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ヨハネの黙示録

打ち倒された敵、怒りに燃える敵

なぜ私たちは苦しまなくてはならないのでしょうか。なぜ迫害されなくてはならないのでしょうか。なぜ神様はそのような苦難を許されるのでしょうか。

もしあなたが私と一緒に黙示録を読んでいて、特にこのブログを読む前に反キリストと向き合うことはないと思っていたなら、なぜ私がそれを信じているのか不思議に思うかもしれません。

正直に言えば、反キリストが来る前に神様がクリスチャンを天に引き上げてくださったらいいのにと思います。でも、黙示録、特に今日の箇所を読むと、私たちが反キリストを避けられると信じることはできません。

今日の箇所では、私たちはマリアがイエス様を生んでからのキリスト教の歴史を大観します。ヨハネはこう語りました。

また、大きなしるしが天に現れた。一人の女が太陽をまとい、月を足の下にし、頭に十二の星の冠をかぶっていた。女は身ごもっていて、子を産む痛みと苦しみのために、叫び声をあげていた。(黙示録12:1-2)

私はさっきマリアの名前に触れたので、あなたは上記の女がマリアだと思うかもしれません。でも、たぶんマリアはその女ではありません。

ヨハネが太陽や月や十二の星について語るとき、彼は旧約聖書に出てくるヨセフの夢に言及している可能性があります。その夢では、太陽と月と星はヨセフの父ヤコブ(別名イスラエル)、母、そして十一人の兄弟を象徴していました。そして、その夢で彼らはヨセフを拝みました(創世記37:9ー10)。

そういうわけで、その妊婦はイスラエルという国を象徴していると思います。そこから、私たちのメシアであり王であるイエス様がお生まれになりました。

しかし、イエス様が人間としてこの世におられる間、サタンを象徴する竜はイエス様を滅ぼそうとしました。例えば、サタンの影響を受けたヘロデ王がベツレヘムの赤ちゃんたちを殺したという出来事があります(マタイ2:16ー18)。

そして、十字架でイエス様は殺されました。けれども、その後、イエス様は復活し、天に戻られました。

それを見た後、ヨハネは天にある戦いを目にします。その戦いで、サタンとその使いたちは天から追放されました。そこでサタンは地に降り、女(つまりイスラエル)を追い詰め、滅ぼそうとしました。

私ははっきりとは分かりませんが、これは西暦70年のエルサレム崩壊を指している可能性があります。そのときサタンはイスラエルを滅ぼそうとしましたが、すべてのユダヤ人が殺されたわけではありません。

特に、ユダヤ人のクリスチャンたちはイエス様の警告(マタイ24:15-21)を覚えていて、ローマ軍の攻撃前にエルサレムから避難しました。

サタンはイスラエルを完全に滅ぼし、ユダヤ人たちを皆殺しにすることができなかったため、女の子孫の残りの者たちを殺そうとしました。その「女の子孫の残りの者」とは誰を指すのでしょうか。

それは、アブラハムの肉体的な子孫ではありません。むしろ、彼らは「神の戒めを守り、イエスの証しを堅く保っている者たち」です。(17)

言い換えると、その子孫とは教会のことです。ユダヤ人でも異邦人でも、イエス様を信じる私たちクリスチャンは、真のイスラエルの子孫とされました(ガラテヤ3:29)。

では、なぜサタンは私たちに激しい怒りを燃やしているのでしょうか。なぜそれほど私たちを滅ぼそうとしているのでしょうか。

ヨハネはその理由を説明します。

悪魔が自分の時が短いことを知って激しく憤り(ます)。(12)

悪霊たちは天から追放され、天にいる者たちは歓喜します。けれども、ヨハネは地上の人々に警告を与えます。

しかし、地と海はわざわいだ。悪魔が自分の時が短いことを知って激しく憤り、おまえたちのところへ下ったからだ。(12)

では、この箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

第一に、私たちはすでに打ち倒された敵に直面しているということです。サタンはそれを知っていて、自分の時が短く、やがて裁かれることも理解しています。

第二に、その時が来るまでは、サタンは怒りを持って私たちを襲ってくるということです。だから、これまで見てきたように、そして後の箇所でも見るように、あるクリスチャンたちはイエス様のために殺されます。

それでも、私たちは最終的な勝利を手にします。サタンは私たちのからだを殺すことがあっても、私たちの魂を滅ぼすことはできません。だからこそ、サタンが天から追放されたとき、大きな声がこう天で叫びました。

今や、私たちの神の救いと力と王国と、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、昼も夜も私たちの神の御前で訴える者が、投げ落とされたからである。(10)

つまり、イエス様の十字架の御業によって、サタンはもはや私たちを責める権利を失ったのです。だからサタンが私たちを責めようとしても、神様は彼を黙らせてくださいます。

さらにヨハネによれば、私たちは一時サタンに敗れることがあっても、結局、

兄弟たちは、子羊の血と、自分たちの証しのことばのゆえに竜に打ち勝った。彼らは死に至るまでも自分のいのちを惜しまなかった。(11)

サタンは私たちを襲い、命を奪うかもしれません。それでも、私たちは最終的な勝利を手にします。

なぜなら、イエス様は十字架で私たちのためにすでに勝利を収められたからです。そして、私たちのいのちと死を通して、私たちは神様が私たちの心を新しくしてくださったことを証し、サタンが私たちを責める権利をもはや持っていないことを証明するのです。

それゆえ、天とそこに住む者たちよ、喜べ。(12a)

私たちはすでに勝利を手にしているのです。

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ヨハネの黙示録

悪化の末に、救い

私は以前も言いましたが、私たちは聖書の深海に入っていて、これからその海はさらに深くなっていくでしょう。😊

クリスチャンたちはこの章の解釈をめぐってよく議論します。

だから、私は以前にも言ったように、とりあえず私の意見を述べますが、後にその意見が変わるかもしれません。

今日の箇所では、ヨハネは測り竿を与えられ、神殿と祭壇を測り、礼拝している人々を数えるよう命じられます。

しかし、御使いはヨハネにこう言います。

神殿の外の庭はそのままにしておきなさい。それを測ってはいけない。それは異邦人に与えられているからだ。彼らは聖なる都を四十二か月の間、踏みにじることになる。(黙示録11:2)

それはどういうことでしょうか。

たぶん、御使いはルカ21:24にあるイエス様の言葉に触れているのかもしれません。その箇所で、イエス様はエルサレムが倒れることを預言されました。

西暦70年に、その預言は成就しました。

多くのクリスチャンたちが考えるのは、その預言が西暦70年の出来事だけではなく、将来の出来事にも触れているということです。そうであれば、将来エルサレムに新しい神殿が建てられるはずです。

でも、もう一つの可能性があります。それは、西暦70年の出来事が将来の出来事の象徴であるということです。

つまり、神殿や聖なる都(つまり、エルサレム)は神様の民を象徴しています。(第一コリント3:16-17;黙示録21:2)

そして、多くのクリスチャンたちは神様に守られますが、他のクリスチャンたちは迫害されます。

私たちはすでに読みましたが、それは黙示録に繰り返し現れるテーマです。

そして、12-13章でそのテーマは再び現れます。(また、ダニエル書7:21および12:7でもそのテーマを見ることができます。)

黙示録では、1260日間や、一時と二時と半時の間という言葉が繰り返し登場します。それらは同じ意味を持っています。つまり、神様の民は三年半ほど苦しむということです。

それは、文字通りの三年半かもしれません。でも、比喩的な数字かもしれません。聖書では、「7」が「完全さ」を表します。

だから、私たちの苦しみは完全なものではなく、短くされるのです。イエス様によれば、神様に選ばれた者たちのために、大きな苦難の日数は少なくされます。(マタイ24:22)

いずれにせよ、ヨハネによれば、将来二人の証人たちが現れ、この世の人々に神様の裁きと救いを宣言します。

クリスチャンたちはその意味についてもよく議論します。

ある人々は、その二人が文字通りの二人の証人だと考えます。ですが、他のクリスチャンたちは、その証人たちが教会全体を象徴すると考えています。

私の意見ですが、その二人は教会全体を象徴していると思います。なぜなら、その二人は、二本のオリーブの木、また二つの燭台に例えられているからです。(黙示録11:4)

そして、2-3章で、教会は燭台に例えられました。

さらに、預言者ゼカリヤによれば、二本のオリーブの木は支配者と祭司を象徴しています。(ゼカリヤ3-4章)

そして、黙示録では、教会はその二つの役割を果たしています。(1:6;5:10)

いずれにせよ、三年半の激しい迫害の間、その証人たちは預言します。しばらくの間、神様は彼らを守り、彼らを通して人々を裁きます。

けれども、その三年半が過ぎると、獣、つまり反キリストが彼らを殺します。そのとき、この世の人々は喜びます。

なぜなら、その証人たちは彼らの説教によってこの世の人々を苦しめ、彼らの祈りによって人々は裁かれていたからです。(黙示録11:5-10)

ヨハネがキリスト教の長い歴史におけるすべての殉教者について語っているのか、それとも将来の殉教者たちについてだけ語っているのかは分かりません。

6節を読むと、私たちはモーセとエリヤを連想するので、もしかすると象徴的な描写であり、二人の証人がすべての殉教者を象徴しているのかもしれません。

とはいえ、それが文字通りの記述だとすれば、おそらく将来の出来事を指しているのでしょう。

ただ、5節によると彼らの口から火が出るため、やはり象徴的な表現なのかもしれません。

いずれにせよ、三日半が過ぎると、神様は彼らの敵の目の前で証人たちを復活させ、天に引き上げられます。

もしその証人たちが教会全体を象徴しているのであれば、ヨハネはキリストの再臨に触れているのかもしれません。その日、神様は死んだクリスチャンのからだを復活させ、私たちは空中で主に会うのです。(第一テサロニケ4:17)

それが私の見解です。なぜなら、その後に七つのラッパが吹かれ、多くの人々が叫びをあげるからです。それは、

この世の王国は、私たちの主と、そのキリストのものとなった。主は世々限りなく支配される。(黙示録11:15)

そして、長老たちは歌い始めます。

私たちはあなたに感謝します。今おられ、昔おられた全能者、神である主よ。あなたは偉大な力を働かせて、王となられました。諸国の民は怒りました。

しかし、あなたの御怒りが来ました。死者がさばかれる時、あなたのしもべである預言者たちと聖徒たち、御名を恐れる者たち、小さい者にも大きい者にも報いが与えられる時、地を滅ぼす者たちが滅ぼされる時です。(17-18)

その後、天にある神の神殿が開かれ、ヨハネは神の契約の箱を神殿の中に見ました。

そして、裁きが始まり、稲妻がひらめき、雷鳴がとどろき、地震が起こり、大粒の雹が降りました。

では、今日の箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

それは、神様の民にとって、物事は段々と悪化するということです。

福音書で、イエス様は私たちにこのことを警告されました。さらに、イエス様は黙示録に登場する7つの教会にも警告されました。そして、今日の箇所でもイエス様は同じ警告を私たちに与えておられます。

迫害は必ず訪れます。けれども、その迫害は永遠に続くものではありません。迫害は短くされます。

そして、イエス様がもう一度この世に来られるとき、私たちは救われます。

やがて、神の正義が訪れます。 もし私たちが迫害に耐えるなら、救われ、大きな報いを受けます。 そして、その日に、私たちのすべての涙はぬぐい取られます。

なぜ私はこのテーマを何度も繰り返すのでしょうか。 それは、このテーマが黙示録全体を貫いているからです。 私たちはすでに以前の箇所で読みましたし、今日の箇所にも登場しました。 そして、この書の後半にも現れます。

では、なぜ神様はこのテーマを何度も繰り返されるのでしょうか。 きっと、私たちの苦しみが激しくなっていくからです。 そして、その苦しみに耐えることは、とても難しいからです。

しかし、神様が私たちに伝えたいのは、「その苦しみは一時的なものだ」ということです。

ですから、黙示録の後半でも、このテーマを探してみましょう。

黙示録の目的は、私たちに未来の出来事を知らせることだけではありません。 神様が望まれるのは、私たちが心構えすることだけではありません。 むしろ、神様は私たちに希望を与えたいと願っておられます。

どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。(ローマ15:13)

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ヨハネの黙示録

甘い言葉、苦い言葉

前回の記事では、天にいる者たちが神様の裁きにどう反応したかについて取り上げました。それは喜びではなく、厳かな沈黙でした。

普段、天にいる者たちは喜びと賛美に満ちていますが、第七の封印が解かれると、彼らは静かになりました。

では、私たちは神様の裁きをどう受け止めるべきでしょうか。

十章の冒頭では、ひとりの強い御使いが天から下り、小さな巻物を持っていました(黙示録10:1〜2)。

その巻物には何が書かれていたのでしょうか。おそらく、十一章から二十二章に記されている内容、すなわち教会の迫害、キリストの再臨、神様の最終的な裁きが含まれていたと考えられます。

その御使いは右足を海に、左足を地に置いて立っていました。興味深いのは、十三章に登場する二匹の獣(反キリストと偽預言者)が、海と地から現れ、サタンとともに悪の「三位一体」を形成する点です。

しかし、その御使いは海と地の上に立ち、神様の栄光に輝いていました。おそらく、この描写は、サタンが何をしようとも、神様こそがすべてを支配しておられることを示しています。そして、それは裁きが近づいていることも示しています。

そこでヨハネによれば、七つの雷がそれぞれ声を発しました。おそらく、それは裁きのことばでしょう。けれども、そのとき、ヨハネはその裁きのことばを私たちに伝えることを禁じられました(3〜4節)。

その後、御使いはこう宣言します。「もはや時は残されていない」(6節)。

言い換えると、第七の御使いが最後のラッパを吹くとき、神様の最終的な裁きが下り、神様の計画すべてが実現されます。そして、イエス様はヨハネに語られます。

行って、海の上と地の上に立っている御使いの手にある、開かれた巻物を受け取りなさい。(黙示録10:8)

ヨハネがそうしてから、御使いは彼に言います。

私にその小さな巻物を下さい。。。それを取って食べてしまいなさい。それはあなたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。(黙示録10:9)

ヨハネがその巻物を食べると、御使いが言った通りに、その巻物はヨハネの口には甘かったが、腹には苦いものでした。そして、御使いはヨハネに言いました。

あなたはもう一度、多くの民族、国民、言語、王たちについて預言しなければならない。(11)

これはどんな話でしょうか。

エゼキエル書2〜3章では、私たちは似た話を読みます。エゼキエルが巻物を与えられ、それを食べると、その巻物はエゼキエルの口に蜜のように甘いものでした。そして、神様はエゼキエルに、その巻物の言葉をイスラエル人たちに伝えるように命じられました。

けれども、その書かれていた言葉は、嘆きと、うめきと、悲痛の言葉でした。さらに、神様はエゼキエルに警告されました。「イスラエル人たちはあなたの言うことを聞こうとはしません。」

それで、エゼキエルは自分の霊の憤りを覚えつつ、苦々しい思いで出て行きました。(エゼキエル3:14)

どうしてエゼキエルは怒り、苦々しい思いを持っていたのでしょうか。もしかしたら、彼はイスラエル人の反応に怒っていたのかもしれません。あるいは、自分が愛しているイスラエル人がすぐに裁かれると知っていたため、苦々しい思いを持っていたのかもしれません。

たぶん、ヨハネはエゼキエルのように感じたのかもしれません。

ヨハネが神様の言葉を摂取すると、いつも通りその言葉は彼に甘いものでした。

生きておられる神様が私たちに語られ、神様のご計画を伝えられます。つまり、救いのご計画を伝えられ、その計画に私たちが参加するのは特権です。

けれども、私たちの愛している人々がその甘い言葉を拒絶し、私たちが彼らが必ず裁きを受けると知っているなら、それはさぞ苦いことでしょう。

クリスチャンとして、私たちは裁きをそのように見なすべきです。裁きは甘いものではなく、苦々しいものです。

特に、私たちの愛している人々が裁きを受けることは、苦々しいことです。

それでも、心に留めておきましょう。神様にとっても、裁きは苦々しいことなのです。なぜなら、神様はすべての人々を愛しておられるからです。

時々、私たちはルカの福音書第19章のような聖句を読んで(ミナのたとえ話)、神様がご自分の敵が滅びることを喜ばれると考えてしまいます。(ルカ19:27)

しかし、私たちが忘れがちなのは、そのたとえ話を語られた後、イエス様がエルサレムの外に立ち、迫っている破壊について嘆かれたということです。

イエス様はこう言われました。

もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたらーー。(ルカ19:42)

だから、神様が人を裁かれるとき、私たちは彼らの破壊を喜んではいけません。

むしろ、私たちは悲しむべきです。

そして、彼らが神様の裁きを受けないように、ヨハネとエゼキエルのように、彼らのために祈り、愛をもって、彼らに手を伸ばしましょう。

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ヨハネの黙示録

神の裁きの重大さ

神様や天にいる者たちは、不義を見るとどう感じるのでしょうか。そして裁きが実行されるとき、彼らはどう感じるのでしょうか。

今日の箇所では、私たちはその答えを知ります。

天国では、普段、御使いたちや長老たちや聖徒たちの賛美が響いています。けれども、子羊(つまり、イエス様)が第7の封印を解くと、天国は完全に静かになりました。どうしてでしょうか。彼らは、裁きが迫っていることを知っていたからです。

もちろん、その前の封印が解かれたときも、裁きはこの世界の人々に降りかかりました。とはいえ、第7の封印が解かれてからは、裁きがだんだん激しくなっていきます。

そして、最初に、ある御使いが金の香炉を祭壇まで持ってきました。そして、御使いは、すべての聖徒たちの祈りに添えて、その香を捧げました。

聖徒たちは何のために祈っていたのでしょうか。たぶん、それは6章に記された祈りです。つまり、殉教者たちの正義のための祈りだったのでしょう。

そのとき、神様は彼らに、「もうしばらくの間、休んでいなさい」と言われました。

けれども、第7の封印が解かれると、正義の時が来ました。

7人の御使いたちが7つのラッパを与えられ、次々にそのラッパを吹き鳴らします。

ヨハネが用いた言葉はとても不思議で、比喩的なものなので、その意味を理解するのはなかなか難しいところです。

しかし、第1のラッパの後に現れた雹と火は、エジプトに降りかかった災いに似ています(出エジプト記9:23-25)。だから、たぶん、それらは文字通りの雹と火なのでしょう。ヨハネによれば、三分の一が焼かれ、木々の三分の一も焼かれ、すべての青草も焼き尽くされました。

三分の一という割合が、文字通りかどうかはわかりません。けれども、黙示録にはこの割合が何度も出てくるので、ヨハネが伝えたかったのは、そのダメージが非常に大きかったということかもしれません。

第2のラッパが吹かれた後、火で燃える大きな山のようなものが、海に投げ込まれました。もしかすると、それは火山だったのかもしれません。(西暦79年、イタリアのベスビオ山が噴火し、多くの船が壊れ、多くの魚が死にました。)

第3のラッパが吹かれた後、天から、たいまつのように燃えている大きな星が落ちて来て、川の三分の一とその水源の上に落ちました。その結果、水の三分の一が苦よもぎのようになり、多くの人が死にました。

それが文字通りの隕石なのか、別の原因で水が汚れたのかは、分かりません。でも、この災いも、エジプトに下った災いに似ています。あの時、ナイルの水は血に変わりました(出エジプト記7:20-24)。

御使いが第4のラッパを吹いた後、太陽の三分の一と、月の三分の一、また星の三分の一が打たれ、それらの三分の一は暗くなりました。昼の三分の一は光を失い、夜も同じようになりました。

以前も言ったように、たぶんこの割合は比喩的なものですが、その結果として、この世はさらに暗くなるのです。エジプトのように、昼間でも不思議に日が暮れてしまいます。

その後、物事はさらに悪くなっていきます。

鷲の言葉を借りるなら、三つの災いが来ようとしています(黙示録8:13)。

第5のラッパが吹かれると、地獄からいなごの群れが現れて、この世を荒らし始めます。この災いも、エジプトに下った災いに似ています(出エジプト記10:12-15)。

けれども、おそらくそのいなごは文字通りのいなごではなく、実際には悪霊のようです。

なぜ、私はそう考えるのでしょうか。

一つ目の理由は、そのいなごの王の名前がアバドン、またはアポリュオンであることです。どちらも、「破壊者」という意味を持っています。

二つ目の理由は、そのいなごが植物を荒らすことなく、人を襲って苦しめるという点です。

三つ目の理由は、そのいなごが神様に封印されていない人だけを襲うということです(黙示録7章)。

その後、第6のラッパが吹かれると、7章に登場した四人の御使いたちが、この世を荒らす許しを受けます。7章では、神様が彼らに、「待ちなさい。まず、私の民の額に印を押さなくてはなりません」と言われました。

しかし、8章では、聖徒たちの額にはすでに印が押されているので、天使たちはこの世を荒らし始めます。

おそらく、この第6のラッパは戦争を描写しているのでしょう。6章では、世界の人口の4分の一が殺されましたが、8章では、その数は人口の三分の一に増えます。

それでも不思議なのは、この深刻な六つの災いが起きても、人々が悔い改めることを拒み、むしろ罪を続けることです。

時々、ある人は疑問に思います。「どうして地獄は永遠なのか。地獄でも、悔い改めたいと思う人がいるのではないか」と。

けれども、今日の箇所と16章の証言は、はっきりと「それは誤った考え方です」と教えています。

地獄にいる人々がどれほど苦しんでも、悔い改めず、神様を呪い、自分の罪深い態度を持ち続けます。

だからこそ、七つの封印が解かれたとき、天にいる者たちは沈黙しました。

神様は人を裁くことを喜ばれるわけではありません。それでも、神様は正義の神です。ですから、神様は聖徒たちの叫びに応えられることを永遠に延ばすことはなさいません。神様は彼らの祈りを聞いて、裁きをもたらされます。

ですから、心に留めておきましょう。あなたがクリスチャンとして「正義はいつ来るのか」と疑問に思うなら、神様はあなたの叫びを聞いておられます。そして、正義は必ず来ます。

しかし、もう一つ覚えておくべきことがあります。神様の裁きを軽んじてはいけません。天にいる者たちは決して軽んじません。ですから、私たちも神様の裁きを軽んじてはいけません。

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ヨハネの黙示録

御怒りの日、誰が耐えられるか

6章の最後で、イエス様が第6の封印を解かれると、大変な出来事が起こります。この世の偉い人たちも庶民たちも、山々や岩に向かって叫びます。

私たちの上に崩れ落ちて、御座に着いておられる方の御顔と、子羊の御怒りから私たちを隠してくれ。神と子羊の御怒りの、大いなる日が来たからだ。だれがそれに耐えられよう。(黙示録6:16-17)

「だれがそれに耐えられよう。」

その答えは、7章に記されています。

ヨハネは4人の御使いたちを見ます。彼らは神様の裁きをこの世に実行しようとしています。しかし、もう一人の御使いが現れてこう言います。

私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を加えてはいけない。(黙示録7:3)

その言葉は、エゼキエル書にある言葉に似ています。その時にも、神様はご自身の民を裁こうとしていましたが、その前に、忠実な民をその裁きから守るため、彼らの額に印を押されました。(エゼキエル書9:3-7)

今日の箇所では、神様は、イスラエルの子らのあらゆる部族の十四万四千人の額に印を押されます。

聖書学者たちは、その十四万四千人が誰を指すのかについて、活発に議論しています。

私の意見ですが、おそらく、彼らは救われた人々全体を象徴しているのでしょう。

すなわち、12(イスラエルの部族——旧約の聖徒たち)×12(使徒たち——新約の聖徒たち)×1000(「完全」を意味する数字)=十四万四千。彼ら全体が、イエス様にある新しいイスラエルなのです。

では、なぜ私は、その十四万四千人が文字通りのユダヤ人だとは考えないのでしょうか。

最初の理由は、黙示録のイスラエルの部族のリストが、ヤコブの息子たちのリストと少し違うことです。(ダンは含まれておらず、代わりにヨセフの息子であるマナセが含まれています。)

また、黙示録のイスラエルの部族のリストは、カナンの地を受け継いだ部族のリストとも異なります。(ダンが省かれ、レビが含まれ、エフライムの代わりにヨセフが含まれています。)

さらに、現代のユダヤ人の部族的系統は完全に混ざっています。

こうした理由から、私はヨハネが文字通りのユダヤ人について語っているのではないと考えます。

また、私の意見ですが、その十四万四千人は7:9に登場する大群衆と同じ存在だと思います。その群衆は、すべての国民、部族、民族、言語から構成されており、御座の前と子羊の前に立って叫びます。

救いは、御座に着いておられる私たちの神と、子羊にある。(黙示録7:10)

一人の長老はヨハネに、その人々についてこう言います。

この人たちは大きな患難を経てきた者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。

それゆえ、彼らは神の御座の前にあって、昼も夜もその神殿で神に仕えている。御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られる。彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も、彼らを襲うことはない。

御座の中央におられる子羊が彼らを牧し、いのちの水の泉に導かれる。また、神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。(黙示録7:14-17)

その長老は、何を言わんとしていたのでしょうか。

苦難の時は、必ずやって来ます。反キリストが現れると、キリストのために多くのクリスチャンが迫害され、殺されます。けれども、イエス様がスミルナにある教会に言われたように、その苦難は一時的なものです。(黙示録2:8-10)

私たちは、サタンとその反キリストの怒りに直面するかもしれませんが、神様からの印を受け、神様の御怒りとキリストの御怒りから守られます。

そして結局、私たちは神様の御前に立ち、永遠に神様に仕え、礼拝します。私たちはもはや苦しむことはなく、その日には、イエス様の御顔を仰ぎ見るのです。イエス様は、私たちに永遠の命を与え、すべての涙を拭い取ってくださいます。

それは、イエス様を信じる人たちの希望です。

だから、私たちには選択があります。私たちは神様の印を受け、サタンの怒りに直面するのでしょうか。それとも、私たちはサタンの印を受け、神様の御怒りに直面するのでしょうか。他の選択肢はありません。

あなたは何を選ぶでしょうか。

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正義はいつ来るのか

前回の記事では、私たちは第五の封印をあえて飛ばしました。なぜなら、その封印は他のものとは性質が異なるからです。地上の裁きに関する他の封印と違って、第五の封印は天における出来事に焦点を当てています。

イエス様がこの封印を解かれると、ヨハネは祭壇の下に、イエス様のゆえに殺された人々の姿を見ます。そして彼らは、大声で叫びます。

聖なるまことの主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者たちに私たちの血の復讐をなさらないのですか。(黙示録6:10)

その人々とは誰でしょうか。おそらく、使徒の働き第7章に記されたステパノや、キリスト教の長い歴史の中で命を捧げた殉教者たち全体を指しているのでしょう。

彼らのことを考えると、「なぜ正義はまだもたらされないのか」「キリストのゆえに迫害される私たちは、なぜ神の正義を目にすることができないのか」と問いかけたくなるのは自然なことです。

そのような殉教者たちに対するイエス様の答えは、実に興味深いものです。

「あなたたちと同じように殺されることになる兄弟たちの数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい」(黙示録6:11)

言い換えるなら、イエス様がこの世に再び来られるまで、迫害は続きます。その間、神様は忍耐をもって、迫害者たちを裁かれません。

なぜでしょうか。それは、できるだけ多くの人々が御国に入ることを、神様が待っておられるからです。(使徒の働き9:1〜19をご覧ください。サウロの物語がその例です。)

しかし、イエス様がもう一度来られるとき、神の正義はついに実行されます。

けれども、その日が来るまで、イエス様はご自身のために殺された人々に、平安と安らぎを与え続けてくださいます。

この世は、不公平なことだらけです。私たちは苦しみの中で、「なぜ私が苦しまなくてはならないのか」と問いかけたくなります。

ところが、イエス様は「苦難がない」と約束されません。むしろ、「あなたがたは苦難に遭う」と約束されるのです。(ヨハネ16:33)

そういうわけで、私は、反キリストが来る前にイエス様が私たちを天に迎えてくださるとは思いません。(とにかく、それが私の一つの理由です。)

けれども、私たちが苦しむときでも、心に留めておきましょう。最終的には、神の正義がもたらされます。

だからこそ、希望を持ち、イエス様の言葉を覚えて歩みましょう。

これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。(ヨハネ16:33)

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ヨハネの黙示録

終わりの始まり

今日の記事から、私たちは聖書の深みに入っていきます。

この箇所に関する解説は数多く存在し、聖書学者たちは様々な見解を持って、しばしば議論を重ねています。ですので、まずは私の考えを述べますが、将来的にはその見解が変わる可能性もあります。

黙示録には、三種類の裁きが登場します。それらは、七つの封印、七つのラッパ、そして七つの金の鉢です。

ある学者によれば、これら三つの裁きは同時に起こるとされています。一方で、他の学者によれば、裁きは順番に展開するというのです。

どの説を信じるかに関わらず、明らかなのは、イエス様が来られるまで、この世の状態が徐々に悪化していくということです。

私の見解としては、これらの裁きは基本的には順番に進行しますが、ある部分では重なって起こることもあるかもしれません。

だから、七つの封印という裁きは、多分最後の裁きではないと思います。イエス様の言葉を借りれば、その七つの封印は、「産みの苦しみの始まり」だけです。(マタイ24:8)

実は、私たちはすでに、これらの裁きの始まりを目撃しているのではないかと思います。

イエス様は第一の封印を解かれ、白い馬が出てきます。その乗り手は、自らの敵に打ち勝とうとします(黙示録6:2)。

この白い馬とその乗り手は、おそらく十二弟子に語られたイエス様の言葉に関係があると思われます。すなわち──

「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり。。。」(マタイ24章7節)

こういった報道を、私たちは日々のニュースで頻繁に耳にします。

続いて、イエス様は第二の封印を解かれます。すると、火のように赤い馬が現れます。ヨハネによれば、その乗り手には地上から平和を奪うことが許され、人々が互いに殺し合うようになるのです(黙示録6:4)。

要するに、戦争の影響だけでなく、殺人も増えていきます。もちろん、歴史の中には多くの殺人事件が存在してきましたが、赤い馬が現れると、殺人は横行するようになるのです。

最近のニュースでも、そうした事例を頻繁に耳にすることでしょう。テロもあれば、集団殺人の報道も後を絶ちません。

さて、イエス様が第三の封印を解かれると、黒い馬が出てきます。その乗り手は量りを手に持っていました。そして、こう語りました。

小麦一コイニクスが一デナリ。大麦三コイニクスが一デナリ。オリーブ油とぶどう酒に害を与えてはいけない。(黙示録6:6)

それは飢饉の状態であり、わずかな食料にも多額の金が必要となります。とはいえ、飢饉があっても、オリーブ油やぶどう酒はなお豊かに残されています。つまり、状況は厳しいものの、まだ最悪の事態には至っていないということです。

イエス様の言葉によれば、飢饉は確かに起こりますが、それは「産みの苦しみの始まり」にすぎません(マタイ24章7~8節)。

そして、イエス様が第四の封印を解かれると、青ざめた馬が出てきます。その乗り手の名は「死」です。それには戦争、殺人、飢饉が含まれますが、さらに二つの要素も加わります。それは疫病と、野の獣による人への暴力です。

次回の記事では第五の封印について触れますが、ここでは第六の封印に先に進みましょう。ヨハネはこのように記しています。

子羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。

太陽は毛織りの粗布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。そして天の星が地上に落ちた。

それは、いちじくが大風に揺さぶられて、青い実を落とすようであった。

天は、巻物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山と島は、かつてあった場所から移された。(黙示録6:12-14)

それは文字通りに起こるのでしょうか。私には分かりません。

大きな地震はおそらく文字通りに起こるでしょう。一方、その他の描写は比喩的である可能性があります。それらの言葉は、地震の後に人々が抱く恐れを象徴しているのかもしれません。地震によって、この世全体が混乱に陥るからです。

日本では、1995年と2011年に、私たちは大震災を経験しました。それゆえ、これらの地震を経験した人が13~14節を読むと、「はい、まさにそのように感じました」と言うかもしれません。

では、この箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

神学者のD・A・カーソンは次のように述べています。

私たちには、この世にある様々な問題が見えます。戦争、殺人、飢饉、地震、疫病。それらの原因を尋ねられると、私たちは科学的な説明や社会学的な分析を挙げることができます。

あるいは、「神様がそのような事態が起こることを許されたのです」と答えることも可能です。

どちらの答えもある種の真理を含んでいますが、より根本的なのはどちらでしょうか。

私たちが心に留めるべき真理は、この世の罪のゆえに、神の裁きが近づいているということです。私たちの目に映る世の問題――戦争、飢饉、疫病、地震、殺人――は、最終的な裁きの前触れに過ぎません。神様はそれらすべてを許しておられます。

なぜでしょうか。神様は、ただ人々を裁くことを喜んでおられるのでしょうか。

そうではありません。神様は、こうした問題を通して、人々がご自身のもとに逃げ込むことを望んでおられるのです。

もしこの世に何の問題もなければ、イエス様に向かう人はきっと少ないでしょう。なぜなら、自分にはイエス様が必要だと気づかないからです。けれども、神様の裁きによって、ある人々は自らの罪を見つめ、自分に救いが必要だと悟り、悔い改めるのです。

だからこそ、私たち自身に問うべき問いはこうです。「裁きを目にしたとき、私はどのように反応するのか。」

私たちは、その裁きに対する恐怖によって、ただ震えるだけでしょうか(黙示録6:15~16)。

もしかすると、私たちは神様を呪うことになるのでしょうか(黙示録16:9)。

それとも、悔い改めへと導かれるのでしょうか。

裁きはすでに迫っています。あなたは、準備ができているでしょうか。

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ヨハネの黙示録

神のご計画を成し遂げる方

数年前まで、私は黙示録の中心に福音があることに気づいていませんでした。

けれども、第1章で私たちが見たのは、黙示録が福音のメッセージから始まっているという事実です。今日の箇所でも、私たちは黙示録の核心が福音であることを見出します。さらに、黙示録の最後の章では、福音の完成が描かれています。

第4章では、天の父が御座に着いておられ、神がふさわしい礼拝と賛美を受けておられます。

けれども、第5章で、ヨハネは新たなことに気づきます。天の父の右手には巻物があり、その巻物の内側にも外側にも文字が記され、七つの封印で厳かに閉じられていました。

ローマ帝国の時代、遺言はそのように記されました。巻物の外側の文字には遺言の要点が記され、実際にその遺言を実行するためには、誰かが封印を解いて巻物を読み解かなくてはなりませんでした。

神の巻物には、神の御心と救済の計画すべてが記されていました。とはいえ、その封印がまだ解かれていなかったため、神の計画は実行に移すことができませんでした。その時、強い御使いが叫びを上げました。

巻物を開き、封印を解くのにふさわしい者はだれか。(黙示録5:2)

その反応は何だったでしょうか。 それは沈黙でした。

ちょっと考えてみてください。

神様の御座の回りには、24人の長老たちが座っていました。四つの生き物もいました。何万人もの御使いたちもいました。

地上にも、たくさんの素晴らしいクリスチャンがいました。たとえば、イエス様が特別に愛された弟子ヨハネは、まだこの世に生きていました。

他のクリスチャンたちは亡くなって、天にいました。ペテロやパウロも、すでに天にいました。

けれども、巻物の封印を解き、それを読むにふさわしい者は、誰ひとりいませんでした。

だから、ヨハネは泣き始めました。神のご計画が無駄になってしまうと思ったからです。その計画は読まれることもなく、実行されることもなく、永久に眠ってしまうと思いました。

ところが、長老の一人がヨハネに語りかけました。

泣いてはいけません。ご覧なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利したので、彼がその巻物を開き、七つの封印を解くことができます。(5)

ヨハネが目を上げたとき、彼はイエス様のお姿を見ることを予想していたかもしれません。あるいは、イエス様を象徴するライオンの姿を目にすることを予想していた可能性もあります。ところが、彼が目にしたのは子羊でした。それも、普通の子羊ではなく、屠られた姿の子羊でした。

もしかすると、ヨハネは多くのユダヤ人と同じように、メシアについて誤ったイメージを抱いていたのかもしれません。勝利を収めるメシアと聞いて、人々は国々を打ち破るライオンの姿を思い描いたことでしょう。

もちろん、イエス様はライオンです。けれども、イエス様が勝利を得る方法は、子羊として死なれることでした。イエス様はライオンであり、子羊なのです。

その子羊は七つの角を持っていました。これらの角は、イエス様の力を表しています。また、七つの目は、イエス様がすべてをご存知であることと、聖霊の臨在を表しています。まさにその力と御霊によって、イエス様は復活され、勝利を得られました(エペソ1:19〜20;ローマ8:11)。

とにかく、イエス様がその巻物を取られると、四つの生き物と24人の長老たちは、いつも歌っている賛美(4:8、11)を中断し、新しい歌を歌い始めました。

あなたは、巻物を受け取り、封印を解くのにふさわしい方です。(9a)

なぜ、イエス様はその巻物を受け取るにふさわしいお方なのでしょうか。

あなたは屠られて、すべての部族、言語、民族、国民の中から、あなたの血によって人々を神のために贖い、私たちの神のために、彼らを王国とし、祭司とされました。彼らは地を治めるのです。(9b-10)

この言葉によって、私たちは福音の全体像と、神様の永遠のご計画を見渡すことができます。イエス様の血によって、私たちは自分の罪から贖われ、神の民、国、そして祭司として立てられました。

そして、神様がすべてのものを新しくされるとき、私たちは永遠に神に仕え、新しい天と地を治めるのです。

こうして、天と地のすべての被造物が共に叫びます。

屠られた子羊は、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方です。。。

御座に着いておられる方と子羊に、賛美と誉れと栄光と力が世々限りなくあるように。。。アーメン。」(12-14)

それこそが、黙示録の中心的なテーマです。それは、福音と、その福音を実現した方—ライオンであり子羊である—を描いています。

この福音によって、私たちは希望を持っています。なぜなら、神様のご計画がすべて成し遂げられるという確信があるからです。

ですから、神様の御使いたち、そして天と地のすべての被造物と共に歌いましょう。「子羊は、ふさわしい方です。」

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ヨハネの黙示録

御座におられる王を讃える

ある英語の賛美歌には、「私は神様の友達です」と歌われています。また、ヨハネは、「私たちは神様の子供たちです」と宣言しています。(第一ヨハネ3:1)

もちろん、私たちは神様の友達であり、神様の子供たちです。 けれども、私たちが覚えておかなくてはならないのは、神様が私たちの王であるということです。だからこそ、神様は私たちの敬いや賛美にふさわしい方なのです。

今日の個所では、私たちは神様の御座の前に進み出て、王なる神様の栄光のすべてに目を向けます。

ヨハネは、他の預言者たちと同じように、神様の栄光を描写しようとします。けれども、それは極めて困難な試みです。ヨハネができるのは、神様の栄光を私たちに少しだけ垣間見せることです。彼は神様を、碧玉や赤めのう、そしてエメラルドにたとえています。(黙示録4:3)

もちろん、神様は宝石そのものではありません。けれども、神様の栄光は、比類なき逸品のように輝いています。

そして、ヨハネによれば

御座からは稲妻がひらめき、声と雷鳴がとどろいていた。(黙示録4:5)

イスラエルの民は、シナイ山でそのような経験をし、神様の力を目の当たりにしました。(出エジプト記19:16)

そして、御座の前には、「火のついた七つのともしびが燃えていた」と記されています。(黙示録4:5)

ヨハネの時代、王たちの権威を象徴するために、王座の前でともしびが燃えていました。しかし、ヨハネによれば、そのともしびは神の七つの御霊を象徴しています。私は以前の記事でも述べましたが、「七つの御霊」とは聖霊様のことです。

また、御座の前には、水晶のように輝くガラスの海が広がっていました。それは文字通りの海なのか、水晶に似たガラスのような道なのか、はっきりとは分かりません。いずれにしても、それを渡って神様に近づいていく姿を想像できるでしょうか。

ただし、神様に近づく前に、私たちは栄光に輝く他の存在の前を通らなくてはなりません。

例えば、二十四の座に座っている二十四人の長老たちがいます。

彼らが誰であるかについては、聖書の学者たちの間で議論が続いています。もしかすると、彼らは上位の天使たちかもしれません。

あるいは、イスラエルの12の部族と12人の使徒を象徴しているとも考えられます。その二つのグループが一つに結ばれ、神様の民全体を象徴しているのかもしれません。

彼らの白い衣は彼ら自身の聖さを象徴し、金の冠は彼らに与えられた権威を表しています。

二つ目のグループは、四つの生き物です。彼らはケルビム(エゼキエル書5:5–14、10章)のある特徴を持っており、また、セラフィム(イザヤ書6:2–3)のある特徴も持っています。(ケルビムとセラフィムは天使の種類です。)

この四つの生き物は上位の天使であり、後に神様の裁きを地上に実行します。ヨハネによれば、第一の生き物は獅子のようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は飛んでいる鷲のようであった。(7)

もしかすると、これらの生き物は、神様を礼拝するすべての被造物を象徴しているのかもしれません。第一の生き物は野生の動物を、第二の生き物は家畜を、第三の生き物は人間を、そして第四の生き物は鳥類をそれぞれ象徴しているようです。

あるいは、獅子は神様の威光を、雄牛は神様の力を、人間は神様の知性を、鷲は神様の愛(出エジプト記19:4)を表しているのかもしれません。

しかし、何より印象的なのは、これらの偉大な存在が神様を拝んでいるということです。彼らは、昼も夜も休むことなく、言い続けていました。

聖なる、聖なる、聖なる、主なる神、全能者。昔おられ、今もおられ、やがて来られる方。(8)

彼らが賛美をささげる中で、二十四人の長老たちは、自らに与えられた権威の冠を神の御前に投げ出し、神を讃えて歌います。

主よ、私たちの神よ。あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。(11)

私たちは、今日の箇所から何を学ぶことができるでしょうか。

最も大切なのは、神様が私たちの友であり父であるだけでなく、私たちの王であるということです。神様は全能の方であり、私たちの礼拝にふさわしいお方です。

この真理を認めなければ、私たちは罪に陥ってしまいます。

第二に、神様が王として、すべてを支配しておられることです。この世界が混乱し、状況がますます悪化しているように見えても、神様は御座に着いておられ、神のみこころから離れたことは何ひとつ起こりません。

そして、最終的に神様は勝利を得て、栄光と賛美を受けられます。

アーメン。主イエスよ、どうかすぐに来てください。

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ヨハネの黙示録

自給自足、冷淡、役に立たない

私の娘が4~5歳ぐらいの時、私がうちに帰ると、彼女は「ダディー」と叫びながら、私を出迎えてくれました。

でも、今は、私がうちに帰ると、彼女はリビングで座ったまま、ただ「お帰り」と言うだけです。

また、彼女は私がうちに帰ってきたことに、まったく気づかない時もあります。

愛の反応が冷淡な反応になることは、寂しいことです。

いろいろな意味で、ラオディキアにある教会は私の娘のようです。イエス様は、ほかの教会を責める時でも、良い点をも褒められました。けれども、ラオディキアにある教会については、良いことが一つもありませんでした。

サルデスの教会の中でも、イエス様が褒められたクリスチャンたちがいました。ところが、ラオディキアの教会の中では、イエス様が褒められたクリスチャンは誰もいませんでした。

彼らの問題は何だったのでしょうか。イエス様は彼らにこう言われました。

わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。

むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す。(黙示録3:15-16)

イエス様は、何を意味されたのでしょうか。ラオディキアの近くには、二つの有名な都市がありました。

一つ目はヒエラポリスという都市です。その都市は温泉で知られていました。その温泉は体を癒すために役立ちました。

その反面、コロサイという都市は、冷たい飲み水で知られていました。

けれども、ラオディキアの人たちは都市の南にある温泉からお湯を得ていました。そのために、彼らは10キロメートルの水路を使わなくてはなりませんでした。

けれども、そのお湯が着いた時には、すでにぬるくなっていました。つまり、その水は入浴にも適しておらず、飲み水としても美味しくありませんでした。

要するに、その水はあまり役に立たないものでした。

教会が自分の役割をきちんと果たすならば、主にとって有益な存在となります。ヒエラポリスの温泉が人の体を癒したように、教会は人の魂を癒します。また、イエス様の愛はクリスチャンたちを通して流れ、冷たい水のように、疲れた人々を生かすことができます。

しかし、ラオディキアの教会は傷ついた人々を癒さず、疲れた人々を生かしませんでした。その教会は、主にとってまったく役に立たない存在となりました。

そこで、イエス様は彼らに言われました。「あなたたちは、自分の都市の水のようです。だから、わたしは口からあなたを吐き出します。」

彼らがなぜ役に立たない教会になったのでしょうか。一つ目の理由は、彼らが自給自足の姿勢を取り、主に対して冷淡な態度を示し始めたということです。イエス様は彼らにこう言われました。

あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。(17)

この教会では、クリスチャンたちは自給自足でした。ラオディキアのクリスチャンたちだけでなく、その都市の人々も同じような性質を持っていました。

ラオディキアが地震によって壊れた時、彼らはローマ帝国の援助を断り、「私たちは十分です。自分たちで再建できます」と主張しました。

このように、ラオディキアの教会の人々は裕福で、自給自足の生活を送り、イエス様が必要だとは考えませんでした。彼らにとって教会は社交クラブとなっていたのです。

その結果、彼らはイエス様にとって、役に立たない教会となってしまいました。彼らはイエス様のために周囲の人々に触れようとせず、さらに、イエス様に対して冷淡な態度を示しました。彼らは基本的にこう言っていたのです――「私たちはもう十分です。あなたの助けは要りません。」

しかし、実際には彼らは非常に困難な状態にありました。

だからこそ、イエス様は彼らにこう言われました。

わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買い、あなたの裸の恥をあらわにしないために着る白い衣を買い、目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい。(18)

この言葉によって、イエス様は彼らの自給自足の態度を厳しく批判されました。彼らは黒い羊毛や目薬を売っており、裕福な人々でした。

けれども、イエス様は彼らに言われました。「それらのものは不十分です。私から離れて、あなたたちは死にかけています。」

残念なことに、多くの人々はラオディキア人のようです。

日本では、大きな問題の一つは、非常に多くの人々が自給自足の状態にあることです。彼らは自分の人生に満足し、霊的な必要を認識することができません。そのため、「私にはイエス様が必要ではありません」と考えてしまいます。

ところが、あるクリスチャンたちも同じように考えることがあります。彼らは、イエス様を必要としていることを忘れてしまいます。

「以前はイエス様を必要としていましたが、今はもう十分です」と彼らは主張します。そして、自分の人生からイエス様を追い出してしまいます。

教会に通い続けるかもしれませんが、時間、経済、仕事、人間関係などに関しては、彼らはイエス様に対して「あなたは必要ありません」と言っているのです。

このようなクリスチャンたちは、主にとって役に立たない者となってしまいます。そして、教会がそのような人々に満ちているなら、その教会は深刻な状態に置かれています。

だからこそ、イエス様はラオディキアのクリスチャンたちにこう言われました。

わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。(19)

私は、ある英語訳の聖書が非常に心に響きました。「悔い改めなさい」という言葉の代わりに、「自分の冷淡な態度を捨てなさい」と意訳されているのです。

そして、イエス様は彼らにこう言われました。

見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(20)

ラオディキアの人々は、自分たちの教会からイエス様を締め出してしまっていました。だからこそ、イエス様はその教会の戸の外に立ち、たたいておられました。

「わたしは、あなたがたを今もなお愛しています。和解の機会を与えています。どうか、心を開いてくれませんか。」

あなたはどうでしょうか。

イエス様に対して冷淡な態度を取っているでしょうか。イエス様をあなたの人生から締め出し、「あなたは要りません」と言ってしまっているでしょうか。

それでもなお、イエス様はあなたを愛しておられます。イエス様は、ご自身の御国のためにあなたを今も用いたいと願っておられます。もしあなたが冷淡な態度を悔い改めるなら、いつかイエス様と共に支配することになるでしょう。(21)

しかし、悔い改めなければ、あなたは懲らしめを受けることになります。

あなたの教会はどうでしょうか。自己満足している人々で満ちた、単なる社交クラブのようになってしまってはいないでしょうか。

教会が悔い改めなければ、イエス様はあなたたちの燭台をその置かれた所から取りはずされます。あなたたちは、もはや世の光として輝くことができなくなってしまいます。

イエス様は、あなたとあなたの教会に何を語っておられるでしょうか。

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ヨハネの黙示録

決してのけ者にされない私たち

多くの人が、のけ者にされた経験を持っているのではないでしょうか。

高校生の時、私は級友たちに近づいたところ、一人にこう言われました。「どうしてここに来ているの?出て行け!」

フィラデルフィアの教会のクリスチャンたちも、似たような問題に直面していました。スミルナの教会と同様に、彼らはユダヤ人たちにのけ者とされ、会衆に入ることが許されませんでした。

しかし、イエス様は彼らにこう言われました。「私は、ダビデの鍵を持っている者です。」(黙示録3:7)

言い換えれば、「神様がダビデとその子孫に永遠の国を約束されましたが、その国の鍵を持っているのは私です。私において、その約束は実現されます」という意味です。

そして、イエス様は続けて語られました。「私はあなたのために門を開きました。ですから、ユダヤ人たちはあなたの入るのを阻むことができません。実のところ、彼らは本当のユダヤ人ではありません。むしろ、サタンの会衆に属する者たちです。

あなたがたは、私を信じることによって、真のユダヤ人となりました。そして、いつか彼らはその真理を認めることになるでしょう。」(黙示録3:7〜9)

その後、イエス様は彼らにこう言われました。

あなたは忍耐についてのわたしのことばを守ったので、地上に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時には、わたしもあなたを守る。(黙示録3:10)

私は以前言いましたが、たぶん、私たちは最後の反キリストと向き合わなくてはならないでしょう。

けれども、教会の中には、この一節を読んで違う結論に至る人もいます。彼らは、試練の前にイエス様が私たちを天国に連れていかれると考えます。

しかし、二つの理由で、私はその意見に同意できません。

最初の理由は、たくさんの聖書の箇所によれば、私たちが反キリストと向き合い、大きな患難を経験しなくてはならないということです。

二つ目は、イエス様がフィラデルフィアのクリスチャンたちに語られたということです。そして、イエス様がそのクリスチャンたちが試練に直面する前に、彼らを天国に連れていかれたと信じる人は、誰もいないと思います。

むしろ、イエス様が約束されたのは、試練の時に、イエス様が彼らを守られるということです。

空いている門や閉じている門を考えると、私はノアの箱舟を連想します。箱舟の戸はノアとその家族のために開いていました。でも、彼らが入ると、神様ご自身がその戸を閉じられました。(創世記7:16)

そして大洪水の時、神様はノアとその家族を天国に連れて来られませんでした。むしろ、その大洪水の中で、神様は彼らを守ってくださいました。

黙示録を読むと、私たちはそのパターンを見ます。私たちが反キリストや大きな患難を経験しても、神様は私たちを守ってくださいます。

だから、患難の時、イエス様の言葉を覚えているべきです。

わたしはすぐに来る。あなたは、自分の冠をだれにも奪われないように、持っているものをしっかり保ちなさい。(11)

大きな患難を考えると、たくさんのクリスチャンたちが恐れるのは、自分が耐えることが出来ないということです。彼らは、自分の冠をなくすと心配します。

でも、イエス様がその教会の人たちに何を言われたか見ましょう。

あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。(8)

この教会の人たちは、自分が弱いと考えました。イエス様ご自身は、「あなたたちが少しばかりの力があります」と言われました。それでも、試練があっても、彼らはしっかり立っていました。

だから、私たちがその試練を耐えるかどうかに関して考えると、大切なのは、私たちの力や意地ではありません。むしろ、大切なのは、神様の恵みです。神様の恵みによって、私たちはしっかり立ちます。

イエス様は、私たちに言われます。

わたしは、勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱とする。彼はもはや決して外に出て行くことはない。

わたしは彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書き記す。(12)

イエス様があなたをのけ者とされることはありません。イエス様はあなたを神様の神殿の柱とされます。イエス様は神様の名前をあなたの上に書き記されます。要するに、あなたは永遠にイエス様の者とされます。

それを考えると、昔から親しまれている賛美歌が思い浮かびます。(日本語では、「主われを愛す。」)

Jesus loves me! This I know.
イエス様は私を愛してくださいます。私はそれを知っています。

For the Bible tells me so.
聖書がそう教えてくれています。

Little ones to Him belong;
小さな者たちはイエス様に属しています。

They are weak, but He is strong.
彼らは弱いですが、イエス様は強い方です。

Yes, Jesus loves me!
イエス様は私を愛してくださいます。

Yes, Jesus loves me!
イエス様は私を愛してくださいます。

Yes, Jesus loves me!
イエス様は私を愛してくださいます。

The Bible tells me so.
聖書がそれを教えてくれています。

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ヨハネの黙示録

主の訪れに備えず、不意を突かれるとき

サルディスには、突き通せない都市という評判がありました。しかし、この都市は二度も陥落したのです。なぜでしょうか。それは、見張りの者が眠っていたからです。

そのような歴史を踏まえて、イエス様はサルディスの教会の目を覚まさせようとされました。イエス様は、こう語られました。

また、サルディスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊と七つの星を持つ方が、こう言われる──。

わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。目を覚まし、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いがわたしの神の御前に完了したとは見ていない。

だから、どのように受け、聞いたのか思い起こし、それを守り、悔い改めなさい。目を覚まさないなら、わたしは盗人のように来る。わたしがいつあなたのところに来るか、あなたには決して分からない。(黙示録3:1-3)

イエス様は何を言いたかったのでしょうか。

かつての都市と同じように、サルディスの教会も丈夫で、元気で、生きているように見えました。けれども、実のところその教会は、死んだものでした。なぜなら、イエス様が彼らを裁くために来られたのに、彼らはその備えをしていなかったからです。

では、どのように備えができていなかったのでしょうか。イエス様は彼らに、こう語られました。「あなたの行いが、わたしの神の御前に完了したとは見ていない。」

それは何を意味するのでしょうか。私にもすぐにはわかりませんが、おそらく彼らには二つの問題があったのではないかと思います。一つ目は、彼らが聖なる人生を送っていなかったことです。操を守ることをやめ、自ら進んで罪に手を染めていたのです。

そこでイエス様は、「寝ているサルディスのクリスチャンたち」と「衣を汚さなかった者たち」を比較しておられます。(4)

しかし、イエス様はもう一つのことを意味しておられたのでしょう。

かつて、この教会は多くの良い働きを行い、周囲の人々に愛を届けていました。けれども、彼らはそれをやめ、自己中心になってしまったのです。周囲の人々への配慮を失い、ただ自分の実績だけを見て、誇りに満ちていました。

そのため、彼らは霊的に死にかけていたのです。自分の聖さや使命に関して、彼らの行いはまだ神の前に完成していませんでした。

それゆえに、イエス様は彼らに訓戒を与えられました。「原点に帰りなさい。最も大切なことを思い起こしなさい。自己中心的な態度を悔い改めなさい。自分の罪から離れなさい。そうしないなら、私は来て、あなたたちを裁くことになる。」

この言葉は、マタイの福音書第24〜25章のたとえ話に通じています。

多くの場合、私たちはそのたとえ話や、サルディスの教会に対する言葉を読んで、自分自身の人生を省みます。私たちは、個々のクリスチャンとして、主の帰還の日に向けて備えているかどうかを考えるのです。

もちろん、イエス様は一人ひとりのクリスチャンにも語っておられます。特に第4〜5節では、忠実なクリスチャンたちに向けて語っておられます。

けれども、覚えておきましょう。この手紙は、教会全体に向けて書かれているのです。

サルディスの教会と同じように、多くの教会は「生きている」という評判があります。ところが、実際には霊的に死んでいるのです。カリスマ性のある牧師がいて、賛美や礼拝の雰囲気は明るく盛り上がっています。

けれども、悔い改めていない罪のために、教会の内部は腐敗しています。信仰を公に宣言してはいても、その行動はその宣言と一致していないのです。

他の教会は、自分たちの実績を誇るだけです。かつては周囲の人々に、イエス様の愛を届けていました。けれども今では、その実績を祝って互いに褒め合い、自己満足に浸っているのです。まるで社交クラブのようになり、ただ交わりの時間を楽しむばかりです。

けれども彼らが忘れているのは、彼らの働きがまだ終わっていないということです。イエス様がこの世に戻られるその日まで、その働きは完成しないのです。

私たちはこの真理を心に刻まなければなりません。イエス様は必ず戻ってこられます。その日、イエス様が教会をご覧になるとき、何を語られるでしょうか。

周囲の世界に触れている教会をご覧になるでしょうか。命にあふれた教会をご覧になるでしょうか。それとも、自己中心的な教会をご覧になるでしょうか。罪に汚れた教会をご覧になるでしょうか。

イエス様が、あなたの教会をご覧になるとき、何を語られるでしょうか。

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ヨハネの黙示録

教会で悪に目をつぶるとき

寛容。

かつてアメリカでは、その言葉には良い意味がありました。

本来の意味はこうです。たとえ誰かの意見に同意できなくても、その人をなお愛し、丁寧に語り合うことができる。それが「寛容」でした。

日本ではどうか分かりませんが、アメリカではこの言葉の意味が大きく変わってしまいました。

今では、「寛容」とは、絶対的な真理が存在しないという前提のもと、誰かの考えが間違っているとしても、それを指摘してはならないという意味になっているのです。

特に、「罪」という言葉は、時代遅れのものと見なされ、他者の罪を指摘することは「不寛容」だと受け止められがちです。

その結果、多くの教会が深刻な課題を抱えるようになりました。罪が教会に入り込んだとき、信者たちはそれを見て見ぬふりをするようになり、罪を容認する空気さえ生まれるのです。

誤解しないでください。もちろん、クリスチャンはノン・クリスチャンを歓迎すべきであり、彼らが救われるように努める必要があります。

けれども、多くの教会では、人の罪を見ても「それは罪ではない」と言い張ることがあります。

このような問題を、ペルガモンやティアティラの教会も抱えていました。

もちろん、これらの教会には良い点もありました。迫害を受けても、彼らはイエス様に忠実であり続けたのです。ティアティラのアンティパスが殺された時でさえ、教会の人々は主に従いました。(黙示録2:13)

また、ティアティラの教会はエペソの教会とは違って、イエス様への熱心を保っていました。実際、その熱心さは増し加わっていたのです。

しかし、両教会は、罪を見過ごしてしまうという罠に陥っていました。

ペルガモンの教会は、偽りの教えを信じる者たちを「寛容」と称して受け入れてしまいました。その結果、教会の人々は偶像礼拝や性的な罪に陥ってしまったのです。

イスラエルの民がエジプトを脱出して荒野を旅していたとき、預言者バラムも彼らを同じ罪へと導きました。

バラムはイスラエルを呪おうとしましたが、神はそれを許しませんでした。そこでバラムは、イスラエルの男性たちがモアブの女性たちと結びつくように仕向けたのです。彼らはその助言に従い、最終的には偶像礼拝に落ち、神の呪いを受けてしまいました。

ペルガモンの教会の人々も、同じ罪に陥っていました。それにもかかわらず、教会のリーダーたちは何も対処しなかったのです。

ティアティラの教会も、ペルガモンと同じような問題を抱えていました。彼らは「預言者」と自称する女性を容認していました。イエス様はその女性を「イゼベル」と呼ばれました。

イスラエルの歴史において、王妃イゼベルは夫アハブ王を偶像礼拝へと導き、多くのイスラエル人を罪に陥らせました。

ティアティラの教会においても、イゼベルのような存在がサタンの深みを教え、教会の人々を偶像礼拝や性的な罪に誘っていたのです。(24)

そのため、イエス様は彼らに警告されました。「裁きは迫っている。」

ペルガモンの教会に向けて挨拶されたとき、イエス様はご自身を「鋭い両刃の剣を持つ方」と呼ばれました。それは、裁きを表す剣です。(12、16)

ティアティラの教会に向けて挨拶されたとき、イエス様はご自身を「燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝く真鍮のような神の子」と呼ばれました。イエス様は、暗闇にある悪を見通し、ご自身の足でそれを踏み砕かれるのです。(18)

イエス様はこう言われました。

見よ、わたしはこの女を病の床に投げ込む。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めないなら、大きな患難の中に投げ込む。また、この女の子どもたちを死病で殺す。(黙示録2:22-23)

イエス様は、文字通り彼らを死に至らせる可能性について、警告されていたのでしょうか。おそらく、そうです。

使徒の働き(5:1〜10)、第一コリント(5:5)、そして第一コリント(11:27〜30)に、そのような例を見ることができます。

私たちは、悪に対して寛容になってしまうことがあるかもしれません。けれども、イエス様は、悪が教会の中に広がることを決して容認されません。

しかし、私たちが悪と戦い、それを乗り越えるなら、イエス様は約束されます。「隠されたマナ」と「白い石」を与えてくださるのです。(2:17)

ユダヤ人たちはこう信じていました。メシアが来られると、契約の箱が奇跡的に現れ、メシアの宴席で皆がマナを食べるようになる。

では、イエス様が「白い石」について語られたのは、なぜでしょうか。当時の競技において勝利した者は、特別な宴席への入場を許される「白い石」を与えられていました。

イエス様は、その2つの象徴を重ねて、約束の栄光を描かれたのです。

さらに、イエス様はティアティラの信徒たちにこう約束されました。イエス様が王としてこの世を支配するとき、彼らは国々を治める権威を受けるのです。さらに、イエス様は彼らに明けの明星を与えると約束されました。

イエス様ご自身が「明けの明星」と呼ばれているのです(黙示録22:16)。

それゆえ、イエス様はご自身との深い交わりを約束しておられるのでしょう。

しかし、悔い改めない者には、裁き以外に何も残されていません。

教会において、悪に目をつぶることは重大な問題です。やがて反キリストと偽預言者が現れると、その問題はさらに深刻になります。その時、この世が耐えられないものはただ一つです。それは、私たちが宣べ伝える福音です。

もし今、私たちが悪に目をつぶるなら、反キリストが現れた時、私たちはどうするのでしょうか。あなたと、あなたの教会はどうでしょうか。悪に目をつぶってはいませんか。

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ヨハネの黙示録

試練や苦難を経験するのに

以前にも述べましたが、黙示録に記された手紙の目的は、教会を、反キリストたちや、迫り来る試練に備えさせることです。

あなたは、クリスチャンが最後の反キリストや大患難時代を経験しないと信じているかもしれません。実際、多くのクリスチャンがそう信じています。

けれども、黙示録やその他の新約聖書を読むかぎり、私はその見解に同意できません。何度も、イエス様や使徒たちは、私たちがさまざまな苦難に直面すると警告しています。とりわけ、彼らは私たちが反キリストと向き合うことになると告げています。

私は、クリスチャンが大患難時代を完全に回避できるという約束を聖書の中で見たことがありません。

私が信じるのは、私たちが反キリストや大患難時代に直面するとしても、神様は決して私たちを見捨てないということです。また、その患難の時は一時的なものであると信じています。

だから、私たちがどんな試練に直面しても、神様は私たちが神様にしがみつくように促してくださいます。

今日の箇所では、その真理を余すところなく見ることができます。イエス様は、スミルナという都市の教会に語りかけます。ご自身を紹介されるとき、イエス様は、「初めであり終わりである方、死んでよみがえられた方」と呼ばれます(8節)。

興味深いのは、スミルナという都市もまた「死んでよみがえった」経験を持っていることです。紀元前600年に一度滅びましたが、紀元前290年に再建されました。

スミルナのクリスチャンたちは、イエス様のために迫害や処刑に直面しました。だからこそ、イエス様は彼らを励まされたのです。「何が起ころうとも、私はすべてのことを支配しています。私は初めであり終わりである者なのですから。」

つまり、神様の言葉によって、すべてのものは造られ、神様の言葉によって、人間の歴史は閉じられます。

さらに、イエス様は死に打ち勝たれました。死に直面するクリスチャンたちも、イエス様のように復活し、永遠のいのちを受けるという確信を抱いていました。

だからこそ、イエス様は彼らにこう語られました。

わたしは、あなたの苦難と貧しさを知っている。だが、あなたは富んでいるのだ。ユダヤ人だと自称しているが実はそうでない者たち、サタンの会衆である者たちから、ののしられていることも、わたしは知っている。(黙示録2:9)

彼らはユダヤ人たちから迫害を受けていたようです。そのユダヤ人たちは、ローマ帝国の支配者たちにこう訴えました。

「キリスト教はユダヤ教の一部ではありません。実際、クリスチャンの中には多くの異邦人がいます。あなたの律法によれば、私たちユダヤ人は皇帝を礼拝する必要はありません。けれども、彼らは異邦人なのだから、皇帝を礼拝しないなら、処刑しても構いません。」

こうして、ローマ帝国はクリスチャンたちへの迫害を始めました。

しかし、イエス様は彼らにこう語られました。「ユダヤ人たちは、あなたが真のユダヤ人ではないと主張します。けれども本当は、あなたこそが真のユダヤ人です。あなたこそがアブラハムの真の子孫です。なぜなら、アブラハムのように、あなたは信仰によってわたしのもとに来たからです。

それどころか、彼らは偽りのユダヤ人であり、彼らの会衆は神の会衆ではなく、むしろサタンの会衆なのです。」

そしてイエス様は彼らに語れました。「心配するな。あなたたちは決して迫害を経験しません。私は迫害からあなたたちを救い出します。」

イエス様はそう語れたでしょうか。違います。逆に、イエス様はこう言われました。

あなたが受けようとしている苦しみを、何も恐れることはない。見よ。悪魔は試すために、あなたがたのうちのだれかを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあう。(10)

言い換えると、こうです。「あなたは苦しむことになる。だが恐れるな。サタンはあなたに大きな試練を与えるだろう。けれども、その試練は永遠には続かない。しばらくの間は続くが、やがて終わるのだ。」

この言葉は、当時の人々だけのためではありません。これは、私たち自身のためであり、反キリストに直面するクリスチャンたちのためでもあるのです。私たちは苦しみに向かっていきます。それでも、イエス様によれば、その苦しみはほんの一瞬なのです。

だからこそ、イエス様は私たちにこう言われます。

死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与える。

耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によって害を受けることはない。(10b-11)

イエス様がこの世におられたとき、同じようなことをご自分の弟子たちに語っておられました。イエス様はこう言われました。

からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。(マタイ10:28)

私たちが神様を畏れるなら、ほかのものを恐れる必要はありません。死さえも、恐れる必要はないのです。なぜなら、人々は私たちのからだを殺すかもしれませんが、魂を滅ぼすことはできないからです。

