

私たちは自分の力で神様の働きをする必要はありません。私たちの力は神様から与えられます。

私たちは弱いですが、神様は強いです。そして、神様はこの世を変えるために私たちを用いてくださいます。

私たちがしなければならないことはたった一つです。それは、神様に「イエス」と答えることです。あなたはその答えをするでしょうか。

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サムエル記第一

誰の手本を模倣しようとしているでしょうか。

「皆持っているよ。」 「皆しているよ。」

子供たちは何か欲しいとき、または何かをしたいときに、こういった言葉を理由としてよく使います。

どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。(サムエル記第一8:5)

そして、サムエルは神様からの警告をイスラエルに告げました。それは、王を持つことで何が起こるかという警告でした。

それにもかかわらず、イスラエル人はこう言いました。

いや。どうしても、私たちの上には王がいなくてはなりません。

私たちも、ほかのすべての国民のようになり、私たちの王が私たちをさばき、王が私たちの先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう。 (19-20)

だから、神様は彼らに王を与えました。けれども、イスラエル人は後にその決断を後悔したかもしれません。

時々、彼らには良い王がいましたが、ほとんどの場合、悪い王がいました。たとえ良い王であっても(例えばダビデ)、その王が時々悪い行いをしてイスラエルを傷つけました。

彼らは他の国々の手本に従うのではなく、神様に従った方が良かったのです。彼らはそうしなかったため、大きな代価を払うことになりました。

あなたは誰の手本を模倣しようとしていますか。

周りの人々の手本を模倣していますか。タレントや有名人の手本を模倣していますか。あなたの隣人や友達の手本を模倣していますか。それとも、あなたは神様に従っていますか。

ロールモデルを持つことは悪いことなのでしょうか。そうではありません。誰もがロールモデルを必要とします。しかし、二つのことに気をつけなければなりません。

一つ目は、私たちのロールモデルが神様に従っていることであるということです。

私たちのロールモデルはイエス様の手本を模倣しているでしょうか。もし彼らがそうしていないなら、私たちは彼らの過ちを模倣してしまうかもしれません。

二つ目のポイントは、どんなに素晴らしいロールモデルでも、その人が完全ではないということです。彼らも失敗しますし、悪いことをすることもあります。

だからこそ、私たちは彼らの人生の中で何を模倣するかを慎重に選ばなければなりません。

パウロはそのことを理解していたので、このように書きました。

私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。(第一コリント11:1)

つまり、「私が神様に従う限り、私の手本を模倣しなさい。」

私たちは誰の人生を模倣していますか。イスラエル人は周りの国々を模倣していました。けれども、その国々が神様に従っていなかったために、イスラエル人は罪に落ちて、ついには亡命することになりました。

私たちも気をつけなければなりません。他の人々の手本に従うことで、罪に陥るかもしれませんし、神様から遠ざかることになるかもしれません。

だからこそ、私たちを愛してくださる神様に従うべきではないでしょうか。パウロはこのように書きました。

ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。

また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。(エペソ5:1-2)

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サムエル記第一

神様の前に誰が立つことができるでしょうか

主の箱がイスラエルに戻されたとき、彼らは喜びに溢れ、主にいけにえを捧げました。

ところが、その喜びの中には悲しみもありました。なぜなら、70人の人々が主の箱の中を覗き見たことで、神様が彼らを打たれたからです。

なぜ神様はそのようにされたのでしょうか。それは、彼らが聖なるものを普通の物のように扱ったからです。

実際、この行動は彼らの態度を映し出していました。イスラエル人は長い間、聖なる神様を普通の存在のように扱ってきたのです。

その日、イスラエル人は叫びました。

だれが、この聖なる神、主の前に立ちえよう。(サムエル記第一6:20)

実際のところ、彼らの中には神様の前に立つことができる者は一人もいませんでした。

なぜでしょうか。それは彼らが自分の目に正しいと思うことだけを行っていたからです。そのため、サムエルは彼らに語りました。

もし、あなたがたが心を尽くして主に帰り、あなたがたの間から外国の神々やアシュタロテを取り除き、心を主に向け、主にのみ仕えるなら、主はあなたがたをペリシテ人の手から救い出されます。(7:3)

つまり、「あなたはやっと真剣に神様に従うでしょうか。では、自分の道を歩むのをもうやめなさい。偽りの神々に従うことをやめ、神様に心から従いなさい。」

その日、彼らがついに悔い改めたので、神様は彼らをペリシテ人の手から救い出し始めました。

ダビデは次のように書きました。

だれが、主の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。

手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。

その人は主から祝福を受け、その救いの神から義を受ける。

これこそ、神を求める者の一族、あなたの御顔を慕い求める人々、ヤコブである。(詩篇24:3-6)

その日、イスラエル人は重要な教訓を学びました。

口先だけで神様に仕えることでは不十分です。いけにえを捧げることも完全ではありません。宗教的な行動もまた不十分です。

もし神様の前に立ちたいのであれば、全く新しい心が必要です。清い心が必要です。そして、神様だけに自分自身を捧げる心が必要なのです。

さらに、正しいことを行うための清い手が必要です。私たちの物理的な人生と霊的な人生を切り離すことはできません。それらは互いに影響を与え合うからです。

しかし、清い手と清い心があるならば、私たちは神様からの祝福を受けることができます。

あなたはどうでしょうか。あなたの心は清いでしょうか。心のすべてを神様に捧げていますか。あなたの罪は清められているでしょうか。

実際、私たちは皆、罪と戦っています。誰も完全に清いわけではありません。ローマ3:10に、こう書かれています。

義人はいない。ひとりもいない。

この理由により、イエス様はこの世に来られました。そして、十字架で死ぬことによって、私たちの罰を代わりに受けてくださいました。

ただイエス様の流された血によって、私たちは神様の前に清められることができました。また、イエス様の血によって、私たちは大胆に神様の前に立つことができるのです。

けれども、私たちは真剣に神様との関係を考えなければなりません。悔い改めるべきです。そして、イエス様を私たちの主とする必要があります。

そうするなら、私たちは神様の前に立つことができます。しかし、もしそうしなければ、私たちは決して神様の前に立つことはできないのです。

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サムエル記第一

すべてのひざがかがめる

これは少し可笑しい話ですが、ペリシテ人にとってはまったく可笑しくありませんでした。彼らは主の箱を奪った後、自分たちの神であるダゴンの宮に持ち込み、その偶像の隣に置きました。

翌日、ダゴンは主の箱の前で地にうつ伏せになって倒れていました。彼らはダゴンを元の場所に戻しましたが、次の日、もう一度ダゴンは倒れていました。そして、ダゴンの頭と腕は切り離されてしまったのです。

さらに、すべてのペリシテ人は腫物に打たれ、恐怖に襲われました。

彼らはその主の箱を別の都市に移しましたが、どこに運んでも腫物と死が続きました。

最終的に、リーダーたちは祭司や占い師と相談しました。祭司たちはこう答えました。

「パロのようにならないでください。頑固になってはいけません。その箱をイスラエル人に戻しましょう。そうしなければ、私たちはエジプト人のように滅ぼされます。」

この話のポイントは何でしょうか?その答えはイザヤ書に記されています。神様はこう言われました。

わたしが自分にかけて誓った。わたしの口から出ることばは正しく、取り消すことはできない。すべてのひざはわたしに向かってかがみ、すべての舌は誓い(ます)。(イザヤ書45:3)

新約聖書には、パウロはその言葉をイエス様に適用しました。

それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、

すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリピ2:9-11)

いつか、すべての人々は神様の前に跪きます。そして、すべての人々が「あなたは神様です」と認めるでしょう。しかし、その日、あなたの心と態度はどうでしょうか。

あなたは、私たちを贖った救い主を愛を持って仰ぐでしょうか。それとも、手を握りしめ、歯を食いしばりながら「イエス・キリストは主です」と認めることになるでしょうか。

私はあなたを怖がらせるつもりはありません。神様はすべての人々を救いたいと望んでおられます。神様はあなたが神様を知り、神様と親しい関係を築くことを望んでおられます。そして、あなたが愛によって神様に従うことを願っています。

ただし、神様はあなたに従うことを強制されません。もしあなたが従うことを望まないなら、その決断を一時的に許されるでしょう。

しかし、従いたいと思っても、従いたくないと思っても、いつか、あなたは神様の前に跪いて「イエス様は主です」と認める日が来ます。

その日、あなたの心と態度はどうでしょうか。

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サムエル記第一

外見は敬虔であっても

イスラエル人を見ると、彼らの一番の問題は、外見は敬虔な人のようであったけれど、彼らの心は神様のものでなかったことです。

この箇所では、イスラエル人がペリシテ人と戦いましたが、敗北しました。落胆した彼らは、こう問いかけました。

なぜ主は、きょう、ペリシテ人の前でわれわれを打ったのだろう。(サムエル記第一4:3)

本当の問題は、彼らが心から神様に従わなかったことです。ただ、自分の目に正しいと思うことを行っていました。士師記でこのように書かれています。

自分の目に正しいと見えることを行っていた。(士師記21:25)

だから、彼らは次の戦いに、主の契約の箱を持って来ました。彼らは多分こう考えたのでしょう。

「ほら、神様。私たちはあなたを連れて行きます。だから、勝利を与えてくださるでしょう?」

けれども、神様を「連れて来てあげても」、彼らは心から神様に従っていませんでした。彼らは敬虔な人のように見えましたが、実際はそうではありませんでした。

彼らは主の契約の箱をただのお守りのように扱い、神様の戒めも守りませんでした。

つまり、一年に一度だけ、大祭司が至聖所(主の契約の箱がある場所)に入ることを許されていました。その時、大祭司はイスラエル人の罪の贖いのために犠牲となった動物の血を神様に捧げました。

しかし、神様がイスラエル人に勝利を与えるために、その大祭司の息子たちは至聖所に入って主の契約の箱を取り、それを戦いに持って行きました。

結果はどうだったでしょうか?再びペリシテ人に打ち負かされ、その契約の箱も奪われてしまいました。

エリはその知らせを聞いたとき、自分の席から落ちて死にました。

エリの息子ピネハスの妊娠していた妻は、夫と義父が死に、さらに神の箱が奪われたことを聞いて陣痛が始まりました。

彼女は子どもを産んだ後、すぐに亡くなりました。けれども、その前に彼女は息子を「イ・カボデ」と名づけました。その名前の意味は「栄光がない」、または、「栄光はどこか」ということです。

彼女は言いました。

栄光はイスラエルを去りました。神の箱が奪われたから。(サムエル記第一4:22)

しかし、神様はイスラエルを決してお捨てになりませんでした。それに対して、イスラエルは神様を捨てていました。

外見は敬虔に見えたとしても、彼らの心は神様のものでありませんでした。

パウロはそのような人々についてテモテに書いています。

終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。

そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。

こういう人々を避けなさい。(第二テモテ3:1ー5)

イスラエル人は、そのような人々でした。それは士師記においてよく描かれています。

残念なことですが、今日でも多くのクリスチャンが、そのような人々と同じです。日曜日には本当に敬虔な人に見えるかもしれませんが、他の日には全く敬虔な人生を歩んでいないのです。

その結果、彼らはいつも打ち負かされたような人生を送りながらも、その理由を理解していません。

あなたはどうでしょうか。あなたの心は本当に神様のものでしょうか。それとも、自分の目に正しいと思うことをして、自分自身のために生きているのでしょうか。

あなたは他の人々を騙すことはできるかもしれませんし、自分自身を騙すこともできるかもしれません。けれども、神様を騙すことは決してできません。そして、神様を操ることもできません。

イスラエル人は神の箱を持ち出してそれを試みましたが、失敗しました。同様に、あなたも自分の敬虔な行動をもって神様を操ることはできません。

あなたはただ敬虔なふりをしているのでしょうか。それとも、あなたの心は本当に神様のものでしょうか。

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サムエル記第一

神様から聞く

私は神様の声をよく聞くし、はっきりと聞くと言いたいですが、言うことができません。多くの場合、私は昔のイスラエル人のように感じます。つまり、

そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。(サムエル記第一3:1)

私は幻を見たことがありません。時々、神様からの夢を見たのではないかと思うことがありますが、確信が持てません。

確信を持って、神様が私に話してくださったことがあると言えますが、そのような経験をもっと欲しいと思います。

時々、私は「神様がサムエルと話してくださったように、私とも話してくださればよいのに」と思います。けれども、もし神様が私に話してくださるなら、私はそれをちゃんと聞くでしょうか。

サムエルの時代、多分神様はイスラエル人に語りかけたいと思われましたが、誰も聞きたがらなかったのかもしれません。それとも、彼らは無関心だったのでしょうか。

多くの場合、彼らはすでに命じられたことに従わなかったので、そのような人々には神様は多くを語られませんでした。

私はどうでしょうか。私は無関心なのでしょうか。神様がすでに言われたことに従わないのでしょうか。

私はサムエルのようになりたいです。神様がサムエルを呼ばれたとき、サムエルは応えました。

お話ください。しもべは聞いております (10)。

私が神様から聞いたなら、そのメッセージが相手にとって聞きづらいものであっても、サムエルのように忠実に伝えたいと思います。

サムエルのように、神様の言葉を聞いて、周囲の人々に伝える際に、その言葉が地に落ちることがないようにと祈ります。

サムエルが神様の言葉を伝えたとき、その言葉は決してむなしくなることがありませんでした。神様がサムエルに「これとこれが起こる」と言われたとき、いつもその通りに起こりました。

そのように、神様の言葉が私の人生においてむなしいものにならないように祈ります。神様の言葉が力をもって私の人生に入り、それによって私だけでなく、周囲の人々をも変えることを願います。

しかし、それを期待するならば、私は無関心な態度を捨てなくてはなりません。

サムエルのように、私は神様を求めるべきです。神様が辛いことを言われても、私は聞く耳を持たなくてはなりません。神様の言葉に従いたくなくても、神様が語られることに従うべきです。

そうしなければ、イスラエルのようになり、神様の声をめったに聞かなくなります。

神様、私があなたの声を聞くことを教えてください。

私は何度も、自分の心をあなたの声に対して硬くしてしまいました。私はしばしば自分の耳をあなたの声に対して閉じてしまいました。私はよく無関心で、あなたを心から求めませんでした。

どうかお赦しください。私を変えてください。

私の心の中に、あなたの言葉が地に落ちないようにしてください。むしろ、私を変えてくださり、私を通して私の周りの世界を変えてください。アーメン。

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サムエル記第一

神様を敬うこと、神様をさげすむこと

これは二つのタイプの人々についての話です。二人は神様を敬いました(ハンナとサムエル)。三人は神様を侮りました(エリとその息子たち)。

この箇所の初めで、ハンナは神様をその御業のために賛美しました。その歌の中で、ハンナは神様が謙遜な人々を助け、神様に従う人々を支えてくださることについて歌いました。そして、ハンナはこう歌いました。

主のように聖なる方はありません。あなたに並ぶ者はないからです。私たちの神のような岩はありません。(サムエル記第一2:2)

けれども、ハンナはこれも歌いました。

高ぶって、多くを語ってはなりません。横柄なことばを口から出してはなりません。まことに主は、すべてを知る神。そのみわざは確かです。(3)

エリの息子たちは本当に高慢でした。彼らは神様から盗むような行為をしていました。つまり、いけにえを捧げる際に、本来脂肪を神様に捧げなければならないにもかかわらず、人々がそれをしようとした時に彼らを脅したのです。

それだけではなく、彼らは天幕で働いている女たちと関係を持ち、自分自身をもその女たちをも汚しました。

彼らは、神様がその行動を知らないと思っていたのかもしれません。

しかし、彼らはおそらく神様を全く気にしていませんでした。彼らは神様を聖なる方として認めず、敬意を払おうとしませんでした。

それにもかかわらず、神様は彼らのすべての行動を知っておられ、それを正しく計り、彼らを裁かれました。

エリの問題は、彼がその息子たちを神様より重んじていたことです。エリは息子たちの行動をよく知っていましたが、弱いしつけしか行わず、彼らの行動を止めませんでした。

なぜ彼がそうしたのか、私には分かりません。エリは息子たちの祭司としての立場を取り上げるべきでした。けれども、エリがそれをしなかったため、神様はエリ自身も裁かれました。

一方で、サムエルは神様を敬い、神様と周囲の人々から称賛を受けました。26節にはこのように記されています。

一方、少年サムエルはますます成長し、主にも、人にも愛された。

私たちはこの話から何を学べるでしょうか。

神様は聖なる方であり、正しい方です。もし私たちがそれを認めず、神様について考えずに、自分の欲望のままに生きるならば、私たちは神様を侮ることになります。

神様はそのような生き方を永遠に認めることはありません。神様は必ずそれを裁かれます。

しかし、もし私たちが神様を敬うならば、神様も私たちを尊んでくださいます。ある預言者がエリにこのように言いました。

わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ。わたしをさげすむ者は軽んじられる。(30)

あなたはどうですか。あなたの言葉だけでなく、あなたの行動によって神様を敬うでしょうか。神様の言葉を聞き、それに従うでしょうか。

それとも、あなたは神様が何も知らないかのように生きるでしょうか。

あなたは他の人や物を神様よりも重んじるでしょうか。

神様はあなたの態度と行動を見て、正しく計り、いつか裁かれます。

神様はあなたをご覧になるとき、何をご覧になるでしょうか。神様を敬う方をご覧になるでしょうか。それとも、神様を侮る方をご覧になるでしょうか。

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サムエル記第一

私たちを聞いてくださる神

聖書では、名前は本当に大事です。

神様はアブラムを「アブラハム」と名づけられました。なぜなら、「アブラハム」というのは「多くの人々の父」という意味であり、アブラハムが本当に大きな国の父となったからです。

神様はヤコブを「イスラエル」と名づけられました。「イスラエル」という名前には二つの意味があります。「神様と戦う」と「神様と共にいる王子」という意味です。

この新しい名前は、ヤコブの神様との関係がどのように変わったかを反映しています。ヤコブはまず神様と戦いましたが、最終的に神様が彼を祝福し、高めてくださったため、今では皆がヤコブを尊敬しています。

この箇所では、ある男の子が「サムエル」と名づけられました。「サムエル」という名前は「神様が聞いた」という意味です。

ハンナという女性は子供がいなくて、本当に惨めな思いをしていました。その時代、子供がいないことは恥ずべきこととされていました。

私は詳細は分かりませんが、多分そのためにハンナの夫には二人の妻がいたのかもしれません。その夫は、まだハンナを本当に愛していましたが、もう一人の妻が常にハンナをからかい、彼女の恥を思い起こさせていました。

そこで、ある日、ハンナは主の宮に行き、神様の前で泣きながら祈り、誓いを立てました。

万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますならば、私はその子の一生を主におささげします。(サムエル記第一1:11)

神様はその祈りを聞き、息子を与えられました。その息子を通して、神様はハンナの恥を取り除き、言葉では表せない喜びを与えてくださいました。

とはいえ、ちょっと考えてみてください。おそらく、ずっと前からハンナとその夫は息子のために祈っていたかもしれません。神様はその祈りを聞いていたけれど、ご自身の目的のために「イエス」とは言われなかったのです。

時々、私たちは祈りながら、神様が本当に私たちの祈りを聞いてくださっているのかどうか疑問を持ちます。

私たちは、神様が私たちに夫や妻を与えてくださるように祈ります。新しい仕事のために祈ります。癒しのためにも祈ります。

それでも、何も起こらない時があります。そうなると、私たちはこう尋ねるかもしれません。「神様は本当に聞いておられるのだろうか。私を本当に愛しておられるのだろうか」と。