イエス様によれば、私たちは第二の死、すなわち地獄を経験しません。むしろ、私たちは永遠に、天においてイエス様と共にいるのです。

あなたはどうですか。あなたは、自分の信仰ゆえに迫害を受けていますか。それが、ひと時の苦しみにすぎないことを覚えていましょう。人々があなたに何を言っても、あなたを傷つけても、魂に触れることはできません。

だからこそ、忠実でいましょう。たとえあなたが死んでも、あなたは生きるのです。(ヨハネ11:25)

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ヨハネの黙示録

教会に愛がなければ

今日の箇所では、私たちはエペソにある教会に宛てて語られたイエス様の最初の訓戒を読みます。

実際、イエス様はその教会について、多くの良いことを語っておられます。彼らは神の国のために忠実に励み、さまざまな苦難にも耐え忍び、疲れ果てることはありませんでした(黙示録2:2-3)。

さらに、彼らは偽教師を見抜き、自らを使徒と名乗る者たちも試して、見分けることができました。この教会は、そうした者たちを退け、偽りの教えを拒絶していました(2,6)。

しかし、彼らには重大な問題がありました。イエス様はこう言われました。

けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい。(黙示録2:4-5)

残念ながら、多くの教会も同様の問題を抱えています。彼らは、自分の奉仕において熱心に励みます。迫害が訪れると、彼らは忍耐強く耐え忍びます。彼らは聖書の教えを守り抜き、偽教師たちを見抜き、罪に対しても寛容ではありません。

それでも、彼らは最も大切なことを忘れてしまいました。それは、神様への愛、そして人への愛です。その愛がなければ、教会は空っぽな殻のようになってしまいます。

だから、神様は彼らに訓戒されます。「悔い改めなさい。私は、ただ熱心な奉仕者たちだけを求めているのではありません。ただ忍耐を示す殉教者たちだけを求めているのではありません。ただ用心深い兵士たちだけを求めているのではありません。

むしろ私は、私を愛する者たちを求めています。また、世の人々に私の愛を分かち与える者たちを求めています。」

私たちがそのように生きないなら、いったいどうなるでしょうか。

そうせず、悔い改めないなら、わたしはあなたのところに行って、あなたの燭台をその場所から取り除く。(5b)

覚えていてください。燭台とは、人の救いではなく、教会を意味します。だから神様がこう語っておられます。

「もし私の教会であるあなたたちは初めの愛に戻らないと、私はあなたを自分の場所を取り除きます。あなたは礼拝は続けるかもしれないけど、私はあなたをこの世の光として用いません。」

私は第一コリント13章を連想します。その言葉をちょっとパラフレーズにします。

教会が聖書を正しく教え、偽教師や偽りの教えを見抜き、そうした者たちを退け、また聖さを語り、罪を拒んだとしても、愛がなければ、その教会は、騒がしいどらやうるさいシンバルと同じです。

教会の人々が熱心に励み、貧しい者たちを助け、教会の内外でさまざまな良い働きをしたとしても、愛がなければ、その教会は無に等しいのです。

教会の人々が迫害を耐え忍んだとしても、愛がなければ、それは何の益にもなりません。

多くの反キリストたちは、すでにこの世に現れています。そして、最後の反キリストが近づいています。その者が現れるとき、私たちはさまざまな苦難に直面することでしょう。しかし、もし私たちに愛がなければ、私たちはまだ備えができているとは言えません。

あなたの教会はどうでしょうか。その教会は備えができているでしょうか。あるいは、教会はその場所から取り除かれる瀬戸際にあるのではないでしょうか。

あなた自身はどうでしょうか。あなたは、初めの愛から離れていないでしょうか。

イエス様はこう語られました。

耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。(7)

この言葉は、あなた自身と、あなたの教会のために語られています。

イエス様と人々への愛を失わずに、反キリストや苦難、迫害を乗り越えるなら、イエス様はあなたにこう語られるでしょう。

わたしはいのちの木から食べることを許す。それは神のパラダイスにある。(7b)

裁きの日に、イエス様は私たちに何を語られるでしょうか。

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ヨハネの黙示録

直面する試練に心を備えるために

黙示録の中で、最も頻繁に説教される箇所は、2ー3章かもしれません。なぜなら、それらの章は一番わかりやすく、パウロや他の使徒たちの手紙に似ているからです。

けれども、私たちが覚えておかなければならないことがあります。イエス様が七つの教会にメッセージを与えられたのは、最後の日が迫っているからです。

以前にも申し上げましたが、私たちは終わりの時にすでに入っています。実際、使徒たちの時代から、私たちは終わりの時代に生きてきたのです。(使徒の働き2:16-17;へブル書1:2;第一ヨハネ2:18)

使徒ヨハネは自分の手紙の中でこう述べています。やがて、最後の反キリストが現れます。ところが、それ以前にも、多くの反キリストがすでに現れているのです。ヨハネの時代にも、彼らはすでに活動していました。(第一ヨハネ2:18)

そして、反キリストだけではなく、偽預言者や偽教師も現れます。人を欺く者もおり、欺かれる者もいます。さらに、神様の民は迫害を受けるのです。

だからこそ、神様はこの世を裁かれます。ある裁きは人を通して行われます。つまり、戦争や暴力として現れる裁きです。一方で、自然災害や疫病を通して行われる裁きもあります。黙示録には、こうした裁きについて何度も描かれています。

この世を見つめるとき、私たちはそれらの裁きを識別できるでしょうか。教会の長い歴史の中にも、そして今もなお、私たちはその裁きに気づくことができます。

だから、ヨハネの時代の教会に向けられた神様のメッセージは、現代の教会にも当てはまります。神様は、今の教会にも同じことを語っておられるのです。

昔の教会が自らの反キリストに直面したとき、さまざまな問題を抱えました。そして、私たちも自らの反キリストに直面する時、同じような問題に直面します。

ですから、この手紙のことばは平和な時代のための訓戒ではありません。むしろ、私たちが反キリストに立ち向かうために、イエス様はこのことばを与えられました。また、最後の反キリストに直面するその時のためにも、私たちはこのことばを覚えていなくてはなりません。なぜなら、その時、私たちは多くの苦しみを経験するからです。

だから、これから数日間、この七つの手紙に耳を傾けるとき、そのことを心に刻んでおきましょう。

もしかしたら、あなたは、私たちが最後の反キリストと、その苦しみの時代に直面しないと信じているかもしれません。私もそう信じたいと思いますが、その確信はありません。

たとえそう信じていても、忘れないでください。教会はいつの時代も、反キリストや苦しみの時と向き合ってきました。だから、たとえ最後の反キリストが来る前に神様が私たちを天に引き上げられたとしても、その前に、私たちは別の反キリストや苦しみと直面することになるでしょう。その準備のために、ヨハネはこの手紙を書いたのです。

あなたは備えができているでしょうか。備えるためには、私たちはイエス様のことばに耳を傾けなければなりません。

だからこそ、イエス様のことばを心に刻んでおきましょう。

耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。(黙示録2:7)

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ヨハネの黙示録

私たちの責任を問われる方

裁きの日。

その日は、私たちすべてに迫っています。けれども、信者たちが最初に裁きを受けるのです。3章の終わりで、私たちはこの真理を学びます。

この幻の中で、ヨハネは自分を呼ぶ声を聞きました。その声の主に向いたとき、ヨハネはイエス様を見ました。イエス様は七つの金の燭台の間を歩き、七つの星を持っておられました。

ところが、イエス様のお姿は以前とはまったく違って見えました。なぜなら、ヨハネはイエス様のすべての栄光を目にしたからです。

この幻において、イエス様の容姿がどこまで文字通りに描かれているのか、それとも比喩的な表現なのか、私には断言できません。

それでも、ヨハネが伝えようとしている要点は明確です。私たちは裁かれ、イエス様は私たちの責任を問われるのです。なぜなら、私たちは神様の教会、神の民だからです。

黙示録には、数多くの象徴が登場します。ヨハネはある象徴については明確に説明しますが、他のものについては一切解釈を加えていません。けれども、この箇所では、七つの金の燭台と七つの星の意味がはっきりと解き明かされています。

七つの金の燭台は、ヨハネがメッセージを伝えるべき七つの教会を表しています。そして、七つの星は、それぞれの教会に関係する「み使いたち」を指しています。

聖書学者たちは「み使い」の意味を巡って議論を続けています。というのも、この語にはさまざまなニュアンスがあるからです。一つは、「使者」という意味。そしてもう一つは、霊的な存在としての「天使」という意味です。

私自身の考えですが、おそらくこの「み使いたち」は天使たちだと思います。天使たちは、教会に対して何らかの役割を担っているように見えますし、もしかするとそれぞれの教会に対して、特定の天使が責任を持っているのかもしれません(第一コリント11章10節)。

ともあれ、この幻の中で、イエス様は七つの教会の間を歩まれています。そして2章・3章によると、イエス様はその教会をよく見て、調べておられます。それぞれの教会には担当する天使がいますが、その天使たちもまた、イエス様の御手の中にあるのです。

イエス様の様子に関するヨハネの描写から、私たちは自分の裁き主について多くのことを学ぶことができます。

第一の象徴は、イエス様が賢明な方であるということです。イエス様の白い髪は、その賢明さを象徴しています。イエス様は弱々しいお祖父さんではなく、むしろ、真に賢明な方なのです。そして、その賢明さによって、人々を裁かれます。

第二の象徴は、イエス様の燃える炎のような目です。それは、イエス様がすべてを見抜かれることを意味します(2章23節)。

その御目によって、真理を隠すものは焼かれ、隠されたものは現れてきます。

第三の象徴は、イエス様の真鍮のような御足です。その御足はすべてを踏みしめます。つまり、イエス様は人を裁かれるのです。そして、悔い改めを拒む者にとって、その裁きは非常に厳しいものとなります(2:21〜23)。

そして、イエス様の御声は、大水の轟きのようです。つまり、イエス様は全能の主の力と権威によって語られるのです(エゼキエル記1:24)。

また、イエス様の御口からは、鋭い両刃の剣が出ています。なぜその剣には両刃があるのでしょうか。なぜなら、イエス様の裁きの言葉は、ただ人々を裁くだけではなく、私たちを癒してくださるからです。その言葉は罪人を断ち切りますが、傷ついた者を癒します。

2~3章で、私たちはその両刃の剣を目にします。

最後に、イエス様の御顔において、私たちは神様の栄光と聖さを見るのです。

ヨハネはイエス様を見たとき、恐れて、御足もとに倒れ込みました。すべての知恵と知識を持つ全能の神を目にしたなら、私たちも同じように倒れ込むことでしょう。

しかし、イエス様はヨハネを励まされました。そして、私たちのことも励ましてくださるのです。

恐れることはない。わたしは初めであり、終わりであり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。また、死とよみの鍵を持っている。(ヨハネの黙示録1:17-18)

どうしてヨハネには恐れる必要がなかったのでしょうか。 なぜなら、十字架において、イエス様は私たちの罪の代価を支払われたからです。 そして、イエス様の復活によって、天の父はイエス様の贖いを受け入れられたことを証明されたのです。 それゆえ、私たちは死から解放され、イエス様にあって永遠の命を持つのです。

ゆえに、裁きの日に、何が私たちを神様の愛から引き離すことができるでしょうか。 何もありません。

それでも、私たちは裁かれるのです。 イエス様は七つの金の燭台の間を歩かれておられます。 そして、イエス様はその教会の中にある一人一人を調べておられます。

これから数日にわたって、七つの教会への手紙を噛み締めましょう。 イエス様の言葉があなたを切り、癒すことを許しましょう。 悔い改めなくてはならないなら、すぐにそうするのが良いでしょう。 しかし、今あなたが傷ついているなら、その言葉の癒しを受けましょう。 そして、ヨハネの言葉を心に留めましょう。

私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。

神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。こうして、愛が私たちにあって全うされました。

ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。

私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。(第一ヨハネ4:16-19)

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ヨハネの黙示録

黙示録の土台である福音

ヨハネの黙示録について考えるとき、福音のことを連想する人はあまりいないでしょう。

しかし、黙示録の土台には福音があるのです。今日の箇所で、ヨハネはその福音を美しく描き出しています。

ヨハネから、アジアにある七つの教会へ。今おられ、昔おられ、やがて来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、また、確かな証人、死者の中から最初に生まれた方、地の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにあるように。

私たちを愛し、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、ご自分の父である神のために、私たちを王国とし、祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくあるように。アーメン。

見よ、その方は雲とともに来られる。すべての目が彼を見る。彼を突き刺した者たちさえも。地のすべての部族は彼のゆえに胸をたたいて悲しむ。しかり、アーメン。(黙示録1:4-7)

福音の関するいくつか大切なポイントがあります。

最初のポイントは、福音は三位一体である神から来るものだということです。

福音は天の父から来ます。天の父は今おられ、昔おられ、やがて来られる方です。

その肩書は出エジプト記3:14から来ています。その箇所でモーセに語られたとき、神様はご自身を「私はある」と呼ばれました。つまり、「私は永遠の者」ということです。

また、福音は御座の前におられる七つの御霊からも来ます。それはおそらく、聖霊様に触れていると考えられます。

多くの聖書学者たちは、この肩書がイザヤ書11:2に基づいていると見ています。その箇所では聖霊様は「主の霊」、「知恵と悟りの霊」、「はかりごとと能力の霊」、「主を知る知識」と「主を恐れる霊」として描かれています。

さらに、聖書において「7」は「完全さ」を象徴する数字です。したがって、この数字は聖霊様が完全に神であることを示しているのです。

英語の「Martyr」、つまり「殉教者」という言葉は、ギリシャ語に由来しています。しかし元々は、「信仰のために殺された人」という意味ではなく、単に「証人」という意味でした。この箇所で、ヨハネはその言葉をイエス様に関して用いています。

とはいえ、ヨハネの時代には、すでにその言葉の意味が変化し始めていました。それは「自分の証のために死ぬ覚悟をもつ人」という意味になりつつあったのです。(例えば、黙示録2:13)

ですから、ある意味でイエス様は、証人であるだけでなく、殉教者でもありました。

さらに、イエス様は「死者の中から最初に生まれた方」です。当時の文化では「最初に生まれた方」とは「卓越した者」を意味します。言い換えるなら、イエス様は復活者の中で卓越したお方です。

では、なぜイエス様はそう呼ばれているのでしょうか。

その答えは、18節に記されています。

(わたしは」生きている者である。わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。また、死とよみの鍵を持っている。(18)

ラザロや他の人たちは復活したあと、二度目の肉体の死を味わわなくてはなりませんでしたが、イエス様は二度と死ぬことはありません。

さらに、イエス様は、以前復活した人たちだけでなく、将来に復活する人たちよりも優れているお方です。なぜなら、イエス様こそ、死とよみの鍵を持っておられるからです。そしてイエス様はご自身の御心に応じて、人々に永遠の命を与えてくださいます。

さらに、イエス様は永遠の王です。イエス様はこの世のすべての支配者たちの王なのです。

だからこそ、三位一体である神から私たちは恵みと平和の福音を受けるのです。

その福音とは、いったいどのようなものでしょうか。

神様は私たちを愛しておられます。イエス様は私たちの罪のために死なれ、私たちをその罪から解き放ってくださいました。私たちはもはや罪の奴隷ではなく、その罪のゆえに裁かれることもありません。

さらに、私たちは神様の国の民となり、祭司として神様に仕える者とされました。私たちは神様に直接アクセスできる存在となり、この世の人々に神様のために奉仕するのです。

そしてある日、イエス様はこの世にもう一度来られ、この世の人々を裁かれます。

なぜ私たちは、これらすべてのことを確信できるのでしょうか。 それは、神様がこう言われたからです。

神である主、今おられ、昔おられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」(8)

簡単に言えば、神様はすべてのことを支配しておられます。神様はすべてを始められ、すべてを終えられる方です。すべてのことは神様の御手の中にあります。

だからこそ、私たちは希望を持つことができるのです。

それが福音のメッセージです。それが黙示録のメッセージです。

神様に栄光と力が世々限りなくあるように。アーメン。(6)

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ヨハネの黙示録

神様の祝福を知るために

ヨハネの黙示録にようこそ!

これは聖書の最後の書です。

たぶん、この書を読もうとする人々の多くは、「どうして、黙示録を読まなくてはならないだろうか。この書はとても分かりにくいし、私たちが読む必要が本当にあるだろうか。この書はそんなに大切なんだろうか。」

簡単に答えると、「はい。そうです。」

多くの教会は黙示録を読むことを避けるでしょう。それでも、1章によれば、ヨハネも、神様も、この書がすべての教会で読まれるように望みました。それだけではなく、教会の人たちはその言葉を読むとき、そのメッセージが分かるはずでした。

ヨハネはこの言葉で、この書を始めます。

イエス・キリストの黙示。神はすぐに起こるべきことをしもべたちに示すため、これをキリストに与えられた。

そしてキリストは、御使いを遣わして、これをしもべヨハネに告げられた。ヨハネは、神のことばとイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてのことを証しした。(黙示録1:1-2)

私たちはメッセージの鎖を見ることができます。つまり、天の父がイエス様にメッセージを伝え、イエス様がそのメッセージを天使に伝え、天使がヨハネに伝え、最後にヨハネが教会に伝えるのです。

なぜでしょうか。それは、私たちがすぐに起こるべきことを知るためです。

多くのクリスチャンが黙示録を読まない理由は、たぶんそれが自分の人生と関係がないと思っているからでしょう。彼らは、それが遠い将来に関するメッセージだと考えているのです。

けれども、実際には、その言葉はヨハネの読み手たちと関係がありましたし、その後に続くクリスチャンたちとも強い関係がありました。だからこそ、ヨハネは「すぐに起こるべきことを示す」と言ったのです。彼は近い未来の出来事について語りました。

もちろん、ヨハネは遠い将来のことについても語りました。今なお成就していない預言もあります。ところが、彼の言葉にある出来事は、読み手たちの時代にすでに成就し始めていたのです。今の歴史を振り返れば、すでに成就した預言も見ることができます。

そして先ほど述べたように、ヨハネは、読み手たちがこの言葉を読んだとき、理解することを期待していたのです。だから、彼はこう言いました。

この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを守る者たちは、幸いである。時が近づいているからである。(3)

黙示録が分かりにくい書だと思われていたなら、ヨハネは上記の言葉を語らなかったはずです。ヨハネが期待していたのは、私たちがその言葉を読んで祝福されることでした。

なぜヨハネはそう願ったのでしょうか。それは、その言葉が成就する時が近づいていると彼が信じていたからです。

ヨハネの時代にも、いくつかの言葉はすでに成就しました。そして私たちの時代にも、ほかの言葉が成就しつつあります。もしかしたら、私たちが生きているうちに、その言葉のすべてが成就するかもしれません。

簡単に言えば、黙示録は私たちにとって非常に実用的な書なのです。日常生活の中で、私たちはこの言葉により、訓戒を受け、励まされるはずです。

だからこそ、イエス様はこう言われました。「耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。」

そうすれば、私たちは祝福を得るのです。

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ユダの手紙

他のクリスチャンたちが躓くとき

言うまでもなく、私たちは福音のメッセージを襲う人々と戦わなければなりません。けれども、それだけではなく、その戦いで影響を受けた人々の世話をすることも必要です。

そこでユダはまず、「疑いを抱く人々をあわれみなさい」と言います。

疑いを抱く人々を見下すのは簡単ですが、そうせずに、私たちは彼らに手を差し伸べ、愛を持って真理を語り、神様が彼らの目を開いてくださるよう祈るべきです。(エペソ4:15)

さらに、私たちは彼らを火の中から救い出さなければなりません。ある人々は気づかないうちに偽教師の影響を受けており、火に落ちる寸前にいるのです。

だからユダは私たちに言います。「彼らを放っておいて、火に落ちることを許してはいけません。彼らを助け、警告を与えなさい。」(ユダの手紙23)

また、私たちは偽りの教えにとりこになった人々をもあわれまなければなりません。そして、偽教師たち自身をもあわれむ必要があります。

イエス様がご自身の血によって彼らを買い取ってくださったのですから、彼らが悔い改めて神様に立ち返るよう促すべきです。

しかし、それと同時に、私たちは彼らが陥った落とし穴に陥らないよう、注意しなければなりません。むしろ、私たちは彼らの罪によって汚された衣服さえも忌み嫌うべきです。(22節)

罪は触れるものすべてを汚してしまいます。そのため、私たちは罪による汚れを避けるよう常に気を付ける必要があります。

また、その人に手を差し伸べるときに覚えておくべきことがあります。私たちが立つことができるのは、神様の恵みだけによるものです。もし神様の恵みがなければ、私たちもその人たちのように疑いを抱き、偽りに惑わされてしまうでしょう。

だからこそ、彼らを見下してはいけません。むしろ、ユダのように神様に感謝すべきです。

あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びとともに栄光の御前に立たせることができる方、私たちの救い主である唯一の神に、私たちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、支配、権威が、永遠の昔も今も、世々限りなくありますように。アーメン。(24-25節)

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ユダの手紙

私たちが誰と戦わなくてはならないのか

どうして欺きを認識することが難しいのでしょうか。それは、欺きが本質的に見破りにくいものだからです。そのため、偽教師たちは教会に簡単に入り込むことができるのです。もちろん、彼らが「私は偽教師です」と宣言することはありません。

むしろ、彼らは私たちと同じように見え、聞こえ、ふるまいます。けれども、注意深く見ると、彼らが実際には羊の皮を被った狼であることに気づくでしょう。では、どのようにして彼らを見分けることができるのでしょうか。

何よりもまず、私たちは彼らの教えを吟味しなければなりません。

前回の箇所で私たちが読んだように、ヨハネの時代には偽教師たちが神様の恵みを放縦に変えていました。彼らは「イエス様は私の主」と主張しましたが、その行いによってイエス様を否定していたのです。(ユダの手紙4)

さらに、偽教師を見分けるもう一つの方法は、彼らの態度や行いに注目することです。

例えば、彼らはあらゆる権威を認めることを拒みます。彼らは主の権威すら認めません。(8節)

また、彼らは霊的な力を理解していないため、その力を罵ります。彼らはサタンですら罵るのです。サタンが彼らよりも強い存在であるにもかかわらず、彼らはサタンをあざ笑います。

しかし、御使いのかしらミカエルでさえ、自分が正しいと分かっていたにもかかわらず、サタンに対してののしって裁きを宣言することはしませんでした。(8-10節)

さらに、彼らは本能によって理解できること、特に自分たちの情欲によって滅びます。(10節)

こうした理由で、ユダはその偽教師たちを厳しく非難しています。ユダの言葉は、パリサイ人や律法学者たちに対するイエス様の言葉に似ています。

ユダは、彼らを殺害者と呼びます。(彼らはカインの道を歩みました。)

また、ユダは彼らを欲深い者たちと呼びます。(彼らは自分たちの利益のためにバラムの迷いに陥りました。)

最後に、ユダは彼らを反逆者たちと呼びます。(彼らはコラのように背いて滅びました。)(11節)

コラの話に触れるかもしれませんが、ユダは彼らを「ぶつぶつ不満を言う者たち」とさらに呼びます。ユダによれば、彼らは「自らの欲望のままに生きています。その口は大げさなことを語り、利益のために人にへつらいます。」(16節)

そして、ユダは生き生きとした描写を用いて、偽教師たちを非難しています。ユダは彼らを「愛餐のしみ」と呼びました。彼らは本来、神様の羊に餌を与えるべき存在でしたが、羊たちをだまし、彼らのお金を搾取していたのです。

さらに、ユダは彼らを「風に吹き流される雨無し雲」と呼びました。その教師たちは多くの約束を口にしましたが、それを果たすことはありませんでした。また、彼ら自身がいつも流行の偽りの教えに流されていたのです。

ユダはまた、彼らを「枯れに枯れて根こそぎにされた、実りなき秋の木」と例えています。

さらに、ユダは彼らを「自分の恥を泡立たせる海の荒波」にもたとえました。

そして最後に、ユダは彼らを「さまよえる星」と呼びます。それは、偽教師たちの教えによって、迷っている人々がさらに深く迷い込んでしまうということを意味しています。(12-13節)

その偽教師の行き着く果ては何でしょうか。それは破滅です。(14-15節)

ユダの警告を聞いても、偽教師たちはあざ笑いながら自分たちの道を行き続けます。彼らは神の御霊に従わず、自分の本能に従い、教会を分裂させてしまいました。(18-19節)

皮肉なことに、最初は彼らが羊のように見えました。彼らは私たちのように聞こえ、私たちのようにふるまったのです。

しかし、それは新しい問題ではありません。

モーセがエジプトから導き出したイスラエルの民にも同じことが見られました。彼らはエジプトの力から救われましたが、自分たちの不信によって砂漠で死んでしまいました。(5節)

さらに、ある天使たちは自分たちの領分を守らず、自分のいるべき場所を捨てたために裁かれてしまいました。(6節)

ある聖書学者によれば、ユダはサタンの反逆に参加した天使たちについて言っていると考えられています。他の学者たちは、ノアの時代にある天使たちが人間の娘たちと結婚したと解釈しています。(私はその理論に疑問を感じますが。)

いずれにせよ、ユダのポイントは明確です。その人々や天使たちは、神様の選ばれた民に属しているように見えましたが、彼らの罪によって裁かれてしまったのです。

同様に、ユダの時代の偽教師たちは、ソドムとゴモラの人々のように罪に耽っていました。その結果、ソドムとゴモラの人々と同じように、偽教師たちは永遠の火の刑罰を受けることになりました。(7節)

私たちも彼らの模範に従うなら、同じ運命を迎えることになります。

だからこそ、ユダは私たちに警告し促します。

しかし、愛する者たち。あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。

神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに導く、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。(20-21節)

簡単に言えば、その偽教師たちを認識し、彼らの運命を避けたいと思うなら、私たちはイエス様にしっかりと根を張らなければなりません。

私たちはキリストの恵みと知識の中で成長し、その御霊と深く結びつかなければなりません。そして、主の愛にとどまり、イエス様の十字架の働きのおかげで、彼らに降りかかる裁きが私たちにとって希望であることを心に留めておくべきです。

あなた自身はどうですか。偽教師たちを認識し、信仰のために彼らと立ち向かうほどに、イエス様の真理に深く根を張っていますか。

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ユダの手紙

信仰のために戦う

イエス様の弟であるユダが書いたこの手紙の冒頭が、私は大好きです。

イエス・キリストのしもべ、ヤコブの兄弟ユダから、父なる神にあって愛され、イエス・キリストによって守られている、召された方々へ。(ユダの手紙1)

その冒頭の言葉は、最後の二つの聖句と深い関係があります。

あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びとともに栄光の御前に立たせることができる方、私たちの救い主である唯一の神に、私たちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、支配、権威が、永遠の昔も今も、世々限りなくありますように。アーメン。(24-25節)

それらはとても励ましに満ちた言葉です。私たちは神様に愛されており、自分の力によらずイエス様によって守られています。ユダがこの手紙を書いた理由を考慮すると、その真理を理解することは非常に重要です。

では、なぜユダはこの手紙を書いたのでしょうか。ユダ自身が説明しています。

愛する者たち。私たちがともにあずかっている救いについて、私はあなたがたに手紙を書こうと心から願っていましたが、聖徒たちにひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。(3節)

ここでは、二つの注意事項があります。

一つ目は、福音が完全なものであり、私たちに委ねられているということです。ヨハネが言ったように、私たちは福音を越えて進んではいけません。(第二ヨハネ9)

使徒たちが教えた福音よりも深い真理を持っていると主張する人は偽りを語っています。私たちの信仰は、一度きり伝えられたものなのです。

二つ目は、私たちはその信仰のために戦わなければならないということです。どうしてでしょうか。それは、サタンが常に福音のメッセージを破壊しようとしているからです。もし迫害によって福音を破壊できない場合、サタンは欺きによって福音を壊そうとします。

実際、使徒の時代にも同じことが起こっていました。

パウロはその危険について警告し、ペテロもヨハネも私たちに注意を促したのです。(使徒の働き20:30-31;第二ペテロ2:1;第一ヨハネ2:18-19)

そしてこの手紙の中で、ユダもまた私たちに警告しているのです。彼はこう言いました。

それは、ある者たちが忍び込んできたからです。彼らは不敬虔な者たちで、私たちの神の恵みを放縦に変え、唯一の支配者であり私たちの主であるイエス・キリストを否定しているので、以下のようなさばきにあうと昔から記されています。(4節)

2000年が経っても、何も変わっていません。ある人は自分がクリスチャンだと自称しながら、自分の罪を正当化します。

「大丈夫です。あえて罪を犯しますが、後で神様に『ごめんなさい』と言えば、神様は赦してくださるでしょう。」

そのような人は、イエス様を自分の主だと主張しながらも、その行いによってイエス様を否定しています。

さらに悪いことに、彼らは周りのクリスチャンたちにも同じように生きることを教えます。

このような理由で、ユダは私たちに信仰のために戦う必要があると教えています。私たちは偽教師やその偽りの教えと戦わなければなりません。

しかし、その戦いの中で、私たちが覚えておくべき大切なことがあります。

それは、私たちの勝利が確実であるということです。なぜなら、私たちは神様に招かれ、愛され、そしてイエス様によって守られているからです。

また、イエス様の十字架の働きのゆえに、いつの日か私たちは聖く傷のない者として神様の御前に立つことができるのです。その時、私たちは大いに喜ぶことでしょう。

だからこそ、絶望せずに、イエス様が再び来られるその日まで信仰のために戦い続けましょう。

アーメン。主イエスよ、来てください。(黙示録22:20)

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ヨハネの手紙第三

愛と真理のうちに歩むこと(2)

この手紙では、ヨハネはガイオという教会のリーダーに宛てて書きました。

この手紙を見ると、第一ヨハネと第二ヨハネにあるテーマが再び浮かび上がります。それは、愛と真理です。

けれども、この手紙では、そのテーマの応用の一つを見ることができます。それは、宣教師や福音を伝える人々をサポートすることです。

前回の記事で述べたように、ヨハネの時代には、多くの教師たちが各地を巡り、家の教会で教えていました。彼らはいわば宣教師であり、クリスチャンたちだけでなく、不信者たちにも神様の言葉を伝えました。

当然ながら、彼らは不信者たちから経済的なサポートを受けることはありませんでした。(ヨハネの手紙第3:7)

宣教師たちがイエス様のためにその奉仕をしていたため、ヨハネはガイオに対して、彼らに泊まる場所や食べ物、その他必要なものを提供するよう促しました。

(これに対して、第二ヨハネでは、ヨハネは読み手たちに偽教師をもてなさないよう命じています。)

たぶん、多くのクリスチャンたちはこのことをあまり考えないかもしれませんが、宣教師たちをサポートするとき、私たちは愛と真理のうちを歩んでいます。それは、私たちが真理を伝える働きを支えているからです。

また、そのサポートを通して、私たちは宣教師たちに対する愛だけでなく、彼らを通して福音を聞く人たちにも愛を示しています。

残念なことに、ディオテレペスという人は宣教師たちをサポートしませんでした。彼も教会のリーダーだったようですが、真理と愛のうちを歩かず、自分自身のために生きていました。

ヨハネによれば、ディオテレペスはかしらになりたがっていたため、ほかのリーダーたちや宣教師たちと働くことを拒んでいました。それどころか、ディオテレペスは彼らについて悪い噂を広めました。

さらに、彼の教会のメンバーたちがその宣教師たちを支えようとすると、彼は彼らを教会から追い出しました。(10節)

彼のプライドのために、彼は自分の教会のメンバーにこう言いました。「私はその人たちを応援しないので、あなたたちもその人たちを応援してはいけません。」

残念なことですが、今でもこのような態度を持つ牧師がいます。他の教会やクリスチャンの団体と協力しようとせず、自分の立場を守ることを最優先するのです。さらに、彼らは自分のプライドのため、自分以外の権威を認めません。

しかし、ヨハネはガイオにこう言います。

愛する者よ。悪を見習わないで、善を見習いなさい。(11)

要するに、「ディオテレペスのようにはならず、むしろ、愛と真理のうちを歩み続けましょう。」

あなたはどうでしょうか。あなたのお金で真理や真理を伝える人々を支えるでしょうか。特に、あなたの牧師をサポートするでしょうか。宣教師をサポートするでしょうか。

キリストのために働く人々を祝福するでしょうか。

もしかしたら、彼らの陰口を言ってしまうことはないでしょうか。

この世の人々にはイエス様が必要です。けれども、私たちが愛と真理のうちを歩まないなら、彼らはイエス様を見つけることができないでしょう。だからこそ、福音を伝える人々を積極的にサポートしましょう。

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ヨハネの手紙第二

真理と愛のうちに歩む

この短い手紙では、ヨハネはある教会の人々に宛てて書いています。ヨハネはその教会を「選ばれた婦人」と呼びます。おそらくヨハネは、教会がキリストの花嫁と呼ばれることに触れているのでしょう。

いずれにせよ、この手紙の二つのテーマを見つけるのは難しくありません。ヨハネはこう言いました。

長老(つまり,ヨハネ)から、選ばれた婦人とその子どもたちへ。

私はあなたがたを本当に愛しています。私だけでなく、真理を知っている人々はみな、愛しています。真理は私たちのうちにとどまり、いつまでも私たちとともにあるからです。

父なる神と、その御父の子イエス・キリストから、恵みとあわれみと平安が、真理と愛のうちに、私たちとともにありますように。(ヨハネの手紙第二1-3)

その短い箇所では、ヨハネは「真理」という言葉を4回使用しています。(「本当に愛している」という訳は、別訳で「真理にあって、あなたを愛している」という意味です。)

また、この言葉は4節にも見られます。

御父から私たちが受けた命令のとおりに、真理のうちを歩んでいる人たちが、あなたの子どもたちの中にいるのを知って、私は大いに喜んでいます。(4節)

クリスチャンたちが真理のうちに歩むことによって、ヨハネは喜びました。そして、もちろん天の父はさらに喜ばれるでしょう。

では、真理のうちに歩むとは、どういう意味なのでしょうか。

その一つの意味は、私たちが神様が語られたことを信じることです。特に、イエス様に関する天の父の言葉を信じることです。

つまり、イエス様がメシアであるということ、そして、天の父がイエス様を私たちを罪から救うために送られたということを信じることです。

私たちは、イエス様が人間としてこの世に来られ、十字架で私たちの罪の代価を支払い、三日目に復活されたことを信じるべきです。

その真理を否定する人は、天の父を嘘つきと呼ぶことになります。(第一ヨハネ5:10)

しかし、ヨハネの時代には多くの人々がその真理を否定しました。そのため、ヨハネは彼らを「人を惑わす者」や「反キリスト」と呼びました。(7節)

ヨハネは私たちに警告しています。

気をつけて、私たちが労して得たものを失わないように、むしろ豊かな報いを受けられるようにしなさい。

だれでも、「先を行って」キリストの教えにとどまらない者は、神を持っていません。

その教えにとどまる者こそ、御父も御子も持っています。(8-9節)

だから、真理のうちに歩むこととは、キリストが使徒たちに伝えられた教えにとどまることを意味します。もしその教えを超え、別の教えを受け入れてしまうなら、実際には神様を持っていないのです。

この世では、それを常に覚えていなければなりません。なぜなら、多くの人々が神様に代わって教えると主張していますが、イエス様や使徒たちが教えたことを超えてしまうからです。

その結果、彼らは真理から離れてしまいます。そのため、ヨハネは私たちに警告します。「そうしてはならない。あなたがキリストから受けた真理にとどまりなさい。」

さらに、真理のうちに歩むことにはもう一つの意味があります。それは、キリストと使徒たちの教えに反対する人々の働きに参加しないことです。ヨハネはこう言います。

あなたがたのところに来る人で、この教えを携えていない者は、家に受け入れてはいけません。あいさつのことばをかけてもいけません。

そういう人にあいさつすれば、その悪い行いをともにすることになります。(10-11節)

その言葉を誤解しないでください。私たちが決して自分の家でノン・クリスチャンたちをもてなすべきではないという意味ではありません。

ヨハネの時代、多くの教師たちが各地を巡り、家の教会で教えていました。けれども、もし偽教師を受け入れると、私たちは彼らの偽りの教えを推進することになります。

残念なことではありますが、多くの偽教師たちが教会に入り込み、偽りの教えを広めています。私たちは彼らを止めなくてはなりません。

そのため、どのゲストスピーカーが教会で教えるかに関して、牧師たちは注意を払う必要があります。そうしなければ、神様はその牧師に責任を問われます。

この手紙のもう一つのテーマは愛です。ヨハネはこう言いました。

そこで婦人よ、今あなたにお願いします。それは、新しい命令としてあなたに書くのではなく、私たちが初めから持っていた命令です。私たちは互いに愛し合いましょう。

私たちが御父の命令にしたがって歩むこと、それが愛です。あなたがたが初めから聞いているように、愛のうちを歩むこと、それが命令です。(5-6節)

残念なことですが、多くの教会は真理をちゃんと持っていますが、人を愛しません。むしろ、噂や陰口や喧嘩などがその教会で蔓延してしまいます。

真理を知ることだけでは十分ではありません。私たちはその真理によって生きるべきです。特に、私たちは人を愛すべきです。

あなたはどうですか。真理と愛のうちに歩んでいるでしょうか。

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ヨハネの手紙第一

死に至る罪

16-17節で、ヨハネは不思議で興味深いことを言います

だれでも、兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば、神はその人にいのちを与えてくださいます。

これは、死に至らない罪を犯している人たちの場合です。

しかし、死に至る罪があります。これについては、願うようにとは言いません。

不義はすべて罪ですが、死に至らない罪もあります。 (ヨハネの手紙第一5:16-17)

おそらく、ヨハネはヤコブが自分の手紙で述べた内容に触れているのではないでしょうか。ヤコブはこう言いました。

あなたがたのうちに病気の人がいれば、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。

信仰による祈りは、病んでいる人を救います。主はその人を立ち上がらせてくださいます。もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。(ヤコブ5:14-15)

多くの場合、病気は罪と直接の関係がないのです。むしろ、その病気は壊れた世界に生きていることから生じるのです。

しかし、ヤコブによれば、神様の裁きによって人が病気になる可能性もあるのです。そのため、私たちがその人のために祈ると、その人は癒されるだけでなく、その罪も赦されるのです。

ところが、ヨハネはヤコブの言葉に条件を加えています。ヨハネによれば、人が死に至る罪を犯すと、その人のために祈ることは無意味だとしています。

それでは、「死に至る罪」とは何でしょうか。18-19節でヨハネはそのことについて説明しているのです。

神から生まれた者はみな罪を犯さないこと、神から生まれた方がその人を守っておられ、悪い者はその人に触れることができないことを、私たちは知っています。

私たちは神に属していますが、世全体は悪い者の支配下にあることを、私たちは知っています。(ヨハネの手紙第一5:18-19)

この手紙の中で、ヨハネはあえて罪を犯すことについて何度も警告しています。彼は繰り返しこう述べます。「神様の子どもは罪を犯す習慣を持っていません。」

18-19節で、ヨハネはその理由を説明しています。それは、イエス様が神様の子どもの心の中で働いておられるからです。

この全世界はサタンに支配されているかもしれませんが、私たちに関してはそうではありません。この世の人々はサタンの誘惑を克服することができませんが、神様の力によって、私たちは克服することができます。

したがって、悔い改めずにあえて罪を犯し続ける兄弟の運命は「死」です。

ヨハネが「死」と言うとき、それは何を意味しているのでしょうか。

一つの可能性は、神様がその人の命を取ることを意味しているのかもしれません。聖書の中には、そのような例が記されています。(使徒の働き5:1-10、第一コリント5:5、11:27-30)

もう一つの可能性は、その人が偽兄弟であることです。

その人は決して救われていなかったため、地獄に行くのです。その人は真理を知り、それを信じていると主張しましたが、彼の人生がその偽りを明らかにしたのです。

その人が真理を知っていた分だけ、神様は特にその責任を問われるのです。その人には何の言い訳も許されないのです。(へブル10:26-31)

要するに、すべての罪が同じというわけではありません。私たちすべてが時には罪を犯してしまうことがあります。ヨハネが述べたように、不義はすべて罪です。けれども、ふと罪に陥ることと、あえて罪に飛び込むこととは全く異なるものです。

もしあなたが罪を犯してしまっても、悔い改めるならば、神様はあなたを赦してくださいます。

ところが、悔い改めを拒むならば、神様の赦しを受けることはできません。その結果、あなたは神様の裁きを受けるしかありません。その裁きはこの世においても、死後においても下るかもしれません。

それでも、ヨハネは私たちのためにより良い希望を示しています。

また、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことも、知っています。私たちは真実な方のうちに、その御子イエス・キリストのうちにいるのです。

この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。(20)

つまり、イエス様はこの世に来られ、私たちの心と思いを真理に向けて開いてくださったということです。今や、私たちは神様を知り、イエス様のうちにとどまっています。また、イエス様も私たちのうちにとどまっています。

このようにして、私たちはいのちを持っています。

だからこそ、ヨハネはこの言葉をもってこの手紙を締めくくります。

子どもたち、偶像から自分を守りなさい。(21)

ヨハネは私たちにこう言っています。「あなたは真理に属しています。あなたは真の神に属しています。だから、自分自身を罪やこの世のものにあえて捧げてはなりません。それらは、神様が私たちのために備えたものの偽物です。

だから、罪から離れましょう。そしてイエス様のもとへ走りましょう。命であるイエス様に自分自身を捧げましょう。」

あなたは、自分自身を誰に捧げていますか。

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ヨハネの手紙第一

私たちに対する神様の愛に関する確信を持つなら

この手紙では、ヨハネの話がしばしばあっちこっちに飛んでいるように見えるかもしれません。

特に13節と14節では、そのように感じられるでしょう。ヨハネは私たちの救いの確信について話していたかと思うと、突然、神様が私たちの祈りに答えることについて語り始めます。それはなぜでしょうか。

しかし、この場合、その二つの聖句には深い繋がりがあるように思います。パウロはこう書きました。

私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。(ローマ8:32)

言い換えると、神様が最も尊いものを私たちに与えるほど私たちを愛しておられるのなら、神様は私たちのすべてのニーズにも備えてくださる、ということです。

おそらくヨハネも同じことを言っているのでしょう。彼はこう言いました。

神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。

何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。(ヨハネの手紙第一5:13-14)

時々、私たちは神様に何かを願うことをためらうことがあります。それは、自分が自己中心だと思うかもしれないからです。

しかし、神様の子どもとして、どんな願いであっても確信を持って神様に頼むべきです。なぜでしょうか。

それは、私たちが神様を呼び求めたとき、神様が私たちを救ってくださったほどに、神様は私たちを愛しておられるからです。その愛ゆえに、神様は私たちの大きな願いも小さな願いも聞いてくださいます。

さらに、神様が私たちを救ってくださったので、私たちは神様が私たちの最善を望んでおられることを確信できます。だから、神様は私たちを傷つけるものではなく、良い賜物だけを与えてくださるのです。

これが、私たちの願いの条件です。もし私たちが神の御心に従って願うなら、神様はその願いを聞いてくださいます。そして、もしその願いが私たちの益となるなら、神様はその祈りをかなえてくださいます。

けれども、その願いが私たちの益とならないのであれば、神様はその祈りをかなえてくださらないのです。

ですから、神様に願うことをためらわず、どんな願いもお伝えしましょう。

そして、神様に信頼する心を持ちましょう。神様が「はい」と答えるときも、「いいえ」と答えるときも、私たちは神様に信頼する子どもとして、神様が私たちの最善を望んでおられることを信じましょう。

十字架において、神様は私たちに対する愛と信頼に値するお方であることを証明されたのです。

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ヨハネの手紙第一

神様の証し

神様が三位一体として救いの道を証しされるということは、非常に興味深いことだと思います。この記事を書く前には、そのことについて考えたことがありませんでした。

ヨハネはこう言いました。

この方は、水と血によって来られた方、イエス・キリストです。水によるだけではなく、水と血によって来られました。

御霊はこのことを証しする方です。御霊は真理だからです。三つのものが証しをします。御霊と水と血です。この三つは一致しています。(ヨハネの手紙第一5:6-8)

この手紙の背景を知らないと、その言葉を理解するのは少し難しいかもしれません。

ヨハネの時代、多くの人々は「イエス様はいつもキリスト(救い主)でいたわけではない」と主張していました。むしろ、彼らは非常に奇妙な教えを信じていたのです。

それは、イエス様がバプテスマを受けたときに「キリスト」という霊がイエス様の中に入ったものの、十字架にかかったときには、その霊がイエス様から立ち去った、というものです。

そのため、彼らの主張によれば、イエス様は十字架で死んだときにはキリストではなくなっており、私たちの罪の代価を支払うことができなかった、というわけです。

しかし、イエス様はバプテスマのときだけでなく、十字架で死なれたときにも、御自分がキリストであることを証明されました。

バプテスマのとき(つまり、水の証し)、天の父がイエス様を称賛され、聖霊様が鳩のようにイエス様の上に降られました(つまり、御霊の証し)。

そして、聖書の預言通りに、イエス様は十字架で私たちの罪の代価を支払ってくださいました(つまり、血の証し)。

このように、天の父と御子と御霊、すべてが一致して救いの道を証ししています。その証しとは、救いがメシアを通してもたらされる、ということです。(「キリスト」とは「メシア」、すなわち「王と救い主」を意味します。)

では、なぜこの証しが重要なのでしょうか。それは、神様が証しされるなら、それに反論できる者は誰もいないからです。9-10節でヨハネはそのように主張しています。

私たちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しはそれにまさるものです。御子について証しされたことが、神の証しなのですから。

神の御子を信じる者は、その証しを自分のうちに持っています。神を信じない者は、神を偽り者としています。神が御子について証しされた証言を信じていないからです。(9-10)

私たちはしばしば人々の証しを信じます。それなら、どうして神様の証しを疑うのでしょうか。

神様がその証しをされた以上、神様に従っていると主張しながら、その証しを拒絶することはできません。

では、具体的にその証しとは何でしょうか。11-12節でヨハネは私たちに教えています。

その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。(11-12)

けれども、多くの人々はその証しを好みません。彼らは、イエス様以外にも多くの救いの道があると信じたいのです。

しかし、ヨハネによれば、私たちがそのように主張するなら、それは実際に神様を嘘つきと呼ぶことになります。

神様の証しを信じることで初めて、私たちは自分の救いについて平安と確信を持つことができます。

どうしてでしょうか。それは、私たちの救いが自分の行いに基づいていないからです。むしろ、その救いは神様の恵みとイエス様の十字架の働きに基づいています。私たちがしなければならないのは、その賜物をただ受け取ることだけです。

だからこそ、ヨハネはこう言います。

神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。(13)

ヨハネは、「あなたがたに永遠のいのちの微かな希望を与えるため」とは言わずに、「永遠のいのちの確信を与えるため」と語っています。

あなたはどうでしょうか。神様の証しを受け入れていますか。永遠のいのちの確信を持っていますか。

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ヨハネの手紙第一

私たちに対する神様の愛

前回の記事で私は、4章に戻るとお伝えしました。その聖句は非常に重要で、前回の記事の内容とも深く関係しています。

以前にも述べたように、私たちが神様の愛を受け入れ、それを深く味わえば味わうほど、自分自身に対する視点や周りの人々に対する視点が変わります。

だからこそ、その愛をさらに深く受け入れましょう。

ヨハネは次のように言います。

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(ヨハネの手紙第一4:9-10)

その言葉を噛み締めましょう。

神様は私たちが地獄に行くことを許すことができたでしょう。それは神様の権利でした。神様には人を救う義務はありませんでした。

少し考えてみてください。神様は罪を犯した天使たちのためにイエス様を十字架に送ったでしょうか。神様はそうされませんでした。イエス様は人間たちだけのために死なれたのです。

また、神様はこの世を裁くためにイエス様を送ることもできたでしょう。イエス様は私たち全員を反逆者として裁くことができたでしょう。ところが、神様は私たちを裁くためではなく、私たちに命を与えるためにイエス様を送ってくださいました。

驚くべきことは、私たちが救いを求めていなかったという事実です。私たちは「神様、私は罪を犯しました。でも、あなたを愛しています。だから私を救ってください」と願ったわけではありません。

むしろ、私たちは自分の罪に耽り、それに満足していました。私たちには神様に従う意思がまったくありませんでした。

それでも、神様は私たちに目を向けてくださいました。それは私たちを裁くためではなく、私たちを救うためでした。

だから、神様はイエス様を宥めの供え物として送られたのです。

以前にも書きましたが、人々は神様を宥めるために供え物を捧げてきました。

しかし、神様は私たちがそのような供え物を捧げるのを待たれませんでした。私たちはその気がなかったし、たとえその気があったとしても、どんな供え物を捧げても神様を宥めることなどできなかったでしょう。

それでも、神様は私たちの代わりに供え物を捧げてくださったのです。

ヨハネの言葉はパウロの言葉に通じるものがあります。

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。(ローマ5:8)

神様が私たちのためにしてくださったことを、当たり前のものだと考えるのは簡単です。

しかし、そうしてはいけません。今日の第一ヨハネの聖句とローマ5:8を暗記しましょう。その言葉について思いを巡らせ、その真理を心に刻み込まれるようにしましょう。

そうすることで、あなたの人生は完全に変わるでしょう。

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ヨハネの手紙第一

私たちが本当に神様を知り、愛するなら(2)

今日は4章の聖句を一旦飛ばし、次の記事でその聖句に戻りたいと思います。今日は前回の話を完成させたいと思います。

以前の記事で述べたように、もし私たちが本当に神様を知り、愛しているなら、周りの人々への愛が私たちから自然に流れ出るはずです。だからこそ、ヨハネはこう語りました。

生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します。(ヨハネの手紙第一5:1)

また、4章の終わりでヨハネは、「目に見える兄弟を愛していない人が、目に見えない神を愛することを主張することはできない」と言います。(4:20)

それでも、クリスチャンになったからといって、すぐにすべての人々を愛せるわけではありません。愛の実は、他の御霊の実と同じように、成長するのに時間がかかります。けれども、その実は必ず成長していきます。

2節には非常に興味深い言葉があります。ヨハネはこう言います。

このことから分かるように、神を愛し、その命令を守るときはいつでも、私たちは神の子どもたちを愛するのです。(2)

4章で読んだ内容から、ヨハネが反対のことを言うだろうと予想したかもしれません。つまり、「どうして私たちは自分が神様を愛していると知ることができるのでしょうか。それは、私たちが神様の子どもたちを愛するからです」ということです。

しかし、ヨハネが実際に語ったのは、「神を愛し、その命令を守るときはいつでも、私たちは神の子どもたちを愛する」ということです。

この二つの言葉の間には微妙な違いがあります。その違いは、私たちの焦点にあります。

最初の言葉では、自分が神様を愛していることを証明するために、私たちは一生懸命に周りの人々を愛することに焦点を当てています。けれども、人を愛するのが難しいときもあるので、その言葉は重荷になりがちです。

一方で、二つ目の言葉によれば、私たちは人々を愛することに集中せずに、神様を愛することに集中します。人々ではなく、神様が私たちの焦点です。

そして、神様ご自身や、私たちに対する神様の愛、さらには神様に対する私たちの愛に焦点を当てることで、私たちは自然に神様を喜ばせたいと思うようになります。その結果、私たちは神様の命令を守るのです。

最も重要な命令は二つあります。一つ目は、私たちは何よりもまず神様を愛するべきだということです。二つ目は、私たちは周りの人々を愛するべきだということです。これが愛の順序です。

したがって、神様を愛することに集中するならば、私たちは自然に人々を愛し始めます。

さらに、私たちが主に神様を愛することに集中すると、周りの人々を愛するという重荷が軽くなります。それはなぜでしょうか。

神様に焦点を当てると、私たちは神様の愛をもっと深く知るようになります。そして、その愛を受け入れれば受け入れるほど、私たちの視点が変わります。自分自身に対する視点も変わり、周りの人々に対する視点も変わるのです。

もはや、私たちは自分自身や周りの人々を性格や外見の美しさによって判断しません。むしろ、私たちは神様の目を通して自分自身と周りの人々を見るようになります。

神様は、私たちをゆがめる罪を見るのではなく、初めから私たちに与えてくださった神の似姿をご覧になります。その姿を見るとき、私たちが自分自身や周りの人々を愛することが、より簡単になります。

だからこそ、ヨハネは、神様の命令、特に人を愛するという命令に関して次のように語ることができるのです。

神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。(3-4)

神から生まれた者は皆、神様の愛をますます深く知るようになります。そして、その自然な反応として、彼らは神様を愛し、周りの人々を愛するようになります。だからこそ、私たちは罪や憎しみ、そしてこの世界からの攻撃を乗り越えることができるのです。

しかし、そのカギを決して忘れないでください。

世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。(5)

あなたはどうでしょうか。イエス様が神の子であると信じますか。イエス様があなたの罪のために命を捧げたほどに、神様があなたを愛しておられることを信じますか。その真理に深く浸りましょう。そうすれば、あなたの人生は完全に変わるでしょう。

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ヨハネの手紙第一

私たちが本当に神様を知り、愛するなら

イエス様は偽預言者たちについて、次のように語られました。

あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。(マタイ7:16)

イエス様は特に偽預言者たちについて語られましたが、私たちは自称クリスチャンたちについても同じことを言うことができます。多くの人々はキリストに従っていると主張し、神様を知り、愛していると述べます。しかし、彼らの実は何でしょうか。

もちろん、最も大切な実は愛です。

だからこそ、ヨハネはこう言います。

愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。

愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。(ヨハネの手紙第一4:7-8)

また、

愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。

いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。(11-12)

ヨハネによれば、神が私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされる証拠とは何でしょうか。それは、私たちが互いに愛し合うことです。

さらにヨハネは、この教えを深めていきます。神様がイエス様を世の救い主として送られたことを宣言した後、ヨハネは、その真理を私たちの心の中で受け入れたときの当然の反応を説明します。彼はこう言います。

だれでも、イエスが神の御子であると告白するなら、神はその人のうちにとどまり、その人も神のうちにとどまっています。私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。

神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。(15-16)

ヨハネは、私たちの神様との関係が、私たちが人を愛するかどうかによるものだと言っているのではありません。むしろ、私たちが神様のうちにとどまり、神様も私たちのうちにとどまっておられるからこそ、私たちは人を愛し始めるのです。

では、なぜヨハネはそう語るのでしょうか。

それは、私たちが神様が私たちのために何をしてくださったかを本当に理解するとき、私たちの考え方が完全に変わるからです。

その結果、私たちは自分の自己価値を疑うことがなくなります。私たちは自分の価値が周りの人々の意見に基づいていないことを知るようになります。むしろ、神様が私たちを愛してくださるという確信を持つのです。

その確信こそが、私たちの人生を完全に変えるのです。

そして、裁きの日においても、私たちはその確信を持ち続けます。

ヨハネはこう言います。

こうして、愛が私たちにあって全うされました。ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。(4:17-18)

ヨハネはこの話を次のようにまとめています。

私たちは愛しています。神が私たちを愛してくださったからです。(4:19)

そういうわけで、ヨハネはこう言います。

神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することは出来ません。

神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。

イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します。(4:20-21,5:1)

要するに、私たちが本当に神様を知り、愛しているなら、神様のほかの子どもたちをも愛するはずです。

もし、私たちにとって周りの人々を愛することが難しいとしても、それは私たちがクリスチャンではないということを意味するわけではありません。

愛は神様との関係から生まれる実です。すべての実と同じように、その実は最初は小さいものです。しかし、その実は次第に成長していきます。

私たちの神様との関係が深まれば深まるほど、また、神様の愛をよりよく理解すれば理解するほど、周りの人々に対する私たちの愛も成長していくはずです。

次の記事では、この話をさらに続けたいと思います。

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ヨハネの手紙第一

霊を吟味する

多くの人々は、自分がキリストに従い、聖霊様を持ち、福音を宣べ伝えていると主張します。けれども、私たちが問わなければならないのは、その人たちが本当のキリストに従い、本当の聖霊様を持ち、本当の福音を宣べ伝えているかどうかということです。

パウロはコリントのクリスチャンたちのことを心配していたので、次のように言いました。

蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔から離れてしまうのではないかと、私は心配しています。

実際、だれかが来て、私たちが宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいは、あなたがたが受けたことのない異なる霊や、受け入れたことのない異なる福音を受けたりしても、あなたがたはよく我慢しています。(第二コリント11:3-4)

ヨハネにもそのような心配があったため、この手紙を書きました。4章32節でヨハネは、私たちが神様が与えてくださった御霊によって、神様が私たちのうちにとどまっておられることが分かると言っています。その後、ヨハネは私たちに警告を与えます。

愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。(ヨハネの手紙第一4:1)

私は、ヨハネが急に話題を変えたわけではないと思います。むしろ、この二つの聖句は繋がっていると感じます。

ヨハネによれば、聖霊様は私たちのうちにとどまっておられるのです。それと同時に、ヨハネが警告しているのは、悪霊たちも存在するということです。さらに、多くの場合、彼らは光の御使いに変装するので、私たちは注意を払わなくてはならないのです。

旧約聖書の時代に偽預言者たちがいたように、ヨハネの時代にも偽預言者がいました。そして、現代にも偽預言者が存在しています。その偽預言者たちは皆、悪霊から力を受けています。

したがって、ある人が神様の言葉を伝えると主張するのであれば、私たちはその人とその言葉を吟味しなくてはなりません。彼らの滑らかな話し方や霊的な経験に惑わされてはいけません。

では、どのようにして私たちは御霊と悪霊を区別できるのでしょうか。

一つの方法は、彼らのイエス様に関する教えを吟味することです。

ヨハネの時代には、多くの人々が、イエス様が本当にこの世に人間として来られたかどうかを疑っていました。彼らによれば、イエス様は人間に見えたけれど、本当の人間ではなかったとされています。

現代では、イエス様が人間であったかどうかを疑う人はそれほど多くないのです。けれども、彼らはイエス様が神であるかどうかを疑うのです。

ヨハネによれば、イエス様の本性を認めない人、つまり、イエス様が100%人間であり、同時に100%神であることを認めない人は、神様から来たものではありません(4:2-3)。

もう一つの方法は、その人の教えが、イエス様や福音に関する使徒たちの教えに反しているかどうかを吟味することです。ヨハネはこう言います。

私たちは神から出た者です。神を知っている者は私たちの言うことを聞き、神から出ていない者は私たちの言うことを聞きません。

それによって私たちは、真理の霊と偽りの霊を見分けます。(4:6)

その言葉は厳しいものです。けれども、その言葉によって、私たちは神様から与えられた使徒たちの権威を理解することができます。

したがって、「私は神様に従う」と主張しながら、使徒の教えに反対することはできません。そのような人の言葉を聞くと、その人が神様から来た者ではないことが分かります。

残念なことに、多くの人々は自分が聞くことを吟味しません。むしろ、ある牧師や教師が「自分はイエス様に従っている」と主張すると、簡単にその人を信じてしまいます。

その結果、彼らは暗闇に落ちてしまいます。彼らはイエス様に従わずに、反キリストたちに従っています。

しかし、私たちが霊たちを吟味すれば、そのような恐れは必要ありません。なぜなら、ヨハネはこう言いますからです。

子どもたち。あなたがたは神から出た者であり、彼らに勝ちました。あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも偉大だからです。(4:4)

あなたはどうでしょうか。霊たちを吟味していますか。

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ヨハネの手紙第一

でも、私は本当に救われているだろうか。

「でも、私は本当に救われているだろうか。」

以前の記事で書きましたが、子どもの頃、私はその疑問をよく抱いていました。

正直に言うと、その疑問に答えるのは難しいことなのです。なぜなら、神様だけが人間の心をご存じだからです。

また、私たちが神の子どものしるしを自分に当てはめようとするとき、自分の失敗をよく見るのです。私たちは罪を犯すこともあれば、人を愛さないこともあるのです。

それでも、私たちは少なくとも確信をもって「イエス様を本当に信じています。私の救いのためにイエス様に信頼しています」と言えるはずです。

けれども、もし自分の救いに関して確信を持てないなら、私はこの心強い言葉をお伝えしたいと思います。自分の欠点を見て心配するのであれば、私はあなたが救われていると思います。

私が疑うのは、自分の罪を気にせずに「私はクリスチャンだ」と主張する人です。

以前も言いましたが、本当のクリスチャンはイエス様のようになりたいと願います。なぜなら、彼らはイエス様を愛しているからです。だから、罪に陥るとき、彼らは自責の念に苦しみます。

一方で、偽クリスチャンはイエス様のようになりたいとは思いません。だから、罪に陥っても気にしないのです。

さらに、偽クリスチャンは自分の罪や愛の欠如について常に言い訳をします。本当のクリスチャンはそれらを悲しみ、悔い改めるのです。

とはいえ、あなたが自分のクリスチャン生活を振り返ると、変化が見られるはずです。周りの人々に対するあなたの態度が変わっているはずです。つまり、ますます彼らをあわれみ、愛するようになっているはずです。

また、自分の罪を見たとき、以前よりも違和感を覚えるはずです。以前は気にならなかった罪が、今では気になるものになっているでしょう。

ヨハネは、クリスチャンがそのような変化を経験しないという考えを一切想像しませんでした。

しかし、もう一つ注目すべきことがあります。それは、最近の英語訳聖書で見られることです。

日本語の聖書では、こう書かれています。

そうすることによって(つまり、人を愛することによって)、私たちは自分が真理に属していることを知り、神の御前に心安らかでいられます。

たとえ自分の心が責めたとしても、安らかでいられます。神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存じだからです。(ヨハネの手紙第一3:19-20)

新改訳では、19節は18節を指しています。

けれども、最近の英訳では、別の訳を見ることができます。それによると、19節は20節を指しています。つまり、

以下のことによって、私たちは自分が真理に属していることを知り、神の御前に心安らかでいられます。

たとえ自分の心が責めたとしても、安らかでいられます。神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存じだからです。

要するに、自分があまり変わっていないと感じて罪悪感を抱いたり、変化を見ていながらもなお罪悪感を持つなら、次の大切な真理を理解してください。それは、自分の感情があなたの裁判官ではないということです。裁判官は神様です。

そして、神様はすべてをご存じです。神様は、あなたが本当に神様を愛しているかどうかを見分けることができます。また、神様はご自身がどのようにあなたの人生を変えたかを完全に理解されています。

だから、罪悪感に苦しんでいるのなら、神様を追い求め続けましょう。イエス様のようにもっと近づけるよう努めましょう。周りの人々にイエス様の愛を示しましょう。

もし罪に陥ったなら、立ち上がって悔い改め、もう一度歩み始めましょう。神様がいつもあなたの味方であることを心に留めておきましょう。

神様はあなたをいつも責めているわけではありません。もしあなたが神様を愛しているなら、神様はその愛を認め、決してあなたをあきらめません。

さらに、神様の恵みを深く知れば知るほど、その罪悪感は次第に消えていくでしょう。だからこそ、ヨハネはこう言います。

愛する者たち。自分の心が責めないなら、私たちは神の御前に確信を持つことができます。そして、求めるものを何でも神からいただくことができます。私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。(21-22)

言い換えると、あなたの恐れは消え、神様の愛に対する確信を持ち、人生が変わり、神様との関係はさらに親密になります。

あなたの思いが天の父の思いと一致し、神様の御心に従って祈り始めます。そうするとき、神様がその祈りに応えてくださるので、あなたの喜びは溢れ出し、神様に属しているという確信がさらに強まります。

しかし、その日が来るまで、神様を追い求め続け、ヤコブの言葉を心に留めておきましょう。

神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪人たち、手をきよめなさい。二心の者たち、心を清めなさい。(ヤコブ4:8)

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ヨハネの手紙第一

神の子どものしるし(3)

「行動は言葉よりも雄弁です。」

神の子どもにとって、それは真理です。ヤコブの手紙ではその真理を見ることができますし、この手紙でもその真理を見ることができます。

イエス様の行動は非常に雄弁でした。

ヨハネはこう言います。

キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。(ヨハネの手紙第一3:16)

言い換えると、愛は本当に実践的なものです。十字架で死なれることによって、イエス様はご自身の愛を示されました。そのように、私たちも兄弟たちと姉妹たちのために命を捨てるなら、自分の愛を示すことになるのです。

私たちがその真理を見逃さないように、ヨハネは続けてこう言います。

この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。

子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。(17-18)

要するに、愛は何もしないものではありません。むしろ、相手の必要を見たとき、愛は哀れみをもって手を伸ばします。

それは神の子どものしるしであるはずです。ただ愛の言葉ではなく、むしろ愛の行動です。

もし私たちが傷ついている人たちを見ても、彼らに対する哀れみを持たず、自分自身に集中しているだけなら、どうして自分が神の子どもと自称できるでしょうか。私たちが神様の愛を受けているのに、どうして彼らに手を伸ばさないのでしょうか。

あなたはどうでしょうか。あなたの人生は愛で特徴づけられているでしょうか。周りの人々を哀れんでいるでしょうか。それとも、もしかしたら気にしていないでしょうか。

イエス様の言葉を心に留めておきましょう。

まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。。。

おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ。(マタイ25:40,45)

周りの人々に対する自分の愛は、あなたについて何を語っているでしょうか。

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ヨハネの手紙第一

神の子どものしるし(2)

前回の記事では、私たちが見たのは、神の子どものしるしが義であるということです。れっきとした神の子どもたちは、清くなりたいと願います。なぜなら、彼らが愛するイエス様が清い方だからです。

そして、罪に陥ったとき、彼らはその罪を後悔し、すぐに悔い改めます。

私が初めて汚い言葉を口にした時のことを、今でもよく覚えています。そのとき私は中学生で、意図的にそうしたことを覚えています。しかし、その後、私は罪悪感に駆られ、それ以来、二度とそのような言葉を使ったことはありません。

おそらく、その罪悪感を感じた理由は、私が神の子どもだからでしょう。本当のクリスチャンがあえて罪を犯す習慣を持つことはあり得ません。また、罪を犯すときには、本当のクリスチャンはすぐに悔い改めるはずです。

それでも、クリスチャンが罪を犯すこともあります。だからこそ、ヨハネは私たちにこう促します。

さあ、子どもたち、キリストのうちにとどまりなさい。そうすれば、キリストが現れるとき、私たちは確信を持つことができ、来臨のときに御前で恥じることはありません。(ヨハネの手紙第一2:28)

どうやって、私たちはイエス様のうちにとどまることができるでしょうか。ヨハネは3章の最後で教えています。

私たちが御子イエス・キリストの名を信じ、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合うこと、それが神の命令です。