もちろん、神様は私たちの祈りを聞き、私たちを愛しておられます。神様は私たちの涙のすべてをご覧になり、呻きのすべてを聞いておられます。

しかし、時々、神様は「待ちなさい」と言われることがあります。そして、もっと辛いかもしれませんが、時には神様は「ノー」と言われることもあります。

けれども、私たちが自分自身に問いかけなくてはならないのは、「神様がどのように応えられても、私は信頼し続けるだろうか。」ということです。

ある友だちはずっと子供のために祈っていますが、妊娠できない状況にあります。なぜそうなのか分かりません。おそらく、それを考えること自体が本当に苦しいでしょう。それでも、その友達は神様に信頼し続け、神様の慈しみを信じています。

彼女がいつか子供を授かるかどうか、私には分かりません。神様が「待ちなさい」と言われているのかもしれませんし、神様が「ノー」と言われているのかもしれません。

けれども、私が知っているのは、神様がその友だちの祈りを聞いておられることです。

そして、神様は彼女を本当に愛しておられます。また、神様は彼女のために良い計画を持ち、祝福してくださることです。なぜなら、どのような状況が起こっても、彼女が神様に従う決意を固めているからです。

神様、あなたが私たちの祈りをいつも聞いてくださることを感謝します。そして、あなたが私たちを決して無視されないことにも感謝します。

時にはあなたのために待つことは辛いです。また、あなたの「ノー」という答えも、本当に辛いことです。

それでも、私があなたに信頼し続けることができるように助けてください。私があなたに従い続けることができるように助けてください。

そして、あなたが私を愛し、良い計画を持っておられることを信じる信仰を与えてください。アーメン。

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ルツ記

あがない主

ボアズとルツの関係を通して、私たちはキリストがどのように私たちをあがなってくださるかを知ることができます。それは本当に美しい絵です。

ルツは貧しく、何も持っていませんでしたが、ボアズに近づき、結婚していただけるようにお願いしました。ルツはこう言いました。

あなたのおおいを広げて、このはしためをおおってください。あなたは買い戻しの権利のある親類ですから。(ルツ記3:9)

私たちにとっては、それは少し変わったプロポーズの方法に見えるかもしれませんが、その文化ではそれが普通でした。

今でも、ユダヤ人の結婚式では、花婿が自分のタリス(祈りのためのショール)で花嫁を覆います。その意味は、「私はあなたを世話します」ということを表しています。

ですから、ルツが言ったのは、「私を世話してください。私の夫になってください」ということでした。

しかし、問題がありました。他の親族にはルツと結婚する権利がありました。

この習慣も、私たちにとっては少し変わっているように思えるかもしれませんが、その時代には一般的なものでした。

当時、ある男性が息子を残さずに亡くなった場合、その男性の女性の親族(普通はその男性の妻ですが、この場合はその義理の娘)は他の親族と結婚し、その子供によって亡くなった男性の名前が引き継がれ、その子供がその男性の遺産を継ぐことができました。

ルツの場合、ボアズにはその権利がありましたが、別の親族にはさらに強い権利がありました。

幸いにも、その親族はルツとの結婚を拒否しました。おそらく彼はすでに結婚していたのかもしれません。

その結果、ボアズはルツと結婚する権利を買い取り、その家族の遺産を管理する権利も得ました。

こうして、ルツはもはや貧しく希望がない女性ではなくなりました。今では、裕福で、ルツを愛している夫を持ち、将来と希望を持つことができました。

ルツとボアズが結婚した後、息子が生まれました。その息子オベデには、エッサイという息子が生まれ、エッサイにはダビデという息子が生まれました。

ダビデはイスラエルの王となり、そして、ダビデの家系を通して、私たちの最大のあがない主であるイエス様が来られました。

今、私たちはルツがボアズに近づいたように、何も持たずにイエス様に近づきます。私たちはただ自分自身を捧げることができるだけです。私たちはイエス様の愛と守りを求めるしかできません。

イエス様はそのようにしてくださり、私たちのために代価を払ってくださいました。十字架で、私たちの罪のために死に、ご自身の血を流してくださったのです。その血によって、私たちの罪は洗われました。

そして、その関係とイエス様の愛によって、私たちは将来と希望を持つことができます。

エペソ人への手紙2:12ー13で、こう書かれています。

そのころのあなたがたは、キリストから離れ。。。この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。

しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。

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ルツ記

決して見捨てられていない

士師記にはあまり幸せな話がないので、次がルツ記で良かったです。

それにもかかわらず、この話の冒頭は士師記の結末と同様に、本当に悲しい内容です。その時代、イスラエルには飢饉がありました。ナオミという女性は、夫と2人の息子と共に、モアブという国に移り住みました。

その間にナオミの夫が亡くなります。その後、息子たちは結婚しましたが、10年後、2人の息子たちも亡くなってしまいました。

異国の地で、ナオミは愛する家族をすべて失い、深い悲しみの中で故郷イスラエルに戻ることを決意しました。

故郷に戻ると、村の女性たちはこう言いました。

まあ。ナオミではありませんか。 (ルツ記1:19)

けれども、ナオミは答えました。

「もう私をナオミと呼ばないでください。私の人生は、もう快くも楽しくもありません。(ナオミという名前は「快い」、また「楽しい」という意味です。)私を「苦い人」と呼んでください。(マラは「苦い」という意味です。)」

どうしてそう言ったのでしょうか。ナオミは言いました。

全能者が私をひどい苦しみに会わせたのですから。。。私は満ち足りて出て行きましたが、主は私を素手で帰されました。。。主は私を卑しくし、全能者が私をつらいめに会わせられましたのに。(1:20-21)

ナオミは、自分が神様に捨てられたと思いました。それだけではなく、神様がご自身に反対しておられると感じました。

しかし、一番暗い時でも、神様はナオミを決して見捨てられませんでした。神様はナオミに義理の娘であるルツを与えてくださいました。ルツはナオミを深く愛しており、ナオミのためにすべてを喜んで捨てました。

ナオミはルツにモアブに留まるよう説得しようとしましたが、ルツは答えました。

あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。

あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。(1:16-27)

それでも、ナオミはその祝福に気づきませんでした。むしろ、自分の惨めさのために神様を責めました。しかし、ナオミがそうしたとしても、神様はナオミを見捨てられませんでした。

他の貧しい者たちのように、ルツはある畑で落ち穂を拾い集め始めました。ルツは知らなかったけれど、神様はご自身がナオミの夫の親族であるボアズの畑に導いてくださいました。

そしてルツはその畑で働きました。ボアズはルツに気づき、親切にしてくださいました。だから、ルツが家に帰った時、ナオミは予想以上の大麦を見て驚きました。

「どこに行ったのですか」と尋ねました。

ルツの答えを聞いた時、ナオミは気づきました。「主は生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまれません」(2:20)

つまり、「神様はやっぱり私を見捨てられませんでした。神様はまだ私を愛しておられます。」

あなたはどうでしょうか。あなたの状況によって、神様に見捨てられたと思われることがありますか。神様があなたに反対しておられると感じることがありますか。あなたの苦しみのために、神様の祝福に気づかないのでしょうか。

神様はあなたを決して見捨てられません。神様はあなたを愛しておられるからです。あなたがどんな状態になっても、神様の御手はあなたの上にあります。

私はこの歌が大好きです。

神様の目は私の上にあります。
神様は私がすることをすべて見ておられます。
神様の御腕は私を抱いてくださいます。
私を守り、私は安全です。

神様は私がどこにいるか知っておられます。
毎時、毎日、 神様は私の思いをすべて知っておられます。
私の言葉をすべて知っておられます。

私が神様の御心に従わない時があったとしても、
私は一度も、神様が私を見捨てられたことはありません。

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士師記

私たちが正しいと思うことによって生きるときに

私は士師記を振り返ったら、士師記が暗いと知っていたけど、もう一度読んだら、どの程度まで暗いか分かるようになりました。

その時代、イスラエル人を救った士師でも、道徳的に疑わしいことをしました。私が以前言ったように、士師記をまとめたいなら、最後の言葉を見たほうがいいです。それは、

そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。(士師記21:25)

神様の目に正しいことをしませんでした。むしろ、自分の目に正しいことをしました。私たちがそうすると、結果は何でしょうか。士師記の最後の三章を読んだら、分かると思います。

1.道徳観はまったく崩れるようになります。ギブアというイスラエルの都市の行動を見たら、本当にショッキングです。ソドムに住んでいたロトの話と本当に似ています(創世記19章)。

ロトの話のように、ある人と、そのそばめは町に来て、他の人の家に泊まりました。でも、その間に、その都市の人々は家の戸をたたき続けて、叫びました。

あなたの家に来たあの男を引き出せ。あの男を知りたい。(19:22)

ヘブル語で「知りたい」という表現は、彼と性的関係を持ちたいという意味になりますが、この場合は強姦の意図を含んでいます。

ロトの話のように、その家の所有者は拒絶しましたが、自分の娘と、そのお客さんのそばめを彼らに渡そうと思いました。

ロトの話と異なり、そのお客さんは天使ではなかったので、結局、彼がそのそばめを町の者に渡して、彼らが、そのそばめをレイプして、殺してしまいました。

その町の道徳観がそんなに悪くなって、ソドムのようになってしまいました。ソドムの悪によって、神様はその都市を滅ぼされました。

2.私たちは悪のことを守り始めます。他のイスラエル人は、その話を聞くと、ベニヤミンの部族に言いました。

あなたがたのうちに起こったあの悪い事は、何ということか。

今、ギブアにいるあのよこしまな者たちを渡せ、彼らを子として、イスラエルから悪を除き去ろう。(20:12-13)

でも、そのベニヤミン人は拒絶しました。むしろ、彼らは女性をレイプして殺した人々を守るために、他のイスラエル人と戦いました。使徒パウロは、このような人について、こう言いました。

彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。(ローマ1:32)

3.正しいことをしたいと思っても、悪いことをしてしまいます。ベニヤミン人を打ち負かした後で、他のイスラエル人は誓約しました。

私たちはだれも、娘をベニヤミンにとつがせない。(21:1)

私は彼らの怒りがよく分かります。でも、彼らは決して、その誓約をしてはいけませんでした。その誓約をした後で、彼らは、ベニヤミンの部族が、すぐなくなることを分かるようになりました。

だから、最初に、彼らは、あるイスラエルの都市を攻撃しました。(その都市の人々はベニヤミン人との戦いに参加しなかったらしいです)。

その都市の男の人々と、その妻たちをすべて殺してしまって、結婚していなかった女性たちを妻としてベニヤミン人にあげました。

それにしても、女性たちは足りなかったので、どうやって、その誓約を破るか考えました。結局、彼らは、ベニヤミン人が他のイスラエル人の娘たちを誘拐して結婚することを許しました。

つまり、彼らの道徳観は本当にめちゃくちゃでした。でも、私たちは自分の目に正しいことをしたら、そのようなことになります。

あなたはどうでしょうか。あなたの道徳観はどこから来ますか。神様の言葉から来るでしょうか。もしくは、ただ自分の意見でしょうか。

道徳の標準は一つしかありません。それは、私たちからではないです。だから、道徳的な決断をしなくてはならないときに、自分の知恵に頼らずに、神様の知恵に頼りましょう。

そうしないと、道徳崩壊と私たちの社会の破壊に導きます。

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士師記

偽者の礼拝

この士師記の最後の5章はエピローグです。その箇所の話は、おそらくヨシュアが少し前に亡くなった後に起こりました。なぜなら、アロンの孫ピネハスは、まだ大祭司だったからです。

この二つの話は、かなりショッキングです。この二つの話を一言でまとめたいなら、17章6節と21章25節を読んでください。つまり、

そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。

この箇所では、ある人とその家族が自分の目に正しいと見えることによって神様を礼拝する姿が描かれています。

ミカという人は、母から銀を盗みましたが、後で告白して、その銀を戻しました。それは良いことでした。

そして、その母はその銀を主に捧げました。どのように捧げたのでしょうか。その母は彫像と鋳像を作るためにミカに銀をあげました。

しかし、神様は十戒、すなわち第一戒と第二戒において、それを禁じておられます。

どうして、その母が「私は神様に捧げる」と言いながら「彫像と鋳像を作りましょう」と言えるのか私は理解できません。

おそらく彼女は、「この鋳像を作るけれど、ヤハウェ(つまり、神様の名前)と名づける」と思ったのかもしれません。

しかし、神様が命じられた通りに礼拝せず、自分が正しいと思う方法で礼拝したのです。

ミカは、その彫像と鋳像を作り、礼拝し始めました。

そして、ある日、レビ人が訪れました。レビ人たちは幕屋(神殿のようなものです)で神様に仕える人たちでした。そして、ミカは言いました。

私といっしょに住んで、私のために父となり、また祭司となってください。あなたに毎年、銀十枚と、衣服ひとそろいと、あなたの生活費をあげます。(10)

私は信じられませんが、そのレビ人は同意しました。その人は神様の戒めをよく知っていたのに、お金のために背を向けました。

そして、18章で、ダン人の部族は、その彫像を礼拝し始めました。

私たちは何を学べるでしょうか。ミカとその母は自分が正しいと思ったことをしました。神様の彫像に関する戒めをよく知らなかったかもしれません。もしくは、その戒めを無視したのでしょう。

いずれにせよ、彼らはその行動によって神様の祝福を得ると思っていました。ダン人たちも同じように考えました。

けれども、神様はそのような礼拝をお受けになりません。イエス様はこう言われました。

 しかし真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。(ヨハネ4:23-24)

つまり、礼拝する時に熱心さは大切ですが、神様の目にはそれだけでは足りません。あなたの礼拝は神様の真理によるべきです。

神様が自分を現されたように礼拝するべきですし、神様が命じられる通りに礼拝するべきです。けれども、神様の言葉を知らなければ、それはできません。また、もし神様の言葉に従わなければ、神様を喜ばせることはできません。

あなたはどうでしょうか。神様が自分を現されたように礼拝しているでしょうか。それとも、自分の偽のイメージを作って礼拝しているでしょうか。

神様が命じられる通りに礼拝しているでしょうか。それとも、自分が正しいと思う通りに礼拝しているでしょうか。

神様を霊と真によって礼拝しましょう。

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士師記

もったいない

「彼の才能はすごかったのに、もったいないことをしました。」

どれほど、私たちはそのような言葉を耳にするのでしょうか。スポーツ選手に関してよく聞きます。選手の才能は本当にすごいですが、プライドがありすぎたり、怠けたりするため、その可能性を十分に発揮できないことがあります。

多分、毎日あなたは人に会って、「彼は本当にすごい才能があるのに、なぜもっと努力しないのだろうか」と思うことがあるでしょう。

サムソンの話を読むときに、私はそう思います。神様は彼のためにすごい計画があったのに、彼はその計画を十分に果たすことができませんでした。

彼は生まれる前に神様に聖別され、ナジル人として育てられて、神様に仕えるように訓練されました。けれども、大部分、彼は自分の人生を無駄にしてしまったのです。

神様が彼を用いたときも、それはサムソンの意図ではありませんでした。つまり、サムソンを通して神様の恵みによって、イスラエル人はペリシテ人からある程度救われました。

しかし、それはサムソンの都合によるものであり、時にはサムソンの行動にもかかわらず、イスラエル人は救われたのです。

サムソンの問題は何だったのでしょうか。一番大きな問題は、サムソンが神様の働きに聖別されていたにもかかわらず、彼は神様中心ではなく自己中心でした。

彼は、神様にどうやって仕えるかを考えるよりも、どうやって自分に仕えるかを考えていました。

士師記を読むと、サムソンが神様のアドバイスを求める姿を全く見かけません。サムソンは神様に復讐のための力を求めましたが、神様の導きを求めることは全くありませんでした。

彼の人生にはそのパターンがよく見られます。彼の最初の事件は、ペリシテの女性と結婚することでした。

神様がイスラエル人にカナン人と結婚してはならないと命じられたにもかかわらず、サムソンはその命令を無視し、両親の言葉をも無視して、ペリシテ人(カナン人の一派)と結婚しました。

それでも、士師記14章4節で、これが主によることだと書かれています。それはどういう意味でしょうか。少し矛盾しているように感じます。

おそらく、サムソンが誰の言うことも聞かずにそのペリシテ人と結婚したかったので、神様はその状況を用いようとされたのでしょう。

神様は私たちに何かを無理に強いられることはありませんが、時にはご自身の目的のために、私たちの悪い決断を用いられます。

サムソンは自分の理由でそのペリシテ人と結婚しましたが、神様はその状況をご自身の目的のために用いられました。 このような意味で、それは神様によることでした。

そして、サムソンを通して、神様はイスラエル人をペリシテ人から救われました。

とはいえ、サムソンの動機は、神様を喜ばせたいというものではありませんでした。彼の主な関心はイスラエル人ではありませんでした。

むしろ、何度も、彼の動機は復讐でした。何度も、その言葉が出てきます。

もし、彼の動機が、神様を喜ばせることや、イスラエル人を愛していることだったら、良かったのです。

しかし、彼はそのことを気にせず、また、神様からの召しも気にしませんでした。

さらに2つの事件で、その態度が見られます。

ある日、サムソンは死んだライオンを見つけました。神様はナジル人に死体に近づかないよう命じられましたが、サムソンは近づいて、そのライオンの死体からはちみつを取って食べました。(士師記14:8-9)

そして、デリラというペリシテ人と関係を持ち、彼は彼女にどのように自分の誓約を破るか教えました。つまり、彼の髪の毛を切れば、それは誓約を破ることになるということです。

デリラはサムソンを裏切り、髪の毛を切りました。その結果、サムソンの神様からの力がなくなり、ペリシテ人は彼を捕え、目をえぐり出し、サムソンはペリシテ人の奴隷となりました。

それでもなお、イスラエル人を助けるために、神様は再びサムソンを用い、三千人のペリシテ人を殺されました。けれども、サムソンの動機は何でしたか。彼の最後の言葉はこうです。

神、主よ。どうぞ、私を御心に留めてください。ああ、神よ。どうぞ、この一時でも、私を強めてください。私の二つの目のために、もう一度ペリシテ人に復讐したいのです。(士師記16:28)

サムソンは、多くのことを成し遂げました。20年間ほどイスラエル人を助けました。

けれども、彼は自己中心であり、神様からの召しを真剣に受け止めなかったため、彼の可能性を十分に発揮しませんでした。

あなたはどうでしょうか。神様は、あなたを神の国のために用いたいと望んでおられます。神様はあなたが周りの人々に影響を与えることを望んでおられます。

神様は天国であなたに会う時に「よくやった。良い忠実なしもべだ」と言われるでしょうか。

それとも、「あなたの人生はもったいなかった」と言われるでしょうか?