神の命令を守る者は神のうちにとどまり、神もまた、その人のうちにとどまります。

神が私たちのうちにとどまっておられることは、神が私たちに与えてくださった御霊によって分かります。(3:23-24)

ようするに、イエス様が現れるとき、確信を持って恥じることのないようにしたいのであれば、神様に従わなくてはなりません。また、神様の言葉に従わなくてはなりません。

神様は私たちに何を命じたのでしょうか。一番大切な命令は、イエス様を信じることです。私たちは自分の救いのためにイエス様を信じる必要があります。

実は、その信仰こそクリスチャンの最初のしるしです。人間の根本的な問題は、私たちが神様に背を向け、「私は自分の道を行く。私は自分のために生きる」と言うことです。

しかし、人がクリスチャンになると、その人の最初の決断は、その考え方を捨てることです。むしろ、その人はこう言います。「主よ。私の道ではなく、これからはあなたの道を行きます。」

その最初の段階は、神様がイエス様を通して与えてくださる救いの賜物を受け取ることです。その人は、自分の努力やほかの宗教によって救いを得ようという態度を捨てます。むしろ、その人は自分の救いのためにイエス様とその十字架の働きを信じます。

このことによって、神の子どもと悪魔の子どもの区別がはっきりします。義を行わない者はだれであれ、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。(3:10)

どうしてヨハネは、兄弟を愛するという命令を強調するのでしょうか。

一つの理由は、その命令がキリスト教のメッセージの中心であるからです。ヨハネはこう言います。

互いに愛し合うべきであること、それが、あなたがたが初めから聞いている使信です。(11)

それは上級者向けのキリスト教の教えではありません。それは初心者のための教えです。

さらに、私たちが本当にイエス様の愛を知っているなら、その愛は自然と私たちから流れ出るはずです。

ヨハネはこう言っています。

私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。 神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。(3:16)

だからこそ、れっきとしたクリスチャンの確かなしるしは、周りの人々に対する愛です。

ヨハネはこう言います。

私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛さない者は死のうちにとどまっています。

だれでも、イエスが神の御子であると告白するなら、神はその人のうちにとどまり、その人も神のうちにとどまっています。(3:14-15)

あなたはどうでしょうか。あなたは神様の子どものしるしを持っているでしょうか。

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ヨハネの手紙第一

神の子どものしるし

どうすれば、自分が本当に神の子どもであると分かるでしょうか。どうすれば、自分が確かに救われていると確信できるでしょうか。

私は7歳のときに救われましたが、長い間、自分が救われているのかどうかを疑っていました。

けれども、今日の箇所で、ヨハネはその疑問に答えています。

あなたがたは、神が正しい方であると知っているなら、義を行う者もみな神から生まれたことが分かるはずです。(ヨハネの手紙第一2:29)

原語では、そのニュアンスは、神の子どもがいつも義を行うという意味ではなく、むしろ義を行うことがその人の習慣であるということです。

言い換えると、もしあなたが本当に救われているなら、あなたの人生は義によって特徴付けられているはずです。周りの人々があなたを見ると、信仰を実践して義を行う人として映るでしょう。

これに対して、この世の人々の生活は全く異なります。だからこそ、ヨハネはこう言っています。

私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。(ヨハネの手紙第一3:1)

私たちが神の子どもとして、自分の信仰を実践し、義を行うと、この世の人々は私たちを見て戸惑うでしょう。彼らはなぜ私たちがそのように生きているのかを理解できません。なぜなら、彼らは神様を知らないからです。

もし彼らが神様を知らないのなら、私たちのことも理解できないはずです。

ヨハネは続けてこう言います。

愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。(3:2)

神の子どもとして、私たちが義を行う動機は何でしょうか。私たちは天国を得るためにそうしているのでしょうか。私たちは周りの人々に感動を与えようとしているのでしょうか。

そうではありません。むしろ、ヨハネによれば、私たちの動機は神様に対する愛です。神様はご自身の愛を私たちに豊かに注ぎ、私たちをご自身の子どもと呼んでくださいます。

さらに、私たちはいつか愛するイエス様のようになる希望を持っています。イエス様が再びこの世に来るとき、私たちは新しい体を受けます。その体はイエス様の栄光を反映し、私たちは完全に義人となります。

ある人々はこう考えます。「どうして罪と戦わなくてはならないのだろう。私はその罪を決して克服できないだろう。」

ところが、あなたがクリスチャンなら、その考え方は間違っています。ある日、あなたは完全になるのです。私たちには希望があります。

ヨハネによれば、真の信者たちはその希望を持っているので、キリストが清い方であるように、自分も清くなりたいと思います。(3:3)

れっきとしたクリスチャンであるなら、皆そのように考えます。イエス様のように清くなりたいと思わないのであれば、自分がクリスチャンであると主張できるでしょうか。

ヨハネによれば、イエス様は罪を取り除くためにこの世に来られました。また、イエス様のうちには罪がありません。(5)

さらに、イエス様は悪魔のわざを打ち破るためにこの世に来られました。(3:8)

だから、人々が自分がクリスチャンであると自称しながら、あえて罪を犯し、イエス様が打ち破ろうとしているわざを推進するのはどうしてでしょうか。それはあり得ないことです。私はその人の救いを本当に疑います。

あなたはこう言うかもしれません。「ブルース、それは言い過ぎだ。人を裁いてはいけない。」

けれども、ヨハネの言葉を読んでみてください。

キリストにとどまる者はだれも、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見たこともなく、知ってもいません。

幼子たち、だれにも惑わされてはいけません。義を行う者は、キリストが正しい方であるように、正しい人です。罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。(ヨハネの手紙第一3:6-8)

また、

神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。(9節)

もう一度私は言います。ヨハネが意味しているのは、れっきとしたクリスチャンが決して罪を犯さないということではないのです。

それでも、れっきとしたクリスチャンは罪を犯したとき、すぐに後悔するはずです。彼らは悔い改め、その罪を避けたいと願うのです。

だから、ヨハネはこの話をこのようにまとめます。

このことによって、神の子どもと悪魔の子どもの区別がはっきりします。義を行わない者はだれであれ、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。(10節)

あなたは誰の子どもですか。

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ヨハネの手紙第一

私たちが受けた注ぎの油

どうやら、偽教師たちがクリスチャンたちに教えたことはこうでした。「あなたがたが使徒たちから学んだことだけでは不十分です。私たちは特別な神様からの注ぎの油を受けました。あなたがたも使徒たちも、それをまだ受けていません。」

しかし、ヨハネはその読み手たちにこう言いました。

あなたがたには聖なる方からの注ぎの油があるので、みな真理を知っています。(ヨハネの手紙第一2:20)

また、

しかし、あなたがたのうちには、御子から受けた注ぎの油がとどまっているので、だれかに教えてもらう必要はありません。

その注ぎの油が、すべてについてあなたがたに教えてくれます。それは真理であって偽りではありませんから、あなたがたは教えられたとおり、御子のうちにとどまりなさい。」(27)

その注ぎの油とは何でしょうか。それは、神様がすべての信者たちに与えてくださる聖霊様のことです。

ヨハネの言葉は、イエス様の言葉によく似ています。

しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。。。

しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。

御霊はわたしの栄光を現されます。わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださるのです。((ヨハネ14:26、16:13-14)

ここには、二つの重要なポイントがあります。

第一に、イエス様によれば、聖霊様が私たちの先生であるということです。

聖霊様は私たちに何を教えるのでしょうか。聖霊様がイエス様の教えに反することを教えるでしょうか。とんでもありません。むしろ、聖霊様は私たちにイエス様の言葉を思い出させてくださいます。

もし聖霊様がご自身から語るのではなく、聞いたことをすべて語るなら、聖霊様がイエス様の言葉に反することを教えるはずがありません。

だから、誰かが「聖霊様が私にこう教えた」と主張しても、その言葉がイエス様の言葉に反するなら、その人を無視しなければなりません。

第二に、イエス様の言葉を教え、示されるとき、聖霊様はいつもイエス様の栄光を現わされます。ヨハネの時代の偽教師や現代の偽教師とは異なり、聖霊様は決してイエス様を否定することなく、イエス様を軽蔑することもありません。

もちろん、ヨハネは「あなたがたには教師は要らない」と言っているわけではありません。(実際、ヨハネ自身がこの手紙を通してクリスチャンたちに教えていました。)

ヨハネが言おうとしているのは、イエス様の教えに反することを教える特別な油注ぎのある教師たちは必要ないということです。

むしろ、聖霊様が最初から教えてくださったように、イエス様のうちにとどまりましょう。イエス様をあなたの主と神として認め、毎日、自分の人生をイエス様に捧げましょう。

あなたは御霊のみ言葉に従っていますか。

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ヨハネの手紙第一

サタンが私たちに売ろうとするもの

サタンを吠えるライオンとして考えるのは簡単なことです。また、私たちはしばしばサタンを、私たちを滅ぼそうとする者として想像します。

もちろん、サタンがそのように見える時もありますが、羊のように見える時もあります。特に、この世に現れるとき、反キリストは羊のように見えるでしょう。

「反キリスト」という言葉を聞くと、私たちはこの世を荒らす恐ろしい者を思い浮かべるかもしれません。もちろん、彼はそのような存在です。けれども、この世を荒らす前に、彼はキリストのように見えるでしょう。彼はこの世に平和と救いを約束します。

彼はまだこの世に現れていませんが、長い歴史の中で、ヨハネの時代にもさまざまな反キリストたちが現れました。

最初は彼らが親切で、教会を祝福する者に見えましたが、最終的には教会に毒を広げたため、彼らは追い出される必要がありました。

ヨハネは彼らについてこう言いました。

彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。

もし仲間であったなら、私たちのもとに、とどまっていたでしょう。しかし、出て行ったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためだったのです。(ヨハネの手紙第一2:19)

彼らはどんな「毒」を広げたのでしょうか。今なお、その毒はこの世に広まり続けています。それは、イエス様を否定することです。

日本は事情が異なるかもしれませんが、アメリカでは、多くの人々が「神様を信じる」と言います。そして、もしあなたが「私は神様を信じています」と言っても、彼らは全く気にしません。

けれども、もしあなたが「イエス様だけが神です」と主張すると、彼らは非常に怒るでしょう。

しかし、ヨハネはこう言います。

偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否定する者、それが反キリストです。

だれでも御子を否定する者は御父を持たず、御子を告白する者は御父も持っているのです。(22-23)

言い換えると、イエス様を否定するなら、神様を信じると主張することはできません。なぜなら、イエス様を否定することは、神様を否定することだからです。どうしてでしょうか。それは、イエス様ご自身が神だからです。

イエス様の時代、ユダヤ人たちはそれを理解できませんでした。つまり、神様が約束されたメシアが神であるということです。

ところで、ギリシャ語では、「キリスト」とは「メシア」を意味します。キリストは名前ではなく、肩書です。その広い意味は「王と救い主」です。

とにかく、ユダヤ人たちがキリストが神であることを理解していなかったために、イエス様が「もしキリストがダビデの子であるなら、なぜダビデはキリストを主と呼ぶのか」と尋ねると、彼らは答えることができませんでした。(マタイ22:42、45)

その答えは、人間として、キリストはダビデの子であり、同時にキリストご自身が神であるということです。(ヨハネ8:58、10:30-33)

しかし、多くの人々は故意にその真理を否定します。彼らはイエス様を善良な人、預言者、または神の子と呼びます。

もちろん、イエス様についてそう言うことは正しいです。けれども、それだけではありません。イエス様は永遠から永遠まで神なのです。それを否定する者は、まさにサタンが売る毒を飲み込んでいます。

だからこそ、ヨハネはこう言います。

あなたがたは、初めから聞いていることを自分のうちにとどまらせなさい。もし初めから聞いていることがとどまっているなら、あなたがたも御子と御父のうちにとどまります。

これこそ、御子が私たちに約束してくださったもの、永遠のいのちです。(24-25)

最終的な質問は、「あなたがたはキリストについてどう思いますか。彼は誰の子ですか。」

あなたの永遠の運命は、その答えに基づいています。(マタイ22:42)

あなたはどう思いますか。

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ヨハネの手紙第一

天の父を愛するか。この世を愛するか?

もしかすると、この箇所を書いたとき、ヨハネはイエス様の言葉を思い浮かべていたかもしれません。つまり、

どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは、神と富とに仕えることはできません。。。

人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです。(ルカ6:13,15)

その言葉は、ヨハネの言葉に非常に似ています。

あなたがたは世も世にあるものも、愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。

すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。(ヨハネの手紙第一2:15-16)

ちょっと想像してみてください。ある男性が自分の妻にこう言います。「もちろんあなたを愛している。でも、もう一人の女性も愛している。だから、私は自分をあなたにも、彼女にもささげる。」

その妻はどのように反応するでしょうか。その結果は悲惨なものとなるでしょう。

けれども、多くのクリスチャンはそのように生きています。

月曜日から土曜日まで、彼らはこの世のものを追い求め、それらにしがみつきます。彼らはお金や持ち物、快楽、権力を求め、この世が提供するものをできる限り手に入れようとします。彼らは一時的で儚いものを追い求めているのです。

そして、日曜日になると彼らは教会に行き、涙を浮かべながら「愛する、わが主よ」と歌います。

しかし、ヨハネによれば、それは愛ではありません。この世のものを愛しながら神様を愛することは不可能です。あなたの配偶者がそのような愛を受け入れないのと同じように、神様もそのような愛を受け入れることはありません。

神様は私たちの心の一部を望まれるわけではありません。神様は私たちの心の全てを望まれます。

神様は私たちの心の半分、80%、あるいは99%でも満足されません。私たちにとって神様は常に第一でなければなりません。他のものは二番目であるべきであり、一番と二番の間には大きな隔たりがあるべきです。

ヨハネはこう言います。

世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。(17)

簡単に言えば、私たちは儚いものか永遠のものを追い求めることができますが、同時に両方を追い求めることはできません。

では、なぜ私たちは儚いものを追い求めようとするのでしょうか。それを追い求めると、私たちの人生は空虚なものとなります。それは、売春婦との関係を求めるようなものです。最終的に、その売春婦はあなたのすべてを奪い、あなたを捨ててしまうでしょう。

しかし、神様を追い求めるなら、私たちは真の愛、真の喜び、そして真のいのちを知ることができます。それに、それらは永遠のものです。

あなたはどちらを選びますか。

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ヨハネの手紙第一

私たちが成熟するにつれて

私はヨハネがさまざまな読み手に向けて書いた言葉を読むにつれて、クリスチャンとして私たちがさまざまな段階を進んでいくことを思い出します。

まず最初に、私たちは子どもたちです。

ヨハネはこう書きます。

子どもたち。私があなたがたに書いているのは、イエスの名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。(ヨハネの手紙第一2:12)

また、

幼子たち。私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが御父を知るようになったからです。(14a)

私たちが初めてクリスチャンになるとき、おそらく二つの真理が私たちの心を打ちます。

一つ目は、神様が私たちを赦してくださったことです。

神様に出会ったとき、私たちは罪の重荷を負っていました。自分の選択によって私たちの人生がめちゃくちゃになり、絶望の中で私たちは神様に向かいました。だから、ヨハネは私たちに「あなたの罪が赦されました」と言います。

私はある聖書の話を思い出します。ある女性が自分の罪の重荷を感じ、イエス様のもとに行き、自分の涙でイエス様の足を濡らしました。そして、イエス様は彼女に優しく言われました。「あなたの罪は赦されました。」(ルカ7:36-50)

すべてのクリスチャンたちは、その喜びを知る必要があります。

二つ目は、私たちが神様を父として知ることです。このテーマについて、ヨハネはあとで再び触れます。(3:1-3)

最初の段階では、私たちは神様を恐ろしい方として知るわけではありません。また、神様を宇宙よりも偉大な方として知るわけでもありません。そして、神様を王の王として知るわけでもありません。私たちは神様を近づくことができない方として考えません。

むしろ、私たちは神様を父として知ります。神様が私たちを愛しておられると信じるので、私たちは神様に近づくことができます。神様が私たちを自分の子どもとして喜ばれるので、私たちは神様がいつも私たちのために時間を取ってくださると確信しています。

しかし、成長するにつれて、私たちは子どものままではありません。むしろ、私たちは成熟し、丈夫になります。

だからこそ、ヨハネはこう書きます。

若者たち。私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが強い者であり、あなたがたのうちに神のことばがとどまり、悪い者に打ち勝ったからです。(14b)

言い換えると、神様の言葉が私たちのうちにとどまり、福音という乳だけでなく、み言葉の堅い食物も摂取するとき、経験を通して訓練され、義と悪を見分ける力を持つ大人へと成長します。

そうすることで、私たちはサタンに打ち勝つことができるようになります。(ヘブル5:12-14)

例えば、私たちは自分を神様から遠ざける偽りの教えを見分けることができます。また、私たちは誘惑を克服し、私たちを滅ぼす罪を避けます。この手紙の後半で、そのテーマについてさらに詳しく見ることになります。

最後に、私たちが成熟するにつれて、私たちは神様の本性をさらによく理解するようになります。だから、ヨハネはこう書きました。

父たち。私があなたがたに書いているのは、初めからおられる方を、あなたがたが知るようになったからです。(13-14)

C.S.ルイスが言ったように、私たちが成長すればするほど、神様がさらに大きく見えるようになります。それは神様が本当に大きくなるというわけではありません。むしろ、私たちが神様をもっとはっきりと見ることができるようになるからです。

神様は私たちの父であるだけでなく、創造者であり、宇宙の支配者です。さらに、神様は永遠の方です。だから、私たちは神様を拝み、畏敬の念を抱きます。

しかし、私たちは神様の偉大さだけのゆえに拝むわけではありません。むしろ、その偉大な神様が私たちを愛し、自分の子どもと呼んでくださることに驚き、感謝をもって拝みます。

なぜなら、どんなに成長し、成熟しても、私たちはいつも天の父を必要とし、神様を自分の父として考える必要があるからです。

ですから、私たちを愛し、自分の子どもと呼んでくださる神様の恵みと知識において、毎日成長していきましょう。

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ヨハネの手紙第一

私たちが罪に落ちると

前回の記事で、私たちが学んだのは、私たちが光の子どもとして生きるように呼ばれているけれども、まだ罪に落ちる時もあるということです。その時、私たちが悔い改めるなら、神様は私たちを赦してくださいます。

今日の箇所では、私たちはその赦しの基礎を見ることができます。ヨハネはこう言いました。

私の子供たち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとなりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。

この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげものです。(ヨハネの手紙第一2:1-2)

ヨハネは改めて強調します。私たちは光の子どもだから、暗闇の中で歩んではいけません。

しかし、そのあと、ヨハネは心強い言葉を伝えます。それは、私たちが罪に落ちるとき、私たちを擁護する方がおられるということです。イエス様は御父の前で、私たちのためにとりなしてくださいます。

では、その擁護のよりどころは何でしょうか。それは、十字架でのイエス様の宥めのささげものです。

それはどういうことでしょうか。

その時代、いろんな国では、人々は神々の怒りを宥めるため、また神々のご恩を得るために、さまざまな生贄を捧げました。

ヨハネは同じ描写を使いますが、大きな違いがあります。私たちはその生贄を捧げるのではありません。むしろ、神様ご自身が自分の怒りを宥めるために、その生贄を捧げられました。そして、その生贄によって、神様はもう一度私たちに恵みを与えてくださいます。

天の父による救いの働きを伏線する話として、アブラハムはこう言いました。

神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。(創世記22:8)

十字架で、天の父はその羊を備えてくださいました。義なるイエス・キリストがその羊でした。イエス様は罪を犯したことがなかったのに、私たちの罪の罰を受けてくださいました。イエス様が十字架につけられた時、神様はご自身の怒りのすべてをイエス様に注がれました。

その結果は何でしょうか。イエス様は天の父の前に私たちと共に立ち、こう言われます。「私はその人の罪の代価を払いました。」

天の父は答えられます。「あなたの支払いを受け入れます」

そして、天の父は私たちの罪を赦すだけではなく、私たちに愛を注いでくださいます。

それは憐れみです。それは恵みです。その恵みと憐れみは神様の子どもたちに属します。イエス様を通して、私たちはその恵みと憐れみを受けるのです。

だから感謝をもって、私たちを救った神様に仕えましょう。イエス様のようになるように努めましょう。

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ヨハネの手紙第一

私たちの罪との戦い

最近の記事を読めば、あなたは、私がれっきとしたクリスチャンが完全な人であると主張していると思うかもしれません。つまり、れっきとしたクリスチャンは決して罪を犯さないということです。

その理由は、この手紙では、ヨハネに白黒をつけるような話し方があるからです。しかし、ヨハネの手紙を注意深く読むと、ヨハネが何を言っているかはっきりとわかると思います。

それは、私たちは光の子どもであり、光の子どもは光の中で歩みます。それでも、光の子どもは罪を犯すこともあります。私たち皆、失敗するときもあります。

ヨハネはこう言いました。

もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。(ヨハネの手紙第一1:8)

また、

もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。(10)

では、どのように私たちはヨハネの白黒の教えを解釈した方がいでは、どのように私たちはヨハネの白黒の教えを解釈した方がよいでしょうか。

1.れっきとした神様の子どもは、自分の罪のために言い訳しません。彼らは自分たちの罪を正当化するために聖書をごまかしません。彼らは自分の場合が例外だと主張しません。

2.れっきとした神様の子どもはあえて聖書を無視しません。むしろ、聖書を読むとき、その言葉に従おうとします。

3.れっきとした神様の子どもは自分の罪と戦います。彼らは「私はこのままです。私は決して変わらないだろう」と言いません。むしろ、彼らは自分の罪を悲しみ、イエス様のようになりたいと願います。

もちろん、れっきとしたクリスチャンでも、その三つのことをしたことがあるでしょう。彼らは言い訳する時もあるし、聖書を無視する時もあるし、「私はこのままです。私は決して変わらない」と言う時もあります。

もしかすると、彼らは自分の罪を罪としてまだ分からないのかもしれません。彼らはまだ未成熟で、悪と善を見分けることができないのかもしれません。(へブル5:13-14)

けれども、れっきとしたクリスチャンは、ずっとそのように生き続けることはありません。聖霊様はそれを許しません。もしクリスチャンがその御声に従わないなら、聖霊様はその人を懲らしめます。

しかし、良い知らせは、私たちが悔い改めるなら、神様は私たちを赦してくださるということです。ヨハネはこう言います。

もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。(9)

あなたは神様の子どもでしょうか。あなたは光の子どもでしょうか。

そうであれば、自分の罪のために言い訳するのをやめましょう。神様の御言葉を無視するのをやめましょう。神様があなたを懲らしめるとき、すぐに悔い改めましょう。

そうすれば、神様は恵み深い方です。神様は必ずあなたを赦してくださいます。

この世にいる間、私たちは決して完全な人にはならないでしょう。それでも、それは私たちの目的です。私たちは本当にイエス様を愛しているなら、自分がイエス様のようになる希望を持っているはずです。

あなたはその希望を持っているでしょうか。

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ヨハネの手紙第一

神様との交わりを持つため(2)

前回の記事で、私たちが学んだのは、神様が光であり、神様には闇の部分が全くないということです。だから、私たちが神様との交わりがあると主張するなら、私たちも光の中で神様と共に歩まなくてはなりません。

ヨハネによれば、私たちが神様の命令をごまかし、その言葉をあえて無視しながら、神様との交わりがあると主張するなら、私たちは嘘つきです。

そして、ヨハネは具体的な例を挙げます。実は、この手紙では、ヨハネはその例を何回も繰り返しています。

愛する者たち。私があなたがたに書いているのは、新しい命令ではなく、あなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いているみことばです。

私は、それを新しい命令として、もう一度あなたがたに書いているのです。それはイエスにおいて真理であり、あなたがたにおいても真理です。闇が消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。(ヨハネの手紙第一2:7-8)

この古くて新しい命令は何でしょうか。たぶん、それは「隣人を愛しなさい」という命令でしょう。

ヨハネは後で言いますが、隣人を愛することは、神様に対するあなたの愛を証明します。

モーセの律法では、神様はこう言われました。「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」

それは古い命令でした。

しかし、イエス様において新しい命令は、自分自身のように隣人を愛することだけではなく、むしろ、イエス様があなたを愛するように隣人を愛することです。(ヨハネ13:34-35)

つまり、私たちは神様の愛を十分に知っているゆえに、その愛が私たちから周りの人々に自然に溢れ出し始めるということです。

だから、ヨハネが言ったのは、その命令がイエス様において真理であり、イエス様を信じる私たちにおいても真理であるということなのです。

なぜなら、イエス様の愛のまことの光は私たちの中ですでに輝いているからです。そして、暗闇は私たちの心からすでに消えているのです。

そういうわけで、ヨハネはこう言います。

光の中にいると言いながら自分の兄弟を憎んでいる人は、今でもまだ闇の中にいるのです。自分の兄弟を愛している人は光の中にとどまり、その人のうちにはつまずきがありません。

しかし、自分の兄弟を憎んでいる人は闇の中にいて、闇の中を歩み、自分がどこへ行くのかが分かりません。闇が目を見えなくしたからです。(2:9-11)

その言葉には、1:5-7節の関係があります。もし、私たちが兄弟や姉妹を憎むなら、私たちが神様との関係があると主張することはできません。人を憎む人は光ではなく、暗闇の中で歩んでいるのです。

もちろん、その憎しみは人種差別などで現れることもあります。また、憎しみは妬みとして現れるかもしれません。

けれども、憎しみがしばしば現れるところは、人を許さない心です。多くの人々は人を許さないため、暗闇につまずき、苦々しい思いや憎しみに縛られています。

そして、私が以前言ったように、相手を許さないことを正当化するために、多くの人々は聖句をごまかし、あえて無視します。彼らは相手を許さず、傷つけられたことに対する憎しみを抱き続けます。

けれども、私たちが神様の愛や、私たちが与えられた赦しを知るなら、どうして私たちはその憎しみを抱き続けることができるでしょうか。

れっきとした神の子どもは、そのようなことができません。

かといって、私の言葉を誤解しないでください。クリスチャンたちが許したくないという態度と戦わなくてはならないことがないわけではありません。

多くのクリスチャンはその戦いに直面します。さらに、その痛みが深いものであれば、相手を許すのはとても難しいことです。

しかし、あなたが本当に神様の子どもなら、暗闇にとどまってはいけません。自分の憎しみのために言い訳してはいけません。「相手を許すのはありえない。私は許せない」と言ってはいけません。

そう言うとき、あなたは光を出て、暗闇に入ります。そのままで、自分が神様との交わりがあると主張すれば、あなたは嘘つきになります。

れっきとした光の子どもは、光に入り、イエス様の癒しを受けます。そして、イエス様の力と恵みによって、そのクリスチャンは相手を許します。

あなたはどうですか。自分が憎む人がいるでしょうか。自分が許せない人がいるでしょうか。その態度を持ち続けるなら、あなたは神様との交わりがあると主張することはできません。

もちろん、癒しには時間がかかります。あなたは祈らなくてはならないし、兄弟たちと姉妹たちの祈りが必要です。また、兄弟たちと姉妹たちの感情的な支えも必要です。

もしかすると、あなたにはカウンセリングが必要かもしれません。

あなたは必ず聖霊の力と愛が必要です。

けれども、言い訳するのをやめましょう。光に入りましょう。

そうするまで、あなたの神様との関係はうまくいかず、壁にぶつかることでしょう。

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ヨハネの手紙第一

神様との交わりを持つため

いろんな意味で、「クリスチャン」という言葉は無意味なものになって来ました。というのは、多くの人々は自分がクリスチャンであると自称しますが、自分の行為によって、実際には自分がクリスチャンではないと証明しているようなものだからです。

その言葉を読んで、私が厳しすぎると言われる人がいるかもしれません。けれども、イエス様ご自身はこう言われました。

「わたしに向かって「主よ、主よ」と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。

その日には多くの者がわたしに言うでしょう。「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。」(マタイ7:21-22)

現代では、ある人々はこう言うかもしれません。

「主よ、主よ。私たちは教会に行ったでしょう。献金を捧げたでしょう。いろんな良いことをしたでしょう。」

しかし、イエス様は彼らに言われます。

わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。(マタイ7:23)

簡単に言うと、あなたの行為を自分の信仰と分けることはできません。あなたの行為によって、あなたの信仰がれっきとしたものかどうかが現れます。

ヨハネは、今日の箇所でも、それを言っています。

私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。

もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。(ヨハネの手紙第一1:5-6)

多くの自称クリスチャンたちは自分の罪にふけります。ある人は嫌いな聖句をごまかします。他の人はただその聖句を無視します。

けれども、ヨハネは、神様が光であると言っています。つまり、神様には罪が全くないということです。だから、反逆の態度をもって、神様のみ言葉を無視したり、その言葉をごまかしながら、「私には神様と交わりがある」と主張するなら、私たちは嘘つきです。

ヨハネは率直に言います。「あなたは嘘つきです。あなたは真理を行っていません。」

さらに、ヨハネは続けてこう言います。

もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。(1:7)

神様が光であるので、神様との交わりを望むなら、私たちも光の中を歩まなくてはなりません。神様は私たちが歩いている暗闇の中を歩まれないからです。

けれども、私たちの反逆的な態度を捨て、私たちの主としてイエス様に従うなら、イエス様の血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。

だから、私たちの反逆をやめなくてはなりません。神様に反逆しながら、神様との交わりがあると主張するのは無理なことです。

私の解釈を疑うなら、ヨハネの言葉を読んでください。

もし私たちが神の命令を守っているなら、それによって、自分が神を知っていることが分かります。神を知っていると言いながら、その命令を守っていない人は、偽り者であり、その人のうちに真理はありません。

しかし、だれでも神のことばを守っているなら、その人のうちには神の愛が確かに全うされているのです。それによって、自分が神のうちにいることが分かります。

神のうちにとどまっていると言う人は、自分もイエスが歩まれたように歩まなければなりません。(2:3-6)

言い換えると、ある人の神様に対する態度によって、私たちはその人が神様との関係があるかどうかを見分けることができます。

その人のうちで神の愛がそこまで全うされて、愛をもって従うようになるのでしょうか。

その人はイエス様のようになりたいと願い、イエス様のように歩もうとするでしょうか。

その人は罪に落ちるとき、その罪を悲しみ、すぐに悔い改めるのでしょうか。

そうでない場合、その人が本当に救われているかどうかを疑うべきです。

あなたはどうでしょうか。神様に対するあなたの態度は、自分の神様との関係に関して何を現しているでしょうか。

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ヨハネの手紙第一

命である方を宣言する

これは聖書に記されている最後の長い手紙です。

そして、この手紙の初めから、私たちは使徒ヨハネの情緒を感じ取ることができます。イエス様に愛された弟子と呼ばれた使徒はこう言われます。

初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。

このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。(ヨハネの手紙第一1-2)

「いのちのことば」とはイエス様です。イエス様ご自身は、いのちの表現です。イエス様にあって、私たちはいのちがどのようなものであるべきかを分かります。イエス様にあって、私たちは完全で不備のないいのちを見ることができます。

いのちの創造者である神様は、いのちの言葉であるイエス様を通してご自身を表されます。

また、イエス様ご自身がいのちです。

だから、ヨハネは、「このいのちが現れました」と言うと、イエス様の受肉について話しています。つまり、イエス様が人間としてこの世に来られたことです。

だからヨハネやほかの使徒たちは自分の耳でイエス様の声を聞き、自分の目でイエス様を見、復活の後、自分の手でイエス様の手の傷跡に触れることができました。

そして、ヨハネは、イエス様を「永遠のいのち」と呼びます。イエス様は永遠の方で、時間が始まる前から天の父と共におられました。

また、イエス様は死んだ者にいのちを与えてくださいます。もちろん、神様はご自身から遠く離れている霊的に死んでいる人たちにいのちを与えてくださいます。

しかし、ある日、イエス様は肉体的に死んだ者たちにいのちを与えてくださいます。つまり、イエス様がご自身のような体を彼らに与えてくださるのです。

それを考慮に入れると、ヨハネはこう言います。

私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。

私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。(3-4)

ヨハネと他の使徒たちは神様との関係をただ楽しみたいとは思いませんでした。むしろ、ほかの人々も神様との交わりを得るまで、使徒たちは自分の喜びが完成されたものではないと考えました。

そういうわけで、彼らは大胆に自分が見たことと聞いたことを宣言しました。

私たちは彼らの模範に従うべきです。

多くのクリスチャンたちは救われて、とても嬉しいです。彼らが神様の愛と赦しを受け、とても幸せです。また、神様が彼らの傷を癒してくださり、彼らは喜びます。

しかし、それだけで私たちは満足してはいけません。それは自己中心的な態度です。

たくさんの人々が神様から遠く離れて、毎日死んでいます。彼らは神様の愛を知らず、神様の赦しを知りません。また、彼らは神様からの癒しを知りません。私たちは彼らを哀れむべきです。

だから、ヨハネと他の使徒たちのように、私たちは与えられたいのちを宣言するべきです。そうすれば、周りの人々も神様との関係を得るでしょう。

あなたはどうでしょうか。救いが必要な周りの人々に気づかないほどに、あなたは自分の救いを喜びますか。

この世の人々の所に行きましょう。私たちの愛している人々にイエス様のことを宣言しましょう。私たちの近所や職場や学校にも行って、イエス様を宣言しましょう。そうすれば、人々が神様の御国に入って、私たちの喜びは満ち溢れるでしょう。

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ペテロの手紙第二

この世界は永遠に続くことはないから

今日の箇所で、ペテロがはっきりと言っているのは、この世界が永遠に続くものではない、ということです。彼は次のように言いました。

しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。。。

その日の到来によって、天は燃え崩れ、天の万象は焼け溶けてしまいます。(ペテロの手紙第二3:10,12)

私たちは普段、このことについて考えることはないでしょう。むしろ、私たちは価値のないものに集中してしまいます。一時的なもの、快楽、仕事、お金などに執着し、人生を無駄にしてしまうことがあります。

しかし、最終的には、それらすべては燃えてしまうのです。その日、この地は消え去り、私たちの心は明らかにされ、神様の裁きに直面します。

だからこそ、ペテロは次のように言います。

このように、これらすべてのものが崩れ去るのだとすれば、あなたがたは、どれほど聖なる敬虔な生き方をしなければならないことでしょう。そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、到来を早めなければなりません。(11-12)

簡単に言えば、私たちは自分の優先順位を調整しなければなりません。この世のすべては滅びてしまうのですから、それらを追い求めるべきではありません。むしろ、神様とその御国を追い求めるべきです。

私たちは神様を喜ばせるように生きる必要があります。そして、毎日、神様の御国を広げるために働き、周りの人々に触れ、キリストの愛を分かち合わなければなりません。

では、「神の日の到来を早める」とはどういう意味でしょうか。どうやってその日を早めることができるのでしょうか。それは少し想像しづらいかもしれません。

それでも、私たちにはそれを行うことができます。なぜなら、神様が呼ばれる最後の人がイエス様を自分の主と救い主として受け入れると、教会の使命が完成されるからです。その日、神様はもう待つ必要がなくなり、イエス様を送ることができるのです。

けれども、神様と人間との和解をもたらす前に、私たちは自分自身が神様と和解されているかどうかを確認しなければなりません。そのために、ペテロは次のように言います。

ですから、愛する者たち。これらのことを待ち望んでいるのなら、しみも傷もない者として平安のうちに神に見出していただけるように努力しなさい。(14)

しかし、私たちは自分のために生きるなら、神様との平和を持つことはできません。また、神様の教えを曲げるなら、神様との平和を持つことはできません。

ある人々は、パウロの言葉やほかの聖句を曲げていたようです。けれども、それが彼らを滅びに導きました。(16)

多くの人々は、自分が気に入った聖句だけを受け入れます。けれども、神様の教えが気に入らなければ、その教えを無視したり、捨てたりしてしまいます。また、あえてその教えを完全に変えてしまう人もいます。

もし私たちがそのようなことをすれば、神様との平和を持つことはできません。私たちは、神様をありのままで受け入れなければなりません。神様を変えることはできないのです。

だから、ペテロは、神様のみ言葉を変える人々について、私たちに警告を与えています。

そして、ペテロはこの手紙の冒頭のように、その手紙を締め括ります。

私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。(18)

だから、イエス様とそのみ言葉を曲げるような教えを捨てましょう。むしろ、イエス様に近づき、イエス様から学ぶことを選びましょう。そうすれば、日々の中で、イエス様はますます大きく見えるようになるでしょう

そして、憐れみと平和が、あなたの人生に満ち溢れることでしょう。

イエス・キリストに栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。(18b)

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ペテロの手紙第二

神様の忍耐

以前の記事で、私は、神様がこの世の悪や不正義に対して何もしないという人々の文句について話しました。

しかし、私が指摘したのは、最終的に正義が行われ、その真理が確かなものであるということです。イエス様を信じる人にとって、それは希望です。けれども、イエス様を拒絶する人にとって、それは恐れです。

とはいえ、ある人々は裁きの日について考えるとき、希望も持たず、同時に恐れも感じていません。ペテロはそのような人々について次のように言います。

まず第一に、心得ておきなさい。終わりの時に、嘲る者たちが現れて嘲り、自分たちの欲望に従いながら、こう言います。「彼の来臨の約束はどこにあるのか。父たちが眠りについた後も、すべてが創造のはじめからのままではないか。」(ペテロの手紙第二3:3-4)

今なお、そのような人々がいます。実際、イエス様が2000年以上も来ていないため、不信者たちのあざ笑いはさらに増えていることでしょう。しかし、ペテロは次のように言います。

こう主張する彼らは、次のことを見落としています。天は大昔からあり、地は神のことばによって、水から出て、水を通して成ったのであり、そのみことばのゆえに、当時の世界は水におおわれて滅びました。

しかし、今ある天と地は、同じみことばによって、火で焼かれるために取っておかれ、不敬虔な者たちのさばきと滅びの日まで保たれているのです。(5-7) 

その人々によれば、神様はこの世のことに決して介入しないので、この世には何も変わらないと言います。けれども、その考え方は間違っています。

この世を造られたとき、神様の力によって、大陸は海から現れ、生き物を支える大気が造られました。

そして、悪がこの世に横行した時、神様は再び介入され、大洪水によってノアとその家族以外のこの世の人々を滅ぼされました。

だから、ペテロは私たちに警告します。「神様はもう一度、介入されます。けれども、今度の裁きは火による裁きです。」

ペテロは次のように言います。

しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。(10)

また、

そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、到来を早めなければなりません。その日の到来によって、天は燃え崩れ、天の万象は焼け溶けてしまいます。(12)

私たちがペテロの言葉を文字通りに解釈した方が良いかどうかは分かりません。けえども、明らかなのは、私たちが知っているこの世は終わりを迎えるということです。

もしかすると、神様はこの世を完全に新しくされるのかもしれません。または、神様がすべてを滅ぼし、全く新しいものを造られるのかもしれません。

いずれにしても、ペテロは次のように言います。

しかし私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます。(13) 

では、どうしてクリスチャンたちはこれほど長く待たなければならないのでしょうか。なぜ神様は、今この世を滅ぼし、すべてを新しくされないのでしょうか。

ペテロはその答えを示しています。

しかし、愛する人たち、あなたがたはこの一つのことを見落としてはいけません。主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。

主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(8-9)

また、

私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。(15)

基本的に、ペテロが言っているのは、神様の忍耐によって、人々に悔い改める時間が与えられているということです。けれども、その忍耐はまるで両刃の剣のようなものです。

もちろん、その忍耐によって、人々は神様を信じるための時間を与えられています。そのため、裁きの日が来る前に、多くの人々が救われます。

けれども、その一方で、人々の責任は増していきます。そのため、不信者たちは裁かれる時、言い訳をすることはできません。

だからこそ、私たち全員が自分自身に問いかけなければなりません。「神様がこの悔い改めの時間を与えてくださっている中で、私はどうするのだろうか?」

あなたはどうするのでしょうか。

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ペテロの手紙第二

サタンを過小評価する

C.S.・ルイスはこう記しました。

「人々は悪霊について二つの相反する誤解を持っています。ある人々は悪霊の存在を信じません。一方で、悪霊の存在を信じる人々もいますが、悪霊に対して不健康な興味を抱き、過度に思いを巡らせてしまうのです。」

私はもう一つの問題を指摘したいと思います。

ある人々は悪霊たちを過小評価します。

第2章では、ペテロは偽教師について警告しました。その偽教師たちの問題の一つは、彼らが権威を持つ者を認めなかったこと、また、彼らよりも偉大な者たちを敬わなかったことです。

もちろん、彼らは神様の権威や偉大な立場を認めませんでした。また、彼らは使徒たちや教会のリーダーたちを敬いませんでした。しかし、ペテロはさらに言います。

特に、汚れた欲望のまま肉に従って歩み、権威を侮る者たちに対して、主はそうされます。この者たちは厚かましく、わがままで、栄光ある人たちをののしって恐れません。

御使いたちは勢いも力も彼らにまさっているのに、主の御前で彼らをそしって訴えたりしません。

この者たちは、本能に支配されていて、捕らえられ殺されるために生まれてきた、理性のない動物のようです。自分が知りもしないことを悪く言い、動物が滅びるように滅ぼされることになります。(ペテロの手紙第二2:10-12)

「栄光ある人たち」とは、サタンと他の悪霊たちのことです。(彼らは罪に落ちましたが、まだ残っている栄光を持っています。)

ペテロによれば、良い天使たちは人間よりも力を持っているにもかかわらず、神様の前でサタンと悪霊たちを訴えたりしません。サタンと悪霊たちがいつか裁かれることは確かですが、それでも良い天使たちは彼らを訴えることを控えます。

それにもかかわらず、偽教師たちはサタンや悪霊たちを軽んじました。では、彼らはどのようにサタンと悪霊たちを悪く言ったのでしょうか。それは明確には記されていません。

もしかすると、彼らがサタンのしもべとして非難された際に、こう答えたのかもしれません。「サタン?サタンは私を支配しない。私は自分自身の主だ。サタンの顔に唾を吐いてやる。」

しかし、自分よりも力のあるものを軽んじるのは非常に危険なことです。ペテロや他の使徒たちは決してそのようなことをしませんでした。むしろ、ペテロはクリスチャンたちに警告しました。

身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。(第一ペテロ5:8)

もし、ライオンを軽んじると、あなたは食べられてしまうかもしれません。

そういうわけで、占い師や星座占い、またほかのオカルト的なものに参加してはいけません。

また、偶像礼拝に参加してはいけません。もちろん、偶像自体は何でもないものです。それでも、その偶像には悪霊との関係があります。

そのため、パウロはこう言いました。

むしろ、彼らが献げる物は、神にではなくて悪霊に献げられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。(第一コリント10:20)

でも、その反面、私たちにはサタンや悪霊たちに怯える必要がありません。なぜなら、ヨハネはこう言いましたから。

あなたがたのうちにおられる方(つまり、御霊)は、この世にいる者(つまり、サタン)よりも偉大だからです。(第一ヨハネ4:4)

また、ペテロは私たちに訓戒します。

堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。(第一ペテロ5:9)

それでも、サタンを過小評価してはいけません。彼は力強いものです。もちろん、彼はあなたよりも力強いのです。

だからパウロの言葉に従いましょう。

主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。(エペソ6:10-11)

簡単に言うと、サタンを重視しなくてはいけません。サタンを軽んじてはいけません。

むしろ、イエス様と共にいつもいなくてはいけません。イエス様の力によって強められなくてはいけません。そうしてこそ、あなたはサタンに勝利を得ます。

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ペテロの手紙第二

必ず来る滅び

時々私たちは、どうして神様がこの世にこれほど多くの悪を許されるのか疑問に思うことがあります。また、どうして神様が今、悪人たちを裁かれないのか疑問に思うこともあります。

ペテロは偽教師の運命について話す中で、その疑問に答えます。彼は次のように言いました。

彼らは貪欲で、うまくこしらえた話であなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは昔から怠りなく行われていて、彼らの滅びが遅くなることはありません。(ペテロの手紙第二2:3)

簡単に言うと、神様が悪に対して何もしないように見えたり、私たちが正義が決して行われないと感じたりしても、裁きは必ず来るのです。彼らの裁きが迫っており、彼らの滅びは確実です。

そして、ペテロは三つの例を挙げます。

最初の例は、ある天使たちが罪を犯したときに、神様が彼らを地獄に投げ入れられたことです。

それは案外めずらしい裁きです。多くの人々が考えることとは違い、地獄にいる悪霊はごく少数なのです。

実は、彼ら自身も地獄に行きたくはありません。そこで神様は、とりあえず彼らがこの世にとどまることを許されました。 そのため、今もなお彼らはこの世に多くの問題をもたらしているのです。

しかしどうやら、神様がある悪霊たちを地獄に投げ入れられるほどに、彼らの罪が深刻だったようです。そこで、彼らは最終的な裁きを待っています。(私はユダの手紙について話すとき、この話をもっと詳しく説明します。)

二つ目の例はノアの話です。ノアの時代には、「地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾いていました。」(創世記6:5)

箱舟を作っている間に、ノアは、人々に悔い改めるように促しました。けれども、彼らは悔い改めませんでした。

ノアがその箱舟を作っている間、神様は彼らを裁かれませんでした。 ところが、ある日、大洪水が降りかかり、彼らは滅びました。 一方で、ノアとその家族は救われました。

三つ目の例はソドムとゴモラの話です。彼らは本当に罪深い人々で、自分たちの罪に耽っていました。そのため、ロトは二人の見知らぬ人々を見て、彼らの安否を心配しました。つまり、ロトは、彼らが暴行されることを心配していたのです。

残念ながら、ロトの隣人たちはそうしようとしました。それゆえ、神様はソドムとゴモラを裁き、滅ぼされました。けれども、神様はロトを救われました。

ペテロはこれら三つの話をまとめて、次のように言いました。

主はこのようにされたのですから、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、正しくない者たちを処罰し、さばきの日まで閉じ込めておくことを、心得ておられるのです。(9)

以前の記事で私は言いましたが、ギリシャ語では「誘惑」と「試練」は同じ言葉です。そのため、ある英訳では、「敬虔な者たちを試練から救い出し」と書かれています。

とにかく、神様は私たちを試練から救い出されると書かれていますが、私たちが決して試練に直面しないというわけではありません。私たちも苦しい時に直面します。

それでも、神様は私たちと共におられ、私たちを救い出されます。そして最終的に、私たちは神様と共に天国にいるのです。

一方で、神様は悪人たちを裁かれます。その悪い天使たちのように、その者たちは暗闇の縄目につながれ、裁きの日まで閉じ込められています。今なお、彼らは罰を受けています。

地獄と永遠の罰という概念を好む人は誰もいないと思います。私も好きではありません。それでも、それは現実です。

最終的な裁きは、キリストがこの世を千年間統治した後まで起こりません。けれども、その裁きまで、神様から離れて死んだ人たちは罰を受けています。

そして、裁きの日に彼らは火の池に投げ込まれます。(黙示録20:15)

悲しいことですが、サタンのように、彼らは昼も夜も、永遠に苦しみを受けます。(黙示録20:10)

それは切ない話ですが、それは真実です。また、それは正義です。

正義は必ず行われます。それは裁きの希望であり、同時に裁きの恐れでもあります。

イエス様を拒絶する者に対して、裁きは恐ろしいことです。

しかし、イエス様はご自身を信じる者たちに、こう言われます。

まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。(ヨハネ5:24)

あなたは裁きの日について考えると、恐れるのでしょうか。それとも、希望を持っているのでしょうか。

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ペテロの手紙第二

どうして私たちは神様の御言葉を知らなくてはならないのか

前回の記事で私たちが学んだのは、私たちの信仰が自分の経験だけに基づくだけでなく、神様の御言葉にも基づいているということです。

今日の箇所では、ペテロが、なぜ私たちが神様の御言葉をよく知っていなければならないのかを説明します。

その理由は、教会に入り込む偽教師たちの存在です。ペテロは次のように言いました。

しかし、御民の中には偽預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れます。

彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込むようになります。自分たちを買い取ってくださった主さえも否定し、自分たちの身に速やかな滅びを招くのです。(ペテロの手紙第二2:1)

その教師たちは何を教えていたのでしょうか。彼らは基本的に、クリスチャンたちが好き勝手に生きても良いと教えました。彼らは、私たちが自分の情欲に従っても、神様は気にされないと教えました。

その教師たち自身がそのように暮らしていました。彼らは人前で罪を犯しました。教会で皆が一緒に食事をした時、彼らは酔っぱらったそうです。また、彼らは多くの教会の女性たちと寝ました。(13-14)

さらに、彼らはお金に執着していました。彼らが教会で教えた時、彼らの目的は教会の人たちからお金を奪うことでした。(14)

おまけに、彼らは自分の行為を正当化しようとしました。彼らによれば、その生き方によって、私たちは本当の自由を知るのだと主張しました。(18-19)

ペテロは彼らに関してこう言いました。

その人たちに自由を約束しながら、自分自身は滅びの奴隷となっています。人は自分を打ち負かした人の奴隷となるのです。(19)

ペテロによれば、彼らがイエス様を決して聞かないままであった方が良かったのです。なぜでしょうか。

彼らは真理を初めて聞いたとき、自分を奴隷にしていたものから逃れました。しかし、今や彼らはそこに戻ってしまいました。

彼らが真理を知らない間は、まだ真理を聞き、罪から救われる可能性がありました。

ところが、彼らは真理を知るようになり、その真理の甘さを味わいました。それにもかかわらず、彼らは結局、真理を拒絶しました。

では、彼らには救われる可能性があるでしょうか。ほとんどありません。彼らが悔い改めない限り、救われる可能性はゼロです。

さらに、神様は彼らをもっと厳しく裁かれます。なぜなら、彼らは無知によって罪を犯したのではなく、神様の真理を知りながら、あえて罪を犯したからです。(20-21)

ペテロは彼らに関して、こう言いました。

「犬は自分が吐いた物に戻る」、「豚は身を洗って、また泥の中を転がる」という、ことわざどおりのことが、彼らに起こっているのです。(22)

でも覚えておきましょう。彼らの教えに従うと、私たちも同じ落とし穴に落ちてしまうのです。

だから、私たちが自分に問わなければならないのは、どれだけ聖書を知っているかということです。

もし、誰かが嘘を教えると、その嘘を見破ることができるでしょうか。

私たちはどのように嘘を見破ることができるのでしょうか。

銀行員たちは偽札を勉強しません。逆に、彼らは本物の札によく馴染み、偽札に触れる瞬間、何か違うと分かります。

あなたは神様のみ言葉をそれだけ知っているでしょうか。あなたはそれだけ知っているはずです。そうであれば、あなたが騙される恐れはありません。

あなたはどれだけみ言葉を知っているでしょうか。

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ペテロの手紙第二

私たちの信仰の基礎

私たちの信仰の基礎は何でしょうか。なぜ私たちは、クリスチャンたちが信じていることを信じるのでしょうか。

基本的に、私たちの信仰は神様とその性質に基づいています。また、私たちの信仰はある程度、私たちの経験にも基づいています。すなわち、私たちは神様が慈しみ深い方であることを味わい、悟るようになったからです。

しかし難しいのは、神様は目に見えないということです。私たちは神様に触れることも、御声を耳で聞くこともできません。

では、どうして私たちが神様との関係を実際に持っていると確信できるのでしょうか。それがただの錯覚ではないと、どうして確信できるのでしょうか。

世界中には多くの人々が霊的な経験を主張しながらも、クリスチャンの教えを否定しています。

では、どうして私たちは自分たちの経験が彼らの経験よりも優れていると確信できるのでしょうか。また、彼らの経験とは異なり、私たちの経験が単なる感情や神話に基づくものではなく、真理に基づいていると確信できるのでしょうか。

ペテロはこれらの質問に答えています。彼はこう言いました。

私たちはあなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨を知らせましたが、それは、巧みな作り話によったのではありません。私たちは、キリストの威光の目撃者として伝えたのです。(ペテロの手紙第二1:16)

多くの人々は、イエス様が実在していたことを否定します。別の人々は、イエス様の存在を認めても、私たちがイエス様が実際に何を行い、何を語ったのかを知ることはできないと主張します。むしろ、彼らはイエス様に関する話が周囲の国々の神話に基づいていると主張し、それを証明しようと懸命に努めます。

けれども、ペテロはそのような主張を否定します。

「私たちは自分の想像によってイエス様の話を作りませんでした。私たちは実際にイエス様と共にいました。私たちはイエス様を見ました。山で、イエス様の姿が変えられたとき、私たちは自分の目でその栄光を見、自分の耳で神様の御声を聞きました。」(16ー18)

さらに、ペテロは次のように語ります。

また私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。(19)

もしかすると、ペテロは単に預言者たちの言葉について話しているのかもしれませんが、神様の言葉全体について話している可能性もあります。

いずれにせよ、ペテロのポイントはこうです――私たちは自分の経験だけでなく、神様のみ言葉によって、私たちの経験の背後に真実があると知ることができます。そのため、私たちの信仰は、単なる経験ではなく、神様のみ言葉にしっかりと基づいているのです。

神様のみ言葉を通して、私たちは神様が他の人々の人生にどのように働かれたのかを知ることができます。そのため、私たちは彼らの経験を自分自身の経験と比べ、その類似点を見つけることができます。

さらに、私たちは預言者たちの言葉がどのように成就されたのかを見ることができます。特に、イエス様に関する預言がどのように実現したのかを理解することができます。

しかし、私たちはどのように聖書の言葉が真実であることを確信できるのでしょうか。

考古学の発見により、聖書に記されている歴史的事実が証明されることもあります。

とはいえ、神様に関する聖書の言葉が正しいことを、どのように知ることができるのでしょうか。また、神様の言葉が正しく伝えられていることを、どのようにして確信できるのでしょうか。

ペテロは、この質問にも答えています。

ただし、聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきなさい。

預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。(20-21)

つまり、人々が聖書を書いたとき、自分の思いや意見だけを書いたのではありません。むしろ、聖霊様が彼らの思いと言葉を導いてくださったのです。

ただ、誤解しないでください。多くの場合、神様は自分の言葉を直接口頭で伝えたわけではありません。

確かにそのような場合もありましたが、多くの場合、神様はそれぞれの人々の人格や教育、話し方を用いて、彼らが自分の言葉でメッセージを私たちに伝えることを許されたのです。

そのため、神様は羊飼い、漁師、王、祭司、取税人、そして医者など、さまざまな背景を持つ人々を用いました。聖書には約40人の著者が関わりました。彼らは三つの大陸から来ており、三つの異なる言語を使用しました。

さらに、聖書が完成するまでに約1500年もの年月がかかりました。それにもかかわらず、彼らの証しは一貫しており、神様とその御業に関するメッセージは統一されています。

だからこそ、私たちは確信を持っています。

そういうわけで、ペテロはこう言いました。

夜が明けて、明けの明星があなたがたの心に昇るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。(19b)

「夜が明ける」とは、イエス様がこの世に戻られることを指しています。「明けの明星」とは、イエス様ご自身を指します。

したがって、ペテロが伝えたかったのは、この世の本当の光であるイエス様が戻られるその日まで、イエス様が残してくださった光に注意を払うべきだということです。

この暗い世において、神様の言葉は私たちの足元を照らす灯火です。その言葉を通して、私たちは神様がどのような方であるのか、そしてどのようにして神様を喜ばせることができるのかを知ることができます。この言葉こそが私たちの信仰の基盤なのです。

あなたはどうでしょうか。あなたの信仰はただ自分の経験に基づいているのでしょうか。それとも、あなたの信仰は神様のみ言葉に基づいているのでしょうか。

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ペテロの手紙第二

イエス様を本当に知り、愛するなら

この話を読んだとき、私はイエス様のミナのたとえ話を思い起こしました。(ルカ19:11ー27)

このたとえ話では、ある主人が三人のしもべたちにお金(ミナ:お金の単位)を投資させるために与えました。二人のしもべたちはそのお金をうまく投資し、利益を得たため、主人は彼らに気前よく報酬を与えました。

ところが、三人目のしもべは、そのミナを安全な場所にただ隠してしまいました。そのしもべの言い訳を聞くと、彼が主人の性格を正しく理解していなかったことが分かります。

そのしもべは主人を厳しい方だと考えました。また、彼は主人が何もせずにしもべたちに苦労させ、彼らの労働でお金を得ていると文句を言いました。そのため、このしもべは主人のお金を投資することを拒否したのです。

多くの人々は、このしもべのようです。彼らは自分がクリスチャンだと自称し、教会に通っているにもかかわらず、神様の性格に疑いを抱いています。彼らは神様が厳しく、不公平な方だと考え、神様が私たちの最善を知り、私たちの最善を望んでおられることを疑っています。

要するに、彼らは神様が良い方であることを疑っているのです。その結果、彼らは神様とその目的のために生きることを拒否します。

けれども、神様を知り、神様を愛する人がそのように生きることができるでしょうか。もちろんできません。

とはいえ、若いクリスチャンは神様をまだ十分に知らず、神様に対する愛もまだ未成熟であるかもしれません。しかし、私たちが成長するにつれて、神様に対する考え方は変わり、神様への愛が深まっていくはずです。

ペテロが言ったように、私たちが神様を知れば知るほど、神様の恵みと平安は私たちに豊かに溢れます。それはどうしてでしょうか。それは、神様が良い方であると悟るからです。

例えば、私たちは神様から次のような賜物を与えられます。赦しの賜物、永遠のいのちの賜物、御霊の賜物などです。神様が良い方であることを知るにつれて、私たちはさらに神様を愛し、神様のようになりたいと願うのです。つまり、

  • 私たちは神様の良い性質を見て、神様の性質を自分のものとしたいと願います。
  • 私たちは神様の知恵を目にし、それを学び取りたいと思います。
  • 誘惑の中で示されたイエス様の自制を見ると、私たちもその自制を身につけたいと願います。
  • イエス様が十字架の苦しみにさえ耐え抜かれたので、私たちも試練の時には忍耐と勇気を持つことができます。
  • イエス様が天の父の御声を聞き、それに従う姿を見ると、私たちもその模範に従いたいと願います。
  • 私たちは神様の愛と親切を知り、その愛と親切を周りの人々に示したいと思います。

だからペテロはこう言います。

これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、私たちの主イエス・キリストを知る点で、あなたがたが役に立たない者とか実を結ばない者になることはありません。(ペテロの手紙第二1:8)

そして、イエス様のたとえ話に出てくるしもべたちのように、

私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国に入る恵みを、豊かに与えられるのです。(11節)

しかし、ペテロは私たちに警告します。

これらを備えていない人は盲目です。自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまって、近視眼的になっているのです。(9節)

三人目のしもべは、そのような人でした。彼は主人の良い性質を忘れてしまい、その結果、彼は盲目的になり、自らの来たる破滅を予測することができませんでした。

あなたはどうでしょうか。あなたは神様をどのように見ていますか。神様の本当の性質を見ていますか。それとも、もしかすると、神様に対するあなたの考え方は歪んでいるかもしれませんか。

神様に対するあなたの考え方は、あなたの人生全体を形作ります。そして、裁きの日には、あなたの態度が明らかになります。

その日、神様はあなたについて何を言われているでしょうか。

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ペテロの手紙第二

恵みと平安が溢れるように

私は『ナルニア国物語』の『カスピアン王子の角笛』に登場するあるシーンがとても好きです。そのシーンで、ルーシーは久しぶりにアスランに会い、こう言います。「アスラン!あなたは前よりも大きくなった!」

すると、アスランは答えます。「あなたが年を取ったから、そう思うのだろう。」

「では、あなたは本当に大きくなっていないの?」

「私は大きくなっていない。でも、あなたが年を重ねるほど、私にはもっと大きく見えるようになるのだ。」

私たちの神様との関係もこれと同じです。神様はすでに偉大なお方です。将来的に神様がより大きくなるわけではありません。

けれども、私たちが神様を知れば知るほど、私たちにとって神様はますます大きく見えるようになります。なぜなら、私たちはより正確に神様を理解するようになるからです。

だからこそ、ペテロはこう言います。

神と、私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。(ペテロの手紙第二1:2)

3節から4節で、ペテロはその考えをさらに深め、広げています。

私たちをご自身の栄光と栄誉によって召してくださった神を、私たちが知ったことにより、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔をもたらすすべてのものを、私たちに与えました。

その栄光と栄誉を通して、尊く大いなる約束が私たちに与えられています。それは、その約束によってあなたがたが、欲望がもたらすこの世の腐敗を免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。

私たちはどのようにして神様の恵みと平安を豊かに知ることができるのでしょうか。そのためには、私たちは神様をさらに深く知るべきです。特に、神様の栄光と栄誉を知れば知るほど、私たちは神様の恵みと平安をますます理解するようになります。

その栄光と栄誉を通して、私たちは神様の子供となるように召されました。また、その栄光と栄誉によって、私たちは尊く、素晴らしい約束を与えられました。

私たちは永遠の命を約束されています。また、聖霊様の臨在も約束されています。聖霊様は私たちの内に住み、私たちに助言を与え、私たちを導き、私たちのためにとりなし、私たちをイエス様のかたちへと変えてくださいます。

これらの約束により、私たちは神様の性質にあずかることができます。それゆえ、人々が私たちを見るとき、私たちの天の父を見ることになるのです。

神様の恵みによって、私たちはこの世の腐敗から逃れました。この腐敗は人々を滅ぼすものです。

さらに、神様の力によって、私たちは精一杯人生を生きることができ、神様のご計画に従って敬虔な子供になることができます。

私たちがそのように毎日を歩むとき、神様の恵みと平安が私たちに満ち溢れます。

あなたはいかがですか。その恵みと平安を知っていますか。その恵みと平安をまだ知らないなら、神様に近づきましょう。「敬虔」という言葉は、神様との親しい関係を持つ人を意味しているのです。

そのため、ペテロは私たちに神様に近づき、親しくなるよう勧めています。毎日、毎瞬、神様の臨在を意識しましょう。そして、その意識が私たちの思い、行動、そして人生のすべてを変えるように。

そうすれば、あなたは神様の恵みと平安を知り、その恵みと平安があなたの人生に溢れるでしょう。

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ペテロの手紙第二

同じ価値の信仰

今日の聖句はただの挨拶にすぎませんが、それを読んだとき、私は心に深く響きました。

ペテロはこう書いています。

イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから、私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって、私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ。(ペテロの手紙第二1:1)

ある英訳では、次のように書かれています。

私たちの信仰と同じ価値の信仰を受けた方々へ

その言葉について少し考えてみてください。ペテロはイエス様の最初の十二人の弟子の一人でした。さらに、その弟子たちの中でも、ペテロはイエス様の三人の親しい友人の一人でした。

それにもかかわらず、ペテロはイエス様を直接見たことのないクリスチャンたちに向けて、「あなたの信仰は私たちの信仰と同じ価値があります」と伝えました。

もしかすると、ペテロがその言葉を書いたとき、彼はトマスに対するイエス様の言葉を思い出していたのかもしれません。

あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。(ヨハネ20:29)

ペテロはこう言っています。「私はイエス様を見ました。山の上で、私の目の前でイエス様の姿が変わり、私はイエス様の栄光を見、神様の御声を聞きました。さらに、私はイエス様の復活も目撃しました。

けれども、神様の目には、あなたの信仰は私の信仰と同じように尊く、等しいものです。なぜなら、あなたはイエス様を見たことがないのに信じるからです。」

私たちは自分の信仰について考えるとき、しばしば自分を二流市民だと見なしてしまいます。牧師や宣教師、あるいは友人を一流市民と見なす一方で、自分を二流市民として考えることがあるかもしれません。

けれども、神様の目には私たちの信仰はペテロの信仰と等しいのです。ですから、私たちは実際には一流の市民なのです。

成熟したクリスチャンにとって、この真理は謙遜を促すものです。彼らは、他のクリスチャンの未成熟さや聖書の知識の不足を見て、その人たちを見下す誘惑に駆られることがあるでしょう。

もちろん、神様は私たちに成長を求められます。それはこの手紙のテーマの一つでもあります。私たちはイエス様の恵みと知識において成長すべきです。毎日、少しずつイエス様のようになることが求められます。

しかし、覚えておいてください。あなたは他のクリスチャンよりも優れているわけではありません。また、他のクリスチャンに劣っているわけでもありません。

私たち皆、神様の恵みだけによって救われました。私たちが他の人よりも良い人間だから救われたのではありません。むしろ、私たちはイエス様の完全な義によって救われたのです。

イエス様はこの世におられたとき、一切罪を犯されませんでした。そして、十字架で私たちの罪のために命を捧げてくださいました。だからこそ、イエス様を信じるなら、私たちはイエス様のおかげで神様に義と認められるのです。

あなたはどのように自分を見なしているでしょうか。他のクリスチャンよりも優れた者だと考えていますか。それとも、他のクリスチャンに劣る者だと考えていますか。

神様があなたをどのように見ておられるかを思い起こしてください。神様はあなたに他のクリスチャンと等しい信仰を与えられました。そしてその信仰は、神様の目には尊いものです。

ですから、周囲の人々と自分を比較することをやめましょう。むしろ、毎日、神様の恵みと愛の中で安らぎましょう。

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ペテロの手紙第一

教会として苦しみの直面する

この手紙において、ペテロは、イエス様のために迫害や苦しみに直面しているクリスチャンたちに語りかけています。

最初にペテロは、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの教会に対し、一つのキリストのからだとして演説しました。そして、彼らが「生ける石」として神様の霊の家に築き上げられていることを思い起こさせました。

その後、ペテロは個々のクリスチャンたちに語りました。特に、クリスチャンの奴隷たち、妻たち、そして夫たちに向けて具体的に話をしました。

そして、ペテロは再び教会全体に向けて語りかけ、一つのキリストのからだとしての立場を強調しました。

けれども、5章では、おそらくペテロは個々の教会に対して演説したのだと思われます。ペテロは、ある教会が苦しみに直面したとき、それにどう反応すればよいかについて語りました。

リーダーたちには重要な役割があります。彼らは教会の人々の模範だからです。特に試練の時には、彼らは羊飼いとして教会の人々の世話をしなければなりません。(ペテロの手紙第一5:2)

試練の時には、自分のことだけを考えるのは簡単ですが、リーダーたちはそうしてはなりません。また、彼らは傲慢な態度で教会の人々を支配してはいけません。むしろ、リーダーたちは自分の羊とそのニーズを自分よりも優先しなければなりません。(3)