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士師記

「不思議」という方

イエス様が旧約聖書でどのように現れるかは不思議です。士師記13章では、イエス様が天の父の使いとして現れたとされています。 そして、イエス様は女性と話して、こう言われました。

見よ。あなたは不妊の女で、子どもを産まなかったが、あなたはみごもり、男の子を産む。

今、気をつけなさい。ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。汚れた物をいっさい食べてはならない。

見よ。あなたはみごもっていて、男の子を産もうとしている。その子の頭にかみそりを当ててはならない。その子は胎内にいるときから神へのナジル人であるからだ。

彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始める。(士師記13:3-5)

ナジル人についてもっと知りたいなら、こちらをご覧ください。

通常、人々は決まった期間、ナジルの誓約を守ります。けれども、この子供は一生涯ナジル人であることを命じられました。

彼女がその夫マノアに使いの言葉を伝えたとき、マノアは神様に祈りました。「もう一度、その使いを送ってください。どうしたらいいか教えてください。」

神様の恵みによって、その使いは再び送られました。その時、マノアは尋ねました。「あなたのお名前は何ですか。」

使いは答えました。

なぜ、あなたはそれを聞こうとするのか。わたしの名は不思議という。(18)

それを読んだときに、私はイザヤ書の箇所を思い出しました。メシア、つまり救い主イエス様についての箇所です。こう書かれています。

その名は「不思議な助言者。。。」(イザヤ書9:6)

ある英語の翻訳で、こう書かれています。

その名は「不思議な方、助言者。。。」

この士師記の箇所でどのように、イエス様は不思議な方でしょうか。

1.マノアの妻の恥を取り去ってくださいました。

その時代、子どものない妻は大きな恥とされていました。 多くの人々はマノアの妻を見て、「神様はその人を罰しているのでしょうか」と思ったことでしょう。 しかし、イエス様の一言によって、その恥は取り去られました。

イエス様は私たちの恥をも取り去ってくださいます。私たちは皆、罪による恥で汚れていますが、イエス様の血によって、罪が洗われ、雪のように白くなります。(イザヤ書1:18)

2.イエス様はマノアとその妻にあわれみを示してくださいました。

彼らは罪人であったのに、イエス様は彼らを打ち砕きませんでした。むしろ、供え物を受け、祝福し、子供を約束してくださいました。

同様に、イエス様は私たちにも哀れみを示してくださいます。私たちは皆罪人であり、神様から何も値しない存在です。

それでも、失敗したときでも、神様は私たちを罰するのではなく、祈りと供え物を受け入れ、信頼するならば永遠の命を約束してくださいます。

3.救い主が来る希望を与えてくださいました。

ペリシテ人はイスラエル人を治め、厳しく扱いましたが、マノアの子供を通してイスラエル人はペリシテ人から救われました。

同様に、イエス様は私たちの救い主となりました。私たちは罪に迷い、サタンの国から逃げることができませんでしたが、聖書にはこう書かれています。

また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。

神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。(コロサイ1:12-13)

イエス様の名前は本当に不思議です。

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士師記

短気な人々

アメリカでは、ポリティカル・コレクトネス(政治的な適切さ)という表現があります。それは、ちょっと説明しにくい表現です。簡単に言うと、ポリティカル・コレクトネスは自分の言葉で他の人を怒らせないということです。

例えば、アメリカで黒人について話す時、ある言葉は本当に悪い言葉です。黒人に対してその言葉を使ったら、その人は本当に怒ります。(その言葉を私は言いません。その言葉が大嫌いだからです。本当に知りたいなら、Googleで調べてください。)

けれども、ポリティカル・コレクトネスには他の意味もあります。例えば、「Policeman」と言わずに「Police officer」と言います。なぜならば、警官はいつも男の人ではないからです。「Policeman」と言ったら、時々、女性は怒ります。

もし政治家が言葉を気をつけないと、人々を怒らせます。だから、「政治的な適切さ」と言います。

とはいえ、すべてのアメリカ人にとって、ポリティカル・コレクトネスは本当に大事です。

ある意味で、私はポリティカル・コレクトネスが分かります。ある程度まで、私は賛成します。けれども、ある種の人々はそれに対して怒りたいと思います。

もちろん、私たちは他の人々の感情に敏感になるべきです。そして、もし私たちの行動によって他の人々を怒らせたら、将来その行動を避けたほうがいいです。

とはいえ、多くの場合、私たちは「相手が私を怒らせたい」と思わないほうがいいです。なぜならば、多くの場合、彼らは本当に私たちを怒らせたくないからです。

もしその行動を許せないなら、謙虚な態度を取りながら相手と話したほうがいいです。

私は昔のアメリカン・フットボールの選手テリー・ブラッドショーの話を読みました。

彼がプロになったとき、アメリカで人種差別の問題がまだあったため、緊張した空気がありました。

ブラッドショーはアメリカの南部で成長し、プロになる前は黒人との関係が全くありませんでした。だから、ブラッドショーはいつも黒人を「Coloreds」、つまり「色がある人」と呼びました。

ある日、黒人のチームメイトが彼と話して、「色がある人というのはどういう意味でしょうか。私は紫でしょうか。緑でしょうか。赤でしょうか。」と尋ねました。

大切なのは、その黒人の言葉ではありません。大切なのは彼の態度です。彼は「お前は馬鹿な人種差別主義者だ」という態度を取っていませんでした。

むしろ、彼はブラッドショーが本当にその表現が黒人を怒らせることを知らなかったと理解しました。そして、ブラッドショーの性格と動機を疑わずに、その問題について話しました。

けれども、この聖書の箇所で、エフライム人はまったく違いました。士師記を読んでみると、彼らはいつも怒っているようです。

8章では、彼らはギデオンに怒りました。なぜなら、ギデオンがミデヤン人と戦ったときに、エフライム人を遅れて呼んだからです。

12章でも同じようなことがありました。

エフタがアモン人と戦うときに、エフライム人の助けを頼まなかったため、彼らはエフタを批判し、彼を脅しました。「私たちはあなたの家をあなたもろとも火で焼き払う」と言いました。

ギデオンの場合、エフライム人の怒りをなだめることができました。しかし、エフタはそうしませんでした。むしろ、エフタはエフライム人と戦い、4万2千人を殺しました。

どうしてこの問題が起こったのでしょうか。おそらく誤解があったのかもしれません。

エフタは彼らに助けを頼んだと言っていますが、エフタが全イスラエルに助けを求めたにもかかわらず、何かの理由でエフライム人はそれを聞いていなかったのかもしれません。

私はエフタの行動が正しいとは言いません。ギデオンのように、彼はもっと外交的であるべきでした。

かといって、エフライム人は怒りっぽい性格のようでした。このような状況は二度目でした。

彼らがギデオンとエフタの性格や動機を疑わなければ、もっと良かったでしょう。「たぶん、彼らは私たちを怒らせたくなかったのかもしれない」と考えた方が良かったのです。

しかし、彼らはエフタの性格や動機を疑い、怒りを爆発させました。その結果、彼らはその態度のために命を失いました。

あなたはどうでしょうか。短気な方ですか。他人の行動や言葉に対してすぐに怒ることがありますか。

イエス様の使徒ヤコブの言葉を思い出しましょう。

しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。人の怒りは、神の義を実現するものではありません。(ヤコブ1:19-20)

つまり、相手の説明を早く聞き、遅く責めて、遅く怒るべきです。相手の性格が悪いと常に想定すべきではありません。相手の動機が悪いと常に想定すべきではありません。むしろ、彼らの性格と動機が良いことを想定した方が良いです。

そして、もし彼らと話さなくてはならないなら、愛を持って真理を語るべきです(エペソ4:15)。

そうしないと、エフライム人のようにトラブルが起こります。

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士師記

エフタは本当に娘を全焼のいけにえとして捧げたのか?

聖書の中で、士師記11:29-40は、とても解釈しにくい箇所です。エフタは本当に全焼のいけにえとして神様に娘を捧げたでしょうか。そうだったら、神様はその行動を認められたでしょうか。

その二つ目の疑問には以前のブログに答えがあります。もし、エフタが本当に全焼のいけにえとして娘を捧げたなら、神様はそのいけにえを絶対に受け入れられなかったでしょう。

なぜ私はそう考えるのでしょうか。 それは、モーセを通して神様がそのようないけにえを禁じられたからです。つまり、

あなたのうちに自分の息子、娘に火の中を通らせる者があってはならない。。。

これらのことを行う者はみな、主が忌みきらわれるからである。これらの忌みきらうべきことのために、あなたの神、主は、あなたの前から、彼らを追い払われる。(申命記18:10,12)

それでも、多くの聖書の学者は、エフタが娘を全焼のいけにえとして捧げたと考えています。

けれども、この箇所には他の解釈があるでしょうか。多くの聖書の学者はそう考えています。

新改訳によると、エフタはこう言いました。

私がアモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る、その者を主のものといたします。私はその者を全焼のいけにえとしてささげます。(士師記11:31)

でも、ある英語の聖書によると、エフタはこう言いました。

私がアモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る、その者を主のものといたします。もしくは、私はそのものを全焼のいけにえとしてささげます。

つまり、もし、エフタが動物を見たら、それを全焼のいけにえとして捧げます。(その時代、多くの家では、家畜小屋は家の一階で玄関の隣でした。)

その一方、人を見たら、その人をしもべとして神様に捧げるということです。

レビ記27章には、そのような例が書かれています。その箇所では、もし、ある人が特別な誓願を立てて、つまり、しもべとして誰かを神様に捧げた場合、その人をどのように買い戻すかの教えがあります。

とはいえ、28節にはこう書いてあります。

しかし、人であっても、家畜であっても、自分の所有の畑であっても、人が自分の持っているすべてのもののうち主のために絶滅すべき聖絶のものは何でも、それを売ることはできない。

すべて聖絶のものは最も聖なるものであり、主のものである。

「絶滅すべき聖絶のもの」というのは、「神様に捧げ、それを自分のために取り戻すことができない」という意味です。サムエルの母はそのような誓願を立てていました。(第一サムエル1:11)

もし、エフタがそのような誓願をしたなら、聖書の教えに合います。そして、私たちはエフタの娘の反応を理解できます。

彼女は自分の死について泣きませんでした。彼女は子供ができないことを悲しみました。そして、彼女はお父さんから逃げずに、お父さんに従いました。

その解釈を受け入れている学者もいるし、受け入れていない学者もいます。

どの解釈を受け入れるにしても、私たちは聖書を読むときに、神様が何を教えておられるのかを考えるべきです。

もし、エフタの行動が罪だと思うなら、私は何を学べるでしょうか。それは、聖書をよく知らなければ、私たちが神様を喜ばせていると思っていても、実際には神様が喜ばれないこともあるということです。

神の御言葉をよく知っているでしょうか。 あなたは本当に神様を喜ばせているでしょうか。 あるいは、神様の言葉を知らないゆえに、知らず知らずのうちに神様が憎まれることをしているのではないでしょうか。

もし、エフタがただ自分の誓いを後悔していたなら、私は何を学べるでしょうか。

それは、神への誓いについて注意しなければならないということです。もしその誓いを立てたら、守らなければなりません。

(ただし、神の律法に違反する誓いは別です。そんな誓いを守ってはいけません。(レビ記5:4))

実は、イエス様が言われたのは、誓わないほうがいいということです。むしろ、

あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。(マタイ5:37)

つまり、あなたは何かをすると言ったなら、それを実行すべきです。神様は私たちがそのような人であることを望んでおられます。

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士師記

気まぐれな人々

イスラエル人は本当に気まぐれな人々でした。神様に対して気まぐれだったし、エフタという人に対しても気まぐれでした。実際、イスラエル人の神様との関係とイスラエル人のエフタとの関係は本当に似ています。

エフタが不品行によって生まれた人だったので、彼の兄弟とその都市の長老たちは彼を追い出して、「あなたはほかの女の子供だから、私たちの父の家を受け継いではいけない」と言っていました。

けれども、大変な時に、イスラエル人はアモン人と戦うために、エフタに「私たちの首領になってください」と願いました。(士師記11:6-8)

神様に対しても、それはイスラエル人の態度でした。全てうまくいったときに、彼らは神様に背を向けて、偶像を礼拝しました。しかし、困った時には、彼らは偶像を捨てて、もう一度神様に仕え始めて、「助けてください」と叫びました。

私は彼らに対しての神様のあわれみを信じられません。神様は彼らの心をよく知っておられました。そして、神様は言われました。

行け。そして、あなたがたが選んだ神々に叫べ。あなたがたの苦難の時には、彼らを救うがよい。(士師記10:14)

けれども、彼らが神様に叫び続けたから、結局、

主は、イスラエルの苦しみを見るに忍びなくなった。(士師記10:16)

そして、救い主を送ってくださいました。

私たちはどうでしょうか。イスラエル人のように、私たちも神様に対して気まぐれでしょうか。全てうまくいくときに、神様を無視して、自分自身に仕えるでしょうか。そして、ただ困ったときに、神様に戻って、「助けて!」と叫ぶのでしょうか。

もしくは、いつも神様に対して忠実でしょうか。

私はダビデの祈りが大好きです。彼は祈りました。

私の心を一つにしてください。(詩篇86:11)

有名なクリスチャンアウグスティヌスという人はこう言いました。

私の魂が安心な場所はあなたしかありません。そして、私の中でばらばらのものをまとめてください。なぜならば、私の中にあなたから離れる部分がないように望むからです。

時々、あなたが私の中で働くとき、つまり、私のばらばらな魂をあなたに近づけるとき、言葉で言い表せない感情を与えてくれます。それは本当に素晴らしい喜びです。そのような喜びは今まで経験したことがありません。

それが一時的なものではなく、永遠に続く感情になったら、それがこの世界のものではなく、この世界からの経験でもないことがわかります。(告白10)

神様に対して、私たちが気まぐれな心を持たないように。むしろ、私たちはいつも忠実な心を持って、神様に仕えるように。

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士師記

何を願っているか気をつけて

英語で、「何を願っているか気をつけてください。なぜならば、それをもらうかもしれないから。」ということわざがあります。つまり、私たちが願っていることは、時々良いことではありません。

イスラエル人は、ずっとカナンに住んでいて、結局王様が欲しくなりました。まず、彼らはギデオンに頼みましたが、彼は拒絶しました。「神様はあなたの王」と言われたのに、イスラエル人はその言葉を受け入れることができませんでした。

だから、ギデオンが亡くなった後で、彼らはギデオンの息子アビメレクを王にする計画をすぐに受け入れました。

アビメレクはギデオンのそばめの息子でした。ギデオンが死んだ後、すぐにアビメレクは母の出身地シェケムの家族とその都市の人たちからサポートを求めました。

彼は成功して、その人たちと一緒にギデオンの他の70人の息子たちを殺しました。だから、アビメレクはイスラエル人の最初の王になりました。(ただし、彼の力はシェケムに限定されていたかもしれません。)

けれども、ギデオンの末っ子ヨタムは生き残って逃げました。そして、彼はシェケムの人たちに例え話をしました。

それは、木々が王を求めましたが、オリーブの木、いちじくの木、ぶどうの木は皆断りました。だから、その木々は茨に頼みました。その茨は王になりましたが、結局その茨が木々を滅ぼしました。

つまり、シェケムは王を見つけましたが、結局彼らを滅ぼす人物を選んでしまいました。

ヨタムの言葉は真実でした。シェケムの人々はアビメレクが悪い王であることを理解しましたが、遅かったのです。

シェケムの人々が彼を選んだにもかかわらず、彼はその人々をたくさん殺しました。しかし、アビメレクはシェケムを攻めたときに、彼自身が殺されました。

同じようなことが私たちにも起こるかもしれません。

私たちが何かを求めるあまり、神様を私たちの王として無視することがどれくらいあるでしょうか。憧れの仕事を見つけますが、日曜日に教会に行けないことを無視します。

または、私たちは夫や妻を求めますが、相手がクリスチャンでないことを無視します。

あるいは、彼や彼女と一緒に寝たいと思いますが、神様の戒めを無視します。つまり、セックスは結婚している人のためのものです。

そのようなことをすると、私たちの人生はめちゃくちゃになります。

だからこそ、何を願っているか気をつけましょう。あなたの願いが神様の願いと合っているかどうかを確かめましょう。そして、イエス様の約束を覚えておきましょう。

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33)

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士師記

でも私は良いことに相応しい

私は日曜学校とバイブル・クラブでギデオンの話を聞いた時に、二つの話しか聞いていませんでした。一つはギデオンと神様の出会い。そして、ギデオンのミデヤン人との戦いです。

けれども、私の先生はギデオンの暗い面について全然話していませんでした。それでも、ギデオンには暗い面がありました。

ガドの話を読んで、その暗い面が見えます。この箇所でも、その暗い面が見えます。

この箇所は積極的に始まります。イスラエル人はギデオンに「私たちの王になってください。あなたはミデヤン人から救ってくださったから。」と言いました。

けれども、ギデオンは答えました。「私ではなくて、神様があなたの王です。神様はあなたの支配者です。」

ところが、その後で、ギデオンは言いました。「ちょっとお願いがあります。少し金が欲しいのです。また、ミデヤンの王の赤紫の衣をください。あ、もう一つお願いがあります。その王の首飾りをお願いします。」

その後で、その金からエポデを作りました。どうしてそうしたのか、私には分かりません。

エポデは神様の祭司のためのものでした。祭司たちは神様と相談するときに、エポデを使いました。だから、その行動を通して、ギデオンは祭司の義務を取ったみたいです。

ギデオンは、もう一つのことをしました。他の国々の王のように、ギデオンはたくさんの女の人と結婚して、息子が70人いました。一人の息子をアビメレクと名づけました。その名前の意味は、「私の父は王です」という意味です。

どうして、ギデオンはそうしたのでしょうか。私は分かりません。ただ考えるに、その時代、「私の父」という表現は、時々神様に対して使われました。だから、ギデオンが以前言ったように、「神様は私の王」と言いたかったかもしれません。

そして、イスラエル人に神様に仰ぐことを思い出させるためにエポデを作ったかもしれません。

しかし、彼のすべての行動を見たら、彼の動機がちょっと疑わしいと思います。

彼は、「私はこの良いことに相応しいだろう?私は王のように生きたら、いいんじゃない?私はすごいことをしたから。良いものをもらったら、いいんじゃない?」と考え始めたかもしれません。

けれども、その態度は何に導いたのでしょうか。

一つ目は、そのエポデはギデオンとその一族にとって、落とし穴になったことです。なぜならば、イスラエル人はそのエポデを礼拝し始めたからです。

二つ目は、その態度はギデオンの家族の中でトラブルに導きました。つまり、一人の本当に悪い、また神様を恐れない息子がいました。

私たちが物と地位を追うなら、それは危ないことです。もし、それが私たちの優先事項になったら、私たちの人生を罪と災害に導くかもしれません。

「でも、私はその良いものに相応しいでしょう?私はたくさんの良いことをしたから。報酬を受けたら、いいんじゃない?」

そのように考えるのは簡単なことです。しかし、私たちのすべての持っているものが神様から来たことを思い出さなくてはなりません。もし、神様が私たちに才能と物質的な豊かさをくださらなかったら、私たちは何もできないでしょう。

だから、私たちは謙遜な態度を取ったほうがいいです。また、私たちに値するものを求めるべきではありません。

むしろ、私たちが値するものが死であることを思い出したほうがいいです。しかし、神様は私たちに恵みとあわれみを与えてくださいました。ただ、その恵みとあわれみによって、私たちは良いものを持っています。

あなたはどうですか。あなたが値するものを求めていますか。それとも、神様に対して謙遜と感謝の心を保っていますか。

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士師記

神様はその行動を本当に承認されたのか

時々、私たちは聖書を読むときに、聖書の登場人物が悪いことをするのを見ます。時には、聖書のヒーローですら、本当にひどいことをします。そして、私たちは尋ねます。「神様はそれを承認されたのか。それは神様の御心だったのか。」

特に、神様がその状況について何も解説されないときに、私はそう尋ねます。

時々、誰かが悪いことをしたとき、聖書にはこう書かれています。「その行為は神様の心をそこなった。」

たとえば、ダビデがバテ・シェバと姦淫を犯し、その夫を殺したとき、聖書にはこう書かれています。

しかし、ダビデの行ったことは主のみこころをそこなった。(サムエル記第二11:27)

とはいえ、多くの場合、聖書には神様の感情が全く書かれていません。だから、神様が怒られたか、平気だったか、私たちはよく分かりません。

多くの人々はこう考えます。「神様はその行動を承認されたのかもしれない。もし承認されていなかったなら、なぜ聖書に何も書かれていないのでしょうか。」

けれども、それは誤った考え方です。エフタの話(士師記11章)で、私はこの疑問についてさらに語ります。しかし、この箇所でも、スコテとペヌエルという都市に対するギデオンの行動を考えると、同じような疑問が生じます。

その都市はガドという部族のものでした。イスラエル人がミデヤン人を追ったとき、彼らはその都市の人々にパンを求めました。ところが、その長老たちは拒絶しました。

なぜ拒んだのでしょうか。彼らが恐れたからかもしれません。もしイスラエル人がミデヤン人を征服できなかったなら、ミデヤン人はその都市に復讐したかもしれません。

しかし、この箇所をよく読むと、もう一つの可能性が見えてきます。長老たちがギデオンの願いを拒んだとき、彼らはギデオンを嘲ったのです。

「あなたたちは馬鹿です。あなたたちが300人しかいないのに、1万5千人の軍隊を攻めるつもりか。私たちは絶対手伝ってあげない。」(士師記8:15)

だから、ギデオンの勝利の後で、彼はその二つの都市に対して復讐しました。

神様はその行動を承認されたのでしょうか。聖書は沈黙しています。実際、多くの聖書の解説者はギデオンが正しいと解釈しています。

それでも、私の意見ですが、多分、神様は承認されなかったと思います。なぜ私はそう思うのでしょうか。

このような話を読んで、「神様は承認されたか」と尋ねるとき、ただその一つの話を読むだけではなく、聖書全体の教えを見なければなりません。

神様はこのような状況について何を教えておられるでしょうか。

二つのことを見ましょう。一つは正義についてです。神様はイスラエル人に教えられました。

いのちにはいのち、目には目、歯には歯、手には手、足には足。(申命記19:21)

それは復讐の教えではありませんでした。むしろ、それは罰の制限でした。つまり、その罰は罪と同等でなければなりませんでした。罰は罪より大きくてはなりませんでした。

その二つの都市はギデオンの軍隊にパンをあげることを拒絶し、ギデオンたちをからかいました。荒野の茨やとげの罰、また、やぐらの壊し、また人を殺すことは、その罪に合っていたでしょうか。

私の意見ですが、その罰は彼らの罪に合っていなかったと思います。それがギデオンの傷ついたプライドによる復讐のように見えます。

二つ目のことは、イエス様の申命記の解説です。

イエス様は言われました。

『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。(マタイ5:38-39)

あなたが考えると、それは本当に心を打つ描写です。

イエス様は言われました。もし、誰かがあなたの右の頬を打ったら、左の頬も向けなさい。

もしあなたが右利きで、相手に向かい合ったなら、どうやって相手の右の頬を打つでしょうか。手の甲で打たなければなりません。

けれども、通常、相手の体を傷つけるために手の甲は使いません。それは侮辱の行為なのです。

だから、イエス様が意味されたのは、もし、誰かがあなたを侮辱するなら、赦しなさいということです。その人と喧嘩しない、という意味です。

ギデオンはそうしませんでした。もちろん、その都市の長老たちは悪かったです。しかし、ギデオンの反応も悪かったです。左の頬も向けずに、彼は復讐しました。

いずれにせよ、私のポイントは、聖書に神様がその行動を見て怒られたと書かれていないからと言って、神様がその行動を承認されているとは限らないということです。

私たちは、聖書の全体の教えを見なければなりません。そうすれば、神様の承認かどうか分かるようになります。

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士師記

なだめるような言葉

もし、誰かが不公平に私たちを責めたら、私たちはどう反応するでしょうか。

多くの人にとって、自然な反応は相手を責めることです。また、ひどい言葉を受けたら、私たちはひどい言葉を返します。他の人は何も言わずに、すねます。

しかし、そのような反応は良くありません。ギデオンはそれを知っていました。

ミデヤン人と戦うことを計画したとき、ギデオンはいくつかのイスラエルの部族に助けを求めました。けれども、その戦いがほとんど終わるまで、ギデオンはエフライム人に助けを求めていませんでした。

だから、エフライム人は怒りました。初めから、彼らは助けたかったのに、除外されたように感じました。彼らはギデオンが、他の手段がないときに彼らを呼んだと感じました。だから、彼らは言いました。

あなたは、私たちに何ということをしたのですか。ミデヤン人と戦いに行ったとき、私たちに呼びかけなかったとは。(士師記8:1)

そして、彼らはギデオンを激しく責めました。

ギデオンはどう反応したでしょうか。ギデオンは彼らを責めませんでした。彼はすねませんでした。むしろ、ギデオンは言いました。

今、あなたがたのしたことに比べたら、私がいったい何をしたというのですか。。。神はあなたがたの手にミデヤン人の首長オレブとゼエブを渡されました。あなたがたに比べたら、私に何ができたのでしょう。(2-3)

その言葉によって、ギデオンはエフライムのプライドをなだめました。

箴言にこう書いてあります。

柔らかな答えは憤りを静める。(箴言15:1)

あなたはどうでしょうか。誰かがあなたを不公平に責めたとき、あなたはどう反応しますか。

時には、一番良い方法は、自分のプライドを抑えて、謙虚になることです。とはいえ、それは簡単なことではありません。

けれども、もし相手を本当に愛しているなら、そうする方が良いのではないでしょうか。

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士師記

誰を信頼しているでしょうか。

誰を信頼しているでしょうか。

神様はギデオンにそう訊いておられたようです。ミデヤン人と戦うために、ギデオンは3万2千の人々を集めました。けれども、神様は言われました。

あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが、『自分の手で自分を救った』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。

今、民に聞こえるように告げ、『恐れ、おののく者はみな帰りなさい。ギルアデ山から離れなさい』と言え。(士師記7:2-3)

2万2千人は帰っていきましたが、神様は「それでも、まだ多すぎる」と言われました。

だから、神様はさらに多くの人々を帰らせました。結局、その32千人から、300人しか残りませんでした。どうしてでしょうか。

それは、神様がイスラエル人が自分自身に頼らず、ただ主に信頼することを望んでおられたからです。そして、たった300人で、神様はイスラエル人に勝利を与えてくださいました。

同じように、神様は私たちが神様を信頼することを望んでおられます。

けれども、私たちは誰を信頼するでしょうか。何に頼るでしょうか。お金でしょうか。私たちの仕事でしょうか。私たち自身でしょうか。それとも、神様でしょうか。

もし私たちが他のものに頼るなら、それが私たちの優先事項になります。そして、私たちはそれを神様よりも大切にします。

しかし、もし私たちがただ神様を信頼するなら、私たちの優先順位は正しくなり、勝利を得ます。

あなたの神様との関係はどうですか。強い関係がありますか。それとも、弱い関係でしょうか。あなたは神様と親しい関係があると思いますか。

自分自身に問いかけてください。「私は誰を信頼しているのだろうか。何に頼っているのだろうか」

神様はあなたと親しい関係を望んでおられます。けれども、もしあなたが「神様を他の何よりも信頼する」と答えられないなら、その親しい関係はできません。

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士師記

私たちが何者になるかの可能性を見られる神

この箇所は神様がモーセを呼ばれた箇所と似ています。両方の場合、神様は自信がない人を呼び、用いられました。

この場合、天使はギデオンを呼ばれたときに、興味深いことを言いました。(ちなみに、多くの学者は、その「天使」がイエス様だと考えています)。その天使は言いました。

勇士よ。主があなたといっしょにおられる。(士師記6:12)

けれども、ギデオンは全く勇士ではありませんでした。彼はただの農夫でした。そして、彼は全然強くなかったし、全く勇気がありませんでした。神様が彼を呼ばれた時に、彼は答えました。

「私は取るに足りない人ですし、取るに足りない部族の出身です。どうやって、私はイスラエルを救うことができるでしょうか。」

そして、ギデオンはバールの祭壇を破壊する時に、夜に行いました。なぜならば、彼は家族と近所の人々を恐れていたからです。

また、ギデオンはイスラエル人を戦いのために集めた時に、神様が彼らと共におられる証拠を求めました。

それでも、神様はギデオンに恵みを与えてくださいました。ギデオンが神様を試しても、神様は許してくださいました。

そして、ギデオンがやっと「この方は神様です」と分かって、恐れてひれ伏した時に、神様は言われました。

安心しなさい。恐れるな。あなたは死なない。(23)

ギデオンは罪人でした。死に値しました。なぜならば、ギデオンは罪人であったのに、聖なる神様の御顔を見たからです。しかし、神様はギデオンを殺しませんでした。むしろ、神様はギデオンを素晴らしい働きのために呼ばれました。

どうしてでしょうか。それは、神様がギデオンの可能性を見られたからです。神様はギデオンを信じてくださいました。

そのように、神様はあなたを信じてくださいます。あなたが見えなくても、神様はあなたの可能性を見られます。

だから、自己憐憫にふけらないでください。「私は取るに足りない人だ」と言わないでください。

それは嘘です。なぜならば、神様があなたを創造されたからです。そして、神様の目的のためにあなたを造られました。つまり、あなたが神様を知り、神様の国のために仕えるために造られました。

どんな人であっても、神様はあなたに可能性を見られます。

ただ、私たちは神様に「イエス」と言うべきです。

あなたはどうしますか。

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士師記

あなたは値する(しない)事を得る?

私たちが悪い決断をすると、どれぐらい他の人々はこう言うでしょうか。

「自業自得でしょう?」

「同情なんてしない。」

「それは当然の報いだよ。」

そして、それはその通りです。聖書では、こう書かれています。

人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。(ガラテヤ6:7)

もし、私たちの人生に悪い種を蒔けば、悪い実が出てきます。

この箇所の初めで、神様はイスラエル人にそのようなことを言われました。イスラエル人が神様に背を向けたので、神様はミデヤン人がイスラエル人を迫害することを許されました。

その苦しみの中で、イスラエル人は再び神様に叫び求めました。

すると、神様は答えられました。

イスラエルの神、主はこう仰せられる。わたしはあなたがたをエジプトから上らせ、あなたがたを奴隷の家から連れ出した。

わたしはあなたがたをエジプト人の手と、すべてあなたがたを圧迫する者の手から助け出し、あなたがたの前から彼らを追い出して、その国をあなたがたに与えた。

それでわたしはあなたがたに言った。『わたしはあなたがたの神、主である。あなたがたが住んでいる国のエモリ人の神々を恐れてはならない。』ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。」(士師記6:8-10)

つまり、「あなたたちは値することを受けた。私があなたたちに警告したのに、あなたたちはそれを無視したから、今苦しんでいる。」

それでも、神様はイスラエル人を見捨てられませんでした。むしろ、彼らの罪なのに、神様は彼らに手を伸ばして救ってくださいました。

それは恵みです。私たちは神様から何も値しません。むしろ、私たちは皆神様に背を向けて、自分の道を行っていたから、地獄に行くことに値します。

でも、もし私たちが神様に叫び求めたら、神様は応えてくださいます。私たちを愛してくださるからです。

神様は、私たちの罪の結果をすべて取り除かれるわけではありません。あなたの悪い選択によって、苦しむかもしれません。

でも、もし私たちが神様に向かったら、苦しみの中でも希望があります。つまり、神様は私たちをまだ愛してくださるので、私たちの苦しみの中で働いて助けてくださるということです。

あなたは悪い選択をしましたか。その選択によって苦しんでいますか。神様に向かいましょう。神様は、あなたを赦して、助けてくださいます。なぜならば、神様はあわれみ深くて、恵み深い神様だからです。

ダビデが書いたように、

主よ。まことにあなたはいつくしみ深く、赦しに富み、あなたを呼び求めるすべての者に、恵み豊かであられます。(詩篇86:5)

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士師記

試合に参加しているでしょうか。ただ傍観しているのでしょうか。

多分、一番有名なバスケットボールの選手はマイケル・ジョーダンです。

とはいえ、彼のチームメートであるスコッティ・ピッペンも非常に優れた選手でした。彼はNBA(アメリカバスケットボールのリーグ)の歴史の中で、本当にすごい選手でした。

さらに、ピッペンはNBA50周年記念オールタイムチームに選ばれました。

けれども、一つの試合で、彼の評判は悪くなりました。なぜでしょうか。彼はバスケットボール・コートに入ることを拒否しました。

時間が少ししかない時に、最後の逆転を狙うために、コーチは他の選手にシュートを打たせるプレイを指示しました。ピッペンはそれを聞いて、爆発し、出場を拒否しました。

皮肉なことに、そのチームメートはシュートを決めて、そのチームは勝ちました。

ピッペンは最も良いバスケットボールの選手の一人ですが、多くのファンはその試合をまだ覚えています。だから、彼の評判はまだ少し汚れています。

イスラエル人は同じような状況に直面しました。神様はイスラエルの部族のすべてに協力させて、イスラエル人を圧迫する国と戦うよう命じられました。ところが、ある部族は来ることを拒否しました。

なぜでしょうか。私たちには分かりません。

私たちはバラクを批判するかもしれません。なぜなら、デボラが同行しない限り、バラクは行こうとしなかったからです。しかし、結局バラクは出陣しました。

けれども、ある部族はさらに悪い態度をとりました。彼らはまったく来なかったのです。だから、勝利の歌の中で、デボラはそのことを歌いました。

イッサカルのつかさたちはデボラとともにいた。イッサカルはバラクと同じく歩兵とともに谷の中を突進した。ルベンの支族の間では、心の定めは大きかった。

なぜ、あなたは二つの鞍袋の間にすわって、羊の群れに笛吹くのを聞いているのか。ルベンの支族の間では、心の秘密は大きかった。

ギルアデはヨルダン川のかなたに住んでいた。なぜダンは舟にとどまったのか。アシェルは海辺にすわり、その波止場のそばに住んでいた。

ゼブルンは、いのちをも賭して死ぬ民。野の高い所にいるナフタリも、そうである。(士師記5:15-18)

つまり、イスラエル人が迫害者と戦うために自分の命をかけたとき、ルベンの支族、ギレアデの支族、ダンの支族、アッシェルの支族はただ傍観していました。

クリスチャンとして、私たちも戦争に参加しています。それは霊的な戦争で、毎日多くの人々が地獄に行っています。そして、神様は私たちにお訊きになります。

「あなたはただ傍観しているのでしょうか。それとも、試合に参加して、迷っている魂のために戦っているでしょうか。」

ある人にとって、あなたしかクリスチャンを知りません。そして、あなたが何も言わないと、彼らはイエス様のことを全く聞かないでしょう。その場合、神様はあなたに責任を問われます。

神様はあなたに言われます。

「他のクリスチャンはあちらこちらに行って、福音のために自分の命をかけました。なぜ、あなたは彷徨したのですか。なぜ、家に残ったのですか。なぜ行かなかったのですか。」

神様、私が決して傍観しないように。むしろ、私が試合に参加し、あなたのためにこの世界に影響を与えられるようにしてください。

私があなたの声を聞き、あなたの指示が分かるようにしてください。私が立派な兵士になれるようにしてください。アーメン。

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神様に従う時

私たちは皆、ロールモデルがいます。ある人にとっては、お父さんやお母さんです。他の人にとっては、おじいさんやおばあさん、あるいは先生です。

私たちが若い頃、彼らは私たちの成長にとって本当に大切な存在です。私たちの人格を形づくる手助けをしてくれます。私たちが育っていく過程を支えてくれます。

けれども、私たちが彼らから目を離して、神様に仰がなくてはならない時が来ます。

他のロールモデルは不完全です。時々彼らは失敗します。彼らは時々ミスをします。それに、彼らには弱さがあります。そして、時々、彼らは私たちを助けられません。だから、私たちは彼らに頼らずに神様に頼らなくてはなりません。

この箇所を読むと、バラクがそこまで成長していないことがわかります。その時、デボラという人はイスラエル人の預言者であり、イスラエルを裁いていました。

その時、イスラエル人の敵であるヤビン王は彼らを圧迫していました。デボラはバラクに言いました。

「イスラエルの神、主はこう命じられたではありませんか。『タボル山に進軍せよ。ナフタリ族とゼブルン族のうちから一万人を取れ。

わたしはヤビンの将軍シセラとその戦車と大軍とをキション川のあなたのところに引き寄せ、彼をあなたの手に渡す。』」(士師記4:6-7)

ところが、バラクは言いました。「もし、あなたが私たちと共に行かないなら、私は行きません。」

だから、デボラは答えました。

私は必ずあなたといっしょに行きます。けれども、あなたが行こうとしている道では、あなたは光栄を得ることはできません。主はシセラをひとりの女の手に売り渡されるからです。(9)

どうして、デボラはそう言っていたのでしょうか。バラクの願いは悪かったでしょうか。もしかしたら、悪くなかったけど、理想的な反応ではなかった。なぜでしょうか。

一番の理由は、バラクが神様を信じなかったからです。神様だけに頼りませんでした。むしろ、彼は神様に頼る人に頼りました。

とはいえ、さらに悪いこともあり得ます。もし彼が神様に頼らない人に頼っていたなら、もっと大変なことになっていたでしょう。

しかし、結局、私たちの信仰は他の人の信仰に頼らずに、立たなくてはなりません。つまり、私たちはイエス様だけを信じなくてはなりません。私たちが神様に従う理由が、誰かが私たちに「神様に従いなさい」と言ったことだったら、それはダメです。

私たちは神様に対する愛によって、神様に従うべきです。

クリスチャンホームで育てられた子供たちは皆、その選択に直面します。私もその選択に直面しました。私は自分自身に訊かなくてはなりませんでした。

「どうして神様を信じるのでしょうか。私の両親が信じるからでしょうか。それとも、神様が私に対して本当にリアルだからでしょうか。

私が神様に従う理由が、私の両親が神様に従うからでしょうか。それとも、私の個人の経験によって、神様に信頼できることを知っているからでしょうか。」

いつか、私たちのロールモデルの手を離してイエス様の手を取らなくてはなりません。

もちろん、私たちは他のクリスチャンのサポートが必要です。神様は他のクリスチャンを私たちの人生に置いて、私たちを励まし、成長することを助けてくださいます。

しかし、私たちは不完全なロールモデルに頼るべきではありません。むしろ、イエス様に頼るべきです。

ヘブル人への手紙の著者が言ったように、

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。(へブル12:2)

誰の手をつないでいるでしょうか。

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士師記

あなたは自分自身を誰に与えるでしょうか

士師記では、同じテーマが何度も繰り返されます。

士師記3:7-8には、こう書いてあります。

こうして、イスラエル人は、主の目の前に悪を行い、彼らの神、主を忘れて、バアルやアシェラに仕えた。

それで、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らをアラム・ナハライムの王クシャン・リシュアタイムの手に売り渡された。こうして、イスラエル人は、八年の間、クシャン・リシュアタイムに仕えた。

また12節では、

そうすると、イスラエル人はまた、主の目の前に悪を行った。彼らの主の目の前に悪を行ったので、主はモアブの王エグロンを強くして、イスラエルに逆らわせた。

そして、4:1-2では、

その後、イスラエル人はまた、主の目の前に悪を行った。エフデは死んでいた。

それで、主はハツォルで治めていたカナンの王ヤビンの手に彼らを売り渡した。

士師記を読みながら、何度もそのような言葉を見ます。イスラエル人は偽の神々を礼拝し始めたため、神様がその神々の国の手にイスラエル人を渡されました。

そして、イスラエル人は苦しみ、悔い改めて、神様に「助けてください」と祈り、神様が彼らを救う救助者を起こされました。

この箇所から、私たちは大切なことを学べると思います。

私たちが自分自身を何かに捧げると、そのものの奴隷になります。もし、私たちが自分自身を罪に捧げたら、罪の奴隷になります。

でも、もし、私たちが自分自身を神様に捧げたら、神様の奴隷になります。

以前言ったように、「あなたは誰かに仕えなくてはならない。」

パウロはこのように言っていました。

あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。(ローマ6:16)