おそらく、ペテロがこの言葉を書いたとき、預言者エゼキエルの言葉を思い浮かべていたのかもしれません。

エゼキエル書34章では、神様がイスラエルのリーダーたちを責められています。それは、神様が彼らにイスラエルの民を導くよう命じられたにもかかわらず、そのリーダーたちは自分のために生きていたからです。

だから、おそらくペテロはそれを覚えていて、クリスチャンのリーダーたちに訓戒を与えていました。

「その羊飼いたちの模範に従ってはいけません。自分の群れを牧しなさい。なぜなら、神様はあなたの責任を問われるからです。」

しかし、ペテロは忠実なリーダーたちを励まし、次のように語りました。

そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠をいただくことになります。(4)

そしてペテロは若い人々に「長老たちに従いなさい」と命じました。(5)

若い人々にとって、自分がすべてを知っていると思い、リーダーたちを批判するのは簡単なことです。けれども、ペテロはこう語ります。

「あなたのリーダーたちに従いなさい。たとえ彼らの意見がいつも正しいわけではなくても、従いなさい。あなたのプライドが原因で教会を分裂させてはなりません。」

そして、ペテロはこう言いました。

みな互いに謙遜を身に着けなさい。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」のです。

ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(5-7)

試練の時、自分のプライドのために人々が喧嘩するのは容易なことです。けれども、ペテロはこう促しました。

「兄弟たちや姉妹たちと話すとき、謙遜な態度を取りなさい。特に神様の御前で謙遜でありなさい。そうすれば、神様はあなたを試練から救い出し、時が来るとあなたを高く上げてくださいます。」

私たちはすべての問題を自分の力で解決することはできません。そのため、神様の御前で謙遜な態度を取るべきです。そして、私たちのすべての思い煩いを神様に委ねるべきです。なぜなら、神様は私たちを深く愛しておられるからです。

しかし、多くの場合、私たちはそうすることができず、平和を見いだせません。私たちのプライドによって、「この問題を自分で対処できる」と思い込むことで、必要のない負担を背負ってしまうのです。

けれども、神様は私たちにこう語られます。「私に信頼しなさい。へりくだり、その問題を私に委ねなさい。そうすれば、私はその問題を解決します。」

また、ペテロは教会に訓戒します。試練を通してサタンは教会を滅ぼそうとします。

しかし、ペテロはこう語ります。

「堅く信仰に立ちなさい。あなたは苦しんでいるかもしれませんが、それはあなたたちだけではありません。あなたたちの兄弟たちと姉妹たちも共に苦しんでいます。だからこそ、互いに励まし合いなさい。」

そして、ペテロはこう言います。

あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。

どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。(10-11)

その言葉で、ペテロはこの手紙の冒頭の言葉を繰り返して述べています。神様はあなたを召されました。あなたが御子のようになるために、神様は毎日あなたを精錬し、清めておられます。

そのプロセスの一部が、あなたの苦しみなのです。けれども、神様の目的は、あなたがイエス様のために生きることにあります。良い時も、試練の時も、あなたはイエス様のために生きるべきです。

ただし、覚えておいてください。それを自分の力で成し遂げなければならないわけではありません。むしろ、神様の御前でへりくだりましょう。そして、神様に信頼しましょう。

そうすることで、あなたは堅く立ち、強くなり、不動の者となるでしょう。それは、すべて神様の栄光のためです。

キリストにあるあなたがたすべての者に、平安がありますように。(14)

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ペテロの手紙第一

神様の御心に従って生きる(3)

神様の御心について考えるとき、ある重要な真理を深く考える人は恐らく少ないでしょう。その真理とは、時に神様の御心が、私たちが試練と苦しみを経験することである、ということです。

新約聖書を読めば読むほど、この結論は避けられないものだと感じます。

けれども、素晴らしい知らせは、その苦しみを通して神様が栄光を受けられるだけでなく、私たち自身も最終的に栄光を受けるということです。

だから、ペテロはこう言います。

愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。(ペテロの手紙第一4:12)

要するに、クリスチャンとしての生活において、試練は避けられないものです。イエス様のために、のけ者にされるのは当然のことなのです。

どうしてでしょうか。

それは、人々がイエス様ご自身をものけ者にしたからです。

ペテロはこう言います。

むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。(13)

言い換えると、「イエス様が不当に苦難を受けられたように、あなたが不当に苦難を経験するとき、それを喜びなさい。ある日、イエス様はこの世に戻られ、その栄光が現れるでしょう。そのとき、あなたは自分の苦難を忘れてしまうでしょう。」

しかし、イエス様が戻られる前にも、私たちには喜ぶ理由があります。ペテロはこう言います。

もしキリストの名のためにののしられるなら、あなたがたは幸いです。栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。(14)

その言葉を読むと、私はステパノの話を思い出します。ステパノは石打ちされる直前、自分を告発する人々に直面していたとき、その顔は天使のように輝いていました(使徒の働き6:15)。

さらに、最高法院の人々に迫害された後、使徒たちは祈り、御霊の力で満たされ、大胆に福音を宣べ伝えました(使徒の働き4:31)。

私たちがキリストのために苦しむとき、御霊が私たちの上にとどまり続けてくださいます。だからこそ、ペテロは私たちが祝福されていると言います。

だから、ペテロはこう言います。

しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、このことのゆえに神をあがめなさい。(16)

そして、ペテロはちょっと不思議なことを言います。

さばきが神の家から始まる時が来ているからです。それが、まず私たちから始まるとすれば、神の福音に従わない者たちの結末はどうなるのでしょうか。

「正しい者がかろうじて救われるのなら、不敬虔な者や罪人はどうなるのか。」(17-18)

それはどういう意味でしょうか。

神様はクリスチャンの人生に試練が起こることを許されます。けれども、神様の目的は、私たちを滅ぼすことではありません。むしろ、その試練を通して、私たちは金のように精錬され、キリストのように造り変えられていくのです。

それでも、その試練が楽しいものではないのは事実です。むしろ、そうした試練は苦しいものです。

けれども、神様をずっと拒絶し続けた人々にとって、裁きの日はもっと苦しいものになるでしょう。

だから、どうか心に留めてください。私たちは神様のために苦しむことがあるかもしれませんが、その試練は常に私たちの益となるためのものです。

さらに、私たちの試練を通して神様が栄光を受けられます。なぜなら、私たちはその火を通過した後、精錬された金のように輝くからです。

だから、ペテロはこう言います。

ですから、神のみこころにより苦しみにあっている人たちは、善を行いつつ、真実な創造者に自分のたましいをゆだねなさい。(19)

あなたは落ち着いている時期を迎えているでしょうか。喜び、感謝しましょう。ただし、覚えていてください。私たちは壊れた世界の中で生きているため、試練は必ずやって来ます。

あなたは今、苦しみの中にいるでしょうか。その中でも喜びましょう。なぜなら、その試練は一時的なものであり、あなたを滅ぼすことはないからです。むしろ、その試練はあなたの益となるものです。

いずれの場合であっても、善を行いながら、真実な創造者に自分のたましいをゆだねましょう。そして、あなたを通して神様は栄光を受けられるのです。

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ペテロの手紙第一

神様の御心に従って生きる(2)

多くの人々は、自分の人生における神様の御心を知りたいと願います。

けれども、神様の御心について考えるとき、彼らが求めるのは、「私はどの仕事を選ぶべきか」「誰と結婚すべきか」「どの奉仕活動に参加すべきか」といった具体的な問いに対する答えです。

しかし、ペテロが神様の御心について語るとき、そうした具体的なことには触れていません。むしろ、ペテロは神様の御心を、神様に栄光を与えるために生きることだと定義しています。

多くの人々は「神様の御心を知りたい」と言いながらも、日常生活において、神様の栄光ではなく、自分の栄光のために生きています。

では、どのようにすれば私たちは神様の栄光のために生きることができるのでしょうか。

まず第一に、私たちは互いに愛し合うべきです。ペテロはこう言いました。

何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。(ペテロの手紙第一4:8)

ギリシャ語で「熱心」という言葉には、限界を超えるというニュアンスが含まれています。たとえば、ランナーが競走で勝つために自分の限界を超え、さらに速く走ろうとするようなものです。

そのように、私たちも自分の愛の限界を超えて、互いに愛し合うべきなのです。

そのようにしていく中で、私たちは多くの罪を覆います(8b)。つまり、愛によって、私たちは相手の罪や欠点を寛大な心で受け入れ、許すことができるのです。

また、私たちがキリストを知らない人々にイエス様の愛を示すなら、彼らはイエス様に魅せられるかもしれません。そして彼らがイエス様に向かうと、イエス様は彼らの人生に働きかけ、彼らの罪を清めてくださいます。

この意味においても、愛は人々の罪を覆う力を持っています。

いずれにせよ、人々への私たちの愛を通して、私たちは神様に栄光を与えることができるのです。

ペテロは続けてこう言います。

不平を言わないで、互いにもてなし合いなさい。(9)

私たちが苦しんでいるとき、気前の良い態度で人々を助けるために自分を捧げることは、とても難しいかもしれません。しかし、キリストの模範に従い、たとえ苦しみの中にあっても自分自身を捧げるならば、私たちは神様に栄光を与えるのです。

最後に、ペテロは私たちに、神様から与えられた賜物を忠実に活用し、互いに仕え合うことを思い出させます。ペテロはこう言いました。

語るのであれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕するのであれば、神が備えてくださる力によって、ふさわしく奉仕しなさい。

すべてにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。この方に栄光と力が世々限りなくありますように。アーメン。(11)

言い換えれば、私たちのすべての賜物が神様から与えられたものであることを忘れてはなりません。

また、その賜物が効果的に用いられるのは、神様の力だけによるということを覚えておく必要があります。その結果として、人々は私たちを称賛するのではなく、神様をほめたたえるようになるのです。

あなたはどうでしょうか。神様の御心を知りたいと願っていますか。神様の御心とは、主に仕事や結婚、あるいは日々の細かな決断に関することではありません。むしろ、簡単に言えば、神様の御心とは次のようなものです。

あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。(第一コリント10:31)

あなたは何のために生きているでしょうか。

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ペテロの手紙第一

神様の御心に従って生きる

この手紙の冒頭から、ペテロは私たちに大切な真理を教えています。それは、私たちがイエス・キリストに従うために選ばれた者であるということです。

この真理こそ、この手紙の重要なテーマの一つであり、今日の箇所でペテロはそのテーマに立ち返っています。

私たちは自分に属する者ではありません。私たちは神様に属しています。私たちは自分のためではなく、神様のために生きるべきなのです。それが私たちの態度でなければなりません。

そういうわけで、私たちは自分の苦しみに耐え、自分の罪を捨て去ります。(1-3)

しかし、神様に従うということは、罪を避け、神様のために喜んで苦しむことだけを意味するのではありません。私たちは日々、そして毎秒、神様のために生きるべきなのです。ペテロはこう言います。

万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。(ペテロの手紙第一4:7)

言い換えれば、私たちの人生が一時的なものであることを心に留めておく必要があります。イエス様はこの世にもう一度来られます。だからこそ、私たちが何かを行うとき、そのことをしっかり覚えていなければなりません。

この世の快楽や心配が私たちの考え方を曇らせないように注意するべきです。また、罪が私たちの心を支配することを許してはいけません。

なぜなら、それらによって私たちは最も大切なことを忘れてしまうからです。それは、神様とその御国です。私たちは毎日、神様に近づき、できる限り多くの人々を神様の御国へ導くべきです。そして祈るとき、私たちはそのことを考えるべきです。

けれども、私たちの祈りはどれほど自己中心的になっているのでしょうか。

もちろん、私たちが自分自身のために祈ってはいけないというわけではありません。イエス様が祈りの模範を示されたとき、私たちが自分のために祈ることを奨励されました(マタイ6:11)。

しかし、覚えておいてください。私たちは自分のために生きているわけではありません。だからこそ、祈るときは、まず最初に「御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように」と祈るべきです(マタイ6:10)。

ところが、私たちは自分のことに集中し、この世のものや心配によって自分の考えが曇らされるとき、神様とその御国を忘れてしまいます。また、罪を犯し、再び罪の奴隷となると、私たちは神様とその御国を忘れてしまいます。

だからこそ、ペテロは「祈りのために、心を整え、身を慎みなさい」と言っています。

効果的な祈りを捧げるためには、私たちは心を整え、身を慎まなくてはなりません。

神様の御心にかなう祈りをするためには、心を整え、身を慎むことが必要です。

神様が私たちの祈りに応えてくださるために、私たちは心を整え、身を慎まなくてはなりません。

私たちの心と態度が正しくないなら、神様の御心にかなった効果的な祈りを捧げることはできません。

私たちの祈り方は、私たちの優先順位を反映しています。また、自分の祈りは、どれほど私たちが神様の御心に応じて生きているかを示しています。

では、自分の祈りはあなたについて何を表しているでしょうか。それは、神様の御心に従って生きる人を表しているでしょうか。

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ペテロの手紙第一

私たちの希望

私たちの信仰のために、人々が私たちをあざ笑うとき、私たちが落胆してしまうのは簡単なことでしょう。また、自分の信仰ゆえに迫害されるとき、「どうして」と問いかけたくなるのも自然なことです。

「どうして神様はそれを許しておられるのだろうか。どうして神様は、私たちが苦しむことを許しておられるのだろうか。いつまで、私たちは我慢し続けなければならないのだろうか。」

今日の箇所では、いくつかの答えを見つけることができると思います。ペテロは、私たちが受ける苦しみや迫害をキリストとノアが経験した苦しみや迫害と例えています。ペテロはこう言いました。

キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちのために身代わりとなってくださったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされ、あなたがたを神に導くためでした。

その霊においてキリストは、捕らわれている霊たちのところへ行き、宣言されました。それは、かつてノアの時代、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たちのことです。

その箱舟に入ったわずかの人々、すなわち八人が、水を通して救われました。

この水はまた、今あなたがたをイエス・キリストの復活を通して救うバプテスマの型なのです。バプテスマは肉の汚れを取り除くものではありません。それはむしろ、健全な良心が神に対して行う誓約です。

イエス・キリストは天に上り、神の右におられます。御使いたちも、もろもろの権威と権力も、この方に服従しているのです。(18-22)

ノアが迫り来る裁きと、箱舟による神様の救いを周りの人々に伝えたとき、きっと彼はからかわれ、迫害されたに違いありません。

大洪水が来るまでの何年もの間、彼は迫害され、苦しんだでしょう。どうしてでしょうか。それは、神様が忍耐をもって人々の悔い改めを待ち続けておられたからです。

しかし、最終的に彼らは悔い改めず、裁きの水によって滅ぼされました。

同じように、クリスチャンたちもイエス様のために苦しみ、その苦しみが長いと感じることがあります。でも神様は、今も人々が悔い改めるかどうかを見て、忍耐して待っておられるのです。

そして、ノアの時代の人々に裁きが降りかかったように、イエス様が再びこの世に来られるとき、人々は裁きを受けます。その裁きは確かなものです。おそらくこれが、「捕らわれている霊たち」の話のポイントではないでしょうか。

その「捕らわれている霊たち」が誰であるかについては、少し不明瞭です。

ある学者たちは、その霊たちが人間の女性たちと関係を持ち、罪を犯した堕天使たちであると考えています。ほかの学者たちは、その霊たちはノアの時代に生きていた普通の人間だったと解釈しています。

いずれにせよ、これらの霊たちは霊的な牢に閉じ込められ、神様から遠く離れ、裁きを待っている状態です。

ある学者たちは、キリストがその牢で宣言をされた際、その霊たちにもう一つの悔い改めの機会を与えられたのではないかと推測しています。

けれども、聖書によれば、死後に新たな悔い改めの機会はないとされています(ヘブル9:27)。

おそらく、ペテロが意味したのは、キリストが神様を拒絶した霊たちに対し、御自身の最終的な勝利を宣言されたということでしょう。それを聞いた彼らは、自分たちの運命が完全に決定されたことを悟ったのだと思われます。

しかし、ノアが裁きの水を通して救われたように、イエス様を信じる人たちも、裁きを通して救われるのです。

ペテロによれば、バプテスマはその裁きによる救いを象徴しています。つまり、神様の裁きを通して、この世が清められ、すべてが新しくされるということです。

これこそが私たちの希望です。最終的に、私たちを悔い改めずに迫害する人たちは裁かれます。そして、イエス様を信じる人たちが、神様から恵みと憐れみを受けるということです。

けれども、その日が来るまで、神様は忍耐を持ち、できるだけ多くの人々に恵みと憐れみを与えるために待っておられます。

私たちの苦しみは一時的なものです。ですから、絶望しないでください。

たとえイエス様とその福音のために苦しむことがあっても、それは無意味ではありません。なぜなら、イエス様は王であり、すべての天使たちや、もろもろの権威と権力がイエス様に服従しているからです。

今、私たちの目にはそれが見えないかもしれません。けれども、いつか必ずそれを見る時が来ます。

だから、へブル人への手紙の著者の次の言葉を心に留めておきましょう。

「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。遅れることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし恐れ退くなら、わたしの心は彼を喜ばない。」

しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。(へブル10:37-39)

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ペテロの手紙第一

他の人々が生きるために、イエス様のために生きる

この手紙の中で、ペテロは、その読み手たちが苦しむとき、キリストの模範に従うよう促しています。私たちは人々を恐れるのではなく、むしろ、心の中でキリストを主とすべきです。

なぜ、私たちはそうすべきなのでしょうか。それは、私たちの周りの人々が生きるためです。つまり、彼らもまた、私たちが見出したイエス様にある命を見つけることができるようにするためです。

そのために、私たちのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をするべきです。

周りの人々が、私たちが喜んでキリストのために苦しむ姿を見ると、なぜ私たちがそのようにするのか尋ねるでしょう。そのとき、神様は彼らの人生に働きかける機会を与えてくださるのです。

だからペテロは私たちにこう促します。「神のみこころであるなら、善を行って苦しみを受けましょう。そうすれば、周りの人々はそれを見て、魅了され、神の国に入るかもしれません。」

イエス様は、私たちにとって最終的な模範でした。

キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。(ペテロの手紙第一3:18)

言い換えると、「分からないのでしょうか。イエス様の苦しみによって、天国の門はあなたに開かれたのです。だから、周りの人々のために同じように行いましょう。」

そして、苦しみの後に待っている私たちの最終的な勝利について話した後、ペテロはこう言います。

キリストは肉において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉において苦しみを受けた人は、罪との関わりを断っているのです。(4:1)

簡単に言えば、イエス様が私たちの救いのために喜んで苦しみを受けられたように、私たちも同じ態度を取るべきです。私たちの罪を捨て、自分のために生きることをやめなくてはなりません。むしろ、神様のために生きましょう。(4:2)

ペテロは続けます。

「今まで、あなたがたは一生を棒に振るようにして、好色、欲望、泥酔、遊興、宴会騒ぎ、律法に反する偶像礼拝などにふけってきました。

そして、あなたの友人たちは、あなたの優先順位が変わり、もはや彼らと一緒にその罪にふけらないことに驚いています。さらに、彼らはあなたを馬鹿にしたり、迫害したりするかもしれません。」(4:3-4)

しかし、ペテロは私たちにこう思い出させます。

彼らは、生きている者と死んだ者をさばこうとしておられる方に対して、申し開きをすることになります。(5)

裁きの日は必ず来ます。イエス様を拒絶したがゆえに、人々は裁かれるのです。だからこそ、ペテロは再び私たちにクリスチャンとしてのミッションを思い出させます。

このさばきがあるために、死んだ人々にも生前、福音が宣べ伝えられていたのです。彼らが肉においては人間としてさばきを受けても、霊においては神によって生きるためでした。(4:6)

どうして私たちは福音を人々に宣べ伝えるのでしょうか。それは、自分の体が死んでも、彼らが神様との永遠のいのちを得るためです。

その真理を忘れてはなりません。裁きの日は迫っています。私たちは救われているかもしれませんが、まだ多くの人々が救いを受けていません。

私たちはその人々のために何をしているのでしょうか。キリストの愛で彼らに触れ、イエス様の愛を示しているでしょうか。彼らは私たちの人生を見ることで、イエス様に魅了され、私たちの信仰の理由について尋ねるでしょうか。

それとも、もしかしたら、私たちはただ自分勝手に生き、他の人々が地獄に行くかどうかを気にしていないでしょうか。

神様は彼らを愛しておられました。イエス様をこの世に送るほどに、神様は彼らを愛しておられたのです。

私たちは、同じように彼らを愛しているでしょうか。

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ペテロの手紙第一

神様のしもべとして生きる(4)

ペテロは、夫婦や奴隷たちがどのように神様のしもべとして生きるべきかについて語った後、私たち全員に向けて話を続けます。

まず、ペテロは私たちの人間関係について話します。

最後に言います。みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚でありなさい。(ペテロの手紙第一3:8)

その言葉を読むと、イエス様の言葉を思い起こさせます。

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネ13:34-35)

第一ペテロ3:8では、ペテロがイエス様の言葉をさらに深めて膨らませているように思います。

異邦人の中にあって立派にふるまいなさい。そうすれば、彼らがあなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたの立派な行いを目にして、神の訪れの日に神をあがめるようになります。(ペテロの手紙第一2:12)

しかし、クリスチャンたちが常に喧嘩しているならば、自分たちの証しを失墜させてしまいます。

その後、ペテロは、クリスチャンたちが神様のしもべとして、苦しみや迫害にどのように反応すべきかというテーマに戻ります。

私たちは、この世の模範に従って苦々しい思いを持ったり、相手に復讐したりしてはいけません。その代わりに、私たちは相手を祝福するべきです。(ペテロの手紙第一3:9)

その言葉もまた、イエス様の言葉に似ています。

あなたがたを呪う者たちを祝福しなさい。あなたがたを侮辱する者たちのために祈りなさい。(ルカ6:28)

また、ペテロによれば、私たちが相手を祝福すると、私たちは神様の祝福を受け継ぎます。だからこそ、私たちは悪に対して悪を返してはいけません。(ペテロの手紙第一3:9)

さらに、ペテロは詩篇34篇を引用しています。簡単に言えば、私たちは自分の言葉遣いに注意し、悪を避け、平和を追い求めるべきだと教えています。(10-12節)

それは簡単なことではありませんでした。特に、ペテロの時代では、それは非常に困難なことでした。ネロ皇帝は宴席の場でクリスチャンたちに火をつけ、彼らをトーチとして使いました。ペテロ自身もまた、ネロの命令によって十字架にかけられました。

それでもなお、ペテロはこう言いました。

たとえ義のために苦しむことがあっても、あなたがたは幸いです。人々の脅かしを恐れたり、おびえたりしてはいけません。(14節)

そして、ペテロはこの箇所の核心を伝えます。

むしろ、心の中でキリストを主とし(なさい)。(15節)

どうして奴隷たちは悪い主人たちに耐えなくてはならないのでしょうか。

どうして妻たちは自分の夫に従うべきなのでしょうか。

どうして夫は自分の妻を敬うべきなのでしょうか。

どうしてクリスチャンたちは互いに愛し合うべきなのでしょうか。

そして、どうして私たちは迫害されるときに悪に背を向け、相手を祝福するべきなのでしょうか。

それは、イエスが私たちの主だからです。そしてペテロは、私たちがイエス様を主とするように訓戒しています。

私たちは、自分が主のしもべであることを心に留めていなくてはなりません。そして、イエス様のしもべとして、私たちはイエス様の光をこの世に照らすべきです。

けれども、自分勝手に生き、神様の御国のためではなく、自分の目的と計画を果たすために生きるならば、私たちはその光を照らすことはできません。

だからこそ、私たちが苦しみや迫害に直面するとき、ペテロは私たちにこう言います。

あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。ただし、柔和な心で、恐れつつ、健全な良心をもって弁明しなさい。

そうすれば、キリストにあるあなたがたの善良な生き方をののしっている人たちが、あなたがたを悪く言ったことを恥じるでしょう。(15b-16節)

私たちがキリストのしもべとして生き続けるならば、最終的に周りの人々は、なぜ私たちがそのように生きるのかを疑問に思うでしょう。たとえ私たちを迫害する者たちであっても、その理由を尋ねてくるかもしれません。

彼らがそう尋ねるとき、私たちには彼らを神様の御国へと導く機会が与えられるのです。

しかし、自分勝手に生きているならば、そのような機会を決して見出すことはできません。だからこそ、ペテロはこう言います。

神のみこころであるなら、悪を行って苦しみを受けるより、善を行って苦しみを受けるほうがよいのです。(17節)

もちろん、苦しみたいと願う人は誰もいません。けれども、自分の罪のためではなく、神様のしもべとして苦しむならば、私たちは神様の御国が広がるのを目の当たりにし、最終的には神様が私たちに報いを与えてくださるのです。

あなたはどうでしょうか。何のために、そして誰のために生きているのでしょうか。

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神様のしもべとして生きる(3)

この手紙の冒頭から、私たちが学んだことは、クリスチャンたちは御霊による聖別によって、イエス・キリストに従うように天の父に選ばれた者である、ということです。

簡単に言えば、私たちは自分自身のためではなく、イエス様のために生きるように選ばれたのです。

今日の箇所では、ペテロは、その真理をどのように私たちの結婚生活に当てはめるかについて話します。

そしてペテロは、まず妻たちにこう言います。

同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。

たとえ、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって神のものとされるためです。夫は、あなたがたの、神を恐れる純粋な生き方を目にするのです。(ペテロの手紙第一3:1-2)

現代では、この教えはあまり受け入れられないメッセージかもしれません。ある人々は、それが当時の時代と文化に限定された教えであると主張します。

確かにその時代、夫や主人たちは今よりも家庭内で大きな権威を持っていました。けれども、パウロもコロサイ人たちへの手紙やエペソ人たちへの手紙で、ペテロと同じことを教えています。

では、特に自分の夫がノンクリスチャンである場合、どうしてクリスチャンの妻たちは彼に従うべきなのでしょうか。その最初の理由は、彼女たちが主のしもべであるからです。そして、イエス様が使徒たちを通してそう命じられたからです。

さらに、そうすることによって、妻たちは自分の夫に対して光となるのです。夫は、自分勝手に暮らしている妻ではなく、主のために生きている妻の姿を見ることになります。

その妻の美しさは、ジュエリーや服装、髪型に基づくものではありません。むしろ、その美しさは新しくされた心から来るものです。その心は、彼女を救ってくださった主を映し出しています。

夫がそれを見ると、妻に対してさらに魅力を感じるかもしれませんし、主にも心を惹かれるかもしれません。神様のしもべとして、そして使節として、それこそが私たちの役割なのです。

時として、妻たちには恐れがあります。それは、自分の夫に従うことで、彼に操られるのではないかという恐れです。残念ながら、そのようなことが現実に起こる場合もあります。

しかし、ペテロは妻たちにサラの模範に従うよう促しています。つまり、恐れに屈することなく、自分の夫に従い、善を行うことです。(6)

そうすれば、神様はあなたを賞賛してくださいます。

ただし、前回の記事でお伝えしたように、あなたが虐待を許容すべきだという意味ではありません。虐待されている場合は、逃げるべきです。そして、自分を守らなくてはいけません。それでもなお、イエス様が示された態度を取るべきです。

(イエス様は)ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。(第一ペテロ2:23)

その反面、クリスチャンの夫たちもまたイエス様のしもべであることを忘れてはなりません。そして、自分の妻が自分のしもべではないことも覚えていなくてはならないのです。

あなたの妻はキリストのしもべであり、キリストにあってあなたの姉妹です。また、彼女はあなたと共にいのちの恵みを受け継ぐ者です。だからこそ、ペテロはこう言います。

同じように、夫たちよ、妻が自分より弱い器であることを理解して妻とともに暮らしなさい。また、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りは妨げられません。(7)

あなたは、自分の妻が自分よりも体力的に弱いかもしれないし、繊細な人かもしれないと思うでしょう。けれども、あなたには妻をいじめる権利はありません。イエス様が彼女を敬われるように、あなたも妻を敬わなくてはならないのです。

彼女は、あなたと共にいのちの恵みを受け継ぐ者です。それを忘れるなら、神様はあなたの責任を問われます。

ペテロによれば、もしあなたが妻を優しく扱わないなら、神様はあなたの祈りを聞いてはくださらないのです。

だから覚えておきましょう。あなたとあなたの配偶者は共にキリストのしもべです。それを心に留め、互いに敬い合い、そして愛し合わなくてはなりません。

あなたはどのように、自分の配偶者を扱うのでしょうか。

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神様のしもべとして生きる(2)

多分、ペテロの時代においては、他のどんな人々よりも、奴隷たちにとって権威に従うことは最も難しいことであったでしょう。

彼らにとって、キリスト教の教えの魅力の一つは、奴隷も自由人もなく、クリスチャン全員がキリスト・イエスにあって一つであるということでした。(ガラテヤ3:28)

それでも、彼らにとってその真理はまだ完全に実現していませんでした。なぜなら、彼らは依然として奴隷であったからです。

中には優しい主人もいましたが、そうではない主人もおり、時には何も悪いことをしていないのにむち打たれることさえありました。そのような状況で、ある奴隷たちは反逆したり、逃げようと考えたかもしれません。

しかし、ペテロは彼らにこう言ったのです。

しもべたちよ、敬意を込めて主人に従いなさい。善良で優しい主人だけでなく、意地悪な主人にも従いなさい。もしだれかが不当な苦しみを受けながら、神の御前における良心のゆえに悲しみに耐えるなら、それは神に喜ばれることです。

罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。(ペテロの手紙第一2:18-20)

簡単に言うと、たとえ主人が尊敬に値しなくても、私たちは尊敬しなくてはなりません。主人を尊敬する人は、神様のしもべとしてふるまい、それによって神様の称賛を得るのです。

もちろん、日本には奴隷制はありません。もし私たちが自分の上司を嫌っているなら、その働きを辞めることも可能です。

それでも、もしかしたら、あなたは悪いことをしていないのに虐待された経験があるかもしれません。

あるいは、権威を持つ人があなたを虐待していて、逃げることが難しいと感じているかもしれません。その人が親である可能性もありますし、先生である可能性もあります。

また、仕事を辞めることができない状況で上司に虐待されている場合もあるでしょう。あなたは虐待されているのに、どうすることもできず、逃げられないと感じているかもしれません。

そのような状況において、無礼な態度を取り、自分の傷のために相手を傷つけようとするのは簡単なことです。

しかし、キリストのしもべはキリストの模範に従います。特に苦しむとき、キリストのしもべはキリストの足跡に従います。(21)

キリストは唾を吐かれ、そしられ、打たれ、そして十字架にかけられました。それでも、

キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。(22-23)

どうしてイエス様はそのようになさったのでしょうか。それは、私たちのためです。

イエス様は、私たちが罪の道を歩み続け、自分勝手に生きるためにそうなさったわけではありません。むしろ、イエス様は、私たちが罪を離れ、義のために生きるためにそうなさいました。私たちがイエス様のしもべとして、また使節として生きるために、イエス様はそのようになさいました。(24)

私たちはかつて、神様から遠く離れ、自らの人生をめちゃくちゃにしていました。けれども、イエス様を通して、神様が私たちを癒してくださったので、私たちは自分のたましいの牧者であり、監督者である方のもとへ帰ることができました。(24-25)

だからこそ、私たちは自分の古い人生に戻ってはいけません。たとえ相手があなたを故意に傷つけたとしても、相手を傷つけるべきではありません。

むしろ、神様のしもべとして生きましょう。イエス様の模範に従い、私たちを傷つける人たちに対しても神様の代表者となり、光を照らしましょう。

ただし、誤解しないでください。もし、あなたが危険な状況にあるなら、自分のいのちを守らなくてはなりません。その場合は逃げるべきです。

それでも、イエス様が自分を傷つけた人たちに対してふるまわれたように、私たちもその模範に従ってふるまうべきです。

そうするなら、神様はそれをご覧になり、最終的にあなたに報いを与えてくださいます。

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神様のしもべとして生きる

以前の記事で私は言いましたが、あるクリスチャンたちは神様を自分の人生のアップグレードとして考えます。そういうわけで、彼らはほとんどいつも通りの生活を続けながら、自分の人生に宗教的な要素を付け加えます。

例えば、彼らは教会に行ったり、祈ったり、聖書を読んだり、ある悪い習慣を捨てたりします。けれども、それ以外の点では、自分勝手に生きているのです。

しかし、神様はただ私たちの人生をアップグレードしたいとは思っておられません。神様は私たちの主になりたいのです。

さらに、神様はただ私たちの人生を改良したいと思っているのではありません。神様は私たちを新しい者にしたいと望んでおられるのです。

神様は、私たちがイエス様のようになり、この世の人々に神様の代表者となるようにと望んでおられます。

だからこそ、ペテロはこう言うのです。

異邦人の中にあって立派にふるまいなさい。そうすれば、彼らがあなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたの立派な行いを目にして、神の訪れの日に神をあがめるようになります。(ペテロの手紙第一2:12)

その言葉は、イエス様の言葉に似ています。

このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。(マタイ5:16)

キリストのしもべとして、私たちはこの世におけるイエス様の代表者です。私たちはもはや自分のために生きるのではなく、むしろイエス様の代表者として生きるのです。

だからこそ、神様は私たちの言動を気にかけておられます。というのも、私たちの言動によって、神様の御名が栄光を受けることもあれば、逆に恥をかけられることもあるからです。

私たちが神様を反映する方法の一つは、権威にどのように反応するかということです。私たちは神様が立てられた政府に尊敬を払うべきでしょうか。ペテロによれば、私たちはそうすべきです。(13-14)どうしてでしょうか。

善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることは、神のみこころだからです。(15)

私たちが政府を尊重しない、つまり、権威を持つ人を尊重しない場合、私たちが代表する神様の御名を汚すことになります。そのうえ、それを人前で行うと、さらにその影響は大きくなります。

パウロは、大祭司の命令で打たれたときにもそれを心がけました。(使徒の働き23:2-5)

しかし、16節で私たちはペテロの主な要点を見ることができます。

自由な者として、しかもその自由を悪の言い訳にせず、神のしもべとして従いなさい。(16)

簡単に言うと、私たちは宗教のルールから解放されました。

けれども、その自由は罪や自分勝手な生活の言い訳として使うべきものではありません。私たちはもはや自分自身のものではないのです。なぜなら、私たちは代価をもって買い取られたからです。(第一コリント6:19-20)

だからこそ、神様のしもべとして生きましょう。では、そんな人生とはどのようなものでしょうか。ペテロはこう言うのです。

すべての人を敬い、兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を敬いなさい。(17)

あなたはどうでしょうか。あなたは良い代表者として生きているでしょうか。周りの人々があなたを見るとき、彼らはあなただけを見ているのでしょうか。それとも、もしかしたら、彼らはあなたを通して神様を見るでしょうか。

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ペテロの手紙第一

私たちがこの世に属しないから

私は日本に25年以上住んでいるので、時々、自分が国のない人間のように感じることがあります。もちろん、私はアメリカ人ですが、長い間アメリカを離れているため、その文化がどのように変わり、何が移り変わったのかをよく知りません。

一方で、日本に長年住んでいるにもかかわらず、私は多くの意味でまだ外国人であると感じています。それでも、「国のない人」であることは、必ずしも悪いことではないと思います。なぜなら、私はこの世に属していないからです。

もしあなたがクリスチャンであるなら、あなたもこの世に属していません。イエス様は大きな代価を支払って私たちを買い取られました。

けれども、イエス様がその代価を支払うために用いられたのは金でも銀でもなく、ご自身の血です。(ペテロの手紙第一1:18~19)

さらに、私たちが神様の民となるために、イエス様は私たちを買い取ってくださったのです。

私が以前言ったように、ペテロの手紙の重要なテーマの一つは、私たちが旅人であり、寄留者であるということです。つまり、私たちはこの世に属していません。

ペテロはこの真理の意味をさらに具体的に説明します。彼はこう言うのです。

ですから、あなたがたは心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。

従順な子どもとなり、以前、無知であったときの欲望に従わず、むしろ、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。

「あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである」と書いてあるからです。(ペテロの手紙第一1:13-16)

簡単に言うと、私たちは旅人であり寄留者であるため、未来の困難に備えて心構えをしておく必要があります。私たちはキリストのために苦しみや迫害を経験するかもしれません。

しかし、私たちは揺らいではいけません。自分の古い人生を振り返り、それに憧れてはいけません。むしろ、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望むべきです。

その恵みとは何でしょうか。それは永遠のいのちです。また、それは朽ちることも、汚れることも、消え去ることもない天の資産です(1:4)。

この希望ゆえに、私たちは自分を滅ぼしかねない悪い欲望に従わず、神様に従うべきです。私たちは神様のようになるように努めるべきです。天の父が完全であるように、私たちも完全であるように努めるべきです。

罪によって、私たちの人生が壊れることはしばしばあります。もし、私たちが罪にしがみつけば、私たちの状態はさらに悪化します。

けれども、自分の罪を捨て、神様に立ち返り、神様の道を歩むなら、私たちの人生は癒され、完全なものとなります。そして、裁きの日に私たちは報いを受けるのです。

だからこそ、ペテロはこう言います。

また、人をそれぞれのわざにしたがって公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、この世に寄留している時を、恐れつつ過ごしなさい。(17)

「この世に寄留している時を、恐れつつ過ごす」とは、どういう意味でしょうか。私たちはどうするべきでしょうか。

1.毎日、信仰と希望と愛を持って生きるべきです。

私たちは、神様がご自身の約束を守られることを信じているので、希望を持っています。(1:21)また、神様の命令に従い、互いに愛し合うべきです。(1:22)

2.永遠の命を心に留めるべきです。

私たちは、自分が得る命が永遠のものであることを覚えるべきです。この世での人生は短いですが、それは永遠の命への準備です。(1:23-25)

3.毒を捨てるべきです。

私たちは、自分の中にある毒を捨てる必要があります。例えば、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口といったものです。(2:1)

これらの毒や悪い欲望は私たちの魂と戦い、その戦いに負けると私たちは滅びてしまいます。(2:11)

むしろ、私たちは神様の乳、つまり、み言葉を慕い求めるべきです。そうすることで、神様の子供として私たちは成長するのです。(2:2)

4.最も大切なのは、私たちがこの世が拒絶したイエス様に近づくべきだということです。

私たちは神様の家に属する者としてイエス様に近づくべきです。私たちはイエス様が建てている家の一部であるべきです。さらに、私たちは神様の祭司として、自分の言動を通して霊のいけにえを捧げるべきです。(2:4-8)

そうするなら、私たちは暗闇に陥れられた世の人々に対して光となるのです。(2:9-12)

だから、私たちが誰であるかを覚えていましょう。

しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。

それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。

あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。(9-10)

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ペテロの手紙第一

私たちの希望の理由

ペテロの読み手たちは迫害を受けていました。おそらく、その時のローマ皇帝はネロだったと考えられます。

具体的にペテロがこの手紙を書いた時期は不明ですが、おそらくネロがクリスチャンたちを迫害し始めた頃、またはその直後だったのでしょう。

その当時、クリスチャンたちが絶望に陥るのは容易なことでした。そこで、ペテロは彼らに希望の理由を思い出させました。

その希望の理由は、1-2節に記されている真理に基づいています。

つまり、神様がその予知により彼らを選び、イエス様の血によって彼らを清めたという事実です。また、彼らがイエス様に従うように、神様は御霊によって彼らを聖別してくださったのです。

そして、ペテロはさらに具体的にそのことについて説明していきます。

私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。

また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。

これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いをいただくのです。(ペテロの手紙第一1:3-5)

その言葉によって、私たちは希望の基礎を見ることができます。それはイエス様の復活です。

イエス様の復活によって、神様はイエス様の十字架の生贄が罪の罰を完全に支払うのに十分であることを証明してくださいました。そして、その同じ復活によって、私たちは永遠のいのちの希望を持つことができるのです。

だからこそ、イエス様は弟子たちにこう言われました。

わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。(ヨハネ14:19)

神様の憐れみによって、神様は私たちに新しい命を与えてくださいました。そして、私たちの救いは確実に保証されたものです。

サタンが私たちを滅ぼそうとしているとしても、私たちが信仰によって立ち続ける限り、イエス様が再びこの世に来られるその日まで、神様とその力は私たちを守ってくださいます。

その日、私たちは朽ちることも、汚れることも、消えていくこともない資産を受け継ぐのです。

だからこそ、ペテロはこれを言うことができるのです。

そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。

今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。(6-7)

どうして試練の中で私たちは喜ぶことができるのでしょうか。それは、その試練が一時的なものであるからです。

神様は私たちを滅ぼすためにその試練を許されるわけではありません。むしろ、試練を通して神様は私たちを清め、イエス様の形へと変えようとしておられます。

イエス様ご自身も大きな苦しみを経験されました。だからこそ、私たちがイエス様の苦しみを経験するとき、私たちはイエス様のようになっていくのです。

では、どのように苦しみを通して私たちはイエス様のようになっていくのでしょうか。その試練は、私たちがこの世に住んでいるものの、実際にはただの在留外国人であることを思い出させます。

前回の記事で述べたように、私たちはこの世に属していないのです。その真理を理解するにつれて、私たちは一時的なものではなく、永遠のものに目を向けるようになります。

私たちは一時的な喜びを約束する罪を捨て、永遠の喜びを与えるものを追求します。そして、この世の汚れは私たちから取り除かれ、金のように純粋になります。

だからこそ、ヨブはこう言いました。

しかし神は、私の行く道を知っておられる。私は試されると、金のようになって出て来る。(ヨブ23:10)

ペテロによれば、このすべては神様の称賛と栄光と誉れをもたらします。なぜなら、神様が私たちを選んでくださったからです。けれども、同時に私は、神様が私たち自身にも称賛と栄光と誉れを与えてくださるという確信を持っています。

だからこそ、ペテロはこう言います。

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。(8-9)

あなたが試練に直面しているとき、その言葉を自分に当てはめることができるでしょうか。もしそうできないのであれば、根本的な真理を思い出す必要があります。それは、神様があなたを愛し、ご自身の子供として選んでくださったということです。

そして、イエス様の十字架を思い出しましょう。そこで、イエス様はあなたの救いの代価を完全に支払ってくださいました。

また、イエス様の復活を思い出しましょう。その復活によって、あなたは自分自身の復活の希望を持つことができます。そして、将来の天にある遺産を思い出しましょう。

そうすることで、ヨブのように、あなたは金のように純粋になって出てくるのです。

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ペテロの手紙第一

私たちが誰でしょうか。私たちがどんな人になるように呼ばれるか。

私は普段、新約聖書にある手紙の挨拶にあまり注意を払わないのですが、この場合、ペテロの挨拶はこの手紙全体の内容を見事にまとめています。

まず最初に、ペテロは自身について述べ、その後、この手紙の読み手が誰であるかについて触れています。

イエス・キリストの使徒ペテロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアに散って寄留している選ばれた人たち。。。(ペテロの手紙第一1:1)

この聖句では、私たちは、自分が誰であり、どのような人になるように神様に呼ばれたのかを見ることができます。

ペテロは私たちのことを、神様に選ばれた人々と呼んでいます。私たちが他の人々よりも優れているから選ばれたわけではありません。

むしろ、神様はその恵みによって私たちを選び、救い、そしてご自身の子供としてくださったのです。私たちの偉大さではなく、神様の恵み深さゆえに、私たちは選ばれました。

さらに、ペテロは私たちを「この世に散って寄留している人」と呼びます。

通常、「散って寄留している人」という言葉は、イスラエルを離れ、他の国々に散って住んでいるユダヤ人を指します。けれども、ペテロはこの言葉をすべてのクリスチャンに当てはめています。

つまり、私たちは本来、天の国の市民ですが、今はこの世に散って、在留外国人として生活しているということです。このテーマは、この手紙の中で何度も繰り返し見ることができます。

ペテロは続けてこう言います。

すなわち、父なる神の予知のままに、御霊による聖別によって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人たちへ。(1-2b)

ペテロによれば、神様はご自身の愛ゆえに、私たちを選び、キリストの血によって私たちを罪から清めてくださいました。

けれども、それだけにとどまらず、神様は今も私たちの中で働き続けておられます。毎日、神様は私たちを清め、私たちが完全にイエス様のようになるまで働いてくださいます。

さらに、私たちは自分のために生きるように呼ばれたのではありません。むしろ、私たちはイエス様に従うように呼ばれました。イエス様は私たちの王であり主であるべきで、私たちはイエス様のしもべとして生きるべきです。

私たちはそのように自分自身を見るべきです。この手紙を理解したいと思うなら、まず、自分が誰であり、そしてどのような人になるように呼ばれたのかを理解する必要があります。

しかし、多くの場合、私たちはそのことを理解していません。多くのクリスチャンはその真理を十分に把握していません。むしろ、彼らはクリスチャンとしての生活を、古い生活のアップグレード版と見なしています。

けれども、神様は私たちの人間性をアップグレードすることに興味があるのではありません。神様は私たちを完全に新しい人へと変えたいと望んでおられます。私たちはその生き方を通して御子を反映するべきです。

また、この世を自分の自宅として見なすべきではありません。むしろ、自分を天の国の市民と見なすべきです。

そのために、神様はイエス様をこの世に送り、イエス様は私たちの罪のために命を捧げられました。そして、イエス様は聖霊をすべてのクリスチャンに送ってくださいました。聖霊は今も私たちをイエス様の形へと変え続けておられます。

あなたはどうでしょうか。あなたは自分が誰であるかを理解しているでしょうか。あなたはどのような人になるように神様に呼ばれたのか、知っているでしょうか。

それとも、あなたはこの世の市民として生きているでしょうか。この世に属する者として振る舞っているのでしょうか。

もしあなたがクリスチャンなら、もはやこの世に属していません。

神様はご自身のためにあなたを造られました。そして、神様はあなたをイエス様に従う者として選び、聖霊によって清めてくださったのです。

この真理を理解せず、自分のために生き続ける限り、あなたは、自分が誰であるか、どのような人になるように呼ばれたのかを知ることはできないでしょう。

あなたはどうでしょうか。その真理を把握し、心に留めているでしょうか。

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ヤコブの手紙

人を追い求める信仰

ほかの新約聖書の手紙と比べると、ヤコブの手紙は唐突に終わるように感じられます。けれども、この手紙の締めくくりにあたり、ヤコブは主要なテーマの一つに立ち返ります。それは、真の信仰は愛によって表現されるということです。

特に、兄弟や姉妹が神様から遠く離れてしまったとき、愛はその人を追い求めます。

15ー16節では、ヤコブは身体的な病気のある人だけでなく、霊的な病を抱える人についても語ります。そして、私たちがその人の体と心、魂の癒しのために祈るよう促します。

私の兄弟たち。あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すなら、罪人を迷いの道から連れ戻す人は、罪人のたましいを死から救い出し、また多くの罪をおおうことになるのだと、知るべきです。(19-20)

時として、兄弟や姉妹が神様に背を向け、遠ざかってしまうことがあります。悲しいことですが、多くの場合、私たちはそれを目にしながらも、その人を追いません。私たちは相手を裁いたり、哀れんだりすることはあっても、結局、その人を追うことはしないのです。

しかし、愛は簡単にあきらめるものではありません。愛はその人を追い求めます。

例えば、私たちはその人の罪を指摘します。また、私たちはその人がイエス様のもとへ戻るよう促します。そして、その人のために祈ります。では、どのようにその人のために祈るべきでしょうか。

ヤコブが兄弟や姉妹を引き戻す話の前にエリヤの話を取り上げていることは、とても興味深いです。特に、ヤコブは、エリヤがどのような祈りを捧げたかについて語ります。

エリヤの時代、多くの人々は神様に背を向け、遠ざかってしまいました。そこで、エリヤは祈りました。彼は何のために祈ったのでしょうか。それは、雨が降らないようにと願う祈りでした。そして、3年6か月の間、雨はまったく降りませんでした。

その祈りによって、イスラエルの人々はエリヤの言葉に注意を払いました。特にアハブ王は深く関心を持ちました。そして、その祈りを通して、多くの人々が主のもとへ立ち返ったのです。

時には、私たちもそのように祈るべきです。以前にも述べたように、神様は試練を通して私たちを成熟させ、完全にされます。そして、時には試練を通して、神様はさまよっている私たちを引き戻されるのです。

だからこそ、誰かが神様から遠く離れてしまっているとき、私たちは試練がその人を神様へと導くように祈るべきです。

「神様、その人の人生に霊的な干ばつが訪れますように。その人が神のない人生の虚しさを悟ることができますように。その人をあなたのもとへ引き戻してください。」

神様はその祈りに答えてくださるでしょう。

このような祈りは、少し厳しく感じられるかもしれません。けれども、私たちは神様の心を持つべきです。神様は、人が苦しむことを望んでおられるのではありません。むしろ、神様はその人がご自身のもとへ戻ることを願っておられます。

そして、その人が悔い改め、神様へ立ち返るとき、私たちは心から喜ぶのです。

あなたはどうでしょうか。あなたの友達が神様に背を向け、遠ざかるとき、その人を愛し、追い求める信仰を持っていますか。

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ヤコブの手紙

祈っている信仰

以前にも言いましたが、ヤコブの手紙は、一見すると時に少し支離滅裂に見えるかもしれません。けれども、読み進めるうちに、その流れが明確になっていきます。

そして、今日の箇所では、ヤコブは第一章で取り上げたテーマの一つに戻ります。それは、試練の中での祈りです。

第一章では、ヤコブはこう語りました。試練の時に、私たちが神様の知恵を願うならば、信仰をもって祈らなければなりません。つまり、神様が良い方であることを信じることが求められます。また、神様の道こそが最善であることを信じなければなりません。

そして、今日の箇所で、ヤコブは再びこのテーマに立ち返ります。

あなたがたの中に苦しんでいる人がいれば、その人は祈りなさい。(ヤコブの手紙5:13)

何のために祈るべきでしょうか。それは、神様の知恵と助けを求めるためです。けれども、祈るときには、神様が良い方であることを信じなければなりません。そうでなければ、あなたの祈りはむなしいものとなってしまいます。(1:5-6)

とはいえ、祈りは試練の時だけに限られるものではありません。ヤコブは続けてこう言います。

喜んでいる人がいれば、その人は賛美しなさい。(13b)

苦しみの中で神様を思い出すことは、ある意味では自然なことかもしれません。けれども、順境のときはどうでしょうか。豊かさの中で、神様の慈しみに感謝しているでしょうか。それこそが信仰の姿です。

すべての良い贈り物、そして完全な贈り物は神様から来ることを忘れてはなりません。(ヤコブ 1:17)

そしてここで、ヤコブは再び試練の中での祈りについて語ります。

あなたがたのうちに病気の人がいれば、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。

信仰による祈りは、病んでいる人を救います。主はその人を立ち上がらせてくださいます。(14-15)

ヤコブは癒やしを約束していません。たとえば、パウロが祈っても、人が癒やされなかったことがあります。(第二テモテ4:20)

しかし、病気のときには、私たちは祈るべきであり、教会のリーダーたちの祈りを求めることも大切です。

オリーブ油は、おそらく聖霊様の癒やしの働きを象徴していたのでしょう。また、癒やしの塗り薬として用いられていた可能性もあります。

いずれにしても、祈りを通して私たちは神様への信仰を表します。神様の道こそが最善であることを信じ、私たちの癒やしを神様の御手に委ねるのです。

とはいえ、時として病気は罪から生じることがあります。だから、ヤコブはこう語ります。

もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは癒やされるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。(15b-16)

この言葉を読んで、私はイエス様のある出来事を思い出します。マルコ2章では、イエス様が一人の人を癒やす前に、その人の罪に触れられました。

もちろん、すべての病気が罪から生じるわけではありません。けれども、例えば、ある人々は心の中に苦々しい思いを抱き、相手を許せないために、さまざまな健康問題を抱えてしまいます。しかし、彼らがその罪を正しく対処したとき、病が癒やされることがありました。

そのため、ヤコブは、私たちが病気になったときや困難に直面したとき、祈るべきだと語ります。祈りを通して、私たちの霊的な問題が明らかになり、癒やされるのです。

そして、ヤコブはこの教えを次のようにまとめます。

正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。

エリヤは私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、雨は地に降りませんでした。(16-17)

簡単に言えば、祈りをむなしいものと考えてはなりません。普通の人であっても、神様を信じる信仰をもって祈るならば、素晴らしいことが起こるでしょう。

それは、祈りが魔法の言葉だからではありません。むしろ、私たちの神様が偉大な方であるからです。だからこそ、私たちが神様に信頼すると、神様は私たちの内に、そして私たちを通して素晴らしいことを行われます。

あなたはどうでしょうか。祈りがむなしいものだと感じることはありますか。それとも、良いときも悪いときも、祈り続ける信仰を持っていますか。

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ヤコブの手紙

どのように信仰は苦しみに反応するか

この手紙の冒頭で、ヤコブは、神様が試練を通して私たちを成熟させ、完全にされることについて語ります。

その後、ヤコブは、成熟した信仰がどのように表現されるかを示します。つまり、真の信仰によって、人々は愛や清さ、そして正しい言葉を持って成長するのです。

これは、神様が私たちに望まれる計画です。神様は、私たちがキリストに近づき、イエス様のようになることを願っています。

そして、この箇所では、ヤコブは私たちが試練をどのように扱うべきかについて再び語ります。

一見すると、ヤコブは4章の話を続けながら、クリスチャンの資産家たちを非難しているように思えます。

しかし、実際には、ヤコブは旧約聖書の預言者たちと同じように、神様の民を苦しめ、迫害する者たちを責めているのではないでしょうか。

ある金持ちたちは自分の富を握りしめ、働き手に正当な賃金を支払うことを怠りました。また、彼らは貪欲と自堕落によって、人々を裁いたり、殺したりしました。そのため、ヤコブは彼らに警告します。「裁きの日は迫っています。」

そして、ヤコブは苦しんでいるクリスチャンたちに向かって、こう語ります。

ですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は大地の貴重な実りを、初めの雨や後の雨が降るまで耐え忍んで待っています。

あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主が来られる時が近づいているからです。(ヤコブの手紙5:7-8)

簡単に言えば、忍耐には信仰が伴います。私たちが信じるべきなのは、神様が正義の神であり、いつかその正義をもたらされるということです。

農夫が神様が作物のために雨を備えてくださることを信じるように、私たちもまた、神様が私たちの望む正義を備えてくださることを信じなければなりません。そして、信仰を持って待ち望みながら、私たちは義の実を結ぶのです。

しかし、時として、それは難しいことです。私たちはフラストレーションを感じ、神様に怒りを抱き、兄弟姉妹にも怒りを向けてしまうことがあります。そのため、ヤコブは私たちに警告します。

兄弟たち。さばかれることがないように、互いに文句を言い合うのはやめなさい。見なさい。さばきを行う方が戸口のところに立っておられます。(9)

もし私たちが忍耐を失い、怒りに身を任せ、互いに責め合うならば、神様は私たちに責任を問われます。

見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いだと私たちは思います。あなたがたはヨブの忍耐のことを聞き、主によるその結末を知っています。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられます。(11)

預言者たちの人生を見ると、彼らの多くが大変な苦しみを経験していたことが分かります。それでも、周りの人々に憎まれたとしても、彼らは忠実であり続け、主の御言葉を述べ伝え続けました。

ヨブも同じでした。彼は激しい苦しみを味わい、その理由をまったく理解できませんでした。それでも、彼は信仰を捨てませんでした。そして最終的に、神様はヨブとすべての預言者たちを賞賛されたのです。

だからこそ、ヤコブは私たちに語ります。「あなたの試練から学びなさい。忍耐を保ちなさい。」

すべてが順調なとき、「神様は良い方だ」と言うのは簡単です。けれども、試練の中でそれを言うことは、はるかに困難です。

最後に、ヤコブはこう語ります。

私の兄弟たち。とりわけ、誓うことはやめなさい。天にかけても地にかけても、ほかの何にかけても誓ってはいけません。

あなたがたの「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」でありなさい。そうすれば、さばきにあうことはありません。(12)

つまり、どんなに困難な状況に直面しても、自分の高潔さを保たなければならないということです。

試練があなたの高潔を奪うことを許してはなりません。常に正直さをもって語り、生きるべきです。そうしなければ、あなたの証しは汚されてしまいます。

あなたは試練に直面したとき、どのように反応するでしょうか。神様に怒りを抱くでしょうか。それとも、周りの人々に怒りを向けるでしょうか。その試練によって、あなたの高潔は失われているかもしれません。

あるいは、あなたは堅く立ち、神様が良い方であり、あなたを救い出してくださることを信じ続けるでしょうか。

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ヤコブの手紙

真の信仰がどのように表現されるか(8)

今日の箇所で、ヤコブはついに真の信仰についての話を締めくくります。この手紙の中で、ヤコブは何度も、愛や言葉、そして清さのテーマを強調してきました。

そして、今日の聖句では、ヤコブは再び聖さと、私たちがこの世の汚れを避けることの重要性に焦点を当てます。

その「汚れ」とは、この世のものへの執着です。しかし、それだけでなく、この世の富や成功に伴う高慢も汚れの一部です。

ここでヤコブは、成功した人々—特に業者や商人たち—に向けて語ります。彼らは成功を収めましたが、その結果、自分が神様を必要とすることを忘れ、さらにその成功が神様から与えられたものであることも忘れてしまいました。

だから、ヤコブは彼らにこう言いました。

「今日か明日、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をしてもうけよう」と言っている者たち、よく聞きなさい。

あなたがたには、明日のことは分かりません。あなたがたのいのちとは、どのようなものでしょうか。

あなたがたは、しばらくの間現れて、それで消えてしまう霧です。

あなたがたはむしろ、「主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう」と言うべきです。

ところが実際には、あなたがたは大言壮語して誇っています。そのような誇りはすべて悪いことです。(ヤコブへの手紙4:13-16)

ある意味において、この聖句は10-12節と関連しています。

その箇所で、ヤコブは問いかけます。「あなたは、自分が何者だと思っているのか。どうして自分の隣人を裁くのか。どうして自分の隣人をそしり、軽蔑するのか。」

そして、13-16節でヤコブはもう一度問いかけます。

「あなたは、自分が何者だと思っているのか。どうして自慢するのか。あなたは無に等しいものだ。あなたはただの霧にすぎない。今日生きていても、明日はどうなるか分からない。あなたは自分がどれほど生きるかをコントロールできないのだ。」

では、私たちは何を学ぶべきでしょうか。私たちは高慢を捨て、神様に近づき、へりくだらなければなりません。

それだけではなく、隣人を軽蔑してはなりません。むしろ、イエス様の命令に従い、自分を愛するように隣人を愛さなければなりません。

ヤコブはこの話を次のようにまとめています。

こういうわけで、なすべき良いことを知っていながら行わないなら、それはその人には罪です。(17)

この言葉を通して、私たちは再びヤコブの2章の教えに立ち返ります。つまり、「行いのない信仰は死んだものである」ということです。(2:17)

もし、高慢な心を持ち、口で相手を裁き、周りの人々のニーズを無視し、この世に執着しているなら、あなたは本当に信仰を持っているのでしょうか。あなたの信仰は単なる言葉だけのものではないでしょうか。あなたの信仰は空っぽではないでしょうか。

あなたの信仰はどのようなものですか。

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ヤコブの手紙

真の信仰がどのように表現されるか(7)

ヤコブは、人々の心がこの世への愛によって汚される様子を語った後、「舌」の話に戻ります。特に、心がどのように舌を汚すかについて述べています。

ヤコブによれば、この手紙の読み手は、人を殺したり、争ったり、戦ったりしていました。おそらく、彼らは実際に人を殺したわけではないでしょう。けれども、心の中では相手を殺していたのです。(マタイ5:21-22)

では、人々はなぜ殺人を犯すのでしょうか。それは、彼らが自分の心の中で相手を侮っているからです。彼らは相手を神様の似姿として造られた存在として見ていません。

このため、イエス様はこう言われました。

昔の人々に対して、「殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない」と言われていたのを、あなたがたは聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。

兄弟に「ばか者」と言う者は最高法院でさばかれます。「愚か者」と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。(マタイ5:21-22)

イエス様によれば、心の中で怒りを抱き、人を侮ることは、殺人と似たものです。

ヤコブも同じ考えを持っていたようです。ある人々は、自分より多くのものを持つ者をねたみ、侮るほどまでにこの世を愛していました。その結果、彼らは相手をそしり、裁くようになってしまったのです。

だから、ヤコブはこう言います。

兄弟たち、互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟について悪口を言ったり、さばいたりする者は、律法について悪口を言い、律法をさばいているのです。

もしあなたが律法をさばくなら、律法を行う者ではなく、さばく者です。(11)

「人を裁いてはいけない」と聞くと、私たちはよく「人をその罪のゆえに裁いてはいけない」と考えます。

しかし、ヤコブは単にそのような裁きのことを語っているのではないかもしれません。むしろ、「あなたはばか者だ」「あなたはろくでなしだ」といった判断について話している可能性があります。

例えば、2章でヤコブは、ある人々が金持ちを敬う一方で、貧しい人々を侮っていたことを指摘しました。

だから、ヤコブは彼らにこう言いました。「そのような態度で人を裁いてはいけません。相手が神様の似姿として造られた存在であることを認めなさい。

神様の律法によれば、あなたは自分自身を愛するように、隣人を愛さなくてはなりません。神様の律法は、相手をそしったり、侮ったりすることを禁じています。

そのようなことをすれば、あなたは実際に神様の律法を裁いていることになります。つまり、律法に従うのではなく、それを軽視し、その価値を否定しているのです。」

そして、ヤコブは私たちに警告します。

律法を定め、さばきを行う方はただひとりで、救うことも滅ぼすこともできる方です。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。(12)

つまり、「裁きを行うのはあなたではなく、イエス様です。だからこそ、高ぶる態度を捨て、主の前でへりくだらなければなりません。偉そうな態度を取ってはいけません。なぜなら、あなたは本当に偉いわけではないからです。」ということです。

あなたはどうでしょうか。人を扱うとき、あなたの信仰はどのように表現されているでしょうか。あなたは相手を裁き、「ろくでなし」や「ばか者」と呼ぶでしょうか。それとも、彼らを呪うでしょうか。

あるいは、あなたの信仰は、神様があなたに与えてくださった愛や憐れみ、そして恵みを通して表現されているでしょうか。

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ヤコブの手紙

真の信仰がどのように表現されるか(6)

今日の箇所では、ヤコブは「舌」についての話から一旦離れ、真の信仰がどのように表現されるかについての三つ目の方法を語ります。それは、清さです。

ヤコブは先に、本当の宗教に欠かせないものの一つとして、この世の汚れに染まらないよう注意することを挙げました。

そして今日の箇所では、その意味を具体的に説明しています。

この手紙の読み手の中には、教師になりたいと願う人が多かったようです。けれども、ヤコブは彼らに警告しました。

私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しいさばきを受けます。(ヤコブの手紙3:1)

そして、ヤコブは彼らに言いました。「あなたたちは教師になるのに十分な知恵と分別を持っていると思うでしょうか。

自分の心を探りなさい。あなたたちの多くは、苦々しい妬みや利己的な思いを抱いています。その『知恵』は神様からのものではなく、サタンからのものです。そして、その『知恵』はあらゆる邪悪な行いへと至ります。」(13-16)

その後、ヤコブは彼らの問題の根本を指摘します。それは、彼らがこの世の汚れに染まってしまっているということです。

ヤコブは彼らにこう言います。

あなたがたの間の戦いや争いは、どこから出て来るのでしょうか。ここから、すなわち、あなたがたのからだの中で戦う欲望から出て来るのではありませんか。

あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりします。

自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。(1-3)

言い換えると、「自分自身を振り返りなさい。あなたたちはこの世に執着し、自分より多くのものを持っている人を憎み、ねたんでいます。そのため、いつも彼らと争っています。

この世に対する愛は、彼らとの関係に影響を与えるだけでなく、あなたの神様との関係にも影響を及ぼしています。あなたが祈る理由は、ただ神様から多くのものを求めることだけです。けれども、神様はそのような自己中心的な祈りには答えません。」

そして、ヤコブは彼らを厳しく戒めます。

節操のない者たち。世を愛することは神に敵対することだと分からないのですか。

世の友となりたいと思う者はだれでも、自分を神の敵としているのです。(4)

翻訳者たちはヤコブの言葉を控えめに訳しました。けれども、ヤコブは旧約聖書の預言者たちのように、読者を売春婦になぞらえています。(エゼキエル書16章やホセア書がその例です。)

私たちがこの世を愛すると、神様の妬みをかき立ててしまいます。(5)

一般的に、私たちは妬みを悪いことだと考えます。けれども、正しい妬みもあります。夫や妻が伴侶の不倫を知ったときに感じる妬みは、その関係に対する深い愛と絆から生じるものです。

同じように、私たちは神様に属しています。そのため、もし私たちが神様に背を向け、この世のものを追い求めるならば、神様は妬みを抱かれるのです。

しかし、私たちが神様のもとへ戻るならば、神様はいつも恵みを与えてくださいます。(6)

だから、ヤコブはこう言います。

ですから、神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。

罪人たち、手をきよめなさい。二心の者たち、心を清めなさい。嘆きなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。(7-9)

あなたはどのような信仰を持っているでしょうか。あなたの信仰は二心のものではないでしょうか。あなたは神様を信じると主張しながらも、売春婦のようにこの世のものを追い求めてはいないでしょうか。

私たちは神様の聖なる祭司として召されました。祭司たちは神様に近づく前に自らの手を清めました。それと同じように、私たちも霊的な手の汚れを洗い、心を清めなければなりません。私たちはこの世に対する愛を捨て、悔い改めなければならないのです。

あなたはどうでしょうか。あなたの心はこの世の汚れに染まってしまっているでしょうか。それとも、あなたの心は神様だけに属しているでしょうか。

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ヤコブの手紙

真の信仰がどのように表現されるか(5)

私はこの記事に「舌」と名付けることもできました。けれども、それは少し奇妙なタイトルに思えました。

さらに、この箇所がヤコブのより大きな議論の一部であることを、自分自身に思い出させたかったのです。つまり、真の信仰とは、愛と清さ、そして言葉を通して表現されるものなのです。

今日の箇所では、ヤコブは1章26節で述べた話を続けます。その聖句で、ヤコブはこう言いました。

自分は宗教心にあついと思っても、自分の舌を制御せず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。(ヤコブの手紙1:26)

私は以前にも言いましたが、私たちの言葉は、私たちの心の状態を表します。

時々、人々は誤ったことを口にした後、「失礼しました。つい言ってしまいました」と言います。

しかし、なぜその言葉が出てしまったのでしょうか。それは、その言葉がすでに心の中にあったからです。何の根拠もなく突然出てきたのではありません。その言葉は心に深く根付いており、時が来ると現れるのです。