時々、人々は、「神様から離れたら、私は自由です。私は何でも出来る。」と思います。

でも、彼らが分からないのは、他のものの奴隷になっていることです。たとえば、自分の情欲や貪欲の奴隷になってしまいます。そして、パウロが言ったように、その行き着く所は恥と死です。(ローマ6:21-22)

たくさんの人々は、「どうして、私の人生はめちゃくちゃになったのだろうか」と思います。

「どうして、私の結婚はめちゃくちゃなのだろうか。どうして、私の経済はダメなのだろうか。どうして、私の悪い癖を止められないのだろうか。」

そして、彼らが気づくのは、自由だと思っていたものが本当は奴隷の人生だということです。また、その人生が死に導くことを理解するようになります。

だから、パウロは書きました。

あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。(6:19)

あなたはどうでしょうか。あなたは自分自身を誰に捧げているでしょうか。何に捧げているでしょうか。

誰も本当に自由ではありません。

情欲に仕えて奴隷となり、滅びる人生を送ることもできます。

それとも、あなたは神様に仕えて満ち溢れる人生を送ることができます。

あなたはどうしますか。

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士師記

子育てを失敗すること

数年前、私は新聞の記事を読んでいました。その記事によると、日本の若い両親たちは、その子どもたちにどのように道徳を教えるか迷っていました。なぜなら、両親たちも道徳について確信がなかったからです。

もちろん、もし両親たちが自分自身道徳について確信がなければ、子どもたちに教えることはできません。

その結果、学校で多くの問題が起こります。15年くらい前、「学級崩壊」という言葉を聞き始めました。その状態は今でもあまり改善されていません。

イスラエル人は学級崩壊を経験しませんでした。彼らは社会崩壊を経験しました。

彼らは初めに、神様を礼拝し、神様の道に従っていましたが、やがて違う神々を礼拝し始めました。すぐに、彼らの道徳は崩れました。どうして、それは起こったのでしょうか。

イスラエル人は子育てに失敗したからです。どのように失敗したのでしょうか。

その同世代の者もみな、その先祖のもとに集められたが、彼らのあとに、主を知らず、また、主がイスラエルのためにされたわざも知らないほかの世代が起こった。(士師記2:10)

神様はイスラエル人に命じられました。「あなたの子どもたちに私について教えなさい。私はあなた方のために何をしたか教えなさい。」

それなのに、イスラエル人はその義務を無視しました。その結果どうなったでしょうか。その子どもたちは神様を知らなかったし、主がイスラエル人のために何をしたか全然知りませんでした。だから、その社会はすぐに崩れました。

私たちはどうでしょうか。私たちの子どもたちに神様について教えているでしょうか。神様が私たちのために何をされたかを、教えているでしょうか。

それとも、ただ子どもたちを日曜学校に連れて行って、その義務を先生たちに任せているでしょうか。

それは絶対にダメです。その先生たちは一週間に一回だけ私たちの子どもたちを教えています。でも、私たちは毎日子どもたちと一緒にいます。

先生たちが私たちの子どもたちに教えるとき、神様は喜ばれると思いますが、神様はその責任を両親たちに与えられました。神様は私たちに命じられます。

あなたがたは、私のことばを心とたましいに刻みつけ、それをしるしとして手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。

それをあなたがたの子どもたちに教えなさい。あなたが家に座っているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、それを唱えるように。(申命記11:18-19)

もし、あなたの子どもたちが神様を知らないなら、それは日曜学校の先生のせいではありません。それは、あなたの責任です。

神様について教えるべきなのは、あなたです。神様との関係をどう築くかを教えるべきなのも、あなたです。

そして、あなたの子どもにとって、あなたはクリスチャンの模範です。

日曜学校の先生たちは私たちの教えを補いますが、私たちの責任を取ることはできません。

もちろん、私たちの子どもたちは自分で決断しなくてはなりません。私たちが義務を果たし、神様について教えても、彼らが神様から立ち去るかもしれません。それをコントロールすることはできません。

でも、私たちが自分の子どもを教えないなら、神様はその責任を私たちに問われます。

時々、クリスチャンは言います。「でも、私は聖書をあまり知らない。神様のこともあまり知らない。私は聖書を教える資格がない。日曜学校の先生はもっと良い資格があるでしょう?」

そうかもしれませんが、それは良い言い訳ではありません。あなたはあまり知らないかもしれませんが、知っていることを教えなくてはならないのです。

そして、毎日毎日、あなたの信仰が成長し、神様についてもっと学ぶべきです。そうすれば、子どもたちにもっと教えることができるようになります。

あなたはどうでしょうか。神様の命令に従って、子どもたちに教えていますか。それとも、ただ日曜学校に連れて行っているのでしょうか。

イスラエル人は子どもたちに教える義務を果たせませんでした。そうしないでください。あなたの子どもに教えてください。そうすれば、あなたのように、彼らも神様を知るようになります。

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士師記

でも、私はできない

時々、神様は私たちに何かを命じられますが、私たちはそれは無理だと思います。私たちにとって、その仕事が大きすぎると思うかもしれません。または、私たちは罪と闘っていますが、いつも誘惑に負けてしまいます。

だから、私たちは言います。「神様、ごめんなさい。私はできません。この闘いは大きすぎるから。」

また、「この仕事ができません。私にとっては無理です。」

イスラエル人も同じでした。神様はイスラエル人に「カナン人をすべて土地から追い出しなさい」と命じられました。

けれども、その仕事が難しくなると、イスラエル人は諦めました。

どの程度まで頑張ったのでしょうか。追い出そうとしたのに、圧倒的に敗北したのでしょうか。

または、少し頑張ったけど、すぐに諦めたのでしょうか。

私は分かりませんが、多分、イスラエル人はあまり努力しなかったのでしょう。だから、攻撃を始めたけど、うまく行かなかったから、すぐに諦めてしまいました。カナン人を追い出すのは難しすぎたからです。

だから、神様は彼らに言われました。

「わたしはあなたがたをエジプトから上らせて、あなたがたの先祖に誓った地に連れて来て言った。『わたしはあなたがたとの契約を決して破らない。

あなたがたはこの地の住民と契約を結んではならない。彼らの祭壇を壊さなければならない。』ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。なぜこのようなことをしたのか。(士師記2:1-2)

神様は彼らの言い訳を受け入れませんでした。なぜでしょうか。なぜなら、神様は彼らと共におられると約束し、また、彼らを助けることを約束してくださったからです。

神様はイスラエル人の目の前に、エリコの壁を壊してくださいました。神様はイスラエル人の敵の上に雹を送り、イスラエル人の刀よりも、雹の方がその敵を殺しました。神様はアイを征服するためにイスラエル人に作戦を与えてくださいました。

それでも、イスラエル人は言いました。「私たちの敵は鉄の戦車を持っているから無理です。」

また、

「カナン人はこの土地から出たくない。彼らは激しく戦っています。彼らを追い出せない。」

神様の大きさに焦点を当てず、彼らは自分の弱さに焦点を当てていました。神様の助けを祈らず、彼らはただ「私たちはできない」と言っていました。だから、神様の命令に従いませんでした。

私たちはどうでしょうか。問題に直面するとき、どのように反応するでしょうか。私たちより大きい仕事を与えられたら、神様の力に頼り、従いますか。それとも、ただ「無理だ」と言って、やってみる前に諦めますか。

あるいは、少しだけやってみるけど、すぐに「もうだめです。残念です」と言いますか。

神様はその言い訳を受け入れません。なぜなら、神様は私たちと共におられるからです。そして、神様が私たちに仕事を与えるときは、いつも助けを備えてくださいます。

だから、私たちが何ができないかに焦点を当てず、神様が何ができるかに焦点を当てましょう。そして、従いましょう。

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ヨシュア記

誰に仕えるでしょうか

昔、有名な歌手ボブ・ディランが、こう歌いました。

確かに、誰かに仕えなくてはならない。
必ず誰かに仕えなくてはならない。

悪魔に仕えるかもしれない。
主に仕えるかもしれない。
けれども、誰かに仕えなくてはならない。

ディランがこの歌を作ったのは、1979年のことです。 そのとき、それは確かに真実でした。 ヨシュアの時代にも、それは変わらず真実でした。 そして、今もなお、それは変わらぬ真実です。

この箇所で、ヨシュアはイスラエルの民に対して、神様が彼らのためにどれほど多くのことをしてくださったかを思い起こさせました。 けれども同時に、もし彼らが神様に背を向けるなら、神様は彼らを罰せられると警告しました。

さらにヨシュアは、彼らにアブラハムの父テラのことを思い出させます。 テラは、他の神々に仕えていました。 そしてイスラエルの民自身もまた、エジプトで他の神々に仕えていたのです。

そのような背景を語ったあとで、ヨシュアはこう言いました。

今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい。

もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。」(ヨシュア記24:14-15)

私たちもまた、同じ決断を迫られています。 私たちは、いったい誰に仕えるのでしょうか。 神様に仕えるのでしょうか。 それとも、自分自身に仕えるのでしょうか。

お金に仕えるのでしょうか。 性の「神」に仕えるのでしょうか。 力の「神」に仕えるのでしょうか。

誰に仕えるのでしょうか。

ヨシュアは、こう語りました。 「たとえ、あなたがたがどのような選びをするにせよ、私と私の家は主に仕える。」

おそらく、このブログを読んでいる多くの人は、同じように言うことでしょう。 けれども、「神様に仕える」とは、いったいどういう意味でしょうか。

まず第一に、それは他の偶像を捨てることです。 この世界には、目に見える偶像だけでなく、目に見えない偶像も数多く存在します。

仏教やヒンドゥーの像だけではなく、金銭の「偶像」や性の「偶像」、力の「偶像」もあります。 何かを礼拝するなら、それはすでに偶像になっているのです。

もし私たちが神様に仕えたいと願うなら、 神様を人生の第一にしなければなりません。 そして、あらゆるものを神様の御支配のもとに置くべきなのです。

ヨシュアはこう言いました。

今、あなたがたの中にある外国の神々を除き去り、イスラエルの神、主に心を傾けなさい。(24:23)

もちろん、それは、お金をすべて捨てることでも、結婚生活の中で性を断つことでも、リーダーシップの立場を降りることでもありません。 けれども、どんなことをするにも、私たちの心が神様に向かっていなければならないのです。

つまり、 「神様、あなたこそが私の人生の主権者です。 私の性においても、お金においても、立場においても―― 私の人生のすべてをあなたの御支配のもとに置きます。」 という姿勢が必要なのです。

そして、これまでに他の神々を礼拝してきたなら、 たとえば仏陀やアラーに向かって礼拝していたなら、 それをやめなければなりません。 なぜなら、二人の主に仕えることはできないからです。

ヨシュアは、こう言いました。

主は聖なる神であり、ねたむ神である。(24:19)

神様に仕えるということには、もう一つの大切な意味があります。 それは、心から神様を愛し、その愛ゆえに従っていくということです。

ヨシュアは、こう語りました。

あなたがたは、モーセの律法の書に記されていることを、ことごとく断固として守り行い、そこから右にも左にもそれてはならない。。。

あなたがたは、十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい。(23:6,11)

イエス様もこう語れました。

わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。(ヨハネ14:21)

しかし、もう一つ大切なことを心に留めておかなければなりません。 私たちは、自分の力だけでは神様に仕えることができないのです。

ヨシュアは、イスラエルの民にこう語りました。

あなたがたは主に仕えることはできないであろう。(24:19)

おそらく、ヨシュアがそう語ったとき、 彼は単にイスラエルの民にチャレンジを与えたかったのだと思います。

「あなたがたは本当に神様に仕える覚悟があるのか。 その約束は、心からのものなのか。」

けれども、その言葉は比喩ではなく、文字通りに正しかったのです。

聖霊が私たちの心の中で働かれなければ、 私たちは神様に仕えることができません。 聖霊が私たちを内側から造り変えてくださらなければ、 私たちは神様に従い続けることができないのです。

だから、私たちは日々、こう祈る必要があります。

「聖霊様、今日も、私の心を一新してください。 私の内側を清めて、あなたのかたちに似た者として造り変えてください。 私は、あなたに仕えたいのです。」

これこそが、神様に仕えるということの本当の意味です。

あなたは、誰に仕えているでしょうか。

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ヨシュア記

誤解と和解に導くコミュニケーション

多くの場合、誤解の原因は、悪いコミュニケーションにあります。 私たちが自分の考えを十分に伝えないために、お互いの意図を取り違え、相手を不当に裁いてしまうのです。

この箇所でも、まさにそのような状況が見られます。

ルベン族、ガド族、マナセ族の半部族は、ヨシュアの祝福を受けて、ヨルダン川の東側にある自分たちの所有地へと帰っていきました。 なぜなら、他のイスラエルの部族たちは、それぞれ自分の相続地を受け取ったからです。

ところが、帰る前に、その三つの部族は一つの祭壇を築きました。 これを見た他の部族は、非常に怒りを覚えました。 というのも、神様はイスラエルの民がカナンに入った時、命じられた所以外には祭壇を築いてはならないと命じておられたからです。

さらに、もしその三つの部族が神様に背くことがあれば、 アカンの時のように、全体にまでその悪影響が及ぶと考えられました。

そこで、他の部族たちは、彼らに面と向かって問いただし、場合によっては戦わなければならないと真剣に考えるに至ったのです。

けれども、その三つの部族は、自分たちが築いた祭壇の目的を他のイスラエルの部族に説明しました。 つまり、彼らはその祭壇でいけにえをささげるつもりはない、と語ったのです。 むしろ、その祭壇は、自分たちが他のイスラエルの部族と同じ神様を礼拝していることの証しだと言いました。

その説明を聞いて、ヨシュアと他の部族たちは納得し、それぞれの地へと帰っていきました。

この出来事から、私たちは二つのことを学べると思います。

第一に、誤解を避けるためには、良いコミュニケーションが必要だということです。

もし最初から、その三つの部族がイスラエルの族長たちと共に行動し、彼らの目の前で祭壇を築き、その目的を説明していたなら、このような誤解は起きなかったかもしれません。

ところが、何も告げずに祭壇を築いたため、他の部族たちはその意図を誤って受け取ってしまいました。

なぜ彼らがそうしなかったのかは、はっきりとは分かりません。

衝動的な決断だったのかもしれません。ヨルダン川に着いたとき、突然この考えが浮かんだのかもしれません。あるいは、他の部族も当然自分たちの意図を理解してくれていると思い込んでいたのかもしれません。

いずれにせよ、自分たちの意図をきちんと伝えなかったことによって、重大な誤解が生まれたのです。

私は妻に、いつもこう伝えています。 「あなたの心は読めないよ。もし僕があなたのことやあなたの必要を理解することを望むなら、それをちゃんと伝えてほしいんだ。」

そして、伝えてくれたなら、私はしっかりと聞いて、それを覚えなければなりません。(それは簡単ではありませんが、努力しています。)

そうすれば、私はもっと妻のことを理解でき、妻が何も言わなくても、そのニーズに気づけるようになります。

それでも私たちは、相手が自分の思いや意図を理解してくれるだろうと、勝手に思い込むべきではありません。 もし理解してほしいと願うなら、自分の思いをきちんと伝えなければならないのです。 あの三つの部族も、そのことを痛みの中で学びました。

第二に、私たちはすぐに相手と向き合って話すべきです。

彼らが祭壇を築いたとき、他の部族たちはその意図を誤解し、深く怒りました。 しかし良かったのは、彼らがその部族のもとに赴き、きちんと話し合いをしたということです。 そのため、誤解はすぐに解けました。

けれども、多くの場合、私たちはそうしません。 むしろ、自分の怒りにとどまり続けてしまうのです。 そのような態度では、問題は決して解決しません。 もし私たちが誰かに傷つけられたと感じたなら、その人ときちんと向き合って話すべきなのです。

そうすれば、正しい裁きを行い、その人と和解することができます。 しかし、問題を見て見ぬふりをしていると、その関係は少しずつ壊れていきます。 それは、決して神様が望んでおられることではありません。

あなたの人間関係は、今どうでしょうか。 あなたは、正しく物事を見極めて裁いているでしょうか。 それとも、不完全な情報に基づいて、誰かをさばいてしまってはいないでしょうか。

良いコミュニケーションをとれているでしょうか。 それとも、自分の怒りの中にとどまったままでしょうか。

神様は、あなたにどのような一歩を願っておられるのでしょうか。

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ヨシュア記

約束を守ってくださる神

私は、この箇所の最後の部分が特に大好きです。

こうして主は、イスラエルの先祖たちに与えると誓った地をすべて、イスラエルに与えられたので、彼らはそれを占領して、そこに住んだ。

主は、彼らの先祖たちに誓ったように、周囲の者から守って、彼らに安住を許された。すべての敵の中で、ひとりも彼らの前に立ちはだかる者はいなかった。主はすべての敵を彼らの手に渡された。

主がイスラエルの家に約束されたすべての良いことは、一つもたがわず、みな実現した。(ヨシュア記21:43-45)

およそ700年から800年前、神様はアブラハム、イサク、ヤコブに、カナンの地を与えると約束されました。

それからの時を経て、アブラハムの子孫は大いなる国民となり、神様は多くの奇跡をもって、イスラエルの民をエジプトから解放してくださいました。

そして、彼らを40年の間、荒野で守り導き、数々の敵との戦いでも勝利を与えてくださいました。

そしてついに、イスラエルの民は、神様が約束された地に住み始めることになったのです。

彼らがすべきことは、ただ一つ――それは、神様の約束を信じて行動することでした。 それが、神様の祝福に与るための条件だったのです。

私たちも、神様の約束が実現するのを見たいと願うなら、その約束を信じて、行動に移さなければなりません。

ヨシュアとカレブを除いて、エジプトから救い出された世代は、この信仰の行動をとりませんでした。 そのため、彼らは皆、荒野で命を終えることになりました。

そしてヨシュア記19章では、ダン族もまた、神様が備えておられた土地を占領しようとしませんでした。

では、あなたはどうでしょうか。

神様は、私たちに永遠のいのちの約束を与えてくださいました。 あなたは、その約束を信じ、そして行動しているでしょうか。

ヨハネの福音書3章16節には、このように書かれています。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

永遠のいのちを受け取ることは、決して難しいことではありません。 ただ神様の約束を信じ、その賜物を願い求めるなら、それを受け取ることができるのです。

イエス様は、こう語られました。

そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。(ヨハネ6:37)

それだけではありません。神様は、永遠のいのちだけでなく、他にも数えきれないほど多くのことを約束しておられます。 神様は、私たちの必要を満たすと約束されました。 私たちを祝福すると約束されました。

あなたは、それを信じていますか? その約束に信頼し、それに応じた行動をとっていますか?

それとも、かつてのイスラエルの民のように、信じずに立ち止まってはいませんか?

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ヨシュア記 士師記

容易な道を行くこと

神様の道はいつも容易な道ではありません。神様は容易な人生を約束されませんでした。しかし、問題に直面するとき、神様の民はより容易な道を探すことがあります。ダン族もその通りでした。

ヨシュア19章47節にはこう書かれています。

ダン族の地域は、さらに広げられた。ダン族は上って行き、レシェムと戦って、これを取り、剣の刃で打ち、これを占領して、そこに住み、彼らの先祖ダンの名にちなんで、レシェムをダンと呼んだ。

イスラエル人がカナン人と戦うとき、神様は助けることを約束されました。けれども、ダン族にとって、神様が征服するように命令した土地を占領するのは難しかったのです。

そのような難しい状況の中で神様に信頼したカレブとは対照的に、ダン族は諦めました。むしろ、彼らは、より征服しやすい場所に行き、その土地を占領しました。

士師記18章にはこの話がもっと詳しく書かれています。(ただし、士師記ではレシェムという場所がライシュと呼ばれています。)

ダン族の問題は何だったのでしょうか。彼らは神様に信頼せずに、自分自身に信頼し始めたのです。その結果、士師記18章の最後で、ダン族は神様から離れて偶像礼拝を始めました。

もし私たちが神様の道から離れて、容易な道を選ぶと、同じことが起こるでしょう。神様に信頼しないために、罪と妥協し始めてしまいます。もしすぐに悔い改めなければ、いつの間にか神様から遠く離れてしまうのです。

あなたはどうでしょうか。容易な道を歩んでいるでしょうか。経済的な問題について心配して、疑わしい方法で儲けようとしているでしょうか。

クリスチャンの伴侶が見つからないから、イエス様を信じていない人を考えているでしょうか。ノン・クリスチャンの家族や友人からのプレッシャーを感じているために、もう神様の道を諦めようとしているでしょうか。

そうしないでください。神様はあなたと共におられること、あなたのニーズを満たすことを約束されています。困難な状況にあっても、容易な道を選ばないでください。むしろ、ダビデの言葉を心に留めましょう。

主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。(詩篇37:4)

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ヨシュア記

神様の備えを受け取るために

「神様は本当に私を祝福したいと思っておられるのだろうか。私のために本当に良い計画を持っておられるのだろうか。神様は約束を本当に守ってくださるのだろうか。」

時々、私たちはそのような疑問と闘い、神様が与えようとしておられるものを受け取ることをためらってしまいます。

イスラエル人も、そのような疑いと闘っていました。多くの勝利を得ていたにもかかわらず、彼らは神様が約束された土地をまだ占領していませんでした。なぜそうだったのか、私にはわかりません。

すでに占領した土地に満足していたのかもしれません。あるいは、未知のことを恐れていたのかもしれません。あるいは、自分たちよりも強い民と戦うことを恐れていたのかもしれません。

本当の理由はわかりませんが、彼らはためらっていました。だから、ヨシュアは彼らを叱責しました。

あなたがたの父祖の神、主が、あなたがたに与えられた地を占領しに行くのを、あなたがたはいつまで延ばしているのか。(ヨシュア記18:3)

そして、ヨシュアは彼らに命令しました。

部族ごとに三人の者を選び出しなさい。彼らが立ってその地を行き巡るように、私は彼らを送り出そう。彼らはその地についてその相続地のことを書きしるし、私のところに来なければならない。

どれぐらい、私たちはイスラエル人のように、先を進むのを怖がって、神様が与えたいものを捕まえないでしょうか。だから、私たちは何もせずに、ただ座ってしまいます。でも、そうすれば、何も起こらない。

信仰によって歩かなくてはならない。神様が私たちのために良い計画が持っておられることを信じて、神様の導きを信頼しなくてはなりません。

私はずっと、日本で妻を捜していて、フラストレーションを感じていました。だから、結局、私は計画を作りました。どんな妻が欲しいか考えて、リストを書きました。その後で、リストを見て、「何が必要か」のポイントと「何が欲しいか」のポイントを区別しました。

その後で、私の周りの女性たちを見て、誰がそのリストに合ったか考え始めました。そして、デートするためにある女性に電話しようと思いました。

でも、その時、本当に不思議なことが起こりました。神様はそのプロセスに介入してくださいました。

本当に良い女性がいると思いましたが、ちょっと遠くに住んでいました。だから、その人を諦めて、違う人に電話しようと思いました。

でも、その人に電話する前に、神様はその最初の人を私の目の前に置いてくださいました。私たちはメールを書き始めて、そして、電話し始めました。

その後で、彼女は神戸に引っ越しました。一年後に、私たちは結婚しました。今年で、もう8年になりました。

(聡子、愛しているよ。( ゚∀゚)ノ)

とにかく、私は神様の良い計画を捕まえるために踏み出したから、そのプロセスは始まりました。もし、何もしなかったら、何も起こらなかったかもしれません。でも、私が動き始めたら、神様は働き始めてくださいました。

あなたは、自分の人生でフラストレーションを感じていますか。何も起こらなくて、フラストレーションを感じていますか。計画し始めてください。動き始めてください。そうすれば、神様の働きを見るでしょう。

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ヨシュア記

追い出せない罪

私たちは皆、罪と戦っています。私たちの人生から追い出すのが難しい罪もあります。特に男性にとっては情欲との戦いが困難なことが多いですが、女性がどのような罪と戦っているのか、私は確信を持って言うことができません。

しかし、その戦いが非常に困難だからといって、「もう仕方がない。その罪を征服できない。」と言って、ただ諦めてしまってはいけません。

残念ながら、カナンでイスラエル人はそのような態度を取りました。ヨシュアがマナセ族に自分たちの土地がどこであるかを教えたにもかかわらず、ヨシュア記17章12-13節には次のように書かれています。

しかしマナセ族は、これらの町々を占領することができなかった。カナン人はこの土地に住みとおした。

イスラエル人は、強くなってから、カナン人に苦役を課したが、彼らを追い払ってしまうことはなかった。

イスラエル人はカナン人と契約を結び、カナン人をイスラエル人の支配下に置きました。けれども、神様の命令に従うことなく、カナン人を追い出さずに留めてしまいました。

私たちも時には頑固な罪に直面することがあります。その罪を追い出したいと思いながらも、その罪が私たちの中に居座り続けます。その結果、私たちはその罪とある種の「契約」を結ぶような状態になります。

「あなたが私を完全に支配することは許さないけれど、私の人生の中に留まることは認めます。」

しかし、そうしているうちに、時には私たちはその罪に負けてしまうことがあります。

ヨシュア記14-18節で、マナセ族とエフライム族は「私たちの土地は狭すぎる」と不平を言いました。ヨシュアが彼らに別の場所を提案した際、彼らは次のように答えました。

谷間に住んでいるカナン人も、ベテ・シェアンとそれに属する村落にいる者も、イズレエルの谷にいる者もみな、鉄の戦車を持っています。(16)

私たちも罪と戦うときに、同じような言い訳をすることがあります。神様は私たちにこう言われます。「あなたはその罪を征服することができます。勝利することができますよ。」

けれども、私たちはこう答えることがあります。「無理です。その罪は強すぎます。」

それでは、ヨシュアは彼らに何と語ったのでしょうか。

あなたは数の多い民で、大きな力を持っている。。。カナン人は鉄の戦車を持っていて、強いのだから、あなたは彼らを追い払わなければならないのだ。(17-18)

ヨシュアは非常に重要なことを伝えました。それは、彼らが一緒に戦えば、その敵を征服する力があるということです。

私たちも同じです。罪と戦うとき、周囲のクリスチャンに助けを求めることが有益です。たとえば、祈ってほしいと頼んだり、「私がその罪を犯していないか時々確認してください」とお願いすることが役立ちます。

そうすることで、私たちは共に強くなり、罪を追い出す力を持つことができるようになります。

あなたの場合はどうでしょうか。その頑固な罪と戦っていますか。それとも、言い訳をして、その罪が居座ることを許してしまっていますか。

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ヨシュア記

神様は忠実です。私たちは?

カレブの物語を読むと、私は本当に心を動かされます。彼が40歳のとき、神様が約束された地を偵察するために遣わされました。しかし、彼とヨシュアだけが、神様がその地をイスラエルの民に与えてくださると信じていました。

そのため、同世代のイスラエル人たちは皆死に絶えましたが、カレブとヨシュアは神様の恵みによって生き続けました。そして、彼らはなお健やかでした。

カレブは85歳になっていましたが、こう言いました。

今や私は、きょうでもう八十五歳になります。

しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。(ヨシュア記14:10-11)

神様は、これまでずっとカレブに忠実でいてくださいました。そして、カレブもまた、神様に生涯忠実であり続けました。彼は健やかな体を保っており、信仰もいささかも衰えていませんでした。

だから、カレブはこう語ったのです。

どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。

あの日、あなたが聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々があったのです。主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょう。(ヨシュア記14:12)

カレブは、45年前にも神様を信じていました。そして、イスラエルの民がようやく約束の地に入ったその時も、やはり変わらず神様を信じていました。

アナク人を征服するのは不可能に思えたかもしれません。しかしカレブは、少しも疑いませんでした。なぜなら、神様がそう約束しておられたからです。カレブは、神様の約束を信じ続けたのです。

あなたはどうでしょうか。 神様が忠実なお方であることを信じていますか。 神様がその約束を必ず守ってくださると信じていますか。

そして、あなたは神様に忠実でしょうか。 神様があなたを助けてくださると信じて、今日も神様に従おうとしていますか。

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ヨシュア記

先を見て、走り続ける

多くの人々は、引退の日を心待ちにしています。長年働いた後、やっとリラックスでき、自分のやりたいことに時間を使えるからです。

しかし、神の国においては「引退」は存在しません。

クリスチャンとして、私たちは前を見つめて走り続けるように召されています。絶えず成長し続けるように召されています。そして、神様のためにこの世に影響を与えるように召されています。

ある一節の中で、神様はヨシュアにまさにそのことを語られました。

あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。(ヨシュア記13:1)

神様は、こう言われたのではありません。 「さあ、ヨシュア。もう年を取ったね。では、リラックスする権利を得たから、どうぞ、ゆっくり休みなさい。」

むしろ、神様はこう言われました。 「あなたは多くのことを成し遂げてきた。よくやった。けれど、あなたの使命はまだ終わっていない。しなければならないことが、まだたくさん残っている。」

神様は、私たちにもそのように語っておられます。

私はもう30年以上クリスチャンとして歩んでいますが、まだ完全な者にはなっていません。今でも、罪との戦いの中にあります。成長が必要なところが、まだまだ残っています。だから、クリスチャンとして寛いでいる場合ではないのです。

それに、私はこれまでずっと神様に仕えてきましたが、まだまだしなければならないことが数多く残っています。

たとえ引退しても、おそらく何らかの形で神様に仕えることになると思います。神のことばを語る機会があるかもしれません。スモールグループを導くことがあるかもしれません。あるいは、人々を祝福するために訪ねていくこともあるかもしれません。

日本では、今もなお大多数の人々がイエス様を知りません。だからこそ、まだやるべきことがたくさんあります。私たちは、40年後にこの国に大きなインパクトを与えることを願っています。

けれども、イエス様が私を天に呼ばれるその日まで、私は安らいでいる場合ではありません。あなたもそうです。

だから、私たちは前を見つめて走り続けましょう。さらにイエス様に似た者へと成長していきましょう。この世で、イエス様の手となり、足となり、口となりましょう。

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ヨシュア記

ひと言も取り除かなかった

私は、ヨシュア記11章15節が大好きです

がそのしもべモーセに命じられたとおりに、モーセはヨシュアに命じたが、ヨシュアはそのとおりに行い、がモーセに命じたすべてのことばを、一言も取り除かなかった。

いつか私が天に召されたとき、もし墓石が与えられるなら、そこにこう記してほしいと願っています。

「ブルースは、主が命じられたすべてのことばを、一言も取り除くことがなかった。」

時間を無駄にするのは、本当に簡単なことです。また、目の前の緊急なことに気を取られて、本当に大切なことを忘れてしまうのも、あまりにも簡単です。私は、その両方をよくしてしまいます。

さらに、言い訳をつくるのも簡単です。

「自分の自由な時間が必要なんです。」

あるいは、

「生活のためには、お金が必要でしょう?」

でも、神様に従うなら、神様は必要なものを与えてくださらないでしょうか。

神様は、お金をも、自由な時間をも与えることのできる方ではないでしょうか。

もちろん、神様は私たちが燃え尽きてしまうことを望んでおられません。むしろ、私たちがその愛と恵みに照らされて、輝く者となることを望んでおられます。

イエス様は、私たちにこう言われました

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33)

だからこそ、私は自分に、次の二つの問いを投げかけなければなりません。

1.神様を信じているだろうか。

2.神様に従っているだろうか。

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ヨシュア記

私たちを聞いてくださる神、私たちのために戦ってくださる神

この箇所では、本当に驚くべき、信じがたい奇跡について記されています。ヨシュア10:13によれば、太陽はとどまり、月も静止したとあります。その結果、イスラエルの民は十分な光を得て、敵を討ち破ることができました。

では、「日が動かなかった」とは、どういう意味なのでしょうか。もちろん、これは文字どおりには解釈できません。なぜなら、実際に太陽は動かないからです。

では、神様が地球とその他の惑星の動きを止められたのでしょうか。それとも、地球の自転を一時的に遅くされたのでしょうか。そうだとすれば、神様は自然法則そのものを変えられたことになります。

正直に言えば、私にはそれがどう行われたのか分かりません。

一部の学者たちは、神様が何らかの方法で光を屈折させ、地球が動いていたとしても、イスラエルが戦うのに十分な光を与えられたのではないかと考えています。

何が実際に起こったのかは分かりません。しかし、一番大切なポイントは、14節に記されているのです。

主が人の声を聞き入れたこのような日は、先にもあとにもなかった。主がイスラエルのために戦ったからである。(ヨシュア記10:14)

私たちは皆、人生において困難な時を経験します。厳しい上司、苦しい結婚生活、その他のつらい人間関係の中にあるかもしれません。

あるいは、自分自身の罪と格闘しているかもしれません。

落胆や、うつのような状態と戦っている人もいるでしょう。

そんなとき、私たちはこう問いかけたくなります。

「神様は、本当に私を愛しておられるのだろうか。神様は、本当に私の人生の中で働いておられるのだろうか。」

けれども、神様はヨシュアの祈りを聞いてイスラエルのために戦ってくださったように、私たちの祈りも聞いてくださり、私たちのためにも戦ってくださいます。

ですから、たとえどんなに苦しい状況にあっても、落胆しないでください。神様は、あなたの祈りを確かに聞いておられ、あなたのために戦ってくださるのです。

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ヨシュア記

でも、その時は正しいと思ったのに

ヨシュアは、基本的には優れたリーダーでした。

とはいえ、彼はふたつの重大な判断ミスをしました。なぜ、彼は失敗してしまったのでしょうか。その両方に共通していたのは、自分の知恵に頼ってしまったということです。

ひとつ目は、アイの件です。イスラエルがエリコに対して大勝利を収めた直後、ヨシュアと民たちは大きな自信を持っていました。そして、アイとの戦いの作戦について、まったく神様に相談しなかったのです。

むしろ彼らはこう言いました。「エリコを簡単に征服したのだから、アイは小さな町だし、軍全体を送る必要はない。」

こうして神様に尋ねることなく出陣し、敗北を喫しました。もし最初から神様に相談していたなら、アカンの罪について知らされていたことでしょう。

ふたつ目は、この箇所に記されている出来事です。

神様はイスラエルに、カナンの民をすべて滅ぼすよう命じておられました。なぜなら、その民は徹底的に悪に染まっていたからです。けれども、その中にいたギブオン人は、欺いて言いました。「私たちは、遠い国から来た旅人です。」

この偽りによって、イスラエルは彼らと盟約を結んでしまいました。

なぜ、そのような盟約を結んでしまったのでしょうか。ヨシュア記9:14節には、こう書かれています。

主の指示をあおがなかった。

神様に相談していれば、彼らは騙されることはなかったでしょう。

いずれの決断も、表面的には正しく思えたかもしれません。しかし、ふたつとも誤った選択でした。

私たちも、どれほど同じような過ちを繰り返しているでしょうか。自分の知恵に頼り、「これが最善だ」と思って決断しても、神様に相談しないことがあります。また、神様の御言葉を知っていても、それを意図的に無視してしまうことさえあるのです。

聖書には、こう記されています。

人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。(箴言14:12)

私たちは、ヨシュアの失敗から学びましょう。決断のときには、神様に祈り、その導きを求めましょう。

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戦いに走りましょう

「神様は、まだ私を用いてくださるだろうか。それとも、私はもうだめなのだろうか。」

クリスチャンは失敗したとき、特に罪を犯してしまったときに、よくそう考えてしまいます。イスラエルの民も、きっと同じように思ったかもしれません。

アカンの罪のゆえに、彼らはアイの町で敗北しました。罪は正しく処理されましたが、それでも心に不安が残っていたことでしょう。

「神様は、まだ私たちと共におられるのだろうか。あるいは、神の約束はもう無効になってしまったのだろうか。」

だから、神様はヨシュアにこう語られました。

恐れてはならない。おののいてはならない。戦う民全部を連れてアイに攻め上れ。見よ。わたしはアイの王と、その民、その町、その地を、あなたの手に与えた。(ヨシュア記8:1)

つまり、神様はこう言われたのです。

「ヨシュア、あなたたちは確かに失敗した。そして、その罪のゆえに苦しんだ。だが、すでにその罪は処理された。

だから、今こそ立ち上がりなさい。恐れることはない。私があなたたちに敵対することを恐れなくてよい。私はあなたたちを捨ててはいない。

だから、落胆してはならない。むしろ、私の命令に従って、アイの町との戦いへと向かいなさい。私は必ず、あなたたちに勝利を与える。」

私たちが失敗する時、特に罪を犯してしまったとき、神様は同じように語られます。私たちが悔い改めたあとでも、「本当に赦されたのだろうか」「神様は今も私と共におられるだろうか」と、不安になることがあります。

けれども神様は、私たちにこう言われます。

「あなたは失敗した。だが、その罪を告白したのだから、立ち上がりなさい。私は今もあなたと共にいる。がっかりしてはならない。さあ、私のことばに従い、戦いの現場に戻りなさい。」

私たちはいま、どのような戦いの中にいるのでしょうか。

聖書は、私たちが霊的な戦いの只中にあることをはっきりと示しています。私たちは、サタンとその悪しき力に立ち向かっています。

そして同時に、私たちは人々の魂のために戦っています。つまり、イエス・キリストをまだ知らない人々が、神と個人的な関係をもつことができるように――そのために私たちは働いているのです。

サタンもこのことを知っています。彼があなたの救いを奪うことができないなら、今度はあなたを非効果的な戦士にしようと働きかけてきます。

だからこそ、私たちが罪を犯したとき、サタンは私たちを落胆させようとします。彼はこうささやくのです。

「あなたはもうだめだ。あなたの罪が見えるだろう?神様がそんなあなたをどうやって用いることができるというのか。もう黙っていたほうがいい。誰も、あなたのことばなんて信じないのだから。」

けれども、神様はそのようなことは決して言われません。神様は、私たちが自己憐憫に陥ることを望んでおられません。むしろ、神様が私たちに伝えようとしておられるのは、こういうことです。

「私は今もあなたを愛している。私は今もあなたを用いることができる。」

だから、落胆しないでください。

あきらめないでください。

立ち上がりましょう。

そして、再び戦いに向かいましょう。

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ヨシュア記

隠すことができない

私は関西にずっと住んでいて、関西弁を少し話します。関西では多くの人が「あかん」という言葉をよく使います。

少し可笑しいですが、今日の箇所には「アカン」という名前の人が出てきます。そして、アカンは本当にあかんかったのです。

(ごめんなさい。私の前の牧師がその駄洒落を使っていて、私は忘れられません。)

とにかく、アカンはイスラエルの人々に大きな問題をもたらしました。

イスラエルがエリコを征服した後、神様は「すべてを破壊しなさい」と命じられました。

けれども、アカンは自分のために衣服や金、銀を取ってしまいました。その後、イスラエルが「アイ」という町と戦った時、神様が共におられなかったため、彼らは恐れて逃げ出しました。

ヨシュアと民は失望し、「どうしてこんなことが起こったのか」と問いかけました。

すると神様はこう答えられました。「立ちなさい。イスラエルは罪を犯した。それを取り除かない限り、何をしてもうまくいかない。」

そこで、イスラエル人は神様の前に立ち、 神様がアカンの罪を明らかにされました。

その罪を処理して初めて、イスラエル人は神様の計画を再び成し遂げることができたのです。

私たちも同じです。 時々、私たちは心の中に罪を隠し、 「誰にも知られていないから大丈夫だ」と思ってしまうことがあります。 しかし、どれほど巧みに隠しても、神様から隠すことはできません。

実は、この事件の前に、神様はこう言われていました。

あなたがたの罪の罰があることを思い知りなさい。(民数記32:23)

つまり、どれほど巧みに罪を隠しても、 必ず罰を受けることになります。

アカンがまさにその例です。

では、なぜ罪はそれほどまでに悪いのでしょうか。 二つの理由があります。

一つ目は、罪が他の人に影響を与えるということです。 自覚がなくても、必ず誰かに影響します。

おそらくアカンは、「自分の行動は悪いかもしれないが、他の人に迷惑はかけないだろう」と思ったのかもしれません。 けれども、実際にはその罪によって、イスラエルはアイの戦いで敗走しました。

二つ目は、罪が神様の計画の実現を妨げるということです。

私たちが罪を犯しても、神様は私たちを見捨てることはありません。 神様はそのように約束しておられます。 とはいえ、神様は罪を抱えたままの私たちを祝福することはされません。

ですから、神様の祝福を受けたいと願うなら、罪を隠すのではなく、 正直に向き合い、処理しなければならないのです。

しかし、ここに良い知らせがあります。 神様はいつでも、喜んで私たちを赦してくださいます。 第一ヨハネ1:9には、こう書かれています。

もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

だから、決して罪を隠してはいけません。 むしろ、神様の御前に進み出て、告白しましょう。 そうすれば、神様は私たちを赦してくださり、 祝福もしてくださいます。

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ヨシュア記

悪を再び建て直す?