私たち全員の心の中には罪があるため、ときに思わず悪いことを口にしてしまいます。

だから、ヤコブはこう言いました。

私たちはみな、多くの点で過ちを犯すからです。もし、ことばで過ちを犯さない人がいたら、その人はからだ全体も制御できる完全な人です。(2)

私たちは行動するよりも先に、言葉を発してしまうことがよくあります。そのため、もし私たちが成熟し、自制心を持って決して悪いことを言わないようになるならば、おそらく悪い行動をも慎むことができるでしょう。

しかし、この世に生きている限り、私たちの心には罪があるのです。

だから、ヤコブはこう言います。

どのような種類の獣も鳥も、這うものも海の生き物も、人類によって制することができ、すでに制せられています。(7)

私たちの言葉は、自分の人生を形成するだけでなく、周囲の人々の人生にも影響を与えます。くつわによって馬を操るように、また舵によって船の方向を変えるように、私たちの言葉は人の人生を良い方向にも悪い方向にも導くことができるのです。

しかし、残念ながら、私たちはしばしば言葉によって人々を悪い方向へと向かわせてしまいます。ヤコブは、舌を「大きな森を燃やす小さな火」にたとえています。

私たちの言葉は、自分自身の人生を破滅へと向かわせる恐れがありますし、他者の人生をも破壊する可能性があります。だからこそ、ヤコブは「舌はゲヘナ(つまり地獄)の火によって焼かれる」と警告しています。

言葉によって、人は職を失います。言葉によって、夫婦の関係が壊れます。言葉によって、子供は傷つきます。言葉によって、友人関係も壊れてしまいます。それでも、私たちは往々にして不注意のために言葉を発してしまいます。

そのため、ヤコブは舌を「死の毒で満ちているもの」と呼ぶのです。

ヤコブはこう言います。

私たちは、舌で、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌で、神の似姿に造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。

私の兄弟たち、そのようなことが、あってはなりません。(9-10)

言い換えると、私たちは「神様を愛している」と言いながら、どうして神様の似姿に造られた人を侮辱することができるのでしょうか。

ヤコブはこの話を次のようにまとめています。

泉が、甘い水と苦い水を同じ穴から湧き出させるでしょうか。私の兄弟たち。いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの実をならせたりすることができるでしょうか。塩水も甘い水を出すことはできません。(11-12)

もちろん、泉は甘い水と苦い水を同時に湧き出させることはありません。しかし、私たちの心に罪があるため、良い言葉も悪い言葉も私たちの口から出てしまいます。

だから、自分の言葉を制御できないと感じるなら、その言葉の源について考えてみてください。あなたの心には何が入っているでしょうか。

苦々しい思いや怒り、見苦しいものが心に宿ってはいないでしょうか。それらをイエス様の手に委ねるまで、自分の言葉を完全に制御することはできません。

だから、ダビデのように祈りましょう。

私の口のことばと私の心の思いとが御前に受け入れられますように。主よ。わが岩、わが贖い主よ。(詩篇19:14)

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ヤコブの手紙

教師になりたいと

振り返ると、私はどのようにしてミニストリーに関わるようになったのか、不思議に思います。自分の歩みを見て、こう問いかけます。「どうやって、私はここまで来たのだろうか。」

ミニストリーに参加する理由は、最初はそれほど深いものではありませんでした。「いつか日本に行って宣教師になりたい」とは、まったく考えていませんでした。

私の兄は高校生と大学生の頃、子供の伝道の組織に参加していました。夏休みになると、彼はバイブルクラブやキャンプで子供たちに聖書を教えていました。

そして私が高校生の時、友人もその組織に参加しようとしていました。ある日、彼は私の人生を変える質問をしました。「この夏、ブルースさんも子供の伝道の働きをするのでしょうか。」

私が「いいえ」と答えると、彼は驚き、がっかりしていました。なぜか彼は、私も兄と同じように子供の伝道に参加するのが当然だと思っていたようです。けれども、私はそのことについてまったく考えたことがありませんでした。

それでも、友人の言葉が私の心にその考えを植えました。そして翌年の夏、私はその組織に入り、子供たちに聖書を教え始めました。それが私の最初のミニストリーでした。

その後、私は子供だけでなく、教会の仲間たちにも教えるようになりました。

大学を卒業した後、私は日本に移り、英語の生徒たちに聖書を教え始めました。その後、あっという間に、私の牧師はある家庭教会で教える機会を与えてくれ、さらに大きな教会での教えるチャンスも与えてくれました。現在、私は教会で年間6〜9回ほど説教をしています。

高校生の頃、私はこうしたミニストリーに携わることをまったく想像していませんでした。

しかし、今こうしてミニストリーに仕えているからこそ、今日の聖書の箇所を読むと、大きな責任を感じます。おそらく、すべての牧師や聖書教師もこの責任を感じることでしょう。

ヤコブはこう言いました。

私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しいさばきを受けます。(ヤコブの手紙3:1)

なぜ教師たちはより厳しい裁きを受けるのでしょうか。二つの理由があります。

第一の理由は、私たちは注意しなければ、人々をキリストの真理から遠ざけ、誤った方向へ導いてしまう恐れがあるからです。

第二の理由は、私たちが人々の前で神様の御言葉を教えることによって、彼らが私たちの人生に注目することです。彼らは、私たちがその教えに従って生きているかどうかを見極めます。

私たちは神様の群れの模範となるべき存在です。そのため、私たちが失敗すると、その影響は群れに害を及ぼします。

おそらく、ヤコブは特に二つ目の理由を強調しているのでしょう。次の記事では、舌の問題に関する教えをすべてのクリスチャンに適用しますが、今日はこの教えを教師たちに焦点を当てて考えたいと思います。

ヤコブは、私たちがどのように舌で人を傷つけることができるかについて語ります。彼は私たちの舌を、「食い尽くし、滅ぼす火」(6)にたとえます。また、彼は舌を「休むことのない悪」と「死の毒で満ちているもの」(8)に見立てています。

教師にとって、これは非常に皮肉なことです。私たちは言葉によって人々を戒め、励まし、築き上げることができます。けれども、同じ言葉によって、人々を傷つけ、滅ぼしてしまうこともあるのです。

ヤコブは私たちに問いかけます。

泉が、甘い水と苦い水を同じ穴から湧き出させるでしょうか。(11)

そんなはずはありません。私たちの舌は神様の道具であるべきです。けれども、もし私たちの言葉によって人々を傷つけ、壊してしまうならば、私たちの舌はサタンの道具になってしまいます。本来、私たちの舌はそのようなものではないはずです。

そして、ヤコブは言葉の問題の根本を指摘します。それは、私たちの心です。

あなたがたのうちで、知恵があり、分別のある人はだれでしょうか。その人はその知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。(13)

要するに、知恵があり、分別のある教師は、自分の説教だけでなく、日常生活の中でもその知恵と分別を示します。本当に知恵のある教師は、謙遜を持ち、神様を愛し、神様が与えてくださった群れを愛することに集中します。

しかし、すべての教師がそうするわけではありません。ある教師たちは常に自分を周りの人々と比較します。特に、彼らはより成功している教師と自分を比べてしまいます。また、ある教師は、神様から与えられた群れを軽んじます。

だからこそ、ヤコブは警告します。

しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや利己的な思いがあるなら、自慢したり、真理に逆らって偽ったりするのはやめなさい。

そのような知恵は上から来たものではなく、地上のもの、肉的で悪魔的なものです。ねたみや利己的な思いのあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。(14-16)

教師たちはどのような知恵を持つべきでしょうか。ヤコブは私たちに教えています。

しかし、上からの知恵は、まず第一に清いものです。それから、平和で、優しく、協調性があり、あわれみと良い実に満ち、偏見がなく、偽善もありません。

義の実を結ばせる種は、平和をつくる人々によって平和のうちに蒔かれるのです。(17-18)

教師の皆さん、あなたはどのような収穫を刈り取っているでしょうか。それは乱れや、あらゆる邪悪な行いでしょうか。それとも、義と平和を刈り取っているでしょうか。

もし乱れや邪悪な行いを刈り取っているならば、他者を裁く前に、まず自分自身を見つめる必要があります。

14-16節は、あなたの人生を描写しているでしょうか。

それとも、17-18節があなたの人生を描写しているでしょうか。

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真の信仰がどのように表現されるか(4)

前回の記事でさらに言いたいことがありましたが、すでに記事が長くなっていたため、その代わりに今日の記事で触れることにしました。

以前の記事で、私が強調したかったことの一つは、クリスチャンとして成熟し、完全な者になるには時間がかかるということです。私たちは、一瞬にして完全なクリスチャンになるわけではありません。

アブラハムの信仰も、一瞬で完全なものになったわけではありませんでした。彼がイサクを生贄として捧げようとした時、その信仰はようやく成熟しました。

けれども、それまでの彼の信仰は何度も揺らいでいました。そのため、彼は相続人を得るために妻の奴隷ハガルと関係を持ちました。

また、20章では、アビメレク王に嘘をつき、自分の妻サラを妹だと言いました。(それは半分は真実でした。サラはアブラハムの異母妹だったのです)。

なぜ彼は嘘をついたのでしょうか。それは、アビメレクがアブラハムを殺し、サラを奪うことを恐れたからです。

では、私のポイントは何でしょうか。

一つ目は、私はあなたに自分の信仰について考えることを促したということです。けれども、その際、自分の失敗ばかりに目を向けて落ち込むのは簡単です。

「もしかしたら、私は本当に救われていないのではないか。私の人生には愛の実が見られないし、さまざまな面で失敗ばかりしている。」

しかし、そうした反応は私の意図ではなく、また、ヤコブの意図でもありません。

ある人々は自分がクリスチャンだと自称しながらも、自分勝手な人生を送っても問題ないと考えます。

彼らは、「私は信仰をもって、あなたは行いを持っている」と言い、信仰と行いの関係をまったく認めようとしません。ヤコブと私は、そのような人の信仰を疑います。

なぜなら、信仰と行いは深く結びついているからです。真の信仰は必ず変えられた人生へと導きます。十字架を見て神様の愛を悟り、神様を愛するならば、自然と神様を喜ばせたいと願うようになります。

もしあなたが自分の信仰に疑問を感じているならば、私はこう問いかけます。「あなたは本当に神様を愛しているでしょうか。神様を本当に喜ばせたいと思うでしょうか。」

もしあなたが「はい」と答えることができるならば、私はあなたを心配しません。なぜなら、あなたは聖霊の力と導きによって自然に変化し始めるからです。その過程には時間がかかり、困難を伴うかもしれません。それでも、それは確実に起こります。

次に、人の成長が遅すぎると感じても、その人を急いで裁かないように注意しなくてはならないということです。

人々はそれぞれ異なるペースで成長します。彼らの行いは心の状態をよく表しますが、それが信仰の完全な尺度であるとは限りません。

ある人は外見上、立派なクリスチャンに見えるかもしれません。しかし、神様の目には、その心が正しくないこともあります。

その一方、ある人が偽善者に見えたとしても、その人は自分の部屋で泣き叫びながら祈っているかもしれません。「神様、どうして私はこんな人間なのでしょうか。赦してください。私を変えてください。」

けれども、聖い人生を送ることに関心を持たない人を見るならば、その人の信仰を疑うべきです。そのような人はいつも言い訳をし、訓戒されると、「でも、私は信仰によって救われた。私の行動は関係ない」と答えます。

私はそのような人の信仰を疑います。ヤコブも同じようにするでしょう。

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真の信仰がどのように表現されるか(3)

前回の記事では、「私は神様を信じる」と主張するだけでは十分ではないことを学びました。また、「イエス様が私の罪のために死んだと信じる」と言うだけでも不十分です。

真の信仰は、必ず変えられた人生へと導きます。特に、真の信仰は愛によって表現されます。それは、神様への愛と、人々への愛です。

成長せず、決して愛を示さない信仰は、実際には信仰とは言えません。それはただの空しい言葉です。それは、貧しい人に「かわいそうに。神様があなたを祝福するように。」と言いながら、何も助けないことに似ています。

そして、ヤコブはこう言います。

しかし、「ある人には信仰があるが、ほかの人には行いがあります」と言う人がいるでしょう。行いのないあなたの信仰を私に見せてください。私は行いによって、自分の信仰をあなたに見せてあげます。(ヤコブの手紙2:18)

ギリシャ語では引用符がないため、この箇所を解釈するのは少し難しいです。

この翻訳によれば、おそらく自称クリスチャンがヤコブにこう話しているのかもしれません。「あるクリスチャンは信仰があるが、ほかのクリスチャンは行いがある。でも、二人とも結局クリスチャンだよ。」

しかし、ヤコブはその人に答えます。「あなたは本当に信仰を持っているでしょうか。それを証明しなさい。

自分がクリスチャンだと主張するのは簡単なことです。あなたは自分が神様を愛していると主張するかもしれませんが、どのようにして私があなたの心を知ることができるでしょうか。私はあなたの心を見抜くことはできません。

ただ、あなたの行為を見ることしかできません。けれども、その行為のゆえに、私はあなたの信仰を疑います。なぜなら、あなたの人生に神様への愛と人々への愛が見られないからです。

もしあなたが本当に神様の愛を知っていたら、その愛は自然にあなたの人生から溢れ出るはずです。」

ある人々は、パウロの言葉とヤコブの言葉が矛盾していると考えます。なぜなら、パウロは「人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められる」と教えました(ローマ3:28)。

しかし、ヤコブによれば、「人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではない」(ヤコブ2:24)からです。

では、私たちはどのようにしてこの二つの言葉を調和させることができるのでしょうか。

神様の目には、私たちは信仰によって義と認められます。なぜなら、神様は人の心を見抜くことができ、その人が本当に信仰を持っているかどうかを理解されるからです。

けれども、人の目には、私たちは行いによって義と認められます。なぜなら、人は他人の心を見抜くことができず、その行いだけを見ることしかできないからです。

興味深いことに、パウロとヤコブはそれぞれの主張を証明するために、同じ聖句と登場人物を用いています。

ヤコブはこう言いました。

私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇に献げたとき、行いによって義と認められたではありませんか。あなたが見ているとおり、信仰がその行いとともに働き、信仰は行いによって完成されました。(21-22)

では、アブラハムは誰によって義と認められたのでしょうか。神様でしょうか。ある意味ではそうです。

しかし、アブラハムの行為によって、周りの人々も彼が神様を信じていたことを知るようになりました。それ以前、彼らはアブラハムが本当に神様を信じていたかどうか分かりませんでした。彼らはアブラハムの心を見ることができなかったからです。

過去のアブラハムの行為を見ると、彼を偽善者と呼ぶこともできたでしょう。

例えば、彼は信仰が弱く、相続人を得るために、自分の妻の奴隷と関係を持ちました。アブラハムの妻がそれを勧めたとはいえ、その行為は信仰の表れではなく、むしろ神様の約束を疑ったことを示していました。

けれども、アブラハムがイサクを生贄として捧げたとき、彼は自らの信仰を証明しました。

神様は、イサクを通してアブラハムが多くの子孫を得ると約束されました。けれども、神様がその生贄を命じたとき、イサクにはまだ子供がいませんでした。それでも、アブラハムは神様の約束を信じ、イサクを捧げようとしました。

彼の信仰は成長しました。以前は偽善的な行動をとり、信仰が揺らいでいましたが、今や彼は神様を完全に信頼していました。

だからこそ、ヤコブはこう言いました。

アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。(23)

では、アブラハムはいつ神様を信じたのでしょうか。そして、彼はいつ神様によって義と認められたのでしょうか。生贄の前でしょうか、それとも後でしょうか。

それは、生贄の前でした。実際には、イサクが生まれる前から、すでにアブラハムは神様によって義と認められていました。(創世記15:6)

その時、神様はアブラハムの心をご存知でした。神様は彼が本当に信じていたことを知っていたので、彼を義と認められました。

それでも、アブラハムがイサクを祭壇に捧げた時、その信仰は成熟し、完全なものとなりました。

以前の記事で私は言いましたが、信仰の成熟や完成には時間がかかることがあります。時に、私たちの信仰は揺らぎ、成長の過程で苦しみを伴うこともあります。

しかし、真の信仰を持っているならば、進展があるはずです。そして、最終的に周囲の人々もその進展を目にすることになります。

あなたはどのような信仰を持っているでしょうか。

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真の信仰がどのように表現されるか(2)

毎日聖書を読むとき、私たちはよく聖書の書を小さい部分に分けます。もちろん、それでも構いませんが、注意すべき点があります。時々、そのように聖書を読むことで、その書の全体的な流れや意味を見落としてしまうことがあるのです。

例えば、著者が1章から2章まで長い議論を展開しているかもしれません。しかし、私たちはある日に1章を読み、次の日に2章を読むため、1章の内容を忘れ、その議論の重要な部分を切り離してしまうことがあります。

この場合、ヤコブの議論は1:26-27から始まります。その箇所でヤコブが述べているのは、真の宗教、真の信仰は、愛、清い言葉、そして聖い人生へと導くということです。

今日の話では、ヤコブは真の信仰が愛によって表現されることについて語り続けます。パウロもこのことについて述べました。彼はこう言いました。

キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。(ガラテヤ5:6)

特に、ヤコブは私たちが貧しい人や卑しい人をどのように扱うべきかについて語ります。彼らに愛を示さず、逆に見下すならば、私たちは罪人のように振る舞っているのです。

私たちは殺人や姦淫を犯さないかもしれません。しかし、神様の目から見れば、私たちは律法の違反者です。だからこそ、ヤコブは私たちに警告します。「貧しい人や卑しい人を見下してはいけません。むしろ、彼らを憐れみなさい。」

そして、ヤコブはその例を用いて、自らの要点に立ち返ります。それは、真の宗教や真の信仰が、変えられた人生へと導くはずだということです。

ヤコブはこう言いました。

私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。(ヤコブの手紙2:14)

その文脈を覚えていれば、ヤコブが「行為」と言うとき、それが愛の行為を指していることが分かるでしょう。言い換えれば、「もし愛を持っていないなら、どうして自分が信仰を持っていると主張できるでしょうか。」

そして、ヤコブは自らのポイントを具体的に描写します。

兄弟か姉妹に着る物がなく、毎日の食べ物にも事欠いているようなときに、あなたがたのうちのだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい」と言っても、からだに必要な物を与えなければ、何の役に立つでしょう。

同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。(15-17)

この描写の中で、ヤコブは行為を伴わない言葉の空しさを示しています。

もしある人が貧しい者に「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい」と言えば、その人は優しそうに見えます。しかし、その人が実際に貧しい者を助けなければ、その言葉は心からのものではなかったことを証明してしまいます。それはただの空しい言葉にすぎません。

ヤコブはこのポイントを強調して、こう言います。

あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています。(19)

簡単に言えば、真理に同意するだけでは十分ではありません。「私は神様を信じる」と言うことだけでは足りないのです。真の信仰は、いつも変えられた人生へと導きます。その変化の一つは、あなたが周りの人々を愛し始めることです。

その変化には時間がかかるかもしれません。自分が変わるのは難しいかもしれません。しかし、真の信仰を持っているならば、あなたは確実に進歩していきます。

もし振り返ったとき、あなたの人生に神様がもたらした変化を見ることができないなら、もしあなたがより成熟していないならば、自分自身に問いかけるべきです。「私はどんな信仰を持っているのだろうか。」

次の記事では、この話を続けます。

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真の信仰がどのように表現されるか

ヤコブが強く主張することの一つは、真の信仰は単に「私は神様を信じる」と言うことではないという点です。

多くの人は、「私は神様を信じる」と主張します。しかし、その言葉だけでは、救いに導く信仰を持っていることの証明にはなりません。

救いに導く信仰の結果は、変えられた人生です。以前読んだように、神様が試練を許される理由の一つは、私たちが変えられるためです。つまり、試練を通して、私たちは神様に信頼することを学び、完全な者へと成長していくのです。

この手紙の中で、ヤコブは救われた人々がどのように変わるかについて語ります。ヤコブは三つのことを挙げています。一つ目は言葉、二つ目は愛、そして三つ目は清さです。パウロも、これら三つのことについてテモテに語りました。(第一テモテ4:12)

ヤコブは最初にこう言います。

自分は宗教心にあついと思っても、自分の舌を制御せず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。(ヤコブ1:26)

多くの人々は自分の言葉に注意を払わず、嘘をついたり、人をそしり、言葉で人を傷つけます。しかし、彼らが決して悟らないのは、自分の言葉が心の中にあるものを映し出しているということです。もし、心にゴミがあれば、そのゴミが言葉となって表に出ます。

だから、もし自分がクリスチャンだと主張しているのに、あなたの口からゴミが流れ出るならば、ヤコブによれば、あなたは自分自身を欺いていることになります。その「信仰」はあなたの心を変えていないのです。ゴミがあなたの口から出ているのに、あなたはまったく気づいていません。

ヤコブは続けてこう言います。

父である神の御前できよく汚れのない宗教とは、孤児ややもめたちが困っているときに世話をし、この世の汚れに染まらないよう自分を守ることです。(27)

後にヤコブは、私たちがこの世の汚れに染まらないように、どのように自分自身を守るべきかを説明します。しかし、27節では、ヤコブは真の信仰の証拠の一つについて語ります。それは、周りの人々に対する愛です。

もし私たちが真の信仰を持っているなら、周りの人々を憐れむはずです。例えば、孤児ややもめたちを憐れむべきです。貧しい人を軽蔑し、金持ちだけを尊敬するべきではありません。私たちは人々の見た目で判断せず、神様の目で人々を見るべきです。

私たちが忘れてはならないのは、神様が、この世の人々から退けられた者たちを神様の子供として受け入れたことです。その人々は神様の御国を受け継ぎます。(1:27-2:7)

そしてヤコブはこう言います。

もし本当に、あなたがたが聖書にしたがって、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いは立派です。

しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。(ヤコブの手紙2:8-9)

多くの人々は言います。「もちろん、私はクリスチャンです。私は人を殺さないし、物を盗まないし、姦淫を犯さない。」

けれども、彼らはキリストの愛をもって人々を愛していません。むしろ、周りの人々を見下しています。

だから、ヤコブは彼らに警告します。「あなたが思うほど、あなたは良い人ではありません。神様の目には、あなたは違反者です。なぜなら、あなたは人々を愛していないからです。」

イエス様の時代、パリサイ人たちはまさにそのような人々でした。彼らは人々を愛していませんでした。彼らはさまざまな宗教的なルールを守り、さらには神様が命じていないルールさえ守りました。

しかし、彼らは人々を差別し、裁き、見下しました。だから、イエス様は彼らの偽善を厳しく責められました。

もしイエス様が現代の教会を見るなら、同じ理由でどれほど責めるでしょうか。

だからヤコブはこの話を次のようにまとめます。

自由をもたらす律法によってさばかれることになる者として、ふさわしく語り、ふさわしく行いなさい。あわれみを示したことがない者に対しては、あわれみのないさばきが下されます。

あわれみがさばきに対して勝ち誇るのです。(2:12-13)

私たちが愛と憐れみの律法に従って生きるならば、人々を自由にし、自分が神様の子供であることを証明するのです。

しかし、人々を裁き、侮るならば、私たちの信仰がそれほど強くないことを証明してしまいます。

あなたの言動は、あなたの信仰について何を表しているでしょうか。

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ヤコブの手紙

開いている心

時々、ヤコブの手紙は少しまとまりがないように感じられます。なぜなら、彼の話は頻繁に飛ぶように思えるからです。けれども、この手紙を読めば読むほど、彼の話の統一性が見えてきます。

一見すると、ヤコブはいきなり格言のようなことを言います。

私の愛する兄弟たち、このことをわきまえていなさい。人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。人の怒りは神の義を実現しないのです。(ヤコブの手紙1:19-20)

もちろん、私たちの人間関係には、その言葉にはさまざまな応用があります。もしその言葉に従えば、私たちの人間関係はもっとスムーズに進むでしょう。

けれども、ヤコブは主に人間関係について話しているのではないと思います。むしろ、彼は私たちの神様との関係について語っているのだと思います。

その言葉を述べる前に、ヤコブは、神様が私たちの試練を通して、私たちを成熟した完全な者へと導くと語りました。つまり、その時、私たちは神様に信頼し、神様の道を歩むことを学ぶのです。

しかし、多くの場合、問題があります。それは、試練の時に、私たちが神様の声を聞くことを拒むことです。むしろ、私たちは神様に怒り、「どうしてその試練を許しているの?」と叫びます。

けれども、ヤコブによれば、神様は真理の言葉をもって私たちを生んでくださいました。私たちが聞いて受け入れた福音によって、神様は私たちを罪から救い、神様の子供としてくださいました。その言葉によって、私たちは次第にイエス様のようになり、最終的に完全な者となります。

だから、ヤコブは私たちにこう言っています。「神様の言葉を聞くことに早くなりなさい。神様に文句を言うことに遅くなりなさい。そして、試練の時、神様に怒ることを遅くしなさい。

神様はご自身の義をあなたの人生に実現したいと望んでおられるが、そのような怒りは神の義を実現しません。」

そして、ヤコブは続けてこう言います。

 ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。(21)

簡単に言えば、神様は試練とみ言葉を通して、あなたを清めようとされています。だから、神様があなたに語るとき、その教えに心を開かなければなりません。その言葉は、あなたの試練からだけではなく、問題をもたらすあなたの罪からも救うことができます。

だから、神様の言葉を聞くとき、「分かりました」と言うだけでなく、その言葉に従わなければなりません。

ヤコブはこう言いました。

みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。

みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で眺める人のようです。眺めても、そこを離れると、自分がどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。

しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめて、それから離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならず、実際に行う人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。(22-25)

多くの人々は、神様の律法が私たちの自由を奪うと考えます。彼らは、神様の律法が私たちの人生の楽しみを奪うと考えます。ところが、実際には、神様の言葉は私たちに自由を与えてくださいます。

その律法は、私たちを苦々しい思いや恨みから解放します。

その律法は、結婚や人間関係、そして人生を壊す鎖を断ち切ります。

その律法によって、私たちは神様が計画された充実した人生を歩むことができます。

簡単に言えば、私たちは祝福を知るのです。

あなたはどうですか。試練のゆえに、神様に怒り、苦々しい思いを抱いているでしょうか。それとも、自分の心を神様の言葉に開いているでしょうか。

神様はその試練を通して、あなたを完全な者にしたいと望んでおられます。

神様がささやくとき、あなたは聞いているでしょうか。

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ヤコブの手紙

私たちの益のため

「どうして神様はこの試練を許しているの?神様は僕が躓くことを望んでいるの?」

試練に直面するとき、私たちは時々そう感じるものです。私たちは、神様が自分が躓くことを望んでおられると考えてしまいます。また、神様がいつも私たちに怒り、罰したいと望んでおられると考えることもあります。

しかし、そのような考え方は誤りです。確かに神様は試練を許されます。けれども、それは私たちを罰するためではありません。むしろ、神様の望みは、私たちが何一つ欠けたところのない、成熟した完全な者となることです。(1:4)

だからこそ、ヤコブは私たちにこう言います。

だれでも誘惑されているとき、神に誘惑されていると言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれかを誘惑することもありません。

人が誘惑にあうのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです。そして、欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。(ヤコブの手紙1:13-15)

原語では、「誘惑」と「試練」は同じ言葉です。もしかしたら、ヤコブの読み手たちはその言葉を読んだとき、少し混乱したかもしれません。彼らは、「神様は私たちを誘惑するの?」と考えたかもしれません。

現代でも、多くのクリスチャンがそれを疑問に思います。

以前に言ったように、神様は試練を許されます。神様はその試練を通して私たちの心を探りたいと望んでおられます。また、その試練を通して、神様は私たちの信仰を強めたいと望んでおられます。

しかし、神様は私たちに罪を犯させるために決して誘惑されません。神様は決して、「情欲に負けなさい」とか、「妻を虐待しなさい」とか、「私を呪いなさい」とは言いません。

ヤコブによれば、その誘惑は神様からではなく、私たちの罪深い心から来るのです。私たちは、自分の欲に引かれます。そして、その欲に負けると、その欲は罪を生み、罪が熟して死を生みます。

しかし、それは神様の私たちのための望みではありません。

むしろ、ヤコブはこう言います。

私の愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです。

父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません。

この父が私たちを、いわば被造物の初穂にするために、みこころのままに真理のことばをもって生んでくださいました。(16-18)

要するに、神様は私たちに良い物だけを与えてくださいます。そして、そのすべての賜物は完全なものです。その賜物は不良品ではありません。また、神様には隠れた腹黒い意図はありません。

私たちの救いはその一つの例です。神様は、私たちを自分のために死なせることもできました。しかし、逆に、神様はイエス様を通して私たちに永遠の命を与えてくださいました。

また、神様には移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません。神様はある日私たちを祝福し、次の日に滅ぼそうとすることは決してありません。

むしろ、神様の目的は、私たちが完全な者になることです。神様は私たちが神様の聖さにあずかることを望んでおられます。(へブル12:10)

だから、どんな試練に直面しても、神様があなたを滅ぼそうとしているのではないことを心に留めておきましょう。神様はあなたの人生を壊そうと思っているのではありません。

むしろ、私たちは自分の選択と行為によって、自分の人生をめちゃくちゃにすることがよくあります。

しかし、その試練を通して、神様は私たちに神様に信頼することを教えたいと望んでおられます。そして、その時、私たちは神様の良さと忠実さを悟ります。

また、私たちはその火を通過し、精錬された金のように出てくるでしょう。その時、私たちは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となるのです。

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ヤコブの手紙

私たちが何に信頼を寄せるか

私たちは何に、また誰に信頼を寄せるでしょうか。試練が訪れると、その答えは明らかになります。

多くの人々は自分の財産に信頼を寄せます。彼らは、お金こそがすべての問題の解決策だと思っています。だから、お金を持つ者は問題を解決するために多くの財産を費やし、持たない者は苦しみ、お金を切望します。

しかし、そのような人々は二心を抱く者です(8)。彼らは神様の知恵を求めるかもしれませんが、実際には神様ではなく財産に頼っています。

だからヤコブはこう言いました。

身分の低い兄弟は、自分が高められることを誇りとしなさい。富んでいる人は、自分が低くされることを誇りとしなさい。

富んでいる人は草の花のように過ぎ去って行くのです。太陽が昇って炎熱をもたらすと、草を枯らします。すると花は落ち、美しい姿は失われます。

そのように、富んでいる人も旅路の途中で消えて行くのです。(ヤコブの手紙1:9-11)

試練の時、お金のない人々がお金を切望するのは当然のことです。なぜなら、彼らはお金こそが問題の解決策だと考えているからです。

しかし、ヤコブは言います。「この世の富や高い地位ではなく、キリストにあるあなたの地位と天に蓄えられた富こそ、真に価値のあるものです。

だから、試練に直面するとき、この世のものではなく、永遠のものに目を留めましょう。

そして、あなたが持っている物に満足しなければなりません。なぜなら、あなたにお金があってもなくても、神様はあなたと共におられ、あなたを助けてくださるからです。」

へブル人への手紙の著者も同じようなことを言いました。

金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。

ですから、私たちは確信をもって言います。「主は私の助け手。私は恐れない。人が私に何ができるだろうか。」(へブル書13:5-6)

その反面、ある金持ちが試練のゆえに絶望し、なぜそんな問題があるのかと疑問に思うのは自然なことです。彼らは神様に見捨てられたのではないかと考えます。

けれども、ヤコブは金持ちに言います。「あなたの低くされることから学びなさい。自分の富は試練からあなたを救うことはできません。あなたの富はいつか消え去るものです。だから、その試練を通して、本当に大切なものに目を向けなさい。

この世のものに頼らず、神様に頼りなさい。神様だけがあなたを救うことができるのです。」

そして、ヤコブは金持ちと貧しい人々に言います。

試練に耐える人は幸いです。耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。(12)

簡単に言えば、試練によって揺らいではなりません。

あなたの信仰が揺らぎ、この世のものを求めてはなりません。そのようなものに頼ってはなりません。この世の富はいつか消え去るのです。

しかし、あなたは永遠のものを待ち望んでいるのです。つまり、あなたは天国と永遠の報いを得るのです

あなたはどんな試練に直面しているでしょうか。あなたは何に焦点を当てているでしょうか。あなたは何に信頼を寄せているでしょうか。お金でしょうか。それとも神様でしょうか。

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ヤコブの手紙

私たちが成熟になり、完全になるため

私たちのための神様の計画と意図は何でしょうか。

一言で言えば、「完全さ」です。

つまり、私たちの神様との関係は完全なものとなり、人間関係も完全となることです。そして、人生のあらゆる側面において、私たちが完全へと導かれることです。

これは心強い言葉でしょう。誰もが完全な人生を望むものです。

しかし、次のことを考えると、心強さが薄れるかもしれません。それは、私たちが完全な者へと変えられるために、多くの試練に直面しなければならないということです。

だから、多くの人々はヤコブの言葉を受け入れることが難しいと感じるのです。ヤコブはこう言いました。

私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。あなたがたが知っているとおり、信仰が試されると忍耐が生まれます。(ヤコブの手紙1:2-3)

この上もない喜びなのですか?試練に会う時に?

そうです。この上もない喜びです。なぜでしょうか。なぜなら、その試練は忍耐を生み出すからです。では、なぜ忍耐はそれほど重要なのでしょうか。

その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります。(4)

簡単に言えば、完全へと至る道は、試練を耐え抜き、乗り越える道です。その試練を通して、私たちは自分の知恵と力に頼る習慣を手放すことを学びます。

なぜ私たちの人生はこれほどまでに壊れているのでしょうか。それは、私たちが常に自分の力と知恵に頼ってきたからです。しかし、試練によって、その生き方の空しさを学ぶことになります。

神様に向かい、神様に信頼し、その道を歩み、試練を耐え忍ぶと、私たちは完全な者へと変えられます。私たちの神様との関係、人間関係、そして人生のあらゆる側面が完全へと導かれるのです。

だから、ヤコブは私たちにこう語ります。

あなたがたのうちに、知恵に欠けている人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます。

ただし、少しも疑わずに、信じて求めなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。

その人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういう人は二心を抱く者で、歩む道すべてにおいて心が定まっていないからです。(5-8)

それを読むと、へブル人への手紙第1章6節が思い浮かびます。。

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。

完全になりたいと思うなら、一つのことをしなければなりません。それは、神様に信頼することです。

もし神様が私たちの最善を望んでおられることを疑うなら、私たちは決して神様に従うことができません。そして、神様に従わなければ、私たちの人生は壊れたまま続いてしまいます。

あなたはどうでしょうか。完全な人生を求めているのに、自分の知恵と道にしがみついてはいませんか。もしそうなら、あなたの人生は決して癒されることはありません。むしろ、その道は壊れた人生と絶望へと向かうことになります。

けれども、神様に信頼すると、神様が試練の中であなたを導き、最後には成熟した完全な者へと変えられるのです。

あなたはどう選ぶでしょうか。

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ヘブル人への手紙

整えられた

私は、この手紙の著者がこの手紙をどのように締めくくっているかが大好きです。

永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から導き出された平和の神が、あらゆる良いものを持って、あなたがたを整え、みこころを行わせてくださいますように。

また、御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださいますように。

栄光が世々限りなくイエス・キリストにありますように。アーメン。(へブル人への手紙13:20-21)

クリスチャンとして歩む中で、私たちはしばしば神様の恵みを忘れ、自分の力で頑張らなくてはならないと思ってしまいます。

つまり、試練が訪れたとき、私たちは自分の力で耐え忍ばなくてはならないと思い、根性で信仰を保ち、自分の努力だけで自分自身を清めようとしてしまうのです。

しかし、この手紙の著者は、私たちに基本的な真理を思い起こさせてくれます。それは、これらすべてのことを、神様の恵みによって行うのだということです。

イエス様が十字架にかかり、私たちの罪の罰を受けてくださったゆえに、私たちは神様から義と認められます。そして、イエス様をよみがえらせた神様の力は、今も私たちのうちに働いています。

神様はご自身の力で、あらゆる良いものをもって私たちを整えてくださり、私たちはそのおかげで神様の御心を行うことができるのです。

そして、神様は日々、私たちのうちにみこころにかなうことを行っておられます。

私たちは独りぼっちではありません。

私たちは神様の恵みによって救われました。そして、毎日、神様の恵みによって歩んでいるのです。

あなたは、どのように人生を歩んでいるでしょうか。

神様の御心に従おうとして、自分の力や知恵だけに頼って疲れ果てていませんか。

罪や欠点を変えられず、落胆しているでしょうか。

あなたが神様の恵みによって救われたことを、どうか覚えていてください。

その恵みは、あなたの救いだけのためではありません。

神様はその恵みによって、ご自身の計画に従ってあなたを変えてくださいます。

あなたは独りぼっちではありません。

ですから、自分の力だけで生きようとしないでください。

むしろ、毎日、神様の恵みに身を委ねて、クリスチャンとしての歩みを続けましょう。

恵みがあなたがたすべてとともにありますように。(25)

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ヘブル人への手紙

神が立てたリーダーたちに従い、祈る

私は自分の牧師たちを本当に尊敬します。

私は十代の頃から神様のみことばを教えてきました。それでも、私は牧師として神様から召されたことは一度もありません。

もし牧師の責任が単に聖書を教えることであれば、私は牧師になることができたかもしれません。しかし、牧師の責任はそれだけではなく、神様の群れを世話する務めも含まれます。

ときどき、教会のメンバーたちはこのことを忘れてしまいます。けれども、牧師たちは神様の群れだけでなく、自分の家族の世話もしなければなりません。

それは非常に重い責任です。多くの牧師たちはその責任を真剣に果たしています。なぜなら、いつか神様が彼らの責任について問われるからです。神様の群れの世話を委ねられている以上、神様は彼らを厳しく裁かれるのです。

ですから、この著者はこう語っています。

あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人たちは神に申し開きをする者として、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。

ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆きながらすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にはならないからです。(へブル人への手紙13:17) 

牧師の働きそのものが、すでに重い務めです。

しかし、教会のメンバーたちが牧師を常に批判していると、その働きはさらに困難になってしまいます。牧師が失敗したときに、ある人々はすぐに非難し、すべての決断に対して疑いの目を向けるのです。

けれども、著者は私たちにこう語っています。

「そのような態度を取ってはなりません。あなたの指導者に従い、彼らに与えられた権威を認めなさい。」

なぜでしょうか。

それは、神様が彼らにその権威を授けられたからです。そして最終的に、彼らの務めについて責任を問われるのは、あなたではなく、神様ご自身なのです。

神様が彼らを裁かれるのです。

神様の望みは、牧師の働きが喜びに満ちたものであることです。けれども、私たちが常に牧師たちを批判していると、その働きは重荷となってしまいます。

それは牧師に対して悪いだけでなく、私たち自身にも悪影響をもたらします。なぜなら、牧師たちは神様の務めに集中する代わりに、人々の不平を処理しなければならなくなるからです。

その様子を見て、サタンはほくそ笑むでしょう。

だから、そのようなことをしてはいけません。

では、牧師を批判すべき時がまったくないのでしょうか。もちろん、そうではありません。

もし牧師が誤った教えを語っているなら、私たちはその牧師と話し合うべきです。

また、牧師が罪に陥り、悔い改めようとしないならば、私たちはその牧師を訓戒しなければなりません。パウロは、そのような状況について第一テモテ5章で具体的な指示を与えています。

しかし、それが教会の方向性や運営の仕方についての意見の違いであるならば、あなたは自分の指導者に従うべきです。彼らには、あなたには見えないものが見えているのかもしれません。

では、牧師が失敗したとき、私たちはどうすればよいのでしょうか。(それは避けられないことかもしれません。)

牧師を非難するのではなく、励まし、牧師のために祈りましょう。

この手紙の著者は、次のように語っています。

私たちのために祈ってください。私たちは正しい良心を持っていると確信しており、何事についても正しく行動したいと思っているからです。(18)

多くの牧師たちは、同じ思いを抱いていることでしょう。彼らは正しい良心に基づいて、誠実に歩もうとしています。それでも、時には失敗することがあります。

だからこそ、私たちは牧師のために祈るべきなのです。

あなたは、自分の牧師に対してどのような態度を持っているでしょうか。

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ヘブル人への手紙

変わらない主に仕える喜び

イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。(へブル人への手紙13:8)

これはとても有名な聖句です。そして、私もこの言葉が大好きです。なぜなら、それを読むと、私の主が決して変わらないことを思い出すからです。

多くの人々が悪い方向へと変わりつつあるこの世界にあって、この言葉は本当に心強いものです。

けれども、私たちは常にイエス様に頼ることができます。そして、イエス様の御言葉を信じることができます。なぜなら、イエス様はいつも私たちに対して忠実だからです。

だから、この手紙の著者はこう語っています。

神のことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、覚えていなさい。彼らの生き方から生まれたものをよく見て、その信仰に倣いなさい。(7)

私たちの指導者たちの人生を変えてくださった主、彼らの人生に働いておられる主、そして彼らを通して働いておられる主は、私たち自身をも変え、私たちの人生に働き、私たちを通しても働かれます。

ですから、私たちがリーダーたちの信仰を見て、神様が彼らの人生にどのように働かれたかを見ると、私たちは励まされます。

なぜなら、もし私たちが信仰によって歩むなら、私たちの人生にも、神様の働きと忠実さを見ることができるという確信が与えられるからです。

だから、この手紙の著者はこう語っています。

様々な異なった教えによって迷わされてはいけません。

食物の規定によらず、恵みによって心を強くするのは良いことです。食物の規定にしたがって歩んでいる者たちは、益を得ませんでした。(9)

要するに、イエス様は私たちに恵みのメッセージを与えてくださいました。イエス様は決して変わらない方ですから、イエス様のメッセージも変わることはありません。

イエス様が突然変わって、「これから、もし天の父との関係を望むなら、特別な食べ物を食べなければならない」と言われるはずがありません。

ですから、もし誰かが私たちを神様の恵みから離れさせる教えを伝えているなら、私たちはその人を避けるべきです。

私たちはもはや律法によってではなく、恵みによって生きています。救いを得るために神様を喜ばせようと努める必要はありません。むしろ、イエス様によってすでに救われた者として、私たちは感謝と愛をもって神様を喜ばせたいと願うのです。

そして、著者は、私たちがキリストによって受けた特権について語ります。

私たちには一つの祭壇があります。幕屋で仕えている者たちには、この祭壇から食べる権利がありません。(10)

この著者は何について語っているのでしょうか。彼は祭司や罪のためのいけにえについて語っています。

通常、祭司たちはいけにえの肉を食べることができましたが、贖罪の日にはその肉を食べてはなりませんでした。むしろ、その動物の体はイスラエル人の宿営の外で焼かれました。(11)

しかし、十字架という祭壇において、私たちはいのちのパンをいただきます。イエス様こそがその命のパンです。言い換えれば、私たちはイエス様のもとに来て、イエス様の十字架の働きを信じることによって、永遠の命を受けるのです。

ですから、この著者はこう語ります。

「私たちは、旧約の祭司たちが持っていなかった特権を持っています。彼らは贖罪の日のいけにえを食べることができませんでした。けれども、イエス様にあって、比喩的に私たちはそれをいただくことができるのです。」

そしてこの著者は、「変わらないキリスト」という主題に再び立ち返ります。

それでイエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。(12)

つまり、イエス様は、私たちの罪を贖うために、エルサレムの外でご自身を捧げられました。

ですから私たちは、イエスの辱めを身に負い、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。(13)

言い換えれば、この世の罪や快楽を捨て、イエス様のもとに進みましょう。そして、イエス様が苦しまれたように、私たちも苦しみを受け入れる心構えを持ちましょう。

イエス様は、私たちのために待っておられます。

私たちは、いつまでも続く都をこの地上に持っているのではなく、むしろ来たるべき都を求めているのです。(14)

この世は、私たちの本当の住まいではありません。私たちの真の住まいは天の御国です。

そして、やがてその御国はこの地に来て、イエス様が永遠にこの世界を治められます。

著者は、この真理を次のようにまとめています。

それなら、私たちはイエスを通して、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実を、絶えず神にささげようではありませんか。

善を行うことと、分かち合うことを忘れてはいけません。そのようないけにえを、神は喜ばれるのです。(15-16)

だからこそ、私たちは毎日、言葉と行いによってイエス様をほめたたえましょう。

イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。(8)

 

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ヘブル人への手紙

私たちは何を愛しているのか。何を信頼しているのか。

認めざるを得ません。確かに、お金があれば人生はもっと楽になるでしょう。

たとえば、重い病気にかかったときや手術を受けなくてはならないとき、お金があれば治療費を払うことができます。

また、車や家電が壊れた場合でも、すぐに新しいものを買い替えることができます。

さらに、お金があれば、旅行に出かけたり、さまざまな楽しいことを体験したりすることもできます。

しかし、私たちは自分自身に問いかけるべき重要な質問があります。

「私たちは何を愛しているだろうか。」

そして、「私たちは何に信頼を寄せているだろうか。」

この手紙の著者は、私たちにまさにその疑問を投げかけています。

金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。

主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。

ですから、私たちは確信をもって言います。「主は私の助け手。私は恐れない。人が私に何ができるだろうか。」(へブル人への手紙13:5-6)

私たちは何を愛しているでしょうか。お金や、この世のものに執着しているでしょうか。

そうしたものは結局なくなります。たとえそれらを手に入れて一時的に嬉しく感じても、やがて飽きてしまったり、古くなって壊れてしまったりします。だから、私たちは不満に陥るのです。

ある人々はそうした繰り返しを何度も経験し、決して本当の幸せを見つけることができません。

また、他の人々はお金や持ち物に執着するあまり、自分の人生を壊してしまいます。彼らはお金や快楽への過度な愛のゆえに、破産したり、結婚や家族関係を壊したり、健康を損なったりするのです。

だからこそ、神様は私たちに語りかけられます。

「金銭を愛する生活をやめなさい。今与えられているもので満足しなさい。この世のものを追い求めるのをやめなさい。

それらによって、あなたが本当に満ち足りることはありません。私との関係だけが、あなたの心を満たします。

私は決してあなたを見放さず、あなたを見捨てません。

私にあって、あなたは幸せと真の満足を見いだすことができるのです。」

私たちは、問題に直面したとき、何に信頼を寄せるでしょうか。

お金に信頼を置くことは簡単です。実際、お金によって解決できる問題は多くあります。

ところが、世の中には、お金では解決できない問題も数多く存在します。場合によっては、かえってお金が問題を悪化させることさえあります。

けれども、私たちが神様に向かうなら、どんな状況にあっても、神様は私たちを助けることがおできになります。私たちが苦しみの中にあっても、神様は決して私たちを見捨てません。

だからこそ、私たちは確信をもって言うことができるのです。「主は私の助け手。私は恐れない。」

あなたはどうでしょうか。

何を愛しているでしょうか。

何に信頼を寄せているでしょうか。

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ヘブル人への手紙

結婚を重んじていますか

日本、アメリカ、そして他の国々の道徳的状況を見ると、結婚の概念がどれほど悪化しているかが分かります。

もちろん、アメリカやヨーロッパには同性婚がありますが、異性愛の結婚においてさえ、私たちは結婚の概念がいかに損なわれているかを目の当たりにします。人々が神様の本来の計画からどれほど遠く離れてしまっているかに驚かされます。

神様のご計画では、夫婦は肉体的に、精神的に、霊的に一つとなります。そして、その結婚は生涯にわたって続くものです。そこでは、不倫など想像すらできないことなのです。

しかし現実には、私たちはどんな結婚を目にしているでしょうか。冷えきった関係、虐待的な結婚、不倫、自己中心的な態度、分裂、そして最終的には離婚です。

なぜこのようなことが起きるのでしょうか。それは、私たちが結婚を重んじなくなったからです。そして、結婚の寝床をも重んじません。だからこそ、結婚はここまで荒廃したのです。

だから、この手紙の著者は私たちに訓戒を与えているのです。

結婚がすべての人の間で尊ばれ、寝床が汚されることのないようにしなさい。神は、淫行を行う者と姦淫を行う者をさばかれるからです。(へブル人への手紙13:4)

少し立ち止まって考えてみてください。もし私たちが結婚を重んじず、結婚の寝床が汚されることのないように気を配らなければ、神様はその行為を見過ごされません。むしろ、神様は私たちを裁かれます。

あなたが不倫をするなら、神様はあなたを裁かれます。

結婚を軽んじて、結婚しないまま彼や彼女と関係を持つなら、神様はあなたを裁かれます。

なぜでしょうか。それは、神様のご計画が「ただ一人の伴侶と結婚し、その人と一つになること」だからです。

結婚せずに関係を持つなら、また不倫をするなら、あなたは結婚の寝床を汚してしまうことになります。結婚の寝床は、夫婦が永遠に結ばれるという神聖な象徴なのです。

しかし、それだけではありません。もし夫や妻に冷たい態度を取り続けるなら、あなたは結婚の寝床を軽んじています。

精神的にも肉体的にも相手と距離を置き、自己中心的にふるまい、相手の必要に心を向けず、虐待するならば、あなたは結婚の寝床を軽んじているのです。

あなたは自分の結婚を重んじているでしょうか。あなたの妻や夫と一つとなるよう努めているでしょうか。

あなたは周囲の人々の結婚を重んじているでしょうか。不倫を避けているでしょうか。それ以上に、周りの夫婦の関係を強めるよう努めているでしょうか。

もしあなたが独身であるなら、結婚のために性的な清さを保っているでしょうか。

そうしないなら、神様はあなたを裁かれます。神様はそのようなことを軽んじられません。

あなたは結婚について、どのような態度を持っているでしょうか。

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ヘブル人への手紙

牢にいる兄弟姉妹を忘れない

ヘブル人への手紙13章3節では、私たちはクリスチャンの兄弟姉妹を愛する一つの方法を教えられます。手紙の著者はこう語ります。

牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやりなさい。また、自分も肉体を持っているのですから、虐げられている人々を思いやりなさい。(へブル人への手紙13:3)

特に、この著者は牢に入っているクリスチャンの兄弟姉妹について語っています。彼らは自らの信仰ゆえに投獄されていたのです。そして著者は、読み手たちにこう促します。「その人たちを忘れてはなりません。」

第二テモテ書を読むと、パウロが牢にいたとき、多くのクリスチャンが彼を見捨てたことが記されています。

もしかすると、パウロとの関係のゆえに、そのクリスチャンたちは自らも投獄されることへの恐れを抱いていたのかもしれません。また、パウロの状況を見て絶望を感じた結果、彼を避けたいという思いがあったのかもしれません。

それでも、この著者は明確に語ります。「彼らに対する愛を持ち続けなさい。決して彼らを見捨ててはなりません。」

これこそが、この著者のメッセージなのです。

けれども、私がこの箇所を読んだとき、神様は別の応用を示してくださいました。私たちの周りには、さまざまな形の「牢」に入っている人々がいます。

ある人々は、感情の牢の中で苦しんでいます。

ある人々は、病気に悩まされています。

ある人々は、困難な状況に陥り、何をすれば良いのか分からずにもがいています。

そういった人々を前にすると、私たちはどう関われば良いか分からず、距離を置いてしまうことがあります。なぜなら、彼らを支えることは苦しく、難しいことだからです。

しかし、神様は私たちに語りかけておられます。「その人たちを心に留めなさい。彼らを遠ざけてはなりません。訪れて、できる限り支えなさい。

たとえ何をすれば良いか分からなくても、何と語れば良いか分からなくても、彼らとともにいて、愛を示しなさい。」

ある人々は霊的な牢に閉じ込められています。サタンが彼らを捕らえ、罪の中に陥れています。

私たちも、かつてはその状態にありました。そして私たちは、あの時のことをよく覚えているはずです。サタンは私たちにも苦しみを与えました。

だからこそ、私たちはその人たちを心に留めていなければなりません。彼らが自由になれるよう、神様の愛をもって手を差し伸べましょう。

あなたはどうでしょうか。牢に囚われている人々を覚えているでしょうか。彼らにイエス様の憐れみを示しているでしょうか。

それとも、彼らを遠ざけてしまっているでしょうか。

イエス様の言葉を思い起こしましょう。

あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。(マタイ5:7)

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ヘブル人への手紙

この遺産を持っている者として

最近、私たちは、神様がイエス様を通して差し出してくださる遺産について考えてきました。また、その遺産を拒むことの危険性についても学んできました。

では、クリスチャンとしてその遺産を受けたなら、私たちはどう生きるべきなのでしょうか。この手紙の著者は、そのことについて教えています。

このように揺り動かされない御国を受けるのですから、私たちは感謝しようではありませんか。

感謝しつつ、敬虔と恐れをもって、神に喜ばれる礼拝をささげようではありませんか。(へブル人への手紙12:28)

実際にそれが意味するのは何でしょうか。ヘブル人への手紙第13章において、著者は本当の礼拝について語っています。しかし、本当の礼拝とは、ただ歌を歌うことではありません。

本当の礼拝とは、周りの人々を愛することです。特に、クリスチャンの兄弟姉妹を愛することです。(13:1)

本当の礼拝とは、人をもてなすことです。あまり親しくない人にも心を開くことです。(13:2)

本当の礼拝とは、苦しんでいる人々に憐れみを示すことです。(13:3)

本当の礼拝とは、夫や妻を敬い、結婚を尊び、不貞を避けることです。(13:4)

本当の礼拝とは、お金よりも神様を愛し、神様に信頼することです。(13:5−6)

本当の礼拝とは、神様が与えてくださったリーダーたちの信仰の模範に従うことです。(13:7)

本当の礼拝とは、律法主義的なルールや儀式ではなく、神様の恵みによって生きることです。(13:9−10)

本当の礼拝とは、イエス様のために喜んで苦しむことです。なぜなら、私たちは一時的なものではなく、永遠のものを求めているからです。(13:11〜14)

本当の礼拝とは、賛美のいけにえを神様にささげることです。(13:15)

本当の礼拝とは、善を行い、分かち合うことです。(13:16)

本当の礼拝とは、教会のリーダーたちに従うことです。私たちは彼らをいつも批判するのではなく、励まし合うべきです。教会を分裂させてはなりません。(13:17)

本当の礼拝とは、周りの人々のために祈ることです。特に、教会で奉仕する人々のために祈ることです。(13:18)

あなたはどうでしょうか。あなたは神様の子どもとしての遺産を受けたでしょうか。

そのことへの感謝をもって、毎日神様を礼拝しているでしょうか。

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ヘブル人への手紙

神様に背を向けるとき

すべてのコインには二つの面があります。神様の救いの賜物も同じです。

神様の永遠の命の賜物を受けるなら、私たちは神の子とされ、神の相続人となり、永遠の遺産をいただくことになります。

その一方で、その賜物を拒むなら、私たちは裁かれます。

その遺産は実に素晴らしいものです。そして、イエス様が私たちを愛し、十字架でその代価を払ってくださったことを覚えるなら、どうして人々はその賜物を拒むのでしょうか。

けれども、多くの人々はそうしてしまいます。彼らは永遠のものを、一時的なものと取り替えるのです。彼らは神様のために生きるのではなく、自分自身のために生きます。

しかし、その結果、彼らは神様だけではなく、周りの人々を、そして自分自身までも傷つけてしまいます。そのため、彼らが死ぬとき、裁きに直面することになるのです。

私たちは生きている間に、悔い改める時間が与えられています。けれども、死ぬならば、もう悔い改める時間はなくなり、永遠の遺産を受ける可能性も消えてしまいます。

エサウのように、多くの人々は涙ながらにその遺産を求めますが、その時にはもう遅いのです。

この手紙は、9章27節でこう語っています。

人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが決まっている。。。(へブル人への手紙9:27)

だから、この箇所において、手紙の著者は私たちに警告を与えています。

あなたがたは、語っておられる方を拒まないように気をつけなさい。

地上において、警告を与える方を拒んだ彼らが処罰を免れなかったとすれば、まして、天から警告を与える方に私たちが背を向けるなら、なおのこと処罰を免れられません。。。

私たちの神は焼き尽くす火なのです。(25-29)

神様が「焼き尽くす火」と例えられるのはなぜでしょうか。それは、焼き尽くす火が神様の聖さと裁きを描写しているからです。

神様がシナイでモーセに律法を与えたとき、私たちはその描写を目にします。また、神様がアロンの息子たちを裁かれたとき、あるいはイスラエルの敵に対して怒りを示されたときにも、同様の描写が現れます。

そして、この箇所にも、神様の聖なる火の描写を見ることができます。

もし神様を拒み、その命の賜物を退けるなら、残るのは裁きしかありません。

それは誰も聞きたくないことです。多くの人は神様の愛だけを聞きたいと思うのです。

しかし、神様は反逆と罪を裁かなくてはなりません。イエス様にあなたの罪の代価を払っていただかない限り、あなた自身がその代価を払わなければなりません。ほかに選びはありません。

あなたはどうするでしょうか。

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ヘブル人への手紙

私たちの遺産

前回の記事で、私たちはこの警告に目を留めました。

また、だれも、一杯の食物と引き替えに自分の長子の権利を売ったエサウのように、淫らな者、俗悪な者にならないようにしなさい。

あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を受け継ぎたいと思ったのですが、退けられました。

涙を流して求めても、彼には悔い改めの機会が残っていませんでした。(へブル人への手紙12:16-17)

多くの人々はエサウのようです。神様は彼らに、神の子とされる権利、また神の相続人とされる権利を差し出しておられるのに、彼らは自分の罪やこの世のものに心を奪われ、その遺産を拒んでしまいます。

では、なぜ彼らの拒みはそれほど深刻なのでしょうか。それは、その遺産が尊く、私たちがそれを受けるために、イエス様が高価な代価を払われたからです。

この手紙の著者は、こう続けます。

あなたがたが近づいているのは、手でさわれるもの、燃える火、黒雲、暗闇、嵐、ラッパの響き、ことばのとどろきではありません。

そのことばのとどろきを聞いた者たちは、それ以上一言も自分たちに語らないでくださいと懇願しました。

彼らは、「たとえ獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない」という命令に耐えることができませんでした。

また、その光景があまりに恐ろしかったので、モーセは「私は怖くて震える」と言いました。(18-21)

神様がシナイでご自身をイスラエルの民に現され、素晴らしい遺産を約束し、彼らと契約を結ばれたことは、本当に恐れを抱かせる出来事でした。

イスラエルの民は燃える火、黒雲、暗闇、嵐を目にし、言葉のとどろきを耳にしました。

そして神様は彼らにこう警告されました。「この山に近づいてはならない。動物であってもこの山に触れたなら、その動物は殺されなければならない。」

モーセ自身も、その山で神様に近づくことを恐れました。

しかし、その山は物理的なものでした。それはこの世のものであり、その契約によって彼らが受けた遺産も一時的なものでした。

けれども今、私たちは別の山に近づき、別の契約を受け、そして永遠の遺産を受けています。この手紙の著者はそのことを説明しています。

しかし、あなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都である天上のエルサレム、無数の御使いたちの喜びの集い、天に登録されている長子たちの教会、すべての人のさばき主である神、完全な者とされた義人たちの霊、さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る、注ぎかけられたイエスの血です。(22-24)

その違いに注目してください。私たちは物理的な山ではなく、天上の山と都に赴き、神様に近づくのです。神様に近づくとき、私たちは恐れる必要はありません。むしろ、大きな喜びをもって近づくことができます。では、なぜでしょうか。

確かに神様はすべての人々を裁かれます。けれども、イエス様は私たちの仲介者です。ご自身の血によって、イエス様はその契約を有効にされました。

アベルの血は正義や復讐のために叫びますが、イエス様の血は赦しと憐れみを宣言します。

ですから、私たちが神様の御前に立つとき、震えることなく、恐れずに立つことができるのです。そして、神様の恵みに驚きと賛美をもって応えるのです。

いつかこの世は揺り動かされ、すべての古いものは取り除かれます。しかし、私たちは決して揺り動かされない永遠の御国を受けているのです。

神様はこのすべてを私たちのために備えてくださいました。だから、エサウのようになってはいけません。イエス様が高価な代価によって買い取ってくださった遺産を拒むことがあってはなりません。

あなたはどうでしょうか。神様はあなたに永遠の命を差し出しておられます。その命を受け取りませんか。

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ヘブル人への手紙

聖さ

「もちろん、私はクリスチャンです。聖書を信じるし、イエス様を信じます。」

多くの教会の人々はそう言いますが、本当にその言葉を信じて生きているようには見えません。むしろ、彼らの人生には何の変化もなく、クリスチャンとしての成長も見られません。

もしあなたがそれを指摘すれば、彼らはこう答えるでしょう。「私はいつもこうやって生きてきました。だから、たぶんこれからも変わらないでしょう。」

あるいは、「私を裁かないでください。」

または、「私はちゃんとした言い訳があります。神様だって理解してくれるはずです。」

あるいは、「その聖書の個所を現代人の人生に当てはめることはできません。」

または、「私は自分の思うままに生きていい。神様は私を赦してくださるから。だから、意図的に罪を犯しても構わない。あとで神様に赦しを願えばいいから。」

しかし、あなたがまったく成長せず、何も変わっていないなら、自分の信仰が本物かどうかを疑うべきです。

教会の歴史を見ると、麦畑にはいつも毒麦が混ざっています。つまり、ある人々は自分でクリスチャンだと名乗り、洗礼も受けますが、実際にはクリスチャンではありません。

だから、この手紙の著者はこう言いました。

すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい。聖さがなければ、だれも主を見ることができません。

だれも神の恵みから落ちないように、また、苦い根が生え出て悩ませたり、これによって多くの人が汚されたりしないように、気をつけなさい。(へブル人への手紙12:14-15)

「聖さがなければ、だれも主を見ることはできません。」

あなたはそれを信じるでしょうか。わざわざ不敬虔な人生を歩みながら、クリスチャンだと自称してはいけません。

罪を悲しみ、聖い生き方を追い求め、少しずつ聖くなる人と、聖さを求めようともしない人とでは、雲泥の差があります。

神様の恵みは、前者のためのものです。後者には与えられません。

イエス様の十字架の働きを軽んじて罪に耽っているのに、どうして神様の恵みを主張できるでしょうか。神様が憎むことをわざと行いながら、どうして神様を愛していると言えるでしょうか。

モーセの時代にも、そんな者たちがいました。モーセは彼らのことを「毒草や苦よもぎを生じる根」と呼びました。

この手紙の著者が「苦い根」について語ったとき、モーセの言葉に触れていたのです。

そして、モーセは特にこう言いました。

万が一にも、今日その心が私たちの神、主を離れて、これらの異邦の民の神々のもとに行って仕えるような男、女、氏族、部族があなたがたのうちにあってはならない。あなたがたのうちに、毒草や苦よもぎを生じる根があってはならない。

こののろいの誓いのことばを聞いたとき、心の中で自分を祝福し、「私は自分の頑なな心のままに歩んでも大丈夫だ」と言うなら、潤った者も渇いた者も等しく滅びることになる。

主はその者を決して赦そうとはされない。むしろ、そのとき、主の怒りとねたみがその者に対して燃え上がり、この書に記されている、すべてののろいの誓いがその者の上にのしかかり、主はその者の名を天の下から消し去られる。

主は、このみおしえの書に記されている契約の、すべてののろいの誓いにしたがい、その者をイスラエルの全部族から選り分けて、わざわいを下される。(申命記29:18-21)

イスラエル人の中には、間違った考え方を抱いていた者たちがいました。神様はイスラエルの民と契約を結ばれました。彼らの神となり、彼らが神の民となるためです。

だから、一部の人々はこう考えました。「私はイスラエル人だから、もう問題ありません。好き勝手に生きても、神様は私を祝福してくださるでしょう。」

けれども、モーセは彼らについてこう言いました。「彼らは共同体に属してはいるが、無事には済まされない。かえって、神様の裁きを受ける。」

さらに、モーセはイスラエルの民にこう命じました。「そうした者たちは取り除かれなければならない。さもなければ、その姿勢は毒のように広がるからだ。」

同じように、ある人々は教会に通いながら、こう考えます。「私はこの教会のメンバーだから、週の六日間で意図的に罪を犯しても、神様は私を祝福してくださるはずです。」

しかし、この手紙の著者はそのような人々に警告します。「その考え方は誤っています。神様はあなたを裁かれるのです。」

そして、彼はこう言います。

また、だれも、一杯の食物と引き替えに自分の長子の権利を売ったエサウのように、淫らな者、俗悪な者にならないようにしなさい。

あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を受け継ぎたいと思ったのですが、退けられました。

涙を流して求めても、彼には悔い改めの機会が残っていませんでした。(16-17)

そのように、ある者たちは神様の御前に立ち、聖徒たちの遺産を求めます。

しかし、涙を流して願ったとしても、その遺産を受けることはできません。なぜなら、この世に生きていた間、彼らはイエス様とその十字架の働きを踏みにじり、自分勝手で不敬虔な生活を選んだからです。

だから、自分の心を探ってください。あなたは神様を愛し、神様が聖なる方であるように、自分も聖なる者となりたいと願っているでしょうか。

もしかすると、そのような願いがまったくないかもしれません。聖さをまったく求めないのに、神様があなたを受け入れてくださると考えているなら、自分自身を欺いています。裁きの日には、神様の恵みを受けることはできません。

あなたの心は、どのような思いに満たされているでしょうか。

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ヘブル人への手紙

試練に直面するとき

試練が好きな人は誰もいないでしょう。でも、神様は私たちの人生にその試練を許されます。

なぜでしょうか。この手紙の著者はその理由を説明しています。

霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。(へブル人への手紙12:10)

私たちは壊れた人間であり、壊れた世界に住んでいます。けれども、神様の目的は、私たちを癒し、ご自身の計画どおりに完全な者へと造り変えることです。

神様は私たちの汚れを清めてくださいます。なぜなら、神様は私たちが神のかたちに倣って聖なる者とされることを望まれているからです。神様は、私たちがご自身の完全な反映となることを願っておられます。

そのために、神様は火によって私たちを精錬されます。その火の中で、私たちの性格が現れてきます。

性格は、良い時だけでなく、苦しい時にも表れます。もし私たちの性格が整えられていれば、試練の中でその良い性格が表れます。ヨブがその一例です。

しかし、性格に歪みがあれば、試練によってそれも露わになります。サウル王がその一例です。

私たちが自分の性格を見つめるとき、そこには選びが与えられます。

私たちは罪深く不敬虔な者として生き続けることもできます。

あるいは、神様に向かってこう叫ぶこともできます──「神様、私は惨めな者です。私を救ってください。私を変えてください。」

そのとき、私たちは神様の驚くべき恵みだけでなく、人を変えることのできる神様の力も知るのです。

さらに、私たちが神様の声に耳を傾け、信仰によって従っていく中で、神様は私たちの性格をイエス様のかたちに造り変えてくださいます。

それは常に楽しいプロセスでしょうか。通常はそうではありません。だからこそ、この手紙の著者はこう言います。

すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。(11)