この話を何度も読んできましたが、今回は特に印象に残ったのは最後の部分です。 エリコを滅ぼした後で、ヨシュアはこの呪いのことばを語りました。

この町エリコの再建を企てる者は、主の前にのろわれよ。

その礎を据える者は長子を失い。その門を建てる者は末の子を失う。(ヨシュア記6:26)

何年か後に、ある人がエリコを建て直そうとした時、 ヨシュアが語ったとおり、その人は呪われました(列王記第一16:34)。

なぜヨシュアはこの呪いを語ったのでしょうか。 おそらく、エリコが悪の象徴であったからです。

エリコの中では、売春や子どものいけにえ、偶像礼拝が行われていました。 神様がイスラエルの民にその地の住民を攻め取り、 その地を得るよう命じられた理由の一つは、 その悪を取り除くことにありました。

だからこそ、ヨシュアはこう言ったのです。 「この悪は決して戻ってはならない。 もし誰かがこれを建て直すならば、 神様はその人を呪われるだろう。」

では、私たちはどうでしょうか。 私たちの人生の中で、 一度壊されたはずの悪を再び建て直してはいないでしょうか。

聖書はこう教えています。 私たちがキリストを信じる者となるとき、 「古い人」――つまり、かつての考え方や生き方――は キリストとともに十字架につけられたのです。

ですから、私たちはもはや罪の奴隷ではありません(ローマ6:6)。

しかし、私たちがわざと罪を犯すことを選ぶなら、それは古い人をよみがえらせることになります。

その結果として、罪は私たちを滅ぼします。もちろん、それは私たちの魂を滅ぼすのではありません。 神様はすでに私たちを救ってくださったからです。

とはいえ、罪はこの世において、 私たちの人生を滅ぼしうるのです。 結婚を滅ぼし、人間関係を壊し、評判を台無しにし、私たちが大切にしているすべてのものを 打ち砕いてしまう可能性があるのです。

その意味で、罪深い生活を再び建て直そうとする者は、「呪われた」と言えるかもしれません。

だから、パウロはこう書きました。

このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。

ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。

また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。

というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。(ローマ6:11-14)

あなたはどうでしょうか。あなたの人生の中で、罪を建て直しているでしょうか。 それとも、罪をそのままにし、キリストのために生きているでしょうか。

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誰が誰の味方なのか

去年、アメリカではティム・ティーボウという人物が注目を集めました。 彼はアメリカン・フットボールのクォーターバックです。

通常、クォーターバックには優れたリーダーシップと正確なパス能力が求められますが、 ティーボウはリーダーシップには定評があるものの、パスはあまり得意ではありません。

それにもかかわらず、彼のチームは6連勝を記録し、 多くの人々を驚かせました。

彼が有名になったもう一つの理由は、 彼がクリスチャンであり、自分の信仰を公然と語ることにあります。 インタビューのたびに、彼は神様を賛美し、感謝を表します。 そのため、時には批判も受けるのです。

つまり、「彼は神様が自分に試合の勝利を与えてくださると本気で思っているのか」と、人々は問いかけるのです。

けれども、彼はそのようなことは口にしません。 実際、私自身は、神様がどのチームを勝たせるかには、あまり関心がないと感じています。 (とはいえ、時々、自分の好きなチームのために祈ることもありますけれどね。)😊

おそらく、ティーボウが伝えたいのはこういうことではないでしょうか。 「神様が私の味方であるというよりも、私は神様の味方でありたい。」

まさにこのことを、ヨシュアも学ばなければなりませんでした。

ある日、ヨシュアは見知らぬ人物を見かけました。 そこで、彼はこう尋ねました。

あなたは私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。(ヨシュア記5:13)

しかし、その人はこのように答えられました。

いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。(14)

多くの学者は、その見知らぬ人物がイエス様ご自身であると信じています。 そこで、その方はこう言われました。

あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。(15)

ヨシュアは、その方の語った言葉に従い、 神様の戒めを民に伝えました。

私たちはよくこう問いかけます。 「神様は私の味方でしょうか。」

確かに、それは良い問いかもしれません。 聖書には、「私はあなたの味方だ」という神様の言葉がたびたび記されています。 けれども、もしかすると、 こう問いかけるほうが、もっと大切かもしれません。

「私は神様の味方なのだろうか。」

つまり、私たちは神様の御言葉に従って歩んでいるでしょうか。

これこそが、主の軍の将がヨシュアに示した本質でした。 重要なのは、神様がヨシュアの味方かどうかではなく、 ヨシュアが神様の側に立っているかどうかです。

ヨシュアは、神様の前に柔らかな心を持ち、 神様に従う者として整えられました。 だからこそ、神様は彼を力強く用いることができたのです。

それは、私たちにも言えることです。

あなたは、どうでしょうか。 あなたは、誰の味方についているのでしょうか。

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過去を取り除く神

日本では、年末になると、多くの人々が「忘年会」を開きます。 つまり、「今年のことは忘れて、新しい年を迎えましょう!」というわけです。

けれども、私はこの概念がいまいちよく分かりません。 私は英語の生徒たちにこう尋ねました。 「今年は、そんなにつらい年だったんですか?」

「いや、そうでもありません。」

「じゃあ、何を忘れたいんですか?」

「うーん……さあ。」

いずれにせよ、それが今日の箇所との関係はいったい何でしょうか。それは、クリスチャンにとっては、私たちの過去はキリストにあって取り除かれているのです。

神様がイスラエルの民を約束の地へ導かれたとき、こう語られました

きょう、わたしはエジプトのそしりを、あなたがたから取り除いた。(ヨシュア記5:9)

つまり、「あなたの過去には、 多くの恥とそしりがありました。 あなたがたは長い間、エジプトで奴隷として過ごしてきました。 けれども、それはもう終わったのです。」

神様は、あなたの過去を取り除かれました。だからこそ、未来に希望を抱きなさい。私には、あなたのために素晴らしい計画があるのだから。

神様は、今日の私たちにも同じように語っておられます。

「あなたがたは、長い間、罪の奴隷であり、 サタンの支配のもとにありました。罪のゆえに、恥と誹りに満ちていました。

けれども、私はそれらをすべて取り除いた。私は、あなたのために良い計画を持っている。だから、未来を喜んで待ちなさい。」

イザヤ書43:25で、神様はこう語られました。

わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。

第一コリント2:9で、パウロはこう書いた。

目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。

あなたの過去の重荷は、あまりにも重すぎると感じているでしょうか。

罪による罪悪感と恥の重荷に、押しつぶされそうになってはいないでしょうか。

けれども、神様はそれらをすでに取り除いてくださいました。 神様は、あなたの罪をもう思い出されず、あなたのために、想像を超える将来を準備しておられます。

ですから、私たちは過去に背を向けて、神様が備えておられる将来に向かって歩みましょう。

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見えない未来に直面する時

私たちは未来に直面するとき、 何が起こるのか、よく分かりません。 だから、未来を楽しみに感じることもあれば、 時には不安や恐れを抱くこともあります。

イスラエルの民がヨルダン川を渡り、 神様が約束された地に入ろうとしていたときも、 同じような思いを抱いていたかもしれません。

長い旅路を経て、ようやくその地にたどり着いた―― その喜びは計り知れなかったことでしょう。

けれども同時に、未知の地に足を踏み入れる不安や、 これから直面するであろう戦いや課題への 心配もあったはずです。

だから、ヨシュアはイスラエルの民に語りました。

あなたがたは、あなたがたの神、主の契約の箱を見、レビ人の祭司たちが、それをかついでいるのを見たなら、あなたがたのいる所を発って、そのうしろを進まなければならない。。。

それは、あなたがたの行くべき道を知るためである。あなたがたは、今までこの道を通ったことがないからだ。(ヨシュア記3:3ー4)

そして、ヨシュアはこう言いました。

あなたがたの身をきよめなさい。あす、主が、あなたがたのうちで不思議を行われるから。(5)

神様は、今日の私たちにも同じことを語っておられます。 契約の箱は、神の臨在を象徴するものでした。 そして、神様がイスラエルの民に「私について来なさい」と命じられたように、 今も私たちに、「私に従いなさい」と招いておられるのです。

当時、イスラエルの民は 何をすべきか、どこへ行くべきか、よく分かっていませんでした。 しかし、神様はすべてをご存知でした。

同じように、私たちが未来に直面するとき、 何が最善の選択なのか、自分に何が求められているのか―― はっきりと見えないことがあります。 けれども、神様はすべてをご存知です。 だからこそ、私たちにこう言われるのです。 「私について来なさい。」

さらに神様は、イスラエルの民に「身を清めなさい」と命じられました。 これは単に体を整えることではなく、 神のために自らを聖別するということです。

彼らが心を整え、自らを神にささげたとき、 神様は驚くべきみわざを行うと約束されました。

神様は、私たちにも同じことを語っておられます。 私たちは、神のために自らを聖別するべきなのです。 自分自身のものではないことを、思い出しましょう。

イエス様は、ご自身の血によって私たちを贖われました。 ですから、私たちはイエス様に属しているのです。 そして、私たちが自分の人生を神様にささげるとき、 神様は驚くべきみわざを行われます。

さらに、神様はもう一つのことを命じられました。 イスラエルの民がヨルダン川を渡るとき、 神様は川の流れをせき止められました。

その後、神様はこう命じられました。

「ヨルダン川の中から十二の石を取り、 今夜宿泊する場所に置きなさい。 そして、あなたの子どもたちが 『この石は何ですか』と尋ねたとき、 私があなたたちのために何をしたかを語りなさい。」

このことは、私たちにも教えています。 神様が私たちを試練から救い出してくださったとき、 その証しを記録に残しておくのは良いことです。

日記に記すことや、ブログに書くことも役に立つかもしれません。 大切なのは、「記録を作ること」です。

そうすれば、 見えない未来に直面しても恐れることなく、 神様が再び救い出してくださるという確信を 持ち続けることができるのです。

あなたは、未来を前にしたとき、 恐れの目で見つめるでしょうか。 それとも、信仰の目で見つめるでしょうか。

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家族が救われるには

私はクリスチャンホームで育ったことを、心から感謝しています。 父が亡くなった時、彼が天に召されたという確信が、私たち家族に慰めと平安を与えてくれました。

けれども、多くの人々には、家族に対してそのような平安がありません。 だからこそ、彼らは家族の救いのために祈るのです。

それは、まさにラハブの願いでもありました。 ラハブは、イスラエルがエリコを攻撃することを知っていたので、 イスラエルの斥候たちにこう願いました――「どうか、私と私の家族を生かしてください。」

すると、その斥候たちは答えました。

その人たちは彼女に言った。「あなたが私たちに誓わせたこのあなたの誓いから、私たちは解かれる。

私たちが、この地に入って来たなら、あなたは、私たちをつり降ろした窓に、この赤いひもを結びつけておかなければならない。また、あなたの父と母、兄弟、また、あなたの父の家族を全部、あなたの家に集めておかなければならない。

あなたの家の戸口から外へ出る者があれば、その血はその者自身のこうべに帰する。私たちは誓いから解かれる。

しかし、あなたといっしょに家の中にいる者に手をかけるなら、その血は私たちのこうべに帰する。(ヨシュア記2:17-19)

斥候たちは、ラハブとその家族のために救いの方法を備えました。 赤い紐をラハブの家の窓に結びつけておく必要がありました。 イスラエルが攻撃してくる時には、ラハブとその家族は家の中にとどまっていなければなりませんでした。

神様もまた、私たちの救いのための方法を備えてくださいました。 私たちがクリスチャンとなる時、神様は聖霊によって証印を押してくださいます(エペソ1章13節)。

しかし、私たちが家族も救われてほしいと願うなら、彼らにもその証印が必要です。 他に方法はありません。

ラハブの家族が救われるためには、ラハブが備えられた方法について彼らに語る必要がありました。 私たちもまた、同じようにしなければなりません。 家族に何も語らずに、ただ祈るだけでは十分ではないのです。

私たちが自分自身の救いの中にとどまり、ただ家族の救いを願うだけではいけません。 私たちは口を開き、福音を語る必要があるのです。

ラハブがそうしたからこそ、その家族は救われたのです。

あなたはどうでしょうか。 あなたの家族にとって、イエス様を知っている唯一の存在は、もしかするとあなたかもしれません。 あなたは、彼らにイエス様のことを伝えますか。 彼らを神様の家へと導きますか。

それとも、沈黙したまま、彼らを神様から離れたまま死なせてしまいますか。

「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。

しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。

聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。

宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。(ローマ10:13ー14)

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成功の鍵

成功。 私たちは皆、成功を望んでいます。 「私の目的は失敗することです」と言う人はいないでしょう。

成功を得るのは簡単ではありません。 書店には、「成功の秘訣」を語る本が山のように並んでいます。

けれども、ここで神様は、 私たちに「真の成功」への道を教えてくださいます。

多くの人はこう考えます―― 「成功するには、とにかく自分の力で努力しなければならない。」

しかし、神様はまったく異なる視点を持っておられます。 神様は、ヨシュアにこう語られました。

あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。

わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。

強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。

ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行え。これを離れて右にも左にもそれてはならない。

それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。

この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行うためである。

そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。

わたしはあなたに命じたではないか。

強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。(ヨシュア記1:5-9)

神様によると、成功の鍵とは何でしょうか。

それは、自分自身に頼るのではなく、 神様に頼ることです。

神様の力に頼るべきです。 神様の知恵に頼るべきです。 自分の力と知恵に頼ってはならないのです。

そのようにして、神様はヨシュアに語られました。

強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。(9)

多くの場合、私たちは成功を得ようとして、 自分自身の力や知恵にばかり頼ってしまいます。 だからこそ、自分の手には負えないような仕事や問題に直面すると、 私たちはパニックに陥ってしまうのです。

しかし、神様はこう言われます。

「私はここにいる。あなたの味方だ。 だから、私を信頼しなさい。 恐れる必要はない。 問題に直面しても、落胆しなくてよい。 私はあなたと共にいる。 だから、私と共に歩み続けなさい。」

神様はヨシュアにも語られました。

「あなた自身の知恵に頼ってはならない。 むしろ、私の言葉と道を口ずさみ、 昼も夜もそれを思い巡らしなさい。 それだけでなく、 その言葉に忠実に従いなさい。 そうすれば、あなたは繁栄し、成功を得ることができる。」

私たちがどれほど自分の力と知恵に頼って失敗してしまうか。 ヨシュアは後に、アイという町でそのことを痛感しました。

一方で、ソロモンは成功の鍵をよく知っていました。 彼はこう書きました。

心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。

あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

自分を知恵のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。(箴言3:5-7)

あなたは、どのように成功を追い求めていますか。

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ヨブ記

癒し

神様と話した後、ヨブにとって癒しの時間が訪れました。けれども、神様が求められたのは、ただ肉体の癒しだけではありませんでした。また、精神的な傷の癒しだけでもありませんでした。

ヨブの人間関係にも癒しが必要でした。神様はヨブの友人たちにこう言われました。「あなたたちはヨブについて間違っていただけでなく、私について、そして私の目的についても間違っていました。」

ヨブがその言葉を耳にしたとき、つまり神様が彼の汚名をそそいでくださると知ったとき、本当に喜んだことでしょう。しかし、神様は彼らに命じられました。

今、あなたがたは雄牛七頭、雄羊七頭を取って、わたしのしもべヨブのところに行き、あなたがたのために全焼のいけにえをささげよ。

わたしのしもべヨブはあなたがたのために祈ろう。わたしは彼を受け入れるので、わたしはあなたがたの恥辱となることはしない。(ヨブ記42:8節)

ヨブはその言葉を聞いて、どのように感じたでしょうか。喜んで友人たちのために祈ったでしょうか。それとも、まだ傷ついていて、友人たちのために祈ることが難しかったのでしょうか。私の意見では、多分彼はまだ深く傷ついていたと思います。

この弁論がどれくらい続いたのかは分かりません。一日だけだったのでしょうか。それとも数週間にわたったのでしょうか。いずれにしても、彼らはずっとヨブを批判し、ヨブの整合性を疑い続けていました。

それでも、神様はこう命じられました。「ヨブ、あなたの友人たちのために祈りなさい。」

ヨブが友人たちを許し、彼らのために祈ったとき、ヨブの癒しが始まりました。人間関係も修復され、彼の人生のすべても回復しました。

この話から、私たちは本当に大事な原則を学べると思います。周りの人々に傷つけられると、私たちの心は苦さに陥りやすく、その苦さを持ち続けるのは簡単なことです。

しかし、神様は「許しなさい」と命じられます。それだけではなく、私たちは神様が彼らを赦してくださるよう祈るべきなのです。

「でもね、ブルース。あなたは彼らが何をしたのか知らないでしょう。本当に私を傷つけたのです。」

もちろん、私は何があったか知りません。けれども、神様はすべてをご存じです。たとえ彼らが悪かったとしても、神様は「許しなさい」と命じられます。どうしてでしょうか。

なぜなら、そうしなければ、あなたは決して癒しを経験できないからです。苦さは、ただあなたを傷つけた人との関係に影響を与えるだけでなく、あなたの人生全体に悪影響を与えます。