では、私たちは神様の火の中にいるとき、どうすれば良いでしょうか。最初に、イエス様に向かいましょう。

イエス様が私たちの救いのプロセスを始め、それを完成させることを覚えていましょう。イエス様は私たちにこうは言われません──「私はあなたに自分を更生する道具を与えました。頑張ってね。」

むしろ、イエス様はこう言われます──「私はあなたに、その道具の使い方を教えてあげます。」

そして、一歩一歩の歩みにおいて、イエス様は私たちと共にいて助けてくださいます。私たちが完成されるまで、イエス様は働き続けてくださいます。

その上で、覚えていてください──イエス様ご自身も苦しみを経験されました。イエス様は十字架の苦しみに耐えられました。だからこそ、人生の辛さをご存知なのです。

そして、天の父はイエス様の信頼に報いて、今イエス様は御座にあって父なる神の右に座しておられます。

イエス様の模範に従って、天の父に信頼して試練を耐えると、私たちは天の父からの報いを得て、天国でイエス様の隣に座ります。

もう一つのことを覚えておきましょう。あなたの苦しみには意味があります。

その意味は何でしょうか。神様はあなたのことを嫌っておられるのでしょうか。あなたを苦しませたいと思っておられるのでしょうか。

違います。神様はあなたを愛しておられ、あなたの最善を望んでおられるゆえに、あなたを訓練されるのです。

もしかすると、あなたのお父さんがそのような愛をもってあなたを訓練してくれたことがあったかもしれません。けれども、そうでなかった方もいるでしょう。

お父さんが正しくない方法で、あるいは正しくない動機のまま、あなたを躾けたかもしれません。しかし、神様の動機と訓練の方法は、常に清く、いつも愛に満ちています。

ですから、弱った手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。また、あなたがたは自分の足のために、まっすぐな道を作りなさい。

足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろ癒やされるためです。(12-13)

要するに、私たちは正しい道を歩まなければなりません。神様が示してくださった道をたどりましょう。

あなたの足は不自由です。もし、自分勝手な道を進み続けるなら、あなたの状況はさらに悪化します。しかし、神様の道を歩むなら、癒しに出会います。

その道は簡単ではないかもしれません。苦しいかもしれません。でも最終的には、癒しに至るのです。

では、あなたはどうしますか。

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ヘブル人への手紙

私たちも

私はジョギングがあまり好きではありません。健康のために走ることはありますが、楽しいとは感じません。

しかし、クリスチャンとして、私たちは神の国のレースに招かれています。

ある意味で、私たちはすでに神の国に入っています。イエス様は「神の国はあなたがたのただ中にある」と言われました(ルカ17:21)。

そして私たちは、毎日御国の市民として歩むべきです。私たちの王とそのご計画のために仕えるべきなのです。

やがて、本格的な御国がこの世に到来します。クリスチャンとして、私たちはその日を慕い望んでいます。

信仰を持っていた偉大な男性や女性たちも、御国を慕い求めながら働きました。そして、この手紙の著者は、私たちが御国のために仕えるように勧めています。

この手紙の読み手たちは、自分の信仰ゆえに苦しんでいました。ある人々は迫害を受けました。ほかの人々は、自らの罪や疑いと格闘しました。さらにある人々は、世のものに心を奪われていました。

だから、この著者は彼らにこう言いました。

こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。(へブル人への手紙12:1)

「私たちも。」

11章で、この著者は、信仰を持っていた「ヒーローたち」について語りました。

しかし彼らも、私たちと同じように、まとわりつく罪を捨てなければなりませんでした。彼らは疑いの重荷やこの世のものへの愛を捨てなければなりませんでした。彼らがそれを行ったからこそ、神様は彼らを称賛されたのです。

だから、私たちも彼らの模範に倣い、罪、疑い、そしてほかの重荷を捨て、このレースを走らなければなりません。

同時に、私たちは前方を見なければなりません。私たちの前に何があるでしょうか。

それはイエス様です。イエス様は私たちの信仰の創始者です。

別訳では「先駆け」とも訳されます。イエス様は天の父への道を備えてくださいました。十字架によって、私たちは赦され、神様との平和を得ることができるのです。

さらに、イエス様は私たちの信仰の完成者です。今の私たちは不完全であり、罪や疑いと戦っています。それでも、私たちが完全にされるその日まで、イエス様は私たちのうちで働き続けてくださいます。

だから、どんな試練や戦いに直面していても、イエス様から目を離してはなりません。

自分の状況に目を向けると、落胆するのは簡単です。この世の悪や自分の罪を見て、失望するのも簡単です。

しかし、それらから目を離しましょう。むしろ、イエス様から目を離してはいけません。

そして走りましょう。走ることを妨げるものがあるなら、それも捨てましょう。とくに、自分の罪を捨てましょう。

神様の恵みによって、イエス様は私たちを御国へと導いてくださいます。

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信仰の生活に関する誤解

ある人はこう考えます。「もし信仰を十分持っているなら、私の人生はスムーズに進む。健康や経済の問題などはまったくないはず。むしろ、とても楽な人生を送るだろう。」

どうやら、そのような人々はこの箇所を読んだことがないようです。もちろん、信仰のある人々が勝利を経験することもあります。しかし、ある人々はこうした経験をしました。

嘲られ、むちで打たれ、さらに鎖につながれて牢に入れられる経験をし、また、石で打たれ、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、困窮し、圧迫され、虐待されました。

この世は彼らにふさわしくありませんでした。

彼らは荒野、山、洞穴、地の穴をさまよいました。(へブル人への手紙11:36-39)

そして、この著者によれば、彼らの中で、この世において神様が約束されたものを手に入れた人は誰もいませんでした(39)。

では、この著者は彼らを責めて、「この人たちの信仰は足りなかった」と言ったでしょうか。

「どうして彼らは貧しかったのでしょうか。どうして彼らは荒野で暮らしていたのでしょうか。神様の計画は彼らが豊かな人生を送ることだったのに。彼らの信仰が足りなかったのでしょうか。」と言ったでしょうか。

「どうして彼らは牢に入れられ、信仰のゆえに殺されたのでしょうか。もし、彼らがきちんとした信仰を持っていたなら、神様は彼らを救い出してくださったはずでしょうか。」と言ったでしょうか。

「どうして彼らは神様の約束を受け取れなかったのでしょうか。もし、十分な信仰を持っていたなら、神様は報いを与えなければならなかったのでしょうか。」と言ったでしょうか。

違います。この手紙の著者は、そのようなことはまったく言っていません。

むしろ、彼はこう言いました。

これらの人たちはみな、その信仰によって称賛されました。(39)

彼は、「彼らの信仰が足りなかったから、この世の良いものに値しなかった」とは言いませんでした。むしろ、こう言いました。

この世は彼らにふさわしくありませんでした。(38)

簡単に言えば、神様は「信仰を十分持っていれば、人生はスムーズに進む」とは決して約束されません。むしろ、12章で著者はその逆を語ります。

私たちは誰でも、苦しい時を経験します。信仰を持っていても、苦しみに遭うことはあるのです。

しかし、信仰生活では、私たちは苦しみに目を向けるのではなく、将来に約束された報いに目を留め、希望を持って待ち望みます。だから、この手紙の著者はこう言います。

神は私たちのために、もっとすぐれたものを用意しておられたので、私たちを抜きにして、彼らが完全な者とされることはなかったのです。(40)

イエス様のゆえに、その聖徒たちは私たちと共に罪から解放され、完全な者とされます。そして、すべてが新しくされたとき、私たちの苦しみや悲しみは取り去られます。

信仰を持つ者はその時を待ち望みます。この世の喜びに心を向けるのではありません。(もちろん、この世においても、神様は私たちに喜びを与えてくださいますが。)

むしろ、永遠の喜びを待ち望むのです。それは、私たちが神様と共にいる時だからです。

あなたはどうでしょうか。信仰を十分に持っていれば、楽な人生が約束されていると思いますか。

神様はそのような約束をされていません。神様が約束されたのは、永遠のいのちに心を向けるなら、やがてその報いを受けるということです。

あなたは何を待ち望んでいるでしょうか。

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信仰と恵み

私にはちょっと告白したいことがあります。私は、どうしてこの手紙の著者が、ギデオンやサムソンのような人々を信仰の模範として指したかよく分かりません。

さらに、私は、どうしてこの著者が彼らの失敗について全然話していなかったか分かりません。

でも、もしかしたらその著者には大切な理由があったかもしれません。それは、このリストを通して、私たちが神様の恵みを見ることが出来ることです。

私たちがよく失敗し、躓くのに、イエス様のゆえに、神様は私たちの欠点を見逃すことを選びます。むしろ、神様の目には、私たちはイエス様の義に着せられます。

それを考えると、私たちは慰められるでしょう。

多くの場合、私たちは自分の失敗を見ると、自分を責めるでしょう。私たちは神様に信頼しない時、自分の人生をめちゃくちゃにするときを振り返ると、自分に怒ります。

もちろん、その時、私たちは悔い改めなくてはなりません。でも、その失敗によって、失望してはいけません。神様の目には、自分が価値がないと思ってはいけません。

むしろ、神様があなたを見ると、あなたのために死んだ御子を見ることを覚えていましょう。

あなたが何回も失敗しても、神様はその記録を保ちません。むしろ、あなたの罪の記録は消されました。

裁きの日、神様はあなたを責めません。むしろ、神様はあなたを喜んで歓迎します。

どうしてでしょうか。あなたが完全な人だからというわけではありません。むしろ、あなたは完全な方に信頼を寄せました。その方は私たちの罪のために死んで、よみがえられました。

だから、あなたが何度も失敗するかもしれないのに、あなたもいつかその信仰のヒーローのリストに入るかもしれません。

神様はバラクやエフタやギデオンやサムソンを考えたように、あなたを考えるから。つまり、神様はあなたの失敗ではなく、あなたの成功を指すということです。

だからパウロの言葉を覚えていましょう。

ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。(ピリピ3:13-14)

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神様に信頼すると

11章では、この手紙の著者は、信仰を持っていたヒーローたちについて語りますが、そのヒーローたちがいつもヒーローらしかったわけではないことに気づきましたか。

たとえば、サムエルは素晴らしい士師であり預言者でしたが、子育てにおいては大きな失敗をしました。

ダビデはイスラエルの最も偉大な王でしたが、二度大きな罪を犯しました。彼は姦淫と殺人を犯し、さらに自分の誇りからイスラエルの兵隊を数えました。

それでも、彼らは本質的に善い人たちでした。

では、他のヒーローたちはどうでしょうか。

多くのクリスチャンはギデオンについて考えると、彼がミデヤン人との戦いに勝利した場面を思い浮かべます。ですが、その後のギデオンの行動はあまり称賛できるものではありませんでした。

ギデオンと兵士たちは疲れて空腹だったため、二つの町に食事を求めました。けれども、町の人々はそれに応じなかったので、ギデオンはミデヤン人を倒した後、その町々に報復しました。

ギデオンは「私はイスラエルの王にはならない。神様があなたがたの王だ」と言いましたが、彼自身は王のように振る舞い始めました。彼は多くの妻を迎え、息子に「アビメレク(私の父は王)」という名をつけました。

さらに、彼は金のエポデを作りました。当時、祭司は神様に伺う際にエポデを用いていました。つまり、ギデオンは祭司ではなかったのに、祭司のように振る舞ったのです。

そのうえ、イスラエル人たちはそのエポデを偶像として礼拝し、それはギデオンと彼の一族にとって落とし穴となりました。

バラクはどうでしょうか。預言者デボラが同行すると約束するまで、彼はイスラエルの敵と戦うことを拒みました。

サムソンはどうでしょうか。ある程度はイスラエル人をペリシテ人から救いましたが、民数記6章にあるナジル人の誓願を破ってしまいました。

彼はさらに、さまざまな性的な罪を犯し、復讐心を抱いていました。イスラエル人たちを助けたかもしれませんが、彼の動機は決して良いものではありませんでした。彼はイスラエル人のためではなく、自分のために生きていました。

エフタはどうでしょうか。彼は愚かな誓いを立てました。

最善の場合、彼は自分の娘を神様の奉仕のために捧げ、その結果、彼女は結婚せず、子どもも産みませんでした。

最悪の場合、彼は神様の命令に背いて、自分の娘をいけにえとして捧げた可能性があります。いずれにしても、エフタはその誓いを深く後悔しました。

それなのに、この手紙の著者は、どうしてそんな人々を「信仰のヒーロー」として称賛したのでしょうか。

もしかすると、彼らが真のヒーローではなかったからこそ、著者は彼らについて語ったのかもしれません。

彼らは私たちと同じような人々でした。つまり、彼らは罪人でした。時には、ひどいことをしてしまったのです。ですが、神様に信頼すると、彼らは素晴らしいことを行いました。

彼らは私たちと同じような人々でした。つまり、彼らは罪人でした。時には、ひどいことをしてしまったのです。ですが、神様に信頼すると、彼らは素晴らしいことを行いました。

では、彼らの物語から私たちは何を学べるでしょうか。私たちも、毎日神様に信頼すれば、素晴らしいことを行うことができます。けれども、信頼しなければ、私たちもまた、ひどいことをしてしまう可能性があります。

あなたの生き方によって、人々はあなたの人生を判断します。毎日神様に信頼しているなら、人々はあなたをダニエルやその仲間たちと比べるでしょう。彼は獅子の口をふさぎ、火の勢いを消しました(33-34)。

しかし、ある日は神様に信頼し、ある日は信頼しないなら、あなたはサムソンやギデオンのように見られてしまうかもしれません。その人は神様に信頼しているときには素晴らしいことをしたが、神様に信頼しないときにはひどいことをしてしまった。

あなたは何を選びますか。

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誰を恐れるべきかを知る信仰

「私たちが神様を恐れると、私たちが恐れるべき人間は誰もいない」という格言があります。

イエス様ご自身も、こう言われました。

からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。

むしろ、たましいもからだもゲヘナ(つまり、地獄)で滅ぼすことができる方を恐れなさい。(マタイ10:28)

今日の箇所では、その言葉に従って生きた人々の姿が描かれています。彼らは、誰を恐れるべきかを知っていました。それは、王や支配者ではなく、むしろ神様でした。

さらに彼らが理解していたのは、神様に信頼しなければ、神様の怒りから守ってくれる者は誰もいないということです。

モーセの両親は、神様を恐れていたので、ファラオがユダヤ人の赤ちゃん全員の殺害を命じたとき、モーセを隠しました。それが限界になったとき、彼らはモーセを神様に委ねました。神様は彼らの祈りに応えて、モーセを守ってくださいました。

モーセは、エジプトの王子として、楽な人生を送ることができました。それでも、神様を恐れていたので、すべてを捨て、キリストのゆえに受ける辱めを受け入れ、他のイスラエル人と共に苦しみました。

モーセが確信していたのは、神様との良い関係を持っていなければ、この世の快楽は空しいものであるということです。さらに彼は、神様に従えば、永遠の報いを受けると信じていました。

だからモーセは、ファラオの憤りを恐れず、神様の民と共にエジプトを離れました。

神様に対する恐れによって、モーセは過ぎ越しの食事をし、羊の血を家々の二本の門柱と、かもいにつけました。その結果、イスラエル人の長男は、天使に殺されることはありませんでした。

その反面、エジプト人たちは他の神々を恐れていたため、自分たちの長男は命を落としました。ファラオ自身も神と見なされていましたが、彼の長男も命を落としました。

イスラエル人たちは神様を恐れていたので、その後、紅海を無事に渡ることができました。一方、エジプト人たちはファラオを恐れていたため、紅海を渡ろうとしたとき、水に吞み込まれてしまいました。

イスラエル人たちは神様を恐れていたので、神様の不思議な作戦に従いました。彼らが7日間エリコの周囲を回ると、その城壁は崩れ落ちました。

ほとんどのエリコの住民は、その城壁に信頼していましたが、ラハブはそうしませんでした。むしろ、彼女は神様を恐れ、偵察に来たイスラエル人たちをかくまいました。そのため、エリコが倒れたとき、彼女とその家族は救われました。

私のポイントは何でしょうか。

あなたは誰を恐れているでしょうか。誰に信頼を寄せているでしょうか。

もし神様ではなく、政府やお金や才能に信頼を置くなら、裁きの日に私たちは滅びてしまいます。そういったものは、私たちを救うことができないからです。

また、私たちが人を恐れると、自分のいのちは守れるかもしれませんが、私たちの魂は永遠に滅びます。

しかし、神様を恐れて神様に信頼すると、神様から誉れと報いを受けることができます。

あなたは誰に信頼を寄せているでしょうか。誰を恐れていますか。

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神様の良さを信じる信仰

「神様は良い方です。」

「いつもです。」

「いつもです。」

「神様は良い方です。」

ある教会では、それが合言葉のように繰り返されています。

でも、私たちはその言葉を本当に信じているでしょうか。もちろん、物事が順調なときには、それを信じて熱心に語るのは簡単です。

でも、苦しいときはどうでしょうか。神様が何をなさっているのか、私たちに理解できないときはどうでしょうか。また、将来に不安を感じるときはどうでしょうか。

そのような時、私たちはなお、神様が良い方であることを信じることができるでしょうか。

私たちが自分の信仰を見つめ直すと、これは最も根本的な問いの一つと言えるかもしれません。

だからこそ、この手紙の著者は、こう語っています。

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。(へブル人への手紙11:6)

「神は、ご自分を求める者には報いてくださる方である。」

言い換えるならば、神様は、ご自身の良さを信じる者に報いてくださいます。その人は、神様がご自身の約束を守ると信じます。その人は、自分の苦労が無駄ではないと信じます。その人は、自分の苦しみが意味あるものだと信じます。

神様は、そのような信仰者に報いてくださるのです。

どんなに私たちの境遇が厳しくても、神様を求めるほどに、その真理を信じ続けることができるでしょうか。そう信じない限り、私たちは神様を喜ばせることができません。

アブラハムは、そう信じました。

神様は、アブラハムの子孫がイサクの系統によって多くなると約束されました。しかし、ある日、神様はアブラハムに命じられました。「あなたの息子イサクを、生贄として捧げなさい。」

それは、イサクを神様の奉仕のために捧げるという意味ではありませんでした。アブラハムは、文字通り、イサクを殺し、生贄として捧げなくてはなりませんでした。

アブラハムは、本当に混乱していたことでしょう。その生贄を捧げる山に到着するまでには、三日間かかりました。その間、アブラハムは何を考えていたのでしょうか。

「どうして神様は、そんな命令をされたのだろうか。イサクの系統を通して、神様は私に多くの子孫を与えると約束された。でも、もしイサクが死んでしまったら、その約束はどのように成就するのだろうか。」

それでも、最終的にアブラハムはこう考えるに至りました。

「神様は良い方だ。神様は、ご自身の約束を守られる。だからこそ、もし私にイサクを殺すよう命じるなら、神様は必ずイサクを復活させてくださるだろう。神様は、いのちと死を支配される神だ。そして、やはり神様は良い方だ。」

そして、アブラハムがイサクを殺すために刀を振りかざしたとき、天使は彼に告げました。「あなたの手を、その子に下してはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れていることを、よく理解した。」(創世記22:10–12)

神様は、確かに良い方でした。

イサクは、そのような経験をしたので、将来がまだ不明だったにもかかわらず、息子たちヤコブとエサウを祝福することができました。

彼は、神様が約束された地をまだ受け取ってはいませんでした。所有していたのは、父アブラハムが買った小さな土地だけでした。それでも、イサクは神様が良い方であることを信じ、息子たちを祝福しました。

ヤコブは、さまざまな試練に直面しました。ある試練はヤコブ自身のせいでしたが、ある試練は彼の責任ではありませんでした。それでもヤコブは、自分に対する神様のいつくしみと忠実さを見たのです。

だから、死ぬ直前に、その確信を持って、息子たちを祝福しました。

あなたはどうでしょうか。どんなことを経験しているのでしょうか。心から「神様は良い方だ」と言えるでしょうか。神様が忠実な方だと信じられるでしょうか。神様があなたへの約束を守られると信じているでしょうか。

それらを信じなければ、あなたは神様を喜ばせることができません。

あなたは、どんな信仰を持っているのでしょうか。

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見えないものを見える信仰(2)

「それは無理です。私はできません。」

自分の状況に目を向けると、私たちはどれほどこの言葉を口にしているでしょうか。また、どれほど心の中でこの言葉が浮かんでいるでしょうか。

アブラハムとサラも、そう感じたことがあったに違いありません。

アブラハムが75歳、サラが65歳のとき、神様は彼らに「息子を与える」と約束されました。けれども、24年が過ぎても赤ちゃんは生まれませんでした。

その間、二人は自分たちなりの計画を立てました。相続人を得るために、サラは自分の奴隷ハガルをアブラハムに与え、ハガルはアブラハムの子を産みました。

しかし、神様は言われました。「それが私の意図ではありません。サラを通して、私はあなたたちに息子を与えるのです。」

その言葉を聞いて、アブラハムは笑いました。彼は99歳、サラは89歳。それでも神様は、もう一度約束されたのです。「サラは赤ちゃんを産みます。」

アブラハムは、その言葉を聞いて、到底無理だと思ったことでしょう。

それでも最終的に、アブラハムとサラは自分たちの弱さを認めながらも、現実にとらわれることなく、神様にはすべてのことができると信じる道を選びました。だからこそ、彼らは子どもをもうけようとし続けたのです。

この手紙の著者は、彼らについてこう記しています。

アブラハムは、すでにその年を過ぎた身であり、サラ自身も不妊の女であったのに、信仰によって、子をもうける力を得ました。彼が、約束してくださった方を真実な方と考えたからです。

こういうわけで、一人の、しかも死んだも同然の人から、天の星のように、また海辺の数えきれない砂のように数多くの子孫が生まれたのです。(へブル人への手紙11:11-12)

あなたはどうでしょうか。自分の問題を乗り越えることは、到底無理だと感じていませんか。

私たちの弱さに目を向けると、希望を失うのは、あまりにも簡単です。でも、神様は弱さを持っていません。

あなたは、自分の弱さを脇に置いて、弱さのない神を信じる信仰を持っていますか。

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見えないものを見える信仰

この地球は、私たちの最終的な家ではありません。

多くのクリスチャンはそのことを知っています。 けれども、その知識に基づいて日々を生きているクリスチャンは、どれほどいるでしょうか。

アブラハムは、まさにそのように生きました。 だから、この手紙の著者はアブラハムについてこう記しています。

信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。

信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに受け継ぐイサクやヤコブと天幕生活をしました。

堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都の設計者、また建設者は神です。(へブル人への手紙11:8-10)

信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に向かって召しを受けたとき、その召しに従い、行き先を知らずに出て行きました。

信仰によって、彼は約束された地に他国人として住み、同じ約束を受け継ぐイサクとヤコブとともに、天幕生活を送りました。

彼が待ち望んでいたのは、堅固な土台の上に建てられた都でした。 その都の設計者、また建設者は神です。(へブル人への手紙 11:8-10)

アブラハムにとって、約束の地はカナンでした。 しかし、私たちクリスチャンにとっての約束の地は、新しい天と地です。

アブラハムはカナンを所有することはありませんでしたが、その土地に暮らしました。

何百年後にその地はイスラエルとなりましたが、アブラハムは生涯、他国人としてその土地に住みました。 偶像礼拝と罪に満ちたその地で、彼は神様に喜ばれる人生を送りました。

この世はいつか新しくされ、私たちは神の子として新しい天と地を相続することになります。 けれども、その日が来るまでは、この世には偶像と罪が満ちています。

だからこそ、私たちは現代社会の真の市民ではなく、他国人のようにこの世に住む者なのです。 そして、来るべき新しい天と地を、心から待ち望んでいます。

その日まで、私たちはどのように生きるべきでしょうか。 たとえ生前にその結果を見ることがなくても、私たちは神様の命令に従って生きるのです。

神様は、アブラハムの子孫が増え、カナンを相続し、偉大な国となることを約束されました。 だから、アブラハムは父の家を離れ、神様に従ってカナンへ向かいました。

けれども、アブラハムが亡くなったとき、彼とサラには一人の息子しかいませんでした。 さらに、サラを葬るために小さな土地を購入しましたが、彼が生涯所有したのはその土地だけでした。

イサクには二人の息子がいましたが、彼もまたその小さな土地しか所有していませんでした。

ヤコブには十二人の息子がいました。 けれども、飢饉のために彼はエジプトへ移住しました。 神様の恵みによって、彼らの命は守られ、ヤコブはエジプトで亡くなりました。 そして彼も、カナンのその小さな土地に葬られました。

この三人は神様に従いましたが、神様の約束の完全な成就を見ることはありませんでした。

この手紙の著者は、彼らについてこう記しています。

これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。

そのように言っている人たちは、自分の故郷を求めていることを明らかにしています。

もし彼らが思っていたのが、出て来た故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。

ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。(13-16)

神様は、いつもご自身の約束を守られます。 神様はアブラハムを、大いなる強い国民とされました。 イスラエルが誕生してから、さまざまな国々が興亡を繰り返しましたが、イスラエルは今も存在しています。

そして、ある日、クリスチャンであるユダヤ人と異邦人が、一つの大いなる国民として立ち、アブラハムを「私たちの父」として認める日が来ます。

しかし、その日が来るまで、神様があなたに命じられたことに従いましょう。

アブラハムのように、あなたは生前に神様の約束の完全な成就を見ないかもしれません。 けれども、最終的にはその成就を目にします。 また、地上においても、あなたの子どもや孫たちは、あなたの忠実さの実を刈り取るでしょう。

さらに、この地球があなたの真の住まいではないことを覚えていましょう。

もし、過去の人生ばかりに心を向けるなら、その生き方に戻ってしまう危険があります。 そうすると、神様があなたのために用意されたものを、失ってしまうかもしれません。 だからこそ、永遠の住まいを待ち望みつつ、神様に忠実でありましょう。

神様は、あなたのために新しい都を備えておられます。 そして、ある日、イエス様はあなたのためにこの世に再び来られ、すべてのものを新しくされます。

だから、イエス様のことばを覚えていましょう。

わたしの父の家には住むところがたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。

わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためにです。(ヨハネ14:2-3)

アーメン。主イエスよ、どうか来てください。

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裁きの日に備える信仰

裁きの日。

このトピックが好きな人は、ほとんどいないでしょう。特に、ノンクリスチャンにとっては、裁きの日について語ることを避けたくなるものです。

もちろん、多くの人々は、犯罪者やヒトラーのような人物が裁かれるという概念には賛同するでしょう。

しかし、悪人について考えるとき、自分自身をそこに含める人は多くありません。むしろ、自らの罪を軽く見てしまい、その罪が神様の目にはどれほど深刻かを理解していないのです。

それでも、裁きの日は必ず訪れます。

そしてクリスチャンとして、私たちは信仰を持ち、この真理を認めて、備えを始めなければなりません。

ノアはそのようにしました。この手紙の著者は、こう記しています。

信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神から警告を受けたときに、恐れかしこんで家族の救いのために箱舟を造り、その信仰によって世を罪ありとし、信仰による義を受け継ぐ者となりました。(へブル人への手紙11:7)

神様はノアに、「裁きの日が来る」と警告されました。 それはつまり、大洪水が起こり、すべての人々が滅びるということです。だからこそ、ノアは備えなければなりませんでした。

ノアはそのように行動しました。 彼は砂漠で箱舟を造り、周囲の人々に迫り来る裁きについて警告したため、嘲笑されました。 それでも、ノアは備え続けました。

その結果、大洪水が起こったとき、彼とその家族は救われました。 さらに、彼の行動によって周囲の人々の不信がさらけ出され、裁きのとき、彼らは弁解の余地を持ちませんでした。

私たちは、ノアのような信仰を持っているでしょうか。 裁きの日が本当に来ると信じているでしょうか。

私たちは可能なかぎり、友人や家族に福音を伝えているでしょうか。 たとえ嘲笑され、迫害されるとしても、私たちは警告し続けているでしょうか。

裁きの日、神様は私たちについてこう言われるでしょうか。 「信仰のない世界にあって、あなたの信仰は輝いていた。」

裁きの日、神様はあなたについて何と言われるでしょうか。

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なぜ信仰が大切なのか

どうして信仰はそれほどまでに大切なのでしょうか。それは、他のどんなものよりも、神様が私たちに求めておられるのが信仰だからです。

この手紙の著者によれば、神様は昔の人々を、彼らの信仰のゆえに賞賛されました(へブル人への手紙11:2)。

そして今も、神様からの賞賛は、ただ私たちの信仰によって与えられるのです。なぜなら、信仰によってこそ、神様への愛、礼拝、従順、そして忠実さが生み出されるからです。

少し考えてみてください。もし私たちが、神様の存在、神様の愛、神様が私たちの最善を望んでおられることを信じなければ、神様を愛することができるでしょうか。神様を礼拝するでしょうか。神様に忠実に従うでしょうか。

もちろん、恐れによって礼拝し、従うことはあるかもしれません。けれども、神様が望まれるのは、恐れによってではなく、愛によってなされる礼拝と忠実な従順なのです。

そのような理由から、この著者はこう語るのです。

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。

神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。(へブル人への手紙11:6)

カインの話を思い返してみてください。

なぜ神様は、彼のいけにえを受け入れられなかったのでしょうか。細かい事情はわかりませんが、基本的な理由は、カインが信仰によってそのいけにえを捧げなかったからだと考えられます(4節)。

もしかすると、彼は「なぜ私のものを神様に捧げなければならないのか」と不満を抱きながら、そのいけにえを差し出したのかもしれません。

あるいは、神様が羊のいけにえを求めておられたにもかかわらず、カインはこう思ったのかもしれません。「なぜ、私たちの収穫が十分ではないのだろう。私は、神様に捧げたいと思うものを捧げればいい。」

いずれにせよ、根本的な問題は、カインが神様に対する信仰を欠いていたことです。そのため、神様は彼のいけにえを退けられたのです。

その反面、アベルは信仰によっていけにえを捧げました。その信仰のゆえに、アベルは神様を愛し、忠実に従いました。だから、神様はアベルのいけにえをご覧になると、喜んで受け入れられました。

エノクのことも思い返してみてください。彼は決して死を経験しませんでした。むしろ、神様がエノクを直接天に引き上げられたのです。

なぜでしょうか。それは、エノクが神様と共に歩んだからです。旧約聖書がギリシャ語に訳されたとき、翻訳者たちは「エノクは神様と歩んだ」という表現を「エノクは神様を喜ばせた」と訳しました。

言い換えれば、あなたが神様を喜ばせたいと願うなら、神様と共に歩まなければなりません。

しかし、神様が存在しておられ、あなたを愛し、あなたの最善を望んでおられることを信じなければ、あなたは神様と歩もうとはしないでしょう。神様との親しい関係を築くこともできないでしょう。

あなたはどうでしょうか。神様を本当に喜ばせたいと願っていますか。神様からの称賛を得たいと望んでいますか。

私たちはこう問いかける必要があります。「神様の存在を信じているだろうか。神様が私を愛しておられることを信じているだろうか。神様が私の最善を望んでおられることを信じているだろうか。」

もし「はい」と答えることができなければ、神様を喜ばせることはできません。

では、あなたの答えは何でしょうか。

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信仰の土台

さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人たちは、この信仰によって称賛されました。(へブル人への手紙11:1-2)

この箇所を見ると、多くの人々はこの言葉こそが信仰の定義だと考えます。

確かにそうかもしれません。けれども、私たちは「何を信じるか」について、どれだけ深く考えているでしょうか。もし私たちが信頼するものが実際には頼りにならないものであれば、私たちはどうして望んでいることを確信できるのでしょうか。

もし約束する方に、その約束を守る力がないとしたら、目に見えないものをどうして信頼できるでしょうか。

だからこそ、私たちの信仰は初めから終わりまで、神様に基づいているのです。

神様はどのような方でしょうか。神様は本当に存在しているのでしょうか。

仮に存在しているとしても、私たちを本当に愛しておられるのでしょうか。私たちは、そんな神様に信頼してもいいのでしょうか。神様はご自身の約束を本当に守ってくださるのでしょうか。神様には、その約束を守る力があるのでしょうか。

今日の箇所では、手紙の著者がまさにこのことに触れています。彼はこう語ります。

神に近づく者は、神がおられること。。。を、信じなければならないのです。(6)

この根本的な真理こそが、私たちの信仰の土台です。つまり、神様が実在されるということです。

けれども、それを信じていたとしても、神様は私たちのことを本当に愛しておられるのでしょうか。もしかすると、衝動的な思いつきで私たちを造り、その後、私たちのことを忘れてしまわれたのでしょうか。

この問いに対しても、手紙の著者は明確に答えています。

神に近づく者は。。。神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。(6)

言い換えれば、神様は私たち一人ひとりに心を留めておられるということです。神様は私たちの行いに目を留めてくださいます。そして、私たちが神様を求めるなら、神様は私たちに報いてくださるのです。

しかし、神様が報いてくださりたいと思われても、果たしてその力があるのでしょうか。

そこで、私たちは3節にその答えを見出します。

信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではないことを悟ります。(3)

もし神様が、御自身の命令によって、すべてのものを目に見えないものから造られたのなら、神様には何でもおできになるはずです。

だから、この箇所において、私たちは信仰の土台を見ることになります。神様は確かに存在しておられます。神様は私たちを愛しておられます。神様は、ご自身が約束されたことを実現する力を持っておられます。

それゆえ、残る問いはただ一つです。私たちは心からその真理を信じるでしょうか。神様に信頼を置くでしょうか。

腕の良い職人が、もっとも頑丈な木を使って椅子を作ったとしても、その椅子に信頼を置かなければ、人は決してそこに座ろうとしません。

それと同じように、神様は確かに存在し、私たちを愛しておられ、約束を果たす力を持っておられます。私たちがそれを信じようとしまいと、それは変わらない現実なのです。

しかし、それを信じなければ、私たちは神様に信頼を置こうとはしないでしょう。

あなたはどうでしょうか。あなたはその真理を信じるでしょうか。あなたがこの問いにどう応えるかによって、あなたの神様との関係、そしてあなたの人生が形づくられていくのです。

次回の記事で、このテーマをさらに深めていきます。

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もうしばらく。。。

神様は私たちに楽な人生を約束されたことはありません。むしろ、イエス様は、私たちが試練に直面することを語られました。また、イエス様によれば、私たちが主に従うなら、ある人々に憎まれることもあるのです。

今、あなたはまだそれを経験していないかもしれません。けれども、この手紙の最初の読み手たちは、まさにそのような困難に直面していました。

彼らは人々の前で迫害を受け、辱められました。ある者は牢に入れられ、持ち物も奪われました。

彼らは最初、その試練に耐え抜いたのです。

でも、彼らは揺れ始め、倒れそうになったため、この手紙の著者は彼らを励ましました。

「あきらめてはいけません。今まで耐えた試練を無駄にしてはいけません。頑張りなさい。頑張れば、あなたは必ず報いを得ますから。」(へブル人への手紙10:32-35)

そして、彼は彼らにこう語りかけます。

あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。「もうしばらくすれば、来たるべき方が来られる。遅れることはない。」(36-37)

「もうしばらく。。。」

その言葉は私の心に深く響きます。

もうしばらく待てば、あなたの試練は消え去ります。

もうしばらく待てば、イエス様は再びこの世に来られます。

そして、あなたの苦しみは霞のように消えてゆきます。イエス様の御顔を仰ぐとき、あなたの苦労は遠い記憶のようになるでしょう。

その日まで、私たちはどうすればよいのでしょうか。

わたしの義人は信仰によって生きる。(38)

簡単に言えば、私たちは神様を信じ続けなければなりません。神様が約束を守られることを、揺るがず信じ続けなければなりません。すべてが崩れ落ちるように思える時でも、その信仰こそが、私たちに生き続ける希望を与えるのです。

しかし、もし私たちが恐れて退き、疑いながら歩むなら、神様から称賛されることはありません。そうした歩みでは、神様を喜ばせることができないのです。(38)

それでも、この手紙の著者は、読み手たちに対して自らの確信をはっきりと語ります。

しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。(39)

あなたはどんな苦しみを体験しているでしょうか。どんな疑いと戦っているでしょうか。

その苦しみや疑いから目を背けましょう。それらに囚われてしまうと、私たちは恐れて退いてしまいます。ところが、実のところ、それらは一時的なものにすぎません。

だからこそ、私たちはイエス様に目を向けるのです。イエス様の忠実さと愛を心に刻み続けましょう。

そうすれば、

神様の栄光と恵みが照り輝くと、
この世の試練や困難は、不思議と微かに映ります。

ーーヘレン・レンメル

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キリストを拒むなら

「あなたはキリストに関してどうするでしょうか。」

これは、誰もが最終的に向き合わなければならない問いです。

イエス様に信頼することを選ぶ人は、この世において真のいのちを見出し、永遠のいのちを受け取ります。

しかし、イエス様のことばを聞いて拒む人にとっては、将来に希望が全くありません。

それこそが、この手紙の著者が語っている厳粛な警告です。彼はこう言います。

もし私たちが、真理の知識を受けた後、進んで罪にとどまり続けるなら、もはや罪のきよめのためにはいけにえは残されておらず、ただ、さばきと、逆らう者たちを焼き尽くす激しい火を、恐れながら待つしかありません。

モーセの律法を拒否する者は、二人または三人の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死ぬことになります。

まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものと見なし、恵みの御霊を侮る者は、いかに重い処罰に値するかが分かるでしょう。(へブル人への手紙10:26-29)

著者の要点は何でしょうか。

もし、私たちがイエス様の十字架のいけにえをあえて拒むなら、もはや救いの望みは残されていません。なぜなら、ほかに救いの道はないからです。神様は、ほかの生贄や捧げ物を受け入れず、私たちの献金や良い行いも受け入れられません。

この手紙の著者によれば、天使を通して与えられたモーセの律法を拒んだ者は、二人または三人の証人の証言によって死刑にされました。

それならなおさら、イエス様がご自身の血によって私たちの救いを買い取り、それを差し出してくださったにもかかわらず、私たちがその救いを拒むなら、どれほど重い罰に値するでしょうか。

そのような者は、尊い血をくだらないもののように扱い、イエス様を踏みつけ、聖霊様を侮辱するのです。

その結果は?

私たちは、「復讐はわたしのもの、わたしが報復する。」

また、「主は御民をさばかれる」と言われる方を知っています。

生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。(30-31)

言い換えれば、私たちは裁きを受けます。イエス様が私たちの罪の代価を支払ってくださることを拒むなら、その代価を自分で支払わなければならず、私たちは永遠に地獄にとどまることになります。

あなたはどうするでしょうか。イエス様を受け入れますか。イエスの血によって支払われた恵みの賜物を受け取りますか。

それとも、その賜物に唾を吐き、反抗的な道を歩み続けますか。

あなたは、神様の怒りを受けることも、神様の恵みを受けることもできます。あなたはどちらを選びますか。

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開かれた

これは、私が最も愛する聖句の一つです。おそらく高校生の頃に暗記したのでしょう。

旧約聖書の時代、贖罪の日になると、イスラエルの民は幕屋の外に立ち、大祭司は聖所を通って、至聖所へと進みました。そこで彼は、いけにえの血を契約の箱の蓋に振りまきました。

この儀式によって、大祭司はイスラエルの罪のために宥めを行い、神様の怒りはなだめられました(レビ記16:15-17)。

しかし、天にある真の聖所において、イエス様は他の大祭司にはできないことを成し遂げられました。イエス様は、神様と私たちの間にあった垂れ幕を取り除かれたのです。

十字架で死なれたとき、聖所と至聖所の間にあった垂れ幕は、上から下まで真っ二つに裂かれました(マタイ27:51-52)。

この出来事によって、神様はすべての人に向かってこう告げられたのです。「わたしのもとへ来る道は、開かれた。」

だから、この手紙の著者は、こう語っています。

こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。

イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。

また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。(へブル人への手紙10:19-22)

イエス様は至聖所に入り、ご自身の血を捧げられた後、垂れ幕を取り除き、こう語られました――「わたしの父のもとへの道は開かれた。さあ、わたしと共に入ってきなさい。」

だから、この手紙の著者は私たちに語ります。「幕屋の外に立ち、神様から離れたままでいてはなりません。むしろ、神様に近づきなさい。十字架の御業によって、イエス様はその道を開いてくださったのです。

イスラエルの罪を清めるために契約の箱の蓋が血で覆われたように、私たちの心もイエス様の血によって振りかけられ、清められました。

だから、私たちは恐れることなく、神様の御前に立つことができるのです。イエス様の御業によって、私たちは聖なる者とされたからです。」

この手紙の著者はさらに語ります。

約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。(23)

試練に直面する時、キリストから離れ、信仰を捨てることは、ある意味で簡単に見えるかもしれません。それは、神様の愛や真実さ、約束を疑い始めてしまうからです。

しかし、十字架において、イエス様は私たちに対する愛と忠実さを確かに示してくださいました。だから、苦しい時にはイエス様にしがみつき、イエス様の誠実さを心に刻み続けてください。

そして、他のクリスチャンの信仰が揺らぐ時には、この手紙の著者の言葉を思い起こしてください。

また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。

その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。(24-25)

時に、クリスチャンはこう言います。「どうして教会に行かなければならないのだろうか。一人で信仰生活を送ってもいいのではないか。」

しかし、それは自己中心的な考え方です。あなた自身が他のクリスチャンを必要としないとしても、彼らはあなたを必要としています。彼らはあなたの励ましを必要としており、あなたもまた彼らの励ましを必要としているのです。

私たちは自己満足に陥ることなく、愛と善行を行うために、互いに励まし合うべきです。

だから、兄弟姉妹たちがイエス様の愛をもってこの世に触れていくことができるよう、どのように励ますことができるかを考えましょう。

イエス様が再び来られる日が近づいているのですから、なおさらそうすべきです。

神様への道はすでに開かれました。私たちはその道を活かして、神様に近づいているでしょうか。周りの人々が神様に近づくよう促しているでしょうか。

天の父はあなたのために待っておられます。あなたはどう応えるでしょうか。

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なぜ、これほど多くの血が必要だったのか

最近の記事で取り上げた重要な概念は、「写し」と「影」です。

つまり、子牛や雄やぎの生贄は、十字架におけるイエス様の究極のいけにえを予表していたのです。

けれども、そもそもなぜ生贄が必要だったのでしょうか。

神様は、いけにえを求めずとも、私たちを赦すことができなかったのでしょうか。他に方法はなかったのでしょうか。

この問いに向き合うために、イエス様のゲッセマネでの祈りに目を向けてみましょう。イエス様は、こう祈られました。

わが父よ、できることなら、この杯(つまり、十字架)をわたしから過ぎ去らせてください。(マタイ26:39)

他に方法があれば、神様はその道を選ばれたはずです。けれども、私たちの罪を赦すために、神様は生贄を求められました。

この手紙の著者は、こう述べています。

血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。(へブル人への手紙9:22)

その真理の種は、旧約聖書の律法の中に見ることができます。神様は、こう語られました。

実に、肉のいのちは血の中にある。わたしは、祭壇の上であなたがたのたましいのために宥めを行うよう、これをあなたがたに与えた。いのちとして宥めを行うのは血である。(レビ記17:11)

言い換えるなら、血はいのちの象徴です。そして、人のいのちが救われるためには、その代わりとして別のいのちが差し出されなければなりません。

旧約聖書の時代には、子牛や雄やぎ、羊のいのちが、イスラエルの民の身代わりとして捧げられました。けれども、以前の記事でも触れたように、それらの生贄は完全なものではありませんでした。なぜでしょうか。

第一の理由は、人間のいのちの価値が、動物のいのちの価値よりも高いからです。

第二の理由は、その動物たちが、自らの意志で人間の罪のために死んだのではないからです。

その一方で、イエス様は人間であると同時に、神でおられるお方です。だからこそ、イエス様のいのちは、私たちの罪を完全に償うことができました。

さらに、前回の記事で見たように、イエス様は自ら進んでご自身の命を差し出されたのです。そしてイエス様は、天の父に向かってこう祈られました。

今、わたしはあなたのみこころを行うために来ました。(へブル人への手紙10:9)

なぜ私たちが、イエス様の血によって贖われなければならないのか――この手紙の著者は、それを説明するために、さらに二つの描写を用いて語っています。

彼はこう述べています。

キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反から贖い出すための死が実現して、召された者たちが、約束された永遠の資産を受け継ぐためです。(9:15)

この描写によれば、私たちはかつて罪の奴隷でした。けれども、十字架において、イエス様はご自身の血によって、私たちを贖い出してくださいました。

イエス様は私たちを暗闇の力から救い出し、ご自身のご支配の中に移してくださったのです(コロサイ 1:13)。

さらにこの手紙の著者は、神様との新しい契約を「遺言」にたとえています。遺言が効力を発するためには、それを作成した者が死ななければなりません。

同じように、神様との新しい契約を有効にするために、イエス様は死ななくてはなりませんでした。

この箇所の要点は、私たちが永遠の命を受けるために、イエス様の死が不可欠だったということです。イエス様がその道を選ばれたことによって、聖霊様はイエス様を信じる人々のうちに住まわれ、彼らの心を新しくしてくださいます。

聖霊様は神様の律法を彼らの心に置き、その思いに書き記されるのです(10:16)。

その結果、彼らは自然と神様を喜ばせる者へと変えられていきます。そして神様は、彼らの実について、こう語られます。

わたしは、もはや彼らの罪と不法を思い起こさない(10:17)

だから、この手紙の著者は、こう語っています。

罪と不法が赦されるところでは、もう罪のきよめのささげ物はいりません。(10:18)

そういうわけで、イエス様は十字架の上でこう言われました。「救いの業は完了した。」(ヨハネ19:30)

そのことを思うと、私は改めて驚きに満たされます。

イエス様は、本当に死ななければならなかったのでしょうか。ある意味では、死ぬ必要はなかったのかもしれません。ご自身を救って、私たちをそのままにして、十字架を回避することもできました。

しかし、イエス様は私たちを愛し、私たちのためにご自身を捧げてくださったのです。

だからこそ、十字架と、そこで流されたイエス様の血を仰ぐとき、私たちは深い感謝と畏敬の念をもって心を向けましょう。イエス様は私たちを愛し、想像を絶する代価を支払ってくださったのです。

Amazing love.
驚くべき愛。
How can it be that you my King should die for me?
あなたは私の王なのに、どうして私のために死んでくださったのでしょうか。

Amazing love.
驚くべき愛。
I know it’s true.
あなたが私を本当に愛してくださること知っています。
And it’s my joy to honor you.
あなたをあがめることこそ、私の喜びです。

In all I do, I honor you.
私は、すべての営みの中で、あなたをあがめて生きていきます。

ーークリス・トムリン

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ヘブル人への手紙

写しと影(3)

これまで私たちは、「写し」と「影」について考えてきました。

まとめると、「写し」と「影」は現実をある程度描き出すことができます。たとえば、影は人の形を大まかに示すことができますし、おもちゃの電車は、本物の電車の働きを模倣します。

けれども、「写し」と「影」は、本物ができることをすべて再現することはできません。

人の影は話すことも聞くことも触れることもできません。おもちゃの電車は人を目的地まで運ぶことはできません。

同じように、ヘブル書の著者によれば、幕屋や捧げもの、生贄は、神様との関係を描く「写し」や「影」でした。

その描写によって、私たちは神様に近づくには何が必要かを知ることができました。しかし、それ自体には、私たちを神様に近づける力はありませんでした。

特に、神様への捧げものや生贄によって、私たちの良心が清められることはありませんでした。それらの捧げものと生贄は一時的なものであり、真のものが現れたとき、消え去るべきものでした(へブル人への手紙9:9–10)。

その「真のもの」とは何でしょうか。それこそが、キリストです。

イエス様はこの世に来られ、私たちの罪のために十字架で死なれたあと、天にある、より偉大で、より完全な幕屋に入られました。

そして、イスラエルの祭司たちとは異なり、イエス様はその幕屋で雄やぎや子牛の血ではなく、ご自身の血を捧げられました。

子牛と雄やぎの血は、物を儀式的に清めることはできましたが、イエス様の血は私たちの良心を実際に清める力を持っていました。だから、私たちは罪の罰から自由にされたのです(9:11–15)。

イエス様の流された血は、私たちの良心を完全に清めることができたので、その血は一度だけ捧げられれば十分でした。そしてその後、イエス様は天の父の右の座に座られました。なぜなら、イエス様は救いの働きを完全に成し遂げられたからです。

これに対して、イスラエルの祭司たちは、自分たちの務めを終えることができませんでした。むしろ、彼らは毎日、毎年、絶えず生贄を捧げ続けなければならなかったのです。なぜなら、子牛と雄やぎの血では、人々の良心を清めることができなかったからです。

その生贄によって、イスラエルの民は自分の罪と赦しの必要を思い出すと同時に、罪を本当に取り除くことができる最終的な生贄を待ち望んでいました(10:1–4)。

この手紙の著者は、イエス様のいけにえについて、こう語っています。

。。。キリストは聖なる者とされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に完成された。。。(へブル人への手紙10:14)

旧約聖書の時代、神様がいけにえを要求された理由は、それがイエス様とその十字架の御業を描き出すためでした。

けれども、今から2000年前、イエス様は来られて、天の父にこう申し上げられたのです。

今、わたしはここに来ております。。。神よ。あなたのみこころを行うために。(10:7)

そして十字架によって、以前のいけにえの制度は廃止され、イエス様は私たちを聖なる者とするために、完全ないけにえを捧げられました。

だから、私たちは希望を持つのです。この手紙の著者はこう語っています。

キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反から贖い出すための死が実現して、召された者たちが、約束された永遠の資産を受け継ぐためです。(9:15)

また、

人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも多くの人の罪を負うために一度ご自分を捧げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を持ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。(9:27-28)

「写し」や「影」は、私たちに永遠のいのちの希望を与えることはできません。

けれども、イエス様にあって、私たちはその希望を確かに持っています。さらに、私たちはイエス様がいつの日か再びこの世に来られて、救いの計画を完成してくださることへの希望も抱いています。

ですから、どうか覚えていてください。私たちの希望は「影」や「写し」にではなく、イエス様ご自身にあるのです。イエス様こそが現実です。

だから、希望を見失いそうなとき、絶望に押しつぶされそうなときには、イエス様に目を向けましょう。そうすれば、あなたは決して失望させられることはありません(第一ペテロ2:6)。

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ヘブル人への手紙

写しと影(2)

前回の記事で学んだように、地上の幕屋は、天にある真の幕屋の「写し」と「影」にすぎませんでした。

ヘブル書の9章では、幕屋がどのようにその真の幕屋の「写し」と「影」であったかが示されます。

契約の箱は神様の臨在を象徴するものでした。神様は、その箱の蓋の上にあるケルビムの間にお座りになると語られました。そしてその箱は、幕屋の至聖所に安置されていたため、至聖所は神様がおられる場所と見なされていたのです。

そのため、祭司以外の者は聖所に入ることが許されませんでした(聖所は至聖所の前にある空間です)。

さらに、大祭司だけが至聖所に入ることを許されていましたが、それも年に一度だけのことでした。それは贖罪の日です。その日、大祭司はイスラエルの民の罪のために特別ないけにえをささげました。

この手紙の著者は、これらの制度に込められた深い霊的意味を説明しています。

聖霊は、次のことを示しておられます。すなわち、第一の幕屋が存続しているかぎり、聖所への道がまだ明らかにされていないということです。(へブル人への手紙9:8)

言い換えると、その幕屋は、ある意味で神様との関係における障害でした。

聖所と至聖所の間には垂れ幕が垂れ下がっていました。その垂れ幕によって、ほとんどの祭司たちですら神様の臨在から遠ざけられていたのです。まして、普通のイスラエルの民は聖所に入ることさえできませんでした。

ソロモンの神殿でも、エズラの神殿でも、ヘロデ王の神殿でも、聖所と至聖所の間には同じように垂れ幕がありました。

その物理的な障壁は、私たちと神様との間にある霊的な障壁を描き出していたのです。すなわち、私たちは罪によって神様から隔てられていたのです。

しかし、次回の記事で見ていくのは、イエス様がその障壁を取り除いてくださったということです。

その前に、もう二つの重要な点について触れておきたいと思います。

一つ目は、至聖所に入るために、大祭司は二つのものの前を通らなければなりませんでした。それは、燭台と臨在のパンです。

燭台の火は絶えず灯しておかなければなりませんでした。

そして臨在のパンは、神様の臨在を描き出していました。つまり、それは神様が私たちにいのちを与えてくださることを意味していたのです。さらに、そのパンにはパン種が入っていませんでした。パン種は罪の象徴だったからです。

どうしてイエス様がご自身を「いのちのパン」や「世の光」と呼ばれたか、ご存じでしょうか。燭台と臨在のパンがイエス様を指し示していたからです。天の父のみ前に行くためには、私たちはイエス様を通して進まなければなりません。

二つ目は、大祭司がイスラエルの民の罪を贖うために雄牛の血を至聖所に携えて入ったように、イエス様は私たちの罪を贖うために、天にある至聖所にご自身の血を携えて入ってくださったということです。

だから、今やイエス様の御業によって、私たちは自由に天の父に近づくことができます。

おそらく、現代の多くのクリスチャンはこの特権を当たり前のものとして考えているでしょう。けれども、イエス様が来られる前には、人々はこのような特権を持っていなかったのです。

それを思うとき、私はパウロの言葉を思い出します。

ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。(第二コリント9:15)

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ヘブル人への手紙

写しと影

多くのクリスチャンは、旧約聖書を読むときに、その内容が本当に重要なのか疑問に思うかもしれません。特に、幕屋や律法の細かな規定については、自分たちとは無関係に思えることもあるでしょう。

けれどもこの手紙の8章から10章にかけて、私たちは旧約聖書のそのような記述に深い意味があることを知ることができます。特に8章によれば、幕屋と律法は霊的な現実の「写し」と「影」だったのです。

この手紙の著者は、幕屋が天の現実を映し出す写しであり、影であることを明確に教えています。

もちろん、地上の幕屋は天そのものと比べれば取るに足らないものでした。けれども、その幕屋が天的な現実の写しであったからこそ、神様はモーセにこう命じられたのです

よく注意して、山であなたに示された型どおりに、すべてのもの(つまり、幕屋や祭壇や幕屋の用品など)を作らなければならない。(ヘブル人への手紙8:5)

けれども、写しと影であったのは幕屋だけではありません。私たちには理解しにくい多くの神の律法もまた、写しと影でした。

たとえば、「きよいもの」と「汚れたもの」に関する律法、ツァラアト(皮膚病)に関する律法、食物規定など、これらはすべて、罪や聖さについての霊的な描写だったのです。

神様の意図は、イスラエルの民がご自身のみ前で「きよい者」でなければならないという点にありました。

いけにえもまた、写しと影でした。前回の記事で触れたとおり、いけにえには実際に人の罪をきよめる力はありませんでした。むしろ、それらはいずれ来るイエス様の十字架の犠牲をあらかじめ描いていたのです。

最後に、神様とイスラエルとの契約そのものも、写しと影にすぎませんでした。その契約は、神様がどのような関係を私たちと持ちたいと願っておられるかを描写していました。

神様は彼らに数多くの律法を授け、人々は自分の力でそれを守ろうと努めました。

そして、神様の約束はこうでした──もし彼らがその律法を守るならば、神様が彼らの神となり、彼らは神様の民となる。また、彼らは神の祭司となり、聖なる国民とされる、というものでした。

しかし、彼らはその律法を守ることができませんでした。そこで、神様はこう仰せられたのです

見よ、その時代が来る。──主のことば──そのとき、わたしはイスラエルの家、ユダの家との新しい契約を実現させる。

その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握ってエジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。彼らはわたしの契約にとどまらなかったので、わたしも彼らを顧みなかった。

──主のことば──これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである。──主のことば──

わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

彼らはもはや、それぞれ仲間に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、小さい者から大きい者まで、わたしを知るようになるからだ。

わたしが彼らの不義にあわれみをかけ、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。(8-12)

かつての契約においては、神様はイスラエルの民に律法を授けられました。しかし、新しい契約においては、神様ご自身が私たちの心を変え、その律法を私たちの内に刻んでくださるのです。

以前の契約のもとでは、祭司や預言者たちが主を知る方法を民に教えました。それでもなお、神様とイスラエルの間には距離があり、彼らは神様との親しい関係を持っていなかったのです。

ところが今、イエス様が私たちの大祭司です。イエス様は私たちを天の父の御前へと導いてくださいます。ですから、私たちは天の父なる神と親しい関係を持つことができるのです。

もはや、私たちは不完全な「写し」と「影」に頼る必要はありません。イエス様にあって、私たちは真の現実を知るのです。

イエス様の十字架の働きによって、私たちの心はきよめられ、神様との親しい交わりに招かれています。だからこそ、心から喜びましょう。

そして、毎日、神様に近づいていきましょう。

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ヘブル人への手紙

義の王、平和の王、とこしえに祭司

キリストを考えると、どんなイメージが思い浮かぶでしょうか。

クリスマスの時、赤ちゃんのイメージが思い浮かぶでしょう。ほかの時、もしかしたら、良い羊飼いのイメージが思い浮かぶでしょう。

でもこの手紙の著者にとって、イエス様は「メルキゼデクの例に倣い、王と祭司」です。

メルキゼデクは、やや謎めいた存在です。旧約聖書の多くの人物とは異なり、彼の先祖についての記録はありません。また、彼の子孫についても一切知られていません。彼がいつ生まれ、いつ死んだのかも分かっていません。

創世記14章で、彼は突然登場しますが、その後についての記述はほとんどありません。

詩篇ではダビデが一度だけ彼について語りますが、ヘブル人への手紙が書かれるまで、それ以外には何も記されていません。

けれども、メルキゼデクの姿にこの手紙の著者は、イエス様の姿を重ね合わせて見ているのです。

メルキゼデクという名前は「義の王」を意味します。そして彼はサレムという都市の王でしたが、その都市の名は「平和」を意味します。後にサレムはエルサレムとなりました。

このように、イエス様は真の「義の王」であり、「平和の王」でもあるのです。

また、メルキゼデクの系図が明らかでないように、イエス様の系図もまた人間的には存在しますが、実際には永遠の方です。すなわち、神としてのイエス様には、始まりも終わりもなく、本当の意味での系図は存在しないのです。

また、メルキゼデクの死について、私たちは何も知りません。だから、もしかすると彼は今も生きているかもしれません(もちろん、そうではない可能性が高いですが)。

そのように、イエス様は復活され、もはや死ぬことなく永遠に生きておられます。

なぜ、それが重要なのでしょうか。それは、イエス様が永遠に私たちの大祭司でおられるからです。

旧約聖書の時代、モーセの律法に基づいて、レビ人の祭司たちが数多く立てられました。

神様はイスラエルの民と契約を結ばれました。すなわち、民が律法に従うなら、神様は彼らの神となり、彼らは神様の民とされるという契約です。その契約に基づいて、多くのレビ人たちが祭司として仕えました。

けれども、もしその契約が十分であったならば、なぜ神様はわざわざイエス様を送られたのでしょうか。

それは、その契約が完全なものではなかったからです。というのも、イスラエルの民は律法を完全に守ることができず、結果として律法によって裁かれてしまったからです。

祭司たち自身も不完全な人々でした。彼らは毎日、まず自分自身の罪のためにいけにえをささげ、その後でイスラエルの民の罪のためにいけにえをささげなければなりませんでした。

けれども、そのいけにえも十分ではありませんでした。この手紙の著者は後に詳しく説明しますが、もしそのいけにえが完全なものであったなら、一度だけで十分だったはずです。

しかし、そのいけにえは罪の代価を完全に支払うことができなかったため、祭司たちは毎日、繰り返しいけにえをささげなければならなかったのです。

ゆえに、神様との真の関係を持つためには、より優れた契約と、より優れた祭司が必要でした。

イエス様にあって、私たちはその「より優れた契約」と「より優れた祭司」を持っているのです。

イエス様の「系図」について考えてみてください。彼はメルキゼデクの霊的な系譜に属しておられます。

メルキゼデクはアブラハムを祝福しました。この手紙の著者によれば、「劣った者が、優れた者から祝福を受ける」のです。

つまり、メルキゼデクの霊的な系譜は、アブラハムの霊的な系譜(レビ人の祭司たちはアブラハムの子孫です)よりも優れているということです(ヘブル人への手紙7:4ー10)。

しかし、それだけではありません。神様はイエス様に対して、特別な誓いを立てられました。こう仰せられたのです。

主は誓われた。思い直されることはない。「あなたはとこしえに祭司である。」(ヘブル人への手紙7:21)

神様は他のどの祭司たちに対しても、このように誓われたことはありませんでした。

そして、律法によれば、レビ人たちはその系譜に基づいて祭司とされました。けれどもイエス様は、律法によらず、朽ちることのないいのちの力によって祭司となられたのです(7:16)。

だから、著者はこう語ります。

。。。もっとすぐれた希望が導き入れられました。これによって私たちは神に近づくのです。(19)

では、なぜ私たちは、より優れた希望を持つことができるのでしょうか。

それは、神様の誓いによって、イエス様がより優れた契約の保証となられたからです(22)。

この点について、著者はさらに具体的に説明していきます。

また、レビの子らの場合は、死ということがあるために、務めにいつまでもとどまることができず、大勢の者が祭司となっていますが、イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。

したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。

このような方、敬虔で、悪も汚れもなく、罪人から離され、また天よりも高く上げられた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。(23-26)

イエス様が十字架で私たちの罪のために死なれたとき、その犠牲によって罪の代価は完全に支払われました。ですから、イエス様はもう二度とご自身をいけにえとしてささげる必要はありません。

私たちがすべきことは、ただイエス様に信頼することだけです(27)。

それこそが、私たちの希望なのです。だから、私たちの王であるイエス様を賛美しましょう。

イエス様のいけにえによって、私たちは神様の目に義とされ、神様との平和を得ているのです。そしてイエス様は、今も永遠に、私たちの大祭司でおられます。

ハレルヤ!

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ヘブル人への手紙

無理(私たちの希望の理由)

前回の記事で私が述べたのは、もしヘブル書6章によって「自分の救いを失うことができる」と考えるならば、その救いを取り戻すこともできない、ということを信じなければならないという点です(ヘブル人への手紙6:4ー6)。

この結論は避けられないものです。

その一つの根拠が、今日の箇所にあります。この箇所において著者は、もう一つ「不可能なこと」があると語っています。すなわち、神様が嘘をつくことは不可能だというのです。

著者は同じ言葉を6章4節と18節の両方で用いています。原語では、「不可能」という強い言葉が使われており、神様が嘘をつく可能性がまったくないのと同じように、救いを失った者がその救いを取り戻す可能性も、まったくないということです。

とはいえ、6章4節において私たちが恐れを抱く可能性がある一方で、6章18節では大きな希望が語られています。むしろ、著者の意図は、私たちにその希望を与えることにあるのです。彼はこう語りました。

だが、愛する者たち。私たちはこのように言ってはいますが、あなたがたについては、もっと良いこと、救いにつながることを確信しています。

神は不公平な方ではありませんから、あなたがたの働きや愛を忘れたりなさいません。あなたがたは、これまで聖徒たちに仕え、今も仕えることによって、神の御名のために愛を示しました。

私たちが切望するのは、あなたがた一人ひとりが同じ熱心さを示して、最後まで私たちの希望について十分な確信を持ち続け、その結果、怠け者とならずに、信仰と忍耐によって約束のものを受け継ぐ人たちに倣う者となることです。(ヘブル人への手紙6:9-12)

言い換えれば、「堕落した者を再び悔い改めに立ち返らせることはできない」という記述は、確かに少し恐ろしく感じるかもしれません。

しかし、著者はそのことがあなたがたに当てはまるとは考えていないようです。なぜなら、あなたの人生には救いの実が実っているからです。

ですから、たとえ今が困難な時期であっても、どうかあきらめないでください。信仰を持ち続けるならば、最終的に、イエス様にあるあなたの希望が決して無駄ではなかったことが分かるはずです。

このあと、著者はアブラハムに対する神様の約束を引き合いに出します。すなわち、神様がアブラハムに多くの子孫を与えると約束されたということです。パウロによれば、私たちはその約束の相続人です(ガラテヤ3:7ー9)。

神様がその約束を与えられたとき、ご自分を指して誓われました。なぜなら、神様にはご自分よりも優れたものがなく、それ以外を指して誓うことはできなかったからです。

アブラハムは25年もの間待ち続けましたが、その約束を信じました。神様はその約束を守り、イサクをアブラハムに与えてくださいました。そしてイサクを通して、イスラエルという国が生まれました。

さらにイエス様を通して、イエス様を信じる私たちは、アブラハムの子となったのです。

では、なぜ神様はアブラハムに誓われたのでしょうか。神様が信頼できない方だからでしょうか。違います。著者はこう語ります。

それは、前に置かれている希望を捕らえようとして逃れて来た私たちが、約束と誓いという変わらない二つのものによって、力強い励ましを受けるためです。その二つについて、神が偽ることはあり得ません。(18)

神の約束と誓いの両方が変わることのない確かなものであるゆえに、私たちの希望には二重の確かさが与えられているのです。

だから、著者はこう語ります。

私たちが持っているこの希望は、安全で確かな、たましいの錨のようなものであり、また幕の内側にまで入って行くものです。

イエスは、私たちのために先駆けとしてそこに入り、メルキゼデクの例に倣って、とこしえに大祭司となられたのです。(19-20)

著者は、イエス様を私たちの「先駆け」と呼んでいます。それはどういう意味でしょうか。

古代の時代、天候が悪く船が港に入るのが難しいとき、「先駆け」と呼ばれる小さな船が本船の錨を携えて先に港へ向かい、港の中にその錨を下ろしました。その錨によって、船の乗組員たちは無事に港に入るという確かな希望を持つことができたのです。

同じように、イエス様は私たちに先立って、天の父の御前に入られました。

だからこそ、私たちは確かな希望を持っているのです。すなわち、私たちもイエス様に従って天の父の御前に現れるとき、神様の子として愛され、受け入れられるのです。

ですから、人生の嵐が吹き荒れ、波に打ちのめされるようなときにも、どうか希望を失わないでください。神様があなたを見放されたと思わないでください。

なぜなら、イエス様はすでに私たちに先立って進まれたのです。イエス様は私たちの魂の錨です。だからこそ、いつの日か、私たちは無事に主の家にたどり着くのです。

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ヘブル人への手紙

無理

これは、聖書の中でも最も論争の的となっている箇所の一つです。この箇所のゆえに、多くの人々は「クリスチャンでも救いを失うことがある」と信じています。へブル人への手紙の著者は、このように書いています。

一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となって、神のすばらしいみことばと、来たるべき世の力を味わったうえで、堕落してしまうなら、そういう人たちをもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。

彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、さらしものにする者たちだからです。(ヘブル人への手紙6:4-6)

一見すると、この箇所はクリスチャンが自分の救いを失う可能性があるように思えます。けれども、私は一つの言葉に注目したいと思います。それは「できません」です。

言い換えるならば、「無理」ということです。

もしあなたが、「クリスチャンは堕落して救いを失う可能性がある」と考えるなら、その人が救いを取り戻すことは不可能である、ということも信じなければなりません。その結論からは逃れられません。

原語でも、著者は「無理」とも言える強い表現を使っています。

では、自分に問いかけてみてください。これまでに、クリスチャンが神様に背を向け、何年も神様から離れていたのに、再び神様に立ち返る姿を見たことはありますか? 私は、あります。

ということは、もしこの箇所が絶対的に正しければ、その人は本当に堕落していたとは言えません。実際に神様から立ち去っていたとは断定できないのです。なぜなら、彼らは最終的に神様に戻ったのですから。

言い換えれば、もし人が救いを失うことができると信じるなら、「堕落」の定義を非常に限定的にしなければなりません。その定義とは、「神様から離れ、決して戻ってこない人」です。

ですから、その人が亡くなるまでは、私たちは本当に堕落していたかどうかを判断することはできません。

それでも、私たちの心には疑いが残るでしょう。「その人は本当に神様から立ち去っていたのだろうか。もし、もう少し長く生きていたら、神様に戻っていたのではないか。」

私が信じているのは、人が救われたなら、その救いを失うことはありえない、ということです。神様は、この世の創造以前に、クリスチャンを救いのために選んでくださいました(エペソ1:4ー5)。

もし、その人が神様から離れてしまったのだとしたら、神様がその人を選ばれたことは無駄だったのでしょうか。神様は、その人の背信に驚き、傷つき、そしてその人を見捨てられたのでしょうか。私はそうは信じません。

では、「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者」とは、どういう意味なのでしょうか。

イスカリオテのユダについて考えてみてください。「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者」という言葉は、ユダに完全に当てはめることができます。

ユダはイエス様の教えをすべて聞きました。おそらく、初めの頃はそのことばを信じていたかもしれません。

彼は天からの賜物を味わい、聖霊様の力も経験しました。その力によって、ユダは他の弟子たちと同じように、人々を癒し、悪霊を追い出し、奇跡を行ったのです(マタイ10:8)。

しかし、イエス様は初めから、ユダが真の信仰を持っておらず、いずれご自身を裏切ることを知っておられました(ヨハネ6:4)。

簡単に言えば、ユダは畑の毒麦の完全な例です(マタイ13:36〜43)。

ユダは信者のように見え、信者のように振る舞っていましたが、心から信じることは一度もありませんでした。

そのため、この手紙の著者は、次のように語っています。

たびたび降り注ぐ雨を吸い込んで、耕す人たちに有用な作物を生じる土地は、神の祝福にあずかりますが、茨やあざみを生えさせる土地は無用で、やがてのろわれ、最後は焼かれてしまうのです。(7-8)

他の弟子たちは、もちろん完全な者ではありませんでしたが、最終的には救いの実を結びました。それに対して、ユダは茨やあざみしか生み出さず、ついには滅びてしまいました。

この手紙の著者は、さらにもう一つの例を挙げています。それは、エジプトから救い出されたイスラエルの民です。

彼らは神様の律法を受け、多くの奇跡を見ましたが、心から神様を信じることはなかったため、約束の地に入ることはできませんでした。

著者が伝えたいポイントは何でしょうか。救いを得るためには、私たちには本物の信仰が必要なのです。

あなたは、どのような信仰を持っているでしょうか。あなたは真の信者でしょうか。あなたは、クリスチャンとして少しずつ成熟していますか。あなたは、日々キリストに似た者へと変えられていますか。

裁きの日には、実を結ばない信仰は偽りの信仰であったことが明らかにされます。

そして今もなお、自分をクリスチャンだと主張しながら、神様から離れていくことで、自らが毒麦であることを明らかにする人々がいます。

あなたは、どのような信仰を持っているでしょうか。

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ヘブル人への手紙

真の成熟

あるクリスチャンたちは、自分の信仰が成長することを願い、単に福音の初歩だけでなく、聖書のより深い真理を学びたいと望んでいます。

けれども、彼らには一つ、自らに問いかけるべきことがあります。それは──「私の心は、その備えができているだろうか」ということです。

この手紙を読んだ人々の心は、まだその備えが整っていなかったようです。

そのため、この著者は彼らにこう語ったのです。

このメルキゼデクについて、私たちには話すことがたくさんありますが、説き明かすことは困難です。あなたがたが、聞くことに対して鈍くなっているからです。

あなたがたは、年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神が告げたことばの初歩を、もう一度だれかに教えてもらう必要があります。

あなたがたは固い食物ではなく、乳が必要になっています。(ヘブル人への手紙5:11-12)

「乳」とは何でしょうか。6章において、著者はその意味を明らかにしています。それは、罪を悔い改めること、神様に対する信仰、バプテスマ、手を置く儀式(特に聖霊を受けること)、復活、そして裁きの日などのことです。

これらは、クリスチャンとしての初歩的な真理です。もちろん、私たちはそれらを知らなければなりません。けれども、それらはあくまでも出発点に過ぎません。

その道の終着点は何でしょうか。それは、健全で完全な歩みです。

しかし、そのような人生を得るためには、ただ聖書を聞くだけでなく、それを私たちの生活に適用しなければなりません。

私たちは、神様が私たちを愛し、最善を願っておられることを信じなければなりません。そして、自分が罪に対して死に、イエス様にあって新しく造られた者として生きるように召されていることを信じるべきです。

私たちの行いや思い、そして人生のすべてが神様の愛に彩られるほどに、私たちは神様を愛し、神様の救いの御業を心から感謝すべきです。

簡単に言えば、私たちのうちに働いてくださっている聖霊様の力によって、私たちは罪を捨て、義を身にまとい、日々ますますイエス様に似た者とされるべきです。

それこそが、真の成熟です。

成熟とは、単に神様の深い真理を知っていることではありません。成熟とは、人生のあらゆる面においてイエス様に似た者として生きることです。

言い換えれば、私たちは健全な人、完全な人へと成長していくのです。すなわち、神様が初めから計画しておられたとおりの歩みをすることです。

けれども、未成熟な人たちの内面はまだ不完全なままです。彼らは健全な人生の意味すらも理解できません。この手紙の著者は、そのような人々について、こう語っています。

乳を飲んでいる者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。(13)

これに対して、著者は成熟した人について、こう語っています。

固い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のものです。(14)

真に成熟した人は、御言葉を聞いて実践します。そして、その人は御言葉を実践すればするほど、「健全な人生」の意味が分かるようになります。何が善であり、何が悪であるかを見分けることができるようになるのです。

しかし、多くのクリスチャンは学ぶのが遅く、聞くことに対して鈍くなっています。

心はどのように鈍くなるのでしょうか。

たとえば、私たちが御言葉を聞いて心を動かされたとしても、それに何の応答もしなければ、結果として心は固くなります。そして、心を固くすればするほど、ますます鈍くなっていきます。

やがて、御言葉を受け入れられなくなってしまうのです。その結果どうなるでしょうか。私たちは未成熟で、不完全な人生、壊れた人生を送ることになるのです。

あなたはどうでしょうか。あなたは、ただ御言葉を聞くだけですか。それとも、その御言葉を実践していますか。

神様は、私たちが完全で健全な人生を送ることを願っておられるのです。けれども、私たちが心を固くするならば、それは実現しないのです。

あなたは、成熟した人でしょうか。

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ヘブル人への手紙

私たちが神様に近づくことができる理由

あなたの人生が、全世界の前にさらけ出されたとしたら、あなたはどう感じるでしょうか。もし人々が、あなたの失敗や罪をすべて見ることができたとしたら、どう感じるでしょうか。

では、少し想像してみてください。裁きの日に、あなたは神様のみ前に立ち、あなたの人生について書かれた書が開かれ、神様があなたにこう仰るのです──「あなたの人生について申し開きをしなさい。」

へブル人への手紙の著者は、こう語っています。

ですから、だれも、あの不従順の悪い例に倣って落伍しないように、この安息に入るように努めようではありませんか。

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。

神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。(ヘブル人への手紙4:11-13)

それは、恐ろしいことです。私たちの行為だけでなく、心の思いやはかりごとまでもが、すべてさらけ出されるのです。裁きの日には、神様の前に隠せるものなど何一つありません。それを思うと、確かに恐れを覚えることでしょう。

しかし、それにもかかわらず、私たちは大胆に神様に近づくことができるのです。なぜでしょうか。それは、イエス様との関係があるからです。

著者は、こう続けます。

さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。(4:14-15)

これまでに学んできたのは、イエス様が私たちの先駆者となり、救いへの道を切り開いてくださったということです。

それだけではなく、イエス様は私たちに先立って天に昇られ、天の父なる神の御座の前で、今もなお私たちのためにとりなしておられます。

父なる神は、御子イエスの御顔を見るとき、喜ばれます。地上の裁判官の中には、弁護士と敵対関係を持つ者もいます。しかし、天の父ご自身が、イエス様を私たちの弁護士として、私たちの大祭司として任命されたのです(5:4ー6)。

それだけではありません。イエス様は、私たち一人ひとりのことを深く理解しておられるので、憐れみに満ちた心で、とりなしをしてくださいます。

イエス様は、誘惑の激しさをよくご存じです。また、この壊れた世界の中で、神の御心に従って生きることの難しさを、身をもって経験されたのです。

イエス様は、この地上で生きておられた間、大きな叫び声と涙をもって祈りをささげられました。

ゲッセマネにおいては、イエス様の汗が血のしずくのように地に落ちました。なぜなら、天の父の御心に従うことは、深い苦しみを伴っていたからです。イエス様はその苦しみを、身をもってご存じなのです。

それでもイエス様は、完全に天の父に従い、十字架にまで進まれ、死に至られました。

だからこそ、今、イエス様は私たちにとって救いそのものとなってくださったのです。私たちに求められているのは、ただ信仰の道を歩むことだけです(5:7ー10)。

そして私たちがつまずき、羊のようにさまよい、愚かな行動を取るとき、イエス様は優しく私たちを扱い、引き上げて、正しい道へと導いてくださいます(5:2ー3)。

だから、著者はこう語っています。

ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(4:16)

あなたは、その大胆さを持っているでしょうか。もしかすると、神様があなたを見下し、罰したいと願っておられるのではないかと感じているかもしれません。

けれども、そのような恐れは捨てましょう。イエス様は、あなたをかばっておられるのです。

イエス様は、あなたの罰をすでに受けてくださいました。神様はあなたを罰したいとは思っておられません。むしろ、神様はあなたを憐れみたいと願い、恵みを与えたいと願っておられます。

ですから、天の父のもとへ近づきましょう。神様はあなたを愛しておられ、ご自分の愛する子どもとして受け入れてくださるのです。

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ヘブル人への手紙

信仰の必要

多くの人々は、神様の祝福を受けたいと願い、真のいのちと喜びを得たいと求めています。けれども、その多くは、神様に信頼を寄せようとはしません。

へブル人への手紙の著者は、この箇所でまさにその問題を取り上げています。

彼は、「神の安息」について語っています。この「安息」は三つの意味を内包しています。

第一の意味は、私たちが自分の努力によって救いを得ようとするのではなく、ただイエス様に信頼を寄せることによって救いにあずかる、ということです。

著者はこう語っています。

したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残されています。

神の安息に入る人は、神がご自分のわざを休まれたように、自分のわざを休むのです。(ヘブル人への手紙4:9-10)

旧約聖書の時代における安息日は、「神の安息」の本当の意味を描き出しています。

安息日を通して、神様はユダヤ人に、御自身に信頼することによって与えられる祝福と喜びを指し示されたのです。

週に一度、彼らは仕事を休みました。安息日には、神様が彼らの必要を備えてくださると信じたのです。その信仰によって、彼らは安心して休むことができました。

同じように、私たちも神様とキリストの十字架の御業を信じるなら、自分の救いのために努力する必要はありません。むしろ、私たちは休み、すでに神様との平和をいただいています。

第二の意味は、日常生活においても私たちが神様に信頼することによって、安心して過ごすことができるということです。

困難や試練があっても、パニックに陥ったり、思い煩ったりしません。むしろ、理解を超えた神の平安をもって、心に安らぎを得ることができるのです(ピリピ人への手紙4:7)。

第三の意味は、私たちがやがて真の休みにあずかる日が来るということです。その日には、人生の苦しみや試練が終わり、私たちはついにイエス様のみ顔を見ることになるのです。

旧約聖書の時代、もう一人の「イエス」(すなわちヨシュア)は、イスラエルの民に真の安息を与えることはできませんでした。

ご存じない方もおられるかもしれませんが、ギリシャ語では「ヨシュア」と「イエス」という名前は同じです。

そのため、へブル人への手紙4:8を翻訳する際、翻訳者はこの名前を「ヨシュア」と訳しました。しかし、実際には「イエス」と訳すことも可能なのです。

とはいえ、その箇所では旧約聖書のヨシュアを指しているため、「ヨシュア」と訳されているのです。

では、ヨシュアはイスラエルの民のために何をしたのでしょうか。彼は彼らを神様の約束の地に導き入れ、その意味で安息を与えました。しかし、その安息は決して完全なものではありませんでした。

なぜでしょうか。それは、彼らが神様を信頼しなかったからです。その地で敵との戦いが困難になると、彼らは諦めてしまいました。すでに得ていた地に甘んじ、それ以上を求めようとはしなかったのです。

ユダヤ人にとっても、私たちにとっても、真の安息はまだ実現していません。私たちが神様を真に信頼するそのときこそ、その日が来るのです。

けれども、以前にも述べたように、神様に信頼する人は少ないのです。

エジプトにいた頃、イスラエルの民は奴隷として苦しみ、安息を慕い求めました。救いを求めました。真のいのちと喜びを切に願っていたのです。

モーセはイスラエルの民に安息と救いを約束したので、彼らは彼について行きました。しかし、最初から彼らには信仰が欠けていました。

パロがモーセに対抗した後、イスラエルの民への圧迫が増したため、彼らは信仰を失い、不平を言いました。

その後、紅海の前でパロの軍勢が迫ってきたとき、逃げ場を失った彼らは信仰を持てず、「私たちは死ぬ!」と叫びました。

さらに、荒野で食べ物や水が尽きたときにも、彼らは神様を信頼せず、再び不平を口にしました。

また、神様が約束された地の住民を見たとき、彼らは恐れてその地に入ることを拒みました。

彼らは命と喜びを望むと言い、神様の安息と祝福を慕うと言いました。けれども最終的には、彼らは神様に信頼することを拒みました。

そのため、彼らは決して神様が約束された地に入ることができませんでした。むしろ皆、荒野で死んだのです。

そして代わりに、彼らの息子たちと娘たちがその地に入りました。しかし、その子どもたちもまた、自分たちの不信仰ゆえに、神様の真の安息を得ることはありませんでした。

だからこそ、この手紙の著者は、読み手に不信仰の危険について警告したのです。

その読者の中には、福音を聞いてその救いのメッセージに魅了されたユダヤ人たちがいました。しかし、エジプトから逃れたイスラエルの民のように、彼らも神様を真に信じることなく、最終的には神様から離れてしまったのです(4:2)。

そのため、著者は繰り返し警告を発しています──「イスラエルの民のようになってはなりません。そうでなければ、あなたは決して神様の安息に入ることはできず、真のいのちを知ることもできないのです」(4:11)。

あなたはどうでしょうか。真のいのちと喜びを知りたいと願っていますか。神様の祝福を受けたいと望んでいますか。それならば、あなたは神様とそのみことばを信じるべきです。

神様のことばを読むとき、あなたが本当に神様を信じているかどうかが明らかになります。そして、そのみことばによって、あなたは神様に裁かれるのです(4:12ー13)。

裁きの日に、神様はあなたについて何を語られるのでしょうか。

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ヘブル人への手紙

なぜ福音を無視してはならないのか

へブル人への手紙の主なテーマの一つは、イエス様の偉大さです。

第1〜2章では、イエス様が預言者たちや天使たちよりも優れたお方であることが示されています。第3章では、モーセよりも、そして第4章では、ヨシュアよりも優れておられることが語られています。

けれども、イエス様の偉大さを考えるとき、私たちは、非常に大切な真理を覚えておく必要があります。

それは、かつて天使たちや預言者たちが神様の言葉を語ったとき、人々がそのことばに対して責任を問われた、ということです。

もしイエス様が、天使たちや預言者たちよりも優れたお方であるなら、私たちはなおさら、イエス様のことばに従うべきなのです。

だから、この手紙の著者は、こう語っています。

こういうわけで、私たちは聞いたことを、ますますしっかりと心に留め、押し流されないようにしなければなりません。

御使いたちを通して語られたみことばに効力があり、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたのなら、こんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、私たちはどうして処罰を逃れることができるでしょう。

この救いは、初めに主によって語られ、それを聞いた人たちが確かなものとして私たちに示したものです。

そのうえ神も、しるしと不思議と様々な力あるわざにより、また、みこころにしたがって聖霊が分け与えてくださる賜物によって、救いを証ししてくださいました。(ヘブル人への手紙2:1-4)

この手紙の著者は、「語られたみことば」として、モーセを通して与えられた律法に言及しているようです(申命記33章2節、使徒の働き7章53節、ガラテヤ人への手紙3章19節)。

その律法に従わなければ、人々は裁かれました。けれども、その律法を語ったのはイエス様ではなく、天使たちでした。

ところが今や、イエス様ご自身が、ご自分の口から福音を語られました。それだけでなく、イエス様は使徒たちを通してその福音を宣べ伝えられました。

そして神様は、しるしと不思議、さまざまな力あるわざによって、そのメッセージが真実であることをあかしされました。

さらに聖霊様も、御心にしたがってクリスチャンに賜物を与え、その福音が神からのものであることをあかしされました。

天使ではなく、父なる神、御子なる神、聖霊なる神ご自身が福音をあかししておられるとするならば、私たちがその福音に対して責任を問われることは、なおさらのことです。

もし三位一体の神ご自身がこの福音をあかしされたのなら、私たちがそれを無視するならば、必ず裁きを免れることはできません。

そして、この手紙の著者は、イエス様をモーセと比較します。モーセは偉大な指導者であり、神様は彼を通してイスラエルの民をエジプトから救い出し、律法を与えられました。

それにもかかわらず、著者はこう語っています。

家よりも、家を建てる人が大いなる栄誉を持つのと同じように、イエスはモーセよりも大いなる栄光を受けるにふさわしいとされました。

家はそれぞれだれかが建てるのですが、すべてのものを造られたのは神です。モーセは、後に語られることを証しするために、神の家全体の中でしもべとして忠実でした。

しかしキリストは、御子として神の家を治めることに忠実でした。そして、私たちが神の家です。もし確信と、希望による誇りを持ち続けさえすれば、そうなのです。(3:3-6)

著者によれば、モーセは忠実なしもべでしたが、あくまでもしもべに過ぎませんでした。それでも、イスラエルの民はモーセを通して与えられた律法に従わなくてはなりませんでした。

ましてや、イエス様が神の御子であり、神の家を建てられたお方であるならば、私たちがイエス様に従うべきことは、なおさら明らかです。

ですから、私たちはイエス様が告げられた救いの福音を無視してはなりません。私たちは別の裁判所に訴えることなどできないのです。イエス様こそ、最終的な裁きを下される裁判官です。

だから、著者はこう語っているのです。

ですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちが告白する、使徒であり大祭司であるイエスのことを考えなさい。(3:1)

あなたはどうでしょうか。あなたは福音を軽く扱おうとしているのではありませんか。そのメッセージを無視しようとしてはいませんか。

そのメッセージがあなたに気に入るかどうかにかかわらず、あなたは福音によって裁かれるのです。

だから、まだ時が与えられている今、福音を信じ、受け入れてください。そうすれば、あなたはいのちを知ることになります。

しかし、福音を拒むなら、あなたは裁かれ、永遠の死に至るのです。

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ヘブル人への手紙

クリスマスの意味(3)

最近、私たちはクリスマスの意味について考えてきました。

最初の記事では、クリスマスを通して、私たちが神様のご性質を知ることができるということを語りました。すなわち、イエス様にあって、目に見えない神様が、見えるようになったのです。

そして、前回の記事では、イエス様が来られたもう一つの理由――それは「私たちの罪」であることを取り上げました。

私たちの罪のゆえに、この世は混乱し、壊れてしまいました。本来、神様の子どもであり代表者として、私たちはこの世を治めるはずでした。しかし、罪によって、この世界も、私たち自身の人生も崩れてしまったのです。

けれども、イエス様がこの世に来られたとき、十字架で私たちの罪の代価を支払い、神様の怒りを身に負ってくださいました。イエス様の御業によって、救いの道が整えられたのです。

ですから、今、私たちがなすべきことはただひとつ――イエス様を信頼し、従うことです。そうするなら、神様が私たちのために初めからご計画されていたことが実現するのです。

それはつまり、私たちが栄光と誉れの冠をいただき、イエス様と共に永遠にこの世を治めることなのです。

しかし、イエス様がこの世に来られた理由は、もう一つあります。

それは、私たちに共感するためでした。私たちのことを、真に理解できるようになるためでした。

私たちは、天におられる神様を思うとき、神様がどうやって私たちのことを理解できるのか、不思議に思うかもしれません。神は神であり、人は人だからです。

けれども、イエス様がこの世に来られたとき、私たちが経験することを、ご自身も経験されました。

この手紙の著者によれば、私たちの創始者(別訳:「指導者」)であるイエス様は、苦しみを通して完全な者とされたのです(10節)。

それは、どういう意味なのでしょうか。

イエス様は、もともと完全なお方ではなかったのでしょうか。

もちろん、イエス様は常に罪のない、完全な方でした。

けれども、苦しみを通して、イエス様は私たちに完全に共感できるようになられたのです。その意味において、イエス様はさらに完全な救い主となられました。

イエス様は、人となられたことによって、不完全な世界に生きることを体験されました。また、誘惑に直面し、それを打ち勝つことを学ばれました。そして、死に至られ、ついには死をも克服されました。

だから、この手紙の著者は、こう書いています。

聖とする方も、聖とされる者たちも、みな一人の方から出ています。それゆえ、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥とせずに、こう言われます。(へブル人への手紙2:11)

言い換えれば、イエス様は人となられ、私たちと同じような者となられました。

だから、イエス様は心から、私たちを兄弟姉妹と呼んでくださるのです。

この手紙の著者が引用した詩編の中では、イエス様がよろこんで、私たちを「兄弟」「姉妹」「子どもたち」と呼んでおられる姿を見ることができます。イエス様は決して、私たちを見下されません。

そして、14〜15節で、著者はさらにこう続けています。

そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。

それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。(14-15)

イエス様は人となられ、私たちと同じように血と肉を持っておられました。

しかし、私たちと違って、イエス様は決して罪を犯されませんでした。

それにもかかわらず、イエス様は私たちの罪のために、ご自身を十字架においてささげられました。そのことによって、サタンの力は打ち砕かれ、私たちは死と地獄の恐れから解放されたのです。

けれども、私たちはもう一つ、心にとどめておくべきことがあります。

この手紙の著者は、こう書いています。

したがって、神に関わる事柄について、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それで民の罪の宥めがなされたのです。

イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。(17-18)

言い換えれば、イエス様は人としてご自身の弱さを味わわれたので、私たちの弱さに深く共感してくださるのです。

だから、イエス様は私たちに対して、あわれみ深い大祭司となられました。

ですから、私たちが苦しみの中でうめき、罪との戦いに疲れ果てるときにも、イエス様は私たちの痛みを理解してくださいます。

これこそが、クリスマスの不思議さです――すなわち、神様が私たちのことを理解しておられる、ということなのです。

He knows all the struggles you are going through.
イエス様は、あなたが経験しているすべての戦いを理解しておられます。
He knows the pain you’re feeling.
イエス様は、あなたの苦しみを理解しておられます。
He hears the silent cries you hold within your heart.
イエス様は、あなたの心の奥深くにあるうめきを、すべて聞いておられます。
And he wants so much to show you that he knows.
そして、イエス様はあなたにご自身の共感を、本当に知ってほしいと願っておられます。

–ブライアン・ベッカー

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ヘブル人への手紙

クリスマスの意味(2)

どうして、この世はこれほどまでに混乱し、壊れてしまったのでしょうか。

この問いに向き合わないかぎり、私たちはクリスマスの意味を真に語ることはできません。

今日の聖書箇所で、この手紙の著者は、この世界の混乱の根本にある問題を明らかにしています。

彼によれば、この世がやがて新しくされるとき、それを治めるのは天使ではなく、人間なのです(へブル人への手紙2:5)。

その驚くべき真理に触れ、著者はまるで詩編の詩人のように、主を賛美せずにはいられません。

人とは何ものなのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。

あなたがこれを顧みてくださるとは。あなたは、人を御使いよりわずかの間低いものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせ、万物を彼の足の下に置かれました。(へブル人への手紙2:6-8)

この箇所で詩編の詩人も、この手紙の著者も、イエス様についてではなく、人間について語っています。

彼らが驚いているのは、人間がもともと地のちりで造られた存在であり、今もなお、天使よりわずかの間低い者とされているにもかかわらず、やがて栄光と誉れの冠をいただき、すべてのもの(天使たちをも含む)を治めるようになる、ということです。

使徒パウロによれば、ある日、私たちは天使たちさえ裁くことになるのです(第一コリント6:3)。

神様がこの世を創造された初めから、それはご自身のご計画でした。

そのため、神様がアダムとエバを造られたとき、こう言われました。

生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。(創世記1:28)

そういうわけで、この手紙の著者はこう語っています。

神は、万物を人の下に置かれたとき、彼に従わないものを何も残されませんでした。(8b)

しかし、それは今の私たちの現実なのでしょうか。

この手紙の著者は、続けてこう言います。

それなのに、今なお私たちは、すべてのものが人の下に置かれているのを見てはいません。(8c)

どうしてなのでしょうか。

この世の根本的な問題――それは「罪」です。

罪によって、この世は堕落しました。

罪によって、神様との私たちの関係は壊れました。

罪によって、この世界そのものが壊れてしまいました。

罪によって、私たち自身も壊れた存在となってしまいました。

罪によって、災害や病、そして死がこの世に入り込んできたのです。

だからこそ、イエス様はこの世に来られなければなりませんでした。

そして、この手紙の著者は、続けてこう言います。

ただ、御使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。

イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。(9)

イエス様は天を離れ、人となられました。

イエス様は天使よりも、しばらくの間低くされ、私たちの間を歩まれました。そのおからだは死すべきものであったため、病を患われることもあり、やがて十字架で死なれたのです。

けれども、その死を通して、イエス様は私たちの罪のために代価を支払ってくださいました。

そして、イエス様は栄光と誉れの冠を受けられました。救いの「指導者」、あるいは「先駆者」(10節、「創始者」の別訳)となられたのです。

イエス様は私たちに先立ってこの世に来られ、完全な人生を生き、十字架の苦しみを受け、私たちのために死んでくださいました。

そのゆえに、私たちはイエス様が開いてくださった救いの道を歩むことができるのです。

私たちがその道を造る必要はありません。その道はすでに整えられました。イエス様が、私たちのために労してくださったからです。

では、このことを振り返ってみましょう。

なぜ、イエス様は2,000年前、この世に来られたのでしょうか。

そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。

それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。(14-15)

私たちは、罪と死の力から自由にされたにとどまらず、神様が初めからご計画なさっていたとおりに、イエス様の共同相続人として、栄光と誉れの冠を受け、イエス様と共にこの世を治めるようにされているのです。

これこそが、クリスマスの意味です。

ですから、私たちは2,000年前に神様がなさったことだけでなく、今この瞬間になさっていることをも感謝しましょう。そして、将来なさろうとしていることにも、心から感謝をささげましょう。

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ヘブル人への手紙

クリスマスの意味

私の英語のブログでは、12月にヘブル人への手紙についての記事を書き始めました。それは、とても良いタイミングでした。なぜなら、この手紙を通して、私たちはクリスマスの意味を学ぶことができるからです。

イエス様とは、どのようなお方でしょうか。なぜ、これほどまでに大切なのでしょうか。

この手紙の著者は、それを私たちに教えてくれます。(ちなみに、この手紙は匿名です。)

神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。

神は御子を万物の相続者と定め、御子によって世界を造られました。(へブル人への手紙1:1-2)

神様は何百年もの間、数多くの預言者たちを遣わされました。けれども、この終わりの時には、預言者たちよりもはるかに偉大なお方をお送りになりました。もちろん、それはイエス様です。

イエス様は、イザヤ、エレミヤ、ダニエルよりも偉大なお方です。これらの預言者たちは多くの奥義を語りましたが、その奥義はイエス様によって明らかにされました。

使徒ヨハネによれば、イエス様は人となった神様の御言葉です(ヨハネ1:1、14)。

そして、イエス様にあって、神の御言葉はすべて成就されました。

では、イエス様とはいったい誰なのでしょうか。

エホバの証人によれば、イエス様は御使いのかしらミカエルだとされています。しかし、この手紙の著者は、それを明確に否定します。

むしろ、彼はこう語っています。

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。(3a)

著者は、印章付きの指輪に触れています。指輪の印がろうに押されるように、神様の本質は肉体に刻印されました。ですから、イエス様を見るとき、私たちは神様の本質を見るのです。

イエス様は、神様の本質を完全に現しておられます。さらに、イエス様ご自身こそ、神様の栄光の輝きです。

そして、著者はこう語ります。

御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。(3b)

この言葉によって、私たちは、なぜイエス様が来なくてはならなかったのかを知ることができます。

私たちの罪が赦されるために、イエス様は十字架で死ななければなりませんでした。

けれども、イエス様は死後、復活されました。そして今は、天の父の王座の右に座しておられます。

イエス様が復活された日に、天の父はイエス様にこう言われました。

あなたはわたしの子。わたしが今日、あなたを生んだ。(5節ですけど、使徒の働き13:32-34をも読んで管ださい。)

かつての時代、ある国の王が別の国の王に従うとき、両者の関係は「親と子」と呼ばれることがありました。そのような背景の中で、神様はソロモンを「わたしの子」と呼ばれました(第二サムエル記7:14)。

そして、この手紙の著者はこう語ります。「天の父は、天使のいずれにも『わたしの子』と呼びかけたことはありません。」

しかし、天の父はイエス様に対しては「わたしの子」と呼ばれたのです。なぜなら、父と御子の間には、比類なき関係があるからです(4〜5節)。

さらに、神様がイエス様をこの世に遣わされたとき、こう言われました。

神のすべての御使いよ、彼にひれ伏せ。(6)

これは、極めて意義深いことばです。なぜなら、礼拝にふさわしいのは神様おひとりだからです。

もしイエス様が天の父と等しい存在でなければ、天の父が「わたしの子にひれ伏せ」と言われることはなかったはずです(ルカ4:8)。

さらに著者は、天使たちを造られた存在(すなわち、風や炎)として描きますが、イエス様ご自身は創造主であり、「永遠の神」と呼ばれています(2、8〜12節)。

そして最後に、イエス様のような権威を持つ天使は存在しません。むしろ、天使たちは、イエス様によって救われた者たちに仕えるのです(13〜14節)。

言い換えれば、天使たちは栄光に満ちた存在ではありますが、イエス様はその上にある栄光を持っておられる方です。

イエス様は、まさに人となられた神ご自身です。そして、イエス様が来られたとき、神様は私たちにご自身を現されました。

それだけではありません。イエス様を通してこそ、私たちは自分の罪から救われ、永遠のいのちにあずかるのです。

これこそが、クリスマスの意味です。

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ピレモンへの手紙

私たちの信仰が本物なら

第二コリント5:16ー17では、パウロはこう書きました。

ですから、私たちは今後、肉にしたがって人を知ろうとはしません。

かつては肉にしたがってキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。

ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(第二コリント5:16-17)

パウロの言葉から、私たちは本物の信仰の実を見ることができます。それは、私たちがどのようにキリストや周りの人々を見なすかが変わることを指しています。

ピレモンへの手紙は、その真理を明確に描いています。

ピレモンはコロサイの教会のリーダーであり、その教会はピレモンの家で集まっていたようです。けれども、その時代には奴隷制が広く存在していました。ローマ帝国では、おそらく人口の3分の1が奴隷でした。

時々、どうしてパウロや他のクリスチャンのリーダーたちが奴隷制を直接批判しなかったのか疑問に思う人もいます。

もしかすると、パウロたちは奴隷制を政治的手段で終わらせることができないと理解していたのかもしれません。むしろ、神様が福音によって一人ひとりの心を変えることで、最終的に奴隷制が廃止されると信じていたのではないでしょうか。

もし私たちクリスチャンが自分の国を変えたいと願うなら、その真理を心に留めるべきです。

もちろん、政治参加は重要ですが、政治や新しい法律だけでは人々の心を変えることはできません。福音こそが人々の心を変え、この社会をも変える力を持っています。

さて、パウロがローマで軟禁されていたとき、オネシモという人物と出会いました。どのように彼らが出会ったのかは定かではありませんが、オネシモはパウロを通してクリスチャンになったようです。(10)

そして、オネシモの信仰が成長するにつれて、彼はパウロと共に仕え、パウロの親しい友人となりました。

しかし、オネシモには大きな問題がありました。つまり、彼は奴隷であり、主人から逃げていたのです。オネシモがクリスチャンになったことで罪悪感を抱くようになり、自分の主人のもとへ戻らなければならないと感じるようになりました。

けれども、ローマの法律では主人に逃亡した奴隷を殺す権利がありました。したがって、主人のもとへ戻ることでオネシモが殺される可能性がありました。

それを理解していたオネシモは、パウロと相談しました。

そして、パウロはオネシモの主人の名前を聞いて驚きました。その主人は、パウロの親友であるピレモンでした。ピレモン自身もパウロによって福音を受け入れ、クリスチャンになったようです。(10)

そこで、パウロはオネシモのためにピレモンに手紙を書きました。

使徒として、パウロはピレモンにオネシモについて命じることもできましたが、彼はその方法を取らず、愛する親友としてピレモンに願いました。

では、パウロはピレモンに何を言ったのでしょうか。

彼はピレモンに、神様がその状況をもたらしたのだと語りました。(15-16)

もちろん、神様はオネシモに「逃げなさい」と命じられたわけではありません。オネシモは自分の意思で逃げ出し、ピレモンと神様に罪を犯しました。

けれども、神様はオネシモに触れ、彼をパウロのもとへ導いてくださいました。その結果、オネシモはもはや役に立たない者ではなく、役に立つ者となりました。特に、パウロの奉仕において、オネシモは重要な働き手となりました。(11-13)

(ちなみに、「オネシモ」という名前には「役に立つ者」という意味があります。)

そのようなわけで、パウロはピレモンに言いました。「今のオネシモは、以前あなたから逃げたオネシモとは違います。彼はただの奴隷ではなく、イエス様にあって新しく造られた者です。それに、彼はあなたの兄弟となりました。」(16)

そして、パウロは続けてこう言いました。

もし彼があなたに何か損害を与えたか、負債を負っているなら、その請求は私にしてください。

私パウロが自分の手で、「私が償います」と書いています。

あなたが、あなた自身のことで私にもっと負債があることは、言わないことにします。(18-19)

この言葉で、パウロは二つのことをしました。

一つ目は、パウロがオネシモがピレモンから盗んだものを償うために払うと申し出たことです。けれども、その申し出を通して、パウロはピレモンに間接的に思い出させました。「イエス様もあなたの罪の負債を十字架で支払ってくださいました。」

もちろんピレモンはパウロの働きによってクリスチャンになりました。けれども、イエス様がピレモンの罪の代価を支払われたのです。だからこそ、ピレモンはイエス様から恵みを受け、赦されているように、オネシモに恵みを与え、彼を赦さなくてはなりませんでした。

ピレモンはどのように反応したでしょうか。それについての記録はありません。けれども、パウロはピレモンが正しいことをするという確信を持っていました。(21)

なぜでしょうか。なぜなら、ピレモンも新しく造られた者だったからです。パウロは、自分がオネシモを見なしたように、ピレモンもオネシモを見なすという確信を持っていました。

あなたはどうでしょうか。あなたの信仰は本物のものでしょうか。もしあなたの信仰が本物なら、キリストと周りの人々への見方が変わるはずです。

赦された者として、あなたも周りの人々を赦すはずです。

また、イエス様に愛され、受け入れられた者として、周りの人々を愛し、受け入れるはずです。

あなたはどのような信仰を持っているでしょうか。

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テトスへの手紙

罪の余裕もない。プライドの余裕もない。

前回の記事で、テトスの3章の最初の部分について話しましたが、今日は3章全体をまとめたいと思います。

前回の記事で私は言いましたが、1節ではパウロは私たちが権威者たちに従うべきだと教えます。そして、2節ではパウロはこう言います。

また、だれも中傷せず、争わず、柔和で、すべての人にあくまで礼儀正しい者となるようにしなさい。(テトスへの手紙3:2)

時々、ノン・クリスチャンたちの行為や態度のために、私たちが彼らを愛さずに裁くのは簡単です。でも、私たちは彼らを中傷せず、むしろ柔和な態度を持ち、礼儀正しい態度を取るべきです。

相手の弱さと失敗を見るとき、私たちが柔和な態度、また、謙虚な態度を取ることはとても大切だと思います。なぜでしょうか。

私たちも以前は、愚かで、不従順で、迷っていた者であり、いろいろな欲望と快楽の奴隷になり、悪意とねたみのうちに生活し、人から憎まれ、互いに憎み合う者でした。

しかし、私たちの救い主である神のいつくしみと人に対する愛が現れたとき、神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。

神はこの聖霊を、私たちの救い主イエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みを抱く相続人となるためでした。(3-7)

要するに、クリスチャンになる前に、私たちは彼らと同じでした。私たちも愚かなことをしていました。私たちも罪の奴隷であり、罪を犯していました。

私たちが周りの人々よりも良い人であったために神様が私たちを救ったわけではありません。むしろ、神様の憐れみによって、神様は私たちを救ってくださいました。

私たちは神様から何も値しませんでしたが、神様はイエス様を送り、ご自身の愛と恵みを与えてくださいました。

そして、神様は聖霊を私たちに豊かに注いでくださいました。

聖霊によって、私たちは新しく造られた者となりました。

そのため、今、私たちは神様の目には義人とされ、神様の養子として永遠の命の望みを持っているのです。

そういうわけで、私たちにはプライドを持つ余裕がありません。私たちは周りの人々を不潔なものとして見下してはいけません。むしろ、神様が私たちを愛してくださったように、私たちは周りの人々に愛を示さなければなりません。

さらに、クリスチャンとして、私たちは故意に罪を犯してはいけません。

私たちは変わったのです。私たちはイエス様の血によって洗われました。私たちは新しく造られた者となりました。どうして私たちは自分を滅ぼしていた罪に戻りたいと思うでしょうか。

パウロはこう言いました。

このことばは真実です。私は、あなたがこれらのことを、確信をもって語るように願っています。神を信じるようになった人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです。これらのことは良いことであり、人々に有益です。(8)

また、

私たちの仲間も、実を結ばない者にならないように、差し迫った必要に備えて、良いわざに励むように教えられなければなりません。(14)

だから、私たちは自分の義に関するプライドを持つ余裕はないけれど、罪にふける余裕もないのです。

パウロの時代でも、その二つの問題に直面していました。あるクリスチャンたちは、律法主義的な態度を持って、自分の義を誇ったり、ユダヤ人の身分を誇ったりしていました。

その反面、自分勝手な人生を送っても良いと主張する人もいました。(9)

でも、パウロは彼らに関してテトスにこう言いました。

分派を作る者は、一、二度訓戒した後、除名しなさい。あなたも知っているとおり、このような人はゆがんでいて、自分で悪いと知りながら罪を犯しているのです。(10-11)

あなたはどうでしょうか。自分の義を誇って、周りの人々を見下しているでしょうか。

あなたは身分や行為によって救われたのではなく、神様の恵みと御業によって救われたことを忘れてはいけません。

自分の罪にふけっているでしょうか。

あなたは罪から自由にされるために救われました。神様はあなたを新しく造られた者としました。神様の望みは、あなたがこの世の偽物を追い求めず、本当の命と喜びを見つけることです。

あなたはどうしますか。

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テトスへの手紙

敬虔な人生に召される

今日の箇所によれば、私たちは神様の民として敬虔な人生を送るように召されます。

多くの人々は自分がクリスチャンだと主張します。しかし、パウロは彼らに関してこう言います。

彼らは、神を知っていると公言しますが、行いでは否定しています。彼らは忌まわしく、不従順で、どんな良いわざにも不適格です。(テトスへの手紙1:16)

もしあなたが自分がクリスチャンだと主張するなら、自分勝手な人生を送ってはいけません。むしろ、神様は私たちが聖なる人生を送るように召されます。

聖なる人生とはどのような人生でしょうか。

パウロは説明します。

年配の男の人には、自分を制し、品位を保ち、慎み深く、信仰と愛と忍耐において健全であるように。

同じように、年配の女の人には、神に仕えている者にふさわしくふるまい、人を中傷せず、大酒のとりこにならず、良いことを教える者であるように。

そうすれば、彼女たちは若い女の人に、夫を愛し、子どもを愛し、慎み深く、貞潔で、家事に励み、善良で、自分の夫に従順であるように諭すことができます。神のことばが悪く言われることのないようにするためです。

同じように、若い人には、あらゆる点で思慮深くあるように勧めなさい。(テトスへの手紙2:2-6)

それらはとても実用的な指示です。

そして、パウロは奴隷たちに話していますが、その指示は現代の雇われ人たちにも当てはまります。

奴隷には、あらゆる点で自分の主人に従って、喜ばれる者となるようにし、口答えせず、盗んだりせず、いつも善良で信頼できることを示すように勧めなさい。

それは、彼らがあらゆる点で、私たちの救い主である神の教えを飾るようになるためです。(テトスへの手紙2:9-10)

その後、パウロは権威者たちに対する私たちの態度について話します。つまり、私たちはその人たちに従うべきです。(テトスへの手紙3:1)

そして、パウロは私たちがどのように互いに扱い合うべきかについて話します。

また、だれも中傷せず、争わず、柔和で、すべての人にあくまで礼儀正しい者となるようにしなさい。(テトスへの手紙3:2)

また、パウロは直接テトスに話します。

また、あなた自身、良いわざの模範となりなさい。人を教えることにおいて偽りがなく、品位を保ち、非難する余地がない健全なことばを用いなさい。

そうすれば、敵対する者も、私たちについて何も悪いことが言えずに、恥じ入ることになるでしょう。(テトスへの手紙2:7-8)

要するに、テトスがその指示を教会の人々に教えるだけではなく、テトス自身が彼らの模範となるべきです。そうすれば、ノン・クリスチャンたちはイエス様とその教えを正当に責めることができません。

しかし、あるクリスチャンたちはこう言うかもしれません。「でも、私たちは恵みによって救われたでしょう。その指示は律法主義的なものに聞こえます。」

もちろん、私たちは恵みだけによって救われました。でも本当の恵みとはどのようなものでしょうか。本当の恵みは、私たちが自分勝手な人生を送ることを教えるでしょうか。違います。

その恵みは、私たちが不敬虔とこの世の欲を捨て、今の世にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています。

キリストは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるため、私たちのためにご自分を献げられたのです。(テトスへの手紙2:12-14)

恵みは、私たちが不敬虔な人生を送る許しではありません。逆に、私たちが恵みを与えられた理由は、私たちが聖なる人生を送るためです。

イエス様は罪から私たちを自由にし、ご自身の血によって私たちを清めて、ご自身の民にしてくださいました。イエス様の民として、私たちはイエス様を喜ばせ、良いことを熱心にする人であるべきです。

パウロはその真理を大切にして、テトスにこう言いました。

あなたは、これらのことを十分な権威をもって語り、勧め、戒めなさい。だれにも軽んじられてはいけません。(テトスへの手紙2:15)

あなたはどうですか。神様の恵みを乱用して、自分勝手な人生を送っているでしょうか。

それとも、イエス様があなたのためにしてくださったことに感謝し、イエス様を喜ばせたいと思うでしょうか。

クリスチャンとして、あなたは敬虔な人生を送るように召されています。あなたはそのように生きているでしょうか。

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テトスへの手紙

真理を擁護する

この手紙は、牧師へのパウロの最後の手紙です。この手紙で、パウロはテトスという牧師にどのようにクレタの教会を扱うべきか教えました。

どうやら、エペソにあるテモテの教会のように、クレタの教会も偽教師とその教えに直面していました。

ある人たちは、ユダヤ人の作り話や系図について教えたり、律法主義の宗教を教えたりしました。その教会は比較的新しかったため、その変な教えはすでに入り始めていました。

さらに、教会のメンバーたちはまだ未成熟なクリスチャンたちだったため、どのように聖なる人生を送るか分かりませんでした。

そのため、この手紙の最初から、パウロは、なぜ神様が彼をお召しになったのか説明します。それは、信者たちが真理を知るためです。

けれども、その真理は敬虔な人生と切り離すことはできません。反面、その真理によって、信者たちは神様が約束した永遠の命を得ます。(テトスへの手紙1:2-3)

しかし、その若い教会はリーダーが不足していたため、パウロはテトスにクレタの町ごとの教会に長老たちを任命するように命じました。彼らは牧師の役割を果たすために任命されました。

そして、テモテへの手紙のように、パウロは長老たちに関して、二つのことを強調しました。

一つ目は、長老たちの性格です。その長老たちは非難されるところのない人であるべきです。

実は、反抗的な者、無益な話をする者、人を惑わす者が多くいます。特に、割礼を受けている人々の中に多くいます。そのような者たちの口は封じなければなりません。

彼らは、恥ずべき利益を得るために、教えてはならないことを教え、いくつかの家庭をことごとく破壊しています。

クレタ人のうちの一人、彼ら自身の預言者が言いました。「クレタ人はいつも噓つき、悪い獣、怠け者の大食漢。」(テトスへの手紙1:10-12)

現代の教会でも、私たちは同じようなことを見ます。ある人たちは神様の御言葉の一部が嫌いで、その教えを曲げてしまいます。そして、偽教師の教えによって、いくつかの家族がキリストから引き離されます。

クレタの偽教師のように、ある人の動機はお金です。

また、ある教師たちは、神様の恵みが足りないと思い、私たちが神様の救いのために働かなくてはならないと思っています。

他の教師たちは、自分勝手に生きたいと思い、神様の教えを曲げます。

だから、パウロはテトスに言いました。

ですから、彼らを厳しく戒めて、その信仰を健全にし(なさい)。。。(13)

簡単に言うと、「真理を擁護しなさい。その嘘を見逃してはいけません。神様が嘘をつかれない方なので、私たちは神様の模範に従わなくてはいけません。」(1:2)

パウロによれば、たくさんの人々は神様を知っていると主張しますが、彼らは自分の行為によって神様を否定します。なぜなら、彼らの知性も良心も汚れているからです。彼らは真理を受け入れたくないのです。

しかし、パウロはテトスにこう命じます。

あなたは健全な教えにふさわしいことを語りなさい。(2:1)

周りの人々は真理を拒絶するかもしれませんが、私たちは真理を擁護しなければなりません。私たちは真理を曲げてはいけません。

あなたはどうでしょうか。真理を擁護するでしょうか。それとも嘘を見逃して、人々が破滅に至ることを許すでしょうか。

さらに、自分の罪にふけるために、真理を曲げるでしょうか。

真理にどのように反応したかによって、私たちは裁かれます。裁きの日に、神様はあなたに何と言われるでしょうか。

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テモテへの手紙第二

私たちは一人で立たなくてはならないのに

多分、パウロは裁判でのイエス様の気持ちがよくわかったことでしょう。

イエス様のように、パウロは処刑の可能性に直面した時、裁判で一人で立ちました。それ以前、パウロにはたくさんの友達がいましたが、その裁判でパウロを支える人はいませんでした。

その時、多分パウロは十字架でイエス様の祈りを覚えていたでしょう。だから、イエス様のように、パウロは自分を裏切った友達のために祈りました。

どうか、その責任を彼らが負わせられることがありませんように。(テモテへの手紙第二4:16)

どうやって、パウロは裁判での敵対的な「獅子」に直面したことができたでしょうか。(多分、それは文字道理の獅子ではなかったでしょう。) パウロはその答えを私たちに与えます。

しかし、主は私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。それは、私を通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ、すべての国の人々がみことばを聞くようになるためでした。

こうして私は獅子の口から救い出されたのです。(17節)

パウロは友人たちに見捨てられながらも、イエス様の臨在を感じていました。おそらく、イエス様が弟子たちに約束されたように、パウロは自分を弁護した際に、聖霊様からの知恵を受けていたのでしょう。(マルコ13:11)

そういうわけで、自分の裁判で処刑に直面したのにパウロは大胆に福音を述べ伝えることができました。

さらに、パウロは強い希望を持っていました。

主は私を、どんな悪しきわざからも救い出し、無事、天にある御国に入れてくださいます。主に栄光が世々限りなくありますように。アーメン。(18節)

パウロは、神様が自分の命を救ってくださると信じていたわけではありませんでした。むしろ、彼は自分が間もなく死ぬことを信じていました。(6節)

でも、パウロが信じていたのは、ローマ人たちは彼の身体を殺しても、彼の魂を殺すことができないということです。だから、パウロの身体が死んだとしても、彼の魂は天国に行って永遠にイエス様と共にいることを信じていました。

そういうわけで、パウロは平安を持っていました。

あなたはどうですか。あなたはパウロの確信と希望を持っているでしょうか。

私はこれまで何度もお伝えしてきましたが、イエス様は私たちに楽な人生を約束されたわけではありません。むしろ、イエス様は苦難を約束されました(ヨハネ16:33)。

それでも、試練の中でイエス様があなたと共におられることを、しっかりと心に留めてください。たとえ周りの人々があなたを見捨てたとしても、イエス様は決してあなたを見捨てられません。

そして、あなたが亡くなる時でさえ、イエス様はあなたを天国に連れて行ってくださいます。

だから、どんな試練に直面しても、勇気を持ってあきらめないでください。むしろ、ヘブル書の著者の言葉を覚えておきましょう

信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。

この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。

あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。(へブル書12:2-3)

パウロが祈ったように、私もあなたのために祈ります。

主があなたの霊とともにいてくださいますように。恵みがあなたがたとともにありますように。(テモテへの手紙第二4:22)

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テモテへの手紙第二

不実な人、忠実な人、引き戻された人、裁かれた人

今日の箇所では、パウロはいろんな人について話します。つまり、不実な人、忠実な人、引き戻された人、裁かれた人について話します。

残念なことですが、デマスは不実な人でした。それ以前、デマスはパウロと一緒に福音のために働きました。(コロサイ4:14;ピレモン1:24)。でも今、パウロは彼に関して、こう言いました。

デマスは今の世を愛し、私を見捨ててテサロニケに行ってしまいました。(テモテへの手紙第二4:10)

何がデマスを神様から引き離したか私たちはわかりません。もしかしたら、彼はお金に執着したかもしれません。もしかすると、彼はノン・クリスチャンの女性と結婚したかもしれません。

もしかしたら、彼はイエス様のために迫害されたことに飽きたかもしれません。彼は福音のためのパウロの苦しみを見て、その苦しみから逃げようと思ったかもしれません。

でも、ほかの人々はイエス様とパウロに忠実でした。パウロはクレスケンスとテトスを主の働きをするために違うところに送ったらしいです。ルカはいつもパウロと一緒にいて、もしかしたら、パウロのお医者だったかもしれません。

そして、パウロはマルコについて話しました。その以前、パウロはバルナバとマルコについて喧嘩しました。

その時、パウロはマルコが頼りない人だと思いました。なぜなら、彼らは宣教旅行に行ったとき、その途中でマルコは帰ったからです。

そして、パウロとバルナバがもう一度宣教旅行に行こうと思ったら、バルナバはマルコにもう一つの機会を与えたいと思いました。でもパウロがマルコを信頼できなかったので、パウロとバルナバは別れて、別の所で奉仕しました。

しかし、この手紙を書いた時、パウロはマルコに関してこう言いました。

マルコを伴って、一緒に来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。(11節)

マルコは自分の失敗から学んで、自分を主の忠実なしもべとして証明しました。パウロはそれを見て、マルコを認めました。

最後に、私たちはアレクサンドロという人を見ます。彼がどのようにパウロを苦しめたか私たちはわかりません。もしかしたら、その人は、第一テモテ1:20にあるアレクサンドロかもしれません。

もしかすると、パウロがアレクサンドロを教会から追い出した後、アレクサンドロはローマ帝国にパウロについて嘘をついたかもしれません。そういうわけでネロ皇帝はパウロと教会を迫害したかもしれません。

とにかく、パウロはアレクサンドロに関して、こう言いました。

銅細工人のアレクサンドロが私をひどく苦しめました。その行いに応じて、主が彼に報いられます。あなたも彼を警戒しなさい。彼は私たちのことばに激しく逆らったからです。(14-15節)

パウロの言葉によって、私たちを迫害し、福音に反対する人たちをどのように扱うべきかという原則を二つ見ます。

一つ目は、その人を神様に委ねることです。苦々しい思いを捨てるべきだし、復讐を求めてはいけません。

二つ目は、その人を警戒するべきです。もちろん、その人を許さなくてはいけませんが、許しとは、相手があなたを何度も傷つけることを許すわけではありません。その人が悔い改めるまで、その人を警戒するべきです。

では、あなたはどのような人でしょうか。

あなたはデマスのようでしょうか。あなたはイエス様を信じて、最初はすべてが良かったけれど、今は他のものがあなたをキリストから引き離しているのでしょうか。

あなたはこの世のものに執着して、不実な者になってきたでしょうか。自分の苦しみによって、イエス様を捨てようと思っているのでしょうか。

その誘惑に負けないでください。この世の快楽や試練は一時的なものです。だから忠実でいましょう。一時的なものではなく、永遠のものを求めましょう。

あなたはマルコのようでしょうか。失敗したことで、神様がもうあなたを用いることができないと思っているのでしょうか。

神様は羊を引き戻す優れた羊飼いであることを覚えていてください。ペテロや他の弟子たちが失敗したとき、イエス様は彼らを引き戻してくださいました。

また、神様はマルコも引き戻してくださいました。そして、神様はあなたも引き戻すことがおできになります。あなたがすべきことは、ただ悔い改めることだけです。

それとも、あなたはアレクサンドロのようでしょうか。神様とその福音に対して頑なな心を持っているでしょうか。神様はあなたに警告しています。

神様は忍耐強いお方ですが、このままでは裁きを免れることはできません。だからこそ、裁きの日が来る前に、心から悔い改めてください。

最後に、私たちクリスチャンはどんな試練と向き合っても、パウロの言葉にしがみつきましょう。

望みを抱いて喜び、苦難に耐え、ひたすら祈りなさい。(ローマ12:12)

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テモテへの手紙第二

走るべき道のりを走り終える

今日の箇所では、パウロはテモテにすごく厳しい訓戒で挑戦します。

なぜでしょうか。パウロは、大変な時期が来ると知っていたからです。その時期に関して、パウロはこう言いました。

というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。(テモテへの手紙第二4:3-4)

その言葉を現代に当てはめることができます。私たちはそのような人々の間で生きています。

そして、聖書の教師として、また、一般のクリスチャンとして、私たちが文化の流れに従うことは簡単なことです。イエス様の教えを曲げるのは簡単なことです。

でも、パウロはテモテだけではなく、私たちにもこう言います。

神の御前で、また、生きている人と死んだ人をさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思いながら、私は厳かに命じます。

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。

忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。(1-2節)

その訓戒はとても厳しいものです。

パウロは私たちに思い出させます。「あなたはいつか神の御前で、また、キリストの御前で裁かれます。あなたは、イエス様がいつか帰って来られることを思い出さなくてはなりません。その日にイエス様が御国を建てられることを覚えていなくてはなりません。」

その真理を覚えていながら、パウロの訓戒に従うべきです。

私たちはどうするべきでしょうか。

1.み言葉を宣べ伝えなくてはいけません。

人々が聞きたいところだけではなく、不愉快なところも宣べ伝えなくてはなりません。

また、パウロは、こう言いました。「時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」

言い換えると、便利な時でも、不便な時でも、み言葉を伝えなくてはいけません。

時々、み言葉を伝えるのはあまり便利ではありません。私たちは自分の予定が入っているし、早く自分の計画を果たしたいと思います。

けれども、時には神様が誰かを私たちの元へ導かれることがあります。そして、その人にみ言葉を伝えるという使命を果たす必要があります。

時々、私たちがみ言葉がその人を怒らせると知っているので、み言葉を伝えるのは不便です。

でも、パウロによれば、私たちは神様とキリストの御前に立ちます。そして、ある日、イエス様は帰って来られて、自分の国を建てられます。そして、その日、イエス様は私たちとその人を裁かれます。

だから便利にしろ、不便にしろ、私たちはみ言葉を伝えなくてはいけません。

2.人々を矯正しなくてはいけません。

相手が真理がちゃんと分からないとき、また、何が良いか何が悪いか分からないとき、私たちはその人の考え方を矯正するべきです。

3.人々を戒めなくてはいけません。

相手が罪に落ちた時、また、罪に落ちそうなとき、私たちは彼らを戒めなくてはいけません。もしかしたら、彼らは悔い改めるかもしれませんから。

4.人々を励まさなくていけません。

試練の時に、誰かが諦めようと思う時、私たちはその人がイエス様から目を離さず、諦めないように励ますべきです。

この世の人々が真理を拒絶するときが多いので、私たちがみ言葉を伝えると、迫害されるかもしれません。でもパウロは私たちにこう言います。

けれども、あなたはどんな場合にも慎んで、苦難に耐え、伝道者の働きをなし、自分の務めを十分に果たしなさい。(5節)

偽教師がたくさんいるし、私たちは試練に直面するかもしれないけど、パニックになってはいけません。むしろ、苦難に耐え、大胆にイエス・キリストに関する良い知らせを伝え、神様から務めを果たさなくてはいけません。

その務めは、あなたに神様が与えてくださった人々に触れることです。

最後に、パウロは私たちに言います。「今、あなたの番です。」 パウロは自分についてこう言いました。

私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。

その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。(7-8a)

でもパウロは続けます。

私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。(8b)

あなた他はどうですか。あなたは主の現れを慕い求めているでしょうか。あなたは「御国が来ますように」と祈っているでしょうか。

あなたがどのように自分の走るべき道のりを走り終えるか、あなたの答えによります。

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テモテへの手紙第二

この世はますます悪に落ちていくのに

もしこの世が良くなると考える人がいれば、その人は私が読んでいる聖書を読んでいないでしょう。聖書によれば、イエス様が帰って来られるまで、この世はますます悪くなります。

特に、この世の人々の不敬虔さはだんだん悪化します。自分がクリスチャンと自称する人の性格も悪化します。

だから、私は今パウロの言葉を読むと、その言葉の重さを10年前に感じたよりも、感じることができます。パウロはこう言いました。

キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。悪い者たちや詐欺師たちは、だましたり、だまされたりして、ますます悪に落ちて行きます。(テモテへの手紙第二3:12-13)

パウロは、「もしかしたら、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者は迫害を受けるかもしれない」と言いませんでした。むしろ、「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者は迫害を受けます」と言いました。その言葉は確実です。

どうしてでしょうか。なぜなら、悪者や偽クリスチャンたちはますます悪に落ちていきますから。偽教師たちがみ言葉に反することを教えます。そして、その聞き手はその偽教師たちを信じて騙されてしまいます。

その結果は、人々の道徳観念が曲がってしまって、この世がますます罪に落ちていくことです。それだけではなく、もし神様の光を暗闇に照らす人がいれば、その人は嫌われます。

だからイエス様はこう言われました。

そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。

悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。(ヨハネ3:19-20)

この世では、その真理を見ることができます。人々はいろんな新しい道徳の教えを受け入れますが、神様のみ言葉を拒絶します。

パウロ自身、この世の憎しみを経験しました。だからパウロは光のための自分の苦しみに関してテモテに思い出させます。パウロはテモテに警告します。

「私の経験は意外なことではありません。この世の人々が暗闇に落ちれば落ちるほど、私たちは迫害と苦しみを経験します。

では、私たちはどのように反応するべきでしょうか。パウロは私たちに教えます。

けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分がだれから学んだかを知っており、また、自分が幼いころから聖書に親しんできたことも知っているからです。

聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。(テモテへの手紙第二3:14-15節)

簡単に言うと、真理にしがみつかなくてはいけません。周りの人々は真理に背を向けるかもしれないし、あなたを迫害して、その真理を絶滅しようとするかもしれませんが、真理を持っていて、宣言し続けるべきです。

どうして、私たちはみ言葉を持ち続けなくてはならないのでしょうか。

聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。(16-17節)

神様のみ言葉は私たちのいのちです。そして、私たちがこの世の暗闇と向き合うと、そのみ言葉はすべての良い働きのために私たちを整えます。

み言葉は神の剣で、人々の心を貫いて、その心の中の暗闇を追い出すことができます。

さらに、神様のみ言葉は義について教え、私たちが罪に落ちると、そのみ言葉は私たちを訓戒します。それだけでなく、そのみ言葉は私たちを引き上げ、私たちがどのように生きるべきか訓練します。

最後に、そのみ言葉によって、私たちは試練を耐えることができます。私たちは暗い世界に生きていますが、神様は聖霊様を通していのちの言葉を私たちの心に静かに語りかけてくださいます。

イエス様は「私に従うと、あなたは楽な人生を送る」と約束されません。むしろ、イエス様はこう言われました。

世にあっては苦難があります。 (ヨハネ16:33a)

もしあなたは真理を宣言し、この暗い世界に光を照らすと、苦難を経験します。でもその光を手放さないでください。暗闇によって、その光が消えるように許してはいけません。

むしろ、イエス様の心強い言葉を覚えていましょう。

しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。(ヨハネ16:33b)

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テモテへの手紙第二

うわべだけの敬虔さ

この世では、たくさんの宗教的な人たちがいます。彼らは教会やお寺や神社などに行って、儀式を行い、祈り、聖句を読み、献金さえもささげます。彼らは非常に敬虔な人のように見えます。ところが、神様は実際には彼らを受け入れておられません。

なぜでしょうか。なぜなら、彼らの敬虔さはうわべだけのものだからです。彼らは、敬虔な見かけを持っていますが、その敬虔さは自分の努力によるものです。

また、ある人は自分の心の中の偽善を隠しています。けれども、その皆が、自分の生活で神様の力を否定しています。

ある人々は神様自身を否定します。彼らはイエス様にある真理を拒絶します。むしろ、彼らは仏やムハンマドや他の宗教的なリーダーたちの教えに従います。

もちろん、そのリーダーたちの教えの中で真理の部分もありますが、彼らが否定するのは、イエス様が天の父へのただ一つの道であることです。

その皆がイエス様とその十字架の働きを拒絶するので、神様の目には、彼らの義はみな、不潔な着物のようです。(イザヤ64:6)

さらに、彼らは、自分たちを本当の義人に変えることができるイエス様の復活の力を拒絶します。

他の人たちは自分がクリスチャンと自称し、イエス様に従うと主張します。けれども、彼らはただクリスチャンのふりをしています。

彼らは実際に、自分だけを愛し、金銭を愛し、大言壮語し、高ぶり、神を冒瀆し、両親に従わず、恩知らずで、汚れた者です。

また、彼らは情け知らずで、人と和解せず、中傷し、自制できず、粗野で、善を好まない者です。

さらに、彼らは人を裏切り、向こう見ずで、思い上がり、神よりも快楽を愛します。(テモテへの手紙第二3:2-4)

それでも、彼らは敬虔な見かけを持っています。彼らは教会に行ったり、微笑んだり、祈ったり、歌ったり、献金をささげたりしますが、彼らは空っぽで、神様の力を全然知らない者です。

その人々の間に、教師たちもいます。

パウロはその人たちをヤンネとヤンブレというエジプトの呪法師たちと比べます。ヤンネとヤンブレはエジプトの神々の力を振るうと自慢しましたが、彼らが生きておられる神と向き合うと、彼らの主張は空しいものと証明されました。

他の人たちは「弟子」と称しますが、彼らはいつも学んでいるのに、いつまでも真理を知ることができません。なぜなら、彼らは実際に心の中で真理を拒絶しているからです。彼らは自分が聞きたいことを受け入れますが、それ以外を捨ててしまいます。

イエス様を拒絶すると、あなたは自分の敬虔さを自慢することはできません。もし、自分の敬虔さがただ心の中の罪を隠すだけなら、それは本当の敬虔ではありません。

パウロは困難な時代が来ると警告しました。パウロによれば、その時代にはうわべだけの敬虔を持っている人たちがたくさんいます。実は、その時代はもう来ています。

そして、イエス様が帰って来られると、麦と毒麦を分別されます。つまり、本当の敬虔さを持っている人たちとうわべだけの敬虔さを持つ人たちを分別されます。

本当の敬虔さを持っている人たちは、神様の力でだんだんイエス様の形のように変えられていきます。

イエス様が帰って来られてあなたを見ると、イエス様はあなたについて何と言われるでしょうか。

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テモテへの手紙第二

良い教師になるのに

この箇所を読むと、私がどんな教師であるべきか挑戦されていると感じます。

神様のみ言葉の良い教師になるのに、私たちは何をすべきでしょうか。

1.私たちが知っていることを教えるべきです。

特に、次の世代の教師たちにその知恵と知識を伝えるべきです。そうすれば、私たちが亡くなっても、その知識と知恵はなくなりません。(テモテへの手紙第二2:2)