苦く、相手を許せない人々は、精神面だけでなく、身体面にも深刻な影響を受けるのです。研究によると、苦さは高血圧、胃潰瘍、心臓病などとも関係があると言われています。

私の大好きな引用はこうです。

許しは囚人を解放します。しかし、許すときに、すぐに気付くのは、その囚人が自分自身だったということです。

あなたは癒しを求めているでしょうか。許し方を学ぶ必要があります。

それは簡単なことでしょうか。いいえ、簡単だとは言えません。

もしかすると、あなたには牧師の助けが必要かもしれませんし、カウンセラーに相談することが必要かもしれません。けれども、何よりも必要なのは、神様の助けです。

そして、あなたが許すとき、そこから癒しが始まります。

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結局一番大切なこと

ようやく、神様がやって来られました。

エリフは最後のスピーチで嵐について話しました。それは、嵐が近づいていたからでしょうか。そして、その嵐の中から神様がヨブに語られたのでしょうか。

いずれにせよ、ある人はこう訊くかもしれません。「どうして、あなたはエリフが正しかったと思うのですか。」

その答えは、40章で神様がヨブにこう尋ねられたからです。

あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。自分を義とするために、わたしに罪を定めるのか。(ヨブ記40:8)

エリフもほぼ同じことを言っていました。(32:2)

さらに、神様はエリフのスピーチの最後の部分を繰り返されます。

つまり、「私に疑問を抱くあなたは誰ですか。」

こうして、神様は言われました。

知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。

さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。(38:2ー3)

また、

だれが心のうちに知恵を置いたか。だれが心の奥に悟りを与えたか。(38:36)

そして、

非難する者が全能者と争おうとするのか。神を責める者は、それを言いたててみよ。 (40:2)

つまり、「ヨブよ。あなたはたくさん喋るが、何を言っているのか自分でもよく分かっていない。それに、少し考えてみなさい。あなたの思考力はどこから来たのか。それは私からではないのか。それでも、あなたは私と弁論できると思うのか。」

この箇所で、神様はヨブにヨブ自身の弱さと限界を思い出させます。

神様がこの世界を造られた時、ヨブはそこにいませんでした。だから、ヨブは神様がどのようにこの世界を造られたのかも知らず、自然の法則についてもよく理解していませんでした。(38:4~11)

さらに、ヨブの経験には限界がありました。海の深さを経験したことがなく、この世界の果てまで行ったこともなく、宇宙へ行ったこともありませんでした。雲にすら到達したことはありませんでした。(38:16~24)

また、ヨブには自然をコントロールする力もなく、草を育てる力もなく、雨を降らせることも雷を鳴らすこともできず、星を出したり、すべての動物に餌を与えることすらできませんでした。(38:25~41)

ヨブは動物を作ったこともありませんでした。ダチョウに速く走る力を与えたのは神様であり、馬に力を与えたり、わしに飛ぶ力を与えたりするのも神様です。それに、この世界の動物をすべて飼いならすこともできませんでした。(39章)

さらに、ヨブはカバやレビヤタン(その意味は少し曖昧で、ワニを指すのかもしれません)と戦うことができなかったのです。それなのに、どうしてその創造主と戦えるというのでしょうか。(40~41章)

ヨブは自分の弱さと限界に直面したとき、へりくだり、神様にこう言いました。

あなたには、すべてができること、あなたはどんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。。。

まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。(ヨブ記42:2ー3)

私たちは何を学べるのでしょうか。以前も言いましたが、繰り返すことは価値があると思います。ヨブは、自分がなぜ苦しんだのかを最後まで知りませんでした。

もちろん、「神様は私を罰しているわけではない」とは理解しましたが、それ以上のことは知らされませんでした。

神様は「実は、サタンと私は少し話していて…」というような説明は全くされませんでした。

それでも、最終的にヨブにとって、その理由を知ることはもはや重要ではありませんでした。一体、何が大切だったのでしょうか。

私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。(42:5)

つまり、「どうしてこの事件が起こったのかは、もはや大切ではありません。大切なのは、あなたがここにおられ、私を愛してくださるということです。

あなたは私よりも偉大で、私よりも知識と知恵を持っておられます。そして、私に会う義務はなかったのに、私を愛し、私に会ってくださったのです。

だから、私はへりくだります。そして、私の疑問を置いておきます。」

私たちは、すべての疑問の答えを知ることができないかもしれません。神様は決して答えを与えてくださらないかもしれません。それでも試練と苦しみの中で、次の3つのことを思い出さなくてはなりません。

  1. 神様はすべてを制御しておられます。そして、私たちが理解できなくても、神様は何をしておられるかよく理解されています。
  2. 私たちが神様の臨在を感じられなくても、神様はここにおられます。
  3. 神様は私たちを愛しておられます。

この3つのことを決して疑わないでください。一言で言えば、これがヨブ記のメッセージです。

だから、たとえ試練があっても、苦しみがあっても、ヨブのようにこの真実を心に持ち続けましょう。

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神様の正義、私達の傲慢

多くの人々は神様の良い性質や存在を疑います。彼らはこう言います。「もし神様が存在し、善良なお方であるなら、なぜこの世界に悪があるのでしょうか。なぜ神様は悪をすべて取り除かないのでしょうか。悪がある以上、絶対に神様は存在しない。たとえ存在していたとしても、神様は善良なお方ではないのです。」

ヨブもまた、ヨブ記の20ー21章および23章で、この疑問について語りました。ヨブはこう尋ねました。「なぜ多くの悪人が罰されないのでしょうか。」

すると、エリフは答えました。

神は決して悪を行わない。全能者は公義を曲げない。(ヨブ記34:12)

そして、14ー15節で、エリフは本当に大切なポイントを述べます。それは、もし神様が完全な正義を強要されたなら、すべての人々が滅ぼされるということです。(34:14ー15)

なぜなら、私たちは皆、罪を犯しているからです。

さらにエリフはこう言いました。「神様はすべての悪人を今罰していないかもしれませんが、私たちが『悪人は決して罰せられていない』とは断言できません。

そして、神様はえこひいきをなさらない方です。結局、すべての罪人は自分の罪の代償を払わなければなりません。

しかし、もし神様が今、憐れみによって何もなさらないのであれば、どうして私たちは文句を言えるでしょうか。なぜなら、もし神様が憐れみを示してくださらなければ、私たちは皆、滅ぼされてしまうからです。」(34:18ー19)

その後、エリフはへりくだる人々とヨブを比較しました。へりくだる人々は自分の罪を認め、悔い改めますが、ヨブは神様の正義を疑問視していました。

エリフは問いかけました。「神様がその態度に報いられると思いますか?あなたはまるで悪人のように話しています。」

35章では、エリフがヨブの言葉の矛盾を指摘します。ヨブは「神様が私の言葉を聞いてくだされば、私の汚名はそそがれる」と言いましたが、同時に神様の正義を疑っていました。

けれども、もしヨブの言うように神様が不正義な方であるなら、そもそも神様がヨブの無罪かどうかを気にすることはないでしょう。

続いて、エリフは「もし神様が不正義な方であるならば、どうして私たちは善を行うべきなのでしょうか」という傲慢な疑問に答えました。

ヨブ自身はその言葉を使いませんでしたが、もしヨブが言うように神様が悪人を罰しないとしたら、多くの人々がそのように考えるでしょう。

エリフはこう答えました。「神様が『悪から離れ、正しいことを行いなさい』と言われるのは、神様ご自身の益のためではなく、私たちの益のためです。

もちろん、神様は私たちを裁かれます。そして、私たちの罪は神様との関係に影響を与えます。

とはいえ、私たちの行動が影響を与えるのは、神様よりもむしろ私たち自身や周囲の人々です。ですから、もし私たちが神様の命令を無視するなら、その結果、傷つくのは私たち自身なのです。」(35:6ー8)

さらにエリフは、別のポイントを指摘しました。多くの人々は苦しみの中で叫びますが、ほとんどの場合、神様に心を向けません。彼らが傲慢な態度を取り続けるため、神様はその叫びをお聞きになりません。

そのため、エリフはヨブに言いました。「あなたも同じような態度を取っています。神様の正義を疑う中で、神様があなたの叫びに答えるべきでしょうか。」(35:9ー15)

そして、36章でエリフは再び繰り返します。神様は悪人を罰し、たとえ正しい人々が苦しむことがあっても(ヨブの友達はそれを認めませんでした)、神様は彼らを高めてくださいます。(36:6ー7)

けれども、エリフはヨブに警告しました。もし神様が苦しみを通してヨブを懲らしめておられるのであれば、その理由を必ずお示しになります。そして、神様は沈黙されません。

(ここでエリフが暗に認めているのは、神様がまだヨブにその理由を明かされていないということかもしれません。)

ただし、もし神様が「悔い改めなさい」と言われたなら、ヨブはへりくだってそれを受け入れ、苦い心を捨てなければなりません。そうしなければ、ヨブは最終的に滅ぼされてしまうでしょう。(36:8ー13)

さらにエリフは別の警告を与えました。もし神様の正義を疑い続けるなら、その態度は罪へとつながるかもしれません。(36:17ー19)

最後にエリフはこう言いました。「あなたは神様を裁く立場にはありません。神様がその苦しみを許されることを批判する資格はないのです。」

これがエリフの言葉です。

見よ。神は力にすぐれておられる。神のような教師が、だれかいようか。

だれが、神にその道を指図したのか。だれが、「あなたは不正をした」と言ったのか。(ヨブ記36:22ー23)。

また、

見よ。神はいと高く、私たちには知ることができない。その年の数も測り知ることができない。 (36:26)

エリフは続けてこう言いました。

神は、御声で驚くほどに雷鳴をとどろかせ、私たちの知りえない大きなことをされる。 (37:5)

最後に、エリフはこう言いました。

神に何と言うべきかを私たちに教えよ。やみのために、私たちのことばを並べることができない。

私が語りたいと、神にどうして伝えられようか。人が尋ねるなら、必ず彼は滅ぼされる。

今、雨雲の中に輝いている光を見ることはできない。しかし、風が吹き去るとこれをきよめる。(37:19ー21)

つまり、「あなたは神様と弁論したいのですか?あなたの理解はあまりに小さく、曖昧であるため、良い弁論をすることはできません。神様の知恵と知識は、あなたの理解をはるかに凌ぎます。神様の聖さも、あなたの清さをはるかに凌ぎます。」

では、私たちは何を学ぶべきでしょうか。神様の正義を疑問視することは、私たちの傲慢さを表しています。神様と比べると、私たちはほとんど何も知らないのです。

さらに、私たちは罪深い存在であり、どうして私たちが神様の正義を疑問視することができるでしょうか。私たちは神様に答えを要求する立場にはないのです。

それでは、私たちが疑問を抱いたとき、どうすればよいのでしょうか。たとえ難しくても、私たちはその疑問を一旦置いておき、神様を信じるべきです。

神様の善良な性質を信じ、神様の正義を信じ、神様の知恵を信じるのです。そうするならば、神様は私たちの信仰に報いてくださるでしょう。

エリフが言ったように、

私たちが見つけることのできない全能者は、力とさばきにすぐれた方。義に富み、苦しめることをしない。

だから、人々は神を恐れなければならない。神は心のこざかしい者を決して顧みない。(ヨブ記37:23-24)

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苦しみ、謙遜、と恵み

ヨブ記を解説する上で、さまざまな問題があります。その一つが、エリフの言葉をどのように理解すべきかということです。

ある学者たちは次のように考えています。「エリフはただの馬鹿なおしゃべりにすぎませんでした。そのため、誰も彼を重要視しませんでした。」

一方で、別の学者たちは次のように述べています。「エリフは正しかった。彼はヨブを神様の言葉を受け入れるための準備をしていたのです。」

私はエリフが正しかったと思います。なぜなら、32章2~3節で次のように書かれているからです。

エリフが怒りを燃やした。彼がヨブに向かって怒りを燃やしたのは、ヨブが神よりもむしろ自分自身を義としたからである。

彼はまた、その三人の友に向かっても怒りを燃やした。彼らがヨブを罪ある者としながら、言い返すことができなかったからである。

エリフが怒っていた理由は二つありました。

一つ目は、ヨブが神様の正義を疑ったことです。

二つ目は、ヨブの友達がヨブの神様についての誤った考え方を正そうとしなかったことです。彼らはただ、「あなたは罪人です。神様はあなたを罰している」と言い続けました。

けれども、ヨブが具体的にどの罪を犯したのかについては、まったく説明できませんでした。

33章では、エリフがヨブの文句に答えます。その文句はこうでした。「私は何も悪いことをしていないのに、神様は私に敵対している。それに、神様は私の文句に対して沈黙している。」

エリフはこう答えました。「神様は必ず私たちに語りかけてくださいます。しかし、多くの場合、私たちはそれを聞いていないのです。」

さらに、エリフはこう言いました。「時には、神様は私たちの夢を通して語られます。」

おそらく、エリフはヨブの悪い夢について考えていたのでしょう。その夢の目的とは何だったのでしょうか。

人にその悪いわざを取り除かせ、人間から高ぶりを離れさせる。

神は人のたましいが、よみの穴に、入らないようにし、そのいのちが槍で滅びないようにされる。(ヨブ記33:17-18)

ある学者たちは、エリフが暗に「あなたは罪を犯したから、神様があなたを罰している」と言っていると考えています。

けれども、もしそうだったなら、神様がヨブの友達を批判したときに、なぜエリフも批判されなかったのでしょうか。おそらく、エリフは「ヨブが大きな罪を犯したから神様が彼を罰している」とは言わなかったからです。

むしろ、彼はこう言いました。「ヨブ、私たちは皆、罪を犯しますよね?あなたは大きな罪を犯していないかもしれませんが、時々罪を犯すことはあるでしょう?だから、神様は時折、私たちの罪とプライドを取り除くために、このような試練を許されるのです。

そして、神様が私たちの敵だから、私たちを苦しめるわけではありません。むしろ、神様は私たちを愛しておられ、私たちの救いのために常に働いておられるのです。」

そして、エリフはこう言いました。

見よ。神はこれらすべてのことを、二度も三度も人に行われ、

人のたましいをよみの穴から引き戻し、いのちの光で照らされる。(33:29-30)

さらに、苦しみの中で、私たちは神様の恵みを見出すことができます。

23ー25節で、エリフは代言者について語ります。その代言者は、私たちに正しい道を教え、私たちのためにとりなしを行います。そして、その代言者はこう言います。

彼を救って、よみの穴に下って行かないようにせよ。わたしは身代金を得た。(24)

そのとりなしによって、苦しんでいる人は祈ることができるようになり、神様の恵みを見出すことができるようになります。そして、その時、彼らは喜びの叫びを上げます。

私は罪を犯し、正しい事を曲げた。しかし、神は私のようではなかった。

神は私のたましいを贖ってよみの穴に下らせず、私のいのちは光を見る。(27-28)

これは、新約聖書における救いの象徴ではないでしょうか。

ですから、この箇所から私が学んだのは、私たちの苦しみの背後には、神様の目的があるということです。私たちの試練を通して、私たちがへりくだるようになり、自分たちが罪人であり、神様の恵みが必要であることを思い出すのです。

もし、私たちがヨブのように神様の意図を疑うなら、一つのことを思い出しましょう。それは、神様が私たちを死と地獄から救うために、身代金を備えられたということです。その身代金は、神様の御子の命そのものでした。

ですから、私たちが苦しむとき、「神様が私たちを憎んでいるから、この試練を許された」と思わないでください。むしろ、神様は私たちを愛しておられるので、この試練を通して私たちを清め、救ってくださるのです。

ヨブが語ったように

しかし、神は、私の行く道を知っておられる。神は私を調べられる。私は金のように、出て来る。(ヨブ記23:10)

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ヨブの最後の弁解

ヨブはこの箇所で、一番長いスピーチをします。それはヨブの最後の弁解です。

27章では、ヨブはもう一度こう言います。「私はこの苦しみに値していない。」そして、彼はその友達についても語ります。

私の敵は不正をする者のようになれ。私に立ち向かう者はよこしまな者のようになれ。

神を敬わない者の望みはどうなるであろうか。神が彼を断ち切り、そのいのちを取り去るときは。

苦しみが彼にふりかかるとき、神は彼の叫びを聞かれるであろうか。(ヨブ記27:7-9)

そして、彼は言いました。「あなたたちは『悪人だけが呪われる』と言ったでしょう?それなら、あなたたちは冤罪の罪を犯したので、呪われることになりますよ。」

その後で、ヨブはその友達の「悪人の呪い」についての教えを繰り返し、「その言葉はあなたたち自身に当てはまるのですよ」と言いました。

そして、自分の弁解を続けました。

28章では知恵について語りました。つまり、人々は金や銀を鉱山から採取しますが、神様の御告げがない限り、誰も知恵という宝を見つけることはできません。また、神様が教えなければ、人々は知恵の価値を理解することができません。

しかし、ヨブはこう言いました。「神様は知恵を現してくださいました。」

それは、

主を恐れること、これが知恵である。悪から離れることは悟りである。(ヨブ記28:28)

ヨブは文句を言っても、彼は本当の知恵とは何かを否定しませんでした。つまり、彼は主を恐れ続けたのです。

それでも、29章から31章にかけて、もう一度彼の苦しみについて文句を言い始めました。

29章では、彼は自分の以前の人生について語りました。かつて彼は尊敬され、正しい行いをしていました。

具体的には、貧しい人を助け、身寄りのない人や未亡人にあわれみを示し、さらに弱い人々を助けていたのです。そのため、神様がヨブを祝福するはずだと考えていました。

けれども、30章でヨブはこう文句を言いました。「神様はすべてを奪われた。今や皆が私をからかっている。それに、神様は私の祈りを全く聞いてくださらない。」

そして、30章から31章にかけて、ヨブはこう問いかけます。「私は貧しい者を助けたでしょう?苦しんでいる人のために悩んだでしょう?私は清い目を保ったでしょう?

もし私が姦淫を犯したり、貧しい人を助けなかったり、金銭を私の神としたり、偶像礼拝をしたり、敵の苦しみを見て喜んだり、私の罪を隠したりしたなら、どうぞ私を罰してください。

けれども、私はそのようなことを一切行っていません。

これが私の弁解です。それに署名しました。では、神様、もし私を責めたいのであれば、どうかお答えください。」

この箇所から何を学べるでしょうか。私は二つのことがあると思います。

一つ目は、ヨブの友達の「悪人だけが苦しむ」という考え方が間違っていたことです。

二つ目は、ヨブの「私が苦しみに値しないから、苦しむべきではない」という考え方も間違っていたことです。

私たちが住んでいる世界は壊れています。地震があり、台風があり、自然災害があります。また、この世界には病気や死があります。さらに、罪によって堕落した人々が多く存在し、その行動が私たちに影響を与えます。

そして、サタンもいます。また、サタンには多くの手下がいます。彼らは私たちを憎み、私たちを攻撃します。

これらすべてが私たちに影響を与えるため、神様は決して「あなたは苦しむことがない」とは約束していません。

むしろ、神様はその逆のことを約束されています。イエス様はこう言われました。

あなたがたは、世にあっては患難があります。(ヨハネ16:33)

イエス様は「あなたがたは、世にあっては患難があるかもしれない」とは言われませんでした。

むしろ、イエス様は「あなたがたは、世にあっては患難があります」とはっきりと言われました。

たとえ、あなたがこの世で最も賢く、正しい人であっても、苦しみはやってきます。

イエス様はすべての人々よりも賢く、正しかったにもかかわらず、苦しみを受けられました。私たちはイエス様にまさる者でしょうか。

時々、クリスチャンたちは「私たちが苦しまないように、イエス様は私たちのために苦しまれた」と言います。

しかし、それは間違っています。イエス様は、私たちをあがなうために苦しまれました。また、いつか、すべてが新しくなるために苦しまれました。その日はまだ来ていませんが、必ず訪れます。

ですから、苦しむときは、その日を待ち望みましょう。

パウロはこう書いています

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。

それは、被造物が虚無に服したのが自分の意思ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。

被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。

もしまだ見ていないものを望んでいるなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。(ローマ8:18-25)