2.私たちの人生と教えに関して、私たちは忠実な人であるべきです。

迫害されても、苦しんでも、神様の教えを曲げてはいけないし、罪に負けてはいけません。

むしろ、兵を募った人、つまり、イエス様を覚えていなくてはいけません。イエス様こそ、私たちが喜ばせるべきお方です。

もし周りの人々を喜ばせようとすると、イエス様を喜ばせることができません。むしろ、私たちはイエス様の教えを曲げてしまい、罪に落ちてしまいます。(3-4節)

3.聖書を教える仕事を怠ってはいけません。

聖書を解釈するルールをちゃんと知らなくてはいけません。でもそれだけではなく、その真理を分かりやすい方法で提示しなくてはいけません。

そうすれば、私たちはその収穫を刈ります。つまり、私たちが教える人々の人生は変わるということです。

4.私たちは神様のみ言葉をしっかりと噛み締める必要があります。

多くの人々は、ある聖句をすでに理解したと思い込んで、その言葉をただざっと読むだけで終わらせてしまいます。その結果、その意味を深く味わうことができません。

しかし、私たちはそうしてはいけません。むしろ、み言葉について深く思いを巡らせるべきです。

そうすることで、神様が私たちの予想を超えた真理を示してくださるかもしれません。(7節)

5.説教の中で、私たちはイエス様のことを宣べ伝えるべきです。

イエス様は、私たちの説教の中心であるべきです。なぜなら、イエス様とその福音こそが人々の人生を変えることができるから。(8-9節)

6.私たちが教えている人たちの救いを求めなくてはいけません。

議論に勝つことは私たちの目的ではありません。むしろ、私たちの目的は人々の救いです。

だから人々と話すとき、彼らに愛を示しましょう。彼らの考え方が間違っているなら、私たちは優しくし、よく教え、よく忍耐し、彼らを柔和に教え導くべきです。

また、神様が彼らに悔い改めの心を与えてくださるように祈るべきです。彼らは私たちの敵ではありません。私たちの敵サタンが彼らを捕えたので、神様は彼らを自由にしたいと思われます。(10,24-26節)

7.私たちは愚かで無知な議論を避けるべきです。

ある議論はたくさんの熱を生み出すが、光を全然生み出しません。そんな議論を避けるべきです。(14,23節)

8.私たちは教会に感染した偽教えを避けるべきです。

その教えによって、人々は神様のみ言葉に反対し、否定してしまいます。そんな教えはすぐに広まって、聞き手に感染して、滅ぼしてしまいます。それが起こるなら、神様は私たちの責任を問われます。(16-17節)

9.最後に、私たちは、神様が用いることができる聖い器であるべきです。

私たちは罪を避け、義と信仰と愛と平和を追い求めるべきです。(20-22節)

あなたはどうですか。あなたはどのような教師でしょうか。

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テモテへの手紙第二

耐えられるための恵み

パウロがテモテが訪問してくれるように望んだ理由の一つは、多くのクリスチャンたちがパウロから離れて行ったということです。数名の人たちはまだ残っていましたが、パウロはほとんど孤独でした。

わざわざパウロを探して励ますオネシポロのような人たちは少なかったですが、パウロを見捨てたフィゲロとヘルモゲネのような人たちはたくさんいました。(テモテへの手紙第二1:15-18)

なぜその二人はパウロを見捨てたのでしょうか。

パウロは迫害され、牢に入っていたので、もしかしたら、彼らは同じ運命を恐れたかもしれません。もしかしたら、最初は彼らは頑張ったかもしれませんが、結局彼らはもう迫害に耐えられないと思って、立ち去ったかもしれません。

多くの人たちはフィゲロとヘルモゲネのようです。彼らはクリスチャンになり、最初は彼らの人生がうまくいっているので、喜びに満ちていました。けれども、試練が来るとき、彼らは最初は頑張ったけれど、最終的に自分の信仰を捨ててしまいます。

どうしてでしょうか。

私たちはクリスチャンとして、恵みによって生きるように呼ばれました。けれども、試練の時、多くのクリスチャンは恵みを忘れて、自分の力によってクリスチャン生活を送ろうとします。結果として、彼らの力がなくなると、もう耐えられなくなります。

2章3ー6節のような言葉を読むとき、このように考えるのは簡単です。

「私は頑張らなくてはならない。私は良い兵士にならなくてはならない。私はちゃんと訓練し、ルールをすべて守らなくてはならない。神様から委ねられた働きに心血を注がなくてはならない。」

けれども、自分がしなくてはならないことに焦点を当てると、あなたの力がどこから来るか忘れてしまうでしょう。

言い換えると、私たちは2章の初めのパウロの言葉を忘れてしまいます。つまり、

私の子よ、キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。(テモテへの手紙第二2:1)

それは一体どういう意味でしょうか。

「恵みによって強くなりなさい」という言葉よりも、「良い兵隊や農家や選手になりなさい」という言葉は分かりやすいでしょう。そういうわけで、多くの人々はその最初の言葉を飛ばして忘れてしまいます。

しかし、その言葉は肝心な真理です。

あなたは恵みによって救われました。自分の努力に救われたわけではありません。だから、毎日あなたは恵みによって生きなくてはいけません。

私たちの救いのために神様に頼らなくてはならないように、日常生活を送るのに神様に頼らなくてはなりません。特に、苦難や迫害と向き合うとき、神様に頼らなくてはいけません。

もちろん、私たちは神様を喜ばせようとすべきです。もちろん、私たちはこの世のものに執着してはいけません。

また、もし神様から報いを得ようと思うなら、私たちは神様が命じられることに従わなくてはなりません。そして、私たちが忠実にイエス様に仕えるとき、私たちの努力は無駄なものではありません。

けれども、私たちが「自分の力で頑張らなくてはならない」と思うなら、私たちは失敗するという結果になります。

私はもう一度言います。私たちは恵みによって救われました。でもそれだけではなく、私たちは毎日恵みによって生きなくてはなりません。

神様が聖霊様を送ってくださり、聖霊様は私たちのうちに住んでおられます。聖霊様が私たちに力を与えるので、私たちは神様の御心に従うことができます。(1:7)

そういうわけで、パウロはテモテにこう言いました。

イエス・キリストのことを心に留めていなさい。私が伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえった方です。

この福音のために私は苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばはつながれていません。(テモテへの手紙第二2:8-9)

言い換えると、「あなたの苦しみの中で、もう耐えることができないと思う時、イエス様を心に留めていなさい。イエス様はあなたをこの道の最初から最後まで導いてくださいます。

イエス様を通して、神様は私たちを贖い、私たちの罪を赦してくださいました。イエス様は復活して、私たちに命を与えてくださいます。そして、イエス様はこの試練の中で、私たちを導いて、最終的に天国に連れて行ってくださいます。

それを覚えていなさい。自分の力で、試練を通過しようとしてはいけません。」

そして、パウロはテモテに思い出させました。「私は鎖で繋がれています。私は弱い者です。それでも、神のことばは繋がれていません(9)。

神様はご自身の業を成し遂げられます。その希望を持っているので、私は自分の処刑と向き合っても、神様の働きをし続けています。なぜなら、私は、人々が私を通してイエス様を信じ、私たちが見つけた恵みを知るようになる確信を持っているからです。」

最後に、パウロは励ましの讃美歌を歌います。その歌によって、私たちは耐えるように励まされます。なぜなら、その歌によって、私たちはイエス様の忠実さを思い出すからです。

パウロはこう歌いました。

耐え忍んでいるなら、キリストとともに王となる。キリストを否むなら、キリストもまた、私たちを否まれる。

私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。(12-13節)

パウロがその賛美歌を恵みの言葉で終えることはふさわしいことです。なぜなら、私たちの試練を耐える力は最初から最後まで恵みから来るからです。

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テモテへの手紙第二

私たちは希望を持っているから。。。

新約聖書では、第二テモテの後、パウロの手紙はあと二通あります。でも年代順位的に、これがパウロの最後の手紙です。

これはちょっと悲しく、感動させられる手紙です。なぜなら、この手紙を書いたとき、パウロは自分がもうすぐ殺されると知っていたからです。

ピリピ人への手紙を書いたときには、パウロは牢に入っていましたが、釈放される確信を持っていました。(ピリピ1:23-26)

しかし、この手紙を書いたとき、パウロはそのような希望を持っていませんでした。皇帝ネロが教会を迫害し始め、パウロは自分がすぐに処刑されると思いました。そして、結局そうなりました。

そういうわけで、パウロは愛している弟子テモテに最後の手紙を書きました。その理由の一つは、パウロが死ぬ前に、テモテが訪問してくれるように願ったことです。

けれども、それだけではなく、パウロはテモテが迫害と試練によって絶望しないように促したいと思いました。むしろ、パウロは、テモテが忠実に神様を愛し、神様に従い続けるよう望みました。

この手紙の最初から、私たちはパウロの心情を見て取ることができます。パウロは福音のための死刑囚でした。けれども、彼の最初の言葉はこうです。

神のみこころにより、またキリスト・イエスにあるいのちの約束にしたがって、キリスト・イエスの使徒となったパウロから。。。(テモテへの手紙第二1:1)

「いのちの約束。」

パウロは自分の死亡に直面していましたが、「命の約束」という希望を持っていました。どうしてその希望を持っていたのでしょうか。

9-10節によれば、神様はイエス様を通してご自分の計画と私たちに対する恵みを現されました。そして、「キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不滅を明らかに示されたのです。」

多くの人々は死後に何が起こるか分からないので死亡を恐れます。けれども、パウロは知っていました。パウロは天国を見たことがありました。(第二コリント12:1-4)

彼は、私たちが死んだ後にまだ生き続けることを知っていました。パウロは、イエス様が復活されたように私たちも復活して永遠に生き続けることを知っていました。その日、クリスチャンたちはこの歌を歌います。

死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。(第一コリント15:55)

パウロはその希望を持っていたので、神様から委ねられた福音を宣べ伝えました。また、その希望を持っていたので、苦しんでいても、パウロは確信を持ってこう言うことができました。

しかし、それを恥とは思っていません。なぜなら、私は自分が信じてきた方をよく知っており、また、その方は私がお任せしたものを、かの日まで守ることがおできになると確信しているからです。(12節)

パウロが知っていたのは、自分の苦労は空しいものではないことです。むしろ、パウロはそのすべてを神様の手に委ねて、報いを得る希望を持っていました。

その確信を持っており、またテモテも同じ信仰と同じ御霊を持っていることを確信していたため、パウロはテモテにこう語りました。

そういうわけで、私はあなたに思い起こしてほしいのです。私の按手によってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。

神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。(6-7節)

もしかしたら、エペソの教会の問題のため、また、パウロがすぐに殺されるニュースのため、テモテは圧倒されたかもしれません。もしかすると、テモテはあきらめるように誘惑されたかもしれません。

けれども、パウロはテモテを励ましました。

「テモテ、神様は御霊をおまえにも与えてくださいました。そして、御霊は、臆病の霊ではありません。むしろ御霊は、あなたの人生と奉仕において、あなたを神様の力と愛で満たし、イエス様に忠実に仕える力を与えてくださいます。」

そういうわけで、パウロはテモテに訓戒しました。

ですからあなたは、私たちの主を証しすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。(8節)

また、

あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛のうちに、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい。自分に委ねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって守りなさい。(13-14節)

簡単に言うと、「あきらめてはいけません。あなたは一人で、自分の力によって神様に仕える必要がありません。私はこの世を立ち去るかもしれないけど、聖霊様はあなたのうちに住んでおられ、あなたを助けてくださいます。」

あなたはどうですか。この世の状況を見て、絶望しているのでしょうか。周りの不敬虔な人たちを見て、悲しんでいるのでしょうか。自分の信仰のためにあなたはいろんなトラブルに直面しているのでしょうか。

絶望しないでください。神様にはご自身の計画があり、その計画は決して阻まれることがありません。サタンはその計画を阻止しようと思って、十字架で勝ったと思いました。しかし、十字架は実際にサタンの敗北でした。

だから、今私たちは永遠のいのちという希望を持っています。神様はそのいのちを約束してくださいましたので、それは確実なものです。

だから私たちが教えられたことを握り、信仰によって歩みましょう。また、キリストの愛に満たされて、その愛を周りの人々に与えましょう。

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テモテへの手紙第ー

何を求め、何を待ち望んでいるのか

この世の人々は、さまざまなものを追い求めています。

名声、力、安心――その中でも、最も熱心に追い求められているのは、お金でしょう。名声はしばしば金銭的な利益につながり、お金は快楽や力、さらには安全さえも手に入れる手段と見なされているからです。

さらに、福音を通して裕福になろうとする牧師や伝道者たちさえいます。実際、パウロの時代にもそのような人物が存在していました。

けれども、パウロはそのようなものを追い求めてはならないと教えています。

むしろ、彼はこう語ったのです。

しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道です。(テモテへの手紙第一6:6)

さまざまな意味で、「満ち足りた心」と「敬虔」は深く結びついています。

敬虔な人々は、この世のものによって満たされているのではありません。むしろ、神様との平和を持っているからこそ、彼らの心は満ち足りているのです。だから彼らは、何よりもまず神様ご自身を求め続けます。彼らにとって本当に必要なのは、神様だけなのです。

その一方、不敬虔な人々にとって、満足することは極めて難しいのです。彼らは常に、より多くの物を欲しがります。そして、持てば持つほど、その心はますます空しさを感じるようになります。

ある人は、一時的に神様から離れても満足できると思うかもしれませんが、最終的にはすべてを失ってしまうのです。

パウロはこのことをよく知っていて、次のように語りました。

私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。(7)

やがて来る裁きの日、人々が神様の御前に立つとき、その地位や財産は何の意味も持たなくなります。神様はそのとき、こう尋ねられることはありません。

「あなたはどれほどの財産を持っていたか。私に何を捧げることができるか。」

むしろ、神様が尋ねられるのは、ただ一つの問いです。

「あなたは、私のひとり子との関係を持っていたか。」

だから、パウロはテモテに命じました。「お金を追い求めてはなりません。お金を愛することがあらゆる悪の根であり、ついには永遠の滅びに至ります」(9〜10節)。

今の世においても、お金への愛によって、多くの人々が自らの人生を壊しています。

たとえば、ギャンブルによって家庭や生活を崩壊させたり、金銭を追い求めるあまり過労し、家族関係や心身を壊してしまったりします。お金への愛が原因で、多くの人が多くの苦しみによって自らを刺し貫いてきたのです。

だから、パウロはこう語ったのです。

衣食があれば、それで満足すべきです。(8)

では、私たちは何を追い求めるべきなのでしょうか。

私たちは、義、敬虔、信仰、愛、忍耐、そして柔和を追い求めるべきです(11節)。それこそが、神の人にふさわしい歩みなのです。

もし私たちがこれらのものを心から追い求めるなら、どれほど人生が祝福されることでしょう。私たちの結婚生活や人間関係はどれほど豊かになるでしょう。私たちの神様との関係は、どれほど親密になるでしょうか。

そのような生き方には、はかり知れない益があります。

このあと、パウロは金持ちに対して、非常に実用的な助言を与えました。というのも、裕福な人にとって、自分の財産に頼るのは容易なことだからです(実際には、金持ちでなくても多くの人がそうしてしまいます)。

しかし、パウロはテモテにこのように命じました。

今の世で富んでいる人たちに命じなさい。

高慢にならず、頼りにならない富にではなく、むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置き、善を行い、立派な行いに富み、惜しみなく施し、喜んで分け与え、来たるべき世において立派な土台となるものを自分自身のために蓄え、まことのいのちを得るように命じなさい。(17-19)

お金は、それ自体が悪いものではありません。正しく用いるなら、実に多くの善を行うことができます。私たちは、たくさんの人々に触れることができます。

お金をそのように用いるなら、私たちは決して朽ちることのない資産を天に蓄えることになるのです。そしてその中で、私たちの人生の真の意味を見いだすことができるでしょう。

では、あなたはどうでしょうか。あなたは今、何を追い求めていますか。あなたの希望は、どこに置かれているでしょうか。

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テモテへの手紙第ー

キリストのことばから離れているなら

現代において、多くの人々はキリストのことばに耳を傾けようとせず、それに従いたくもないと考えています。

また別の人々は、自分の都合に合わせてイエス様のことばの一部だけを受け入れ、残りは切り捨ててしまいます。

しかし、イエス様の弟子として生きる私たちは、そのような態度を取ることはできません。イエス様ご自身が、それをはっきりと教えておられました(マタイ7:21〜27)。

この真理を、パウロはテモテに力強く伝えました。そして彼はこう語ったのです。

違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと、敬虔にかなう教えに同意しない者がいるなら、その人は高慢になっていて、何一つ理解しておらず、議論やことばの争いをする病気にかかっているのです。

そこから、ねたみ、争い、ののしり、邪推、絶え間ない言い争いが生じます。

これらは、知性が腐って真理を失い、敬虔を利得の手段と考える者たちの間に生じるのです。(テモテへの手紙第一6:3-5)

おそらくパウロがこのことばを語ったとき、イエス様のたとえ話「岩の上に建てられた家と砂の上に建てられた家」を思い起こしていた可能性は高いでしょう。

なぜなら、イエス様とパウロの語る結論は非常に似ているからです。すなわち、イエス様に従わない者は、実は何も理解していないということです。彼らは自分が賢いと思い込み、自分の知恵を誇りますが、実際には愚か者なのです。

その愚かさは、彼らが生み出す「実」によって明らかになります。彼らの語ることばは、ねたみ、争い、ののしり、邪推、そして絶え間ない言い争いを引き起こします。彼らは「敬虔」ということばの意味をねじまげ、それを利得の手段として用いてしまうのです。

残念ながら、現代のアメリカのテレビで放送されている一部の伝道師の番組にも、こうした様子が見受けられることがあります。

だからこそ、パウロはテモテに強く戒めを与えたのです。

テモテよ、委ねられたものを守りなさい。

そして、俗悪な無駄話や、間違って「知識」と呼ばれている反対論を避けなさい。ある者たちはこの「知識」を持っていると主張して、信仰から外れてしまっています。(20-21)

簡単に言えば、「私はイエス様のことばをあなたにゆだねました。そのことばを守りなさい。そのことばを手放して、他の人々が『知恵』と呼んでいるものを受け入れてはなりません。むしろ、命をもたらすことばを教え、勧めなさい」(2〜3節)。

もし、誰かがイエス様のことばを攻撃してくるなら、そのことばを擁護しなさい。なぜなら、イエス様が再び来られるとき、あなたに託されたみことばについて、あなたは責任を問われるからです(13〜14節)。

あなたはどうでしょうか。たとえ牧師でなくても、神様はそのみことばをあなたに託しておられます。

あなたは、そのことばを堅く守っているでしょうか。それとも、この時代の文化があなたの確信を揺るがしているでしょうか。

この世の知恵を退けましょう。この世の傲慢さに惑わされて、キリストのことばから引き離されないように。

むしろ、自分の心の奥深くにキリストのことばを大切にとどめましょう。そして、イエス様のことばが非難されるときには、恐れずに堅く立ち、そのことばを語り続けましょう。

この世が語る教えは、やがて死に至ります。しかし、イエス様のことばは命へと導きます。

では、あなたは今、誰のことばを語り、誰の声に従っているでしょうか。

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テモテへの手紙第ー

神様とその福音があがめられるために

前回の記事では、牧師たちが高い基準に照らして評価されるべきだということを述べました。それは、神様の御名と教会の評判が汚されないためです。

しかし実のところ、イエス様の代表として歩むよう召されているのは、すべてのクリスチャンです。だからこそ、私たちは日々の歩みの中で、自分がどのように生きているかに注意を払うべきなのです。

このことを踏まえて、パウロはやもめたちに対して、自分の振る舞いを慎み深く整えるように命じました。

そしてその勧めは、やもめたちだけでなく、すべての主婦にも当てはめることができます。それは、「反対者にそしる機会をいっさい与えない」ためです(テモテへの手紙第一5:14)。

同じように、パウロは奴隷たちにも戒めを与えました。

奴隷としてくびきの下にある人はみな、自分の主人をあらゆる面で尊敬に値する人と思わなければなりません。神の御名と教えが悪く言われないようにするためです。

信者である主人を持つ人は、主人が兄弟だからといって軽んじることなく、むしろ、ますますよく仕えなさい。その良い行いから益を受けるのは信者であり、愛されている人なのですから。

あなたはこれらのことを教え、また勧めなさい。(テモテへの手紙第一6:1-2)

もちろん、日本に奴隷制度は存在しません。けれども、パウロの言葉は今日の私たちの職場の状況にも応用できます。つまり、私たちは家庭でも職場でも、どこにいても、イエス様の代表者としてふさわしく振る舞うべきなのです。

私たちは上司を尊敬し、イエス様に仕えるように、誠実に上司に仕えなければなりません。同僚たちが私たちを見るとき、文句を言わず、真面目に働いている姿を見るべきです。

このような状況を少し想像してみてください。職場で、ある人がこう言ったとします。「あの人は怠け者で、真剣に働こうとしません。正直言って、彼がこの会社にいない方がありがたいです。」

もし、私たちに対して同僚たちがそのように思っているなら、果たして彼らはイエス様に心を惹かれるでしょうか。おそらく、そうはならないでしょう。

その一方で、私たちが誠実で勤勉に働き、良い態度をもって職務を果たしている姿を見たとき、同僚たちは私たちを自然と尊敬するようになります。

そして私たちがクリスチャンであると知ったとき、イエス様とその福音があがめられるのです。この暗い世にあって、私たちは星のように輝くのです(ピリピ2:15)。

では、あなたはどうでしょうか。あなたの職場における振る舞いを通して、神様に栄光をおささげしているでしょうか。それとも、イエス様とその福音に恥をかかせてはいないでしょうか。

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テモテへの手紙第ー

牧師の評価基準とは

牧師や教会の長老たちに対する評価の基準は、非常に高く定められています。なぜなら、彼らは教会の人々の前にあってキリストを代表し、さらにこの世においてもキリストを代表しているからです。

あなたは、牧師がその基準に達しない姿を目の当たりにしたことがあるかもしれません。そのとき、教会はスキャンダルによって揺さぶられ、信徒たちは傷つき、教会の評判は世間で著しく損なわれてしまいます。

だからこそ、二人または三人の証人がいる場合には、パウロはテモテに対して、牧師や長老たちに対する訴えを無視してはならないと教えました。むしろ、その人物を教会全体の前で責めなければならないと語ったのです。

なぜ、そのようにすべきなのでしょうか。

第一の理由は、長老たちと一般の信徒たちとの間で、二重基準を設けてはならないということです。

第二の理由は、地位にかかわらず、教会が罪を真剣に受け止め、どんな罪も必ず正しく取り扱う共同体であることを、すべての人に明らかにするという目的があります。

第三の理由は、同じ罪へと誘惑されている人々への警告と戒めとなるためです。

もちろん、私たちはこのような問題に正しく向き合わなければなりません。しかし、それ以上に重要なのは、そうした問題が起こる前に防ぐことです。

だから、リーダーを選ぶときには、その人物が高潔であるかどうかを慎重に見極めなければなりません。そうすれば、イエス様の御名も、教会の評判も、傷つけられることはないでしょう。

そのような背景を踏まえて、パウロはテモテにこう命じたのです。

だれにも性急に按手をしてはいけません。また、ほかの人の罪に加担してはいけません。自分を清く保ちなさい。(テモテへの手紙第一5:22)

パウロやテモテが牧師や長老を選ぶときには、その人に按手をし、ともに祈り、奉仕のために神様に捧げていました。

つまり、パウロが語っているのは、私たちは牧師や長老を性急に任命すべきではないということです。なぜなら、十分に慎重な選考を怠れば、その人が罪を犯したときに、選んだ側も責任を問われることになるからです。

だからこそ、リーダーを選ぶ前には、その人物の歩みをよく見極めるべきなのです。これについて、パウロは次のように語りました。

ある人たちの罪は、さばきを受ける前から明らかですが、ほかの人たちの罪は後で明らかになります。

同じように、良い行いも明らかですが、そうでない場合でも、隠れたままでいることはありません。(24-25)

要するに、ある人の罪は初めから明らかで、その人がリーダーとしてふさわしくないことがすぐに分かることがあります。けれども、別の人の罪はすぐには表に出ず、時間をかけて接するうちに明らかになっていきます。

その一方で、一目見た印象では、ある人がリーダーにふさわしくないと思えるかもしれません。けれども、その人と時間を過ごすことで、実際にはふさわしい人物であることが分かる場合もあるのです。

だから、牧師や長老を任命する前に、その候補者の生き方をよく観察する必要があります。そうしなければ、後々大きな問題が起こるかもしれません。

確かに、パウロはここで牧師や長老たちのことを語っていますが、この原則はあらゆる教会リーダーに適用できると思います。

スモールグループのリーダーや日曜学校の教師を選ぶときも、その人物の人生をよく見極めるべきです。なぜなら、教会を代表するリーダーや教師は、高い基準に照らして評価されるべきだからです。

ですから、私たちは人を任命するとき、慎重でなければなりません。

そして、もしあなたが教会のリーダーや教師なら、自分の生活の中でイエス様を正しく代表しているかを省みるべきです。

あなたは、そうできているでしょうか。

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テモテへの手紙第ー

私たちの牧師たちを支え、敬う

牧師たちは決して完全な存在ではありません。しかし、彼らは毎週、教会の皆さんの前に立って神様のことばを教える責任を担っているため、しばしば人々の批判にさらされることがあります。

そして、私たちはそのような状況の中で、神様の命令を軽んじてしまい、牧師たちを敬い、支えることを怠るのです。

けれども、神様は明確に命じておられます。私たちは、牧師たちを敬い、支えるべきなのです。

そのことについて、パウロはこう記しています。

よく指導している長老は、二倍の尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのために労苦している長老は特にそうです。

聖書に「脱穀をしている牛に口籠をはめてはならない」、また「働く者が報酬を受けるのは当然である」と言われているからです。(テモテへの手紙第一5:17-18)

この箇所でパウロは、私たちが牧師たちや教会の長老たちをどのように受けとめるべきかを教えています。

私たちは彼らをただ尊敬するだけではなく、彼らが二倍の尊敬に値する存在だと認めるべきなのです。つまり、私たちは牧師たちを敬い、そして支えなければなりません。

では、私たちはどのようにして牧師たちを支えることができるのでしょうか。第一に、私たちの祈りをもって彼らを支えるべきです。けれども、それだけでは不十分です。私たちは彼らを励まし、さらに経済的にも支えるべきです。

多くの人は「什一献金は新約聖書の命令ではない」と考えています。実を言えば、私もそのように理解しています。けれども、そこで思考を止めてしまう人が多くいます。「だから私は、教会を経済的に支える責任がない」と結論づけてしまうのです。

しかし、パウロはその考え方を否定します。彼は明確に語っています。教会のメンバーには、自分の牧師を経済的に支える責任があるのです。

少し考えてみてください。もし牧師が自分の家族を支えるためにアルバイトをしなければならないとすれば、説教の準備に使える時間が減るでしょう。人々の相談に乗る時間も減るでしょう。牧師としての役割すべてに割ける時間が削られてしまうのです。

ところが、教会のメンバーたちが牧師について抱く不満の一つは、「牧師が自分の役割を果たしていない」ということです。

けれども、もしあなたがそのような不満を口にしているなら、私から尋ねたいのです。あなたは、牧師を経済的にきちんと支えているでしょうか。あなたの教会の他のメンバーたちは、どうでしょうか。しっかりと牧師を支えているでしょうか。

それだけではなく、ほかの方法で牧師を支えているでしょうか。あなたは牧師のために祈っているでしょうか。(ここで言うのは、ぼやきながらする祈りのことではありません。)

また、あなたは積極的に牧師を励ましているでしょうか。

牧師が教会のあらゆる奉仕を一人で担う必要がないように、あなたは自分の役割をきちんと果たしているでしょうか。

もしかすると、あなたは毎週日曜日、自分の席に座りながら、誰かが自分に仕えてくれるのを待っているだけかもしれません。

けれども、教会はキリストのからだであり、それぞれの人が与えられた役割を担っています。あなたは、その役割を忠実に果たしているでしょうか。

ここで私の意図を誤解しないでください。牧師に対して注意を与えることが必要な場面もあります。パウロもこの手紙の中でそのことに言及しています。正しい批判もあれば、誤った批判もあるのです。

しかし、もしあなたが自分に与えられた奉仕の責任を果たしていないなら、牧師を批判するべきではありません。

ですから、牧師を批判する前に、まず自分自身を顧みましょう。

あなたは牧師を支え、敬っているでしょうか。あなたは自分の役割を果たし、牧師にかかる奉仕の重圧を和らげているでしょうか。それとも、教会の席に座ったまま、ただ牧師を批判しているだけなのでしょうか。

あなたの心の向きは、今どこを向いているでしょうか。

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テモテへの手紙第ー

悲しんでいても

夫や妻を亡くすという経験ほど、心を深く痛めることはそう多くありません。そして、そのような出来事が起きると、深い悲しみの中で人生のバランスを失い、信仰さえも見失ってしまいやすくなります。

もしかすると、エペソのやもめたちも、そのような誘惑に直面していたのかもしれません。

あるやもめたちは悲しみと孤独から再婚を望みましたが、ノンクリスチャンの男性と結婚してしまいました。その結果、イエス様に背を向けてしまい、夫の偶像を拝むようになってしまったのです(テモテへの手紙第一5:11-12節)。

また他のやもめたちは、教会からの経済的援助を受けていながらも怠けてしまい、うわさ話やおせっかいに時間を費やしていたようです(13節)。

このような事情があったからこそ、パウロはテモテにこう語ったのです。

ですから、私が願うのは、若いやもめは(クリスチャン)と結婚し(第一コリント7:39)、子を産み、家庭を治め、反対者にそしる機会をいっさい与えないことです。(テモテへの手紙第一5:14)

パウロの指示は、私たちにもどのように当てはまるのでしょうか。現代では、そのような言葉が男尊女卑的に聞こえることがあるかもしれません。女性の目的は、自分の家庭だけに限定されるべきなのでしょうか。決してそうではありません。

コリントの女性たちは、エペソの女性たちが陥ったような罪に落ちていなかったため、パウロは彼女たちにシングルの生活を勧めました。なぜなら、彼女たちは独身であることで、より集中してイエス様に仕えることができたからです。(第一コリント7:32〜40)

おそらくパウロの願いは、やもめたちが自分の悲しみに支配されないことでした。彼は、彼女たちがその悲しみの中で愚かな決断をすることなく、信仰を捨ててしまわないようにと願っていたのです。なぜなら、もし彼女たちがその悲しみに支配されてしまえば、自分の人生を無駄にしてしまうからです。

だからパウロは彼女たちに語りました。「あなたは今、深い悲しみの中にいるかもしれません。しかし、あなたの人生はまだ終わっていません。神様はあなたのために、なお良い計画を持っておられます。それを忘れないでください。

愚かな決断を避け、あなたの人生を無駄にしないでください。むしろ、神様があなたに与えておられる目的を果たしなさい。」

パウロは若いやもめたちのことを考えていましたが、年配のやもめたちのことも心に留めていました。彼は、良い行いによって認められているやもめたちだけを支えるように教会に勧めていました。

教会は、自分勝手に生きているやもめたちを支えるべきではありませんでした。むしろ、やもめたちが悲しみの中にあっても、神様の彼女たちのための目的を思い出し、神様に仕え続けるならば、教会はそのような人をこそ支えるべきなのです。

では、あなたはどうでしょうか。悲しみの中で、自分のことだけを考えてはいませんか。その悲しみによって、愚かな決断をしてしまってはいませんか。その痛みのゆえに、神様から心が離れてしまってはいませんか。

神様があなたを愛しておられることを思い起こしましょう。あなたが若くても、年を重ねていても、神様はあなたのために良いご計画を持っておられます。

だからこそ、その悲しみのただ中で、イエス様を仰ぎましょう。イエス様が、あなたのために今もご計画を持っておられることを覚えていましょう。神様がその目的を明らかにしてくださるように祈りましょう。毎日、神様と共に歩みましょう。

そうすれば、すべての慰めと平和の神は、あなたと共におられ、あなたを癒やしてくださいます。

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テモテへの手紙第ー

生きていながら、死んでいる?

ここでパウロは、特にやもめたちについて語っています。けれども、そのことばは、私たちすべてに当てはまる教えでもあります。

パウロが、教会がどのようなやもめを支えるべきかを語ったとき、こう述べました。

身寄りのない本当のやもめは、望みを神に置いて、夜昼、絶えず神に願いと祈りをささげています。。。(テモテへの手紙第一5:5)

要するに、教会は、支えてくれる人がいない敬虔なやもめを支えるべきです。そのやもめは、良い行いや、仕える姿勢、助ける行動によって知られている人であるはずです(9-10節)。

彼女たちは年配で、夫を失った後も、できる限り人に仕え続けた人々でした。自分をかわいそうだと思わず、自分のことだけを考えることもありませんでした。むしろ、神様を待ち望み、イエスの御名によって人々に触れようと努めたのです。

しかし、パウロは続けて語ります。

自堕落な生活をしているやもめは、生きてはいても死んでいるのです。(6)

やもめたちだけでなく、多くの人々は、あるときこう考え始めます。「私はずっと人に仕えてきました。これからは、自分のために生きます。」

引退の時にそう考える人もいれば、引退の前からそう考える人もいます。けれども、それは非常に自己中心的な生き方です。神様の目から見れば、もしそのような生活を送っているなら、たとえ生きていても、すでに死んでいるのです。

神様が私たちをキリストとともに復活させてくださったのは、私たちが自分のために生きるためではありません。むしろ、パウロはコリントの人々に、こう語りました。

キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。(第二コリント5:15)

自分のためだけに生きることは、本当のいのちではありません。それは死へと向かう生き方です。

私たちは、自分自身から目を離し、神様に心を向けるとき、神様が周りの人々の人生の中で何をしようとしておられるのかを理解することができます。そして、そのとき初めて、私たちは本当のいのちを知ることができるのです。

では、あなたはどうでしょうか。あなたは何に焦点を当てて生きていますか。自分の人生でしょうか。

それとも、神様や他の人々があなたのためにしてくれることばかりを考えてはいませんか。もしそうであるなら、あなたは生きていても、実際には死んでいるのです。

神様はあなたに、もっと良いものを望んでおられます。ですから、自分から目を離し、私たちに新しい命を与えてくださった神様に向かって生きましょう。そして、その新しい人生を歩み始めましょう。

あなたは、誰のために生きていますか。

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テモテへの手紙第ー

家庭で信仰を実践する

家庭において信仰を実践することは、何よりも大切なことだと思います。なぜなら、私たちは牧師や教会の兄姉に対しては、自分の本当の姿を隠すことができるかもしれませんが、家族にはそれが通用しません。

家族は、私たちの日々の言動を通して、本当の信仰の姿、本当の人柄を見るのです。家庭の中でこそ、私たちの心にあるものが現れるのです。

パウロもそのことをよく理解していました。彼がテモテに、やもめたちの支援について書いたとき、まずは彼女たちの家族に責任を果たすように命じたのです。

当時の教会は、やもめたちを積極的に支えていました(使徒の働き6章を参照)。けれども、家族がいる場合は、その家族がまず世話をすべきだとしたのです。

だからパウロは、テモテにこう語りました。

やもめの中の本当のやもめを大事にしなさい。(テモテへの手紙第一5:3)

それでもなお、パウロはさらにこう語っています。

もし、やもめに子どもか孫がいるなら、まずその人たちに、自分の家の人に敬愛を示して、親の恩に報いることを学ばせなさい。それが神の御前に喜ばれることです。(4)

敬虔な人生とは、家庭の外だけで見せるものではありません。 私たちは、家庭の中においても敬虔に歩むべきなのです。友人や職場の同僚に対する態度と同じように、家族に対して敬愛を示さなければなりません。

この真理を、パウロは8節で明確に強調しています。

もしも親族、特に自分の家族の世話をしない人がいるなら、その人は信仰を否定しているのであって、不信者よりも劣っているのです。(8)

もちろん、パウロは、家族の物理的な必要に備えることについて語っています。しかし、敬虔とはそれだけに限られるものではありません。私たちはむしろ、家族に対する忍耐や親切、寛容、そして愛を通して、自分の敬虔さを表すのです。

簡潔に言えば、私たちが家族をどのように扱っているかによって、私たちの敬虔さが現れているのです。もし家族の前で信仰を実践していないとすれば、私たちの信仰とはいったい何なのでしょうか。

とはいえ、そのように生きることは容易ではありません。前回も触れたように、私たちは友人を選ぶことはできますが、家族を選ぶことはできません。

しかも、友人と違って、家族とは同じ屋根の下で生活しています。だから、逃げられないがゆえに、腹立たしく思ってしまうことも起こりやすいのです。加えて、私たちには家族に対する特別な責任があります。

それでも、もし私たちが敬虔な者になりたいと願うのであれば、 まずは家族の前で敬虔に歩むべきなのです。そうしてこそ、私たちは真の敬虔さを証ししていることになります。

あなたは、敬虔な者として歩んでいますか。

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テモテへの手紙第ー

神の家族として生きる

牧師として、テモテは自分とは異なる年齢層の人々と接しなければなりませんでした。年上の人々、年下の人々、そして同世代の人々に対しても、慎みと知恵をもって関わる必要があったのです。

そこでパウロは、テモテにこう思い出させました。「あなたは彼らの主ではありません。彼らは、あなたが仕えている神の家族なのです。だからこそ、家族として尊敬と愛をもって接しなさい。」

そしてパウロは、こう語ったのです。

年配の男の人を叱ってはいけません。むしろ、父親に対するように勧めなさい。

若い人には兄弟に対するように、年配の女の人には母親に対するように、若い女の人には姉妹に対するように真に純粋な心で勧めなさい。(テモテへの手紙第一5:1-2)

テモテは時に、年配の男性たちを訓戒しなければなりませんでした。パウロは、決して彼らを叱ってはならないと語ったわけではありません。

それでも、偉そうな態度で相手を辱めるような言い方をしてはなりませんでした。むしろ、父親に接するように、深い敬意をもって語るべきだったのです。

同じように、年配の女性たちには母親のように接し、彼女たちを尊び、やさしさをもって扱わなければなりませんでした。

また、若い男性たちに対しては、上から接するのではなく、兄弟として扱わなければなりませんでした。

若い女性たちを扱う時、テモテは注意深く行動しなければなりませんでした。もしかすると、ある女性たちはテモテに惹かれていたかもしれません。

だからこそ、テモテは自分の立場を決して乱用することなく、彼女たちを姉妹として扱わなければなりませんでした。

しかし、これは牧師だけでなく、教会全体にも当てはまります。 私たちは皆、神様の家族に属していることを忘れてはなりません。

私たちは友人を選ぶことはできますが、家族は選べません。そしてキリストにあって、私たちは一つの家族なのです。

ですから、あなたの姉妹や兄弟を見下してはなりません。むしろ、純潔をもって彼らを尊び、何よりも、愛をもって彼らと接しましょう。

あなたは、自分の家族をどのように扱っていますか。

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テモテへの手紙第ー

神の群れを導く

この箇所全体を読むとき、パウロのことばが私の心に深く響いてきます。テモテに語りかけるパウロのことばには、確かな力と緊張感があります。

そのことばによって、テモテは神様の召しに従い、教会のリーダーとして立ち上がるように励まされ、挑戦されたのです。そして現代の牧師たちも、このことばをしっかりと心に留めていなければなりません。

では、パウロは何を語ったのでしょうか。

まずパウロは、神様の御言葉をクリスチャンたちに忠実に教えるよう、テモテに命じました。この世では、神様の教えがねじ曲げられ、多くの人々が善を「悪」と呼び、悪を「善」と呼んでいます。

けれども、パウロは妥協せず、神様の御言葉をはっきりと教えました。だから彼は、テモテにこう語ったのです。

これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたは、信仰のことばと、自分が従ってきた良い教えのことばで養われて、キリスト・イエスの立派な奉仕者になります。(テモテへの手紙第一4:6)

言い換えれば、こういうことです。「あなたは、忠実で立派な奉仕者になりたいと願っているのですか。それなら、神様があなたにゆだねられた神の群れに対して、神様の真理を正しく、余すところなく伝えなさい。」

パウロはこの命令を、さらに力強く語っています。

あなたはこれらのことを命じ、また教えなさい。(11)

テモテが人々に教えるべきであったのは、敬虔な歩みをすることでした。そしてまた、私たちの救い主である神にある希望を示すことでもありました。

けれども、教えるときには、テモテは自分の知恵によってではなく、神様の知恵を土台として語らなければなりませんでした。

そのためにパウロは、彼にこう語ったのです。

私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。(13)

多くの牧師たちは、良いことや聖書的な内容を教えていますが、 そのメッセージの中心が、聖書そのものではなく、自分たちの思いや経験に傾いてしまうことがよくあります。

しかしパウロは、テモテにこう命じました。「聖書の朗読と、勧めと、教えに専念しなさい。聖書から出発し、神様が語られたことを忠実に伝えなさい。自分の意見ばかりを語ることがあってはなりません。」

さらにテモテは、そのことを人々に教えるだけではなく、自らも神様のことばに従って歩まなければなりませんでした。だからこそパウロは、彼にこう語ったのです。

あなたは、年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。むしろ、ことば、態度、愛、信仰、純潔において信者の模範となりなさい。(12)

テモテは、教会の多くの人々よりも若かったようです。しかしパウロは、テモテにこう語りました。「あなたは若いかもしれないが、クリスチャンたちのために良い模範となりなさい。あなたの生き方、愛し方、信仰、純潔において、模範となるのです。」

もしかすると、ある偽教師たちはテモテを威圧し、黙らせようとしたのかもしれません。けれどもパウロは、彼に思い出させました。「神様はあなたに賜物を与えてくださいました。その賜物を軽んじてはなりません。」(14節)

そしてその後、パウロはさらにこう語ったのです。

これらのことに心を砕き、ひたすら励みなさい。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。(15)

言い換えれば、こういうことです。

「あなたは勤勉に神様のことばを教えなさい。そして、敬虔な歩みを全力で追い求めなさい。 そうすれば、人々はあなたがイエス様の恵みと知識において日々成長している姿を見て、あなたの模範に従うようになるでしょう。」

最後に、パウロは自らの指示を、このように結びました。

自分自身にも、教えることにも、よく気をつけなさい。働きをあくまでも続けなさい。そうすれば、自分自身と、あなたの教えを聞く人たちとを、救うことになるのです。(16)

もう一度パウロは、テモテに注意を促しています。誘惑に気をつけ、聖書を正しく教えることが求められていたのです。なぜでしょうか。それは、牧師として、リーダーとして、彼が担っている責任が非常に大きいからです。

もしテモテが、パウロからの教えに忠実に従うなら、自分自身だけでなく、神様の群れまでも救うことになるでしょう。しかしもし、それを怠るなら、その群れはテモテとともに滅び、神様は彼の責任を問われるのです。

牧師の務めは、軽んじられるべきものではありません。神様によって召された者だけが、その働きに立つべきなのです。もしあなたが、神様から牧師として召されているのであれば、あなたはパウロのことばを心に刻んでいなければなりません。

その場合、管理者に要求されることは、忠実だと認められることです。(第一コリント4:2)

あなたはどうでしょうか。あなたは、忠実な者として歩んでいますか。

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テモテへの手紙第ー

敬虔に生きる

以前の記事でも述べましたが、パウロの時代には、外見だけの敬虔を教える人々がいました。その敬虔は、特別な修行や、想像上の物語や系図に基づいたものでした。

しかしパウロは、テモテにはっきりとこう命じています。「そのようなむなしい教えを拒み、むしろ本当に重要なことに心を向けなさい。」

具体的に、パウロは次のように語っています。

俗悪で愚にもつかない作り話を避けなさい。むしろ、敬虔のために自分自身を鍛錬しなさい。

肉体の鍛錬も少しは有益ですが、今のいのちと来たるべきいのちを約束する敬虔は、すべてに有益です。

このことばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私たちが労苦し、苦闘しているのは、すべての人々、特に信じる人々の救い主である生ける神に、望みを置いているからです。

あなたはこれらのことを命じ、また教えなさい。(テモテへの手紙第一4:7-11)

パウロにとって最も重要なのは、私たちが神様の召しに従って歩むことです。神様は、ご自身のご計画のゆえに、私たちを救ってくださいました。それゆえ、私たちはそのご計画にかなって生きるべきなのです。

では、私たちはどのような者になるべきでしょうか。それは、神様に似た者となることです。すなわち、神様のご性質を身につけていくということです。これこそが、「敬虔」が意味するところなのです。

パウロによれば、敬虔はこの世においても、来たるべき御国においても、有益なものです。なぜなら、敬虔は人生において最も大切な二つのことに深く関わるからです。すなわち、神様との関係と、周囲の人々との関係です。

私たちが罪に陥るとき、その罪はこれらの関係を壊してしまうのです。

それでも私たちは、決して忘れてはならない大切なことがあります。敬虔は、私たち自身の努力だけで成り立つものではないということです。

確かに、パウロは「敬虔のために自分自身を鍛錬しなさい」と命じました。

しかし、真に敬虔な者となるためには、救い主である生ける神に望みを置かなければなりません。すなわち、私たちは聖霊を通して、神様が私たちを御子の姿に変えてくださるという希望に生きているのです。

そして、敬虔を目指して自分を鍛えるとき、最も大切なのは、私たちが天の父の声に聞き従うことです。私たちの言葉、態度、愛、信仰、純潔において、天の父の導きに従って歩むべきなのです。

そのとき、神様は御言葉に従う力を、私たちに豊かに与えてくださいます。

あなたはどうでしょうか。あなたは、自分のトレーナーに従って生きていますか。

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テモテへの手紙第ー

麻痺した良心

現代において、多くの人々は、善と悪とを見分けることができません。彼らは悪を「善」と呼び、善を「悪」と呼ぶのです。

なぜ、人々はこれほどまでに混乱しているのでしょうか。

ところが、この混乱は今に始まったことではありません。パウロの時代にも、同じ問題が存在していました。そしてこの箇所で、パウロはその原因を明らかにしています。

パウロは、テモテに次のように書いています。

しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。

それは、良心が麻痺した、偽りを語る者たちの偽善によるものです。

彼らは結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人々が感謝して受けるように、神が造られたものです。

神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もありません。神のことばと祈りによって、聖なるものとされるからです。

これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたは、信仰のことばと、自分が従ってきた良い教えのことばで養われて、キリスト・イエスの立派な奉仕者になります。(テモテへの手紙第一4:1-6)

パウロがテモテに警告したのは、やがて多くの人々が信仰から離れ、悪霊の教えに従うようになるということでした。そのような教えに見られる特徴は、人々が善と悪との区別を失っているという点です。

なぜ、これほど多くの人々がそのような教えに騙されてしまうのでしょうか。

それは、彼らの良心が麻痺してしまっているからです。善と悪を見分けられないほどに、その良心は深く傷つけられているのです。

そのため、パウロの時代にも、神様が「良い」とされたものを「悪い」と呼ぶ人々が存在していました。たとえば、結婚や食物のことなどです。

一方で、彼らはさまざまな議論を持ち出し、福音をぼかし、教会を分裂させながら、その議論を「良い」と呼んでいたのです。

現代において、人々はさまざまな事柄をめぐって議論していますが、問題の本質は変わりません。つまり、麻痺した良心のゆえに、彼らは悪を「善」と呼び、善を「悪」と呼ぶのです。

そのため、パウロはテモテにこう命じました。

「あなたは、若いころから学んできた真理を人々に教えなさい。彼らが偽教師に騙されることを許してはなりません。彼らの良心が麻痺していくことを見過ごしてはなりません。」

今なお、牧師や教会の教師たちは、パウロのこの戒めを真剣に受け止めるべきです。神様のことばを曲げてはなりません。たとえこの文化が御言葉を書き換えようとしたとしても、それを許してはなりません。

もし私たちがこの時代の価値観に屈するなら、 私たちは知らぬ間に悪霊の教えを受け入れることになるのです。

あなたが牧師や教師でなかったとしても、御言葉に精通していなければなりません。文化を基準とするのではなく、神様のことばを自分の基準としなければならないのです。さもなければ、あなたの良心は鈍くなり、やがて麻痺してしまうでしょう。

あなたはどうでしょうか。自分の文化に合わせるために、聖書のことばをゆがめてはいませんか。

悪霊の教えによって、あなたの良心が鈍らされることがないようにしましょう。むしろ、いつも神様の御言葉を信じ、善を「善」、悪を「悪」とはっきり呼び続けましょう。

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テモテへの手紙第ー

福音の不思議さ

私はクリスマスが大好きです。それは、一年のうちで最も好きな季節です。イエス様がこの世に来られたという出来事は、まさに驚くべきことです。

けれども、私たちはその出来事を、当たり前のこととして受け止めてしまってはいないでしょうか。その出来事の不思議さについて、どれほど深く思い巡らしているでしょうか。

パウロは、その不思議さをよく理解していました。彼はこう語っています。

だれもが認めるように、この敬虔の奥義は偉大です。(テモテへの手紙第一3:16a)

敬虔の奥義。

パウロの時代、多くの人々は、敬虔の鍵は自分自身の努力にあると考えていました。彼らは、律法の実行や禁欲的な生活を通して敬虔になれると信じていたのです。また他の人々は、敬虔の奥義は、系図や想像の物語の中に見出されると考えていました(1:4)。

しかし、本当の敬虔は、宗教的な規則や自己修練によって生まれるものではありません。むしろ、それはイエス様とその十字架の働きによってのみ生じるのです。

パウロは、次のように記しています。

「キリストは肉において現れ、霊において義とされ、御使いたちに見られ、諸国の民の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」(16b)

神様は赤ちゃんとしてこの世に来られました。この世界を創造された神、自らの言葉によってすべてを保っておられる神、この宇宙の王であり源である方が、赤ちゃんとして来られたのです。

イエス様は、大工の子として育てられました。養父ヨセフが亡くなると、イエス様はその家族を支える責任を担われました。

その後、イエス様は家を離れ、ご自身の公の働きを始められました。福音を宣べ伝え、神様がどのような方であるかを人々に教えられ、また、御国の力を現されました。悪霊を追い出し、人々を癒し、死者たちをも復活させました。

群衆は、イエス様を王として迎えようとしました。けれどもそのわずか一週間後、彼らはイエス様を十字架につけてしまいました。

しかし、御霊によってイエス様は復活され、イエス様が力ある神の御子であることが証しされました。天使たちは復活の知らせを弟子たちに伝え、イエス様ご自身も彼らに現れ、その後、天に上げられたのです。

その後、弟子たちがその良い知らせをこの世界に伝えたことによって、今もなお、イエス様の御名は全地に宣べ伝えられ、多くの人々がイエス様を信じるようになっています。

この福音を通して、人々は神様に義と認められます。イエス様を復活させた神様の力によって、彼らの人生は変えられていくのです。

これこそが、福音の不思議さです。そしてまた、それがクリスマスの不思議さでもあります。

私たちが神様の教会として、真理の柱と土台となりますように。 その真理を、この死につつある希望のない世界に向かって、はっきりと伝えていきましょう。

私たちの心が鈍くならないように。この福音を、決して当たり前のものとして受け止めてしまわないように。

あなたはどうでしょうか。あなたは今もなお、福音を不思議に思っていますか。

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テモテへの手紙第ー

どうして私たちの行動は大切なのでしょうか

この手紙の2章から3章13節にかけて、パウロは教会について語っていました。とくに、礼拝の場において人々がどのようにふるまうべきか、また、牧師や執事がどのような性格を備えているべきかについて語っています。

その後、パウロは1章で示した要点に立ち返ります。それは、何よりも大切なのは神の働きであるということです。私たちは、神の御国のために信仰の務めを果たしていくべきなのです(テモテへの手紙第一1:4)。

このような理由から、パウロは偽教師たちと彼らのむなしい議論を厳しく非難しました。彼らは神の働きを妨げていたからです。

しかし、神の働きを妨げるのは偽教師だけではありません。クリスチャン自身のふるまいが妨げになることもあります。そのためにパウロは、教会における男性と女性のふるまいや、リーダーたちの資質について詳しく語ったのです。

それらを語り終えたあとで、パウロはこの教えをまとめます。

私は、近いうちにあなたのところに行きたいと思いながら、これらのことを書いています。

たとえ遅くなった場合でも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたに知っておいてもらうためです。

神の家とは、真理の柱と土台である、生ける神の教会のことです。(テモテへの手紙第一3:14-15)

この世界に対して、教会は真理の柱であり、土台としての役割を果たすべきです。

世の人々は、教会やクリスチャンの男性、女性、そしてリーダーたちを見るとき、福音の真理を目にするはずです。それは、私たちの言葉によってではなく、神様によって変えられた人生を通して、その真理が明らかになるからです。

教会のリーダーが、世のリーダーたちと同じように振る舞い、 また、クリスチャンの男性や女性がこの世の人々と同様に生きているとしたら、私たちが宣べ伝える神の真理は、世の目には汚されて映ってしまうでしょう。

本来、そうであってはならないのです。しかし残念ながら、多くの場合、それが現実です。

だからこそ、私たちは自らの行動に注意を払わなければなりません。神の教会として、この世の価値観に調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにされることによって、自分を変えていただきましょう。

この文化の圧力に屈してはなりません。この文化の思考に従ってもなりません。むしろ、この世に対して真理の柱と土台として、クリスチャンの兄弟姉妹と共にしっかりと立ちましょう。

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テモテへの手紙第ー

リーダーになりたいと願うなら

前回の記事では、私は牧師や教会の長老について語りました。 けれども、多くのクリスチャンにとって、牧師や長老になることはあまり関心のあるテーマではないかもしれません。

とはいえ、あるクリスチャンはミニストリーのリーダーになりたいと願っているかもしれません。たとえば、教会の財政を管理したり、ホームレスの方々への奉仕を担ったり、スモールグループや教会行事の運営を任されたりするような働きです。

多くの教会では「執事」という言葉をあまり用いませんが、聖書の観点からすれば、こうした奉仕を担うリーダーたちは、まさに執事と呼ぶべき存在です。

彼らは牧師や長老ではないにしても、教会が健全に働きを進めていくために、重要な責任を担っています。彼らの働きによって、牧師や長老たちは自分たちの務めに集中することができるのです。

多くのクリスチャンは、自分の賜物があるから執事にふさわしいと考えがちですが、そのような見方は正確ではありません。

パウロが執事の資格について語るとき、彼はその人の賜物や能力についてまず触れることはしません。むしろ、牧師の場合と同じように、執事に求められる最も重要な資格は「良い性格」なのです。

そのことを踏まえて、パウロはこう語りました。

(教会の監督と)同じように執事たちも、品位があり、二枚舌を使わず、大酒飲みでなく、不正な利を求めず。。。(テモテへの手紙第一3:8)

牧師と同じように、執事も自分の妻に対して忠実であり、自らの家庭をよく治めなければなりません(11)。

ただし、牧師とは異なり、執事には聖書を教える賜物が必須ではありません。それでも、キリスト教信仰に堅く立ち、御言葉に従って歩むことが求められます(9)。

私たちは、誰かをすぐにリーダーに任命すべきではありません。 その前に、まず審査を経るべきです。もし非難される点がなければ、そのとき初めてリーダーに任命してもよいのです。この手順を省くなら、その結果は非常に重いものとなるでしょう。

そしてパウロは、女性の執事についても語っています。

この奉仕に就く女の人も同じように、品位があり、人を中傷する者でなく、自分を制し、すべてに忠実な人でなければなりません。(11)

最後のポイントは、どのような役割を担っていたとしても、執事は「しもべ」であるべきだということです。実際、「執事」という言葉そのものが、「しもべ」という意味を持っています。そして、神のしもべとして、また教会のしもべとして、彼らは誠実に仕えることが求められるのです。

パウロは、この教えを次のように締めくくっています。

執事として立派に仕えた人は、良い地歩を占め、また、キリスト・イエスを信じる信仰について、強い確信を持つことができるのです。(13)

忠実に仕えるなら、当然、教会の中で良い評判を得ることができます。しかし、それ以上に大きな報いは、神があなたを通して働かれ、周囲の人々がその祝福に触れるのを見ることです。そのとき、あなた自身の信仰もいっそう深められていくでしょう。

あなたはリーダーになりたいと願っていますか。そのとき、あなたはどのような性格を持っているでしょうか。

すでにリーダーとして仕えているなら、あなたは忠実に仕えていると言えるでしょうか。

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テモテへの手紙第ー

牧師になりたいと願うなら

この箇所は、すべてのクリスチャンに向けられたものではありません。なぜなら、パウロの言葉は「牧師になろうとする人々」に対して語られているからです。

私自身、牧師として召されているとは思っていません。もちろん、いつか神様が私を牧師として召される可能性はありますが、少なくとも今のところ、私はそのような御声を受け取ってはいません。

とはいえ、若い頃の私は、神様が私を宣教師として召されるとは到底思っていませんでした。それでも、今では約25年間、日本で宣教師として仕えています。

いずれにせよ、もし「牧師になりたい」と願っているなら、この箇所は非常に重要です。また、教会が新しい牧師を選ぶときにも、この箇所を丁寧に読むべきです。

なぜなら、パウロは牧師や長老の資格について語っているからです。ただし、パウロは「牧師」や「長老」という言葉ではなく、「監督」という語を用いています。

パウロは次のように記しています。

次のことばは真実です。「もしだれかが監督の職に就きたいと思うなら、それは立派な働きを求めることである。」(テモテへの手紙第一3:1)

私の心を打ったのは、「もし、だれかが監督の職に就きたいと思うなら」という言葉でした。

私自身は、それを望んだことはありません。けれども、神様は特定の人々の心に、その願いを与えられます。パウロは、そうした人々に向かってこう語っています。「それを望むなら、それは素晴らしいことです。」

しかし、その後パウロは、牧師としての資格について語り始めます。そして私たちが注目すべきことは、パウロが牧師の学歴や神学校の訓練について、まったく触れていないという点です。むしろ、彼が最初に語っているのは、その人の性格です。

「あなたは牧師になりたいと願っていますか。では、あなたはどんな性格を持っているでしょうか。私は、まずそのことを知りたいのです。」

あなたには、非難されるところがないでしょうか。隠れた罪を抱えてはいないでしょうか。周囲の人々が、あなたを正当に咎めることができるような点はないでしょうか。あなたは、人々の前に立つにふさわしい、良い模範となっているでしょうか。

あなたは妻に対して忠実でしょうか。結婚の誓約を、誠実に守っているでしょうか。もしあなたが妻に忠実でないとしたら、どうして私たちは、あなたが神様とその教会に忠実であると信じることができるでしょうか。

あなたは怒りを適切に抑えることができるでしょうか。それとも、すぐに感情的になってしまう傾向があるでしょうか。

あなたには自制心が備わっているでしょうか。食生活、アルコール、時間やお金の管理、異性との関係において、自制をもって歩んでいるでしょうか。

あなたの生活は、周囲の人々から尊敬されるようなものとなっているでしょうか。教会の内でも外でも、あなたには良い評判があるでしょうか。

あなたは人をよくもてなしますか。時間やお金を、気前よく与えているでしょうか。

あなたの妻や子ども、あるいは他の人があなたを怒らせるとき、 あなたはどのように反応するでしょうか。暴力に訴えるようなことはないでしょうか。それとも、柔和な態度を保つことができるでしょうか。

あなたは、できる限り平和を保とうとしているでしょうか。それとも、すぐに争ってしまう傾向があるでしょうか。相手の怒りをわざとあおることに、どこか快感を覚えているということはないでしょうか。

あなたはお金に執着してはいないでしょうか。あなたの神は、富なのでしょうか。世が定義する「出世」や成功を追い求めているのでしょうか。それとも、どのような境遇にあっても、あなたの心には満ち足りる思いがあるでしょうか(ピリピ4:11-13)。

あなたは、自分の家庭をきちんと治めているでしょうか。あなたの妻や子どもたちは、あなたを尊敬しているでしょうか。

これらのことは、あなたの性格をよく表しています。ですから、もしあなたがまだ信仰の若いクリスチャンであるなら、牧師になるという夢を、もう少し先に延ばした方がよいかもしれません。

牧師を志すなら、謙遜な態度はきわめて重要です。多くの牧師たちが、自らのプライドによって大きな失敗をしてきました。特に、若いクリスチャンがその罠に陥る危険性は少なくありません。

そして、これまで述べたような資質を備えているとしても、もう一つの要件が必要です。それは、「教える賜物」です。たとえ聖書について深く学んでいたとしても、それを人々にわかりやすく教えることができるでしょうか。

しかし、もう一度申し上げます。たとえ教える賜物を持っていたとしても、性格にふさわしさがなければ、牧師になる資格が整っているとは言えないでしょう。

あなたは牧師になりたいと願っていますか。では、あなたはどのような性格を持っているでしょうか。

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テモテへの手紙第ー

女性たちと教会のリーダーシップ(3)

この箇所をまとめる前に、もうひとつ触れておくべき点があります。

15節で、パウロはこう語っています。

女は、慎みをもって、信仰と愛と聖さにとどまるなら、子を産むことによって救われます。(テモテへの手紙第一2:15)

ある聖書の解釈者はこう述べています。「この節は、聖書学者にとっても極めて解釈の難しい箇所です。」

私もその意見に深く同意します。では、パウロがここで語ろうとしたことは一体何だったのでしょうか。

もちろん、パウロが「女性は救われるために子どもを産まなければならない」と言ったとは考えられません。なぜなら、彼は他の手紙の中で、救いは信仰によって与えられると一貫して語っているからです。

この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ2:8-9)

では、パウロが意味したこととは何でしょうか。

14節では、彼はこう語っています。

そして、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて過ちを犯したのです。

この言葉は、非常に厳しく響くかもしれません。「女性たち、すべての罪はエバのせいです。彼女のせいで、この世界は混乱に満ちているのです」――そんな印象を与えるかもしれません。

だからこそ、もしかするとパウロは、その厳しさを少し和らげようとしたのかもしれません。つまり彼は、女性たちに神様がエバに与えられた刑罰を思い起こさせているのです。それは、女性が苦しみを伴って子を産まなければならないという現実です。

パウロは女性たちにこう伝えています。出産の苦しみは、この世がエバの罪によってもたらされた痛みと呪いにあることを思い出させるものです。出産の痛みを通して、私たちはエバの罪と世界の嘆きを思い起こすのです。

けれども――あなたたちがイエス様とその十字架の御業を信じ、 神様に対する信仰、周囲の人々への愛、そして聖霊の力による聖い歩みに生きるならば、あなたたちは必ず救われるのです。

この解釈が正しいとすれば、「子を産むことによって」という日本語訳――特に「によって」という表現――は、あまり適切ではないかもしれません。別の訳し方として、「〜をくぐって」あるいは「〜を通って」という表現が考えられます。

たとえば、第一コリント3章15節で、パウロは同じギリシャ語の語を用いてこう記しています。

その人自身は火の中をくぐるようにして、助かります。

ですから、もしかするとパウロは、女性たちにこのように語っていたのかもしれません。「たとえあなたたちが、エバに与えられた呪いを受け、出産の苦しみをくぐり抜けるとしても、イエス様を信じて歩むなら、あなたたちは救われるのです。」

この希望について、パウロはローマ書の中でも語っています。

私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。

それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。

私たちは、この望みとともに救われたのです。(ローマ書8:22-24)

とにかく、他にもさまざまな解釈はありますが、これが私の理解です。

さて、女性と教会のリーダーシップの話題に立ち返り、この内容をまとめたいと思います。

この問題について、私たちは慎重に思いを巡らせる必要があります。このテーマを議論している人々がそうしているように、このブログを読んでいる皆さんにも、ぜひ考えていただきたいのです。

仮にパウロの指示がエペソの教会に限定されたものであると考えるならば、次の点を考えてみてください。

1.文法的にやや解釈の幅がありますが、おそらくパウロは女性が誰に対しても教えてはいけないと言っているわけではありません。(このシリーズのパート1で、私がそう考える理由を説明しました。)

むしろ、パウロは女性が男性に対して教えることを禁じているのです。ですから、あの箇所を言い換えるならこうなります。「女が男を教えたり、男を支配したりすることを許しません。」

しかしもし、エペソ教会の問題が「女性たちが十分に教えられていなかったこと」だったとするなら、なぜパウロは「女性が誰に対しても教えたり、支配したりすることを禁じます」とは語らなかったのでしょうか。

なぜその指示は「男性に教えたり、支配したりすること」に限定されているのでしょうか。その女性の偽教師たちは、他の女性や子どもに対してなら教えたり支配したりしても構わない、ということでしょうか。

2.エペソの教会に女性の偽教師がいたという証拠は、どこにあるのでしょうか。パウロはどこで「女性の偽教師」について言及したのでしょうか。彼女たちの名前を挙げていたでしょうか。

一方で、エペソには男性の偽教師がいたことは確かです。なぜなら、パウロは彼らの名前を挙げているからです(第一テモテ1:19–20;第二テモテ2:16–17)。

もし女性の偽教師が重大な問題だったのなら、なぜパウロは彼女たちの名前を挙げなかったのでしょうか。

3.もしパウロが「十分に教えられていない者たちが教えたり、支配したりすること」を禁じたかったのだとすれば、なぜ彼は「女性の偽教師」だけに限定して語ったのでしょうか。

なぜ「偽教師たちが教えたり、支配したりすることを許しません」と言わなかったのでしょうか。

一方で、女性が主任牧師や長老になってはならないと考える人は、次の問いにも向き合うべきです。

1.なぜプリスカという女性は、夫と共にアポロを教えることが許されたのでしょうか(使徒の働き18:26)。

2.もし教会のリーダーは男性であるべきであり、かつ使徒が特別に偉大なリーダーであるとするなら、ユニアとはいったい誰だったのでしょうか(ローマ16:7)。

では、その箇所をどのように解釈すればよいのでしょうか。

「使徒たちはユニアをよく知っています。」

あるいは、「ユニアは使徒として知られています」と訳すべきかもしれません。

その原語の表現には、やや解釈の余地があります。しかし、もしユニアが使徒であったのなら、パウロの指示はエペソ教会に限定されると考えるのが自然でしょう。

ともかく、以前にも述べたとおり、聖書学者たちの間にはより詳細な議論があります。ですから、可能であれば、両方の立場に耳を傾けてみてください。そして、それぞれの議論を聖書と照らし合わせながら、自らの結論を導いてください。

ただし、私はもう一度強調したいのです。この問題によって、自分の教会を分裂させてはなりません。もしあなたが教会のリーダーたちの方針に納得できないのであれば、静かに別の教会に移ることを検討してください。